1 :
日本@名無史さん:
知識のある方でお暇な方は
足利幕府初代将軍尊氏から15代将軍義昭までの
足利幕府歴代将軍を語ってください
2 :
日本@名無史さん:03/06/13 00:14
なぜ?
3 :
日本@名無史さん:03/06/13 00:18
まぁ良スレの部類
4 :
日本@名無史さん:03/06/13 00:18
途中で改名するヤツが多いんだよな足利将軍て
「私を殺すと申すか・・・!
光秀!私は室町幕府15代将軍である!」
「信長め!この私を天下布武の道具に使ったな!」
「ヒョォーーーー!!!出陣じゃ!ファハハハハハハハハハ!」
6 :
日本@名無史さん:03/06/13 00:25
いきなりコケてるじゃねえかよ。
7 :
日本@名無史さん:03/06/13 00:27
歴史読本6月号 46人の征夷大将軍
足利義稙が義材の見出しで紹介されてた
名前は義材→義尹→義稙の順番
信長!久秀!さがりおれ!天下の将軍を知らぬのか!!
9 :
日本@名無史さん:03/06/13 00:29
46人?
鎌倉が9人、室町が15人、江戸が15人。
あと7人は誰だ?
10 :
日本@名無史さん:03/06/13 00:29
黙れ!痘痕面め!
11 :
日本@名無史さん:03/06/13 00:34
義満毒殺説は本当でつか?
系図厨まだぁ〜〜??
>>9 幕府を開いた将軍だけが将軍だと思ってるのかコイツワ
15 :
日本@名無史さん:03/06/13 00:49
足利家と今川家はどういう関係なのかねもし
>>14 純粋に興味があるから聞いただけなのだが・・・
えらそうにするんならあと7人教えてくれよ
坂上田村麻呂とか源義家?
19 :
日本@名無史さん:03/06/13 01:36
文室綿麻呂とか大伴弟麻呂のこといってるんだろね
あさいね
20 :
日本@名無史さん:03/06/13 09:48
義輝将軍は剣の腕がすざまじかったと聞くが
21 :
日本@名無史さん:03/06/13 10:44
義宣→義教
義成→義政
義尚→義煕
義材→義尹→義稙
義○→義高→義澄
義藤→義輝
さあ○に漢字をいれてみよう。
22 :
日本@名無史さん:03/06/13 12:05
23 :
日本@名無史さん:03/06/13 17:11
>>9 >あと7人は誰だ?
大伴弟麻呂
坂上田村麻呂
文室綿麻呂
木曽義仲
護良親王
成良親王
羽賀研二
25 :
日本@名無史さん:03/06/13 17:54
>>24 こらこら、どさくさにまぎれて誠意大将軍を挙げるでない(w
26 :
日本@名無史さん:03/06/13 18:08
歴史読本六月号
鎌倉幕府9代・室町幕府15代・江戸幕府15代
大伴弟麻呂・坂上田村麻呂・文室綿麻呂・木曽義仲
護良親王・成良親王・宗良親王
計46人
27 :
日本@名無史さん:03/06/13 20:45
足利将軍存命中官位
太政大臣 (3代)足利義満
左大臣 (6代)足利義教、(8代)足利義政
内大臣 (4代)足利義持、(9代)足利義尚
大納言 (初代)足利尊氏、(2代)足利義詮、(10代)足利義稙、
(12代)足利義晴、(15代)足利義昭
カス (5代)足利義量、(7代)足利義勝、(11代)足利義澄、
(13代)足利義輝、(14代)足利義栄
29 :
日本@名無史さん:03/06/13 21:49
参議
5代義量 11代義澄 13代義輝
今の天皇に征夷大将軍を任命する権能ってあるのかな?
31 :
日本@名無史さん:03/06/13 21:59
32 :
日本@名無史さん:03/06/14 02:03
33 :
日本@名無史さん:03/06/14 02:07
義昭の息子が死んだ後って喜連川が宗家を継いだの?
34 :
日本@名無史さん:03/06/14 02:10
この15人の中で最も将軍らしい権威があった人って
義満でよろしいのれすか?
たれ目だからなぁ・・・
36 :
日本@名無史さん:03/06/14 04:04
大日本帝国憲法が発布されるまでは、征夷大将軍を任命する権能ってあったのだろうか?
37 :
日本@名無史さん:03/06/14 07:55
夷=北朝鮮なら、この職も復活してよい>征夷大将軍
38 :
日本@名無史さん:03/06/14 12:09
別のスレでも書き込んだが…
義稙、好きになりました…
早世した義量と義勝は除いて、義政〜義輝の間の将軍って、周囲に翻弄されていた
将軍のイメージが強く、戦国時代に入った事もあり、名前を忘れていた…
けれど、義稙って日野富子、細川政元、大内義興、細川高国に利用され、傀儡政権かと
思いきや義稙なりに将軍権威回復の情熱が没落しても復活するなど、頑張っていたんだと
感服したました。
あくまで、一部の本しか読んでいないので、分からないけど…
将軍としのイニシアティブがあったのって、
義満>義教>尊氏(軍事面では圧倒的だが、政略面では弟との抗争を作ってしまう優柔不断さが…頼朝のような非情さがなかった)
>義持、義稙、義詮>その他は傀儡?義量、義勝は問題外。
義昭は平家政権末期の以仁王の令旨が反平氏勢力を立ち上がらせる大義名分をつくった?のと
同様に反織田勢力を動かした(大義名分を与えた)事に関して、本人に影響力があったのか?単に
利用されただけなのかで、評価は変ってくるが…
39 :
日本@名無史さん:03/06/14 12:12
義輝もある意味評価出来るかと
唯一戦って討たれた将軍
1つ教えていただきたいのですが、
嘉吉の乱で将軍を討った赤松満祐・教康が足利義尊(冬氏?)を擁立したのは
何故?将軍暗殺という汚名をなくす為?
赤松氏討伐が遅れるほど混乱している幕府をみて、幕府転覆を本気で考えていたのでしょうか?
幕府内での実力者(家臣)だと、師直、道誉、頼之、義将…ってな感じでしょうか?
三管四職の守護で中央での実力者だとすれば、
細川は頼之、勝元、政元。斯波は高経(失敗?)、義将。畠山は義就・政長?
京極(佐々木)は高氏(道誉)。赤松は円心、義則、満祐。山名は時煕?、持豊。
一色って、実力者います?
赤松義則や満祐、山名時煕あたりは微妙だが…
皆さんはいかがです?
41 :
日本@名無史さん:03/06/14 12:40
>40
幕府転覆なんて考えがあったら、冬氏を担いだりしないでしょ。
それに対抗馬を担いだからといって、将軍殺害の事実は消えないでしょ。
42 :
日本@名無史さん:03/06/14 13:08
>>41さん。
早速のご返事どうもです。
>それに対抗馬を担いだからといって、将軍殺害の事実は消えないでしょ。
それは、そうですね…
>幕府転覆なんて考えがあったら、冬氏を担いだりしないでしょ。
これについてですが、満祐としては座して死すより、暴れて(目立って)死ぬ方がいいと思っていたのでしょう?
すぐに討伐される覚悟をしていたのに、幕府の混乱振りに少しは勝算があったのだろうか?
あと、義尊方って(後)南朝に降った(利用)のでしょうか?応仁の乱で山名方が小倉宮(南朝方?)を担いだように…
その所が勉強不足であいまいなのですが…教えてください。
領地を接する山名持豊は野心旺盛(表現がおかしいか?)で、明徳の乱による失地回復と討伐での領土拡大を狙い、なんとしても討伐したかったようだが…
その後の持豊の中央政界での台頭を見ると、自分に家督を継がせてくれた義教さまさまですな〜
すれ違いになってスマソ…
剣豪塚原卜伝に師事した将軍って誰でしたでしょうか?
ぼくんでーす
45 :
日本@名無史さん:03/06/14 19:43
>>43 >>39に書いてある義輝っす。
でも松永・三好勢に攻められて、衆寡敵せず討死。
46 :
日本@名無史さん:03/06/14 19:52
どうでいい話だけど、
等持院にある足利義輝の像と
大徳寺にある織田信長の像ってマジでそっくり。
47 :
日本@名無史さん:03/06/17 01:31
age
義輝の像なんてあるのか・・・見てえ。
義輝好きだな。そうそうに鉄砲を評価した先見の明や
茶器集めなんかより刀剣集めにせいを出す男らしさ、
謙信を上洛させ幕府の権威復興に命を尽し、
最期は松永の軍勢相手に畳に無数の刀剣を突き刺し猛奮闘、
御所を枕に戦死ってあたりがカコイイ。
>>26 みなまでは言わん。
それ、承平・天慶の時の征夷大将軍がぬけているが。
52 :
日本@名無史さん:03/06/18 02:46
直義について尊氏・義詮と対立した基氏。
義満と対立した氏満・満兼。
義持・持氏と対立した持氏。
南北朝合一後に鎌倉府って、必要だったのだろうか?
あと、関東管領の上杉氏も権威持ちすぎだし…
これらを解体して、扶持衆による分割統治は、紛争の火種となるから無理だったのだろうか?
>>義持・持氏と対立した持氏。
↓
義持・義教と対立した持氏。
けれども、ただお一人、さきの将軍家右大臣さまの事を思ふと、この胸がつぶれます。
念仏どころでなくなります。花を見ても月を見ても、あのお方の事が、
あざやかに色濃く思ひ出されて、たまらなくなります。ただ、なつかしいのです。
人によつて、さまざまの見方もあるでせうが、私には、ただなつかしいお人でございます。
暗い陰鬱な御性格であつたと言ふひともあるでせうし、
また、底にやつぱり源家の強い気象を持つて居られたと言ふひともございませう。
文弱と言つてなげいてゐたひともあつたやうでございますし、
なんと優雅な、と言つて口を極めてほめたたへてゐたひともございました。
けれども私には、そんな批評がましいこと一切が、
いとはしく無礼なもののやうに思はれてなりませぬ。
# 軽く板違いのような気もしないではありませんが、
#
>>7-26の流れで、ふとおもいだしたから貼っておく。
何年か前に買った「歴史読本」だったか「歴史と旅」だったかには、
室町の将軍家、宰相中将さまの痘痕のある肖像画が載っていたのだけれど、
どこにしまいこんだか、わかんないや。部屋かたづけなきゃ…。
# そういえば彼が亡くなったのは、新暦に直すと、ちょうど今くらいの時節。
太宰はんはいいね。滅びの美学。
(もろ板違いレスだなこりゃ)
籤引き公方の命令など聞く耳持たぬ!
鎌倉は武士の都。武士を束ねるのは武士である。生臭坊主などではない。この持氏自ら魔王を成敗してくれる。
やっぱり鹿苑上皇最強でしょう。
兄者!私を次期将軍にして頂けるのですね?義尚殿は如何遇するおつもりですか?
60 :
日本@名無史さん:03/07/14 02:18
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
62 :
日本@名無史さん:03/07/18 08:26
足利義昭って、いつまで将軍だったんですか?
はっきりと辞めた時期がわからないので教えてください。
准三后だった頃もまだ将軍だったのですか?
出家した時に辞めたんですか?それとも?
どちらにしても1573年じゃないですよね?
63 :
日本@名無史さん:03/07/18 08:36
足利義昭は1588年に出家するまで征夷大将軍でした。
准三宮になったのはそのあとです。羽柴秀吉の口利きですね。
秀吉からはほかに1万石の所領がプレゼントされています。
ありがとうございます。
65 :
日本@名無史さん:03/07/18 11:38
>>63 それは出家したから結果として辞めたことになるの?
それとも「辞める」とか宣言したの?
次の征夷大将軍が出るまでじゃなかったっけ?>辞める
だから義昭は死ぬまで征夷大将軍だったとも言える。
67 :
日本@名無史さん:03/07/19 04:39
>66
じゃあ出家しても征夷大将軍だったのか?
(^^)
69 :
日本@名無史さん:03/08/08 17:32
あげ
70 :
日本@名無史さん:03/08/08 18:08
出家というのは俗世間から引退することを意味するわけだから、
もう将軍じゃないよ。
准三宮というのは身分を示す称号にすぎない。
71 :
日本@名無史さん:03/08/09 02:38
客観的じゃないな
72 :
日本@名無史さん:03/08/09 19:38
義量・義栄の像って創作ならあるの?
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
74 :
日本@名無史さん:03/08/31 18:24
>>70 義昭については将軍解任の手続きは取られていない。
ただし、道鏡の時代を除けば、僧侶は別の官位体系に属するから俗世の将軍職には就けない。
護良親王も還俗して将軍に就いている。だから、官制の原則からして出家の時点で俗世の官は辞任扱い。
全く関係ないが、石橋湛山首相は日蓮宗の僧籍をもったまま首相になった。(僧籍はペーパーみたいなものだったが)
75 :
日本@名無史さん:03/08/31 18:36
堺公方義維は?
76 :
日本@名無史さん:03/09/13 16:00
>>33 別にそういうわけではないが、尊氏末裔で唯一残ったから。
(ほんとは義維の子孫もいるのだが、秀吉と接点を持とうという考えがなかったらしい)
77 :
日本@名無史さん:03/09/13 16:46
78 :
日本@名無史さん:03/09/13 16:58
平島公方は徳島藩士扱いだったんじゃないの?
79 :
日本@名無史さん:03/09/13 17:36
>>78 そういうんじゃなくて、
血統からいえば平島の方が喜連川より義昭に近いのにって疑問
80 :
日本@名無史さん:03/09/13 18:06
そもそも喜連川家が宗家だったかどうかわかんねえよ。
単に関東公方の子孫として存続させられたのかもしれんし。
81 :
日本@名無史さん:03/09/13 18:10
>全く関係ないが、石橋湛山首相は日蓮宗の僧籍をもったまま首相になった。
その通りだ、まったく関係ない。ただ、何でも理屈に持ってくる、そのパワーは
認めてやる。学識としては無価値だけどw
82 :
日本@名無史さん:03/09/13 22:36
83 :
日本@名無史さん:03/09/13 23:08
84 :
日本@名無史さん:03/09/14 01:55
>>79 76も指摘しているが、小弓(喜連川)頼純みたいに平島側がなぜ織田・豊臣政権に接近しなかったかが疑問。
安房・里見の客将の小弓系より、そっちの阿波の方が中央に近いだろうに…。
>>81 「トリビア」が流行るこのご時世だからいいんじゃないの?
85 :
日本@名無史さん:03/09/14 03:19
喜連川は関東公方(古河公方)の嫡流としての存続。
足利義氏の娘が女ながら古河公方として領所を統治していた。
秀吉に接近していた小弓公方末裔の頼淳(頼純)が、息子国朝との結婚を強引にすすめた形跡があり、
国朝とは別居婚状態だったらしい。
国朝死後、弟頼氏と再婚するが同じく通い婚らしく、生まれた子義親は父親の許には住んでいなかったらしい。
86 :
日本@名無史さん:03/09/14 08:55
古河公方家(喜連川家)は江戸幕府の源氏の名家保護政策によって
格式10万石で明治維新を迎えたのに対して、阿波公方家(平島家)は
幕府からも無視され、徳島藩(蜂須賀家)からは強烈なイジメに合い
ながらも泣く泣く阿波で過ごしたそうな。
私は最近、徳島県那賀川町へ阿波公方の痕跡を求め訪れましたが、
町全体が足利家を崇拝してる様な所です。国道沿いの道の駅の名称は
「道の駅・公方の郷」ですし、平島館跡もありますし、公方の道なんての
もあります。そしてなんと、足利義種(10代将軍)と足利義栄(14代将軍)
の墓もあります。墓の前は小さな門付きで、丸に二つ引きの家紋がビシっと
入っています。毎年10月には公方祭りも行われ、現在の足利家当主も来る
そうです。足利家(嫡流)を現代に感じることの出来る最適の場所でした。
87 :
日本@名無史さん:03/09/14 09:59
>>86 現在の足利家当主って、阿波公方の末裔ってこと?
88 :
日本@名無史さん:03/09/14 10:22
そうです。阿波公方の末裔です。那賀川町のHPに家系図がありますが
その最後に記載されている方です。
この人、以前大名の末裔を探す番組で足利尊氏の末裔として登場してました。
うさんくさい人かと思ってたけど、本物のようです。金閣寺にはいつでも
無料で入場できる特典がこの人のみに与えられてます。
89 :
日本@名無史さん:03/09/14 10:42
義昭の追放後に反信長勢力の中に義昭を見限って、阿波公方を担ぐ動きはなかったのか?
90 :
日本@名無史さん:03/09/14 11:00
足利義助(義栄の弟)はその機会を待ち続けたが
後ろ盾の三好家が崩壊寸前となりついに実現せず。
徳川家康が征夷大将軍となり夢幻しとなる。
91 :
日本@名無史さん:03/09/14 13:31
なんでみんな名前に「義」があるの?義忠とか義満とか
92 :
日本@名無史さん:03/09/14 14:38
>>91 清和源氏の武将につけられる文字云々と聞いたことがあるけど・・・
後、「頼」の字もそうらしい。
違っていたらゴメン。
93 :
日本@名無史さん:03/09/14 15:33
>>89 義昭+毛利>>>>義助+三好だったってことで。
あと、義昭は都を追われたとは言え、腐っても将軍職についた実績あり。
義助は義維の子だが中央では無名な存在。
94 :
日本@名無史さん:03/09/14 16:11
>>91>>92 初心者スレできいてほしいけど
「通字」というものです。
もともとは親子兄弟等の肉親関係を示すもので、それ以上のとくに深い意味はもともとない。
前にいいともの「ご先祖様はスゴイ人」というコーナーに
足利義忠という人物が登場していて、系図によると義昭の
末裔で時期当主ってなってたんだけどホントなんだろうか?
ちなみに茶髪、ダウンジャケット、ダボパンと
名家の御曹子らしからぬ服装でした。
96 :
日本@名無史さん:03/09/14 20:49
↑義昭の血統と言うのが怪しいなぁ。その家の家系伝説の域を
出てないのではないか?もし義昭の血統なら足利宗家だよね。
97 :
日本@名無史さん:03/09/14 21:02
98 :
日本@名無史さん:03/09/14 21:29
>>95 足利義昭には息子が1人と孫が2人いるけど、全員出家しているから子孫はいないはず。
もっとも、隠し子がいたという可能性もないではないが(w
99 :
日本@名無史さん:03/09/14 22:10
このスレ阿波公方の登場で白熱してきたねぇ。
足利家の阿波公方って意外と歴史の盲点だな。
で、聞きたいんだけど細川京兆家って現在も子孫とかいるの?
スレ違いで悪いんだけど、ここはかなり歴史に詳しい方がおそろい
だから誰か教えて。細川昭元の後はどうなったんだろう?
熊本の元首相の家系じゃなくて宗家(管領家)の方ね。
>>88 足利健◯サンすか。大河「太平記の故郷を訪ねて」か何かに出てましたよね。
実際に金閣寺を歩きながら、ご本人みずからその言葉を言ってたのが印象的だったなぁ。。。
101 :
日本@名無史さん:03/09/14 23:12
慶弔家 言われてみれば気になるのでググった。
昭元の子が頼範。
細川頼範 ほそかわよりのり 1561〜1628
細川昭元の子。通称六郎。別に元勝。
官途は讃岐守、侍従、従四位下。母は信長の妹(お犬)。
豊臣秀頼に属し、大坂の役夏の陣では大坂方。
戦後竜安寺に閑居した。晩年は大和高島に移る。
この先は???
102 :
日本@名無史さん:03/09/14 23:17
将軍家の話とは外れるが高国系も絶えたのかな?
氏綱の子って聞いたことがないんだが・・・
>>100 ○亮さんは違うという話をどこかで聞いたような。
ここの公家スレだったっけ?
でも大河にご本人が出演して、そういう発言があったとするなら
やっぱりホントに末裔だったのかな?
104 :
日本@名無史さん:03/09/14 23:50
子爵さまがお書きになってたレスなら、「彼」が霞会館公認の正統ですが、もう故人との事でしたよ。
それに「彼」は喜連川の当主です。
だから、阿波の当主?が金閣寺スルーパスと言うのは混同された間違い情報ではないでしょうか?
105 :
日本@名無史さん:03/09/15 00:26
足利義材(よしき)義視(よしみ)はなんで三文字読みなの。
武士っぽくない。
106 :
日本@名無史さん:03/09/15 00:31
北畠材親(きちか)も相当変な名前だけどな
107 :
日本@名無史さん:03/09/15 00:37
>>106 義材に一字貰ったんでしょ。
義視に一字貰った人っているのかな
渡辺一族の一文字名はカッコイイが
108 :
日本@名無史さん:03/09/15 01:12
>>99>>101 他のスレにもあったけど、頼範は元勝とあらため秋田家に仕える。
子孫は秋田藩士でたしか200石。分家もあり。
元勝の姉か妹が秋田実季の正室のため、その縁と思われる。
詳しくは知らん。
109 :
日本@名無史さん:03/09/15 01:26
>97
詳しくはわすれたけど
義輝の遺児と言われる
足利道鑑が細川家に仕えている。
肥後細川家の公式記録によく出てくる。
110 :
日本@名無史さん:03/09/15 02:01
>109
藤孝自体が義晴の遺児と言われていますが
111 :
日本@名無史さん:03/09/15 02:18
足利 努(あしかが つとむ)
113 :
日本@名無史さん:03/09/15 03:02
喜連川は足利惇氏氏(クドイネ)の後には男子いないとおもったけど
114 :
日本@名無史さん:03/09/15 03:07
足利銀行
115 :
日本@名無史さん:03/09/15 03:42
>>113 子爵様が書いてたのはその人と思う。
故人でしょ?
後継ぎいないから霞会館公認の足利家当主はもう存在しないとか書いていたから。
116 :
日本@名無史さん:03/09/15 10:35
で、実際はどうなの?この辺りでまとめると・・・
足利宗家(義昭末裔)系 → 後継ぎなく江戸初期断絶。
古河公方家(喜連川家) → 明治期〜大正期に断絶。
細川宗家(京兆家) → 江戸期に断絶。
阿波公方家(義維系) → 現在も存続。
って事でいいのかな?足利系ではっきりと現存してる系統は阿波公方家のみ?
117 :
日本@名無史さん:03/09/15 10:58
>116
細川もいいなら、最上(斯波)、一色、吉良、今川、畠山、みんな子孫のこっとるぞ。
でも、一番、宗家に近いのは護煕か
118 :
日本@名無史さん:03/09/15 11:18
喜連川の惇氏さん(ペルシャ史の大家)は昭和末期まで存命だったし、
その弟の峻?さんが「歴史と旅」に寄稿しているのを読んだことがある。
あと喜連川分家の宮原氏というのが高家になっている。
119 :
日本@名無史さん:03/09/15 11:24
120 :
日本@名無史さん:03/09/15 11:29
足利姓に限定して存続してる家系を
もう一度おさらいで教えてください。
121 :
日本@名無史さん:03/09/15 11:29
今川家は明治に断絶した。
分家の品川家の子孫が現存しているかどうかはわからん。
122 :
日本@名無史さん:03/09/15 12:15
直冬の子孫は断絶したの?
123 :
日本@名無史さん:03/09/15 13:28
>122
史料に現れるのは子か孫まで。
以降は不明。
124 :
日本@名無史さん:03/09/15 15:12
>>102 氏綱に弟がいた筈。たしか藤賢だったかな。(藤孝じゃないよ)
125 :
日本@名無史さん:03/09/15 17:09
藤孝は義晴の息子だけど、おかんはどこの出?
清原氏
127 :
日本@名無史さん:03/09/15 18:04
>128
なんで、三淵にあげたの
おかんごと、清盛や道三の息子みたく
128 :
日本@名無史さん:03/09/15 22:05
だいぶ脱線ぎみだな。細川はもういいよ。
ところで、義昭が京都を追放された後、現在の広島県福山市鞆の浦へ
行ったって歴史事実があるから、先日、鞆へ行って来ました。
幕末の史跡がほとんどでしたが、何故か山中鹿之助の墓もありました。
非常に歴史情緒豊かな土地でしたが、肝心の義昭の痕跡を見つける事
が出来ませんでした。何か石碑か説明があるだろうと必死で探しましたが
ありませんでした。確かに征夷大将軍・足利義昭が居た場所なのに。
129 :
日本@名無史さん:03/09/15 23:16
>128
藤孝は足利将軍家の出ですのでスレ違いではない。
130 :
日本@名無史さん:03/09/15 23:19
>>129 それは俗説。日本史板で語る価値はない。
131 :
日本@名無史さん:03/09/16 01:16
>>129 細川のスレで語れ。そもそも落胤説は真偽不明なのだから。
132 :
日本@名無史さん:03/09/16 20:52
14代・義栄、歴代将軍の中でも影の薄さではピカイチだが、
戦国時代でも最も戦国らしい時代の将軍だった訳で、もっと
スポットを当ててくれまいか?
三好三人衆の神輿状態だったのが災いしてるようだが、彼が
能無しだったとも言えないし、彼のエピソードって何かないですか?
ええい、しょうがない者達よのう。ほっほっほ。
まろに質問がある者は言うてみい。苦しゅうないぞ。
134 :
日本@名無史さん:03/09/17 01:19
>133
なりきりは三戦板へ参戦してね。
義栄は入京してないよね。
135 :
日本@名無史さん:03/09/17 01:25
やっぱり義輝公でしょう
足利将軍と言えばね
義栄はジャマなんだよな
正直言って
136 :
日本@名無史さん:03/09/17 03:08
>>134 入京したでしょ
信長が義昭奉じて入京してきたら摂津富田に逃れてそこで死んだ
137 :
日本@名無史さん:03/09/17 13:43
>136
いや上洛できずにずっと三好勢力下の摂津とかにいた。
だから傀儡といわれ、義昭の上洛により将軍位が無くなってしまった。
>>136 義栄の存在価値は「入京できなかった将軍」、この一点のみ。
139 :
日本@名無史さん:03/09/17 13:57
>>137 あのタイミングで病死したから将軍位を剥奪されないで済んだわけだな。
長生きしていたらさぞ悔しい思いをしたことだろう。
140 :
日本@名無史さん:03/09/17 18:35
義栄の病死ってのもなんか怪しい気がするんだけど・・・。
三好・松永がからむと。でも三好・松永が義栄を殺す理由
もないね。たった在位7ヶ月で京都にすら行けなかった
悲運の将軍、歴史から葬られた真実がありそう。
141 :
日本@名無史さん:03/09/17 18:51
\三人衆で〜ぇす!ちゅ!!/
*@@@ヽ γ@@@*ヘ @@@*ヽ、
(/ノノハ ゙ヽ "(/ノノハ ヾ、 (/ノノノハ ヾ
友(’。 ’通 政(‘∀‘ 康 長(^▽^ 逸
γヽ \ γヽ \、 γヽ \
ヽぅ=/⌒ヽ、 ヽぅ=/⌒ヽ、 ヽぅ=/⌒ヽ、
ん/) )〜 ん/) )〜 ん/) )〜
l__ノ_ノ |__ノ_ノ´ l__ノ_ノ
足利将軍は、宋の言いなりで一文銭を金や銀で分の悪い交換で吸い取られた
馬鹿ばっかりと思う。京の五山の名刹の座主はみんな宋の人で、足利幕府は
監視されていた。尊氏にしてもそうだけどみんな余り政治に関心が無かった。
143 :
日本@名無史さん:03/09/17 20:10
将軍が政治に関心が無かったおかげで、室町文化が栄えたし
日本人が最も日本人らしい時代だった戦国時代(司馬遼太郎)が
訪れた。監視だらけの江戸幕府の将軍達よりよっぽど魅力的です。
144 :
日本@名無史さん:03/09/17 21:08
五山のトップを座主とは呼びませんがね
開山は宋人でも後は将軍家や公家の子弟が就任していますがね
>>143 とはいうものの、だらしない為政者のせいで戦乱や飢饉にみまわれたくないなぁ。
146 :
日本@名無史さん:03/09/18 00:24
>>109 もう少しその人のこと詳しく教えてください。
確かに義輝享年は29だから遺児がいてもおかしくないはな
147 :
日本@名無史さん:03/09/18 01:47
>146
ググッて見れば?
足利道鑑とか尾池玄蕃とか尾池義辰とか西山とか。
148 :
日本@名無史さん:03/09/21 05:15
ところで
将軍じゃないけど
足利増詮
ってどういう人?
149 :
日本@名無史さん:03/09/21 07:19
増詮?満詮じゃなくて?
150 :
日本@名無史さん:03/09/21 11:46
>>133 三戦板の足利将軍スレも比較的まっとうだから、お断りがオチだろう。
151 :
日本@名無史さん:03/09/21 11:48
>149
そう増詮
152 :
日本@名無史さん:03/09/21 15:16
153 :
日本@名無史さん:03/09/21 22:42
154 :
日本@名無史さん:03/09/21 23:09
155 :
日本@名無史さん:03/09/21 23:52
増詮って坊主みたいな名前だな。
156 :
日本@名無史さん:03/09/22 02:09
よくしらないけど「ますあきら」とよむそうです。
157 :
日本@名無史さん:03/09/22 02:37
158 :
日本@名無史さん:03/09/22 03:43
>157
どうもありがとう。
「ぞうせん」となってるね。
でも父親の満詮が「みつあき」ってことは間違いだよね。
159 :
日本@名無史さん:03/09/22 11:35
足利茶々丸の諱って知ってます?
160 :
日本@名無史さん:03/09/22 12:50
元服してないんじゃない?
161 :
日本@名無史さん:03/09/22 13:00
「ぞうせん」が正しいんじゃないの?
162 :
日本@名無史さん:03/09/22 16:42
でも出家前だったら間違いじゃないの?
163 :
日本@名無史さん:03/09/23 09:05
>>160 伝わっていないだけかも?
スレ違いだが、伊達政宗(戦国)の弟の小次郎も諱は聞いたことがない。
164 :
日本@名無史さん:03/09/23 11:04
165 :
日本@名無史さん:03/09/23 15:22
166 :
日本@名無史さん:03/09/23 19:18
167 :
日本@名無史さん:03/09/24 01:45
>166
本当だよ。
小次郎政道であってた?
169 :
日本@名無史さん:03/09/24 17:59
>>164 ええやん。足利も清和天皇の子孫なんだから。
万世一系とはいえんがな・・・・
170 :
日本@名無史さん:03/09/24 18:37
後花園天皇には後小松天皇のご落胤伝説あり。
171 :
日本@名無史さん:03/09/24 20:48
172 :
日本@名無史さん:03/09/24 21:06
>>170 裏松(日野西)家の史料だったっけ?
でもあれも中途半端っつーか、足利義嗣の母親が日野業子になっていたり、
ずいぶんあいまい。
173 :
日本@名無史さん:03/09/24 23:21
足利満詮の業績って何かあるの?
174 :
日本@名無史さん:03/09/25 00:33
175 :
日本@名無史さん:03/09/25 00:35
>>162 足利満詮の息子に実相院門跡の増詮(ぞうせん)という人物がいる。
>>148が言っているのはこの人のことではないか?
176 :
日本@名無史さん:03/09/25 01:19
義満の子で実相院門跡は義運。
増詮は門跡になる前の名。
177 :
日本@名無史さん:03/09/25 13:42
肥前名護屋城址に観光に行ったとき、布陣の図に足利義昭の名があって、
可哀想だった。権威ある将軍が、完全に猿の家来になってしもうたようだ。
自決しろっつーの。
178 :
日本@名無史さん:03/09/25 14:32
>>177 恥も外聞もなく誰の力にでもすがって、生き延びようとするあたりが
義昭のしたたかなところじゃん。
サルといえども関白だからな。
180 :
日本@名無史さん:03/09/26 00:31
義昭は信長に追放された時点で従二位大納言の位階・官職を失ったのですか?
181 :
日本@名無史さん:03/09/26 13:14
>>180 失っていません。1588年に出家するまで、足利義昭は従二位権大納言でした。
ちなみにその間征夷大将軍の官職もそのまま保持していました。
182 :
日本@名無史さん:03/09/26 18:51
>>159 堀越公方足利政知の子ですね。継母と腹違いの
弟を殺して堀越公方家を継いだが、北条早雲に
攻め滅ぼされた人です。
183 :
日本@名無史さん:03/09/26 20:44
政知の子供
系図上は茶々丸、政氏、義澄。
説話上は茶々丸、義澄、潤童子(←茶々丸に殺された異母弟)。
どっちが本当か分からないけど、この政氏というのはいかにも怪しいな。
古河公方家の政氏と混同されている可能性もある。
184 :
日本@名無史さん:03/09/27 01:56
185 :
日本@名無史さん:03/09/27 21:35
義昭の子供って高山(義尊)と義在の二人ですか?
186 :
日本@名無史さん:03/09/27 23:04
義在は実在が疑わしい
187 :
日本@名無史さん:03/09/28 08:42
188 :
日本@名無史さん:03/09/28 10:24
↑この系図はすごいね。足利の系統が良く分かります。
阿波公方の現在の当主に「義」が使われてないのは何故なんだろう。
189 :
日本@名無史さん:03/09/28 10:35
190 :
日本@名無史さん:03/09/28 12:24
あっ!養子だったんですか。
ありがとうございました。長年の胸のつっかえがとれました。
191 :
日本@名無史さん:03/10/04 13:42
age
俺は足利一門て言うのは足利本家の下にいて結束するものだと思うんだよね
●
∧((∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ・∀・) 幕府開くよーー
(> )>\__________
| | |
(__)_)
____________________________________________________ \ ははーっ!! /
| \ /
| (´Д` )(゚Д゚ ,,)(´・ω・` )(´<_` )(゚ ∀ ゚ ) <`∀´ > (・∀・ };;)
| 細川 畠山 斯波 吉良 斯波 一色 仁木
|
|
|
でも最近じゃさ自分の利益のため将軍ほったらかしにしてるのが多いよね
● ●
∧((∧ ∧((∧ ∧_∧
( `∀´) (´∀` ) (´・ω・` )
( ) ( ・∀・) (・∀・ ) ( ) (つ旦と)
| | | ( ) ( ) || | と_)_)
(__)_) |--------| |--------| (__)_)
___________________________________________________
細川 義視 義尚 山名 義政
こんな風にさ こういうのってすごく興ざめ
193 :
日本@名無史さん:03/10/08 12:52
室町幕府の政庁跡って、京都の何処にあるですか。
鎌倉幕府は天然の要害、江戸幕府は日本最大の城郭、室町幕府は無防備?
>>193 同志社大学新町キャンパスの辺りと言われております
大変広大な物で「花の御所」と言われたそうですが
現在はもちろん遺跡は全く残っておらず
烏丸今出川を西にいったところに小さい石碑があるだけです
195 :
日本@名無史さん:03/10/08 17:39
>>63 '96年の大河ドラマでは、竹中直人(秀吉)と
玉置浩二(義昭)が蹴鞠なんかやってたしな。
信長の死後、文録の役の少し前(1587〜91年)あたりで。
ところで、8代・義政と9代・義尚の統治手腕はどちらが上だろう…?
義政は途中で興醒めというか放棄、義尚は病で義政・富子より
先に死亡→事実上挫折ってな形で判断が難しいけど。
たしか義尚は肺病を患ってたんだっけ?
196 :
日本@名無史さん:03/10/09 01:14
197 :
日本@名無史さん:03/10/18 00:06
●●●マスコミの 「盗聴/盗撮」 は許されるの?その7A●●●
http://natto.2ch.net/mass/kako/1004/10049/1004950940.html 38 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 01/11/09 19:17 ID:/Jozo2co
フジのスーパーニュースを見ていたら、盗聴、盗撮をしていた。
とにかくレポーターとか、テレビ局の人間と話しをする時は、
カメラやマイクで隠し撮りをしていることを、常に念頭に置くべし。
マスコミをとにかく用心するに超したことはない。
取材を受けて、物がなくなったというのもよく聞く。
39 名前: >38 投稿日: 01/11/09 21:33 ID:qM1FVdrM
蛆は自爆か(W
カミングアウトをするより、盗聴を止めろ
置かれた盗聴機はいつ撤去するんだよ?
そんなことを電波に流されたからって、不安で寝れやしない。
40 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 01/11/09 22:32 ID:GPVrbaOJ
マスコミ相手にしても仕方ないぜ。まじで自分らの生活を死守する方が大事。
テレビ・ラジオは出来る限り無視しよう。ついつい見聞きするから調子に乗らせる。
今後世の中どうなっていくかわからんのだから、必要な情報のみ入手して身の保全を
図れ。いい加減な娯楽メディアは放っておくべし。
199 :
日本@名無史さん:03/10/18 00:13
200 :
日本@名無史さん:03/10/18 11:24
200げと
で、お題でも一つ。
歴代足利将軍の中で最もイケメンは誰か?
201 :
日本@名無史さん:03/10/18 12:48
>>195 義尚だろう。六角遠征も幕権回復の一環だし、役立つかは別として元関白で当時の大学者・一条兼良から政治学を学んでたらしい。
その兼良の書いたテキストみたいな本が現存してるはず。
202 :
日本@名無史さん:03/10/18 13:05
>>200 イケメンはやっぱ義尚でしょ。
もっとも、若いころの顔が不明な将軍が多いので、厳密な比較は難しいが。
義尚は緑髪将軍と呼ばれてたらしいけど、これは髪を緑色に染めてたってこと?
203 :
日本@名無史さん:03/10/18 17:59
本物の尊氏像がわからない。
205 :
日本@名無史さん:03/11/03 17:34
206 :
日本@名無史さん :03/11/03 20:25
>>116 足利義昭末裔を名乗る
坂本家というのがある。
胡散臭いけど、栃木県足利市では
足利氏末裔と認められてるらしい。
207 :
日本@名無史さん:03/11/04 09:51
>>206 >栃木県足利市では
>足利氏末裔と認められてるらしい。
どういうこと?
自治体が末裔と認めるって?
市民がじゃねーの?
209 :
日本@名無史さん:03/11/04 19:34
210 :
日本@名無史さん:03/11/05 01:05
>>208 市民がって…
市民の総意?
んなわけあるか
>207
たぶん「足利市史」等自治体が発行する公共性の強いものに記載されている、てことだろ。
すなわち行政が認証しているという意味。
歴史オタが主張するものとはちょっと違う。何しろ市民の税金を使ってんだから。
212 :
日本@名無史さん:03/11/05 07:39
>>203 尾道だかどこか山陽の方にある伝・頼朝像が尊氏という説もある。
もっともその寺の寺伝では「尊氏像」となっていたが、歴史学者は例の肖像画を信じていたから「こんなの尊氏像じゃないと」そっくりだと言う理由で頼朝像と断定。
213 :
日本@名無史さん:03/11/05 07:53
>>212 頼朝は直義で、平重盛像が尊氏じゃなかったっけ?
214 :
日本@名無史さん:03/11/05 10:06
215 :
日本@名無史さん:03/11/05 10:07
>>194 同志社のキャンパスで室町御所跡の発掘調査やってたじゃん。
216 :
日本@名無史さん:03/11/05 10:24
>>207 ネタ?
でもマジそう。
だとしたらバカとしか言いようが無いよ。
>>215 やってたじゃん、と言われても、別に同志社の職員でも学生でもないし、
そもそも京都以外に在住してれば、わかるわけないじゃん。
218 :
日本@名無史さん:03/11/05 16:36
>>217 中世史の研究者なら(orじゃなくても関心がある人なら)知っているでしょ。
東京在住の俺でもやっているという事実だけは知っている。
220 :
日本@名無史さん:03/11/05 20:59
義満にモミアゲ生やすと義持。
221 :
日本@名無史さん:03/11/05 22:10
222 :
日本@名無史さん:03/11/06 01:52
義持のあのモミアゲの長さは尋常じゃないよな。
あれはファッションとしてわざと伸ばしてたのか?
223 :
日本@名無史さん:03/11/06 02:22
大嫌いだがクリソツな親父への、反抗心と区別化の現れ
224 :
日本@名無史さん:03/11/16 17:33
なんかこっちと三戦板スレの役割が逆になっているように見えるが。
225 :
気付き@幸せ掴む:03/11/16 18:37
自分の人格を高めて「徳」を積まないで、富である金品のみを積もうなどと考えてはなりません。
肝心な徳を失っていては砂上の楼閣となった現象の富は、私たちの生活に豊かさと安心と幸福を
保証するように見えながら、実は様々な心労をもたらすものです。例えば、それは権力を保証する
ように見えながら何時しか嫉妬や羨望と勢力争いとを生じることになります。それは幸福を保証
するように見えながら不幸を招来し、永遠を約束しながら僅かな間にして消え去るのであります。
人格や品性が低く大きな器を得るだけの相応な「徳」の乏しい者が必要以上な「富」を獲得すると
き、富は彼を富ましめるよりも彼を破壊する方向に働くことになるものです。
様々な災難から逃れ幸せを掴むには、何時、如何なる場合も人格や品性、徳の高さが要求される。
この件に関する出典の説明があるHP↓に注目。参考にしよう。危機が近し心して暮らそう。
ttp://www.d7.dion.ne.jp/~tohmatsu/
226 :
日本@名無史さん:03/11/19 21:31
餓鬼の頃見てた「一休さん」で、「義満の甥であるヨシカネ」
という少年が出てきたが、あれは何だったんだろうか?
義兼?義金?義包?甥というからには満詮の子?
>226
マンガのはなしだよ…
228 :
日本@名無史さん:03/11/24 20:47
嵯峨野にある宝筺院は、義詮公と楠木正行公が敵同士仲良く
並んで葬られていることで有名なところです。
これは義詮公が正行公の人柄に感動し、自分が死んだときは
正行公の墓の隣に葬ってほしいと依頼したとのことで、義詮
公の人柄が伺える、日本史ならではの美談だと思います。
229 :
日本@名無史さん :03/11/24 21:01
一休宗純は応永元年(1394)一月一日に京都の民家で生まれた。
父は北朝最後の天皇、後小松天皇。母は南朝方の貴族、花山院家の娘である。
一休が生まれる二年前、南北朝の動乱が終結し、両朝の合体が成立していた。
合体とはいっても、南朝の後亀山天皇が辞任し、北朝の後小松天皇がそのまま
天皇を続けることになったわけだから、事実上は南朝方の屈服である。
そのため、南朝に属していた貴族は追い落とされ、一休の母の実家も貧乏の
どん底に突き落とされた。
一休は実は俺の孫だ!
トンチでへこまされてるのも孫と遊んでやってるだけだ!
他の香具師が同じことをやったら打ち首だ!
231 :
日本@名無史さん:03/11/24 21:18
>229
北朝の天皇がなんで南朝方の姫との子を成すようなことになったの?
232 :
日本@名無史さん:03/11/24 21:30
そもそも一休宗純の父が後小松院だというの自体アヤシイだろ
233 :
日本@名無史さん:03/11/24 21:49
しかし坊主の世界で出世してるので高貴な出自であることは間違い無いな。
>>233 高貴な生れでなくても出世している坊主は、
大勢いると思うが
235 :
日本@名無史さん:03/11/24 22:11
禅僧で出世もへったくれもないだろう
236 :
日本@名無史さん:03/11/24 22:21
>>226 「群書類従 第二巻」に入っている何かの系図(源氏系)
だったかに、満詮の子として「■金」というのが出てきてた。
ひょっとしてこいつのことか?
まあ「一休さん」の制作者がそこまで見越していたなら
凄すぎる!ってことだけどね…… (;^_^A
237 :
日本@名無史さん:03/11/25 06:34
>234
あの時代なら法然くらいしか思いつかん。
法然は新しい教義説いて支持を集めたし。
法然にしても地方豪族の出身と出自ははっきりしてるし。
生臭坊主で何一つ成果をあげたわけでもない
一休がそれなりの出自でないわけないと思う。
238 :
日本@名無史さん:03/11/25 13:55
「一休さん」の義満は西国の大大名「大内殿」をえらく恐れていたな。
239 :
日本@名無史さん:03/11/25 13:57
>>237 一休が「出世している」というのは何を指していってるんだ?
240 :
日本@名無史さん:03/11/25 13:59
>>237 夢窓国師とか大燈国師とかだって、
別に高貴な生れではないんじゃないの?
よく知らないので間違っていたらスマソ
241 :
日本@名無史さん:03/11/25 14:38
坊さんスレになっちまったな。
少年マガジンの『ファッ休さん』って、一休さんがモデル?
すみません。等持院に義栄の木像がありませんでした。どういう顔だったのですか。
義数、量でしたっけ。それもありませんでした。
>243
足利市の鑁阿寺にはいたよ<義栄
等持院とちがって撮影禁止なので、顔は忘れた。
243さん。ありがとうございます。
ご記入いただいた足利市のお寺、何て読むのですか。
不勉強ですみません。
ご教示ください。
>245
243ではないが、「ばんなじ」と訓む。
247 :
日本@名無史さん:03/12/03 00:57
>>247 どこの教科書かぐらい書け。出版社が違えば中身も違う。
249 :
日本@名無史さん:03/12/03 15:09
よく「徳川将軍15代」みたいな本をみかけますが、「足利将軍15代」
みたいな本は無いものでしょうか。
当初は南北朝、後半は戦国時代、と将軍家の存在感の薄い時代ではあり
ますが、なにか適当な本がご存知の方、紹介してください。
>>249 ないよね。
ボクも探しているのだけど、全然ない。
251 :
日本@名無史さん:03/12/04 03:34
>>249 南北朝期の将軍家はべつに存在薄くないと思うが。
252 :
日本@名無史さん:03/12/04 18:55
>>232 一休の墓って宮内庁管理下だろう?
それなりの証拠がなければそんな事せんだろう。
誰かこのスレに参加してくれage
254 :
日本@名無史さん:03/12/15 23:46
現在の足利「将軍」は足利進悟氏の長男足利義弘氏。九州保健福祉大教授。
「前将軍」進悟氏は今年1月8日、京都市左京区で急性心不全のため亡くなられた。
納骨法要が1月30日、等持院本堂で営まれた。享年95歳。
京都新聞ニュースより
255 :
日本@名無史さん:03/12/16 13:44
>>254 その人たちの先祖は、江戸時代はどういう身分だったのですか。
256 :
日本@名無史さん:03/12/16 15:20
>255
勿論、武士でしょう。阿波から京都に戻ってきてからはどこの家中にも出仕しておらず
足利家ゆかりの寺院の世話になっていた事もあるようです。
紀州徳川家への出仕が決まった様ですが何らかの理由で叶わなかったらしく
そのせいか明治維新後、本来なら「士族」であるはずなのに「平民」にされました。
以上は雑誌で読んだ記憶を基にしました。記憶違いがあるかもしれません。
詳しい方おられましたら御教示願います。
257 :
日本@名無史さん:03/12/16 16:24
武士と言っても浪人に近い感じかな。
浪人と言っても将軍の末裔、そこら辺の浪人とは違う。
敬意は払われていたみたい。公家との婚姻関係も結んでいたみたい。
歴史雑誌で読んだ記憶がある。
258 :
日本@名無史さん:03/12/17 04:04
>>254 「進悟」という現代風な名前の次が「義弘」という先祖帰りしたような名前
なのがちょっと不思議。
259 :
日本@名無史さん:03/12/17 05:08
>>238 鎌倉公方にも相当気を使っていたし、島津にはビビりまくりだったように思う
260 :
日本@名無史さん:03/12/17 06:02
>>256 足利の親類で大名(細川とか)以外だと、
ふつーは旗本の「高家」になるんだが……。
吉良上野介なんか、そんな感じ。そのひとって、傍流じゃないの?
たぶん、足利義昭の子孫じゃないよなー。途中で枝分かれした一族だろう。
261 :
日本@名無史さん:03/12/17 07:41
喜連川の惇氏先生の弟さんの系統も残ってるよね。
>>260 高家に指定されたのは、当時現存した家だけじゃないかな?
例え正統でも没した家は論外でしょう。
唯一の例外が喜連川家で、秀吉が足利の血統を残すという理由で
認めた位かな。 ここは確か華族だよね?
263 :
日本@名無史さん:03/12/17 13:31
264 :
日本@名無史さん:03/12/17 15:42
>>260
14代将軍義栄の子孫です。
>>263
進悟氏は足利一族、分家からの養子入りですか?
それとも血縁的には関係ない婿養子でしょうか?
将軍様の血はちゃんと繋がっているのかな?
他人の私が気にしても仕方ないんだが・・・。
265 :
日本@名無史さん:03/12/20 14:30
266 :
日本@名無史さん:03/12/20 15:13
義持は足のおできがもとで死んだんだって。
>>266 尊氏は背中の腫物が原因で死んだらしい。
義昭も背中に腫れ物ができたんだよね?
269 :
日本@名無史さん:03/12/21 10:41
義昭は自刀すればよかったのになあ。武士の誇りとか意地とかないんだよね。
将軍になる前は坊さんだったから仕方ないか。
270 :
日本@名無史さん:03/12/21 12:18
>>269 武門の頭領としての誇りと意地があったからこそ
ずっと信長と対立し、幕府の再興を目指した。
信長死後、秀吉が義昭に「養子にして下さい」といってきたが
それも足利の血が汚れるという事で使者を追い返した。
義昭の生涯、私はなかなか格好いいと思うけど。
>270
一度仏門に入れられてるから 余計意地になったのかも。
あの信長と対立しつつ 全うしたのは賞賛できますね。
272 :
TOSSHI:03/12/21 23:13
義昭は結構運がいいですよね。兄(だったか?)の義輝に比べては。義輝は松永久秀に殺されてますから。
そういえば、義輝ってかなりの剣の使い手だったんですよね。剣聖と呼ばれる上泉なんとかの直伝だったそうです。
桑田忠親編著「足利将軍列伝」
歴代将軍さんたちの流浪と苦労が泣かせる一冊です。
古書店か図書館でどうぞ。
ところで、ここってアゲてはいけないスレなんですか?
宮脇俊三氏「室町戦国史紀行」
歴代将軍や鎌倉公方等の足跡がよく分かりますw
なお 歴史書ではないので ご注意を
>273
アゲると色々寄ってきますので出来たらsageで
276 :
日本@名無史さん:03/12/30 22:05
>270
しかし政治家としては器量に欠けていた。
277 :
日本@名無史さん:03/12/30 22:45
>>270 >信長死後、秀吉が義昭に「養子にして下さい」といってきたが
>それも足利の血が汚れるという事で使者を追い返した。
これは根拠のない嘘話。
>277
あ、それよくきく話なんだけどさ、何を典拠にしてんのかな?
ちょっと調べた程度じゃわからなかったんで、差し支えなければ教えてくれない?
279 :
日本@名無史さん:03/12/31 01:29
280 :
日本@名無史さん:03/12/31 03:47
>>276 そうか?
義昭の政治手腕は、なかなかのものだと思うけど。
281 :
日本@名無史さん:03/12/31 03:50
282 :
日本@名無史さん:03/12/31 12:35
>>278 義昭に養子を断られた話は林羅山の「豊臣秀吉譜」が初出だと聞いたことがあるが・・・
>282
サンクス。
林羅山が書いたってことは創作くさいな。
あぼーん
尊氏"やい、おまいら!!幕府ができますた。室町に集合しる!
後村上"詳細キボンヌ
義満"1392は南北朝合一ですが、何か?
後小松"南北朝合一キターーーーーーーーー
後亀山"キターーーーーーーーーー
後醍醐"南北朝合一程度で騒ぐ厨は逝ってヨシ
尊氏"オマエモナー
義持"--------勘合貿易終了-------
義教"--------勘合貿易再開-------
富子"再開すなDQNが!それより息子うぷキボンヌ
赤松"嘉吉の乱うp
義教"↑誤爆?
義昭"将軍age
義政"ほらよ息子うぷ>富子
↑の弟"息子?降臨!!
義昭"将軍age
義輝"15第将軍ageんな!sageろ
義昭"将軍age
義輝"将軍age厨uzeeeeeeeeeeee!!
朝倉"ageっていれればあがると思ってる香具師はDQN!
細川&三好&松永"弱い将軍がいるのはこの幕府ですか?
義晴"氏ね
義栄"むしろ生きさせて
義昭"将軍age
義輝"義昭必死だな(w
出典
http://academy.2ch.net/history/kako/1014/10144/1014489813.html
286 :
日本@名無史さん:04/01/08 15:17
本日1月8日は足利家前当主足利進悟氏1回忌です。
287 :
日本@名無史さん:04/01/08 23:05
「一周忌」だろ。「一回忌」は死んだ当日だ。
288 :
日本@名無史さん:04/01/15 23:02
義満惜しい
289 :
日本@名無史さん:04/01/15 23:37
足利系図でよく目にするんだけど、義澄の子・義晴、義維の下に「義賢」という人物が載っていて、
何の事績も記されていないんだけど、この人って実在したんでしょうか?
一説で義維と義賢は同一人物、という話を何かで読んだ記憶があるんだけど…。
290 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:54
結局のところ、戦国期の室町将軍がそれなりに「腐っても鯛」みたいな感じで重宝がられたのは
なぜでしょうか?将軍の命令だって無視しようと思えば無視できたはず。
291 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:56
15代も続いたのは不思議だな
292 :
日本@名無史さん:04/01/22 10:18
293 :
日本@名無史さん:04/01/22 16:06
294 :
日本@名無史さん:04/01/22 16:11
傀儡にして利用する価値はあったのでしょう。
天皇から任命された征夷大将軍なんだから。
自分が取って代わろうとした人物が信長までいなかったから、ズルズル
と15代もいけた。
295 :
日本@名無史さん:04/01/22 23:17
>>296 三好にとって邪魔だったのはあくまで義輝。
直後に義栄将軍に就けてる(それが火種に松永×三人衆で内乱勃発)んだから
足利将軍そのものが邪魔だったってことは有り得ないだろ。
多分。
297 :
日本@名無史さん:04/01/23 11:06
足利幕府は国連みたいなもんと考えてもいいでしょうか?
武力はないけど権威はある。
ってな感じで・・?
298 :
日本@名無史さん:04/01/23 11:13
それより天皇家が125代も続いたことのほうが不思議じゃない?
>>297 国際連盟の方か?
いや、連合も形骸化してるけど。最初ッからアレな分、連盟の方が近いかなと。
300 :
日本@名無史さん:04/01/24 00:20
1.高氏→尊氏
2.義詮
3.義茂→義満
4.義持
5.義量
6.義宣→義教
7.義勝
8.義成→義政
9.義尚→義煕
10.義材→義尹→義稙
11.義遐→義高→義澄
12.義晴
13.義藤→義輝
14.義親→義栄
15.義秋→義昭
こうしてみると改名してないのはちょうど1/3しかいないんだな。
>>300 義宣は「世をしのぶ」に通じて語感が悪い、が改名の理由だったよね?
他は何か理由があったんだろうか?
302 :
日本@名無史さん:04/01/24 14:06
>>301 義政は初名の義成の「成」の字に「戈」(ほこ)が入っていて、
武張った世相になるのを嫌って「政」の字に改めた。
尊氏は後醍醐帝の名を貰った。
その前の高氏は北条得宗家の高時から…って、
これ知らない香具師はここに居ないよな?
他は知らない。
義昭は「秋」の枯れていくカンジを嫌った、と何かで読んだ気がするのだが、
定かでは無い。だったら最初からそうしてくれと言いたい。
305 :
日本@名無史さん:04/01/24 15:50
義満は最初から義満じゃなかったっけ?
306 :
日本@名無史さん:04/01/24 23:50
天下人として経済的にも武力的にも他を圧倒してたのは義満だけ。
307 :
日本@名無史さん:04/01/24 23:59
>>306 日本史板はテメエの妄想や願望を垂れ流す場所じゃねえ。
自信たっぷりに妄想ぶっこいてんじゃねえよ、このキモヲタが。
テメエだろ、何度もこのクソスレ立ててるバカは。
>>305 ほんとだ!
300は嘘ついたのか…
それとも釣りか…
309 :
日本@名無史さん:04/01/25 08:49
>>308 群書類従の系図部のどれだったかに、「義満 初名 義茂」の記述が確かあったような。
義尚だけ初名の方が通りがいいのは何でだろう
>>309 系図だけを信じるなら「義晴」の初名も「義春」にしなきゃw
義春厨でるかな?
>>310 応仁の乱の勃発時「義尚」だったから。
それで、「コイツが生まれよってん応仁の乱が始まったんでっせ〜」
とみんな義務教育の場で擦りこまれたから。
313 :
日本@名無史さん:04/01/29 23:01
>>309 ああ、俺も昔読んだ何かの本(義満伝記)の中に
「初名を義茂といったという説もあるが定かではない」
とか書いてあったのを憶えているよ。
それのソースがその系図なのか否かは不明。
314 :
日本@名無史さん:04/01/30 01:09
義昭も信長に対して討伐令を出していたみたいだが、あんな金無しヘッポコ将軍の命令なんて聞い奴がいたんだしな。
あんな将軍でもそれなりに恐かったのかね。
氏康もわざわざ義氏を古河公方にしているし。
315 :
日本@名無史さん:04/01/30 01:10
義勝は疫痢で死んだ
316 :
日本@名無史さん:04/02/01 09:18
>>314 いや…怖いからいうことを聞いていたわけではないだろう。
各大名ともそれなりの政治的思惑があって義昭に呼応していたわけで。
>>315 昔の大河「花の乱」では何かの事故で死んだことにされていたっけw
317 :
日本@名無史さん:04/02/02 02:09
鶴王って崇光院の妃なの、それとも後光厳天皇の女御になり損ねたの?
どっち?
318 :
日本@名無史さん:04/02/02 02:59
>>202 「紅顔緑髪」っていう言い方があるよね。緑髪はくろぐろとした髪だろう。
要するに義煕はイケメン将軍だったのでは?
319 :
日本@名無史さん:04/02/02 03:14
9 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:03/06/13 00:29
46人?
鎌倉が9人、室町が15人、江戸が15人。
あと7人は誰だ?
24 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:03/06/13 17:27
>>9 >あと7人は誰だ?
大伴弟麻呂
坂上田村麻呂
文室綿麻呂
木曽義仲
護良親王
成良親王
羽賀研二
25 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:03/06/13 17:54
>>24 こらこら、どさくさにまぎれて誠意大将軍を挙げるでない(w
320 :
日本@名無史さん:04/02/11 08:06
age
321 :
日本@名無史さん:04/02/13 21:15
足利義教は日本史史上最大の天才!(明石散人『二人の天魔王』より)
322 :
日本@名無史さん:04/02/14 05:27
娘婿って聞かないし、義昭やらの一族に娘がおれば秀吉の妾に一人ぐらいなりそうだけど
娘ってみんな尼?
323 :
哲婦城を傾く:04/02/14 20:51
将軍家の娘は皆尼だって聞いたような気がする、尊氏の娘・鶴王(頼子)以外は。
小弓御所の嶋姫は秀吉の妾モドキだよな。
324 :
日本@名無史さん:04/02/14 21:11
古河公方の氏姫もな
325 :
日本@名無史さん:04/02/14 23:19
えっ、氏姫も秀吉にテゴメられてたんか???!
326 :
日本@名無史さん:
あげ