☆明月★院政期について語ろう★愚管☆

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1山野野衾 ◆F6mxNHihgE
「今昔物語集」、「今物語」、「古事談」、「愚管抄」、「玉葉」。
「明月記」、「平家物語」、「保元物語」などなど・・・。
素材を問わず、文化史も政治史も問わず院政期について語りましょう。
2山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/04/12 11:12
私は白河法皇が雨水を獄に入れた(古事談・巻第一)話などが好きです。お
近づきにはなりたくありませんが(笑)。
3日本@名無史さん:03/04/12 11:32
紅旗征戎非吾事

意味は色々取れる。
源平合戦の頃と承久の乱の真っ只中のと二つある。
4山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/04/12 11:37
>3
「明月記」ですね。無関係・無関心ととってはいけませんか。
5山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/04/12 11:40
無関心というのは言い過ぎか。処世の仕方というか・・・。
6日本@名無史さん:03/04/12 11:46
前者は無関心で、後者は戦乱を止められない事への絶望
というのが私見です。
後者には更に「火、崑崗にもゆれば、玉石倶に焚く」
戦乱になれば、善人も悪人も共に巻き込まれるではないか、
との書きこみがありますから。

後者は明月記ではなく、何かの歌集の奥書にあります。

堀田善衛『定家明月記私抄』を読んでの感想です。
7山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/04/12 11:52
>6
前者は70歳くらいになってからの書き込みだとドナルド・キーン氏
が述べておられたそうなのですが、どうなのでしょうか。
(ソース無しでもうしわけない)
話は変わりますが、定家と和歌といえば歌論書「近代秀歌」、「詠歌
大概」、「毎月抄」がありますね。毎月抄は偽作説もありますが。
私は伝説・風俗の話が出て来る分「俊頼髄脳」の方が好きですが、和
歌好きの人には楽しめそう。
8日本@名無史さん:03/04/12 12:01
>70歳くらいになってからの
堀田善衛も同様の事を参考意見的に述べてました.
でも、自分としては和歌にのみ心を砕く
青年公家の気負いと、政治家としての老成を見せた
定家との相違、と考えたいんですが(承久の年号は定家が考案したらしい)、
飽く迄自分の感情なので、やはり専門家に従うべきなんでしょうね。
9山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/04/12 12:10
>8
でも研究者でない歴史好きの意見としてなら十分聞き入りたい御意見
だと思われますよ。心情に思いをはせない人間はこの板には来ないで
しょうし。
10山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/04/13 09:35
この時期は影が薄いのか、それとも私の立て方が悪かったのか?とりあえず
目につくようにさせて下さい。「古事談」片手に話しても面白いと思うのですが。
11日本@名無史さん:03/04/17 22:00
age
12日本@名無史さん:03/04/20 00:54
院政期にはどうして女帝が出現しなかったのですか?
13山崎渉:03/04/20 01:41
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
14山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/04/20 11:25
>12
存在する状況が無かったような。そもそも中世には女帝自体がいなかった。
15日本@名無史さん:03/04/20 13:13
近衞天皇のあとに、八條院ワ子内親王(父鳥羽院、母美福門院)が皇嗣候補に挙げられたそうだけど、
結局雅仁親王(後白河院)が即位してますね。
16山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/04/20 14:04
美福門院といえば近衛天皇の母で二条天皇は猶子でしたね。玉藻の前のモデル
ともいいますが、女帝が実現していたら慈円も意を強くしたでしょうね。
しかし高倉天皇を除けばこの時期の天皇は会いたくないもののネタに困らない
顔ぶればかり(笑)。
17日本@名無史さん:03/04/21 07:06
歴史は詳しくなく資料ももってないですが、この時代は好きです。
貴族スレで、頼長クンのことなんかうかがってみたりしてました。

女帝はないけど、女院領というしくみは発展してるんですね?
(本の題名でしか知らないですけど。)
女院は天皇家の娘でなくてもなれるし、
摂関時代の母后たちが摂関家の娘という印象が強いのに対し、
天皇家内の制度化が進んでいるという感じもありますね。
まあこれは院政というものがそういうものだ、ということなんでしょうけど。
18山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/04/21 18:13
美福門院といえば・・・備前には香登庄がありましたね。保延6年(1140)
に鳥羽院から愛娘の八条院に譲られている。その後永暦元年(1160)には
美福門院が亡くなったので八条院は鳥羽院の菩提を弔うために建立された高野
山菩提心院に香登庄(の領家職)を寄進していた。
悪左府はなかなか面白い人物ですが、「台記」に延々と書かれていたという男
色行為が有名ですね。「玉葉」には後白河院が念願叶って好いていた公卿と、
「首尾よく合体」を遂げたという話がある。小侍従の話といい色ネタが豊富。
19山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/04/29 21:56
この板、中世史の影が薄いような・・・最勝王挙げ。
20日本@名無史さん:03/05/05 20:43
院政期の皇位継承法についてどなたか概説おねがいできますでしょうか?
21山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/05/05 22:37
>20
皇位継承法、というのもまた漠然としているような。どうせ今すぐにはお答
え出来ないでしょうがもう少し論点を絞ってお話戴けないでしょうか。
22日本@名無史さん:03/05/06 19:55
>>20
皇位継承法のイメージとしては法皇によるご指名。
すなわちコントロールしやすいガキんちょ。
「堀河さん!3番テーブル白河天皇さんよりご指名で〜す。」
「は〜いただいま即位しま〜す。」
23日本@名無史さん:03/05/06 20:19
『玉葉』はマジで読みにくかった。
あれの索引を作った人には大感謝。
24bloom:03/05/06 20:20
25山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/05/06 20:30
>22
当然のことながら『台記』や『愚管抄』での評判は悪いですね。>院政
>23
今、読み直しています。読み下し文で書かれたものもありますが。
26日本@名無史さん:03/05/17 18:56
院政ならばこそ、女帝でもよかったのではないかと思います。
27日本@名無史さん:03/05/21 22:12
♪は〜なの弥生の、あけぼのに〜
♪よ〜もの山辺を見渡せば〜
♪花ざかり〜かも、白雲の〜
♪掛からぬ峰こそ、なかりけれ〜
後白河すきですねー。
28山崎渉:03/05/22 02:43
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
29日本@名無史さん:03/05/22 04:59
ようするに、ダミーの天皇は女性である必要すらなかったわけだ。
30山崎渉:03/05/28 11:14
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
31日本@名無史さん:03/05/31 07:09
うーん、保元前夜のあたり、好きなんだけど知識がないのであまり参加できない。
でも山崎頼りはムカツクのであげときます。

「日本の歴史」とかのこの時代分。
平家なんかの文学系の解説本、五味氏の本や、棚橋「後白河法皇」あたり
愚管抄の解説本、とか読んで、そのあと何かしろうとが読めるものはないかな。
国文学系の雑誌で面白そうな話題が出ると拾ってるけど。

歴史や文学は勉強したことないけど、ちょっとした大学の図書館にはアクセス
ありますが、コレクションの内容にムラあり。金は事情あって重い本を買うのに
ほとんど使えないです。
32日本@名無史さん:03/05/31 07:34
>「日本の歴史」とかのこの時代分。 平家なんかの文学系の解説本、
>五味氏の本や、棚橋「後白河法皇」あたり 愚管抄の解説本

それだけ読んでれば充分だって。
33日本@名無史さん:03/05/31 15:13
あと堀田善衛の明月記の正続が面白かったけど、もう何年も前だし、モノが
手元にないのです。
ああいうのがもっと読みたいんですけど、亡くなっちゃったし。
ここから先はもう何かサブジェクトを決めて、専門書の関係のあるところ
拾って読むとかしないと読む物ないんですかね。
でもそうなると一人ではなーー
34山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/05/31 16:49
>31
いやありがたい。とっくに沈んだものかと。
『明月記』や『玉葉』は訓読本なら5万円、そうでなくても2万円はするん
ですよね。『明月記抄』も出ていますが入手困難でしょう。
そうなると一般人向け(?)なのは『愚管抄』と軍記物語くらいでしょうか。
35日本@名無史さん:03/06/02 02:19
このスレはかなり、源平関連スレとかぶっちゃうからなー
源平スレは複数あるし、やっぱり新興の武家のありように興味が向くしね。
でも武家という人間に対する驚きを含めて、世界観がぐいっと変わってる
のがしろうとにもわかるし、
それが文芸に近い形で残ってるし、というので
親近感あるんでしょうね。
36あぼーん:あぼーん
あぼーん
37山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/02 22:47
>35
熊野詣でや『梁塵秘抄』に出て来る人々の世界は注目を浴び難いのでしょうか。
地味に面白いと思うのですが。院政期は濃い人物が多いですし。
『江談抄』や『中外抄』なども面白い。
38あぼーん:あぼーん
あぼーん
39日本@名無史さん:03/06/03 01:40
「八条院蔵人判官代」って具体的にどんな仕事を
してたのでしょうか?お教え願います。
「判官」が制服組なら「判官代」は「背広組」ですか?
「判官」の次官・目代みたいな官職なのでしょうか?
それとも衛門府や検非違使の「判官」と院蔵人の「判官」
を区別する為に「判官代」としたのでしょうか?
40山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/04 07:50
>39
国衙や荘園にも居ましたが(『将門記』など)、この場合は院庁・女院庁で
雑事に携わった職員のことですね。判官と重ね合わせないほうが分かり
易いかと。
41山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/04 07:55
age忘れ
4239:03/06/04 16:33
>>40
ありがとうございました。どうやら地味な事務方の官職ですね。
もっとも地味故に平安末から激動の鎌倉幕府成立の間も
可も無く不可も無く過ごせた訳ですね。
鎌倉幕府成立に幕府軍として活躍し歴史に名を残せても
数代後には一族滅亡の運命だったろうし。
43日本@名無史さん:03/06/04 18:40
>『江談抄』や『中外抄』なども面白い。
とか、古今著門集とか十訓抄とか(もっとあとですかね。)ぱらぱらと見たり、
新書とか小説とか読んでて、特定の話に言及してあるとき、ぱっと参照した
ことはあるですが、じっくり読んだことはないです。こんどまとめてよんで
見ます。
講学上、院政期は、中世への移行期と考えるのでしょうかね。
中世とは何かという実質を論じる力はないんですが、本を読む時
「中世の」とついてるものを読んでいくとき、実質には平安末期から鎌倉
初期の院政期の事情に触れてることが多いですから。
44日本@名無史さん:03/06/04 18:57
>熊野詣でや『梁塵秘抄』に出て来る人々の世界は注目を浴び難いのでしょうか。
梁塵秘抄も、解説本とかちらりと。あと、大昔に読んだ網野本でも
遊女や芸人の話がありましたね。(<この程度の記憶力)
芸能者とか名人とかいう見方はやっぱり独特ですよね。知性への
見方もね。
45日本@名無史さん:03/06/04 19:00
それはそうとして、だれか平安から鎌倉期までの音楽本を
新書や選書とかで企画してくれたら面白いのですけど。
「宮廷文学の密かな楽しみ」という新書をこの間読みましたが
鎌倉時代の琵琶などの楽器の相伝の話が面白かったです。
平安中期には、例の「陰明師」でいろいろ蘊蓄が披露されてる
はくがのさんみも居ますから、そのあたりをツカミにして、
梁塵秘抄にも話題は多いでしょうし。それから鎌倉以降の、
「なんとかの家」というのが成立していくあたりを
人物伝と、実際の「音」への話題をとりまぜて誰か書いてくれないですかね。
歴史の本は、歌詞の話を重視しがちですが、音楽については実際の
音そのものや、楽器や、演奏に見識のある人が書いてほしいですね。

梁塵秘抄に収録された歌の節はまったく残ってないそうなんですが、
選書なら学者が多少想像してもいいのだろうと思われます。
46山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/04 23:56
>>43
>中世とは何か
漠然とした言い方をすれば「自由と暴力の時代」でしょうか。腰刀の時代ともいう。
『今昔物語集』には刀や鏃で魔を退散させたという話が多く『古今著聞集』もそん
な感じですが叡山の高僧の天狗退治よりもこちらの方に中世的な印象を受けます。
>>44
幽霊から売り声まで出て来ますからね。風俗が瞼の裏に浮かんで来ます。
>>45
『<安倍晴明>の文化学』の第三部第八章で触れられていますね。
47日本@名無史さん:03/06/05 00:39
父親の影響力が相対的に大きくなった時代
4839:03/06/05 16:13
「愚管抄」と云えば、多賀教授の講義を受けましたが、
私の研究テーマが摂関期だった為に、院政期に関する
質問を個人的にしなかったのは、今思うと悔やまれる。
49日本@名無史さん:03/06/06 21:26
>>42
普通、判官代になってるクラスの者は、判官代だけやってるわけじゃないよ。
5039:03/06/06 23:03
>>49
受領の目代とか女院領の管理ですか?
院政期の知識が無いのでお教えください。
51日本@名無史さん:03/06/07 08:06
>>50
摂関期の知識も鎌倉期の知識もないのか?
どこの知識ならある?
5239:03/06/08 00:08
>>51
博学の皆様には遠く及ばぬ管見浅学の徒であります。
53山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/08 08:57
>>51
まあそう仰らずに。ただ判官代くらいなら歴史辞典を5冊もめくればそれな
りの事は分かりますけどね。参考文献・論文が記載してあるものもある。
5439:03/06/08 23:31
>>53
アドバイスありがとうございます。
本棚をあらためて見ました所、結構それに関する書籍が
ありましたので、勉強いたします。
55山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/09 12:41
>>54
ではまた改めてどうぞ。この板は近現代史と戦国史以外は(源平も少しはある
か)旗色が悪いのでお願いいたします。
56日本@名無史さん:03/06/19 00:05
平安時代に女帝を擁立できてさえいれば、解決したのに。
57山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/19 00:39
>>56
女帝とは八条院のことでしょうか。解決とは?
58日本@名無史さん:03/06/19 14:19
>56
何を解決したいんだろう・・・?
59日本@名無史さん:03/07/03 01:09
>>58
山野野衾
60日本@名無史さん:03/07/03 07:37
>>39=50
判官代ってのは判官と重ね合わせていいよ。40は無視
院庁などのように令制官司じゃないものの場合に判官代という。
普通の官司で言えば判官、つまり三等官。
例えば敦明親王が春宮から小一条院になったとき
春宮進・属がそのまま横流れに判官代・主典代となっている。
上東門院も皇太后宮進・属が横流れ。
6139:03/07/03 23:59
>>60
ありがとうございます。なるほど横流れですか。
ところで国司には任期がありますが、院庁の官人には
任期は無く問題さえなければ10年も20年も任官し続け
られたのでしょうか?お仕えした院に気に入られたり、
武士なら武力を頼りにされたりして郎等化したのですか?
62日本@名無史さん:03/07/05 11:29
10年も20年も院判官代のままじゃ、干されてるってことだよ。
何年間院司やって、気に入られたら院給とかで位をあげて、受領とかになる。
北面クラスの武士なら、院の後押しで検非違使尉になるね。
63日本@名無史さん:03/07/05 21:50
もしかして、現在の後継者問題のことかな
64日本@名無史さん:03/07/08 07:36
>63は>56へのコメントか?
65日本@名無史さん:03/07/12 06:42
八条院はどうして即位しないの?
66日本@名無史さん:03/07/12 06:54
どうして八条院が即位しなくちゃいけないの?
67日本@名無史さん:03/07/12 08:58
>>53
宜しければ、判官代に関する
文献名を教えていただけないでしょうか?
国史大辞典を見てもイマイチピンとこなかったので。
68日本@名無史さん:03/07/12 13:28
院判官代だけ、ってのはそうないだろう。院司で調べてみたら?

細谷勘資「皇嘉門院院司の構成と御給-一覧表の作成-」(『史聚』29、1995年)
と、いきなり濃いものを提示してみる。
マイナー誌すぎるから、手に入らないかな。
69日本@名無史さん:03/07/12 17:07
70日本@名無史さん:03/07/12 17:08
>>68
ありがとうございます。
史聚会は駒澤大学ですね。
何とか手に入りそうな気がします。
71山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/07/12 18:33
>67
基本というか常識的な理解だと『古事類苑』、『官職要解』、『平安時代史
辞典』・・・八条院についてお調べになりたいのでしたら『平安時代補任及
び女人綜覧』なんてのもありますが。
7270:03/07/12 21:35
>>71
ご教示ありがとうございます。
平安時代史辞典は盲点でした。
早速調べてみたいと思います。
73日本@名無史さん:03/07/12 22:20
NHKすぺさるで冷泉家の特集やってたね。
74日本@名無史さん:03/07/12 22:34
>70は史聚会は駒澤大学なんてことを知っているのに、
『平安時代史事典』が盲点だったという・・・。
詳しいのか、詳しくないのか、わからない・・・。
べつにどおでもいいことだねスマソ。
75山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/07/12 22:38
>>74
いえ(書いておいて何ですが)私もそう思いましたが・・・常識的過ぎたのでは?
そもそも調べておられる理由が分かりませんが。
7670:03/07/13 00:12
>>74
鎌倉時代以降の武家社会中心に勉強していたので、
院政期公家社会については勉強不足なのです。
平安時代史辞典は今まで殆ど使ったことがなかったので、
>>75の仰るように見落としていました。
このスレは勉強になります。
77日本@名無史さん:03/07/13 08:56
現在の史聚会は、駒沢大学とは無関係だよ。
今の事務局は関西。
78山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/07/15 12:37
山崎攻勢で下がりすぎ・・・。
79日本@名無史さん:03/07/15 22:32
長いですが、私の好きな場面。戦の前の緊迫した情景が目に浮かぶようです。

======================

内裏には、義朝が申し上げけるは、

「いかに、かく、いつともなくて支えたる御計らいは候ふにか。軍の道は、
かくは候はず。先、只、押し寄せて蹴散らし候ひての上のことに候ふ。為義、
頼賢、為朝、具して既に参り候ひにけり。親にて候へども御方にかくて候へ
ば、まかり向かい候はば、彼らも引き候ふなんものを。ただ、寄せ候ふなん。」

と、頭(かしら)を掻きて申しけるに、十日一日に事切れず。通憲法師 、庭
に候ひて、

「いかに、いかに、」

と申しけるに、法性寺殿、御前にひしと候ひて、目をしばたたきて打ち見上
げ打ち見上げ見て、物も言はれざりけるを、実能、公能以下これをまぼりて
ありける程に、十一日の暁、

「さらば、とく追い散らし候へ」

と言い出されたりけるに、下野守義朝は悦びて、日出したりける紅の扇をは
らはらと使いて、

「義朝、軍に遭ふ事、何カ度になり候ひぬる。みな、朝家を恐れていかなる
咎をか蒙り候はんずらんと、胸に先こたへて恐れ候ひき。今日、追討の宣旨
かうぶりて、只今、敵に遭い候ひぬる心の涼しさこそ候はね。」

とて、安芸守清盛と手を分かちて三条内裏より中御門へ寄せ参りける。
80日本@名無史さん:03/07/15 22:39
で、この場面は兵範記には記述がない。この時、信範くんは何をしていた
のかというと、

今夜下官依殿下仰、参東三条検知寝殿以下、俄可有行幸故也。

ということで、隣の東三条殿で、お仕事をしていたわけですね。
81日本@名無史さん:03/07/15 22:53
そして翌日のまだ夜が明けやらぬ暁の闇に清盛、義朝、義康の軍勢が出陣。

七月十一日 鶏鳴清盛朝臣、義朝、義康等、軍兵都六百余騎発向白河、清
盛三百余騎自二条方、義朝二百余騎自大炊御門方、義康百余騎自近衛方

三手に別れて、闇夜の中、鴨川対岸の白河北殿を目指す、甲冑、騎馬の軍勢。
どきどきしますね。
82山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/07/15 22:56
>>79
ちょっと話がずれるようで恐縮なのですが。『吾妻鏡』の「以仁王の
令旨」と称するものの中に「清盛法師」という表現がありますよね。
上では「通憲法師(信西)」となっていますがこういった表現には他
に例があるのでしょうか。どういう意識で使用されたのか気になる。
83日本@名無史さん:03/07/15 23:05
ここで、主上は高松殿から東三条殿に皇居を移す。
この間に内大臣実能が来るわけですが、ここは愚管抄の記述と矛盾して
ますね。愚管抄では前日の夜には殿下とともに主上の御前に控えている
ことになってます。

東三条殿の周囲は重装備の武士に固められ、主上と臣下は戦勝を祈願する。
やがて、

辰剋、東方起煙炎、御方軍已責寄縣火了云々、清盛等乗勝遂逃、上皇左
府晦跡逐電、白河御所等焼失畢、斎院御所并院北殿也、御方軍向法勝寺
検知、又焼為義円覚寺住所了

辰の刻ですから、午前八時から九時くらいですか、白河北殿に火がかけ
られ、その煙が東三条殿からも見えたんですね。
信範くんは、どんな気持ちで、この戦の成り行きを見ていたのでしょうか?

84日本@名無史さん:03/07/16 08:40
>82
たいした意味はないのでは?

摂関期の日記類でも「実名+法師」、「実名+入道」という表記は多いでしょう。
公家が出家した場合、出家名よりもこういうほうが多い気がするんですが、
どうなんでしょう。
あと、「官位名+入道」か。
85日本@名無史さん:03/07/16 10:37
>>82
十四世紀の話になりますが、

大塔宮が倒幕を呼びかける令旨の中で、当時の得宗北条高時を、
「伊豆国在庁時政子孫、高時法師」と書いてあるものがあります。

語感としては、相手を貶める時に使うような気がするのですが、
保元物語の例でも当てはまるかどうか分かりません。
86山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/07/16 12:36
>>84,85
どうもすみません。「令旨」にあったので気になりまして。
87日本@名無史さん:03/07/16 12:53
>84-86
個人の日記に書かれる場合と、
公文書である令旨に書かれる場合では、
持つ意味あいが異なるかもしれませんね。

以王や護良の令旨はともに特殊な状況で出されたものなので、
公文書として意識されていたかどうかが問題ですかね。
となると、平時に出された公文書をめくってみなければなりませんね。
88日本@名無史さん:03/07/16 22:50
つーことは、「実名+法師」というのは、多少くだけた呼び方ということなのかな。
89日本@名無史さん:03/07/16 23:06
>>88
「ひろゆき和尚」なんて感じかなあ?
90日本@名無史さん:03/07/16 23:23
>>88
「くだけた」というより、「呼び捨て」という気はするなぁ。
なんとなくだけど。

そもそも、実名で呼ぶのは相当失礼な話だからねぇ。
法師の場合でも、父親の官名とか、出家前の官名に「法師」をつけて呼ぶのが
基本と思うのだけど。
91日本@名無史さん:03/07/17 02:35
>>79に引用された愚管抄の一節では、「通憲法師」とあって、同じ愚管抄の巻第
五以降では、「信西」になっている。そして、この巻第五では大内裏造営から、
信頼に殺されるところまでで、記述は比較的、信西に好意的な印象。
使い分けがあるのかもしれない気はするが、非常に微妙な感じ。
92日本@名無史さん:03/07/22 06:44
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1983/
とかあちこちで解説がなされてるけど、
今回も韓国による事故に対してマスコミが報道規制しちゃってるのがなんとも‥
93日本@名無史さん:03/07/23 00:28
>>91
愚管抄の筆者慈円は、九条家直系の摂関家の出。
信西ていどなら呼び捨てにしても問題ない身分であることを考えると、
「呼び捨てが非礼にあたるか否か」
という命題に関する史料的な根拠として挙げるのは、
やや検討を要するのではないでしょうか。
94日本@名無史さん:03/07/26 05:49
歴史を勉強したことない45他ですが、図書館に古い(昭和6年のを同44年に
改訂再発行(笑))「愚管抄全註解」中島悦次、というのがあったので
借りてきて面白そうなところ読んでます。ぜんぶんは読めないですけどね。
ひらがなで読み下しだからしろうとでも読めるし、きれぎれの引用や
解説本より面白いかも。多少は国語力もつくかもしれないし。
95山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/07/27 10:10
>中島悦次
また(ちょっと)懐かしいお名前を。『宇治拾遺物語』や『打聞集』につい
ても書いてらっしゃいましたね。
96日本@名無史さん:03/07/27 11:43
今更ですが、1694年(天禄4年)に出版された「華夷通商考」に
記載されていた西の国をざっと挙げてみます。

マダガスクル・ハルシャ・ゲネイヤ・トルケイン・フランス・ズヘイ
テ・ノウルウイキ・デイヌマルカ・ドイチラント・ポロニャ・ムスカ
ウベヤ・エジット・モラコ・アビシンイ・モノモタッパ・ぺルウなど。
97山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/07/27 11:59
>>96
マダガスカル・ペルシャ・ギニア・トルコ・フランス・スウェーデン・ノル
ウェー・デンマーク・ドイツ・ポーランド・モスクワ(ロシア)・エジプト・
モロッコ・アビシニア・モノモタパ・ペルー、でしょうか。誤爆?
98山崎 渉:03/08/02 01:32
(^^)
99日本@名無史さん:03/08/03 04:03
清盛法師
100日本@名無史さん:03/08/10 14:48
100
101日本@名無史さん:03/08/15 21:49
102日本@名無史さん:03/08/17 06:32
スレ主の山野野衾さま、以前はとんだところでお願いしちゃいましたが、「中世の天皇の位置付け」スレに是非来て下さい。
忠実について、慈円夢告、狐=ダキニと鎌足、聖位、慈童説話、即位灌頂、中世神話、二神約諾、どんどんお願いします。
他の皆様も是非来て下さい。
103山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/08/17 17:01
>>102
ダキニと鎌足ですか・・・横井清先生が書いてらっしゃいましたね。
104日本@名無史さん:03/08/17 17:04
荼吉尼天はインドから来た商売繁盛の神さまです。
105山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/08/17 22:31
今更ですが、「中世の天皇」スレの46の話は『神皇正統記』で述べられて
いたことで戦前の学者も「明治以降は作者の望みどおりになって良かった」
といったことを述べていたような。
106102:03/08/17 22:57
山野さん!レス有難うございます。
中世の天皇スレ46確認したのですが、あの、もしかしたら番号間違いなのかなと、、。
すみません。うまく言葉が見つかりませんが、教えて下さい。
宜しくお願いします!
107山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/08/18 11:05
>さて、天皇への漢風シ号の表記ですが、
>現在の「なになに天皇」という形になったのは、明治時代からです。
>それ以前は「鳥羽院」「後醍醐院」「花園院」といったように「院号」を送るのが
>常でした。
>(不勉強なので、初見年代は存じません。「嵯峨院」はたぶんそうだと思うんですが
>「桓武院」なんて呼んでたんですかねぇ。お分かりの方がいらっしゃれば、ご教授ください)
>ですから、当時のおくりなは「白川院」です。
>生前は「上皇」とか「法皇」とか「一の院」とか「治天の君」とか「院」というように
>呼ばれていたはずです。けれども「白河上皇」とか「白川法皇」とかましてや
>「白川天皇」と呼ばれることはありません。ですから、「白川院」と私は表記したわけです。

「この御門(冷泉院)より天皇の号を申さず、又宇多より後オクリナを奉らず、
遺詔ありて国忌山陵を置かれざる事は、君父の賢き道なれども、尊号を留めら
るる事は、君子の義にあらず。神武以来の御号も皆後代の定めなり。持統元明
より以来、遜位或は出家の君もオクリナを奉る。天皇とのみこそ申すめれ。
中古の先賢の義なれども、心を得ぬ事に侍るなり。

大正十五年に出た「新釈」で森山右一は
「天皇の号を申さず」は何々天皇と申さず、御在所などの号にて、何々院
(冷泉院、円融院)と申したこと。現代は准后の意見通りで、院は皆天皇
となっている。准后地下に冥したことか。
と記しています。つまり「桓武院」は無かったと。
108106:03/08/18 22:21
>107
有難うございます!!本当に嬉しいです。
とても分かりやすく書いて下さったので、僕にもよく理解できました。
レスの仕方も見習わせていただきたいと思います。
さて、親房准后さまは正統記に色々な事を書いているのですねぇ。
北畠さんのような公家源氏の立場から見た二神約諾も書かれているそうですね。
彼は肯定というか認めているそうですが、どうなのでしょう?
また、山野さんは如何お考えになりますか?
109山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/08/19 14:51
>>108
彼は上古には皇族や武内宿禰(『古今著聞集』では北条泰時の前世)が大臣
であったのにその後多くを藤原氏の占めるところとなったのは「立ち帰り神代
の幽契のままになりぬるにや。」と記しています。順序が逆な気がしますが。
私自身には語れるほどの才能も知識もありませんね。上記以外で二神約諾
を記したものといえば『選集抄』ぐらいしか思い出せませんし。
余談ながら『神皇正統記』で泰時は「いかなる果報にか」とその子孫の繁栄ぶ
りを賞賛されています。
110108:03/08/19 19:40
>109
山野さんが才能も知識もないなんてとんでもないです。
そんな事をおっしゃられたら僕になんか何があると言うのでしょう。
色々なスレで山野さんの書き込みを見て勉強させていただいております。
泰時のお話おもしろいですね!!
実におもしろいです!

順序が逆というのはどういう意味なのでしょうか?
勘が鈍くて申し訳ありませんが、説明して下さいませんか。
『選集抄』に書いてあるとは知りませんでした。
是非ぜひ御教示ください。
正直に言いますと、不勉強で恥ずかしながらその書物自体知らないのです。
宜しくお願いします。
111山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/08/19 22:00
>>110
つまり「二神約諾」があったから藤原氏が栄えたのではなく、藤原氏が栄えた
から「二神約諾」という話が成立したのだろうと。
『撰集抄』は鎌倉時代前期に成立した説話集で、かつては長い間西行の作品
だとされていたものです。それだけに全国各地で西行が会った(とされた)
人々に関する話が出て来る。巻八に日本が神国だと説いた場面があり、二神
云々もそこに出て来ます。
つまり「二神約諾」説を喧伝出来る立場の人間が記したものでしょう。
『古今著聞集』には二神の話は無かったと思いますが、橘氏などの立場から
すれば藤原氏の血統から武内の霊統に政権が移ると見えたのでは。
112110:03/08/19 22:52
>111
なるほどなるほど有難うございます。
二神約諾が、「いつ」「なぜ」成立したかで色々なものの見方が変わってきそうですね。
藤原氏の「血統」から武内の「霊統」に移る、なんてすごくおもしろいです!!
わくわくする発想ですね!!!
逆に『撰集抄』は二神約諾を喧伝できる立場の人間が書いたのでは、という推定にもとても心惹かれます。
興味をもったのですが、普通の大学図書館なら置いてありますか?
簡単には見れないものですか?
113山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/08/19 22:53
>>112
偉そうな物言いですが、少しは検索なさって下さい(笑)。
ttp://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/30/5/3002410.html
すぐお手元に・・・。
114112:03/08/19 23:01
>113
見直そうと見てみたら既に超即レス!大感激です。
有難うございます。
いやはやおっしゃる通りです。
つい甘えてしまい、クレクレタコラと化しておりました。
申し訳ございません。今後は自習・予習した上で書き込みますので、御見限りなくお付き合い下さい。
宜しくお願い致します。
115山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/08/19 23:04
>>114
はい、お願いいたします。しかしこの時代のスレは賑わいませんねえ。
ミーハーな人間がぞろぞろ出て来るよりはマシでしょうが。
116114:03/08/19 23:15
>115
有難うございます!
はい、そうですよねえ。
僕なんぞ、保元の乱前後にも、九条家にも、定家も、興味津々なんですが。
あのぅお聞きしてよいのかわかりませんが、御差支えさえなければでよいので教えて下さい。
山野さんは御専門としては、史学の御立場からか、国文学の御立場からか、どちらでいらっしゃいますか?
117114:03/08/19 23:15
>115
有難うございます!
はい、そうですよねえ。
僕なんぞ、保元の乱前後にも、九条家にも、定家も、興味津々なんですが。
あのぅお聞きしてよいのかわかりませんが、御差支えさえなければでよいので教えて下さい。
山野さんは御専門としては、史学の御立場からか、国文学の御立場からか、どちらでいらっしゃいますか?
118山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/08/19 23:17
>>116
一応と申しましょうか、こんな者でも史学に属しております。
119日本@名無史さん:03/08/19 23:31
>118
二重カキコ失礼致しました。
史学ですか!?
いやはやてっきり国文かと。
だって本スレでも他スレでも山野さんはソースをきちんと載せていらして、それも限られた文献ではなく非常に広範囲で、
それに何か議論で盛り上がっている場合にも、最もふさわしい史料のピッタリな箇所を、ヒョイと超高速で張り付けていらっしゃるのを、何度も見ていますので。
うぅーーーんと前からすごいなあ(失礼な物言いをお許し下さい)と思い、これだけ読みまくっていらっしゃるのは国文の御立場だろうか?と思いました。
120119:03/08/21 17:35
山野さん、御不快にさせてしまったのなら謝ります。
でも、本当に素直にすごいなぁと尊敬しています。
色々な時代を網羅的にお詳しいし、世界史ジョークのチャーチルのつっこみなんかも大好きです。
失礼をお許し下さい。
申し訳ございませんでした。
121日本@名無史さん:03/08/21 22:07
>>山野野衾氏

申し訳ないが、よろしかったら教えてください。
1、二神約諾は次のレスの事にかかわることでよろしいのでしょうか?
2、即位灌頂は大日如来(=天照大神の本地)を天皇の守護者とするという顕密的
な理解でよいのでしょうか?
3、伊勢神宮もまた大日如来の垂迹であり、神国思想も仏教思想の発露の一つである
との黒田俊夫氏の顕密体制論(「日本中世の国家と宗教」)は、現在も妥当性を持つのか?
4、このへんの仏教と中世天皇の関係が書かれているわかりやすい本があったら
紹介願えれば幸いです。

122日本@名無史さん:03/08/21 22:07
(続き)
天照大神を祖とする天皇家と、天児屋命を祖とする藤原氏=中臣氏の関係

中臣とは,《中臣氏系図》の〈延喜本系〉に奈良後期の本系帳を引用し〈高天原
に初めて,皇神(すめかみ)の御中(みなか),皇御孫(すめみま)の御中執り持ちて,
いかし桙(ほこ)傾けず,本末(もとすえ)なからふる人,これを中臣と称へり〉とか,
《台記別記》の〈中臣寿詞(なかとみのよごと)〉に〈本末傾けず茂槍(いかしほこ)
の中執り持ちて仕へ奉る中臣〉とか,《大織冠伝》に〈世々天地の祭を掌り,
人神の間を相和す。仍ってその氏に命じて中臣と曰へり〉とあるように,天皇側近
の神官として神託を伝えるという職掌による呼称であろう。
祖神は天の岩戸や天孫降臨の記紀神話に登場し,春日神社などにまつられる
天児屋(あめのこやね)命。

>天児屋命
日本神話にみえる神の名。記紀神話に登場する。中臣氏の祖神。
天の岩屋戸の神話では,うるわしき称辞を読み上げて天照大神を引き出すことに成功し,
天孫降臨神話では天孫に随行した。名義については〈言綾根(ことあやね)〉
の意とする一説がある。
美しい言葉すなわち祝詞の奏上が役目だからである。そこには宮廷祭祀を主掌
した中臣氏の職掌の反映がある。
後には藤原氏の祖神として,枚岡,春日,大原野の諸神社に祭られた。
123日本@名無史さん:03/08/21 22:08
顕密的→王権法権相互依存の顕密体制
124山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/08/21 22:16
>>120
別に怒るようなレスは無かったと思いますが・・・。
>>122
たいへん申し訳ないのですが、前にも申し上げました通りその方面については
疎いもので、責任をもってレスをつける事が出来ません。
「中世の天皇」スレの3氏がお詳しいようですので、どうかそちらに。
125120,119:03/08/21 22:29
>124
あぁよかったです!!
昨日もいらっしゃらなかったので何となく不安でした。
安心しました。
今後とも宜しくお願い致しますm(__)m
126日本@名無史さん:03/08/23 19:07
重仁親王のその後と,その子孫についてご存知でしょうか?
127山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/08/24 14:09
>>126
以下は『今鏡』よりの引用。
「一の御子も、御髪却し給ひて、仁和寺大僧正寛暁と申ししに就かせ給ひて、
真言など習はせ給ひけるに、敏く愛でたく御座しましければ、昔の真如親王
も斯くやと見えさせ給ひけるに、御足の病重く成らせ給ひて、一年失せさせ
給ひにけり。御年二十二三許にや成り給ひけん。」
128日本@名無史さん:03/09/03 19:54
129日本@名無史さん:03/09/10 21:00
「愚管抄」に出ている。松殿師家について教えて下さい。
木曾義仲の後押しで12歳でたった2ヶ月だけ摂政・内大臣・氏長者を務めたらしいのですが、享年は60過ぎなのに資料を見てもその後のことが分かりません。
130山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/09/10 23:07
>>129
『国史大辞典』や『鎌倉室町人名辞典』は当たられた後ですか。「資料」と
いうのは?
(しかしこのスレ質問レスばっかりじゃ・・・。詳しい人の書き込みも欲しい。)
131日本@名無史さん:03/09/11 19:23
>>130
「公卿事典」と後者は見ました。
132日本@名無史さん:03/09/12 06:23
『平安時代史事典』でもあまり詳しいことは判りませんね。
解官後については「貞永元年(一二三二)出家し、法名を大心といった。
暦仁元年十月四日、四天王寺において薨去。時に正二位であった」とだけ。
出家については、史料は『百練抄』貞永元年九月六日条のようです。
(項目末の史料欄より)
133日本@名無史さん:03/09/18 00:16
134山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/09/18 18:53
(ちょっとだけ)調べてはみましたが・・・。残念ながらはかばかしいものでは。
135日本@名無史さん:03/09/23 17:03
現代も院政

森前首相(院)
小泉首相(今上)
青木(闇将軍w)
136日本@名無史さん:03/10/01 20:54
137日本@名無史さん:03/10/09 22:12
138日本@名無史さん:03/10/26 18:00
139日本@名無史さん:03/11/07 00:26
140日本@名無史さん:03/11/24 15:03
落窪物語って、じつは、実話ですか?
141日本@名無史さん:03/11/24 16:27
>>15
以仁王挙兵の影に八条院ありともいわれてますが。
142日本@名無史さん:03/11/25 03:55
結論
山野はスレ立てには20年早い
143日本@名無史さん:03/12/01 23:48
早くはないだろうけど、山野さんは対論してくタイプの人じゃないから
中心になってスレが発展してくってカンジじゃないね。
144日本@名無史さん:03/12/13 18:00
自サイトつくってやればどう?
145小泉:03/12/18 00:57
しかるべきときがきたらちゃんとレスします。
146日本@名無史さん:03/12/28 14:21
九条兼実の息子さんらは駒として残したのは早死なのに出家させたのは長生き。
精神衛生上も含めて出家は健康に良かったんだろうか。
147山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/12/29 10:58
>>143
>>142は他のスレにも貼ってありますよ。
>>146
精神衛生上よかったのか、食べ物がよかったのか、実際に衛生面がよかった
のか・・・。僧侶の方が風呂に関わる機会が多かった分良かったのかも知れ
ませんね。
当時は実際に延命を目的に出家・逆修を行うということもありましたが。
148日本@名無史さん
師家もそうですが、むりやり木曾義仲の側室に
取られたという彼の姉についてのその後の消息も気になります。
師家がその後政治の表舞台で活躍できなかったのは、
政治力で叔父の兼実に及ばなかったからだと思いますが、
十二歳でいきなり頂点に祭り上げられたのは気の毒だったような気がします。