★★★姫路の歴史★★★

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25姫路市民:03/02/20 17:51
>>24 ありがとうございます。

ちょっと姫路市福町というのを探したんですが、ありませんでした。
もしかして昔の地名なんでしょうか?

それと子孫の方は書写の方に住んでおられると聞きました。
26姫路市民:03/02/20 17:52
>>24
それと、姫路紡績と言うのは龍田紡績の事なんでしょうか?
27日本@名無史さん:03/02/20 18:15
>>22
歴史学者だったと思う。東京帝国大学教授だったよね?
子孫東京じゃなくて姫路にいるの?
姫路の辻家といえばかなりの名門て聞いたけど、どういう家柄なの?
28日本@名無史さん:03/02/20 18:19
漢字変換ができないので言葉で表現しますが『福』の旧字体でしょうか。。
こざと編の『ネ』の部分が『示』となっていましたね。
旧字体で書かれた人名事典なので読みずらいのですが産業界に入って
1代で築き上げたというようなことが書かれていましたね。
広大な土地を所有していたことも書かれていました。
もう一人の藤森慎二氏につきましては手掛かりが得られないですね。
龍田紡績が既に明治の中期からあればそういうこともあるかもしれませんね。
29姫路市民:03/02/20 18:25
>>27
和辻氏の子孫の一人は仁豊野在住です。

辻氏は多分姫路市S国在住の人だと思います。
(昭和47年の姫路高額納税者ベスト20にも入った人)

それと商売をやってる人がいるんですが、そのどちらかだと思います。
因みにその方は姫路有数の高級住宅地に住んでおられます。
30姫路市民:03/02/20 18:33
>>28
藤森慎二氏の次男(確か)が藤森春樹氏(元姫路医師会長、藤森医院院長)
長男は慶応医大卒業後、研究職に就いたが父の慎二氏が参院当選したので急遽、
慎二氏の秘書に就いた。しかし慎二氏は60代で他界。
確か長男は現在は藤森病院理事長、看護学校校長。
それと世界耳鼻咽喉学会の会長もされていると思った。
現在は確か世田谷在住。
31日本@名無史さん:03/02/20 18:46
御子息が現役で活躍されているところから推測しますが、藤森慎二氏は明治生まれで
昭和の初期〜中期に活躍されたということでしょうか。
32姫路市民:03/02/20 21:27
>>31
御長男が確か90歳くらいだと思います。
(確かその息子さんは元厚生省のキャリア官僚だったと思います。)
なので慎二氏が活躍されたのは昭和初期位だと思います。

慎二氏は大学を卒業後確か姫路市の藤森医院のあたりで医院を
開かれていたと思います。
因みに生前の家が船橋町辺りにありますが凄く広大な物(目測で500坪くらい)
で恐らくその家が慎二氏の最初の診療所だと思います。



33日本@名無史さん:03/02/20 21:48
酒井歌の噛みが厩橋を放棄して姫路に国かえしたということは、やはりそれだけ実高がよかった
ということだと思うが、厩橋は実高10万石で、姫路は実高25万石という噂は本当?
34日本@名無史さん:03/02/21 02:13
>>33
関東・近畿エリアの譜代大名は島津・毛利・前田等外様大名のように領地を
一円支配していたわけでもなく(同じ郡で隣村の領主が違うのは当たり前)、
同じ姫路城主でも時代によって領地になっている村が微妙に違っていたりす
るから、必ずしもそうとは言えません。
本多忠政・忠刻時代の姫路領は15万石+千姫化粧料10万石だったりする
から、実高25万石以上あったと思われます。
酒井家の場合は、居城である前橋城が水害で本丸を放棄して三の丸に移転す
るなど不便な上に出費が嵩むという状態でした。また、「上州無宿」を生ん
だ土壌となった領主支配の錯綜のため飛び領地が分散しており、行政コスト
がかかるという点も財政的な負担となっていました。
これらの点が国替えで解消されるだけでも、だいぶ楽になるのではないでし
ょうか?
ちなみに、交替相手の松平家はやはり前橋に住めず、秋元家が山形へ移った
後の川越に入りましたが、5〜8万石レベルの城下町であったため15万石
の家臣団を収容するのに苦心したようです。
また、大きく分けても川越一帯・前橋周辺に大きく領地が2分され、三浦半
島警備を命じられる際に一部を相模に村換えされるなど一層所領が分散して
負担になった模様です。
35日本@名無史さん:03/02/21 12:13
>>28
>こざと編の『ネ』の部分が『示』となっていましたね。
なぜ誰も指摘してあげないんんだ。
「おかしい」と。
3633:03/02/21 12:15
>34ありがとう。なるほどねえ、いろいろ複雑なんだな。
37日本@名無史さん:03/02/21 16:27
『福町』ではなく『福中町』でした。
福中町::(近世〜近代)江戸期〜現在の町名。江戸期は姫路城下の1町。町人地
明治初年〜明治22年は姫路を冠称。姫路城の南西、舟場川左岸、備前門内に位置する。
元亀年間舟場川右岸の福沢町周辺を下福中村、福中町周辺を上福中村と称したという。
上福中村は、のちの中ノ門内から竪町にわたって40軒余となり、慶長年間の町割によって
上福中村は外曲輪の町屋敷となり、福中町と称した。福中は府中の改称か(市制30年姫路市史)
元和年間頃の姫路城下図(多木文化振興会蔵)には当町が見える。北の山陽道筋の坂元町が寛永年間
堀凌えをしてから、住人の往来が当町筋に変わり、駅馬の継立所、宿屋が多くなり、旅籠屋27軒の
うち、福中町は17軒(播州姫路考略記.播陽事始経歴考) 元文5年の家数61。明治4年福中町  
伝馬所に姫路郵便取扱所が置かれた。同14年戸数59、人口247、宅地5、584坪。
同22年姫路市に所属。明治期には浜本八治郎、神村信五郎ら町内移住の実業家が、呉服、洋品、紡績
電気、金融などの事業に活躍した。大正元年の戸数73(姫路紀要)
世帯数・人口数は、昭和2年69・421、同35年74・350。昭和59年区画整理により一部が
坂元町・魚町となり、同年福中内新町・俵町・西魚町の各一部を編入。

角川書店 日本地名大辞典 28巻 兵庫
 
現在の福中町は当時と若干違うようです。それにしても歴史のある町ですね。                  
  
38姫路市民:03/02/21 18:09
>>37長いレスありがとうございました。
今では結構物騒な所ですが歴史のある町だったんですね。

それと龍田紡績の創業者の出自なども知りたいんです。
たぶん龍田氏は大正、昭和だと姫路髄一の名士だったと思うんですが
その辺はどうでしょうか?

あと岡上精三氏とかも明治の飾磨市の市長だったみたいですが
江戸時代とかはどんな家柄だったのでしょうか?

39日本@名無史さん:03/02/21 19:05
龍田紡績は100年前から『龍田』のなまえが変わっていないらしいですね。
これはすぐに調べられるかもしれません。

岡山精三氏は難しいかもしれませんね。どうなんでしょう、当時の市長は選挙でなったのか
中央から任命されたのかどちらでしょうね。どちらにせよ相当の家柄ではないとなれなかった
かもしれませんね。中央からの派遣ですと地元とあまり接点が無い人かもしれませんよ。
40日本@名無史さん:03/02/21 19:49
選挙のはずはないですよね。このひとは明治のいつ頃の市長なんですか。

41日本@名無史さん:03/02/21 20:28
>>5
「酒井」じゃなくて坂井時忠じゃよ。   
42姫路市民:03/02/21 21:38
>>40
分からないんです。 
でも飾磨が姫路市に入る前だから明治の終わりごろではないんでしょうか?
43姫路市民:03/02/22 00:17
>>39 「龍田」ってこの辺にルーツがありそうなんですがどうでしょうか?

その太子町ですが、首藤正弘町長が『揖龍合併』の会合に参加しているものの
町議会(松本春雄議長)が不参加という異常事態になっています。まぁ自分は
「町長が会合に参加しているのも今までの揖龍地区としての付き合いに対する
『義理』である」と読んでいますが。というのも、太子町長は『首藤』という
姓からして旧・石海村の福地の出身だと思われます。太子町の4地区(斑鳩・
太田・石海・龍田の旧4町村)の中でもJR網干駅のすぐ近くの石海地区は、
国道2号線で姫路市と接している太田地区とともに姫路寄りと目されている
地域です(石海地区在住の人の中には「徒歩もしくは自転車でJR網干駅まで
出て電車で通勤」という人も多いでしょう)。ですから、町長も町民の中に
「合併するなら龍野よりも姫路と」という意見が少なくないという事も肌で
感じているはずです。また、龍野に近い斑鳩地区や龍田地区にしても龍野との
合併を積極的に望んでいるかどうか疑問ですし、町民には「龍野とも姫路とも
合併して欲しくない」という声も根強いようですから…。町長の立場としても
「『揖龍』としての今までの行政的結びつき」と「町民の意識」との板挟みで
辛いところなのかも知れません。
44日本@名無史さん:03/02/22 13:46
図書館に行ったら辻善之助の本があった。「日本仏教史」だったかな。
東京帝国大学教授だって。
45日本@名無史さん:03/02/22 15:25
人名辞典せしらべて分かったのですが、『龍田』の姓は兵庫県とくに姫路周辺に多いんですね。
人名がそのまま地名になることは、よくあることですね。江戸氏や千葉氏がそのまま地名
になった事を考えると、龍田氏は中世の時期まで豪族だった可能性もありますね。
紡績のことを調べてわかったのですが、明治期ににわかに出現したのではなく、酒井氏
の治世から発展してきた経緯があるのですね。そうすると、龍田氏は、会社を起こす
かなり前から、綿糸の関連にあったのだとおもうのですが。」
46姫路市民:03/02/22 19:01
>>45
ありがとうございます。 でも龍田氏って何処の出なんでしょうね?

ちなみに亀山御坊さんの門徒総代・龍野の永富は400年位前に富山から来たと聞きました
47日本@名無史さん:03/02/22 19:29
本願寺の発祥はどこなんでしょうね。400年前、龍野に開いたということは
それなりの必然性があった場所だったんでしょうね。小京都とも言はれている所ですね。
永富という方が、門徒総代をされているのですか。
48日本@名無史さん:03/02/22 20:34
姫路名物になってる『おらんだ』菓子って本当にオランダから
来た物なのでしょうか? 洋菓子というより、中国風のお菓子
に思えるのですが……
49姫路市民:03/02/22 20:49
>>47
いえいえ・・ 姫路市亀山御坊本徳寺(東本願寺大谷派)の事です。

そこの門徒(檀家だと思うんですが門徒と書いてました)総代が
龍野の鹿島守之助(永富家・四男)と言う事です。
石川六郎氏の妻で女流画家の石川ヨシコ(守之助の娘)さんが
描かれた大広間格天井画はスバラシイです。
50姫路市民:03/02/22 20:55
因みに石川六郎(東大工)は初代経団連会長・石川一郎の息子で運輸省官僚、
兄弟は東大名誉教授や三菱石油会長
51日本@名無史さん:03/02/23 18:56
山陽道旅行ガイドに永富家のことが載っているのを発見しました。
現存する、文政年間に建てられた母屋、5棟の土蔵、その他ゆかりの品々
龍野候から送られた和歌があるところから、詳しくは分かりませんが相当の
名家だったようですね。

姫路城大改修の古映像で、大きな通りを一本の屋台骨になる木柱が曳かれていた
映像が印象に残っていたのですが、地図をみますと、大手前道りという通りが
ありました。 姫路駅から何の障害物も無く白鷺城がみられるということは、
綿密に都市計画がされたのですね。
5251:03/02/23 18:58
>>48
オランダ菓子ってどういうおかしなんですか。
53日本@名無史さん:03/02/23 19:22
>>52 ようするにカリントウの事です。
河合寸翁という家老が藩士を長崎に派遣して、
オランダ人から製菓技術を習得した……そう
なんです。
54姫路市民:03/02/23 19:29
ちょっと書き忘れましたが
鹿島守之助氏は鹿島建設社長、文学博士、国務大臣、東大卒で
龍野の生家は重要文化財に指定されてます。大庄屋時代は龍野藩に金を融通していた。
55酒井忠惇@近藤正臣:03/02/23 20:20
姫路藩酒井家の、年貢米以外の収入源って何だったんですか?
56日本@名無史さん:03/02/24 16:19
>>53 ありがとうございます。カリンウのことですか。洋のものとも和のものとも
つかないお菓子と思っていたのですが、長崎からだったんですね。


永富家
1580年に秀吉の命によって築城するまえは、二階町辺りに100戸の宿の本村
茶町辺りに40戸の高尾宿村、5軒屋敷の地に国府寺村、その北に野里村、福中町
に福中村龍野町の北に山ノ井村が点在し、今のお城の地域は総数2、300戸の民家
がある程度のものだったらしいのですが、築城と共に、龍野町に楽市の許可証を
与え、いろいろな税を免除して領内各地から商人や職人をまねいたり住民を移住
させたりしたそうです。堺、生野の町名は、移住者の以前の地名をとったものであろう
と思われます。永富家は、秀吉の政策によって移住して来た、もしくは自発的に
来たのかもしれませんね。
57姫路市民:03/02/24 18:02
>>55
主な物だと牛革だと思います。 後はちょっと分かりません。
58hる:03/02/24 19:12
暴○団の街「姫路」と歴史はどう関係があるの?
59日本@名無史さん:03/02/25 18:18
>>55
木綿も収入源だったようです。周辺の綿作の影響もあって、播州平野一帯で
なかでも加古郡、印南郡はもっとも盛んな地域でした。
そこで生産された木綿は、長束木綿と呼ばれ、天保7年1836年には姫路藩
の木綿専売のもとで、特産品として大量に江戸に出荷されました。
領内で151万反(151万人分)領外で49万反の生産があり問屋が集めた
木綿は、飾磨(姫路市)や高砂といった姫路藩の湊で出荷されていきました。
60姫路市民:03/02/25 20:28
米で財をなした天下の大富豪近藤文蔵
日本一を誇った加東郡の近藤家
http://www.geocities.com/Tokyo/Fuji/3251/kawag2.html

この人の家が何処にあったか知ってる人いますか?
61日本@名無史さん:03/02/25 20:58
>>60
京、大阪、江戸以外にもこのような豪商がいたことに、興味があります。

現在の地名の何処ら辺の地域かのできれば細かいヒントをください。
62姫路市民:03/02/25 21:44
>>61
自分も竹村健一氏の先祖と生野髄一の実業家で担陽信用金庫の初代理事長のルーツを
調べていて近藤氏が分かったのでこのHP以外は知らないんです。
(竹村健一氏のルーツは大半がダムの底に沈んだ生野町黒川地区の豪商で木地師。
因みに木地師とは天皇から全国全ての山の8合目以上の木の伐採許可を
与えられた家で全ての家に家紋があったという。)
http://www.kansai.ne.jp/ikunohp/p2-3.htm
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tk7716/kurokawa-spa.html

でも近藤氏が加古川中流の市場村に居を構えていた事は載っていました。

因みに近藤氏は加西・加東・多可3郡に亙って数千町歩の新田を開発し、丹波柏原から
播磨高砂港に至るまで、加古川流域の産米はほぼすべて近藤が押さえ ていたとう
63日本@名無史さん:03/02/26 19:13


・・・・帆船数隻による回漕業がもっとも成功した。外国船との貿易や新田開発
鶴亀池(山田村)、大谷池(奥村)などの溜池の築造、さらに美なぎ郡との
車道も完成させた。さらに邸宅近くの山田川下流に一大市場を開き、市場村の起源
をつくった。亀蔵(近藤氏のこと)は小野藩主の新任も厚く領内年貢米の販売
委任を受けるとともに、幕府に献金すること数回、そのため10人扶持を加給
され、面積1町(1ヘクタール位?)の宅地は永代無貢の特許を得た。

要は、山田川下流に1ヘクタールの宅地があった。ことしか今の所・・・

姫路藩士出身で明治に地元で成功した経済人、近藤某氏がいたらしいのですが
関係ありますかね?
64姫路市民:03/02/26 21:37
>>面積1町(1ヘクタール位?)の宅地    1町は3000坪です。
この広さだと姫路藩では4家老(梶、山根、蜂須賀、?)にしか許されなかった家の広さですね。
町人では大塩で最も規模の大きな塩田主の家がこの位。
あと林田町だと一万石の大庄屋・三木家にしか許されてなかったと思います。

>>地元で成功した経済人、近藤某氏・・・
この人は何で成功した人なんでしょうか?
65日本@名無史さん:03/02/27 18:25
宅地まで厳格な家格に准じて決められていた1町は大変なものだったんですね。

近藤 薫::勤王家 友太郎 長男   天保13年4月16日生誕
藩校 好古堂に学ぶ、勤王活動後、幽閉、釈放後、同藩少参事 行令司判事
刑法判事、民政奉行を経て藩兵尉官となる。その後、経済界に入り、兵庫新川に
 米商会所を起こし、又第38国立銀行を起こして常務取締役となり、同時に
兵庫運河株式会社及び幾多会社を創立して重役となり、又県会議員としても
県政に尽くしたそうです。従5位にも叙せられています。
妻、幸子との間での嫡子、静郎は第三銀行員にして川崎銀行顧問、安藤浩氏
次女翔子と婚姻する。 家系からすると友太郎→薫→静郎となるわけですが、
接点が播磨の国で近藤姓あること、経済人として活躍したことしか共通点が
今の所見当たりませんね。


66姫路市民:03/02/27 20:00
姫路の梶、蜂須賀の両氏は明治になり東京に移住しました。
あとの山根は確か加西の方に移り住み酒造会社をやっていたと思います。
確か今も家が文化財として残ってると思うんですがはっきりとは分かりません。

このように近藤氏も東京に移住したような気がしますが図書館で調べてみます。

あと、家老の屋敷の茶室は当時の大塩町の塩田主がこぞって競売で落として自分の家に
移築していますが中でも最大の塩田主である家には市の文化財に指定されている
茶室が4つもあります。ちなみに家も文化財となっていますが非公開です。







67日本@名無史さん:03/02/27 20:12
結構遺構が残っているものなのですね。

明治人名辞典には姫路で活躍した近藤薫の住所が
小石川区原町12となっています。今で言う東京都文京区の辺りですね。
近藤薫も晩年は東京に移住したということなのでしょう。
文蔵の子孫がどこへ行ったのかが気になりますね。
68日本@名無史さん:03/02/27 20:15
姫路を代表する殿様は榊原政岑です。
69 :03/03/01 22:01
財政建て直しに手腕を振るった家老、河合寸翁の子孫はどうなったんでしょうね?
姫路藩の家老と言えばやっぱり河合寸翁が思い浮かびますが・・・。
70姫路市民:03/03/02 00:01
河合って言う代々医師の家庭があるんだけどその辺りではないでしょうか?

関係無いかも知れませんが今の好古園の辺りだったかに
戦前医学校があったのですがそこに家老屋敷があったと聞きました。
71日本@名無史さん:03/03/02 18:27
姫路市はお城以外は戦災で無くなってしまったと聴いたことがあるのですが
家老屋敷が残っているとありました。姫路市内には近世や近代を偲ばせられる
ものや面影が結構残っているのですか?
72姫路市民:03/03/02 20:03
残念ながら家老屋敷は全く残っていません。
今現在、武士の屋敷で残っているのは自分が知っている限りでは坊主町(?)
だったかの元下級武士の家のK邸くらいだと思います。
中級武士の家も残って無いと思いますが、その面影が残っているのが江戸時代の
中級武士の居住区でもあり明治大正からの姫路有数の実業家・豪商が住む五軒邸の
古い御屋敷街です。
73 :03/03/13 22:11
姫路城は日本を代表する世界遺産にも登録された名城ですが、江戸期を通じて大体
十五万石ぐらいの大名の居城だったとは意外ですね、熊本、名古屋は五十万石規模
の居城になってますからね。
74日本@名無史さん
姫路城が出来た時は、池田輝政が54万石大名でしたから。
まあ、城の大きさと石高は関係ないけど。