501 :
日本@名無史さん:
一言↓
502 :
日本@名無史さん:03/10/08 12:16
承子タン ハァハァ・・・
503 :
日本@名無史さん:03/10/08 17:51
しょうがねえな漏れが真実教えてやるからちょっと耳貸せ
ツグコは自分の糞便を女官になすりつけたそうだ。
505 :
日本@名無史さん:03/10/09 13:09
仏陀の言行を忠実に祖述するという姿勢で編集された初期経典に阿含経がある。
その中の『長阿含経』は四一〇年頃、竺仏念と仏陀耶舎によって漢訳されているが、
パーリ語経典にも現存している。これら阿含経典群の成立には諸説あるが、
紀元前一世紀にはほぼ現在の形に編集され、文字に記録されたようである。
いずれにしても、仏典の中では古い部類に属するものだ。
この『長阿含経』の中に、昔は人の寿命は八万歳だったが
今では百歳以下になったという仏陀の言葉が記されている。
506 :
日本@名無史さん:03/10/09 20:22
日本列島の中で、常に先進の文物が入ってくるのは
中国大陸に最も近い九州なんだから、
普通に考えて、九州が畿内を征服したのでしょう。
畿内が九州を制圧したのは、
大和に中央集権国家が既に確立して以降のことである。
507 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/10/09 23:04
>>506 >畿内が九州を制圧したのは、大和に中央集権国家が既に確立して以降のことである。
それは、8世紀の末待たなければならなかった。
そして、中国色のない純日本文化が始まる時代に入る。
その時代を平安時代と云う。
以上でいいですか?
508 :
日本@名無史さん:03/10/09 23:11
越や出雲にも来たろうね。
畿内はちょい考えにくいけど、越から南下すれば来れなくもないよ。
509 :
日本@名無史さん:03/10/10 19:32
腐っても日本史ヲタが鈎説を誰も知らんとは情けない限り
510 :
日本@名無史さん:03/10/10 22:07
あった。
511 :
日本@名無史さん:03/10/11 19:49
邪馬台国は福岡県山門郡にあった。しかし熊本宮崎を版図とする
狗奴国(熊襲)(菊池彦)に滅ぼされた。昔から北九州は南九州に戦争で
負ける。南方ポリネシア民族を祖とする縄文人系の狗奴国は瀬戸内海を渡り
近畿に上陸。一度は土着民族に敗退するものの紀州勢力の支援を受け
大和地方を征服する。黒潮にのるとインドネシアポリネシアから
沖縄、南九州、高知、和歌山を通る。おそらく南九州人と同種民族が和歌山に
いたのであろう。大和朝廷は満州に祖を持つツングース系民族の吉備族
と紛争を起こしつつも取り込み日本を統一する。
512 :
日本@名無史さん:03/10/11 21:20
>>511 8割がた賛成。
「山門」はまたぞろ語呂合わせでしょう。
魏志にはヤマトなんて出てこないのだから、
ヤマト地名に翻弄される必要はまったくない。
後世、畿内政権がヤマトに都を置いただけにすぎない。
「東京都」や「千代田区」地名を全国から探し出すのと同じぐらい
意味がない。
513 :
日本@名無史さん:03/10/11 21:42
>>512 いや別に山門でも宇佐でもどこでもかまわない。北部九州か中部九州
のどこか。
514 :
日本@名無史さん:03/10/12 09:08
九州王朝は既成事実となって邪馬台国論争へ幅を広げるか
516 :
日本@名無史さん:03/10/12 20:03
「秋津島大和の国」の「大和」は、近畿の王朝が日本を統一したときに取って付けたもので、
もともと「秋津」は別府湾だったのですよ
お病気のひとが集まる巣れはココでつか?
>>517 じゃあ、君も病気だね。
あ、おれもか。
519 :
日本@名無史さん:03/10/13 13:16
520 :
日本@名無史さん:03/10/13 17:44
吸収邑生町
精神病患者には周囲の人が精神病に見える。
とんぼのとぶ国。とんぼ→やんま→にゃんまたい国。
523 :
日本@名無史さん:03/10/14 05:36
白村江の戦いに敗れなかったら今と歴史が変わってた?
524 :
日本@名無史さん:03/10/14 06:19
日本列島と半島の旧百済地域を又にかけた国が誕生していたとか?
525 :
日本@名無史さん:03/10/14 08:57
>>522 素晴らしいっ! 感動したっ!
なるほどぉ そうだったのか。
526 :
日本@名無史さん:03/10/16 18:01
あったよ
保守
もう否定できないでしょ、九州王朝の存在
もう否定できないでしょ、邪馬台国=九州王朝
×邪馬台国
○邪馬「台」国
531 :
日本@名無史さん:03/10/25 22:14
Yes, sure.
捕手
533 :
日本@名無史さん:03/10/30 20:59
太宰府こそが日本の都だったわけで・・・
大宰府は唐寇に備えて造られた、急造の都。博多からの移転。
×大
○太
536 :
急造の都ですか、なるほど。:03/11/02 18:42
>>535 当初
○大宰府
×太宰府
後世
×大宰府
○太宰府
近畿王朝により大宰府が太宰府と変更される。
当方不勉強故、537の内容もう少し詳述可能なら、おねがいすまそ。
540 :
別人ですが・・・:03/11/04 01:18
542 :
ああ太宰府!:03/11/04 01:59
>>538 大宰府と太宰府
>>540の説明の通りです。
それに付け加えるべきことがあります。
大宰府=大きい宰府(九州王朝の発明した日本語)大きい政庁=首都:一国に一箇所
太宰府=太宰の府(シナ語)太宰のいる所:太宰の人数の数だけある。
無学まるだし
>>544 あなたは「橿原一派」さんですか?
久しぶりにお目にかかります。
>541>544 (・∀・)カエレ!!
547 :
日本@名無史さん:03/11/08 06:14
九州年号(倭国年号)は何年続いたものなんですか?
548 :
日本@名無史さん:03/11/08 16:53
549 :
その辺の経緯:03/11/12 00:19
倭の国は
3世紀までは武力的なイメージがなく、鏡や印の国という感じがする。
4世紀から××将軍倭国王なんて対近隣覇権好きになっている。
その間の周辺諸国の変化は
後漢の衰退→朝鮮半島やその周辺の国が独立→倭は半島側の覇権に力
→中国に将軍号を再三懇願→西晋・東晋・宋・斉・梁と転変した中国は無力化する
→天子様の威光なく独自の元号制定=九州年号
550 :
日本@名無史さん:03/11/13 18:41
質問ですが、
三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった魏の鏡ではなく、呉の渡来工人が日本で作った鏡である。
ここまでは、いいです。
人生は短い。
認識がここまで来ていない人をいつまでも相手にしていてもしょうがないので、これを大前提とします。
で、
それでは、この鏡を渡来工人に作らせた注文主とその時期と意図となると各論者で異なってくると思いますが、
大好きさん、及びこのスレにいる他の方の見解はいかに。
ひさしぶりに、こんばんは。
>>551 @注文主:神武以来の近畿王朝。三種の神器を持つ元北九州系の人達。
A時期:5世紀から6世紀初頭。4世紀末に神武集団が近畿に移住し。
その集団の後継者が近畿の中枢部を抑えた頃。
B意図:注文主の文化を広め支配する為。祭器が権力を示す道具となった。
C工人:銅鐸文化集団の伝統を持つ工人が制作。模倣制作。鋳造技術は高い。
取り合えず、結論のみ。
ご回答ありがとうございます。
三角縁神獣鏡を評価する上でひとつのポイントとなる
出土状況から、他の鏡との比較において必ずしも最上級の扱いをされてないばかりか、一段低いあつかいのように見える
これをどのようにお考えでしょうか?
重レスですみませんが、
私自身は、各論者でいろいろな違いがあり、どれとも決めかねている
といったところでしょうか。
ですから、あなたはどうですか、という切り返しはご勘弁を。
再重レス。今気付いたのですが、
552の 九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y
いつもの 九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY
改名したのですか?
>>551 ぼくは、三角縁神獣鏡にそれほどの関心がないので、十分な検討はできておりませんが、
基本的な見方は以下の通りです。
@三角縁神獣鏡は現代の勲章のようなもの。
A中央権力者が地方豪族の首長個人に与えた、功労に対する褒賞。
首長生存中は周辺の者に見せびらかしたのではないかと。
Bこの様な褒賞制度期間は10〜20年程度。
C首長個人の死亡と共に埋葬すれば、埋葬期間は20〜50年程度。
D以上により、祭器の鏡に比べれば取り扱い方は下位になる。
E文字もまともな漢文ではないので、幼稚な模造品と見ます。
Fしかし、鋳造技術は優れている。銅鐸以来の鋳造技術の応用。
着目点:糠によるガス抜き鋳造技術は高度な技法。
「アラ」と読ませている「ヌカ」の人名が多い。工人の人名か?
十分な検討が出来ていない、それほど関心がない、
と言いながらこれだけのレスできるところを見ると、
あなたは、やはり本物の九州王朝大好きさんですね。
558 :
日本@名無史さん:03/11/20 22:42
「三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった魏の鏡ではなかろうか」と大袈裟に言うヤツがいるから
たまたま話題になるというだけのことで、もともと大した意味はないものなんだろうよ。
ただ大量に出土することは事実だから、何某かの解釈は必要だわな。
九州王朝大好きさんの姿勢で必要充分だろうよ。さすがですな。
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY
>>555 >>551 11月5日〜11月19日の間に僕のトリップが変わってしまいました。
原因は解かりません。
他板の僕の別のトリップも◆I.THkUKc4Y に変っていました。
2チャンネルの設定が変わったのか?
プロバイダーの設定が変わったのか?
現在原因追求中。
571 :
日本@名無史さん:03/11/21 00:42
私は気にしていませんよ
◆q0FP2AXqkY でも
◆I.THkUKc4Y でも
ご本人ならどちらでも
トリップテスト
大好きさん、別に偽者だと疑ってるわけじゃないから、気にせずに。
レスの特長見れば本物だとわかりますよ。
それにしても、すごいことになってますね。
>>570 鯖の設定が変わって、全鯖共通になった。それだけ。
つまらんことで無駄レスしないようにw
どなたか存じませんが、ご親切にありがとうございます。
文系の板・スレですのでごかんべんを!
大好きさんは最近出てきたり出てこなかったりですので、代わりにお返事いたしました。
576 :
日本@名無史さん:03/11/22 03:14
すでに白村江の役に敗れ、唐の将軍や軍団が大宰府に進駐してきてんのに、
その頃になって、九州各地に水城やら何やらの要塞をセッセと構築し、防人や
烽火台を構築しているている近畿天皇家って、アホやね・・・
577 :
日本@名無史さん:03/11/22 10:26
>>576 古田氏がそのような主張をした1979年ごろから、鬼ノ城(岡山県)、永納
山(愛媛県)、大廻・小廻(岡山県)、城山(香川県)、城山城(兵庫県)
といった九州・山口県以外の神籠石式山城が相次いで発見され、神籠石が太
宰府を取り巻く形で分布しているという、古田氏が立論の基礎とした当時の
「常識」自体が崩れてしまった。
太宰府の年代観に関しても、古田氏は如何にも古いように言われているの
だが、太宰府では第U期(8世紀前葉)以前の第T期遺構が検出されている
にせよ、特に古い土器などが発見されているわけではなく、氏の主張に根拠
があるわけではない。
578 :
日本@名無史さん:03/11/22 10:39
さらに、水城や神籠石の造営が7世紀を遡らないことを推定せしむる考古
学的事実が判明している。
まず、岡山県の鬼ノ城と大廻小廻が、出土する須恵器から、7世紀の第四
四半期を中心とする時期のものであることが分かっていると云う。
一方、神籠石式および他の山城の構築順序は、城郭の構造と構築法・水門
構造・石塁の技術などから、大廻小廻・永納山→鬼ノ城・城山→石城山・雷
山・御所ヶ谷→高良山・女山・杷木・帯隅山→鹿毛馬・おつぼ山→大野城・
基肄城→金田城の順だったと、おおむね考えられるそうである。
そうだとすれば、神籠石は7世紀第4四半期以降に造られたことになり、
当然ながら、九州王朝の物証などではなくなる。
579 :
日本@名無史さん:03/11/22 22:15
神籠石も含めて、1979年ごろの古田氏は、663年〜701年の極東情勢を見極め切れていないと思う。今はどうか知らないが。
577から579は同じ人?でいいんですよ、ね。
あなたのいう
663年〜701年の極東情勢
を簡単に書いていただけるとありがたいですが‥。
********************* 2003年1月25日「国際教育シンポジウム」より ***************
「神籠石」というのは古代的な山城で、軍事要塞です。これだけありますから「要塞群」です。
時代は白村江の戦闘の前、七世紀以前です。五世紀前後にいた「倭の五王」讃・珍・済・興・武。
この時の戦闘相手は高句麗・新羅で高句麗が主、味方は倭・百済で倭が主であった。これは
鴨緑江北岸にある有名な高句麗好太王碑の四面に刻まれた碑文の述べる所です。
この好太王碑のすぐ北側に丸都山城―軍事要塞が築かれている。高句麗がこれをバックにして
軍事行動をやっていた。それ一つではなく、周辺に幾つものそれを取巻く軍事要塞があったのは
当然です。
去年、滋賀県立大学で、古代武器研究会というのが作られて、その会合があり、
韓国の考古学者が複数招かれ発表をした。五世紀ごろ百済及び新羅には、いずれも
深い堀や石を積んだ軍事要塞が築かれた遺跡が次々と見つかっているという。
それに対し日本の学者からは、「近畿では五世紀ごろにそのような軍事要塞を
作った痕跡は全くない」、学芸員の方も来ておられたが、口々にそういう話だった。
東海でも関東でも同じ。そこで自由討論のような形で、司会者がその前の討論を総括して
「朝鮮半島側では五世紀ごろ大変に軍事要塞が作られていた。それに対し日本側では
軍事要塞が全くなかった。このコントラストが今回の結論ですね」と申しました。
(581より続き)
そこで私は手を上げ、(丁度その日、わたしがポスターセッションという、展示のようなことを
休憩時間に見てもらうように沢山出していたが、「古田史学の会」のメンバーが手伝ってくれて、
この神籠石の分布図などを「ご自由にお持ちください」
という形で提供していた)「今日ご覧いただいたように、神籠石という軍事要塞が九州に
たくさん発見されています。この軍事要塞を前提にすれば、朝鮮半島側と全く対応している。
何もおかしくない。朝鮮半島側以上に強固に万一に備えたことが分かる。
これを入れてお考えいただければいいと思います」と申しました。司会者はちょっと慌てられて、
「また後で」みたいな形でその場は終わったんですが、皆さんお判りのように、
「倭の五王は大和なんかじゃない」ということです。この軍事要塞に囲まれたなかは、
太宰府・筑後川流域です。それが倭の五王の中心です。そう考えれば何も不思議はない。
皆さんが教科書で習ったような、「大和が全ての中心だ」という話では全然説明ができないんです。
********************* 2003年1月25日「国際教育シンポジウム」より ***************
583 :
日本@名無史さん:03/11/23 09:47
> 近畿では五世紀ごろにそのような軍事要塞を作った痕跡は全くない
戦場は朝鮮半島であって、日本列島内ではなかったんだから、そのような差異は当然のことと思われ。
古田さん国際シンポで恥かいたの?
>580さんへ
579は別人です
1991年の邪馬台国徹底論争シンポジウムで木佐さんという人が
魏志倭人伝中の白村江以後の外国人の来日・滞在記録を述べたとき
古田氏は自説を補強する有力な証拠がそんなところにあったことに驚いていた
しかし大喜びで行った木佐発言への回答は当時の国際情勢が全然読めていないもので
近畿・九州・高句麗・新羅・百済・唐の高宗と則天武后の力関係やよじれ関係という視点が
まったく見られなかった。「とにかく唐側の軍人が来たんですね〜」というだけだった。
>582−583
なるほどなるほど
>584さん
古田氏は国際シンポにあまり呼ばれていないはず
自ら呼びかけて交流しているのがメインではないか?
だから恥をかくチャンスが無い
ご本人は恥をかくのを恐れないような人だからどうでも良いけれど
よくシンポジウムで司会者が会場から質問を募ると
なんかよくわからないおじいさんがテーマと関係ない演説を滔滔と始めちゃうことあるよね。
司会者に「あのー、手短にお願いします」とか言われたりして。
ああいうのって痛ましい。
587 :
日本@名無史さん:03/11/24 02:11
上のいくつかのレスに反論しようと思ったけど誰かがポイントついてたのでやめます。
>583 :日本@名無史さん :03/11/23 09:47
>戦場は朝鮮半島であって、日本列島内ではなかったんだから、そのような差異は当然のことと思われ。
現代の日韓の国境線をそのまま古代に適応する癖のある韓国の歴史家といくら議論しても無駄です。
朝鮮半島南端部から何が出てきても、韓国(!)が元祖だった証拠だ!って言うんだから。
高句麗と倭との激突した時代に話を限定すれば、
新羅や百済への影響力をめぐって高句麗と倭が争ったんだから、基本的に舞台は半島内での話。半島内の城を強化するならともかく、海を隔てた列島側を強化する必要なし。
神籠石は対統一新羅のために作られたんでしょう。
当時極東の国は倭と新羅だけ。
しかもその倭は、唐の傀儡政権。
つまり唐VS新羅が先鋭化していた。
新羅はまさか唐の都を攻めたりしない。
攻めるべきは日本列島の百済遺臣と敗北後の傀儡倭政権のみ。
唐としても短期決戦を命ぜられていた極東戦争に失敗し、
日本列島のみが唐側に残ったので死守しなければならない。
っつーか、ならヤマト周辺に要塞が築かれていたはずでは??
あと、万葉集で「朝廷」「朝庭」といわれているのは筑紫のことだけでは?
朝廷と大宰府が一緒にある場所・・・ですね
590 :
日本@名無史さん:03/11/25 08:21
>っつーか、ならヤマト周辺に要塞が築かれていたはずでは??
というか、実際、九州から中国地方にかけて、大和「まで」の要所に築かれてい
るわけですよね。九州を守るんなら、逆に九州以東の要塞は必要ないのでは?
>あと、万葉集で「朝廷」「朝庭」といわれているのは筑紫のことだけでは?
正しくは、筑紫の例が6例、越の例が2例ですね。
その越の例ですが、これは、継体天皇の出身地なので、継体が越にいたときから
天皇ではなかったにもかかわらず、家持が無理な解釈をして、越に「遠の朝廷」が
あった、と主張されたわけですね。
しかし、筑紫の例はそこに「天皇がいた」証拠だ、としておきながら、越はそう
ではない、というのでは二枚舌の論法ですね。(九州王朝説に合わせた解釈に過ぎ
ない、ということ)。
むしろ、筑紫や越の「朝廷」は、古事記、日本書紀にあるように、仲哀の頃の古
代天皇の朝廷が各地を移動し、その主要なものとして、筑紫の香椎の宮や越の敦賀
の気比の宮のことが書かれており、これらを表わしている、という説の方が妥当だ
と思います。
591 :
日本@名無史さん:03/11/25 14:57
>589
畿内政権は狭域政権であり、日本海の制海権があったとは思えない
九州=唐傀儡政権が要塞群を作ったのではないだろうか?
かつて朝鮮半島が一国に支配されたことは無かった
新羅に極東の一国支配を許してしまったつけは大きい
多くの倭人・百済人・高句麗人日本列島に逃れ、大変な騒ぎだが
半島の東南側から起こった新羅が、日本海沿岸を侵さない保障はない
多くの船を失った九州政権は唐の監視下で海岸の守りを固めたのだろう
数日前からROMしてるが
579、588、590(?、この人は文体が違うから別人だよね)、591
この人の歴史観、いまだによくつかめん。
>576-577にあるように
水城や神籠石は近畿王朝ではなく
九州王朝がつくったのではないか、と思うのです。
=578=583=590
です。「九州王朝説は文献上も考古学上も根拠がない。どころか矛盾する史料事実
がある」史観です。
>578
「そうだとすれば、神籠石は7世紀第4四半期以降に造られたことになり、
当然ながら、九州王朝の物証などではなくなる。」
↓
近畿王朝と仲の良かった新羅に対し、要塞を作る理由がありません
7世紀の軍事要塞(水城・神籠石等)について
これらの要塞は九州王朝によって作られたものです。
建造時期と増設修理時期によってこれらの軍事要塞の目的は異なる。
第一期:対隋(タリシホコ〜618年)建造開始場所は有明海沿岸部及び対馬・北九州沿岸部
第二期:対唐(618〜664)要塞建造は内陸部にも移行と都の避難移転(大宰府)
第三期:対唐・対新羅(665〜671)対唐戦の準備と唐に降伏。
第四期:対新羅・対天武朝(672〜698)北に対して新羅、東に対して近畿王朝。
以上により、要塞の建造は、
九州王朝の存亡の危機である時期の7世紀第4四半世紀に集中します。
699年には九州王朝の対天武朝に対する組織的抵抗がなくなります。
8世紀になると九州を中心とする要塞の建造の必要性がなくなります。
トリップ変更
>>590 越に朝廷?
美可度とはなってるけど、朝廷とはなっとらんぞ?
やっぱり筑紫は特別のようだが?
あら、大好きさんが、久しぶりに出てきてる
結局トリはどれになったんですか?
>596
大好きさん、納得です。ありがとうございます。