男系断絶?女帝出現後の天皇制を追究しよう!Part7
立浪部屋のけちんぼ振りは部屋創設時からのもの。
部屋を創設した元小結緑島(実際は関東大震災で災死した元平幕當り矢の旧春日山
部屋を改称して継承したもの)がそう。
緑島は双葉山と羽黒山の師匠として有名だがけちんぼで、玉錦とつながりが深かった双葉山とは仲が悪かった。
双葉山のほうは当時あった一門別に行われた巡業でカネをめぐって緑島と対立し、別門の元大関鏡岩の粂川部屋を継承した。
一方、羽黒山は緑島の娘婿になり珍念の義父となった。
羽黒山がけちんぼで無かったのは、新潟弁がひどかったので完全に理解できる人が誰もいなかっただけである。
だから羽黒山が死ぬと珍念が継ぎ、立浪部屋のけちんぼぶりがぶり返したのは当然だった。
珍念は内弟子の入門を許さず、旭国は弟子を取ると大島部屋を創設させ、その旭国の弟子の旭豊を娘婿にさせると、
大翔山が追手風部屋を創設する事になったので、大翔山は引退すると内弟子を取るために友綱部屋付きの年寄になった。
だから出羽海部屋の分家独立許さずと同じような事をやった。
北尾の件も珍念が悪いのは明白で、北尾が廃業した場所は謹慎を食らったのは当然だった。
相撲ネタでも歴史板にふさわしい話題を書きましょう。
足利時代には、相撲集団同士の対抗戦で相手力士を尽く倒して勝ち抜いた力士を
「関を取った」と称していたらしいです。
「関」は「関所、関門」という意味で、物事を仕切る・へだてるなどの意味があり、
相手が勝負の場に立ち塞がっていると見立てて、それを尽く打ち破れば
関を攻略したということで「関を取る」ということで「関取」になったそうです。
強剛力士に冠される称号だった訳ですね。
ちなみに「大関」は、江戸時代に番付が作られるようになった時、「関」の上に
「大」の字を付けて、最高地位を現す名称として生まれ(横綱は地位を現す言葉
ではなかった)「関脇」は平安朝の最高地位「最手(ほて)」に次ぐ地位の「脇」
に「関」の字を付け加えたものだそうです。
ついでに「小結」はと言うと、その日の結びの一番に対して、それより前の小口の
結びを取る力士という意味だそうです。
もうひとつオマケ。十両という制度が定着したのは明治21年と比較的新しいものです。
番付を見ていただければ分かりますが、現在でも十両という表記は番付上では為されていません。