1 :
日本@名無史さん:
朝倉宗滴(教景)1474-1555
今ひとつマイナーな人だが、朝倉氏の繁栄は
この人無しではなかっただろう。
どこがマイナー?
しかしスレ立てるほど語れるもんもないだろ。
三戦板に帰れ。
4 :
日本@名無史さん:03/03/14 18:57
特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡および遺跡資料館に行った人はいますか?
5 :
日本@名無史さん:03/03/14 20:13
そんなにマイナーじゃないぞ。
語ることも無いけど。
対六角・対細川・対織田で、かなりのものだったらしいな。
>>4 行ったよ。
朝倉氏遺跡はよく出来てるけど、別に特筆すべき点も無い。
しかし、あの唐門は何とかならんのか?
資料館は、まあ資料館だね。
6 :
日本@名無史さん:03/03/14 20:46
織田と戦ったの?
織田と組んで斉藤と戦ってたんでないの?
すげーすげー。景鏡の命日(新暦)にこんなスレが立つとは(藁
>>6 斎藤救援で織田と戦ってるし、1506年30万の一揆勢に1万余騎で出陣して勝利、
桶狭間の5年前に信長の台頭を予見したりと、すげージジイです。
8 :
日本@名無史さん:03/03/15 07:14
30万は誇大広告じゃ
9 :
日本@名無史さん:03/03/15 12:53
この人が生きていれば、信長はどうなつていたか・・・・
対六角?
朝倉家は六角家の盟友で浅井攻めも協力して行なってますが。
12 :
日本@名無史さん:03/03/17 01:22
13 :
日本@名無史さん:03/03/17 12:32
この人が生きていれば、義景も腹を切らずに済んだのに・・・・
(90歳超えてただろうが)
15 :
日本@名無史さん:03/03/24 15:07
age
16 :
日本@名無史さん:03/04/02 16:37
まあ、朝倉義景が凡将だからね。
まきぞいをくった、浅井長政が可哀想だ。
17 :
日本@名無史さん:03/04/02 20:32
宗滴の旗下には朝鮮系の特殊部隊のような存在があったらしい。
日本海側の越前という地理条件を考えるとうなづけない事も無い話だが。
宗滴死後、この集団が離脱したのも朝倉滅亡の一因か。
>>17 ほう。宗滴は朝倉家中でも異質で他の一門とは違い、私的に「内衆」を抱えていたっていうから、
独自にそんな集団を持っていたのかも知れないね。
つーか内衆に朝鮮系が居たってこと?
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
21 :
日本@名無史さん:03/04/23 23:39
ノブヤボの能力はかなり高い
朝倉義影の4倍は強い
朝倉氏では最強
22 :
日本@名無史さん:03/05/12 15:52
孝景のほうが上でしょう。
23 :
日本@名無史さん :03/05/14 00:41
孝景と宗滴の揃っていた頃が朝倉の最強時代なのかな。
景鏡も悪くはなかったんだがな。
かなりマターリしてるねこのスレ。
宗滴の生涯12回の合戦を順番に語ったとして、ひと合戦あたり70レス、
残りの約140レスで「宗滴話記」について語りますか!といってみるテスツ
頼む
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
29 :
日本@名無史さん:03/07/01 22:04
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎
元気な爺さんは良いな。伊勢早雲、尼子経久、長野業政、朝倉宗滴、宇喜多能家etc.皆、すげえ爺さん達だ。
31 :
日本@名無史さん:03/07/02 15:19
30
その中に龍造寺家兼も入れてください。
32 :
日本@名無史さん:03/07/02 16:41
宗滴の合理主義は初代敏景の影響が大きいのかな?
33 :
日本@名無史さん:03/07/02 16:44
一乗谷へ行った事あるけど、城下町の町割りの様子を直に見れる
戦国時代の遺跡って珍しいよね。遺跡資料館もそこそこ充実してる。
宗滴じぃを朝倉家「嫡男」とする説もあるんですよね。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
37 :
日本@名無史さん:03/07/22 17:50
ほう
誰か『宗滴夜話』語ってぇ
あ、『宗滴話記』か・・
(^^)
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
.
43 :
日本@名無史さん:03/09/28 20:52
爺さん、実子はどうしちゃったんだろう?
仏門に入れたか?
自作小説「宗滴列伝」
1 ここは朝倉屋敷。朝倉屋敷は南北朝の時代越前の豪族、下川教義が建てた屋敷
である。実は宗滴は朝倉とは血のつながりはない。実名は下川教景、下川家の人
間なのだ。教景の父、教晴が家臣に殺害され、下川家の人間が教景を朝倉家に入
れたのだ。それから教景は朝倉姓を名乗った。
それから教景は生涯にわたり朝倉を補佐することになる。
次回予告 第二話「教景謀反、孝景死!朝倉家の運命は?」
お楽しみに!(^=^)
46 :
日本@名無史さん:03/10/02 07:13
おい、第二話はまだかい?
47 :
日本@名無史さん:03/10/02 08:26
てゆーか本当に朝倉の血縁じゃないの?
>>47 フィクション小説です。朝倉には詳しくないので・・・
2 小太郎(朝倉教景)は近江に出陣する前に当主、孝景のもとに寄った。
「孝景様、、たった50の兵だけでは足りません。兵100を貸してはくれないでしょうか」
「うぅむ・・・しかし盗賊との小競り合い程度では50で十分ではないのか?」
「盗賊には六角の軍勢も加わるようです・・・」
「ううむ・・・わかった。兵100を譲ろう。」
「ありがとうございます!盗賊どもを蹴散らしてきます」
小太郎はそういって朝倉屋敷を出た。
「庄五郎、うまくいったぞ」
庄五郎は朝倉家臣、富内庄兵衛景長の子で小太郎の親友である。
しまった。第二話を二編に分けなければ・・・
2後編 庄五郎は静かにうなずいた。庄五郎は無口な男である。
・・・庄五郎はなにを考えているかわからない男だ・・・・小太郎は心の中でそう
呟いた。「さあ、そろそろ仕度をするか」「ああ・・・」
翌日、小太郎と庄五郎は兵150を連れて朝倉屋敷へ向かった。
屋敷に向かう途中で朝倉信景の軍勢とすれ違った。
「む、あれは下川の旗、何故朝倉屋敷の方向へ・・・」
「あれは信景の兵か・・・」「おい・・・なんか近づいてくるぞ・・・!」
「ううむ・・・よし!」小太郎は信景の部隊に向かって矢を放った。
面白いければ容赦したが・・・
ていうか三国戦国板逝けば?
面白いければ
面白いければ
宗滴話記うpきぼん
54 :
日本@名無史さん:03/11/16 00:37
55 :
日本@名無史さん:03/12/12 22:16
あぼーん
57 :
日本@名無史さん:04/02/01 16:28
滴!
「武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候」
この名言好きです。
んじゃご要望に応えて(ぉ
今日から宗滴夜話(続々群書類従では宗滴話記)83箇条をイッコづつうpします。
(でも不定期)
一、山城にても、平城にても、むたひに責べき事、大将のふかく也、其故は可レ然兵共目之前にて見殺物にて候、是又分別之第一也、
(意訳)山城も平城も無理攻めはダメ。司令官の落ち度。兵を目の前で見殺しにするからね。
つーか基本中の基本だっちゅーの。
渦中、乙
一、先年京陣之時、東寺に公方様をはじめ、其外御近辺に、皆々御陣取候、当方之衆はにしの庄に、
御大将陣西七条御所之内、せんしやう寺迄御陣取候、敵は丹後□津の国山崎より
にしのおかかいで迄もちつづけられ候つる、然ば宗滴様御異見に、南表をば打捨られ、
北表京之方を本に要害堅固にさせられ候て然べきのよし被仰候、其分にやうがい拵させられ候処に、
道ゑひ様六角殿をはじめ申、敵ある方をばうちすて、てきなき方を、要害堅固にさせられ候事いかゞの旨、
おのおの御不審候ところに、程なくあんのごとく北の方江まわりとりより候間、
北むきになり候へて御とりあわせ候、然ば前に入ざる北おもてのやうがい御用に立候間、
さりとては奇特なるよし、天下の諸さぶらひ御取沙汰のこと、
えっと補足。話記は宗滴の口上を萩原クンが書き留める形を取ってますので、
文中の「御大将」とはもちろん宗滴を指してるわけです。はい。
>>60 おつです。
62 :
日本@名無史さん:04/03/10 22:08
完
63 :
日本@名無史さん:04/03/24 23:57
と思いきや、
再 開
64 :
日本@名無史さん:04/04/06 11:10
再開してよ
65 :
トロちゃん元帥:04/04/06 11:38
>>58 日本軍もこの宗滴の武士道を実践して戦争してりゃ今頃・・・・・・。
_| ̄|○ うぅぅぅぅ・・・・・
66 :
日本@名無史さん:04/04/06 18:53
若い頃の宗滴って想像ができん。
若い頃の早雲って想像つかん…。
若い頃の業政って想像つかん…。
若い頃の黄忠って(略
68 :
日本@名無史さん:04/04/08 11:14
宗滴は朝倉一門。
義景から見るとひいじいさんの末弟という感じ。
69 :
日本@名無史さん:04/04/10 02:23
朝倉宗滴VS北条幻庵
大大叔父ってトコ
一、武邊の義に付て、一切成まじきといわぬ事也、心中の程見かぎられ候者也、
「いわぬ」というか行動そのものでしょうね。行動がともなえば義景公は。。。
そればかりでもないでしょうね。
72 :
日本@名無史さん:04/05/07 16:09
もしも宗滴が当主なら朝倉家は滅びなかった?
‥‥なわけないか。
73 :
日本@名無史さん:04/05/08 08:06
>>72 宗滴は早死したから無理でしょう。
あと25年、宗滴が生きてれば朝倉家は無事だったかも知れない。
// /'/:/ /::::: .: .. ::: ..::: .: .. :: .::::;::/:::: ::::: ::::l::::::::::::::::::::::::::::::i
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、,. :''"/::::,. -''´,.:/:::..::/:.:::::::/:.:::::::/.::/::/i;;/-l|:::::: .:l:/!::|::. ::i::: . :::i: i:ヽ::ヽ
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''´:::::::::::::// /::i::::::::::l:::::::/!:::::://:/-i/;;;;ヾ !| !::::::::/,_ ソ、!:::ノ::::::::/:::ノ::::!
"::::::::::/:::/ /::::!::::::/,!::::/:l:::::/,;;::''テ''::::Oi゙ ゙' !::::://'ー、、l::/::::/::イ:::/、!:l 盛り上がんないスレですね〜
::::::::/:::::/ ./::::::!:::/!∧::i:::|:/!'''、 l :::゚: / /// ::(/l、/:::ノ:/,'/ 、 !'
::::/:::::::/ ./:::;;::ヾi::ツ:::ヾ:::゙'::| 、>::=''- /' ,,゚_,,/ "/ '-!'´、" l `'、
///:::/ /::::l!::i::::::l::::::::::::::::ヾ `゙' 7::::::ヾ:::::ヽ ! ',
/i/i'!:::'ー-':::::l:!::l::::::ヽ::::::::_,!,,.!ヾ-- 、 ' /::::::::::i_、::::iヽ l ',
'´`ー--':、_;;::ゝ‐'''">" `ヽ、 \ -- ,. : ''゙゙゙゙ヽl、!i `i::! i ー-'
,-=ニニ゙''ー.、 / \ `''ー-、,. : '´ | ヾ! !
. / `ヽ、`ソ `ヽ / !, / ! ヽ .|
. / / ヾ_,,'/ / /-、_ / ゙;、
/ /==ニニ''ー、 >゙'ー ゝ ,. '" `>' !l`、
76 :
日本@名無史さん:04/05/26 18:58
この人の存在が一族の内輪もめの遠因になったんじゃないか?
77 :
日本@名無史さん:04/05/29 19:54
一、敵のふまへたる所を取懸候者、敵こたへ間敷などといわぬ事也、取懸候へて、
自然敵こたへ候へば、諸勢心かわるものなり、
憶測で物を判断するなってことですね。「ふまえたる所」 = 拠点、「取懸候者」 = 攻め寄せる者は、
「なんでもやってみるさ」の精神で当たってみろと。
79 :
日本@名無史さん:04/07/09 10:27
age
一、馬には時々堅大豆を水にふかして可レ飼成、野陣などにて鍋釜無時之用也、
81 :
日本@名無史さん:04/08/24 00:43
age
レ
一、仁不肖に不寄、武者を心懸る者は、第一うそをつかぬ物也、
聊もうろんなる事なく、不断理致義を立、物恥を仕るが本にて候、
其故は一度大事之用に立つ事は不断うそをつきうろんなるものは、
如何様の実義を申候へども、例のうそつきにて候と、かげにて指をさし、
レ
敵御方共に信用なき物にて候間、能々たしなみ可有事、
当たり前の事を言ってる訳ですが、ここで注目したいのは「敵御方共に信用なき」の個所。
不実な行為が及ぼす個人評価の低下は敵味方ともに受け入れられないと諭す事により
宗滴は武士然とした個の確立を朝倉家の武将たちに求めていたようです。
このように青臭い個所は話記のところどころに散見されますね。
おじゃまさま。
それ、個の確立というよりは主家に対しての懸命的隷属の推奨かと受け取れませんか。
おじゃまさま。
それ、近世の価値観に捉われ杉。
85 :
日本@名無史さん:04/09/26 02:13:46
age
>>83 この箇所からは忠節云々と言った香ばしい文意は読み取れませんが、
宗滴の真意にはそういったこともあったのかも知れませんね。
また「宗滴話記」を通して読むと解るんですけど、話記自体も決して忠節をテーマとした記述ではない
ということです。話記は大別すると経験に則して兵法を説く部分と、教訓の部分に分かれてます。
構成もこれに準拠した形で、兵法の後に平素からの心得、つまり一般的な教訓が充てられて全体を為してます。
つまり「宗滴話記」は勝つための兵法書であり、勝つために武将が心得るべき訓示の書であると思うわけです。
端的に言えば
>>58で山野さんが挙げた宗滴の言葉が、全てを如実に示してるわけですね。はい。
一、惣別武者之時は、一切如何様なる大事之儀をも、口上にて申付候間、少もうろんたる事にては無勿体事、
堂々としろと。特に語るべうや非ず。
久し振りに渦中を見た
今大事な時期なんだがそろそろ板に戻らんのか?
一、先年加州湊川を被越御合戦候時、被討捕頚数五百余に候、其内に一向幼少なる首をば撰び出され、
彼取手を被召寄、直に被返遣候事、但前々足軽合戦之時は御撰なき事、
これは後ほど出てきますが、宗滴夜話第34条、1531(亨禄四)年宗滴55歳ん時の湊川合戦における
エピソードですね。この時の合戦は相当悲惨なものだったんでしょう。
戦には勝ったが敵方の首の中に少年のものがあった。宗滴は首を返すよう命令してます。
恐らく少年の首は一つや二つじゃなかったんでしょう。「前々足軽合戦之時は御撰なき事」とあるように、
宗滴の目にあまるほど累々おびただしいほどの数だった事が萩原クンの記述から想像できます。
>>88 乙です。
>>89 はははっ。(笑
91 :
日本@名無史さん:04/11/10 06:31:35
渦中が消え、そしてまた誰もいなくなった‥‥
一、大事の合戦之時、又は大儀なるのき口などの時、大将之心持見んがために、
士卒として種々にためすものにて候、聊も弱々敷体を見せず、詞にも出すべからず、
気遣油断有間敷候事、
刀禰坂の時、義景公はいかがなもんだったのでしょうね。
>>91 いますいます。
さて、よく考えたら83ヶ条全部挙げようとすると、
今のペースで行けば7年ほどかかるという事に気付きました。。。_| ̄|○
93 :
日本@名無史さん:04/12/20 23:11:05
94 :
武衛山:04/12/21 00:17:59
亡命政権はここですか?
95 :
日本@名無史さん:05/01/04 16:58:39
亡命政権?
>>92 7年掛かるスレ、見届けさせてもらいましょ。
第10条は宗滴の有名な言葉
>>58ですね。
一、武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝事が本にて候、
ここで「宗滴話記」その他異本について挙げてみましょう。
オレが 典拠としているのは群書類従ですが、福井県立図書館が所蔵する「加越能文庫」には
「宗滴夜話」という異本が収められた冊子が存在し、内容が少し異なってます。
すなはち「宗滴話記」第83条、宗滴が上総介(信長)の台頭を予見した箇所が
「夜話」には見えず、代わりに6条が追加されています。
また「夜話」には上記とは別に年代不明の書き込みが6項目あり、
「朝倉英林入道子孫ヘ一筆、有朝倉金吾物語イタシケルヲ、アラアラ思出シ」
「当国御陳之次第」
「御内書并申状之写」
「京陳之時御感状之写」
「英林越州江打立之次第」
「京御合戦、従孝景御感状性安寺殿」
となっています。
他の異本には「朝倉叢書」に収められた「金吾利口書」というのもありますが、
内容的にはほぼ上記2つと同じですね。
なんとなく図示してみたり。
「加越能文庫4」
┣「宗滴夜話」
┃ ┣「朝倉英林入道子孫ヘ一筆、有朝倉金吾物語イタシケルヲ、アラアラ思出シ」
┃ ┣「当国御陳之次第」
┃ ┣「御内書并申状之写」
┃ ┣「京陳之時御感状之写」
┃ ┣「英林越州江打立之次第」
┃ ┣「京御合戦、従孝景御感状性安寺殿」
┣「北国太平記聞書」
┣「宗滴雑記」
┗「越前朝倉後城主覚書」
_| ̄|○ ・・・・・
100 :
日本@名無史さん:05/02/17 06:20:36
もうすぐこのスレが立ってから丸二年。
長いようで短い二年間でした。
101 :
宗滴:05/02/17 23:06:17
わしのように長ーく長ーく続くスレじゃ
102 :
日本@名無史さん:05/02/18 01:02:50
2084年まで続いたらギネスに載るかな・・・。
子供たちには保守を頼んでおくよ。
104 :
日本@名無史さん:05/02/18 07:39:55
そろそろ渦中の登場の頃だと思う
105 :
日本@名無史さん:05/03/14 06:01:05
落ちかけてるのであげます
こないだ松茸のググヌースレに来てたぞ
ご無沙汰です。第11条行きましょう。
レ レ
一、大将たる仁は不及申、似合の人数持候人覚悟の事、
第一内の者能々なりたち候やうにと、不断心懸看経すべき也、
殊に久敷侍もとより新参当参の者にても、忠節奉公仕たる跡、
幼少の子供あらば、いかにも大切に取立、人に成やうに懇にすべし、
レ
自然実子無之侍をば、親存生之時に似合の養子を仕候へと意見を申加へ、
レ レ
跡の不絶やうに申付候へば、無子ものも安堵の思をなし、
レ
悉存候て身命を軽んずるものにて候、如此懇に候へば、
内の者冥加にて聞及び見及び頼もしく存じ、
レ レ レ レ
内輪の者は不及申、他家より忠節奉公可仕とて、可然者共出来候事、
TOPに立つ者の心得として宗滴は、家臣に対する気配りを挙げています。
その中で彼は、無子の者に対する扱いを細かく述べていますが、
実子を廃してまで宗家から養子を迎えた宗滴の取った行動が、
武家は血の存続ではなく「家」の存続が大切だと訴えていたことが解りますね。
108 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/02(土) 22:00:31
と言うことは義景を殺してお家の存続を図った景鏡の行動は
正しいと言うことでよろしいのでございましょうか?
保守
>>108 「主家ありき」という前提での考え方だとオモウです(笑
一、主人は内の者の罰當り、又内の者は主之罰當る也、君臣共に油斷有べからず候事、
君臣相互の依存関係が大切だよ、と。
臣は後ろ盾を得て真に実力を発揮し、君は臣の責を負ってこれを保護する。君の方は理想っすねー。
111 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 02:57:30
112 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 21:11:47
だれよあんた
113 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 01:30:33
しらん
114 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 10:06:57
宗滴ってなんでこんなに評価高いの?
まあ戦国時代初期では最強だっただろうけど。
ダンナ・・・ここだけの話しですけどね
ほんとに、他言は無用に願いますよ
実はね・・・
朝倉南サンの御先祖だって話しですぜ
朝倉南陵ってそうなのか?>115
今の十台の香具師、タッチなんかしっているのかな・・・
某掲示板のプレーボールスレなんかオヤジ殺しアニメとか言われていたがw
117 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 12:31:25
宗滴は文武に優れた武将として評価されていました。
118 :
日本@名無史さん:2005/08/29(月) 17:44:00
この人が生きてた頃は義景もまともだったのに・・・
一、内輪の者所持の馬鷹、其外太刀長刀乗ォ唐物以下、無理に所望有間布事、
惣別内輪に所持の重寶は、何も主の物同前也、但一旦所望あらば、相當一倍を以て所望有べし、
ニ -
無其儀候へば見たり聞きたりして、内輪に物をたしなむものなくして、結句前々より所持之名物をも、
他國へ出す事候、能々分別有べき事、
120 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 18:38:36
ん?
?
122 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 22:46:12
なんなのこれ?
123 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 21:14:05
age
124 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 10:36:57
125 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 03:53:08
死ぬ間際に
織田の倅の成長を見届けてから死にたかったとか言った逸話があるけど真実ですか
126 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 20:17:29
age
>>朝倉渦中
宗滴話記楽しみにしてる。
思い出したらで結構なんで、また来てくれ。
三戦板とかけもちで大変だとは思うが。
128 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:35:25
age
129 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 00:04:22
朝倉は教景と孝景とか同じ名前ばかりで嫌になる
130 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 09:26:42
131 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 21:17:03
渦中何処にいるの?
132 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 09:42:58
>125織田と朝倉は、同じ斯波家譜代で、姻戚だしわりと近い関係だった。どちらもアンチ甲斐氏(筆頭家老)で、親斎藤(土岐氏守護代)。
格は朝倉が僅かに上。
信長(織田傍流)と義景の代に関係悪化。
133 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 22:05:00
宗滴の実子ってどうなったんですかね?
前にもお尋ねしましたが・・・
134 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 22:16:10
朝倉景紀
宗滴の養子。敦賀郡司職を引き継ぐ。
1572年に病死。
135 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 22:19:26
133は実子はどうなったか知りたがってると思う
136 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 13:55:50
137 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 23:51:53
138 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 23:01:41
>>133 ちょっと調べりゃすぐに出てくるだろ〜が。
と思ったが、手元にある本には載ってないな。。。
でもどっかでみた気がするんだけどなぁ。
「浅井・朝倉を語るスレ」は観た?
なんてよむんだ?むなてき?
140 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 23:37:22
司馬遼太郎は、「武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候」 を
街道を行くの中で、朝倉家の貴族趣味を表すと書いているけど、誤訳?
141 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 00:16:50
司馬の勘違いだろ
おそらく「宗滴が貴族ぶって武士をバカにしてる」と思ってしまったんだろう
司馬だって完璧じゃないもんね
143 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 00:46:51
日本一の悪逆非道の子が貴族?
曾孫の代に貴族化したが。
>>125 逸話があったのは事実です。
>>127 ありがとうございます。あんまし大したもんはやってませんけど、
そう思っていただけるだけでうれしいです。オレのやってるのは自分流の解釈なので、
もしちゃんとしたのをお知りになりたいなら、解説や翻刻を読んでみることをお薦めします。
>>133 宗滴の実子については「宗滴話記」32條に出てきます。
現在のペースで行くと、その箇所を語るのはだいたい3年後ぐらいになると思います。(笑
あっ忘れるとこでした、第14条。
レ
一、人をつかふに、二人こらへ候者あれば、譜第の者を召仕れ候也、其故は先内之者不届事を主人こらへ候、
又主人に對し述懷を内之者こらへ候、如此互にこらへぬき候へば、
子飼之もの餘多出來大事之時用に立候、大犯三ヶ條之科は、更に主人之成敗にあらず、
レ
此段右衞門大夫殿、宗滴へ直に被仰候事、
「こらへ」の意味は、不満を内に秘めるというほどの意味っす。
召し抱えるべき者が二人いたら譜代(の家臣)を取り立てろと宗滴は言ってます。
例えば父の代に過ちを起こした家臣がいたとしても、子に責は取らせずに扱うわけです。
こういった事は、朝倉に限らず別段珍しいことではないんですが、
宗滴はこの理由として、(主人と家臣が)「如此互にこらへぬ」けば、(家臣は)「餘多出來大事之時用に立候」と述べてます。
主人は家臣の一族の過ちを許し取り立て、家臣は旧怨を捨て奉公する、
相互が私情を捨て「こらへ」ることが大望のためには必要と説いてるですね。
次に「大犯三ヶ條之科」ですが、いわゆる守護権益のアレではなく、訴訟裁可と訳してみます。
裁可は「主人(朝倉家当主)」ではなく「右衞門大夫殿(大野郡司景高)、宗滴(敦賀郡司教景)」に仰げ
と、朝倉家の訴訟手続きと支配機構を表してます。
しかし謀反人の子を取り立てろと言う宗滴のこの一条の中に、
朝倉景高の名前が現われてるのはものすごく違和感がありますね。(笑
146 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 17:52:23
そうか
一、召出す風情、又は聊の物をだべさせられ候とも、一人二人執分たるやうにはすべからず候事、
食事の取り分けにも注意が必要とは、、、
宗滴爺さんって、かなり口やかましかったんでしょうか。
148 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 23:25:15
逝ってきました。なんかえらいことになってますねー。
>>147 無学なもんでいまいち意味が理解できません。
できれば訳していただきたいのですが。
>>148 そのスレはもうだめでしょう。
何度か新しい話題をふってみましたが、結局wiki
の話になってぐちゃぐちゃになってしまう・・・
151 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 22:09:46
>>150 「風情」は季節を彩る旬のもの、「聊の物」は些少なものという程の意味です。
どんな料理であろうと食事の時には、一人二人に取り分けるようなケチくさいことをするな
というカンジです。
153 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 08:23:35
結局滅びちゃあね
154 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 00:00:51
誰ですか
155 :
日本@名無史さん:2006/07/06(木) 11:41:05
宗滴は好きな武将ではあるが、
彼の関係のスレでは
「二十万人の一向一揆軍を打ち破った」とかいう話しの
真偽論争で荒れるのがいやたな。
俺はもちろん誇張派だし、退廷の奴の意見もそうなんだが、
なぜか執拗に食い下がる奴がいて困る。
156 :
日本@名無史さん:2006/07/20(木) 15:46:30
誇張派ってなに?
誇張派…「一揆軍は二十万人もいなかった」ということを強く主張する人のこと。
勿論二十万という数字に大きく誇張が含まれていることは容易に想像できるのであるが、
他の人から見れば宗滴の経歴を語るにおいてそのような数にこだわるのも馬鹿げた話であり、
そのような主張自体五十歩百歩である。
(勿論一揆軍の軍事力・兵制等の話になれば検討する必要はあるのだが)
158 :
日本@名無史さん:2006/08/25(金) 20:54:19
うーん、そっちか
159 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 11:21:51
宗滴って、よくは知らないんですが光栄のゲームとかだと浅倉家中の中でも
飛びぬけた能力してますよね。
加賀の一向一揆と戦ってた・・ぐらいしか知らないんですけど・・・
上洛して、京洛の警護をしてたこともあるってのは本当ですか?
時々見に来るんで、詳しい人いろいろ教えてください。
160 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 09:12:04
これなんてしずく?
161 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 02:33:27
本人同様のご長寿
信長の行く末が気になるからあともう少し生きたいとかいったんだっけ?
163 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 16:37:43
しらん
164 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 16:40:50
しらん
165 :
Luckman:2006/11/05(日) 17:37:45
>>162 そのとおり!
当時、うつけとして”有名”だった尾張の信長に興味を感じていた事は
事実で、
「後、三年生き延びてあの者の行く末を見届けたかった」と語っていた!
恐るべき慧眼である!!
166 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 22:59:05
本当に言ったんだかどうだか
ネタでしょ。
接点がまるでない。朝倉織田の関係は当時から良好とはいえないが
お互いにそれどころじゃないし。
桶狭間の後なら考えられるかも知れないが朝倉宗滴が死亡したのは
桶狭間前だし。
168 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 17:13:45
朝倉宗滴話紀第五十五条
「人から受けた恩は常に忘れることなかれ。また、つねに人に恩をしかけるようにつとめるのが良い。
しかし、人に恩をしかけたことを忘れずにいるならば、いつもそのことばかり心に浮かばせ、
前にしかけた恩も無駄になり、人との間は必ず義絶に終わるものである。」
日本に国持の不器用人使下手の手本と可申仁は
土岐殿、大内殿、細川晴元、三人
日本に国持人使の上手よき手本と可申仁は
今川殿、甲斐武田殿、三好修理太夫殿、長尾殿、安芸毛利
織田上総介方、関東正木大膳亮方、此等の事
170 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 18:17:47
義景の義理の父をよくも悪し様に
171 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 13:34:06
朝倉義景でなく、朝倉宗滴が信長と派遣を争う時代に出現していたら滅んでいたのは織田で、
福井が首都となり、原子力発電所銀座になっていた地域は名古屋だったろうな
172 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 15:01:29
名古屋に恨みでもあるのか?
173 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 17:03:46
朝倉を潰したヘタレの義景を滅ぼしておくべきだったね 宗滴さんはw
松原氏が宗滴話記について詳細に解説しまくっちゃったので、
オレの方はこれで終了にしたいと思います。長い間本当にありがとうございますた。
次は斯波家譜の翻刻で逢いましょー。
>>174 いやいや、こちらこそなかなか勉強になり楽しかったよ。
ありがと。
>>167遅レスで何だが、
宗摘と織田信秀は美濃攻略で連携を取ってるから
信長に対して意識してたと思う。ネタな訳ねーだろw
>>174 君なりの解釈も見てみたいので続けてもらえるとうれしい。
178 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 01:08:57
179 :
日本@名無史さん:2007/02/22(木) 19:23:24
180 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 20:58:21
なんか
kaso
>>175 どうもです。
>>177 んじゃまぁそーいうことで。
>>147以来約一年ぶりっすケド、第16条いきます。
一、内之者にはおぢられたるがわろく候、いかにも涙を流しいとをしまれたるが本にて候由、
昔より申傳候、左樣に候はでは、大事之時身命を捨用に難立候事、
「おぢる」は怖じると書き、宗滴は身辺者に恐れられる当主ではダメだと言ってます。
家臣が涙を流し、たいそう慕われるのが本来の姿である、と。
それはなぜか?古来よりそう伝わってるし、そうじゃなきゃ大事の時に
家臣が命を捨て主君のために用立てしてくれないのだ、と説明してます。
この16条と、続く17条なんかは当主の心構えを表した項っす。
183 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 15:49:49
かちゅうううううううううう!
184 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 18:38:41
>>169 宗摘が評価した織田って信秀のことじゃないの?
長尾殿は謙信のことだよな
>>184 信秀だったら織田弾正忠とか書くと思う。
臨終間際(1555年)に語ったとすると家督は信長が継いで数年たってて道三はまだ存命。
道三との正徳寺の会見がフィクションかどうかはおいといても、
道三の娘婿で西尾張で売り出し中の若造として注目してたってのはなくもない話だと思う。
と亀レス
187 :
日本@名無史さん:2007/09/20(木) 11:22:39
188 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 10:20:22
ネット上にも著作権切れの明治の本がアップされているが、誤字が余りに多い。
手書きの文字の形を想像しながら訂正しないと解読できん。
原文手に入れるしか無いのかのう。
191 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 20:16:25
あげ
192 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 13:30:50
あ
193 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 15:20:34
応永22年(1415)3月26日除目(抜粋)
大和国 少掾従七位上田可朝臣殖時
河内国 少掾正六位上文宿禰友来
和泉国 少目正六位上道宿禰徳行
摂津国 大目従七位上宗岡宿禰行富
伊賀国 少目正六位上商長宿禰利幾
伊勢国 大掾正六位上家内連能富
三河国 少掾正六位上桜田連花重
遠江国 大目従七位上近義首信也
駿河国 権掾正六位上藤井宿禰花盛
伊豆国 大掾正六位上文屋宿禰書名
目従七位上村主宿禰殖苗
194 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 19:34:46
太原雪斎と被るな。
195 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 00:35:10
196 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 17:00:18
保守
198 :
日本@名無史さん:2008/10/11(土) 19:54:01
なるれす
200 :
あ:2008/11/27(木) 09:59:12
スレがたってから5年以上
中1の子も大学1年生です
201 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 16:50:14
朝倉宗滴話記は偽書。
初登場が、明治39年発行の続続群書類従です。
徳川の公文書には、この文献の所在が出典一覧表にありません。
202 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 18:38:51
>>201 それそれ、最近急にウィキにその部分増えたけど、
ソースつうか、今日に到っての新発見的なものなん?
国祖遺言ていう前田利家の戦陣訓みたいなのがあるんだけど、
前半のかなりの部分に特に引用なしで(利家自身の話として)
宗滴話記とほぼ同じような部分があるらしい。
資料批判とかちゃんと固めた奴がいるのかどうかわからんけど、
あるいはこっちがネタ元で下敷きにして宗滴話記の少なくとも一部に付会された、
ってのもあるかもね。
おれ自身は気合入れて両方読んだわけじゃないからなんともいえないけど。
話は変わるけどこの人の事跡として残ってる
鷹の人工孵化とか」鮭の卵を水温管理して孵化させた話とかが気になる。
これって本当なら飼育史、博物学上だとかなりエポックな事実だと思うんだが。
「養鷹記」とか「朝倉始末記」とか読んだ人いないっすかね?
204 :
日本@名無史さん:2008/12/24(水) 02:35:33
朝倉宗滴話記は、甲陽軍鑑を下敷きにしているとしかおもえんな。
国持、武者奉行=甲陽軍鑑の用語。江戸時代の国持ち大名を意識?
信長公記、大久保の三河物語では、国持という用語はない。
205 :
日本@名無史さん:2008/12/24(水) 02:40:35
朝倉宗滴話記には、伊勢早雲も登場。
この人、どんだけそこらじゅうの武将を知っていたのか?
ありえんだろ。
太田道灌ともダチでもおかしくないな
国持衆、国持っていう使い方なら室町には既に散見できるんで
甲陽軍鑑のみに帰結させるのは微妙かと思う。
武者奉行に関しても北條五代記とかにも用例はあるんで、
甲陽軍鑑の用語と言い切ってしまうのもどうかと思う。
旗本奉行の対語みたいな感じで整理されたのが
いつごろかって言われると正直微妙だけど。
208 :
日本@名無史さん:2008/12/24(水) 15:40:46
室町幕府の国持ち衆の意味ではない。足利一族・勲功家で大国守護なのに管領や御相伴衆になってない者。
文中で国郡を持ち、という使い方がされている。
明らかにおかしい。
北條五代記は、江戸時代の軍記だけど。
209 :
日本@名無史さん:2008/12/24(水) 15:49:24
朝倉宗滴話記は、変。
国持、武者奉行などの甲陽軍鑑に登場する用語が登場する。
軍鑑に影響された軍学書のよう、まるで。
国持ちで、人使い下手の大内氏は、1551年に滅亡しているにもかかわらず登場。
さらに、1551年段階で家督相続したばかりの織田上総介(信長)が、国持人使い上手?
おかしいだろ、どう考えても、合ったことのない人物で、風聞だけでこの評価。
後世の歴史を知ってる人間が書いたとしか思えない。
また、人使い上手下手の理由が明記されず、ただ列挙するだけ。
朝倉宗滴という人物をマンセーするのが目的だろ。
この人、常山紀談に出てこないんだよ、あれだけたくさんの武将が登場するってのに。
210 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 23:58:19
朝倉宗滴が急に胡散臭いおっさんに思えてきました^^
やっぱありえねーよね
211 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 07:16:50
一向一揆30万に勝利したという例の合戦、あやしいだろ。
歴史書にそんな記載あるのか?
30万も人間がいるわけねーーだろ。
212 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 08:02:07
賀越闘諍記 享保06年(1721)
朝倉宗滴が一向一揆相手に大活躍した話しはこれ。
江戸時代中期に作成されました。
史実かどうか疑問だろ。
信長公記、三河物語以下の信憑性の軍記モノ。
213 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 12:46:38
桶狭間の5年前に死んだのに、信長の行く末を見届けたかったなんて言ってるのも相当怪しいよな。
214 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 13:24:15
宗滴ってたしか各国の連歌師とも親交があったとか。
それが本当なら、連歌師から他国の情報を色々得ていたんでしょうね。
諸国から一目置かれていたのは確かでしょうね。
215 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 17:52:31
朝倉宗滴という人物をマンセーするのが目的だろ。
この人、常山紀談に出てこないんだよ、あれだけたくさんの武将が登場するってのに。
なんで粘着されてんだ?
217 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 01:08:12
218 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 03:32:48
1555年の時点で、全国の大名をほぼ網羅評価していること自体が変。
伊勢早雲、関東方正木大膳、今川、武田、長尾(上杉)、織田上総介、土岐、
細川晴元、三好長慶、大内、毛利。
ほぼ総登場。
甲斐武田は、若狭武田と区別するため?
安芸毛利は、なぜ安芸を付けるのか?毛利勝永とか後に毛利姓はいるけど。
信長の台頭を予見し、朝倉義景の暗愚を嘆く。
後世の結果を知ってる人間なら、書けるわな。
朝倉宗滴話記は、編年体の日記ではない。日時の記載がないのが特徴。
織田上総介という名乗りは、書状から、1554年かららしい。
信長絡みは、相当怪しい。
219 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 03:56:38
朝倉敏景十七箇条
こいつも制定年代不明。群書類従収録のものがあるが。
記述内容見たが、怪しい。朝倉敏景がつくった???
侍の役なるとて、伊達白川へ使者を立て、能く馬・鷹など求むまじく候
ここで、伊達が登場!!
不器用の人>>朝倉宗滴話記にも登場した共通語。
220 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 04:21:37
天下静謐にすといえども、遠近の諸国に目付を常に置き其の風儀を窺わせるべき事。
朝倉宗滴が、全国の大名を評価しているのと絡んでいる気がする。
目付って、江戸時代の役職っぽい呼称だな。
天下静謐は、信長の発給文書にあるらしい。東鑑にも見える。
よくわからないけど…
それなら、なんで江戸時代になってから、
わざわざ「朝倉宗滴」がクローズアップされたんでしょ?
上でいわれてるように捏造だったりなら、後の時代に名前が出てくるかも怪しい、
かなり地味なお爺ちゃんじゃないですかね?(・ω・`)
あ。あと目付は戦国時代にも使われてた気がします〜。うろ覚えですけど。
222 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 14:06:34
朝倉宗滴話記は、幕末に捏造された偽書だからな。
223 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 15:03:39
朝倉始末記は、信長公という敬称になっている。
ほとんど一向一揆との戦闘を書いたもので、前半は宗滴の激闘、後半は信長が平定。
信長と宗滴を絡めている。
朝倉宗滴話記のネタ本といえる。
朝倉関係のモノは、怪しいモノだらけ。
224 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 15:48:27
いいれす
>>212 信長公記、三河物語は比較的信頼性高いんだから、
基準にしておとしめるなら甫庵信長記や甲陽軍鑑以下って
言った方がよくないか?
甲陽軍鑑は信長公記レベルの代物だよ。
甲陽軍鑑は最近再評価されてるとはいえ、研究底本の信長公記と同等評価は無いわ
慎重に取り扱わなければならないという時点では等質かもね。
信長公記は手放しで一次史料のように見る人がいるのが危険。
230 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 18:51:46
朝倉宗滴は、一向一揆を鎮圧した名将と朝倉始末記は言ってるが。
信長が朝倉を討伐して、越前平定後に、また一揆が蜂起していることから、
朝倉が一揆を内包して共存していたのは明白。
家康のように、一向一揆を完全解体したわけではない。
一揆の利権を公認して共存していたのが実態。
越前、加賀、越中に関しては。
ハイパージジイ
長尾為景とタメ張れるレベル
宗滴は何も確かな功績がない。
またお前か…
234 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 21:04:43
NN?
235 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 12:08:52
あげ
236 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 07:14:55
一次資料で朝倉宗滴の活躍って分かる?
>>236 本願寺の「天文日記」や公家の日記(特に一乗谷・敦賀を訪ねた連中のやつ)には載ってるんじゃね?
238 :
238:2009/08/18(火) 00:59:26
朝倉氏遺跡資料館に行って展示見たり資料購入してきたんで、宗滴の事跡を
引用してみますね。
239 :
238:2009/08/18(火) 01:09:43
京都大学総合博物館所蔵で、朝倉家の仏事に使われたと思われる『朝倉家伝記』があります。
(各人が戒名で記載され、俗名が注記になっているため、法事等に使用されたものと推定)
各所に「至永禄十二己巳何年也」と書かれていることから、永禄十二年(1569)に編纂された
ものと思われます。
このうち、宗滴の伝記は、
「八男太郎左衛門宗滴教景沙弥」として記載されています。
240 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 21:32:07
朝倉宗滴話記は、甲陽軍鑑を参考にしてつくられた偽書。
偽書から、また偽書ができるところが、江戸時代のおもしろいところ。
241 :
238:2009/11/09(月) 21:25:20
まず、朝倉宗滴の生没年ですが、『朝倉家伝記』においては、
「天文廿四年乙卯九月八日逝去、八十二歳也」という記載がありますが、
『朝倉宗滴話記』には、天文二十九年、七十九歳没とあります。
このことから、享年八十二歳説と七十九歳説がありました。
没後一年の小祥忌のために一乗谷宝応寺の僧侶、驢雪鷹覇が作った香語(弔辞)では、
「世寿釈迦・老子に逼(せま)るといえども」
と記されており、釈迦の入滅八十歳には及ばなかった事が分かります。
このことから、現在では『朝倉宗滴話記』の七十九歳説が妥当とされているようです。
逆算すると生年は文明九年(1477年)という事になります。
朝倉孝景はこの時五十歳ですから、父の晩年に生まれた子供になります。
242 :
238:2009/11/09(月) 22:16:41
上記訂正、
>『朝倉宗滴話記』には、天文二十九年、七十九歳没とあります。
は、正しくは
『朝倉宗滴話記』には、天文二十四年、七十九歳没とあります。
が正解です。失礼しました。
243 :
238:2009/11/09(月) 22:40:11
以後、『朝倉家伝記』を基に、宗滴の行跡をたどってみます。
「永正三年丙寅賀兵率数万騎乱入此国、宗滴為師奉行於、黒丸、高木、中郷大戦、
頸数千討取、賀兵尽敗北也」
数値の誇張はあるでしょうがw、永正三年(1506)、加賀から大軍が越前に侵入し、
それを宗滴指揮の下、撃退した事実はあるようです。
また、『朝倉宗滴話記』では”武者奉行”となっている職の呼び名が、『朝倉家伝記』では
全て”師奉行”となっています。私見では永禄十二年成立の『朝倉家伝記』の方が正しい
ように思えます。
『朝倉家伝記』が『夜話』のアンチョコになってると見ていいのかな?
245 :
238:2009/11/10(火) 21:01:09
>>244 『朝倉家伝記』は朝倉家中の仏事法事向け、『朝倉宗滴話記』は戦時訓と成立の背景が
違うと思いますので、どの程度関連性があるかは、自分としては判断しかねるところです・・・。
すみません。
246 :
238:2009/11/10(火) 21:26:54
以降の宗滴の行跡も『朝倉家伝記』にて追って行きますと、
「宗滴為師奉行若州囲逸見城、一戦ノ後帰陣ス」
若狭逸見城包囲戦に出陣
「宗滴為師奉行攻丹後高橋城、一戦ノ後以扱破城二ヶ所ノ儀ハ武田ヘ為合力也」
武田元信に助勢のため丹後高橋城を攻略
「宗滴為師奉行為六角合力ノ江州北郡浅井小谷ノ城攻之、浅井以扱出城、越兵帰陣也」
六角定頼に助勢のため、近江小谷城を攻め浅井亮政と交戦
247 :
238:2009/11/10(火) 21:37:00
「宗滴師奉行トシテ為細川道永合力入洛、柳本ヲ六条ノ法花堂ニ囲ム
於善勝寺口与三好四国衆大戦」
細川高国に助勢のため京都入り、柳本賢治を六条法花堂に包囲、四国の三好氏らと交戦
「宗滴為師奉行乱入賀国、敵大ニ討死」
加賀に攻め入り大勝
と、宗敵は上記の合戦に全て”師奉行”として出陣、このことから朝倉家中軍事面で
かなりの重責を担っていた事が分かります。
248 :
238:2009/11/12(木) 21:35:11
その他、宗滴の軍事活動を示す文献として、
『古今消息集』『徳川美術館所蔵文書』に収録されている斉藤道三や長井秀元の
書状に、「朝倉太郎左衛門」の名でその活動が記されています。
これは天文十三年(1544)、朝倉氏が美濃に出兵して斉藤氏と戦った時のもので、
この合戦にも何らかの形で宗滴が関わっていた事が伺えます。
さて、同時代の宗滴評ですが、まず参考となる史料としては、『月舟和尚語録』があります。
桂室永昌(宗滴の実母)の永正十七年(1520)の法事の際、建仁寺の月舟寿桂による
香語(弔辞)の中に、
「大姉遂に家事を以って李子教景に付す。教景克く家を起こし、名四海に馳す。
文を好み、武を好み、仏法に金湯たり。天資より出ずといえども、且つ家訓に由る」
との記載があり、桂室永昌の訓督によって、教景という優れた将が生まれた事を賞賛しています。
250 :
238:2009/11/12(木) 21:55:10
ただこれは、桂室永昌を褒めるための引き合いに出されただけとも考えられますのでw
少々割り引いて読む必要があるかとも思います。
しかし、実母の功績を顕彰する為に教景(宗滴)の名を出しているという事自体は、
ある程度注目して良いかも知れません。
反応ないとつまらんかもしれんのでカキコ
読んでるぞー
252 :
238:2009/11/14(土) 15:21:36
>>251 ありがとうございます。今後もボチボチ書いていきますので、宜しくお願いします。
253 :
238:2009/11/14(土) 15:35:34
朝倉家以外の同時代史料としては、『羽賀寺年中行事』という文献があります。
これは若狭の羽賀寺が周辺に起こった出来事を書き留めていった文書で、その中の、
天文二十一年(1552)に発生した若狭武田氏の内紛の顛末に、宗滴が絡んでたという
記録があります。
武田氏の一族で、朝倉氏とも縁戚関係にある武田信孝が、主君の武田元光、信豊親子に
反旗を翻した事件で、この時、朝倉宗滴、景紀父子が信孝を説得して反乱を思いとどまらせた
という事柄が記載されています。
(このことから、朝倉家の対外問題、交渉等にも宗滴が関与していた事が分かります。)
この『羽賀寺年中行事』の中に、宗滴評として、
「金吾は今昨雨軒宗滴と号す。軍篇宝鑑の人なり。自国、他国共に名を後世に
揚げられるべしと万人褒美せられ了んぬ」
と記されています。
武家外史料(寺院史料)且つ同時代史料にここまで明確な人物評が載っていることは珍しく、
宗滴が、晩年には近隣諸国でも朝倉家の驍将として名を馳せていた事がよく分かる記述と
なっています。
255 :
238:2009/11/16(月) 23:01:42
最後に、宗滴の朝倉家中でのポジションを示す史料を引用してみようと思います。
朝倉義景は出羽の大宝寺氏と修交を結んで、使者を派遣し軍馬の供給を求めましたが、
この時、使者の案内と道中警護を越後平林城主、色部勝長に依頼しました。
お礼として、朝倉氏は色部勝長に太刀等を送ったのですが、『古案記録草案』に、
その際したためられた宗滴の添え状が残っています。
この中で宗滴は、「路次番於自然之儀者、御入魂可為祝着候」と、勝長の使者取り次ぎに
感謝の意を表しています。
256 :
238:2009/11/16(月) 23:12:47
さてその文中、宗滴は、
「孫次郎事、若者候条、向後馬・鷹之儀、路次等可然様ニ御指南仰候」
(今後も使者を派遣する上に於いて、孫次郎(義景)は若輩者なので色々ご指導頂きたい。)
と、色部勝長にお願いしています。
身内のことをへりくだって言うのは当たり前ですが、主君の義景の事を他国の武将に
「若輩者だからご指導ご鞭撻のほど宜しく」と言い切るあたり、宗滴が朝倉家中で義景を支え、
後見的立場にいた事を良く示す史料として注目すべきものとなっています。
257 :
238:2009/11/16(月) 23:37:10
この他、宗滴が対外的に交渉を行っていた記録としては、
足利義晴側近で室町幕府内談衆の大館晴光が、朝倉氏に送った書状
『越前へ書札案文』の中に、天文十年(1541)付けで「朝倉太郎左衛門尉」(宗滴)に宛てた
手紙があり、宗滴が中央政界とも繋がりを持ち、朝倉家中で一定の重きをなしていたという
傍証にもなっています。
以上、同時代史料や近時代史料の引用から、朝倉宗滴の事跡はある程度明らかで、
『宗滴話記』やTVゲーム『信長の野望』wなどから、一般的に流通している宗滴像
「貞景、孝景、義景の三代に仕えた朝倉氏の重鎮で、同氏の合戦を数多く指揮し、
また、他国との交渉も担い、近隣諸国からも一目置かれていた名将」
というイメージを概ね裏打ちするものとなっています。
『宗滴話記』の真偽に関わらず、朝倉宗滴の人物像はそれほど修正を必要とする事はないと
思われます。
259 :
238:2009/11/19(木) 20:35:31
蛇足ですが、『朝倉宗滴話記』についても若干の考察をば。
この『宗滴話記』には多くの異本があり、それぞれ内容が少しづつ違っています。
その中でも、
『宗滴夜話』『宗滴雑談』(いずれも加越能文庫)
『宗滴雑談萩原覚書』(聖藩文庫)
さらには、『宗滴話記』と類似点が多く見られる、前田利家語録『国祖遺言』と、
出典を辿れば、いずれも加賀前田家との関係が非常に深いことが分かります。
260 :
238:2009/11/19(木) 20:52:34
これは、朝倉氏滅亡後の遺臣達が、数多く前田家に再伺候し、朝倉家関連の
史料を伝えた事にも関係がありそうです。
朝倉家遺臣で、加賀前田家に仕えた主な家臣たちを列挙します。()内は前田家内での禄高です。
鷹栖刑部明宗(五百五十石)
↑一説には、朝倉宗滴の直子と伝わる。
萩原彦兵衛(三十石)
↑朝倉景乙の子
261 :
238:2009/11/19(木) 21:03:11
萩原八兵衛(六百石鑓奉行)
↑前田利長の児小姓向弥八郎の後見
堀江源太兵衛景乗(末森城合戦で討死)
↑朝倉景紀の三男
向七兵衛長治(二百五十石)
↑朝倉家臣三段崎氏の一族
などなど、この他にも多くの朝倉一族が前田家に仕えているようです。
262 :
238:2009/11/19(木) 21:06:02
『朝倉宗滴話記』の真偽はともかく、彼ら朝倉氏遺臣に、故国の名将としての
朝倉宗滴の遺訓が、何らかの形で伝わっていたのではないか、という事は
考えられると思います。
263 :
238:2009/11/19(木) 21:25:28
以上、朝倉宗滴に関して、同時代&近時代史料を中心に事跡と評価を書き出してみました。
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館編纂の古文書調査資料、
『朝倉氏五代の発給文書』
『朝倉氏の家訓』
『古文書が語る朝倉氏の歴史』
等を出典にさせていただきました。
特に『朝倉氏の家訓』は宗滴の事跡に詳しく、『朝倉宗滴話記』の全文も掲載されています。
少々お値段は張りますが、現地に行かれて興味のある方は、購入を検討されては如何でしょうか。
長々と拙文、大変失礼しました。
おつ!
おつかれ!
>>255-256 ここが個人的には非常に興味深かった。
大宝寺氏と連絡を取るのに色部勝長を選んでいるのが面白い。
1551年か1552年頃の話なんかな?
対外的に当時本荘一族を代表したのは勝長だったんだなぁと実感できたよ。
266 :
238:2009/11/21(土) 12:08:54
>>264 >>265 ありがとうございます。
大宝寺氏へ使者を送った時期ははっきりとは分かってないのですが、書状から
朝倉義景が改名前でまだ延景と名乗っていた頃と判明しています。
義景が家督を継いだのが天文十七年(1548)、足利義輝に偏諱を貰って義景に改名したのが
天文二十一年(1552)なので、この期間内の出来事と思われます。
ちなみにその書状が、今のところ「宗滴」という出家後の号の初出のようです。
1540年代前半までは、宗滴のことを「太郎左衛門」とか「教景」とか記している史料ばかりなので、
宗滴が出家したのは1540年代後半と推定されているようです。
267 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 10:25:19
age
268 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 16:55:49
269 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 23:54:12
京都大学総合博物館所蔵で、朝倉家の仏事に使われたと思われる『朝倉家伝記』があります。
(各人が戒名で記載され、俗名が注記になっているため、法事等に使用されたものと推定)
各所に「至永禄十二己巳何年也」と書かれていることから、永禄十二年(1569)に編纂された
ものと思われます。
>>>>>>>>>
永禄12年編纂という意味じゃないだろ。
後世に編纂した人物が、永禄12年ごろ、あるいはそれ以前の話しを書いたという意味だろ。
こういう、後から出てくる史料のほとんどが、後世の偽作です。
師奉行とは、中国の三国志にあるように、出師表などからの影響でしょうね。
日本では、まったく使われない表現ですね。師(=軍隊のこと)
三国志の影響受けまくりの江戸末期の絵本太閤記みたいなもんでしょうね。
その博物館も明治になってできてるから、誰から買ったのでしょうか?
270 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:15:44
朝倉家録にしろ、朝倉始末記にしろ、その朝倉家伝記なるものにしろ、
記述内容が、ほとんど似ていますね。。。。。。。。
まったく別の史料なら、記述に大きな相違や独自記述がないとおかしいのだが。
相互参照できる異本みたいな状態の時点で、どちらかが、マネしたとしか。
271 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:49:04
四国衆大戦>>>
まず、四国という用語自体、江戸時代中期以降の名前ですよ?当時は、南海道ですけど。
南海治乱記って、知ってますか?
なので、三好を四国衆と呼ぶなどありえません。信長公記にも、ありません。
大戦>>徳川実紀に出てる用語ですね。これも、江戸末期です。
第1次世界大戦とか、使いますね。
WIKIPEDIAや一部ブログなどに、新発見の同時代史料などと言って、
朝倉始末記の記述を全否定していますね。
272 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:29:14
新発見の史料に飛び付いて、既存の史料価値を否定する構図は、
武功夜話そのもの。
ちなみに、朝倉家録にも、宗滴夜話、というのがあるな。
徳川家康の岩淵夜話を、ぱくったものだろ。
『朝倉家伝記』は偽作としても、その他の資料については?
『羽賀寺年中行事』とか、『古案記録草案』も偽作なの?
274 :
238:2010/01/17(日) 14:39:29
>>268 ご意見ありがとうございます。
史料は十分検証されなくてはいけないと思いますので、
『朝倉家伝記』に関するご指摘尤も。
機会がありましたら資料館等に質問してみたいと思います。
275 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 18:41:00
武功夜話偽書説も、文中に登場する用語のおかしさを指摘した。
紙が古い、文体が古いだの、は、あまりアテにならない。
著者不明。成立年不明。来歴原蔵者不明。
こんなモノを真っ当に、信じるほうが、おかしい。
朝倉始末記、朝倉家録(朝倉記)を否定するために出現したのが、
朝倉家伝記なら、後世の偽作だろう。
記述内容が被ること自体おかしい。
桶狭間の合戦でも、信長公記、大久保の三河物語、いずれも記述内容が違う。
それぞれの視点で、独自の記述内容だ。
ゆえに、信用できる。
276 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 19:09:42
古案記録草案って、上杉の史料集みたいだが、写ししかないヤツですよね?
歴代古案が原本不明の写しばかりで、朱書きなどの改ざんたっぷりの状況から見て
あまり信用できないな。
とにかく、書状は原本がない時点で、自筆署名、自筆花押の本人確認ができない。
277 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 05:53:02
>>254 諡号 金吾 >>WIKIPEDIAより。
死後に贈られる呼称なのに、生前評なんですか?
後世に名前を成す、という表現も、死んだ人みたいだけど。
羽賀寺年中行事って、元禄頃に作成になってるけど。
同時代史料として、中央の公家・武家・寺社の日記はないの?
朝倉宗滴は、一向一揆を打倒などしていない。
加賀国金沢御坊健在→信長軍によって、1580年本願寺退去以降に攻略。
越前国一向一揆→朝倉滅亡・織田代官設置後に蜂起!越前一揆持ちの国に。
朝倉家の主要人物という以外は、これといった確たる事跡は何もないな。
当然、信長を評したとか、インチキ。
279 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 23:24:13
subて誰?
280 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 03:22:32
宗滴は何も確かな功績がない。
ageしながら改行してる変な人が騒いでるけど朝倉爺さんは同時代の書状で
色部とかと交渉したりしてる
>>268 >最近、某資料館から発行された本だし。
こんなこと言ったら信長公記も疑わないとな
>>271 当時から四国は四国
信長公記にはない?そりゃ残念だ
他ならぬ信長の書状で四国征伐軍編成の時に「四国の儀」と
書かれているんだけどな
信長さんは未来の言語でも使ったんかい
>>240 軍鑑が偽書なんて言ってるのはまずいないぞ
誰が偽書なんて言ってるんだ?
四国という用語についてだけ。
”四国の辺地というは伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺の廻りなり” 『今昔物語集』
”我等が修行せし様は―衣は何時となく潮垂れて四国の辺地をぞ常に踏む”
『梁塵秘抄』=後白河法皇
”但馬、丹後、因幡、伯耆、出雲、石見、山陽、南海、西海、四国の者は不参。”
『源平盛衰記』巻28
室町初期、細川家の四国支配に関して、”四国管領”
『後愚昧記』応安四年四月一日条
普及の度合いはともかく、言葉自体はあったと思われ。
大戦という言葉遣いについて。
漢籍で、
”楚又復益発兵而襲秦、至藍田、大戦、楚大敗”
『史記』巻七十
”三軍之衆、有分有合、爲大戰之法”
『尉繚子』勒卒令第十八
本朝では
”果与天皇大戦”
『日本書紀』巻第三
”両陣相戦交鋒、大戦自午至酉”
『陸奥話記』
”大戦流血期三月”
『民経記』天福元年五月二日条
これも使われた例はある。 ”大いに戦う”とか読み下せばそれほど奇異な表現ではないと思われ。
「金吾」とは衛門府の唐名で宗滴生前の通称だから、諡号というWikiの表現がおかしい。
>>277 「羽賀寺年中行事」は天文元年(1532)から第四代住持台芸が書き始めたもので、
それを歴代住職が書き継いでいったもの。
全57枚中のうち、元禄期には表紙と奥付8枚が補われただけで、あとはそれ以前の史料。
小浜市教育委員会のWebにも載ってるけど。
ちなみに「羽賀寺年中行事」は東京大学史学編纂所にも写真帳として収められている。
287 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 18:50:36
age
>>277 ”名を後世に揚げられるべしと万人褒美せられ了んぬ”
古文で「べし」は、未来(推量)の助動詞だから現代文に訳せば
「名を後世に残すだろうと万人に褒められている」
普通に同時代評だろ
宗滴の、直筆花押入りの書状なら上杉家文書に残ってるな。
上杉家文書に
’就中庵主御時、別而承候キ、其巳後無音失本意候、向後不相替可申通心中ニ候’
「先代為景公のときは連絡取り合ってたけどその後通信が絶えてしまったのは不本意、
また誼を結びたい」
っていう、長尾平三(上杉謙信)宛ての宗滴直筆の花押付き書状がある。
まあ普通に朝倉家の外交交渉は担っていたんだろう。
291 :
日本@名無史さん:2010/06/16(水) 13:34:47
保守
>>271 「四国」という表現が江戸中期以降って・・・・
またとんでもない珍説言い出したな
293 :
日本@名無史さん:
四国が江戸中期以降ってどこの資料に載ってたんだ