多くの志士であふれる幕末で、名前こそ残せど決して主役としての
語られることはない。そんなマイナーな人間達の物語です。
ほほー
江木 仙右衛門(1824〜1865)
出身:周防国岩国錦見
立場:岩国藩卒
文久3年8月の政変によって七卿を護衛して帰国し元治元年8月の四国連合艦隊の来攻に下関に行き宗藩の
軍に加わったが宗藩内は恭順派が政権を奪取、12月、高杉晋作らの革新派緒隊は美禰郡方面に
進軍して藩論の回復を計っていた。
そこで藩主の命により徳山藩の内情探査のため派遣されるが、慶応元年正月復命の帰路に藩領玖珂駅阿山で敵諜と
誤認されて斬殺される。年42。
江坂 栄次郎(1843〜1864)
系統: 姫路藩士 江坂善蔵の子
立場: 姫路藩士
砲術に長じ尊攘論を唱えて藩の上司と意見が合わず、文久3年正月に同士と共に佐幕派の家老
高須隼人の庇護を受ける。その後、米の買占めなど私曲の多かった用達紅粉屋又左衛門に天誅を加え
尊王倒幕の血祭りに上げ、河合伝十朗と共に脱藩して神戸海軍操練所に入った。
その後、長州に走ろうと大阪の土佐藩邸に潜伏中に幕吏の追補をうけて投獄され
河合と共に獄中で斬られる。年22。
中井 庄五朗(1847〜1867)
出身: 大和国吉野郡十津川村野尻
立場: 十津川郷士
資性剛直にして撃剣を能くした。文久3年、17歳にして上平主税と共に京に上り勤皇の志士と
交わる。同年天誅組の変には鎮撫使に従ってこれを治む。
慶応3年4月、京にて新撰組と戦い2名を斬り、会津藩に内通した長州藩士岸泰冶を要撃した。
また坂本竜馬の横死に悲憤し、12月7日その下手人と噂される新撰組を酒楼にて襲撃して数名を殺傷し
自らも数創を受けて死す。年21。
明治24年に靖国神社に祀られる。
麻田 時太郎(?〜1864)
出身: 土佐国高知
立場: 土佐藩士
京都土佐藩邸に勤務。元治元年6月10日夜、清水産寧坂の料亭明保野の奥座敷で独酌中に
長州藩士を追って乱入した新撰組等に驚いて逃げ出そうとしたところを会津藩士 柴司に槍で突かれ負傷する。
この報を受けた会津藩主 松平容保は両藩の確執を恐れ
家臣を送って陳謝し侍医も派遣しようとしたが売れられず、柴に切腹を命じた。
一方、時太郎も土佐武士の名誉にかけても生きれぬと覚悟し、柴の切腹前夜に自刃して両藩の平和のための犠牲となった。
青木 猛比古(1831〜1867)
出身: 豊後国海部郡堅田郷柏江村
立場: 少時僧籍(のち還俗)
父早世のため海福寺に入り僧となったがのち還俗して勤王の士と交わる。京の神祇伯白川資訓王に
会い留まること1年余り、内命を受けて九州に下り、防長の境に入り勤王の士を糾合した。
文久3年三条実美ら7卿を護衛して長州に下り
慶応元年豊前宇佐に楠公会を組織して九州の同志を募った。
翌2年長州の奇兵隊に入って幕軍と戦い、また宇佐の御許山挙兵に参画し、翌3年有力公卿推戴のため
同志と上京し10月三条大橋上で佐幕派浪士に暗殺された。年37。
8 :
日本@名無史さん:03/03/11 01:11
宇宿 彦左衛門(1820〜1863)
出身: 鹿児島城下
立場: 薩摩藩士
成田正之に砲術を学び、弘化元年 鳥頭庭方製薬所掛となり、嘉永6年江戸の出て田町海岸の砲台を建造した。
安政元年に藩主に従って再び江戸に赴き、蒸気船製造、電信その他の技術を修め
帰藩後に集成館掛となって反射炉をはじめ地雷、水雷を作った。
万延元年、汽船天佑丸購入のため長崎に赴き廻航した。
その後、船艦試運転の任務に当たり、また島津久光が公武合体を周旋するに当たって運輸方
に任じられ、これを補佐した。
文久3年、薩英戦争に日本で初めて実践で水雷を使用したが英艦が航路を変えたので的中しなかった。
この年の12月幕府より借入の長崎丸に乗って大阪の廻航するために下関海峡を通過した時に
長州藩の砲撃を受け船と共に沈み死亡した。年44。
9 :
日本@名無史さん:03/03/11 02:15
大利 鼎吉(1842〜1865)
出身: 高知城下上町
立場: 土佐藩士
幼少より武勇を好み、土佐勤王党に加盟し、文久2年50人組に加わり江戸に赴いた。
翌年正月、藩主 山内豊範にしたがい京に居たがやがて脱藩して長州に走った。
元治元年7月禁門の変で忠勇隊に属して蛤御門に進撃したが破れ、
南走の途中、同志の伊藤甲之助を介錯したのち長州に逃れた。
のち再び上方に出て形勢をうかがい、同年11月 大橋慎三、浜田辰弥、片岡利和らと大阪で倒幕策を
練っていたが、慶応元年正月8日に大橋ら3人で外出中新撰組に襲われ闘死した。年24.
10 :
日本@名無史さん:03/03/11 02:16
井原 応輔(1842〜1865)
出身: 土佐国高岡郡佐川
立場: 土佐藩家老深尾氏の臣
3歳で父を失い古沢南洋に養育された。美少年で時々奇行があったという。
壮時、豊後の剣客 村上圭蔵が土佐に遊歴したのについて学びその奥義に達し帰国後に土佐勤王党に
加盟した。
同3年5月 姉小路公知が殺害されるや犯人の偵察をし、ついで帰藩して勤王党の獄にあい禁固に処されたが
元冶元年、禁門の変の報を受け、同年8月14日浜田辰弥(
>>9)らの同志と共に脱藩し長州を目指し
招賢閣に入った。
慶応元年2月上京の途中、美作国土居の関にて土賊と間違えられ追跡を受け、島浪間と刺し違えて死んだ。
年24.
中村 善右衛門(1806〜1880)
出身: 陸奥国伊達郡梁川町
立場: 町人
天保10年病にかかり容易に治らず、二本松藩医 稲沢宗庵の診察を受けたおりに、たまたま使用された
体温計よりヒントを得て寒暖計の製造に成功し、蚕当計と名づけられた。
さらにこれを養蚕に応用するための実験が続けられ弘化3年その成果を公に発表した。
この長年の研究は「蚕当計秘訣」にまとめられ、養蚕技術を飛躍的に向上させた。
その後の安政開港以後、生糸は日本の主力商品として貴重な輸出品としてかかせないものとなる。
維新後、群馬県富岡製糸場 長尾高惇から秋蚕種を得てからはその利益のある所を唱えその
普及に努め、天寿を全する。年75.
有川 恒槌(1846〜1864)
出身: 長門国長府
立場: 長府藩士
安政6年に藩校敬業館の通学生となる。
文久2年11月同志と脱藩上京したが翌3年正月の藩主上京の際に脱藩の罪を許され、
ついで親兵に選ばれる。3月に賀茂神社行幸に扈従し、6月帰藩した。
同年8月、泉十郎、福原和勝と精兵隊を組織して上京、久坂玄瑞に従属する。
その後、帰藩するも宗藩の冤罪を訴えるために上京して禁門の変に遭い、鷹司邸にて乱闘の末
討ち死に。年19。
太田 次郎(1844〜1892)
出身: 讃岐国三木郡中村字石塚
立場: 豪農→丸亀藩士
豪農の家に生まれ、幼い頃より才気煥発、おおいに読書、習字に励み頭角を現した。
文久3年8月 中山忠光が大和五条に兵を挙げるやこれに参加しようと同志と共に
丸亀の村岡家より大砲弾丸を受け取り瀬戸内海を東航するも途中敗報を聞き引き返す。
同年11月周防の招賢館にて七卿と謁見し
元冶元年7月の禁門に小橋安蔵と共に幕軍と戦うも破れ、重囲を脱して帰藩し同志と後図を謀った。
維新後に新政府から仕官を勧められたがこれを辞した。
性来工学の修養があり、各地で使用された綿繰機は次郎の創始した物だといわれている。
年49で没。
瓜生 岩子(1829〜1897)
出身: 陸奥国耶麻郡小田村
立場: 油商人の娘
9歳で父を失い家が火災に遭うなど不幸が続いたが、17歳で佐瀬茂助と結婚し若松城下に呉服店を開く。
1男3女をもうけるが34歳で夫と死別。
明治元年会津戊辰戦争では知人と計って戦火の中、敵味方区別なく負傷兵の手当てを行い
城下を逃げ惑う難民の救済に奔走した。次いで小田付幼学校を開校し鳳鳴会、瓜生会を組織し
東京養育院幼産世話係長を勤めるなど貧民救済にその生涯を尽くした。
年69。
東京浅草寺境内に銅像が建てられている。
曲直瀬 道策(1838〜1867)
出身: 山城国乙訓郡向日町
立場: 向日神社社家の二男
幼少より平田派の国学を学び勤王の志が厚く、加賀藩主前田氏に仕える。
慶応2年7月加賀藩の有志と尊攘論を唱え実弟 六人部雅楽らと金沢に赴いて次代藩主
前田慶寧の入朝をうながし、志士の窮状を救って家産が傾くのも顧みなかった。
小松帯刀、三上兵部、陸奥宗光らと計って大阪に船舶運送業を興し、勤王同志の
活動資金を捻出しようとするが幕吏の知るところとなり、大阪難波新地で新撰組に襲われ斬殺される。
年30。
安東 鉄馬(1843〜1864)
出身: 美作国英田郡土居村
立場: 庄屋
幼少にして安東直範に剣を学び、ついで但馬国豊岡の池田草庵、近江国水口の豊田謙次らに学び
勤王の士気を磨いた。
早く父を失い母に至孝なるも天下多事に際して瓦全を求めず玉砕を期して義党と盟を交わした。
文久3年、生野銀山事件に関与し元治元年6月に京都池田屋の変に加わって危難を免れ、ついで7月
禁門の変には決死の覚悟で長州勢に加担し鷹司邸内で奮戦の末、銃弾に当たって斃れる。
年22。剛勇にして「今張飛」といわれた。
大島 高任(1826〜1901)
出身: 陸奥国岩手郡盛岡仁王小路
立場: 盛岡藩蘭医
天保13年江戸に出て坪井信道から蘭学を学び、弘化3年長崎に留学して高島浅五郎より西洋砲術、
鋳金、治金を学び、嘉永6年に水戸の藤田東湖に知られ、水戸那珂湊に反射炉を築き大砲鋳造に成功した。
しかしその材料が出雲砂鉄では不適当なので盛岡藩釜石の滋鉄鋼精錬の必要を説き
安政4年12月1日オランダ式溶鉱炉による磁鉄鉱の生産に成功した。
これは日本における最初の近代的鉄精錬であり、12月1日は鉄の記念日となっている。
その後、藩書調所出役教授に任じられ小阪銀銅山を開発。明治2年に新政府から特別任用され鉱山行政に参画、
4年に岩倉具視の一行に加えられ欧州の鉱山経営を観察、帰国後に国立釜石製鉄所を設立した。
秋田小阪銀山を私営したり官営したりしながら16年に工部大技長に、19年に佐渡鉱山局長に任ぜられ
23年に日本鉱業会会長になった。年76で没。
石坂 弥次右衛門(1809〜1868)
出身: 武蔵国多摩郡八王子
立場: 八王子千人同心頭
幕命で第二次長州征伐に嫡男 敬一と共に従軍し、慶応元年閏5月大阪に到着、ついで伊予松山に
遠征して翌2年の秋に帰郷した。
明治元年3月当番の八王子千人同心頭の萩原友親が病死したため急遽代わって日光東照宮の防火警備に
赴任したがいくばくもなく政府軍に包囲され東照宮を戦火から守るためやむなく部下を率いて政府軍に帰順。
日光を引き払って八王子に帰ったその夜、日光を政府軍に引き渡した責任をとって自刃。年60。
20 :
日本@名無史さん:03/03/12 18:52
age
マイナーかどうかはわからないけど,
新選組4番隊組長の松原忠司について何か教えていただけないでしょうか?
他の幹部については情報が多いのにこの人は極端に情報が少ないのです。
お願いします。
22 :
日本@名無史さん:03/03/13 01:45
このスレいいね
ていうか自演スレばかりじゃん。
どういうつもり?
自レスが多くて申し訳ないです。
ここでは郷土の志士や自分のご先祖様なども含めて様々なマイナー志士が織り成した
幕末を好きなだけ語れたらいいなと思っています。
大橋 慎三(1836〜1872)
出身: 土佐国高岡郡佐川
立場: 土佐藩士
土佐藩家老深尾氏の臣で土佐勤王党に加盟し、文久元年に脱藩を企てたが武市瑞山の説得で思い止まる。
上京後諸藩の志士と交わり国事を論じた。
文久3年2月の足利三代将軍木像梟首事件で浪士を救うため老中 板倉勝静の元に赴き交渉の挙句その無能を
痛罵し、同年5月の姉小路公知暗殺事件には同志と共に刺客の捜索に尽力した。後、藩論一変のため自宅謹慎
に処されたが、禁門の変を聞くや浜田辰弥らの同志と8月14日に脱藩し三田尻の招賢閣に身を寄せる。
しかし長州藩俗論党の態度に失望し同年11月大阪に出るも慶応元年正月に
新撰組の襲撃で同志 大利 鼎吉(
>>9)を失い十津川へ逃れ、名を大橋鉄猪から大橋慎三に変える。
同年2月に入京して坂本竜馬、中岡慎太郎らを岩倉具視に紹介して談議し、王政復古の基礎を
築く先駆的役割を果たした。同3年11月坂本、中岡の横死後陸援隊の隊務を処理し
12月鷲尾隆聚侍従の高野山挙兵に参謀として参加した。
維新後、新政府の内国事務局、軍務官、行政官、刑法官、開拓使などに出仕し、明治4年に式部権助
五年に大儀生に任じられたが急病のため死去した。年37。
26 :
日本@名無史さん:03/03/17 00:59
伊藤 祐亨(1843〜1914)
出身: 鹿児島城下上清水馬場
立場: 薩摩藩士→帝国海軍軍人
文久3年の薩英戦争の時に21歳で戦闘に参加。
神戸海軍操練所に入り、江戸では江川左衛門塾で砲術を学んだ。
慶応元年12月に江戸の薩摩藩焼き討ちで血路を開いて脱出、品川の薩船翔鳳丸まで逃げ延びたが
この時に幕艦回天丸と海戦となり、砲手として奮戦し神戸へ脱出した。
明治元年正月に阿波沖では春日丸乗り組員として幕艦開陽丸と戦い、11月に1等士官として
富士山艦乗組となった。
その後の明治24年に中将に進み、日清戦争では連合艦隊司令長官として黄海海戦、威海衛攻略に勇名を
とどろかし、31年に大将に進んだ。日露戦争では大本営海軍幕僚長として勤務。
第一次世界大戦勃発の年に72歳で没。
×薩摩藩焼き討ちで
○薩摩藩邸焼き討ちで
28 :
日本@名無史さん:03/03/17 02:57
所郁太郎。
掲示板向きじゃないよ、これ。
単に辞典に掲載されていること書いてもなぁ。
30 :
日本@名無史さん:03/03/17 14:16
巖垣月洲
対話の無いスレだね・・
32 :
日本@名無史さん:03/03/17 14:22
一般人は働いてるので・・・
君等みたいな人生の敗北者ばっかりじゃないんだよ
俺を含めてだが・・・
33 :
日本@名無史さん:03/04/08 19:37
つか、幕末という時代自体、マイナー。
研究者の層がきわめて薄い。
在野史家を自称する一部のマニアの占有物。
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
36 :
日本@名無史さん:03/04/30 00:27
剣客桜内徳之進
河西 忠左衛門(1831〜1860)
出身:近江国彦根
立場:彦根藩士
彦根藩きっての剣豪でその名は他藩にも知られていた。
酒を好み常に酒気を帯びていたが「まさかの時は人後に落ちぬ」を口癖としていた。
桜田門の変では共目付として輿後に在ったが、水戸浪士の襲撃を見るや、泰然として
雨衣、柄袋を脱して襷をかけ、両刀を抜いて輿側を守った。
奮闘もっとも努め、浪士の傷を被る者の多くは彼の刀により受け、彼が生きている間は
輿に近づけなかったというが、遂に前後左右より刃を受け雪中に斃れた。年30。
奮闘を物語る刀は彦根の子孫の家に今も伝えられている。
38 :
日本@名無史さん:03/05/04 10:50
( ・∀・)
σ σ
ゲッツ!
39 :
日本@名無史さん:03/05/18 10:13
どなたか、新谷道太郎って人を知りませんか?
知っている方、カキコをお待ちしてます
40 :
日本@名無史さん:03/05/18 13:15
小島四郎(相楽総三)が、挙兵活動に目覚めた切っ掛けとなった人物の、
『桃井可堂』いいね!
東條一堂の門下生で、
清河八郎、那珂梧樓と、三人で一堂門下の三傑と言われた。
慷慨組を組織した。
攘夷の魁として、沼田城奪取し、横浜外国人居留地焼き討ち計画を練る。が…事が露見し、同志達に被害が及ばぬよう自ら代官所に出頭。
食を断ち、口を噤んだまま、衰弱死した。
ん?慷慨組の計画は、
清河八郎の横浜外国人居留地焼き討ち後、甲府城に立てこもるって計画と似てるな…。
肥後勤王党・堤松左衛門
横井小楠を討ちそこねたたしか吉田と都筑は討ち取った。
一時、岡田以蔵と京で刀を振りまわしていた人。でのちに小楠討ち洩らす
を悔いて京で自決、若くて純粋な人の印象うけました。当方肥後もっこすだす。
42 :
日本@名無史さん :03/05/19 01:02
山田 顕義 1844(弘化元年)−1882(明治25年)
1844(弘化元)年 藩士山田七兵衛の長男として産まれる。
1857(安政4)年 松下村塾に。以後攘夷運動に奔走。
1862(文久3)年 狙撃隊を結成。
1864(元治元)年 7月19日 禁門の変に加わる。
1865(慶応元)年 御楯組結成。四境戦争に参陣。整武隊総督となる。
1868(明治元)年 鳥羽伏見の戦いに整武隊を率いて活躍。
1871(明治4)年 岩倉使節団の一員として渡欧。。
1877(明治10)年 西南戦争では政府軍別軍を率いて鎮定にあたり、功績を上げる。
1878(明治11)年 陸軍中将に。
1885(明治18)年 司法大臣に。
1889(明治22)年 日本法律学校(現日本大学)を創設。
1890(明治23)年 国学院大学を創設。
1878(明治11)年 参謀本部・監軍本部を設置。
1892(明治25)年 生野銀山視察中に急死。
43 :
日本@名無史さん:03/05/19 01:12
山田はマイナーじゃないと思うんだけど。
44 :
日本@名無史さん:03/05/20 21:41
玉木文之進なんて,とっても好きなんですけどいかが?
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
46 :
日本@名無史さん:03/05/26 09:10
age
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
48 :
日本@名無史:03/06/17 13:25
橋本香坡
文化6年(1809)〜(1862)慶応元年
上州沼田藩出身、大坂明倫館塾頭。
蛤門の変で長州兵ににぎり飯を与え、慶応元年、新選組に捕縛される。同年、大坂町奉行所に引き渡され、壱岐に遠島処分を受けるが、幕吏の与えた毒おにぎりを食し、死す。
49 :
日本@名無史さん:03/06/22 03:27
前田慶寧
50 :
日本@名無史さん:03/06/26 13:40
遠藤喜助(生没年不明)
鳥取のぐうたら藩士にして遠藤周作の祖先。
51 :
日本@名無史さん:03/07/14 15:59
幕末ってマイナーじゃないと思う。
52 :
日本@名無史さん:03/07/14 18:35
俺。
53 :
日本@名無史さん:03/07/14 21:03
俺のひいひいじいちゃん
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
55 :
日本@名無史さん:03/07/17 02:07
う〜ん、真木和泉は?
(^^)
57 :
日本@名無史さん:03/08/10 04:24
野口正安
芹沢鴨が下村継次を名乗っていた頃の親友。一緒に吉田松陰と会っている。
58 :
日本@名無史さん:03/08/10 04:51
仏生寺弥助はどうなの?
町野久吉もいれてやって
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
61 :
日本@名無史さん:03/08/16 04:28
だから…
仏生寺弥助はどうなのよ?
メジャーだろ
63 :
日本@名無史さん:03/08/16 10:25
白井小助(1826〜1902)
長州藩出身。毛利家家老浦靱負の家臣。若き頃江戸へ遊学し,当時同じように遊
学していた吉田松陰と知り合い,親交を結ぶ。その縁から革命活動に参加し,第二
奇兵隊の幹部となる。戊辰戦争以後は官軍の参謀となり,山県狂介や時山直八らと
ともに越後口で戦う。
維新が成立してまもなく故郷に下野し,私塾を開き地元の子弟の教育に力を注い
だ。その後終生在野の身分でありながら,しばしば東京にいる長州藩出身の政府高
官達のもとを訪れ,その栄達を批判した。そのため,彼らは「松陰先生の親友であ
り,革命活動の先輩」である小助を恐れ憚り続けたそうである。
小助は,かつてともに越後口で戦った山県有朋を特に非難し,「臆病者の狂介」
と罵倒し続けた。当時の失策を熟知されている弱みがあるため,山県はずっと頭が
上がらなかった。そのエピソードは司馬遼太郎の作品「長州人の山の神」に詳しく,
当時陸軍のトップである山県がコケにされている様は痛快である。
64 :
日本@名無史さん:03/08/16 23:59
「幕末三舟」のうち、勝海舟でも山岡鉄舟でもない残りの人。
66 :
日本@名無史さん:03/08/17 10:03
樺山三円はメジャー?
メジャーすぎ。
68 :
日本@名無史さん:03/08/18 19:29
梅田雲浜
>>64 高橋泥舟の事か?
>>68 安政の大獄の被害者の、梅田雲浜、頼三樹三郎、吉田松陰、橋本左内、
梁川星巌は、マイナーじゃ、ないのでは?
70 :
日本@名無史さん:03/08/18 22:22
マイナー具合にももっと気合が必要、ってことだな>このスレ
長州だったら
乃美織江
山田宇右衛門
あたりは?
実績の割にマイナーっぽい赤禰武人も入れとく?
73 :
日本@名無史さん:03/08/24 00:27
明倫館剣術師範 柳生心陰流 内藤作兵衛。
木戸・高杉など上級武士の剣術の先生。
萩の乱で帯刀をしていたため反乱軍とまちがえられ射殺された。
木戸孝孝允日記には「惜しむべきは内藤作兵衛なり」としるされている。
74 :
日本@名無史さん:03/08/24 01:09
小栗某はマイナー
天誅組関連ですが、
藤本鉄石、安積五郎、古東領左衛門、乾十郎、林豹吉郎、井沢宜庵、水郡小隼人に、
興味を持っています。
関係ないですが大庭恭平と伊牟田尚平も気になります。(他にもいます。)
ここを見ている人にとっては知っている人たちなのでしょうが、
多分、世間的には幕末マイナー人物のような気がしますので名前だけでも書かせて下さい。
新選組が壬生浪士組のころ、初期メンバーだった粕谷俊五郎もマイナーかな?従五位かなんかもらってるのに。
77 :
日本@名無史さん:03/08/24 02:16
千里眼うら
鞍馬天狗
森の石松 と書いてみる
78 :
日本@名無史さん:03/08/24 02:22
オレは各藩主の近親者・門閥クラスの
人物に興味がある。あまり有名な
人物はいないが。
島津久光・小笠原長行・三好胖は有名なほうですな。
あと松平頼該・松平昭訓・秋田静臥・長岡護美・島津久宝…
あと誰かいたっけ?
長州では禁門の変後に責任を負わされて処刑された
前田孫右衛門・毛利登人・渡辺内蔵太・大和国之助あたりもいいね
松島剛蔵とか来原良蔵も実績の割にはマイナーな気も
80 :
日本@名無史さん:03/08/24 13:47
age
81 :
日本@名無史さん:03/08/28 21:50
手塚 良庵
大阪適塾の門下生。
蘭学を修め維新後に陸軍軍医となる。
代々医師の家系であったが孫の手塚治は大阪大医学部を卒業後なぜか漫画家となる。
吉井幸輔友実
も、大藩薩摩の重要人物であるわりにはマイナー感強いね
83 :
日本@名無史さん:03/09/01 00:56
>81曾孫だったとおもうけど
84 :
日本@名無史さん:03/09/24 13:42
胤康とか・・・マイナーすぎる
85 :
日本@名無史さん:03/09/24 13:45
東中務とか細谷十太夫もなー
>85
細谷は「細谷烏と十六ささげ 無けりゃ官軍高枕」みたいな
唄なんかもあるし、意外とマイナーじゃないような気もする。
烏組自体、以前よりは大分知名度上がってるし。
月形洗蔵なんかマイナーそうでいて月形半平太のモデルになってる
武市瑞山も半分入ってないか?
車善七なんてどうよ?
山下市之進はどうよ。
剣豪としてはトップ10に入る腕前だったらしい。
函館で官軍兵を10人斬りした話しは有名。
91 :
日本@名無史さん:03/09/29 18:21
緋村剣心(本名:緋村心太)(1849年(嘉永2年)6月20日〜?)
出身:不明(関西らしい)
立場:浪人
逆刃刀を腰に下げ、全国各地を旅する流浪人。その正体は、幕末の
動乱期に数多くの人を斬り、最強と恐れられた伝説の人斬り抜刀斎!
長州派の維新志士として殺人剣を振るい、幕府の剣客と闘った人斬り
時代、その前半は無情の暗殺者として、後半は仲間を守る遊撃剣士と
して働き、維新達成の立役者となる。その無敵の強さは後世にも語り
継がれている。時代が明治に変わる頃、維新志士を抜け、流浪人に。
無情の人斬りが、なぜ不殺の流浪人になったのかは一切謎である。
92 :
日本@名無史さん:03/09/29 18:28
相楽左之助(1860年(万延元年)2月〜?)
出身:信濃
元・赤報隊の喧嘩野郎。
天性の打たれ強さと怪力を武器に、悪党共を蹴散らす正義感の持ち主。
少年の頃は、赤報隊の準隊士として新時代を作るために活動。
だが、赤報隊がニセ官軍の汚名を着せられ、尊敬する相楽総三が維新
志士に殺されてしまう。
赤報隊崩壊後は「喧嘩屋斬左」となり明治を生きる。
93 :
日本@名無史さん:03/09/29 18:42
四之森蒼紫(1853年(嘉永6年)1月〜?)
出身:江戸
立場:幕府御庭番衆
元は将軍直属の隠密、江戸城御庭番衆の頭。部下からの信頼も厚く、
自分の率いる御庭番衆の実力に誇りを持っている。だが幕末、最後の
将軍・徳川慶喜の絶対恭順のために思うような活躍ができず、維新の
世を迎えた。闘うときに闘えなかった、その無念の思いを晴らすため、
維新後も自分を慕う部下と共に闘いの世界に身を投じることになった。
性格は極めて冷静。だがその奥には凄まじいまでの闘争心を秘め、幕末
最強の証を手に入れるために維新志士最強であった剣心を倒すことに
全てを賭ける。
94 :
日本@名無史さん:03/09/29 19:02
幕末4八郎の最後の一人教えてくれ
95 :
日本@名無史さん:03/09/29 19:40
橋本左内
96 :
日本@名無史さん:03/09/29 22:44
古屋佐久佐衛門(1833年〜1869年)
出身:筑後
立場:幕臣
1851年 脱藩後、幕臣である古屋家に養子入り。
1868年 衛鋒隊として会津で戦い、のち蝦夷で戦死。
特技:英語
井川忠八治景は?
久留米藩の家老で、洋式大砲を鋳造した人物。
高杉晋作も恐れていた。
奇兵隊を撃退した小倉藩の砲兵隊長だった佐々川庫之助は?
確か砲撃で、鬼島又兵衛の弟を戦死させている。
徳川慶喜の末弟で、わずか15歳で水戸家の城代家老並びを
勤めた水戸定実は?
明治政府に仕え、後年陸軍中将まで出世している。
日清戦争では、朝鮮半島の元山攻略戦の総指揮を行い、
日露戦争では、樺太侵攻した第11師団の師団長を勤めて
いた。
貴族院議員、台湾副総督、伯爵。
百武兼行
森侍従実隆って知ってる?
新撰組に対抗するために、京の公家の縁者で結成した
新寮隊の副長をしていた。剣は自然奉天流の免許皆伝。
最後には、沖田総司により斬られた。
太田市之進(長州)
石坂宗順。
浪士組幹部。もと佐倉の医師。清河八郎暗殺の際、捕縛される。明治になって日本で最初に石油開発に挑んだ男(戸籍に記載あり)
106 :
日本@名無史さん:03/10/07 08:25
武市半平太(土佐)
身長六尺、鼻高く、あご長く、眼中に異彩あり、顔面蒼白、
深沈で喜怒色にあらわさず(ほとんど笑ったことがない人だったという)、
音吐高朗、見るからに人に長たる威厳があったという。
その性質は、中岡慎太郎が後年西郷隆盛と比較して、
誠実なことは伯仲していると言っている。
人きり新兵衛こと田中新兵衛は半平太に傾倒することがわけて深かったが、
やはり西郷と並ぶべき人物であると言っている。
それほどの人物であったが、ド迫力の三文字腹の切腹も虚しく、
坂本竜馬ファンの策謀により無念のマイナー落ち。
>>105 石坂周造のことか…宗順て誰かと思った。山岡鉄舟の伝記には出てくるね
はんぺいたは有名だろうヨ
もっとマイナーなの
山口徳之進(水戸)
水戸藩尊攘派。新撰組結成にも関与。京都本圀寺詰め。
鳥羽伏見の戦いの直前、慶喜の命で本圀寺水戸藩兵は二条城守備を任され、
幕軍本隊は大坂まで退去。その後、会津藩兵・新撰組の二条城入城を拒否、
市川ら諸生党討伐の勅を受け、喜び勇んで東帰、諸生を追って、長岡・会津など
各地を転戦、八日市場で諸生をほぼ斬殺し潰滅させる。(市川逆さ磔は翌年)
維新後は茨城県知事、侍従長(皇宮警察署長)を経て水戸徳川家の執事を務める。
土佐勤王党だったら、重要人物の割にマイナーな間崎哲馬(滄浪)がおすすめ。
武田鉄也のRoninでは、本人は出てきてないけど処刑された話が出てきてなぜか
龍馬たちが号泣していたのを覚えている
これ最強 蟻川賢之助(ありかわ けんのすけ)
水戸の天狗党ってマイナーだらけじゃね?
とっびっきり最強中の最強 弘前藩の西舘狐清
>113 シマイには鰊倉に押し込められたからねw
当時は真木和泉や久坂なんかより武田伊賀や藤田小四郎の方が著名だったが、
後の政権が薩長系となったため知名度が逆転した。
山田球。号は方谷。
小原鉄心
んなもん 維新の嵐のプレイヤーだったらいくらでも思いつくぞw
武居の吃安
121 :
日本@名無史さん:03/10/29 20:40
吉良の2吉
日柳燕石
123 :
日本@名無史さん:03/11/01 01:21
澤 宣嘉って知ってるか?
124 :
日本@名無史さん:03/11/01 01:34
七卿落ちの一人っしょ。この前伝通院に墓参り行ってきまつた。
125 :
日本@名無史さん:03/11/01 04:00
横倉喜三次〜近藤を斬首したひと
澤宣嘉は七卿の中では三条實美・東久世通禧と並んでメジャーだと思うのだが。
生野の変にも参加してるし、維新後外務卿になってるし…
127 :
日本@名無史さん:03/11/01 09:35
足利三代将軍木像梟首事件の犯人を挙げよ
128 :
日本@名無史さん:03/11/01 22:48
>>106、111 土佐文武の先駆者といわれた武市瑞山、間崎哲馬ときたら残りの一人 平井 収二郎(1835〜1863)はどう? 英才優れ、弁舌の人で武市の参謀的存在。
129 :
日本@名無史さん:03/11/01 22:50
続き) 豊後岡藩主、中川久昭の違勅問題で活躍し、鵜飼吉左衛門の子の出獄などで名声を高めた。 また、他藩応接役となり薩長間の調停をする。 武市の藩政改革が通らなかったため中川宮朝親王の親書を用い山内豊資を動かそうとして 容堂の怒りをふれ土佐に連行、切腹。
130 :
日本@名無史さん:03/11/02 00:02
>>126 ウチの大学の先輩に東久世って人がいたけど、あの東久世の子孫かなぁ?
幕末関白
鷹司政通・九条尚忠・近衛忠煕・鷹司輔煕・二条斉敬
一番マイナーなのは輔煕かな
>127 三輪田綱一郎(元綱)かな?
所郁太郎
美濃赤坂の酒屋の子。大坂で緒方洪庵に医学を学び、京で詩を梁川星巌に学び、剣は神道無念流に学び
京で町医開業して長州藩士と親交を結ぶ。八月十八日の政変で長州に下る。
元治元年、井上聞多(馨)が暴漢に襲われ、瀕死の重傷となったとき、井上家をたまたま訪問。
もっていた酒と畳針で傷口を縫う。後の明治の元勲を救ったが、本人は翌年腸チフスで死亡。
吉田東篁。福井藩の儒学者。文化五年(1808)年生まれ、明治八年
(1875)年没。
日命。もと会津藩士であったが、出家して法華宗の僧侶となる。
吉田松陰が兄の杉梅太郎に送った書簡に名が見える。
佐々木只三郎の兄の手代木直右衛門はマイナー?
会津藩公用方で新撰組にも絡んでる割にはあまり聞かないが
137 :
日本@名無史さん:03/11/05 16:43
梅沢孫三郎
水戸藩士・目付
大楽源太郎。何をした人物なのかよくわからんw
水戸の西丸帯刀はどう?
ところで、首切られた絵が残ってる人たちいるよね
彼らってここに名を連ねてもいいんじゃないか
143 :
日本@名無史さん:03/12/10 21:50
>>143 そこ以外でほとんど検索に引っかからないのが怪しいな
村松文三、漢詩を能くした。
漢詩っつったら梁川夫婦だろ
島村 貫倫(1833〜1876)
出身:豊前国小倉
立場:小倉藩家老
佐幕・攘夷論者。
格式中老、家老席詰、家老職を歴任し、呼野金山を開き、田川の石炭採掘を奨励、
新田開墾、殖産産業、武備増強を図り富国強兵を実施する。
慶応二年長州再征の戦いには士大将として活躍、同年八月、小倉城自焼後は金辺峠
にて小倉占領後の長州軍と戦いこれを悩ました。
明治二年二月に職を辞し、新政府より官途出仕の要請を受けたが応じず
下野。自適の生活に付くが、明治七年佐賀の乱には旧藩士を鼓舞し、
政府に救援尽力した。
あぼーん
紅屋杢助。
150 :
日本@名無史さん:04/01/19 05:32
三浦安〜天満屋事件で新撰組に守ってもらった坂本竜馬暗殺犯人にされた男。
さりげなく東京府知事になってた。
151 :
日本@名無史さん:04/01/19 14:07
俺の先祖、名前は明かせないが幕末から明治のころの人。
幕末の人名事典に”たまに”載っている。
必ず載っているわけではないところが無名。
152 :
日本@名無史さん:04/01/19 15:09
西郷隆盛に間違われた尾崎さんって有名なのか?法曹界
153 :
日本@名無史さん:04/01/19 15:47
松根図書
宇和島城代家老
孫は松根東洋城
154 :
日本@名無史さん:04/01/19 16:57
矢野玄道
新撰組にとっ捕まったが釈放される。
幕末国学者で唯一政権構想を奏上し、
具体化された。
>153
むしろ、図書と東洋城の間の人が気になる
>>155 松根図書1820〜1894 宇和島城代家老
┗松根権六 司法官
┣松根東洋城1878〜1964 俳人 松根豊次郎
┗松根宗一 アラスカ石油会長
海後嵯磯之助。
きのう広岡子之次郎がメジャーに昇格したので
山田うどん子
test
160 :
日本@名無史さん:04/02/28 19:54
浅田 宗伯(1815-1894)
幕末は幕府の典医にして、維新後は東宮侍医。
せきどめの「浅田飴」を創製した現代人にもっとも身近なマイナー人物の一人。
海坂藩家老...ってネタです。すみません。
国司信濃
禁門の変における優秀な指揮官の一人。
若く剛胆な家老にしてルックスもイケメンだ。
23(一説には27)の若き命を敗戦後の恭順のため、藩に責任を取らされ自害にて散らす。
腹を掻っ切った後、短刀をのど元に突き刺し前に向かって切り裂く凄惨な最後が後世に伝えられている。
163 :
日本@名無史さん:04/03/20 00:47
ほしゅ
164 :
日本@名無史さん:04/03/20 01:47
堀直虎
信州須坂一万石の藩主。若年寄兼外国奉行。
鳥羽伏見の戦いの後、江戸城での評議の後に城内で切腹。無条件恭順を主張して
いたとも、主戦論を主張していたともいわれ、真相は不明。
165 :
日本@名無史さん:04/03/21 18:52
奈良原 喜左衛門
薩摩藩士。薬丸自顕流の使い手。弓術にも優れていた。
安政6年、島津久光の出府に浮かれた過激派、有村新七らの凶行を君命により
諌めに行くも失敗したため同輩を斬りまくる。(寺田屋事件)
帰途、行列の前を横切った外人(リチャードソン)らを斬りまくる。(生麦事件)
薩英戦争で仕返しに来た英艦に西瓜売りを装い、乗艦→斬り込みをかけようとするが
さすがにばれて、追い返される。
166 :
日本@名無史さん:04/03/21 19:34
結城 無二三(1845−1912)
出身:甲斐国山梨郡一町中村
立場:新撰組隊士
父が医者であり、その影響のせいか最初は医学を志して
江戸に出るがいつの間にやら砲術に鞍替えし幕府の講武所に通う。その後
なんだか京都へ出かけて行き、新徴組・新撰組に入隊し忙しい日々を送ったり
するのだが鳥羽・伏見の戦いで破れて東へ逃げ帰る。
明治元年に政府軍に対抗するために組織された甲陽鎮武隊の軍監を務め
出陣するも柏尾の戦いで敗北しちゃう。
維新後は甲府で牧羊なんかを経営してみるものの失敗し、迷える子羊状態になると
キリスト教に目覚め、牧師として東京、浜松、山梨で布教活動に専念し、
なんだかんだで大正元年まで生き抜いたりする。年68。
文久三年(1863年)に密航して英国に渡った
伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三の五名の長州藩士の内
五カ国による長州攻撃時に帰藩しなかった
井上勝、遠藤謹助、山尾庸三さん三名
粕谷新五郎:剣豪らしい・・・
169 :
日本@名無史さん:04/03/22 00:30
鵜狩 鉢平
徳川慶喜に雇従し水戸家より一橋家に移る、
大政奉還時、慶喜、都落ちの際、腹痛でしゃがんでいるところを
薩人に斬られた。先祖は黄門光圀と諸国漫遊の旅をした。
明治12年、贈、正八位、団子の守
奈良原は結構メジャーだと思っていたが…
>>170 小学館の漫画日本の歴史16にも出るしな
市川宇八郎
元松前藩士。芳賀家の養子になり幕臣・芳賀宜道と名乗る。
永倉新八の親友で一緒に武者修行をした仲。慶応四年三月、新選組を離れた永倉と原田左之助
と図って靖共隊を結成、隊長に推される。旧幕諸隊と共に各地を転戦し、会津へ。靖共隊を会津藩
に託して永倉と共に米沢へ援軍要請に向かうが、米沢藩が降伏して挫折、十二月に永倉と東京に
戻り、浅草三軒町の妻のもとに隠れた。翌月、妻の実兄で新政府に仕える藤野亦八郎と出会い
酒の喧嘩となり、藤野の部下に斬殺された。
173 :
日本@名無史さん:04/03/22 17:55
昔、怪奇現象を扱った番組で生首の掛け軸の閉じていた目が開くってのがあったけど、あれは以蔵タンに石部宿で斬られた役人だったんだね。渡辺金三郎か大河原重蔵かは忘れたけど。
市川って芳賀宜道だったのか!
永倉と靖共隊組むところからしか知らんかった。
病死してねぇ!
奈良原て大村益次郎の暗殺計画した詰めの甘いひとでつか?
ついでに山県も始末しとかなきゃ。
176 :
日本@名無史さん:04/03/22 21:45
マジレスおれのひいじいさん
178 :
日本@名無史さん:04/03/22 21:55
>177
何してた方なのよ
本職は医者。これ以上は勘弁
本職は医者。これ以上は勘弁
ミスった(;´Д`)
182 :
日本@名無史さん:04/03/22 23:12
神保修理西郷頼母井上丘隅
183 :
日本@名無史さん:04/03/22 23:34
>139
大村益次郎の暗殺の一味と疑われた人です。
184 :
日本@名無史さん:04/03/22 23:35
金輪
>179
せっかくだから、もっとご先祖自慢しては?
大河原重蔵
大原重徳
チョト似てる
>>173 小さいころその番組見て怖くて泣いたことがあって、今まで思い出さないようにしてたけど、
以蔵に斬られた人だったとわかったら怖くなくなってきたヨ。thx
乃美織江
長州藩京都留守居役。
190 :
日本@名無史さん:04/04/04 03:00
>>173 >>188 生首の掛け軸の人は渡辺金三郎。
番組ではもう一幅、光惇という僧の生首の掛け軸も紹介されてたよ。
金三郎よりもずっとマイナーだと思うけど、光惇というのは水戸藩出身の僧。
仲間の正惇と一緒に孝明天皇呪殺の祈祷を行なった嫌疑で、文久三年、勤皇派
により京都の宿屋で二人とも斬られ、さらし首にされた。
現在、渡辺金三郎と光惇の生首の絵は、青森県弘前市の正伝寺にある。
191 :
日本@名無史さん:04/04/04 14:30
>>170 ならば喜左衛門の弟、
奈良原 繁(1834−1918)はどうだ。
兄と寺田屋、薩英戦争を戦い、静岡県令、沖縄知事、男爵を勤めている。
賢弟。
192 :
日本@名無史さん:04/04/04 15:10
山本 数馬(1835〜1913)
坂本竜馬の従兄弟。尊攘派。
千葉周作の門下で、懐中時計盗難事件を起こし箱館へ脱走。
同地の神明神社の宮司、沢辺氏の巫女タンを娶って神職に就く。 (・∀・)イイナアー
その後、
ロシア正教のニコライ神父を殺害しに乗り込むも説得され牧師になる。(゚Д゚ #)オイ!!
変な所だけ竜馬に似てるんだな。>変節漢
194 :
日本@名無史さん:04/04/04 16:23
>>192 従兄弟の竜馬も、勝海舟を殺しに行って逆に心服したね。
殺す予定の相手に説得されやすい家系なのか?
>>194は勝にダマされ続けているアホ or 武田鉄也
197 :
日本@名無史さん:04/04/10 10:19
ミイラ取りがミイラになった典型的な例だな
198 :
日本@名無史さん:04/04/10 12:54
竜馬は勝を斬りにいったなんて信じてる奴まだいるのかよ
199 :
日本@名無史さん:04/04/10 14:45
久米 通賢(栄左衛門)(1780〜1841)
出身:讃岐国引田町馬宿
立場:農民〜発明家・測量士
幼いころから天文学に興味を示し、18歳の時に大阪の天文学者間重富に入門し、天文・測量学を修める。
父が亡くなったため一旦郷里に戻り、農業や漁業で生計を立てながら発明や天文学を学んだ。
1806年に高松藩の地図作製の命で藩内を測量し、2年後の伊能忠敬の讃岐測量で案内役を務めた。
通賢の測量技術は当時ヨーロッパでも最新の技術であった「バーニア副尺」を応用したもので、伊能忠敬の測量技術よりも優れているとも言われている。
藩財政再建のため塩田開発を申し立て、29年に坂出塩田を築造し、宇多津塩田の開発も計画した。
地図作製よりも測量技術を基にした塩田開発が有名で、「塩田の父」として知られる。
河川や港の改修設計、兵器の研究開発も手掛けたほか、国産マッチを初めて開発したとされる。
晩年は塩田開発の際の借金に苦しみ、寂しくその一生を閉じた。
200 :
日本@名無史さん:04/04/10 15:47
水野忠徳
外国奉行・長崎奉行・軍艦奉行を歴任。日本初の欧米諸国との条約締結
するなど幕末3傑ともいわれる逸材。小笠原探検の功績にアメリカへの
特使として派遣されるなどその経過は卓越したもの。
201 :
日本@名無史さん:04/04/10 18:17
塩谷 宕陰(1809〜1867)
儒学者。若い時には水野忠邦に仕え天保の改革にも参加。
阿片戦争が起ると情報を集め「阿芙蓉彙聞」を著し
世に海防論を盛んとさせた。
202 :
日本@名無史さん:04/04/10 20:20
楢山 佐渡(1830〜1869)
盛岡藩の重鎮。藩主、南部利剛に組し、新政府寄りの南部利義の一派を
退け、盛岡藩を奥州列藩同盟加盟への道を歩ませる。
戊辰戦争中は新政府側の秋田藩と戦い、自身も鹿角口攻撃の総大将を務め
大館を攻略し意気を上げるも、その後は新政府軍に敗北を重ね、9月に開城、
降伏する。
明治2年6月、藩を朝敵の窮地に追い込んだ責任をとって自刃する。
203 :
日本@名無史さん:04/04/19 15:24
良スレ揚げ
204 :
日本@名無史さん:04/04/20 07:44
>>200 水野忠徳をマイナー人物呼ばわりはちょっとかわいそうな気がする。
修理済み神保修理
楢山佐渡だってマイナーじゃないと思ふが
207 :
日本@名無史さん:04/04/28 22:31
>>111間崎イイね。マイナー具合も丁度よさそう。
若いのに安積艮斎塾の塾頭になって、同塾の清河八郎と交流したり
吉村虎太郎・中岡慎太郎の師(といっても3・4歳年上なだけ)だったり
竜馬と春嶽公の元に訪れたり(一説によると竜馬を春嶽に引き合わせたのは彼)
、、でも早く死にすぎた。
まあ、間崎の場合ある意味、土佐の吉田松陰と言えなくもない。
209 :
日本@名無史さん:04/05/01 23:17
佐藤八郎だろやっぱ
大津 彦之允(1835-1864)
水戸藩士。
元治の役に執政・榊原新左衛門の陣にあって神勢館砲撃に参加。
9月に、北方に援軍を求めるため郷士勢を率いて那珂湊を出立。
山野辺義芸と合流し介川に至るも諸生軍に攻められ、
長倉へ向かう途中の9月9日、久慈郡島村の戦いで戦死。
阿久津 小太郎(1843-1864)
水戸藩士。
文久3年、幕府新徴組に加えられたが、元治元年の水戸の内乱に巻き込まれ
那珂湊で捕らえられ処刑。
浅田 忠之進(1841-1866)
床机廻世話役を勤め、松平昭訓の神位を奉じて水戸に至るも
市川三左衛門らの阻止にあい、那珂湊に拠って城兵との戦いに参加。
元治元年10月23日、総督・榊原新左衛門らと自首して古河藩に禁固され、
慶応2年3月に囚中に病死。
榊原 新左衛門(1834-1865)
水戸藩士。
元治元年6月、同藩で絶大な力を誇る、市川三左衛門の執政就任に反対し
江戸藩邸に向かいその解任に成功する。
8月、藩主目代として下向する松平頼徳を護衛して水戸城に至るも、ぶち切れた
市川三左衛門に入場を阻止されたため、那珂湊に陣して城兵と交戦する。
松平頼徳は新左衛門を軍事総督に任ずる一方、幕府の介入もあり、陳情のため
後命を待つよう指示して江戸に立つも、休戦は破られ、再び戦闘を再開した。
城中の戸田銀次郎の勧めもあり、10月21日に会合を開き、1000人あまりを
率いて幕軍に降伏した。その後、古河藩に禁固されたが翌、慶応元年に自刃に処された。年32。
鮎沢 伊太夫(1824-1868)
水戸藩士。
弘化元年に藩主、徳川斉昭が幕府により処罰されると、雪冤運動に奔走し
禄高を召し上げられ処罰された。
安政5年、江戸で薩摩の有馬新七らと会見し国事に関して意見を交換するも薩水
両藩提携の挙兵にはなお自重するところがあった。(有馬らはその過激さゆえに、その後あぼーん)
安政6年、安政の大獄に連座して終身禁固に処されるが許され、元治元年に松平頼徳を護衛して水戸に
下るも市川三左衛門に入場を阻まれ、那珂湊で榊原新左衛門らとともに市川三左衛門と戦う。
榊原新左衛門が自首すると、武田耕雲斎に属して西上し、大徳寺に潜伏した。
明治元年正月、藩政回復の勅書を奉じる。3月帰藩。7月に脱走する市川三左衛門を北越に追討し
10月1日、水戸城侵攻の市川勢と弘道館に戦って勝利するも、この戦いにて戦死する。年54。
市川 三左衛門(1816-1869)
水戸藩家老。
安政の大獄および、勅書返納問題をめぐって水戸藩内に内訌が起きた際は改革派の
鎮圧に努め、家老に昇進する。
その後は佐幕派諸生党の首領として武田耕雲斎らの天狗党と対抗した。
元治元年3月、天狗党の田丸稲之衛門、藤田小四郎らが筑波山に挙兵すると諸生党を率いて
江戸に入り武田耕雲斎らを退けて執政となり、幕軍の援助をうけて天狗党を弾圧し、水戸城を占拠しては
ついに藩政の実権を握った。
しかし、明治元年には弘道館の戦いに敗れてからは数百名ほどの一隊と共に
水戸を脱して会津に落ち延びる。
その後、再度水戸侵攻を図るも水戸城を守る家老、山野辺らの軍との戦いにも敗北し、
下総八日市場で一隊は壊滅。
市川 三左衛門は翌年の明治2年4月に東京で逮捕され水戸で生晒の挙句、
水戸城外の長岡原で逆磔の極刑に処された。年54.
えー。他の5人はともかく
市川三左はマイナーじゃないだろ…
おまえらひょっとして佐藤八郎知らないの
218 :
日本@名無史さん:04/05/03 12:41
219 :
日本@名無史さん:04/05/03 16:12
>>217 …ごめん。知らん。
勉強不足で…。どんな人さ。
221 :
日本@名無史さん:04/05/03 16:30
222 :
日本@名無史さん:04/05/03 16:36
223 :
日本@名無史さん:04/05/03 20:02
高松 太郎(1842−1898)
土佐郷士。坂本竜馬の甥(千鶴の長男)。
剣術修行で九州を旅したり、土佐勤皇党に加盟したり。
叔父(竜馬)のコネで大原重徳とか三条実美とか姉小路公知とかの邸宅に出入りしたり。
三条、姉小路の勅使東下で護衛を勤めたり。
土佐藩吏、井上佐市朗殺害の容疑で追われたり。
箱館戦争に参加したり。
竜馬の跡をついで坂本 直と改名したりする。
コネの強さから宮内省に勤務。(・∀・)イイナアー
明治22年、キリスト教徒である事がばれて免職。(゚Д゚ )・・・
225 :
日本@名無史さん :04/05/11 02:03
土佐勤王党生き残り、田中顕助は?
爵位ももらってるけど、勤王党は壊滅したが故に生き残りの方がマイナーになってると思う。
田中顕助はマイナーかねぇ?司馬遼太郎が短編で主役にして描いてたりするしなぁ。
長州にもかかわり深いから、美味しい人物ではあると思うが。
227 :
日本@名無史さん:04/05/13 17:28
Dear フランス大統領殿
「ヤバイ。切腹ヤバイ。まじでヤバイよ、マジヤバイ。
切腹ヤバイ。
まず痛い。もう痛いなんてもんじゃない。超痛い。痛いとかっても
「裂痔20個ぶんくらい?」
とか、もう、そういうレベルじゃない。
何しろ腹を切る。スゲェ!なんか単位とか無いの。出血何gとか内臓何`とかを超越してる。臓物出るし超痛い。
しかも作法があるらしい。ヤバイよ、作法だよ。
だって普通は自殺するのに作法とか関係ないじゃん。だって自分が自殺する時やたら落ち着いてたら困るじゃん。
腹切るのに顔歪めんなとか言われても困るっしょ。
外人暴れて、逮捕しようとしたら撃ってきたから反撃したのに、自分だけ死ななきゃなんないとか泣くっしょ。
だから大名とか宣戦布告しない。話のわかるヤツだ。
けど武士はヤバイ。そんなの気にしない。戦いまくり。現場の武士とかよくわかんないくらい強い。ヤバすぎ。
強いっていたけど、もしかしたら武器とか貧弱かもしんない。でも貧弱って事にすると
「じゃあ、それで立ち向かってきて潔く切腹ってナニよ?」
って事になるし、それは誰もわからない。ヤバイ。誰にもわからないなんて凄すぎる。
あと超怨念こもってる。約1カリブの亡霊。摂氏で言うと−272℃。ヤバイ。怨念こもりすぎ。自分の腸投げつけてきて死ぬ。怖い。
うちらなんて自殺とかたかだか首吊ったただけでしょうがないからに焼き討ちしたり、ギロチン置いてみたり、革命やったりするのに、
武士は全然平気。戦って責任負って死んでく。凄い。ヤバイ。
とにかく貴様ら、武士のヤバさをもっと知るべきだと思います。
そんなヤバイ日本に出て行った俺らとか超偉い。もっとがんばれ。超がんばれ。」
from フランス軍艦ジェプレー号船長
228 :
日本@名無史さん:04/05/19 00:18
age
229 :
日本@名無史さん:04/05/23 00:47
幕人は結構一般的にマイナーのたぐに入る・・・
赤松大三郎則良
も活躍の割にマイナーな希ガス。まあ幕末には日本にいなかったわけだが
231 :
日本@名無史さん:04/05/27 17:57
酒井 孫四郎(1839-1869)
福井藩家老。
20歳で酒井家を継ぎ、25歳で家老職に就任した。
頭脳明晰らしい。
一橋慶喜と会し、松平慶永の意向を伝えたり、長州征伐に兵を率いて従軍した。
天狗党の武田耕雲斎に対しての処置を行ったのもこの人。
戊辰戦争では越後口各地に転戦しては功を挙げ、会津若松城を攻略して凱旋しては
天顔を拝するにいたった。
伊藤や大隈のように次代を待望されたスーパールーキーかも知れなかったが
明治2年3月、藩命による欧米視察のため横須賀より出港してさっそく観音崎沖で座礁して
あぼーん。(クス。
年30。
232 :
日本@名無史さん:04/05/27 18:21
>>230 幕臣から海軍中将に成った人だね。
伊藤は日清日露だけじゃなくて幕末でも血刀を振るってた人だからいいけど
この人はオランダ留学だとかで完全に明治限定の人って感じがする。
新納 八郎二(1841−1868)
出身:日向国宮崎郡佐土原
立場:佐土原藩士
文久3年薩摩で郷田流兵法を、慶応元年に江戸でイギリス式練兵を習得する。
戊辰戦争では27歳にして藩の北陸道進撃軍長官を務め会津戦で活躍するも
敵兵追撃にあたり、会津藩兵の強烈な反撃に遭い、両翼を固めていた薩摩軍、長州軍
が急遽撤退を開始してしまったため、
正面の戦闘を担っていた佐土原軍は敵の重囲の中に陥る。
八郎二は先頭に立ち叱咤激励して戦闘を指揮し孤軍奮闘の挙句、敵を撤退せしめるも
佐土原軍の死傷甚大にして、八郎二自身も敵弾に斃れていた。
高間 省三(1848−1868)
広島藩・神機隊砲兵隊長。
江戸、甲府、東奥州へ転戦。東奥浪江駅口の戦いで戦死。20歳。
沢野井 徳右衛門
山城国宇治郡山科郷大宅村の郷士。郷士とはいえ天皇のお侍。親兵。
御守衛士隊(山科郷士隊)の総代として京の町をブイブイいわせ、禁門の変、鳥羽伏見の戦いでは
禁裏を守備し、戊辰戦争では東山道先鋒総督に任命された岩倉具定にしたがって東上して信州、甲州に転戦
し、上野国宇都宮城攻撃ではいい仕事をしたらしく、大功を挙げたことになっている。
明治天皇の東駕東幸の際も、天皇警護の任についた。
淵上 郁太郎(1837−1867)
農民。
肥後の鳩野宗包に外科術を学び、医者にバージョンアップして天草に開業した。
江戸へ出て諸藩の志士と論じ、文久元年、久留米藩校の明善堂の教官を務めたりする。
安政2年、脱藩。長州で発見され久留米で禁固に処される。
安政3年、釈放。真木和泉の命を受け上京。
8月18日の政変で七卿に従って京を脱出。
再び上京。
元治元年・6月5日、池田屋からの脱出成功。
禁門の変で京都脱出成功。
筑防、対馬、大阪と渡り歩き、薩長和解、征長解兵の工作を試みるも幕吏に捕まり
投獄。
いきなり釈放。→突然の釈放に同志より幕偵の嫌疑を受ける。
ある日、伊藤甲子太郎らに呼び出されてアボーン。首は大宰府に送られた。30歳。
三戸 式部
盛岡藩家老。
明治元年2月、楢山佐渡、目時隆之進らと共に藩兵200名を率いて維新変革の
下問のため藩主に代わって上洛する。
奥羽列藩同盟について楢山と目時が対立し激論となったが、三戸は可否を言明せず楢山に
一任した。そのため盛岡藩は列藩同盟加盟の道を歩み、敗北。
藩主、南部利剛の命をうけ十二所へ楢山と赴き、鎮撫総督・九条道孝に降伏の嘆願書を提出する。
島 忠之(1824-1901)
盛岡藩士。
奥羽列藩同盟に反対し脱藩。京都、長州藩邸に匿われ、桂小五郎に藩主の朝廷への
異志無きを訴え続け、明治元年十月、盛岡藩の開城にあたって城中御用掛として
藩政収用にあたった。
長宗我部 四郎(1843-1865)
出身:土佐国吾川郡長浜村
立場:土佐藩士
文久3年、藩命で上京して三条実美の衛士となる。
同年、8月に天誅組の挙兵に参加して上田宗児とともに五条代官・鈴木源内を斬るも
戦いに敗れ、同志とともに中山忠光を推して三田尻へ逃れ、忠勇隊に属する。
元治元年、禁門の変で忠勇隊で戦う。その後は井原応輔らと諸藩への遊説を計画し、
上京の途中美作国土居の関所で賊徒として追求を受け、井原と刺し違えて死す。23歳。
241 :
日本@名無史さん:04/06/14 17:36
幕臣とかもっといないわけ?
矢田堀鴻
通称は景蔵。幕府海軍総裁。しかし副総裁の榎本釜二郎と陸軍総裁勝麟太郎の間に挟まれ
ちっとも目立たない。
木村喜毅
摂津守。幕府軍艦奉行。咸臨丸に乗船し、幕府使節の護衛をする。日本の水師提督だが
一艦長である勝にすべてが仕切られたため非常に影が薄い。号は海舟をもじって芥舟。
新見正興
豊前守。米国との条約批准文書交換のため、幕府正使としてポーハタン号に乗船し渡米。
しかし、なぜか目付の小栗豊後守(のち上野介)の方が目立ってしまい、影が薄い。
村垣範正
淡路守。同副使。もっと目立たない。
堀利煕
織部正。箱館奉行。蝦夷地探検や蒸気船造成など結構派手な働きをしているが目立たない。
蝦夷地探検の際の従者だった榎本釜次郎の方が目立つ。
林復斎
大学頭。幕府の代表としてペリー艦隊と交渉を行い、日米和親条約を結ぶ。西洋の事情にも
通じ、へりくだることなく堂々と対米交渉を行った傑物だが、儒学者という本職から、古くさい学者
というイメージが強く、活躍の割に目立たない。
反応なし…(´・ω・`)
メ几
木又
245 :
日本@名無史さん:04/07/17 10:02
それがし儀、保守致し度存じ奉り候ニ付キ、age奉り候。恐惶謹言
246 :
日本@名無史さん:04/07/21 00:22
247 :
日本@名無史さん:04/08/18 10:24
仙台藩の尊攘派、桜田良佐親子についてご存知の方がいらしたら
教えてください。
探してみよう。
時山直八。
250 :
日本@名無史さん:04/09/13 13:06:59
>>242 やたぼりと木村はそれなりに有名だと思うが
長州のヒーローといえば、乃美織江と山田宇右衛門だよな
そして、薩摩のヒーローは桂久武と松木弘庵
土佐のヒーローつったら間崎蒼浪と佐々木三四郎
上杉宗二郎
256 :
日本@名無史さん:04/10/22 07:50:58
河野敏鎌ってマイナー?
明治に入ってからはメジャーだが…
上田馬之助
阿比留鋭三郎
新選組にいたらしい
三吉慎蔵
長府藩士。龍馬のボデーガード。
紀州人が勝手に維新の四傑に入れる津田出もマイナーだな
263 :
日本@名無史さん:04/11/24 09:27:06
佐々木只三郎はメジャー?マイナー?どっちですか?
大河ドラマではかなりの存在感だったと思います。
最期が報われないあの忠臣ぶりは泣けました・・・
超がつくほどのメジャーだろ…
加納宗七
とりあえず幕末の人
松森胤保(1825-1892)
出身:出羽国鶴岡
立場:洋学者(出羽松山藩士)
若年から文武両面に頭角を現し、
文久三年には松山藩家老となり、
慶応三年には兵を率いて江戸の
三田薩摩屋敷襲撃に参加、戊辰戦争では
軍務総督として官軍を破る。
(松森という名字は、この時出羽松山城を
守り抜いたことを記念に賜ったもので、
実家の名字ではない)
維新後は区長・中学校長・県会議員などを
歴任。著述は八十七部三百二十八冊に達し、
その一部は酒田市光丘文庫に残されている。
268 :
日本@名無史さん:04/12/02 15:59:16
尊攘派浪士に暗殺された画家の冷泉為恭はマイナー?
269 :
日本@名無史さん:04/12/02 16:03:04
誰それ
270 :
日本@名無史さん:04/12/02 16:19:52
おかっ引の文吉
271 :
日本@名無史さん:04/12/02 16:32:04
長州の狂人・大楽源太郎に殺された絵師だろー冷泉ためちか
273 :
日本@名無史さん:04/12/22 15:47:07
こっこて、武士の名前しか書き込んじゃいかんの
絵師の月岡芳年はマイナーなほう?
俳人の井上井月も幕末の人だったような・・・・
しかし、それを言い始めるときりがないからなぁ。
戯作者とか力士とか歌舞伎役者だっているにはいたろうし
275 :
日本@名無史さん:04/12/24 23:27:12
三島億次郎
276 :
日本@名無史さん:05/01/12 11:25:28
ネタ切れか?
ちと聞きたいが桑名藩はメジャーだよな?
田辺太一は誰も知らんだろうな
279 :
日本@名無史さん:05/01/13 03:41:11
桑名って伊勢平氏桑名家があったところの桑名?
280 :
日本@名無史さん:05/01/13 04:51:30
281 :
日本@名無史さん:05/01/13 14:54:18
平吉(1833年〜1869年)
出身: 土佐国
立場: 農民
小作農の長男として生まれる。19歳のとき夜這いをかけた
イネと結婚3男1娘をもうける。「俺は竜馬さんと相撲をして勝った
ことがある」が口癖。
282 :
日本@名無史さん:05/01/14 02:17:25
長州の広沢さんは既出?
283 :
日本@名無史さん:05/01/14 02:21:54
幕臣 矢田堀 鴻
284 :
日本@名無史さん:05/01/14 02:26:15
山形有朋ってマイナーかな?
285 :
日本@名無史さん:05/01/14 03:06:08
長州の広沢や山県は誰でも知ってるだろ。
広沢兵介や矢田堀景蔵も十分メジャーだ。
287 :
日本@名無史さん:05/01/14 16:29:17
>>274 狂気の絵師と乞食の俳人ってなんかインパクト
あると思って書き込んだつもりなんだが
288 :
日本@名無史さん:05/01/14 21:12:13
長岡護美ってマイナー?
289 :
日本@名無史さん:05/01/15 02:58:45
誰?
290 :
日本@名無史さん:05/01/15 03:03:01
緋村剣心こと心太は?
女はどうよ。
寺田屋のお登勢
大浦屋のお慶
野村望東尼あたりは有名だが。松尾多勢子とか村岡局とか…
>>288 長岡家自体はマイナーじゃないと思うが、幕末の肥後藩自体が地味だからなぁ。
つか、細川家中興の祖、藤孝・忠興父子は長岡姓だったのだが。
295 :
日本@名無史さん:05/01/18 23:10:24
秋月悌次郎
立見鑑三郎
立見は微妙だが秋月は十分メジャーじゃろ。
田代 安定(1856 − 1928)
出身:薩摩藩加治屋町
1875年、それまで勤めていた内務省を辞め帰郷、その後農商務省へ移り
熱帯の動植物・民族・風土の調査目的で、沖縄県八重山諸島や南洋諸島を巡る。
「東京大学植物標本室」設立の第一人者。
その後、陸軍に出仕し、田代砲を開発。
月形洗蔵
『宮本宗助』
水戸藩出身。
水戸藩下級武士の出身。藤田東湖に師事していた父を尊敬しており、自らも尊王攘夷の道を志す。
安政七年、桜田門外の変で父の悲願であった井伊直弼の暗殺に参加。
その後は京に逃れ、土佐勤王党の活動に協力する
『秋月小二郎』
江戸府内に浪人の子として生まれる。
代々御家人として幕府に仕えてきた家系だが、祖父の代に身分を剥奪された。
文久三年幕臣への復帰を胸に、清川八郎の発案によって結成された浪士組に参加。
上洛後、浪士組を尊王攘夷に利用しようとする清川に反発した近藤勇、芹沢鴨らと共に新撰組を結成する。
>>300-301 ↑はプレステ2の『風雲幕末伝』というゲームの主人公なんですけど、
この人達に合うような史実の志士っていないですかね?
304 :
日本@名無史さん:05/01/22 15:52:17
305 :
日本@名無史さん:05/01/25 23:55:20
>>304 マイナーではないだろ。
司馬の短編小説にも主人公で取り上げられたよね。
306 :
日本@名無史さん:05/01/26 20:59:14
佐野竹之介は討幕主人公に使えないか?
水戸藩士で桜田門外の変に参加
死んじゃったけど、年齢若いし所詮ゲームだから
生き残って歴史に名を残して…
と言う脳内設定で
佐幕は…思い付かない…
尾形俊太郎あたりか?
討幕なら田中だろう。同志獲得は難しいだろうが。
>>307 田中ってば…シンベェさんのコト?
彼なら出て来ますよ
飄々としたやつですが
豊後の毛利空桑って知ってる人いる?
吉田松陰の先生だっけ?
豊後の毛利? 毛利勝永の子孫?
毛利空桑 (1797−1884)
豊後国の熊本藩領鶴崎(現大分市鶴崎)出身の儒学者で尊王思想家。
吉田松陰とも交流があった。
鶴崎で塾を開き豊後国内外の多くの子弟を教育,
維新時の豊後諸藩の動向に大きな影響を与える。
維新後,高田源兵衛(河上彦斎)とともに長州の大楽源太郎を一時かくまう。
家系としては,毛利元就と争って敗れた,弟の毛利(相合)元綱の子孫にあたる。
313 :
日本@名無史さん:05/01/30 00:04:03
沢太郎左衛門
保守…
沢って誰?
澤太郎左衛門貞説は幕府軍艦開陽丸(艦長:榎本武揚)の副長。。
榎本らと同じく長崎海軍伝習所→オランダ留学組。
その後、函館戦争まで榎本と行動をともにした人。
鳥羽伏見の敗戦の後、大坂城を密かに脱出した徳川ケーキが
お忍びで開陽艦で帰ろうとしたとき「船は艦長がいなければ出航できませぬ」
(榎本は戦況視察のため入れ違いで上陸中だった)と述べたら
その場で臨時艦長を仰せつかったというエピソードが。
どうでもいいが昔『五稜郭』というドラマで秋野太作がやってたのだが
あまり上品に見えなかった…
316 :
日本@名無史さん:05/02/10 10:31:34
三吉慎蔵
317 :
Gくん641:05/02/11 16:09:18
知っている人教えて!
松平春嶽と田安慶頼は、どちらが兄でどちらが弟?
田安慶頼は田安斉匡の五男、越前慶永(春岳)は八男。
319 :
Gくん641:05/02/12 12:01:21
320 :
日本@名無史さん:05/02/12 18:09:48
鈴木三樹三郎 北辰一刀流
新撰組 九番隊組長
新撰組参謀 伊東甲子太郎(のち御陵衛士)の実弟
321 :
日本@名無史さん:05/02/13 00:39:07
陸奥宗光も幕末まではマイナーだよな
322 :
日本@名無史さん:05/02/13 01:24:29
陸奥は明治になってから政府転覆の陰謀企てて獄に入れられてるね
そんな奴でも登用して外相までやらすんだから明治政府は懐が深い
でも明治大帝からは嫌われてたらしい>伊達陽之助
324 :
日本@名無史さん:05/02/13 02:01:37
>>320 その人物もっと詳しく知っている人教えて下さい!
325 :
日本@名無史さん:05/02/13 02:34:45
伊地知正治
1828-1886
薩摩藩士の子として生まれる。目と脚が不自由だったが、努力して薩摩藩の
兵学を学び、藩校の造士館の教官となり西郷従道・三島道庸らを教える。
文久二年に島津久光の上京にあたり軍師としての資質を認められ、軍奉行と
なる。薩英戦争・禁門の変で藩兵を指揮するなど幕末の薩摩藩の軍事指揮に
おいてめざましく活躍する。戊辰戦争では東山道総督府参謀を命じられ、旧
幕府や大鳥圭介の軍勢を相手に北関東・会津にてめざましく活躍する。
会津攻めでは板垣退助とともに戦う。
鈴木 三樹三郎が、三樹 三郎に改名した件について
327 :
日本@名無史さん:05/02/13 10:46:05
>>322 でも軍閥がある。
・・・・すっげぇ理解しにくい政府だよな。
329 :
日本@名無史さん:05/02/20 15:19:38
入江九一
さすがに松門四天王はマイナーとはいえないのでは
331 :
日本@名無史さん:05/02/21 19:03:40
>>330 ですね…。
でも四天王の中で一番マイナーな気がするんですが…。
332 :
日本@名無史さん:05/02/21 21:56:57
山本帯刀。
333 :
日本@ななしごんべ:05/02/22 00:01:34
鈴木三樹三郎について。
彼は幼名不詳、一時期多門と名乗っていたらしいです。
伊東甲子太郎の実弟。彼らは鈴木が本姓です。常陸筑鈴木家は上から長女こと、長男大蔵(後の甲子太郎)、次男三樹三郎、次女よし(後に須磨と改名)の四人兄弟。
後に三樹三郎は人の伝で養子に入るも酒癖が悪くて離縁され、三木荒次郎と名乗ります(母御にも手厳しく勘当されたため鈴木姓に戻れなかった)。
そして流れるように脱藩。
幼い頃から文武に秀で、水戸留学を経て江戸深川の伊東誠斎道場へ弟子入りしていた兄大蔵を頼って伊東道場へと転がり込みます。
当時は桜田門外の変などがあったため幕府の浪士監視が厳しく、尊皇攘夷の思想を持っていた三樹三郎は身の危うさを感じていたようです。
兄弟仲の比較的よかったらしい大蔵と三樹三郎は剣の稽古の合間にそういった話に華を咲かせていたらしいです。
元治元年9月、伊東道場寄り弟子であった新選組の藤堂平助が隊士募集のため東下。まっさきに伊東道場の門をたたき、彼ら兄弟を勧誘したようです。
大蔵は道場に集まっていた同志達(後の御陵衛士、加納・服部・内海・佐野・篠原と中西など)と相談。
道場をたたんでとりあえず上京し、様子を見て新選組に加盟するかどうかを判断すると決めて行動に移しました。
…また時間があったら書き込みます。
阿比留鋭三郎
335 :
日本@名無史さん:05/02/22 14:29:29
自分に惚れた娘の前でワザと嫌われるように
(大望ある身に色恋は邪魔という論理)
路上でぶりぶりうんこたれたという豪快なエピソードがある
梅田雲浜
337 :
日本@名無史さん:05/02/22 14:38:59
>>335 ほんと?死に際って結構見苦しいって聞いたけど・・・。
それは橋本左内か?
338 :
日本@名無史さん:05/02/22 14:56:23
越前・若狭を誇る
松井 耕雪
(まつい こうせつ:1819年〜1885年)
横井小楠、三岡八郎とともに、福井藩の殖産興業の積極的な牽引者。
府中の富商松井家の9代目。幕末のころ府中には学校がなく、安政3年他藩に遅れをとることを憂いた耕雪は、
私財三百両を献じて藩校建設を願い出た。これによりつくられたのが「立教館」である。
立教館が開かれた後も有能な教師を招いて人材の育成に努めた。
立教館からは、渡邊洪基(東京帝国大学初代総長)、斉藤修一郎などの優れた人材を送りだした。
耕雪は、武生の教育の礎を築いた人物といえよう。
武生市公会堂記念館の正面にある建学記念碑は、その功績を記念したものである。
339 :
日本@名無史さん:05/02/22 14:58:39
関 義臣
(せき よしおみ:1839年〜1918年)
福井藩校の「明道館」に学び、文久元年、府中を出て東西に歴巡。その後、江戸の昌平坂学問所に学び舎長になる。
やがて坂本龍馬、後藤象二郎とともに海援隊を組織し、慶応4年、大政奉還論を唱えて、徳川慶喜に建白する。
明治3年、「武生騒動」に連座して福井で投獄されるが、許されて武生に帰った。
その後は、大阪府権判事、鳥取県・徳島県・山形県の知事を歴任し、同40年、男爵を授けられ、府中藩出身唯一の男爵になる。
340 :
日本@名無史さん:05/02/22 15:06:05
中根雪江(1807-1877)
幕末の福井藩士、明治政府初期の参与、国学者。
文化4年(1807)7月3日、福井藩の上級武士(寄合席700石)中根衆諧の長男として城下に生まれた。
諸役を歴任後、松平慶永の側用人となり、藩財政立て直しに活躍。
また春嶽の懐刀として、橋本左内とともに将軍継嗣問題や条約勅許問題に関する政争に関わる。
嘉永6年(1853)6月、黒船来航の時、春嶽はペリーの要求を断わり、海岸線防備の必要性、軍艦の建造などを幕府に献言するが、
これは側用人である雪江の意見が反映されたものである。
安政の大獄により春嶽が隠居謹慎処分となり、橋本左内も斬られると、雪江も藩政の第一線を退く
春嶽が政界に復帰して政事総(惣)裁職になると、側近として参勤交代制の緩和や横井小楠と協力し、公武合体運動に奔走し、将軍上洛を現実のものとした。
また、長州出兵は慎重に決定するべきことを説いている。
慶応3年(1867)12月12日、新政府の参与となったが、王政復古後に徳川家救済に尽力したため、
新政府批判の嫌疑で翌年免じられた。
341 :
日本@名無史さん:05/02/22 15:09:43
鈴木主税
福井藩士。鈴木主税は水戸藩の藤田東湖が西郷隆盛と共に「当今の豪傑」と評した人物で、
中根雪江と共に松平春嶽を補佐した。
世直神社の祭神として生前から奉られたといい、寺社奉行、町奉行時代の善政と共に人柄が偲ばれる。
342 :
日本@名無史さん:05/02/22 18:55:34
中平龍之介
高岡郡梼原村地下浪人中平佐平(定好)の長男として生まれる。
那須俊平に剣を学んだ。
勤王の志を固め文久3年(1863)11月6日、
田所壮輔、尾崎幸之進、安藤(東)真之助らと脱藩、
長州忠勇隊に入り禁門の変に参戦。
激闘の末重傷を負い元治元年(1864)7月19日自決。
二十三歳の若さであった。
343 :
335:05/02/22 21:15:15
>>336 >>337 まあ宮武外骨の本で読んだんで
本当はどーかはわからんですがね
あと、幕末の侠客てーと清水の次郎長がメジャーだが
会津の小鐵 新門辰五郎なんかはどうだろう?
344 :
335:05/02/22 21:15:56
>>336 >>337 まあ宮武外骨の本で読んだんで
本当はどーかはわからんですがね
あと、幕末の侠客てーと清水の次郎長がメジャーだが
会津の小鐵 新門辰五郎なんかはどうだろう?
345 :
日本@名無史さん:05/02/22 21:17:04
↑ダブりすまぬ
346 :
日本@名無史さん:05/02/22 21:30:21
ドンマイ!
あぁ、赤松が来る…
>>333 おぉ凄い!鈴木の情報ってこんなにあったんですね!全部初見です。
是非続き見たいです。
349 :
日本@名無史さん:05/02/23 02:16:54
良スレage
351 :
日本@名無史さん:05/02/24 17:37:58
斎藤一諾斎
352 :
日本@名無史さん:05/02/24 17:42:20
つーかわからなすぎ。誰なわけよ。
353 :
日本@名無史さん:05/02/24 23:49:42
望月亀弥太
意外と影が薄い…資料少ないし
354 :
なお:05/02/25 00:22:17
会津藩士で鬼官兵衛こと佐川官兵衛とかですかね
山川大蔵さんとか会津じゃあ有名なんでしょうね。きっと。
弟の、山川健次郎は東大初代総長ってのはメジャーでしょうか?
会津って田舎ってイメージありますけど、意外と教育の水準は日本一という説が。。。。
かくいう自分はやかましい名古屋人ですw
355 :
日本@名無史さん:05/02/25 05:56:53
>佐川官兵衛
勇敢かも知れないが、上士なのに喧嘩で人殺しをした粗暴無思慮な男のイメージ
高崎五六(薩摩)あたりはどう?
乃美織江(長州)あたりはどう?
358 :
日本@名無史さん:05/02/26 15:20:48
長州の大楽源太郎
359 :
日本@名無史さん:05/02/26 15:53:17
雄藩はメジャー。それ以外で出るとドキッとする。
360 :
日本@名無史さん:05/02/26 18:16:21
>>359 教育水準は高いけど惜しむらくは古典に精通してただけの優等生。他藩は砲術や医学や工業・科学、政体、時事など正統派以外の学があった。
会津は農民層まで教育は普及していなかった。
商人・豪農層の人材が厚い他の諸雄藩に比べてやはり一枚落ちる。
362 :
日本@名無史さん:05/02/26 22:40:46
小松帯刀
363 :
日本@名無史さん:05/02/26 22:46:48
小松帯刀ってマイナーなのか?
十分すぎるほどメジャー。
藤堂平助
この人物はマイナーじゃん?
なぜか知らないっけどメジャーなんだよ。
メジャーかマイナーかわからないんだったら黙ってROMってろボケが。
368 :
日本@名無史さん:05/03/04 02:41:19
吉田松陰の兄
井上馨の兄
前原一誠の弟
大山巌の兄
有名人の兄弟なのに結構地味な印象があるな。
マイナーかどうかはしらんが。
369 :
日本@名無史さん:05/03/04 04:13:47
土居通夫(宇和島藩)
知らんよな・・・orz
370 :
日本@名無史さん:05/03/05 13:12:34
吉田稔麿
371 :
日本@名無史さん:05/03/05 13:15:47
西郷頼母
マイナーって言えばきりがなくなると思うけど,どの辺が限度?
浦和盛三郎(南宇和郡内海村)
374 :
日本@名無史さん:05/03/06 18:36:42
マギー司郎
375 :
日本@名無史さん:05/03/06 18:41:37
の弟子
376 :
日本@名無史さん:05/03/06 19:49:36
>>372 誰かが『メジャーだよ』って突っ込んだら、2レス消費したこととなり、
知名度に関係なくマイナーでは無いことが認定。
宮崎八郎兵衛(宇和島藩、ただし子孫は吉田藩)
せめて業績を一つぐらい書け!
名前だけ聞いたって興味湧かないでしょ?
380 :
日本@名無史さん:05/03/07 10:56:20
椎原小弥太(薩摩藩士)
本名不詳。
>>379 河内浪人。伊達秀宗に仕え、宗純(秀宗5男、吉田藩祖)の傅役となる。
逝去直前の秀宗に手を添えて3万石分知の判物に花押を据えさせる。
秀宗が逝去すると2代宗利と宗純のいざこざを収めるため殉死する。
嫡子専助らは宗純に引き取られ以降吉田藩士となる。
382 :
日本@名無史さん:05/03/07 21:56:33
383 :
日本@名無史さん:05/03/07 22:36:47
月照(西郷と一緒に身投げした人)と
よく混同されて可哀想な月性
384 :
日本@名無史さん:05/03/08 07:08:42
武藤鬼一
衝撃隊No.2。生没年不明。エピソード不明。墓は石巻市
385 :
日本@名無史さん:05/03/08 13:09:50
>>384 すげぇ名前!!
2ってことは実力あったのか
386 :
日本@名無史さん:05/03/09 03:50:09
でもエピソード不明・・。
マイナーって言えば立花壱岐
だからエピソード書け
柳川城を炎上させた人
390 :
日本@名無史さん:05/03/16 04:46:40
松平茂昭
最後の福井藩主兼最初の福井県知事
請西藩主・林昌之助忠崇。藩主なのに脱藩。
391
その人って、遊撃隊の伊庭八郎や人見勝太郎と行動を共に
してた人ですよね?
確か昭和15年まで生きてたって聞いたけど…。
藤本鉄石、っていたような
天誅組総裁はさすがにメジャーなのでは
江川英龍。
お台場を作る。
有名じゃろ。教科書にも載ってるし。
じゃあその盟友斎藤弥九郎。
神道無念流錬兵館道場主の剣客。
江都三大道場の主がマイナーなわけなかろ。
そういえば弥九郎は江川の密偵として各地を廻ったとかいう話もあったな。
399 :
日本@名無史さん:05/03/19 12:10:10
前原功山。
一応、小説の主人公になった事があるが、マイナーだろう。
400 :
日本@名無史さん:05/03/19 12:15:44
神代直人
>>400 恒例となってるその人物のエピソード書いてくれ・・・
名前だけじゃ、まるっきし分からんよ
徳川茂栄。
高須四兄弟の中では一番マイナーだが3家の当主をはしごするなど結構経歴は派手
403 :
日本@名無史さん:2005/03/22(火) 13:25:11
すいませんエピ書きます。ゴメンナサイ。
「神代直人」
高杉晋作を殺そうとした男、大楽源太郎の子分格。
極端な攘夷家。
「あんな男に殺されるのはイヤだ」と、
晋作がスタコラ逃げちゃったほどの、粗暴悪漢。
後に、大村益次郎も殺そうとつけ狙う。
・・・河上彦斎やら、河合ヌ殿之助に、テイストが似てるかも。
404 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 13:36:49
>>369 外国事務局大阪運上所勤務
大阪府権少参事
兵庫裁判長
大阪上等裁判長
大阪控訴裁判長
大阪電灯会社社長
日本硝子製造重役
長崎電灯重役
日本生命重役
大阪毎日新聞重役
明治紡績重役
大阪実業銀行重役
阪鶴鉄道重役
大阪馬車鉄道重役
宇治川電気重役
大阪染色重役
浪速電車軌道重役
大阪土地建物重役
大阪貯金銀行重役
京阪電鉄重役
衆議院議員
大阪商業会議所会頭
堂島米穀取引所理事長
大阪銀行取引所理事長
日本電気協会会長
大阪実業協会会長
>>391>>392 嘉永1年7月28日〜昭和16年1月22日
松島剛蔵あたりはマイナーなのか?
勝川海老蔵
幕末の任侠、清水次郎長のライバル。
鈴木三樹三郎
新選組参謀(のちに御陵衛士頭取)の伊東甲子太郎の実弟
陣幕 久五郎(1829〜1903)
本名:石倉 槇太郎
出雲出身。江戸時代最後の横綱。徳島藩お抱え力士から薩摩藩を経て大坂相撲へ。
ライバル不知火との対戦では1度も負けなかった。
慶応3年横綱免許。同年末薩摩藩邸焼き討ち事件が起きた際、大坂の西郷へ事件を伝える。
引退後は実業界に転身、それまで伝説の域にあった歴代横綱を確定し、数々の顕彰碑を建てた。
靖国神社社殿竣工の際には奉納土俵入りを勤めた。
408 :
日本@名無史さん:2005/04/24(日) 22:07:58
>>406 鈴木三樹三郎って80代まで生きたらしいね。
斎藤や永倉は死んだ時70代だったから、三樹三郎が新選組で最長寿なのかな。
さげ
411 :
日本@名無史さん:2005/04/27(水) 18:49:26
坂英力
むしろ、桜田良佐
中井桜洲もマイナーか
宮川 助五郎(1844−1870)
土佐藩士。馬廻り格の上士であったが勤皇の心篤く、郷士とも広く付き合いがあり、尊王運動に奔走する。
また50人組みの総組頭として江戸まで山内容堂の警護にあたったりもした。
慶応二年九月十三日の夜、京都三条大橋の幕府の制札を除くために出かけ、
待ち伏せていた新撰組と戦闘になり重症を負って生け捕られた。
その後、脱走して潜伏し、戊辰戦争では軍曹として働いた。
なお、中岡慎太郎は新撰組から宮川助五郎を救出すべく画策し、坂本竜馬に相談しにいったが、
運の悪いことにその日は坂本竜馬暗殺の11月15日であった。
宮川 音五郎
近藤勇の実兄。
宮川 大助 花子
漫才師。
金正日(????)〜(????)
口がキムチ臭くて髪は薄井で有名の独裁者。しかも頭はいかれている。2007年に死ぬ予定
418 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 12:29:53
あげ
419 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 21:17:06
河合継之助
西郷隆盛
421 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 15:57:08
大高 又次郎(1821〜1864)
林田藩士。赤穂47義士の大高源吾の末裔。
幼少より武芸に励み、安政五年に脱藩して京に上がり、梅田雲浜に師事し
多くの志士と交わった。
安政の大獄により梅田雲浜が逮捕され江戸に護送されるやその奪還を試みたが失敗し
一時、浅草寺の僧侶になりすまして幕吏の追及を逃れた。
後に再び京に入り長州藩邸に匿われ、
元治元年6月、肥後勤皇党の宮部鼎蔵らと三条の池田屋で密会中に新撰組に急襲され(池田屋の変)
奮闘の後に戦死。42歳。
422 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 15:58:20
高松 平十郎(1836〜1863)
塚田孔平の門下で剣術を学び、且つ同門の師範を努めた。
尊皇攘夷運動に身を投じ広く同士と交わり、文久3年2月23日の夜、三輪田元綱、角田忠行ら
15名と京都等持院に押し入り、足利尊氏らの木像を引き出してその首を斬り、
三条河原に晒したが、補吏と戦いになり数名を殺傷し、自分も殺された。28歳。
423 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 15:59:09
根本 六三郎(1843〜1864)
水戸藩士。
安政6年・・・勅書返納阻止を計って長岡に屯集。
万延元年8月・林忠左衛門と共に攘夷運動の尖兵となるべく薩摩藩廷に身を投じるが幽閉される。
文久3年・・・許されて藩主の上京に追従。
元治元年3月・田丸稲之衛門らの筑波挙兵に呼応。一部隊の隊長として常陸を転戦。
その後、武田耕雲斎と共に西上し、12月12日に耕雲斎の内意を受け加賀藩と交渉開始。
17日に降伏して敦賀に禁固に処され、慶応元年2月4日に斬。26歳。
424 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 16:00:02
鷲津 隆聚(1842〜1912)
堂上公家(羽林家)。
父は右近衛権中将・鷲津隆賢、母は権納言・高倉永雅の女。
嘉永3年、元服と同時に昇殿を許され、文久2年には侍従に任ぜられる。
勤皇の大儀を唱えて倒幕の大計を計り、上京した諸藩の藩士達を糾合しては寺院に寄託させ時期を図る
が朝議を蒙って差控された。(寄託させた志士の中には坂本竜馬など、後に大成する有名人も多数居た)
慶応3年、差控を赦されるや直ちに内勅を奉じて高野山に登り、檄を四方に飛ばしては政府軍の糾合に努め、1000人からなる
勢力を作ると京都の同士と相呼応し、大阪城攻略を図ったりした。
明治元年1月7日に錦旗を授けられると高野山より入京、参与に任じられ軍防事務局親兵掛を兼ね、その後に
奥羽追討総督、東征大総督府参謀、奥羽追討白河口総督などを歴任しながら政府軍を率いて東北各所を転戦した。
維新後は戊辰の戦功を評され、三等陸軍将、陸軍少将、五条県知事、若松県知事などを歴任した。
著書に「鷲津隆聚奥羽追討日記」がある。
425 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 16:06:54
山本 速夫(1825〜1874)
三河吉田藩士。
代々藩主松平家に剣道をもって仕え、彼も剣を能くした。
少年の頃から羽田野敬雄に国学を学び勤皇の志すこぶる時勢に感奮するところがあった。
禁門の変の数日前に脱藩、諸国を流浪し京都で侍従・鷲津隆聚の邸宅に坂本竜馬、田中顕助、藤村四郎、香川敬三らと
共に同居し時期を待った。
慶応3年、鷲津隆聚が密勅を奉じて高野山に挙兵するや、彼もこれに従い、監察に任じ、
東三番隊長を務めた。明治元年に朝命により帰藩し、その後内国事務局権判事、三河裁判所、武蔵国巡察使、
租税司判事、若松県大参事等を努めた。
426 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 16:25:15
大江 卓(1847〜1921)
土佐藩士。
家老・宿毛の伊賀氏の臣。
長崎で砲術を学んでいたが風雲急をつげる時勢を見、上京して陸援隊に入隊する。
このころ京の生活で歳多、非人に思うところがあった。
明治元年、鳥羽伏見の戦いを陸援隊士として戦い、
高野山に使して錦旗を侍従・鷲津隆聚、勅書を和歌山藩主・徳川茂承に伝える役を果たした。
維新後は兵庫県判事試補や大阪会計官に抜擢されるが思うところあって重職を退官して上海に渡ると東亜の情勢を監察し
清国人の惨状を目の当たりにする。
帰国後、神戸にて歳多非人の廃止運動を行い、明治4年民部省ついで工部省に出仕後、陸奥宗光県令の後を継ぎ、神奈川県令
に就任。在任中にペルー船籍マリア=ルーズ号の中国人奴隷売買の不法を摘発し
特別裁判所を開設すると、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ等の外国公使の反対を押し切って奴隷を解放した。
明治7年、大蔵省。翌年は後藤象二郎の蓬莱社に入る。
西南戦争が勃発すると林有三らと挙兵を企てるが捕らえられ10年の刑を受け、岩手監獄に繋がれたが
その後、咎人の身ながら帝国議会衆議院議長にまでなった。
大江はメジャー。
428 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 01:27:48
幕末儒者大橋。
坂下門外の変に関与し牢死。数々の長州の勤皇志士を育てた。
ただの教育者ではなく、自らも維新に挑戦した実行者。
松蔭が今これだけ評価されながら、彼の名前は歴史に埋もれた。
429 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 02:41:02
津田真道はどうだい。
430 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 02:50:47
うん。俺が知らないからマイナー認定します。つーかプロよろしく。
431 :
長州ファンA:2005/06/15(水) 01:36:39
あげ
432 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 00:56:32
輪王寺宮(北白川宮能久親王) 1847(弘化 4)〜1895.10.28(明治28)
幼名は満宮(みつのみや)、法名は公現親王。伏見宮邦家親王の第9王子。仁孝天皇の猶子だから、孝明天皇とは兄弟。幕末に彰義隊が担ぎ出した上野寛永寺の輪王寺宮公現親王である。
1858(安政 5)輪王寺宮を相続・門跡となる。 1868(慶応 4)には将軍慶喜征討の中止を懇願するため、東征大総督となった有栖川宮熾仁親王を駿府に訪ねている。
上野戦争では激戦の中、脱出して幕艦長鯨丸に乗って陸奥会津城に入城。 1870(明治 3)還俗、伏見宮に復帰して軍籍に就き、同年直ちにプロシア留学を命ぜられている。
1872(明治 5)留学中に北白川宮第二代を相続している。 1877(明治10)帰国し近衛砲兵連隊に配属。
1884(明治17)陸軍少将、歩兵第一旅団長。1892(明治25)陸軍中将、第六・第四師団長を歴任。
日清戦争では開戦後の1895. 1.(明治28)近衛師団長となり、台湾に出征。戦後も台湾守備を命じられ、台南で病没した。
死後に陸軍大将を追贈され、また台湾神社に祀(まつ)られた。
今吉村昭が朝日新聞に「彰義隊」を書いてるが主役的扱い。
433 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 00:57:48
このスレまとめて誰か本出してくらはい。
434 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 01:11:49
阿比留優
父は歯科医だが高利貸しも営み不正で逮捕、母親は濡卯弩女優、姉は元、威江楼伽部。
堀布魯に所属していたが、子どもの頃の団房流万引きが発覚、謹慎処分に、図々しくも復帰し、週刊文春に愚裸美唖を載せる。
天敵伊集院光に夜道斬られ死亡。享年19歳。
435 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 01:14:16
>>432 「東武皇帝」の名前だけならわりかし有名人だね。
436 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 03:45:52
土田衡平:天保7年(1836)生まれ〜文久4年(1864)死亡、矢島藩士
漢学を新田勘七に学び、又、島源蔵について関口流の柔術を学び、その奥義を究めた。
安政元年、9歳の時、藩の選抜をもって江戸藩邸におもむき留守居役書記となるが、23歳で脱藩する。
京都におもむき岩倉具視と交を結び、多くの志士とともに活躍するかたわら、藤本鉄石について軍学を学びその奥義をきわめた。
文久3年(1863)大和に天誅組の義挙があり、これにおもむいて戦い、敗れた後足利に身をひそめ、その地にあって関東の志士と交わり勤王倒幕に活躍した。
翌元治元年、水戸藩士藤田小四郎等が中心となり筑波山によって天狗党を結成し攘夷のさきがけを決行しようとした。その中に騎兵隊長田中源蔵あり、土田衡平の非凡の才あるを知り、しきりに決起を要請した。
衡平はそのもとめに応じて田中隊の参謀となり、広く関東常野の地において幕軍と戦ってこれを敗走させた。後、助川の戦いにおいて利なく、田中隊も四散、衡平は小船をもって同志とともに海へのがれ去ったが、
たまたま台風にあい、漂流の末相馬藩中村にたどりつき、捕らえられて同年11月5日斬刑に処せられた。享年29歳。
土田衡平が古賀塾にいたころ、同門の河井継之助を師匠として学問に励んでいた三郎(苅谷無隠)が、継之助が西国遊学のため古賀塾を去るとき、三郎少年は継之助に対し「誰を師匠にしたら良いでしょうか?」と聞いた所、
継之助は「土田衡平がよかろう」と言った。
437 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 02:04:58
甲賀源吾
438 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 03:26:09 BE:12816544-
木川松蔵氏について教えてください
439 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 03:30:01
>>735 台湾で戦病死したことでも有名だと思うが
マイナー人物とは言えん罠
440 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 23:28:41
池田徳太郎
弘化4年(1845年)安芸広島忠海生まれ、
池田種徳(徳太郎)の諭に従って、志を立て江戸に上り、山岡鉄舟の門に入り免許皆伝を受ける。帰郷し三原城主浅野公に聘せられ、精義隊の剣道指南となる。
その後池田種徳と共に京師に上り、幕末の志士坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作、西郷隆盛、大久保利通等と交わり、又九條家、本願寺等に出入して、日夜王事に奔走し、鳥羽伏見の役には尊王近衛団の大隊長として大活躍する。
坂本龍馬を高杉晋作に引き合わせ、薩長連合の成立に尽力。
441 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 23:43:51
442 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 17:37:52
岩村 高俊(1845〜1906)
土佐藩士。
大江卓と同じく代々家老を努める伊賀氏の臣下であった。
慶応3年、上京して国事周旋活動に参加。
同年11月、坂本竜馬・中岡慎太郎が暗殺されると、暗殺の嫌疑がかかっていた和歌山藩士・三浦久太郎を
陸奥宗光、大江卓ら16人で襲撃し、新撰組と刃を交える。
明治元年、戊辰戦争に東山道総督府軍監として参加。
信越に出征の際、小千谷慈眼寺において長岡藩家老、河井継之助と会談して決裂。長岡藩を抗戦側にまわしてしまう。
その後、奥羽に転戦。戦功が認められ200石を下賜される。
維新後、神奈川や宇都宮の権参事を勤め、佐賀県県令の時には江藤新平の起こした佐賀の乱を平定。
ついで大久保利通と日清会談に参画し、
諸県令を歴任後、宮中顧問官を経て貴族院になり男爵を授爵。
443 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 21:53:34
新撰組隊士・野村利三郎。
長岡藩士高野貞吉
445 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 04:25:50
戦国マイナー人物、源平合戦マイナー人物、江戸時代マイナー人物のスレも欲しいな
>>442 ちなみに兄貴の岩村通俊は初代北海道庁長官。
高俊は弟のほうか…
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/ \_,,=----=/ .\
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| ,,-'==..,, ,,,==,,, | 高俊愛してるぜ…
.| ." .____ ''=,, ,,-''_____ " |
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| 、ヘ:゚ノ `, `i 、ペ::ノ > |
.| "'''''''''" ,,..| 、 "'''''''" |
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ヽ 、,,,"" , ノ
|:\. """ /|
| .ヽ ./ |
|. `ー- - -ー.'" |
448 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 12:38:13
>>446 長男・道俊、次男・林有造(養子)、三男・高俊でつ。
449 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 14:16:27
みんなろくでなしのイメージです。(河井継之助命、山風地の果ての獄)
450 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:40:17
ろくでなしだからマイナー人物なんだよ。マイナー人物にロマン求められても困る。
山本帯刀・・・・1844〜1868
代々家老職を継ぐ門閥であったが、聡明にして果敢という評
価がされている人物で、河井継之助の人物、思想を理解していたとされ
藩政改革での藩士の俸禄改正では三分の一減俸を積極的に受け入れ、
藩士の範を示した。
長岡で戦端が開かれるや若き指揮者として重きをなし、大隊を率いる将として奮戦
長岡陥落により八十里峠附近で残存の長岡兵を指揮し西軍進入を8月末まで阻止。
その後会津若松へ転戦、会津戦争を配下の長岡兵と共に戦うも明治元年9月8日、
会津の飯寺村において集結の西軍攻撃を濃霧の中行うも長岡兵は敵味方を誤認し
配下の43人と共に捕らわれた。
西軍の将はその人物を惜しみ降伏を勧めたが降伏を拒み、
山本含み43名は翌9日斬首された。享年24歳
山本帯刀亡き後の山本家はその後、養子となった山本五十六が継いだ。
三島億二郎(1825〜92)
文政8年(1825)長岡藩士伊丹市左衛門の二男として生まれる。 継之助より2歳年上である。
20歳でわずか37石の川島家の養子となる。佐久間象山に学び、吉田松陰とも交流があり、
黒船の来航では調査を命ぜられている。蘭学に秀でており藩校宗徳館の三進といわれた秀才の花輪馨之進、
三間市之進、渡辺進は川島塾の門下生である。また継之助とも親しく、若いころ奥州各地を遊歴している。
継之助と違って性格は温厚かつ沈着であり、華々しく表面にはでることはなかった。
それゆえに継之助に信頼される。 慈眼寺の会談が決裂の後、継之助は億二郎に真っ先に開戦の止むなきを伝えた。
継之助は自らの首と3万両で戦いを避けようとしたが、非戦派だった億二郎が生死を共にすることを誓い、
長く苦しい戦いに突入する。
億二郎が力を発揮したのは、戊辰戦争後の長岡の復興である。下級藩士の出でありながら、
藩主や藩士から人望が高く大参事に抜擢された。そして壊滅的な打撃をこうむった藩士や領民のための産業振興、
教育環境の整備、病院や銀行の設立さらには北海道の開拓と移民など、億二郎の果たした業績は数え切れない。
米百俵で学校が設立されたというが、百俵の代金では学校は建てらず、本や教材費でほとんどなくなる。
億二郎は苦しい財政の中から、三千両の大金を学校建設資金として最優先に割り当てた。
明治25年(1892)68歳の人生を閉じるが、後半生は長岡の基礎造りのために、懸命に捧げた人生である。
継之助や小林虎三郎を凌ぐ逸材であり、長岡藩士で唯一の銅像が、信濃川のほとりで今も長岡を見続けている。
453 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 07:54:02
吉富藤兵衛
山口矢原の豪農。「勤皇庄屋」と呼ばれた。
俗論党が政権を握った際に周布政之助を保護するが、周布は吉富邸で自害。
高杉晋作の功山寺蜂起に呼応して、井上聞多を擁立して鴻城隊を組織。
御楯隊と合流して萩の正規軍と戦う。
454 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 08:50:53
age
黒瀬一郎助
(熊本出身)
この人について詳しいことを知りたいのですが、
良い文献を御存じの方がおられたら教えていただけませんか。
聞いたことねえ。せめて何した人か書いてくれ
457 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 14:15:42
458 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:2005/08/30(火) 22:04:19
神代直人 最高!
459 :
優良スレ救済委員会:2005/09/22(木) 00:48:13
age
460 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 23:36:29
志々雄真実と緋村抜刀斎はあまり知られてないだろうな
日本の命運を賭けて戦った二人だけど、何故かマイナーなんだよ
大久保利通を暗殺したのは、志々雄の部下である瀬田宗次郎という説も有力だからな
志々雄の秘剣は凄かったらしいし、抜刀斎の抜刀術も評価が高いよ
多分、日本で最強の剣客はこの二人(恐らく志々雄)だろうな
461 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 23:38:32
>>460 もうそのネタは前スレで俺が書いたわボケ
462 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 23:41:10
それってある漫画だよな?実在はしてないんじゃ・・・
まぁ、俺も好きだけどさ^^
だったら深草丘十郎もありだな
大石弥太郎(円)、吉松速之助。
465 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 00:30:13
466 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 00:49:45
>>332 山本帯刀は山本五十六のおかげでなかなか有名だろ?
こいつ捕まり方は馬鹿だが、いさぎ良さとか意志の強さは武士らしくて好き。
一緒に捕まった従者の渡辺豹吉の末弟の廉吉は兄の死後、苦学力行し開成学校から文部省にはいり、伊藤博文総理の秘書とし活躍し貴族院に勅選され、従三位法学博士、行政裁判所部長となる。
>>466馬鹿な捕まり方とはいかなる事?詳細キボン
明治元年、河合継之助が奮闘するも死に、帯刀は雪辱に燃えた。会津入りし水戸藩と協力し日光口の新政府軍をたたき会津鶴が城の兵糧を確保しようとする。
会津藩は鶴が城の籠城戦に入っていた、13日目の九月五日、藩家老の佐川官兵衛が日光口の新政府を破る。
会津に展開してた山本帯刀ら長岡藩士も勢いにのり士気たかまる。
九月八日、帯刀らは会津の阿賀川を渡河した。山峡特有の濃霧が一帯を覆っていた
469 :
つづき:2005/09/23(金) 01:25:40
午前八時ころ雷のごとき銃砲声がとどろいた。そのままこだまとなり、山間の空気を揺るがした。百名の長岡兵は砲声のする方向に動くが、方向を見誤ったのか、見方がいると思われる所から銃弾が飛んできた。
「味方を撃つとは何事」
しばし返答がない
やがて
「お手前は何藩か」
と問う声がする
「越後長岡」
勘違いしたのはこちらであった。
考えるなり、「やっ」と叫び、新政府軍が一斉射撃を始めた。
悲鳴と絶叫を上げる長岡藩士たちに新政府軍の包囲網は狭まり、長岡兵14名は銃口に囲まれた。
この時、濃霧に紛れ逃げようと思えば逃げれたのだが長岡兵は敵に背を向けるを潔しとしなかった。
捕えられた兵のなかに山本帯刀の姿もあった
470 :
さいご:2005/09/23(金) 01:47:15
捕えられた帯刀は小軍監、三宮義胤に尋問された後、官軍に加わる気はないかの問に断固拒否、14人のうち一人も新政府軍の甘言に乗らなかった。
その場の主力は宇都宮兵だったが、長岡藩兵生け取り名簿は、新政府軍軍監の薩摩藩士、中村半次郎に提出された。
半次郎は躊躇なく言い放った。
「大隊長、山本帯刀と従者の渡辺豹吉を残し斬首せよ」
命令を受け12名の長岡藩士はその場で首を斬られることになる。
翌朝、山本は「再度訊ねっが、錦旗を奉じ、官軍に身を投ずっ気はなか」
訊ねたのは薩摩兵だった。
山本は、敵の軍門に降れと主命は受けてない、さっさと首をはねよ。と言い張る、
覚悟を察した薩摩兵は二人の縄を解かし、
山本、渡辺 の順で斬り、山本は長岡藩の主命に殉じた。
長文 乙!
なかなかおもしろかったぞ、褒美をとらす
つ且
>>470 渡辺はその場では斬られていなかったはず
渡辺は一度命乞いをして開放され、山本帯刀の斬首後
帯刀の遺品等を整理した後
もう一度、宇都宮藩兵に投降して斬首を乞い
斬首されたはず
473 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 02:41:20
京都の三条大橋で土下座してる人
でも銅像あるぐらいだからメジャーか
474 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 00:35:25
渋沢栄一のいとこで何とかって言う人
475 :
SJ:2005/09/24(土) 04:16:13
小笠原唯八
476 :
世界@名無史さん:2005/09/24(土) 08:03:18
松平 太郎
幕府歩兵頭、蝦夷共和国副総裁。榎本政権降伏後は官職にも付かず
不遇の最後。
477 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 08:17:55
だから「共和国」ではないと・・・
作家やアマチュアの言いふらしてる俗説じゃねえか。
入れ札で総裁選んでる時点で一応共和制だが。
政体としては中途半端ではあるが、一応英仏からは「Authority Defacto」と認められていたわけで。
元首が他にいたのか? 徳川家もしくは皇室を名目上の元首にしてたのなら
確かに「共和国」とは言い難いが。
…と思ってぐぐったら、水戸の徳川昭武を総統(?)に推そうとしていたという話もあるみたいだな
幻だったようだが
龍馬脱藩というと梼原の那須信吾親子を思い出す。文久2年3月26日の夜、
龍馬は梼原の那須宅に宿泊し、翌日土佐の国境の韮が峠まで信吾が送り、
そこから先は親父の俊平が愛媛県の宿間まで送り、そこからは川舟で長浜,
そして長州へと脱藩していくのである。親子で龍馬を国境まで見送るという
手厚いもてなしである。それだけ龍馬はすごい人物であったに違いない。
龍馬脱藩後、那須信吾は吉田東洋を暗殺し脱藩。影響されたのか親父の
俊平も脱藩して行く。血気にはやる年頃でもないのに、それだけ土佐の人間
は熱かったのかもしれない。俊平は蛤御門の変にて、得意の手槍で見事な
戦いをみせるが、不覚にも土塀ぎわの小溝に足をとられ、そこを越前藩士の
堤市五郎に胴を串刺しにされ地を掻いてこと切れる。俊平の手槍は今なお
福井県の堤家に保存されている。と司馬著『竜馬がゆく』に記されてある。
確かに龍馬脱藩サミットは今後形をなしていくだろうが、御旗が必要でないかと思う。梼原町だけの問題でなくこのサミットの御旗としてこの那須俊平の
手槍を生まれ故郷の梼原に返還できないものだろうかと痛切に思う。
140年もの間、那須俊平の手槍はどんな想いで堤家で過ごしているのだろう。その無念は、それを想うと、、、。龍馬脱藩サミットの誕生をきっかけに、
ぜひ手槍の返還運動を起こしたいものである。
480 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 21:00:09
山縣以上の槍の達人の時山直八で決まり!!
481 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 13:10:50
昔、確か堺屋太一の著書で
高杉晋作が奇兵隊の実権を取り戻す時に、
確か赤根武人の出自を馬鹿にした
という話を読んだことがあります。
そのエピソードと赤根武人の詳しい情報を教えて下さい。
482 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 13:16:29
>>481 赤根武人でググればそのエピソードは出てきます。
赤根武人は周防の町医者か村医者の倅で、百姓身分。
親父さんかお爺さんは安芸から来たらしい。
上士の倅たる高杉晋作から見れば「下郎」だ罠。
483 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 00:47:29
>>482 サンクスです。何か本で見たのとニュアンスが違ったので
ホッとしました。高杉に差別的志向などないと思ってたので。
484 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 22:53:27
笹沼金吾
会津藩砲兵隊頭取。会津に迫る官軍を大内峠で待ち受けて味方が撤退した後
もゲリラ戦を展開し、最期を迎えた。福島県の大内宿にある正法寺に地元の
方々が弔って墓石もあります。官軍はしばらく埋葬も許さなかったが・・・。
485 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:17:35
そーいや新撰組からスカウト受けて断った豆腐屋がいたよね。誰だったっけ?
>>316 その人物は恐らく、あれがなければ超マイナーだったんだろうな。
木村って人
誰やねん
海保青陵
丹後宮津藩家老角田市左衛門の長子
として江戸で生まれる
藩営専売を説き歩いた。
>>473 高山彦九郎
江戸中期の人、寛政三奇人の一人
林子平は割りとメジャーだけど、思想的な人
マイナーですね
蒲生君平のほうがもっとマイナーかも
491 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 09:29:48
マイナーだけにここは人気ないなAGE
492 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 09:52:08
493 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 12:55:54
姉歯某(名前は忘れた)
仙台藩士で、佐幕派
うる覚えだが藩主、伊達宗成に東征軍・薩長軍へ徹底抗戦を求める。
姓は姉歯(あねは)名は忘れた
仙台藩士兼大工の棟梁だと恐い
494 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 12:57:45
岩村高俊
495 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 12:59:03
仙台藩士で、会津戦に参戦した人で 姉歯(あねは)なんとかと言う人がいるのは確か
なんとか隊か なにか忘れたが、隊を率いていたような気がする
496 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 13:01:38
岩村通俊
497 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 13:43:24
新選組隊士中村金吾。結構活躍したけど中途半端な時期(慶応元年又は二年)に離局。
498 :
日本@名無史さん :2005/11/29(火) 20:02:59
499 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 20:06:47
安藤早太郎
500 :
日本@名無史さん:2005/12/01(木) 13:17:43
服部武雄
新選組隊士・ 御陵衛士
一説では新選組どころか京都の浪士の中でも一番強かったらしい。けどあんまり有名じゃないんだよな〜〜なぜ?
501 :
日本@名無史さん:2005/12/01(木) 17:09:29
>>495 瀬上隊軍監・姉歯武之進だよ!
>>498 旬の人のご先祖だと私は思いますね!
桑田 立斎(1811〜1867)
越後国新発田藩士、村松喜右衛門の第二子。
蘭医、坪井信道に師事し蘭医となる。天保13年、深川万年橋に小児科の診療所を開く。
上野国山内恵律師にも帰依し、棄児養育ならびに種痘について幾度も幕府に建白した。
たまたま嘉永2年、蘭医モーニケにより牛痘種が日本にもたらされ、痘種が江戸鍋島邸に到着すると
同邸と自邸の間の幼児ら十数名に接種し、その痘種に関する書を次々と著しその効用を宣伝した。
安政4年、蝦夷地で疱瘡がアイヌの間で蔓延し病死者が相次ぐという報が幕府に伝えられると、
桑田立斎と深瀬羊春はアイヌに種痘せよとの命をうけ、同年4月に江戸を発ち、蝦夷地への道すがら
幼児に接種しその中から良痘児を選んで次駅に伴うという駅伝方式で目的地まで痘種を運んだ。
箱館において深瀬羊春と会して分担を定め、深瀬羊春は西蝦夷と樺太
桑田立斎は東蝦夷とを巡って5115人(「明治国手百家略伝では7000人」)に痘種を施して
9月に箱館に帰り11月に江戸に帰着した。
生来、済幼院設立と10万人の幼児接種を目標としていたが、済幼院設立は実現せず、接種児も7万人
に達したところで、明治元年7月、58歳で死去。
飛田 与七(1833〜1869)
身分 水戸藩反射炉係の大工
出身 常陸国 那珂湊村 字小川
父の跡を継ぎ大工になる。
絵画や彫刻のうでは天才的であったという。19歳の春、水戸領内の大工の中から選ばれて
薩摩藩の反射炉の視察団として派遣され、その後、苗字帯刀を許される。
嘉永6年、帰藩。
安政元年、水戸藩は湊の高台に反射炉を起工開始。飛田も工事に尽力を尽くす。
安政4年、反射炉の第二基工事が完成。
しかし、
元治元年の藩末の内乱で反射炉は灰燼に帰し、その跡に茫然自失としてたたずんでいる
ところを諸生党に捕らえられ入牢。出獄後37歳で死去。
大貫 多介(1835〜1860)
身分 水戸郷士
出身 常陸国 那珂郡 西塩子村
万延元年の2月20日、高橋多一郎と脱藩。3月6日大阪に到着。
大老・井伊直弼の襲撃成功の報が大阪に達したが、薩摩側の事情が一変したため薩水連合の構想は崩れた。
そのため今後の進退を協議すべく同志・川崎孫四郎と大阪一旗亭に会合しているところを捕吏に包囲され
囲いを突破するも泉州堺で捕らえられ獄死。26歳。
中村 貞介(1833〜1861)
身分 農民
出身 常陸国 那珂郡 八里村
同郷の大武魁助や多くの神官の同志と共に尊攘運動に身を投じる。
脱藩浪士・有賀半弥らの外人襲撃計画を知りこれに身を投じる。
すなわち文久元年5月28日の第一次東禅寺・英国仮公使館襲撃事件である。
この事件により公使館員2名が負傷、警備兵十数名が死傷するも戦いは敗北に終わり
中村貞介は包囲を脱して旅館に身を潜ませるも捕吏に探知され、包囲のなか自刃して果てた。29歳。
ちなみに二年後の文久3年、第3次英国公使館襲撃事件では公使館を焼き払うことに成功している。
(メンバーは高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文ら長州勢)
斉藤 大之進(1822〜1871)
身分 捕吏
出身 上野国 緑野郡 緑野村
若くして幕府に仕え、文久元年5月28日、東禅寺にあった英国仮公使館を水戸浪士・有賀半弥ら10余名が
襲ったときちょうど宿営に当たっており、これを奮戦して撃退した。
この功績により後年、英国皇帝より賞牌を受けた。
斉藤大之進はこの一戦でいっきに武勇をもって知られ、文久2年に一介の捕吏から旗本に抜擢される。
その後、外国奉行・竹内保徳に従って欧州六ヶ国の視察に加わり世界を回遊して帰朝するや
神奈川奉行改役に就くなどトントン拍子に出世した。
明治元年、新政府軍が東進してくるや、先鋒の西郷隆盛と交渉して神奈川一帯の安全を確約させた。
その後、明治政府から出仕の要求があり勤務を継続。
明治三年、土木権大丞となり、灯台局長などを兼ねた。50歳で没。
斉藤 留次郎(1830〜1860)
安政の大獄で前藩主・徳川斉昭がふたたび処罰されると雪冤運動に加わった。
安政五年、勅書問題に際して極力伝達を進言し、江戸へ上がっては画策するところがあった。
(勅書問題とは孝明天皇が水戸藩へ現政権である井伊大老の独裁制の強い政治を諸侯達で打破するよう
命じたものであり、朝廷が幕府を介さず直接諸侯へ指令を下すということは前代未聞の事件であった。
これは、幕権強化を狙う井伊に対抗して
勅書を受け入れて井伊打倒に動くか、勅書を返納して幕府との対立を避けるかで
藩の存亡を大きく左右する重要な問題であった。時、あたかも薩摩藩士・有馬七平によって薩水間の連合の
周旋が進んでいたときである)
しかし、一部の過檄派を除き幕府と対立を避ける意見が採用され勅書が返納されることに決定されると
一通の書を書き留めて城中大広間廊下で割腹して廊下を血で満たし勅書の通過を阻止した。31歳。
508 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 15:49:46
岩間 金平(1838〜1896)
水戸藩士。
安政2年、小十人目付組頭に進任し、文武に励み国事に奔走した。
万延元年6月、西帯刀らと共に長州藩士・桂小五郎と丙辰丸に会見して盟約を結び幕閣改造を計った。
これを丙辰盟約、または成破の盟と称した。
のち、京都滞在中に岡山藩主・池田茂政に兵庫開港阻止の遊説を行ったり
明治元年7月、同藩の北越追討に従軍したりし、翌年6月、藩主・徳川昭武を補佐して北海道開拓に人力した。
59歳で没。
どうでもいいやつばっかりだな
510 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 21:46:03
age
511 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 18:48:17
赤尾 清三郎(1821〜1867)
福山藩出身。浪士。
元治元年水戸の田丸稲之衛門、藤田小四郎らが大平山に屯営した際に、挙兵に参加せんと
軍門を叩き意見を述べたが議論が合わず合流しなかった。
一行が上州太田町に帯陣したおりにも、再び表れ意見を述べたが天狗党には容れられなかった。
そのため天狗党に加盟することをあきらめ、
慶應3年、自ら薩摩藩邸に倒幕派の同志を組織し、同年11月の出流山義挙には数十人を率いて
参加し討幕運動の先端を切った。
しかし岩船山の戦いに敗れ、長男、豊が捕らえられると自ら捕吏に捕らえられて斬刑に処された。
512 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 18:49:34
水野 勝善(1840〜1864)
結城藩家老。
性格は沈毅。藩の尊攘派の頭領的存在であった。
越惣太郎とともに水戸藩の尊攘派と連絡を取り、結水両藩の連合を模索していた。
しかし、結城藩主・水野勝知や江戸藩邸の藩士たちは徳川譜代の立場から結城藩の藩論は佐幕であった。
元冶元年、水戸で筑波挙兵がおこると、挙兵側から結城藩の参加を求められたが、水野勝善は
自分自身は尊攘だが、藩の家老という立場から藩論である佐幕を貫き、藩力微弱を理由にこれを断った。
しかし、自身は家老という立場を捨てて脱藩。筑波挙兵軍に身を投じた。
これにはその他の尊攘の同志も役職を捨てて脱藩し水野勝善に従った。
その後、結城脱藩浪士隊は高道祖、下妻の二戦役に転戦し、主力の水戸藩士が筑波をくだり那珂湊に拠ると
これと別れ、他藩士と別働隊を組織し、海路、横浜へ進軍しようとしたが幕府軍の追撃を受け四散、
常総の山中を逃走中に捕らえられ水海道鬼怒川堤で自刃した。25歳。
513 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 18:52:49
大野木 仲三郎(1843〜1864)
加賀藩士。
元冶元年、藩の世子・前田慶寧に先だって三月に上京。
長州藩士、桂小五郎(木戸孝允)と提携して征長が強行された場合、鳥取藩、対馬藩と協力して
薩摩、会津、桑名藩を挟撃して撃退し、天皇を藩領の今津へ遷座させようと謀議したが挫折。
同年7月、禁門の変で庇護を求めてきた長州藩士・小島弥十郎を津田正邦に託して長州へ送った。
以後、苦境に陥った慶寧を助け、退京理由を釈明したが効がなく慶寧は謹慎、側近の勤皇党は
一斉弾圧され仲三郎は切腹を命じられた。22歳。
514 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 18:53:41
和田 秋清(1834〜1869)
薩摩藩士。文久年間、五代友厚に従って航海術を修め慶應年間、藩が春日丸を購入するに
及んで士官に任官した。
明治元年正月、藩船・平運丸が幕府の開陽艦に砲撃された時、これと土佐沖に戦い
2年3月、春日丸に航海長として宮古港に入り、幕艦の砲撃に応戦、これを追撃して青森に至った。
これより陸兵と並進して箱館港に入り、
5月7日、幕艦・回天丸、幡竜丸と檄戦を展開し、味方の死傷者が続出するなか
終始、甲板にあって味方を指揮したが左大腿を敵弾に貫かれて戦死。36歳。
515 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 18:56:09
井上 奨輔(1843〜1868)
立場:萩藩足軽→振武隊砲隊長
出身:萩
松下村塾塾生。
その後、奇兵隊に入隊し、京都守衛の任に選ばれた。
八月十八日の政変によって帰国。
元冶元年、藩主訴冤のため上京したとき禁門の変に遭遇、堺町門の戦いで負傷して帰国した。
治療の後、振武隊に入隊し砲隊長となる。
慶應元年1月、恭順派政府軍と美邇郡で戦い、翌年6月に四境戦争では石州口で戦い浜田城を攻略した。
明治元年4月、北陸掃討軍として出兵し、
同年8月、越後蒲原郡石間村の激戦で戦死。26歳。
516 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 18:59:32
水谷 左門(1844〜1864)
豊前国田川郡彦山の修験者。
勇壮活発で武芸を好んだ。
文久3年6月、彦山の僧侶達が長州と連絡をとり挙兵しようとしていることを知り、これに加わる。
8月、奇兵隊の長三洲が連絡のため訪れると、会見して同志とともに長州に渡る。
初め招賢閣の七卿の守衛にあたり、翌年、7月禁門の変に従軍。
真木和泉、久坂玄端の旗下にあって鷹司邸東門で同志・裕王坊、中坊、浄現坊ら僧侶とともに奮闘し敵中に
斬りこんで戦死した。21歳。
517 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 19:02:56
渋谷 伊予作(1842〜1864)
下館藩士。
早くから尊攘論に傾倒していた。
文久2年12月脱藩して京都に赴いた。同3年5月、長州藩が下関で外国船を砲撃したと聞き
奇兵隊に身を投じた。
のち、京師に戻り。中山忠光に従い大和天誅組の四天王の一人として挙兵した。
近畿諸藩はこれを包囲し賊徒討伐軍と称したので憤慨し津藩藤堂氏に賊名を除かんと謁したが
逆に欺かれて獄につながれ、斬られた。23歳。
518 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 19:03:43
渋谷 伊予作(1842〜1864)
下館藩士。
早くから尊攘論に傾倒していた。
文久2年12月脱藩して京都に赴いた。同3年5月、長州藩が下関で外国船を砲撃したと聞き
奇兵隊に身を投じた。
のち、京師に戻り。中山忠光に従い大和天誅組の四天王の一人として挙兵した。
近畿諸藩はこれを包囲し賊徒討伐軍と称したので憤慨し津藩藤堂氏に賊名を除かんと謁したが
逆に欺かれて獄につながれ、斬られた。23歳。
このスレ読んでいると、坂本龍馬だの河井継之助だののように、
まだまだ発掘できる幕末の英雄がいるかもしれない、と思う。
520 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 14:57:10
姉歯武乃進(あねは たけのしん)
仙台藩士 新政府の奥羽鎮撫使の下参謀・世良修蔵を福島
の金沢屋で捕縛指揮した。その後戊辰戦争で戦死。
件の方の先祖かどうかは解らないが一族であることは間違いない。
521 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 07:52:36
522 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 07:18:30
パトラッシュ、疲れたろう。
僕も疲れたんだ…
,.-─-、
/ /_wゝ-∠l
ヾ___ノ,. - >
/|/(ヽY__ノミ
.{ rイ ノ
何だかとても眠いんぶべら
パーン l>‐∠l
,.-─-、∩/,. - >
//。wv、ゝヾヽY__ノミ
ヾ__Д(☆ ミ⊃ ヽ
/∨ (ヽ
523 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 12:28:17
小嶋兵左衛門:幕末の仙台藩の悪徳材木商人。本当は善良な仙台藩建築奉行姉歯武之進に手抜き建築をやらせる。
戊辰戦争で奥州白河城が簡単に落城したのも手抜き建築のせい。なお姉歯武之進は責任を取りその城で戦死。
524 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 12:47:52
外国人もあげてほしいな。どなたかお願いします
525 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 21:37:21
ジャネット八田
526 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 07:29:26
ベルクール
フランス初代駐日公使。後任のロッシュのインパクトが強すぎて印象がない
ヒュースケン
528 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 09:46:33
すねる
529 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 07:50:58
すねる(弟)
530 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 10:56:56
八州取締出役・園部弾次郎
浅草弾左衛門手代・小鹿野軍右衛門
同、笠原忠助 藤本佐藤七 永井六右衛門 水野彦助 矢野初右衛門 野田富右衛門
531 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 10:58:01
伊勢華。もとの名を北条瀬兵衛。長州藩士。
先祖は北条就之とひめぢ(北条氏忠娘)なのか・・・?
532 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 11:23:05
相模国湘南渚藩(一万八百石)オーシャン奉行 杉山清隆
533 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 23:03:53
天野八郎
534 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 23:38:55
嘉藏は外出?
535 :
チェリー:2006/06/29(木) 22:13:06
天保高殿
という志士のこと、知っている方いらっしゃたら教えていただけませんか?
天誅組で東吉野で亡くなったと地誌ではわかっており、水戸脱藩らしいのですが、
その記述以外一切不明なんです。
彼が天誅組に入る前、どんな足跡と人生をたどったか、など知りたいのですが・・
536 :
チェリー:2006/06/29(木) 22:15:21
天保高殿
という志士のこと、知っている方いらっしゃたら教えていただけませんか?
天誅組で東吉野で亡くなったと地誌ではわかっており、水戸脱藩らしいのですが、
その記述以外一切不明なんです。
彼が天誅組に入る前、どんな足跡と人生をたどったか、など知りたいのですが・・
537 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 22:18:17
小栗上野介
時山直八
539 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 14:43:30
540 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 00:31:20
ほんまや
541 :
日本@名無史さん:2006/07/28(金) 02:04:15
こんどうちょうじろう
近藤長次郎(1838〜1866)幕末の志士。上杉宗(宋)次郎。
名は昶、昶次郎。字は子長。号は藤陰、梅花道人。天保9年3月7日
高知城下水通町2丁目、餅菓子作りに生まれ、饅頭屋長次郎とよばれた。
父伝次、母鹿の長子。幼少より饅頭行商を手伝いながらも本をはなさず、
剣道にもはげんだ。藩の重役由比猪内の下僕として江戸に出る機会を得て、
弥太郎の師でもあった安積艮斎の門をたたく。
学問が進み、諸藩より長次郎を扶持したいとの申し出が勝のところに
あいつぎ、土佐藩は急ぎ苗字帯刀を許し、終身2人扶持、
金10両給付の陸士格の藩士として取りたてた。
文久3年、勝に従って神戸海軍塾に入る。
長崎に亀山社中がおこされるにおよび、これに投じ、龍馬のもとで
薩長同盟に奔走。長州のためにユニオン号(桜島丸、乙丑丸)購入に尽力。
その報奨として、井上聞多ら英国密航経験者の話もありイギリス渡航を計画したが仲間に露見。
秘密裏の行動を責められ慶応2(1866)年1月14日(墓所の長崎市寺町皓台
寺の過去帳では24日)29歳で自害。
542 :
日本@名無史さん:2006/07/28(金) 02:06:37
望月亀弥太
名は義澄。天保7年土佐郡小高坂(現高知市)で団右衛門真澄の二男として生まれる。
文久元年9月武市瑞山が江戸より帰り尊王攘夷論を説くや、兄清平とともに勤王党に
加盟したとみられているが、その血盟書に名はない。
翌2年山内容堂護衛のため50人組の1人として江戸にの上る。
のち藩主山内豊範に従い江戸に滞留し、同3年1月大監察小南五郎右衛門の命により、
高松太郎、千屋寅之助とともに勝海舟について測量、航海等の海軍のことを学んだ。
元治元年時勢の動きに落ち着いておれず神戸の海軍塾を脱して京に上る。
同志に討幕の計をすすめたが、同年6月5日池田屋の変で会津、桑名の兵
および壬生浪士に襲われ奮戦し、重囲を突破したが、満身創痍の身で再起不能を知って翌6日自刃した。
享年27歳。
543 :
日本@名無史さん:2006/07/28(金) 02:17:00
松平太郎
544 :
日本@名無史さん:2006/07/28(金) 03:47:23
稗田利八
1849〜1938
最後の新撰組隊士
柴五郎
1860〜1945
会津藩の偉人
林忠敬
1848〜1941
脱藩して幕府に忠誠を尽くした大名
545 :
日本@名無史さん:2006/07/28(金) 11:01:07
>544
林忠崇ではないか?
請西藩藩主にして、徳川存続の志の為に伊庭八郎らの
誘いを受け脱藩。
後に徳川存続だけは決まり伊庭らと別れて降伏するも、
請西藩の取り潰しが決定。(確か唯一の取り潰し)
昭和の時代まで生きた最後の大名として有名。
この人の「琴となり 下駄となるも 桐の運」と言う
言葉は結構好きだったりする。
546 :
日本@名無史さん:2006/08/04(金) 22:41:52
もしかして戦死すると歴史に残りにくいのか?
時山直八はそうだな
みな何から人物情報得てるの?地元・郷土史関連の本?
土居大作(実光)・七助、村岡宗四郎、田岡凌雲、小橋安蔵、木内順二、小橋橘陰
調べようと思うが上記の中(俺の地元の勤王)だと誰がマイナー?
549 :
日本@名無史さん:2006/09/03(日) 23:52:49
橋本左内とか長井雅楽
幕末初期の人間は・・・結構重要なのによく知られていない。
550 :
日本@名無史さん:2006/09/06(水) 18:19:03
住谷寅之助とか詳しくしりたい
>>542 望月亀弥太すきですよ。
ちょいちょい歴史小説に登場しますよね。
552 :
日本@名無史さん:2006/09/12(火) 22:28:00
>>551 お、同士がいたか〜。望月亀弥太、俺もあいつ好き。
肖像が残ってないのが惜しいね。
亀弥太の亡骸を見た人は「是は年齢十八九歳、」と言っている。
童顔だったのかな。
望月と北添はわりと有名だろう
長井雅楽良いよねえ。
先見の明があるのも善し悪しだなと言う人生だけど。
555 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 17:10:50
山代屋和助
山縣にあてつけに陸軍大臣室で腹を切った人。
大臣室の金庫が空っぽになっていた原因を作った人。らしい。
うまくやってれば、三菱の岩崎ぐらいになっただろうか。
556 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 20:45:29
伊庭八郎の征西日記で不始末を起こしたと書かれてる(日記中登場回数多し)人物戸田祐之丞。手裏剣使いの幕臣。その不始末とは酔っ払って池田屋事件直前の新選組屯所に行ったという武勇伝
福地桜痴
558 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 12:07:28
梅田雲壜、梁川星巌 吉田寅太郎、勝小吉
559 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 12:21:19
加藤司書…福岡藩高官にして尊皇攘夷派の重鎮。
平野国臣…尊皇攘夷派志士。生野の乱を起こす。
大隈言道…歌人。
野村望東尼…勤王の志士を平尾山荘に匿った勤王の母。
月形洗蔵…薩長和解に尽力した幕末志士
中村円太…福岡藩の尊皇攘夷派志士。
早川養敬…中岡慎太郎と仲深い尊皇攘夷派志士。
原古処…儒学者。稽古館の教授。
海賀宮門…古処の門下で勤王志士。
戸原卯橘…古処の門下で勤王志士。
臼井亘理…幕末期、洋式軍備の重要性を説いた藩士。干城隊に妻諸共に惨殺された。
中島衝平…干城隊に暗殺された。
臼井六郎…臼井亘理の子。日本最後のあだ討ちを行った。
山本克己…あだ討ちされた人。
宮崎車之助…秋月党の首領。秋月の乱を起こす。
大石進…幕末三剣豪の一人。
真木和泉…久留米藩の尊皇攘夷派志士。禁門の変に破れて自刃。
560 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 17:03:16
「五稜郭を落とした男」でだいぶ有名になったと思うが
山田顕義。
561 :
OPS:2006/10/22(日) 18:25:43
小栗上野介あまり知られてないかな。
社会の先生でも知ってなかった。
でもこいつの評価は自分的には高いけど世間の評価は低いかな?
その社会の先生の方が問題だろ
保守っとくか
>>561 上野介は縁起が悪いから替えたらと言われたのに、
そんなこと気にしないよって言って上野介のままだったのよね…
戊辰戦争の混乱の中で、無抵抗だったのに川原で斬首カワイソス
薩摩藩士 奈良原 喜三郎
寺田屋騒動の折、殺気立った仲間たちを説得するために
寺田屋の階段を上半身裸の丸腰で登り
仲間たちを説得する。
確か、生麦事件のときも大名行列を横切った外人を切ったのも
この薩摩隼人だった。
間違った
喜三郎じゃなくて
喜八郎 失礼!
567 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 02:57:35
大石団蔵
568 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 08:54:35
教師なんて教授と違いおおざっぱな事しか知らないよ!音楽教師はモーツァルトとベートーベンとビートルズくらいしか知らないのがいたし(もっとマイナーなクラシック作曲家やロックバンドたくさんいるのに)閑話休題。
569 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 20:17:12
そっか。でもかなり頭不自由なのは自覚してる?
570 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 02:49:24
大坂藩邸留守居の北条瀬兵衛(維新の後は伊勢華(いせさかえ)と名乗る)って?
木戸の書簡とかにも出てくるんだが・・・・
玉虫左太夫なんかどうなの?
佐藤 政養 文政4(1821)12〜明治10(1877)8/2
鉄道功労者。庄内酒井家農民佐藤与兵衛の長男として出羽国飽海郡升川村に生まれる。
幼少のころから性温順で父母に孝行を尽くして郡内の評判となる。
たびたび庄内酒井家から表彰を受け、また家業に従事する傍ら、彫刻・俳諧を嗜んだという。
弘化元年(1844)酒井家に選ばれて江戸に上がり、広木貫助に入門して砲術を修める。
後に勝海舟の門に移って、蘭学を学ぶ。
途中、嘉永6年(1853)には伊藤鳳山から漢学、後藤恒俊から彫刻の技を学んだ。
安政2年(1855)海舟に従い長崎海軍伝習所に赴き、勝麟太郎内侍・員外聴講生としてオランダ人から測量・軍艦操縦の術を習得する。
安政6年(1859)酒井家から組外徒士格となり、また幕府から軍艦操練所蘭学翻訳方を命ぜられる。
文久2年(1862)幕臣に取り立てられ、大坂台場詰鉄砲奉行に就任。
文久3年(1863)兼任で神戸海軍操練所の教授方に就任する。
元治元年(1864)将軍家茂の軍艦による大坂港巡視に供奉。同年鉄砲奉行兼神戸軍艦操練所教授方を免職。
明治2年(1869)太政官民部省に出仕。翌年土木司に奏任される。
明治4年(1871)工部省鉄道寮鉄道助に奏任される。
明治5年(1872)東京-横浜間の鉄道敷設のため尽力、12月明治天皇から軍扇を賜る。
明治10年(1877)8月2日、勝海舟邸にて病のため、死去。享年57歳。青山墓地に葬られる。
昭和3年(1928)11月、従4位を追贈。
昭和39年(1964)7月、郷里の山形県吹浦駅に銅像が建立された。
玉虫左太夫は日本で最初にビールを飲んだ人(記録にある範囲で)として有名じゃないですか
遣米時の日記とか読むと滅茶苦茶頭良いね。福沢諭吉より良い。
本多幸七郎忠直
旗本。旧幕府軍陸軍歩兵頭取。
生没年不詳。
でも「安政6年、19歳で祖父の跡を継いで新御番についた」ともある。
慶応4年4月、陸軍歩兵奉行・大鳥圭介率いる小川町伝習隊などと共に江戸を脱走。
宇都宮での攻防戦で負傷。一端戦列を離れるが、その後会津戦で復帰。
蝦夷に渡り五稜郭降伏開城する明治2年5月まで連隊隊長として戦う。
降伏後は謹慎。
明治3年4月釈放。
明治3年5月、沼津兵学校体操方(この時28歳と「旧幕臣の明治維新」にある)
明治4年12月、陸軍少尉。
明治7年、陸軍中尉。
明治14年、眼病のため依頼免官。その後の足取り不明。
伝習隊隊長としては「大川正次郎」「滝川充太郎」と共に名前が出る。
歩兵奉行(箱館政権では陸軍奉行)の大鳥にも頼りにされ、大鳥の著書「南柯紀行」にも
特に名指しで「(負傷につき)いなくて困る」とすら書かれているのに何故か詳しい事が
わからない。
写真もない(同じ脱走組で沼津兵学校にも行った下逸郎氏は写真あるのに・・・)
中世古 克一(なかぜこ かつかず) 天保14年(1843)〜慶応3年(1867)12月25日
通称は仲蔵。出羽庄内酒井家家臣。同家家臣相良八十吉の弟。後に同家家臣300石中世古惟一の養子となる。
安政3年(1856)7月、世子忠恕の近習に召出される。
安政5年(1858)田宮流剣術免許皆伝を受け、世子忠恕の指南役に当たる。同年酒井家が実施した与内坂で行われた洋式調練に参加する。
元治1年(1864)3月中奥小姓。
慶応3年(1867)12月庄内酒井家が将軍家の命令で江戸三田の薩摩・佐土原の両島津家屋敷を攻撃した際、砲車司令として参加。南裏門から砲撃の際、砲身が破裂、即死した。
庄内酒井家唯一の戦死者。享年25歳。鶴岡総穏寺に葬られる。
神戸 義方(かんべ よしかた) 天保11年(1840)11月27日〜明治15年(1882)7月30日
通称は小太郎・善十郎。出羽庄内酒井家家臣。同家家臣120石神戸方儀の長男として鶴岡に生まれ、若年の頃から、英才の誉れをほしいままにする。
慶応4年(1868)戊辰戦争当時は家督を相続しており、役職は近習頭取。
同年7月、酒井了恒指揮の2番大隊が編制されると、軍監兼参謀として出征、これを補佐した。
明治3年(1870)11月、前当主酒井忠篤が家臣70名を引き連れて鹿児島に兵学修行をした際、一行の監督となって同地に赴く。
明治5年(1872)4月、参議西郷隆盛の尽力により、酒井忠篤・忠宝兄弟のドイツへの留学が決定すると、酒井家から他一名と選ばれて、酒井兄弟とともに随従してドイツに渡る。
この間約7年間、忠篤(ドイツ式兵学)・忠宝(ドイツ式法律学)兄弟に近侍し、自身も法律の研究に励んだ。
明治12年(1879)12月、主君とともに帰国。
明治15年(1882)7月30日、故郷の鶴岡南郊日枝村の自宅で自刃する。享年43歳。
自刃の理由については諸説あり、主君忠篤が帰国後、西郷派の人物であったため、太政官で不当に扱われ
(留学前陸軍少佐だったのが帰国後2ヶ月で陸軍中尉、後予備役入り。)その後鶴岡に隠棲。この隠棲を支持したのが
西郷びいきの主流派家臣団だった。
その忠篤の将来をめぐり、主流派家臣団と対立、自殺に追い込まれた。
入江 文郎 天保5年(1834)〜明治11年(1878)1月30日
天保5年(1834)松江松平家家臣で奥医師の元範の子としてうまれる。始め、江戸で蘭学を竹内玄内に学ぶ。
万延元年(1860)横浜でフランス公使館通訳ブーブについて、フランス語を50日ほど習った。
文久元年(1861)蕃書調所出役教議手伝となり、ブーブについてフランス語の発音と作文を習った。
慶応元年(1865)開成所教授職並となる。
慶応3年(1867)フランス軍事顧問団が到着すると、陸軍所において、フランス公使ロッシュやフランス軍事顧問団の建白書
の翻訳を行う。陸軍総裁松平乗謨にフランス語を教えている。
明治元年(1868)太政官に出仕する。
明治2年(1869)3月フランス留学を命ぜられ、帰国後文部省中教授になり、フランスの学制の調査に当たった。
明治11年(1878)1月30日、パリで喉頭結核で死んだ。享年44歳。
梶原 影武 天保13年(1843)10月10日〜明治22年(1889)3月23日
幼名は悌彦。天保13年(1843)10月10日、父会津松平家家臣内藤信順、母もと子の間に次男として生まれる。
内藤家は代々会津松平家において家老格の家柄である。
安政7年(1860)3月、梶原家に養子に入り、平馬影武と名乗る。
文久2年(1862)閏8月、会津松平家が京都守護職に就任。
12月、藩主松平容保が兵1千を率いて江戸から上洛する際、大目付としてこれに従う。
慶応1年(1865)5月、若年寄に就任する。
慶応2年(1866)3月、家老に就任する。
慶応3年(1867)1月、主席家老に就任する。
慶応4年(1868)、戊辰戦争。江戸、横浜、新潟、会津の各地において外交、兵器調達など東奔西走の日々を送る。
8月、篭城戦の際、政務総督に就任する。
9月、西軍に降伏、東京に幽閉される。
明治4年(1871)、釈放、後青森県庁庶務課長に就任するも、2ヶ月で辞任。北海道に渡る。
明治22年(1889)3月23日、根室にて死去。享年46歳。
外山 光輔・・・公卿。京都府貫族・華族。明治4年国事犯事件にて自尽。
愛宕 通旭・・・公卿。京都府貫族・華族。参与、神祇官判事。明治4年国事犯事件にて自尽。
初岡 敬治・・・出羽久保田佐竹家権大参事。明治4年国事犯事件にて斬罪。
小河 真文・・・筑後久留米有馬家権大参事。明治4年国事犯事件にて斬罪。
古賀 十郎・・・筑後柳川立花家家臣。軍務官書記。明治4年国事犯事件にて斬罪。
比喜多源二・・・愛宕家家扶。明治4年国事犯事件にて斬罪。
河上 彦斎・・・肥後熊本細川家家臣。幕末期は「人斬り彦斎」と恐れられた。明治4年国事犯事件にて斬罪。
矢野 寿助・・・豊前宇佐郡乙女村出身。農間船乗り渡世の者。明治3年長州脱退騒動に参加。明治4年国事犯事件にて斬罪。
楠本勘兵衛・・・豊後速見郡八丸村出身。明治3年長州脱退騒動に参加。明治4年国事犯事件にて斬罪。
楠本 省吾・・・豊後速見郡八丸村出身。勘兵衛の弟。明治3年長州脱退騒動に参加。明治4年国事犯事件にて斬罪。
阿部 琢磨・・・豊後速見郡平山村出身。明治3年長州脱退騒動に参加。明治4年国事犯事件にて斬罪。
以上、明治4年「国事犯」事件における自尽、死刑者でした。
木下 業広 文化2年(1805)〜慶応3年(1867)
通称は真太郎、宇太郎、号は犀潭。その先祖は菊池氏に仕え、父・衛門は徳行をもって郷里に聞こえた。
業広も幼少の頃から秀才の名をほしいままにした。
文政10年(1827)、熊本細川家から帯刀をゆるされた。
天保6年(1836)、伴読に挙げられ、中小姓に班した。同年、江戸に遊学し、佐藤一斎の門下に入る。
嘉永2年(1849)、藩校時習館の訓導となる。以後、学校党と呼ばれる勢力の中心人物になる。
門下生の井上毅、竹添進一郎、木村弦雄、古荘嘉門は木下門下の4天王と呼ばれた。
慶応1年(1865)、物頭に就任する。
慶応3年(1867)、病没。享年63歳。
ほす
ジェームス・ファブル・ブラント 1841年(天保11年)9月23日〜1923年(大正12年)8月7日
スイス人。貿易(横浜外国人商人、時計輸入)。
1841年(天保11年)9月23日、スイスのルロックルで生まれる。
1862年(文久2年)、日本との修好条約締結の為、時計組合総裁・元参議院議員A・アンベールを団長としたスイス特派使節団の一行16名の一員として来日した。
1864年(元治1年)、条約は日本スイス両国間で締結されたが彼はそのまま日本に留まり、横浜居留地52番で時計宝石商を開業した。
1866年(慶応2年)、横浜大火の際この店は焼失したが、彼は居留地175番に新規の営業所を開設し、スイス時計の輸入商として日本各地にスイス時計の販売促進を行った。
1874年(明治7年)、横浜に出来た町会所に時計台を設置し、また横浜の名所でもあった高島町岩亀楼の建築は彼の工夫によるもので、何れも幕末・明治初期の横浜名所として浮世絵などに描かれた。
1923年(大正12年)8月7日、避暑先の長野県軽井沢の別荘で心臓発作の為死去。享年82歳。遺体は横浜山手の外人墓地に埋葬された。
なお、彼は戊辰戦争の際には、薩摩島津家、長岡牧野家などに武器・弾薬等を供給したほどの商売上手であった。
西郷 隆広 天保4年(1833)〜慶応4年(1868)8月14日
幼名は金次郎、通称は吉二郎。
天保4年(1833)、鹿児島城下下加治屋町にて薩摩島津家家臣の西郷吉兵衛隆盛を父に、母満佐子の次男に生まれる。
長男は維新三傑の一人西郷吉之助隆盛、三男は慎吾従道。
兄吉之助隆盛が国事に奔走し、また南島に流刑されている間、家事を収めて後顧の憂いを無くした。
慶応3年(1867)11月、当主島津忠義の上洛に従い、城下小銃8番隊監軍として参加する。
慶応4年(1868)1月から始まった戊辰戦争に出陣、5月の越後長岡城第1次攻防戦に参加した。
同年7月番兵2番隊監軍に転じ、第3次攻防戦に参加。
さらに8月2日曲淵村五十嵐川を越えて敵を攻撃したときに激戦となり、腰部に弾丸を受け14日柏崎病院で没し、高田に埋葬された。
享年36歳。
大野 英馬 文政9年(1826)〜慶応4年(1868)8月23日
陸奥国会津若松城下において、会津松平家家臣大野伝九郎(30石4人扶持)の長男として生まれる。
幼少より活発にして才気あり、父伝九郎が江戸詰めとなるに従い赴く。
父の没後会津に帰り、30歳ごろ御供番となった。
文久2年(1862)、会津松平家が京都守護職となるや、新設された公用方に抜擢され上京した。
慶応4年(1868)の戊辰戦争では、8月23日、国産奉行河原善左衛門の指揮下にあって滝沢村の戦いで奮戦し、
戦死した。享年43歳。
佐々木 政純 文化14年(1817)11月20日〜明治27年(1894)11月8日
陸奥国盛岡城下において、父、盛岡南部家家臣佐々木伊兵衛(6駄2人扶持)、母、つねの子として生まれる。
通称は直作、維新後は板垣草蔭(桑蔭)と名乗る。
慶応4年(1868)2月、家老楢山佐渡上洛にあたり、勘定奉行兼留守居役として同行。奥羽越列藩同盟から秋田戦争にかけて、
補給部門の責任者として尽くした。南部家が降伏した際、楢山佐渡・江幡五郎とともに太政官に対する反逆首謀者として東京に護送され謹慎処分を受ける。
が、楢山佐渡が一身に罪を引き受けたため、軽輩の為許され、死を免ぜられる。
明治6年(1873)、沼宮内五日市に隠遁、一度君命により、命を終わり板囲いの裸の草葉の蔭に入りこの世を去ったとの意味で板垣草蔭と名を改める。
漢学塾を開いて、子弟の教育に当たり地方教育の一翼をになった。
明治27年(1894)11月8日、死去。享年78歳。
孫に満州事変時の関東軍高級参謀を務めた板垣征四郎がいる。
手代木 勝任 文政9年(1826)3月9日〜明治37年(1904)6月3日
通称は直右衛門。性格が重厚で、教養があり、体が大きく、人に重んぜられるようなところがあるといわれる。
陸奥国会津若松城下において、会津松平家家臣佐々木源八(与力格)の長男として生まれる。
坂本竜馬殺害で有名な佐々木唯三郎は実弟。
後に同家家臣手代木勝富の養子に入る。(父源八の実家で、嫡男がいないため)。
嘉永六年(1853)、会津候松平容保が房総沿岸の警備巡視を行うに当たり、これに従った。
その後江戸詰御聞番を命ぜられ、その役目柄、江戸表の事情や幕府の内情に詳しくなる。
文久2年(1862)、松平容保が京都守護織に就任する。京都に新設された公用方に江戸の情勢や事情を報告する。
元治1年(1864)、京都常詰公用人、御聞番御内用兼務を命ぜられ、京都に赴く。 京都に赴任してから、堂上や伝議奏に馴染みが出来、江戸と京都の双方にまたがる仕事を担当する。
慶応3年(1867)、将軍徳川慶喜より金一封と服地を賜る。また、同年11月の坂本竜馬殺害命令は手代木から実弟の佐々木唯三郎に下したものだといわれている。
慶応4年(1868)、戊辰戦争では、軍事奉行副役として軍事局に勤務する傍ら、大監察を兼ね、奥羽越列藩同盟を奔走する。
明治1年(1868)、若年寄となり、西軍包囲下の若松城を脱出し、米沢に使いし、開城の方法を奉命した。会津松平家が降伏した後、東京に連行され、鳥取池田家、高須松平家、尾張徳川家の各大名家に幽閉される。
明治5年(1872)、許され、釈放される。その後、太政官に出仕し、左院少議生、香川県・高知県の権参事を歴任した。晩年は会津で過ごしたといわれる。
明治37年(1904)6月3日、死去。享年79歳。
大山 成美 天保6年(1835)〜明治9年(1876)2月
通称は彦八。
薩摩国鹿児島城下下加治屋町において、父、島津家家臣大山綱昌、母、競子の間に長男として生まれる。
次男が有名な大山巌。父の通称も彦八というので、大山家では、嫡男筋の人物が彦八を名乗る。
西郷隆盛の従兄弟に当たり、同じ下加治屋町に生まれて、その薫陶を受けた。
万延1年(1860)、桜田門外の変時、京都伏見の薩摩島津屋敷詰であったが、幕府の嫌疑を受けて、京都六角の獄舎に繋がれた。
文久1年(1861)、嫌疑が晴れて、釈放される。再び、京都伏見の薩摩島津屋敷詰となり、諸大名の家臣、諸国の志士と交渉する。
文久2年(1862)、実弟の巌が寺田屋事件に参加、謹慎処分を受ける。このときの成美の行動は不明。処分を受けていないところを見ると、反対の立場にいたか何もしていなかったか。
慶応2年(1866)、土佐浪人の坂本竜馬が伏見寺田屋において、追手二人を射殺して逃亡した際、応接役として京都伏見の薩摩島津屋敷に迎えて、これを庇護した。
慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは、後方勤務を担当し、武器、弾薬、兵糧、軍資金の準備、手配、負傷者の処置などに尽くした。
明治3年(1870)、京都府大参事に就任。後に埼玉県大参事に転任する。
明治6年(1873)、征韓論政変の結果、従兄弟で参議の西郷隆盛が辞任した影響を受け、官職を辞して鹿児島に帰る。
明治9年(1876)2月、鹿児島にて、病没。享年42歳。
どっからのコピペ?
河田 熙 天保6年(1835)〜明治33年(1900)3月11日
通称は貫之助、官職は相模守。号は貫堂、古香荘。
武蔵国江戸城下において父に幕臣河田興(通称八之助、儒者200俵)、母?の間に長男として生まれる。
安政6年(1859)6月、父の家督を継いで、儒者見習いとなる。一時奥右筆に転じる。
文久2年(1862)6月、儒者を命ぜられる。
同年10月、外国奉行支配組頭を命ぜられる。
文久3年(1863)11月、目付を命ぜられる。同時に横浜鎖港談判使節の同行を命ぜられる。
同年12月、従五位下相模守に任ぜられる。同月正使池田長発、副使河津祐邦らと共に、随員を従え、フランス軍艦に搭乗して、フランスに渡る。
パリで案件談判の間、使命達成の不可能を悟り、開国の必要性を痛感した。
元治1年(1864)5月、パリ約定調印後、直ちにパリを出発、7月帰国して使節一行は横浜鎖港の不可を建言したが、幕府当局者の忌諱に触れ、免職、小普請入り、閉門を命ぜられた。
その後許され、陸軍奉行並支配を命ぜられる。
慶応3年(1867)2月、開成所頭取を命ぜられる。
慶応4年(1868)2月、目付を命ぜられる。更に同月、大目付を命ぜられる。
同年5月、徳川家が駿河70万石の大名家に決定し、その事務処理に奔走する。
明治2年(1869)藩治職制の導入に伴い、静岡藩小参事となり、学制を担当した。
明治4年(1871)、廃藩置県後は徳川家の家扶を勤め、東京に移った。
明治10年(1877)4月、徳川家達のイギリス留学に従い、イギリスに渡る。
明治15年(1882)、帰国。以後、徳川家子女の教育に当たった。
明治33年(1900)3月11日、死去。享年66歳。
591 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 11:29:36
大久保大和
旧名大久保剛
慶応四年3月、幕府の命を受け甲陽鎮撫隊として甲府へ出陣したが
甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走
その後、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区)で募集し
4月には下総国流山(現在の千葉県流山市)に屯集するが
新政府軍に包囲され、越谷(現在の埼玉県越谷市)の政府軍本営に出頭する
4月25日、平尾一里塚(現在の東京都北区滝野川)で斬首された。享年35
宮村 利貞 弘化3年(1846)12月8日〜大正15年(1915)5月31日
通称は伸来。出羽国田川郡稲生村番田に医師宮村元邦の嫡男として生まれる。
若くして剣術を庄内酒井家家臣大淵竜之介に入門、修める。
慶応2年(1866)、江戸に上って齋藤弥九郎に入門、神道無念流を学んだ。
慶応4年(1868)、戊辰戦争。庄内軍に身を投じ、新庄、秋田方面に出陣。武勲を立てた。
明治19年(1886)、山形県巡査となる。
明治28年(1895)4月、鶴岡の荘内中学校に撃剣科(剣道部の前身)が創設されたときに金野久孝、桑島武得と共に教師となってこれを指導する。
明治29年(1896)、同校の嘱託に招かれる。以来20余年信望を得て多くの門下生を育成した。
大正15年(1915)5月31日、死去。享年81歳。
吉岡 信義 天保14年(1843)〜慶応4年(1868)6月9日
通称は新太郎。長州毛利家家臣の子として生まれる。後に吉岡家に養子に入る。
文久3年(1863)10月8日、周防国吉敷郡秋穂に駐屯する八幡隊(後に鋭武隊)に入隊を志願する。
翌11月半隊司令に任ぜられる。
元治1年(1864)8月、下関にて英仏蘭米4ヶ国連合艦隊相手の戦いに従軍する。
慶応1年(1865)1月、大田・絵堂の戦いに反乱軍として参加、毛利家政府軍を打ち破る。
慶応2年(1866)、幕府の第2次長州征伐時、吉岡の属する八幡隊は芸州口に配属。井伊・榊原両家の軍を粉砕し、幕府歩兵隊、紀州徳川軍と互角の戦いを演じる。
後に小倉口に転属、苦戦する奇兵隊を後押しし、小笠原家の居城小倉城を陥落させ、毛利家の勝利に多大な貢献を果たす。
慶応3年(1867)1月、 秋穂に凱旋。
同年10月、薩摩島津家とともに長州毛利家に「密勅」がでると、本隊と共に本国を出発し、備後国尾道に滞陣して、徳川家・会津・桑名両松平家打倒に備える。
慶応4年(1868)1月、吉岡の属する八幡隊は阿部家の居城備後福山城攻めに参加し、その足で大坂に乗り込む。
大坂では部下を率いて難波に駐屯し、市中取締りに当たる。
大坂在陣中、難波くろがね通り6丁目の商家の娘山邑マサと恋仲になる。
4月、役目を終えた吉岡は秋穂に帰陣。マサ、これを追いかけ、秋穂に尋ねる。
6月9日、秋穂西町の福田亀太郎方で吉岡、マサ心中する。死去。享年26歳。
ただし、毛利家の公式記録では、5月に「除隊」、6月9日「病死」した事になっている。
「心中」の事実はどこも記されておらず、記録上「除隊」させ、毛利家諸隊との関係を断った上で吉岡を死なせている。
丹羽 富穀 文政6年(1823)〜慶応4年(1868)7月29日
幼名万寿郎。通称は内匠、一学。号は反求。
陸奥国二本松城下において、父丹羽富寿(丹羽家家臣、家老職600石)、母とく女の間に次男として生まれる。
天保5年(1834)2月、富穀と名乗り、200石を賜る。同年家督相続し、600石となる。
嘉永1年(1848)2月、御番頭となる。
安政5年(1858)9月、上総国富津海岸警備に就いた。
元治1年(1864)3月、家老職となり、役格料100石、1000石高の礼遇となった。
慶応4年(1868)戊辰戦争。4月、奥羽列藩同盟が成立する。
同盟会議が伊達領白石城にて行われ、丹羽家代表として参加、丹羽家を加盟させる。
7月29日、太政官が進攻してくると、丹羽家を抗戦に持っていく。
二本松城攻防戦の折に城内武器蔵奉行にあったが、景山蔵之進邸において自刃した。
享年46歳。
595 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 19:30:22
>>591 大久保大和おもいっきりメジャーなんすけど。
596 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 01:18:35
勝沼を騎馬洋装の土方が通過した後
白羽二重で駕籠に乗って現れたんだよな大久保大和
∧_∧
( ^ิ౪ิ ) ∧_∧
/ \ ( )おまえ顔が変だぞ
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||. ( ) ~\_____ノ| ∧_∧
/ ヽ 病気だ \| ( )
| ヽ \/ ヽ. うつすなよ
| |ヽ、二⌒) / .| | |
.| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ /
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( ^ ิ ౪ ิ) ∧_∧
/ \ ( ^ ิ ౪ ิ)ドゥヒュヒュヒュ
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/ ヽ ドゥヒュヒュヒュ \| ( ^ ิ ౪ ิ)ドゥヒュヒュヒュ
| ヽ \/ ヽ.
| |ヽ、二⌒) / .| | |
.| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ /
川村修就なんか結構好きだな。
新潟、堺、長崎奉行をつとめたお庭番血筋の人。
幕末の高官のわりに真面目だし頭良い。
小松重男がその人について幾つか本書いてるね
藤沢 次謙 天保6年(1835)4月11日〜明治14年(1881)5月2日
通称は長太郎、主税、官職は志摩守、備前守、肥後守。号は梅南。
武蔵国江戸城下において父桂川甫賢(幕府奥医師)の三男として生まれる。
成人してから桂川家を出て同じく幕臣藤沢家(1500石)の養子となる。
文久2年(1862)12月、小普請組より講武所砲術方を経て頭取に進む。
文久3年(1863)12月、歩兵頭に進む。
元治1年(1864)6月、歩兵奉行並となって、水戸徳川家天狗党の筑波挙兵を鎮圧の為派遣された。
7月、幕府当局者に軍の不備を指摘し、それが当局者の忌諱に触れたため、敗戦の責任を取らされ、御役御免逼塞を申し渡される。
慶応1年(1865)7月、軍艦奉行並に召し出される。
慶応2年(1866)10月、軍艦奉行を命ぜられる。
慶応3年(1867)1月、歩兵奉行を命ぜられる。
5月、陸軍奉行並を命ぜられる。
慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川宗家の下で、陸軍副総裁を命ぜられる。
2月、上官の陸軍総裁勝安房が、軍事取締に就任すると、(後任者が不在の為)事実上徳川陸軍を指揮した。
7月、徳川宗家の駿河70万石移封により、沼津に赴く。
8月、静岡藩小参事軍事掛を命ぜられ、沼津兵学校を設立してその運営に当たり、また移住士族の生活問題にも尽力した。
明治4年(1871)9月、沼津兵学校が太政官兵部省に移管されたので、太政官の下につくのを断固拒否して野に下った。
晩年は東京に移り住んだといわれている。
多芸多才を絵に描いた人で、武術、蘭学、兵学、書、絵画に秀で、特に絵画は玄人といわれた。
明治14年(1881)5月2日、死去。享年47歳。
刈谷 三郎 弘化1年(1844)〜明治43年(1910)3月5日
旧名は鈴木虎三郎。変名は東狷介。号は無隠。
下野国足利郡足利新田仲町にて、父鈴木千里(足利家儒者)の三男として生まれる。
後に刈谷家の養子に入る。
父の感化を受けることが多く、水戸徳川家家臣の藤田信(通称小四郎)とは親交があった。
安政4年(1857)秋頃、江戸に上がり、古賀茶渓の久敬舎に学び、のちに昌平坂学問所に転じた。
元治1年(1864)3月、水戸徳川家天狗党が筑波山に挙兵するとこれに参加、田中愿蔵の竜虎軍に属した。
天狗党が分裂すると、これから逃れて江戸・京・大坂などを放浪し、仏門に入ったこともあった。
戊辰戦争後、司法省に入り、千葉裁判所判事となり、ついで東京裁判所判事に転じたが、間も無く官職を辞した。
後、京都相国寺に来て、禅門に入り後進の誘掖につとめた。青鴻維摩会を率い、あるいは師範学校に教鞭をとった。
明治43年(1910)3月5日、死去。享年67歳。
越後長岡牧野家家臣の河井秋義(通称継之助)を語る上で欠かせない人物。
前山 長定 文政6年(1823)2月〜明治29年(1896)3月27日
通称は清一郎。
肥前国佐賀城下において、佐賀鍋島家家臣前山長信(通称五兵衛)の長男として生まれる。
藩校弘道館の教授補として、また家塾を開いて家臣子弟の教育に当たった。
慶応4年(1868)、戊辰戦争時には、東征大総督府参謀として参加。
閏4月、イギリス汽船2隻を雇い、佐賀鍋島兵300人、小倉小笠原家130人を率いて仙台に上陸。
5月、仙台に留められていた奥羽鎮撫総督九条道孝、同参謀醍醐忠敬と共に盛岡、久保田に移動。
7月、大山綱良、桂太郎らと共に久保田佐竹家を切り崩し、奥羽越列藩同盟を離脱させ、奥羽戦線の勝利に一躍買った。
明治2年(1869)、戊辰戦争終了時、永世禄450石を賜る。(佐賀鍋島家では最高の石高である。)
明治3年(1870)7月、佐賀藩大参事に就任する。
明治4年(1871)4月、太政官兵部省に出仕したが、いくばくも無く辞職し、佐賀に帰郷する。
明治7年(1874)2月、江藤新平(征韓党)・島義勇(憂国党)を中心した佐賀士族の反乱が起こると、前山は中立派の佐賀士族を組織して太政官に協力、反乱の平定に努めた。
このため、郷里の人たちから憎悪の対象となり、「裏切者」・「官の走狗」と呼ばれ、家族も迫害を受けることが多くなってきたため、下総国印旛郡小間子に移住し、開拓殖産に心血を注いだ。
明治29年(1896)3月27日、死去。享年74歳。
梶原 雄之助 生没年不明
旧名は藤吉、村上長門之介。
会津生まれの農民といわれている。江戸に出てきて、火消しの頭に収まった。
非情な乱暴者で、身体一面に刺青のある一寸見て恐ろしい様な奴といわれている。
徳川陸軍の歩兵隊に在籍していた。
慶応4年(1868)2月、戊辰戦争時、鳥羽・伏見の戦いに敗れて帰ってきた歩兵第11・12連隊の兵隊たちを扇動、内500人ほどがこれに参加。
当直将校を殺害、勝海舟の制止を振り切って北関東一円を荒らしまわり、下野国佐久山に陣を張る。この指導者が藤吉といわれる。
同月、歩兵指図役頭取・古屋佐久左衛門の説得を受け、その指揮下に入る。このとき、名前を梶原雄之助と変える。
以後、古屋の下で、北日本各地を転戦、蝦夷地に渡り、戊辰戦争の修羅場を潜り抜ける。
明治2年(1869)5月、箱館で降伏する。投降した士卒は津軽海峡を蒸気船で青森に運ばれ、身分や所属によって分けられ、弘前津軽家・久保田佐竹家領内の寺院に収容。
その後、各大名家に身柄を預けられるが、6月、太政官通達により、草鞋銭2両を支給されて赦免、国許に送り返された。
梶原もこれに従ったと思われる。
その後、宮内省に勤める山岡鉄舟の世話で、宮内省に入り、明治天皇の馬車の馭者になった。
以後の足取りは不明。
島崎 正樹 天保2年(1831)5月4日〜明治19年(1886)11月29日
諱は重寛、字は禎夫。通称は鍛名太郎、宮之丞、?三郎、?蔵、吉左衛門。号は璞堂、松翠園静雄、観山楼。
信濃国筑摩郡馬籠村において、父島崎重韶(通称吉左衛門、庄屋)、母ゆかの間に次男として生まれる。
生家は庄屋で本陣・問屋を兼ねた。中津川で間秀矩・馬島穀生と交わり、馬島から皇漢学の教えを受け、のち平田篤胤没後門人となった。
戊辰戦争後、戸長・学事掛を勤め神坂敬義学校の教諭となった。
松本の教員講習会で日本人モンゴル説を聞いて反発、文部省に訴願しようとした。
明治7年(1874)、文部省考証課雇員になったが、この年自作歌を書いた扇面を天皇の興中に投入したため不敬罪に問われた。
明治8年(1875)、飛騨国水無神社宮司、権中講義となる。
明治11年(1878)、職を辞して帰郷する。
明治13年(1880)、明治天皇の行幸献言をして、隠居させられる。
明治19年(1886)11月29日、発狂して自殺する。享年56歳。
明治の文豪といわれた島崎藤村の父である。
鵜殿 長養 天保2年(1831)〜明治1年(1868)12月9日
通称は団次郎、号は春風。
越後国長岡城下において、父鵜殿長義(長岡牧野家家臣、150石)の長男として生まれる。
実弟に海援隊に参加した白峰駿馬がいる。
安政2年(1855)江戸に出て、東堂英庵、手塚律蔵に洋学を学び、数学・天文・測量・航海術を修め、時勢に深い洞察を持っていた。
安政6年(1859)、越前大野候土井利忠に招かれ、西洋型帆船大野丸に乗って、樺太を往来した。
文久2年(1862)、幕府に招かれて蕃書調所の教授方に任命された。
文久3年(1863)、幕府陸軍の歩兵指図役に任命される。
元治1年(1864)、職を辞して、長岡に帰郷し、著述・教育に努める。
慶応2年(1866)、長岡候牧野忠恭に「御軍制御改正に附き心得申上」の建白書を提出する。
慶応3年(1867)、勝安房守の招きにより軍艦役に任命される。
慶応4年(1868)1月、目付に任命される。
鳥羽・伏見の戦いで敗北した時の徳川宗家内において、大久保一翁、勝安房とともに徳川宗家内で非戦論を主張する。
西郷隆盛も鵜殿の識見を尊敬し、薩摩に招こうとしたことがあった。
4月、長岡に帰郷しようとするが、北越戦争の為かなわず、江戸に戻る。
明治1年(1868)12月9日、北越戦争終了後の焦土となった長岡の自宅にて、死去。享年38歳。
長岡においては、河井秋義(通称継之助)、小林虎(通称虎三郎)、三島心臆(通称億二郎)と並んで、長岡四傑と呼ばれている。
>>578 何でこの人って、注目されないの?
会津松平家の主席家老でしょう。
不思議?
松平容保と西郷頼母の影が大きすぎて、目立たないってやつね。
>>587 なんだ、坂本竜馬殺害論の答え出たじゃん。
会津松平家黒幕でいいんでねぇの?
京都守護職で諜報機関の担当(手代木)と治安維持の職務担当(佐々木)だし、兄弟なら意思の疎通も容易だし、
手代木や配下の今井信男が証言を残しているのだから、これほどわかりやすい答えはないよ。
他の黒幕論は、状況証拠だけで、証言も何もないから。
手代木には、大泉荘客という人が書いた「手代木直右衛門伝」というのがあって、手代木は直接大泉に
「あれは(坂本殺害)唯三郎がやった。命令は某諸侯からでた」
と語っているから。
某諸侯は誰か?というのは、松平容保なのか、松平定敬なのか、それとも、・・・・・
ただ、徳川慶喜ですら、慶応三年当時坂本竜馬の名前知らなかったから、松平容保もおそらく知らなかったのでは。
どうして結論とみなすことができるんだろう?
最初から結論を決めてるからじゃない?
610 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 02:14:51
窪田泉太郎(窪田備前守鎮章)
611 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 02:29:45
西国日田の治部右衛門か?
612 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 08:34:25
>高知県の権参事を歴任した。
坂本竜馬殺害の黒幕なのに・・・?
613 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 10:21:08
小宮民部
614 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 13:55:28
http://homepage2.nifty.com/tankenka/sub1-42.html さらに前田藩の軍艦に乗り込み観覧した記録がある。そして的確な質問をしているのだ。
どうも大野の知っていた航海術は、机上の学問ではなく、実際に経験していたことをうかがわせる
このことから、彼が銭屋の船に乗り込んで密貿易を行っていた外洋に出ていたことを想像できる
ちなみに五兵衛の密貿易の舞台は、日本海の竹島のほか、トカラ列島の島々、八丈島近海、
小笠原諸島まで広がっていたという。そちらに同行した可能性だってなくはない。
ところで銭屋五兵衛は、香港・アモイまで出かけていたとか、オーストラリアのタスマニアに
領土を持っていたという説がある。とくにタスマニア領土説の信憑性は、決して低くはないのだが
ここにも弁吉の陰が見え隠れする。幕末の金沢に何が起きていたのか、興味あるところである。
弁吉は、1870年(明治3年)70歳で生涯を終えた。弟子には、米林八十八、朝倉長右衛門を
はじめ和算、医術、彫刻、写真など多分野で活躍した人たちがいて、明治期に活躍したことも付け加えておこう。
615 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 21:19:54
木村拓哉
大野弁吉がマイナーなわけないだろうに
617 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 20:12:15
>611
日田の西国郡代の窪田治部右衛門鎮勝の嫡男。
618 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 20:13:59
美濃部達吉
620 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 21:44:03
中居正広
621 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 02:29:16
>>620 ,一-、
/ ̄ l | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■■-っ < んなこたーない
´∀`/ \__________
__/|Y/\.
Ё|__ | / |
| У.. |
622 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 15:24:05
合原義直 1827-1901 通称は猪三郎
浦賀与力合原雄左衛門の次男、兄、合原操蔵は当時著名な砲術家。
ペリー来航時は与力見習。中島三郎助、香山栄左衛門とともに応接係を務めている。
その後下田奉行所に転任、ハリスとの交渉を担当、1858年に旗本に昇進。
1860年、神奈川奉行所に転任
1863年神奈川奉行並 家禄100俵、職禄1000石。
フランス人士官殺害事件の捜査に当たるが失敗し、二丸留守居に左遷。
1864年 目付 左衛門尉任官、のち伊勢守
1865年 長崎奉行並(1000石)、歩兵頭(2000石高)
1866年 外国奉行
1867年 陸軍奉行並(3000石)
1868年 大目付
維新後は新政府や、榎本武揚の説得を受けても任官を拒否、隠棲した。
井上清直の引き立てを受け、外交官僚として活躍したらしいが、詳細は不明。
623 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 15:47:27
春山弁蔵 1817−1868
浦賀奉行所同心、日本初の洋式軍艦鳳凰丸の設計チームの一人
長崎海軍伝習所一期生となる。
その後、日本初の蒸気軍艦千代田形の船体設計を担当、
当時、造船の第一人者であった。
戊辰戦争時は咸臨丸の副将を務める。榎本の命で脱走するも、
嵐のため、咸臨丸は清水港に漂着。
新政府軍に発見されたとき、船を預かっていたのが春山。
白旗を掲げ、降伏の意志を伝えたが、新政府艦隊は発砲。
最後まで逃亡しなかった春山以下の士官はなぶり殺しにされ、
遺体は海に投げ捨てられた。
仙台で春山の死を聞いた中島三郎助は大変なショックを受けたという。
624 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 17:21:44
小杉雅之進 1843-1909
長崎奉行支配調役並出役 小杉右藤の次弟
長崎海軍伝習所三期生、蒸気機関を専攻
軍艦操練所教授方手伝となる。
1860年、遣米使節随行船、咸臨丸の蒸気方見習士官を務めた。
その後、朝陽丸の機関士官として、小笠原諸島の回収に係わる。
戊辰戦争時は軍艦蒸気役一等となり、開陽丸の機関長を務め、
榎本武揚に従った。開陽沈没後、旧幕府軍の江差奉行並となる。
降伏後は士籍を剥奪され、雅三と改名。海軍への出仕話を断固拒否するが、
榎本の引き立てで内務省、農商務省、逓信省に勤務、
海事行政を担当。正六位大阪船舶司検所長で退官後、大阪商船管理部長となった。
625 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 17:31:48
望東尼とか大木喬任とかってメジャー?
626 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 17:32:36
根津勢吉 1839-1877 通称は欽次郎
小晋請小笠原弥八郎組から長崎海軍伝習所三期生となる。
航海術を学んだ。
軍艦操練所教授方手伝となる。
1860年、遣米使節随行船、咸臨丸の運用方見習士官を務めた。
その後、朝陽丸の士官として、小笠原諸島の回収に係わる。
1866年、大番格軍艦役となり、回天丸の副将を務める。
戊辰戦争では軍艦頭となり、甲賀源吾戦死後、回天丸艦長となる。
維新後は海軍に出仕、海軍大尉となるがまもなく病没。
627 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 17:33:02
628 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 18:00:02
岡田井蔵 1837-1904 諱は敬感(なんて読むんだろう?)
浦賀与力、岡田増太郎の弟、昌平黌で漢学を修めた秀才。
姉婿中島三郎助の引き立てで長崎海軍伝習所二期生となり、
蒸気機関の運用、設計を学んだ。軍艦操練所教授方手伝となる。
1860年、遣米使節随行船、咸臨丸の蒸気方見習士官を務めた。
その後、朝陽丸の機関長として、小笠原諸島の回収に係わる。
徳川家茂上洛時の護衛も務めている。
戊辰戦争時は軍艦蒸気役一等、朝陽丸の機関長だったが、
朝陽丸が官軍に引き渡されたため、従軍できなかった。
維新後、横須賀造船所の製図技師となり、明治海軍初の純国産砲艦磐城、
初の巡洋艦海門の設計を手がけている。
ちなみに名前の読みは「いぞう」ではなく「せいぞう」である。
岡田井蔵の写真が岡田以蔵の写真と混同されることがあったため、
咸臨丸の見習士官の中では、赤松則良男爵海軍中将についで著名かもしれない。
春山弁蔵は昔日テレの「勝海舟」で結構出番多かったから(演・本田博太郎)
そこそこ有名かな
630 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 00:29:12
駒井相模守信興
46代南町奉行で「最後の南町奉行」ではありません
631 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 12:24:44
ほう
春山とか小栗とか近代日本に必要な人間をなぶり殺しにした
官軍に義は無いよな。
長井雅楽を殺しといて結局その真似をせざるを得なくなったり
吉田東洋を殺しといて以下略
勢いで行動して後悔する、てパターンが多いね
橋本左内とか吉田稔麿とか近代日本に必要な人間をなぶり殺しにした
幕府にも義は無いよな。
稔麿は京に放火して天子様拉致を謀議していた現場に居たから仕方ない。
ハシモトーッは可哀想だったな。
636 :
斉藤きちヲタ:2007/10/29(月) 14:35:38
唐人お吉
徳川家定がまさにそうだろ
家斉・家慶・(欠)・家茂・慶喜って感じw
来年の大河の主人公の旦那ということで
メジャー化する予定です
>>638 誰がやるんだっけ? これまでのイメージをぶち壊すようなイケメソ?
徳川家よりは義がなかった太政官は100年もつことなく、マッカーサーの軍門に下りました。
四条隆謌
食中りで若死にした天才佐久間象山の息子
644 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 22:32:36
池田長発
645 :
日本@名無史さん:2007/12/26(水) 03:13:55
本因坊秀策
646 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 10:16:25
緋村抜刀斎
647 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 14:29:35
edobakufuha ?
648 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 15:47:50
>>638 原作ではかなりの虚弱体質で神経質だよ。
大奥が怖くて中奥でばかり泊まったり。
変な役どころなのだけど・・・
>>648 Gackt様にやらせればメジャー化まちがいなし。
650 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 15:22:31
間瀬和三郎
651 :
日本@名無史さん:2008/02/15(金) 14:28:56
殿内義雄…新選組史上初の犠牲者。暗殺。享年34。
阿比留鋭三郎…新選組史上2番目の死亡者。病死。享年22。
トリックの矢部とカラテカの矢部か。
653 :
日本@名無史さん:2008/02/15(金) 21:16:45
安藤信正
ドラマでも桜田門外の変に比べて、
坂下門外の変の扱いの、なんとぞんざいな事かw
654 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 12:43:52
井伊直弼の首を打ち獲った薩摩藩士の有村次左衛門
655 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 12:55:07
所郁太郎
山田宇右衛門 に一致する日本語のページ 約 252 件
乃美織江 に一致する日本語のページ 約 664 件
毛利登人 に一致する日本語のページ 71 件
来原良蔵 に一致する日本語のページ 約 998 件
大和国之助 に一致する日本語のページ 60 件
渡辺内蔵太 に一致する日本語のページ 64 件
前田孫右衛門 に一致する日本語のページ 約 539 件
658 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 17:09:04
益満休之助
659 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 20:37:00
松尾多勢子
岩倉と仲違いさえしなければ縁者が爵位ゲットできたかも
藩主なのに脱藩w
661 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 21:12:07
>>5 こいつすげーよ 竜馬の仇をうちに行ってるよ!半端じゃない!
662 :
新選組:2008/06/18(水) 00:33:24
剣客 仏生寺弥介
剣術は確かなのに、放蕩無頼、たまに道場に顔を
出しては道場破りを撃破して、金をせびって
行方をくらます。
最後は暗殺された。理由は不詳。
663 :
日本@名無史さん:2008/06/18(水) 01:14:40
所郁太郎
間崎蒼浪
665 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 20:28:33
梶清三郎
666 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 21:27:59
>>91 河上彦斎(熊本藩士)
【るろうに剣心(アニメ・漫画の緋村剣心)】は、河上彦斎がモデルとなっている。
667 :
うすじ みくる:2008/07/20(日) 19:08:13
ましらの文吉について誰か詳しく
668 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 20:56:11
>>666 その師匠の林桜園
兄弟弟子の大田黒先生
反乱起こし頼られた大楽源太郎
669 :
新選組:2008/07/21(月) 01:36:23
>自分も詳しくはないが、猿の文吉は幕府側、所司代か奉行所の
下っ引き。勤皇方の動向を探るスパイだった。
そこを土佐勤皇党に睨まれ、殺害。
この事、刀で斬殺しようとしたが、岡田以蔵が
「刀の穢れになる」と言って絞殺して河原に晒した。
その時の絵と罪状が「幕末天誅斬奸録」に出ている。
ちなみに小説にもなっているが、主人公の文吉は
やたらニヒルで格好良く、とてもあの時代の下っ引き
には合わない感じの内容だった。
670 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 04:54:32
林桜園はもっと知りたい。
671 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 07:20:37
徐族ノ上 斬首
熊本県士族 浦楯記
672 :
日本@名無史さん:2008/08/22(金) 21:37:51
test
673 :
日本@名無史さん:2008/08/22(金) 22:36:34
>>671 日本最後の内乱
西南戦争(士族反乱) 神風連
674 :
日本@名無史さん:2008/08/25(月) 04:54:33
蓮田東三
(安政3年(1856年)にハリス要撃を計画するも発覚し入獄死。)
メジャーとマイナーの間みたいな香川敬三の兄。
兄の方は完全にマイナー。
松井徳太郎(天保11年〜?)
武蔵国江戸生まれ。清水家御近習番の松井八十五郎の子。姉のツネが近藤勇の妻で彼は近藤勇の義弟にあたる。一時京都守護職の預かりになる。
江戸開城後に旧幕府脱走軍に参加してその後函館新撰組第一分隊に所属し奮戦。弁天台場で降伏。終戦後の消息は不明。
ちなみに他に近藤勇の親類で新撰組に参加したのは宮川信吉(甥・一番隊伍長を務め天満屋事件で戦死)がいる。
宮川は活躍を残しているが松井に関しては参加が遅く情報が少ないためか近藤の弟にも関わらず全く注目されてないマイナー人物。
蓑田伝兵衛
677 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 14:39:49
他にはいますか?
678 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 06:35:34
小笠原唯八。
高知城下に近い小高坂村で生まれ育った土佐藩士。武市半平太と同い年生まれ。
先祖は三河武士。苗字は小笠原ではなかった。江戸初期に浪人し京都で暮らしていたが、土佐の山内忠義に拾われた。
その末裔の唯八は尊皇攘夷思想の持ち主ではあったが、激しい性格な上に下士嫌いだった。
勤皇党の獄では後藤象二郎と並ぶコワモテの代表だったが、
君命で安芸郡の勤皇党員たちを尋問ぬき大量処刑させられた時にはショックを受け、
元来は豪放磊落だったのが厭世的になったと言われている。
中岡、板垣、大石、谷、佐々木、本山と共に土佐の過激派の代表格となるが、
厭世観は東征でも消えなかった。会津戦争ではテキパキと自軍を指揮していたが、敵兵に狙撃され討死。
最後の言葉は「吾、死所を得たり」。
勤皇党の獄では逆の立場だった安岡覚之助も小笠原同様に厭世観に陥っており、会津戦争で討死。
小笠原より中岡や板垣の方がずっと重要人物だったから当然と言えば当然だが、
少なくともどうでもいい存在ではなかったのに知られていない。
679 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 07:13:46
マイナーではないよ
680 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 13:50:35
>>678 メジャーとは言いがたいけど、マイナーとは言えないよ
小笠原唯八は谷干城、佐々木高行、吉松速之助と同じ扈従組(他潘の
小姓組)の貧乏上士の出だね。
吉松といえば、小笠原より彼の方がマイナーかも・・・
681 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 13:53:17
ある時代、ある地域、ある分野が好きな歴史ヲタの間でも有名ではない香具師でなきゃ。
682 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 14:18:29
第二次征長戦争
幕府の指揮官
小笠原長行
683 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 15:42:57
小笠原長行はマイナーじゃないでしょ
独断で賠償金払ったりクーデター起こそうとしたり
第2次長州征討の指揮官だったり最後の最後まで新政府に抵抗したり
685 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 13:11:46
望月亀弥太
土佐藩の坂本龍馬を名乗るとただ飯が食えるんで、龍馬の名前を
寸借詐欺してたんじゃないかなぁ。
686 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 14:24:33
>>望月亀弥太
>>土佐藩の坂本龍馬を名乗るとただ飯が食えるんで、龍馬の名前を
>>寸借詐欺してたんじゃないかなぁ。
寸借詐欺がばれたもんで、海難事故で死んだふり。
長州藩の高杉晋作の元に身を寄せて、奇兵隊の創立に
影で関わる。
687 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 17:37:59
メジャーな名前ばかりだな
688 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 18:22:50
>>685 彼は白札出身だね
親分の武市が白札上がりの留守居組ってことは知られているけど、
白札で脱藩してまで勤皇運動を続けたのは望月ぐらい
白札は他の下士よりも山内家への忠誠心が強かったらしい
689 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 20:55:07
土佐の話が出てるから便乗して・・・
伯爵になりながらも没後マイナーな一人は土方久元
主義者で爵位を剥奪された孫の方がメジャーw
690 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 21:00:10
マイナーといえば
椋梨藤太
大楽源太郎
秋良順之助
月形潜蔵
691 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 00:18:45
>>690 月形と大楽はマイナーとは言えないような・・・
メジャーではないからマイナーかな?
荒神山の決闘で吉良の仁吉をたおした角井間之助(穴太徳の用心棒)。
ジョゼフ彦はジョン万次郎と比べると知名度が低いような気がする
ウラジミル・ヨシフォヴィチ・ヤマトフもマイナーだぜ
694 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 01:50:29
辻将曹
島村志津摩
小宮民部
二木求馬
長岡監物
立花壱岐
加藤司書
高場乱
小河真文
水野正名
有馬監物
今井栄
村上守太郎
古松簡二
矢野定雄
695 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 19:08:57
小幡篤次郎
696 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 19:35:26
三家老にくらべると四参謀はマイナーだよな
宍戸左馬之介、佐久間佐兵衞、竹内正兵衞、中村九郎
上岡胆治。高岡郡の地下浪人出身で土佐勤皇党員。
脱藩して国事に奔走。禁門の変で討死。
698 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 08:24:06
( ´・ω・`)ノ
699 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 12:46:45
超マイナーな豊前彦山勤王党の俗名
藤山衞門
佐竹織江
水谷左門
南条丹三
安達昇
阿部豪逸
政所有緜
鷹羽浄典
渋川栄承
宇都宮有允
宇都宮尭岷
佐久間勝信
生島大炊
城島公茂
橋本有幸
高根正也
別所彦助
渡辺三郎
渡辺弥助
700 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 14:16:45
>>48 あ、この人うちの先祖の肖像画の画賛を書いた人だ。
近衛家に招かれて伊丹郷町の塾の塾頭になったけど、とんでもない大酒飲みで、
すっからかんになったあと大坂に出たらしい。
701 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 15:12:43
江戸の総攻撃の準備
東征大総督・有栖川宮熾仁親王
参謀・正親町公薫
参謀・西小辻公業参謀・広沢兵助(真臣)広沢は後々辞した。
広沢に変わり
参謀・西郷隆盛
参謀・林玖十郎
薩摩藩
長州藩
肥前藩
彦根藩
土佐藩
筑前藩
安芸藩
岡山藩
宇和島藩
東征大総督・有栖川宮熾仁親王
参謀・正親町公薫
参謀・西小辻公業参謀・広沢兵助(真臣)広沢は後々辞した。
広沢に変わり
参謀・西郷隆盛
参謀・林玖十郎
文献みてたら載っていた。
西郷隆盛以外みな無名Wikipediaにも載らないくらい無名
702 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 16:37:14
>>701 幕末朝廷の人達かな?
正親町公薫
西小辻公業
広沢兵助(真臣)
林玖十郎
文献上みることができるけど知名度低いのか?
ネット上もWikipediaにも載ってないww。
703 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 16:55:33
村田新八
吉井友実
香月経五郎
鮫島誠蔵
黒田清隆
横井大平
横井左平太
日下部太郎
大村益次郎
704 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 19:32:28
705 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 19:33:13
広沢は官軍の無慈悲な戦い方に嫌気が差して辞任した。
707 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 21:27:51
>>614 石川県の人間ですが、
さすがにタスマニアの銭屋領有説については信じられないです。
あくまでも「実際にあった」という肩書きを前につけただけの伝説で証拠がないです。
そもそもどう考えても変でしょう。
石川県とオーストラリアのタスマニア島の間に星の数ほど島があるのに
わざわざタスマニアを領有するってのは。
もっと適度なインドネシアの島などいくらでも領有できる島はありますのに。
やはり、当時の海外進出盛んだった頃の日本の怪しい話しでしょうね。
709 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 10:01:28
奥村 五百子(おくむら いおこ)
弘化2年5月3日〜明治40年2月7日1845〜1907)
佐賀(唐津藩)生まれ。社会運動家。生家は真宗の寺院・高徳寺。
幼時から父兄の影響を受け、尊王攘夷運動に加わる。
佐幕派優勢の唐津藩の中で、父了寛が京都公家の出身であったことから、
高徳寺はこの地方の尊王派、討幕派の拠点となっていた。
長州藩の家老職である宍戸家は奥村家とは親戚にあたり、討幕運動の連携を
取り合っていたが、文久3年(1863年)に起こった下関戦争のため、
長州藩は一時、周囲から男子の入国を禁じた。
そこで奥村了寛は五百子を密使として派遣することにした。
騒乱の世に18歳の娘の一人旅では、道中が余りにも危険なので、
了寛は五百子を若武者姿に変装させ、途中までは警護をつけて送り出した。
門司の浜で五百子は従者を帰し、ひとり小舟を雇って今の下関市赤間が関浜に上陸。
ほどなく長州藩の武士たちに捕らえられるが、よく見ると女性なので武士たちは
皆驚き、対応に戸惑う。
五百子は落ち着いた態度で潜入の目的を述べ、家老への面会を求め、それを実現した。
使命を果した五百子の武勇伝は、尊王派の志士たちのあいだで有名になり、
唐津の高徳寺を訪れる志士たちも増え、寺はますます尊王運動の拠点となっていく。
慶応元年(1865年)、三条実美(さんじょうさねとみ)ら主だった公卿たちが
大宰府に逃れてきた時、奥村了寛は五百子を大宰府に派遣して、公卿たちに様々な便宜を
図っている。
明治33年(1900)北清事変がおこると皇軍慰問使に加わり、北京、天津を歴訪。
34年(1901)将兵慰問、遺家族援護を目的とする軍事援護団体・愛国婦人会を結成。
全国を遊説し、会員の拡大に努めた。
河田 八之助は昌平坂学問所時代の1854年にペリーの黒船来航時に
幕府に贈られた機関車の実演時に跨って乗ったそうです。
711 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 00:59:00
壬生宗十郎
しかし、広沢真臣は穏健過ぎた。
江戸放棄論、会津寛典処分論、これじゃ何も変わらんし、
新政府内で浮く罠。会津にとっては前原と共にいい人だろうが。
母方から会津藩士の血をひく俺が言うのも何だけどさ。
西郷が言ったといわれているように、あの戦自体足らなかったのだから。
その西郷自身が勝と示し合わせて、旧幕府を寛大処分をし、
子分の海江田なんつったらほとんど旧幕とお友達状態に。
そこに乗り込んで来たのが大村なわけだが。
ただ、あれは全て慶喜が悪い。
やるなら最初から完全武装させて都攻略令を出してやらにゃ、鳥羽・伏見。
何が討薩之表だよw
しかも、徹底抗戦を叫んだその日の夜に軍艦でとんずら。
戊辰の役はどっちが勝っても良かったからリアル素寒貧になるまでトコトンやるべきだった。
どっちが日本のシャーマンに焼け野原にされたって構わなかった。
半端は禁物。
今こそ日本が真っ二つに別れたシビルウォーが必要な時だけどな
地域間のウォーじゃなくてね
714 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 17:26:10
ゼブラちゃんちゃこりんマン
才谷梅太郎
石川誠之助
真田喜平太
あの真田幸村の子孫なのに…
717 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 09:03:36
伊庭八郎ってマイナーではないが、土方とは江戸からの付き合いだと本で読んだが本当にそうなのか?
箱舘戦争で再会する、という話の続きだが
浪士組に応募する前の試衛館時代に、知り合いだったみたいよ。
遊び友達だったような・・・
嘘くせー
道場の掛け持ちしている剣士とかもいただろうし、
結構道場間の交流もあったでしょ。
市ヶ谷の試衛館は、九段の練兵館と交流があったし。
伊庭道場は直参旗本の坊ちゃんが多かったみたいだが、
講武所の教授方を目指していた近藤が、伊庭道場の関係者と
顔見知りだった可能性は高いと思う。
土方もそんな近藤のそばに居れば、伊庭八郎と知り合いになっていても
不思議じゃないよね。お互い女遊びがお盛んだったようだし。
赤松小三郎 信州上田藩士 兵学・洋学者
佐久間象山・勝海舟・オランダ人教師から、蘭学・兵学・数学などを学ぶ。
薩摩藩から兵学者として招かれる。
村田新八・東郷平八郎・中村半次郎ら薩摩藩士に兵学を教授する。
開国洋学者として、松平春嶽に西洋の議会制国家論を提唱する。
坂本龍馬は春嶽からこの案を聞き、船中八策として練り上げる。
公武合体、反倒幕論者だった為、薩摩から幕府のスパイだと誤解され、
67年京で中村半次郎らに暗殺される。
後年、東郷平八郎が上田に赤松の碑を建てる。
722 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6 :2009/04/05(日) 04:30:17
武市瑞山、中岡慎太郎、板垣退助も今や知名度が低い。
龍馬人気の影に隠れてね(中岡は龍馬のおまけ程度の扱い)。
板垣が戊辰戦争で軍人だったことを知っている人は非常に少なく、
はたまた武士出身だと知らない人までいる始末。
せいぜい百円札のおっつぁんって程度。
あと、武市は映画「人斬り」の電波で以蔵を苦しめる悪の権化、
板垣は漫画「お〜い竜馬」で龍馬や以蔵を苦しめる悪の権化として、
それぞれ誤解されて一部の人たちに知られているけど。
勝新はあの世で武市にどつきまされてるだろう。
板垣は武田鉄矢が来るのを待ちかねてるぜw
724 :
a:2009/04/05(日) 04:37:31
幕末では、伊藤博文も奇兵隊に居たのに余り出てこないよね。高杉晋作とか桂小五郎ばっか。なんか、元、力士でしょ?
>龍馬人気の影に隠れてね
龍馬人気で割り食ったのは何といっても見廻組の皆さんだな。
当初から新撰組が殺ったとデマが飛び
いまだに薩摩やら土佐やらが黒幕だったことにされてしまう始末。
生き残りの渡辺篤が手記で
新撰組犯人説のデマが飛んだことに触れていて
ホントに悔しそうな書きぶりだったんでワロタ。
726 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 03:14:46
外山脩造(とやま しゅうぞう、1842年11月10日 - 1916年1月13日)
外山脩造は、新潟県長岡市(旧栃尾市)出身の明治期の実業家、政治家。
村役人外山伝の子として生まれた脩造は、17歳で江戸へ行き、清川八郎、塩谷宕陰のもとで学業を修め、昌平坂学問所に入った。
維新の動乱期、河井継之助のもと、長岡で戦い、河井の遺訓により商人として生きることを決意する。
明治2年に慶應義塾、明治4年に開成学校に入った脩造は、5年に秋田県に出仕し、翌年、大蔵省銀行課に入り、国立銀行創設に力を出した。
明治11年渋沢栄一の斡旋で大阪第三十二国立銀行総監役として、業務の内容に取り組み、明治15年から3年間、日本銀行大阪支店長に就任して大阪銀行界の指導者になった。
明治20年から21年にかけて欧米の経済機関視察に加わった脩造は、信用調査機関の必要性を再認識し、明治24年、大阪に商業興信所を設立して自ら総長となった。
またその前に大阪貯蓄銀行副頭取、明治25年に衆議院議員、明治31年、浪速銀行頭取、大阪舎密工業社長、明治32年に阪神電鉄社長に就任したのをはじめ数多くの関西の会社設立に尽力し、
大阪銀行集会所委員長として関西財界の指導者として活躍した。
>>717 >>718 >>720 とりあえず、土方と伊庭の江戸での交友はまず創作といえよう。
明治か大正の作家(名は今失念)がまずそういう逸話を作って、
以来それからネタ盗りした作家が多い。
ただ、無かったとかいえないだろ?と言われたらそれまでだが、
れっきとした幕臣・奥詰めで将軍上洛の警護もしたような、
高名な伊庭道場の後継者と土方が交友していたとは、
正直あまり考えられない。
伊庭には新吉原に馴染みの花魁、稲本楼の小稲がいたが
(その小稲の上客にはあの河井継之介もいる)
その店は土方の財布で遊べるような格の店ではない。
伊庭の友人はほとんどが、幕臣、御家人。
親類も幕臣や講武所務めが多い。
通称「征西日記」から、京都での交友をみても知己はみな幕臣だ。
幕末の人気者同士が江戸でも遊び仲間だったという逸話は
面白く創作のネタになるだろうけど、それまでのコト。
立証できるような証言もなし。
同人誌のネタとして格好のネタだけどな。
ワシントンの桜の木と同じようなもんか
>>727 なるほどね。
確かに行商時代の土方がどうやって武家の伊庭と知り合ったのかも不思議に思ってた。
おっしゃる通り伊庭も武家の子供だから、交友関係もそれなりの人になるな。
土方が没した二日後に伊庭も没したということも相俟ってそういうネタが浮き上がったんだろな。
本当の史実とネタとを区別するのが難しいね。本当に友達だったなら面白いけれど
伊庭で思い出したが、
幕末には長州の遊撃隊と伊庭の遊撃隊があってややこしいな。
自分の記憶違いかな?
>>729 727です。
自分は東京日野市近隣の市の生まれで、土方は好きな人物。
なので、別に土方の身分をどーのこーの言うわけではなく、
ネタとしては面白いけど、実際の二人の境遇や生育歴から考えると
「仲良し」っていうのは考えづらい・・・と。
伊庭は部屋住みから召し出されて御番衆になり、すぐに奥詰に。
後に沼津兵学校の教員になる中根香亭とも幼少時代から親しかったし、
弟たちの養子先はみな旗本御家人の家。
また山岡鉄舟の娘の回顧談にも登場するような青年なので
土方との接点はあまり考えられない・・・というのが自論です。
吉原という遊興地から考えても、遊ぶ店の格は違うのではないかと。
でも伊庭八郎のマニアwな人のなかには、
土方と伊庭の遊び友達説を嬉しく信じている人も、結構多いよ。
絵的には美味しい話ですよね。
732 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 18:35:42
なるほどな。
よく土方が奉公時代に出会うみたいな話を聞くが、話として作りやすいわな。
坂本龍馬が小千葉時代に新撰組の面々と知り合いだったと言うのと変わらない気もするけどな
734 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 17:32:51
山田方谷はもっと評価されるべき
方谷は超評価されてるじゃん
方谷駅まで出来ちゃって
マイナーなだけですよ
736 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 01:16:38
リアル幕末では結構メジャー、現代ではマイナー、
(しかしそういうやつらも掘りつくされてるかも)
とりあえず途中まで見た中で出てこなかった人
小野友五郎
平山敬忠
山口直毅
川勝広運
向山黄村
幕臣ばかりじゃ・・・・
児玉次郎彦(1842〜1864)
徳山藩士。藩校の一刀流剣術指南・浅見栄三郎の次男として生まれる。
後、児玉半九郎の娘・久子と結婚。児玉氏を継ぐ。
徳山藩出身の国学者・飯田忠彦が幕府に罪を問われ、
『大日本野史』『門跡伝』などの著書が伏見奉行・林忠交に取り上げられた際、
有栖川宮熾仁親王の命を奉じて林邸に往来、これを取り返した。
周旋方として国事に奔走。若干22歳で藩の大目付、京都留守居役に任ぜらる。
また、藩校・興譲館の助訓役、学寮長ともなった。
1864年8月9日、同志・河田佳蔵らが藩内の保守派・富山源次郎の暗殺に失敗。
次郎彦もその一味と目され、8月12日早朝、保守派に暗殺された。享年23歳。
明治31年7月4日、従四位を贈られる。
現在、児玉家屋敷跡の一角に「贈従四位児玉次郎彦君遭難之跡」の碑が建っている。
義弟・源太郎は有名なのに……orz
738 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 01:26:38
>>731 伊庭の辞世の句もあって余計拍車をかけてるんだろうな
戦死した親友に向けて詠んだ和歌だもんな
739 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 03:13:44
昔は超有名だったのに今やマイナー
月形潜蔵
740 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 03:22:13
741 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 13:06:34
こんどう いさむ
どかた さいぞう
月形潜蔵って名前はかっこいいんだけどな。
轟武兵衛もかっこいい割にマイナー、かつ九州志士という共通点が
矢田堀鴻
744 :
日本@名無史さん:2009/09/20(日) 01:03:30
age
745 :
日本@名無史さん:2009/09/20(日) 01:15:05
当時有名・今無名と言えば堀織部正じゃないか
746 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 21:22:59
「そのような暴論は戦を起こす、国賊なり」と言われて腹を切る。ミドルの悲劇が織部の最後
747 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 21:36:53
赤根たけと
748 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 22:31:03
犬飼兵庫
749 :
日本@名無史さん:2009/11/03(火) 23:51:21
陸奥出海
750 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 11:36:48
浦靭負
ここだけの話、私は千葉周作の血をひいてます
矢田堀の小説読んだ。勝・榎本は微妙な立場だった。木村はいい仲間扱い。
小野の小説も読んだ。中浜・小栗と深い関係だった。
だが、あくまで小説。研究本などは出てなさそう。
堀は「外国奉行なんたら」という本で、岩瀬、水野、永井、井上とともに詳しく書かれていた。
まだ川勝、平山、杉浦、向山あたりの詳しい本にはお目にかかっていない。
村瀬などはある意味有名かも。
堀は腹切る、岩瀬は憤死、井上病死、川路は自殺、水野も死、小栗は惨殺、
残った勝先生がひとり奮闘しましたとさ。
けんしんの本名てなんでしたっけ
756 :
日本@名無史さん:2010/01/27(水) 22:14:17
長谷川平蔵じゃなかった?
会津は駄目なのばっかし有名(T-T)
弘化3年(安芸国御手洗島)生まれ、山岡鉄舟に剣を学び無刀流八段免許皆伝、慶應3年11月3日故郷御手洗島において薩,長、芸、土、の四藩連合の軍事同盟成立に立会う。
伏見鳥羽の戦には錦旗護衛長をつとめる。明治元年、西郷隆盛と共に16名小御所において正五位綬三等に叙される。晩年は島根県温泉津の長命館 伊藤様のお世話になり96歳で浄土へ、
温泉津温泉のはずれに胸像が建っている。
安芸の国豊田郡御手洗島大長出身
弘化3年2月13日生まれ、山岡鉄舟門下、無刀流八段免許皆伝、
慶應3年11月7日御手洗島にて、長州、薩摩、土佐、芸州 四藩連合の
軍事同盟を故郷の我家本徳寺で結ぶ、坂本龍馬、大村益次郎、たち14人が
集まった。
鳥羽伏見の戦いには錦の御旗の守備隊長として参加、明治元年正五位綬三等に叙せられる。
晩年は島根県温泉津にてすごし、温泉街のはずれに胸像がある。
762 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 07:33:46
764 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 10:32:22
玉松操はメジャー?
幕末の人物としてはマイナー、明治の人物としてはメジャーってとこではないかしらね?
766 :
日本@名無史さん:
土佐の由比猪内について知ってる人いる?
東洋門下で幕末は京都詰大監察だったと思う。
生年没年や経歴が分からん><