717 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 09:03:36
伊庭八郎ってマイナーではないが、土方とは江戸からの付き合いだと本で読んだが本当にそうなのか?
箱舘戦争で再会する、という話の続きだが
浪士組に応募する前の試衛館時代に、知り合いだったみたいよ。
遊び友達だったような・・・
嘘くせー
道場の掛け持ちしている剣士とかもいただろうし、
結構道場間の交流もあったでしょ。
市ヶ谷の試衛館は、九段の練兵館と交流があったし。
伊庭道場は直参旗本の坊ちゃんが多かったみたいだが、
講武所の教授方を目指していた近藤が、伊庭道場の関係者と
顔見知りだった可能性は高いと思う。
土方もそんな近藤のそばに居れば、伊庭八郎と知り合いになっていても
不思議じゃないよね。お互い女遊びがお盛んだったようだし。
赤松小三郎 信州上田藩士 兵学・洋学者
佐久間象山・勝海舟・オランダ人教師から、蘭学・兵学・数学などを学ぶ。
薩摩藩から兵学者として招かれる。
村田新八・東郷平八郎・中村半次郎ら薩摩藩士に兵学を教授する。
開国洋学者として、松平春嶽に西洋の議会制国家論を提唱する。
坂本龍馬は春嶽からこの案を聞き、船中八策として練り上げる。
公武合体、反倒幕論者だった為、薩摩から幕府のスパイだと誤解され、
67年京で中村半次郎らに暗殺される。
後年、東郷平八郎が上田に赤松の碑を建てる。
722 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6 :2009/04/05(日) 04:30:17
武市瑞山、中岡慎太郎、板垣退助も今や知名度が低い。
龍馬人気の影に隠れてね(中岡は龍馬のおまけ程度の扱い)。
板垣が戊辰戦争で軍人だったことを知っている人は非常に少なく、
はたまた武士出身だと知らない人までいる始末。
せいぜい百円札のおっつぁんって程度。
あと、武市は映画「人斬り」の電波で以蔵を苦しめる悪の権化、
板垣は漫画「お〜い竜馬」で龍馬や以蔵を苦しめる悪の権化として、
それぞれ誤解されて一部の人たちに知られているけど。
勝新はあの世で武市にどつきまされてるだろう。
板垣は武田鉄矢が来るのを待ちかねてるぜw
724 :
a:2009/04/05(日) 04:37:31
幕末では、伊藤博文も奇兵隊に居たのに余り出てこないよね。高杉晋作とか桂小五郎ばっか。なんか、元、力士でしょ?
>龍馬人気の影に隠れてね
龍馬人気で割り食ったのは何といっても見廻組の皆さんだな。
当初から新撰組が殺ったとデマが飛び
いまだに薩摩やら土佐やらが黒幕だったことにされてしまう始末。
生き残りの渡辺篤が手記で
新撰組犯人説のデマが飛んだことに触れていて
ホントに悔しそうな書きぶりだったんでワロタ。
726 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 03:14:46
外山脩造(とやま しゅうぞう、1842年11月10日 - 1916年1月13日)
外山脩造は、新潟県長岡市(旧栃尾市)出身の明治期の実業家、政治家。
村役人外山伝の子として生まれた脩造は、17歳で江戸へ行き、清川八郎、塩谷宕陰のもとで学業を修め、昌平坂学問所に入った。
維新の動乱期、河井継之助のもと、長岡で戦い、河井の遺訓により商人として生きることを決意する。
明治2年に慶應義塾、明治4年に開成学校に入った脩造は、5年に秋田県に出仕し、翌年、大蔵省銀行課に入り、国立銀行創設に力を出した。
明治11年渋沢栄一の斡旋で大阪第三十二国立銀行総監役として、業務の内容に取り組み、明治15年から3年間、日本銀行大阪支店長に就任して大阪銀行界の指導者になった。
明治20年から21年にかけて欧米の経済機関視察に加わった脩造は、信用調査機関の必要性を再認識し、明治24年、大阪に商業興信所を設立して自ら総長となった。
またその前に大阪貯蓄銀行副頭取、明治25年に衆議院議員、明治31年、浪速銀行頭取、大阪舎密工業社長、明治32年に阪神電鉄社長に就任したのをはじめ数多くの関西の会社設立に尽力し、
大阪銀行集会所委員長として関西財界の指導者として活躍した。
>>717 >>718 >>720 とりあえず、土方と伊庭の江戸での交友はまず創作といえよう。
明治か大正の作家(名は今失念)がまずそういう逸話を作って、
以来それからネタ盗りした作家が多い。
ただ、無かったとかいえないだろ?と言われたらそれまでだが、
れっきとした幕臣・奥詰めで将軍上洛の警護もしたような、
高名な伊庭道場の後継者と土方が交友していたとは、
正直あまり考えられない。
伊庭には新吉原に馴染みの花魁、稲本楼の小稲がいたが
(その小稲の上客にはあの河井継之介もいる)
その店は土方の財布で遊べるような格の店ではない。
伊庭の友人はほとんどが、幕臣、御家人。
親類も幕臣や講武所務めが多い。
通称「征西日記」から、京都での交友をみても知己はみな幕臣だ。
幕末の人気者同士が江戸でも遊び仲間だったという逸話は
面白く創作のネタになるだろうけど、それまでのコト。
立証できるような証言もなし。
同人誌のネタとして格好のネタだけどな。
ワシントンの桜の木と同じようなもんか
>>727 なるほどね。
確かに行商時代の土方がどうやって武家の伊庭と知り合ったのかも不思議に思ってた。
おっしゃる通り伊庭も武家の子供だから、交友関係もそれなりの人になるな。
土方が没した二日後に伊庭も没したということも相俟ってそういうネタが浮き上がったんだろな。
本当の史実とネタとを区別するのが難しいね。本当に友達だったなら面白いけれど
伊庭で思い出したが、
幕末には長州の遊撃隊と伊庭の遊撃隊があってややこしいな。
自分の記憶違いかな?
>>729 727です。
自分は東京日野市近隣の市の生まれで、土方は好きな人物。
なので、別に土方の身分をどーのこーの言うわけではなく、
ネタとしては面白いけど、実際の二人の境遇や生育歴から考えると
「仲良し」っていうのは考えづらい・・・と。
伊庭は部屋住みから召し出されて御番衆になり、すぐに奥詰に。
後に沼津兵学校の教員になる中根香亭とも幼少時代から親しかったし、
弟たちの養子先はみな旗本御家人の家。
また山岡鉄舟の娘の回顧談にも登場するような青年なので
土方との接点はあまり考えられない・・・というのが自論です。
吉原という遊興地から考えても、遊ぶ店の格は違うのではないかと。
でも伊庭八郎のマニアwな人のなかには、
土方と伊庭の遊び友達説を嬉しく信じている人も、結構多いよ。
絵的には美味しい話ですよね。
732 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 18:35:42
なるほどな。
よく土方が奉公時代に出会うみたいな話を聞くが、話として作りやすいわな。
坂本龍馬が小千葉時代に新撰組の面々と知り合いだったと言うのと変わらない気もするけどな
734 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 17:32:51
山田方谷はもっと評価されるべき
方谷は超評価されてるじゃん
方谷駅まで出来ちゃって
マイナーなだけですよ
736 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 01:16:38
リアル幕末では結構メジャー、現代ではマイナー、
(しかしそういうやつらも掘りつくされてるかも)
とりあえず途中まで見た中で出てこなかった人
小野友五郎
平山敬忠
山口直毅
川勝広運
向山黄村
幕臣ばかりじゃ・・・・
児玉次郎彦(1842〜1864)
徳山藩士。藩校の一刀流剣術指南・浅見栄三郎の次男として生まれる。
後、児玉半九郎の娘・久子と結婚。児玉氏を継ぐ。
徳山藩出身の国学者・飯田忠彦が幕府に罪を問われ、
『大日本野史』『門跡伝』などの著書が伏見奉行・林忠交に取り上げられた際、
有栖川宮熾仁親王の命を奉じて林邸に往来、これを取り返した。
周旋方として国事に奔走。若干22歳で藩の大目付、京都留守居役に任ぜらる。
また、藩校・興譲館の助訓役、学寮長ともなった。
1864年8月9日、同志・河田佳蔵らが藩内の保守派・富山源次郎の暗殺に失敗。
次郎彦もその一味と目され、8月12日早朝、保守派に暗殺された。享年23歳。
明治31年7月4日、従四位を贈られる。
現在、児玉家屋敷跡の一角に「贈従四位児玉次郎彦君遭難之跡」の碑が建っている。
義弟・源太郎は有名なのに……orz
738 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 01:26:38
>>731 伊庭の辞世の句もあって余計拍車をかけてるんだろうな
戦死した親友に向けて詠んだ和歌だもんな
739 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 03:13:44
昔は超有名だったのに今やマイナー
月形潜蔵
740 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 03:22:13
741 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 13:06:34
こんどう いさむ
どかた さいぞう
月形潜蔵って名前はかっこいいんだけどな。
轟武兵衛もかっこいい割にマイナー、かつ九州志士という共通点が
矢田堀鴻
744 :
日本@名無史さん:2009/09/20(日) 01:03:30
age
745 :
日本@名無史さん:2009/09/20(日) 01:15:05
当時有名・今無名と言えば堀織部正じゃないか
746 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 21:22:59
「そのような暴論は戦を起こす、国賊なり」と言われて腹を切る。ミドルの悲劇が織部の最後
747 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 21:36:53
赤根たけと
748 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 22:31:03
犬飼兵庫
749 :
日本@名無史さん:2009/11/03(火) 23:51:21
陸奥出海
750 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 11:36:48
浦靭負
ここだけの話、私は千葉周作の血をひいてます
矢田堀の小説読んだ。勝・榎本は微妙な立場だった。木村はいい仲間扱い。
小野の小説も読んだ。中浜・小栗と深い関係だった。
だが、あくまで小説。研究本などは出てなさそう。
堀は「外国奉行なんたら」という本で、岩瀬、水野、永井、井上とともに詳しく書かれていた。
まだ川勝、平山、杉浦、向山あたりの詳しい本にはお目にかかっていない。
村瀬などはある意味有名かも。
堀は腹切る、岩瀬は憤死、井上病死、川路は自殺、水野も死、小栗は惨殺、
残った勝先生がひとり奮闘しましたとさ。
けんしんの本名てなんでしたっけ
756 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 22:14:17
長谷川平蔵じゃなかった?
会津は駄目なのばっかし有名(T-T)
弘化3年(安芸国御手洗島)生まれ、山岡鉄舟に剣を学び無刀流八段免許皆伝、慶應3年11月3日故郷御手洗島において薩,長、芸、土、の四藩連合の軍事同盟成立に立会う。
伏見鳥羽の戦には錦旗護衛長をつとめる。明治元年、西郷隆盛と共に16名小御所において正五位綬三等に叙される。晩年は島根県温泉津の長命館 伊藤様のお世話になり96歳で浄土へ、
温泉津温泉のはずれに胸像が建っている。
安芸の国豊田郡御手洗島大長出身
弘化3年2月13日生まれ、山岡鉄舟門下、無刀流八段免許皆伝、
慶應3年11月7日御手洗島にて、長州、薩摩、土佐、芸州 四藩連合の
軍事同盟を故郷の我家本徳寺で結ぶ、坂本龍馬、大村益次郎、たち14人が
集まった。
鳥羽伏見の戦いには錦の御旗の守備隊長として参加、明治元年正五位綬三等に叙せられる。
晩年は島根県温泉津にてすごし、温泉街のはずれに胸像がある。
762 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 07:33:46
764 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 10:32:22
玉松操はメジャー?
幕末の人物としてはマイナー、明治の人物としてはメジャーってとこではないかしらね?
766 :
日本@名無史さん:
土佐の由比猪内について知ってる人いる?
東洋門下で幕末は京都詰大監察だったと思う。
生年没年や経歴が分からん><