【シベリア抑留】ソ連軍による拉致強制労働の実態

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3日本@名無史さん
劇団四季 ステージガイド 異国の丘
http://www.shiki.gr.jp/applause/ikoku/siberia.html

・・・終戦の6日前、ソ連は日ソ中立条約を破って侵攻を始め、9月3日の停戦までに、
無抵抗の関東軍を武装解除し、市民たちを蹂躙(じゅうりん)し、捕虜としたあげく、
貨物列車に乗せてシベリアに移送してしまった。そして「抑留」と称して、厳しい強制労働
を課したのである。その数は60万人とも65万人とも、あるいはそれ以上とも言われている。
 ソ連は、当初から戦後の経済復興のために、日本軍兵士を労働力として使う計画だった
という。満州国に莫大な資本を投下して築き上げた重工業プラントや機械設備を解体して
持ち去り、それを抑留兵士の無償の強制労働で建設したのである。森林を伐採し、鉄道を
敷設し、病院や公共施設を建造する工事にもかり出された。・・・

 抑留兵士たちは、ソ連から「すみやかな帰還」を約束されていると信じていた。シベリアへ
移送される列車の中でも、ダモイ(帰国)の船が出るナホトカへ向かっていると思い込む者
が多かったが、実際は逆向きの奥地へ、北や西へと移動していたのであった。

 シベリアは冬はマイナス60度にもなり、反対に夏は38度の熱暑という寒暖の差が激しい
気候。ラーゲリ(収容所)のほとんどは暖房設備も行き届かず、連行された夏服のまま
防寒着も不足していた。不潔な環境で様々な病気が流行したが、医療設備も不完全で、
十分な治療を受けることはできなかった。
 最初の冬が越せず、6万人が死亡したといわれるのも当然であった。続出する死亡者を
埋葬するための作業隊が作られ、遺体は白樺の根元に埋められた。