1 :
日本@名無史さん:
について考えよう。
2 :
日本@名無史さん:02/12/10 21:30
3
あぼーん
4 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:54
藤ノ木古墳の遺物はせいぜい中国止まり。
新沢千塚古墳ははるかに飛び越えてヨーロッパの遺物が出ている。
戦後の発掘調査で遺物がヨーロッパまで及んでいたのは新沢千塚古墳だけ。
遺物の一部はヨーロッパまでつながっていることを考えると、おそらく、
鮮卑など中国の北方系の人達と古代日本人との間にも間接的交流があったと思われ。
5 :
日本@名無史さん:03/01/04 06:49
埋葬物からの埋葬者の推定ってどのくらい進んでいるの?
(^^)
7 :
日本@名無史さん:03/01/12 09:08
石棺内は未盗掘で埋葬当時の姿がほぼそのまま残っているのが重要。
被葬者は2人で、片方は17〜25歳の男性だけど、
もう片方は年齢不明でしかも男性の可能性が高いという程度。
石棺内の副葬品は豊富で、各種の金属製の玉類、1万数千点を超えるガラス玉などの
装身具、冠・履・大帯などの金属製品、四面の銅鏡、玉纏大刀、剣など多数。
さらに、遺体を覆っていたと思われる繊維製品も多量に残出。
(^^)
9 :
日本@名無史さん:03/01/17 03:52
聖徳太子の可能性はあるんですか?
10 :
日本@名無史さん:03/01/23 18:23
あぼーん
12 :
日本@名無史さん:03/01/31 07:54
やはり、聖徳太子に絶滅させられたものの祟りを恐れてという見方が正しかったのか。
13 :
日本@名無史さん:03/02/08 23:45
すると崇峻天皇ではないかと思われ
14 :
日本@名無史さん:03/02/15 16:45
藤ノ木古墳に埋葬されているのは崇峻天皇と崇峻天皇を押さえるための僧侶
15 :
日本@名無史さん:03/02/16 23:19
天武天皇の皇子の墓か 奈良・高取町で7世紀末の古墳発見 「キトラ」との共通点多く
奈良県高取町の森カシ谷遺跡を調査中の同町教育委員会は13日、7世紀末の古墳を新たに見つけたと
発表した。朱雀などの壁画が見つかったキトラ古墳(同明日香村、7世紀末ー8世紀初め)と共通点が
多く、同じ規格に沿って築造したとみられる。同町教委は「天武天皇の皇子クラスの墓ではないか」
とみている。
見つかったのは「森カシ谷2号墳」。丘陵の南斜面中腹に造成した平たん地に土を盛って築いて
あった。墳丘はほとんど削り取られ一部しか残っていないが、直径約14b、高さ5b程度の円墳
だったと見られる。
墳丘の真下にあたる基盤部に、内部に石を詰めた幅約60aの排水溝が2本、十字に交差して
残っていた。立地状況や墳丘の直径などがキトラ古墳とほぼ同じだった。
古墳のある丘陵は飛鳥の西南にあたり、周辺には高松塚古墳や天武・持統天皇陵など同じ時期
(古墳時代終末期)の古墳が集中している。
河上邦彦・奈良県立橿原考古学研究所付属博物館館長の話
風水思想にのっとった立地。一帯は天武・持統天皇一族の墓域だったと推定されており、同天皇の
皇子か皇女の墓である可能性は高い。(日経03・02・14朝刊)
17 :
日本@名無史さん:03/03/03 00:14
崇峻暗殺にからんでるのは間違いなさそうだな
18 :
日本@名無史さん:03/03/09 15:05
被葬者は学者によって諸説ありますが
@河上邦彦・奈良県立橿原考古学研究所副所長=平群氏
A猪熊兼勝・京都橘女子大教授=小姉君とその皇子
B高田良信・法隆寺長老=崇峻天皇
C白石太一郎・国立歴史民俗博物館教授=穴穂部皇子と宅部皇子
日本書紀・崇峻二年(587年)六月七日、蘇我馬子が佐伯連丹経手らに「兵を
ととのえ、急行して、穴穂部皇子と宅部皇子を殺せ」と命令
この日の夜半、穴穂部皇子の宮を囲んだ。この時、兵士が、楼の上に登って、
穴穂部皇子の肩を撃った。皇子は、楼の下に落ちて、かたわらの室内に逃げ込んだ。
兵士達は火をともして殺した。
翌日、宅部皇子を殺した。穴穂部皇子と仲が良かった。それで殺した。
藤ノ木古墳の被葬者の人骨は男性二人らしいこと、副葬品が後から動かされた
形跡がないことから、二人同時に合葬されている。日本書紀の記述とも矛盾しない
ので、個人的にはCかなと・・・
>18
漏れはBを支持。
法隆寺長老が唱えているように、かなり昔から法隆寺には
藤ノ木古墳を「御陵」とする伝承があったのも事実。
「御陵」は皇子クラスではなく、天皇クラスと思われ。。。
でも、科学的根拠はNothing。
でもこういう場合、宮内庁の立場はどーなる訳?
関係ない陵墓まで参考地でツバ付けてるくせに。
>>20 宮内庁の立場は気にする必要なし。
彼らにとって天皇陵は学問的対象でない。
22 :
日本@名無史さん:03/03/10 00:56
>>20〜21たしかに宮内庁にとって天皇陵や、陵墓参考地は祭祀の場所。
ある宮内庁書陵部の人が「たとえ天皇陵の指定を間違えて祭祀をおこなって
いても、霊はこちらに来ているはず」と言ったことがある。
祭祀の場所として考えている宮内庁と、純粋に古墳を学問としている学者とは
考え方が根本的に違うようです。
23 :
日本@名無史さん:03/03/10 01:10
>>19 Bの場合、日本書紀・崇峻五年(592年)十一月三日、蘇我馬子の
刺客、東漢直駒が崇峻天皇を殺した。その日のうちに倉梯岡陵に葬った。
とあります。現在、学者のあいだでは奈良県桜井市の赤坂天王山古墳が
崇峻天皇陵に有力とされています。
そういえばこの赤坂天王山古墳も天皇陵に指定されていないので、自由に
出入りができますし、橿原市五条野町の植山古墳も、改葬前の推古天皇と
竹田皇子の大岡陵では、といわれているし、結構宮内庁指定外の古墳て
多いですね。
>23
現在の天皇陵比定は明治時代に行ったものらしい。
従って、特に戦後の研究により、明らかに天皇陵の比定に
無理があると認定されるような場合でも、比定自体に変更が加えられていない。
実際、間違いなく「その天皇の御陵だ」といえるのが
天武・持統陵くらいなんだって。それも盗掘した際の史料が残っているためとか。。。
25 :
日本@名無史さん:03/03/15 00:04
だけど、大山古墳が、明治時代になって、いきなり仁徳の墓になったわけじゃないでしょ?
>25
言葉足らずだったかな。
明治時代に比定されたといっても、明治時代から天皇陵を含めた
天皇家研究(?)がいきなり突然始まったわけではない。
徳川幕府の官学である朱子学に基づく尊王思想により、
江戸時代から研究は行われており、その成果の一つが宮内庁による
天皇陵の比定であった、ということ。
当然ながら、その頃から研究は進むし藤ノ木古墳のように
新たな発見もあるし、当然ながら比定が怪しい天皇陵もあるでしょ。
それを宮内庁は「陵墓参考地」としてあやふやなままにしているんだな。
外池昇『天皇陵の近代史』(歴史文化ライブラリー83、吉川弘文館、2000/1刊)でも読みなされ。
28 :
日本@名無史さん:03/03/21 23:39
29 :
日本@名無史さん:03/03/22 01:59
急に宮内庁がしゃしゃり出てきて、「参考地にするニダ、おまえら出て行け」って言ってきたらどうするよ。
30 :
日本@名無史さん:03/03/22 08:55
>>22 にもあるように、「霊は自分たちの比定した陵墓に来ているはず」と言っているし、
「墓詩でも出ない限り陵墓や参考地の変更はない」というのが宮内庁の立場です。
奈良県の束明神古墳(草壁皇子)や中尾山古墳(文武天皇)は、発掘から何十年も
経過しているけど、宮内庁は何も言ってこないもん。
31 :
日本@名無史さん:03/03/22 16:21
じゃあ宮内庁が新しい古墳を作ってそこで古代天皇総てを祀ればあとは全部掘っていいことになるな。
32 :
日本@名無史さん:03/03/22 16:31
でも、まあ、そんなことはしないだろうな〜
森 浩一著「語っておきたい古代史」(新潮文庫)
←陵墓問題(宮内庁絡み)に対する希望(不満)に
ついて語られている。確か最後のほうで。
34 :
日本@名無史さん:03/03/22 23:28
奈良県斑鳩町大字三井の富郷陵墓参考地って、やっぱり山背大兄がらみで宮内庁が
押さえているのかな?
35 :
日本@名無史さん:03/03/22 23:37
祝!斑鳩高校選抜初戦突破!拉致枠など問題ではない!
書陵部の連中も辛いのよ
それはよくわかる。
辛い=からい=キムチ
おのれ許さん!
藤ノ木古墳は蘇我に殺された大王(崇峻)の墓で、法隆寺はそれを抑えるためのものということで終了
40 :
日本@名無史さん:03/03/27 15:45
>>40 盗掘しようとして引きずり込まれたヤツ、かな。
42 :
日本@名無史さん:03/03/29 16:25
>>41 石棺内の遺物の移動がないので、二人とも同時合葬です。それに、あの古墳は未盗掘ですよ。
43 :
日本@名無史さん:03/04/05 10:36
そもそも崇峻天皇って何才で殺されたんだっけ?
44 :
日本@名無史さん:03/04/05 13:06
今後、藤ノ木クラスの未盗掘古墳が出る事はあるんだろうか・・・
『扶桑略記』には67歳で即位とあるな。ということは71歳で殺されたと。
ま、こんなのを信じてるのはデムパだけだろうが。
物部氏説はどうでしょう?
47 :
日本@名無史さん:03/04/07 21:43
ない。
もっと勉強して来い!
>47
確実にないと言い切れるほど、あなたは勉強しているんですか
ぜひご高説賜りたいですね
ぼくにも釣れたっ!
あの、釣りとかそういう訳分からないことを聞きたかったわけではなく、
被葬者に対する47氏の考えを私は伺いたいのです。
あそこまで強く否定されているので、
よほど画期的な説があるのかと存じます。
是非、教えてくださいね。
51 :
日本@名無史さん:03/04/09 22:16
2chでむきになりなさんな。ネタレスは流せ。
で、きみの物部説を聞かせてくれ。
藤ノ木古墳は法隆寺と関係が深い(たぶん)。
したがって法隆寺との絡みから言うと物部氏説は苦しい。
53 :
日本@名無史さん:03/04/11 02:22
物部説はやく〜聞かせてよ〜
54 :
日本@名無史さん:03/04/11 18:44
>>53&54そんなに若造をいじめるなよ。
で、物部説、はやくしろy!
斑鳩の地には法隆寺が建立されているので、聖徳太子との縁が深い。
そのため、蘇我氏よりのイメージあるので、
蘇我氏と対立していた物部氏の墓が残されているはずがない。
というのが、物部氏説を否定する大きな理由である。
確かに聖徳太子の祖母、堅塩姫も小姉君も蘇我稲目の娘である。
しかし彼女らの母は物部氏出の可能性が高い。
古代日本は母系社会であったので、母方で系図を辿ってみる。
「物部の八十氏」という言葉の通り、物部氏は大きな同族集団であり、
その分布も広範囲に渡る。
石上氏、太氏、大伴氏、息長氏、小野氏、柿本氏、膳氏、
春日氏、額田部氏、布留氏、三輪氏などがあげられている。
注目すべきは額田部氏と膳氏である。
聖徳太子の叔母で堅塩姫の娘の一人、推古天皇の名は豊御食炊屋姫だが、
幼名を額田部姫と伝えている。
古代では母親の氏姓が名前に付けられることが多いため、
堅塩姫の母は額田部氏すなわち物部氏系とみることができる。
そして聖徳太子の夫人菩岐岐美郎女は膳氏である。
膳氏の本拠地が斑鳩なので、やはり物部氏系とみることができる。
物部氏は大和川流域の河内国渋川郡の辺りを本拠地とし、
難波津の河川・陸上交通の要衝を押さえている。
難波津から石上(ここも物部氏の拠点の一つ)へ続く竜田道の重要地点が斑鳩。
今は道路や電車が主流だけども、当時は川が物資を運ぶのに活躍していたので、
大和川の斑鳩を押さえるのは軍事的にも交易的にも有効であった。
なので、蘇我氏の専横の前は一番の軍事力を誇っていた物部氏が
この地を押さえてないはずはない。
物部氏を廃した後、蘇我氏がこの地に進出したのは
その利便性を重視したものとみられる。
長文すみませんでした。
以上は自分が読んだものの中で一番面白いと感じたので、
物部説もありかな、と思い書いてみました。
どうもお騒がせしました。
肝心の被葬者ついてですが、
『先代旧事本紀』にその名が記されている
物部大市御狩が北側被葬者という説を私は押しています。
物部尾輿の長男でありながら、
大市御狩ではなく、弟の弓削守屋が大連職を継いでいるのは、
彼がなんらかの理由で夭折したからではないかと考えられます。
北側被葬者は死亡年齢が二十代なので、これに当てはります。
南側被葬者は…やはり兄弟の誰かかな、と。
藤ノ木古墳が作られたのは、6世紀後半と思われる。
そして、物部氏が滅ぼされたのが587年である。
ビミョウだなあ。もう少ししぼれたらなあ。6世紀後半の前半なら、物部説もありだけど、
6世紀後半の後半なら物部説は無理だなあ。
今後の研究に期待しよう。
61 :
日本@名無史さん:03/04/17 02:51
>>59 やっぱり物部氏は無いでしょう。
天理の北部と、大阪の八尾に本拠地があって、それを繋いだ道がある、だから
その道の真ん中も全部、物部というのはど〜かと・・・それに物部が当時
斑鳩にいたという文献はゼロですし。物部氏が各地所在するので遺跡や古墳群
すべて物部氏とかかわりがあるとするのは問題ではないかと・・
それから、藤ノ木古墳の石室から出土した馬具の形状や文様は、仏教的要素が
非常に強いものです。物部は仏教排斥派なので、つじつまがあいません。
被葬者ですが、北側を物部尾興の長男、南側が兄弟の誰か、とありましたが
これは絶対にありません。
藤ノ木古墳の人骨は二体で、北側の被葬者は男性で17〜25歳、南側は
骨残りが悪いが、骨格の大きさから性別は「男性であってもおかしくない」
と発表され、後の1991年6月に池田次郎氏、片山一道氏の詳細な計測や形態検査の
結果、「やはり南側の被葬者も20〜40歳の男性である蓋然性が大きい」ことが報告された。
しかも「骨の状態から、二人は死後、骨の関節が外れずに、筋肉も腐らない段階で
埋葬された」と鑑定された。=池田次郎・片山一道「Z人骨」『斑鳩藤ノ木古墳
第二・三次調査報告』分析と技術編1993 より
副葬品も移動されていないので、同時埋葬である。
つまり、北側の方が年下。同時埋葬なのに長男より弟の方が年上なんてことは
ありえないです。
おれも物部は否定。
物部と斑鳩を示す物証がほかに何もないじゃぁ、ね。
でも、
>仏教的要素が
物部もお寺作ってたから、仏教的要素が入っていてもおかしくはないでしょう。
63 :
日本@名無史さん:03/04/17 11:11
ニダ
(^^)
現状において、一番被葬者に相応しい人物をあげろといわれれば
聖徳太子の叔父の穴穂部皇子と宅部皇子ではないでしょうか。
66 :
日本@名無史さん:03/04/17 16:00
>>65 賛成!
しかし不安要素も・・・
人骨鑑定で、子供の頃の脱臼の跡まで確認されているのに、刀傷や事故など
暗殺を推定するような大きな骨の損傷が無かったそうです。
68 :
日本@名無史さん:03/04/17 18:49
69 :
日本@名無史さん:03/04/19 00:24
>>62 まあ最初は寺つくったけど、最期は反仏教がもとで死んだわけだから
副葬品に自分が死んだ原因の、仏教色たっぷりなものは入れないだろ〜な。
>>69 まだいるんだなあ。
蘇我VS物部の原因に仏教云々いう人。
>>70 いるよ。高校の教科書とかは、まだそうだしね。
学者先生のなかにも、「『書紀』編纂に石上氏がいるんだから、自分の先祖を悪く捏造するとは思えない、だから廃仏したのは事実」ってな感じで。
スレ違い、かな。
72 :
日本@名無史さん:03/04/19 22:26
>>69 へ〜
じゃあ、藤ノ木古墳は、本当に仏教信じてた物部ってことなのか?
73 :
日本@名無史さん:03/04/19 22:28
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
>>72・73
70の文章からそこまで読めるとは、只者ではないな。
76 :
日本@名無史さん:03/04/20 15:03
78 :
日本@名無史さん:03/04/20 19:04
>>77 やってみたが・・・それらしいのが無かった。
79 :
日本@名無史さん:03/04/22 02:16
↑おい、おい
誰か、ちゃんと教えてやれ!
80 :
日本@名無史さん:03/04/22 11:17
81 :
日本@名無史さん:03/04/30 01:54
架空の聖徳太子によって仏教普及をはかったようにみせるための、
物部と蘇我の神仏紛争はでっちあげと思われます。
物部も仏教を採り入れて渋川廃寺を営んでいたことも物証ですね。
82 :
日本@名無史さん:03/04/30 10:26
83 :
日本@名無史さん:03/05/01 20:29
>>80>>81 氏族単位の仏教受容が問題なのではなくて、
天皇が仏教受容することの是非をめぐって蘇我と物部・中臣が争ったと解釈するのが
一応の常識では?
84 :
日本@名無史さん:03/05/01 22:20
85 :
日本@名無史さん:03/05/01 22:21
>>84 ここは斑鳩における謎にせまるスレッドです。
日本史板住民なら理解できるでしょ?
あぼーん
あぼーん
ザ・粘着!!!!!!!
粘着のおかげで、すっかり止まったな。
で、あの2人の被葬者は誰なんだっけ?
90 :
日本@名無史さん:03/05/10 16:15
物部氏は天理の北部と大阪の八尾に本拠地
藤ノ木古墳が作られたのは6世紀後半
物部氏が滅ぼされたのが587年
石棺内の遺物の移動がないので二人とも同時合葬
日本書紀によると穴穂部皇子と宅部皇子は戦闘行為の最中に死んだ
あぼーん
92 :
日本@名無史さん:03/05/11 07:03
これでも、さらに書き込みがあったら、完全に意識的な荒らしケテーイだね。
自分達の正当化のため、古墳だけじゃなくって、斑鳩の話もしようか。
斑鳩に、若草伽藍以前の遺跡ってあるの?
膳氏の根拠地だったってのは、どこまで立証できるんだろう。
94 :
日本@名無史さん:03/05/11 12:29
あらしじゃねぇよ。
ここは藤ノ木古墳と斑鳩の関係、だろ?
藤ノ木古墳造立前の状況はどうだったのか、
そこから考えてみよう、と思ったんだよ。
あぼーん
97 :
日本@名無史さん:03/05/11 20:31
藤ノ木古墳は、5世紀の未盗掘古墳で、金銅製の品々が発見された
法隆寺は607年に聖徳太子が、父である用明天皇の病気平癒を祈って建立したといわれている
問題はそれら両者の立地条件
98 :
日本@名無史さん:03/05/11 20:35
玄室奥壁と石棺との間からは金銅馬具や挂甲札などが一括して出土してる。
馬具を用いていた勢力によるものとみて間違いない。
99 :
日本@名無史さん:03/05/11 20:41
そもそもさ、なんで、聖徳太子は首都の飛鳥を離れて、
わざわざ斑鳩宮を築くために何度も藤ノ木古墳周辺まで出かけていたのさ?
聖徳太子は藤ノ木古墳の被葬者と切っても切れない関係で、
わざわざこの場所を選んだわけだろ?
100 :
日本@名無史さん:03/05/11 20:46
聖徳太子の墓は妻(?)と母(?)との合葬であるけど棺は別で、
藤ノ木古墳の場合は同じ棺への埋葬となってますが、
当時の状況では同じ棺への埋葬というのはどういう意味を持つのでしょう?
101 :
日本@名無史さん:03/05/11 20:56
あぼーん
103 :
日本@名無史さん:03/05/12 03:30
>>102 お前は首の上にカボチャをつけてるのか?ああ??
104 :
日本@名無史さん:03/05/12 03:55
20歳前後の男性のほうは、竹田皇子だろうか?
あぼーん
あぼーん
竹田は植山古墳→推古天皇陵だろ。
108 :
日本@名無史さん:03/05/13 18:21
竹田んところには推古が追葬されてることになってるからなぁ。
藤ノ木は両方男でほぼ確定らしいし。
あの時期に死んだ、若い有力な男というと、押坂彦人大兄皇子?
でも、斑鳩との関係が希薄すぎる。
110 :
日本@名無史さん:03/05/18 18:08
>>110 不明。
って優香、いつ死んだのかも不明。
590年代だろうか。
一応保全あげ
あぼーん
114 :
日本@名無史さん:03/05/22 11:48
>>113 ちっとも大きく育っていないよ。ちったあ書き込め。
あぼーん
こっちも、むこうも、18日以降、話はストップしてるな。
あぼーん
120 :
日本@名無史さん:03/05/26 12:15
121 :
日本@名無史さん:03/05/26 22:13
大きく育ってるほうは、いま何が話題になってるんだろう?
大きく育ってる方は落ちたようです。
あぼーん
どうも、停滞してるので、初心に帰ろう。
>>18に+α
>被葬者は学者によって諸説ありますが
>1、河上邦彦(橿原考古研副所長)・・・平群氏
>2、猪熊兼勝(京都橘女子大教授)・・・小姉君とその皇子
>3、高田良信(法隆寺長老)・・・崇峻天皇
>4、白石太一郎(歴博教授)・・・穴穂部皇子と宅部皇子
>5、このスレの
>>56-59・・・物部大市御狩とその兄弟
やはり3、4を支持する人が多いかな。
5は、同意する人なくあっさり否定されたが、
斑鳩が難波への交通路ということを考慮に入れた点が、
今後に生きてくるといいな。
あと、
>>99と
>>100の指摘も重要だな。
あぼーん
あぼーん
128 :
日本@名無史さん:03/05/28 13:38
斑鳩は、水上交通の中間点として重要だったんだろうが、
それはいつからかな?
佐紀や三輪に中心地があった頃からか?
それとも飛鳥に移ってからか?
あぼーん
130 :
日本@名無史さん:03/05/31 12:58
>>128 いつからかは知らないけど、
水上だけじゃなく、陸上交通の中間点としても重要だろ?
あやふやな知識で申し訳ないんだけど・・・
奈良県と大阪府を生駒山地がわけていますよね。その切れ目の奈良県側が
斑鳩一帯じゃなかったかな。
いまでも川(名前忘れた)や近鉄が通ってなかったかな。
1500年前と地形はそう変わらないと思うから、水上および陸上交通の
要所だったろうね。
当時の中心地の飛鳥から大陸の窓口である難波にでるには斑鳩一帯を抑え
る必要があったんじゃないかな。
ここに宮を作った聖徳太子さんはいい仕事したと思うよ。
133 :
日本@名無史さん:03/06/05 20:34
その重要な場所を本拠地にしていた膳氏って、何者なんだろう。
134 :
日本@名無史さん:03/06/12 15:30
ageるしかないだろ
135 :
日本@名無史さん:03/06/20 02:11
斑鳩は当時政治の中心だった飛鳥から20キロも離れています。
斑鳩から飛鳥まで太子は愛馬黒駒に乗って毎日朝参したと言われています。歩くと6時間はかかる道のり。いくら名馬でも3時間はかかったのではないかと
思われますので、おそらくは飛鳥にしばらく滞在して政務をとった後、斑鳩に帰るという日々だったのではないかと思います。
斑鳩が飛鳥から遠く離れているため、結局蘇我馬子にはかなわなかった太子が政治から引退を考えていたからではないか、という説がありますが、これはむ
しろ逆ではないでしょうか。
対隋政策を採ろうとしていた太子は、大陸文化を取り入れるための拠点として斑鳩の地を選んだのではないでしょうか。
砂鉄がとれる地域との関連を調べた方が早いんじゃないの?
137 :
日本@名無史さん:03/06/20 07:42
>>135 本当に毎日通ったのか?
当時の皇族の宮殿は1人に1つづつしかないのか?
そのあたりを考えてみ。
138 :
日本@名無史さん:03/06/22 12:44
あげ
139 :
日本@名無史さん:03/07/03 21:20
斑鳩は隠居の地でしょ。通えるわけない
>>1 今さらなんだけど、
被埋葬者って・・・
被葬者だろ
141 :
日本@名無史さん:03/07/07 15:36
>139
隠居じゃないだろう。隠居する年齢か?
>137の言ってる点を考えてみてよ。
144 :
日本@名無史さん:03/07/12 16:56
いや、もう父も母もいないし、有力者の基盤を失って、
厩戸皇子は中央政界の地から斑鳩へと移動したということらしい。
>144
それを立証してみてください。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
147 :
日本@名無史さん:03/07/17 04:34
そもそもさ、なんで、聖徳太子は首都の飛鳥を離れて、
わざわざ斑鳩宮を築くために何度も藤ノ木古墳周辺まで出かけていたのさ?
148 :
日本@名無史さん:03/07/17 08:25
当時の王族の宮ってのは、上でも書いたが1つじゃないだろう。
そして、たんなる住居でもない。経済基盤の運営のための施設みたいなものかね。
たとえば『日本書紀』用明天皇2年4月丙午条に、押坂彦人大兄皇子の「水派宮」の名が出ている。
所在地は不明だが、広陵町のあたりと推測されている。斑鳩までは行かないものの、飛鳥の外だね。
豪族の場合も、物部守屋が大阪に家を持っていたけど、そこから通っていたわけでもないし、隠居していたわけでもない。物部の経済基盤・勢力基盤がそこにあったから、家がそこにもあるんだね。
法隆寺五重塔、年輪年代法で663年以降に再建確実!だってYO!
150 :
日本@名無史さん:03/07/17 19:36
こんばんは。
棒掲示板に、埋蔵品として豪華な婦人用の馬の蔵が入っていたとと記されていました。
また、女性のものと思われる足輪などもあったので、当初この二人は男女だと思われていたそうです。
調べていくうちに男性二人とわかったそうです。
藤ノ木というぐらいですから、藤原氏と関連があるのでしょうか。
ふじ山というぐらいですから、藤原氏と関連があるのでしょうか。
152 :
日本@名無史さん:03/07/18 19:01
ここは物部説の人が多いのか?
オレは
>>18のCかな。
153 :
日本@名無史さん:03/07/18 19:53
被葬者として某掲示板では有間皇子の名前があがっていました。
私も候補としては有間皇子をあげています。
北側の被葬者は17歳〜25歳ぐらいで年齢的にも一致いたしますしね。
南側の被葬者は壮年 20年〜40歳ぐらいだそうです。血液型は二人ともB型だそうです。
また有間皇子は壱部町に宮を持っていました。藤ノ木古墳とつながりがあるのではないでしょうか。
また法隆寺は 橘三千代との関連もあるようです。また南側の被葬者が女装していたとなると、、、、
みなさんのご意見をお聞かせください。
154 :
日本@名無史さん:03/07/18 22:22
古墳の年代と有間皇子の没年
全然合わないんですけど・・・
155 :
日本@名無史さん:03/07/18 23:05
古い古墳を利用したのではと言う意見がありました。
古墳を造った時期と被葬者が眠りに着いた時間は別のものというかなり大胆な仮説をたてました。
藤ノ木古墳というのかがなぞです。高松塚古墳は某掲示板にてみなさんの推理で、ある人物が浮かびました。
有間皇子の墓は
和歌山県御坊市岩内845-1の
岩内一号墳(別名・みこ塚古墳)七世紀中頃が有力では?
157 :
日本@名無史さん:03/07/18 23:31
推理小説なら、おもしろいけどね。
古い古墳を利用・・・
陵墓指定間違いを指摘された、宮内庁の言い訳と同じだね。
158 :
日本@名無史さん:03/07/18 23:49
156の方ご意見ありがとうございます。
3人で古墳の被葬者を推理しているのですが、高松塚はクリアできたのですが、藤ノ木
でまた四苦八苦しております。
和歌山にある有間皇子の墓は調査はしていないでしょう。
有間皇子は皇太子扱いされていたのではないか、という憶測の上で仮説を立てたのです。
埋葬されていた副葬品がどう見ても大王クラスだと思ったからです。
有間と聖徳太子は血縁があるという仮説も立てました。
当然記紀の記述は無視になりますが、、、、。
>>158 岩内1号墳は発掘済みです。
出土品は御坊市歴史民俗資料館に展示
特に「銀線蛭巻太刀」、が目玉で、
把に断面三角形の銀線を巻いた直刀で
残存する鞘の木質部に装着用の銅製佩
鐶が残っています。
【私見】は、「聖徳太子」は【大津皇子の諡号】です。
大津皇子(聖徳太子)の天武(崇峻)天皇弑逆ゆえの、時代を遡らせての
記載と考えています。
『日本書紀』の天武条のみ、上下巻ある不自然さは、大津皇子の即位を
隠したものと理解しています。
大津皇子の父は、天智系(春)の弘文天皇(大伴皇子)、
母は、蘇我大王家の大王【額田王・職掌】の大田(十市)皇女です。
有間(有馬)皇子はその大田(十市)皇女と兄妹か、姉弟の筈です。
推理や【私見】が当たっていれば、聖徳太子と有間皇子は血縁になります。
そうですか・・・・・・・・もう私から、何も言う事はありません。
162 :
日本@名無史さん:03/07/19 01:40
160の方へ
高松塚古墳、キトラ古墳、藤ノ木古墳というのですか。
なにか意味があるのですか。
しかし、天皇家血なまぐさい歴史ばかりだこと。ニャーねこ
>>160 ちなみに大津皇子の墓は、奈良県当麻町の鳥谷口古墳が有力です。
164 :
日本@名無史さん:03/07/20 03:55
165 :
日本@名無史さん:03/07/21 03:49
法隆寺五重塔部材に663年ごろ伐採の木 再建説裏付け
奈良県斑鳩町の法隆寺五重塔(国宝)に使われていた木材に、663年ごろ伐採された木があることが、奈良文化財
研究所(奈文研)の年輪年代法による調査でわかった。日本書紀には670年に焼失したという記載があるため、現在
の法隆寺(西院伽藍=がらん)は7世紀前半に創建され、火災後の再建とする説と、7世紀前半から中頃までに建立さ
れた当時のままとする説の論争が続いている。今回の調査で、焼失年にきわめて近い年代が判明したため再建説を改め
て裏付ける資料になりそうだ。
奈文研は五重塔のヒノキの部材14点を調べ、うち4階などの屋根の垂木2点と化粧裏板1点の3点に樹皮に近い外
側の白い部分(白太=しらた)が残っていた。それぞれの最も外側の年輪の年代を測定した結果、垂木は663年と6
31年、化粧裏板は624年だった。白太の残り具合から、663年の垂木はこのころ伐採されたと考えられるとい
う。この結果からは、五重塔の建設は7世紀後半とみられる。
法隆寺の再建非再建論争は、1939年に境内南東の若草伽藍から金堂と塔跡が発掘され、再建説が支配的になっ
た。だが、奈文研は01年に、五重塔の中心を通る心柱の伐採年は594年ごろと発表。再建説、非再建説ともかけ離
れた古い年代のため、「貯木説」や「他寺からの移築説」が唱えられたが結論は出ていない。
このため、奈文研は法隆寺の協力で昨秋から、昭和大修理などで金堂や五重塔などが修理された時に取り換えられた
古材の年輪を調べていた。奈文研は「まだ調査途中で、3点の年代のばらつきが大きい。670年以後の年代はまだ出
ておらず、明確な結論は出せない」としている。
166 :
日本@名無史さん:03/07/21 19:11
高塚松雄さんの墓です。
>167
面白くともなんともないのだが。
169 :
日本@名無史さん:03/07/27 04:05
藤ノ木古墳出土の鞍金具の象をデザインしたブックマーカーです。
金色終了。銀色のみ販売中
定価 800円(税込み)
>166
カビラー
>170
面白くもなんともないのだが。
(^^)
173 :
日本@名無史さん:03/08/03 19:37
被葬者は二名で、人骨から一人は17〜25歳の男性、もう一人は年齢は不明ですが男性の可
能性が高いとされています。
同一の石棺内に二人の男性が埋葬されているのは、文献的にみても極めて異例なことと考えら
れていて、なぜそのような埋葬となったのか、様々に憶測されてもいます。
豪華な副葬品から被葬者は大王の近親者、あるいは有力豪族と考えられていますが、どんな人
物なのか興味のつきないところです。
古くは藤ノ木古墳を崇峻天皇陵とする伝承もあったようです。
174 :
日本@名無史さん:03/08/03 22:57
既出。
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
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176 :
日本@名無史さん:03/08/10 17:25
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
178 :
日本@名無史さん:03/08/16 00:47
179 :
日本@名無史さん:03/08/19 10:04
このころも、生前から墓を用意してたんだよね?
2人はいってるってことは、1人はともかく、
もう1人のほうは、自分の墓作るまもなく死んだということかね?
小さい墓ならモガリやってる間に作れそうだが。
人骨鑑定により同時合葬、報告書にも書いてある。
182 :
日本@名無史さん:03/08/30 12:58
183 :
日本@名無史さん:03/09/05 20:52
184 :
日本@名無史さん:03/09/14 16:55
185 :
日本@名無史さん:03/09/23 20:33
186 :
日本@名無史さん:03/10/01 22:30
187 :
日本@名無史さん:03/10/05 00:15
188 :
日本@名無史さん:03/10/13 02:24
189 :
日本@名無史さん:03/10/31 21:33
斑鳩逝ってきました。法隆寺&藤の木古墳見て来ました。
本当にすぐそばにありましたよねー。
190 :
日本@名無史さん:03/11/01 09:35
191 :
日本@名無史さん:03/11/19 21:24
物部っぽい感じに感じた
192 :
日本@名無史さん:03/11/19 21:58
藤ノ木古墳は円墳と確認 東側に周濠、直径50m超す
金銅製の冠など豪華な副葬品が出土した奈良県斑鳩町の国史跡・藤ノ木
古墳(6世紀後半)は、直径50メートルを超す円墳だったことが確認
され、同町教育委員会と奈良県立橿原考古学研究所が19日、発表した。
同古墳は、副葬品や規模から当時のトップクラスの権力者を埋葬したと
推定され、同研究所は「造営時期をさらに詳しく調べ、被葬者解明を進
めたい」としている。
藤ノ木古墳は前方後円墳とする説もあったが、町教委などは、根拠と
なった東側の数十センチ高くなった部分を調査。前方部と考えられる盛
り土跡などは見つからず、円墳の周濠(しゅうごう)とみられる幅3・3
−5・5メートルの溝を確認した。
また東側に2カ所、自然のれき層を削った円弧状の跡が見つかり、造営
当初の墳丘のすそは従来考えていたより半径2メートル以上広く、直径
は50メートル以上あったと判断した。(共同通信)
193 :
日本@名無史さん:03/11/22 13:46
いつのニュース?
194 :
日本@名無史さん:03/11/22 13:51
21日にいってきますた。
196 :
日本@名無史さん:03/11/23 08:30
>195
れじゅめをうpしてくれるとウレシイなぁ。
197 :
日本@名無史さん:03/11/23 20:11
>> 20 /他
うん、たしかに宮内庁の姿勢は好ましくない。
私は、決して宮内庁の職務を誹謗するものではないし、
皇室と継承されてきた貴い文化をないがしろにするものでもない。
しかし
「古代の大王が鎮まっていると信じた場所に、その大王は鎮まる」
などという乱暴な「信仰の強制」は、
GHQ占領以降の現代社会にあって
まことに望ましくない姿勢であるといえる。
無意味な誹謗などではなく、怒りをもって申上げる。
考古学上の発表によって真実がうかがわれる現代、
継体天皇は高槻市の今城塚に鎮まっている、と信じられる。
ほんとうに「威厳」を大切になさるのならば、
宮内庁は真実から眼をそむけるべきではないだろう。
198 :
日本@名無史さん:03/11/23 21:58
ハゲドゥなんだけど、それしちゃうと、実在しない天皇とその陵としている古墳の扱いが難しくなっちゃうんじゃないかな。
今回は第5次発掘調査だそうです。ポイントは、円墳か前方後円墳かですが、
報道にもあったとおり、前方後円墳としての方墳に相当する部分は発見されず、
円墳をかたちづくるように地面を削った跡がみられたため、円墳だろう
という結論でした。
もうひとつのポイントは、宝積寺についての探索でした。結果としては、
今回の調査では宝積寺であると断定できるような証拠はでませんでしたが
周辺部で、建物の柱穴のようなものが確認されたようです。
現地では「宝積寺か?」というようなハテナマークつきで表示されてました。
200 :
日本@名無史さん:03/12/12 22:41
201 :
日本@名無史さん:04/01/05 17:41
聖徳太子でファイナルアンサー
>202
太子の男色の相手
204 :
日本@名無史さん:04/01/17 10:47
古墳スレおちた?
205 :
日本@名無史さん:04/01/29 09:09
和歌山にある有間皇子の墓
206 :
日本@名無史さん:04/02/08 23:22
207 :
日本@名無史さん:04/02/28 06:05
有間皇子は皇太子扱いされていたのではないか??
208 :
日本@名無史さん:04/03/14 13:35
岩内1号墳は「銀線蛭巻太刀」が目玉
209 :
日本@名無史さん:04/03/22 15:18
あんな寂しい処ではいや。
まだ、藤白のほうがいい。
大体、塩屋だって、紀の国の塩屋とは限らない
摂津のほうの塩屋じゃないかと思う。孝徳は
摂津のほうが関係が深い。
210 :
日本@名無史さん:04/03/22 15:34
209
岩内1号墳を有間皇子の墓とする説について。
藤ノ木古墳と関係ないけど。
211 :
日本@名無史さん:04/04/06 04:39
大津皇子の墓は、奈良県当麻町の鳥谷口古墳が有力
あまり学会では、信用されていない。
石棺が小さすぎ、寄せ集めらしい。
もがりの後の骨を集めたとも言われているが
當麻氏の年少者を葬ったという説のほうが有力。
ちなみに加守廃寺のあたりが大津の墓所らしいという意見あり
二上山の山頂の墓は、墳墓でないのは明らかだが万葉ファンとしては
山頂にあったほうがいいな。
岩内1号墳は古墳学の第一人者が有間の墓らしい
と言っているけれど、証拠はない。
213 :
日本@名無史さん:04/04/24 19:10
最新の情報はないの?
214 :
日本@名無史さん:04/04/24 20:05
予算も学者も人気もキトラ古墳に取られた。>藤ノ木古墳
215 :
日本@名無史さん:04/05/05 14:22
216 :
日本@名無史さん:04/05/23 05:07
被葬者は2人で、
17〜25歳の男性と、
年齢はできないのですが男性の可能性が高い
217 :
日本@名無史さん:04/05/26 11:44
だからといって、有間皇子の名があがるのはおかしい。
(前のほうのレス)
もう一人は、40代ぐらいの男性らしい。
218 :
日本@名無史さん:04/06/19 01:35
219 :
日本@名無史さん:04/07/17 23:09
女性の可能性は完全に否定されたの?
法隆寺金堂の天井板、伐採は667年 再建論争再燃か
http://www.asahi.com/culture/update/0716/001.html 世界最古の木造建築、法隆寺(奈良県斑鳩町)の建築部材を年輪年代法で調べていた
奈良文化財研究所は15日、金堂の天井板2枚が667年と668年に伐採された
ものだったと発表した。現存する法隆寺(西院伽藍)は、創建法隆寺(若草伽藍)が
670年に全焼した後に建てられたとするのが通説だが、金堂は670年にすでに
建っていたか、建築中だった可能性が出てきた。金堂だけは若草伽藍と併存していた
とする説もあり、明治以来の再建・非再建論争が再燃しそうだ。
奈文研は法隆寺の依頼で02年から2年間かけ、金堂、五重塔、中門の三つの建物に
使われている部材と、修理などで取り換えられて倉庫で保管されていた古材計
107点を調べた。
金堂では、戦後の49年の火災で焼け焦げたヒノキの天井板(長さ2.5メートル、
幅28センチ)の伐採時期が668年、スギの天井板(長さ1.2メートル、
幅26センチ)は667年だった。いずれも樹皮が残っていたため伐採年を特定できた。
ほかに、軒を支える雲肘木(くもひじき)など3点は、最も外側の年輪が
650〜661年だった。外周部が削られているため伐採時期は特定できないが、
年輪の幅などからいずれも670年より古いと推定した。
このため、金堂は660年代には建築中だった可能性が出てきた。ただ、伐採後に
貯木していたとも考えられ、再建説を覆す根拠とすることはできないという。
一方、五重塔では、2階の雲肘木が673年に伐採されたヒノキとわかり、
火災後の建物と裏付けられた。建築は670年代に始まったとみられる。
ただ塔の心柱は、01年の奈文研の調査で「594年ごろの伐採」と判明、
再建・非再建両説とかけ離れた年代のため学界に衝撃を与えた。今回の調査では
再建説を裏付ける結果が出ただけに、心柱の伐採時期の古さだけが依然、
謎のまま残ることになった。
また中門では、1階の柱上部の大斗(だいと)と呼ばれる部材の最も外側の年輪が
685年で、削られた外周部を推測すると伐採は699年ごろとみられるという。
西院伽藍が様式的にみて金堂、五重塔、中門の順に建てられたとする従来の説は、
今回の調査で裏付けられた。
〈法隆寺再建・非再建論争〉
法隆寺は670(天智9)年に焼けたとの記述が日本書紀にある。
このため今の法隆寺は、南東約200メートルにある創建法隆寺(若草伽藍)が
焼失した後、7世紀末から8世紀初めごろまでに建てられたとするのが再建説。
一方、金堂の建築様式の古さから、聖徳太子の時代の7世紀初めに創建された
ままだとする非再建説が1905年に登場した。
だが39年、若草伽藍で金堂と塔の跡が発掘され再建説が定着した。
223 :
日本@名無史さん:04/08/10 11:35
九州からの移築の可能性って本当にあるの?
224 :
日本@名無史さん:04/08/10 13:03
>>150 埋蔵品として豪華な婦人用の馬の蔵が入っていたとと
記されていました。また、女性のものと思われる足輪などもあったので、
当初この二人は男女だと思われていたそうです。
調べていくうちに男性二人とわかったそうです。
↑
上記に記載された出土品から素直〜に推察してみれば、
一人は男で、もう一人は
女装をしていた男
だと思うのだが、この可能性について、誰も言及しないのは何故なのだ。
225 :
日本@名無史さん:04/09/01 00:49
226 :
日本@名無史さん:04/09/01 00:57
>223
ない。古田信者がわめいているだけ
227 :
日本@名無史さん:04/09/01 01:00
残っていた骨から、男二人と解ったのではないか。
228 :
日本@名無史さん:04/09/01 01:31
>>227 あれ?当初は三人分の遺骨が発見されたって発表されていたけど。
229 :
日本@名無史さん:04/09/19 00:01:07
230 :
日本@名無史さん:04/09/19 13:53:11
蚊屋皇子説は?
うわ、スマン間違ったsage
232 :
日本@名無史さん:04/10/07 22:19:03
DNA鑑定は出来ないの?
233 :
日本@名無史さん:04/10/07 22:38:52
だいたい、4万年前のネアンデルタール人からミトコンドリアDNA
をひっぱりだすことができるし、最近では、6万年前のマンゴ湖
の原人だかなんかの骨からもとりだしている(オーストラリア)。
縄文時代人だろうが、弥生時代人だろうが、なんとでもなる。
234 :
日本@名無史さん:04/10/29 07:19:48
じゃあ、二人の間でDNA鑑定をして、
どういう関係かを調べましょうよ!
235 :
日本@名無史さん:04/11/18 02:08:10
いいよ!
いま何処に保管されてるんだっけ?
どんな骨からもとれるってわけじゃないんじゃないの?
238 :
日本@名無史さん:04/12/03 01:19:50
火葬してなきゃ大丈夫なんじゃないの
239 :
日本@名無史さん:04/12/19 00:36:09
>>233 じゃあ、それらの縄文人や弥生人のDNAの全解析と、
全日本人のDNA解析を比較して、系統樹を作ろうよ。
>239
じゃあ、資金提供よろ。
241 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:51:45
どのぐらいでできるの?
242 :
日本@名無史さん:05/01/19 15:26:20
まじに資金面での問題だけなら、
毎年2兆円ぶち込んでいる道路整備費用から少し回すよ
243 :
日本@名無史さん:05/01/20 10:12:50
やる意味があるのか?
244 :
ふーこ:05/01/26 01:13:39
資金面での問題なんでっしゃろ。
新聞にも重要やとか、値打ちもんやとか載っとった古墳やと、
大間違いされとった、ブラジャー・ガードルのマルコ(株)
(大証2部:9980) は、新規売建て禁止でっせ。
研究費稼ごうと、思っとった人は、1000円の内に売っ払った
方がよろしおまっせ。正味、300円程度だそうでっせ。
245 :
日本@名無史さん:05/02/13 07:05:52
藤ノ木古墳から出た画文帯環状乳神獣鏡ってどうよ?
246 :
日本@名無史さん:05/02/25 17:18:58
その神獣鏡の写真どっかない??
この時代でも埋めてるってのがすごいね
247 :
日本@名無史さん:05/03/16 04:08:05
最後に神獣鏡を埋めたのはいつごろなんだろ?
248 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 04:53:23
白村江の直前じゃねえ?
249 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 04:31:01
斑鳩って、当て字?
250 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 23:22:45
『イカルガ』って、何語だ
251 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 09:39:06
252 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 18:57:01
はあ
253 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 11:51:21
んで、日本語として、語源はなによ?
254 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 21:10:59
イカルって鳥がいっぱい居たから。
イカル(斑鳩・鵤)雀目アトリ科の鳥。渡り鳥。
255 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 05:07:16
イカルっていうのは、縄文語?
256 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 22:56:25
257 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 18:25:45
しらん
258 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 01:53:15
大原史氏で決着。
260 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 11:35:47
261 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 23:31:11
うほ
262 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 01:28:40
九州からの移築の可能性って本当にあるの?
263 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 17:56:43
http//:www.3ch.jp/
264 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 08:07:18
曽我氏との関係は?
外戚か
266 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 15:52:59
267 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 08:59:56
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268 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 18:16:12
二人は屋壁皇子(宣化の第 子)と穴穂辺皇子です。
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273 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 00:28:27
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274 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 11:21:53
嗚呼、斑鳩が行く・・・・・・
望まれることなく、浮き世から 捨てられし彼等を動かすもの。
それは、生きる意志を持つ者の 意地に他ならない
斑鳩(いかるが)ってのは、「いか」と「るが」に分かれると考えるのが適当だろう。
「いか」の語源は、「生駒」の「いこ」、「五十猛」の「いか」、
「息長氏」の「いき」、「雷尊」の「いか」、神戸生田神社の「いく」、
大阪池田の「伊居太神社」の「いこ」と、同じである。
「るが」のほうは、「葛城(かつらぎ)氏」の「らぎ」と同じで
接尾語的な使われ方だが、「ら」については、助詞「の」のような感じあり、
「お前ら」のように、一族をさすための複数を示す「ら」のような感じあり、
「ぎ」については、いざなぎ・いざなみ尊のように、最後につく「き・ぎ」がついた。
ある(新興)宗教の祝詞で、「かむろぎ・かむろみの尊をもちて」
と出てくるが、これとも同じであろう。
276 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 18:54:33
ほほう
278 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 09:24:31
そうやな
279 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 12:12:16
すごいな
280 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 20:46:31
まあ、永遠に分からんわな
281 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 08:47:25
いや、分からんよ
282 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 20:18:42
そうかもな。
283 :
日本@名無史さん:2006/08/09(水) 13:02:11
そうやろか
284 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 13:25:04
>>275 折れには難しすぎるので、だれかわかりやすい解説ヨロ
ほ
286 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 04:54:15
287 :
唐松山:2006/10/17(火) 18:26:55
ほつま伝によると
埋葬時
男は西向き
女は東向き
藤の木古墳の埋葬は、どっち向き?
288 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 01:08:31
藤ノ木古墳の遺物はせいぜい中国止まり。
289 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 01:45:25
ははん、これは古代ユダヤの流れに間違いない罠
ふつうに穴穂部と宅部でまったく問題ない
とか、ここでは云うのはNGなの?
朕の祖先の墓
_,___
/ __`ヾ),_
/〃 (⌒゛`ヾv"ヽミ、
i / /´ _ニ=-=ニ .i l|
| 彳 〃_. _ヾ!/
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ヽ_j 、 /,.ー=-、i リ
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|ヽ. | |` ー--ィ´i |
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あけましておめでとうございます。
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