戦前・戦後の日本右翼と暴力団

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83日本@名無史さん
依頼されたのは要するにスト破りの仕事であった。労働組合を潰し680人を入院させる
までに全愛会議はスト破りの仕事にしっかりと取り組んだ。
彼らが理論など用いる連中で無いことは誰の目にも明らかだった。

この巨大な連合体である全愛会議内に派閥が起こるのは当然のことであった
1961年4月、全愛会議内のヤクザ団体である松葉会、日本国粋会、日本義人党、興論社
が脱退して右翼暴力団の総連合体である日本自由主義連盟を作った。
その同じ年に、児玉に忠実なより活動的なグループが全愛会議内に生まれた。
これが通称青思会で知られる青年思想研究会であった。犯罪とは無関係に聞こえる名前
ではあったが、青思会はその母体以上にはるかに犯罪的傾向が強かった。
日乃丸青年隊の高橋正義を議長とする青思会もまた下部組織を持ち、その中には東京の
巨大シンジケート住吉会が、あるいは在日朝鮮人の親分町井久之が代表を務めている
組織などがあった。

児玉は1960年代には青思会に大きな支配力を持ち続け、ついに60年代終わりの激しい
派閥抗争の最中に全愛会議から脱退させた。
それからまもなくして愛党心の強い青思会の120人の猛者たちが東京から新潟県にある
越後三山に向かった。そこに軍事訓練場を設営して喧嘩の仕方、身体作りや爆弾の
投げ方などの基礎訓練を受けた。児玉は彼の部隊を見守り続け、訓練が終わると
「君たち各人が一人一殺ではなく、一人で100人の敵を殺してくれることを望む」と
激励して送り出した。

仮に青思会が殺人に関与した事があるとしても、実際に何人殺したのか正確な数は
解っていない。