1 :
日本@名無史さん:
大伴金村と言えば、百済から賄賂を貰って、任那4県を百済に割譲した人物です。
何か、これって北朝鮮へコメ支援等の売国的事業をやってきている今の政治家に似ていないだろうか?
もしかしたら、そのうちの誰かは大伴金村の生まれ変わりだったりして…。
そうだとしたならば、それは誰であろうか?
とりあえず、野中広務をageときます。
2 :
日本@名無史さん:03/03/21 16:04
土井
3 :
日本@名無史さん:03/03/21 16:12
ムネヲ
4 :
日本@名無史さん:03/03/21 17:16
金村義明
5 :
日本@名無史さん:03/03/22 13:25
野中野中野中野中
6 :
日本@名無史さん:03/03/22 14:12
駄スレケテーイ
当時の状況からすると大伴金村が一方的に悪いとはいえないのでは。
任那4県2郡は倭国の直轄地で直接に国司を派遣していたわけだが
これは経費がかかりすぎるし特定氏族(吉備氏等)の利権の温床でもあったろう。
しかも現地の情勢にうとい上流貴族が利権のためだけに派遣されていたふしもある。
また百済は高句麗に侵略されて弱体化していたから、倭国としては
なんとか藩塀たる百済を強化する必要があった。
つまり百済への4県割譲は一石二鳥の策。しかしその上2郡まで
与えたのは大伴金村の意図ではなく、金村の失脚後の話。
2郡までも与えたことは加羅諸国の動揺と政局の流動化を引き起こし
半島における倭国の失墜と、百済・新羅の直接衝突を招いた。
利権を奪われた抵抗勢力は安羅国に留まって倭国に帰らず、
百済憎しで新羅と結託しあたかも関東軍と化して倭国の指令をねじ曲げ
任那復興運動を妨害する工作に血道をあげたのは日本書紀にあるとおり。
8 :
日本@名無史さん:03/03/24 20:13
ネタにマジレスカコワルイ
9 :
日本@名無史さん:03/03/24 20:15
糞ウヨのコリアバッシングスレ。終了。
10 :
日本@名無史さん:03/03/25 16:48
金村が現代に生きていたら社民党代表ケテーイ。
11 :
日本@名無史さん:03/03/25 17:24
>7さん、
「利権を奪われた抵抗勢力は安羅国に留まって倭国に帰らず、
百済憎しで新羅と結託しあたかも関東軍と化して倭国の指令をねじ曲げ
任那復興運動を妨害する工作に血道をあげた」ってホントデスカ。
>>11 日本書紀によると末期の任那日本府の役人たちは安羅国に在住/駐留しており
なぜかわからないが新羅と結託して数々の工作をして、倭の本国朝廷と百済との「任那復興計画」を
ことごとく妨害した。このへんの事情は日本書紀に詳細に載っている。
かれらのメンバーに吉備氏が多いことから、同じく吉備氏が多かった4県の国司が百済への割譲の時に
百済から追われた後、実権を失ったまま名目だけ任那に対する監督権だけ保持して
(つまりむやみにクビを切れないから今でいう公共法人みたいなものにして)安羅に留まって
日本府(正確には“旧任那諸国司による任那諸国監督機関”)を形成し
身分の高さを傘に着て百済への嫌がらせをしていたところ、
百済に対抗する新羅に見込まれ新羅から賄賂をとって反百済工作をしていた
と考えればすべて辻褄があう。
これは角林文雄の説。「任那滅亡と古代日本」学生社
ttp://www.google.com/search?q=%8Ap%97%D1%95%B6%97Y&ie=Shift_JIS&hl=ja&lr=lang_ja
13 :
日本@名無史さん:03/03/27 02:39
つまり大伴金村って構造改革派なの?
14 :
日本@名無史さん:03/03/27 03:09
金村はむしろ旧勢力で
尾輿や稲目が新勢力じゃないの。
構造改革派かどうかは知らないけど
尾輿や稲目は抵抗勢力。
16 :
日本@名無史さん:03/03/27 20:29
金村が失脚した本当の理由ってなに?
てことは結局その後の日本は抵抗勢力が勝って旧態依然のままってこと?
金村=構造改革は一時の夢に終わったと
18 :
日本@名無史さん:03/03/28 11:13
まあ明らかな抵抗勢力は葛城氏とかですけれどね
19 :
日本@名無史さん:03/03/28 11:15
その葛城氏を駆逐したのは金村ですし
なるほど
葛城→大伴→蘇我(葛城氏族)ってことね
てことは
蘇我→天智(大伴系?)
なのかな
21 :
日本@名無史さん:03/04/04 22:17
すると、大友皇子は大伴系ですか?
大伴金村のみならず、自分の利権と関係ないところでは改革勢力だし
自分の利権が絡むところでは抵抗勢力なんだよ。
任那日本府の機構改革については大伴氏の利権が絡んでなかったから改革勢力だっただけ。
外交や財政では葛城氏の利権でその利権が蘇我氏に継承されていた。
推古朝ではそのままで冠位十二階や国造制など律令国家構想化が進められていたが
それでは国家は蘇我氏の私物化してしまう可能性があった。
蘇我氏を滅ぼして外交・財政のシステムを全面再編しなければ
天皇中心の律令国家などできない。それで反蘇我を結集した天智のクーデターがあったが
蘇我以外の旧勢力はいまだそれぞれの利権を保持しようとして律令国家化には抵抗。
その矛盾が天智死後、大友皇子派(旧勢力)と大海人皇子派(新興勢力)の対立として鮮明に。
だから本格的な律令国家の完成は壬申の乱の後になっただが、この流れが決定的になったのは
やはり天智のクーデターであったと言えよう。
>>22 さすが専門板はレスのレベルが高いな。
ネタスレのクソスレが一気に名スレになりそうな予感だ。
24 :
日本@名無史さん:03/04/05 01:14
>>19 >葛城氏を駆逐したのは金村で...
なくて、雄略だろう。その雄略に重用されたのが、当時は新興勢力の室屋だった。
25 :
日本@名無史さん:03/04/05 02:27
>蘇我以外の旧勢力はいまだそれぞれの利権を保持しようとして律令国家化には抵抗。
>その矛盾が天智死後、大友皇子派(旧勢力)と大海人皇子派(新興勢力)の対立として鮮明に。
天智の急激な諸改革に抵抗した旧勢力は天武についたんだろ。
だったら大友(新興)、天武(旧)じゃないの。
26 :
日本@名無史さん:03/04/05 03:10
天智も終始改革勢力だったわけではなく,じっさいに権力を手にすると
保守化してるでしょう.
>>24 漏れは19ではないが、葛城氏を滅ぼしたのは雄略でも室屋でもないよ。武烈と金村のコンビ。
>>25 それはちがう。天武の八色の姓でわかるように壬申の乱の結果、
旧勢力は一掃といわぬまでもかなり新興勢力と入れ替わった。
急激な改革に抵抗した連中は大友皇子についたと推測される。
だからこそ天武以降も律令化が推進されているわけで。
>>26 天智は即位後はたいして長生きしてないんで、保守化(?)する前に死んでしまったと思うが。
それに律令国家というのは豪族を解体して天皇中心国家にするわけだから
改めて「保守化する」というのはどういうことを言ってるのか意味不明。
天皇中心国家をやめて、もう一回豪族連合にもどそうとしたってことか???
28 :
日本@名無史さん:03/04/05 12:41
>>16 >勢力争いで、新興の蘇我稲目に追い落とされただけです。
29 :
日本@名無史さん:03/04/06 13:07
でも、大伴も伴善男のとき(平安時代)まで生き永らえた(紆余曲折はあったが)ので、結構頑張ったもんだ。
>>27 以前は雄略が滅ぼしたというのが、有力説でしたが、最近は揺らいでいるみたいですね。
そもそも、葛城には二系統あり、片方だけが雄略に滅ぼされ、もう一方は生き永らえ、継体のときに滅ぼされたみたいです。
それと入れ替わりに今まで葛城の配下にあった蘇我が台頭した次第です。
冗談でつくったクソスレがこんなにも再生されるとは…。
30 :
日本@名無史さん:03/04/06 14:51
>>29 >葛城には二系統あり...
玉田と葦田だね。玉田系が、安康謀殺事件で雄略に討滅されたのは既知なのだが、
葦田系が、継体に討滅されたというのは、何事件のことですか。
すみません。訂正します
>>27 >葛城氏を滅ぼしたのは雄略でも室屋でもないよ。武烈と金村のコンビ。
葛城玉田宿禰が雄略に滅ぼされた後、葛城氏の利権(氏長権?)は平群氏に引き継がれた。
平群真鳥は武烈と金村のコンビに滅ぼされ、その利権(及び葛城氏の氏長権)は蘇我氏のものに。
32 :
日本@名無史さん:03/04/14 03:24
葛城氏が外戚でなくなった原因はなんですか?
33 :
日本@名無史さん:03/04/14 21:11
>>31 >葛城氏の利権(氏長権?)は平群氏に引き継がれた...
葛城と平群じゃ、現代の西濃・飛騨くらいの遠隔だろう。氏長の権限じゃなくて、
朝廷の大臣職だろ。もっとも当時既に、大臣・大連職が実在していたかは疑問がある
がね。まあ、一番手の重臣職。
>>32 葛城氏が外戚でなくなったのは、王権との抗争で敗退し、重臣職を他氏にとられたから。
(^^)
35 :
日本@名無史さん:03/04/19 01:40
襲津彦がヤられたからではないの?
>葛城と平群じゃ、現代の西濃・飛騨くらいの遠隔だろう。
はぁ?
>氏長の権限じゃなくて、朝廷の大臣職だろ。
>もっとも当時既に、大臣・大連職が実在していたかは疑問があるがね。
>まあ、一番手の重臣職。
なにが言いたいのかサパーリだが・・・
その一番手の重臣職を「大臣」というのだろ?
そしてその大臣は武内宿禰の棟梁大臣の由来するわけで
武内宿禰系諸氏族の氏長(まぁ律令時代の氏長制度ではないから氏長格か)が
継承してたわけでしょ。大雑把にいって
「外務・財務の管轄の利権=武内系氏長権=大臣職」でいんじゃないの?
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
38 :
日本@名無史さん:03/04/27 00:33
本題である、大伴金村が倭国領(とはいえ当時はそこまでの概念はないことに注意)を
百済へ割譲していくことになっていった経緯と政治力関係を誰か解説してちょ
39 :
日本@名無史さん:03/04/30 15:07
>>31 >葛城氏の利権(氏長権?)は平群氏に引き継がれた...
大和南部の旧葛城氏勢力地に、平群氏が進出した形跡はないが。旧葛城氏勢力を
継承したのは、やはり蘇我氏だろう。馬子・エミシ時代の配下の名をみてもね。
41 :
日本@名無史さん:03/05/05 21:54
大伴金村以前の百済任那利権はどうなっていたのでしょうか?
42 :
日本@名無史さん:03/05/17 00:32
葛城一族による加羅の影響力かな?
43 :
日本@名無史さん:03/05/22 04:40
襲津彦だな
>>39 だから「領地が引き継がれた」とは言って無い。
葛城氏の領地は蘇我に引き継がれたろうけど、初期の蘇我は平群の子分だったろうと思う。
>>41,
>>42 直接は吉備氏の利権。その上にいた元締が、葛城襲津彦失脚後にせりあがってきた平群氏。
吉備氏と平群氏は雄略朝の頃は蜜月で、ともに星川皇子を擁立して謀叛しかけたことがある。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
46 :
日本@名無史さん:03/05/29 03:46
>>44 蘇我は、女系により物部の利権を引き継いだのではないのですか?
>>46 それは知ってるし、とくにそのことを否定もしていないが、それで?
48 :
日本@名無史さん:03/06/08 02:21
蘇我が受け継いだのは、
女系により物部氏資産
男系により葛城氏資産
ということ?
49 :
日本@名無史さん:03/06/08 03:19
50 :
日本@名無史さん:03/06/19 00:31
北朝鮮へコメ支援等の売国的事業をやってきている今の政治家に
51 :
日本@名無史さん:03/07/03 01:09
葛城氏の利権って、蘇我にはわたっていないのでは?
52 :
日本@名無史さん:03/07/12 04:40
平群氏も葛城氏の同族ってことになってなかったか?
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
>>51-52 葛城氏も平群氏も蘇我氏も同族。同族の中の分家。
葛城氏が総本家。
葛城氏が滅亡して平群氏が、平群氏が滅亡して蘇我氏が総領になったってこと。
55 :
日本@名無史さん:03/07/13 00:56
任那4県を百済に割譲することで、
日本(倭)としては有利になったのか不利になったのか?
>>55 あくまで4県だけでの話だが、短期的には有利、長期的には不利。それは
>>7で書いたとおり。
ただし金村としては必要がなくなればまた召し上げればよいと思っていたのかも。
しかし4県に加えて2郡までも与えてしまったのは、倭の半島支配が崩壊する
きっかけになったわけで明らかに大きな失策。
ふつうは金村が失脚したわけだから4県のうち2県くらい取り返そうという声が
あってもいいくらいなのに、どういう訳かさらに2郡を追加して与えるというのは、
金村というボスが失脚して抑えがきかなくなり、朝廷の群臣たちは
百済がばらまく賄賂とり放題という情況だったのではないか?
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
58 :
日本@名無史さん:03/07/17 04:41
利権を奪われた抵抗勢力は安羅国に留まって倭国に帰らず、
百済憎しで新羅と結託し倭国の指令をねじ曲げ
59 :
日本@名無史さん:03/07/22 21:26
利権を奪われた抵抗勢力は安羅国に留まって倭国に帰らず、
百済憎しで新羅と結託しあたかも関東軍と化して倭国の指令をねじ曲げ
任那復興運動を妨害する工作に血道をあげた
60 :
日本@名無史さん:03/07/22 21:27
61 :
日本@名無史さん:03/07/31 08:03
任那4県を百済に割譲すべきではなかったと思うが、どうだろう?
(^^)
64 :
日本@名無史さん:03/08/06 22:45
当時の全羅道区域にいた各多民族が、おそらく日本列島と同様に、融合して、
日本人となっていたと思われ。
65 :
日本@名無史さん:03/08/12 10:21
もし吉備氏の利権の直轄地であったとするならば、
百済へ割譲するという解決は最悪ではないだろうか?
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
67 :
日本@名無史さん:03/08/16 14:14
大伴金村のみならず、自分の利権と関係ないところでは改革勢力だし
自分の利権が絡むところでは抵抗勢力なんだよ。
任那日本府の機構改革については大伴氏の利権が絡んでなかったから改革勢力だっただけ。
>>65 吉備氏は雄略の死後に星川皇子を擁立しようとしたが大伴氏に阻止されている。
平群氏という後ろ楯のない今が吉備氏を叩いておくいい機会だと金村が判断したのだろう。
69 :
日本@名無史さん:03/08/26 02:46
でもなんか、星川皇子が無茶をしたっていうイメージなのは、洗脳されている証拠?
70 :
日本@名無史さん:03/09/07 06:22
星川天皇として吉備氏繁栄の道を望む
71 :
日本@名無史さん:03/09/23 17:37
北朝鮮へコメ支援等の売国的事業をやってきている今の政治家???
72 :
日本@名無史さん:03/10/03 01:48
>>71 それは大伴金村ではなく任那日本府の役人だった吉備臣たち。スレの流れ嫁ばわかる
73 :
日本@名無史さん:03/10/31 23:35
>>68 >大伴氏に阻止され..
雄略期になって、突如外戚でもない大伴氏が、権臣になれたのは、どうしてですか。
大伴氏出身の最初の大連(おおむらじ)って誰だっけ?
大伴室屋は大連になったのは雄略期になってからだが、すでに允恭朝から登場はしているので
突如というほどでもない。
履中天皇の四重臣のうち三人までが武内宿禰系(平群・蘇我・葛城)でいわば外戚系。一人が物部氏。
反乱や謀叛で滅ぼされるのはだいたい武内宿禰系の氏族。
物部氏や大伴氏は皇室直属の部下で、これを使うのは要するに
皇室が外戚勢力に抵抗するという側面があると思われ。
仁徳・履中・反正は武内宿禰系がかなり幅をきかせているが
允恭・雄略あたりは丸邇氏、息長系、帰化人など多様な勢力を使ってる感じ。
大伴氏が重用されてくるのもその一環かと。
76 :
日本@名無史さん:03/11/19 21:21
武内宿禰系って、皇孫でない可能性は?
77 :
日本@名無史さん:03/11/19 22:03
大伴金村なんて実在しません。
武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代に仕えているため
存在を否定されています。
金村も武烈・継体・安閑・宣化・欽明のすべてに仕えるなんてありえません。
別も漏れは学界の通説だから正しいというつもりはないが、
とりあえず現在の通説としては武内宿禰は架空説だけど大伴金村は実在と認められてるよ。
79 :
ty270410:03/11/19 22:18
任那4県の割譲は既成事実の承認ではないでしょうか?
百済が南進してこのころまでに任那4県を占領するにいたった.
それを割譲といったのではないでしょうか?
そして,この頃,倭の屯倉(みやけ)としての任那が滅亡
したのではないでしょうか?
この後,欽明紀では,任那の復興といっています.
すなわち,滅びた任那を復興しようというのだと思いますが,
いかがでしょうか?
>任那4県の割譲は既成事実の承認ではないでしょうか?
>百済が南進してこのころまでに任那4県を占領するにいたった.
>それを割譲といったのではないでしょうか?
そんな推測が成り立つ根拠は何?
81 :
日本@名無史さん:03/11/20 09:52
>>77 藤原不比等も天武・持統・文武・元明・元正に
仕えてるぞ。不比等も非実在かよw
かといって、安本美典みたいに平均在位十年だか
ら武内宿禰も実在したなんて言う気にはならんが。
82 :
日本@名無史さん:03/11/24 01:06
四県割譲の条にでてくる文は継体二十三年は529年に当たるが、
日本書紀の編年は誤りが多く信用できない。百済は四県に相当する地域に490年にはすでに七人の王侯を立て
王族や貴族に分け与えているから、四県割譲は遅くとも490年には終わっていたと見なければならない。
>>82は漏れが書いたレスのコピペやんけ。
>>79のような推測が成り立つ根拠にはならん。
84 :
日本@名無史さん:03/12/16 23:49
「武内宿禰」は、世襲制の襲名だろ?単一の個人を指す個人名じゃない筈。
ヒマラヤのババジは800歳ですがなにか(w
86 :
日本@名無史さん:03/12/21 22:40
>>85 ヨガの行者というか仙人みたいな人。ヒマラヤの山奥の洞窟に住んでる。有名人だが。
88 :
日本@名無史さん:04/01/16 05:05
葛城氏の氏長権は平群氏に!!
89 :
日本@名無史さん:04/01/16 06:08
ま。メルキゼデクもいるしな。
90 :
日本@名無史さん:04/01/28 14:16
大伴金村以前の百済任那利権を入手したい
>>90 そういう発想は公団作ってあまくだって甘い汁吸おうというのと同じ。
だから朝廷(役所)から下賜されて百済(大企業)へと民営化された。
92 :
日本@名無史さん:04/02/09 03:19
吉備氏と平群氏は雄略朝の頃は蜜月
ともに星川皇子を擁立して謀叛
94 :
日本@名無史さん:04/02/28 06:16
蘇我は女系により物部の利権を引き継いだ
95 :
日本@名無史さん:04/03/12 04:58
age
96 :
日本@名無史さん:04/04/04 03:33
いまでいうところの、平沢勝栄みたいなもの?
平沢勝栄というより中曽根じゃないの?
かつては構造改革の先駆者。のちにボケて失脚。
大伴金村と中曽根、似てなくもない。
武烈を擁立して南朝への朝貢外交をやめたというのも
対米イコールパートナーを標榜した中曽根に似てなくもない。
98 :
日本@名無史さん:04/04/24 12:42
任那4県を百済に割譲していなければ、不良債権になっていたはず!!
99 :
日本@名無史さん:04/04/30 06:29
任那4県より新羅そのものが一番巨大な不良債権。
100 :
日本@名無史さん:04/05/22 04:05
任那4県を日本へ取り戻しませんか?
それらはちょうど全羅南道の場所にあたります。
光州とかがある場所です。
101 :
日本@名無史さん:04/06/06 15:07
割譲したってことは、もともと、倭の領土だという認識が、
百済側などにもあったってことだよね。
102 :
日本@名無史さん:04/06/13 04:45
>100
イヤだね。
朝鮮半島とは関わりたくないね。
103 :
日本@名無史さん:04/06/13 15:18
小泉の心を買ったニダ
>百済は四県に相当する地域に490年にはすでに七人の王侯を立て
>王族や貴族に分け与えているから
これは三国史記の記録が根拠?
106 :
日本@名無史さん:04/06/28 02:07
>>104 ということは、任命をした490年が、譲渡の年ってこと?
>>106 漏れは104ではないが、
割譲も受けてない土地を勝手に部下に分配したら
百済と倭の間に戦争になるでしょう。
108 :
日本@名無史さん:04/07/27 00:16
490って年代、なんかおかしくないか? 60年よみまちがい?
なんでおかしいの?全然問題ないと思うが?
それに中国での報告だから干支のズレはないと思うけど。
大伴金村がこんなトコで槍玉にあがってるとはしらなんだ。
111 :
日本@名無史さん:04/07/29 22:54
このスレ進むの遅いんで揚げときます
112 :
日本@名無史さん:04/08/22 22:19
大伴金村は、われわれ百済系日本人にとってはヒーローだよ
ふつうに日本人にとってヒーローだよ。
金村の功績のひとつがたまたま百済の利益とも合致しただけ。
114 :
日本@名無史さん:04/09/16 02:04:24
金村の他の功績を教えてください。
115 :
日本@名無史さん:04/09/16 02:49:28
土井貴子だ
116 :
日本@名無史さん:04/09/16 06:22:50
512年
四県を強引に(512)割譲
覚えやすい年に割譲してくれた
俺の大学合格に貢献した
117 :
日本@名無史さん:04/10/08 16:31:19
512=4^4+4^4なので、そう覚えるといいね
四県割譲は490年。
日本書紀だと512年の条にかけられてるけど
これは編年のまちがいで日本書紀にはよくあること。
120 :
日本@名無史さん:04/10/29 07:23:24
>>119 はあ?
4県割譲が490年ならば、その時の天皇は誰だよ?
当時の百済王は牟大(東城王)か…
>118の根拠は三国史記の東城王12年の記事か?
>120
>天皇は誰だよ?
誰だろうと関係ない、日本書紀は間違っているのだから。
この時期の畿内の王権は混迷期で半島情勢の実権は
どこか他に握られていたのは確かだ。
漏れは118であって121とは別人だが。
>>120 継体天皇の在位がいつからなのかは即断できない。
490年は漏れの個人的な考えでは武烈朝だが、すでに継体及び二人の息子(安閑&宣化)
も執政に加わっていたのではないかな。あくまで個人的な憶測なのでツッコミは勘弁ね。
123 :
日本@名無史さん:04/11/23 02:43:06
>>122 すると、継体をさがしだしてきて、ってのは、うそ?
>>123 隅田八幡鏡銘文によって、継体が502年にすでに忍坂宮にいたとすると
武烈朝にはすでに大和入りしていたことになる。
この頃から有力皇族として廷臣の一人名を連ねていた可能性は高いだろう。
125 :
日本@名無史さん:04/12/04 09:10:33
とすると、継体が即位を大和でしなかった意味はなんだろう?
隅田八幡鏡銘文は允恭朝のことを書いてる。
127 :
日本@名無史さん:04/12/25 21:39:00
允恭朝だとすると、502年ではないな。
128 :
日本@名無史さん:04/12/25 22:10:14
それは私です
>>88 蝦夷が推古に、葛城は父祖の故地と申し立てているからには、平群氏でなく
蘇我氏の方に移ったと思われ。
そんなもんは何とでも自称できる。
葛城氏→平群氏→蘇我氏
>>130 確か馬子指令の物部守屋攻撃軍勢に葛城臣氏が配下として参加してたはず。
他にも蘇我側として参戦した氏はたくさんいるよ。
>>133 金村の子孫の咋や磐等も、馬子側で参戦したんだっけ。諸氏が悉く馬子側に
ついた理由は何だったんだろう。
>>134 後年の壬申乱で天武方についたように、勝つ側についたんだろう。
>>139 放火犯の父も、政府高官の式家種継暗殺事件で刑死しています。
141 :
日本@名無史さん:05/01/21 04:34:04
しかし、金村って長生きしてるよな。
いったい、何人の天皇に使えてきたんだ??
143 :
日本@名無史さん:05/02/05 23:11:50
>>77には論拠がないな。彼の妄想に過ぎない。
77 :日本@名無史さん :03/11/19 22:03
大伴金村なんて実在しません。
武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代に仕えているため
存在を否定されています。
金村も武烈・継体・安閑・宣化・欽明のすべてに仕えるなんてありえません。
>>78,
>>81を読め。
それと武烈は継体より歳下っぽいし
安閑・宣化・欽明は兄弟(欽明はかなり年はなれてそうだが)
なんだから実は2世代半くらいの期間にすぎない。
>>143 そうそう、武内宿祢の非実在説なんて
津田史観に侵された学者どもの妄想に過ぎないのだよ
146 :
日本@名無史さん:05/02/22 22:47:32
武内宿祢はともかく、
大伴金村の実在を疑ってる説なんてないだろ
147 :
日本@名無史さん:05/03/06 23:15:04
武内宿禰は実在した。大伴金村の実在と同じくらい確かだ。
同じ文献に載ってるんだから間違いない。
どちらか片方を非実在とするなんて、科学的な考え方とはいえない。
148 :
日本@名無史さん:05/03/08 06:43:33
同意
149 :
日本@名無史さん:05/03/08 07:44:35
考えたら大伴金村の実在を証明する同時代史料(金石文とか木簡)ってないんだよな。
考えたら大友皇子の実在を証明する同時代史料(金石文とか木簡)ってないんだよな
日本書紀に記述されている神武天皇は実在した天皇
日本書紀に記述されていない弘文天皇は架空の天皇
明治政府が捏造した天皇
じゃあ桓武天皇も実際しないな
153 :
日本@名無史さん:05/03/11 00:06:52
黒男と武内宿禰は同一人物と考えていいのだろうか
黒男って誰?キミの友達かい?
156 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 19:04:59
黒男って出典どこ?
157 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 14:14:34
日本書紀をgrepしたが、見つからなかったぞ
158 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 19:45:39
景行〜仁徳の在位年数って幾等よ
武内宿禰はこのスレと何か関係あるのか?
武内宿禰は日本書紀によると成務天皇と同年に生まれたというが、
日本書紀の編年には矛盾が多く、成務天皇と武内宿禰の誕生年も
AD82年・AD84年・AD93年の三通りによめる。また日本書紀によると
早くても仁徳50年(AD362年)には生きていたが
遅くても反正天皇の殯(もがり。允恭5年=AD416年)より前に死んでいる。
これらから計算すると270歳から335歳までの間(組み合わせに
よっては281歳から324歳までの間)ということになる。
ちなみに水鏡・紀氏家牒は280歳、扶桑略記に282歳、公卿補任に295歳、
宋史日本伝引用の日本王年代記に307歳、愚管抄に380歳とする。
これらの伝説のうち水鏡、紀氏家牒、扶桑略記の三書の数値は日本書紀の編年に基
づいて推算したことは明白であり、その伝える年齢数値は古伝承として信用できない。
逆に、愚管抄だけが日本書紀と計算があわないが、日本書紀の編年は奈良時代の作為である
のに対し、不自然な長寿伝説は合理化を意図した捏造の類いではないから古伝承なのであろう。
よって公卿補任、王年代記、愚管抄の三書のうち、
愚管抄の380歳説だけがとくに間違いということではない。
161 :
日本@名無史さん:2005/04/19(火) 20:36:26
保守
162 :
日本@名無史さん:2005/04/19(火) 21:01:13
田辺誠
163 :
日本@名無史さん:2005/05/09(月) 08:09:34
164 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 04:03:39
そのあとの2県割譲だけは絶対に許せない。
いますぐ返して欲しい。
165 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 21:01:15
ほほう
166 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 16:06:53
そういえば、韓国と北朝鮮の在日銀行の破綻救済へ
合計3兆円の公的資金をプレゼントした政治家って誰でしたっけ?
167 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 06:01:14
しかし、四県割譲が490年か512年かで意見わかれているけど、
これって、継体天皇の即位がいつかにも影響することじゃない??
>>167 そりゃそうなんだが、それは継体天皇スレが2、3本あるから
そっちでやろうよ。
169 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 10:53:04
2チャンネラーにそんな整頓できるような人間がいるかよ。
昔の2chねらはかなりまともダタYO
171 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:55:52
172 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 02:10:08
173 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 18:57:54
本題である、大伴金村が倭国領(とはいえ当時はそこまでの概念はないことに注意)を
百済へ割譲していくことになっていった経緯と政治力関係を誰か解説してちょ
>>173 このスレ最初から読めば十分わかると思うが。
175 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 06:34:31
しかし20年以上も前のことを責められて失脚とは…昔の浮気をネタにいつまでもいびられる旦那みたいで笑える。金村くんカワイソス
それにしても40年近くも政治の中枢にいたってのが興味深い。失脚したときはかなりの高齢だったろう
何か武内宿禰とかぶるな。書いてある内容がホントならの話だが
>>175 四県割譲はその当時の情況では問題なかった。
だからその時すぐにはスキャンダルにはならなかった。
何十年もたってから、無関係な二郡割譲問題
(これは加羅の猛反対で国際問題化)と
ごっちゃにされたのと、金村はもう高齢で半分
耄碌しており、若い頃の切れがなかった。
177 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 16:38:11
>>136 >壬申乱で天武方についた...
吹負や馬来田の戦功は目立つが、宗家の安麻呂はどうしてたんだ?
178 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 22:18:58
>>176 >四県割譲はその当時の情況では問題なかった...
政権中枢の後の安閑も物部荒甲も反対したんじゃなかったか。
>>178 それは二郡割譲。日本書紀は両事件を混同している。
180 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 19:55:51
>>178 その後の宣化朝でも問題無しだしな。
紀宣化元年条でも「大伴金村大連を以って大連..物部麁鹿火大連を以って大連..
並に故の如し。又蘇我稲目宿禰を以って大臣とす」とあるからな。ただ最後の一文が
問題だな。蘇我稲目の名の紀初出じゃないかな。
麁鹿火が死んで金村が耄碌してきた頃を見計らって
稲目が金村の追い落としを狙ったんだろう。
そうすりゃ守屋は年齢的に稲目の下だし
稲目の天下になる。
守屋は当時まだ若くて稲目に乗せられた。
稲目の時代は尾興じゃないの
183 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 09:31:21
俺だ
尾輿が死んだ後の話だよ
185 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 10:38:51
そうなの
186 :
日本@名無史さん:
age