36 :
日本@名無史さん:03/07/14 15:36
明智光秀も裏切り者の代表として評判が悪い
影の軍団で大岡忠光も悪役になっていたがこれはマイナーだな
それにこの番組では徳川家重がバカ殿に描かれていた
37 :
日本@名無史さん:03/07/14 15:40
>>14 それは後期の仕事人だろうなぁ
初期の仕事人では八丁堀同心を殺ること自体大変なことだった
最終回→八丁堀同心を殺る→取り締まりが厳しくなって仕事人は江戸を脱出
する・・・・というパターンだった
38 :
日本@名無史さん:03/07/14 20:52
だれか、田沼意次の功績を説明してくれ。
ぶっちゃけ俺は、「規制緩和をした結果、金や物の周りが良くなったが、賄賂をもらっていたのを口実に追放された」
としか知らん。
どんな規制緩和をしたのかも知らん。
ほんとに金や物の回りが良くなったのかも知らん。
だれか教えてくれ。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
>38
つーか、田沼以前の幕藩体制はぶっちゃけ
商業の存在を考えていないものだった。
田沼はその幕藩体制を、商業の存在も前提に含むものに変えようとしていた人物。
しかし、彼の後ろ盾となっていた将軍の死によって失脚。
政敵だった松平定信一派の手によって、その後賄賂政治などの誹謗が為された、と。
42 :
日本@名無史さん:03/07/16 01:44
>>38 ・印旛沼、手賀沼などの沼を農地へと干拓し農地を広めようとした
・株仲間を奨励し、商業からの税を多く取ることで農民からの税に頼らずとも
幕府を運営しようとした
・貨幣に含まれる貴金属を一定に揃えることで貨幣の価値と貨幣の材質の
価値からの差額を得ることが出来る
・国で取れる品目を積極的に輸出して海外から利益を得ようとした
・幕府として一部の品目を独占的に販売
・蝦夷地の開発・交易。途中で失敗するも、狙いはロシアとの外交にまであったと
考えられている。
田沼の悲惨
・株仲間などが持ってくる品物が賄賂としてみなされていた
・成り上がりにより老中となったため、周りからねたまれていた
・沼の開拓中に洪水が起こって計画が駄目になった
・侍が商売をするという発想が当時としては異端で蔑まれていた
・浅間山が爆発して天明の大飢饉が起こった
・息子が暗殺され、暗殺した人間は「世直し大明神」などともてはやされた
・将軍が死ぬと、土地なども全て取り上げられ辞職
43 :
日本@名無史さん:03/07/16 02:27
経済センスのある老中だったと思うよ。
賄賂に関しても、当時の状況で考える必要がある。
つまり、当時賄賂は当然で、彼だけが行っていたわけではない
って事。
むしろ、追放のための後付の理由と考えた方がいい。
賄賂賄賂なんて書くのは戦後の歴史学者様の趣向に
合わないから。
幕府の体制を経済的に崩壊させたのはむしろ3大改革
と言われる方だね。
そーいういみで、今の構造”改革”も、歴史に学べると
おり正しく崩壊の道を歩んでいます。
44 :
日本@名無史さん:03/07/16 02:38
>>43 賄賂で動いた人ではないな。
賄賂で動かそうと思った人は大勢いたようだけど。
>>42 印旛沼は、江戸への物資輸送の水路確保が目的と
何かで読んだ気がするが・・・。何かは忘れた
46 :
上級武士末裔:03/07/16 05:56
田沼意次の直系の子孫が横浜に住んでるんですよねー。
横浜には嵯峨家の直系当主も住んでいるし、高貴な末裔が多いんですよね。
さすが我が街 Y O K O H A M A !
47 :
(;´Д`):03/07/16 06:34
48 :
日本@名無史さん:03/07/16 06:54
田沼の蝦夷地開拓案は明治政府のものよりも現代的だったと言えるのでは?
明治政府はアイヌから土地を取り上げて和人の入植地にし、和人も農耕を諦めるような劣悪地が残ったのをアイヌに下げ渡した。
田沼は先ずアイヌに農耕を教え定住させる予定だった。
アイヌが農民化すると狩猟採集生活の時に使っていた土地の全てはとても耕作できない。
つまり土地が大量に余る。この余った土地を取り上げて和人に分配する。
これならアイヌの生活が脅かされることはなかったはず。
もっとも「将来お前らの土地を取り上げるから今のウチに農民になれ」と言われて大人しくアイヌが農業を始めたかは疑問だが。
>48
「現代的」って言い方するなら
狩猟民族の文化は守られるべき、っていう観点が抜けてるぞ、と。
まあ、明治政府がとった政策よりも摩擦は少なかったかもしれんが。
50 :
日本@名無史さん:03/07/16 10:32
たしか田沼意知を殺した佐野ゼンザエモンは、自分の賄賂が田沼に拒否されたのが動機といわれてるらしいね。
51 :
日本@名無史さん:03/07/16 10:58
幕府のシステムを変えずに商業を振興するのには限界があった。
大抜擢されたとしても所詮小大名。
有能な人材を家臣にすることは出来ない。
また江戸からの経済構造改革にも無理があった。
金と銀の国際価格とのずれは銀本位制の西日本の貨幣経済が、
金本位制の東日本より進んでいたからと考えられる。
結局、田沼の失脚の原因は通貨統合を進めようとしたことに反発した、
両替商が定信を支持したから。
金、銀、銭、三貨の統合は西日本主導でなければ困難だったと思われる。
>>51 基本的な質問ですが、どうして日本は金本位制と銀本位制に
分裂しちゃったんですか?
53 :
日本@名無史さん:03/07/16 16:20
まぁ政策はそれなりに評価するが、実際のところ改革の志半ばで失脚し中途半端に終わったわけだから日本一とまではいえない。
54 :
日本@名無史さん:03/07/18 00:06
>51
まずは江戸地廻り経済圏を理解すべき。
松平某が批判しつつ良いところどりで南鐐二朱銀を引き続き普及させたのは
厳然とした事実。
>52
戦国時代から西が銀がよくとれ、東は金がよくとれたからです。
石見銀山、佐渡金山。
55 :
日本@名無史さん:03/07/18 01:07
>>54 南鐐二朱銀を引き続き普及させたのは
事実とちゃうやん
57 :
日本@名無史さん:03/07/18 23:02
>55
松平定信:天明年老中着任 寛政5年老中辞職
天明8年 南鐐二朱判鋳造停止、通用有効の確認
寛政2年 地方への流通促進策
寛政3,4「西国・中国筋二朱判通用之為」農村部に二朱銀貸し付け
その他、定信は三都以外、四国等への普及を行った。
教科書では難しいのか、レッテルを貼りたいのか不明であるが、これが
事実。
二朱判発行「停止」は政治的パフォーマンス及び相場安定のため。
58 :
????s??s:03/07/18 23:07
59 :
日本@名無史さん:03/07/18 23:12
つうか佐渡金山でも銀は取れてたし、
石見銀山でも金は取れてた。
あまりそれは関係ないと思われ。>54
60 :
日本@名無史さん:03/07/19 01:12
>>57 通貨有用の確認って何?
南鐐二朱銀を停止したのは定信で、再開したのは失脚後でしょ?
その間作っていたのは丁銀の筈。
>59
確かに鉱山でとれる鉱物である以上、基本的には銅なども入っています。
通常はそのうち、価値も含め最も算出されたものの名前を取って
金山(銀山、銅山、鉛山)などといっています。
まあ、佐渡のうち相川は厳密に言えば金銀山ですね。
しかし開発は関ヶ原以後で、戦国期〜織豊期は西三川砂金山が全盛。
まあ佐渡や石見は代表例を出したにすぎないので。
ちょっとした歴史の本には金銀の東西偏在は銀遣い金遣いの前提と
して書かれており、私の出した新説でも何でもないのです。
(その他もいくつか要因がありますが)
>60
通用有効とは、禁止したわけではないということです。
金本位制貨幣である二朱銀により、金相場が低落したため、一時的に
銀を市場に出し相場調整を行っていたわけです。
そしてこの原因が二朱銀が主に三都で限定的に使用されたため相場に
すぐ悪影響を与えた・・よって全国的にすればよろしかろうとして、寛政
2年から実行したのです(ちなみに天明9年=寛政元年だから2年後には
すぐ実行したというわけです)。
>>62 なるほど、では丁銀は、パフォーマンスという事?
>63
62で書いた「銀」は丁銀であって幕府が保管したものを市場に出したわけ
です。要は単なる金銀相場安定政策です。
通貨一元化を否定し、これまでどおり金銀複本位で行くというような
(たいそうな)政治的な宣言といったものではないのです。
田沼時代も明和五匁銀、そして二朱銀は金本位制に向けた第一歩との位置
づけで丁銀の通用停止をしたわけではないですから。
65 :
日本@名無史さん:03/07/21 09:15
結局、幕藩体制の枠組みの中では上方を中心にして蓄積されつつあった、
社会資本を生かすのは難しかった。
学問もあり、やる気もある有能な人ではあったが、
実行するための権力基盤が弱すぎた。
同時代の有能な政治家に上杉鷹山がいる。
政治家の能力だけで大きな成果をあげられるのは藩レベルのことで、
利害関係がはるかに複雑な幕政では無理だった。
日本一の政治家は言い過ぎ。
66 :
日本@名無史さん:03/07/22 00:54
つっこみどころ満載でどうしたらよいものか・・・。
>>66 せっかくなのでおねがいします。
田沼・松平者って極端なのが多くて、どっちやん!って感じるんで。
68 :
日本@名無史さん:03/07/22 02:31
>>48 田沼はまず「えた」の人々を蝦夷地に殖民させるつもりだったそうだ。
実現してれば同和問題は解決してただろうに。
ついでに北海道開拓は完了し、ロシアとの間の争点は千島・樺太となり、
当然、両者も日本領となっただろう。
しかし、松平の阿呆が、大阪の知識人の連中の意見を採用し、ロシアの進出を
招かないように、蝦夷地を空地にしておくことにしやがって、開拓構想は握り
潰された。
松平は、田沼の維新を先取りするかのような経済政策をことごとく葬り去りやがった。
69 :
日本@名無史さん:03/07/22 09:29
岩波現代文庫の大石慎三郎著「田沼意次の時代」という本は面白い。
田沼を誹謗する史料が信頼出来ないことを証明する一方で、
田沼意次については個的な史料はもちろんのこと、
彼をとりまく根本的史料もほとんどといってよいほど残っていない、
という。
結局彼が政治を担った時代に近代化を目指した諸政策が打ち出されたが、
幕藩体制との矛盾、政敵の存在、天変地異などによって、
実を結ばなかったという事実がわかるだけ。
つーか、田沼意次も上杉鷹山も、
終戦直後、GHQに勤務してたヤンキーの左翼系学者がベタ誉めしたんで、
日本でも再評価されるようになったと聞いてるが。
72 :
日本@名無史さん:03/07/22 19:43
田沼は、親父の代まで紀州の足軽だった。
その出自の低さが譜代門閥層の反発を買ってしまったんだよ。
松平定信「将軍の孫である漏れが足軽の息子に頭を下げるのは
恥辱じゃ。」と考えていたからね。
彼がもっと家柄の高い家に生まれていれば、譜代門閥の妬みを
買わなかったと思う。
後世、評判が悪いのも、妬み君の譜代門閥が悪口書きまくった
から。
幕末に生まれていれば、有能な経済官僚として、蔵相、農商務相
として、大活躍できただろうに。
73 :
日本@名無史さん:03/07/22 19:59
>>72 つーか田沼の親父は定信の祖父の吉宗が妾腹として部屋住みのころから使えてたんだが。
成り上がりといえば吉宗の孫も田沼も同じなのにね。
74 :
日本@名無史さん:03/07/22 21:13
>>74
それでも、田沼は子供時代に下級武士として、市井の生活を見て育って
いる訳で。
生まれながらの若様育ちである、定信とは根っこが違う。
田沼が父親の家督を相続した時は300石だったしね。
それでも、親父は足軽から300石取りの旗本になったのだから立派
だと思うよ。
幕末に登場したら。幕臣ながら新政府に仕え、経済官僚として大活躍
のその功績で伯爵となる。
でも、「痩せ我慢の説」で福沢に非難されるだろうけど。(藁)
基本的には田沼は金融政策の新機軸(金銀複本位から金本位制へ)を築いた
川井久敬を登用し、また金融政策に明るい石谷を登用するなど金融施策の理解
及び人材登用による革新的政策という意味で群を抜いていた。
この点は特筆すべき業績。
享保の改革が大岡忠相の金融政策を神尾春央の「百姓とゴマの油は絞れば絞
るほどとれる」の援護射撃で使っていたのと正反対。
他方、定信は金融政策は意次の遺産に乗っかって、むしろ都市対策で能力を
発揮した。この点天明の大飢饉で流民を鉄砲で追い払った結果「領内」餓死者
ゼロという実績を出したのと同じ。
つまり幕府の絶対権力化。
このどちらを好むかは判官贔屓や「定説信奉」などもあいまって難しいもの
です。
76 :
日本@名無史さん:03/07/23 07:38
>田沼はまず「えた」の人々を蝦夷地に殖民させるつもりだったそうだ。
水呑み百姓もね
77 :
日本@名無史さん:03/07/23 12:30
>>76 で、身分にうるさい松平定信がブチ切れたと。
78 :
日本@名無史さん:03/07/23 18:02
寛政異学の禁で思想統制を行った定信は学問の発展を抑えた。
定信が信奉する朱子学が隣のK国にどれだけの悪弊をもたらしているかを
考えると。
田沼は源内を家臣にしようと考えていた程、開明的だったよ。
結局は、源内が在籍していた高松藩とのトラブルをさけるために
あきらめたけど。(高松藩は源内が退職する時に、「どこの藩にも就職しない」
と誓約書を書かせていたので。)
>78
とはいえ、源内はやはり奇才ですよね。
でも私はそういう人が夢を見ることができた田沼時代というのは、天災のせ
いで終焉を遂げましたが、やはり評価します。
身分に限らずいろいろな能力を使おうとした政治家というのは偉大だと思い
ます(後半はずれが多かったのが難点ですが)。
古くは信長もそうでしたしね。
定信が門閥「御学友」で固めたのと全く正反対です。
80 :
日本@名無史さん:03/07/25 23:20
佐藤雅美の本がよかったよ。
目から眼球が落ちた。
1の頭の悪さがよく解るスレなのであげとこう。
82 :
日本@名無史さん:03/07/30 12:47
田沼意次は江戸幕府でも3本の指に入る優秀な指導者だろ
83 :
日本@名無史さん:03/07/30 20:51
賄賂云々については真偽不明で措くとして、
農本主義で左前になってゆく幕府財政の将来を鑑み
商業資本への参入を画した先見性はもっと評価されてしかるべきだろう。
倹約一辺倒で復古主義的政策に終始し、大衆にそっぽを向かれた
次代の政権担当者松平定信とは、政治家としての力量の差は
比較の対象にならないだろう。
(^^)