宮本武蔵vs佐々木小次郎
この最強対決の通説でも俗説でもない真相と突き止めて
定説として世に広めてしまおうという趣旨のスレです。
大河ドラマとは違ってしまって結構です。つーか、史実とは違うだろ。
参考文献は
>>2-30 まででいいかな?
ではスタート!!
参考文献1 『小倉碑文』承応三年(西暦一六五四年)宮本伊織 爰有兵術達人名岩流者与彼求決雌雄岩流云請以真剣決雌雄武蔵対曰揮爾白刃而尽其 妙吾提木戟而顕此秘堅結漆約長門与豊前際海中有島謂舟島両雄同時相会岩流三尺白刃 来不顧命尽術武蔵以木刀之一撃殺之電光猶遅故俗改舟島謂岩流島 (読み下し) 爰に兵術の達人有り。岩流と名づく。彼と雌雄を求む。岩流云はく、真剣を以て雌 雄を決せむことを請ふと。武蔵対へて曰はく、爾、白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、我 木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前との際、海中に島有 り。舟島と謂ふ。両雄同時に相会す。岩流三尺余の白刃を手にして来たり、命を顧み ず術を尽くす。武蔵木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。故に俗に舟島を改め て岩流島と謂ふ。
参考文献2 『沼田家記』寛文十二年(西暦一六七二年) 延元様門司に被成御座候時、或年宮本武蔵玄信豊前へ罷越、二刀兵法の師を仕候。 其比小次郎と申者、岩流の兵法を仕、是も師を仕候。双方の弟子ども兵法の勝劣を申 立、武蔵小次郎兵法之仕相仕候に相究、豊前と長門之間ひく島(後に巌流島と云ふ) に出合、双方共に弟子一人も不参筈に相定、仕合を仕候処、小次郎被打殺候。 小次郎は如兼弟子一人も不参候、武蔵弟子共参り隠れ居申候。 其後に小次郎蘇生致候得共、彼弟子共参合、後にて打殺申候。 此段小倉へ相聞へ、小次郎弟子ども致一味、是非とも武蔵を打果と大勢彼島へ参申 候。依之武蔵難遁門司に遁来、延元様を遍に奉願候ニ付、御請合被成、則城中へ被召 置候ニ付、武蔵無恙運を開申候、其後武蔵を被送遣候、石井三之丞と申馬乗に、鉄炮 之共ども御附被成、道を致警固豊後へ送届、武蔵無二斎と申者に相渡申候由に御座候
参考文献3 『江海風帆草』宝永元年(西暦一七〇四年) 此島の名、兵法つかひの名に依て号くといふは非也。流儀の名也。此流を仕出せし は上田宗入此名不分明といひし者の由、此のもの不見の磯に、一ヶ年結跏趺坐して波 の打を観し、兵法の工夫して巌流と号くといふ一流を仕立ける。爰に宮本武蔵といふ 者あり、父は筑前国宮本無二之助といひし也。筑前の産也。武蔵年長じて兵法執行の ため、諸国を徘徊して豊前小倉に来り、細川越中守城下に居住す。此時上田宗入は巌 流の兵法指南し、長門国に居住し、武蔵が兵法をさみす。武蔵は父無二之助と宗入と 兵法の遺恨も有ければ、殊に安からず思ひ仕合せんことを望み、双方此島にて出会す べきよしいひ合せ、武蔵其日の装束は、繻子のヂバンをコハゼかけにして着し、五尺 の棒に筋金をあて持、宗入より先に島に渡りて腰かけて宗入を待居りけり。宗入八徳 の下に筒丸の具足を着、三尺一寸の青江といふ刀をさし、木刀を手に提、小船に乗押 渡る。武蔵先に渡りたるを見て、何とか思ひけん。彼青江の刀を抜き、刀の鞘を二つ に切て海に捨て、木刀をも海に入れ舟より上り、直ちに立合て切て懸る。宗入武蔵が 裾をなぐり払ひければ、武蔵飛あがりて、彼棒にて宗入が頭を打って打倒す。此時宗 入が刀の切先、武蔵が立付の前腰を払ひ、袴の前武蔵が膝にさがる。武蔵立ちし所を 動かず、宗入又立上らんとしけるを、又頭を打つて即時に撲殺す。武蔵小船に乗つて 小倉へ皈る。武蔵船を出さんとする時、見物の中より、宗入いかに弁之助(此時武蔵 ガ名ナリ)只今立皈るなりといひければ、死せる宗入又立ち上り海上を見て弁之助い づくへ行ぞと、一声呼んで忽ち死す。宗入此仕合には負たれ共、元来剛強の者にて剣 術も上手にて有りけりとかや。弟子も中国に多し。武蔵を討たんと覗へども心に任せ ず、武蔵は其後上方に赴き、兵庫に二年余居住す。夫より明かし小笠原右近将監殿へ 有付て居住す。
参考文献4 『干城小伝』正徳四年(西暦一七一四年)日夏繁高 中村守和曰はく、巌流、宮本武蔵と仕相の事、昔日老翁の物語を聞きしは、既に其 の期日に及びて、貴賤見物のため舟島に渡海する事夥し。巌流も船場に至りて乗船 す。巌流、渡守に告げて曰はく、今日の渡海甚し。いかなる事か在る。渡守曰はく、 君知らずや。今日は巌流と云ふ兵法遣、宮本武蔵と舟島にて仕相あり。此の故に見物 せむとて、未明より渡海ひきもきらずと云ふ。巌流が曰はく、吾其の巌流なり。渡守 驚きさゝやいて曰はく、君巌流たらば、此の船を他方につくべし。早く他州に去り給 ふべし。君の術、神のごとしといふとも、宮本が党甚だ多し。決して命を保つことあ たはじ。巌流曰はく、汝が云ふごとく、今日の仕相、吾生きむことを欲せず。然りと いへども、堅く仕相の事を約し、縦ひ死すとも約をたがふる事は勇士のせざる処な り。吾必ず船島に死すべし。汝わが魂を祭りて水をそゝぐべし。賤夫といへども其の 志を感ずとて、懐中より鼻紙袋を取出して渡守に与ふ。渡守、涙を流して其の豪勇を 感ず。既にして舟、船島につく。巌流舟より飛び下り武蔵を待つ。武蔵も又爰に来り て、終に刺撃に及ぶ。巌流精力を励まし、電光のごとく、稲妻のごとく術をふるふと いへども、不幸にして命を舟島にとゞむなり。 愚曰はく、中村守和は、十郎右衛門と号して、侍従松平忠栄に仕ふ。刀術及び柔術 に達せり。或人の説に、武蔵巌流と仕相を約して舟島に赴く時、武蔵は棹のそれを船 人に乞ひて、脇指を抜きて持つべき所をほそめ、船よりあがりて是を以て勝負をな す。巌流は物干ざほと名付けし三尺余の太刀を以て勝負をしたりと。今に舟島に巌流 の墓あり。 (原文は漢文らしいが見つからなかった。許せ)
6 :
日本@名無史さん :03/01/11 21:09
アントニオ猪木VSマサ齋藤。 これぞ真の巌流島。
参考文献5 『武将感状記』正徳六年(西暦一七一六年) 宮本武蔵ハ二刀ヲ好ム、細川越中守忠利ニ仕ヘテ、京都ヨリ豊前ニ赴ク時、岸流ト 云フ剣術者、下ノ関ニ待テ武蔵ニシアイヲセント云ヒ遺ス。武蔵心得ヌトテ、棹師ニ 櫂ヲ請テ二ツニワリ、手本ヲ削ツテ、長キヲ二尺五寸、短キヲ一尺八寸ニシテ、舟ヨ リ上リ、岩流ト相闘フ、岸流ガ刀ハ三尺余リナリ。 下ノ関ノ者ドモ不残囲ミテ見物ス。武蔵二刀ヲ組テカカレバ、岸流拝ミ打ニ斬ル処 ヲウケハズシテ、其頭ヲ打ツ、岩流身ヲフリテ、左ノ肩ニ中ル、其勢ニフミ込テ横ニ 払フ、武蔵足ヲ縮メテ飛アガレバ皮袴ノ裾三寸バカリ切テ落タリ、武蔵全力ヲ出シテ 打之ニ、頭微塵ニ砕テ即座ニ死ス、岩流ガ墓ヲ築イテ今ニ其跡アリ。
参考文献6 『二天記』宝暦五年(西暦一七五五年)豊田景英 一、岩流小次郎と云剣客あり。越前宇阪庄浄教寺村の産也。天資豪宕壮健類なし。 同国の住富田勢源が家人に成て少より稽古を見覚え、長ずるに及んで、勢源が打太刀 を勉む。勢源が短刀に対して粗技能あり、猶鍛練して勝利を弁ずるに高弟各小次郎が 太刀先きに及ぶ者なし。於是勢源が肉弟治部右衛門と勝負を決して、之に打勝つ。依 て勢源が許を缺落して、自ら一流を建て岩流を号す。其法術最奇なり。諸国を経回し て名高き兵法者に会し、数度の勝負を決するに勝利不失、斯く豊前小倉に至る。太守 細川三斎翁忠興公聞召し、小次郎を停め置給ひて門弟出来て指南あり。 于時慶長十七年四月武蔵都より小倉に来る。二十九才なり。長岡佐渡興長主の第に 到り。興長主は無二の介門人なり。其故に因て来るなりと。曾て興長主に請て曰、岩 流小次郎今此地に畄りぬ。其術奇なりと承る。希くば吾手技を比べんことを。公は無 二が故有るに因て、憑み奉る者也と、謹で願ふ。興長主応諾ありて、武蔵を畄て、忠 興公御聴に達し、其日を定め、小倉の絶島に於て雌雄を決せしむ。向島と云。又船島 とも云。今又岩流島と云。豊前と長門の境、小倉より船行一里、長門下関よりも同じ 里数なり。扨前日府中に触有て、此度双方勝負の贔負及び遊観を禁止あり。興長主武 蔵に請て曰、明朝辰の上刻向島に於て岩流小次郎と仕合致すべき由を諭す。小次郎は 忠興公の船にて差越さるべし。武蔵は興長船にて可被渡也。
参考文献6 『二天記』続き 武蔵喜色面に顕れ、願望達せしことを謝す。然るに其夜武蔵去て跡なし。遍く府中 を尋れども、行衛不知、皆曰く、渠此向逗畄の内、小次郎が技芸妙術なることを聞き 及び、憶して逃げたりと云へり。興長主も如何とも為かたなく、茫然として臍を噛に 至る。稍有て興長主、家士に命じて、我つらつら是を按ずるに、渠懼れて逃るならば 何ぞ今日を待たん。察するに渠心持有ことならん、先の日下関に着て、翌日爰に来れ り。定めて下関に到り、夫より向島に往んこと必せり。急ぎ飛脚を立つべしとなり。 即ち飛脚下関に至り見れば、果して問屋小林太郎左衛門と云者の所に在り。飛脚右の 趣を告る。武蔵書を呈す。其文に曰、 明朝試合之儀に付、私其許様御船にて向島に可被遣之由被仰聞重畳御心遣之段恭奉 存候、然共今回小次郎と私とは敵対之者にて御座候。然るに小次郎は忠興様御船にて 被遣、私は其許様御船にて被遣と御座候処、御主人へ被対如何敷奉存候。此儀には御 構不被成候て可然奉存候。此段御直に可申上と存候得ども御承引なさるまじく候に 付、態と不申上候て爰元へ参居申候。御船之儀は幾重にも御断申候。明朝は爰許船に て向島へ渡候事少も支無御座候、能時分参可申候間、左様に可被思召候。以上。 四月十二日宮本武蔵 佐渡守様 右返答す。扨翌朝になり、日高なる迄武蔵寝て不起、亭主太郎左衛門は無心許思 ひ、辰の刻に及ぶべしと起し告る処に小倉より飛脚来り、舟渡の由を武蔵に告る。武 蔵無程参る可申返答し、手水し飯を仕舞ひ、亭主に請て艫を以て木刀を大きに削る。 其内又飛脚来り、早々可渡由、急告る。
10 :
宮本武蔵吉元 :03/01/11 21:13
参考文献6 『二天記』続き 武蔵は絹の袷を着て手拭を帯にはさみ、其上に綿入を着て小船に乗て出る。梢は太 郎左衛門が家奴也。船中にて紙線をして襷をかけ、右の綿入を覆て臥す。島には検使 警護の者を差渡さる。其号令厳重也。漸巳の刻過に武蔵向島に到る。島の洲崎に船を 滞めて、覆たる処の綿入を脱ぎ、刀は船に置き、短刀を差て裳を高くかゝげ、彼木刀 を提げ素足にて舟より下り、浅汀を渡ること数十歩、行く行く帯にはさむ手拭を以 て、一重の鉢巻にす。小次郎は猩々緋の袖なし羽織に、染革の立付を着し、わらしを 履み三尺余の刀を帯す。備前長光の由。甚だ待ちつかれ、武蔵が来るのをはるかに 見、憤然として進て水際に立て云。我は期に先達て来れり、汝何ぞ遅するや、吁汝後 れたるか。武蔵黙して不答。聞かざるが如し。小次郎霜刀を抜て鞘を水中に投、水際 に立て武蔵が近づくを迎ふ。時に武蔵水中に踏畄り、につこりと笑つて曰く、小次郎 負たり、勝者何ぞ其鞘を捨ん。小次郎益々怒て武蔵が相近くと斉しく、刀を真中に振 立武蔵が眉間を打つ。武蔵同じく撃処の木刀小次郎が頭に中り立所に仆る。 初め小次郎が打し太刀の切先、武蔵が鉢巻の結目にあたりてや手拭分り落つ。武蔵 は木刀提て少く立ち、又振上て撃んとす。小次郎伏ながら横に払ふ。武蔵の袷の膝の 上に垂たるを三寸許り切さきぬ。武蔵が撃処の木刀、小次郎が脇腹横骨を撃折て、即 ち気絶す。口鼻より血流れ出づ。暫く有て武蔵木刀を捨て、手を小次郎が口鼻に覆 ひ、顔をよせて死活を窺ふ事暫也。而して後遥かに検使に向つて一礼し、立て木刀を 把り、元の船に行き飛乗、自らも共に棹して行事速か也。下関に皈り、興長主に書を 呈して礼謝す。 其後小倉に到り、興長主に忠興公の士何某と勝負せんことを願ふ。老役会議し、此 事類願ひ不達して又下関に皈りぬとなり。 岩流は佐々木小次郎と云。此時十八才の由なり。英雄豪傑の人なりとて、武蔵も是 を惜みしと也。富田勢源は五郎左衛門と云て、中条流を修し得て、天下に其名高し。 嘗て眼病にて、後薙髪し勢源と号す。弟治部右衛門と云に家業を譲りぬ。祖九郎左衛 門と云は、朝倉家に仕えしなり。
11 :
宮本武蔵吉元 :03/01/11 21:14
参考文献6 『二天記』後日談 一、或年正月三日の晩、御花畠に於て御諷初の時、各座列にて武蔵も在り。規式未 始、潜かに声有。然るに志水伯耆殿于時大組頭なり。上座より武蔵に云く、「貴方先 年岩流と勝負ありし時、岩流先に打たる由風説如奈、其通りの様子にて有りしや」と 尋らる。武蔵とかくの言なく立て燭台を取、伯耆殿の膝本につかと座し、「我幼少の 時蓮根と云腫物致し、其痕有て月代難成、惣髪なり。岩流と勝負の時は、渠は真劔我 は木刀なり。真劔にて先を打れしならば疵跡あるへし。能御覧可有」と左の手にて燭 台を取、右の手にて髪を掻分け、頭を顔に突麗る。伯耆殿後に反りて「疵見え不申」 となり。「聢と御覧有へし」と云。「成程得度見届申たり」と。其時に立て燭台を直 し、本の座につき髪掻撫て自若として在り。真に一座の諸士手に汗を握り鼻息する者 もなく見えたり。是伯耆一生の麁卒也と、其比批判有しとなり。
12 :
宮本武蔵吉元 :03/01/11 21:17
参考文献7 『兵法先師伝記』天明二年(西暦一七八二年)丹羽信英 慶長十七年先師二十九才、この頃兵法の名声高き津田小次郎と云ふ者あり。此流儀 は巌流と号す。この頃豊前の国へ徘徊せしが宮本無二之助知る人にて互ひに試闘する に、或時は小次郎勝ち、或時は無二之助勝ちて勝負互格なりしを先師もどかしく思ひ けん自分試闘を望まれける。この時もかねて小次郎が兵法を誹られしゆへ、小次郎 怒って真剣勝負を決せんと約す。この時代は試闘はやりて武士の無駄死も多かりしゆ へ、領主も濫りに試闘を致すことを禁じられたり。先師と小次郎の試闘も地続きの処 にては遠慮もありしにや、長門の赤間関と豊前の大裏との間に人家もなき小島あり、 舟の形なる故、舟島と称す。 やがて勝負の前日に至るや先師櫓の木を削りて刃渡り二尺五寸柄七寸に拵へ、常の 木刀の小太刀を左に持ち緋むくの下着に上に黒羽二重の衣装と皮のカルサンを着し、 緋の胴衣に上帯をして大小を差し小舟に乗りて島に渡る。此の勝負の事、隠れなきも のとみへ赤間カ関小倉辺よりも大勢の見物人渡海したりと云ふ。又此時小倉城主細川 忠興公の家老長岡帯刀上方より帰船するとて島の脇を通船せしに島に大勢人集まりた る故、何事ぞと問ふに、しかじかの趣なれば舟を寄せて見物せんと島に上り挟箱に腰 かけ槍を立てさせ見居りたる処へ、小次郎遅れて小舟に乗り来りしが島に大勢の見物 殊に長岡が居たるを見て先師の助太刀する人とや思ひけん島近くなると青江の三尺な る刀を抜ひて鞘を海に捨てて舟着きて上げかける時つまづきて倒れければ諸人どつと 笑ふ。小次郎赤面して直ちに帯刀の前に行き相手向の勝負に助太刀は無用なりと荒ら かに言ふ。
13 :
宮本武蔵吉元 :03/01/11 21:18
参考文献7 『兵法先師伝記』続き 帯刀は笑ひて我等は長岡帯刀と云ふ者聞及もあらん今日通船の折各の試闘あるを聞 き見物に上りたり。それ故かまひ無き者なり弁之助はあれに居りたりと云へば小次郎 太刀打振り先師の方へ向ふ。その時先師は岩に腰かけ眠り居られしを見物の内より弁 之助小次郎が参りたるぞと声をかければ、先師眼を開き木刀を以て浜砂を左右へ打払 ひぬつと立て太刀を右脇に提さげするすると掛る。小次郎は水車と云ふ太刀筋にて耳 の脇にてくるりと廻し掛合になると小次郎打込と見えしが、先師は木刀を振上げ小次 郎が眉間を強く打ちたる故、忽ち打割れてたぢたぢと下る所を又木刀を上げて同じ坪 を打てば小次郎あをのけに倒る。先師近寄らんとせし時小次郎倒れながら切払ひ切先 にて先師のカルサンの前を切落したれど身には当らず、右へ抜けたる処を踏込んで頭 を打割り小次郎が刀を分捕にして浜辺へ立帰らる。見物の中より小次郎を贔負の者に てかありけん、声を上げて小次郎弁之助は帰るが最早や用なきかと呼ばりしかば、死 したる小次郎ぬつくと立ち水を呉れよやるまいにと言ひながら仏倒に倒れたり。誠に 勇猛の者なると人々惜しみけるとぞ。 先に小次郎が打たる太刀先師の肩に打込み四五分も切りたれ共、先師兵意を以て小 次郎が面を指して木刀を上げられし故、小次郎が身後へ反りて為めにその太刀切るる ことなし。少しの事ながら血流れけるを緋むくの下着の袷に隠され見物人これを知ら ずと。カルサンの前を切落されたるは人の見たる事なれば片手に裾を上げ舟に乗り帰 られける。 小次郎が刀先師の木刀皮のカルサン共に今豊前の小倉の小笠原候の臣宮本主馬が家 に伝来せり。先師津田小次郎と試闘の事世間に名高し巌流を使ふ故、巌流と呼びなし て小次郎と云ふを知らず。色々の説を立て小児も語りあひ又は草紙に著はしたるもあ れど皆偽説のみにて正しきことなし。右は先師以来の語り伝へ、予が老先生巌翁の伝 記に著はせし処吾徒信じて疑ふことなかれ。
14 :
宮本武蔵吉元 :03/01/11 21:19
参考文献8 『西遊雑記』天明三年(西暦一七八三年)古川古松軒 岩龍島といふは、昔時船島と称せしを、宮本武蔵之助といひし太刀術者と佐々木岩 龍と武芸の論をして、此島に於て刀術の仕合をして、岩龍宮本が為に打殺さる。 ゆかりの者ありて、岩龍の墓を建しより、土人岩龍島と云ふ。 赤間関にて土人の云伝へを聞きしに、板本に記しあるとは大に異なり、佐々木武蔵 之助と約をなし、伊崎より小舟をかり舟島へ渡らんとす。浦人とも岩龍を止めていふ は、武蔵之助は門人を数多引具して、先達て舟島に渡れり。大勢に手なしと云ふ事あ れば、一人にては叶ふまじ。今日は御渡海無用なりと云。岩龍が曰く、士は言をはま ずかたく約せし事にして、今日渡らざるは士の恥辱なり。若し大勢にて我を討たば恥 辱は彼にありて、我になしといひておして島に渡る。 浦人のいひしごとく、門人の士四人与力して、終に岩龍討る。初とゞめし浦人、岩 龍が義、心にかんじて墳墓を築しより、岩龍島と称せることにや。予、其虚実は知ら ざれども、土人の物語りを記せしものなり。
15 :
宮本武蔵吉元 :03/01/11 21:21
参考文献9 『撃剣叢談』天保十四年(西暦一八四三年)源徳修 武蔵流(円明流とも云ふ) 一、武蔵流は、宮本武蔵守義恒(諸書に皆政名に作る。今古免状に依りて改むる 也)が流也。武蔵守は、美作国吉野郡宮本村の産也。父は新免無二斎と号して、十手 の達人也。武蔵守此の術に鍛錬し、後熟々思ひけるは、十手は常用の器にあらず、我 が腰を放さゞる刀を以て人に勝つ術こそ肝要なれとて、改めて新たに工夫し、二刀の 一流を立てたり。諸国に週遊して其の名高し。岸流といふ者と仕合せる時、棹郎に竿 を乞ひて二刀とし、岸流は真剣にて勝負し、終に武蔵勝ちて岸流を撃殺せし事、委し く砕玉記に出でたれば、こゝに詳らかにせず。又一説有り、宮本武蔵、佐々木岸柳 (姓名一事まゝにしるす。是非を詳らかにせず)仕合すべきに極りければ、双方の弟 子共甚だ恐れ危ぶめり。武蔵弟子山田某と云ふ者、岸柳弟子市川といふ者に物語の 序、双方の師の得たる事を物語す。山田申す様、武蔵物語には、岸柳は勝れて大太刀 を好み候よし、打ちひしぎて勝ちあらんとて、木太刀を拵へ候と語る。市川申すは、 岸柳は虎切とて大事の太刀の候。此の太刀強き事に構はざる太刀に候へば、大かた是 にていたさるべきかと語る。山田此の由つぶさに帰り告ぐ。武蔵聞きて、虎切は聞及 びたる太刀也。さぞあらんとて、勝負の日に至りしに、武蔵軽捷無双の男なれば、岸 柳に十分に虎切をさせて飛上り、革袴のすそをきられながら、岸柳が眉間を打砕きて 勝ちたり。又一説に、武蔵は京都将軍の末、都に上り兵法所の吉岡憲法と仕合ひ、打 勝ちて天下一の号を将軍より下し賜はり、其の名を日東に輝かす由記せり。此の憲法 と勝負の時も、岸柳と仕合の時も、ともに一刀にて、二刀をば用ゐざりしなども云ふ 也。是等の説実に然るにや。此の流の免許状等に天下一の印を押し、又天下一宮本武 蔵守義恒と書きたり。武蔵夢想の歌とて、 中々に人里近く成りにけり 余りに山の奥をばたづねて 此の歌は世に遍くしれるところにして、此の流の兵道鏡といふ伝書の奥にも書載せ たり。
16 :
宮本武蔵吉元 :03/01/11 21:21
参考文献9 『撃剣叢談』続き 岸流(一に佐々木岸流と云ふ) 一、岸流は、右に云ふ宮本武蔵と仕合ひせる岸流が流也。岸流流と云ふべきを、略 して呼びならはせる成るべし。今以て西国に此の流多し。諸国にも往々其の名を聞け り。此の流に一心一刀と云ふ事有り。是は大太刀を真向におがみ打ちする様に構へ て、つかつかと進み、敵の鼻先を目付にして、矢庭に平地まで打込む也。打つなりに かゞみ居て、上より打つ処をかつぎ上げて勝つ也。因州鳥取に小谷新右衛門といふ者 も此の流の師たり。
17 :
宮本武蔵吉元 :03/01/11 21:25
参考文献というかオマケ 武蔵スレからコピペ >>宮本武蔵複数説 >宮本武蔵吉元(円明流の開祖) >宮本武蔵正勝(吉元の孫、青木鉄人の師匠) >宮本武蔵義軽(『兵道鏡』の著者) >宮本武蔵角平(義軽の弟子?) >宮本武蔵玄信(新免武蔵、『五輪書』の著者、円明流から二天一流に転向) >宮本武蔵政名(岡本小四郎、後に義貞) >宮本武蔵忠躬(ただの偽者らしい) ・・・後は忘れた(^^; >おまけ >平田武仁少輔正家(作州宮本村の無二斎、新免無二斎) >宮本無二之助一真(吉元の子、播州住人) >宮本無二之丞和真(荒木無人斎の師匠) >資料がどっかいったんで記憶頼りに書いた >誰か詳細きぼん
18 :
宮本武蔵吉元 :03/01/11 21:26
武蔵スレからコピペその2
>224 :日本@名無史さん :03/01/09 21:51
>山口だっけ?小次郎のふるさとは
>225 :日本@名無史さん :03/01/09 22:59
>>224 >越前説
>周防岩国説
>豊前岩石城説とよりどりみどり
>226 :日本@名無史さん :03/01/09 23:03
>山口県民ですが、佐々木小次郎の岩国説は非常に根拠に乏しいと思われ
19 :
宮本武蔵吉元 :03/01/11 21:32
30もいらんかったな(^^; では皆さま 考察よろしくおねがいしまふ
佐々木小次郎の出自 出羽最上説 越前浄教寺村(福井県福井市)説 越前今立(福井県今立郡今立町)説 近江観音寺城説 周防岩国説 長門(山口県西部)説 豊前岩石(福岡県田川郡添田町)説 肥後熊本説 だとさ
21 :
日本@名無史さん :03/01/11 23:41
陰暦四月十三日の潮の流れから考えて 武蔵が試合に遅れていくことは無理だったってホント?
22 :
日本@名無史さん :03/01/11 23:53
うそ。
23 :
日本@名無史さん :03/01/11 23:58
舟に乗るの遅らせればいいだろ。
24 :
日本@名無史さん :03/01/12 00:14
>>23 いや、だから
決闘時刻(辰の上刻)は下関方面から潮が流れてて
小倉にいたはずの小次郎や検分の役人の皆さんは船島へ渡れない。
武蔵の到着時刻(巳の刻過)は逆に小倉方面からの潮流だから
下関にいたはずの武蔵は船島へ渡れない。
だから、決闘時刻ははじめから巳の刻で
武蔵も小次郎も定刻前後に小倉から船島へ渡ったはずだ・・・・ってのを読んだことがあるんだよ
残念ながらこの板では武芸史通の人間は少ないので この手のスレは長続きしないのだ。 しばらく1が一人三役くらいで自演レス続けていて。
27 :
日本@名無史さん :03/01/12 00:28
特定の日、特定の時間の潮流はそんなに確定的に述べられるものではない。
28 :
日本@名無史さん :03/01/12 10:48
>>27 さあ がんばって反論してくれ
『宮本武蔵七つの謎』新人物往来社から抜粋
潮汐は主に月の影響を受けるが、潮汐調和定数をもとに、ある海域の現在・
過去・未来に亘る潮流方向、流速をかなりの精度で計算することができる。
私は日本水路協会に依頼し、決闘当日の関門海峡の潮流をコンピュータで計算
してもらった。
結果は午前四時四十一分憩流(流速0)。その後西に流れはじめ次第に流速を
増して、七時四十四分西流最強(五・七ノット)。やがて流速が弱まり、午前
十時四十三分に再び憩流してこんどは東に流れが変わり、流速を増して、午後
一時五十四分東流最強(六・四ノット)というものだった。
これは、当時の赤間ヶ関から舟行する武蔵に有利な潮流である。地元漁協の
漁師によると、船島までは手漕ぎ船で約三十分の航程という。武蔵の舟は西流に
乗って約束の刻限に充分間に合うことができたが、あえてそうしなかった。西流
速度がおちてしまうぎりぎりまで時間稼ぎをして小次郎を「むかつかす」実戦
心理学的な作戦をとったのである。
引用しておいて こんなこと書くのも何だが 上の記事執筆したヤシ勘違いしてるな。 辰の上刻に九州側から出発する小次郎が逆流にさらされることに 気づいていない。
訂正 俺は27じゃなくて28だ
31 :
日本@名無史さん :03/01/12 11:14
潮汐予測ってのはごく大雑把に言うと実際のデータを過去未来に 当てはめているだけ。 月の引力という要素が潮流の決定にかなりの部分を占めている るため、例えば天候などと比べてこの方法でも正確な予測が可能 になる。 ところが、400年前までさかのぼると月の引力以外の諸要素、 (地形、気候などなど)が大きく変わってしまっているため、 その予測確度が低くなってしまう。
その調子だ
>>1 がんばってくれ。俺は書き込まないけど。
33 :
日本@名無史さん :03/01/12 12:01
潮汐も何も 宮本伊織が立てた顕彰碑に >長門と豊前との際、海中に島有 >り。舟島と謂ふ。両雄同時に相会す。 とあるのは黙殺ですか?
34 :
日本@名無史さん :03/01/12 12:21
舟島って今見てもちっぽけな島なんだが、これが大正年間に埋め立てられて元 の五倍の大きさというんだから当時の地形なんて島というよりは岩礁といった 方がよかったと思われ。さぞかし見通しの良い(隠れるところのない)小さな 「岩礁」だったんだろう。二天記なんてバリバリの「小説」だからなあW
35 :
日本@名無史さん :03/01/12 13:31
>さぞかし見通しの良い(隠れるところのない)小さな >「岩礁」だったんだろう。 そこから佐々木小次郎暗殺説が出てくるんだよな。 武蔵に弟子がいてもコソーリ隠れるわけにはいかないし そうすると小次郎フクロ叩きにして殺すことができたのは 検分の役人連中しかいないわけだし。 当日、ホントに役人連中が検分していたのかは不確かだけど。
36 :
宮本武蔵吉元 :03/01/12 14:27
住人増えるまで自作自演でがんばってみるわ 『兵法先師伝記』より通説巌流島にクリソツなエピソード 上方に吉岡兼房と言ふ兵法者あり。これはもと紺屋なりしが兵法を好みて 一統を立て名を発せしものなり。先師ある時兼房に試闘を望みければ兼房も 諾し答へてその日になれば先師風邪にて行事なり難しと言ひ越しける。兼房 頻りに使を寄越して是非にと申送る。既に二度まで辞せられしに三度目には 乗物に乗りてなりとも来られよと無理に言ひ越しける故、その時先師駕籠に 乗り布団にくるまれて行かれしに兼房待ちかねしにや駕籠の戸を外より開けて 如何様の様子にやと問ふ処を、先師用意ありけん飛下り様に小木刀をもつて 兼房が頭をしたたかに打ち続けざまに忽ち殺さる。その時兼房が弟子大勢刀を 抜ひて先師を取囲み討たんとせしを二刀を抜いて大勢を切抜け塀を越へてその 場を退かる。その時の勢い大いに振はれしとぞ是より多数の位を工夫しその道を 立てられし也。
37 :
日本@名無史さん :03/01/12 18:36
宮元武蔵って男娼仲介人だよ。美少年を買ってお大名に売る人買いのようなもの。 伊織とかが有名だけど、あちこちに養子名目で・・・
38 :
日本@名無史さん :03/01/12 20:52
その時、歴史は動いた 次回はこのスレ見ながらツッコミ入れましょう(w
39 :
日本@名無史さん :03/01/12 21:06
40 :
日本@名無史さん :03/01/13 00:16
讃甘神社の神官が太鼓を撥で叩くのを見て 宮本武蔵は二刀流を思いついた・・・と伝えられているそうな。 この話、最初にいいだしたの、誰? 二刀流というか円明流兵術は武蔵以前からあるんだけど・・・
なかなか精力的な1だな。 一人で大変だろうけど。
42 :
日本@名無史さん :03/01/13 11:35
『二天記』の記述が定説になったのは 宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂『宮本武蔵』が 『二天記』を宮本武蔵の伝記資料の中で最も真実を伝えていると結論づけたから。 他に巌流島の決闘を伝える文献として 『武将感状記』『本朝武芸小伝』『沼田家記』を挙げているけど どれも信じるに足らないと一蹴してしまっている。 ・・・『二天記』よりも三十年以上も早く成立した文献ばかりなのにねえ。
43 :
日本@名無史さん :03/01/13 13:53
『沼田家記』が否定された根拠は 慶長12年当時まで宮本無二斎が生きていたはずないってこと。 綿谷雪氏の考証によれば平田武仁少輔と宮本無二之助は別人なんだけどね〜 >平田武仁少輔正家(作州宮本村の無二斎、新免無二斎) >宮本無二之助一真(吉元の子、播州住人)
44 :
日本@名無史さん :03/01/13 13:54
慶長12年当時じゃねえ 巌流島の決闘は慶長17年の西暦1612年だ(^^;
45 :
日本@名無史さん :03/01/13 14:49
結局、津田小次郎は武蔵の弟子に殺されたということでよろしいか?
46 :
日本@名無史さん :03/01/13 14:57
津田小次郎は誤字じゃないよ。念のため。
47 :
日本@名無史さん :03/01/13 14:57
48 :
日本@名無史さん :03/01/13 15:02
武芸者って・・・胡散臭いな。
49 :
日本@名無史さん :03/01/13 16:43
巌流島で殺されたのは津田小次郎ではありません 上田宗入です
∧ ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ ( (-( -( - ( -д( -д) (つ(つ/つ// 二つ ハァ─) .| /( ヽノ ノヽっ ─・・・ ∪∪とノ(/ ̄ ∪
51 :
日本@名無史さん :03/01/13 19:30
最初に 巌流島で殺されたの佐々木小次郎っていいだしたヤシって誰だ?
お前のオヤジだよ
53 :
日本@名無史さん :03/01/13 19:40
54 :
日本@名無史さん :03/01/14 08:12
>>1 は何故、「兵法大祖武州玄信公伝来(丹治峰均筆記)」はコピペしないのかな?
↓参照サイト
ttp://homepage3.nifty.com/ganryu/fsiryou.htm ttp://homepage3.nifty.com/ganryu/musashi/index.htm ttp://f3.aaacafe.ne.jp/~momo/ 「丹治峰均筆記」によると、
弁之助十九歳、巌流との試闘の事。 巌流は流義之称号也。津田小次郎と云、
長府の者也とかや。小次郎、無二に試闘を望む。無二達而断に及ぶ。是巌流
に仕込剣の木刀あり。これに怖れて無二辞退に及ぶ由、専ら沙汰あり。弁之
助伝聞、「不及是非事也。罷下可決勝負」とて長門ゑ下る … 長門と豊前
の堺、舟嶌へ押渡る。弁之助は小次郎よりさきに渡海せり。ころは十月の事
にて … 往来の舟、碇をゝろし、貴となく賎となく見物群集す。豊州門司
の城主何某(細川越中守殿家臣失姓名)、弁之助入魂の者ゆへ家頼大勢召連
れ大身の鑓を持せ挟箱に腰をかけ浜辺に居て見物す。小次郎は小舟に乗、家
頼壹人、水主一人にて漕渡る … 刀を鞘ともに脱出し、スルスルとぬき放
ち、さやを切折て海ゑ抛捨、刀を引そばめて舟之つくを待つ。是はたとひ弁
之助に打勝たりとも大身之鑓をもたせたる士、其分にてはのがす間敷と心に
かゝりしにや。既磯近くなると舷を踏て飛揚る。飛損じて両膝をつく。見物
の群集一同に笑ふ。小次郎、刀を引そばめて城主何某が前に行き、「いかな
る人なれば此所には居らるゝぞ」とゝがむ。何某が云、「我等は弁之助と親
き者也。今日其方との勝負を見物之為渡海す。かつて其方に搆なき者なり。
血に酔たるか、うろたへ者」と散々に悪口す。
時に慶長七年十月、武蔵は十九歳、ギャラリー多し。(w それに比べて、
小次郎悲惨 …(哀。 吉岡との試合はこの後というが慶長七年説、ホント
かいな?
55 :
日本@名無史さん :03/01/14 20:25
巌流島の決闘に武蔵が遅刻したのは ぬれぎぬってことでファイナルアンサー? しかし、よくこんだけ資料が集まるな・・・
しかたないな
57 :
日本@名無史さん :03/01/14 22:30
そもそも下関は長門国内 武蔵一人ならまだしも 出発を催促する使者が気軽く出かけていっていいのだろうか
58 :
日本@名無史さん :03/01/15 19:48
その時 歴史は動いたage
59 :
日本@名無史さん :03/01/15 20:18
十九歳の宮本武蔵が ギャラリー多数の見守る前で 上田宗入(仮)を弟子といっしょにフクロ叩きにして殺したという 結論でよろしいですか?
60 :
日本@名無史さん :03/01/15 21:15
NHKきたー!!
61 :
日本@名無史さん :03/01/15 21:22
武蔵の弟子って出世した人が多いけど、フクロの件は不問にされたのか?
62 :
日本@名無史さん :03/01/15 21:39
武蔵は関ヶ原で西軍についたから、就職できなかった…のか…。
63 :
日本@名無史さん :03/01/15 21:41
>関ヶ原で西軍についたから、就職できなかった…のか…。 それはない。
64 :
日本@名無史さん :03/01/15 21:41
武蔵話は武蔵と息子の脚色バッカだから信用できん。 常識だろ>NHK
65 :
日本@名無史さん :03/01/15 21:43
武蔵は江戸時代のマルチタレント。
66 :
日本@名無史さん :03/01/15 21:44
67 :
日本@名無史さん :03/01/15 21:49
>63 旧敵方でも有能な者は登用されたのだ。 GHQが大日本帝国官僚を利用したようなもの。
68 :
日本@名無史さん :03/01/15 21:49
間違い>67
69 :
日本@名無史さん :03/01/15 21:50
>>66 西軍の武将でも再就職した人多し。
「その時歴史が動いた」が大河のCMやるなんて(;_;)
70 :
日本@名無史さん :03/01/15 21:53
戦国時代が続いたら、一国1城の主になったかもしれないとか、 こいつに頭脳は着いてるのか??
71 :
日本@名無史さん :03/01/15 21:53
72 :
日本@名無史さん :03/01/15 21:57
“かも”だからいいんじゃないのか?
73 :
日本@名無史さん :03/01/15 21:58
来週もやるのか(;_;)
74 :
日本@名無史さん :03/01/15 22:00
ちょっとそれるけど 武蔵は風呂入らなかったというのホント? ホントなら、それで仕官しようと思うのは無謀だ。
75 :
日本@名無史さん :03/01/15 22:02
沖田総司も風呂に入らなかったんじゃなかったか。 それに当時の風呂はいまの風呂と違うし。
76 :
日本@名無史さん :03/01/15 22:03
>>74 本当はそうなんだろうが、それをいっちゃうと大河に支障がでるからね....
NHK的に西軍についたからということに....
来年の今頃は新撰組かよ....
77 :
世界史@名無史さん :03/01/15 22:06
細川のような外様では、無理。 徳川御三家なら可能だったかも。
78 :
日本@名無史さん :03/01/15 22:11
津田小次郎(仮)の件は不問にされたようだな・・・・
79 :
日本@名無史さん :03/01/15 22:24
おーい、本チン。
80 :
日本@名無史さん :03/01/15 22:35
「丹治法均筆記」の全文を知るものにとって、今回の番組は 見るに耐えないものである。かなり良質な伝記というべき なのに、同書に九州とある武蔵の参陣場所を何故何の傍証も ない関ヶ原だと?。巌流島以前に黒田家に仕えていると何か 都合の悪いことでもあるのだろうか…ってありまくりでしたね、 あのテーマでは。ショボイ。 …スタッフは文書の絵を撮ってきただけでぜんぜん読んでないだろ。 ちなみに平田武仁なんてのは、元禄以降にか武蔵の住居跡に 住み着いたとおぼしき平田氏が、後に創造したものらしく、 元禄時代に津山藩に書き上げられた村書上には載ってもないし (同文書で取上げられているのは今は何かと冷遇されている 平尾家の方。また同書は宮本無二を平尾家の人としている)。 何かうさんくさい。ちなみに「新免文書」の羽柴秀吉書状に よると、「新免無二」が竹山城主新免氏の使者として秀吉の もとに遣わされており、また宮本屋敷も当時の居館としては そうとう広大なもので、それなりの有力家臣と思しい。 また無二による慶長期の当利流免許状も九州などにいくつか 伝来し、また日出藩主の慶長末期の日記にも名前が見える。 ということで、「沼田家記」は信用できると思うのだが。
81 :
日本@名無史さん :03/01/16 00:04
宮本武蔵複数説を知る者にとって 『兵道鏡』を宮本武蔵(玄信)の著作といわれてもなぁ・・・・
http://momolin.fc2web.com/ 【探し物とくとくページ】
ごめんなさい みんなにみて欲しいから投稿させて下さい
[yahoo] [infoseek] [google]などの検索サイトにて「探し物 とくとく」で検索
タイトル【探し物とくとくページ】を探してね あなたの探し物見つけて下さい
(^^)
85 :
日本@名無史さん :03/01/16 10:27
救助あげ
86 :
日本@名無史さん :03/01/18 02:00
意外と盛り上がらんなぁ 最初に関連文献ならべられたから 妄想が入りこむ余地なくなっちまったのかな
87 :
日本@名無史さん :03/01/18 22:41
猪木と、マサ斉藤の巌流島決戦はおもろかったな。 観客がいないから、えらい静かな試合で。二人の横で 「キリキリキリ」って虫が鳴くいてんの。
88 :
邪魔なヤツを殺す汚れ役 :03/01/20 16:14
殺人者と西軍関係者は雇っちゃ駄目らしいよ。殺人狂で宇喜田配下(本当かは謎?) の武蔵は殺し屋ぐらいしか・・・
89 :
日本@名無史さん :03/01/20 18:06
>>62 現代で言えば「超一流企業でなきゃ嫌だ」と贅沢を言ったので
ダメだったんだよ
マイナーな大名から「是非うちにきてください」という誘いは
いっぱいあったんだから
ドラフト1位で指名されたけど「巨人でなきゃ嫌だ」といったようなものかも
90 :
日本@名無史さん :03/01/22 22:42
今日の歴史が動いたはマンセーが無理矢理すぎて寒気がしたな 武蔵は二天一流のテキストとして『五輪書』書いただけで そんな深い思想があったわけではないと思うんだが。 つーか、『五輪書』は武士道じゃねえだろ(w
91 :
日本@名無史さん :03/01/22 22:47
んだ。アレは 負けないケンカの仕方 だべ。
92 :
日本@名無史さん :03/01/22 23:45
>>91 「五輪の書」を読んだアメリカ人も「日本人=卑怯者」との思いを強くしました
とさ。確か、昔のニュースのインタビューで見たときがあるw
真珠湾とかと重ね合わせて考えられているんだろうな…。
93 :
日本@名無史さん :03/01/23 03:50
吉岡のガキをあぼーんした時の戦術はまさに真珠湾???
94 :
日本@名無史さん :03/01/23 23:16
そもそも吉岡との戦いも どこまで史実か分からんわけだが
95 :
日本@名無史さん :03/01/23 23:34
吉川英治の宮本武蔵と村上元三の佐々木小次郎が出るまでは 芝居でも武蔵の親父を小次郎が殺して敵討ちという設定が一般的 だから武蔵は美青年で小次郎は髭面の憎たらしい中年だった
96 :
日本@名無史さん :03/01/25 00:51
「丹治峯均筆記」って歴史番組でも歴史読本でも評価されてたけど 講談臭いエピソードが多いからなぁ。あんまり信頼するのもどうかと思う。 だからといって「二天記」が信用できん事実に変わりはないんだが。 ところで「二天記」のモトネタになった「武公伝」って活字化されてんの?
とりあえず1の自演レスを待ちます。よく知らんし。
98 :
日本@名無史さん :03/01/27 20:02
>>94 江戸時代の文献でもっとも資料価値の高い兵法者列伝『本朝武芸小伝』では
武蔵vs吉岡の戦いは次のように書かれています。(意訳)
「いろいろ説があって、どれがホンマか分からん」
99 :
日本@名無史さん :03/02/04 00:05
近頃の吉岡が強いのは 吉良や尊氏と同じで名誉回復なのだろうか・・・
100 :
日本@名無史さん :03/02/08 11:47
大河の巌流島決闘までもつかな
武蔵スレ、重複してるよ。 巌流島の話題も参加者の多い大河スレに統一して。
今泉くんが小次郎かよ!
ガオレッドも・・・・ 隠れ家ご飯つながりか?
違う! 武蔵はもっとブサイクでなければ・・・・!!
武蔵と小次郎の配役が逆でも違和感ないな
>2 岩流VS宮本武蔵 >3 岩流小次郎VS宮本武蔵玄信 >4 巌流上田宗入(仮名)VS宮本武蔵弁之助(筑前出身。宮本無二之助の子) >5 巌流VS宮本武蔵 >6 アントニオ猪木VSマサ齋藤 >7 岸流→岩流→岸流→岸流→岩流→岩流VS宮本武蔵 >8 岩流小次郎(越前宇阪庄浄教寺村出身 疲れた
datオチしてないじゃん!
110 :
日本@名無史さん :03/03/30 21:57
age
(^^)
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
大河はもちろん 小次郎がフクロにされて殺されるんだろうな
114 :
日本@名無史さん :03/04/29 22:39
忍者スレに宍戸の記事 >一、武蔵伊賀国にて完戸何某と云者、鎖鎌の上手也。野外に出て >勝負を決す。完戸鎌を振出す所を、武蔵短刀を抜き、完戸が >胸を打貫、立所に斃れしを進んで討果す。完戸が門弟等抜連れ >各斬て懸る。武蔵直ちに大勢を追崩せば、四方に逃走す。武蔵 >優然として引去る。 こいつにも名前が間違ってる疑惑が
115 :
日本@名無史さん :03/05/12 07:59
完戸梅軒のキャストまだー?
116 :
日本@名無史さん :03/05/21 22:30
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
(⌒\ ∧_∧ \ ヽヽ( ´_ゝ`) (mJ ⌒\ ノ ∩ / / ∩<二度とやりませんから許して下さい!!。 ( | .|∧_∧/ / 山崎渉 /\丿 | ( )/ 〔 ̄ ̄ ̄ ̄〕 (___へ_ノ ゝ__ノ ◎――◎
120 :
日本@名無史さん :03/06/12 09:31
121 :
日本@名無史さん :03/06/24 19:43
122 :
日本@名無史さん :03/06/24 19:48
↑「『考証 佐々木小次郎』より引用」でつ
hosyu
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
|俺の立てたスレなんだ!!!
| age続けるんだ!!!
| 名スレにするんだ!!!
| きっとみんな賛同してくれる!!!
\___________ ____
∨ カタカタ____ ___
∧_∧ ||\ .\ |◎ |
(.#`Д´) || | ̄ ̄| |:[].|
∧_∧ . ┌( つ/ ̄l| / ̄ ̄/ ..| =|
∧_∧ ( TДT) |└ ヽ |二二二」二二二二二二二二」
( TДT) ( つつ  ̄]||__) | || | ||
(つ つ / / / ./ ̄\ / || / ||
と_)_) (___)__) ◎ ◎ .[___|| .[___||
∧
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|
>>1 よ、もういいんだ・・・・・・・
| 本当に良く頑張った・・・もう充分じゃないか・・・
| 楽になっていいんだ・・・
| 忘れるんだ・・・何事もなかったように・・・・・・
126 :
日本@名無史さん :03/07/15 20:14
(⌒\ ∧_∧ \ ヽヽ( ´_ゝ`) (mJ ⌒\ ノ ∩ / / ∩<二度とやりませんから許して下さい!!。 ( | .|∧_∧/ / 山崎渉 /\丿 | ( )/ 〔 ̄ ̄ ̄ ̄〕 (___へ_ノ ゝ__ノ ◎――◎
127 :
日本@名無史さん :03/07/15 21:04
>>126 禿同
ところで話は変わるけど、携帯ゲーム機"プレイステーションポータブル(PSP)
このPSPは、新規格UMD(ユニバーサルメディアディスク)というディスクを利用しており、そのサイズは直径6cmととても小さい(CDの半分程度)。 容量は1.8GBとなっている。
画面は4.5インチのTFT液晶で、480px x 272px(16:9)。MPEG4の再生やポリゴンも表示可能。外部端子として、USB2.0とメモリースティックコネクタが用意されているという。
この際、スク・エニもGBAからPSPに乗り換えたらどうでしょう。スク・エニの場合、PSPの方が実力を出しやすいような気がするんですが。
任天堂が携帯ゲーム機で圧倒的なシェアをもってるなら、スク・エニがそれを崩してみるのもおもしろいですし。かつて、PS人気の引き金となったFF7のように。
いきなりへんなこと書いてスマソ・・・・
GBAと比較してみてどうなんでしょうか?(シェアの事は抜きで)
//.| //./| //./ル | //./ /|. | //./|/::/| | _______________ □/ / // | |. | | |/.;;;;//. | ||. | じゃあ、山崎渉は死刑という事で・・・。 | | ;;;;;;// | ||| |_ | |.;;;// | |.|| ∧ ∧ |/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | |//.. | | ||. ( ・∀・) | |/. | |. || ( ) ワイワイ ガヤガヤ ______.| |___//| ||__ / | | |__ | | // |. ̄∠/(__(__) /.| ∧_∧ ∧_∧ ∧ ∧. ..∧_∧ (| |⌒/. ∧ ∧⊃イヤァァァ. //| (´-`;)(@・ )(;´∀)( ( ・∀・)ポ.(⌒| |//(;^^) ←山崎歩 // | ∧∧ ∧ ∧ ∧_∧. ∧∧ ( )  ̄| |/ (⊃ / ⊂.⊃. // | (∀・ )(ー゚* )( )(´∀` | | |. | | / └─┘ // /. ∧_∧ ∧ ∧ ∧ ∧. ∧_∧ (__)_) | | / // / <_` )(´・ω)(д゚` )( | |/ // /. ∧_∧ ∧ ∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧ ~~ // / ( )( ゚∀゚)(` )( )(゚д . // / ∧_∧ ∧_∧ .∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ . // / (д- )( ヌ)(*゚ー゚)(TдT)(∀` )
(^^)
(⌒V⌒) │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。 ⊂| |つ (_)(_) 山崎パン
131 :
日本@名無史さん :03/08/19 18:16
次はいよいよ対夢想戦ですが これの文献資料ってあんのかな 「海上物語」 「本朝武芸小伝」 「二天記」 あとは神道夢想流の伝承ぐらいか
132 :
日本@名無史さん :03/08/19 18:18
ちなみに「海上物語」は ありとあらゆる出来事を仏教の因果応報で説明してしまう ものすごい文献です。宮本武蔵が夢想に勝てたのは仏教徒だったから!
134 :
日本@名無史さん :03/09/07 07:19
そろそろ大河もヤマバですなあ
135 :
日本@名無史さん :03/09/14 15:35
隠れキリシタン佐々木小次郎って読んだ人いる? どうでした?
136 :
日本@名無史さん :03/09/20 18:58
いよいよ明日age
137 :
日本@名無史さん :03/09/21 17:55
いよいよ今日age
138 :
日本@名無史さん :03/09/21 18:30
竹村武蔵
139 :
日本@名無史さん :03/09/21 20:28
そもそもこの二人はなんで決闘する事になったの?
140 :
日本@名無史さん :03/09/21 20:35
なに? このヘンなCG........
141 :
日本@名無史さん :03/09/21 20:38
CMでよく使われてる手法でしょ。何台ものカメラ使って何コマも繋ぎ合わせるやりかた。 ちょっと早すぎるな〜。でも遅いとマトリックスもどきになるし・・・。結局ショボィね
142 :
日本@名無史さん :03/09/21 21:13
けっきょく何だったん
143 :
日本@名無史さん :03/09/21 21:16
何でもいいけど今日の武蔵塚は盛況だった<熊本
144 :
日本@名無史さん :03/09/21 23:16
こんどモックン主演の映画やるね。 鬼畜武蔵らしいけど。
145 :
日本@名無史さん :03/09/22 05:09
大河ドラマCG最悪ですた。 小次郎が刀を肩の上から(八相の構え?)振る。 武蔵、(長さを読ませない)下段の構えから上?に飛んで、一振り。 小次郎、額から血が・・・。
146 :
日本@名無史さん :03/09/22 05:10
http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m293.html 小次郎は 中条流の技を磨いたと言う事は、先手必勝に精妙であったと同時に、
受太刀メインで練習しているので後の先の取り方にも精通していた筈です。俗
に言う「燕返し」の技もこの解釈から成り立つ。
「一心一刀」と言うのがある。敵に歩み寄り、相手より先に地面を割るように打
ち込んだ後、これが外された場合、敵の斬撃が打ち降ろされる前に切っ先を返し
はね上げながら顎を割る、剣法で言う逆袈裟。
147 :
日本@名無史さん :03/09/22 05:15
現代での解釈では、 1.小次郎が最初に打ち込み、返す刀で燕返しを狙う。 武蔵は初太刀をかわし、間合いの外から木刀を打ち込む。 2.小次郎が最初に打ち込みと同時に、武蔵が間合いの外から木刀を打ち込む。 最低限、これくらいの演出は欲しかった。
148 :
日本@名無史さん :03/09/22 14:12
なんで児島備前なんだよ 松井興長じゃ障りあるのかよ!
2.小次郎が最初に打ち込む、と同時に、武蔵が間合いの外から木刀を打ち込む。
「最初に」と、「と同時に」という言葉がすでに矛盾しているが・・・
152 :
日本@名無史さん :03/09/25 00:21
うーん・・どういうことが言いたかったのだろうな。
史書にない話なんだから、みんな脳内妄想を膨らませい。
154 :
日本@名無史さん :03/09/25 21:08
武蔵が舟島の環境気に入ってて 同じ場所で何度も戦ってたと解釈すれば辻褄は合うぞ。 しかも戦う相手の流儀はいつも因縁の岩流w もちろん佐々木小次郎と津田小次郎は別人。 フクロにされて殺された小次郎も別人。
156 :
日本@名無史さん :03/09/26 10:30
157 :
日本@名無史さん :03/09/26 17:30
鳥取に伝わっている岩流(伊東左近の系統)の伝承では 下関で武蔵に殺された岩流剣士の名前は多田市郎になってるんだが。
このスレもうだめだな
159 :
日本@名無史さん :
03/09/27 20:07 もっくんの巌流島を忘れるなや