南部氏(・><・)巻之二

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843日本@名無史さん:05/03/01 05:44:32
何か南部スレでキチガイが暴れているよ。
844日本@名無史さん:05/03/02 16:02:54
>>831-833
36代は調べてみたけど分からなかった。やはり>>835

遠野の当主は慶応義塾で学んだんだね
早稲田に関わりの深い盛岡と好対照
845日本@名無史さん:05/03/02 19:17:42
なんだ。結局わからないのか。
無能な奴だ。
846しったかぶり:05/03/03 00:45:29
1338年、顕家と師行が石津で戦死した後、北畠顕信が奥州にやってきます。
しばらくは、(1360年頃まで)この顕信が奥州南朝方の総大将となります。
 南部政長が出した「御状」への返事があります。1340年頃の北奥州の
情勢が浮き上がってきます。大変面白いものです。又おつきあい下さい。

http://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/ の「顕信文書」を参照して下さい。

十二月廿日北畠顕信袖判御教書  興国元年 (1340年)
花押 (顕信)
  去十一月七日御状、同十二月十八日到来、
委細令披露候了
一、津軽安藤一族等、参御方候之条目      津軽安藤一族等味方に参り候の條、めでたく候
    出候、併御方依被誘仰候,如此候、殊  あわせて御方誘はるる二よると仰せ候。かくの如くに候
    神妙候、               ことに神妙候。

まず、安藤一族の事ですが、これだけ読めば安藤一族全員が南朝方に成ったかのように
思われますが、後の流れを見るとこの安藤一族は「安藤四郎」を指すとしか思えません。
 安藤氏が南朝方だと主張する方がありますが、其の根拠を示して欲しいものです。
847しったかぶり:05/03/03 21:43:58
続きです。
 鹿角合戦に、将監忠節を致され候
 ことにめでたく候の由感じ仰せられ候
  今度、又岩手西根を退治し要害を構えられ候の条
 めでたく候。この上は明春急ぎ、和賀(氏),滴石(氏)
 一手となり斯波(氏)を退治せらるべく候。左様候はば
 和賀、稗貫辺に馳向うべくの由、葛西一族等に仰せられるべく
 候、此の途入眼(?)候はば當國の静謐子細あるべからず候か、
 河村六郎御方に参るべき由申さしめ候なれば相構えてよきように
 誘い仰せられべく候、所望地等の事注進に従い御沙汰へらるべく
 候也

先年(1339年)に、津軽方面で曾我氏、安藤氏等と戦っていた政長が
今度は南方の岩手郡に押しだし、西根を(西根氏でしょうか?)退治し更に
ここに要害を築いています。(現、西根町、平舘?)劣勢の南朝方としては
信じられないばかりですが、ここに出てくる和賀氏は、後に出てくる
北朝方の和賀氏とは、どういう関係になるんでしょうか?
 更に、「斯波氏」とは先年第二次西上軍によって鎌倉で討ち死にされた「家長」
とどういう関係の人でしょうか?
 なんにしても、西根、和賀、滴石、斯波、河村、(一戸あたり?)更に葛西氏
等錚々たるメンバーが顔を揃えていると言うべきでしょうか。
848しったかぶり:05/03/04 20:56:18
又つずきです。
一、著到見参に入れ候おわんぬ面々成し下さる御感の御教書候
彼の輩抽賞の事は其れより注進につき其の沙汰あるべく候
長継、忠節を致し候、神妙に候、感じ仰せられ候也
一、官途所望の輩子細なく候、定めて其の勇を成し候か、
長貞、長継官途のこと助けは是にて御沙汰なく候、
常州は有るべく候、定めて相違なく候か、尚々日頃の忠節といい
今の退治と云い併せて御高名候の間、かんえつ少なからざる由、
仰せられ候也、抽賞の事追って其の沙汰有るべく候

さてここに出てくる「長継」、「長貞」は一体誰でしょう?この文書を
読むかぎり、南部長貞、南部長継、としてもいいと思います。(他の人間
は名字をつけて読んでいる。)先年鹿角方面にて活躍している模様ですので
政長の孫、信光、政光はまだ幼くてこの二人ではないでしょう。
名前から見て親子、少なくとも、兄弟と思われます。
 三戸南部氏の誰かだという説が有ります。時代から云うと、信長、
守行、か?となりますが果たしてどうでしょう?ただ政長がこの二人に官途を
望み、其れは許されるだろう、と顕信は云っております。
849日本@名無史さん:05/03/05 11:56:44
なに長文だらだら書きこんでんの?
キモイよw
850日本@名無史さん:05/03/05 12:45:37
頭がおかしい人なんだよ。ほっといてあげなさい。
851日本@名無史さん:05/03/05 16:29:03
東北にはこの手のキ○ガイ、多いよな。
852日本@名無史さん:05/03/05 16:47:10
粘着質もいいところだよな。
853しったかぶり:05/03/05 20:08:54
さて最後の段です。
一、倉満三郎左衛門尉忠節のこと聞こしめしをわんぬ、
  所望地の事先だって岩立太郎跡を宛行われ候の処、
  不足の由歎き申し候か、只今楚忽に仰せられがたく候、
  追って仰せら琉べく候、このように問答せらるべく候也
   恐惶謹言       
  十二月廿日           清顕
南部遠江守殿
御返事

此の倉満三郎左衛門尉は、「 同年(建武三)五月廿七日、向小栗山楯、(御敵倉光孫三郎)致軍忠之處、」の
津軽、小栗山楯で曾我氏と戦った倉光氏でしょうか?
 岩立太郎(跡とあるから滅んだ者と思いますが。)もどこの住人でしょうか?
これで、1340年時の状況がよく分かると思います。
 この時顕信がどこから、此の文を出したか、はっきりしませんが、「葛西」氏
のもとに身を寄せていた模様です。
854日本@名無史さん:05/03/05 20:10:58
書くのに時間かかりすぎなんだよ。低脳。
855日本@名無史さん:05/03/05 20:53:36
誰からもあいてされない基地外が立ち寄りしてますが、スルースルーでよろしく!
856日本@名無史さん:05/03/05 21:06:49
よしわかった。
のぞみどおり>>855はスルーの方向で。
857日本@名無史さん:05/03/05 21:08:15
>>853
行間から頭の悪さがにじみ出てくるような文章ですね。
人様に主張を読ませるにはちょっとレベルが足りないのでは?
858日本@名無史さん:05/03/06 02:29:27
しったかぶりさんいつも拝読しております。
859日本@名無史さん:05/03/06 04:59:41
最近はsage入れて書かなければならなくなったのか
これも時代かな
  ( ・>   ( ・>v─~
 ∠ヽ_ヽヘノ(ヘ  )ヘ
       ̄ ̄
860日本@名無史さん:05/03/06 10:41:08
>>853
まじでつまらないんでいいかげんにしてください。
861日本@名無史さん:05/03/06 11:03:49
掲示板を使ってやることじゃないな。
オナニーは自分のホームページでやれ<しったかぶり
862しったかぶり:05/03/06 23:15:20
 1341年、顕信文書にある翌年ですが、曾我氏土台案によれば、相模の曾我師助が、
御教書を賜ってはるばる津軽曾我氏の「応援」に来ます。そして糠部郡へ侵入しますが
次の文書にあるとおり、失敗に終わります。一年以上も戦っていますが。
 どうして、南部軍はこんなにも強かったのか?この時、津軽の安藤氏はどうしていたのか?
浅利氏もどう動いたのか?等不思議なことだらけです。
 特に師行も戦死しているのに、こんなにも南部氏が強力なのは一体どいううわけでしょうか?
糠部郡中には南部氏に刃向かう者がいないかのようです。
    略
一同四年(暦応)六月、曽我左衛門尉師助賜御教書、令発
 向凶徒南部六郎政長等城郭糠部之處、同
 御敵滝瀬彦次郎入道以下輩、打塞路次、致防
 戦之間、自同年六月 至翌年七月、数十ヶ度 *六月=冬夏比 *七月=秋比冬
 合戦仁、或貞光自身被疵、或若當以下手勢 仁=に
 数百人被疵、討死之上、若干凶徒等討取
 之訖、此状師助連々令注進之間、被下御感御教 訖=畢
書畢、巨細師助之一見状 矣
以前状々粗恐々言上如件
  貞和三年 五月  日         
863日本@名無史さん:05/03/06 23:18:24
だからおなにーは自分のHP作ってやれってのw
864日本@名無史さん:05/03/06 23:47:44
>>862
キモイにもほどがあるよ
865日本@名無史さん:05/03/08 04:30:52
今の南部の殿様は靖国神社の大宮司、娘の姫様はフリーアナウンサーで
J・WAVEの朝日ニュースを読んでいる。

歴史と関係のない現実だけどさ。
866日本@名無史さん:05/03/08 22:07:14
姫アナウンサーの画像キボンヌ
867日本@名無史さん:05/03/08 22:30:42
キティは士ね
868日本@名無史さん:05/03/08 22:40:43
>>865
その南部さんは
父系でたどれば
江戸時代初期の天皇の子孫なんだよね...

南部さんは、そのこと
どう思っているんだろうね。
869話題変えようぜ:05/03/08 23:53:01
北上川を挟んで、南側つまり水沢よりの人間は「伊達の連中」として北側に嫌われている。
なんでも商売に汚くて、通った後には草も生えないんだと。
南部藩はあちこちの国境でいがみ合っていたようです。

その辺のエリアの話なんだけど、和賀氏とか小原氏って、征伐後はどうなったの?
南部の代官でも来たの?
誰か教えて。
870話題変えようぜ:05/03/08 23:54:47
>869
 間違った。和賀川だ。
 ちなみに私は郷土を脱出した元北上市民。
871日本@名無史さん:05/03/09 00:37:02
>元北上市民。

どうりで日本語がおかしいと思ったw
872日本@名無史さん:05/03/09 00:45:09
つーか岩手県人は日本中から嫌われてるだろ。
873日本@名無史さん:05/03/09 07:52:20
それは確かにいえるかもw
874日本@名無史さん:05/03/10 03:22:33
>>871-873

そういう煽りではなく、論理的には語れないの?

頭が悪いから出来ないってのはなしでさ。
875日本@名無史さん:05/03/10 13:21:13
>>12
盛岡の殿様って、靖国の宮司さんではないの?
盛岡にすんでらっしゃるの??
876日本@名無史さん:05/03/10 21:24:02
盛岡に殿様なんていねーよ。
アホかw
877日本@名無史さん:05/03/10 22:48:26
うむ。岩手県人はアホばかりである。
878日本@名無史さん:05/03/10 22:58:27
>>875
靖国の大宮司になったのは去年からだから。
879しったかぶり:05/03/10 23:03:48
>869さんへ
 天正18年(1590年)7月、小田原の北条氏を滅亡させた、秀吉は
7月26日、宇都宮に到着し、小田原攻めに参陣しなかった、和賀義忠・稗貫広忠
らを改易、所領を没収し、同じ理由で葛西晴信・大崎義隆・石川昭光・白川義親・
田村宗顕らの所領を没収しました。ここに鎌倉時代からの名族が滅ぶわけです。
 その後いろいろあって、南部氏は、「南部内七郡」を安堵されます。
糠部、鹿角、閉伊、岩手、志和、稗貫、和賀郡と言われます。
 現在岩手県となっている気仙、東磐井、西磐井、胆沢、江刺の五郡は
伊達藩領となります。
 明治維新時の廃藩置県の動きは複雑すぎますが、結局現在の岩手県、青森県、宮城県
秋田県にきめられますが、藩と同じ地域がそのまま県になってないのはご存じの通りです。
 
 こういうのを見ますと、つらいこともありましたが、南部氏はやっぱりどこか
ツキのある一族だなーと思います。いかがでしょうか。
880869:05/03/10 23:13:37
あんたには聞いてないよ。
881日本@名無史さん:05/03/10 23:17:22
>>879
なんか基本的な事実の間違いが多いなあ。
駄文でリソースを消費するのもたいがいにしたら?
882日本@名無史さん:05/03/10 23:42:25
>>879
おまえうざい。
883日本@名無史さん:05/03/11 07:41:26
盛岡は本土ではもっとも冬冷え込む土地。
だけど寒いのは気候だけじゃない。
人間がいちばん寒い。
884日本@名無史さん:05/03/11 14:58:00
なんで粘着嵐がいるのだろう。
885日本@名無史さん:05/03/11 16:41:30
>>884
2ちゃんねるだから。
886日本@名無史さん:05/03/11 23:19:42
まったく>>879みたいな粘着はなんとかして欲しい。
日本史板全体のレベルが下がる。
887日本@名無史さん:05/03/11 23:50:51
そのとおりだな。
いくらなんでも発言のレベルが低すぎる。
ほとんどうわごとだ。
888日本@名無史さん:05/03/12 08:15:39
>>887
http://life7.2ch.net/intro/
↑続きはこちらで。
889日本@名無史さん:2005/03/22(火) 17:47:07
>>879
日本の端に構えているのも関係してるんですかね?
890日本@名無史さん:2005/03/22(火) 21:01:04
ほっといても飢えて人がバタバタ死んで行くような土地を侵略してもしょうがないからね。
891日本@名無史さん:2005/03/22(火) 22:21:25
あはは。そりゃそうだ。
892日本@名無史さん
保守