また,和夫は近くに行き場のない孤児がいると,連れ帰って
面倒を見ていた が,その数は,一人,二人と増え,四,五年
たつといつのまにか私設孤児院規 模にまで増えてしまった。
けれども,和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のよう に愛し,
自ら喜んで彼らの父,母を称した。和夫の家族は,ふだん,
このよう に朝鮮人を愛し,日本軍国主義の簒奪に憤慨する
ような人々だった。しかし, 彼らは,日本の天皇が降伏宣言を
した1945年8月15日,自分たちが育て た朝鮮人孤児たち
により,凄惨に殺害されたのだ。
その日,まさに万歳の声とともに,太極旗が波のように風に
なびきつつ, 朝鮮人の世がやって来た。神は,自分が受けるべき
朝鮮人の愛を横取りした と,和夫君に嫉妬したのか?
彼がわが子のように育て,東京帝国大学に留学までさせた
Aの主導下に,彼の家で教育を受け,育ち,成人した青年
たち が,斧と鍬,スコップを手に,和夫のもとに押しかけた。
そのとき現場にい た金ソンス君は,次のように証言している。
和夫:(穏やかな目で)なんでこんなことを,子どもたちよ。
A:チョッパリ!(注:チョッパリというのは、
日本人の蔑称のこと)日本へ失せろ,失せちまえ。
和夫:(怒ったような声で)私が,お前たちにどんな間違いを
したというんだ。 お前たち,みなが私の息子だ。私はこの家の
家長であり,お前たちの親だ。お前たちの祖国が解放された
ことは,私もふだんから待ち望んできたことだ。踊りでも
踊りたい気分の日に,なんだって凶器をもって私の所に
詰めかけたりするんだ。私は決してお前たちをそんなふうに
教育したおぼえはない。(涙を流しながら)ほんとうに
悲しいことだ。朝鮮の息子たちよ。私が愛を傾け,
育ててきた結果は,つまるところ日本人と朝鮮人は
融和できないということなのか。お前たちが望むなら,
帰ってやるわ。
A:意味深長な目配せをBに送る(財産をすっかり
処分して帰ったら,おれたちはどうやって食っていくんだ?)
B:死ね,チョッパリ,シッパルノマ。
間髪入れず鍬が,和夫の後頭部に振り下ろされたのと
同時に,数多くのスコッ プと斧が彼の体をずたずたに
引き裂きはじめた。このとき,和夫の妻が我慢できずに
飛び出してきた。それまで黙っていたCは,和夫の妻を見て,
彼女の長い髪 をつかみ,庭の奥まったところに引きずっていった。
そしてなんと13人がかり で,ほんの一週間前までお母さんとして
恭しく仕えていた彼女を,強姦しはじめ た。(金ソンス君は,
この期に及んで自分が止めに入ったら,自分も殺されただろうと
言った)。強姦に耐えられなかった彼女は,行為の途中で死亡し,
Dは,ふだんお母さんと呼んでいた彼女の全身を滅多刺しにする
だけでは足りず,内臓 をひきずり出してまき散らした。
和夫には,一人の幼い娘がいた。ふだん模範的でいい子
だったヒミコさんは, 放課後,家に帰ってきて,両親の身に
起こった惨状を見,気が触れてしまった。 ヒミコが何日間も
慟哭する声に,近隣住民たちは眠れなかったそうだ。その後,
孤児になったヒミコは,食べ物を乞おうと,その付近を
さまよったが,朝鮮人は 誰一人彼女に目もくれず,知らない
ふりをした。結局,彼女は9日後,村の橋の 下でやせ衰えた
死体となって発見された。当時,ヒミコは小学校6年生の幼子だ
った。和夫の財産は,勇猛で愛国心に燃えたつ朝鮮の青年たちの
手にそっくり渡り ,この事件は村人たちの沈黙の中,次第に
忘れられていった。
この文章は,ある読者からの手紙にあったものだが,
冒頭,韓国人が反省し 作成したものと書かれているものの,
「和夫君」,「和夫さん」などの日本的 な呼び方が混じって
おり,最後の部分に朝鮮人に対する軽蔑に満ちた文章(削除した)
が含まれていたことなどを勘案すれば,韓国語ができる日本人が
書いたものではないかと思う。いずれにせよ,この事件について
聞いたことがある という韓国人も多いことを見れば,実際に
釜山地方で発生した事件のようであり,また韓国による植民地
被害の主張に対する,日本人の対抗論理をかいまみることのできる
珍しい例として,決して重みが失われない文だといえよう。
振り返って考えてみれば,日本の敗戦後朝鮮半島では,
このような殺害劇が たくさん発生しただろうと思われる。
日本の無条件降伏以後,北韓地域にはソ 連軍がすばやく進駐し,
軍政を敷いたが,南韓に米軍が上陸したのは9月中旬だった。
したがって,約1カ月程度,南韓地域には無政府状態が続いた
期間が あった。韓半島には,さまざまな理由で日本人とそれに
加担した者たちに恨みを抱く朝鮮人たちが多かったろうし,
彼らは日本人を殺し,財産を強奪し,日本女性を強姦しただろう
と思われる。
そして,朝鮮人たちが8月15日,日本の降伏を喜んだいちばん
大きな理由は,おそらく,日本の一部として敗戦国の暗澹たる
未来をともにするのが嫌だったた めではなかろうか。日本統治の
最後の期間,特に大東亜戦争が始まった,最後の 4年間は,日本人
はもちろん,日本の統治を受けていた地域の住民たちも,大き な苦痛に
見舞われた時期だ。それゆえ,朝鮮人たちにとって8月15日は,
忌ま わしい戦争の苦痛から脱することのできたという点で,
また日本人たちを殺し, 財産を奪える機会が与えられたという点で,
とても喜ばしいことだっただろう。
問題は,韓国社会において,朝鮮人によってほしいままに
されたこのような虐殺と残酷な行為はまったく知られておらず,
また調査されたこともなく,われわれが受けた被害だけは,
繰り返し強調されているという点だ。そして日帝統治の
期間に受けたとされる被害なるものも,事実よりずっと
膨らまされているだろうことは,容易に想像がつく。
朝鮮は日本の統治を受け,未開な農業社会から短期間に
資本主義工業国へ発展し, 高い生活水準を享受してきた。
しかし,日本が戦争に負けるやいなや,素知らぬ顔で,
まるで自分たちが戦勝国にでもなったかのごとく,
日本を呪詛し,彼らの財産を奪い,虐殺した行為は,
明らかに人倫に悖る犯罪行為にほかならない。このようにして
日本人をすべて追放したあと,南韓国と北韓国の政府は,
強奪した日本人の土地と工場を「敵産」と呼び,堂々と山分けした。
もし日本が戦争で勝利したり,少なくとも領土を保全され,
休戦にでもなったなら,はたして朝鮮人たちはこのように
振る舞えただろうか。おそらく,前よりもっと自発的に
日本人であることを主張しつつ,忠誠を尽くしただろう。
と ころが,戦争に負け,くっついていても別にいいことが
ないと判断した瞬間, 彼らは態度を急変させ,日本に
仇として接し始めたのだ。