1 :
日本@名無史さん:
いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないってなったの?
鎌倉時代にも摂家から将軍を迎えてるし、
信長を将軍につけようとしたりしてるし。
いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないっていう
不文律ができたのか誰か教えて。
3 :
日本@名無史さん:03/04/18 01:37
羽賀ケンジ
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
5 :
日本@名無史さん:03/04/22 00:19
光ゲンジ
アハハ "o(^▽^メ)。o0○((ざけんなよ))
おれは源氏だから、いつか開ける可能性はあるね。
8 :
日本@名無史さん:03/04/22 02:47
ゲンジー北京
11 :
日本@名無史さん:03/04/22 09:33
鎌倉時代、4代将軍以降は源氏ではなく、いわゆる宮将軍だった。
尊氏が室町幕府を開いた時、源氏に武家の棟梁の座を戻すことが、
多くの武士の支持を受けた。
そこで家康も幕府を開く時に源氏を名乗ったわけだ。
ただ江戸時代も直系が絶えたとき、鎌倉時代を前例として、
京都から将軍を迎えようとしたことがあったらしい。
甲府や御三家から将軍を迎えれば、側近も一新されるわけで、
それに対する前任者の抵抗ということだろう。
下馬将軍こと酒井雅楽守には執権になるくらいの野望があったという説もあるが。
彼に対する反論として反対勢力が、北条執権の時代に元寇があったこと、
源氏の棟梁が将軍になってまとまったこと、などを主張して、
政争に勝利した。
それによって征夷大将軍は源氏の長者であるべきだというのが、
ことさらに強調されたのではないかと思う。
12 :
日本@名無史さん:03/04/22 09:36
やっぱ江戸時代以降ということだね。
13 :
日本@名無史さん:03/04/22 17:15
あっけないな
14 :
日本@名無史さん:03/04/22 23:53
>>11 宗尊親王は一時源姓を名乗っております。
家職という概念ができ始めたのが鎌倉時代の始め頃。
土御門家は陰陽道、菅家、江家は学問・・・
清和源氏=武門の棟梁という考えが起きても不思議はない。
15 :
日本@名無史さん:03/04/22 23:58
ざーんねん。ちょっと惜しいな。
源姓を名乗ったのは宗尊の息子の惟康だよ。
宗尊は元服してから死ぬまでずっと親王。
sorry
17 :
日本@名無史さん:03/04/23 00:08
>>14 「清和源氏=武門の棟梁」という考えが発生したのはやはり江戸時代以降だろう。
鎌倉時代には、せいぜい「源頼朝の末裔=武門の棟梁」というところまで。
惟康王の源氏改姓や藤原頼経の源氏改姓(未遂)は、源家3代の養子的な意味で構想されたものではないだろうか?
18 :
日本@名無史さん:03/04/23 00:16
足利尊氏が何故征夷大将軍を欲したのか、という疑問が残りますが
19 :
日本@名無史さん:03/04/23 00:19
20 :
日本@名無史さん:03/04/23 00:25
>>18 後醍醐院の公家一統政権に対抗できる政権モデルが鎌倉幕府以外になかったからだろ
21 :
日本@名無史さん:03/04/23 00:30
>18
武士団の利益を代表する者として、みこしとしてかつがれた要素が強いと、
思います。
高師直のような強力なかつぎ手もいたわけだし。
22 :
日本@名無史さん:03/04/23 00:40
師直は、尊氏が政権を握ってから勢力を伸ばしたんじゃないの?
23 :
日本@名無史さん:03/04/23 00:41
高師直といえば、塩冶判官って実在したの?
24 :
日本@名無史さん:03/04/23 00:42
>>23 年いくつなんだおまいは・・・
塩冶判官は実在の人物だよ。佐々木道誉の親戚。
確か木曽義仲じゃなかったけ? 後白河がこの山猿を手なずけるため一時的に授けたような気がする。
旭将軍とかいってさ。
26 :
日本@名無史さん:03/05/07 23:43
足利義満が将軍在職中に公家の久我家から源氏長者の座を奪ってからではないか。
確かに信長の三職推任はあったが、将軍職は足利義昭が空名ながらも
なお保持していたからなあ。
>>7 慶応3年の王政復古の大号令で征夷大将軍は廃止されたよ。ふふ。
28 :
日本@名無史さん:03/05/08 00:14
俺も源氏だ、源朝臣だ、鎌倉の鶴岡八幡宮や京都の金閣寺で「御先祖様」って
語りかけられるのはなかなかいいもんだ。
>>ALL
いや〜実はね、俺ってホラ、天下人やってたでしょ?。
そんときね、天下人つったらやっぱ征夷大将軍になんなきゃって思ってね、イロイロ
と運動したワケよ。
そしたらな〜んと「征夷大将軍になっていいのは清和源氏の家系の人だけよ。」って
決まりだって言われたのよ。
だもんで毛利さんトコに居候してた足利義昭チャンに「俺を養子にしてくれない?
たくさんお礼をするからさ。」ってたのんだの。これって「家柄を売ってよ」って言っ
るのとおんなじだわな。
昔、義昭チャンが俺の大将(信長)んトコに居候してた時に大将(信長)にたてついて
殺されかかったじゃない?。あんとき俺って義昭チャンの命乞いしてあげたんだから、
家柄売ってくれるかなって期待したんだけど・・・断られちゃった。甘かった。
落ち込んでるトコに菊亭晴季のヤツがやってきて「あんな従五位下の役職なんぞにこだわ
らずにサ、もっと上の官職ねらえばいいじゃない。信長サンだってそうだったんだしサ。
どう?関白なんてスゴいよ〜。」ってゆ〜もんだからさ、ソノ気になっちゃったワケ。
ああ結局俺が言いたいのは、征夷大将軍には清和源氏になっちゃいけないって決まりは、
江戸時代じゃなく安土桃山時代にはすでにあったヨって言いたいワケ。
ジャマしたな。すまん。
元来の意味は、東北の蝦夷征討のため、朝廷から任命された総指揮官のことをそう呼んだナリ。
七九四年の大伴弟麻呂を筆頭に、奈良から平安初期にかけてしばしば任命されてたんだけど、
その後中絶しちゃったんだナリ。源平争乱期に源義仲が任命されて復活して、
一一九二年には、源頼朝が任ぜられて鎌倉幕府を開いたナリよ!
以後、武士で天下の権を握る者の地位を表す言葉となって、源氏三代・
足利氏・徳川氏と代々の幕府の首長はこの職を世襲することとなったんだとよ。らっしゃい!
ああそうそう、それからね、家康のヤツのことなんだけどサ、あいつだって清和
源氏じゃなかったんだぜ。知ってた?。
あいつが「松平」から「徳川」に改姓したイキサツがあるんだヨ。
たしか清和源氏である「得川」って小土豪の家柄を買い取って「得」を「徳」に
変えたんだ。
俺と違ってうまいことやりやがったなあ。
そんなことまでしなきゃならないほど安土桃山時代にゃ「征夷大将軍は清和源氏!
絶対!絶対!」って考えが定着してたってワケ。
32 :
日本@名無史さん:03/05/08 21:49
応永の盟約
>>29 >>31 「秀吉は足利義昭に養子の話を蹴られて将軍になれなかった」なんて
俗説を信じているヤシがまだいるとはな!
>>33 そーいえば、小学館のまんが・豊臣秀吉にもそんな話が乗ってた
ような……
35 :
日本@名無史さん:03/05/08 23:12
どちらかというと鎮守府将軍の方が武門の誉れだったのだが、
頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしちゃったからね。
36 :
日本@名無史さん:03/05/17 23:10
源義家の征夷大将軍にちなんででしょ?
源氏なら誰でもなれるのか?
頼朝の家系→足利→新田って具合にランクがあるのではないですか?
38 :
日本@名無史さん:03/05/17 23:18
義家は征夷大将軍にはなっていない。
39 :
日本@名無史さん:03/05/17 23:27
足利、徳川、羽賀研二
40 :
日本@名無史さん:03/05/17 23:27
>>38 そもそもの征夷大将軍は38想像の征夷大将軍とは違いますよ?
奥州静定に差し向けられたのが義家時代の征夷大将軍だからです。
41 :
日本@名無史さん:03/05/17 23:55
>>37 源姓だけでも流れは様々だからな・・・
同じ源氏でも公家はなれないしょ・・・
武家の棟梁の血を引いてればランクもなにもないと思うけど?
特に新田は天下云々までいかなかったし。
42 :
日本@名無史さん:03/05/17 23:56
43 :
日本@名無史さん:03/05/18 00:01
44 :
日本@名無史さん:03/05/18 00:03
45 :
日本@名無史さん:03/05/18 00:07
つうか鎌倉時代に源氏でない将軍なんてたくさんいるやろ。
征夷大将軍は、そんなに高い地位ではなかった。
軍事力を握る関係から、天皇の血をひくが臣下でなければならない。
頼朝のときに軍事司令官のしての価値を再発見した。 北条を押さえる意味もあって
源氏の血筋という雰囲気をつくりはじめたが、尊氏ぐらいが実際の草案者でないかな
41は 公家源氏は将軍になれないと言いたいのだろう
42は なにかを勘違いしていそうなのだが
確かに元は 五位相当くらいの官だったのかな。
三善・大江あたりが 軍制下の非常時大権に着目したと聞いたが。
家康が新田源氏になったのは、たまたまそうなったってことですか?
僕は、皇室の一員だから、征夷大将軍になれないんだ。
源氏みたいな下々の者はいいな。
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´_ゝ`)< ふーん
\_____
51 :
日本@名無史さん:03/05/18 00:31
本物の源氏なら元は皇室の一員だったのでは
52 :
日本@名無史さん:03/05/18 01:38
>>46 鎮守府将軍は奥六郡に対する支配権や、
北方交易など儲かる要素が多かったから、
平安時代の武士にとっては鎮守府将軍>征夷大将軍だったのでは。
54 :
日本@名無史さん:03/05/18 04:40
坂上田村麻呂の子孫、坂上おじゃる丸は征夷大将軍になれるだろう。
361 372 373
このスレって何歳くらいの方が多いんでしょう?
私は20代♀ですが、源平時代が好きというと特異な目で見られます。
人それぞれなんだからいいじゃんよぅぅ。
日本史始まって最初の革命じゃんよぅぅ。
趣味の範囲でしかないので真剣に勉強しとけばよかった。
>>40 義家は征夷大将軍になってないよ。
彼はあくまで「陸奥守」という行政官。
だから、後三年の役については「私闘」扱いとなり、ご褒美ももらえなかった。
>52
平安時代の武士にとっては鎮守府将軍>征夷大将軍だったのでは。
いや、やはり「大将軍」の方が上。
だから鎌倉御家人の畠山重忠は「鎮守府将軍になりたい」って人前で言うことが出来た。
征夷大将軍が「源氏」じゃないとだめ、なんてことは当時の公家も武家も思ってない。
信長に対して公家は征夷大将軍を与えようとしていたし。
ただ、その条件としては「関東を支配すること」があっただけ。
信長が平氏を名乗ったのは、「源平交替思想」に基くもの。
だまらっしゃい。平和な時代に征夷大将軍なぞいらん。
袋にいれてしまっておくべきだ。
58 :
日本@名無史さん:03/05/20 20:09
>>57 秩序のない世になったが。大将軍こそいないが殺傷はそこらで起きる。
無益な殺傷はしない武士道時代の方がマシじゃないか?
鎮守府将軍は支配地があるけど征夷大将軍は指揮権だけだよね?
天皇の兵隊の指揮権を持っているということかな
信長、家康は自前の兵をもっているから、全国の指揮権を征夷大将軍に
きたいしたのかな
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
62 :
日本@名無史さん:03/05/25 11:46
あげ
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
test
65 :
物部ARA鹿火:03/06/06 19:05
蘇我子、藤原氏やら、平氏のように
天皇をないがしろにするようなやつは駄目!
GENNJIは忠君愛国の士だからその血族は信用に値する?? おれの仮説。
66 :
日本@名無史さん:03/06/14 02:49
48さんの書いた事を詳しくすると征夷大将軍は律令下での地位は近衛少将なんかよりも下位。
それに征夷大将軍と言うのは常置の官でもない。実際に東北経営をする鎮守府将軍とは性格が違う
古代の征夷大将軍や征東使の任務は「蝦夷を討つ」それ一点あくまでも臨時軍政府
だからこそ大幅な権利拡張が認められてたし戦場での天皇大権をえられた、
それに目を付けたのが頼朝……というより彼の公家出身ブレーン(大江広元・三善康信)
このブレーン達によって征夷大将軍が天皇並みの大権になった。
頼朝が己のカリスマ性に加えて優秀なブレーンに恵まれていたので鎌倉で中央政庁が誕生した。
あと鎌倉以後は征夷大将軍になったから武門の棟梁になったのではなく
武門の棟梁が征夷大将軍になると考えた方が自然
しかし家康や秀吉が源氏等に拘ったのは執権北条氏同様、
武家の棟梁になるには家柄の問題があったと思われる。(名門クラスじゃないと)
つまり別に源氏じゃなくても良いんじゃないかな名門なら。
その制度て たぬきがかってに決めた事じゃないのか
68 :
日本@名無史さん:03/07/08 17:55
征夷大将軍は世襲じゃないからね。
天皇から任命された者が征夷大将軍の任につける。
つまり幕府の長でも将軍じゃない人もいる。
簡単な話、武士の長が将軍だろ。
平氏は源氏に敗れた以上、天皇直系のの武士は源氏しかいない。
だから源氏しか将軍になれないんだよ。
69 :
日本@名無史さん:03/07/08 19:32
征夷大将軍には誰でもなれるんだよ。
信長だって秀吉だってなろうと思えばいつでもなれた。ならなかったけど。
家康が将軍になってから「清和源氏に限る」という神話が生まれた。
70 :
日本@名無史さん:03/07/08 21:48
信長は征夷大将軍になるつもりはあったのかな?
秀吉は、信長の真似をしただけど仮定すると、信長も関白となり天下に号令するつもりであったのかな。
清盛と同じ、太政大臣でいいのかもしれないが、やはり関白が上でしょうから。
それとも、天皇になるつもりだったのかな。
71 :
日本@名無史さん:03/07/08 21:57
征夷大将軍が清和源氏の直系というのは源頼朝以来の伝統で、征夷大将軍は
右大臣・源氏長者・勧学院別当を兼ねます。北条氏が将軍ではなく執権職に
就いたのも、北条氏は将軍家の外戚ではあっても源氏の嫡流ではないからで
す。北条氏が摂家将軍、親王将軍を立てたのもこのためです。
72 :
日本@名無史さん:03/07/08 21:59
>>71 よくもまあ、そんな嘘を堂々とカキコできるものだな。
73 :
日本@名無史さん:03/07/08 22:02
摂家将軍、親王将軍?
源氏じゃないじゃん。
74 :
日本@名無史さん:03/07/08 22:09
>>71 征夷大将軍が清和源氏の直系 → 征夷大将軍は清和源氏に限らない
源頼朝以来の伝統 → 征夷大将軍は頼朝以前にもいた。頼朝以後にも清和源氏以外の征夷大将軍がいた。
右大臣 → 内大臣や大納言、参議どまりの例も多い。
源氏長者 → 将軍が源氏長者になるのは足利義満が最初。将軍が源氏長者を独占するようになるのは徳川家康以降。
勧学院別当 → 奨学院別当のまちがい。
北条氏が将軍ではなく執権職に就いた → 北条氏では家柄が低くて将軍になれなかったのは事実。
75 :
日本@名無史さん:03/07/08 22:09
豊臣秀吉は源氏じゃなかったから将軍になれなかったんだよなあ
76 :
日本@名無史さん:03/07/08 22:14
>>75 源氏でなくても将軍にはなれるよ。現になってるヤツもいるしな。
77 :
日本@名無史さん:03/07/08 22:19
僕は源氏の血を引いています、将軍にはなれなくても源氏の棟梁にはなりたいんです
どうすれば源氏の棟梁と認定してもらえますか教えてください。
78 :
日本@名無史さん:03/07/08 22:23
将軍=源氏の長者、源氏じゃないとなれない、だから
やっぱり将軍にならないとだめなんじゃないかなあ
79 :
日本@名無史さん:03/07/08 22:28
徳川家康は系図を捏造したんだろ?
80 :
日本@名無史さん:03/07/08 22:38
幕府は困ると朝廷に依存するんでしょうかね?摂家将軍や親王将軍もそ
うなのでは。室町幕府は依存する前に無茶苦茶になってしまったという
感じですね。江戸幕府も何代将軍かの後に宮将軍を立てようとしたので
はなかったですかね。それから公武合体政策。幕府の屋台骨が揺らいで
きたからでしょうか?それとも公武を和して諸外国に当たるためでしょ
うか?あと、幕府ではありませんが、太平洋戦争敗戦直後も皇族の東久
邇宮が首相に立てられましたね。
81 :
日本@名無史さん:03/07/08 22:50
82 :
日本@名無史さん:03/07/08 23:01
考えてみると足利義満以前の将軍で強い実権を持った人っていないんだよね。
源頼朝は優秀な人だったようだけど、その権力はまだ完成途上で、
2代目以降の鎌倉将軍はみんなお飾り。
尊氏も北朝の任じた将軍。南北を統一した義満はそれまでにない、
最高の権力を得た。
74のいうように将軍が源氏の長者を兼ねたのが義満が最初というのなら、
ここで将軍のカリスマが確立されたのかも。
83 :
日本@名無史さん:03/07/08 23:19
>>82 義満一個人のカリスマでしょう。
その後の将軍にカリスマがあったとは思えない。
>83
確かにその後で権力握ったのは室町では義教だけ。
それも暗殺されちゃったし。
結局、家康が幕府を作った時に将軍に権威をつけようとして、
過去の事例からそれらしいものを見つけたのが大きいのかな?
あと家康の愛読書は吾妻鏡で頼朝のファンだったからかも。
86 :
日本@名無史さん:03/07/08 23:46
2丁目っていつからホモだけになったの?
87 :
日本@名無史さん:03/07/08 23:46
それ以前に2丁目って昔はどんな街だったの?宿場町?
88 :
日本@名無史さん:03/07/09 00:44
追討使平直方
岩倉使節団について知りたいんだけど!!
どっかいいとこおしえて!!
90 :
日本@名無史さん:03/07/09 00:56
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
92 :
日本@名無史さん:03/07/18 20:13
>>80 酒井忠清が、家綱のあと親王将軍をたてようとした。
93 :
日本@名無史さん:03/07/18 20:33
>92
前書いたけど、それに対する反論が、将軍=源氏の長者、
が一般に流布する源になったと考えられる。
酒井の行動は自分の権力を守るためだと思われるが、
対する御三家や甲府がプロパガンダとして強調したのだ。
江戸文学において義経や頼光、為朝らがスーパーマン扱いされたのは、
この影響が大きい。
94 :
日本@名無史さん:03/07/20 17:12
大老酒井の宮家将軍擁立は後世の作り話。
95 :
日本@名無史さん:03/07/21 22:39
(^^)
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
いまだに俗説を信じてる≫1
99 :
日本@名無史さん:03/08/22 13:44
単に、家康が源氏の出にしたかっただけ。
100 :
日本@名無史さん:03/08/22 14:08
100ゲット!
101 :
日本@名無史さん:03/08/22 14:32
わしは源氏の子孫だ。天皇ははやくわしを征夷大将軍にしてくれ。
源氏の子孫 ってへんな言い方だな
俺は源氏だ で充分なのに。
ともあれ101は 現存する有力な源氏諸家と話し合って
まずは氏の長者になってはどうだろうか。
その上で天皇に申し上げればいい。
103 :
日本@名無史さん:03/09/05 10:47
源頼朝の時点では、そもそも将軍職は武家の身分を
高めるための栄誉的なものに過ぎなかった。
頼朝の死後、頼家が家督をついでから将軍宣下まで空白が
有るのは、元来将軍=武家の棟梁でなかった証拠。
歴代将軍の武家の棟梁就任と将軍宣下を見てみると、
頼朝=事実上の開幕(守護地頭設置)1185年、
将軍宣下1192年
頼家=家督相続1199年、将軍宣下=1202年
実朝=家督相続&将軍宣下=1203年
九条頼経=鎌倉東下1219年、将軍宣下1226年
九条頼嗣、宗尊&惟康&久明&守邦各親王=同年
足利尊氏=事実上の開幕1336年、将軍宣下1338年
徳川家康=事実上の開幕1600年、将軍宣下1603年
尊氏、家康の初代将軍の例外を除くと、
空白があるのは九条頼経まで
したがってこれ以来、将軍=武家の棟梁のためのポストと
認識されるようになった。
したがって、源氏正統断絶後の摂家と宮の例外を除くと、
尊氏が自らを源氏の正統と意識し、平家の末裔の北条から
政権奪取を狙い、将軍任官を果たした頃から、
将軍=源氏の正統と認識されるようになった
ただし、家康は藤原氏子孫だったにもかかわらず、
新田氏子孫と系譜を改ざんしており、
この事からも、将軍職に対する源氏の重要性が見てとれる。
104 :
日本@名無史さん:03/09/07 13:30
頼朝が幕府を開いた以上、平氏が征夷大将軍に就くというのは
源氏の民が納得しないので仕方なかったのでは?
(源氏の利権ポストというか)
家柄が低いからとかそんな問題じゃないと思う。
摂関の方が格が比べ物にならないほど上では?
105 :
日本@名無史さん:03/09/07 23:14
我が親愛なる将軍様が東夷を征伐してくれるニダ
106 :
日本@名無史さん:03/09/07 23:31
>>104 織田信長は平氏なのに征夷大将軍に推任されてますが何か?
それと室町時代の摂関家は足利将軍家のパシリね。
107 :
日本@名無史さん:03/09/08 03:52
108 :
日本@名無史さん:03/09/08 12:16
征夷大将軍は天皇の軍隊の長で幕府は将軍が政治を行う所だから、
現在に例えると、幕府は軍事政権で国家は軍国主義国家ですか?
109 :
日本@名無史さん:03/09/08 13:13
>>105 そりゃあ、坂上田村麻呂も帰化人の子孫であったわけだし、
「将軍様」が「当今」から任官されても不思議はないか。
で、「東夷」って誰よ? 藪大統領父子?
彼らも降伏すると、「藪中納言」に格下げになるの???
110 :
日本@名無史さん:03/09/08 13:40
自分だけが賢いつもりの馬鹿がいるね
111 :
フーミン=もしもツアーズ=師走=後小松天皇:03/09/19 15:45
>>110 そのとおり
よく言った
よくわかっておるな
そなた。
そなたこそ将軍じゃ。
112 :
日本@名無史さん:03/09/21 15:06
将軍様マンセー
113 :
日本@名無史さん:03/09/21 16:24
信長は天正期には確実に平氏を称している
吾妻鑑の編者は平政子も将軍家と捉えていた
114 :
日本@名無史さん:03/09/21 17:16
源氏の征夷大将軍は鎌倉3代と室町将軍だけです。
平氏の征夷大将軍は存在しません。鎮守府将軍なら源氏&平氏ともおります。
家康って新田の流れって言ってたよね?
上の話では新田は源氏の中では家格が低いのではなかったか?
116 :
日本@名無史さん:03/09/22 14:56
>115
家康が新田の流れってのは家系の捏造。
家格がどうこうって言うのは、新田が頼朝や尊氏に逆らった謀反人の家系
だからことさら低くされたのかな?
家康は周囲に吉良や今川といった足利系の名門を抱えていたから、足利に
対抗するという意味で「源氏の嫡流」とも言われる新田氏の末裔を名乗っ
たって事だと思います。
117 :
日本@名無史さん:03/09/22 16:39
三河世良田一揆というのがあったらしいよ
今では長州人だけになりました。
119 :
日本@名無史さん:03/09/23 10:46
武家政治で後世に続く幕府のスタイルを作ったのが頼朝だから、幕府政治を取る場合、その権力の源流は頼朝となる。
だから、頼朝との繋がりをアピール=権力正統性のアピールに通じたのでは?
120 :
日本@名無史さん:03/09/23 10:49
今の源氏の棟梁は誰よ?現代の源氏の棟梁は?
121 :
日本@名無史さん:03/09/23 12:27
徳川恒孝
122 :
日本@名無史さん:03/09/23 12:35
>>118 将来の総理の座を約束された安倍晋三も長州。
また長州から征夷大将軍が出るのか・・・
123 :
日本@名無史さん:03/09/23 12:58
素朴な疑問
源氏って、天皇になれなかった王子の子孫のことでしょ。
どうして、清和源氏だけ 源氏なの?
どの天皇からの傍流でも全て源氏とならないのはなぜ?
どの天皇からの傍流(源氏)でも5親等内なら初代将軍家として名乗れる
とかなら、凄くクリアなんだけど
124 :
日本@名無史さん:03/09/23 13:02
>>123 清和源氏以外にも源氏はいっぱいいるよ。
嵯峨源氏とか宇多源氏とか正親町源氏とか。
清和源氏にくらべて知名度が低いだけ。
それから、源氏というのは天皇から個別に与えられるもので、
世代を経れば自動的に源氏になるということはない。
125 :
日本@名無史さん:03/09/23 13:07
なるほど、シンプルに考えると、
天皇を継いだ長兄は、
次男以下にまれに源氏を与える事があると・・・・
運良く源氏を与えられた王子の子孫は初代将軍家を名乗れると・・・
そういうこと?
そうであれば、源氏を与える条件って何?
126 :
日本@名無史さん:03/09/23 13:23
征夷大将軍になったのは源頼朝の個別の事情であって
「源氏だから将軍になれる」ということはありません。
127 :
日本@名無史さん:03/09/23 13:28
平安時代の天皇には皇子が多く、そのまま皇族の身分に
置いとくと朝廷の財政が圧迫されるので臣下の身分に
落とす、臣籍降下が行われた。
当然、臣下になると氏姓が必要となるので天皇が源、平、
橘などの氏姓を与えた。どの氏姓を与えられるかは、天皇
が決める。
>>125 征夷大将軍は源氏であろうとも、平氏であろうとも自分で
名乗ることはできない。征夷大将軍は天皇が任命する位。
訂正
位ではなく、職。
129 :
日本@名無史さん:03/09/23 14:00
>!24
融ちゃんとかの他の源氏は、知名度低い?
京極、六角、朽木、尼子等の佐々木とか
明治天皇のおかんの実家、中山とか
太平記と織田のぶおでおなじみ北畠とか
村上天皇か、宇多天皇かも元源氏だと思う。だから、今の天ちゃんも源氏の子孫
130 :
日本@名無史さん:03/09/23 14:05
>>129 元源氏だったのは宇多天皇だね。源定省。
>117
初耳っス。
家康の家系捏造は「事実」というか「常識」という前提だったのでw
そーゆーのがあったのなら、あながち丸きりの捏造ではなかったのか?
少なくとも自分では信じていたとか…
ちょっと興味あるなぁ、詳しい話を教えてくれます?
もしくはソース希望。
132 :
日本@名無史さん:03/09/23 17:18
源も平も橘も 天皇の子が臣になるときの姓として
平等なんだね、 ジャー、 平家も きままに 天皇家から
生まれ続けたの?
133 :
日本@名無史さん:03/09/23 17:22
源平藤橘とは日本における貴種名族の四つ、源氏・平氏・藤原氏・橘氏を
まとめた言い方である。
だが、これらの氏族が併存して、同じ資格を有していた時代は見い出せない。
源氏は平安時代前期にうまれた嵯峨源氏を筆頭に、仁明、文徳・清和
以下歴代の皇子孫が源朝臣となり、正親町天皇系まで十六の系統が
ある。
公家の家格も多様に分かれている。足利幕府以後、源姓の諸氏が
勢力を有している。
平氏は桓武天皇の皇裔以下、仁明、文徳・光孝天皇系の流れがある。
平安時代末期に勢力を得たのは桓武平氏の平清盛一族だ。
その後の幕府の時代にはあまり重んじられず、公家としても家格は
高くない。
藤原氏は平安時代以来、公家社会の高位を占有し、五摂家・清華家・
大臣家などの多くの流派に分かれた。
秀郷流とか南家流の藤原氏も、武家の名門として地方に勢力を扶殖し
続けてきた。
戦国時代の後期にも藤原姓の武将が多くみられる。
橘氏とは敏達天皇を太祖とする氏族だが、平安時代前期以来、
公家社会では急速に勢力を失い、四位五位の下級官人として、
その系を伝えたようだ。
134 :
日本@名無史さん:03/09/23 17:41
歴史用語として、 源平橘藤 のような
天皇になれなかった王子達の 系譜を 評する言葉がないと
困るなー
バイクという言葉がなくて、 ホンダ カワサキ で2輪のことを話してるみたいだ
>>114 結果的には存在しなかったが平氏でも将軍になれた。
>平信長
136 :
日本@名無史さん:03/09/23 17:50
137 :
日本@名無史さん:03/09/23 18:13
>134
天皇になれなかった王子っていうと在
原業平なんかもそうだね。
なんで、源平橘のような一文字でなく二文字なのか知らないけど
>133
平氏ですが、伊勢氏なんかは室町時代に重用されましたよ。
あと、江戸時代の大名では
源氏は、南部、佐竹、小笠原、喜連川、京極などでしょうか。
平氏は、北条 相馬 織田 ぐらいでしょうか。
橘氏は、・・・・・
138 :
日本@名無史さん:03/09/23 18:19
さっきから「王子」とかいてあるが日本では、
「皇子」だからね。
139 :
日本@名無史さん:03/09/23 18:26
ま、前近代はそのへんは適当なんだがね。皇であれ王であれ大差ない。
140 :
日本@名無史さん:03/09/23 18:39
天皇のことをふつうに「国王」と呼んでいたのが実態だからな
141 :
日本@名無史さん:03/09/23 19:10
>140
天皇>親王>王 ですが
出家させられる皇子もいるよん。
一休さんみたいなひと。
143 :
日本@名無史さん:03/09/23 19:17
>142
足利義満の孫ですよね。一休さんは
144 :
日本@名無史さん:03/09/23 19:22
>>141 律令ではそうだが、時代が下ってくるといい加減な用法が目立つのよ。
天皇を「天王」と表記する例もあるし、天皇を「王」と呼ぶのもフツーだった。
中世〜近世は、近代みたいに用語の表記がきっちりしてないのよ。
146 :
日本@名無史さん:03/09/23 19:50
>>144 しかし、天皇はそう呼ばれていたかも知れないが
皇族の男子に「王子」と使っているのは聞いたことが
ないぞ。
147 :
日本@名無史さん:03/09/23 19:58
>140
国王=足利氏のことだったと思うが
148 :
日本@名無史さん:03/09/23 20:45
冊封とは関係なく、一般的な君主の意味で天皇を「国王」といってるよ。
150 :
日本@名無史さん:03/09/23 21:08
橘氏の堂上家も戦国時代まではあったんだがな
151 :
日本@名無史さん:03/09/23 21:16
日本の家系なぞすべて嘘っぱち。 たとえ将軍には源氏しかなれない不文律があったとしても、 みんな等しく源氏になれる資格があるから大丈夫。
152 :
日本@名無史さん:03/09/23 22:06
室町時代の鎌倉公方、つーのはアレはなんですかね。
東国を支配しているという意味では鎌倉公方こそ征夷大将軍にふさわしい(?)のですが。
153 :
日本@名無史さん:03/09/23 22:38
立花氏の姓って何だっけ?
たしか橘じゃなかったはずだが。
154 :
日本@名無史さん:03/09/23 22:46
華族類別録だと
第15類 皇別 源朝臣 清和天皇皇子常陸大守貞純親王子鎮守府将軍経基八代右近衛大将頼朝裔
155 :
日本@名無史さん:03/09/23 22:54
征夷大将軍頼朝裔、じゃないのね。
156 :
日本@名無史さん:03/09/23 22:55
立花は、大友一族 大友は源姓 頼朝の隠し子と名乗る。
実際は中原氏の子孫なので藤原姓
157 :
日本@名無史さん:03/09/23 23:08
>>144 天皇を王と呼んでしまうと、親王よりも格下になっちゃう感じ。
158 :
日本@名無史さん:03/09/23 23:11
>>152 朝廷で言う大宰府みたいものだよ。
あくまでも幕府の組織の一つで鎌倉幕府があった鎌倉を
中心とする東国を監視する地方組織の責任者。
江戸幕府だと京都所司代がこれに当てるかなあ。
159 :
日本@名無史さん:03/09/23 23:12
>155 近衛大将のほうが官位が上
160 :
日本@名無史さん:03/09/23 23:16
161 :
日本@名無史さん:03/09/23 23:23
>>160 宮内庁はそう認定している。
よって一休宗純の墓は宮内庁が管理している。
後小松天皇皇子. 宗純王墓. 京都府京田辺市 一休寺内
163 :
日本@名無史さん:03/09/23 23:52
>160
清和天皇=(中略)=足利義満=後小松天皇=一休
ということらしい。
164 :
日本@名無史さん:03/09/24 01:09
日本人=長州人>(永遠に変わらない優劣)>その他
166 :
日本@名無史さん:03/09/24 05:24
頼朝は幕府を開くまで右近衛大将として軍を指揮していた。文書でもそう署名しているし、
家臣もみな頼朝のことを右大将家とか書いている。彼が天下を平定して鎌倉に幕府を開こ
うという段階になって初めて、東方外征総司令官たる征夷大将軍に任命してもらったらしい。
なぜなら、右近衛大将のままでは立場上(天皇を守る近衛兵の司令官)京都に幕府を置かな
ければならないので。ちなみに、幕府とはもともと近衛大将の宿舎のことを言ったらしい。
167 :
日本@名無史さん:03/09/24 09:18
>>166 頼朝が征夷大将軍になった時点を幕府開設と考える考え方は学界ではほとんど相手にされてませんよ
168 :
日本@名無史さん:03/09/25 01:20
>>166 言い方がたりなかったが、頼朝が征夷大将軍になった時点を幕府開設と考えているのでは
なくて、なぜ征夷大将軍を望んだかを強調したかった。実際彼が征夷大将軍になる前にす
でに侍所や公文所などの政治機構(摂関家を参考にしたらしい)の整備を進めていた。
学界で鎌倉幕府成立について諸説あることは知っているし、私も征夷大将軍就任は形式的
なものであると思っている。その点をつかれるとは、思っていなかたので軽率だった。
169 :
日本@名無史さん:03/09/25 19:52
摂関家を参考にしたのではなく、平泉を参考にしたのです。
平泉が滅んだ時に鎌倉幕府が成立したと考えていいのではないか?
幕府とは柳営とも解釈される。平泉の柳の御所とは同時代の名称に
無いにしろ、後代の人は平泉幕府を意識していますよ。
170 :
日本@名無史さん:03/09/25 20:19
東国の武士政権を朝廷も認めていることを形式的に確認したかったのだろう。
頼朝一流の貴族趣味といってよい。
実質的には大した意味はないから、数年後には将軍職を勝手に辞職している。
東国武士を見下し、真のリーダーになりきれなかったコウモリ野郎だ(怒
171 :
日本@名無史さん:03/09/25 20:21
>170
コウモリではなく、本当にに京都に戻りたかったらしい。
172 :
日本@名無史さん:03/09/25 20:48
≫170
将軍職を勝手に辞職している。
名誉職は朝廷から戴いたら数年で辞職するのが当時のマナー。
実務職はさにあらず。
平安時代後期から末期にかけては鎮守府将軍も名誉職。
たとえ名誉職を辞任しても、将軍の既得権と権威は残りますよ。
173 :
日本@名無史さん:03/09/25 20:54
近衛大将は任命後1年もしないうちに辞退してるし、将軍職辞職は政局がらみ。
まったくいい加減なヤローだぜ、ヨリ公は!
174 :
日本@名無史さん:03/09/25 21:06
≫173
相当に頼朝が嫌いなようですね。 いや私も嫌いですが。
源氏の棟梁の器ではないと判断した東国武士に殺されたのだからいいでは
ないですか。
東国武士にとって源氏とは平安中期から尊敬されていたはずなのに、最期は
悲惨でしたね。武士の思いを受け止められない器だったのでしょうね。
東鏡には私怨で○○滅ぼしたとか、恨みを決して忘れずとか書かれています。
175 :
日本@名無史さん:03/09/26 11:56
確か、平清盛も太政大臣を数年で辞退してるなあ。
176 :
日本@名無史さん:03/09/26 14:45
信長は数日で右大臣を辞職しなかったっけ。
177 :
日本@名無史さん:03/09/26 14:51
織田信長の右大臣在職は天正5年11月20日から天正6年4月29日まで
右府様
179 :
日本@名無史さん:03/09/26 15:34
>>172 天皇職と同じですね。天皇を辞して上皇になる。社長を辞して会長になる。
今も昔も変らないな。
180 :
日本@名無史さん:03/09/26 15:43
足利義嗣が天皇職を継いでいたらなあ。
181 :
日本@名無史さん:03/09/26 19:39
天皇職の任命権は誰が持ってるんだ?
182 :
日本@名無史さん:03/09/26 19:50
>>181 今風に解釈すると任命できるのは祖神のみだな。テンテルだけか。
指名権はその時点で実権を持っていた人物が持ってる。
183 :
日本@名無史さん:03/09/26 20:18
>>181 天皇職の任命権は幕府の長が握っています。
>>181 母系が強かった平安中期までは外戚である藤原氏
父系が伸張した院政期以降は天皇家のボス。白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の各上皇
185 :
日本@名無史さん:03/09/26 20:29
六条判官為義が嫡子左馬頭義朝が三男前右大将頼朝が嫡子左金吾頼家
186 :
日本@名無史さん:03/09/27 02:00
天皇は職ではありません
天皇職‥‥ワラタ
188 :
日本@名無史さん:03/09/27 05:26
189 :
日本@名無史さん:03/09/27 05:31
江戸時代に下馬将軍と言われた実力者酒井雅楽頭も
徳川乗っ取り工作として世継ぎが居ない家綱の次は
朝廷から宮将軍を呼んで天下を握ろうとした。
老中堀田が甲府藩綱吉公と家綱の対談を極秘に
仕込んで、後事をたくした。
一歩間違ったら、北条同様に御家乗っ取りできたかもねー。
190 :
日本@名無史さん:03/09/27 10:57
酒井の宮将軍擁立構想及び堀田による阻止は後世の作り話
綱吉に重用された堀田老中の経歴を飾るため、あるいは逆に、酒井は奇人綱吉の将軍就任を
危ぶみ非常の手段に訴えた有能な人物であったと印象づけるため
191 :
日本@名無史さん:03/09/27 12:00
192 :
日本@名無史さん:03/09/27 12:52
>>191 なるほど、キミは「職」という言葉の意味を知らないんだね。
193 :
日本@名無史さん:03/09/28 01:36
>>192 屁理屈はいいかげんにしよう。w
なるほど、キミは日本語を知らないんだね。
194 :
日本@名無史さん:03/09/28 01:41
低レベルだ・・・
195 :
日本@名無史さん:03/09/28 01:44
196 :
日本@名無史さん:03/09/28 02:49
明智光秀のことを惟任将軍と書かれた文書を見た気がするのですが、
征夷大将軍になってた?
それとも、鎮西将軍にでもなってたのでしょうか。
197 :
日本@名無史さん:03/09/28 10:46
ageてみる
199 :
日本@名無史さん:03/10/06 17:34
征夷大将軍が源氏に限られるようになったのは徳川家康以降です。
200 :
日本@名無史さん:03/10/06 17:48
200大将軍!
201 :
日本@名無史さん:03/10/06 18:46
>>186>>188 これはじつは案外重要なとこで
西洋の歴史学を無理矢理日本にあてはめてきた
近代以降の日本人は
天皇を職というよりも地位とみなすようになり、この考え方は階級制社会論でさらに強化され
今日にいたっていますが
かつての日本人はむしろひとつの役職の
ようにとらえていたようです。
202 :
日本@名無史さん:03/10/06 18:54
「職」だからこそ天皇家の世襲が認められていたんでしょ。
天皇は天皇家の家職。
203 :
日本@名無史さん:03/10/06 19:01
そのとおり、そしてたしか折口の説だが
古代天皇の血統は
じつはつながってないかも知れないが
同じ職を継承するものはその血統に
つながるとみなされるとする古代の
風習により、万世一系信仰が生まれたようです
204 :
日本@名無史さん:03/10/06 19:53
なるほど職と考えると、つじつまの合うことがいろいろあるな。
205 :
日本@名無史さん:03/10/06 20:05
天皇家は天皇になる人を、藤原家は摂政関白になる人を、足利家は将軍になる人を
細川家は管領になる人をそれぞれ出す。足利家から天皇や摂関を出すのは反則。
足利家以外から将軍を出すのも反則。
206 :
日本@名無史さん:03/10/07 00:29
家康が藤原から源に姓を変更したのは何で?
征夷大将軍とは関係ないの?
207 :
日本@名無史さん:03/10/07 01:31
「職」を説明してくれyo
話が見えん。
208 :
日本@名無史さん:03/10/07 01:45
>>206 鎌倉幕府も室町幕府も源氏の人間が創設したもの。
徳川家康も源氏になることでその後継者に自らを位置づけたんだろうな。
関白就任を予定されている羽柴秀頼との対抗上、そういう権威付けが必要だったんだろう。
209 :
日本@名無史さん:03/10/07 03:40
>>206 もちろん関係ある。しかも秀吉がそれを認めたことが重要。
つまり秀吉は関白ー将軍体制(大統領ー首相みたいなもの)
を目指していた。
210 :
日本@名無史さん:03/10/07 03:45
>>209 家康は秀吉の生前に秀吉の承認の下に源氏に改姓したの?
てっきり秀吉死後のことだと思っていた。
そもそも秀吉生前は家康は豊臣姓だったのでは・・・
211 :
日本@名無史さん:03/10/07 04:13
天正4年ごろから藤原から源に変える、最初は冒称
従4位下に任じられたときはすでに認められていたと考えられる。
天正14年従三位以降は確実に源姓。
212 :
日本@名無史さん:03/10/07 04:26
公卿補任の「源家康」の記載は信用できるのかな?
213 :
日本@名無史さん:03/10/07 05:11
徳川家康ってもともと源氏なんじゃなかったっけ?
三河守任官のときに藤原に改姓したんだよね?
214 :
日本@名無史さん:03/10/07 05:21
>>212 少なくとも朝廷はそう認識していたということ。豊臣ではなく。
>>213 うん。源→藤原→源
215 :
日本@名無史さん:03/10/07 09:32
216 :
日本@名無史さん:03/10/23 20:23
つまり、将軍が実質的な
日本の政治の支配者と認識されるようになったころから。
なぜならはるか遠い神世の時代に神より
「この国は我が子孫がシラス国である」
という神勅がくだされていたからである。
したがって将軍も彼が日本の統治に
あたるかぎり天皇の血を引くもの=源氏
であるということが
条件の一つだったのである。
神代とか神勅とか、寝言はたいがいにせい。
218 :
日本@名無史さん:03/10/23 20:31
じゃ、なぜ将軍は源氏であることを強調したの?
219 :
日本@名無史さん:03/10/23 20:38
源氏=天皇の子孫
であることを強調したかったのだ。
まさに神勅の予言どおりだ!
220 :
日本@名無史さん:03/10/23 20:39
家康が源氏になりたがったのは頼朝が源氏だったからだろ。ただそれだけ。
221 :
日本@名無史さん:03/10/23 20:45
そして、その頼朝公は
おそれおおくも天皇の血を継ぐ高貴なお方!
太陽神の血を受け継ぎ光輝く頼朝公が
家康君にはまぶしく、まさにあこがれの的だったのだ。
222 :
日本@名無史さん:03/10/23 20:48
>>221 太陽神の血を受け継ぎ光輝く清盛公が
家康君にはまぶしく、まさにあこがれの的だったのだ。
・・・とも言えるな。なんで平氏じゃなくて源氏なの?
223 :
日本@名無史さん:03/10/23 20:49
藤原じゃ天皇の血をひかないからね。
神勅にそむくことになる
224 :
日本@名無史さん:03/10/23 20:52
>222
それこそ、単に頼朝君の先例が慣習化しただけ。
225 :
日本@名無史さん:03/10/23 20:53
内閣総理大臣は源氏じゃなくてもいいのか?
226 :
日本@名無史さん:03/10/23 20:56
しかし、源氏将軍が慣習化する前なら
平氏でもよかったであろう。
問題は、将軍がでなく、鎌倉以降の時の実権者が
源氏か平氏のどちらかでなくては
という不文律があったことである。
227 :
日本@名無史さん:03/10/23 20:58
単に源氏と平氏の人口比が高かっただけでは・・・
228 :
日本@名無史さん:03/10/23 21:01
平清盛→平
鎌倉将軍家→源
北条→平
足利→源
織田→平
徳川→源
229 :
日本@名無史さん:03/10/23 21:02
>227
なぜ源氏、平氏を名乗るものが
増えたのかね。
230 :
日本@名無史さん:03/10/23 21:28
>227
足利は確実に源氏 その分家の細川、斯波、畠山、今川、吉良、一色も確実に源氏
山名、武田、佐竹も源氏
六角、京極、近江源氏
231 :
日本@名無史さん:03/10/23 23:56
つまり、東国における頼朝信仰(信仰と呼べるほとのものかは別として)
は一種の貴種流譚が背景にあるわけで
都から流されてきたやんごとなきお方
であったからこそ武士団をまとめることができたのである。
232 :
日本@名無史さん:03/10/24 09:55
長い間貴種の地位を保ったのは義家流源氏と貞盛流平氏くらいで
その他の武家源氏平氏は十把ひとからげの土豪あつかい。
たまたま武家の棟梁になった家が源氏と平氏だっただけで、
源氏平氏という姓が藤原に比べて本質的に特別な意味を持っていたわけではない。
233 :
日本@名無史さん:03/10/24 19:22
貴種を保ったとかが問題ではない。
藤原、橘など他姓でも地方にくだったものは多くいる。
しかし、その中でもなぜ源、平が
地方でもてはやされ
武士団の棟梁にまつりあげられたのか?
そして、なぜ地方の在地武士達はその
出自を源、平にあやかろうとしたのか?
この二つはまったく偶然になったと考えるほうが不自然だろう。
234 :
日本@名無史さん:03/10/24 19:25
武士団を二分する二つの
勢力がともに皇裔を棟梁とあおいでいるのが
偶然と言えるのか?
235 :
日本@名無史さん:03/10/24 19:33
つまり、地方における源、平の台頭は
中央の実権が藤原氏に奪われてしまった
ことへの
地方勢力と皇室の反撃であったのである。
天皇の血脈は地方へ天降ることにより、
源氏、平氏として再び地方から中央を目指したのである。
236 :
日本@名無史さん:03/10/24 19:43
たんに源氏や平氏がむやみに量産された結果じゃないの?
237 :
日本@名無史さん:03/10/24 20:03
だからなんで量産されたの?
238 :
日本@名無史さん:03/10/24 20:10
>>232 地方の土豪たちにとっては
源氏、平氏が藤原などより特別な意味を
もっていると認識されたのです。
だからこそ棟梁と仰がれた。
たまたま偶然によそものを棟梁と仰いだ
なんて話に説得力はないね。
239 :
日本@名無史さん:03/10/24 21:21
>232
佐々木は土豪?????
土豪なら妹を百姓上がりの"ひできち"に差し出しても、秀忠の義理の兄になっても
大名として残れなかったのでは・・・
やっぱ、近江源氏も貴種だと思うが
240 :
日本@名無史さん:03/10/25 18:44
つまり、一部の人が主張する
東国国家とやらの元首はほかでもない
形を変えた天皇だったわけである。
源将軍が滅んだ後、
皇族将軍が望まれたのも必然だったわけです。
241 :
日本@名無史さん:03/10/25 19:09
東国国家論ホーカイ!
242 :
日本@名無史さん:03/10/25 19:20
今、征夷大将軍を任命するとしたら誰?
243 :
日本@名無史さん:03/10/25 19:27
菅直人
244 :
日本@名無史さん:03/10/25 19:29
245 :
日本@名無史さん:03/10/25 19:46
246 :
日本@名無史さん:03/10/25 19:51
藤原を名乗る武士も少なくないぞ。
信長も家康も最初は藤原を名乗った。
247 :
日本@名無史さん:03/10/25 22:00
↑アフォカ。なにそれ。
このスレ立てた人、平氏と藤原を倒したらなった。そんなことも知らないのか。
248 :
日本@名無史さん:03/10/25 22:06
249 :
日本@名無史さん:03/10/25 22:14
押収富士原誌のことでしょ。
250 :
日本@名無史さん:03/10/26 03:28
まあ、天皇家から政治家が大正期あたりに出ていて、新姓が、嶋 だとして
今頃、4世代目の自民党員として、20人くらいの後胤政治家がでてたとしよう。
まあ、総理と財務と外務などは、 嶋にあらずんば大臣にならず
という風になっていることだろう。 皆が、嶋で一番優れた奴を探す
251 :
日本@名無史さん:03/10/29 20:01
249漢字間違えているぞ。奥州藤原氏だろ。
「奥州」藤原氏と平氏が居なくなってから。
252 :
日本@名無史さん:03/10/29 20:05
1.足利(将軍)
2.足利(古河)足利(小弓)、足利(堀越)
3.今川、細川、畠山、斯波
4.一色、山名、京極、赤松、吉良、土岐、上杉、大内、大崎、大友、北畠
5.伊達、最上、芦名、佐竹、宇都宮、千葉、小山、結城、武田、六角、
一条、小弐、島津
6.南部、芦名、二本松、白河、小田、長沼、小笠原、長尾、吉見、尼子
7.安東、相馬、田村、宗、村上、神保、伊東、相良、毛利、河野、松浦、
阿蘇、諏訪
8.織田(本家のほうな)、朝倉(応仁の乱頑張ったんで)
ランク外
・浅井、松平、里見、三好、真田、北条、筒井、長宗我部、織田・徳川の家臣
253 :
日本@名無史さん:03/10/29 20:05
1、足利将軍家
2、鎌倉公方
3、管領・四職など幕府の要職
4、鎌倉時代からの守護
5、足利幕府成立期に守護になった家
6、その後、幕府滅亡までに守護になった家
7、守護代・地頭
8、その他国人領主。
9、地侍
10、それ以下
254 :
日本@名無史さん:03/10/29 20:26
何が言いたいのかワカラン・・・
255 :
日本@名無史さん:03/10/29 20:54
>>252 吉良、石橋、渋川は2と3のでは?
足利氏の一門として、三管領より上の格式ではないの?
256 :
日本@名無史さん:03/10/29 20:55
訂正
× 吉良、石橋、渋川は2と3のでは?
○ 吉良、石橋、渋川は2と3の間では?
257 :
日本@名無史さん:03/10/29 21:08
ってか政所執事の伊勢氏(江戸時代は何してたか知らん)
問注所執事・諸奉行の三善系諸氏(江戸時代は筆頭家老・高禄幕臣・高禄藩士など……大名でもない)
は3.管領・四職など幕府の要職?
あぼーん
259 :
日本@名無史さん:03/10/30 13:24
で、いつから?
260 :
日本@名無史さん:03/10/30 19:16
出自がどうあれ、源氏の養子になれば源氏だろう。
なんか、どうでもいいような気がするな。
261 :
日本@名無史さん:03/11/04 20:00
>250
なかなかいいところをついてますね。
しかし、「源」の最大の売りは
「野に下った天皇」
という
あたかも天孫降臨神話の再現のような
神秘性にもある
ことを考慮してください。
262 :
日本@名無史さん:03/11/04 20:09
>260
つまり、源氏とは
バーチャル皇裔なのです。
俺たちも皇裔ですが…
264 :
日本@名無史さん:03/11/05 21:09
でも負け組じゃない
265 :
日本@名無史さん:03/11/06 17:42
義仲は将軍に任命されてないの?
266 :
日本@名無史さん:03/11/06 17:57
話にまとまりのないスレだな
いや262の発言で謎は全てとけた!
268 :
日本@名無史さん:03/11/07 21:40
平氏って壇ノ浦でほとんど滅びたんだろ
269 :
日本@名無史さん:03/11/07 21:43
壇ノ浦で滅んだ平氏は平氏のごく一部
270 :
日本@名無史さん:03/11/07 21:54
平氏の西洞院家(平家でなければ人でない・・・とか言った香具師の家)は
幕末まで堂上だったし明治期に子爵になった罠。
271 :
日本@名無史さん:03/11/07 21:55
西洞院家は平時忠の子孫じゃないけどな。桓武平氏なのは間違いない。
272 :
日本@名無史さん:03/11/07 21:57
壇ノ浦で滅んだのはいわゆる平家だろ
273 :
日本@名無史さん:03/11/07 21:57
橘氏のうちは・・・・橘って橘諸兄以降どうなったの?
274 :
日本@名無史さん:03/11/07 22:01
>271
平時忠の弟の子孫が西洞院家だったかな?
275 :
日本@名無史さん:03/11/07 22:06
西洞院家は時忠の叔父信範の子孫。
276 :
日本@名無史さん:03/11/07 22:08
>>273 橘氏の公家が1軒だけあったんだが、羽柴秀吉に取り潰された
277 :
日本@名無史さん:03/11/07 22:13
橘氏の堂上は無くなったし大名家も皆無。
地下家に数家あるくらいか。
系図:
平盛貞−平維将−平維時−平直方−平維方−平直貞−熊谷直実
(平氏本家) || (熊谷氏)
||
|平聖範−平時家−平時方−北条時政
伊勢平氏へ (伊豆平氏:北条氏)
直方からは伊豆平氏など沢山の氏に分かれます。北条氏、熊谷氏、
後北条氏、伊勢氏などなど。だから平氏はまだまだ存在していました。
少し書き込みミスしました・・・スマソ
280 :
日本@名無史さん:03/11/07 23:45
皇裔といえば在原氏は???女たらしでおなじみの・・・
281 :
日本@名無史さん:03/11/09 17:31
>>278 平維方と平直貞の間に平盛方(阿多美五郎左衛門尉)が抜けてるよ。
熊谷氏の祖は直実じゃなくて直貞ではなかったかい?
>281
すみませね、抜けてました。直貞のもともとの氏は平家です。
239の言ってる事の意味が理解できません。
レスするのもアホくさいけど
>>252 関東公方と、三管領・四職はほぼ同列。
長尾は守護代だからもっと下。
三管領の守護代織田は在京、よって長尾より上でいいんじゃん?
284 :
日本@名無史さん:03/11/28 00:59
講談社現代新書の『源氏と国王』って、専門家からみてどうかな?
なんか歴史用語の再解釈に終始してるだけのような気がするのだが・・・
>>284 ???
意味不明
学問のいろはから勉強しよう
286 :
日本@名無史さん:03/11/28 02:01
ごめん、分かりにくかったかな。
最近出た『源氏と国王』(講談社現代新書)なんだけど、
筆者はさかんに「氏」「家」とかを厳密に再定義して
自論を進めてるんだが、単なる用語の解釈の問題で終わってるような
気がしたの。で、専門家から見るとこの本の言ってることは
斬新なのかなあ、と疑問に思ったのでここで聞いてみました。
287 :
日本@名無史さん:03/11/28 15:44
わらしも読んだが。トンデモ本の類ではなかろうか。
288 :
日本@名無史さん:03/11/28 17:18
著者の主張したいことは、
征夷大将軍は源氏の「氏の長者」を兼ねてはじめて
「日本国王」に就く、ということでいいの?
平家落人部落ってエタヒニン?
>>284-288 漏れ今日一日かけて立ち読みしたけど、要するに何がいいたいのかよくわからなかった。
>>288のいってることはある意味当たり前なところがあるし。
権威の揺らいだ時代はいろんな小権威を手当りしだい身に纏う必要がある。
むしろ著者が本当に言いたかったのは南北朝についてごちゃごちゃ逝ってたあたり
のことだろうと何となく感じたけど・・・・
291 :
日本@名無史さん:03/11/29 01:54
>>290 なんか小手先のロジックをこねくりまわして
言葉遊びしてるだけのような印象を受けた。
当方門外漢なので、詳しい方、あの新書の優れている点を教えてください。
>1
明治時代。
多田神社いったか?
295 :
日本@名無史さん:04/01/07 12:30
京の朝廷が政治的実権を有していたのは、平安時代までです。
次に、軍事力をもって公家に仕えていた武士(公家にとって庶民に過ぎなかった)の世になりました。
このうち、西方を拠点とした桓武平家は、政権を獲得すると自身も公家化し弱体化しました。一方の清和源氏、拠点は板東(関東)八州です。
未開であった板東を鋤鍬を以て開墾した開拓農民、地主となり土地を護るため武装し郎党を育成した者達が板東武者です。
「一生懸命」というのは、元々は「一所懸命」であり、それこそ命掛けで開墾した土地の本領安堵を願う開拓地主の気持ちを表しています。
そうやって開墾した土地で、春から夏を農作業に明け暮れ、収穫の秋を迎え、ここで襲撃してきた略奪者に全てを奪われてしまうなどとんでもありません。
そこで武装した農民が武士の起源です。その精強さは、公家化した平家に比較すればまさに野獣がごとし。ついには軍事力を以て政権を奪取したのが鎌倉幕府です。
農民が政権を奪取した = まさに構造改革です。しかし、建前上はあくまでも「京の朝廷から官位を授かり、征夷大将軍に任じられて幕府を開いた」という事です。
私も不思議ですが、日本の政治闘争とは「誰がどうやって朝廷の権威を嵩に着るか。朝廷を操るのは誰か」という事であって、朝廷を打倒し、
自らが開祖となって自身の王朝を開こうという者は日本の歴史にはいないのです。
296 :
日本@名無史さん:04/01/07 12:45
関東武士を「あずまえびす」とよんだりするが、これは関東地方を指して「あずま」というのに由来している。
「あずま」は関東を指すときは関東が近畿よりも東にあるため「東」であるが、本来は「吾妻」と書く。
吾妻の意味は漢字そのままで、「わたしのつま」、マイハニーである。
古代においては、近畿地方が政治の中心であり、関東地方は野蛮な未開の地とされた。
しかし、近畿地方に住む貴族・豪族たちが勢力範囲を次第に広げ、関東地方を組み入れると、
関東地方は「未開の地」から税金を搾り取る「収奪の地」に変わった。
近畿地方の豪族たちは、収奪を円滑に行うため、関東地方の反感を抑えようと、
「近畿を夫とし、関東を妻のように大事に思っています」、ということで「あずま」と名付けた。
今だとドメスティックバイオレンスだとか言われそうな話である。
>296
あずまんがにもそう書いてあった
298 :
日本@名無史さん:04/01/08 23:56
「源氏と日本国王」ってトンデモ本なんですか?昨日本屋で見かけて
買って読みましたが、素人目には「へぇ」って感じで面白かったです。
でも、学問的にはダメポなんでしょうか?また、そのあたりがトンデモなのか、
教えてもらえるとうれしいです。
299 :
日本@名無史さん:04/01/11 05:40
>>298 トンデモじゃないよ。ちゃんとした学者が書いてる。
300 :
日本@名無史さん:04/01/11 05:47
足利義昭が1588年までで引退してから、徳川家康が就任
するまでの間は、誰か将軍いたの?
301 :
日本@名無史さん:04/01/11 07:35
302 :
日本@名無史さん:04/01/11 14:03
平知盛が征夷大将軍だったなんてビックリ
303 :
日本@名無史さん:04/01/11 20:10
304 :
日本@名無史さん:04/01/11 20:12
平家物語・一門都落ちのところで、
一族の官位がダラダラ書かれる中に、
三位中納言兼征夷大将軍平知盛の文字がある。ビックリした。
305 :
日本@名無史さん:04/01/11 23:41
キチガイ史観
306 :
日本@名無史さん:04/01/11 23:57
征夷大将軍は関東人の仇敵
307 :
日本@名無史さん:04/01/12 00:30
>>296 その収奪の急先鋒が、清和源氏なのだが。
308 :
日本@名無史さん:04/01/12 00:34
俺んち、源頼家の子孫。よって真の源氏長者。
309 :
日本@名無史さん:04/01/12 00:51
310 :
日本@名無史さん:04/01/12 01:01
お前よりはなw
311 :
日本@名無史さん:04/01/12 01:09
だったら説明してみろよ厨房
wなんて付けなくてさ
312 :
日本@名無史さん:04/01/12 01:12
消防うるさいぞ、早く寝ろwww
313 :
日本@名無史さん:04/01/12 01:20
征夷将軍<鎮守府将軍<征夷大将軍<鎮守府大将軍
314 :
日本@名無史さん:04/01/12 01:22
316 :
日本@名無史さん:04/01/12 09:47
征西大将軍が一番えらいねん。
317 :
日本@名無史さん:04/01/12 09:53
>>1 足利4代将軍義持のときに確定しました。彼の父義満の権力統合が不首尾に
終わったことの反動だったのです。これによって、源氏が皇位につく道は
閉ざされました。
318 :
日本@名無史さん:04/01/12 09:57
征西大将軍って懐良親王のこと?
今の源氏長者は細川護煕氏。
先総理大臣だから。
320 :
日本@名無史さん:04/01/12 14:47
源氏長者になったら何か特典あるんか?上納金とか
321 :
日本@名無史さん:04/01/12 14:58
>征夷大将軍っていつから源氏だけになったの?
それは徳川家康からです。
322 :
日本@名無史さん:04/01/12 15:21
家康は家系を捏造した。
323 :
日本@名無史さん:04/01/12 15:24
324 :
日本@名無史さん:04/01/12 15:24
>征西大将軍が一番えらいねん。
征西と関西は関係ないぞ。
現在の関西より西のことだ。
「関西」の言葉自体、明治以降の造語だ。
325 :
日本@名無史さん:04/01/12 15:28
>>322 そうだね!
因みに新田氏を自称してるよ。
326 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:25
征東大将軍のほうが上席者
327 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:27
328 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:30
東の方がえらい。横綱もそうだ。
329 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:38
>>328 右と左なら
左の方が偉いんだろ?
っていうか上席か?
330 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:40
328へ
中央が一番偉かった。
近畿(現関西)
331 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:41
東は日が昇るから吉祥なんだよ!
332 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:41
うちの会社は
社長より専務が偉い・・・。
333 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:42
北と南では南だぜ。
334 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:44
うちは母ちゃんのほうが財布を握っている
偉い・・・。
335 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:44
昔の東西は関東・関西ではない。
中央より東の関東(東)・中央(現関西)・中央より西(西)
336 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:45
>東は日が昇るから吉祥なんだよ!
その場合の東は日本全体を指す。
337 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:46
338 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:47
関東・関西の「関」とは逢坂の関をいうのだ。
339 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:53
関東管領は中央(関西)が関東を支配する目的で儲けられた役職の中の一つ。
340 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:54
341 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:55
征夷とか、征東なんて、関東人に対する侮辱。
342 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:56
征西将軍は九州人に対する侮辱かい?w
343 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:57
昔から大阪人が最優等なんや。関東なんか未開の野蛮国。
344 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:59
>>343 阪神が優勝したから?
今年はどおかなぁ・・・。
345 :
日本@名無史さん:04/01/12 17:00
関東に関する役職の全ての元々の意味は「関東から効率よく搾取するにはどうすれば良いか?」
という中央(関西)の発想を含んでいた。
346 :
日本@名無史さん:04/01/12 17:02
関東人のひがみ
347 :
日本@名無史さん:04/01/12 17:02
中央大学<関西大学
348 :
日本@名無史さん:04/01/12 17:03
役職って
幕府の?
律令の?
349 :
日本@名無史さん:04/01/12 17:09
明治までは 関西>関東 に異議を挟めなかった。公には。
幕府の役職なら 関東>関西 かと思いきや、幕府自体が朝廷の出先機関という建前。
350 :
日本@名無史さん:04/01/12 17:12
>>349 そう建前だ!
もっとも徳川さんは愛知県の人だよね?
足利さんは栃木県の人だし・・・。
あれっ!頼朝君はどこの出身だっけ?
351 :
日本@名無史さん:04/01/12 17:24
関西人は謝罪しろ!
近畿地方に住む貴族・豪族たちが勢力範囲を次第に広げ、関東地方を組み入れると、
関東地方は「未開の地」から税金を搾り取る「収奪の地」に変わった。
352 :
日本@名無史さん:04/01/12 17:28
>>351 だから武士が興ったんだろ!
坂東武士が!
坂東英二を退治しに行くから心配するな!
宵越しのゼニは欲しいけど江戸っ子
353 :
日本@名無史さん:04/01/12 18:33
征夷大将軍は、夷をもって夷を制するの観点から関東武士に下賜された職である。
何か一つくらいカッコイイ閑職を与えておけば、彼らは満足して働く。
354 :
日本@名無史さん:04/01/12 18:36
355 :
日本@名無史さん:04/01/12 18:41
夷=関東 なのだから、征夷=関東を征伐・征服
関東人に征夷大将軍は本来はおかしな話。
源氏は皇親賜姓氏族だから関東人じゃないよ
357 :
日本@名無史さん:04/01/12 19:37
源氏パイ美味しい。
358 :
日本@名無史さん:04/01/12 19:41
>源氏は皇親賜姓氏族だから関東人じゃないよ
江戸生まれの世襲の将軍のことだよ。
359 :
日本@名無史さん:04/01/12 19:49
>>355 夷は関東人のことでなく、東北の蝦夷のことだろうが。
関東人を攻める役職や征東大将軍だと思うが。
360 :
日本@名無史さん:04/01/12 20:03
関東も大和朝廷に従わないものもいたが関東を征服した後は東北に向かい、東北も征服。
361 :
日本@名無史さん:04/01/12 21:16
俺
会社で性慰大将軍 兼 鍋奉行
って呼ばれてる!
今年はキャバクラ大臣にも任命される予定。
因みに位階は
総合職 C4 だぜ!
362 :
日本@名無史さん:04/01/12 23:13
秀吉は何で将軍にならなかったの?
363 :
日本@名無史さん:04/01/12 23:20
>>362 なれなっかったんだよ・・・。
源氏を称してなかったら・・・。
しかたないから関白になって公家として日本に君臨したんだって。
関白になるのも大変だったみたいよ。
なにしろ関白には藤原氏しかなれなかったから。
だから近衛家の養子になって藤原氏を称したんだって。
その後、秀吉さんの贔屓している後水皇天皇(字間違えてたらごめんなさい)
から
源平藤橘に加えて豊臣姓を作ってもらったんだってさ。
364 :
日本@名無史さん:04/01/12 23:39
またその話か。同じズリネタで何年もオナーニできるとは、精力絶倫野郎だな
365 :
日本@名無史さん:04/01/12 23:43
秀吉は足利義昭の猶子になって源氏を名乗ろうとして、義昭に拒絶されている。
将軍になれなかった悔しさをバネに関白になった。
366 :
日本@名無史さん:04/01/13 01:28
またその話か。同じズリネタで何年もオナーニできるとは、精力絶倫野郎だな
367 :
日本@名無史さん:04/01/13 01:34
「秀吉は足利義昭の猶子になって源氏を名乗ろうとして、義昭に拒絶されている。」
というのは、デマです。嘘です。ガセです。でっちあげです。
秀吉は「貧乏公方」足利義昭の後継者になるつもりなどさらさらなかったのです。
平秀吉→藤原秀吉→豊臣秀吉
369 :
日本@名無史さん:04/01/13 01:35
>夷は関東人のことでなく、
関東も含む。
>>304 遅レスで悪いんだけど、確かに載ってるね。
漏れのは覚一本でつ。
「従二位行中納言兼左兵衛督征夷大将軍 平 朝臣 知盛」
371 :
日本@名無史さん:04/01/16 23:41
秀吉にとって武家の棟梁のシンボルである将軍位はやはり魅力十分。
関白になったのは源氏である家康の将軍襲職が濃厚となったことへの
対抗策だった。
実は秀吉存命中から、秀吉=大坂=公家連合vs家康=関東=武士集団の
棲み分けを模索する動きはかなり目立っていた。
372 :
日本@無名史さん:04/01/17 04:12
正夷大将軍は頼朝以降ずっと源氏関係者。九条頼経も頼朝の遠い親戚。 信長、秀吉がなれなかったのは源氏じゃなかったから。
373 :
日本@名無史さん:04/01/17 10:09
「秀吉は足利義昭の猶子になって源氏を名乗ろうとして、義昭に拒絶されている。」
というのは、デマです。嘘です。ガセです。でっちあげです。
信長も秀吉も「貧乏公方」足利義昭の後継者になるつもりなどさらさらなかったのです。
374 :
日本@名無史さん:04/01/17 11:17
多くの傍証によると、秀吉は「将軍になるつもりがなかった」のではなく、
「なりたかったが源氏でなかったのでなれなかった」ことが明らかに
されています。やはり、当時の人々も「源氏でなくっちゃダメ」と農民出身の
秀吉政権を軽んずる風潮があったと申せましょう。
375 :
日本@名無史さん:04/01/17 11:54
>>374 「多くの傍証」てたとえば何?具体的に挙げてごらん。挙げられるもんならw
376 :
日本@名無史さん:04/01/17 12:23
宗尊親王から6代親王が続いてるんだから、源氏じゃなくてもいいだろ。
たまたま足利家と徳川家が源氏だったんでそういう印象が強いだけ。
377 :
日本@名無史さん:04/01/17 13:12
>>376 正式な征夷大将軍になれる資格等に源氏じゃないとだめだと
言うのはないだろうが 朝廷や幕府などは慣例を制度なみに
重んずるから室町幕府3代目の足利義満が征夷大将軍と共に
源氏長者や奨学淳和院別当に宣下されて以降、征夷大将軍に
なるには、源氏出身者の者じゃないとだめだと言う慣例が
あったのでは?
378 :
日本@名無史さん:04/01/17 13:13
征夷大将軍が源氏に固定されるのは徳川家康以降です。
源氏長者が徳川家に固定されるのも徳川家康以降です。
379 :
日本@名無史さん:04/01/17 13:46
氏長者が朝廷から宣下されること自体おかしい。一族内の問題のはずだ!!
380 :
日本@名無史さん:04/01/17 14:06
(あらすじ)
足利義満は将軍位を捨て、将軍や天皇より上位概念である日本国王になり、
その地位を次男義嗣の系統に引き継ごうとした。これを知った長男義持は、
将軍の権威低下を恐れ、同様の不安を持つ朝廷とともに義満死後に義嗣を
逮捕殺害し、日本国王構想を闇に葬った。
この功績により、義持は足利家が未来永劫将軍職を維持することを朝廷から
認められ、この瞬間、源氏=将軍の公式が確定したのだった。
381 :
日本@名無史さん:04/01/18 13:13
>>378 家康は征夷大将軍になるために、新田流源氏になったんでしょうが。
順番が逆でしょう。
382 :
日本@名無史さん:04/01/18 15:27
家康が源氏になったのは、鎌倉・室町の両幕府の創始者がたまたま源氏だったからに過ぎない。
織田信長や羽柴秀吉が征夷大将軍になる有資格者だったことは史料的にあきらか。
383 :
日本@無名史さん:04/01/18 15:49
信長は平氏の癖に正夷大将軍になろうとしたから殺されたと言う話を聞いた事があります
384 :
日本@名無史さん:04/01/18 15:52
「信長を征夷大将軍に」と最初に言い出したのは朝廷側ですよ
「秀吉を征夷大将軍に」と最初に言い出したのも朝廷側ですよ
385 :
日本@名無史さん:04/01/18 16:43
朝廷の一部DQN廷臣が信長・秀吉に阿っただけ。
異端の考えだから、最終的には実現しなかった。
386 :
日本@名無史さん:04/01/18 16:47
>>385 武家伝奏の要職にあった勧修寺晴豊を「一部DQN廷臣」などと片づけてよいはずがない。
勧修寺晴豊は朝廷の主流中の主流。近衛前久のような信長側近と一緒にしてはいけない。
河内源氏は武家の棟梁にふさわしい。
伊勢平氏は武家の棟梁って感じではない。
388 :
日本@名無史さん:04/01/18 16:51
摂津源氏こそ将軍の家柄。
摂津源氏は保元・平治の乱でパシリ程度だったんじゃないかしら。
将軍ってえのは腕っ節が強けりゃいいってもんじゃねえんだ。品位がなくっちゃな。
攝津源氏は資格十分、土岐明智の源光秀を見るがいい。
源光秀はどこで見られますか?
征夷大将軍は腕っ節や品位では決まりません。
頼朝は東国に朝廷とは別の独立国を作っちゃったの。いきなり。
朝廷はびっくりですよ。こりゃ、ウチら殺られる、ってなもんよ。
それであわてて追認したんだね。
「頼朝君!武家の棟梁として東国の支配権を認めよう」ってね。
もう、自力で独立国を作ってた頼朝も、朝廷の追認を権威付けに
利用したのよ。これがギブ安堵テイク。
武家の棟梁としての征夷大将軍なんてのは
武家の利害を代表できる人物だったら誰でもいいのよ。
ただし、朝廷との繋がり無しじゃ権力を維持できない
伊勢平氏は武家の棟梁にはふさわしくないんだね。
さらに、伊勢平氏が西国を中心とした勢力圏に居たのも
武家の棟梁としての性格を持てなかったことの原因でもあるのだわさ。
もし、伊勢源氏が清盛の時点で武家の棟梁になろうとしたら
頼朝のように独自に武士を統率するシステムを確立しなくてはならなかったんだけど
伊勢平氏は律令を流用した貴族的システムしか組めなかった。
外戚とか荘園とか古くさいことしかせんかったからな。
そのイメージで平氏は武家の棟梁にはふさわしくない、っていう話が
出てきたんじゃないでしょうか。実際にはそんなことはどうでもよくて
公家にとっては源氏だろうが平氏だろうが関係なかったと、勝手に思っとるわけ。
392 :
日本@名無史さん:04/01/18 17:32
>>391 >外戚とか荘園とか古くさいことしかせんかったからな。
源頼朝のシステムと同じですね。関東御領といい、大姫の件といい。
394 :
日本@名無史さん:04/01/18 18:00
つまらんのう
395 :
日本@名無史さん:04/01/18 18:36
幕府が事実上の独立国だったのも確かだけど、
将軍がひとりの高級貴族・荘園領主でもあったのも事実
まぁ、元々武士団の棟梁頼朝君は貴族出身だからな。
言いたかったことは封建的主従関係を清盛が確立しなかった、ってこった。
いや、確率したのかもしれんが俺は知らない。
それに清盛君はどっぷり律令に頼っちゃって貴族丸出しだし。
397 :
日本@名無史さん:04/01/18 22:43
大姫のことも勉強しよう。
摂関家とやってることはほとんどかわらん。
398 :
日本@名無史さん:04/01/18 22:45
>>397 まあそこが頼朝の中途半端なところだな。
北条氏が実権を握ってから頼朝のやり残したことを徹底させた
399 :
日本@名無史さん:04/01/18 22:57
所詮は頼朝も田舎侍、源通親の手練手管にかかるとチョロイものだった。
400 :
日本@名無史さん:04/01/18 23:06
401 :
日本@名無史さん:04/01/18 23:17
>>400 頼朝は生まれも育ちも京都。バリバリの貴族だよ。
でも伊豆で流人として過ごした年月は京都で過ごした年月より長い。
貴族であってしかも東国武士も知っているというのが頼朝の強みだよな
402 :
日本@名無史さん:04/01/19 00:14
自分を特別扱いし、朝廷との結びつきに腐心したことが東国武士の反感を買い、
殺されたんだろ?
頼家・実朝も同じ道筋をたどり、承久の乱で頼朝の残党は一掃されたわけだ。
厨1未満と推測される402がいるスレはここですか?
404 :
日本@名無史さん:04/01/19 01:32
特別扱いされる人間でなければ鎌倉殿=将軍にはなれなかった。
その後の摂家将軍・親王将軍はまさに特別扱いされる人間。
>>397 それでは徳川秀忠も摂関家と同じということになりますよね?
くりかえし言うことになるが、清盛がやった外戚政治と
頼朝の武家政治は全く異なるもので、その政治形態の
違いは、娘を入内させようが荘園を持とうが関係ない。
もし、後鳥羽に入内させてたとしても、清盛の律令官職に頼る
政治とは、全く別物だぞ。物事の本質を考えれ。
娘を入内させるだけだったら坂上田村麻呂だってやっとるしのぅ。
まさか、清盛は摂関政治と同じことやってるなんて言わないよな?
入内させれば摂関政治か?まさかそんなこと言わないよな?あぁん?
406 :
日本@名無史さん:04/01/19 02:06
平清盛が源頼朝のやったような準独立国家樹立を成し遂げてないのは確かだね。
清盛の軍事動員はあくまでも天皇の権威を借りてのものだった。
>>406 そうそう、そうなのよ。じゃあ、何故清盛が天皇の権威を利用しての
貴族的な政治形態を採ったかと考えると、伊勢平氏の武家棟梁としての
未熟さが浮き彫りになるんじゃないかな。よくわかんねーけどね。
保元・平治の乱を経験して、京武者(中央の軍事貴族)は、一般貴族と区別化されて
軍事・警察権をほぼ独占する形で掌握していて、その京武者が武力を背景に政権を取った形が
伊勢平氏清盛流の権力独占に繋がっていったんだと思う。俺はそう思う。
もともと、伊勢平氏は地方の武士団との結合が弱かったんだと思う。
んで、武家棟梁としてそれらを糾合出来なかった。院近臣としてスタートした
伊勢平氏の権力基盤はあくまでも中央政権に依存したものだった、みたいな。
だから、自然と権力基盤は朝廷のシステムを利用して、天皇の権威を背景に
諸国の兵士(平氏ではない)を動員していった。いわば公的軍事権掌握。
朝廷(貴族)―諸国兵士ライン。
一方、頼朝は封建の枠外でワイワイやってる東国の武士団をかき集めて
私的な軍事権を独自に掌握していった。その背景には、河内源氏の
平忠常の乱以来築き上げて来た東国での武家棟梁としての性格がある。
幕府(頼朝)−武士団ライン。
この対比どうよ?古いかな?眠いんでウダウダなのは勘弁してちょ。
とりあえず、征夷大将軍(武家棟梁)が平氏ではなく源氏にこそふさわしい
ってな感じに持って行きたい、行きたいんだよ。河内源氏マンセー!
× 幕府(頼朝)−武士団ライン
○ 幕府(武士)−武士団ライン
かな?それも違う気がするけどあんまり考えられなくなってきた・・・
どっちでもいいや。
409 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/19 18:10
折檻政治
虐待政治
410 :
日本@名無史さん:04/01/20 00:25
鎌倉の摂家将軍・皇族将軍は、頼朝の血筋からできるだけ遠い人間を
将軍に据えようとする北条氏の意図の表れだから、将軍を源氏出身者に
限るようになったのは、足利将軍からです。
411 :
日本@名無史さん:04/01/20 09:37
ということは、足利と徳川だけ、ということですかな。
412 :
日本@名無史さん:04/01/20 10:11
ホステスの源氏名も、将軍と関係あるのか?w
414 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/20 10:53
ハロプロの平家みちよは源平の平家と関係あるのか?
415 :
日本@名無史さん:04/01/21 00:26
サカノウエノタムラマロ
416 :
日本@名無史さん:04/01/21 06:53
>>414 沖縄には平姓多そうだよね。安室の母も平だったような・・
なんでだろう
417 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:01
秀吉は源氏の農家出身ではなかったので、将軍や管領にはなれなかった。
418 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:03
源氏でなくても征夷大将軍にはなれるけどね。
419 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:08
確かにそうだが足利家が征夷大将軍に任ぜられて以来、
源氏が慣例化したのでは?
徳川家康が征夷大将軍に任命され幕府を開いた時、朝廷は
徳川が足利幕府を継承した形をとったと聞いたことがある。
420 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:25
明智光秀は清和源氏だったので征夷大将軍になれた。
421 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:25
明智光秀は清和源氏だったので征夷大将軍になれた。
422 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:28
織田信長も羽柴秀吉も朝廷から征夷大将軍職就任を勧められて断っています。
423 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:29
>>422 そんな分析しているから、三流にも掛からない、と言われる所以ですね。
皮肉だとわかっていますが。レベルが低いとしか胃炎ね。
424 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:30
資格がないからな
425 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:31
426 :
日本@名無史さん:04/01/21 23:40
信長や秀吉に対する将軍就任要請は一部廷臣のヨイショに過ぎない。
まともに廟議で取り上げられることなく、いつのまにか消えてしまった。
427 :
日本@名無史さん:04/01/21 23:42
>>426 朝廷の中核的存在である武家伝奏を「一部廷臣」と切り捨てるのは歴史の現実を踏まえた議論ではない。
まともに廟議でとりあげられなかったのは信長や秀吉が将軍職就任を拒否したためだ。
428 :
日本@名無史さん:04/01/21 23:43
武家伝奏はパシリ
>>429 漏れもそれ読んでるとこ。かなり謎がとけてきた。
俺は謎が深まった。考える人間はこうなるものだ。
432 :
日本@名無史さん:04/01/22 21:08
家康が源氏を名乗ったのは「源平交代」からじゃないの?
平氏,源氏,北条,足利,織田・豊臣,徳川。
433 :
日本@名無史さん:04/01/22 21:27
>>428 武家伝奏がパシリ?当時の朝廷の実態を踏まえていないね。
そりゃ信長や秀吉から見れば武家伝奏なんぞパシリだが・・・
天皇以下の公家たちにとっては天からの声を伝える人だよ。
軽々しく扱ってよい存在ではない。
434 :
日本@名無史さん:04/01/22 23:25
伝奏とは,親王・摂家・諸社寺および武家などの奏請を天皇や上皇に執奏する役職である。
武家伝奏は,武家の諸事を天皇に執奏する公卿の職名の一つ。
院政以来あった院伝奏に対し,これは建武中興のときに置かれたのが最初。
『二条河原の落書』に「賢者カホナル伝奏ハ」とあるのがそれで,4番20人が交代で行った。
職名として制度化されたのは室町時代初期で,中山定親が,改元そのほかの重要事項について公武間を斡旋したのが記録の初めである。
江戸時代には定員を2名とし,1603年(慶長8)勧修寺光豊・広橋兼勝が任命されたのが最初で,1867年(慶長3)まで続いた。
幕府の命で,弁舌・文筆に優れたものを選んで補任した。
伝奏は,京都の所司代や江戸の老中と絶えず緊密な連絡をとりつつ,朝幕間の事務の伝達に当たる要職だったので,就任の際,公家・武家のために尽くすことを誓わせた。
役料250俵というが,官位禄物などの配当があって実収三千余石もあった。
435 :
日本@名無史さん:04/01/22 23:37
誰でもできる。レポだ。
436 :
日本@名無史さん:04/01/22 23:39
信長秀吉が将軍位につけなかった最大の理由が彼らの出自にあったことは
明らかである。やはり源氏でなければ将軍になれなかったのである。
437 :
日本@名無史さん:04/01/23 00:11
>誰でもできる。レポだ。
最初にやる奴は偉い。
438 :
日本@名無史さん:04/01/23 08:36
>>436 「明らか」と断定するだけでは説得力がないな。
きちんと挙証してもらわねば。
信長や秀吉に朝廷が将軍職就任を勧めたという事実もあるしな。
439 :
日本@名無史さん:04/01/23 21:20
信長秀吉が将軍位につけなかった最大の理由が彼らの出自に求める436は
朗らかである。
>>436 護良親王や藤原将軍、摂家将軍は?
征夷大将軍になってるぞ。
441 :
日本@名無史さん:04/01/23 22:06
>>440 室町幕府以降は源氏が就任するのが慣例化したんだろ。
442 :
日本@名無史さん:04/01/23 22:18
443 :
日本@名無史さん:04/01/23 22:22
>>436 秀吉は藤原姓になったり、信長は平姓を名乗っていたし、特に征夷大将軍
を狙ってたわけじゃないんじゃないの?
444 :
日本@名無史さん:04/01/23 22:37
だから信長や秀吉を征夷大将軍にしたかったのは朝廷側だっての
445 :
日本@名無史さん:04/01/23 22:45
>>444 信長はともかく、秀吉は違うだろ。
秀吉だったら、朝廷が征夷大将軍を与えてくれそうなら、
征夷大将軍になっているよ。
446 :
日本@名無史さん:04/01/23 22:49
>>445 「多聞院日記」によれば、秀吉も征夷大将軍就任を辞退している形跡がある
447 :
日本@名無史さん:04/01/23 23:04
>>440 親王将軍や摂家将軍などは例外のケースではないのでしょうか。
ちなみに、江戸幕府五代将軍の座をめぐって、綱吉擁立派と京
から有栖川宮を迎えて将軍に擁立する一派が争いましたが、もし
有栖川宮擁立派が勝っていたら、これも例外のケースになったで
しょうね。
448 :
日本@名無史さん:04/01/23 23:06
征夷大将軍が源氏に固定したのは徳川家康以降です。
源氏長者が征夷大将軍の兼任に固定したのも徳川家康以降です。
449 :
日本@名無史さん:04/01/23 23:29
秀吉は征夷大将軍になり幕府をひらきたい為
足利義昭の養子になろうとするも義昭に拒否される
すでに武家の頂点は源氏と決まっていた
やむなく天皇を祭りあげ公家の階級で大名を統率した
関白 内大臣 大納言 源氏である家康は秀吉なきあと
内大臣など必要なかった 将軍として武家を統率できるのだから
徳川の実力と朝廷の大義名分によって
450 :
日本@名無史さん:04/01/24 21:18
>>432 なんで勝手に織田と豊臣を同一にしてんの?
だったら源氏と北条も同一にしなきゃ。
平家、源氏(義仲)、源氏・北条、足利、織田・豊臣、徳川
平→源→源→源→平→源ってことで全然源平交代じゃない。
平→源→源→平→源→平→平→源でも源平交代じゃない。
平→源→源→平→源→平→豊→源も源平交代じゃない。
451 :
日本@名無史さん:04/01/24 21:20
>>449 >秀吉は征夷大将軍になり幕府をひらきたい為
>足利義昭の養子になろうとするも義昭に拒否される
だからそれは林羅山の宣伝したデマだっての。
徳川家の政権を正当化するためのプロパガンダの一環に過ぎない。
452 :
日本@名無史さん:04/01/24 21:25
関東勢力を背景とした実力をもつ者は征夷大将軍を名乗りたがる。
こうすると中央(京)へ対抗する強固な基盤が得られる。
織田、秀吉の基盤は関東にないから、当然将軍になろうとは思わない。
源氏だけしかなれない論者⇔源氏子孫
誰でもなれる論者⇔平氏子孫
番犬が生意気に日本語喋ってるyo(ぷ
454 :
日本@名無史さん:04/01/24 21:46
451
バーカ
源氏になれんから菊亭ハルすえの知恵で公卿になり
豊臣を創設したの
信長は天皇を超えて覇王をめざしたが秀吉の権力は砂上の楼閣
やから征夷大将軍になりたかったの
明らかに素性が卑しいから名乗れないの
松平なんか三河の庄屋 源氏なんかあとづけ
違う意味で羅山つかいなさい
455 :
日本@名無史さん:04/01/24 21:53
456 :
日本@名無史さん:04/01/24 21:54
徳川は新田の子孫ではない。鎌倉時代以後の源平祖先を名乗るものが
極端に多くなり、室町、戦国の大名の祖先は実にころころ変わった。
大名達が系図らしきものを作ったのは豊臣政権から江戸初期。多くが
事実に反するもの。
この適当さは平安時代に定着した。この時代、関東の土豪の祖先が
ほとんどが源平藤橘になってしまっている。成り上がったら、祖先を
高貴なものにするっていうのは一つのセレモニーになった。
家柄は飾りであり、実力がすべての社会が本来の日本社会。家柄が
うるさくなったのは江戸時代以降。
457 :
日本@名無史さん:04/01/24 22:30
変換でしか漢字かけんくせに偉そうにぬかすな!
菊亭はるすえて変換せーへんかっただけじゃ!
オドレは漢字検定でもうけとけ
ダボが!
458 :
日本@名無史さん:04/01/24 22:31
いずれにせよ羽柴秀吉が征夷大将軍就任を朝廷から勧められて断ったのが史実
459 :
日本@名無史さん:04/01/24 23:58
455 :日本@名無史さん :04/01/24 21:53
>>455 菊亭晴季くらい漢字で書けよw
460 :
日本@名無史さん:04/01/25 00:21
とにかく足利以降は源氏でないヤシは将軍になってない。
なれなかったというわけだな。
信長・秀吉が将軍位を望まなかったからな。
462 :
日本@名無史さん:04/01/25 02:14
孝明天皇は、幕府が攘夷をやらなければ征夷大将軍職を剥奪すると
通告した。幕府はこれを怖れた。確かに、攘夷をやらないような征
夷大将軍などは職務怠慢としかいいようがない。幕府は天皇に攘夷
をやると約束したが、条約の早期締結を求めるハリスから尻を叩か
れていた幕府は、相反する約束を同時にしてしまった。これが幕府
の衰退を一層加速させることになった。
463 :
日本@名無史さん:04/01/25 08:32
近世の創始者信長ですら源氏の壁は越えられなかったということだ
464 :
日本@名無史さん:04/01/25 15:22
源氏出身者でない限り、望んでなれるものではないことは信長は知っていた。
何も知らない朝廷が余計なことをしただけ。
465 :
日本@名無史さん:04/01/25 15:27
466 :
日本@名無史さん:04/01/25 16:32
>>464 朝廷が織田信長を征夷大将軍に任命しようとした事実は認めるわけねw
467 :
日本@名無史さん:04/01/25 16:59
著しく既出だが、信長の時代は、源氏とか征夷大将軍の値打ちは
著しく下がっておったのですね。
実力で戦国の覇権を握ろうとしている信長にとって、朝廷から覇権を
認知されるなら征夷大将軍で無くとも何でも良かった訳で、秀吉も同様だわな。
信長などは朝廷を倒そうとした形跡もあるわけで、源氏がどうこういうのは、
著しく筋違い。
そんなことより
パーティー抜け出さない?
469 :
日本@名無史さん:04/01/25 19:45
>>450 秀吉は,信長の後継者を位置付けるために信長と同じ平氏を名乗った。
(藤原等も名乗っていますが・・・)
だから織田・豊臣を平氏としてまとめたんだけど。
北条は明らかに平氏だから源氏とまとめたらダメだし,
義仲は旭将軍にされてるけど,結局は反乱的な域を出てない,と何かで読んだ。
うろ覚えだけど。
470 :
日本@名無史さん:04/01/25 20:29
だから、結局は源氏でないヤツは無資格者なんだよ。
471 :
日本@名無史さん:04/01/25 20:35
無資格者でも朝廷は平気で征夷大将軍に任命するけどね。
織田信長も羽柴秀吉もそうだった。
472 :
日本@名無史さん:04/01/25 20:40
源氏の棟梁にとってだけ、征夷大将軍に特別の意味がある。
473 :
日本@名無史さん:04/01/26 00:51
源氏ではない信長・秀吉には用はない。
474 :
日本@名無史さん:04/01/26 00:55
源氏ではなくても朝廷は平気で征夷大将軍に任命するけどね。
「源氏しか征夷大将軍になれない」なんて徳川家が言いふらした嘘っぱち。
475 :
日本@名無史さん:04/01/26 00:56
無茶を言っちゃいかんぜよ。素人はこれだから困るんだ。
476 :
日本@名無史さん:04/01/26 00:58
477 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:01
怒られてしまった。
478 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:04
まあ、任命できないから任命してないんだけどね・・・
479 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:05
できないわけじゃないけど、任命する気がないということだな。
480 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:15
織田信長は征夷大将軍になろうとして、源氏になってなかったっけ?
481 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:16
それは徳川家康だろう。
482 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:22
朝廷は織田信長と羽柴秀吉を征夷大将軍に任命しようとした。
本人が就任を拒否したから実現しなかっただけで任命は可能。
拒否した理由は「貧乏公方」足利義昭の後継者になるのが嫌だったから。
「源氏しか征夷大将軍になれない」というのは徳川家のプロパガンダに過ぎない。
483 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:23
任命する気がなかった。これが正解。
484 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:25
>>483 挙証できないなら書き込むな。
朝廷は任命する気満々だったんだよ。
485 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:26
そんな単純な話ではなかったのだ。
486 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:29
だから清和源氏でない信長・秀吉はダメだったわけだろ?
487 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:32
>>486 朝廷は信長・秀吉を任命する気だったの。本人が断っただけ。
清和源氏でなくても征夷大将軍にはなれる。
鎌倉幕府の摂家将軍・親王将軍の例をひくまでもない。
488 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:33
さっきから黙って聞いてると「源氏しか征夷大将軍になれない」という根拠がまったく示されていないのだがどういうことだ?
489 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:36
やっぱり源氏でないとね・・・いろいろ差し障りもあるし。
490 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:48
>>489 だからその「差し障り」てのはなんなんだよ。ホントにあるのかよそんなもん。
491 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:53
信長は源氏になることを拒否したので、将軍になれなかった。
492 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:56
秀吉は源氏になり損ねたので、将軍になれなかった。
493 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:56
>>491 信長が源氏になることを拒否したというソースを示せ。
それでなくては信用できん。
494 :
日本@名無史さん:04/01/26 01:59
家康は源氏であることを朝廷に認めさせたので、将軍になれた。
495 :
日本@名無史さん:04/01/26 02:01
>>492 秀吉が源氏になり損ねたというのは林羅山の捏造したデマ。
496 :
日本@名無史さん:04/01/26 02:07
羅山も騙されていたわけだが、これは本当の話だ。
497 :
日本@名無史さん:04/01/26 02:08
498 :
日本@名無史さん:04/01/26 02:10
秀吉の出自ではお話にならない。でも将軍になれずに方向転換して
関白になったのだから、よかったといえるだろう。
499 :
日本@名無史さん:04/01/26 02:12
>>498 だから「秀吉の出自ではお話にならない」という根拠を示せ。
「多聞院日記」の記述を否定するだけの根拠があるのか?
500 :
日本@名無史さん:04/01/26 02:13
といことで、将軍=源氏が中間報告の結論だ。
ちょうど500になった。
501 :
日本@名無史さん:04/01/26 02:15
朝廷は織田信長と羽柴秀吉を征夷大将軍に任命しようとした。
本人が就任を拒否したから実現しなかっただけで任命は可能。
拒否した理由は「貧乏公方」足利義昭の後継者になるのが嫌だったから。
「源氏しか征夷大将軍になれない」というのは徳川家のプロパガンダに過ぎない。
502 :
日本@名無史さん:04/01/26 02:16
くどいの、お主も。
503 :
日本@名無史さん:04/01/26 02:17
504 :
日本@名無史さん:04/01/26 02:18
コピペは楽でいい。ただし、考える力がつかない。大成しないぞ。
505 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/26 11:17
につけようとしたりしてるし。
いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないっていう
不文律ができたのか誰か教えて
506 :
日本@名無史さん:04/01/26 12:41
室町時代にできた。
そんな不文律は日本はじまって以来、現在まで「ない」
>>505 江戸時代。
源平交代思想も江戸時代の産物。
江戸幕府の正統性を宣伝するためのものですね。
ちなみに織田信長と豊臣秀吉が征夷大将軍になれなかったのは
関東制圧が出来なかったから。
信長は武田を下し、一気に北関東まで軍を進めた段階で三職推任の話しが出てる。
秀吉は北条を下した段階で征夷大将軍に任ぜられることも出来たが公家として関白になっているので
征夷大将軍は必要なかった。
源平藤橘で関東を支配し、全国的な勢力を持っていれば征夷大将軍に任ぜられる可能性があった。
征夷大将軍は関東を基盤に(東北地方の)夷を征するので関東を制圧していることが必須。
少なくとも世襲幕府の最初では、という但し書きは必要だけどw
509 :
日本@名無史さん:04/01/26 16:30
信長は中世以来の武家の棟梁って感じじゃないな。
家康はガチガチの保守主義者だから将軍職がお似合い。
510 :
日本@名無史さん:04/01/26 20:54
徳川の将軍で、「征夷」をした奴は一人もいない。
むしろ征夷されたな。
512 :
日本@名無史さん:04/01/26 21:44
513 :
日本@名無史さん:04/01/27 20:36
結局源氏出身者だけが将軍になり得たわけだ。
卑賤のため将軍にはなれなかったけど、かわりに関白にはなれました。
515 :
日本@名無史さん:04/01/27 20:45
>514
関白の方が将軍より上だから、「卑賤のため」というのはおかしいだろう。
516 :
日本@名無史さん:04/01/27 20:49
坂上田村麻呂は源氏じゃねえぞ。
517 :
日本@名無史さん:04/01/27 20:53
>>516 坂上田村麻呂は帰化人の家系、ハッ!この辺にヒントがあるのか?
出自が卑しかったため、源氏でなければ任ぜられない将軍にはなれませんでした。
しかし格別の計らいで関白には任ぜられることができました。
519 :
日本@名無史さん:04/01/27 21:02
520 :
日本@名無史さん:04/01/27 21:02
朝廷は織田信長と羽柴秀吉を征夷大将軍に任命しようとした。
本人が就任を拒否したから実現しなかっただけで任命は可能。
拒否した理由は「貧乏公方」足利義昭の後継者になるのが嫌だったから。
「源氏しか征夷大将軍になれない」というのは徳川家のプロパガンダに過ぎない。
521 :
日本@名無史さん:04/01/27 21:03
>>518 位でいえば関白は征夷大将軍より上位だ。
522 :
日本@名無史さん:04/01/27 21:11
力関係から言えば関白は征夷大将軍に使役される存在だがな。
523 :
日本@名無史さん:04/01/27 21:12
信長は源氏になることを嫌がったので、朝廷は将軍に任命できなかった。
秀吉は源氏になりたかったが、さすがに土民から源氏になることを
世間は承知しなかった。秀吉が皇胤説を吹聴したりして懸命に運動した結果、
朝廷も折れて関白で手を打つことになった。
524 :
日本@名無史さん:04/01/27 21:14
525 :
日本@名無史さん:04/01/27 21:20
526 :
日本@名無史さん:04/01/27 21:22
527 :
日本@名無史さん:04/01/27 21:25
摂政=天皇の代行者、代理者。
関白ー天皇の補佐役。
征夷大将軍=天皇の軍隊の最高指揮官。
でよろしいか?
528 :
日本@名無史さん:04/01/27 22:01
529 :
日本@名無史さん:04/01/27 22:29
NHKの「葵 徳川三代」で天海がこんな様な事言ってた。
『関白は公家の棟梁,征夷大将軍は武家の棟梁』
この時代の認識はこんな感じでしょ?
この辺になんかあるかな。
530 :
日本@名無史さん:04/01/27 22:33
武家の棟梁といえば源氏と決まっておる。
信長や秀吉は源氏じゃないからダメ。
531 :
日本@名無史さん:04/01/27 22:37
>>530 徳川家康にだまされてやがる。哀れなやつ。
532 :
日本@名無史さん:04/01/27 22:37
>>529 まとめると、
ブッシュアメリカ大棟梁>>>越えられない壁>>>>>>関白=公家の棟梁>>>>征夷大将軍=武家の棟梁
533 :
日本@名無史さん:04/01/27 22:40
征夷大将軍は日本国王、関白は朝廷における幕府の出先機関
それが江戸時代の認識
534 :
日本@名無史さん:04/01/27 23:23
征夷大将軍>>老中>>京都所司代>>超えられない壁>>関白>武家伝奏>天皇
大統領、関白、征夷大将軍、天皇、老中、京都所司代、武家伝奏、
そのほかすべて>>>>超えられない壁>>>>>にちゃんねら
536 :
日本@名無史さん:04/01/28 02:11
>>523は「信長・秀吉は将軍になれなかった」というソースが出せないということでよろしいな?
537 :
日本@名無史さん:04/01/28 02:29
勝手に仕切るもんじゃねえぜ、受験生さん。
538 :
日本@名無史さん:04/01/28 02:34
>>537 空威張りですごむヒマがあったら「信長・秀吉は将軍になれなかった」というソースをさっさと出せ。
539 :
日本@名無史さん:04/01/28 02:39
いや、すごんでるんではなくて、礼儀をわきまえない青二才を諭しているんです。
540 :
日本@名無史さん:04/01/28 02:40
>>539 ソースも出さずに「信長・秀吉は将軍になれなかった」と断定する青二才も諭してあげなさい。
541 :
日本@名無史さん:04/01/28 02:43
残念ながら、私は相手を見て諭すくせがある。諭す相手は××と決めています。
542 :
日本@名無史さん:04/01/28 02:56
ソースと言われても決まった物しかないだろ。
543 :
日本@名無史さん:04/01/28 02:59
新説なり突拍子もない説を開陳してくるなら楽しめるのに。
544 :
日本@名無史さん:04/01/28 03:02
545 :
日本@名無史さん:04/01/28 03:04
ちんちん
546 :
日本@名無史さん:04/01/28 03:04
しかし「源氏でなければ征夷大将軍になれない」なんて嘘っぱちをいまだに信じている馬鹿がいるというのは驚きだ。
547 :
日本@名無史さん:04/01/28 03:06
信長・秀吉は源氏出身ではなかったので将軍になれなかった(通説)。
548 :
日本@名無史さん:04/01/28 03:11
信長・秀吉が源氏を称していて将軍になっていたら日本史も変わってたかもね。
仮に信長や秀吉が「将軍にしてちょ」と朝廷に迫ったとして、
それを拒否する力は、当時の朝廷には無かったと思うが。
朝廷にとって一番困るのは、時の最高権力者が何の官職にも就いてくれない事だろ。
550 :
日本@名無史さん:04/01/28 03:22
朝廷が提示した将軍宣下の条件は清和源氏の名跡を継ぐことでした。
信長は即座に拒否し、自ら将軍になる手立てを失ったのです。これに対して秀吉は、
条件を受諾したものの、足利義昭の猶子になろうとしたのが判断ミスでした。
秀吉の出自を深く軽蔑していた義昭は秀吉の恫喝を断固斥けたのです。
結局、新田一族の怪しげな系図を利用した家康に将軍のお鉢が回ってきましたとさ。
551 :
日本@名無史さん:04/01/28 03:26
将軍になればいい事あるのか。
552 :
日本@名無史さん:04/01/28 03:28
信長の野望だったら誰でも征夷大将軍になれるからな・・・ありえねぇ
553 :
日本@名無史さん:04/01/28 03:40
朝廷が恐れたのは信長が平氏を称していることでした。平安時代に地下人から太政大臣にまで
上りつめた平清盛の幻影を見たのです。平家同様、信長も既成の序列を無視して朝廷内をかき回すのでは
ないか。そこで考案されたのが将軍就任と清和源氏承継をセットにすることでした。
足利氏に代表される清和源氏は、将軍になれても摂関や天皇にはなれない家柄だったからです。
信長がこの提案を拒否したため朝廷では対応に苦慮しましたが、彼は本能寺の変で横死。本能寺の変は
朝廷が一枚噛んでいるのではないかとの疑いは濃厚なのです。
554 :
日本@名無史さん:04/01/28 10:38
555 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/28 11:58
醤油で我慢しろ
男だろ?
556 :
日本@名無史さん:04/01/28 12:34
>>553 義満が天皇になろうとした幻影はみなかったんだね。
557 :
日本@名無史さん:04/01/28 16:19
558 :
日本@名無史さん:04/01/28 18:48
はい、父祖の例を超えて太政大臣になり、皇位簒奪や日本国王を目指した義満の姿は、当然朝廷
貴族の脳裏にありました。しかし、義満の死後、彼の構想はその子義持によって消し去られました。
義持は、父義満の増長ぶりを詫びて太上天皇の尊号を辞退、さらに金閣を破却し、義満の後継者
気取りでいた弟義嗣を拘禁することで、既存体制への復帰・服従の意思を表したのです。
これを機に、足利氏に代表される清和源氏と朝廷は、同じ体制派として良好な関係に戻りました。
559 :
日本@名無史さん:04/01/28 18:50
560 :
日本@名無史さん:04/01/28 18:56
一方、信長が父祖と定めた平資盛は源平の争乱において朝敵になったまま(だったと思う)。
よって、その子孫である信長は、朝廷にとってはアウトローであり、統制のきかない人物です。
しかも、実質的にわが国の支配者でありながら、形式上は下級役人の官位に甘んじていた、
同じ平氏出身の北条氏とは異なり、信長は尾張守護代の家柄にもかかわらず、破格の昇進を
続けました。
朝敵の子孫であることを公言しつつ朝廷の要職に就く信長の態度に、貴族たちは得体の知れない
不気味なものを感じたのです。
561 :
日本@名無史さん:04/01/28 19:00
そんな信長に対して朝廷が仕掛けました。彼が源氏の名跡を継ぐようであるならば、体制側の
一員として迎え入れることが可能だ・・・。朝廷はそう考えたのです。将軍職云々の話は、
いわば付け足しに過ぎませんでした。
革命児信長が平姓にこだわったとき、彼の運命が決まったのでした。
>>560 信長は尾張守護代の家柄じゃないよ。
織田の嫡流は尾張守護代だけど。
しかし「源氏でなくても征夷大将軍になれる」なんて嘘っぱちをいまだに信じている馬鹿がいるというのは驚きだ。
564 :
日本@名無史さん:04/01/28 21:01
566 :
日本@名無史さん:04/01/28 21:26
ソース厨、バカの一つ覚えw
567 :
日本@名無史さん:04/01/28 21:33
ソースも出せない妄想を公共の掲示板に書き込むんじゃねえよ、恥知らず。
568 :
日本@名無史さん:04/01/28 21:35
ほんとだわ、日本史釣堀ってよく釣れること!
しかし「源氏でなくては征夷大将軍になれない」なんて嘘っぱちをいまだに信じている馬鹿がいるというのは驚きだ。
信長が将軍になれなかった理由は解明できたわけだが、
秀吉は通説どおり、足利義昭の養子になれなかったのが
致命的だったというべきだろう。
571 :
日本@名無史さん:04/01/28 23:14
朝廷は織田信長と羽柴秀吉を征夷大将軍に任命しようとした。
本人が就任を拒否したから実現しなかっただけで任命は可能。
拒否した理由は「貧乏公方」足利義昭の後継者になるのが嫌だったから。
「源氏しか征夷大将軍になれない」というのは徳川家のプロパガンダに過ぎない。
572 :
日本@名無史さん:04/01/28 23:23
そうだね征夷大将軍などという軍の長を日本を統べる者の官位に変わっていったのだね。
573 :
日本@名無史さん:04/01/28 23:28
574 :
日本@名無史さん:04/01/29 11:28
つーか、
>>1自身が3行目に書いたことから大体は推定できそうなものだ。
575 :
日本@名無史さん:04/01/29 17:05
>>567 おまえがこの世に存在してるというソースを出してみな
でなかったら、おまえは掲示板に書きこめないよな
「オマエモナー」とかいう(使い古した)切り返しは無しな
俺は「ソースを出せないなら書きこまない」なんて持論は持ってないし、
そんなのに従う義理も義務もない。
576 :
日本@名無史さん:04/01/29 17:07
>>575 >おまえがこの世に存在してるというソースを出してみな
関係ないが横レスで。
これどういう意味?なんの必要があって?
そして、どうして、自分ができない事を他人に望むの?
577 :
日本@名無史さん:04/01/29 19:32
てゆーか、源氏でなければ将軍になれないんだよ
578 :
日本@名無史さん:04/01/29 19:35
だから信長と秀吉は将軍になれなかったんだよな。
579 :
日本@名無史さん:04/01/29 19:48
しかし「源氏でなくては征夷大将軍になれない」なんて嘘っぱちを粘着して広めようとしている狂人には驚かされるw
580 :
日本@名無史さん:04/01/29 19:49
まったくだなw
581 :
日本@名無史さん:04/01/29 19:58
負け惜しみウザイ
21世紀の今日、将軍位を、高らかに自称している人が、約1名いる。
リビアでは、「大佐」の地位が最高だそうだが、それに対抗して
いるのか知らないが、将軍と呼ばれる貧乏国の元首がいる。
あの将軍は、「征夷大将軍」という意味もあるのだろうか?
583 :
日本@名無史さん:04/01/29 20:23
そのうち日本も北朝鮮に征夷されちゃうのか?
あいつは征伐される側だろ
585 :
日本@名無史さん:04/01/29 20:27
朝鮮征伐は差別だろ?少なくとも○阪ではめったに胃炎。
586 :
日本@名無史さん:04/01/29 20:32
秀吉は農民出身だったのがイタかった。
587 :
日本@名無史さん:04/01/29 20:51
羽柴太政大臣豊臣朝臣秀吉公
588 :
日本@名無史さん:04/01/29 21:24
将軍になれなかったから関白になった人
589 :
日本@名無史さん:04/01/29 22:21
関白になれなかったから将軍になった人、家康・金正日
590 :
日本@名無史さん:04/01/30 00:19
学会では、「源氏しか将軍になれない」なんていう説を、その背景に関する考察には諸説あれど、
支持してる人は皆無だけど、このスレで当該説の支持運動を繰り広げている人は、
当該説が流布することで何か得することでもあるの?
しかし「源氏でなくても征夷大将軍になれる」なんて嘘っぱちをいまだに信じている馬鹿がいるというのは驚きだ。
592 :
日本@名無史さん:04/01/30 00:56
源氏でなくて将軍になれた人=木曾義仲
こんなことも知らんのかここのアフォどもは…
まったく大したもんだな!!(^▽^)
594 :
坂上田村麿:04/01/30 01:19
洒落きつすぎ
まったくでおじゃる
…
597 :
日本@名無史さん:04/01/30 02:57
「源氏でなくては征夷大将軍になれない」というのは徳川家のプロパガンダに基づく虚構に過ぎない
まあ、マッカーサーも源氏じゃないから征夷大将軍にはなれなかったしな。
>>598 ばーか。当時の公家の日記にはマッカーサーが
固辞したって書いてあるんだよ。ちょっとは史料嫁
600 :
日本@名無史さん:04/01/30 07:49
ということで、将軍=源氏は動かしがたい事実というわけだ。
信長・秀吉は将軍を望まなかったなんて、ヲタの空想に過ぎん。
600ゲト!
601 :
日本@名無史さん:04/01/30 10:26
しかし「源氏でなくては征夷大将軍になれない」なんて嘘っぱちを粘着して広めようとしている狂人には驚かされるw
結果論としては、足利尊氏以降の征夷大将軍は全員源氏。
徳川の出自は怪しくても、源氏の一派として将軍に任命されている。
間違いない。
603 :
日本@名無史さん:04/01/30 13:52
正式には頼朝以降の征夷大将軍が源氏。
てか坂上田村麻呂のときは違うワケじゃん?
>>599 おー、そうだったな。悪かった。その日記を読んだら、
逆に倭王朕が新羅百済任那台湾失地将軍、親米あっそ王に
序せられたと書いてあった。
>>603 鎌倉幕府の九条将軍は藤原姓だし、宮将軍は親王だろ。
鎌倉〜建武期の将軍って
源頼朝・頼家・実朝=清和源氏
藤原頼経・頼嗣=摂家(九条家庶子)
宗尊・惟康・久明・守邦=親王(ただし惟康は王→源姓→親王)
護良・成良=親王
となるわけだが、どこが源氏だけだって?
ただ、惟康が一時期源姓を名乗ってることから考えて、
武家の棟梁=源氏
という認識は鎌倉時代にはあったんだろうね。
権征夷大将軍なら私にも権利があったような…
608 :
日本@名無史さん:04/01/30 22:59
伊達家は藤原氏だったな。
やはり源氏でなくても征夷大将軍にはなれるんだな。
609 :
日本@名無史さん:04/01/31 00:12
源氏でなければ将軍になれないとかほざいていた低脳厨房は
俺に論破されて逃げたようだな。
ヒャッホーイ勝利確定!
610 :
日本@名無史さん:04/01/31 00:25
>>609 源氏でなければ将軍になれない、と、これは日本史の常識として考えていた。
皇族と摂関家は源氏より上だから、例外である。
つまり、平氏をはじめとする、源氏以外の武士はなれないという意味で理解していた。
でも、どうやらそんな決まりはなかったみたいだね。
源氏でなければ、とういうのは単なる習慣となったのか?
源氏以外の武士で征夷大将軍になった前例がないとなると、何事も前例による公家社会では、源氏以外を任官したがらなくなるのかしれない。
家康が源氏を称したのは、そういった公家たちの心理的負担を少し軽減してやろうというつもりだったのかも。
611 :
日本@名無史さん:04/01/31 00:45
「源氏でなければ征夷大将軍になれない」というのは徳川家のプロパガンダに過ぎんよ。
朝廷は平氏の織田信長や羽柴秀吉を征夷大将軍に任ずることになんの抵抗感も持っていなかった。
「征夷大将軍には源氏がふさわしい」というのは鎌倉幕府の御家人の幻想に過ぎない。
612 :
日本@名無史さん:04/01/31 00:47
日本の伝統が固まったのは室町ごろ。
おそらくそのころから、家格の概念が固まりだし、源氏以外は将軍になれないという考えが広まったと思われ。
613 :
日本@名無史さん:04/01/31 00:51
あ,そうか。
「臣下では」源氏でないと将軍になってない考えると一応のつじつまは合うな。
摂関家はほとんど皇族の身内みたいになっていたため,他の臣下同様に考えられないってのはあるかも。
だからといって,別に「源氏でないとダメ説」を支持するつもりはないが。
ただ,単に結果を見た場合の話で。
614 :
日本@名無史さん:04/01/31 01:21
俺は間違いなく文句なしの有資格者、源朝臣なんだが・・・・・現代では
どうしようもない、生まれる時代を間違った。俺が首相になって天皇から
源氏長者にも同時に任命してもらいたい!
615 :
日本@名無史さん:04/01/31 01:40
つまり、源氏でないやつは将軍になれないってことだ。
616 :
日本@名無史さん:04/01/31 01:45
源氏でも頼朝につながる清和源氏でなくっちゃね!
617 :
日本@名無史さん:04/01/31 04:35
キチガイが必死だな
死ぬまで将軍は源氏しかなれないとほざいてろよw
618 :
日本@名無史さん:04/01/31 04:44
将軍位は元々は高い位じゃないでしょ。
誰が高くしたのだ?
619 :
日本@名無史さん:04/01/31 04:47
620 :
日本@名無史さん:04/01/31 05:17
>>614 源氏の血をひいているだけなら、日本中にいくらでもいる。
おまえが氏長者になれるほど由緒ある家柄なのか、名前を公表しろ。
621 :
日本@名無史さん:04/01/31 07:05
伊豆頼朝
622 :
日本@名無史さん:04/01/31 07:44
鎌倉頼朝
623 :
日本@名無史さん:04/01/31 07:45
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ヾ;;;;;;;;;;;;:-''{ ヽ`ニ=彡/ `''ー (´ iヽ ヽ
ヾ/ '、_,,ノ ,,..ニシ--、,,_ _,-i ヽ }!
/ / / ((彡, ミ=r=≧;;- /≦=ヤト、 )ツ
{! / >、ミ= 、ヽゝヾ;;シ`` l"k;;シチ ))´ノ!
lヽ、 ,' (  ̄`ヾ.) ^^^` i ´^^`/'´ ハ
>、ヽ| ヾミ=‐イ '、 (__彡' ', 将軍は源氏しかなれないのよ。ひろみ
/,.- ヾミ、 {`=彡r,. / (´_彡'i、 !
.l/=-'´ ̄ヽ、 `{´ { {{{i、_ノ ー-`ニ- ∧ ! ヾ!,ノ
/´/ ,,. ‐={ヽ、 ``ヽ ̄ヽ、 `''ー' ,.イリノ' ヽ |l!
./ ,,.=l/ ,,.=={ヽ、` = _ 、ヽ ` 、 ,.イ ,,.ノ l ノ==、
l/ ,r=f//´ ̄ト、 `= __ ヾ、ヽ ', `´ !/ _,,,.ノヽ==、ヽ
/〃/ f/ - ― ->ミ=、___`ヽ ヽ リ ! /⌒ヾヽヽ}`ヽヽ}
!{{l {'、 //´ _,,,..{/´_, ==`ヾ, }} ! |l/ ,.==、ヽヽ}⌒ヽリ
'、'、 '、{ / { /==- 、 リノヽ. ヽ {(⌒))ヽソ- 、 リ!
624 :
日本@名無史さん:04/01/31 08:28
むしろ源氏は将軍にしかなれないとか逝ってみるテスト
625 :
日本@名無史さん:04/01/31 08:41
藤原氏は天皇になれないけど、源氏では天皇になった香具師もいるんだが
そういえばそうだ。
源定省と源維城でしたっけ
628 :
日本@名無史さん:04/01/31 09:35
維城さんってだれ?
629 :
日本@名無史さん:04/01/31 09:40
>628
敦仁さんの昔の名前
630 :
日本@名無史さん:04/01/31 09:48
>>611 >「源氏でなければ征夷大将軍になれない」というのは徳川家のプロパガンダに過ぎんよ。
どうして、それが徳川家のプロパガンダになるのかが疑問。
源氏なんて徳川家以外うじゃうじゃいるし、徳川が源氏なんていうのも眉唾だし。
あまりメリットがないと思うが。
631 :
日本@名無史さん:04/01/31 09:52
>>625 「源氏でなければ征夷大将軍になれない」の源氏は清和源氏だけでしょう?
632 :
日本@名無史さん:04/01/31 10:07
正統派清和源氏でも、太政大臣もおれば、総理大臣もおる。
633 :
日本@名無史さん:04/01/31 10:12
まあ藤原北家だけしか関白になれないというルールがあっても秀吉が関白になってるし
足利義嗣は天皇になる寸前だった。
信長に将軍任官の動きがあったとしても、それは源氏将軍という慣習が成立してがなかったという根拠にはならない。
任官原則なんてそんなもん。
言うまでもなく
慣習が成立していたという根拠にもならない
635 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/31 10:39
清和源氏は総理大臣もおれば、茶道家もおるぞ。
636 :
日本@名無史さん:04/01/31 10:49
総理大臣なんて、長州の足軽や越後のドン百姓でもなれるのに、
いまさら源氏もヘッタクレもあるかよw
637 :
日本@名無史さん:04/01/31 10:50
ていうか、清和源氏のホソカワの方がきわめて例外的な存在>総理
征夷大将軍は源氏以外もなれたが、「武家政権の棟梁としてはこれまでの慣習や例からみても源氏のものが征夷大将軍になったほうが自然だ」くらいの認識はある程度あったんじゃないかな。
639 :
日本@名無史さん:04/01/31 12:19
>>613 鎌倉幕府は最初は宮将軍を望んでいたが、朝廷が許さず、代わりに藤原氏が将軍になったが、これは摂関家というよりむしろ頼朝の縁戚であったことも加味されたのでは?
「豊田氏でなければトヨタの社長になれない」
というのはウソでした。
S学会員でなければK党員になれないというのは本当ですが
日蓮宗の信仰を持ってなければK党員になれないというのは(以下自粛)
642 :
日本@名無史さん:04/01/31 20:52
北条氏は反頼朝勢力の中心だったから、頼朝とは無関係の皇族将軍を希望した。
朝廷と密接になりすぎた源氏将軍時代の反省を踏まえた、北条氏の朝廷に対する
精一杯の歩み寄りだったといってよい。
後鳥羽がこれを拒否したのと、依然として頼朝時代を懐古する御家人勢力が
いたことを考慮し、一応頼朝と血縁のある九条家から将軍を迎えた。
643 :
日本@名無史さん:04/01/31 20:57
>>642 何だそりゃ。
訳分からないこと言ってるなよ。
>北条氏は反頼朝勢力の中心だったから
そんな話は初耳だ。
一体何を持って「反頼朝勢力」
という考え方が出てくるのだろうか?
644 :
日本@名無史さん:04/01/31 21:16
鎌倉殿として東国武士の統率者となった頼朝が、晩年においては大姫入内問題に
みられるような源氏一族のみの繁栄を企図した対朝廷工作に執心する姿をみて、
東国武士の間に失望感が広まったことは間違いない。
頼朝死後、外孫である頼家・実朝が将軍を継いだにもかかわらず、むしろ将軍の
実権を制限する方向で活動する北条氏は、頼朝が構築しようとした将軍独裁体制
とは明らかに一線を画している。
>644
三浦 千葉 上総介 足利 なんかのまともな家は頼朝派だったと思われ
頼朝は将軍独裁体制なんか構築しようと思ってなかっただろ。単純に公家侍として
娘を入内させたかっただけだろ。実朝は何を考えてたかしらんが、京都へ追放して
あげたほうが本人的には良かったと思われる。
646 :
日本@名無史さん:04/01/31 21:32
源氏将軍が断絶した後、頼朝の精神的後継者ともいうべき公家は、一条家で
あった。にもかかわらず、鎌倉幕府はこれを避け、あえて九条家から将軍を
迎えた。
そして、その後の承久の乱において、一条家は京都側の中心人物として活躍する。
承久の乱は、表面上は朝廷vs幕府の争いであったが、裏では幕府内部における
源氏将軍独裁派と有力御家人合議派の争いであった。前者を操ったのが一条家で、
後者の中心が北条氏であったことだらう。
647 :
日本@名無史さん:04/01/31 21:32
>>644 >源氏一族のみの繁栄を企図した対朝廷工作に執心する姿をみて、
>東国武士の間に失望感が広まったことは間違いない。
じゃあ、将軍頼経の上洛の時、
御家人が一生懸命官位・官職の獲得に動いたのは何で?
それに歯止めをかけたのは時房・泰時だけどね。
648 :
日本@名無史さん:04/01/31 21:49
幼少の頃から流人としての生活を送った頼朝には多くの苦労があったであろう。
あの疑り深い性格はそのせいかも知れない。それゆえに、彼は東国武士に全幅の
信頼を置いていたわけではなく、妻の実家である北条をはじめとして、梶原、
和田、上総介など、ごく限られた連中とのみ謀り、行動した。
しかし、このような個人的つながりは儚いものだ。現に、頼家に代替わりすると、
彼は比企のみを重用し、他の御家人は相手にしてもらえなくなる。
この状況に直面したとき、将軍の縁戚という優位な立場にありながら、それに
縋るのではなく、御家人による合議制を主張することを決めた北条は、やはり
田舎武士にしては先が見えるオッサンだったと思う。感動した。
649 :
日本@名無史さん:04/01/31 23:54
だから、清和源氏でなければ征夷大将軍になれないことは明らかです。
織田信長・羽柴秀吉は源氏ではなかったので、将軍になれませんでした。
>>649 だから君は馬鹿だってい言われるんだよ。
651 :
日本@名無史さん:04/02/01 00:00
まあ清和源氏じゃないと将軍になれないってのは常識だからな。
今更得意顔でそんなこと言われてもナ。
652 :
日本@名無史さん:04/02/01 00:00
いきなり横レスされても困るんだが・・・。
653 :
日本@名無史さん:04/02/01 00:20
このスレを見ると
論理的な考えのできない人が世の中にはたくさんいることがわかって
ウツになります。
655 :
日本@名無史さん:04/02/01 00:50
>>648 上総介は頼朝によって謀殺されていますが?
656 :
日本@名無史さん:04/02/01 01:04
源氏でなくても征夷大将軍にはなれます。
藤原氏の伊達慶邦だってなれるんですよ?w
657 :
日本@名無史さん:04/02/01 09:58
伊達氏は将軍はちょっとね・・・。重職につけないとはいわないけど。
658 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/01 10:37
清和源氏発祥の地である兵庫県川西市は死ぬまでに一度はおとずれるべきで
ある。
兵庫県川西市には・・・・・・・・・・・・・・・
世界に二つしかない、ナイチンゲール像のひとつがある。
78へえ
頼朝は、奥州藤原氏の討滅を朝廷に正当化させるため…
ではないのですか?
660 :
日本@名無史さん:04/02/01 12:38
でも,結局伊達慶邦は征夷大将軍になってないよね?
まあ,なったとしてもいわゆる「征夷大将軍」と考えられるかどうか・・・。
あくまでも東北独立政権内での話だし。
661 :
日本@名無史さん:04/02/01 12:49
大奥っていつから女だけになったの?
衆道大奥ってないの?
>>661 …怖い事言い出すなよ…801板に持ち込んじゃうぞw
家光に「その気」が有った話は聞いた事有るけどね。
664 :
日本@名無史さん:04/02/01 22:19
>>661 あくまで想像ですが,「大奥」ができたときからだろうな。
だから春日局の頃じゃない?
将軍以外のタネが混ざらないように男子禁制になったんだし。
だから,ホモ,レズに関しては「大奥」みたいなトコ作る必要性がない。
その気がある人は,その辺でどうぞ御勝手に・・・ってか。
665 :
日本@名無史さん:04/02/02 16:44
江戸くらいかな。でもちょっと前の
秀吉がなんか足利の養子になれなかったあたりから
でたのかも。。
666 :
日本@名無史さん:04/02/02 16:47
高杉晋作が誰かに対して「いよーっ征夷大将軍!」て云ったんじゃん?
慶喜だっけ?げ、源氏?!(つか征夷大将軍!?
667 :
日本@名無史さん:04/02/02 16:49
羽柴秀吉が足利義昭の養子になろうとしたなんてガセネタを信じている馬鹿がまだいたかw
>>661 現実には必要だったかもしれんな。
しかし小姓の武士なのでどこかに押し込めるわけにもいかなかったんだろうな…
小姓絡みの心中沙汰や刃傷沙汰は結構起こってるようですね。
藩によっても違うが小姓に手を出すのは禁止されていたにも関わらず
恋愛問題は絶えなかったようで…
670 :
日本@名無史さん:04/02/02 20:38
私は嘘は申しません
671 :
日本@名無史さん:04/02/02 20:45
>>661 大奥の存在意義は世子製造機関だから男ではダメなの。
ようやく読んだ。
『源氏と国王』(講談社現代新書)
素人には検証不可能な内容が多々あるけどオモロイね。
征夷大将軍て、極めて政治色が強い役職というのはわかったけど。
女帝のこととか、王朝の交替があったとか、ヘェーの連続でした。
女帝のことって?
674 :
日本@名無史さん:04/02/03 07:36
信長や秀吉は武家の棟梁とは認められなかったので、将軍にはなれなかった。
源氏でなかったことも、マイナス要素として作用した。
>>672 正確には『源氏と日本国王』だな。
面白かったよねあの本。
俺は足利義満、徳川家康&秀忠に関する記述あたりが興味深かった。
欲を言えば、中国の史書における記述がどうなっているかを
知りたかったけど、まあ新書だし仕方がないか。
676 :
日本@名無史さん:04/02/03 18:51
足利義満が源氏長者になって以来、征夷大将軍が源氏長者を兼ねるという慣例が出来ている。
家康も将軍と同時に氏長者になった。
677 :
日本@名無史さん:04/02/03 19:07
>>676 どーしてそういう真っ赤な嘘を臆面もなく書くかな。
「幕府」というからには、将軍はみんな右近衛大将なのかとおもってたけど
鎌倉・室町ではそうでない将軍がほとんどだったのか。
しったかしてごめん。
右大将でも左大将でも鎮守府将軍でも
とにかく将軍のいるところは幕府でそ
『源氏と日本国王』から
日本の女帝は必ず独身ーーーp33
日本の皇室はどうなるんでしょうね。
>681
推古天皇 持統天皇 元明天皇・・・・
683 :
日本@名無史さん:04/02/03 20:19
「幕府」という語は、本来、中国では将軍やその作戦本部・居館をさし、
日本でも近衛(このえたいしょう)大将や征夷大将軍をさし、
武家政権をさすようになったのは、江戸時代以降のことです。
建武式目(1336年)では幕府を「柳営(りゅうえい)」と表現し、
頼朝の武家政権創始を「文治(ぶんじ、1185−1190)に右幕下始めて武館を構え」
と、頼朝を「右幕下(うばっか=1190年、右近衛大将)」、
武家政権を「武館」と記しています。
ちなみに室町幕府は上記の建武式目(1336年)、
江戸幕府は徳川家康の征夷大将軍就任(1603年)をもってそれぞれ幕府開設とされています。
尊氏の将軍就任は式目の2年後(1338年)のことなので、征夷大将軍がいることは幕府の必須条件ではありません。
(鎌倉・室町両幕府には、成人してから将軍に任命された幼少の「将軍」もいます)
鎌倉「幕府」の場合、1180年の頼朝挙兵以降、しだいに形成され、
1192年頼朝の征夷大将軍就任をもって「名実ともに成立した」とする表現が一般的な教科書の記述です。
>>681 ちゃんと嫁よ。「皇位に就いた後は」生涯独身を通しているって書いてるじゃん
>684
681の引用の仕方に小一時間
687 :
日本@名無史さん:04/02/03 21:47
前近代の例など現代の皇室にとっては問題外だ。
女帝が結婚して子供を産む。その子が次の皇位を継ぐ。なんの問題がある?
689 :
日本@名無史さん:04/02/03 21:53
女帝オタは天スレにすっこんでろ。他のスレにまで来るな。
690 :
日本@名無史さん:04/02/03 21:54
>>688 女帝の結婚相手を皇族に編入すればよい。そうすれば父親の姓はなくなる。
いまの妃殿下たちに姓がないのと同じことだ。何の問題もない。
691 :
日本@名無史さん:04/02/03 21:55
ていうか、どこの馬の骨かわからん種馬など笑止。
そんなもの国民の税金で扶養する必要はない。
692 :
日本@名無史さん:04/02/03 21:56
>>690 将軍スレに現代の天コロの話題を持ち込むような無粋な真似はヤメレ
693 :
日本@名無史さん:04/02/03 21:57
>>690 >>そうすれば父親の姓はなくなる。
なくなるかよ
なんでわざわざ女帝ヲタが来るかなあ
696 :
日本@名無史さん:04/02/03 21:59
697 :
日本@名無史さん:04/02/03 22:03
女帝オタはウンコ
698 :
日本@名無史さん:04/02/03 23:28
女帝を「じょてい」と読むが如きは、唐ごころに毒されし愚か者じゃ。
女帝は「お○○このみかど」と読むのじゃ。これぞ大和魂なる。
699 :
日本@名無史さん:04/02/03 23:56
>父親の姓が付いてしまう
付けなければ良い。
父方の姓をつける義務はない。
>>699 姓は男系で伝わるんだよ。日本史かじってるくせに言ってること分からないの?
701 :
日本@名無史さん:04/02/04 00:21
やはり源氏でないと征夷大将軍になれない。これが結論。
702 :
日本@名無史さん:04/02/04 00:25
上杉謙信も征夷大将軍にはなれなかった。藤原氏を称したから。
703 :
日本@名無史さん:04/02/04 01:02
>>702 さては、藤原道長が征夷大将軍になれなかったのも、藤原氏だったからか!!
そうか!!
おかげで謎が解けました。
704 :
日本@名無史さん:04/02/04 01:06
上杉謙信の実家である長尾氏は明らかに桓武平氏。
養子に入った上杉氏は藤原氏。
いずれにしても源氏ではない。
705 :
日本@名無史さん:04/02/04 02:34
西郷隆盛が征夷大将軍になれなかったのも、源氏ではなかったからですか?
706 :
日本@名無史さん:04/02/04 03:01
俺が征夷大将軍になれないのも、源氏ではなかったからなのか・・・(´・ω・`)ショボーン
707 :
日本@名無史さん:04/02/04 07:18
>>705 明治になっての尊皇攘夷はまずかろう。
それに、主君の島津氏を差し置くわけにはいかない。
708 :
日本@名無史さん:04/02/04 07:56
島津氏は源氏
自称したもんの勝ち
710 :
日本@名無史さん:04/02/04 11:21
白河上皇が征夷大将軍になれなかったのも、源氏でなかったからなのです。
711 :
日本@名無史さん:04/02/04 12:08
>>703 道長公の御世は、彼の人徳により四海は平穏で、夷も皇徳によく懐き、乱を起さなかった故、征夷の必要がなかったためです。
712 :
日本@名無史さん:04/02/04 12:51
>>705 マジレスすると、小御所会議(慶應3年12月9日)で、摂政・関白・征夷大将軍の官職の廃止が宣言されています。
なお、西郷隆盛は、本人が公称している家系伝承によれば、肥後菊池氏の後裔。
713 :
日本@名無史さん:04/02/04 14:02
三戦板よりレベルが低いな・・・
三戦板って何?
715 :
日本@名無史さん:04/02/04 18:07
源氏なくても将軍になれるでしょう。
自称源頼朝の落胤という
島津忠久(島津初代)と、大友能直(大友初代)は、異母兄弟かW
大友能直は、頼朝の稚児だったんだよ。
719 :
日本@名無史さん:04/02/04 18:27
>>705 明治初期は、陸軍大将とか元帥は西郷ひとりしかいなかったから、
ある意味、陸軍大将(もしくは元帥)は征夷大将軍みたいなものだった。
もちろん、陸軍大将の地位や権力と将軍のそれは、全く性質の異なるものだが、
当時の人間の感覚では大将=将軍みたいなものと感じられていたらしい。
720 :
日本@名無史さん:04/02/04 18:34
鳥羽伏見の戦いの後、島津忠義が「海陸軍事務総督」に任命された際、
薩摩藩の人々は「いよいよ島津幕府の成立か!」と大喜びしたが、
西郷が進言してこれを辞退させ、ぬか喜びに終わったという話がある。
この話からも軍事のトップ=将軍(天下人)という発想があったようだ。
721 :
日本@名無史さん:04/02/04 19:47
源氏でないやつは将軍職につけないわけだ
722 :
日本@名無史さん:04/02/04 20:00
>源氏でないやつは将軍職につけないわけだ
将軍も種類がある
723 :
日本@名無史さん:04/02/04 20:29
武田信玄は、源氏だったが新羅三郎義光の流れだったので、除外事項に該当し、
将軍候補からはずされた。
724 :
日本@名無史さん:04/02/04 20:49
とにかく源氏といっても、めちゃくちゃ多いわけで。
有名な清和源氏なんて、超下級源氏もいいとこらしいよ。
源氏のトップは久我(こが)家なんだとさ。
混乱してきた。
征夷大将軍とは、中国から見て征夷、すなわち日本を制する為に派遣
されてる将軍という意味で中国に対するブラフだったのでは?
んで、それが源氏なのは、武家政権を打ち立てたところから、征夷
すなわち、天皇親政を武家源氏が制したところから、征夷将軍の
血脈って事で、名乗ったという・・
726 :
日本@名無史さん:04/02/04 21:36
北条時政は頼朝の舅だったので将軍になれなかった。
平氏は将軍になれないよ
将軍になれるのは源氏だけ。だから信長や秀吉は将軍になれなかった。
728 :
日本@名無史さん:04/02/04 21:46
新田義貞はその祖先が源頼朝にタテついたことがあり、
武家社会のいわば非主流派だったので、将軍になれず、
近衛中将に甘んじた。
てあたり次第そこらぢゅうで『源氏と日本国王』の話題ふってる人いるねえ
講談社の社員かバイトか、どちらにしろ大変ですね。
>>729 単純に、読んで面白かったんじゃね?ひねくれてるなあ
731 :
日本@名無史さん:04/02/04 23:20
>>728 新田義貞が征夷大将軍になれなかったのは「親王しか将軍にしない」という後醍醐院の方針があったからだろう?
実際、それが当時の武家社会の実態にも合致していたしな。足利尊氏が後醍醐が失脚するまで将軍になれなかったのも同じ理由。
732 :
日本@名無史さん:04/02/04 23:40
足利尊氏を征夷大将軍に任命したのは北朝のみじゃなかったっけ?
南朝も任命してた?
南朝の方針,つまり後醍醐帝の方針からすると,武家の台頭をエラク嫌ってたはずだから,
後醍醐死後でも任命しないと思うんだけど・・・?
>>730 書名の連呼で内容はほとんど語られることがない。
内容について僅かながらも語られたのはこのスレぐらいなもん。
734 :
日本@名無史さん:04/02/04 23:47
源氏で最初に征夷大将軍に任じられたのは義仲?
それ以前はあまりメジャーじゃなかったのね。
頼義とか義家なんて、征夷大将軍より陸奥守とか鎮守府将軍の方を望んだのに。
735 :
日本@名無史さん:04/02/04 23:52
護良親王が征夷大将軍じゃなかったっけ?自称だった?
あまり詳しくないんでスマソ。
736 :
日本@名無史さん:04/02/05 00:15
新田氏の家格では征夷大将軍は無理。鎮守府将軍くらいだ。
新田義重が、徳川政権下で
贈鎮守府将軍となってるよな。
738 :
日本@名無史さん:04/02/05 00:20
北畠顕家は源氏だが清和源氏ではなかったので、朝廷が征夷大将軍任命に難色を示した。
739 :
日本@名無史さん:04/02/05 00:21
織田信長は将軍にはなれないが、明智光秀は将軍になりえる資格はあった。そこが気に入らなかったから信長は彼を執拗にイジメたんだ。
740 :
日本@名無史さん:04/02/05 00:25
741 :
日本@名無史さん:04/02/05 00:27
鹿島昇は、朝鮮半島から渡来した一部族が源氏の起源であると述べている。
かれらは強い意志と戦闘能力を持ち、貴族からはさげすまれながらも実力を示して勢力を拡大し、世に認知されるに至ったのだという。
この説明を保証する証拠はない。
だが、かれらが世間に認められるために清和天皇の血筋だと主張し、より日本人に同化するために潔癖な戦闘的態度を貫いたと仮定するのは、
正当な歴史的解釈ではないが、興味をそそられるものである。
また、こんな事言ってるよw
742 :
日本@名無史さん:04/02/05 00:28
新田義重の娘は悪源太義平の室であったが、義平の死後独身を通していた。
流人として伊豆にやってきた頼朝は、彼女の美貌を聞き猛烈にアタックしたが、
義重は平家に聞こえることを恐れ、急いで彼女を他家に嫁がせたため、頼朝の
チ○ポは行き場を失い、その溢れるエネルギーを反平家闘争に向けた結果、
ついに鎌倉軍事政権が誕生した。
春秋の筆法をもってすれば、田舎性事家頼朝を一流政治家頼朝に転進させる
きっかけをこしらえたのは新田一族である。
743 :
日本@名無史さん:04/02/05 19:59
s
744 :
日本@名無史さん:04/02/05 22:03
745 :
日本@名無史さん:04/02/05 23:00
「源氏でなければ征夷大将軍にはなれない」というのはしょせん徳川家のプロパガンダです。
きちんとした根拠のある話ではありません。はっきり言って俗説に過ぎません。
源氏じゃなきゃなれないなら、みんな源氏名乗れば良かったのに。
どうせ、みんな詐称なんだから。
747 :
日本@名無史さん:04/02/05 23:24
>>745 >徳川家のプロパガンダです。
徳川家がいつどこで???
748 :
日本@名無史さん:04/02/05 23:27
>>747 林羅山の「豊臣秀吉譜」。
あと徳川家光が藤原氏や豊臣氏で作成されていた家康・秀忠の位記や口宣案のたぐいを全部源氏に書き直している。
749 :
日本@名無史さん:04/02/06 00:22
>748
藤原家康を名乗ってたのは知ってたけど、豊臣家康だった時代もあったんだ。
秀吉存命中は、みんな豊臣ナントカて名乗ったんじゃなかったっけ。
>>748 それのどこが、
「源氏でなければ征夷大将軍にはなれない」というプロパガンダ
になるのか?
752 :
日本@名無史さん:04/02/06 01:17
(皇戚・公家でなければ)源氏でなければいけないという理由で
「平」信長が将軍職を断られたっつーのは文献に出てくるよね。
(史実かどうかはしらんが。)
先例が全ての公家社会としては,言いそうな話だと思うが・・・。
結局はあえてそれをまげて将軍にしようとしたりしたので
一貫性はないわけだが。
豊臣の創設なんて曲げまくり。
まあ、あれは「藤原」の先例に倣ったとも言えるが。
754 :
日本@名無史さん:04/02/06 02:02
後醍醐の皇子で征夷大将軍になったのは誰だったっけ?
755 :
日本@名無史さん:04/02/06 02:12
756 :
日本@名無史さん:04/02/06 02:22
平氏は清盛の先例に倣って、殿上人になり国政を担当するのはOKだけど
源義家以来、関東経営を担当する「征夷大将軍」はこの後裔に限ることに
なっていたような記述がある。
(ただし、どちらも皇戚と公家(殿上人)は別。 彼らはどの職務でも担当できる。)
地下人の場合は、上の形となる。
いずれにせよ天皇から「賜姓」されていなければ、どんな役職にも付けない。
かつ三位以上の役職につけるのは「源平藤橘」のみ。(平安以降だと思うが。)
源平橘はそもそも天皇家の後裔なので問題ないが、
藤原は「特別の功」があったので、賜姓を受けたという特例処置。
豊臣の場合もこの「特別の功」があったということで賜姓を受け殿上人になれた。
758 :
日本@名無史さん:04/02/06 03:13
759 :
日本@名無史さん:04/02/06 03:31
実際のところ、豊臣の賜姓の経緯ってどんなんかな。
やっぱ、力で脅して、金でゆすってと、こんなところかな。
761 :
日本@名無史さん:04/02/06 03:46
>>749 秀吉政権下では、秀吉が徳川・前田・宇喜多などの大名に豊臣朝臣姓を名乗らせていた。
徳川氏は関ヶ原の戦いののち、源朝臣に戻した。
このへんの経緯は葵徳川三代で若干触れられていた。
ちなみに、前田氏もほぼ同時期に菅原姓に戻している。
ところで、
>>732は誰に対するレスなんだろう?
762 :
日本@名無史さん:04/02/06 03:48
>>761 さらに、ほぼ同時期に、浅野氏は源姓に、木下氏は平姓に、戻した。
>762
他の全ての豊臣姓はなくなりましたが木下氏は明治維新まで豊臣姓ですよ?
恐らく、おねの実家だったので通った話でしょうが。
(おねは一貫して親徳川だった)
764 :
日本@名無史さん:04/02/06 03:57
浅野が源で、木下が平ですか。
冗談もここまでくると、本気で笑ってしまいそうだ。
まあ、トップが徳川だけに何でもありということですかね。
766 :
日本@名無史さん:04/02/06 04:17
寧々は「木下」の家に生まれたが、姓は父系をもって伝えられるため父親の旧姓「杉原氏」を称した。
木下が平姓になったのは、誰かの婿養子に平氏がいたんじゃない?
日出藩主「木下氏」は最後まで豊臣姓だというのに。
平氏は家系図上のお話。
(元は平氏を称したのかもしれんが、「かばね」はそういうもんではない。)
768 :
日本@名無史さん:04/02/06 04:26
769 :
日本@名無史さん:04/02/06 04:59
>>768 木下も杉原も平姓。
木下氏の姓は、
平姓→豊臣姓(秀吉の賜姓による)→平姓に戻した家もあり って感じ?
770 :
日本@名無史さん:04/02/06 10:15
源氏でなくても征夷大将軍になれる
>760
エラくなると、何故か周りの人がそういう話を自発的に進めてくれるのですよ。
>761
淀殿は豊臣秀家より織田の家柄の連中を信頼したのか。
賜姓なんて所詮そんなもんか。
773 :
日本@名無史さん:04/02/06 13:44
>>769 >平姓に戻した家もあり
どの系統が戻したの?
『寛政譜』だと大名・直参はすべて豊臣姓。
ちなみに他にも豊臣姓の旗本家が載ってた。
なぜ豊臣姓なのか無名なためよくしらないけど。
774 :
日本@名無史さん:04/02/06 14:11
しっかし、元すとかの問題ではないだろうに。
それ自体が、あやしさの証明ともいえるな。
775 :
日本@名無史さん:04/02/06 14:19
基本的に羽柴秀吉の推薦で官位をもらった人間は一人残らず豊臣姓です。
つまり、一時的にもせよ豊臣姓を名乗った人間はそれこそ数え切れないほどいます。
徳川家康も織田信雄も前田利家も毛利輝元もすべて豊臣姓です。
776 :
日本@名無史さん:04/02/06 14:54
>>757 近衛家では不比等は天智の子であると信じられており、
そのため藤原家の始祖としては鎌足ではなく不比等が信仰されてる
と今東光の本に書いてありました。
>776
近衛家は途中で皇室から養子が入ったしな。
近衛家の当主は清和源氏から養子が入ったしな。
779 :
日本@名無史さん:04/02/06 20:44
養子が入っても近衛は近衛
780 :
日本@名無史さん:04/02/06 21:03
所詮、マガイモノのコノエ
781 :
日本@名無史さん:04/02/06 21:17
近衛家は女系では立派につながっとる。
782 :
日本@名無史さん:04/02/06 21:39
女系なんてつながってるうちに入らん
783 :
日本@名無史さん:04/02/06 21:45
>>782 男系に固執する馬鹿は天皇制スレに帰れw
784 :
日本@名無史さん:04/02/06 21:48
男系もバイブで繋がる
785 :
日本@名無史さん:04/02/06 23:29
「葵徳川3代」で,秀忠が淀殿に拝謁した時,
「豊臣朝臣,徳川秀忠にございまする。」って言ってた覚えがある。
786 :
日本@名無史さん:04/02/06 23:33
豊臣家が、家臣に豊臣姓とか羽柴姓を下賜してたっていうのはよく聞くが。
徳川も、松平姓を同様にしてたらしい。
788 :
日本@名無史さん:04/02/06 23:45
>782
天皇家以外に純粋に男系で繋がっている家なんて極少数。
男系にこだわるならとっくの昔に近衛家も鷹司家も藤原氏ではない。
しかし実際には両家は藤原氏と認知されていて何の問題も無く摂関を出していた。
789 :
日本@名無史さん:04/02/06 23:46
>>786 確か家康が「豊臣朝臣家康」と言っていたと思うが。
790 :
日本@名無史さん:04/02/06 23:54
>>788 それは藤原家より格上の天皇家から養子が入ったからでしょ。
真実はどこの馬の骨ともわからない細川幽斎の子孫が養子に入ったら
もう台無し。
791 :
日本@名無史さん:04/02/07 01:02
>>790 細川幽斎はれっきとした清和源氏、王胤の身だが。
だいいち日本史における女系相続を軽視する馬鹿は日本史を見誤る。
792 :
日本@名無史さん:04/02/07 01:05
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【ゴールデンレス】
このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
793 :
日本@名無史さん:04/02/07 01:07
江戸古地図とか見てみろ。
大大名のほとんどは松平性で表記されている。
794 :
日本@名無史さん:04/02/07 10:10
源氏になり損ねた秀吉が豊臣・羽柴を乱発したのが悪い。
将軍就任を拒絶されたのがよほど悔しかったのだろう。
795 :
日本@名無史さん:04/02/07 10:17
将軍就任を拒絶したのは羽柴秀吉自身。
朝廷は秀吉に征夷大将軍就任を薦めていた。
796 :
日本@名無史さん:04/02/07 10:58
>790
宮>摂家>>>>(越えられない壁)>>>>賜姓源氏
イエの相続は女系でなされることもあったが、
女系では貴種としての正統性までは継承できないよ。
所詮、いまのコノエはマガイモノのコノエw
レスアンカーは>791のまちがい
799 :
日本@名無史さん:04/02/07 11:04
>>796 「貴種としての正統性」なんてものは鎌倉時代までに消滅した。
まして昭和の時代に「貴種」なんて言ってるおまえはただの馬鹿。
↑はウンコ左翼
801 :
日本@名無史さん:04/02/07 11:08
>>800 反論できなくなるとそうやって意味不明な罵詈雑言でごまかすわけね。
みっともないなあ。
キチガイ左翼と草加は氏ね
天皇制自体がイラネ
804 :
日本@名無史さん:04/02/07 11:10
>796
源定省と源維城>>>>(越えられない壁)>>>>摂家
平成の時代に世襲の君主制やら旧華族の家柄を云々してるおまいらはただのウンコ。
806 :
日本@名無史さん:04/02/07 11:12
ゴミクズやな
808 :
日本@名無史さん:04/02/07 11:13
>805
ただの余興だよ。
平成の時代に君公貴族を目のカタキにしている方が恥ずかしいと思うがな。
そもそも余興スレで「貴種」を叩きをはじめた
>>799が一番恥ずかしい。
810 :
日本@名無史さん:04/02/07 11:33
最高に恥ずかしいのは「マガイモノのコノエ」なんて言ってる
>>780だろw
811 :
日本@名無史さん:04/02/07 12:08
いや「昭和の時代」とか言ってる
>>799が最強でしょ。
812 :
日本@名無史さん:04/02/07 12:16
貴族(・∀・)イイ!
813 :
日本@名無史さん:04/02/07 12:20
>>811 近衛文麿は昭和の時代の人間だが・・・?
814 :
日本@名無史さん:04/02/07 12:36
てか細川藤孝に何の関係が?
815 :
日本@名無史さん:04/02/07 12:39
で、糞サヨは日本に唾する忘恩非道。
816 :
日本@名無史さん:04/02/07 12:42
>>814 近衛家の現当主近衛忠輝氏は細川家からの養子。
細川藤孝の直系子孫。
近衛文麿の孫でもあるが。
817 :
日本@名無史さん:04/02/07 12:42
バカウヨは日本に巣食う獅子身中の虫。
818 :
日本@名無史さん:04/02/07 12:43
朝廷が信長と秀吉に将軍職就任を要請したなんてホザいてるヤツは板杉。消防以下だ。
819 :
日本@名無史さん:04/02/07 12:44
817はサヨ?
820 :
日本@名無史さん:04/02/07 12:45
下層民コロがうるさいこっちゃ
>816
さんくす、現代の話か。
822 :
日本@名無史さん:04/02/07 12:50
>>818 痛いのはおまえだよ。事実を直視できない香具師は哀れなもんだな。
823 :
日本@名無史さん:04/02/07 12:55
その程度でよく言うよw
子孫オタ、うざすぎ
825 :
日本@名無史さん:04/02/07 12:56
子孫ネタ、系図ネタは、低能歴史ヲタのお得意分野
826 :
日本@名無史さん:04/02/07 13:03
>>813 >まして昭和の時代に「貴種」なんて言ってるおまえはただの馬鹿。
がどうやったら近衛文麿の話になるんだ??????
827 :
日本@名無史さん:04/02/07 13:06
>>825 そういうおまえもこの板に書き込んでいる以上低能歴史ヲタの一人に過ぎん。
>事実を直視できない香具師は哀れなもんだな
おまいのことだろ( ´,_ゝ`)プゲラッチョッ
829 :
日本@名無史さん:04/02/07 13:09
アホぬかせ、ワシは偉いんですわ
830 :
日本@名無史さん:04/02/07 13:11
清和源氏の流れ汲んでまんねん。多田源氏の末裔でんねん。
関東や九州の田舎源氏とはわけが違いますわ。
831 :
日本@名無史さん:04/02/07 13:12
>>826 近衛忠輝が近衛家の養子になったのは昭和の時代だろ?違うのか?
832 :
日本@名無史さん:04/02/07 13:12
ちんこの大きさが気になります
833 :
日本@名無史さん:04/02/07 13:16
征夷大将軍には誰でもなれるんだよ。
信長だって秀吉だってなろうと思えばいつでもなれた。ならなかったけど。
家康が将軍になってから「清和源氏に限る」という神話が生まれた。
834 :
日本@名無史さん:04/02/07 13:17
平信長が将軍になれなかったのは、当時の知識人にとって至極当然な結論であった。
秀吉にいたっては、問題外。
835 :
日本@名無史さん:04/02/07 13:25
信長や秀吉が将軍にならなかったのは征夷大将軍ごときチンケな地位に興味がなかったから。
836 :
日本@名無史さん:04/02/07 13:29
京の朝廷が政治的実権を有していたのは、平安時代までです。
次に、軍事力をもって公家に仕えていた武士(公家にとって庶民に過ぎなかった)の世になりました。
このうち、西方を拠点とした桓武平家は、政権を獲得すると自身も公家化し弱体化しました。
一方の清和源氏、拠点は板東(関東)八州です。
未開であった板東を鋤鍬を以て開墾した開拓農民、地主となり土地を護るため武装し郎党を育成した者達が板東武者です。
「一生懸命」というのは、元々は「一所懸命」であり、それこそ命掛けで開墾した土地の本領安堵を願う開拓地主の気持ちを表しています。
そうやって開墾した土地で、春から夏を農作業に明け暮れ、収穫の秋を迎え、ここで襲撃してきた略奪者に全てを奪われてしまうなどとんでもありません。
そこで武装した農民が武士の起源です。その精強さは、公家化した平家に比較すればまさに野獣がごとし。
ついには軍事力を以て政権を奪取したのが鎌倉幕府です。農民が政権を奪取した = まさに構造改革です。
しかし、建前上はあくまでも「京の朝廷から官位を授かり、征夷大将軍に任じられて幕府を開いた」という事です。
私も不思議ですが、日本の政治闘争とは「誰がどうやって朝廷の権威を嵩に着るか。朝廷を操るのは誰か」という事であって、朝廷を打倒し、
自らが開祖となって自身の王朝を開こうという者は日本の歴史にはいないのです。
837 :
日本@名無史さん:04/02/07 13:29
まあ、尾張の陪臣あがりや水呑百姓には征夷大将軍は無理だ罠
838 :
日本@名無史さん:04/02/07 13:32
継体天皇は北陸の在日だったから、自らが開祖となって自身の王朝を開いたんだぜ。
839 :
日本@名無史さん:04/02/07 13:33
羽柴秀吉が大陸征服に成功していればねえ。
天皇なんて羽柴中華皇帝家から任命されるただの日本国王に過ぎなくなっていただろうに。
840 :
日本@名無史さん:04/02/07 13:41
>836
鎌倉時代もそれなりに実権があったと思うがな
841 :
日本@名無史さん:04/02/07 13:42
>>836 近代以前のヨーロッパで、教会と対立しても神を否定する者がいなかったのと同じか。
842 :
日本@名無史さん:04/02/07 13:44
征夷大将軍は源氏出身者に限るのこと
843 :
日本@名無史さん:04/02/07 14:48
そういや、宮将軍も先祖は源氏だね。光孝源氏だけど
845 :
日本@名無史さん:04/02/07 17:50
>>836 坂東武者は在地領主だけじゃねーぞ。
武士=開拓領主という考え方は古い。
かといって職能論が完全に正しい、
と言うわけでもないだろうが。
武士の中には下級貴族だっているし、
国衙の
勿論在地の土豪だっている。
坂東武者が西国の武士に比して
優れていた、という考えも
『平家物語』などの創作に過ぎない。
秀吉は征夷大将軍ではなく、征唐大将軍になりますた。
847 :
日本@名無史さん:04/02/07 22:40
伊豆頼朝
848 :
日本@名無史さん:04/02/07 22:59
北条源三頼朝
849 :
日本@名無史さん:04/02/07 23:02
信長や秀吉が将軍にならなかったのは征夷大将軍ごときチンケな地位に興味がなかったから。
850 :
日本@名無史さん:04/02/07 23:07
信長や秀吉が将軍になれなかったのは、将軍としての資質・品位に欠けていたから。
851 :
日本@名無史さん:04/02/07 23:09
>>850 信長や秀吉と比べて、家康だけに将軍としての資質や品位があったとはとても思えないが。
信長は付き人をいじめていたし、秀吉は稽古嫌いだったんだよ。
853 :
日本@名無史さん:04/02/07 23:57
>853
感情に任せて付き人にあたることはなかったし、稽古も柳生師匠・惺窩師匠につけてもらってる。
855 :
日本@名無史さん:04/02/08 00:15
話にならん。
856 :
日本@名無史さん:04/02/08 00:17
そもそも駿河部屋の雪斎親方の薫陶を受けてるしね。
まあ、意外と
>>849みたいなことが
真相のような気がするがな。
征夷大将軍は本来、乱が発生したときに朝廷が天皇の威を示す斧と鉞を与えて臣下の中の優れた人物を任命して与える
「非常時の役職」であり、戦乱が収まれば旗や太鼓そして将軍職を天皇・朝廷に返却し、もとの身分に戻ります。
また兵は元通り太政官に属します。
神武天皇が日向を発して大和平定に向かったとき道臣命を「軍帥」に任じたことに始まり、崇神天皇が国を平定するために
四方に皇族を遣わした「四道将軍」が将軍という呼称の始まりです。景行天皇のときには日本武尊が「征夷使」に、
武日命と武彦命が左右の将軍なりました。継体天皇は、九州に威を張る筑紫国造の磐井討伐の際に物部大連を大将軍に
任じて「長門から東は朕が統治する。筑紫から西は汝が納めよ。兵に恩賞を与え敵を罰するのも汝が行い、朕に奏上するに
及ばず」と非常時には軍事のみならず、その地の一時的な行政権も与えることを明示しました。
文武天皇の代に藤原不比等が、親衛と呼ばれる常設の軍職として「中衛・近衛の大将」を設け、聖武天皇は中衛・近衛に
代わって奥州と九州に「鎮守府将軍」を置きました。平城天皇は近衛大将を「左近衛大将(左近)」、中衛大将を「右近衛
大将(右近)」に改めました。この二人が平時にあっては宮中を警備し、変事にあっては「征夷大将軍」となって逆賊を
征伐し、東に行く場合を「征東将軍」・西に行く場合を「征西将軍」と呼びます。鈴鹿の賊を征伐する際に坂上田村麻呂が
征東将軍になりました。平将門の乱の際には、参議・藤原忠文が征夷大将軍になりました。
将軍職に源氏が台頭するのは源頼義に始まります。前九年の役で安倍貞任・宗任を討った源頼義、後三年の役で清原武衡・
家衡を討った頼義の子・義家は、父子で十二年も征夷大将軍職を務めたため、その恩寵をこうむった関東武士たちは、
源氏を武家の棟梁と認めるようになり、武士に対する天皇の威光が衰えるきっかけとなりました。
平清盛が朝敵となると先に京に入った木曾義仲が征夷大将軍になるも、源頼朝によって滅ぼされました。頼朝が上洛すると
後白河院は右近衛大将を授けようとしましたが、頼朝は「左右の近衛大将は京にあって天子を守護する官職です。私の
ような東国の田舎者にはいただくわけにはまいりません」と鎌倉に引き上げ、鎌倉から「征夷大将軍は平常時の官職では
ありませんが、実質の伴った官職として私に授けていただきたい」と圧力をかけました。
後白河院は源頼朝を恐れ、やむなく征夷大将軍の位を彼に与え、武家の棟梁としての世襲将軍が初めて誕生しました。
さらに承久の乱で、鎌倉の将軍を廃そうとした後鳥羽院、順徳院、土御門天皇が北条氏によって流されると、天皇家は
衰え、左右の近衛大将は名ばかりで実質が無く、鎌倉を恐れる朝廷は鎮守府将軍もおかなくなりました。
後醍醐天皇は息子である大塔宮護良親王を征夷大将軍にしましたが、後醍醐天皇は武士から権力を取り戻す最後のチャンス
ともいうべきこの時期において、後醍醐天皇は判断を誤ります。たびたび諫言を呈す大塔宮を疎み、また実子に跡を継がす
べく大塔宮排斥を狙う愛后阿野廉子の策謀や、大塔宮と対立する足利尊氏の圧力もあって、大塔宮は足利尊氏に引き渡され
鎌倉に幽閉され、尊氏の弟・直義によって殺害されました。
こうした歴史を踏まえて、非常時の官職であった征夷大将軍は常設・世襲のものとなり、そうなるにあたって大きな影響力を
振るった「源氏のものであって当然」という認識が生まれ、公家源氏から源氏の長者を脅し取った足利義満以来、征夷大将軍と
源氏長者は一体化していったのです。
860 :
日本@名無史さん:04/02/08 00:52
>>858-859 嘘と事実誤認があまりにも多すぎてどこから突っ込んだらいいのかわからないほどだ・・・
861 :
日本@名無史さん:04/02/08 01:02
>>860 そんなに自信があるなら、さっさと突っ込んでやれよ
鎌倉幕府において、三代で源氏将軍が滅んだので、かえってステータスがあがったともいえるな。
北条の仕切り方がそれだけ巧みだったともいえるが。
摂家将軍をもってきてから、皇族将軍というのは、相当イヤラシイ感じだよ。
863 :
日本@名無史さん:04/02/08 01:04
864 :
日本@名無史さん:04/02/08 01:06
>>861 馬鹿馬鹿しくて突っ込む気にもなれない。
865 :
日本@名無史さん:04/02/08 01:11
>>864 やっぱり、「源氏しかなれないしか意見のない」源氏厨房だろw
866 :
日本@名無史さん:04/02/08 01:12
>>858-859は、福岡藩黒田忠之に仕え、武士の心得や政治権力のあり方を
説きつつ細川・三好・長宗我部を中心とした畿内・四国の権力闘争の
歴史を書いた南海治乱記の作者・軍学者香西成資の説をベースにした
ものでしょ?
確かそれに似たことを南海治乱記の出だしに書いていたはず・・・
南海治乱記かあ。
あれはいい本だよねえ。
復刊ドットコムにもリクエスト入ってたけど、はやく復刊してほしいなあ。
三好ファンの俺にとっては「戦国三好一族」と並んで復刊希望トップの本です。
868 :
日本@名無史さん:04/02/08 01:23
征夷大将軍って、もともとは常説の官職じゃないんだ?
でもいわれてみれば、頼朝以前はそうだよなあ。
やっぱり、それを常設・世襲化に成功した源頼朝と北条・足利が偉かったということ。
朝廷は織田信長と羽柴秀吉を征夷大将軍に任命しようとした。
本人が就任を拒否したから実現しなかっただけで任命は可能。
拒否した理由は「貧乏公方」足利義昭の後継者になるのが嫌だったから。
「源氏しか征夷大将軍になれない」というのは徳川家のプロパガンダに過ぎない。
870 :
日本@名無史さん:04/02/08 09:32
平信長と農民秀吉は、ハナから将軍就任の無資格者。本人の意思云々以前の問題。
871 :
日本@名無史さん:04/02/08 09:40
その無資格者を朝廷が征夷大将軍に任命しようとした史実をどう説明するんだ?
872 :
日本@名無史さん:04/02/08 12:32
秀吉ですが、征夷大将軍は資格がないのに、関白だと資格があったわけですかね。
関白と征夷大将軍では格が違いすぎますが、そのあたりを論理的に矛盾がないよう、
教えてください。
そもそも官位などというものは、朝廷をおだてるか脅しでもすれば、
どのようにでも頂けますがな。
特別の官位などありませぬ。
873 :
日本@名無史さん:04/02/08 12:32
なんか,話が同じトコぐるぐる回ってる感じ。
858〜859について
ワタシャそんなにくわしくないですが,
源頼義,義家は征夷大将軍になってるんですか?
陸奥守にしかなってないと思うんですが?
清原は前九年合戦の後,鎮守府将軍にはなってますが。
それから,木曽義仲は征夷大将軍になってるんですか?
いくつかカキコあったようにも思うが,義仲は朝日将軍にしかなってないと思うのですが。
874 :
日本@名無史さん:04/02/08 12:58
朝廷が信長・秀吉を将軍に任命しようとしたなんてデマを
21世紀になっても信じてるとは、どういうことなのか?
875 :
日本@名無史さん:04/02/08 13:06
源氏しか征夷大将軍になれないなんてデマを
21世紀になっても信じてるとは、どういうことなのか?
876 :
日本@名無史さん:04/02/08 13:19
官位の資格云々は結局の所、その時の権力者次第。
秀吉全盛期に「秀吉にはやれない官位」とか、家康全盛期に「家康にやれない官位」があると考えるのがおかしい。
朝廷側に資格の基準があっても、抜け道を利用されたら死守もできない。
たとえ、資格に不備があっても嫌がらせ程度の抵抗しかできなかったろう。
877 :
日本@名無史さん:04/02/08 13:23
>>873 源頼義、義家は征夷大将軍どころか鎮守府将軍にもなっていません。
源義仲は征夷大将軍に任じられた形跡があります。朝日将軍はあだ名です。官職ではあり
ません。
ついでに言うと源頼朝は右近衛大将に任命されていますし、征夷大将軍になったのは後白
河院の死後です。
源氏長者と征夷大将軍が一体化したのも足利義満からではなく、徳川家光からのことです。
878 :
日本@名無史さん:04/02/08 13:25
>話が同じトコぐるぐる回ってる感じ。
それが2ch参加者の快感なのだ。
「なれなかった」説の知識人も「ならなかった」説のバカもここでは対等。
知識人はバカを肴に暇つぶしをし、バカは学校では味わえない幸福な一時を経験する。
879 :
日本@名無史さん:04/02/08 13:25
>>876 実態は朝廷が羽柴秀吉に征夷大将軍就任を勧め、秀吉が拒否する、という経緯だったらしい。
「多聞院日記」という同時代史料に書いてある。
880 :
日本@名無史さん:04/02/08 13:27
>>878 言葉遣いは正確にな。
「なれなかった」説を主張するのがバカで「ならなかった」説を主張するのが知識人。
881 :
日本@名無史さん:04/02/08 13:29
多聞院日記だけにその内容が出ているというなら、それは虚偽の内容だな。
ほかの日記なり書簡なりに同様の記述があるならば信憑性も高まるが。
882 :
日本@名無史さん:04/02/08 13:31
オマイらみんな清和源氏に憧れているんだな。よくわかるよw
883 :
日本@名無史さん:04/02/08 13:34
>>881 「多聞院日記」の信憑性が疑わしいという根拠があるのなら出したまえ。
話はそれからだ。
884 :
日本@名無史さん:04/02/08 13:35
>>880 まあ、それはキミの個人的単独説ということで・・・。
885 :
日本@名無史さん:04/02/08 13:36
>>882 清和源氏なんてしょせんは二流・三流の源氏。
中央政界に居場所がないから地方に下ったことからもそれは明白。
886 :
日本@名無史さん:04/02/08 13:43
藤原一族で牛耳られた中央政界に見切りをつけ、
新天地に羽ばたいた開拓者と呼んでくれ。
否定的・退嬰的な思考では大成しないぞよ、いつの世でも。
足利、徳川と源氏政権が続いただけのこと。
つまんないことで討論するより宿題でもやれ。
888 :
日本@名無史さん:04/02/08 13:48
>>886 まあ清和源氏をあれこれ美化して楽しむのはおまえの勝手だがな。
史実を無視した妄想は誰にも相手にされんぞ。
889 :
日本@名無史さん:04/02/08 13:49
>>884 おまえがそう信じることで精神的安定が得られるならそれでもいいけどな。
そんなことより早く医者に行って安定剤もらってこいよ。
890 :
日本@名無史さん:04/02/08 14:08
日本史板は偏執者が多くてイヤだね。社会生活ができないタイプだ。
891 :
日本@名無史さん:04/02/08 14:11
「源氏でなければ征夷大将軍になれない」なんて根も葉もないデマに固執する偏執狂には
さっさと日本史板から出て行ってもらいたいものだ。
892 :
日本@名無史さん:04/02/08 14:27
困ったものだな、「ならなかった」虫は。駆除しても湧いてくるw
鳥インフルエンザもびっくりだな。
893 :
日本@名無史さん:04/02/08 14:31
粘着ウィルス「多聞院日記」厨も確認しますた
足利は源氏再興に執念燃やしてたから
信長は足利の惨めさを見て、自分がなったら縁起悪そうだ・・と思ったから
秀吉は泥臭い官職より、宮の香りのする官職についてパァ〜っとやりたかった
から。
家康は京の朝廷と距離を置く為
895 :
日本@名無史さん:04/02/08 14:39
>>892 まだ残っていたのか「なれなかった」厨。
おまえの居場所は日本史板ではない。
早くオカルト板に帰りな。
896 :
日本@名無史さん:04/02/08 14:48
征夷大将軍と金正日将軍(国防委員長)はどちらが官位上ですか?
897 :
日本@名無史さん:04/02/08 14:54
鳥インフルエンザと国防委員長はどちらが官位上ですか?
898 :
日本@名無史さん:04/02/08 15:21
国防委員長は正三位相当官、鳥インフルエンザは無位無官
899 :
日本@名無史さん:04/02/08 20:40
まず、征夷大将軍どことか、武門の棟梁は源氏と決められている。
源氏以外は武門の棟梁になれない。
清盛は公家の一人として支配した。
北条氏はあくまでも形式的には御家人の一人に過ぎない。
織田信長は源氏ではないのに武門の棟梁になろうとして抹殺された。
秀吉はそれを避けるため関白になった。
900 :
日本@名無史さん:04/02/08 20:44
うんこ
901 :
日本@名無史さん:04/02/08 20:48
>>899 ほんとうに「武門の棟梁」などという地位が実在したのですか?
まずそこから証明していただかないことには話になりませんなw
902 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:12
話をそらそうと必死のキチガイがいるな
源氏以外は将軍になれなかったという事実と
インフルエンザに何の関係があるのやら。
903 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:15
官位の資格云々は結局の所、その時の権力者次第。
秀吉全盛期に「秀吉にはやれない官位」とか、家康全盛期に「家康にやれない官位」があると考えるのがおかしい。
朝廷側に資格の基準があっても、抜け道を利用されたら死守もできない。
たとえ、資格に不備があっても嫌がらせ程度の抵抗しかできなかったろう。
904 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:20
>>902 「源氏以外は将軍になれなかった」という真っ赤な嘘を狂信する香具師どもの態度がインフルエンザのようにしつこいというのだろう・・・
905 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:31
武士は、もののふと呼ばれ、物部氏の子孫。物部氏が滅びかれらは貴族に武芸をもって仕える存在になった。
つまり、かれらは賎民の一種なのだ。
賎民がその棟梁に貴種をもとめることはよくあること。
源氏以外は将軍になれないなら、秀吉は関白になれないだろう
907 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:37
>>901 頼朝が作り上げた。
その現実的存在の証は、彼が征夷大将軍でないにもかかわらず、奥州征伐において、全国の武士団を動員し得たことによる。
彼は奥州征伐を頼義による前九年の役の再現として演出することで、源氏こそが武門の棟梁であることを示した。
無論て、その源氏の嫡流として自己の存在も示した。
901は法的根拠がない、ということが言いたいのではないか?
頼朝が作り出したのは雰囲気に過ぎず、故実ともならない。
909 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:43
鎌倉幕府四代征夷大将軍は誰ですか。
910 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:44
911 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:46
源氏以外は将軍になれない、でいいだろう。
信長秀吉ヲタはウザ杉。
912 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:47
913 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:48
>>907 源頼朝がつくりあげた「武門の棟梁」の地位は、やがて藤原氏に継承されるわけですな。
914 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:49
>>912 藤原頼経は源氏ではありません。藤原氏です。
915 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:50
ここの住民に聞く。
市役所の窓口業務は8:30からやってますか?
916 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:50
>>911 泣き言を言うな、負け犬。
源氏でなくても征夷大将軍にはなれる。それが厳然たる事実。
917 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:52
頼むから市役所の窓口業務は8:30からやっているか、
答えてくれ。
918 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:53
ハローワークは8:30からだな。
征夷大将軍という地位自体になんか意味があって、それを必要とした
支配者と必要としなかった支配者がいたってだけじゃないの?
920 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:56
市役所の生涯学習課って8:30からやってる?
921 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:56
>>908 その法的根拠の総仕上げが征夷大将軍。
それに、頼朝が前九年の役に沿って、奥州征伐を進めたこと。
奥州を制するのに遠方の島津も動員したこと。
奥州征伐に参陣しなかったどころが遅延したものすらも所領没収したこと。
なぜそこまでやる必要があるのか。
それは、奥州征伐するのが目的ではなく、それにかこつけて全国の武士団を自己の統率下に組織化しようとしたことは明らか。
武門の棟梁としての源氏の地位を確立しえた。
922 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:57
923 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:59
足利幕府時代に決まりが出来たとされている。だから、信長を将軍職につける
なんてヨタ話はなかった。後世の戯作者あたりがネタとして言い出したのだろう。
924 :
日本@名無史さん:04/02/08 21:59
>>921 その後武門の棟梁は藤原氏に移った訳か、ウーン納得?
925 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:00
出勤時刻は8時半だが、執務開始時刻は9時だな。
>921
西国に頼朝の権力が及ばなかったことは周知だとおもうんだが・・・
頼朝の権力は西国武士の所領を没収できるほどの強権ではないなず。
あなたの思い込みではないのか?
927 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:01
内部事務は当然8:30から、ただし窓口は9:00から
928 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:05
929 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:05
>>923 ヨタ話はやめな。
朝廷は織田信長を征夷大将軍に任命することになんの躊躇もなかった。
信長は望みさえすれば征夷大将軍でも太政大臣でも好み次第の官職に就任できた。
930 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:06
>>913 平賀朝雅は源氏であるがゆえに将軍職に野心を持った。
その後も
安達秦盛の嫡男・宗景が源氏姓を名のり、将軍になろうと陰謀を企てている、
といって族滅させられた。
源氏=征夷大将軍という意識はあったのだろう。
931 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:06
それは無理やのw
932 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:08
信ちゃんはそれほど権力あったわけやないで
933 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:09
>>930 鎌倉幕府の御家人たちのあいだに「源氏こそが征夷大将軍にふさわしい」という意識があったことは事実だろう。
しかしそのことは「源氏しか征夷大将軍になれない」ということとイコールではない。
「源氏でなくても征夷大将軍になれる」ことは史実が証明している。
934 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:10
>>913 藤原氏が選ばれたのはその貴種性でしょう。
鎌倉御家人は合議制を目指し、武門の棟梁を欲しなかった。
それゆえ源氏は忌諱され、藤原氏や皇族に白羽の矢がささったわけ。
935 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:10
源氏でなければ将軍になれない、と、これは日本史の常識
日本史的には、皇太子や藤原氏が将軍になっていますが。。。
937 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:13
>>935 あなたは非常識な人ですね。常識知らずもいいところです。
938 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:14
別に藤原氏や朝廷側が将軍になりたくて送り出してた
訳じゃないでしょ。
939 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:14
>白羽の矢がささった
ワハハハハ、そりゃ、オモロイけど危ねーだろ?最近はそういう用法なのか?
940 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:15
43年間放浪の男性、「社会復帰」 25年ぶり住民登録
北関東と周辺の山や川で小動物や魚を取って自給自足の放浪生活をしてきた群馬県出身の男性(57)が30日、
茨城県岩井市で25年ぶりに住民登録をした。中学2年で家出して以来、社会にほとんど無縁の生活を43年続けたが、
小さな罪を犯した末の思わぬ「社会復帰」だった。今はもう、山や川に戻る気はない。
男性は昨年9月、茨城県つくば市で自動販売機から小銭を盗もうとしているところを、窃盗未遂容疑で逮捕された。
あまりの空腹で耐えられなくなった末のことだった。
刑事裁判の冒頭陳述や男性の法廷供述などによると、男性は8人兄弟で、家は貧しかった。
14歳の秋、おばの元へ行こうと家を出て、栃木県足尾町に向かった。肩掛けの学生カバンに干し芋や塩を詰めこみ、足尾銅山を目指した。
しかし、おばの家は見つからず、放浪が始まった。まず銅山の洞穴に住んだ。
持って来た食料は底をつき、キノコやヘビ、ウサギも食べた。「削った丸太を仕掛けた落とし穴でイノシシも捕った。
家を出たときと同じ学生服で過ごし、ウサギの皮で簡易の靴も作った」という。
4、5年して新潟、福島などの山野を歩いた。川で魚も取った。キノコや魚を売り、金を得た。親切な人に衣服をもらったこともあるという。
魚を追って栃木から茨城へ。5、6年前、つくば市境の水海道市に住み着いた。小貝川の橋の下に茅(かや)の小屋を造った。
家に帰ろうと思ったことはなかったという。
起訴されて、12月に土浦簡裁で猶予付き判決を受けた。裁判官に「まじめに働くように」と諭された。
現在は、釣りを通じて知り合った岩井市の内装業古矢和夫さん(52)の家に住んでいる。
古矢さんは身元保証人になってくれた。内装業の手伝いをして、生まれて初めて給料をもらった。自分の部屋にテレビを買った。
1月、43年ぶりに群馬の故郷の家を訪ねたら、両親はすでに亡くなっていた。戸籍は残っていたが、住民登録は79年、職権で抹消されていた。
155センチ、52キロ。裁判中は70歳ぐらいに見えたが、少し太り、肌のつやもよくなった。心を通わせる女性もできた。
住民登録したのは「保険証やバイクの免許がほしいから」だという。
「今が人生で最高に幸せ」。市役所を出ると、男性はそう語った。
941 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:16
>>877 「朝日将軍」って,征夷大将軍のあだ名なの?
義仲に征夷大将軍をあげなくなかった後白河が
でっち上げで官職みたいな名前をやっただけってなんかで聞いた。
で,何も知らない田舎者の義仲は,「朝日将軍」って官職があるモンだと信じ,得意になってた。
・・・だと思ってた。
942 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:21
「白羽の矢がささった」は俺もウケたけど、934のいうとおりだろう。
摂関藤原氏が形式的には天皇を戴いて執政する様子をみて、シンボルとしての
将軍を担ぎ上げつつ、実権は御家人たちで握るやり方をマネしたのかもしれん。
後醍醐天皇のご子息は本人の意思でなってると思うが?
つか、鎌倉幕府の将軍が源氏でないのは、
源氏だと北条氏の権力が不安定になるからではないのか?
公家将軍だったら、北条氏が将軍にしてあげたという形になるが、
源氏だったら、将軍になるのは当たり前ということになって、
北条氏の優越性がなくなる。つ〜ことでは?
よ〜わからんけど。
945 :
日本@名無史さん:04/02/08 23:03
>>943 そうか?
それだと天皇位は諦めて、征夷大将軍になったわけかな。
実際、形式的地位かもしれないが、実質的にも力はあるのだろう。征夷大将軍には。
それは摂家将軍や親王将軍が成人したら追い返されていたことからわかる。
傀儡なら大人でもいいわけだから。
未成年なら藤原氏でいい、のだとしても「源氏でなければいけない」ってのは
既に崩壊しているような気がするが・・・
947 :
日本@名無史さん:04/02/08 23:14
本物の将軍は、頼朝と足利尊氏以降の足利家出身者だ。
だから、やはり将軍=清和源氏なのだ。信長秀吉なんぞ問題にならない。
948 :
日本@名無史さん:04/02/08 23:20
征夷大将軍は源頼朝の家の家職という認識だったんじゃないの?
藤原氏だと頼朝に近い血筋でしかも頼家の娘婿という認識で。
頼朝の子孫が絶えたからしょうがなく皇族を持ってきただけで
清和源氏ってのは条件には入らない気がしますが。
徳川はどうすんだよ。バカ
950 :
日本@名無史さん:04/02/08 23:21
逆だ。
織田信長も羽柴秀吉も、征夷大将軍の官職ごときは問題にもしなかったのだ。
あの時代、いったい誰が足利義昭の後継者になりたいなどと望むものか。
彼らの地位と権力は、征夷大将軍などという小さな器に収まるようなものではなかったのだ。
951 :
日本@名無史さん:04/02/08 23:22
右大将家の職業=将軍さん
952 :
日本@名無史さん:04/02/08 23:24
信長は平氏の子孫を称したので、将軍職候補からはずされた
秀吉は源氏の養子になれなかったので、藤原氏の養子になり、なりゆきで関白になった
まあ足利の時代に「征夷大将軍」の地位が泥にまみれてたことは確か。
まったく違う権力に根拠を求める方が自然とも言えるな。
954 :
日本@名無史さん:04/02/08 23:25
955 :
日本@名無史さん:04/02/08 23:31
>>293-294で1ヶ月放置されていたとは思えないほど、
にわかに活気付いたな。
次スレは必要なのか?
956 :
日本@名無史さん:04/02/08 23:31
頼朝は後に将軍職を辞任してるし、頼家も最初から将軍だったわけではない。
鎌倉期の将軍は象徴に過ぎず、足利尊氏さんから名実とも将軍=武家の棟梁=源氏になった。
957 :
日本@名無史さん:04/02/08 23:46
征夷大将軍=武家の棟梁=源氏、が確定したのは徳川家康以降。
958 :
日本@名無史さん:04/02/08 23:46
959 :
日本@名無史さん:04/02/08 23:46
だから、源氏でないと将軍になれないんだろ?
960 :
日本@名無史さん:04/02/08 23:50
お〜とこには〜、ホモの〜せ〜かいがあ〜る♪
961 :
日本@名無史さん:04/02/08 23:58
962 :
日本@名無史さん:04/02/09 00:26
>>961 誰か教えてやれよ、護良親王と成良親王が漏れてるって。
963 :
日本@名無史さん:04/02/09 07:00
>>956 源氏三代は、征夷大将軍の地位より源氏の血統であることにより、支配権を確保できた。
北条氏は、源氏の血統による支配権を否定し、征夷大将軍という公的な地位こそが鎌倉殿たる要件にしようとした。
もっとも最初は源氏との血統的つながりや養子という形式はとったが。
ってか、秀吉以外はけっこう普通じゃない?
信長だって一応朝廷から推任されてるけど、当時はまだ日本の半分以上は
勢力下においてなかったし、しかもすぐ死んじゃったしね。
あのまま生きてれば、落ち着いたとこで貰ってたかもよ。
秀吉は、征夷大将軍より関白になって進んで朝廷の仲間入りしたいって感じ
の人じゃん(w
ど〜でもいいことなのだろうが最近気になること。
(w の使用法がわからん。とりあえず文末につけときゃいいのか?
わはは。と書くのが面倒なんだろ。わはは。
>>965 使用例:
拝啓 貴社益々御清栄のこととお慶び申し上げます(w
968 :
日本@名無史さん:04/02/09 19:26
貴社の記者が汽車で帰社した(w
969 :
日本@名無史さん:04/02/09 20:08
時代を超えて同様な性格を持つ普遍的な位じゃないだろ。
970 :
日本@名無史さん:04/02/09 20:12
孫悟空は最低の位を賜って激怒!
971 :
日本@名無史さん:04/02/09 20:16
軍人の最高位を権力に換えたのが北条政権。
972 :
日本@名無史さん:04/02/09 20:19
>>971 「ヒツバオン」って「馬寮御監」なみのポストだと
騙されたんだっけ?
ごめん、970宛てだった
974 :
日本@名無史さん:04/02/09 20:52
平信長ぢゃ将軍は無理だらう。源信長でなけりゃ世人が納得しまい。
975 :
日本@名無史さん:04/02/09 20:52
このスレ、末期症状になってきたな。
梅1。
976 :
日本@名無史さん:04/02/09 21:13
>975
ここは他人の意見を否定するだけのスレです
977 :
日本@名無史さん:04/02/09 21:18
義満が「日本国王源道義」と名乗ったのも関係ある?
アレは天皇制に対する挑戦なので征夷大将軍の問題とは全く別。
ちなみに義満は死後に天皇に準ずる位をおくりな(へんかんできん)されている
979 :
日本@名無史さん:04/02/09 21:30
このスレの結論としては「源氏でなくても征夷大将軍になれる」ということでよろしいですね?
ъ(´ι _` ) OK!!
現に源氏意外の将軍はたくさんいる。
次スレ不要。
天皇>国王だろ。
【皇帝>天皇】だから、そう単純でもないんだよな。
984 :
日本@名無史さん:04/02/09 22:48
>【皇帝>天皇】だから、そう単純でもないんだよな。
そういう上下関係はないよ。
985 :
日本@名無史さん:04/02/09 22:53
まあ、源氏でないやつは将軍とはいえないニセモノなわけだな。
986 :
日本@名無史さん:04/02/09 22:55
ところが、またごく最近になって「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」と「天寿国繍(しゅう)帳銘」、
特に「天寿国繍帳銘」は当時製作されたものであり、「天皇と日本」号は推古朝から用いられるようになったという説が見直されるようになってきたのです。
「天皇」も「日本」も聖徳太子が隋と対等の立場で国交しようとして発明した対外政策であることが、考えられるようになってきました。
「隋の皇帝」に対抗するために「日本の天皇」という名称を太子は選びました。「倭」というのは「蛮夷の国名」です。
「日出ずる処」である我が国は「日の本」つまり「日本」という名がふさわしい。
「天皇」という言葉は、道教の知識もあった太子が道教の「天皇大帝」から取ったものだと思われます。
太子による隋への国書では、「東天皇敬白西皇帝」という対等以上の言葉となって使われました。「東天皇敬白西皇帝」、
これは「東の天皇、西の皇帝に敬白す」という意味ですが、太子は中国から見ての蔑視的国名「倭国」を「日本」と改名、国は小さくても「日の昇る国である」と主張し、
日出づる国から日没する国、どこまでも対等あるいはそれ以上と言おうとしました。
そろそろ埋めるか。
将軍 護良親王
将軍 徳川家継
989 :
日本@名無史さん:04/02/09 23:04
自分で唐の皇帝と対等といっても、相手が認めなきゃ対等ではない。
自称なら高句麗が倭国(日本)に朝貢せよという国書を送った記事が
ある。だから高句麗は倭国の宗主国というのかな。
片方の電波を信じちゃいかんよ。自国マンセーにつごうのいい記事
だけ抜き出して、対等外交なんていう奴は朝鮮人といっしょ
将軍 九条頼経
将軍 足利義勝
992 :
日本@名無史さん:04/02/09 23:12
将軍 源頼義
993 :
日本@名無史さん:04/02/09 23:13
鎮守府大将軍 北畠顕家
パチンコ大将軍
将軍 羽賀けんじ
996 :
日本@名無史さん:04/02/09 23:16
>片方の電波を信じちゃいかんよ。自国マンセーにつごうのいい記事
>だけ抜き出して、対等外交なんていう奴は朝鮮人といっしょ
対等になろうと努力したという意味にとれんのか、バカ!
997 :
日本@名無史さん:04/02/09 23:16
>>989 足利義満と天皇の関係なんですけどね・・・
998 :
日本@名無史さん:04/02/09 23:17
義満はキ××イ
999 :
日本@名無史さん:04/02/09 23:18
足利義満マンセー
1000 :
日本@名無史さん:04/02/09 23:18
やっぱり将軍=源氏だったな
1001 :
1001:
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