超長文いくよ。
藤原不比等について仮説を一つ。
●天智天皇と同母妹間人皇女の隠し子の引受け役としての藤原鎌足●
藤原不比等の出生については謎が多い。
しかし、私のこの仮説によって、その謎の解明がかなり出来ると思う。
それでは計9個の謎についてこれから一つ一つ解明していこう。
まず、基礎情報を述べよう。
藤原鎌足の妻
1.鏡王女。有名な額田王の姉。皇族の末端。鏡王の娘。
天智天皇の妻の一人だったけれど、天智天皇がなぜか?(←ここが謎)
鎌足にお古をくれた(でも本当は鎌足にとって迷惑だったと思われ)。
2.車持与志古娘。天智天皇の妻の一人だったけれど、鎌足の妻としてくれた。
鎌足と車持与志古娘の娘の氷上娘、五百重娘は天武の夫人となる。
氷上娘は但馬内親王、五百重娘は新田部親王を産む。五百重娘は天武の死後、
異母兄不比等の妾になって四男麻呂を産む。
3.美女で有名な采女の安見児を天智に貰う。鎌足大喜び。でも、天智天皇のお古。
藤原鎌足
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%8E%8C%E8%B6%B3 > 推古天皇22年(614年) - 天智天皇8年10月16日(669年11月14日)
> 正妻は鏡王女。長男は僧定恵、次男は不比等。
> 娘の氷上娘(ひかみのいらつめ)・五十重娘(いおえのいらつめ)は、
> いずれも天武天皇夫人。
藤原定恵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E6%81%B5 > 皇極天皇2年(643年) − 天智天皇4年12月23日(666年2月2日))
藤原不比等
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89 > 斉明天皇5年(659年)- 養老4年8月3日(720年9月13日))
正室蘇我氏が長男〜三男を産む。長男〜三男の子孫はその後、繁栄したが、
五百重娘の産んだ四男の子孫はすぐ消えた。
鎌足の娘の五百重娘の産んだ天武の皇子は皇位継承については完全無視された。
不比等の娘の産んだ皇子皇女が全員皇位を継いだのとは大違い。
次に謎について解明していく。
■謎1:鎌足の子孫は低く扱われ、不比等の子孫は栄えた。
鎌足の娘の産んだ皇子は天皇候補にさえなれず完全に無視されたが、
不比等の娘の産んだ子は皇子でも皇女でも天皇になった。
功のあったのは鎌足なのに、なぜその子に過ぎない不比等の方が栄えたのか。
■謎1の真相:不比等は天皇の隠し子としての扱いを露骨に、公式に、受けたらしい。
身分の低い鎌足とは扱いが違う。
鎌足がいくら個人的に天智天皇に信任された寵臣でも、身分は身分だから
鎌足の娘の産んだ皇子は母の身分が低い皇子なので無視された。
■謎2:では、本当に不比等は天皇の子か。どの天皇の子か。母は誰か。
諸説あり。孝徳天皇の子、天智天皇の子の説あり。しかし、それ以外には
全くない。例えば、天武の子という噂は全くない。母も諸説あり。謎。
謎2の真相については、また後で詳説する。
鎌足が亡くなる時に、天智が枕元に来て、次男不比等とその子孫に
藤原の姓を賜ると言った時に、鎌足は泣いて喜んだという。
■謎3:もし、不比等が天智の子ならば、泣いて喜ぶのは変。姓を賜って藤原氏の
立身出世と引き立てを約束されても、天智の子だから予定通りなだけである。
ではなぜ泣いて喜んだのか。
謎3の真相についても、また後で詳説する。
■謎4:なぜ、鎌足の妻達は天智のお古ばっかりなのか。
しかも一人で十分なのに何人も、、、はっきり言って、おかしい。
鎌足は天皇のお古の女が好きで、「天智天皇、あなたのお古の妻をくれくれ」と
次々にねだる変わり者だったのか?
だとしてもそれを許して次々とお古の妻をあげる天智もおかしいんじゃないか?
また、天皇のお古が好きだったとしても、それ以外のところから
妻を一人も娶っていないのは不自然じゃないのか?
■謎5:ところで、なぜ鎌足は尊腹出の一粒種で、自分の跡継ぎたる長男定恵を
出家させたのか。
当時次男はまだ生まれていなかった。どう考えても不自然ではないか。
■謎4、謎5の真相:
簡単に言えば、鎌足は天智から、
「自分と妹間人との近親相姦で皇子が生まれたら、お前の子供として
育ててほしい、その子には「藤原」の姓を与えて天皇の密かな隠し子として
立身出世を約束する、どうかお願い」
と強く頼まれていたと考えられる
(この仮説を唱えるのは私が初めてかも。しかし、これによると多くの
謎が次々と解明されるので、今後主流になっていくかも、、、、)。
そのため、鎌足が中流や下流のつりあいの取れた家と勝手に婚姻を
結ぶことを許さなかった。もし本当の子が生まれたら、天智の子供よりも
実子に家を継がせたくなるから。。。
また、鎌足の家は天智天皇と間人皇女の禁忌の子が跡を継ぐことになって
いたので、一粒種で長男の定恵を鎌足家の跡継ぎにするわけにはいかず、
不自然でも出家させて、跡継ぎから外さざるを得なかった。
天智から「どうせお前の実子ではなく、孝徳天皇の子なんだろう、出家させても
かまわんだろう」と言われたかも。。。
また、そのため、天智のお古の中下流出身の妻ばかりを妻として押し付けられた。
天智と間人の禁忌の子が生まれたら、天智からもらった妻が天智の子を
身ごもったまま嫁してきて産んだのだという建前にして、禁忌の子を鎌足が
育てる計画が立てられた。
そういうわけで、もし天智からもらったお古妻が鎌足の息子を産んでしまった場合は
邪魔にならないように、定恵のように出家させるというお約束をさせておいた
だろう。もちろん、娘の場合は跡継ぎじゃないので許されただろうが。
だから、鎌足が天智のお古以外のところから妻を娶って
息子が出来たとしたら、妻の実家の意向もあるし、邪魔だからと言って
勝手に出家させるわけにはいかない。それなので、
天智のお古以外のところから妻を娶るのを天智から固く禁じられたと考えられる。
■謎6:なぜ天智天皇は長い間即位せず、間人皇女が死んだら即位したのか。
■謎6の真相:天智天皇と同母妹間人皇女は近親相姦の仲だった。
それを問題視されていた天智は長い間即位せず、間人皇女が
死んでから初めて即位した。
実際に、孝徳天皇は間人皇女と同母兄天智天皇の間に肉体関係があることを
うらむような歌を間人皇女に送っている。
「鉗(かなき)着け吾が飼ふ駒は引き出せず 吾が飼ふ駒を人見つらむか」。
天智天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87 > 天智天皇が長く即位しなかったことは、古代史における謎の一つであるが、
> このことについて興味深い説が3つ存在する。 一つは、天武天皇を推す勢力
> への配慮。即ち、従来定説とされてきた、天武天皇は天智天皇の弟であると
> いうのは誤りで、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、
> 彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくものである。確かに、
> 一部の歴史書に掲載される両天皇の享年をもとに生年を逆算すれば、
> 天武が年長となってしまう。「父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が」と
> いうことなのである。
>
> もう一つは、天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。
> これは、万葉集に記載された孝徳天皇が妻の間人皇女(天智の同母妹)に
> 当てた歌に彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである。
> 当時の人々の恋愛事情(異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、
> 同母兄弟姉妹間でのそれは許されない)を考えれば、この説も理解できる。
■謎7:天智と間人皇女の間に近親相姦の子供は実際にできなかったのか。
■謎8:建皇子はおしだったが、おしは近親相姦でよく出る障害の一つだ。
天智天皇は蘇我氏の血をほんのわずかにしか引いてないのに、なぜ、蘇我
遠智娘との間に近親相姦でよくでる症状の障害の子が生まれたのか。
■謎7と謎8の真相:近親相姦の子は多分出来たと考えられる。
それは、実は、あの誰もが知る夭折したおしの建皇子だったのではないか
と考えられる。
間人皇女との間の近親相姦の子を、丁度その前後に若死にした蘇我
遠智娘の産んだ子ということにしてうまくごまかしたのだ。
再掲 孝徳天皇后妃
ttp://homepage2.nifty.com/hpsuiren/koukyu/asuka/koutoku.htm > 皇后:間人皇女【はしひと】..? 〜665
> 641.. 父・舒明天皇没
> 645.. 大化の改新、孝徳天皇(49才)即位(6月)、皇后に冊立される(7月2日)
> 653.. 兄中大兄皇子・母皇極上皇・弟大海人皇子とともに飛鳥河辺の行宮に移る
> 654.. 孝徳天皇の病を見舞う(10月)、孝徳天皇(59才)没
> 655.. 孝徳天皇を大阪磯長陵に葬り、即日飛鳥に帰る
> 661.. 母・斉明天皇没
> 665.. 崩御〔2月25日〕
再掲 遠智娘
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%99%BA%E5%A8%98 > 享年は定かではないが、建皇子を産んで間もなく亡くなったとの説が多い。
> 建皇子(夭逝、生まれながらに口がきけなかったという)の2女1男を産む。
遠智娘は、天智天皇の妻達の中では、皇后である倭姫王に次ぐ高貴な血筋の妃だった。
倭姫王は子をなしてないので子をなした中では最高位。
禁忌の子が生まれた前後に丁度遠智娘が亡くなったので
間人皇女の生んだ兄妹間の息子を、死人に口なしということで、遠智娘が産んだ
ことにしてごまかした。
これで恋人である妹との子を身分の高い遠智娘腹出の皇子として、正式な跡継ぎ
にも出来る。
しかし、親子兄妹間の近親相姦の子は約半分の確率で身体的障害が発生する。
おし、めくら、足が立たない、などの症状が多い。
近親相姦で障害の出たと思われる例を出そう。
・鳥羽天皇と中宮璋子の子供たち
実は、鳥羽天皇は中宮璋子と従兄妹同士で、祖父・父・自分と、璋子の家を相手に
三代連続して、母の兄の娘と結婚という、従兄妹結婚を繰り返してきて
従兄妹だけど、血の繋がりが非常に濃い。
そのため、二人の間には沢山の皇子皇女が
生まれたが、美形の母に似て見目麗しいのに、その半数が、めくら、おし、
足が立たないなど、近親相姦特有の身体障害を持った子供達だった。
それなので第4皇子に過ぎない後白河天皇(健常)にまで皇位が回ってきた。
ちなみに鳥羽に「叔父子」と呼ばれた第一皇子(崇徳天皇)―中宮璋子と
白河法王(鳥羽の祖父)との不義の子供―は健常だった。
・尊属殺人違憲判決が下りた有名な、痛ましい事件
「尊属殺法定刑違憲事件」
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%B1%9E%E6%AE%BA%E6%B3%95%E5%AE%9A%E5%88%91%E9%81%95%E6%86%B2%E4%BA%8B%E4%BB%B6 > 1968年10月5日、被告人の女性(当時29歳)は実父(当時53歳)を絞殺した。
> 被告人は14歳の時から実父によって性的虐待を継続的に受けており、しかも
> 近親相姦を強いられた結果、親娘の間で5人の子(うち2人が夭折、他にも6人
> を妊娠中絶)を産む夫婦同様の生活を強いられていた。
↑この事件でも、近親相姦で生まれた5人中、2人が障害があったらしくて弱くて
夭折している。
このように、おしで夭折した建皇子も恐らく近親相姦で生まれた子だったのだろう。
> ■謎2:では、本当に不比等は天皇の子か。どの天皇の子か。母は誰か。
> 諸説あり。孝徳天皇の子、天智天皇の子の説あり。しかし、それ以外には
> 全くない。例えば、天武の子という噂は全くない。母も諸説あり。謎。
では、いよいよ、謎2で述べた各説を洗ってみよう。
・説A
長男定恵:
母は阿倍倉梯麻呂の娘の小足媛。
本当の父は孝徳天皇。有間皇子の同父同母弟。定恵も兄同様、秀才の誉れが高い。
有間皇子の死後何年か後、やはり定恵も孝徳の血を引いていると
疑っている天智天皇の手の者によって暗殺されたそうだ。
次男不比等:
有間皇子、定恵らの同父同母の弟。
・説B
定恵、不比等の母はどちらも小足媛だが、
父は違う。定恵は孝徳天皇、不比等は鎌足。
・説C
定恵、不比等は共に車持与志古娘と鎌足の子。
・説D
定恵は孝徳天皇と小足媛の子。
不比等は車持与志古娘と鎌足の子。
・説E
定恵は孝徳天皇と小足媛の子。
不比等は車持与志古娘と天智天皇の子。
・説F
定恵は孝徳天皇と小足媛の子。
不比等は鏡王女と天智天皇の子。
不比等は鎌足の正妻鏡王女が天智天皇の子を身籠ったまま
鎌足に嫁して生まれた。
女が生まれたら自分の子、男が生まれたら鎌足の子とせよ、
と天智天皇から言われたらしい。
・説G
定恵は孝徳天皇と小足媛の子。
不比等は采女の安見児と天智天皇の子。
安見児が天智天皇の子を身籠ったまま
鎌足に嫁して生まれた。
さて、資料によると、有間皇子、定恵、不比等のうち、
有間皇子、定恵は3歳違いで年が近く、定恵と不比等は16歳違いで
離れているらしい。
しかし、定恵と不比等も4〜6歳と年が近いという説もある。
孝徳天皇妃 小足媛(内麻呂の娘)の年齢について。
孝徳天皇は49歳で即位。当時有間皇子5歳。定恵2歳。
しかし小足媛の妹の橘娘が孝徳天皇より30歳くらい下の
天智天皇の妃になって皇女を何人か産んでいる(若い)ので
小足媛も夫より30歳くらい下、夫即位時には22歳前後くらいで
若かったのではないかと思われる。
後述するように、若く美しくなければ、鎌足は喜ばないし、
接待にならない。
定恵と不比等の本当の年齢差は分からないが、年齢的に
小足媛が不比等を産んでも不思議はないと思われる。
資料によると、、、
中大兄皇子と軽皇子(孝徳天皇)の仲がぎくしゃくした。
↓
軽皇子の宮を中大兄皇子の寵臣中臣鎌足が訪ねる
↓
軽皇子、一粒種有間皇子の母であり、身分の高い、寵妃の小足媛を
貸し与えて接待する※
↓
中臣鎌足、大感激
↓
中臣鎌足、大奔走し、中大兄皇子を説き伏せる
↓
軽皇子、即位ウマー。孝徳天皇となる。
阿倍小足媛の父 阿倍内麻呂は左大臣に。
>>443 中大兄も遠智娘とは遠縁だけど先祖が近親婚じゃなかったかな。
中大兄の父母が叔父姪で、父方の祖父祖母は異母兄妹。母方の祖父と祖母はいとこ半。
その一方で、※の続き
↓
寵妃の小足媛妊娠。どちらの子が分からない。
↓
生まれた子は中臣鎌足の子とされる。
中臣鎌足有り難く赤子を貰い受ける。それが定恵。
有間皇子同様、秀才の誉れ高い息子。
本当は孝徳天皇の子だという噂もされる。
阿倍小足媛
ttp://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/mretu/mretu00158.htm このように、定恵の母は阿倍小足媛と考えられる。
一方、不比等の母は定恵よりももっと曖昧ではっきりしない。
しかし、車持与志古娘と鎌足の娘 五百重娘(天武天皇の夫人)(異母妹)を
天武天皇の死後、妾にして四男麻呂を産ませているので、不比等の母は
車持与志古娘でないことだけは確かだ(同母なら父にかかわらず
婚姻不可なので)。
> 説F
> 定恵は孝徳天皇、小足媛の子。
> 不比等は鏡王女と天智天皇の子。
> 不比等は鎌足の正妻鏡王女が天智天皇の子を身籠ったまま
> 鎌足に嫁して生まれた。
> 女が生まれたら自分の子、男が生まれたら鎌足の子とせよ、
> と天智天皇から言われたらしい。
また、説Fもありえない。
なぜなら、天智天皇は身分の高い妻に皇子が生まれなくて困っていた。
低い身分の女腹の皇子は
自分の跡継ぎにできないからだ(群臣達が反対するので)。
鏡王女は皇族のはしくれなので、身分自体はそれほど高くなくても
その腹に皇子が出来た場合は、跡継ぎとして認められやすい。
せっかく皇族腹にできた待望の皇子を身分の低い鎌足にやるはずがない。
逆に皇女の方はいっぱい生まれすぎて過剰なくらいだ。
天智天皇+身分の低い妻→皇子 うだつがあがらない
天智天皇+身分の高い妻→皇子 帝位を継ぐのにふさわしい しかしなかなか
生まれない
仮に藤原不比等が「天智天皇+身分の低い妻→皇子→鎌足の子にする」だとしても出世は望めない。
また、藤原不比等が鎌足の子だとしても、中臣氏自体がしょぼすぎて
あまり出世は望めない。鎌足の孫である新田部親王でさえ、皇位継承の時
見事に無視されたぐらいだ。
■謎9:なら、なぜ不比等は父を大きくしのぐ出世が出来たのか。
■謎9の真相:天皇落胤説を大いに利用した。しかもありふれた賎腹出ではなく、
本来、天皇になるのがふさわしい尊腹出として。
つまり、兄定恵同様、「身分の高い阿倍小足媛と孝徳天皇の皇子である」、
あるいは、「天智天皇と間人皇女との間の近親相姦の皇子である」、
あるいは、(不比等は孝徳天皇の死後5年して生まれているとされているが、
実際はもっと早く生まれているとしたら)、「間人皇女の産んだ皇子ではあるが
夫 孝徳天皇の子か兄 天智の子か不明な子」ということで、本来なら天皇になれる
尊い出だという天皇落胤説を利用した。(有間皇子は母の身分も高く、有力な皇子
なので殺された)。
> ■謎3:もし、不比等が天智の子ならば、泣いて喜ぶのは変。姓を賜って立身出世と
> 引き立てを約束されても、天智の子だから予定通りなだけである。
> ではなぜ泣いて喜んだのか。
■謎3の真相:謎3でも述べたように、もし天智天皇の子なら、鎌足が天智天皇から
藤原姓を賜った時に、泣いて感激するはずがない。
だから天智天皇の子ではないと思われる。
天智天皇は、間人皇女との間の禁忌の子、尊腹出の天皇落胤の噂のある子を
鎌足に与えて、藤原の姓も賜り、最も愛しい禁忌の子を自分の跡継ぎの天皇には
できなくても、代わりに、名門の家を与えて隆盛させる予定だった。
しかし、結局、天智天皇、間人皇女の子は建皇子以降産まれなかったか
産まれてもすぐ死んだために、その計画は頓挫した。
そして、665年、天智天皇の最も愛した同母妹の間人皇女は崩御した。
天智天皇は有間皇子(鎌足が命乞いをしたが、聞き入れられなかった)も
その同母弟で鎌足の子(あるいは孝徳の子)定恵(鎌足が可愛がって
期待をかけていた長男)も殺した。
鎌足の自由な結婚も禁止して、お古の身分低めの妻達も押し付けておいたが、
結局、妹との間に子はなせなかった。
定恵を殺したり、自分のお古以外の妻を娶ることを禁止するなど、
鎌足にはかわいそうなことをしたので、自分と愛する間人皇女の子用の
プランー「藤原家」の創設と隆盛プランーを鎌足の次男の藤原不比等の上に
発動してあげることにした(自分の禁忌の子のための家の名前を「藤原」と
以前から鎌足との間で取り決めていたと思う。「藤原」を賜ると聞いて、
その意味を察した鎌足は大感激)。
だから鎌足は泣いてしまったと思われる。
そして、不比等は「天智天皇の落胤でしかも天智天皇が目をかけるようにと
遺言を残していった尊腹の子」として出世街道を驀進することになったと思われる。
> ■謎2:では、本当に不比等は天皇の子か。どの天皇の子か。母は誰か。
■謎2の真相:
長男 定恵ははっきりしている。
母は小足媛であり、父は鎌足か孝徳天皇であるが、可能性は本当に半々だろう。
それこそ定恵の顔がどちらに似ているかを見ないと分からないかも。
一方、次男 不比等の母も小足媛であり、父は鎌足か孝徳天皇であるが不比等の年齢
からいって鎌足の可能性の方がずっと高い
その理由をこれから説明する。
不比等の母は謎だが、定恵の同腹の弟とよく書かれているし
有間皇子や定恵と同様、秀才の誉れが高いので、同じ母から生まれたかもしれない。
もし母が小足媛なら、不比等の父も孝徳天皇か鎌足だが、不比等の年から判断すると
鎌足の可能性の方がずっと高いだろう。
また、絶対に天智天皇のはずはない。
もし母が小足媛なら、鎌足としては必死になって、孝徳天皇の子である
と天智天皇に疑われぬよう、不比等の母が誰であるかを内緒にするだろう。
孝徳天皇の死後、孝徳妃だった小足媛を天智天皇に内緒で自分の妻にした
可能性もあるかも知れない。その場合、ばれると大変なので
必死で内緒にしていただろう。
公式には、鎌足の妻は天智天皇から貰い受けたお古の妻たちだけということに
なっている。小足媛は表面に表れていない。
ところで、不比等の正室で長男〜三男を産んだのは蘇我臣連子
(蘇我倉山田石川麻呂の異母弟)の娘娼子である。
婚姻は昵懇の間柄や親戚筋とするものであるが、
父鎌足の中臣家や、その妻達(鏡王女、車持君与志古娘、采女の安見児)は
名門蘇我氏と縁組できるような間柄ではない。恐らくずっと下の家柄である。
蘇我氏と昵懇であり、蘇我氏に次ぐ名門の阿倍氏の小足媛のみ
息子の正室に蘇我氏の姫を迎え入れるような人脈を持っているといえる。
それを考えると、不比等の母は阿倍小足媛であると考えるのが自然である。
不比等11歳の時に死んだ父鎌足は蘇我氏と対立し蘇我本家の滅亡を画策した当事者。
蘇我氏との縁組をする人脈など鎌足本人にはないだろう。
また、定恵と不比等の年が離れすぎていることについてであるが、
孝徳天皇の子と思われないように、不比等の出生日を実際より遅くし、孝徳の
死の5年後ということにした可能性もある。
天智天皇にまた息子、今後は不比等を殺されるんじゃないかとびくびく
恐れていたにもかかわらず、
天智天皇と間人皇女に生まれるはずだった禁忌の子用のスーパー藤原氏プランを
不比等の上に実行してやると言われ、
今までの忠誠と苦しみが思いもよらずに過大に報いられたことに対し、
また、もう愛息を殺されずにすむとわかり、
感激の余り鎌足は号泣したのだろう。
皇后間人は奪うわ、有間皇子は殺すわなどしてきた天智天皇も年を取って、
孝徳天皇の祟りが怖くなってきて、
不比等の真の父が孝徳天皇なのか鎌足なのかはわからないが、
とにかく、自分が殺害した、不比等の同母兄の有間皇子、定恵らの供養も兼ねて、
不比等を天皇の落胤扱いで報いてやろうと思ったのだろう。
449 名前:418 ◆4yFf8OMaXk [sage] 投稿日:2006/07/23(日) 09:22:12 ID:???
■補足:名前に「間人」がつくことについて
「間人」とは、近親相姦や密通を意味するものらしい(間男など)。
特に、通じた上、「子供」まで儲けた場合に特につけるものかも知れない。
厩戸の母の穴穂部「間人」皇女は夫・用明天皇の死後、義理の息子の田目皇子と
再婚して子供まで「儲けた」ので、それまでは単なる「穴穂部皇女」と呼ばれて
いたのに「間人」をつけられてしまったらしい。
また、「有間皇子」の「有間」は、母の小足媛が鎌足と通じて鎌足の子を「産んだ」
ためつけられたらしい。
「間人皇女」は兄天智天皇と近親相姦関係で、更に
禁忌の子 唖(おし)で、夭折してしまった建皇子を「産んだ」から
「間人」と名づけられてしまったと考えられる。
「間人」という名は、子供まで生まれてしまったことをはっきり明言し、非難して
いるように思われる。
●仮説 終わり
453 名前:愛蔵版名無しさん[] 投稿日:2006/07/23(日) 12:15:05 ID:Jc/0gDEg
>>449 でも間人造とか間人宿禰とかいるよ。
有間皇子は有間に所領を持ってた事から来たらしい。
■補足2
>>453 > 有間皇子は有間に所領を持ってた事から来たらしい。
↓名前の由来はこっちの方がメジャーだし、こっちが本当だと思うけど。。
> 有間皇子の変
>
ttp://www.asuka-tobira.com/arimamiko/arimamiko.htm > 640年,軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に
> 滞在中に生まれたので,待望の皇子に「有間」と名付けた。
名前の由来からして、本当は「有馬皇子」なのに、小足媛が鎌足の子定恵を産んだので
嫌味で「有馬皇子」と書かれるようになってしまったのでは。。。
「蘇我蝦夷」も「毛人(えみし)」にわざと嫌な漢字を当てはめて書かれたと言うし、
「邪馬台国の卑弥呼」も「やまと国の姫子」にわざと卑しい字を当てはめて
書かれたという説がある。歴史の記録書の中で、政敵だった相手の名前に
嫌な漢字を当てはめることは多いみたいだ。
■補足3
>>448 > また、定恵と不比等の年が離れすぎていることについてであるが、
> 孝徳天皇の子と思われないように、不比等の出生日を実際より遅くし、孝徳の
> 死の5年後ということにした可能性もある。
これについては思慮が足りなかった。
16歳下だからこそ、不比等は定恵と同母の小足媛だと考えられる。
私は、孝徳天皇が没して、小足媛はわりとすぐに鎌足の所へ行って再婚した
と考えていた。
だから孝徳天皇の死後5年して生まれているのはちょっと遅すぎるから
本当は死後2年くらいして生まれているのに、
3年遅くごまかしているのかも知れないと思った。
でも有間皇子の存在を忘れていた。やっぱり年のごまかしは多分、ない。
孝徳の死の2年くらい後なら、孝徳の子と疑われることはないから、ごまかす
必要ないからだ。。
小足媛は孝徳の死後は、息子 有間皇子(当時数え15歳。満14歳)の宮で
一緒に暮らしていたと思う。
でも孝徳の死の4年後に、「有間皇子の変」があって
有間は天智に殺されてしまった。
有間皇子
ttp://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/arima.html 父帝が654(白雉5)年10月難波宮で崩御したとき、15歳(満14歳)。
有間皇子の変
ttp://www.asuka-tobira.com/arimamiko/arimamiko.htm 658年11月11日,有間皇子は藤白坂にて処刑された。19歳(満18歳)。
その時、小足媛は鎌足に連絡を取って、有間の命を助けてくれるように頼み
鎌足も天智に必死に命乞いをしたけど、聞き入れられなかったのだろう
と思われる。。
。。そしてすぐに有間皇子殺害される。
その後、小足媛は皇子の宮から出て、阿倍の実家へ身を寄せる。
鎌足は小足媛を慰め、
「有間皇子は亡くなったが、まだあなたには私との子の定恵がいる!
唐に留学中だが。。」と言って
天智の目を恐れつつ密かに小足媛と結婚したと思われる。
その1年後の659年に不比等が生まれている。
妊娠期間(最後に生理があった日から分娩に至った日まで)はだいたい280±15日
なので、約9ヶ月と考えて、659年3月31日(有間の死から4ヶ月と20日後)
くらいまでに結婚してすぐ妊娠したとすれば、659年の年内に生まれる。
嘆き悲しむ小足媛→定恵のことを話す→私と一緒になろう→すぐ再婚
計算が合う。
16歳年が離れているからこそ、不比等は定恵と同母の小足媛が産んだと考えられる。
逆にもっと年が近かったら、小足媛じゃありえないと思う。
結構、不比等と定恵は年が離れているわりには「同母」「同母」とよく書かれているし
もし他のお古妻が長男、次男両方を産んだのであれば、結婚してからずっと
鎌足のもとにいるのに、長男と次男の年が16歳も離れてしまうという確率は
非常に低いだろう。
■補足4
天智天皇后妃
ttp://homepage2.nifty.com/hpsuiren/koukyu/asuka/tendi.htm > 嬪:蘇我 遠智娘【をちのいらつめ】.. ?〜651?
> 649. 父・石川麻呂、一族と共に没(3月)、間もなく、悲嘆により死去
> 651〜658.. 建皇子
遠智娘は649年3月、父一族が殺されて間もなく悲嘆により死去してる。
もし、亡くなったのが651年で、しかも、お産によって亡くなったのならば
遠智娘は「悲嘆のあまり亡くなった」のではなく、
「お産により亡くなった」と言われているはずだ。
それに、「2年」は「間もなく」とは言えない。
あくまで、「父を夫に殺された悲嘆のあまりまもなく死去」と言われている。
そして、2年後の651年に建皇子が生まれている。
やっぱり、うやむやにごまかしてあるけど、建皇子は遠智娘の死後に
生まれていると思う。
遠智娘が産んだはずない。
補足(
>>456-460)の文中のアンカーの数字がおかしいけど、気にせずに。
「日出処21」スレに書きたかったんだけど、スレ違いということで
そこから引っ越したせいなので。ソマソ。
●仮説 終わり
■補足3についてだけど、
出生年の記録なんて1、2年の誤差があるかも知れないから
とにかく有間皇子の死後、再婚して不比等が生まれたと考えて
それほど無理はない、ということで。
とは言うものの、どの資料も659年 不比等誕生となってるから
やっぱり誤差はないのかも。。
658年 有馬皇子が死んで、その翌年生まれているから印象的だ。