牟田口廉也のインパール作戦を称えよう

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116日本@名無史さん:03/09/08 16:16
日米戦争を当時観戦した欧米の武官たちは、日本海軍の装備、補給、戦略思想の
豪華さに驚き、もっとも気前の良い軍隊ではないかと評していた
117日本@名無史さん:03/09/08 16:55
イラク戦争に参加した自衛隊の待遇を聞いた欧米の武官たちは、その給料や
死亡時褒賞金額に驚き、世界で一番豪勢な軍隊ではないかと評していた
118日本@名無史さん:03/09/08 18:22
warota
119日本@名無史さん:03/09/08 19:36
安達二十三将軍だったら、大本営からの命令ということだったら
敢然とインパール作戦をやっただろう。でも、戦線後方に留まっ
て芸者遊びをしているとか、戦後もおめおめと生き残るようなこ
とはなかったはず。
120日本@名無史さん:03/09/08 20:19
121日本@名無史さん:03/09/09 20:06
院パール作戦は、忠臣蔵なのです。
太平洋戦線の負担を軽くするため敵資源をビルマインド方面に吸収したのです。
そのため敵を欺くために、司令部は毎夜のごとく芸者遊びにふけりました。
また院パール戦線では最小限の設備だ最大の攻撃を演出したのです。

あああ牟田口閣下は大石倉之助なのです。

おそかりし ゆらのすけ。。。
牟田口は おとこでござるうううう

122日本@名無史さん:03/09/09 20:08
日本軍の物資を消耗させるための作戦?
123日本@名無史さん:03/09/11 23:36
ニューギニアで自ら激しい下痢と腹痛に悩まされながらも前線部隊を訪れ将兵を励まし
続け、戦後はその責を取って自決した某司令官もいれば、インパールで安全な後方にい
て前線を一度も訪れる事もなく、美味いものをたらふく食べ芸者を囲い、無茶な命令を
出し続けた無責任司令官もいたという事。
124日本@名無史さん:03/09/12 00:33
ほぼ前線にわたって昭和19年には敵に圧倒されかつ武器弾薬の補給、火力のレベルさ
航空戦力の圧倒的格差など状況にあっては、非人間的な指揮が要求される。
合理的判断を超越しているわけだから、人格円満な将軍は必要ない。
むしろ有害である。
このような状況に軍を追い込んだ上層部の責任は極めて大である。
125日本@名無史さん:03/09/12 20:30
>124
圧倒的戦力差の状況だったら、降伏すれば良かったんだよ。無駄な戦いなら
しなきゃ良かったんだったよ、そんな非人間的な指揮をする指揮官の下で無茶
な戦いで可愛い息子や愛する夫を殺された親族はたまったもんじゃないぞ。
牟田口に人間性の欠けらでもあったのか?それで作戦は成功したのか?
神風攻撃で若者の多くが散っていったがそれによって米軍の侵攻は止まったか?

126日本@名無史さん:03/09/12 20:37
圧倒的劣勢にあったドイツ軍参謀本部は最期まで連合軍に可能な限りの
損害を与える方策に基いて作戦を立てた。
1944年においても英米軍とは戦闘における損害はほぼ互角、
赤軍に対しては4〜5倍の損害を与えていた。
無駄な抵抗はするな、さっさと降服しろという連中にとってはどうでも良いことかもしれないが。
127日本@名無史さん:03/09/12 21:11
ドイツ軍参謀本部は爆弾抱えて敵戦車の下へ飛び込んで自爆しろと命令したことでもあるのか、
撃つに弾なく喰うに糧なしの裸同然の部隊に退却を認めなかったことでもあるのか。
128日本@名無史さん:03/09/12 21:38
日本軍大本営とドイツ軍参謀本部が同じ劣勢でありながらも、
敵に与えた損害については大きく異なる。
129打通さん:03/09/13 00:21
>日本軍大本営とドイツ軍参謀本部が同じ劣勢でありながらも、
>敵に与えた損害については大きく異なる。

何しろ日中戦争は中国チンピラゴロツキ3500万を叩き潰してわがほうの
損害はたった50万、しかも支那派遣軍百万の精鋭健在。これは動物と人間
の戦いで、汚いドブネズミを群れを駆逐した正義の戦争だった。
130日本@名無史さん:03/09/13 05:46
ビルマまで進出して、インドのインパールやアッサムを拠点とする英軍のビルマ反攻の
気運が高まっている、
131日本@名無史さん:03/09/13 05:49
という状況で判断するとしたら、どうするのがベストだったんだろう?
132日本@名無史さん:03/09/13 13:03
なにがムカツクかって言うと
牟田口廉也が戦後に自己弁護と自己正当化を繰り返して、他の将校に汚名を着せ続けた事だ
こいつはマジ屑だな
133日本@名無史さん:03/09/15 00:18
栗田中将のレイテ湾反転については色々批判があるけれども、戦後一切弁明をしなかった
のは偉い。
134日本@名無史さん:03/09/16 14:45
>125降伏すれば良かったんだよ。

たたかわず降伏した関東軍はシベリア送りで10万人しんだ。
抵抗して退却し蒋介石に降伏すれば5万ぐらいの損害ですんだし、おおくの
日本人婦女子をすくえたのではないか!?
135日本@名無史さん:03/09/16 14:48
>戦後一切弁明をしなかった
のは偉い。

敵前逃亡と非難されても無視した。 内心 そのとおりだとおもっていたからだよ
牟田口とちがい 偽れない人格であったのだよ
軍人にむかなかったんだよ 平時の提督だったら幸福だったろう。
136日本@名無史さん:03/09/16 14:51
>131という状況で判断するとしたら、どうするのがベストだったんだろう?

すごしづつたいきゃくしながら、的に損害をあたえればいいんだよ
沖縄戦、ペイリュウーの方式でね。 時間を1年以上稼げたんじゃないかな。
昭和21ねんぐらいまでな
137日本@名無史さん:03/09/16 14:56
1.関東軍はソ連が侵攻してきたら、民間人ほったらかしで一番先に
  逃げた、腐れ関東軍ニダ。

2.牟田口マジ屑。私の叔父はラングーン初回爆撃で戦死、司令官だ
  ったかな2階級特進で少将になり申した。
  他親戚戦死者多し。
138日本@名無史さん:03/09/16 19:34
>>133
あの戦いで栗田中将ばかり批判されてもねえ。
柔軟性のない作戦、なのに作戦目標をひとつに絞れず(艦隊決戦も許可していた)
台湾沖で艦載機が壊滅しても作戦の変更せず。
さらにはシブヤン海戦までの被害はほとんどない物として計画立ててるじゃん。
極論を言えばあの時点で撤退したとしても批判される筋合はないわけだが。
それなのに指令部はほとんど叩かれず、栗田中将のみがこれだけの非難を受ける。

ほんとよく我慢したもんだよ。

139本@名無史さん:03/09/17 23:30
>>138
最初から特攻として心でくれといっているんだよ!
それを栗太は拒否して遁走したわけだ。
いきのこっても惨めな死がまっているだけだよ(金剛、大和など)
レイテで死んで東京も降服交渉にはいれるものをなまじ戦力をのこしたものだから
神風、などでダラダラ戦争がつづいたわけだよ!
140本@名無史さん:03/09/17 23:47
>>139
いずれにしも 日本軍はもうめちゃくちゃの状態にあったんだよ
こんな軍がなくなってよかったんだよ
栗田は多くの兵をすくった。 実に名誉なことではないか。
牟田口は東條の意向を汲んでそんな無茶を実行したわけだ。
牟田口は出世するだろうし、おそらく参謀総長になるだろう。
141日本@名無史さん:03/09/17 23:55
参謀総長は無理だよ。22期だよ、牟田口は。
142日本@名無史さん:03/09/18 01:19
>>140
栗田は多くの兵を救ったかもしれんが、あそこで
艦隊をすりつぶさなかったおかげで海軍がのちのち
まで「大和」に拘り、終戦工作の検討が遅れたわな。
大和が早めに沈んでりゃもっと早い終戦があったかもな。
143日本@名無史さん:03/09/18 01:23
>>142
お前が死ねば資源の浪費がなくなってそのぶん多くの
動植物を救える 今すぐ死ね
144 :03/09/20 00:43
インド人、ベンガル人、ミャンマー人はインパール作戦について、
どう思っているのかご存知の方いませんか。
145日本@名無史さん:03/09/20 01:16
>>144
ミャンマーについては、日本軍が統治してた時期があったわけだけから、インパール作戦は
日本統治の下り坂のはじまりと見てるのでは?
しかしイギリス統治への恨みのほうが激しいから、総じて日本に対しては好意的だと思う。

インドは、やはりイギリス統治への反発があるし、日本はインドを統治してないし、
インド国民軍やチャンドラ・ボースのこともあるから、インパール作戦を評価する人も
かなりいるのでは。
もちろん否定的に評価するインド人も多いだろう。印英軍の兵士として日本軍に殺された
インド人もいるわけだから。
ただし、インドでの非戦闘員の被害は地域が限定されてるね。
(現在のナガランド州とマニプール州だけ。)
146本@名無史さん:03/09/22 02:30
>>142
一番良いのがYAMATOが瀬戸内海でアメリカ機から魚雷をくらい着低することだね
兵はたすかる。 敗戦日本には鉄くずが!
147本@名無史さん:03/09/22 02:33
>>145
インドは独立国ではなかったし、日本と交戦したという意識はない。

むしろ関係のない親日国といっていたトルコが対日宣戦布告したほうが
あきれたね! ソ連とおなじやりかたの第3語句人でよ
所詮はトルコ風呂の国で文化はギリシャのもの。
148日本@名無史さん:03/09/23 09:03
インドは英国の植民地で、その支配に辛酸を舐めたので、概ね同じアジア人として
友好的だった。
極東軍事裁判でのパール判事の好意的見解を見ても明らか。
149日本@名無史さん:03/10/18 23:33
牟田口廉也一人の責任ではないだろう。
150日本@名無史さん:03/10/18 23:40
ムッチーはうんこ
151日本@名無史さん:03/10/18 23:45
>むしろ関係のない親日国といっていたトルコが対日宣戦布告したほうが
>あきれたね! 
イタリアは?
152日本@名無史さん:03/10/19 00:01
インドの対日観は複雑だよ。ネールはかなり日本に批判的だ。チャン
ドラ・ボースは日本に来る前は、ソ連とドイツにいたから、インド人
の一般的考えでは「ボースは目的のためには、誰とでも手を結ぶ男」
って評判だ。それでも、独立のために頑張ったから、一般にはやや人
気はある。終戦時、どさくさに紛れて再びソ連に身を寄せようと、台
北空港を飛び立つ時に、不審火で焼死するんだよね。
マレー半島では主力となって戦って死んでいったのは、インド人兵士
だった。またインパールで戦ったのもインド人兵士。その点では、ひ
ょっとしたら彼らは「日本に勝って独立を手に入れた」とでも思って
いるかもね。
153日本@名無史さん:03/10/19 00:23
「アーロン収容所」読んでいちばん笑ったのはインド人のところだな
英国人から人間扱いされず臥薪嘗胆の収容所生活だったわけだが
徐々に英国人が減って見張りがインド兵ばかりになってくると
「おいインド」「何ですかマスター」捕虜の方が威張ってるんだから

>>152
カルカッタじゃ今でもボースは英雄だよ
154日本@名無史さん:03/10/19 01:25
【珍子】そろそろ牟田口廉也のちんこについて語ろうか【上等】
155日本@名無史さん:03/10/19 02:39
>>148
当のパール判事は「私は正論を述べただけであって、そのように個人的感情から
日本無罪を主張したかのように言われるのは心外だ」ってさ。
156日本@名無史さん:03/10/19 09:36
>>155
まあ日本に好意があるかないかは措くとしても、あの状況で正論を主張しただけでもたいし
た勇気と冷静さだと思う。
よく同様の立場の国の判事たちの尻馬に乗らなかったな、と。
157日本@名無史さん:03/11/07 00:02
ムッター
158日本@名無史さん:03/11/07 03:11
>127
>ドイツ軍参謀本部は爆弾抱えて敵戦車の下へ飛び込んで自爆しろと命令したことでもあるのか、
こっちはともかく、

>撃つに弾なく喰うに糧なしの裸同然の部隊に退却を認めなかったことでもあるのか。

こっちはね。
 「情勢判断を無視し、死守命令を乱発した結果、軍集団レベルの大部隊が壊滅」
というのは、ヒトラーや(特に初期の)スターリンはいくらでもやっていると思うが。
 まあ、この場合は「参謀本部が」じゃなくて「大本営が」になるんだろうし、
「誤った指揮」の典型として非難されているわけではあるが。
159打通さん:03/11/14 18:08
>圧倒的戦力差の状況だったら、降伏すれば良かったんだよ。無駄な戦いなら
>しなきゃ良かったんだったよ、

大陸打通作戦の場合は全く当てはまらないな。たった50万の犠牲で
中国チンピラゴロツキ3500万を叩き潰して、百万の精鋭が健在。
だから大陸打通に全ての戦力を叩き込んで、中国チンピラゴロツキ
だけを徹底的に狙い撃ちにしてガバガバ斬りまくればよかった。
160日本@名無史さん:03/11/15 21:42
>159

なんつか、下品な物言いだね・・
161日本@名無史さん:03/11/21 02:00
「武器不足は敗北の言い訳にならず」
この異常な言葉は一九四四年、インド・ビルマ国境で展開されたインパール作戦の
日本側司令官、牟田口中将の発した命令文にある。この考え方は当時の日本軍の司令官に
全部とはいわないまでも、共通のものだった。質量ともに極度に劣勢にあっても、ときとして蛮勇
が大勝利をもたらすのも事実ではあるが、これは賢明な人間のする勝負ではない。
   J・F・ガニガン/A・A・ノーフィ  大貫昇・訳 「第二次世界大戦あんな話こんな話」文春文庫

敗戦時「精神では負けてなかったがアメリカの物量に負けた」と言い訳しちゃった軍の偉い人って…
162だつう:03/11/29 19:58
>日本軍はもうめちゃくちゃの状態にあったんだよ

中国チンピラゴロツキ相手なら大陸打通で連戦連勝進撃3000キロ。
163日本@名無史さん:03/12/01 11:54
 日本軍は確かに、壊滅状況でチンドウィンまで撤退していた。しかし第三三
軍団の統計は、容易ならざる状況を示していた。「七月から一一月までの週平均
の兵力八万八五〇〇人のうち、インパール以遠で日本軍を追撃できたのはほぼ
半数である。死傷者は五万三〇〇人に上り、そのうち作戦中の死者はたったの
四九人であった。病気になった四万七〇〇〇人の半分以上は、インドへと後方移送
しなければならなかった。メバクリンを備えていても、マラリアの症例が、二万人
を越えている」とレイモンド・キャラハンは書いている。

ルイ・アレン「ビルマ遠い戦場 ビルマで戦った日本と英国」中巻
164日本@名無史さん:03/12/12 07:43
インパール作戦戦ったINAの伝記って何か翻訳されてる?
読んでみたいんだけど。
165打通さん
中印紛争ではインドともあろう大国が、かの「チンピラゴロツキ」相手に大敗北。

情けなくも、嘆かわしいことだ。

それもこれもインパール作戦の失敗でインド国民軍が形成されず、
ガンジー・ネルー王朝に甘んじてしまったからだ。