1 :
日本@名無史さん:
家康って権現様とか呼ばれたりして歴代将軍にもあがめられたりしたけど、
尊氏って歴代将軍の間でもあまり話題になってない。
オレが知らないだけ?
2 :
日本@名無史さん:02/11/28 15:07
2だ。
3 :
ギコ猫( ゚Д゚)さん:02/11/28 15:09
2
4 :
日本@名無史さん:02/11/28 15:09
じゃ3
5 :
ギコ猫( ゚Д゚)さん:02/11/28 15:09
ガ━━(゚Д゚;)━━ン!
6 :
日本@名無史さん:02/11/29 09:08
あれ、書き込みがない・・・
7 :
日本@名無史さん:02/11/30 01:49
age
8 :
日本@名無史さん:02/11/30 07:49
戦場での「将軍」としては尊氏が最強だな。
頼朝は政治家だし、家康も将軍任官後は政治家って感じ。
9 :
日本@名無史さん:02/11/30 08:11
>>1 1は1としてコテハンにするとカキコ増えるよ
10 :
日本@名無史さん:02/11/30 09:16
尊氏は、話題が無いというよりは
不当に逆賊扱いされているのが可哀相だ。
政治家としては後醍醐よりずっとマシなのだが。
個人的には尊氏は好きだな
とどめを刺そうと思えば出来るのに、後醍醐帝を放置しておくところなど
人間性を感じるよ。頼朝・家康なら生かしておくまい
12 :
日本@名無史さん:02/11/30 10:26
人間としての人の良さが、南北朝を尊氏一代で収束できなかった原因ですね。
でも、そんな尊氏のほうが家康よりは親しみを感じる。
政治家としては非情に徹しきれないとこで落第かもしれないけど。
13 :
日本@名無史さん:02/11/30 10:37
豪快な鬱病患者。
14 :
日本@名無史さん:02/12/01 03:28
>>8 足利尊氏はなぜか戦場で無類の強さを発揮します
マジ強すぎ!
15 :
日本@名無史さん:02/12/01 04:19
>>1 足利将軍は、つねに反乱、謀略に脅かされ、しまいには京を離れて流浪する
始末。落ち着いてご先祖尊氏様を拝んでいるゆとりがなかったのです。尊氏
って武家の棟梁に最も似つかわしい人物の一人だと思うけどね。
16 :
日本@名無史さん:02/12/01 07:35
>>1 神格化の問題でいえば、頼朝も神格化されなかった。将軍で神格化されたのは
家康だけではないかな。
17 :
日本@名無史さん:02/12/01 08:28
足利尊氏は戦争で最強だけど、降参した相手は情けをかけて許すし、
逃げる相手は追い討ちしない。で、許した相手が勢力盛り返してまた反抗してくる。
そんな繰り返し。有能な戦術家であり、また武士の情けもあるという
名門足利家の「優秀なおぼっちゃん」。一人の人間として好意の持てる人物だが、
(頼朝や家康は政治家として優秀と思うが友人なんかにはしたくないタイプだな)
非情になれない(なる気も無い)性格でかえって戦乱が長引いた。まあ、名門出身に
加えて、そんな人柄だからこそ人が集まったのだろうけど。
18 :
日本@名無史さん:02/12/01 08:39
尊氏は気前がよすぎて、みんなに領土をあたえすぎたため、
足利の直轄領が非常に少なかった。また分家が多すぎ、一族間での争い
も耐えなかった。
でも、尊氏はよく都を奪われてるから戦上手というのとちと違うかも。
師直に奪われ、直義に奪われ、南朝方に奪われ
尊氏は一個の人柄で、天下を取ったという感じだな。尊氏自身がかなりの
策士でもあったがね。でも、武士からの信望は絶大だった。
天下をとった後、政一切を直義に一任してしまっても、直義と師直の権力
争いだって結局は尊氏の手内で踊っていたにすぎない。
師直は直義の殺され、直義は尊氏に殺された。足利家にとってあぶない
やつを処分してしまう点は策士尊氏のもう一つの顔。義冬、後醍醐を
処分できなかったところが、情に厚い尊氏の人柄。後醍醐をしのんで
天竜寺を建立してるし。秀吉の墓を暴いた家康とはえらい違いだよ。
19 :
日本@名無史さん:02/12/01 08:49
徐々にスレが伸びてきてよかった。
3代目からして違うような気がする。
家光は家康(お福)から英才教育受けてたけど、尊氏と義満はどうだったのかな?
家光は家康を思ってたけど、義満は自分のことしか考えてなかったみたい。
南北朝に絡んで尊氏のことは頭になかったのだろうか?
21 :
日本@名無史さん:02/12/01 10:28
義満の最終目標は、自分を始祖とするネオ足利家の設立。でもこれは尊氏を
越えたいというより、若いうちから将軍になり、朝廷の官位もスピード昇進
だったから、自然と「俺はご先祖と違いもっと偉くなれるはず」という気持ち
になったんじゃないんですか。
22 :
日本@名無史さん:02/12/01 11:23
尊氏 従二位 大納言
義満 従一位 太政大臣
・・・足利家として初めて内大臣に昇進する。
家光 従一位 左大臣
23 :
日本@名無史さん:02/12/01 16:27
家康は徳川将軍家の中でも大事にされてるが尊氏は足利将軍家の中ではそうでもないみたい?
足利義昭なんかは誰それ?だったりして(w
尊氏なんて義詮しか知らんのじゃなかろうか?(w
24 :
日本@名無史さん:02/12/01 16:29
義詮以降の将軍は尊氏の字を使っていないんだ?
天皇にはむかった逆賊扱いだからか?
25 :
日本@名無史さん:02/12/01 16:30
でも「尊」は後醍醐から貰った字なのでは
26 :
日本@名無史さん:02/12/01 17:21
尊氏は戦略家としては冷酷に徹しきれなかった。
しかしそれは戦略面での話。
「戦場」では最強でしょう。
どんな修羅場でも「御笑みを絶やさず」威風堂々としていた。
さすが清和源氏嫡流なのだと周囲に思わせる風格が備わっていた。
配下もこういうところは見ていたはずです。
尊氏の旗本は絶対に崩れなかったしこういうところも道誉や赤松が信頼を寄せたところでしょう。
圧倒的兵力差を簡単に覆すところとか、普通にはありえない大逆転勝利をやってのけるところだとか。
まさに士卒一丸になって劣勢を斬り抜けた様子が覗えます。
徳川家康の本陣って三方が原は敵が強すぎたとして大坂の陣でも崩れているし
ちょっとなあ。あれじゃなあ。強い弱いより、
三河物語の「御旗本も旗打ち捨てて3里走り候」は酷すぎのような。。。。
27 :
日本@名無史さん:02/12/01 17:40
尊氏個人がどうのこうのは関係ないでしょう。
鎌倉期の足利家は義氏、泰氏、頼氏、家時、貞氏、高氏です。
おおかた北条家督の上の字書出しを受けています。
下の字が「氏」となるこのパターンは鎌倉公方が継承してつかっています。
基氏、氏満、満兼、持氏、成氏、政氏、高基、晴氏、義氏、国朝、頼氏、義親。
京都の将軍家が「義」を使ったのは八幡太郎の直系であるという「御小袖」信仰から生じたものでしょう。
将軍家追討の兵をあげた持氏は将軍家の認可もなく実子に義久という名を与え
京の将軍家にとってかわるという意思を明確にしました。
源頼朝は自分の命名にあやかってか鎮守府将軍源頼義を個人的に崇拝していたと言われ
関東経営蝦夷征討を自分の政治信条としていたようですが。
名は体を表すといいますが本当かもしれませんね。
28 :
日本@名無史さん:02/12/01 17:59
>>27 一介の武人が天皇の御名を賜った事例は本朝において尊氏の他に見当たらない。
2代将軍以降も恐れおおくて一代で打ち止めというのところなのではないでしょうか。
大織冠鎌足に続くといって鎌の字を襲名した藤原氏ものちに見当たらないですからね。
大織冠は上代史において律令制度の枠組みや皇室臣籍の区別を超越した破格の待遇とされてきましたからね。
いっくら子孫とはいえでも鎌足公の御名は名乗れないはずです。
29 :
日本@名無史さん:02/12/01 19:16
30 :
日本@名無史さん:02/12/01 19:37
高時の高なんて、従五位:相模守 北条高時のクズのな名だろ。
いらねえよ。
おれは大御所、大納言だぜ。高時の名なんで価値ねえぜ。
天子の名に比べたら、ゴミみたいなもんじゃねえか。
>>25 後醍醐天皇から「尊」を貰ったのはいつ?
建武の新政の前だったらそのあとの裏切りが尾を引いて
逆賊の尊氏の字は使いたくない、なんてことがあったのかも。
32 :
日本@名無史さん:02/12/01 23:40
この大河ドラマってキャストだけでもすげえ。超豪華俳優だよ。
足利尊氏 真田広之
北条登子 沢口靖子
北条守時 勝野洋
足利貞氏 緒方拳
足利直義 高島政伸
後醍醐天皇 片岡仁左衛門
北条高時 片岡鶴太郎
長崎円喜 フランキー堺
佐々木道誉 陣内孝則
高師直 柄本明
北畠親房 近藤正臣
北畠顕家 後藤久美子
日野俊基 榎木孝明
楠木正成 武田鉄也
新田義貞 根津甚八
護良親王 堤大二郎
藤夜叉 宮沢りえ
千種忠顕 本木雅弘
他
33 :
日本@名無史さん:02/12/01 23:44
金沢貞観 児玉清
がない。どいうことだぁ!「他」に入れるなぁ!
34 :
日本@名無史さん:02/12/01 23:52
阿野廉子 原田美枝子
名和長年 小松方正
も加えてチョ。
33の金沢貞観は金沢貞顕でしょうな。
すまんな。そこまで覚えとらんかった。
一応、北条貞顕ってしようぜ。俗称はややこしいから。
やつは最後の執権だったっけ?確か。
36 :
日本@名無史さん:02/12/02 00:21
でも足利将軍家の正室って
なんで日野家の姫ばかりなのかな。
摂家や清華からもらわなかったんだろね。
38 :
日本@名無史さん:02/12/02 09:16
39 :
日本@名無史さん:02/12/02 09:20
高時は得宗として一段上に居て、守時が執権として実務担当だったのかな。
40 :
:世界@名無史さん:02/12/02 10:16
>>32
実は 足利直冬 筒井道隆
侍女 常磐貴子
とかもでてますた。
個人的には 北条守時をこの大河ドラマでとても好きになりました。
登子を逃がすときの彼は本当にカコイイ(・∀・)
41 :
日本@名無史さん:02/12/02 17:45
39さんの話に釣られて若干シッタカさせてもらうと…、
得宗は北条氏の惣領=ボス、大雑把に言えば北条一族に関わる所領・人事などの
諸問題の最高責任者です。有力御家人間の約束事で執権は北条氏から出すことに
なっていましたが、誰を出すのかは一族内の私的自治。北条氏の場合、この決定は
惣領の専権事項で、自ら執権になってもいいし、代わりに気心の知れた人を送り
込んでもいい。結果的に、私的身分に過ぎない得宗が公的役職である執権をコン
トロールし、幕政を左右したのですが、これは他の氏族にもみられる現象です。
例えば、平安末期、後白河法皇が皇位を退いた後も天皇家の惣領であったがゆえに、
朝廷に君臨し続けたのと同じ。
42 :
日本@名無史さん:02/12/02 17:58
(続き)
義詮系と基氏系のゴタゴタは、古くからの「西国vs東国」の因縁に加え、
将軍という武門の最高役職を独占できる足利家の惣領の座をめぐる争いと
見ることもできると思います。
基氏系に27さんのいうような我が子の名前を足利本流である京都の将軍家に
断りなく付けたヤシがいたとすれば、「足利家のボスは我々親子じゃ」の
意思表示と受け取るのが一般的でしょう。
足利将軍家って直轄地はどれぐらい持っていたのだろうか?徳川将軍家は400万石と言われているし足利時代は石計算じゃあなかったかもしれないけどもしそうならどれくらいだったのでしょうか?
どうも足利将軍家は山城一国ぐらいしか印象ないんで。
44 :
日本@名無史さん:02/12/02 18:06
>>41 北条氏の後世の話だと江戸幕府において公的に最高権威があったのは将軍だが
徳川家の惣領である大御所に実権があった場合と似ていますな。
こちらの場合はより変質して形式上の家督も譲っている場合も多いですけど。
現代でも公的な行政権の長は内閣総理大臣だけど、実質的な権力者でないことはよくある。
45 :
日本@名無史さん:02/12/02 18:11
義満の死後、長男義持と次男義○(ド忘れ、スマソ)が争います。
これは惣領権争いというより、義満から将軍職を相続した義持と、日本国王職を
相続した(と勝手に思い込んだ)義○の「新旧国家体制」対決ですが、天皇や
保守的な貴族層が日本国王などという新しい役職の出現に賛成するはずはなく、
孤立無援の義○はあえなく敗退します。
動乱期のせいなのか、足利将軍家はもめ事が多く、また、尊氏の子孫には、歴史
マニアに受けるユニークさは持つけど、悲運の生涯を送った人が多い。
尊氏もあの世で泣いてたんじゃないかな。
46 :
日本@名無史さん:02/12/02 18:14
尊氏の強さの秘訣は一度負けてもすぐに戦力を立て直し
再戦すれば必ず勝つ所ではないかと思う。
京都で大敗し九州に落ちた時も、京都を奪回された時も
戦局が悪化すると無理をせずに退却し、体制を立て直したりして
自分に有利な戦いに持ち込むのが、尊氏の戦い方なんだろう。
>45 義嗣
47 :
日本@名無史さん:02/12/02 18:19
>>36 尊氏が北朝の光厳上皇に接近するときに仲介をした功績からとか
義満が宮中内に影響のあった日野家に近づいて以来の慣例とか
なまじ名門から正室を迎えると外戚として厄介になるから
とかいろんな説があります。
48 :
日本@名無史さん:02/12/02 18:26
>>45 尊氏の時代から足利家惣領個人そのものに強大な力があったというわけではなく
公武や朝廷内部の対立や有力守護同士の牽制の上に将軍権力を組み立てていたので
それぞれの勢力にシンボルとして担がれて足利家内部の争いになりやすい構造があった。
義満や義教の時代に将軍権力の集中を目指したが確立することはできなかった。
それと経済力の強化により地方勢力の勃興と同じ時代であったのが足利家の悲劇。
49 :
日本@名無史さん:02/12/02 18:50
なかなか勉強になるスレですね。私も43さんの疑問の回答を知りたいなあ。
義満の代に直轄軍が増強されたと聞いたけど、当然彼らの食い扶持が必要
なのであって、どこから調達したのか。48さんのいうとおり有力守護大名の
勢力均衡の上に幕府がある以上、いわば看板だけの存在だからな。
50 :
日本@名無史さん:02/12/02 19:10
>>43 直轄地ではないが常備軍である奉公衆は義満以降は2000〜3000の規模だと聞いたことがある。
これは平時の規模だから有事にはもっと増えるだろうけど。
室町時代には京都市中の商工業者に対する租税が充実しましたね(恥
52 :
日本@名無史さん:02/12/02 20:04
日野家って名門じゃないの? 実務型の下級貴族か。
53 :
日本@名無史さん:02/12/02 22:24
日野は大臣家じゃなかあった?
大河「花の乱」じゃ、日野大納言って出てきたな。
54 :
日本@名無史さん:02/12/02 22:42
日野勝光だっけか。
押大臣(おしのおとど)って呼ばれてた人。
55 :
日本@名無史さん:02/12/03 01:45
>>48 小生は、惣領の同族内での支配力をいっただけで、対外的な影響力云々は言った
つもりはありませんので、誤解なきようお願いします。足利家惣領である将軍と
朝廷・貴族・守護大名との優劣が、その時々の双方の政治的・軍事的・経済的
条件のいかんで決まるものであり、一概に結論できないのは当然です。
尊氏と直義の抗争は、惣領権を争うものでなく、鎌倉時代にもあった将軍と執権の
対立に南北朝以降顕著になる惣領vs庶子・分家の流れが結びついたものと、解釈し
ています。まあ、外部的要因で兄弟げんかになったことには間違いないから、あえて
反対意見めいたことを言わなくてもいいのですが。
56 :
日本@名無史さん:02/12/03 01:46
すんません。↑45です。
>>55 いや、私がいいたいのは足利惣領と将軍権力が独立したものではなく外部との連携の上に成り立っている以上
足利家は純粋な兄弟げんかなどできなかったということです。
尊氏と直義の対立はもともと高師直と直義の対立軸で師直死後、尊氏のもとにその勢力が集まったものであって
直義党と尊氏党は直義や尊氏の相互の好悪や信頼など関係なく利害が対立した存在なので
どちらかが武家支配の中枢を降りてシンボルでなくならない限り対立を解消することはできなかったということと解釈しています。
その意味で、足利家の内紛は足利家の問題であるように見えて足利家内部の問題などはたいしたことではない場合が多いのです。
その例が顕著なのが応仁・文明の乱ですが。
>>57 尊氏・直義のそれぞれを担ぐ連中自身が元々いがみ合っていたことの方が
重要な要素であるということでしょうか?
>>58 まあ、そうです。
正確に言えば尊氏や直義の周りに集まる人間が彼らがトップであるのが都合がよかったから担いでいたので
それに反した行動は自分の保身を考えるならば尊氏や直義でもできなかったということです。
>>59 うん、支持者エゲツナイ表現でいえば利用する者があってこそのリーダーってことかな。
平安期に比べると武士の世界、主従関係は明らかにドライになってますね。
たいへん参考になりました。
ここのスレッドにタムロしている暇な暇な2チャンのクズ共へ
お・だ・ま・り・だ・わ。ほんとにウザいわねぇ。
あたしのゴーカなホームページ「K.OKADAワールド」
(URL;
http://debu1957.hp.infoseek.co.jp/)
を語るスレッドには邪魔よ。出てってちょうだい。
オネェ言葉も使えない、あったまの悪い奴ね。
皆さんが死んでくれたらインターネットは快適になるわ、ホントに。
62 :
日本@名無史さん:02/12/03 18:42
↑己がクズじゃ!たわけ!キチガイ趣味を押しつけるなボケ!
63 :
日本@名無史さん:02/12/09 13:43
秀忠と義詮ならどっちができた人物?
64 :
日本@名無史さん:02/12/10 07:49
早世した7代同士、義勝と家継どっちがかわいそうか。
65 :
日本@名無史さん:02/12/10 12:04
66 :
日本@名無史さん:02/12/10 12:26
>>64 足利義勝じゃない?
父親は殺され、いつ何が起きても不思議じゃない状態。
徳川家継は政権が安定している時の将軍職。
義勝はドキドキしながら、家継はの〜んびりとそれぞれ将軍位に就いていたんじゃない?
あくまでも想像...
67 :
東日本大王ジーモン:02/12/10 12:32
徳川家康=内大臣⇒征夷大将軍・右大臣⇒太政大臣。
ただし、太政大臣になったのは大坂冬の陣の後。
秀忠に将軍・右大臣の地位を譲ってからは約9年間、無官の帝王。
68 :
東日本大王ジーモン:02/12/10 12:33
訂正:冬の陣→夏の陣
69 :
日本@名無史さん:02/12/10 19:39
万人恐怖の足利義教vs犬公方の徳川綱吉、創業者の曾孫同士。どっちが筋金入りの「人命軽視論者」か?
70 :
日本@名無史さん:02/12/10 21:05
>>69 義教の圧勝
綱吉は人間の価値を低めたかもしれないが、人命軽視者ではない。
例えば幕府にケンカ腰の藩が現れたとしても戦争で敵国を殲滅させようなんて思わないだろうし、
将軍の位地を狙う者が現れてもやたら滅多ら謀殺なんてしなかったと思うし、
そんな話を聞いたら血の気が引けて、口を押さえながら「美濃守、後は任せた」だと思うよ。
71 :
日本@名無史さん:02/12/22 19:55
>63
義詮。戦争は滅多やたら強いが政治は全然ダメの親父の跡を受けて
よく幕府を崩壊させずに時代に引き継いだ。
72 :
日本@名無史さん:02/12/22 23:29
「太平記」やってたころは、実際の政治の世界ではいわゆる「金竹小」の全盛期。
執権 赤橋守時 − 飾り物の内閣総理大臣 海部俊樹
得宗 北条高時 − 前総理&竹下派オーナー 竹下登
内管領 長崎円喜 − 竹下派のボスで政界のドン 金丸信
その子 長崎高資 − 金丸の秘蔵っ子 小沢一郎
見事にマッチしていたのを覚えている。
73 :
日本@名無史さん:02/12/22 23:51
そもそも尊氏天下統一して無いし
74 :
日本@名無史さん:02/12/23 15:32
尊氏が改名しなかったのは、北朝側に逆賊扱いされた時に、
南朝にすがりつくためだったって言う説は本当かなあ?
(^^)
adc
(^^)
78 :
日本@名無史さん:03/02/15 08:24
>>70 ではどっちも三代目、キンキラキンの金閣寺&花の御所の義満vs豪華ケンラン東照宮&江戸城の家光。
どちらの建築道楽が上か?
79 :
日本@名無史さん:03/02/16 03:52
うーん、どっちも好きなので難しいなぁ。
三島由紀夫の傑作小説をうむきっかけとなったということで
義満の勝ちにしとこう
80 :
日本@名無史さん:03/02/16 18:50
81 :
日本@名無史さん:03/03/03 02:21
尊氏のチンポしゃぶりたいです
82 :
日本@名無史さん:03/03/08 19:55
あぐぇ
83 :
日本@名無史さん:
>>48 >経済力の強化により地方勢力の勃興と同じ時代であったのが足利家の悲劇
経済力の強化って、具体的には何がどう強くなったって事ですか。