101 :
闇の古代史さん:
『九州独特の古墳』といわれる装飾古墳は、九州の中でも特に火の国・熊本を
中心として全国へ広がっている。出雲・関東・東北方面に多い。しかし、なぜか
近畿には分布していないのである。また、古代九州王朝の舞とか、海人族の舞と
も言われる伝説の筑紫舞も火の国・熊本が関係しているようだ。伝説の筑紫舞は、
播磨国(神戸)に受け継がれていたのだが、筑紫の翁が中心になって左右に肥後(熊本)
の翁と出雲の翁が控えていて舞うものや、肥後(熊本)の翁が中心となって筑紫の翁と
出雲の翁が両翼になって舞うものなどもあるそうです。
九州王朝を研究すれば、さらに出雲王朝にまで繋がっていくのでしょうね。
102 :
闇の古代史さん:03/06/27 18:24
九州王朝を考える時に、ある一族が連想される。多氏一族。意富臣(多氏・太氏・太安万侶)
小子部連 坂合部の連 火の君 大分君 阿蘇君 筑紫の三家連 雀部臣 雀部造 小長谷造
つげのあたい 伊予国造 科野国造 陸奥の石城国造 常道(常陸)国造 長狭国造
船木直(伊勢国造) 丹波(尾張)国造 島田臣 これら19族がおそらく九州王朝に関与しているのだろうと思う。
九州王朝の勢力範囲は、全盛期には東北まであったように思う。九州王朝はまだまだ謎が多い。
九州王朝の研究は、まだまだこれからなのである。
103 :
日本@名無史さん:03/06/28 12:38
西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に「都」という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京「都」、東京「都」。宇「都」宮のような音借とは違う。西都の「西」、方位のことではなく、西洲(九州)という固有名の
地の都という意味(原文に沿わせるとこうなる。)
2、西都のオサホ・メサホ塚は宮内庁の管理化であるため発掘ができない。.
9割5分以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
3、現在、長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都である邪馬台国の所在が何故特定できないのか?政治的意図
(天皇制)による組織的な隠蔽工作が行われたと思量する。これに荷担する畿内説は不快である。
4、国内最大級の古墳群が西都にはある。また、九州で一番大きな帆立貝式古墳(オサホズカ)がある。
5、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は西都。
6、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
7、朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書のウワサ」は、畿内説による歴史改竄を思わせる。
オサホ塚に後方部をつける改修は、卑弥呼の墓が円墳であることから、これを隠蔽する行為である。
8、好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も歴史改竄であろう。記紀による天皇家の出自も歴史改竄、現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきた。
これの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。西都の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
西都くんのコピペは100回以上見て、もう飽き飽き。
105 :
闇の古代史さん:03/06/28 14:29
隠されつづけたものは、九州王朝の存在だけではなくもっとあるのだろう。
日本書紀には、広瀬大忌神と竜田風神を祭らせる記述が異常に多い。
これらの神々を当時の王権は恐れていたのだろう。
また、筑紫大地震をはじめ日本列島中に不気味な怪奇現象が起きている。
これは、一体何を表しているのだろうか。当時の王権を、縄文以来の日本の大地や
大自然が拒絶しているように思えるのだが。
106 :
日本@名無史さん:03/06/28 14:52
>>日本書紀には、広瀬大忌神と竜田風神を祭らせる記述が異常に多い。
>>これらの神々を当時の王権は恐れていたのだろう。
んじゃなくて、伝承を寄せ集めて記紀を作ろうとした時、
多く残っていた物が記紀にも多く記述されたと言うだけ。
天皇中心制やがては律令国家をと目指していた政権にとって、
過去の事はこれからの歴史の序章・土台でしたかなったのだよ。
そのため、神話的に語られている。
107 :
闇の古代史さん:03/06/28 15:33
>106
日本は縄文以来、日の神(男神)と水の神(女神)を一対で祭っていた。
そこへ持統天皇により、皇祖神アマテラスが創作され、縄文以来の神々は
抹殺された。最近、アニメ『千と千尋の神隠し』がヒットしたが、
宮崎監督もそのあたりのことを訴えたかったのだろう。
>>日本は縄文以来・・・
古代の日本は、単一民族でも単一の文化でもなく、アジア近隣の多くの民族が入り込んでいた。
海洋性の民ならば海岸地帯に定着し漁と水軍を主とする、農耕の民ならば平野に定着し開拓し水田を広げる。
そこに交換経済が生まれ、交流がはじまる。相互依存でありつつ、力関係も生まれる。
鉄器や農耕の新技術を持って優位に立つ者、大陸との交易権で優位に立つ部族もあったろう。
部族の数だけ、祭られる神がいたと言っても良い状況。
時代が経つにつれ、民族間の文化的差異は無くなって行く、そして各地に伝承と神だけが残る。
抹殺しなくても、文化の固有性が無くなれば神も形骸化して行くのだよ。
明治国家になるまで、中央が天照を押し付けた事は無い。
109 :
闇の古代史さん:03/06/28 21:54
>明治国家になるまで、中央が天照を押し付けた事は無い。
断言できるところが凄いね。まあ、参考になるような本は何冊もあるが、
手始めに隠された十字架/梅原猛でも読んでみなされ。あくまでも参考だが。
>>109 最後の1行を抹消するよ。
あとは私のイメージ的なものだが、これに付いて何かご意見、補足などは?
111 :
日本@名無史さん:03/06/28 22:04
手篭めにされた十字架・・と読んでしまいました。
112 :
闇の古代史さん:03/06/28 22:42
>108については別に異論はない。だがしかし、数多くの神社を探訪し
関連する書籍を読み、さらにインターネットによる調査をしますと、
日本列島には、古代から日神と水神が一対で祭られていた(いる)ようであり、
それが、全国的に拡がっているということ。それはまだまだ謎が多いのであるが。
気がついたら、本題からそれてしまったので『九州王朝』の話題に戻りたい。
113 :
闇の古代史さん:03/06/29 22:37
国立国会図書館に、倭(九州王朝)の五王の系図が所蔵されているらしい。
系図の最初に見える名が、呉王・夫差、姓は姫氏。息子?『忌』は、
火の国山門に住む。菊池郡とある。
114 :
日本@名無史さん:03/06/29 22:52
なんてトンデモ本?
115 :
世界@名無史さん:03/06/30 08:51
姫氏というのは、周の姓。
トンデモではなく、中国人が日本のことをそう呼んでいた。
だから太伯皇祖論なんかが浮かんでくるんだよね。
116 :
闇の古代史さん:03/06/30 21:08
118 :
世界@名無史さん:03/07/01 08:33
森浩一の本にも書いてあったヨ。
119 :
世界@名無史さん:03/07/01 08:46
>>117 俺が呼んだのは、日本の古代(倭人の登場)森浩一
この中で、ポルトガルの宣教師ロドリゲスの日本教会史という著書の引用の中で、
姫氏国という事を取り上げています。
ロドリゲスは、太伯皇祖説を強く唱え、中国人がどうして周の姓である、
姫氏と言う言葉を、日本に当てて呼ぶのかを説明していますね。
また、平安時代の日本書紀私記にも、
「この国が、どうして姫氏国と呼ばれるのか?」等という質問の記述があるそうです。
120 :
世界@名無史さん:03/07/01 09:35
119だが、ちなみに俺は、闇の古代史さんに付け加えて、
116を書いただけ。
国立国会図書館のことについては、知らない。
系図の名前がわかれば、検索できるかもしれないよ。
http://www.ndl.go.jp/
121 :
世界@名無史さん:03/07/01 09:44
122 :
九州王朝マンセー:03/07/01 15:22
>>113 卑弥呼(ヒミカ)→姫巫女(ヒミコ)→火の国の巫女
バンザーーイ!バンザーーイ!
台与(トヨ)→豊の国
バンザーーイ!バンザーーイ!
123 :
日本@名無史さん:03/07/01 17:38
>>122 大宰府や金印は、九州王朝と無縁っていう主張?
>>123 歴史的に言って、筑紫は共有地・国際会議都市です。
豊・肥・熊の覇者が筑紫を管理したと、思います。
125 :
闇の古代史さん:03/07/01 21:21
筑紫神社を創建したといわれる「筑紫の君」 その兄弟が、「火の君」多氏一族である。
兄弟統治だったのだろうか。九州・倭国年号に兄弟がある。
彼等の祖は、甕依姫。甕依姫が祭ったのが、風土記にたびたび登場する「あらぶる神」
このあらぶる神は、「宗像女神」の匂いがするのである。
126 :
九州王朝マンセー :03/07/02 17:10
>>125 ど素人な意見ですが、「風水」(孔明が考案したとも言われるが)が博多は最悪ですね。
「風水」から言えば吉野ヶ里・山門・別府・鹿児島は良さげです。
もし「風水」を重視していたら博多・筑紫に都を設けなかったものと思われます。
ただ、北からの邪気を鎮める為の「宗教施設」は当然、存在したことでしょう。
127 :
日本@名無史さん:03/07/02 18:25
三世紀前半に「孔明が考案した」「風水」が日本にくるわきゃないだろ。ワラ
181 諸葛亮生まれる
188 倭国大乱(抗争続き、卑弥呼を共立して女王へ)
208 赤壁の戦い
221 蜀 劉備、蜀漢建国
234 諸葛亮没
239 卑弥呼を親魏倭王とし、金印紫綬を与える
卑弥呼、難升米らを魏に派遣
>>127 首都を移したのは四世紀。かも
諸葛亮が普及させた?かも
129 :
闇の古代史さん:03/07/02 21:25
>126
風水や中国史にはどちらかと言えば疎いほうなので、私の方がご教授願いたいほどです。
130 :
闇の古代史さん:03/07/02 21:58
九州王朝の首都といわれる太宰府。その太宰府には「観世音寺」という古い寺がある。
そこには、わが国最古とされる国宝の梵鐘がある。現地の説明板には、糟屋郡多々良
で鋳造と書いてあった。実は、この梵鐘と瓜二つの梵鐘が京都・妙心寺にあり、兄弟鐘とされる。
この鐘には、やはり糟屋で鋳造されたとみられる「糟屋評造舂米連広国が鋳造した」
との彫りこみがあるらしい。通説では、仏教は大和から広まったとされるが、
大和で見つかってもいいはずの日本最古級の梵鐘二つが、なぜ九州で鋳造されているのだろうか。
1.風水学の始まり
http://www.j-kana.or.jp/shiryou/dai2shou.htm 中国で最も古い史書である「尚書(しょうしょ)」の中に召公に命じて
「洛邑(らくゆう現在の河南省洛陽市)の地形地勢を視察させた。」とあり、
そしてここに都を建設したら良いか「卜宅(ぼくたく)」させた経緯が書かれてあります。
後に、ここ洛邑に都を移したのであります。
これは紀元前770年ですから2700年以上前の事となります。
この頃に風水らしき事が行われたと考えられます。
そして、風水という言葉が専門用語として現れたのが
晋代の郭璞(かくはく)[276-324]が書いた葬書の中に出てきたのが最初です。
東・西・南・北の守護神「青龍」(せいりゅう)「朱雀」(すざく)「白虎」(びゃっこ)「玄武」(げんぶ)がそれぞれ配置されます。
具体的には、東に河川が流れ、南に低地や平坦な地があり、西に大きな道が通じていて、
北に山脈・丘陵・台地があるという地形を示しています。
133 :
闇の古代史さん:03/07/02 23:13
>九州王朝マンセーさん
お気遣いありがとうございます。
134 :
闇の古代史さん:03/07/02 23:34
常陸国風土記には、九州王朝の多氏(意富)一族である黒坂命が、蝦夷を
征討したことが書かれている。常陸国(関東)まで進出していた九州王朝勢力。
その全盛期は、日本全国にまで及んでいたことだろう。
その証拠の一つとなるのが、九州独特の装飾古墳(東北まで広がる)の分布では
ないだろうか。
>>133 釈迦に説法でしたか。。。失礼しました(笑
石見銀山に朝鮮の「灰吹き法」を導入した事から
>>130 の鋳造も、技術者を呼んだ。かも
136 :
日本@名無史さん:03/07/03 00:42
>>134 それは違うでしょう。小田原の役のとき毛利や長曽我部が秀吉の
命令で出陣したように、大和の命令で出陣したのでしょう
137 :
闇の古代史さん:03/07/03 21:01
>136
はっきり、違うと断言できますか?
意富一族の末裔が違うと言ってます。
139 :
闇の古代史さん:03/07/03 21:20
>138
わたしも、意富一族の末裔の血を引いていますが。
苗字は意富?
141 :
闇の古代史さん:03/07/03 22:21
いや、19族の上の方ではない。まだ内緒。関心ありますか?
ない
143 :
闇の古代史さん:03/07/03 22:47
日本書紀・宣化天皇元年(536)夏5月1日、天皇は詔して言った。食は天下の源である。
黄金が万貫あっても、飢えを癒すことは出来ない。真珠が千箱あっても、
どうして寒さを凌げようか。『筑紫国は、遠近の国々が朝貢してくる所』であり、
往来の関門となる場所である。このため海外の国は、潮の流れや天候を観測して
貢を奉る。応神天皇から今に至るまで、籾種を収めて蓄えてきた。
凶年に備え賓客をもてなし、国を安んずるのに、これに過ぎる物はない。
そこで自分も『阿蘇君』を遣わして河内国茨田郡の屯倉の籾を運ばせる。
『蘇我大臣稲目宿禰は尾張連』を遣わして尾張国の屯倉の籾を運ばせよ。
『物部大臣麁鹿火は新家連』を遣わして、新家屯倉の籾を運ばせよ。
『阿部臣は伊吹臣』を遣わして、伊賀国の屯倉の籾を運ばせよ。
『官家を那津の口(福岡那津)』に建てよ。また、筑紫(福岡)、肥国(佐賀・熊本)、
豊国(大分)の三つの屯倉は、それぞれ離れ隔たり、もしそれを必要とする時に、
急に輸送することが難しい。諸郡に命じて分け移し、那津の口(福岡那津)に集め
建て、非常に備えて民の命を守るべきである。早く郡県に下令して、
私の心を知らしめよ。
144 :
日本@名無史さん:03/07/04 12:33
>>143 筑紫が大和朝廷の支配に完全に屈したのが応神天皇のころ
ということかな?
145 :
闇の古代史さん:03/07/05 13:32
>144
いえいえ、阿蘇君・多氏一族と宣化天皇は同族ではないかと.....
146 :
日本@名無史さん:03/07/05 13:35
きちがいの巣か、このスレは。
147 :
闇の古代史さん:03/07/05 13:52
九州王朝の首都・太宰府にある太宰府遺跡は、三層構造であり、7世紀後半の飛鳥時代、
奈良時代、平安時代の三つの遺構がある。現在の遺跡は、平安時代のものであり
本来の太宰府遺跡ではない。一番重要なのは、7世紀後半の飛鳥時代の遺構
なのであるが..........
148 :
闇の古代史さん:03/07/05 13:57
>146
あなたが、大和王朝一元史観に洗脳されているだけです。
そんなことでは、日本及び日本民族に未来はない。
149 :
日本@名無史さん:03/07/05 18:00
とりあえずWebサイトでもなんでもいいから、この説が強力な論理の下に
存在していることを知らない人にとっては、キチガイの巣と思ってしまうのは仕方ないかもね。
何せ教科書も世間も皇国史観まんせーだし。
事実キチガイの巣
オマエがな〜!
対外戦が絡む日本の歴史教科書の古代部を見たら、東アジアの民は仰天するだろうな。
しかもあまりの矛盾の多さから、むしろ倭国は日本ではないのは確実だと言われるだろう。
その点、韓国の古代史が大百済帝国とかいって、日本人などに奇異の目で見られるのと全く同じ現象と言える。
すなわち、信用されないオナニー史学と思われるのだ。そしてこの一点を持って、日本の国内史は全体オナニーだと曲解される。
九州王朝キチガイ説を持つ、150氏のようなものは、この悪夢をどう見るのかな?
153 :
闇の古代史さん:03/07/06 21:48
多氏一族の筑紫君が創建したと言われる筑紫神社の祭神は、筑紫大明神
(白日別神・五十猛尊)、宝満大神(玉依姫命)、田村大神(坂上田村麿)
であるが、末社に猿田彦大神・事代主神とともに八意思兼神が祭られている。
八意思兼神は、蟻通神社によく見られる神であり、その蟻通神社は姫氏(紀氏)と
関係が深いといわれている。九州王朝の中核をなしたと思われる、多氏と姫氏
(紀氏)の関係もまた興味深いのである。
154 :
闇の古代史さん:03/07/08 20:11
682年(天武天皇十年)三月十七日
天皇は大極殿に川嶋皇子らを招き、帝王の記録と上古のもろもろの事を記録させた
(日本書紀)
このあたりから、九州王朝の歴史書の盗用が始まったのだろう。
155 :
日本@名無史さん:03/07/08 20:33
156 :
闇の古代史さん:03/07/10 21:05
これも、盗用のためだろう
691年8月13日(持統天皇五年)
大三輪(多氏と同族)、上毛野、膳部、紀(姫氏)、大伴、石上、雀部(多氏)、
藤原、石川、巨瀬、春日、平群、羽田、阿倍、佐伯、采女、穂積、阿曇の十八氏に
命じて、先祖からの事績を記した『墓記』を奉らせた。
(日本書紀)
九州王朝は日本書紀の盗用
158 :
闇の古代史さん:03/07/10 21:23
>157
もう、大和一元史観は通用しないんだよ。
世界中の笑われ者になるぞ。
159 :
闇の古代史さん:03/07/10 21:36
708年(元明天皇・和銅元年)
藤原不比等が右大臣になる。「山沢に亡命して、禁書を隠し持っている者は、
百日以内に自首せよ。さもなくば恩赦しない」という詔勅を出す
(続日本紀)
ひどいことするよ。九州王朝の歴史の抹殺だろうね。
161 :
闇の古代史さん:03/07/10 21:42
712年(元明天皇・和銅五年)
九州王朝の中核をなす、多氏一族の「太安萬呂」が古事記を撰上。
162 :
闇の古代史さん:03/07/10 21:46
713年(元明天皇・和銅六年)
中国・唐に使いを出し、儒教を学ばせるとともに、中国皇帝からの下賜品を
金に替え、市中の中国史書や本をことごとく買い尽くし、海に浮かんで帰った。
(唐会要・旧唐書)
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
164 :
日本@名無史さん:03/07/15 04:03
西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に「都」という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京「都」、東京「都」。宇「都」宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位のことではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味(原文に沿わせるとこうなる。)
2、三角縁神獣鏡も出土。(魏鏡説らしい)
3、西都のオサホ・メサホ塚は宮内庁の管理化であるため発掘ができない。
9割5分以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
4、現在、長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都である邪馬台国の所在が何故特定できないのか?
政治的意図(天皇制)による組織的な隠蔽工作が行われたと思量する。これに荷担する畿内説は不快である。
5、国内最大級の古墳群が西都にはある。また、九州で一番大きな帆立貝式古墳(オサホズカ)がある。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は西都。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
8、朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書のウワサ」は、畿内説による歴史改竄を思わせる。
オサホ塚に後方部をつける改修は、卑弥呼の墓が円墳であることから、これを隠蔽する行為である。
9、好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も歴史改竄であろう。
記紀による天皇家の出自も歴史改竄、現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきた。
これの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。.....
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
飽きた 言いっ放し西都くんは話にならない
168 :
闇の古代史さん:03/07/17 21:44
714年(元明天皇・和銅七年)
紀朝臣清人(姫氏)、三宅臣藤麻呂に国史の撰上を命じる
誰が命じたのか.....
多氏とともに、九州王朝の中核をなす紀氏(姫氏)を国史編纂に
参加させたことに何らかの戦略を感じる。日本書紀の完成は720年である。
藤原一族の影がちらついてくるようだ。
サイトは1人じゃないからビックリした
170 :
日本@名無史さん:03/07/26 02:24
法隆寺の木材で、7世紀後半伐採のモノがあったという報道がなされたんだが、
これは九州王朝説にとっては、どういう意味を持つ?
法隆寺は、太宰府にあった観世音寺?を移築したという主張があったわけだが。
>>170 法隆寺の移築は、天武天皇期の672年以降になるから、
移築搬送時に紛失又は破損した建材は672年以降の伐採の木材で新造したと見る。
173 :
日本@名無史さん:03/07/29 01:33
九州王朝という妄想は、近畿に対する嫉妬を学問モドキで包んだもの
でしかないね。
負け犬
175 :
日本@名無史さん:03/07/29 16:08
この報道は九州王朝説にとって、多少有利と言っていいか?
中心にある柱は6世紀のもので、他に一部7世紀後半のものがあるから。
これは、非移築説にとっては、説明しづらいのじゃないか?
一旦消失したのなら、心柱が残っているのはおかしいし。
あった。
終了。
177 :
闇の古代史さん:03/07/29 22:06
手元に、法隆寺は移築された〜太宰府から斑鳩へ〜米田良三著がある。
これを読んだときは、古田氏の本を読んだときよりも驚きだった。
皆さん、一読を。
178 :
闇の古代史さん:03/07/29 22:11
>173 君がどうあがいても、国際標準・放射性炭素方式で遺跡・遺物を
測定すると、九州は近畿の150〜300年は歴史が古いんだよ。(笑)
179 :
日本@名無史さん:03/07/29 23:59
>>177 そりゃ驚く。なんたって桂離宮だもんなあ。いや驚いた。ホント。
180 :
日本@名無史さん:03/07/30 00:00
しつこいな〜九州王朝は倭なんだよ。
半島南部にまで影響力を及ぼしていた倭なんだよ。
その半島の倭人の子孫が畿内に亡命したからこそ大倭を命名したんだろ。
182 :
日本@名無史さん:03/08/01 17:55
>>177 三十三間堂もあるよ。
もはや驚かない。
>>179 何故、桂離宮が九州王朝に復古したのだろう?
183 :
日本@名無史さん:03/08/01 20:02
どうせ、みんな朝鮮から来たんだろ。
(^^)
>>183 日本人は、みんな朝鮮・中国方面から来たのです。
アイヌ・沖縄を除いて。
沖縄除いてどうする先生。沖縄人は根っこはやしてるのか?
かんべんしてくれ。
188 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/08/02 19:00
>>187 沖縄人は根っこはやしてるわけではありません。
沖縄はアイヌと同系統でアイヌ沖縄人と呼ばれても良い人々で、彼らは樺太経由で日本に渡って来て、一時は日本列島全域に住んでいた人々です。
前氷期の後期から終末期頃に、当時陸地の東シナ海から移住してきた縄文人により、
沖縄人は、日本列島ではアイヌ人と分断され、九州から琉球列島に押し出された人々です。
樺太経由で来る訳けなかろう。
そんなもん中国に金玉抜かれた連中の政治的配慮。
民俗学、遺伝子母系調査すりゃあ答え一発よ。都市住人には分かるまいが
190 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/08/02 21:57
>>189 前間氷期に温暖湿潤なシベリア地方に住んでいた、
アイヌ沖縄人の祖先が、前氷期到来と共に樺太経由で温暖な日本列島に移住してきました。
民族学、母系遺伝子のミトコンドリアでは答えがでません。
彼らの移動は、あまりにも昔の2万年以上も古いことで、それらでは検証できません。
又、沖縄人とアイヌ人の分離も1万3千年前なので、同様にそれらでは検証できません。
191 :
日本@名無史さん:03/08/02 21:59
日本国には九州要りません。
倭国が九州を欲しいならば差し上げます。どうぞ。
後進近畿が先進九州を馬鹿にする→笑止千万
朝鮮人も半分倭人。九州がいかに勢力があったかの証明でしょ。
それを否定するのはKitty Guy
195 :
日本@名無史さん:03/08/09 13:01
>>192 ましてや関東はエミシの国。まさしく191は笑止千万。
196 :
日本@名無史さん:03/08/09 13:20
関東は毛人。
沖縄から、南方の骨が出てます。
和泉黄金塚は手抜き型古墳
大阪・和泉市教委調査
卑弥呼に関係が深いとされる「景初3年」銘の画文帯神獣鏡が出土した大阪府和泉市の和泉黄金塚古墳
(4世紀後半、前方後円墳)が、見えない側のふき石を省略した手抜き型だったことが、19日までの和泉市
教育委員会の調査で分かった。4世紀(古墳時代前期)の前方後円墳は裏側がゆがんだものもあるが、
工事そのものを手抜きした例はない。墓としての宗教性より、見える部分の見栄えばかり重視した事になり、
古墳の正確を探る上でも貴重な資料になりそうだ。
同古墳は丘陵の最先端に築かれ、北西に広がる平野部から見ると右が前方部、左が後円部。市教委が
史跡指定と整備に向けて発掘調査した。
盛り土を覆うふき石をしていなかったのは、前方部の南側で平野部からまったく見えない部分。他の部分は
上まで綺麗にふき石をしているが、後円部がこの部分に移るところで、プツンと切れていた。古墳の全長は
約85メートルとされてきたが、前方部が後世に削り取られた事も判明。百メートル近かった事が分かった。
隔離スレ、落ちましたな。
199 :
日本@名無史さん:03/08/15 00:04
隔離スレってなによ
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン