1 :
日本@名無史さん:
織田信長の正室は斎藤道三の娘、濃姫と言われてるけど、
いつ、どこで、どのようにして死んだの?離縁された?
その辺がすごく曖昧。
正室はいなかった。
終 了
3 :
日本@名無史さん:03/03/25 21:53
山岡荘八は本能寺で信長と一緒に死んだことに
なってますが。。。
確かに他に記述を見ないですね。
4 :
日本@名無史さん:03/03/25 21:56
岐阜城 建った時点で どっちみち 存在意義は終わり
5 :
日本@名無史さん:03/03/25 22:04
>確かに他に記述を見ないですね。
無知まるだし。
6 :
日本@名無史さん:03/03/25 22:12
>>5 ソースだけでも教えてくれますか?
自分で確認してみるので。
7 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/03/25 23:11
帰蝶は江戸時代に記された名前です。他に参考にするものが無いのでとりあ
えず使われることが多いのですが。
>6
「言継卿記」じゃありませんか。
8 :
日本@名無史さん:03/03/26 17:26
老犬斎に扶養されていた安土殿ではないかとも言われていますがどうでしょう。
9 :
日本@名無史さん:03/03/26 20:34
>>7 応答サンクス。
言継卿記ならAD1576までの記録しかないように思うんだけど、
その辺はどうなんでしょう。
それまでの期間、つまりわりあい早い時期に、死んだか放逐されたという記述がある、
ということなのでしょうか。
>>9 1569年の記述に、一色(斎藤)義龍未亡人への信長の仕打ちに対して
信長本妻と兄弟、国衆の主だった者達がストライキを起こした記述がある。
とりあえず、この時期までは斎藤家に強い縁のある女性が信長本妻(正室か?)
ではあったようだ。
11 :
日本@名無史さん:03/03/27 21:13
「本能寺の変後30年ほど生きた」
という説もあるがそのソースはどれから引っ張ってきてるんだろう。
>>11 大徳寺総見院の過去帳に「信長公御台」とされている女性の没年が
大坂の陣の少し前らしい。
ただこれを濃姫と断定できるかは疑問。
13 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/03/27 22:47
>12
1612年でしたね。
14 :
日本@名無史さん:03/03/27 23:07
よく日本史の漫画本に、最期本能寺で
信長公と手をつないで炎の中に消えていく
女性は誰なんですか?春厨でスンマセン・・・
16 :
日本@名無史さん:03/03/28 18:34
>>2 正室はいなかったとする説もある。
諸処の文献に出てくる濃姫とは、一旦は縁談も出たものの破談、
結局正室は迎えなかったとする説がそれだ。
17 :
日本@名無史さん:03/03/28 23:56
>>14 それは文献によると、侍女のお光の方だね。
正室でも側室でもないらしい。
「安土の方」と呼ばれて本能寺の変後も生きたと聞きました。
19 :
日本@名無史さん:03/03/29 16:33
>>17 お光の方は、元は柴田家の侍女だったらしい。
それが信長の寵愛を受け、織田家に奉公するように
なったと聞いたことがある。
20 :
日本@名無史さん:03/03/30 20:28
なべ へら かま
21 :
日本@名無史さん:03/03/30 22:09
あげておく
22 :
日本@名無史さん:03/04/02 22:09
>>20 信長のネーミングセンスは独特だね。
奇妙、三助、人、とか
23 :
日本@名無史さん:03/04/03 14:07
三助とは?三七の間違いか、三介のことなのか。
俗説に従えば、信長の正室は道三の娘で、明智光秀のいとこと
いうことになる。
光秀関係の情報は秀吉と公家が全て抹消してしまっているので、
かえってこの方が信憑性がある。
25 :
日本@名無史さん:03/04/03 17:13
そもそも正室とか側室とかっていう明確な違いがあったのか
ちっと疑問だな
下克上の世の中だぜ?
26 :
日本@名無史さん:03/04/03 17:46
>>25 意味不明
下克上だから正室、側室の区別ないというのは論理の飛躍が過ぎる
27 :
日本@名無史さん:03/04/03 22:59
28 :
日本@名無史さん:03/04/04 16:24
長好、縁は置いとくとして茶筅はひどいな
29 :
日本@名無史さん:03/04/04 16:59
信長の場合、側室というか、まあ侍女へのお手つきは多かったようだ。
正室とされる斎藤道三の娘についてだが、
道三の「譲り状」などから考えて、
実際に道三の娘(養女?猶女?)らしき人物を室に迎えていたことは十分考えられる。
とりあえず
「今月の『歴史読本』読んだ?」
とそっとカキコしてみるテスト
それにしても信長の子女や妻妾って分かってないことの方が案外多くてビクーリ
31 :
日本@名無史さん:03/04/05 23:19
32 :
日本@名無史さん:03/04/06 12:54
>>30 本当に「奇妙」な名前ばかりだ。
最近の大河ドラマとかでは、吉乃が実質的な正妻として描かれてますねえ。
信雄は吉乃の子であるために、本当は少し前に生まれた信孝を三男にして信雄を次男にしているし、馬鹿だけどあぼーんされなかったし…。
>>32 利まつでは、帰蝶さん役の出番は殆どなかったね…。
本能寺の変後に台詞の中にだけ登場して
命は無事らしいようだったので、
「とりあえず、まだ生きとることになってるのか」と思った。
34 :
日本@名無史さん:03/04/08 22:38
信忠も吉乃の子だっけ?
信忠はすこし惜しかった気がするなあ
一生信長の影になる形で死んでしまった。
いや、生きていれば織田王朝が存続したということではない。
生きていれば確実に殺されたろう。
もっと劇的で、信忠が主役の死に場所があっただろうに、って意味では惜しい
主役で死ねるぐらいの役者ではあっただろうから。
>信忠も吉乃の子だっけ?
そうです。
信雄、徳姫(五徳姫)は同母の兄弟。永姫(前田利長妻)も同母兄弟の可能
性もあるが、これに関しては史料があやふやではっきりしないらすぃ。
ちなみに「吉乃」という名は『武功夜話』にしか出てこなかったような記憶
36 :
日本@名無史さん:03/04/11 13:11
どうして濃姫の史料が少ないのかなあ?
不思議だよね。
38 :
日本@名無史さん:03/04/11 21:22
>>36 実家が滅びた
実子がいなかった
夫に大事にしてもらえなかった(?)
、、、
からだと思う・゚・(ノД`)・゚・
おまけ
嫁ぎ先の織田家が信長死後衰退したのも理由かも
>>36 母親が明智家の出身だからでは?
父親の道三も「まむし」だし…
↑
>母親が明智家の出身だからでは?
は?国盗り物語?
41 :
日本@名無史さん:03/04/12 22:11
しかし総見院に正婦人とされる人物の墓は残ってるんだよな。
謎っちゃ謎だ
42 :
日本@名無史さん:03/04/12 22:25
「武功夜話」?
第2の「東日流外三郡誌」ですな。
>>39 濃姫の母は「明智光継の娘・小見の方」という史料があるらすぃ
(^^)
45 :
日本@名無史さん:03/04/18 14:19
46 :
日本@名無史さん:03/04/18 14:56
昔緒方犬の息子がやったドラマでは堺の商家に遊びに行ったまんま一生を過ごしたようだが
真実はいかに
安土城内かどっかでつい腹立ってお手うちにしちゃったのをみんなでうやむやに
・・・とか?
47 :
日本@名無史さん:03/04/18 15:06
>>45 ある系図などでは(下手くそな系図でスマソ)
|−明智光綱−明智光秀
|−小見の方−濃姫
とかなっている。ただ、明智光秀自体、ああいう形であぼーんしたので
今残っている系図もどこまで信用できるのやら、と言う問題は残るが。
48 :
日本@名無史さん:03/04/19 00:59
何だか昔からものすごく疑問に思ってたんだけどさ
ここで聞かせてもらうよ。
お市が浅井家に嫁いだ時、嫁入り行列が美濃や佐和山などを経由したのは
間違いないだろうと思うんだけど、
どうして無事に敵地を通ることが出来たの?
尾張と北近江の婚礼同盟は斎藤家にとっても六角家にとっても
脅威だったと思うんだけど、どうしてそれが許可・黙認されたの?
行列には護衛の軍や間者も同行したはずだし
ほとんど領土侵犯だろう?
>>48 市の婚儀の時期は永禄四年から十一年までの間で諸説あります
有力なのは永禄四年から五年(1561〜2年)説と、永禄十年から十一年(1567〜8年)とあります
後者の説だと、市の婚儀輿入れは容易と思われますが
前者は指摘通り、輿入れは難しいと思われます
自分は時期的に、永禄四年辺りに織田と浅井の同盟と、其れに伴う婚儀を決め
信長が美濃に入った永禄十年に輿入れが行なわれたのではないかと考えます
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
>>49 なるほど、10年来の疑問に答えてくれてありがとうございます。
でも、昔から疑問なんですよね。
外交使者が他領を簡単に通過できるものなのか?
まあ、当時の日本は非常に貧乏だったから
配下の兵は自分の田畑を耕すのに必死で
常時街道を見張らせておく経済的余裕もなかったのかもしれないけどね。
謙信とか、本人が京都まで行ってるし(信長も?)
52 :
日本@名無史さん:03/04/20 20:30
でも、あの時代の戦国大名って案外旅行?してるんですよね。
>>48さんがあげてる上杉謙信もそうだけど、島津歳久・家久兄弟とか
家久に至っては伊勢詣でまでちゃっかりして帰ってるし(w
そうそ。織田信長も実は正式な上洛前に京にいってるんだよね。指摘通り。
あの時代の旅行感覚ってどうなってるんでしょうね。道も今のイラクの比
じゃないほど危険だったろうに。。。
53 :
日本@名無史さん:03/04/23 12:46
今月の歴史読本読まれた方いますか?
濃姫についてはどのように書かれてましたか?
>>46 あのドラマ脚本はよかった。
緒方県の信長は百姓顔で個人的にはミスキャストだったけどw
信長に負けずおとらず潔癖で激しい気性の濃姫が
吉乃を側室にして子供を生ませた信長を許せずに
別居しちゃうんだよな
吉乃が亡くなって、年配になって穏やかになった頃に
また名前の通り戻ってくるんだけど、夫は本能寺の変で死んじゃって
「信長の大馬鹿!うつけ!」とか言って怒るんだよな、たしか、帰蝶さん。。
堺の商家かなんかに身を寄せてて
信長に時々、手紙や地球儀やら送ってきたりするんだよな
カワイイ…
間違い
緒方県じゃなく直人。
test
てすと
test
もっかい
61 :
日本@名無史さん:03/05/09 10:03
離縁されたみたいだけど史料あるの?
62 :
日本@名無しさん:03/05/09 10:43
濃姫
斎藤道三の娘で織田信長の正室。
本名は帰蝶と伝えられる。天文四年生まれ。母は明智氏。
天文十七(1548)年に父斎藤道三と
信長の父織田信秀の同盟が成立し、その証として
翌年二月に信長のもとに輿入れする。
以後の消息は信長公記などにはなく不明だったが、
最近の研究により、山科言継が永禄十二(1569)年七月
岐阜を訪れた時に信長の正室である彼女と対面していることが
言継卿記に記されており、離縁、死亡などはしていないことが
明らかになっている。また、信長の正室が存在することは
本能寺の変の際、安土城の留守居役だった蒲生賢秀が信長の
妻妾を引き連れて日野城に引き上げた時に正室がいたとの
記述が氏郷記に見られる。すでにこの時信忠、信雄、徳姫を
生んだ生駒氏は死んでおり、正室は濃姫以外に考えられない。
信長生前は御台様と呼ばれていたこと(これは天下人の正室に
対する尊称であり、信長が天下人の座を事実上確定した天正元年
以後のものであろう)、信長の死後は安土様と呼ばれ信雄の
庇護にあったことが、信雄の分限帳によって明らかになっている。
信雄が改易されていた間は誰の庇護を受けていたかは明らかに
なっていないが、安土城跡の總見寺にあった過去帳によって
慶長十七年七月九日に死亡して養華院殿という戒名を受けた
ことが判明し、信長の廟がある京都の大徳寺総見院に墓が
あることも確認された。
63 :
日本@名無史さん:03/05/09 10:54
64 :
日本@名無史さん:03/05/09 12:23
↑は騙しですからご注意を。
65 :
日本@名無史さん:03/05/09 12:31
>>62 >最近の研究により、山科言継が永禄十二(1569)年七月
岐阜を訪れた時に信長の正室である彼女と対面していることが
言継卿記に記されており、
そんなことは書いてありません。
「信長本妻兄弟女子十六人」が信長に抗議云々とあるのであり、
「本妻と兄弟女子」とも「本妻の兄弟女子」とも読めます。
「養華院殿」にしても、「信長公後寵妾也」と記す史料もあります。
×「信長公後寵妾也」
○「信長公御寵妾也」
67 :
日本@名無史さん:03/05/09 12:41
じゃあ離縁されたという史料はなく、憶測で本を
書いている人がいるわけだね。
68 :
日本@名無史さん:03/05/09 19:07
>>51 >>52 戦国期の外交交渉については、山田邦明『戦国のコミュニケーション』(吉川弘文館)をご覧下さい。
>>67 >じゃあ離縁されたという史料はなく、憶測で本を
書いている人がいるわけだね。
個人的見解の範囲ならいいと思うが、断定的に述べる奴もいるわな〜
70 :
日本@名無史さん:03/05/10 10:11
離縁はさすがにまともな根拠はねえだろ・・・
早死に説を唱えてる奴もいるが、どうだろう・・・
71 :
日本@名無史さん:03/05/10 20:52
安土城に住んでて本能寺の変後は信雄に引き取られたんだっけ
72 :
日本@名無史さん:03/05/11 14:10
信忠を濃姫(帰蝶)の養子としてから
嫡男扱いにしているという文献を読んだ気が…
離縁は少なくとも美濃を手に入れるまではないっていうのが
今の見解らしいけど(道三の婿という大義名分が成り立たなくなるため)
あと「安土殿」は、信長の居城であった安土城の名をつけられるのは
信長妻妾の中でも正室…という事になり、濃姫の輿入れ以降正妻を娶った
記述がないため、濃姫だろう。ということらしい…
ちなみに彼女は信長の法要も自分の名前で行っている
73 :
日本@名無史さん:03/05/11 14:37
「勢州軍記」のこの記述の事か?
彼ノ信長公ノ之御台斎藤山城入道ノ之息女ノ腹ニ無若君也
嫡子信忠卿モ亦妾人ノ腹也 弘治三年丁巳誕生、是御台ノ之御養子也
妙心寺の法要でも濃姫と判断できるものは何も無いんだけど
74 :
日本@名無史さん:03/05/12 11:52
じゃあ安土殿が誰かというのが問題なんだね。
信長の未婚の娘とかの可能性はないのかな?
あと信長の姉とか妹の誰かとか?
75 :
日本@名無しさん:03/05/12 14:10
亡くなったのが1612年ということは、濃姫は78歳か。
未婚のまま成人した娘や姉妹は確認されていない以上、
安土殿は濃姫だろ。
↑意味ワカラン
お鍋の方が亡くなったのが慶長17年の6月25日。
安土殿の亡くなったのが慶長17年の7月9日。
北の政所の侍女としてのお鍋の方=あくまでも信長の側室の一人
信長御寵妾としてのお鍋の方=史実上の信長の御台
としての一人二役だったりして。
×史実上の信長の御台
○事実上の信長の御台
信長の正室は蘭丸。これ定説。
>>77 あくまでも私観ですが、
濃姫にとって、
吉乃‥嫉妬・憎悪の対象 本来なら自分が生むべきだった信長の嫡男を産んだ女
お鍋の方‥自分にない凡庸な穏やかさで信長を癒やしてくれ、自分の誇りを傷つけられる怖れもない程度の側室
吉乃を早くに死なせたのは濃姫の意思
よってお鍋の方の死後、濃姫も亡くなった。
側室であるお鍋の方より、少しでも長く生きたのも彼女の意思
さすがは、あの男の正室
81 :
日本@名無史さん:03/05/13 09:40
吉乃って捏造本「武功夜話」に書いてある名前だろ。
>81 正室ではない、信忠を産んだ女の名前を検証してるわけではないのだが
83 :
日本@名無史さん:03/05/13 13:40
>>77 安土殿=事実上の正室=お鍋の方ということも考えられるわけだよね
どうしてそこまで隠れたがるかなぁ、濃姫
もしかして、その自意識は信長以上?
そんなことをカキコしてたら、
たった今
地元図書館から、行った時に貸出し中で
予約してた「歴史読本5月号」が戻ってきたというTELがあったわ。
あの雑誌はしょせん男の眼から見たことしか出てないだろうけど
それでも一応チェックはしましょう(笑)
「歴史読本」の情報くれたこのスレに感謝致します、さよなら。
87 :
日本@名無史さん:03/05/13 15:00
>>82 名前を検証しているわけではなくとも、歴史上の人名を、捏造の疑いが濃厚な史料に
拠って用いるのは適当とはいえんだろ
生駒家には「お類」という名前で伝わっているらしい。<吉乃
濃姫の話題じゃないからsage.
89 :
日本@名無しさん:03/05/14 11:38
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92 :
日本@名無史さん:03/05/27 15:14
織田信長の妻妾や子供に関するコラム(小論?)
くわすぃ内容は図書館で借りて読め。
結構マイナーと思える人物についてもふれられていたと思う。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
95 :
日本@名無史さん:03/05/28 21:45
age
96 :
日本@名無史さん:03/06/04 22:08
97 :
日本@名無史さん:03/06/24 14:35
age
98 :
日本@名無史さん:03/07/11 08:36
菊池桃子
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
101 :
日本@名無史さん:03/07/20 18:08
102 :
日本@名無史さん:03/07/28 03:31
age
103 :
日本@名無史さん:03/07/28 07:17
>>34 おいおい、意味わからんぞ。
何で生きてたら確実に殺されてんだよ。
たぶん、信忠がいたら信長王朝は続いてただろる
信長が本能寺で死んだにら話しは別だが。
>>51 戦国時代に外交の使者が他領を通過できるかって・・・
んなもんできるに決まってるよ。
あんた信長の野望とかのやりすぎなんじゃないの?
確か島津家久も京都に遊びにいって「京の町を行幸してた信長が御輿で居眠りしていた」とか書いてるんだよ。
104 :
日本@名無史さん:03/07/28 07:18
信長はむしろ一代限りだろ。家康みたいにカッチリした組織を
作れてないし。信長だから家臣が従ってたみたいな。
105 :
日本@名無史さん:03/07/28 07:21
濃姫について
1 信長に殺された
2 病気で早死にした
3 本能寺で死んだ
4 本能寺の変の後も信雄の庇護で天寿を全うした
5 信長に離縁され母の実家の明智家に身を寄せ、のちに斎藤義龍の攻撃により死亡した
などがある。
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけのもっともらしさ(偽善)に騙されるな!!)
●とにかく神経質で気が小さい、了見が狭い(臆病、二言目には「世間」(「世間」と言っても、一部のA型を中心とした一部の人間の動向に過ぎない))
●他人に異常に干渉して自分たちの古いシキタリを押し付け、そこから少しでも外れる奴に対しては好戦的でファイト満々な態度をとり、かなりキモイ(自己中心、硬直的でデリカシーがない)
●妙に気位が高く、自分が馬鹿にされるとカッと怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようとする(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際にはたいてい、内面的・実質的に負けていることが多い)
●権力・強者には平身低頭だが、弱者に対しては八つ当たり等していじめる(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる(人が見ていない場合特に))
●あら探しだけは名人級でウザく、とにかく否定的(例え10の長所があっても褒めることをせず、たった1つの短所を見つけては貶す)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているので性格が鬱陶しい(根暗・陰気)
●何でも「右へ習え」で、単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質・異文化を理解しようとせず、あるいは理解を示さず、排斥する(差別主義者、狭量、視野が狭い、多数派=正しい と信じて疑わない)
●集団によるいじめのリーダーとなり皆を先導する(陰湿かつ陰険で狡猾)
●他人の悪口・陰口を好むと同時に、自分は他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(自分がそうだから容易に他人を信用できない、またポーズだけで中身を伴っていない、「世間体命」)
●たとえ友達が多くいても、たいていは浅い付き合いでしかなく、心の友はおらず孤独(心の感度が低く、包容力がなく、冷酷だから)
●頭が硬く融通が利かないためストレスを溜め込みやすく、また短気で、地雷持ちが多い(不合理な馬鹿)
●たとえ後で自分の誤りに気づいても、素直に謝れず強引に筋を通そうとし、こじつけの言い訳ばかりする(もう腹を切るしかないだろう!)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男前やのに、なんでやねん!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
107 :
日本@名無史さん:03/08/01 20:22
(^^)
題名は忘れたが、司馬遼太郎の本で、
明智兵が書いた文章として、下記のような文章を引用していた。
|本能寺へ攻め込んだ時、
|身分の高そうな初老の女が、
|薙刀を振るって戦っていた。
|信長は、その女を、
|「おのう」と呼んでいた。
明智兵は、
上様の御台様が「お濃」と呼ばれていたことを知らなかっただろうが、
もし事実とすれば、
その「おのう」は、濃姫以外考えられない。
その後は、想像だが、
信長「明智は女子供は殺さない。さっさと逃げろ」
お濃「イヤです。殿といっしょに死にます」
信長「馬鹿者。女を道連れに死んだと、俺を笑い者にする気か」
てなやり取りがあって、
お濃と侍女たちは逃げ延びたんだろうなあ。(遠い目)
だから
>>105 1・2・3・5は間違い。
110 :
日本@名無史さん:03/08/04 14:16
「おのう」なんて呼ばれるはずないが・・・
信長は「Oh!No!」と言った
「お濃」と呼べるのは、信長だけ。
結局 帰蝶っていつ、どこで死んだのかなぁ
それで信長と彼女は愛し合っていたのかぁああ??
ていうか、利家とまつではいつまで吉乃いきてるの?岐阜へ信長
が行く前にしんでるはず。
そおそお。
吉乃は小牧城で死んでいる。
NHKの歴史担当は、吉乃が正室だと思っているんじゃないの?(w
,,,--─===─ヽ/へ
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119 :
日本@名無史さん:03/08/12 12:20
NHKはけっこう演出優先で平気で歴史をねじまげる。
やはり、吉乃ではなくて、帰蝶をきちんと正室として扱って欲しかった。
信雄が庇護し後に御料所をもらって暮らしていたというのが本当のところと思われ。
120 :
日本@名無史さん:03/08/13 01:11
この短刀は父を刺す短刀になるかも知れませんっていう
話は事実なの?
んなに演出とかで、史実に基づきたいなら、「帰蝶」「お濃」なんてのもないぞw
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
123 :
日本@名無史さん:03/08/16 14:44
124 :
日本@名無史さん:03/08/21 00:24
お蝶
125 :
日本@名無史さん:03/08/21 01:49
帰蝶はめちゃくちゃ美人だったって話も嘘なのかな?
才女で美人。
でも子供がいなかったのを考えると、ブスだったのかなあ。
>>125 んなこたーない。
北政所も結構な美人だったそうだが、結局子供居なかったし。
顔の美醜は子供の有無に関係ないと思われ。
ただし、帰蝶が美人て書いてある確実な史料ってあったっけ?
127 :
日本@名無史さん:03/08/21 02:33
この短刀は父を刺す短刀になるかも知れませんっていう
話は事実なの?
コピペして何がしたいんだ?
129 :
日本@名無史さん:03/08/23 22:05
>>126 北政所は旦那の種無しが原因でしょうが。
信長はんなことはないんだから、つまりはブスだったから
抱かれなかったんじゃないかと
>>125は言いたいわけでしょ?
130 :
日本@名無史さん:03/09/01 00:17
131 :
日本@名無史さん:03/09/01 21:56
斎藤道三は美男子だったそうだから、娘の帰蝶もブスではなかったと思う。
そもそも道三の実娘かどうかもあやしいのでは?
133 :
日本@名無史さん:03/09/03 23:18
>>126 北政所が美人だったってのはどっから出てきたんだ?
そんなの聞いた事ないけど(賢夫人であったのは事実だが)
濃姫が美人だったって説は、道三は美男子、母親の小見の方は美濃一の美女。
その娘が不細工なはずはない、って感じなんじゃないか?
134 :
日本@名無史さん:03/09/04 00:51
「帰蝶」って名前は偽書の武功夜話にしかのってない。
単に「濃姫」と書く方が正確
135 :
日本@名無史さん:03/09/04 21:02
136 :
日本@名無史さん:03/09/05 02:38
>135
そんな呼び方してないだろ。
本名は帰蝶なんだけど、嫁に来たときに信長が
「お前は美濃から来たから濃姫だ」
って改名させたって話もあります
138 :
日本@名無史さん:03/09/05 23:16
「帰蝶」は「美濃国諸旧記」というのにも載っているそうだ。
「鷺山殿」も。
139 :
日本@名無史さん:03/09/06 00:45
140 :
日本@名無史さん:03/09/06 01:18
141 :
日本@名無史さん:03/09/06 10:40
>>136 鷺山城にいたから「鷺山殿」。割と有名な話。
美濃国諸旧記に
「天文十八年二月廿四日、尾州古渡の城主織田上総介信長に嫁す。帰蝶の方という。」
とあるから、彼女の本名は帰蝶って事でほぼ決まりなのでは?
142 :
日本@名無史さん:03/09/06 10:56
>>141 だからさあ
あなたの信じている『美濃国諸旧記』の成立はいつですか?
よく調べてからにしてください。
ドラマや小説などで、
本能寺で信長と一緒に死ぬのは浪漫があっていいけど、
義龍に道三殺された後、すぐに離縁したって説は信長らしいけど、
なん〜か、嫌だ。
144 :
村国 男依:03/09/11 22:31
本能寺の変以後も「濃姫」が生き延びていた可能性があるなんて、
(戦国ドラマからの感化が大きかっただけに)
なんだか、ホッとしたような新鮮な感じだ。
別に他に書いてないからって名無しの方がいいのか
帰蝶で別にいいじゃん
武功夜話だって100%嘘ってわけじゃなし
146 :
日本@名無史さん:03/09/12 22:57
道三殺されたあとさっさと離婚ってのはないと思うなぁ。
だって道三から「婿」として美濃の譲り状を貰ったんだから
せめて美濃攻略までは濃姫を「離縁」することはないかと思われ。
病死ってのは有り得るかもだけど。
147 :
日本@名無史さん:03/09/13 03:34
濃姫でいいだろ。
むりやり帰蝶とか吉乃とか小説じゃないんだから。
148 :
日本@名無史さん:03/09/14 00:50
秀吉の妻が「ね」
信玄四女が「菊」
信玄五女が「松」
「帰蝶」とか「吉乃」とか、この時代の女性の名前としちゃ、
ちょいと凝り過ぎてると思うけどねえ・・・
>>145 『武功夜話』が全部嘘じゃ無いと言えるのは「他の信頼できる史料に
書かれていることが書いてあるから」という理由なのであって、
これは『武功夜話』を書いた人間が集めた史料次第であったというに
過ぎません。
「『武功夜話』だから」という理由で信頼できるネタは一つもありません。
よって「『武功夜話』だって100%嘘ってわけじゃないし」という
理由では何一つ信頼するべきではありません。
149 :
日本@名無史さん:03/09/14 01:32
道三から短刀を渡された話って
何の資料に書いてあるの?
150 :
日本@名無史さん:03/09/14 05:07
>>148 秀吉の妻は、「ね」であるわけがない。
そんな呼びにくい。(゚Д゚)
禰と書いて、ねねと読むんだと思ふ。
松と菊は、姉妹で同じ信玄が命名したからだろ。
いかにも田舎くさいけど。
帰蝶はみやびだが、道三の趣味と教養の表れだろ。
関係ない話だが、「利家とまつ」でよく反町信長が
「である」「であるか」って言ってたが、それは本当らしい。
道三に対面したとき(ドラマなら必ずある、道中こ汚い格好で会う時になって正装したという、あの)
「斉藤道三殿であられます」と紹介され
「であるか」と言ったきりあとは口をきかなかった。
152 :
日本@名無史さん:03/09/14 05:17
>>150 同時代の女性の名前で「ねね」は一例もなく、「ね」ならある。
「おね」と呼ぶのは正しいが「おねね」は間違い。
153 :
日本@名無史さん:03/09/14 05:19
>>150 北政所は自筆書状「ね」です。
その他の史料から名前は「ね」と思われます。
ただし、ふつうは「おね」様です。
帰蝶も俗書の類にしかない名前。
>>151 あの会見も俗説で、事実ではない。
154 :
日本@名無史さん:03/09/14 05:25
一文字ばっかりだな。「五徳」ですら珍しいってことか。
155 :
日本@名無史さん:03/09/14 05:33
徳姫も「ごとく」とあるけど「五徳」とはないと思ったけど。
156 :
日本@名無史さん:03/09/14 07:17
「おとく」じゃ言いにくいから「ごとく」で名前は「徳」だけ?
「ね」説は否定されたと思ってた・・・
158 :
日本@名無史さん:03/09/15 03:09
どうして?
159 :
日本@名無史さん:03/09/15 12:02
ところで、道三から信長への譲り状って事実なの?
実物があるとか信頼できる史料に記述があるとか?
濃姫
斎藤道三の娘で織田信長の正室。
本名は帰蝶と伝えられる。天文四年生まれ。母は明智氏。
天文十七(1548)年に父斎藤道三と
信長の父織田信秀の同盟が成立し、その証として
翌年二月に信長のもとに輿入れする。
以後の消息は信長公記などにはなく不明だったが、
最近の研究により、山科言継が永禄十二(1569)年七月
岐阜を訪れた時に信長の正室である彼女と対面していることが
言継卿記に記されており、離縁、死亡などはしていないことが
明らかになっている。また、信長の正室が存在することは
本能寺の変の際、安土城の留守居役だった蒲生賢秀が信長の
妻妾を引き連れて日野城に引き上げた時に正室がいたとの
記述が氏郷記に見られる。すでにこの時信忠、信雄、徳姫を
生んだ生駒氏は死んでおり、正室は濃姫以外に考えられない。
信長生前は御台様と呼ばれていたこと(これは天下人の正室に
対する尊称であり、信長が天下人の座を事実上確定した天正元年
以後のものであろう)、信長の死後は安土様と呼ばれ信雄の
庇護にあったことが、信雄の分限帳によって明らかになっている。
信雄が改易されていた間は誰の庇護を受けていたかは明らかに
なっていないが、安土城跡の總見寺にあった過去帳によって
慶長十七年七月九日に死亡して養華院殿という戒名を受けた
ことが判明し、信長の廟がある京都の大徳寺総見院に墓が
あることも確認された。
そんなことより1よ、ちょいと聞いてくれよ。天下の行方とは関係ないけどさ。
昨日、本能寺に行ったんです。父上に挨拶しに。
そしたらなんか公家がめちゃくちゃいっぱいで入れないんです。
で、よく見たらなんか前関白太政大臣近衛前久も来てて、祝辞を述べてるんです。
もうね、アホかと、我御料かと。
お前らな、祝辞ごときで普段から陰で悪口言ってる父上に頭下げてんじゃねーよ、ボケが。
公家なんか眼中にねぇんだよ、父上は。
なんか吉田兼和もいるし。悲参議のくせに従三位に昇進して嬉しいのか。おめでてーな。
よーし麿右府殿の西国平定の戦勝祈願するでおじゃる、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、西国を平らげた暁には父上と共に禁裏を粛正するから覚悟しろと。
今の禁裏ってのはな、もはや腐りきったものなんだよ。
形ばかりの権威や慣例を掲げ、時の権力者にすがって政には介入しない。
都合の悪い相手は朝敵にして我が身を守ろうとする、そんな雰囲気が父上に嫌悪されてんじゃねーか。女子供みたいな輩はすっこんでろ。
で、父上との会談が終わって妙覚寺に戻ったと思ったら、貞勝が、明智殿謀反です、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな光秀、天下統一を目前にして世を乱してんじゃねーよ。ボケが。
得意げな顔して何が、敵は本能寺にあり、だ。
お前は誰のお陰で国持大名になれたのかと問いたい。問い詰めたい。半刻弱問い詰めたい。
お前、後世に謀反人の名を残すだけちゃうんかと。
父上救出が無理だった俺から言わせてもらえば今、馬廻り衆の議論内容はやっぱり、
二条御所へ篭るか京都からの脱出か、これだね。
明智の大軍をかい潜って脱出して再起を図る。これが後世の自称歴史通が考えるであろう机上の作戦。
俺の元にいる馬廻り衆はわずか。そん代わり士気だけは高め。これ。
でも、落ち延びる途中で名も無き者の手にかかれば織田の名に傷がつく。これ最悪。
しかしここで潔く自害すれば織田の天下は一代限りで終わってしまう危険も伴う、諸刃の剣。
源五には薦められたくない。
まあ三法師よ、生き延びて織田家嫡流の血だけは残してくれ。
162 :
日本@名無史さん:03/09/15 13:25
163 :
日本@名無史さん:03/09/15 18:36
過去レスを読んでみた。
>>103 家久すげー。すごすぎ。
164 :
日本@名無史さん:03/09/15 21:03
吉乃は「吉法師のもの」って事で「吉乃」て名を生駒殿に信長がつけたって説もあるよな。
本名は「るい」だっけか?
信憑性は知らないけど。
信長は子供(の幼名に)台所用品とかの名前をつける事多いな……。
茶筅、五徳、酎など……。
165 :
日本@名無史さん:03/09/15 21:41
「お鍋」の方
てのもいたね。こいつはどうなの?
166 :
日本@名無史さん:03/09/15 23:30
五徳は御徳の誤読じゃないか?
↓
ごとくはごとくのごどくじゃないか?
駄洒落みたいだな。
お徳→御徳→ごとく読んで→五徳
これだと思う今日この頃
168 :
日本@名無史さん:03/09/16 15:21
お徳?
信長がそんなまともな名前をつけるわけがない。
長男が、奇妙丸
次男が、茶筅丸
とくれば、長女は、五徳にきまっとる。(笑
169 :
日本@名無史さん:03/09/16 23:23
短刀の話を教えてくれ?
気になって寝れない。
170 :
日本@名無史さん:03/09/17 01:18
かなで「ごとく」と書きます。
ですから読み間違いではありません。
171 :
日本@名無史さん:03/09/17 03:22
帰蝶が本能寺の変の主犯だという説があるよね。
妄想小説にはね。
信長は妻妾に台所道具の名前をつけていた
信長は子供に変な名前をつけていた
五徳は台所道具の名前で変わった名前だからおかしくない
「ね」は手紙とかに書いてあったからですがひらがな一文字の名前は例がない
「ねね」は普通の名前「ねね」ととるほうが妥当
濃姫は当時美濃から来た姫の意味のはず本名は別にあったろう
帰蝶であったかは別にして でもスレタイからしてこれでもいいだろ
174 :
日本@名無史さん:03/09/18 00:19
>>152,
>>153 上の方で、秀吉の妻の名、「ね」だと言っていたやつ。
NHKのDQN歴史番組にだまされてるんじゃないよ。
呼ぶ時は「おねさま」だとか言っていたけど、
じゃあ、夫よりも身分が高い人、たとえば信長が、
「おねさま」と呼ぶのか? ありえねーぞ。
「お」も付けないだろう。
利家の妻を呼ぶときは「松!」
で、秀吉の妻を呼ぶときは「ね!」
絶対に呼びにくいって(゚Д゚)
手紙の署名が、「ね」なのは、
それだけで「ねね」だとわかるからで、
坂本龍馬が、「龍」と署名しているのと同じでそ。
175 :
日本@名無史さん:03/09/18 00:47
呼びやすいにくいで決めるのかw
>「ね」は手紙とかに書いてあったからですがひらがな一文字の名前は例がない
「禰」という漢字一字ですが何か?
この時代には「ねね」なんて名前の方が確認されませんぞw
176 :
日本@名無史さん:03/09/18 01:00
「禰」なら「ねい」ということもあるのでは。
177 :
日本@名無史さん:03/09/18 01:44
>>174 わかってないね。
いかに主君とはいえ、呼び捨てにすることはありません。
家臣の奥方でも、名前では呼ぶことはありません。
大河ドラマを信じてるの?
178 :
日本@名無史さん:03/09/18 04:59
>>177 へええ。じゃあ、どう呼ぶの?
「サルの奥さん」とかかい?
まぁ普通の会社とかで考えても
たーーーくさんいる家来の妻の名前までイチイチ覚えてないだろうし
知っててもそんなに話しに出てこないし
たまに話しに出てきても名前呼び捨てにしないだろうなぁ
たまに使っても「オマエの奥さんは〜」くらいかなぁ?
>>175 漢字じゃなくひらがなと最初からかいてあるだろうが
それと武田信玄の妹の名前はねねですが
182 :
日本@名無史さん:03/09/18 13:56
>>180 信長とねねは、
正月の挨拶に来て対面したり、
手紙を出したりと、
普通の大勢いる家来の妻というにしては、親しげだ。
手紙を出す時の宛名は、「秀吉女房殿」かもしれんが、
対面して話をする時は、そんな堅苦しい言い方はしないだろう。
さて、何と呼ぶのだ?
183 :
日本@名無史さん:03/09/18 15:40
>182
個人名は呼びません。
184 :
日本@名無史さん:03/09/18 15:56
おみゃー
185 :
日本@名無史さん:03/09/18 18:51
「太閤素性記」に幼名「ねね御料人」とある。
木下家系図には「政所、従一位、諱子為(いみな・ねい)」とある。
平姓杉原氏御系図附言には「御諱は於祢為(おねい)」とある。
北政所の書状に「祢(ね)」と署名している。
木下足守家譜に「北政所寧子(ねい)」とある。
故に「ねね」は通称若しくは愛称レベルであり、本名は「ね」若しくは
「ねい」であろう。
実際に呼ぶ時には接頭語「お」がついて「おね」若しくは「おねい」となる。
「お」は接頭語であって丁寧語ではないので、夫の上司(例えば信長)
であろうと、呼ぶ時は「おね」「おねい」が正しいだろう。
186 :
日本@名無史さん:03/09/18 18:55
>>181 いつからひらがなになった?w
信玄の妹も「禰々御料人」だが本名かのう。
187 :
日本@名無史さん:03/09/18 20:17
>>185 丁寧に、どうもありがとう。
>>「太閤素性記」に幼名「ねね御料人」とある。
>>木下家系図には「政所、従一位、諱子為(いみな・ねい)」とある。
>>平姓杉原氏御系図附言には「御諱は於祢為(おねい)」とある。
>>北政所の書状に「祢(ね)」と署名している。
>>木下足守家譜に「北政所寧子(ねい)」とある。
ところで、上記の資料の()内の部分は、その資料の中に読みも書いてあるの?
あなたの推測だとすると、また話が振り出しに戻っちゃうんだけど。
幼名「ねね御料人」
子為(ねい)
於祢為(おねい)
祢(ね)
寧子(ねい)
を比べると、「寧子」は「ねね」のほうが正しいように見えるのだが。
それと、署名の「祢(ね)」はやはり省略だと思ふ。
「祢(ね)」はやはり、署名の省略形でそ。
NHKの歴史番組は、DQN番組と決定した。
ねい(子為・祢為)と
ねね(ねね・寧子)は同数で、5分5分ですが、
俺は、「ねね」が正しいと思う。
根拠は、妹の名前が「やや」だということでつ(笑
信玄の娘が「松」と「菊」だったように、姉妹は共通するニュアンスの命名をされがちだ。
「ねね」と「やや」はいずれも可愛い赤ん坊ということで、同じ父親が命名しそうな名前だ。
189 :
日本@名無史さん:03/09/19 02:01
書いてあればなんでもいいという訳ではない。
寧子というのはもちろん尊称。
秀吉が天下人になったからだ。
秀吉の姉と同じ。
190 :
日本@名無史さん:03/09/19 04:26
「寧子」だと「ねいし」とかじゃない?
藤原寧子(ふじわらのねいし)ってのも実際にいたし。
「寧」で「ね」っていう読みもするの?
普通は「ねい」だけだと思うけど。
191 :
日本@名無史さん:03/09/19 14:01
大塚寧々とか「ね」だけどなw
それはさておき、「北政所寧子」の「子」は、もともとの諱に含まれていた
わけじゃないよ。
「ねい」(私はこれを支持してるので)に従一位を与えようという時に
なって、平安の頃より上流階級の女性ならほぼ必ず「○子」という諱を
持っていたわけだけど、もともとたいした身分もない「ねい」には
当然そんな諱があるはずもなく、それが問題となった。
そこで「ねい」(子為・祢為・寧?本人が「祢」と署名しているから
そもそもは「祢為」が正しいのだろうか)に「子」を足して「寧子」
という諱を作った。
それで結局、従一位を貰う際には「平朝臣寧子」(たいらのあそんねいし)
という公式の名前で叙任したというわけだ。
まあ「○子」を音読みで「〜し」と読ませるのは何も確実な根拠が
あるわけじゃないけど、「中宮定子」を「ちゅうぐうていね」とは
言わないと思うし、とってつけた「寧子」は「ねいし」でいいんじゃないか
と思います。
192 :
日本@名無史さん:03/09/19 20:10
寧子(ねいこ)という可能性もあるんでつか?
ふうみ、「ねい」説が優勢なみたいでつね。
「ねね」派の俺としては残念だけど。
「ね」「おね」と唱えているHNK歴史番組は、DQN決定ということで満足するかー。
193 :
日本@名無史さん:03/09/19 21:59
北政所の妹が「やや」ですよね。だったら「ねね」が自然なのでは。
もし「ね」が正しいなら妹は「や」だ。
194 :
日本@名無史さん:03/09/19 22:32
俺もそう思ったんだけどねー。
為 これを、ねと読むか、
前の字と同じ読みにするってなルールでもない限り、むずかすいよ
「太閤素性記」
↑これ、史料の信憑性は誰も問わんのか?
196 :
日本@名無史さん:03/09/20 01:39
そんなの無視だろ。
ところでその「妹」の名前は「やや」で正しいと思う?
それから寧子を「ねいし」と読むのは便宜的な読み方で、本来は訓読みだとおもう。
「やすこ」とか。
秀吉の姉も同様で智子だっけか?
197 :
日本@名無史さん:03/09/20 02:15
なんかいつの間にか秀吉の正室を語るスレになってる…
【寧子】豊臣秀吉の正室って?【北政所】
>>193 >もし「ね」が正しいなら妹は「や」だ。
そういうのは単なる極論ですなw
それぞれ別個に検証すべき問題であろうよ。
>>196 太閤素性記が甫庵太閤記以上に史料価値なくて、それ以降の家譜は
この素性記なんかを素にしてるから、全く信頼性0なんだがね。
それを無視するのは都合良く話を進めたいだけにしか見えんが。
>>199 論点を秀吉夫人の名前に限定するなら、
それほど悪くないんじゃない?
NHK大河はどうして「おね」「あざい」にはしつこくこだわって
「林道勝」「織田信行」はそのままなんだろう
「ねね」の方が通りがいいのに
男女同姓がこの時代あったのだろうか豊臣吉子って?
203 :
日本@名無史さん:03/09/20 19:29
林道勝>林通勝 でそ
204 :
日本@名無史さん:03/09/20 19:40
>>202 フィクションとわりきって見るから、「ねね」でも「あさい」でもよい。
ていうか、「あざい」や助詞抜きのセリフ連発のNHK大河臭にはウンザリ。
あと、「豊臣」はウジであり名字ではないので、「豊臣吉子」は問題ないと思う。
おねの兄弟の木下一族は豊臣姓だし、養家の浅野氏も豊臣姓を与えられている。
ただ、名字なら「浅野氏おね」であり、「羽柴氏おね」ではない。
ぼちぼちタイトル変更せいや
北のマンどころ
て
206 :
日本@名無史さん:03/09/20 22:57
>NHK大河はどうして「おね」「あざい」にはしつこくこだわって
この辺は小和田さんのこだわりでしょう。
>「林道勝」「織田信行」はそのままなんだろう
小和田さん自身の研究ではないからではないかと。
207 :
日本@名無史さん:03/09/20 23:13
俺は北政所の本名は「ねい」を支持かな。
最初は「ねね」かと思っていたけど、本人が「祢」と署名している以上
少なくとも「ね」というのが彼女の呼び名としてあったという事だし。
で、木下家系図の「政所、従一位、諱子為」や平姓杉原氏御系図附言の
「御諱は於祢為」などを見ると「ね」「い」というのは
確定している気がするんだけど……。
まぁこの文献の確証うんぬん言われたら知らないけどw
俺的に本名は「ねい」で、あだ名が「ね」だったんじゃないかと。
つーか濃姫の話題は遥かかなたへ逝ってしまったなw
彼女が実際呼ばれていた可能性のある呼び名としては
「帰蝶」「胡蝶」「鷺山殿」「濃姫(於濃)」「美濃御前」
「美濃の御方様」「安土殿」「御台様」などか?
208 :
日本@名無史さん:03/09/21 01:48
胡蝶は、帰蝶の聞き間違いじゃないかな?
ほかのは全部あってるんじゃないかな?
あと、未亡人になってから、
〜〜尼 ってのもありそうだ。
209 :
日本@名無史さん:03/09/21 02:58
>>208 『武功夜話』の中で帰蝶と胡蝶の両方が使われている。
作者が耄碌していただけだろうな。
「帰蝶」の名は『美濃国諸旧記』に見えるが、成立が寛永末年頃と
され、それ以前の史料に「帰蝶」が無いので信頼できるとは
言えないな。
ちなみに北政所関連だが。
『美濃国諸旧記』にも杉原氏系図が出て来るが、そこでは
「彌居(ねい)」となっているな。
ま、あくまでも『美濃国諸旧記』なわけだがね。
210 :
日本@名無史さん:03/09/21 03:07
>>209 『武功夜話』は偽書らしいですよ。ええ。
211 :
日本@名無史さん:03/09/21 03:34
極端な説では明治以降に書かれたとする説もあったね。
だがもし本当に偽書ならば、明治以降の方が様々な史料が刊行され、
ネタを収集しやすかったかもね。
212 :
日本@名無史さん:03/09/21 04:07
「為」は動詞として使ってるんでは?
213 :
日本@名無史さん:03/09/21 04:59
なんで系図の中に唐突に動詞が必要やねん・・・
214 :
日本@名無史さん:03/09/21 05:13
>213
?
系図にも文章書いてあるけど?
215 :
日本@名無史さん:03/09/21 05:48
「政所、従一位、諱子為」「御諱は於祢為」とかの「為」の事を
言ってるんなら自分の目で見て来いというだけの話だな・・・
216 :
日本@名無史さん:03/09/21 11:54
お互い様だな
217 :
日本@名無史さん:03/09/22 21:11
濃ってのは道三から短刀受けとらなかったのかい?
218 :
権六ちゃん:03/09/23 06:51
権六ちゃん :03/09/20 10:24
なんで権六さんのスレないんだよ。
とりあえず語るぞ。
歴史ドラマではいつも悪者に描かれる権六さんも「利家と松」では
かっこよかったな。
感動した。
誰かスレ立ててくれ
219 :
日本@名無史さん:03/09/23 11:28
手紙の署名についてなんだが…
細川ガラシャの手紙の署名はみんな「た」の一文字。
だから本名は「た」で、呼び名は「おた」が正しい。
なんていわないよな
ちなみにガラシャ侍女・小侍従の署名は「こ」。
220 :
日本@名無史さん:03/09/23 15:59
だから祢為でしょ。
221 :
日本@名無史さん:03/09/23 16:20
祢為…ネタ?
222 :
日本@名無史さん:03/09/23 19:22
>>219 NHKの大河ドラマと「歴史が動いた」の作成者は、
そゆことも知らない歴史に残るアフォー。
ガラシャは「おた」であってるが
ガラシャと呼び合ってたとでも言うのか?
224 :
日本@名無史さん:03/09/24 10:03
「玉」だと思ってた・・・「た」でええんの?
玉です だまされるな「た」はネタですよ
ついでに徳川秀忠の次女も子々(珠)です
226 :
日本@名無史さん:03/09/24 13:32
「玉子」ですがな。忠興と結婚前は「明智玉子」
結婚して「細川玉子」更に受洗して「細川ガラシャ」
となったんですがな。
227 :
日本@名無史さん:03/09/24 15:00
本名、「たま」
署名、「た」
漢字で書くなら、「珠」ではないかな?
>>225 >>徳川秀忠の次女も子々(珠)
これはどう読むの? ねね(たま)?
>>226 この時代は夫婦別姓だから、「細川玉子」はないんじゃないか?
洗礼名は、キリシタン式ってことで、夫の姓をくっつけた、と思ふ。
>>徳川秀忠の次女も子々(珠)
これはどう読むの? ねね(たま)?
幼名「ねね」でとついでから「たま」だそうです
>>この時代は夫婦別姓だから、「細川玉子」はないんじゃないか?
洗礼名は、キリシタン式ってことで、夫の姓をくっつけた、と思ふ。
そうかそれなら京極マリアでいいわけだ納得
230 :
日本@名無史さん:03/09/25 21:36
キリシタンって側室なんかになってはいけない筈なんじゃ?
それなのに、豊臣秀次の側室「お辰の方」はキリシタンですがな。
231 :
日本@名無史さん:03/09/25 21:52
さあ?
自分の意思で側室になったわけじゃないんじゃないの?
それに、
側室になってから、キリシタンになったのなら、無問題では?
232 :
日本@名無史さん:03/09/26 08:48
某大名の側室がキリシタンになりたいと宣教師の元を尋ねた時、
彼女の境遇を知った宣教師はきっぱり撥ね付けたそうな。
だから、側室になってからキリシタンになるなんてのは
考えられないことですな。
わらわは信長殿の側室ですぞ。
234 :
日本@名無史さん:03/09/26 13:45
へえ、そうなんでつか。
宣教師って、信仰したい者は誰でも受け入れるものかと思ってまつた。
聖書にも娼婦をかばうキリストの話とか出てくるし。
235 :
日本@名無史さん:03/09/26 14:19
公家でキリシタンになった人はいないのですか?
236 :
日本@名無史さん:03/09/26 19:55
>>223 「おた」「おね」と呼び合っていたとでも言うのか?
237 :
日本@名無史さん:03/09/26 22:52
「おた様」「おね様」でござりまする
238 :
日本@名無史さん:03/09/27 01:51
239 :
日本@名無史さん:03/09/27 02:07
>>235 清原枝賢と、その娘(ガラシャの侍女)。
枝賢はキリシタン嫌いだったけど、宣教師との宗教論争で言い負かされて
改宗したんだっけ?
240 :
日本@名無史さん:03/09/27 06:16
241 :
日本@名無史さん:03/09/27 09:05
皇族(親王や内親王・女王など)でキリシタンに
なった人はいないのですか?
>>241 宣教師の報告には
後陽成天皇の皇子某が家族そろって洗礼を受けたとあるんだか。
日本側の記録にないのは外聞をはばかったのかも。
>>235 陰陽師の賀茂在昌。
勘当されたのは改宗のため説あり。
>>237,240
「た」「ね」は署名だけ。
「おた」「おね」はありえない。
それがわからないようなら、
もはや「おばか様」と言うしかない。
特に、NHK(笑
「おたま」「おねい」だな。
245 :
日本@名無史さん:03/09/30 01:17
帰蝶は道三から短刀は受け取っていない。
つくり話だと判明しました。
246 :
日本@名無史さん:03/09/30 01:28
ほお、
嫁ぐ娘に短刀を与えるのは、当時の慣習かと思っていましたが、
違うんでつか?
247 :
日本@名無史さん:03/09/30 01:38
「おたま」「おね」です
248 :
日本@名無史さん:03/09/30 02:48
この短刀は父を殺すことになるかもしれないって
話は嘘ですな。
249 :
日本@名無史さん:03/09/30 04:44
なんでおたまはおたじゃないのに
おねいはおねやねん
250 :
日本@名無史さん:03/09/30 14:56
>>248 嘘だと言うなら、誰が作った話か教えてくれ。
俺は、
道三が誰かに、
「娘のやつ、こんなことを言ったよ。
あんなに可愛がって育てたのに、結婚すれば父より夫の方がいいのかなあ」
みたいに愚痴ったことは、ありえそうに思うんだけど。
251 :
日本@名無史さん:03/09/30 15:11
>>250 というよりも、短刀の話がどこに書いてあるのかを考えたほうがよいのでは。
何か歴史書に残ってるのかな?作ったとすれば小説じゃないの?
そうですね。まず短刀を持ったことが書いてある文献がないとね。
253 :
日本@名無史さん:03/09/30 19:21
>嫁ぐ娘に短刀を与えるのは、当時の慣習
ならば、
そのことは当たり前だから、どの文献にも書いてないと思ふ。
そして、慣習なら、道三が短刀を与えたことは間違いないと思ふ。
問題は、その時の会話。
誰かが聞いていたか、道三が愚痴ったか。(濃姫が語ることはないだろう)
俺はどちらもありそうにないと思ふ。
254 :
日本@名無史さん:03/09/30 21:55
この話は結構有名だよね。
でも嘘なのかぁ
255 :
日本@名無史さん:03/10/01 01:44
結局出典はなんなのさ。
256 :
日本@名無史さん:03/10/01 02:07
甫庵信長記とかその辺りの逸話集だろ
257 :
日本@名無史さん:03/10/01 02:23
誰か調べてけれ
258 :
日本@名無史さん:03/10/01 04:13
道三がらみなら美濃国諸旧記もあやしいな。
うちの近くの図書館には無いから、誰かよろしこ。
259 :
日本@名無史さん:03/10/01 15:02
ここの多くのネタは、織田信長総合事典だわな
どうも司馬遼太郎っぽい
261 :
日本@名無史さん:03/10/03 15:06
>>260 > どうも司馬遼太郎っぽい
これは、
>誰が作った話か教えてくれ
への回答でつか?
「国盗り物語」でつか?
262 :
日本@名無史さん:03/10/03 22:58
なんだ、司馬の野郎か。
戦国無双で出るとしたら武器は短剣やろか
264 :
日本@名無史さん:03/10/13 01:15
265 :
日本@名無史さん:03/10/18 01:27
「本能寺で最期」説を取る小説・漫画
山岡荘八/織田信長:薙刀を取って戦い討死
司馬遼太郎/国盗り物語:同、本能寺前10年程記述無し
櫻田晋也/戦国武将の妻たち:同、粗暴な信長を哀れみつつも最期を共に
谷恒生/織田信長:同、年をとっても可愛らしい感じ
学研漫画/織田信長:薙刀を取り、信長と手をとり炎の中に消える
「冥途の先までお供をつかまつりますっ」
時代村3D時代劇/本能寺炎上:薙刀を取り、信長と炎の中で自害
「濃、わしと共に冥途に参ろうぞ」
ドラマ/徳川の女:戦わないが、信長と手をとり炎の中に消える(原作は別)
?/戦国美濃の群像:本能寺で一緒だったようだが、未読のため、状況は不明
最近の小説、ドラマ(特に大河)では、邪険な扱いor無視多し。
濃姫については、正室がどうの言われてるが、あくまで人質だったわけだよね。
つまり、斎藤氏が今川方につかないようにするための約束手形みたいなもの。
ということは、道三が死亡した時点で、濃姫の人質としての意味が薄れる。
消されたか追放されたのは、この時期が最も有力だろうな。
1560年に桶狭間で義元を討ち、家康と同盟を結んだ時点で、
人質としての意味は、なくなったと言っていいだろう。
信長は美濃攻略に、えらい時間をかけているから、
この時に濃姫が人質として残されていたのは疑問だろうね。
くどいようだが、人質だったから子供を産まなかったんだよね。
信長も種馬じゃないんだから、人質に子供を産ますなんてことはしなかった。
だからこそ生駒氏を愛し、かたときも離さなかったわけだ。
信長は正室というかたちで濃姫を人質にとり、その後は正室を持たなかったから、
様々な憶測が流れるんだろうね。
信長にとって、正室も側室も、あまり意味がなかったんじゃないかな。
267 :
日本@名無史さん:03/10/18 11:41
正室が人質というケースはこの時代よくあったことでは。
だからって子供を生ませなかったとか、人質として意味が
なくなったら追放とか普通はしないよね。
まあ信長は普通じゃないだろうけど。
濃姫が子を生めない体だったという可能性はないのですか?
女がいればタイプでなかったとしても当然男は味見をするわけで・・
269 :
日本@名無史さん:03/10/19 16:35
>女がいればタイプでなかったとしても当然男は味見をするわけで・・
…勇者だな お主。
姫という名称に騙されるが、濃姫は父親似であんな顔だったとしたら…
側室を持てない状況ならともかく俺だったら(ry
道三は、美男で有名。
年食ってからの肖像は、あんなだけどさ (w
ねね (まだ言ってる(^.^;)
もそうだけど、昔の女は14くらいで未熟な子宮でバンバンやると、
不妊症になる、みたいなことがあったんじゃないかな?
271 :
日本@名無史:03/10/19 22:00
光秀の叔母が道三の側室になっていたというのは本当。
だから、道三の娘である濃姫が光秀の縁者である可能性はある。
朝倉に遣えていた筈の光秀が、朝倉に逃げ込んで来た足利義昭を何故か突然、縁もゆかりもない筈の信長に紹介したのは、やはり信長とそれなりの繋がりがあったからだと思う。
272 :
日本@名無史さん:03/10/19 22:51
道三死後の美濃は積極的に他国へ進行してないね。
けど、信長は確実に美濃方面での引き抜きをしている。
道三死後も義龍は桶狭間を見ても何も攻勢に出ていないのを考えると
まだ、濃姫は尾張に居たんじゃない?
273 :
日本@名無史さん:03/10/19 23:05
>271
小見の方だっけ?
でも光秀て本当に甥なのか?
奉公衆の出身じゃないの?
>>272 何度か木曽川近辺で小競り合いはあったようだ。
義龍が尾張に攻め込めなかったのは、家中に問題があったと思われる。
それに、桶狭間の戦いにしても、信長はあまり兵を動かしてない。
つまり、美濃に対する布陣は怠りなかったということじゃないの?
275 :
日本@名無史さん:03/10/21 03:13
脳姫が才女であったことのソースキボンヌ
276 :
日本@名無史さん:03/10/21 06:52
義龍はそれでも信長からの侵攻は全てはねのけた。
早死にさえしなけりゃ家中もまとめてついには
信長を打倒し、尾張美濃100万石の大名として
足利義昭を担いで上洛し、管領に収まって
幕府を再建する姿が見られたかもしれないのに・・・
>>274 桶狭間の実働隊が2〜3000、各砦の兵が合計で2000ほどと
見ても、既に岩倉織田家をも打倒して尾張のほとんどを治める
信長の兵力としては少なすぎるね。
今川義元が食い込んでいたのは、知多郡の一部と海東郡の一部
でしかないわけだし。
やはり北への備えを割いていたんでしょうね。
短「おのぅ、オラ、天下を取るだべ。そしたらオラは上様と呼ばれ、お前は御台所になるだべよ。」
淡「まぁ、素敵ね。」
短「うちのでかい台所思い出してみぃ、あれがおのぅだべ、そこら辺に散らばってる台所道具が
すなわち子や側妾になるわけよ。どうじゃ」
淡「まぁ、素敵ね。」
短「で、料理人がこのおれよ」
淡「まぁ、素敵ね。」
278 :
日本@名無史さん:03/10/25 17:51
みんな、もっと真面目に発言しよーぜ!
>>278 まず、おまいが発言シル!
そしたら、
「そうだ」とか「違うぞ」とか言える。
280 :
日本@名無史さん:03/10/26 00:06
そうだ。
>>278 はい、まじめなソースだよ
■「言継卿記」の永禄十二年(1569)七月の記事に「信長本妻」の健在ぶりが記載してある。これは濃姫(帰蝶)のことで間違いない。
■天正十三年(1585)作成の「織田信雄分限帳」において「安土殿」に六百貫文知行されている。前後の人物は信雄の身内ばかりで、安土殿と言える人物は濃姫としか考えられない。
・・・[補足]「続群書類従25上」の「織田信雄分限帳」では「あつちとの」となっていました。
■安土の惣見寺に残された、織田家の過去帳ともいえる「泰巌相公縁会名簿」に「信長公御台」の没年は慶長十七年(1612)七月九日となっている。「養華院殿要津妙玄大姉」が法名。
■大徳寺総見院に残っている墓石配置図の「総見院の図面」に「養華」と書かれているものがある。よって濃姫の墓は大徳寺総見院に現存する。
ttp://plaza2.mbn.or.jp/~nari/faq.html
283 :
日本@名無史さん:03/10/27 04:55
脳姫ってきれいだったんかい?
284 :
日本@名無史さん:03/10/27 09:28
親が美形だからどうのって議論は姫ネタで必ずあるけど、
遺伝ってのはそんなに単純じゃない。
信長は色んな女性に子供産ませてるのに、濃姫には子がいない。
まあ色んな理由は考えられるけど、
ブスで抱く気になれなかったという可能性も捨てきれない。
285 :
日本@名無史さん:03/10/27 11:32
>>282 安土殿はお鍋という説もあるよね。
それに「信長本妻」とか「御台」が必ずしも濃姫とは限らない。
286 :
日本@名無史さん:03/10/27 13:55
>284
現実的に考えれば斎藤家とすれば、織田との関係を強化するために嫁がせたのだから
そんなブサイクなわけがない(逆に本物の道三の子供でなくて美女を養女にすれば
いいだけのことだ)。
情報網の未発達は当時、本物かどうかなんかわからないんだよね。
だから平均以上の美女であったことは間違いないと思われ
287 :
日本@名無史さん:03/10/27 14:16
ついでに言えば、道三としては子供を産んでもらったほうが良いはず。
乗っ取りをはじめいろいろと使い道がある。
>>285 永禄十二年(1569)七月の段階では、信長はまだお鍋と出会っていない。
吉乃はすでに死んでいる。
てゆうか、この二人はどんなに愛されたとしても、あくまでも側室であって、
正妻は濃姫以外にはいない。
安土殿、御台様、養華院が、お濃だす。
289 :
日本@名無史さん:03/10/27 17:43
>現実的に考えれば斎藤家とすれば、織田との関係を強化するために嫁がせたのだから
>そんなブサイクなわけがない(逆に本物の道三の子供でなくて美女を養女にすれば
>いいだけのことだ)。
ワロタ
空想主義者っていいねえw
それじゃ世の中美人ばかりだわなww
290 :
日本@名無史さん:03/10/27 21:38
>>284 どんなにブスでも一緒に寝ていたら間違いがおこるはず。
291 :
日本@名無史さん:03/10/27 22:04
やっとタイトルらしいスレになった。
美人かブスかは主観によるから、290の意見が現実的でわ。
やってないってことはなかろう、ってことで。
292 :
日本@名無史さん:03/10/27 22:17
信長って男の方が好きだから奥さんの存在感がないのだろうと思っていた
293 :
日本@名無史さん:03/10/27 23:07
そもそも一緒に寝ることすら憚られるスゴイやしだったのかもしれん・・・
道三から貰った短刀を本当に持ったまま床に入るとかw
294 :
日本@名無史さん:03/10/28 00:20
帰蝶という名前も、短剣の話も、いずれも、
「前野家文書」(武功夜話)の創作と聞きますが。
「前野家文書」は現代人による創作であって、
史料ではないし。
>>294 武功夜話は、読んでみるとわかるが、現代人が書けるような内容じゃないのだが…。
それに、その本では、信長の内室は生駒吉野、と書いている。
帰蝶のことは無視している。
296 :
日本@名無史さん:03/10/28 03:00
>>288 側室から正室になることもあるよ。
安土殿、御台様、養華院が濃姫であるとは限らないよ。
297 :
日本@名無史さん:03/10/28 06:06
>>295 「読んでみるとわかるが」という奴に限って騙されているという
パターンが多いな。
少なくとも前野家の関係者が、しかも早い時期に書いたとするには、
あまりにも不自然な話が多すぎるよw
298 :
日本@名無史さん:03/10/28 15:05
299 :
日本@名無史さん:03/10/28 15:08
http://homepage2.nifty.com/iitoma/kakonomedia.html ●6.24 『偽書『武功夜話』の研究』(洋泉社新書 藤本正行・鈴木眞哉 初版2002年4月20日)
紹介したくてうずうずしている本が結構あります。そのうちの1冊はこのサイトでもおなじみの
鈴木眞哉氏と藤本正行氏の共著によるもの。いままで不思議に思っていた『武功夜話』の正体を研究し、明かしていきます。
最近の小説やゲームなどに多大な影響を与えている同書が実は偽書の疑いがあることをはっきりと書かれています。
本書では『信長公記』との比較や、墨俣城一夜城の記述と史跡や築城の常識との比較などによって内容の真偽を検証していきます。
さらに「前野文書」が『武功夜話』として新人物往来社から現代語訳が刊行され、世間の注目を集めていく課程などを丹念に追いかけいき、
いかに戦国合戦史を誤解させたかを証明しています。
それにしても伊勢湾台風で崩れた土蔵から発見された「前野文書」が一躍注目されたというエピソードは、
あの希代の偽書『東日流外三郡誌』が天井の梁に吊されていたのが落ちてきて発見されたのと同じなのが笑えます。
さらに、両書ともそのオリジナルを見た第三者がいないことも奇妙な共通点といえるでしょう。出自の怪しさやオリジナルが示されていないことから歴史学者が無視し、民間の研究家や小説家などにもてはやされていることも奇妙に両者は似ています。
300 :
日本@名無史さん:03/10/28 15:09
ちなみに、俺この下り読んでさ、チャーチワードのでっちあげた
「失われた大陸」をおもいだしちゃった。
>>298 見てきたぞ(^。^)
中根という人の、
>武功夜話の有る部分が後世の補筆であることを検証し、
>この書が偽書に過ぎないと結論付け、この書を信じるマスコミや学界を糾弾する。
>しかし、史料の改竄・補筆はごく普通に見られる現象であり、
>このことだけを取り上げて偽書だということは言えないのである
この部分に、俺は同感だ。
それに、「信長公記」が一級史料というけど、
あれだって、間違いがたくさんあるよ。
302 :
日本@名無史さん:03/10/28 16:28
「この作品は、事実に基づいたフィクションです」って感じか?
>>299 『武功夜話』が怪しいのは事実だが、 『偽書『武功夜話』の研究』もとても
歴史学者が書いたとは思えない粗の多い本。
特に墨俣築城譚については築城の事実は別としても、既に江戸期のメジャーな
地誌にすら記載があるのに、明治の学者の捏造とか言い切ってみたり。
それを指摘されても知らんぷりだし。
そもそも、両氏の『武功夜話』叩きは、原本公開をむげに断られた私怨から
スタートしていたり・・・
304 :
日本@名無史さん:03/10/28 18:15
『偽書『武功夜話』の研究』を書いた鈴木眞哉という人、以前は歴史読本なんかで、
この『武功夜話』をさんざん引用していたと思うけど。違うかな?
『武功夜話』は、戦国期の研究者の多くは疑義アリとして利用しなかったけれど、
一部の研究者が自著に使っているよね。たとえば小和田哲男とか谷口克広とか、
この人達は資料の真贋が分かってないんだよね、きっと。
作家の津本陽が「下天は夢か」のなかで、『武功夜話』を使っているが、
これはある私立大学の教授(大河ドラマの時代考証で有名?な先生)が
津本陽に教えたことが発端なんだよね。
この先生、「明智軍記」という江戸期の偽書も刊行したくらいだから、
歴史史料の真贋について全く認識してないと思うね。
>>299 >>●6.24 『偽書『武功夜話』の研究』(洋泉社新書 藤本正行・鈴木眞哉 初版
そおそお
この藤本正行という人物だけど、
15年くらい前に、雑誌「歴史読み物」か何かに、
「桶狭間の合戦は奇襲ではなかった」という珍説を発表して有名になった。
通説の迂回説を否定して、
正面攻撃だったとか、
信長は偽装降伏しただとか、
義元は桶狭間山の山頂にいただとか、
2ch で言えば、デムパDQNの類ですよ。
彼が偽書だというのなら、「武功夜話」は本物かもしれないな。
306 :
日本@名無史さん:03/10/29 02:56
307 :
日本@名無史さん:03/10/29 07:05
歴史学者なんて、「俺はこう思う」でやってるから、多かれ少なかれ
みんな電波と言えなくもない。
自分に都合のいいところだけをかき集め、あとは「偽物だ」「誤りだ」と
言い切れば、自説は常に完璧だからね。
308 :
日本@名無史さん:03/10/29 07:07
ちなみに藤本正行は『鎧をまとう人々』(吉川弘文館)で、数々の肖像画の
異説を立てたり、ほかにもいろいろ新しい「解釈」の本を書いている。
どうやら「学会の常識」を打ち破る新説・異説を打ち出すのが好きなタイプの
人のようだね。
309 :
日本@名無史さん:03/10/29 07:13
というより「定説ではこの通りですが、私の意見もこの通りです」
では学者でいる意味が無いw
310 :
日本@名無史さん:03/10/29 07:15
>>303 >特に墨俣築城譚については築城の事実は別としても、既に江戸期のメジャーな
>地誌にすら記載があるのに、明治の学者の捏造とか言い切ってみたり。
うひw
それは君の読解力が欠けているんだよw
両氏が指摘したのは、「築城の日時が(特に根拠無く)確定されたのが」
明治時代であるという事。
>>309 それはそのとおりだが、むやみやたらに「これが真実」と出してくる
タイプの人は、99%が電波系だと思われ。
312 :
日本@名無史さん:03/10/29 07:35
>>303については
>>310が正しいよ。
だけど、
>両氏が指摘したのは、「築城の日時が(特に根拠無く)確定されたのが」
>明治時代であるという事。
という同書の主張も間違いらしい。
同書には築城に関わったとされる蜂須賀氏の記録にその記録が無いと書かれ
ているが、江戸末期に編纂された「蜂須賀家記」には「(永禄)九年丙寅秋」
と築城話の年次と思われる記述があり、その学者は蜂須賀正勝の研究書を書い
ておりその過程で「家記」の記録を見たのだろうという、論文をなんかの本
でみたよ。
蜂須賀家に記録が無いというのも誤りだし、学者が根拠無く年次を捏造した
なんてのも誤りらしい。
あと、wって馬鹿っぽいからやめれば。
>>306 誰が自作自演だよ―?
勘違いで決め付けは、自分の恥さらし
うっせえ蛸
>>296 288 は、
>「言継卿記」の永禄十二年(1569)七月の記事に「信長本妻」の健在ぶりが記載(
>>282)
の頃、信長のそばに、お鍋・吉乃は存在せず、
最も寵愛されたこの二人の側室が排除される以上、
「信長本妻」と記されるべき人物は、
お濃=帰蝶以外に考えられないということなんだが。
実際に正式に結婚しているんだし、
離婚や死亡の記事も存在しない。
てゆうか
信長と、美濃系家来衆の喧嘩を仲裁できるのは、
旧主の娘(帰蝶)以外にはいないと思うのだが。
鉄砲ヲタの鈴木の説なんか信じてる時点でDQNだということに気づけよ。
信者必死だな。(w
318 :
日本@名無史さん:03/10/30 00:38
>>313 寛永諸家系図伝にも寛政重修諸家譜にも無いって蜂須賀家の記録と
して何を使ったか明記してますよね。
蜂須賀家記は私は読んだことありませんが、
いつの編纂でどのように書かれているんでしょうか?
まあそれはさておき、「総見記」「絵本太閤記」などが秀吉の墨俣築城を
永禄5年としており、一般に墨俣築城が永禄5年頃の事であったと
考えられていたのに対し、渡辺世祐氏が明治40年に永禄9年説を発表して
「秀吉による墨俣築城は永禄9年であると渡辺世祐氏によって明治40年に
確定された」ことは間違いでは無いと思いますが。
江戸時代に既に「永禄9年説」が広まっていたら別ですがね。
またこの時に渡辺氏は林羅山の「秀吉譜」をその根拠として挙げています。
でも「秀吉譜」には「墨俣に」城を築いたとは書いてないんですね。
「秀吉譜」を根拠に墨俣築城を永禄9年とするのは無理があるんです。
だから時点のこの渡辺氏の主張には大した根拠は無いと言えるんですよ。
ちなみに渡辺氏が『蜂須賀小六正勝』を書いたのは昭和4年ですね。
その20年前に「秀吉譜」を根拠に「永禄9年説」を発表していますからね。
鈴木オタ氏ねよw
>>318 私もその論文の部分的なコピーしか持っていないので詳しい事は書け
ませんが、その論文によれば「蜂須賀家記」は蜂須賀家が上にも書い
た通り、江戸末期に編纂され、明治九年に刊行されたものだそうです。
記述は、
「九年丙寅秋、右府諸将を召し、美濃を取ることを議して曰く、吾、
砦を洲股河西に構え、以て進取を図らんと欲す。(中略)太閤曰く、
篠井・柏井・科野諸邑土豪多し、宜しく収めて我が用と為すべし、
臣、請ふ、之を率いて砦を守らんと。右府、之を許す。」
とあり、文政年間に著された頼山陽の「日本外史」にも同様の記述が
あると記しています。
内容が事実にそったものかは解りませんが、少なくとも、渡辺氏が「
家記」を見ていないと断言出来ない以上、氏の捏造と言い切るには無理
が有ると思います。
どうでもいいが、それだと秀吉が築城したかどうかわからんのでは・・・?
322 :
日本@名無史さん:03/10/30 10:37
墨俣近辺に砦はもともとあったんじゃないの?
そんな戦略上の要衝ならばさ。
323 :
日本@名無史さん:03/10/30 10:57
>>322 『信長公記』の記述では、もともとあったらしい。
永禄4年、森部の戦いの時に、斎藤方が墨俣から兵を出している。
でもって信長は逆に墨俣を奪って一時滞陣している。
ま、それだけだ。
“秀吉が”築城したなんて話は、『総見記』以降に出て来るものだな。
324 :
日本@名無史さん:03/10/30 11:15
ちなみに小牧長久手の時に、秀吉は伊木長兵衛宛てに墨俣の城の普請に
ついて書いている。また、『濃陽志略』『濃州徇行記』
『濃州御分領之内村々万覚書』などによると、墨俣には伊木清兵衛の城が
あったという。
『濃陽志略』によれば伊木清兵衛が墨俣に入ったのは、
池田恒興が大垣に入った時であるという。
元々斎藤家の属城であったものが、次に信長に属し、最後には
池田恒興に属したということになるようだ。
『信長公記』(1610)
→墨俣にはもともと要害があり、信長は補強して一時滞陣
甫庵『信長記』(1611)
→永禄5年、信長が墨俣に要害を築かせた
甫庵『太閤記』(1625)
→永禄9年、信長が美濃のどこかに城を築き、秀吉に与えた
『寛永諸家系図伝』(1643)→特に無し
『総見記』(1685)
→永禄5年、信長が墨俣に城を築かせ、秀吉を城主とした
『絵本太閤記』(1802)
→永禄5年、信長が秀吉に、墨俣に城を築かせた
『寛政重修諸家譜』(1812)→特に記述無し
『蜂須賀家記』(明治9年?)
→永禄9年、墨俣に築城?
326 :
日本@名無史さん:03/10/30 23:46
話が横路にそれるね〜
327 :
日本@名無史さん:03/10/30 23:58
>>282 >■大徳寺総見院に残っている墓石配置図の「総見院の図面」に
「養華」と書かれているものがある。
よって濃姫の墓は大徳寺総見院に現存する。
↑
これって、いったい誰が言い出した説なの?
328 :
日本@名無史さん:03/10/31 03:15
前提条件1:「信長公御台」=「養華院殿要津妙玄大姉」
前提条件2:「養華」の墓は大徳寺総見院に有り
とすれば問題となるのは「信長公御台」が誰なのかということだ。
329 :
日本@名無史さん:03/10/31 05:51
>>202 「浅井」に関しては、明らかに近江の郡名に由来する苗字。
現在でも現地の地名は「あざい」と濁って読むのが正しいからじゃない?
330 :
日本@名無史さん:03/10/31 12:59
>>329 「浅い」は「あさい」だから、「浅井」は「あさい」と読むのが正しい。
「あざい」と読む地元が間違っている。
もともと「あざい」という地名だったとしても、
「浅井」という漢字を当てた時点で、「あさい」だろうな。
てゆうか、
>NHK
「あざい」とか「おおざか」とか、、うざいんですけど
>331
>もともと「あざい」という地名だったとしても、
>「浅井」という漢字を当てた時点で、「あさい」だろうな。
冗談にしても、ひねりがなさすぎ。
333 :
日本@名無史さん:03/10/31 22:56
あざい、の話なら、小和田の板でやってくれ
呼び名が先にあって、そこに漢字を当てたんだよね?
335 :
日本@名無史さん:03/11/01 12:20
>>335 サンクス。
さっそく見てきました。
だけど、信長が、濃姫の母(小見の方)を訪問したという話は、
既知の事実じゃなかったのかな?
どこかのHPで読んだよ。
337 :
日本@名無史さん:03/11/03 21:44
あざいよりあさいの方がカッコイイよな
338 :
日本@名無史さん:03/11/03 22:11
339 :
日本@名無史さん:03/11/03 22:19
340 :
日本@名無史さん:03/11/03 22:37
>>335, 336
この新聞の記事、平成11年だよ
今から四年も前の記事だ
>>335 信長が、妻の母を訪問したのを、たまたま山科言継が目撃したという話だが、
相互訪問は、その時の一度きりではなかっただろう。
前レスのように、吉乃、お鍋の可能性はない。
「母の屋敷」ということは、「母」は身分が高い。
しかも夫はいない。てことで、戦死した道三が夫であろう。
ということは、少なくともこの時期までは濃姫は健在で確定だな。
342 :
日本@名無史さん:03/11/04 02:26
吉乃は正しくない。
生駒殿とすべき。
343 :
日本@名無史さん:03/11/04 05:06
>>342 「吉乃」って「秀吉」の「吉」を捩った命名だよね。
「秀吉」が目をかけられたってことからの発想。
>>341 「早旦弾正忠所へ罷出、於門前曾禮申之、しうとめの所へ禮に被行、彼門前迄同道、山上城可見物之由被申」
この文章から「しうとめ」を「濃姫の母」と解釈するには無理ありすぎ
「晩頭佐藤錫携来、一盞受用了、故一色義龍後家壷可為所持、可被出之由信長連連被申、一乱之刻被失云々、
尚於責乞者可自害云々、然者信長本妻兄弟女子十六人可為自害、國衆大なる衆十七人、女子之男以上卅余人可切腹由也、
仍中分失弗に治定、今日無事に成了、佐藤も十七人之内也」
またこの一文は「信長本妻“と”兄弟女子十六人」なのか「信長本妻“の”兄弟女子十六人」の解釈の違い
また、「一色義龍後家」と「信長本妻兄弟女子十六人」の関係がはっきりしてない等、問題が多い
>>335の記事は「信長本妻“と”」と解釈して、それを濃姫とし、その上での「しうとめ」の話
「しうとめ」自体、正室の母かどうかさえ疑問、土田御前の可能性もある訳
345 :
日本@名無史さん:03/11/04 07:25
346 :
341ではないが:03/11/04 13:13
>>344 言継卿記、どこから孫引きしたんだい。
「仍中分失弗に治定」、この記事書き下しにして教えてくださいな。
へんてこな漢文だぞ。
「しうとめ」は姑だろ、妻の母親のことだろ、土田御前は信長の生母だぞ、
生母を「しゆうとめ」とは呼ばないだろ。
>>345 生駒吉乃…
秀吉をもじったのなら、 「よしの」
吉法師をもじったのなら、「きつの」
さあ、どっちでそ?
この女性の名は、「類」だという説もある。
信長が斎藤龍興の妹を欲しがって、龍興を怒らせたって話しなかったけ?
この場合、もし信長が美濃制圧後にでも龍興妹を手に入れてれば、
一色義龍後家=「しうとめ」の可能性もあるよね。
何にせよ『言継卿記』の信長本妻は斎藤氏に縁の深い女性であるだろうし、
二つの記事の日にちも近いから、「しうとめ」=「信長本妻」の母、の可能性は高いと思うよ。
>>344 「しうとめ」 が土田御前の可能性もある、なんてこと言ってると、笑われるよ。
夫にとっては、妻の母、
妻にとっては、夫の母、
これを、姑(しうとめ) と言う。これ日本の常識だよ。
>また、「一色義龍後家」と「信長本妻兄弟女子十六人」の関係がはっきりしてない等、
>問題が多い
義龍の未亡人は、信長の庶姉で、濃姫にとっては義理の姉に当たる人だす。
「兄弟女子十六人」 は、信長の姉妹だと俺は思ふ。
信長に「本妻」が存在したことは、この文章であきらかだ。
何が問題なんだろう?
>>348 >一色義龍後家=「しうとめ」の可能性もあるよね。
↑
それは成立しないと思うよ。
『言継卿記』七月二十七日条で、はっきりと「故一色義龍後家壷可為所持」と書いてあり、
また八月一日条には「しうとめの所へ礼ニ被行」と区別して書いてある。
もしも、義龍の後家と姑が同一人物だとしたら、なぜ区別して表記したのだろうか。
やはり別人と見るのが妥当と思うが。
さらに言えば、信長が龍興の妹を欲しがった、とは考えられない。
そんな史料はどこにも無いと思うよ。
こいつらは本妻=濃姫だと決め付けてるのか?
352 :
日本@名無史さん:03/11/04 20:29
351は無視
信長本妻は斎藤氏に縁の深い女性×
信長本妻は故一色義龍後家に縁の深い女性○
>>354 史料通りの解釈。
故一色義龍後家所有の壺の件で、信長本妻兄弟女子十六人が騒いだ訳だ。
これだと故一色義龍後家に関係するからと解釈出来る。
とすると信長の庶姉かは議論が分かれる所だが、
少なくとも故一色義龍後家の実家との関係も考慮すべき。
だから
>>353の表現になった。
逆に故一色義龍後家を見て、斎藤家だけに縁を限定する根拠の方を聞きたいね。
信長の姉って「斎藤秀竜室」だから道三の妻だよね。
義龍夫人は浅井久政の娘ではなかったけ?
>>356 >>349の人が
>義龍の未亡人は、信長の庶姉で、濃姫にとっては義理の姉に当たる人だす。
と書いてるから、それなりの根拠あると思われるので、議論が分かれると書きました。
自分は久政女以外は知らないけど。
側室とかも、一応「故一色義龍後家」なんだろうし…。
とすると該当者は何人いるんだろうね。
婚家が滅びれば、城主の後家は実家に帰るのが普通じゃないの?
浅井久政の娘なら、浅井家に帰ると思ふ。
信長と帰蝶が結婚した、織田斎藤の和睦の時、
同時に、信秀の娘が義龍と結婚している。
この後家は、織田家が引き取っているんだから、この時結婚した信長の姉であろう。
もし、この後家が浅井家の娘だとして、
信長本妻も、後家に縁ある者だとすると、浅井家の娘なのか?
「しうとめ」、久政の妻は岐阜に住んでいたのか?
そして本妻の姉妹16人も、岐阜に住んでいたのか?
そんなことはありゃあしない。
あ、俺は、
「信長本妻兄弟女子十六人」を
信長の本妻と、信長の姉妹16人、と解釈しているんだ。
信長の本妻と、本妻の姉妹16人、とも読めるけど、どうかな?
>逆に故一色義龍後家を見て、斎藤家だけに縁を限定する根拠の方を聞きたいね。
後家を見て、限定した覚えはないのでパス。
信長の本妻と、信長の兄弟女子十六人
信長の本妻と、本妻の兄弟女子十六人
信長の本妻の、兄弟女子十六人
信長と本妻の、兄弟女子十六人
信長の本妻の兄弟の、女子十六人(兄弟の娘って事ね)
信長と本妻の兄弟の、女子十六人
>然者信長本妻兄弟女子十六人可為自害、國衆大なる衆十七人、女子之男以上卅余人可切腹由也、
信長の本妻と (の?) 姉妹16人が自害すると言い、
(美濃)国衆の17人+姉妹の夫16人、以上33人が切腹すると言い出した
・・・てことだと思ふ。
「国衆大なる衆十七人」と「女子之男」の合計が「卅余人」なんだと思う。
女達が自害、男達が切腹、と言い方を区別してるのではないかと。
男女合計で50人近くが自殺騒ぎを起こしたということだと思う。
>仍中分失弗に治定、今日無事に成了
仍 (すなわち)
中分 (仲裁?)
失弗に (意味不明)
治定 (おさめさだめる)または(おさまりさだまる)
今日無事に成了 (今日、無事に決着した)
誰かが仲裁して、騒動は収まった。
以上が、永禄十二年七月廿七日
>永禄十ニ年八月一日
>早旦弾正忠所へ罷出、於門前曾禮申之、しうとめの所へ禮に被行、彼門前迄同道
早朝、信長を訪問。門前で彼に会い、礼を申し上げる。(彼は)姑のところへ禮に行かれる。
かの門前まで同行した。
上記の仲裁をしたのは、「しうとめ」 ではないだろうか?
そのため、5日後、信長は姑に「禮」を言うために訪問した。…と推測する。
だとすれば、美濃の国衆に影響力があり、信長に娘を嫁がせている姑は誰か?
俺は、小見の方しか思い付かないのだが。
そして、もちろん 「本妻」 は濃姫=帰蝶である。
363 :
日本@名無史さん:03/11/06 21:38
しばらくぶりで見てみると、このサイトすっかりアカデミックになりました。
いやはや、すんばらしぃー。
>>362 けれど、「失弗に 」は何なのでしょうかね。
この部分が一番のポイントのような気がしますが。
結局、読み間違いでしょうかね。
つでながら、仍 は「よって」と読み、「すなわち」と読ませるのは「乃」ですよ。
364 :
日本@名無史さん:03/11/06 21:40
↑ 誤り
「つでながら」は「ついでながら」でした。
スマソ
>358
信長の本妻の兄弟及びその子女合わせて十六人だろ。
妻の兄弟(兄・姉・弟・妹)とその子供たち(信長にとっては義理の甥・姪)の計16人。
兄弟が5人いてその子供が3人づついたとかなら別に多くも少なくも無さそうだ。
ちなみに男だろうが女だろうが同腹の子女を指す語は「兄弟」だ。
で、「子女」っつーたら「男の子と女の子」の意味。「子」が息子で「女」は娘。
>>365 レス、サンクス。
それでは、
>國衆大なる衆十七人、女子之男以上卅余人可切腹由也
の
「女子之男」 をどう解釈するの?
俺は、姉妹の夫、と解釈しているんだけど。
「兄弟女子」 は、切腹でなく、自害と言っているので、
男は含まれていない、つまり姉妹と解釈するだす。
367 :
日本@名無史さん:03/11/07 03:18
あ
>>363 レス、サンクスです
それでは、読み下すと、
中分(仲裁) によって 「失弗に 」 治まり定まる。
てな感じですか?
よって中分失弗に・・・
では文章の繋がりが悪い気がします。
「失弗に 」ってどゆう意味だろ? 気になるなあ。
>366
ムズいな。
だいたい「女子之男」ってのがわからん。まず読み下しが不明。
「女子」+「之」+「男」だと思うが、意味不明な文章だ。
ちょっと気になるんだが、「子之」って「及」じゃねえか? 原文でも二字?
原文見てないんでアレだが、誰か持ってる人いたらうpしてみてよ。解読してみる。
ここまで我々を解釈で悩ますのであれば、刊本に読み間違いがあると思うよ。
史料編纂所にでも行って原本でも読みましょうか。但し、原本はなかなか閲覧できない。
それに、言継のくせ字はなかなか難しいよ。
刊本の訂正増補版が準備されているけれど、完結するのは全くの未定状態らしいよ。
>>371 「失弗に 」 を省いても、意味が通じるけど? (w
それより、誰が仲裁したのか、
主語を明確に書いてほしかったにゃ>言継
>371
やっぱり刊本が怪しいか……。
まぁ100%の信用が置けるわけじゃないからなあ>刊本
原文見れないんじゃ解決も難しいわな。
「信長本妻兄弟女子十六人」は
本妻+姉妹=16人
らすいよ
初めてレスします。
私的に信長の幼名:吉法師の女って意味だと思っていたです。
流石に深読みし過ぎかね?
>>375 吉乃のことですな。
信長は、愛した女性に自分で名前をつける主義だったらしいですな。
お鍋もそうだし。
だとすると、お濃とつけられた帰蝶も、愛されていたと想像してもイイかも。
377 :
日本@名無史さん:03/11/10 01:16
帰蝶とか吉乃というのは俗説です。
>>377 かといって、
_名無しさん」 というわけにも行くまい。
帰蝶(仮名)
吉乃(仮名)
これで満足ですか?
今後、この名前を見たら、(仮名)は省略していると見てください。
379 :
日本@名無史さん:03/11/10 12:26
>>378 煽りですか?
きちんと濃姫、生駒殿とよびましょう。
380 :
日本@名無史さん:03/11/10 12:35
ははは
じゃあ有栖川識仁も
有栖川識仁(仮名)の略か…
381 :
日本@名無史さん:03/11/13 20:47
レス、続かないねー
382 :
日本@名無史さん:03/11/14 19:41
誰か、問題提起シル!
383 :
日本@名無史さん:03/11/14 23:21
織田信長の性質は癇が強く性急、果断。
hosyu
信長が優しかったというエピソードってある?
山中の猿は知ってるが
濃姫の話題じゃないとだめか?
でも関係者だし
>>385 真偽不明の話なら、
1) 吉乃 (まだ言ってる(^.^;) が死んだ時、小牧城の天守閣で泣いた。
2) 少年時代からの親衛隊たちが大勢戦死した時、ひとりひとり抱いて泣いた。
てのがありますな。
あと、
平手政秀をしのんで、「爺、これを食え」 と焼鳥を空に投げたとか (芝居臭いな)
ねね (まだ言ってる(^.^;) に出した手紙にも優しさは表われていますな。
387 :
日本@名無史さん:03/11/20 16:08
>>386 真偽不明というよりも、全く捏造されたフィクションの世界だよ
>小牧城の天守閣で泣いた
↑
信長はそんな女々しい男ではないよ
388 :
日本@名無史さん:03/11/20 18:09
どこで捏造されたんだ?
389 :
日本@名無史さん:03/11/20 18:53
武功夜話
>>389 ああ、この板の一部スレでは「信長公記」より信憑性が高いと信じられている(wあれね。
思い込みも大概にしろよと小一時間(ry
小牧城に天守閣ができたのっていつだ?
>>388 久昌寺縁起です 武功夜話にもあるのかも知れんが
あと死んだ後小牧山城の望楼から彼女の墓のある西の方角を望んでは涙を流していた
妻が死んで泣いたら女々しいとは…
ねねへの手紙は人の扱いとか操縦術で優しさとは感じられない
393 :
日本@名無史さん:03/11/23 03:08
いくら信長だって、奥さんや、かわいがっていた部下が死ねば泣くこともあるでしょ。
根拠のない話かも知れないけど。
394 :
日本@名無史さん:03/11/23 03:26
長島の一揆鎮圧後、部下の報告時に両手を合わせて涙を流したって話もあるぞ。
意外と悲痛な決断だったのかもな。
395 :
日本@名無史さん:03/11/23 12:37
>>394 その史料を提供してくださいな
ヨロチク
396 :
日本@名無史さん:03/11/23 16:42
なんか信長のイメージが崩れていくなあ・・・
397 :
日本@名無史さん:03/11/23 17:03
信長は実は優しかったんだよ。
信長の「信」の字は、彼自身が好きな文字だったからって説もあるぐらいだしな。
「長く信じる」って意味らしいよ。
398 :
日本@名無史さん:03/11/23 17:17
じゃあ彼のとった非人間的な残虐行為こそが実は捏造とか?
399 :
日本@名無史さん:03/11/23 17:27
ほとんどが誇張だね。
信長はただの優しいヒビリ屋だったらしい。
本当の魔王が裏にいたようです。
400 :
日本@名無史さん:03/11/23 18:07
ルイス・風呂いすの日本史に、
信長が、信秀病死時に僧侶数名を射殺したとある。
これはガセなのか?
401 :
日本@名無史さん:03/11/23 18:14
ガセだろうね。
少なくとも根拠のない伝聞。
当時の信長はフロイスとの交流はないよ。
逆に僧侶の労をねぎらって、多額の寄付をしたという話もある。
402 :
日本@名無史さん:03/11/23 18:20
>信長はただの優しいヒビリ屋だったらしい。
どこからそういう事が言えるのさ?
403 :
日本@名無史さん:03/11/23 18:25
いろいろな資料からさ。
少なくとも武功夜話や信長公記はアテにならんね。
>>394 その話の真偽はわからないけど、
一向一揆の皆殺し作戦に付いては、最大の敵と認識して、
強い決意のもとに実行したと思ふ。
心中悲痛なものがあったとしても、家臣の前で涙を見せるのは、
統率力を鈍らせるし、信長は泣きそうもないと思ふ。
>>400 信秀が病気になった時、
加持祈祷の坊主が売り込みに来た。
「私どもの祈祷で、お父君の病気を快癒させてご覧に入れます」
信長は追い返そうとしたが、
「それでは、父の快癒がかなえば、十分な褒美を取らそう。
その代わり、父が死ねば、お前たちを焼き殺してくれよう。
自分自身のためにも、真剣に祈るがよい」
結果、信秀は死んだので、
インチキで民衆から金を巻き上げていた坊主を退治したんだ。
たぶん、ガセじゃないんじゃないかな?
405 :
日本@名無史さん:03/11/23 20:42
>>397 >信長の「信」の字は、彼自身が好きな文字だったからって説もあるぐらいだしな。
>「長く信じる」って意味らしいよ。
↑
だったらさあー、織田家はみんな「信」の字が上に付くから
(たとえば、信秀、信雄、信忠etc)みんながみんな、長く信じていたんだー
>>401 >当時の信長はフロイスとの交流はないよ。
↑
信長とフロイスは、何度も会見してるよ。
フロイスの日本史を良く読みなよ。
勉強すべ氏
406 :
日本@名無史さん:03/11/23 21:06
フロイスの日本史ってどこまで信憑性があるのよ?
>406
単発で信用はするな。あくまで比較参照すべし。
人名・地名については訳者の誤りもあるようなので、できれば原文本または複数の訳本を参考にすると良い。
誇張が多く、仏教・神道に関しては無関心あるいは敵意ある描写も見られる。
個人的には原語のままの刊本が欲しい。
誤訳を一箇所でも見つけると内容について100%の信頼はできん。
>>407 スレの本題とは外れるけど、その誤訳箇所というのがどこなのか
指摘きぼんぬ
>408
原文を持ってないからおれ自身はまだわかんね。
ちょっと書き方が悪かったみたいだな。「もし見つけてしまうと」ってこと。迷わせてごめん。
誤記・誤訳云々は上杉謙信女性説の証拠の一つとされる「Tia:おば」表記がある(フロイスじゃないけど)。
こういうのを見ると原文を自分自身で訳したくならないか?
410 :
日本@名無史さん:03/11/24 01:59
>こういうのを見ると原文を自分自身で訳したくならないか?
気持ち分かる。激しく分かる。
でも面倒臭そうだからやらない
411 :
日本@名無史さん:03/11/24 03:29
Fidalgo → 貴人 → 奇人
一腹と一眼っていうのもあるな
羽柴秀勝(2代目)
413 :
日本@名無史さん:03/11/24 12:48
414 :
日本@名無史さん:03/11/24 21:28
同じ日本人の書いたものなのに古文の読解すら難しい。
まして数百年前のスペイン語だのポルトガル語だのなんて
2ちゃんねらには無理・・・
自分のコトを他人にも当てはめようとする414はステキだね。
416 :
日本@名無史さん:03/11/25 00:15
>>1 京都市北区 大徳寺総見院に織田家墓所がある
濃姫の法名は 養華院〜、信長公御台(正室の意味)1611年没
隣にお鍋の方の墓があるそうです 法名は興雲院〜。1605没
生駒氏は龍徳寺(後に久昌寺)法名は久庵桂昌〜。1566没
419 :
日本@名無史さん:03/11/26 02:48
>>416 濃姫とお鍋は、同年の死没だと聞いたことがあるが?
420 :
日本@名無史さん:03/11/26 02:58
帰蝶は子供が出来なかった為、信長の元を離れて境でほのぼの暮らしていたんだって、けど離縁はしていなかったとおもいますう
421 :
日本@名無史さん:03/11/26 21:03
>>420 大河ドラマはそうだったけど、本当なのかな。
信長御台が堺に領地を持っていたという話が元になっているようだが。
>>420 そんな役立たずの女なら、離縁されても、殺されても、文句は言えない。
実際の濃姫は、
信長の御台として、安土城の大奥の主として、
信長の天下布武を、陰で支えていただろうと推測する。
>>416 すいませんでした(ご指摘どうりです)今から読みます。
>>419 御免なさい間違ってました(二人とも1612年でした)
424 :
日本@名無史さん:03/11/27 09:53
>>423はことごとく間違っているな。だいたいわかるが。
同年の死没だから、養華院はお鍋じゃないかという説が出てくる。
でもお鍋には別に法名があるしなー。
425 :
日本@名無史さん:03/12/01 20:06
あげ
426 :
日本@名無史さん:03/12/01 20:19
揚羽蝶
信長の好きなエンブレム。
現在、コンビニの平家納豆でご覧になれます。
>>424 同年の死没だからといって、
法名も別、
墓も並んで別にあるのに、
なぜ混同されるんでしょう?
「養華」 の名は、
道三が愛して名づけていた桜の木に由来する、
というのは、俗説でつかね?
428 :
日本@名無史さん:03/12/02 12:37
わざと、混同させたい人が居たんじゃないの
平家の誰かの横笛を、名人に吹かせた時、
それを聞きながら信長が泣いた…という話は、捏造ですか?
誰か、出典を知ってる人いますか?
430 :
日本@名無史さん:03/12/04 02:05
えーと
青葉の笛、のことかな
431 :
日本@名無史さん:03/12/04 03:55
「帰蝶姫」の読みは「きてふひめ」でいいの?
>>430 >>青葉の笛
かどうか知りません。
平家の公達の誰かの笛です。
433 :
日本@名無史さん:03/12/11 08:59
濃姫って信長と同い年ですか?
>>433 ぐぐった限りでは1535年生まれ説が有力なようだが
つまり信長より1歳年下
>>434
ありがとうございました。
436 :
日本@名無史さん:03/12/14 15:47
>>434 え?俺が持ってる本では濃姫は信長より1歳年上だけど?
437 :
日本@名無史さん:03/12/14 16:18
便乗して聞こう
信長と生駒御前って年いくつ違うの?
確か信長の方が年下だったよね?
438 :
日本@名無史さん:03/12/14 19:51
439 :
日本@名無史さん:03/12/14 20:24
>>437 年齢は諸説あり
39歳説29歳説32歳説があります
39歳なら年上、でなくば年下です
関係ないが信秀の母が松姫とかいうのが出てきてびっくりだ
442 :
日本@名無史さん:03/12/15 01:23
生駒氏の年齢は不詳ですよ
生駒氏の年齢は、信長と出会ったとき19歳か29歳説が
有力視されてるんではないでしょうか?だいたい3人連続
子供産めるぐらい出来やすい体質の人間が何年も結婚生活
送っていて一人も子供を産まないはずがない。
444 :
日本@名無史さん:03/12/15 19:39
>>443 1566年=永禄9年に生駒氏が死去したときの年齢とか、
生駒氏が何時誕生したとかの資料があるのでしょうか。
小説のたぐいではなくてです。
生駒氏の年齢について触れているのは、例の「武功夜話」しかなくて
その中ですら場面によって、(逆算などで)推定される生年が異なってしまうのではなかったけ?
結局、彼女の生年も不詳としか言いようがないのでは。
446 :
日本@名無史さん:03/12/15 21:45
ということは、生駒氏の年齢について「武功夜話」の記述には矛盾がある、
と言うことですね。
やはり、生駒氏の年齢は不詳とするのがベターだということですね。
不詳って言うか史実に100l確実なものなんてないわけで。
タイムマシンでもなければね。
448 :
日本@名無史さん:03/12/16 18:39
↑↑↑
そんな非現実的なことを言ってたら歴史学なんか成立しないぞもし
447に同意
結局は史料に基ずいた脳内理論
生駒氏の名前は↑じゃないんですか?
451 :
日本@名無史さん:03/12/17 14:35
吉乃の名が通用するのは武功夜話の世界でだけですよ
452 :
日本@名無史さん:03/12/17 16:08
永姫(信長の四女で前田利長の正室)
の生母は誰ですか?
453 :
日本@名無史さん:03/12/17 16:47
454 :
日本@名無史さん:03/12/17 17:05
>>453 吉乃以外にも生駒氏という側室がいたんですか???
利家とまつの小説本にはたしか吉乃死後に
あたらしく加えた側室の名に生駒の吉乃と名付けたとかはありました
>>451 じゃぁ、正しいんじゃないか。ややこしい書き方すんな。
457 :
日本@名無史さん:03/12/17 21:23
あんた達は、小説が史実だとでも思っているのかね。
再度書き込むが、
吉乃の名が通用するのは武功夜話の世界でだけですよ
>>457 じゃぁ、やっぱり正しいんじゃないか。ややこしい書き方すんな。
459 :
日本@名無史さん:03/12/18 08:06
大河ドラマ「利家とまつ」では永姫の母は
信忠・信雄・徳姫と同じ生駒吉乃という事
になっていましたよね????
460 :
日本@名無史さん:03/12/18 10:32
>>459 本当は別人なのを、同一人物にした。武功夜話の吉乃は永姫の生まれる
8年も前に死んでいる。
461 :
日本@名無史さん:03/12/18 10:37
大河ドラマ「利家とまつ」では吉乃は本能寺の変以降も生きて
たから驚きました。
462 :
日本@名無史さん:03/12/18 11:52
456と458は、あらし、以下だね
463 :
日本@名無史さん:03/12/18 12:01
「利家とまつ」は嘘多すぎた。
史実では生駒氏は徳姫を生んですぐ死んでるのに。
史実では永姫の母は徳姫の母とは別人なのに。
ところで、佐々成政の妻の名前が「はる」というのは
本当ですか?(少しスレ違いすみません。)
464 :
日本@名無史さん:03/12/18 13:06
>ところで、佐々成政の妻の名前が「はる」というのは
>本当ですか?(少しスレ違いすみません。)
↑
これも、大河ドラマの中の全くの創作ですよ
466 :
日本@名無史さん:03/12/18 13:40
信長の子は全員側室が生んで正室の濃姫には一人も
生まれなかった。濃姫、辛かったろうな〜。
467 :
日本@名無史さん:03/12/18 20:42
濃姫は二人生んでるよ。
468 :
日本@名無史さん:03/12/19 09:21
469 :
日本@名無史さん:03/12/20 09:28
470 :
日本@名無史さん:03/12/20 15:25
>>467は歴史を塗り替える初耳っす。誰と誰? それともすぐ死んじゃったのかな。
471 :
日本@名無史さん:03/12/20 16:08
大河ドラマや、小説、マンガなどの時代考証を真剣に考えるものでは
無いよな
歴史には史実と真実の二種類あるんだから
>>471 とはいえ忠臣蔵のようなヨタ話が巷間で史実として通用してしまう
という重大な問題もあるから、正確な資料等で確認できる事柄と、
そうではない憶測や創作の類いは明確に区別しないと。
忠臣蔵の何がヨタ話なのかわからんが…
さすがに大星由良之助や早野勘平が実在したと思う人はいないと思うが
最近はやりの吉良名君説とかなら史実うんぬんではなく評価の話だから主観の問題で、全然次元が違う。
>>473 横レスだけど、一番事実と違ってるだろうが真実がわからないものは「なぜ浅野が吉良に斬
りかかったか」だろ?
まさか「浅野の賄賂が少なかったから吉良が虐めたからだ」と単純に思ってる?
吉良名君説と吉良意地悪爺説はコインの表裏でしかないんだが。
浅野本人が真実を全て話さなかった以上、傍証と推測で語る以外に方法はあるまい。
そしてそれは、評価の話ではないだろう?
名前は不明だが二人とも女子です
477 :
日本@名無史さん:03/12/22 12:24
じさくじえ〜ん!!!!!だな
480 :
日本@名無史さん:03/12/27 08:09
うをこんなスレがあったとは。
濃姫って、うらくさいに胡蝶ってよばれてませんでした?
年末実家帰って運がよかったら本家行ってみてきます。
482 :
日本@名無史さん:03/12/27 22:18
>>481 え? 「本家」って、斉藤さんちの話ですか? あそこは続いてたの?
脳内だけど 何?
484 :
日本@名無史さん:03/12/28 02:44
脳内かよっ!
485 :
日本@名無史さん:03/12/30 16:28
信長の初めての子どもが生まれたのは、
斉藤道三の死んだ後(だよね?)
道三の生前は、信長も意外と舅・嫁に気兼ねしてたんじゃないかな。
信長の初めての子供と言うのは信忠のことですか?
信長の長男は信正だったはず
こちらの方は道三の生前に生まれてるはず
487 :
日本@名無史さん:03/12/31 01:32
488 :
日本@名無史さん:03/12/31 01:51
>>486 表舞台に出て来ないのは隠していたんでしょう。
1人くらいうっかり作ることもあるでよ。
>489
自分、不勉強でした。
ありがとう
491 :
日本@名無史さん:04/01/01 03:24
信正が長子というのは根拠がない。
>491
「織田系図」か何かの系図のみの人物だな。
信正の子孫を称するどっかの家の捏造だろ。
あぼーん
494 :
日本@名無史さん:04/01/13 14:29
保守あげ
495 :
日本@名無史さん:04/01/13 21:45
濃姫様
496 :
日本@名無史さん:04/01/13 21:48
なんでも捏造と決めつけるのはよくないな。
つーか、近世は信長の子孫の大名や旗本がいるんだから、捏造なんてムリ。
>496
信長公記にも記載がなく、言経卿記・兼見卿記などにも登場しない。さらに発給文書もない。
確か系図には生年も記載されていたはずだが、史料上では早くから信忠のほうが織田世嗣として登場しており、廃嫡されるには余りにも早すぎる。
庶子という見方もできるが、一次史料にも二次史料にも見られない、通称も他史料では見留められない、実名不詳の織田一族の類推人物にも挙げられないでは根拠が余りにも薄すぎよう。
信じろというほうが無理。
史学では「疑わしきは採用せず」だ。
実在が疑わしい人物はその存在について強力な証明が為されない限り捏造の域を越えないと判断すべき。
根拠が薄くとも傍証や仮説を展開できる可能性があれば「捏造の疑いあり」で済むが、「信正」に関しては実在説を主張するには資料的に無理があるんじゃないか?
おれだって何でもかんでも捏造とはせんよ。実在の可能性が探れるならな。一応「織田信正」については調べている途中だし。
長文スマン。
>>496 無条件に捏造と決め付けていいのは、藤村氏の原人と伊達遠江守家中の思い込みだけでつ。
499 :
日本@名無史さん:04/01/15 00:41
信長の生駒氏寵愛説は生駒家の子孫が後々に創作したって聞いたことがある。生駒氏
が死んだときワンワン泣いたとか。でも三人も子供生んでるから本当に寵愛してたのかな〜?
それとも子供ができやすいだけなのか?NHKみたいな生駒氏事実上の正室ってのも嘘くさい・・・
生駒氏の話になっちゃったけど・・・
500 :
日本@名無史さん:04/01/15 01:12
今なら年子で3人って聞くと、繁殖力の強すぎるDQNかと思っちゃうよ。
501 :
日本@名無史さん:04/01/15 15:11
>>497 織れも、以前から何となく興味があったので、図書館に逝って調べてみた
織田信長総合事典では、断定的には書いてなく、
「信長子息【織田信正】?」 ←の見出しがあり
本文の最後には「良質の史料に所伝がなく真偽は不明」とあり、
生年と死没にも?マークがあったよ
この本を書いたやつも半信半疑じゃないのかなー
503 :
日本@名無史さん:04/01/25 12:36
>>502 そのページには「帰蝶姫」とは書いてないぞ、「濃姫」と記しているぞ、
かってに造語したら困りますねー(笑
いずれにしても、「どこの寺からも埋葬を拒否されている」資料は無いと思うけれどね
誰かが、根拠もなく言い出したことだよ、きっと
>>503 鋭い突っ込みですね。引用元のホームページを誤って閉じてしまったので
自分で思い出して書いちゃいました。すみません。
話は変わりますが、このスレの人はあまりにも嘘か真かの判断基準が厳しすぎます。
今回の引用元はともかく、大徳寺の墓まで疑ってる人がいるじゃないですか。
>>505 歴史学は、疑うことから始まるんだわ。
もっとも、ここの板では時として疑う側の出典が『信長の野望ハンドブック』だったりするのが問題だが。
>>505 大徳寺の墓は、信じていいんじゃないかな?
大徳寺の墓石は写真でしかみたことないのですが
たとえ生前に城の名前で呼ばれていたとしても墓石に「帰蝶」という名前
が入ってないって事も不思議ですよね。「帰蝶」ってとてもいい名前だから
回りも気を利かせて刻んでもおかしくなさそうなんですが。
もし安土殿=帰蝶だとして信長のメインの城の名前で呼ばれる程、贔屓にされていたとしたら
もっと、ゆかりの品(肖像画とか)がごろごろあってもよさそうですな。
>>508 信長の墓石にに、「吉法師」 と書いてるのなら、
おっしゃるとおりかもしれませんでつね。
510 :
日本@名無史さん:04/01/30 00:15
509さんに一票投票します
508は理解が浅いですなー
いや、508 の言うように、
墓石に幼名から全部書いておいてくれれば、
信長の正室の名前がどうとか、
いつ、どこで死んだとか、我々がすったもんだしないですむのにねえ。
512 :
日本@名無史さん:04/01/30 03:25
女の本名は公にしない傾向があるからね。
まず「帰蝶」からして確証のある名前じゃないのだから・・・
>>508 うるせ−
>>511 別にかばわなくったっていいよ。
消えてみえなくなってるだけかもしれないけど
信長公御台と安土殿じゃ寂しいよ。もし信長のこと嫌いだったりしたら哀れ。
515 :
日本@名無史さん:04/02/06 15:22
信長の、15〜18歳くらいの「うつけぶり」は、
うつけを装っていたのは確かだと思うけど、
その目的は何だったんですか?
敵を増やした、という意味では逆効果だった気がするのだが、
どうなんだろう?
>>515 いや、実際にそんなもんだったんじゃないの。
そんぐらいの年齢で跳ねる奴なんて一杯いるじゃない。
「才能を隠して」なんて見方は年齢を重ねてからの功績にふさわしく誰かかが
伝記的物語として面白おかしく後付したんでしょ。
517 :
日本@名無史さん:04/02/07 01:17
若い時分には誰でも俺って世の中で一番すげーんじゃないかって
思う時があるもんだ。
大抵の奴はそれが思い込みに過ぎなかったと思い知らされて終わるんだが、
信長は若い頃のその感覚を一生涯持ち続けていたってことだよ。
自分が世の中で一番すげー人間だと思ってる奴にとっては、
礼儀だの形式だの作法だのは、クソみたいなもんだ。
周囲の人間にとっては困った事に、信長は生まれた時から跡継ぎと
定められて城丸ごともらっちゃうような奴だったから、誰も逆らえない。
そういう環境で育ち大人になったから、信長という男は死ぬまでずっと、
俺は一番すげー人間だと信じていた。だから誰に対しても本心では
見下していたんだ。
ま、それが仇となって死んだのかもしれないけどね。
>>515 武田信玄も、父・信虎に殺される危険を感じてうつけの振りをしたと言われてるね。
これはアフォーの真似をして、才能と野心を隠そうとしたんだろう。
信長の場合は、他人の評価を気にせずに、
自分のやりたいようにやっていただけじゃないかな?
目的としては、自分のストレス発散と領内視察ってところかな。
領主としての仕事はきちんとこなしていたようだし、(午前中)
午後は気晴らしを兼ねてぱっと出かけるって感じじゃなかったのかな。
浴衣に半袴、腰には水筒代わりの瓢箪と火薬袋、
彼なりに機動性と合理性を考えた結果。
冬は虎革のズボンをはいていたらしいね。
519 :
日本@名無史さん:04/02/14 18:55
あげ
520 :
日本@名無史さん:04/02/21 03:33
>>518 人の肩にぶら下がって歩いたり…
やりたいようにというよりも、
わざと「うつけ」に見えるようにやっているとしか思えない
522 :
日本@名無史さん:04/02/22 14:28
>>521 >>わざと「うつけ」に見えるようにやっている
てことは、
何らかの意図・目的があってやったことではないかと思うのだが?
>>522 母親にまで愛想を尽かさせる意図?
単なる「癇癖」というやつではないですかね?
「癇癖」てなに?完璧のこと?
526 :
日本@名無史さん:04/02/28 01:54
ほしゅ
527 :
日本@名無史さん:04/02/28 15:13
癇癖=過度に怒りっぽい性質。
癇癪って言えば一般的で分かりやすいじゃん。
十代の奇行は自己顕示欲だったんじゃ。
道三との会見に行く時の格好はいつもの格好に
腕に芋縄の「腕輪」してたって・・。現代人かコイツ・・?
そのセンス戦国とは思えん・・。
530 :
日本@名無史さん:04/03/16 15:25
あげ
531 :
日本@名無史さん:04/03/16 15:38
蘭癖
532 :
日本@名無史さん:04/03/20 02:43
斎藤道三が、信長の才能を認め、支援したという話は、
どれくらい根拠があるんですか?
たしかに、道三がバックについているために、尾張の反信長派がうかつに手を出せない状況はあったと思うけど、
基本的に、道三が好きなのは、尾張を統一しきれないで苦労している信長だったと、俺は思うんだ。
道三が脅威を感じていたのは、東にいる今川義元、当時30代後半。
それで、信長には、東の防波堤としての役割を期待していた程度じゃあなかったのかな?
533 :
日本@名無史さん:04/03/23 21:03
age
534 :
日本@名無史さん:04/03/29 13:16
age
535 :
日本@名無史さん:04/04/03 15:04
あげ
536 :
日本@名無史さん:04/04/03 19:36
濃姫は山崎の合戦の後、本能寺の変を手引きした黒幕として、
安土城といっしょに焼き殺されました。
うそこけ
ふげ
539 :
日本@名無史さん:04/04/09 23:27
ひょっとして濃姫ってブスだったんじゃないの
540 :
日本@名無史さん:04/04/10 11:06
そのブス説ありだね。道三死ぬほどブッサイクだし。信長は周り美人だらけだったから
帰蝶はおおよそ好みではなかったと。でも正室は大切にしてた説支持。
津島の祭り一緒に観にいったという記録もあるし。
541 :
日本@名無史さん:04/04/10 11:08
>>540 道三若いころは美男子といわれてなかったっけ?
542 :
日本@名無史さん:04/04/10 18:35
>>541 母親、小見の方も評判の美女だす。
だから帰蝶は不細工に生まれる可能性は小さい。
魅力的な女でないと同盟の道具として使えない。
543 :
日本@名無史さん:04/04/25 11:07
ブス説の可能性が濃厚だけどな
美女なんてそうざらにおらんよ
今の女を見ても判るだろう
544 :
日本@名無史さん:04/04/25 13:10
岐阜出身の熊チャソを見ると帰蝶ってこんな感じだったのかな、と想像している。
545 :
日本@名無史さん:04/04/26 15:39
>>536 八切止夫の説ですよね。もっと、知られても良いと思いますけれど。
因みに、帰蝶は奇蝶と書いて、この奇を使った名は、道三の息子にもいます。
信忠の幼名、奇妙は正室である奇蝶が養った為その奇をとってなずけられたそうです。
菊池桃子はタイプなんだがなあ。
547 :
日本@名無史さん:
どちらかというと南野陽子タイプでは、、、