保守
557 :
日本@名無史さん:04/06/26 15:08
r─‐- 、 ,. -‐ォ /
| `ヽ `ヽ___ / / ! /
l ス` "´  ̄`ヽ!_. l /
ゝ フ V /
ろ / ̄ヽ ' ̄ヽ !
> ⊂⊃ r〜ァ ⊂⊃ゝ
Z ! ノ ゝ 保守
" ‐- ,_____, -、-‐'゛
ィ /o ハヽ!O.l \
_ {. / ト、 | \
(`ヽ_/ \__ , -‐ァ ^ー' ./ `ー' \
r─-`ィo。`i ニ | / / ,. イ / \
ヽ ニ.ゝ-<‐-t_j / / //7T"´
. <\_, イ\` ‐-‐ '´/ ィ i l |
\__/ ` ‐-‐ ´ } L.!_ └-、
(___)__)、_)_)
558 :
日本@名無史さん:04/07/06 15:20
まだあったのかこのスレ
正直あきれた
保守
560 :
日本@名無史さん:04/08/11 18:31
名前統一?
561 :
日本@名無史さん:04/08/24 22:27
丹羽家ってすごいかも。
江戸大名について語るスレッド見ると、丹羽家の格式が高いのがわかる。
でもなんで高いんだかは、あまり、わからない。
ちなみに、残集柳営秘鑑って、どういう本だか?。ご存知でしょうか。
ーーーーーーーーーーーー
931 :たとえば、 :04/08/09 14:50
十八国持ち大名
<1>本国持(以下順不同)
加賀前田、薩摩島津、阿波蜂須賀、岡山池田、鳥取池田、
広島浅野、土佐山之内、福岡黒田、長州毛利、対馬宗、
<2>大身国持(順不動)
仙台伊達、熊本細川、秋田佐竹、佐賀鍋島、米沢上杉、久留米有馬、郡山柳沢、
<3> 十八国持ちには入らないが、別格の国持ちとして、
福井松平、松江松平、
<4>準国持ち
宇和島伊達、柳河立花、二本松丹羽
以上。残集柳営秘鑑による。
ほかにも、いろんな格付けありますが。
562 :
日本@名無史さん:04/08/25 01:38
@織田信長の家老格の家で唯一残った家
A丹羽長秀のときの禄高が非常に大きかった
そのため準国持として扱われ家格が高かった。
>>562 本家本元の織田家は冷遇されてる
のはなんでなんだろう???
織田家って誰の事?
有楽斎とか?
565 :
日本@名無史さん:04/09/19 19:08:32
名張藤堂家ってのは丹羽家とどういう関係なの?
566 :
日本@名無史さん:04/09/19 21:58:13
>>562 >本家本元の織田家は冷遇
信忠−秀信の系統は絶えたので、信雄の系統の小幡の織田家が
嫡流となった。この系統は実のところ非常に優遇されていた。
城持でもない(僅か2万石の小藩)なのに、織田家嫡流として
国持格として遇され、殿席は大広間、極位極官は従四位下侍従
であった。その他、織田宗家としての特権(御三家も含めて
他の大名が傘をさせない場所で傘をさしてもよいなどの類だが)
があった。
しかし、明和年間に過激な尊王論者の山形大弐が倒幕
をはかったとして摘発された事件があったが、山形と
織田家の家老が親交があったことをとがめられ、
家格の特別待遇を全て剥奪され、(柳の間、諸太夫の平大名
になる)出羽に転封される。
>名張藤堂家
丹羽長秀の子が藤堂高虎の養子となった。
戒石銘
藩庁門前にある岩に、五代藩主、丹羽高寛が、藩士への戒めとして彫らせた。
「爾が俸爾が禄は、民の膏、民の脂なり、下民は虐げ易くも、上天は欺き難し」
すごっ
569 :
日本@名無史さん:04/10/24 23:29:33
570 :
日本@名無史さん:04/10/27 21:31:22
長秀:@信長に重用されたAいつのまにかに秀吉に追従した
B割り切って、秀吉の部下になれなかった
長重:@いつのまにか4万石になってしまったA関ヶ原時の北陸での迷走
B取り潰しC大名復帰
長秀には、現代のリーマンに通じる常識人っぽさを感じるし、はかなさも感じる。
長重にはドラマを感じる。
特に、長秀Bと長重@Aのときの気持が知りたい。
571 :
日本@名無史さん:04/10/27 22:12:35
長重の官位が参議だったとわね・・・
573 :
日本@名無史さん:04/11/01 02:20:43
越前に、丹羽の事跡全くと言っていいほどないんだよねぇ・・・
知名度?はゼロに近いし。
長重のことを傑俊公っていうのね
なんかかっこええ
575 :
日本@名無史さん:04/11/10 02:20:38
おれの性丹羽っていうんだが・・・
明治新姓ですかorz
576 :
日本@名無史さん:04/11/10 06:25:54
それ以前の名前は?
「ずっと百姓でした。苗字なんかありません
源平藤橘?そんな血は一滴もブレンドされてませんよ」
なら、逆に誇らしいと思う。
筋金入りの庶民ってことで。
このマイナー度、秋田季実に似てるな
福島県二本松市、安達郡あたりでは豆まきの時
「鬼外〜♪ 福は内〜♪」と言って豆をまく
「鬼は外」だと「お丹羽外」、丹羽の殿様を外に追い出すことになってしまうため
にわにはにわにわけけ
580 :
日本@名無史さん:04/12/10 00:38:52
いずれにせよ江戸大名として再出発するに当って寒地棚倉からスタートして
棚倉に城を築き、その後二本松10万石の大大名として復活するバイタリティは
見習うべきところがあろう。江戸城大広間席といったら国主か国主格の詰めるところぞ。
>>550 徳川秀忠と仲良しだったみたいだから秀吉に勘ぐられたとか・・w
疑ったらきりないよ関ヶ原時の前田利長との一戦も八百長とか?
長重の子光重の「光」は三代家光からもらったのかな・・
>>582 たぶんその推測で正解
この時代の殿様は大概将軍の下一字を拝領している。
他に家光の下一字を拝領した例として
徳川光友、前田光高、島津光久など
稲葉長門守:淀藩主 稲葉正邦(老中)
丹羽左京大夫:二本松藩主・丹羽長国
丹羽長重の「重」は
誰から取ったんだろう・・・
588 :
日本@名無史さん:05/01/10 20:33:24
age
家光の「光」をどこからとったのかも気になる・・
まさか光秀
>>589 ここより徳川スレのどこかに言ったほうがいい回答がありそうだが
元々「家光」という名前になる予定ではなかったが
占いかお告げ(確か天海辺りが絡んでいたような)で家光となったという話をどこかで見たような。
『徳川家光』(人物叢書)辺りにもその辺りの記述があったような記憶がある。
先日、信長公記を見てたら妙な事に気が付いた
何年だったか忘れたが上杉氏が加賀に侵攻してきて
長秀たちが北国にいた頃、織田信忠が主のいない
安土の長秀の屋敷に2泊もしている
何やってんだよ、信忠。
いくらなんでも図々しすぎるぞ
592 :
日本@名無史さん:05/01/30 12:46:23
岐阜の丹羽です。家紋は×印!
本物ですか?
593 :
日本@名無史さん:05/02/02 19:54:22
二本松では節分の時丹羽家の関係上
「鬼は外(お丹羽は外に当たり無礼)」って
いっちゃだめらしいんだがなんていうんだ?
>>591 それも長秀の人徳でしょう
だってよ、柴田や明智だったらすげー嫌そうな顔しそうじゃん
秀吉はまぁ気にしないかも知れんけど信忠のほうが秀吉きらいだったらしいし
そこをいくと長秀だったら「こまったなぁ」って苦笑いしながらもなんだかんだで許してくれそうだ。
595 :
日本@名無史さん:05/02/11 01:18:05
関が原西軍組にもかかわらず
金山を2箇所も保有してた丹羽家
596 :
日本@名無史さん:05/02/11 02:41:58
どこの金山?
>>591 長秀と信忠の関係は深い
信忠が、長秀の屋敷で生まれたと言う説がある
ソース?地元の伝承だよ
二本松周辺で金山って言ったら高玉金山とかでかいのがあるな
599 :
日本@名無史さん:05/02/28 01:55:59
hosyu
600 :
日本@名無史さん:05/03/03 01:03:43
丹羽長重は関ヶ原のとき上手くやってれば
30万石位の大名になっていた。
601 :
本多安房守政重:05/03/03 02:43:42
長重は前田利長の尊大な態度に我慢ができず、いきがかり上対立したにすぎない。
小松宰相は二本松侍従として回復しますが、江戸城大広間席では丹羽左京大夫と前田中納言は同席不可という不文律ができますた。
602 :
日本@名無史さん:05/03/03 08:34:52
603 :
日本@名無史さん:05/03/03 21:27:13
根拠はありません。推測です。
でも、この人の人生凄いなと感じています。晩年は復活したし。
関ヶ原の時だけ、踏み外したかなと・・・
長秀死去の際の減封はさけてとおれなかったでしょうし
604 :
日本@名無史さん:05/03/05 10:51:33
それは推測じゃなくて妄想
605 :
日本@名無史さん:
丹羽家譜伝だっけ?それって何処かで見れるのかな。あと
朝倉家文書ってのも見てみたいんだけどそういうのって何処で見れるんだろ