1 :
ジャンプ大好き:
御三家等の大名行列ってどんな風だったの?
そのときの資料とかのこってないのかな?
どこの大名行列ってのが、一番スゴかったのか?
やはり、御三家の行列は、重戦車のごとく、魁男塾の直進行軍のように
他の大名がよけるようなものだったのか?
おしえて。
2 :
日本@名無史さん:02/11/20 03:24
・・・・・・・・
はやくネロ。遅刻して先生に怒られるぞ。きみ。
3 :
日本@名無史さん :02/11/20 03:25
水戸藩の大名行列ってあったのかな?
4 :
日本@名無史さん:02/11/20 03:31
>魁男塾の直進行軍のように
ワロタ。
でもまさにそう。天下の尾張殿と紀州殿だからね。
城下の藩主みずからが行列におでむかえして頭下げたとのこと。
水戸藩は江戸に常駐で参勤交代はなし。
○あと紀州徳川家は、御法度の城の〃増改築も勝手にやりほうだいだった。
それでも江戸からは文句もあからさまには言えなかったとのこと。
別格です。なにかにつけて。
ちなみに格は尾張>紀伊>>水戸。
5 :
日本@名無史さん:02/11/20 03:41
尾張徳川家が通った後には
ペンペン草一つも生えてなかったそうだ。
行く先々で皆殺し&強姦。
それがため
東海道の宿場町は
尾張徳川家対策として
ペリーを呼んだ。
6 :
日本@名無史さん:02/11/20 03:46
三本槍
二本槍
一本槍
当時は市中を歩く際にはこれで格式が決まっていた
例えば幕臣大村益次郎(木戸が長州へ戻るよう説得する前の周防出身の医学者)が
江戸の街で講義に出向くさいも「お殿様」として徒士を従えていたはず。
槍は省けたかもしれないが徒士だちにしろ乗馬にしろ最低紋所はついていたはず。
大名行列がいまでもかたられるのは宿場街での威勢のいい掛け声と
その行列の威風がいわば藩の威信をかけていたから。
当時薩摩や加賀、長州、福岡、仙台など日本中の外様大藩も
公式には「松平様」だったから庶民からしたら国の名で呼び分けるしかなかったでしょう。
そこで小田原宿を通る際に長州様は、、加賀様は、、、と庶民が総出でその行列をみた。
そのために台に載せてかつがせる太刀の拵えを派手にしたり
鉄砲の数を増やしたり、輿を大きく派手に作ったり、、、、
しかしそれをやれば出費も人件費もかさむ。
実際、カネのかかる大名行列はできるだけ避けたかったようで
薩摩藩も出切る限り海路で済ませていたし
加賀藩も藩祖前田利家の荒子城のある尾張をとおらずに
通常山国信濃から東山道を経て高崎に出ている。
7 :
日本@名無史さん:02/11/20 04:25
いろんな大名行列の道筋って教えて。
海からいくって、どうやっていくの。むちゃくちゃデカイ船か数がいるとおもうんだけど。
薩摩から江戸までって、気が遠くなる道のり・・・
途中で音をあげる下っ端のカスみたいな労働者って逃げようにも逃げたらきられるだろうし、つらいなあ。
道中で、やっぱり切り捨て御免なんて事件は記録にのこってたりするものですか?
あと、庶民は直接に殿様の顔をみたら切り捨てられるんだよね?
通りすぎるまで何時間も頭をさげ、平伏したままだったの?
8 :
日本@名無史さん:02/11/20 04:36
鞠と殿様ってどんな歌詞だったっけ?
なんか大名行列の前に童がはじいた手まりが転がってきて、横切るんじゃなかったっけ?
そんでもって、小さい女の子が
「ええい、なにやつ、なおれっ! 手討ちにしてくれるわっ!」ってな話じゃ----
ガクガクぶるぶる
9 :
日本@名無史さん:02/11/20 04:47
警告制止を振り切り行列に割り込んだガイジン男女の集団を斬り捨てた生麦事件は有名だが
薩摩藩に対する最大の無礼とみなされたのは明治の世の鉄道敷設。
いまより海岸線がずっと内陸部だったその当時高輪の薩摩藩邸は非常に海岸よりだった。
ということは最短距離で横浜へつくためには高輪を横切らねばならない。
これを聞いた薩摩藩閥は激怒。
大隈重信と伊藤博文は必死にその打開策を練る。
NHK「そのとき歴史が動いた」より
御殿山ヒルズとかあるところが
10 :
日本@名無史さん:02/11/20 04:53
↑追記 (9に続きます)
御殿山の英国公使館焼き討ちに参加していた伊藤は
高輪付近には思い入れなどなかったかもしれませんが。
あんなのぶっ潰して当然と思ってたかも。
伊藤は高杉の追憶も嫌がったし
天皇への思い入れのほうがずっと強く
長州という閥を伊藤個人がどれほど意識していたかは疑問です。
11 :
日本@名無史さん:02/11/20 22:54
大名行列がすれ違うときは、どちらも左側にどけるんだよ。
刀の鞘が触れあわないようにね。
12 :
日本@名無史さん:02/11/20 23:02
大名行列がすれ違う時に
「○○候補のご健 闘をお祈りします」」
って言うんだよ。
13 :
日本@名無史さん:02/11/20 23:29
しずしずと進むのは町や宿場にはいってからなんだよ。
誰もみてない道々はサクサクと急ぎ足です。
お金は金銀、銭をもっていくのででかい藩だと数百キロ! ほんと
運ぶ人かわひそう。
14 :
日本@名無史さん:02/11/20 23:59
↑それで食ってるんじゃん。
重い荷物頼んだら黒猫大和がかわいそうなのか?
15 :
日本@名無史さん:02/11/21 00:08
御三家は「下 にい、下にい」と言い、民衆を土下座させた。
それ以外の大名は「寄れ、寄れ」と道を開 けさせる程度だった。
御三家の時でも民衆は行列を避けることを考えていたから、
実際に 土下座した人は少なかった。
大名行列では東海道の江戸〜大津間を11〜12日で歩き、
一般の旅人よりも少し早く歩いた 。
16 :
日本@名無史さん:02/11/21 00:11
大名行列は千人にのぼることもあり、通り過ぎるのに一時間近くかかる。
行列が道路の行き来をさまたげるので、江戸城の前の道を通って登城、下城する行列は、
一ノ切り、二ノ切りなどといって行列の途中に道幅ほどの切れ目を作り、
そこを横断させ るという方法がとられた。
行列を横切る事は禁止であったが、江戸城の前に限り特別に区 切られた所な
ら横切ってもかまわなかった。
17 :
日本@名無史さん:02/11/21 00:15
江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から
降りてあいさつするしきたりでした。しかし、主君を駕籠から降ろすこと
は、行列を指揮する供頭にとっては一番の失態です。そこで、斥候を行列が
見えない曲尺手の先に出して、行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄り
のお寺に緊急避難をしました。
18 :
日本@名無史さん:02/11/21 00:17
>>7 熊本の細川家は陸路大分に出て船で瀬戸内海を大阪へ。以後は東海道。
紀州藩は松坂あたりから伊勢湾を横断したと思う。
19 :
ホントにあった話:02/11/21 00:37
会津藩と相馬藩が本陣の所でかちあっちゃった!
先に相馬藩が本陣にはいっていたところ、やってきた会津藩。格は会津が上なので
相馬藩は脇本陣に撤退する。おもしろいはずがない。
さて、と脇本陣にいってみると会津藩家老が槍を忘れている。
あわててやってくる会津藩志。「槍を返してほしい」
むしゃくしゃしていた相馬反しが、「なにをいう。槍といえば武士の命ではないか。それを忘れた、すまぬ返してくれとは、
恥というものが、まるでないらしいわい。会津ともあろうお方が」「槍持ちの首のひとつ
でも持ってくれば返してやるわ。かえれかえれ」と、うっぷんをはらす。
20 :
ホントにあった話つづき:02/11/21 00:41
またしばらくすると会津反しがやってきて「返してくれ」と頼む。
相馬反しは、さらに相手が下手に出るのをおもしろがり、悪のりしてしまう。
罵詈雑言をあびせる。
会津の使いもさすがに頭にきて「先程、槍持ちの首をもってきたら返すといっていたが、
さすれば、これに」とふろしきに包んだ槍持ちの首をひろげて、見せる。
固まったままぐうの音も出ない相馬藩士を、会津の使いは抜き打ちに切り殺した。
騒ぎをききつけた相馬藩士たちは、脱兎のごとく逃げちってしまっていて脇本陣は
空になってしまい、それ異常の死傷者はでなかったとのこと。
こわひねえ〜。
21 :
日本@名無史さん:02/11/21 00:45
あと御三家だけが、江戸城に入場するときもなんとか門ていうところも下馬しないで
そのままくぐれました。いちの門をくぐってさらに次ぎの門まで乗馬をゆるされてた。
格の違いは、あらゆるところに存在していて、いろいろ知っていくとおもしろいよ。
22 :
日本@名無史さん:02/11/21 00:55
>>7 >やっぱり切り捨て御免なんて事件は記録にのこってたりするものですか?
斬り捨て御免で有名なのは播州明石藩主・松平斉宜の幼児斬り捨て事件。
斉宜は将軍家斉の実子であることを鼻にかけ、暴君的な振る舞いが多かった。
江戸に上る途中、尾張藩の領内を通過している時、幼児が行列の前を横切って
しまった。斉宜はブチキレて、処刑すると言って幼児を本陣に連行。
尾張の村役人、神官、僧侶らの命乞いも空しく幼児は斬首。
これを聞いて激怒した尾張侯は、明石藩の行列が尾張領内を通行することを
禁止した。尾張領を通らないことには江戸に行けないので、その後明石藩
は尾張領を通る時だけ刀を腰につけずに通過したとか。
数年後斉宜は急死したが、一説によると、斬首された幼児の父(猟師)が
木曽山中で斉宜の駕籠を猟銃でぶち抜き、即死させたという。
23 :
日本@名無史さん:02/11/21 01:03
御三卿と御三家の力関係はどうだったんですか
御三卿は参勤交代がないから大名行列で御三家とは
すれ違う事はなかったと思うけど、もしすれ違った時は
どっちが挨拶しにいくんですかね。
タネ本は講談社新書でつねw
25 :
日本@名無史さん:02/11/21 01:09
播州明石藩主・松平斉宜は将軍家斎の実子である、というのと
時の御三家尾張藩主とではどちらが格が上になるの?
そのときの将軍の実子が、時の御三家当主よりも力が上になる?
しかし、このブチ切れた尾張殿は立派な漢だねえ。庶民の味方になって
おこったんでしょ?
尾張藩主でいえば、吉宗にケンカうった派手なむね春もサイコーの
キャラだよね。
26 :
日本@名無史さん:02/11/21 01:13
あと、紀伊徳川家藩祖の何回の龍南龍院頼宣が、幕府転覆を由井正雪と
たくらんでたってあるけど、あれは本当にそうだったの?
また、なんで頼宣はおとがめなしですんだの? 御三家だから?
>>22-23ではないが
>>25 家斉には55人の実子がいた。当時の価値観では嫡子以外はカス。
よって尾張家>>>>>>>>>>>>>>>>>松平斉宜
28 :
日本@名無史さん:02/11/21 01:15
>誤山峡ってのは、吉宗の血縁だよね?
やっぱ御三家なんじゃないのかな?
29 :
日本@名無史さん:02/11/21 01:19
後の御三家は尾張・紀伊・水戸で将軍より格下だけど
最初は将軍家・尾張家・紀伊家で横並びだったからね。
30 :
日本@名無史さん:02/11/21 01:19
まだガキだった頃の吉宗が、参勤交代にむかう大名行列をみて
「ああ、せめてあのくらいの大名になりたいなあ・・・・」
って悲しそうにつぶやいたのを、爺が
「な、なんてことを申されますかっ、あんなたかだか十万石そこらの
大名などになにをうらやましがられますっ! あなたは紀伊徳川家の---等
ととくとくと言い聞かせたとか。
31 :
日本@名無史さん:02/11/21 01:21
>29
そうそう。たしか家光が言うまでは、
江戸の将軍家、尾張家、紀伊家ってのは横並びの同格なんだよね。
32 :
日本@名無史さん:02/11/21 01:25
御三卿は大名じゃなくて将軍の家族の扱いだから
御三家より格が上の気がするけどなぁ
33 :
日本@名無史さん:02/11/21 01:38
直参旗本は奉行所では裁けないっていうでしょ。
江戸の往来で御三家の家臣とケンカになり切り合いにまでなると
どっちが分が悪いの? けんか両成敗?
34 :
日本@名無史さん:02/11/21 03:17
>>25 当時の尾張藩主も家斉の実子(しかも斉宜の異母兄)。
だからどっちにしても、斉宜は頭が上がらない。
あと、庶民の味方というよりは、自分の領内で乱暴なことされたから
プライドを傷つけられて怒ったんじゃないのかな。
35 :
日本@名無史さん:02/11/21 05:04
家光が、言いはじめるまでは
将軍様、尾張様、紀伊様というように、〜様がついて呼称されたが、
家光「尾張と紀伊はちょっとちゃうやろ〜」って言い
格下げが行われたので、以後は尾張殿、紀伊殿というように
〜殿となるんだよね。
36 :
日本@名無史さん:02/11/21 07:20
尾張宗春(でしたっけ)が将軍位に就いて、あの大胆なバブル政策を
全国規模でやってくれたら面白かったのになー、とか思います。
37 :
日本@名無史さん:02/11/21 07:27
>36 その場合、紀伊藩主吉宗のほうが偉かったみたいになりませんか?
判官贔屓なんですよ。
38 :
日本@名無史さん:02/11/21 10:56
家光が「俺は生まれついての将軍」と言えば義直は「俺は直々の薫陶を受けた
神君の子」と言う。
そのようなかくかくじかじかの事情があり、義直と家光は険悪な状態となった。
義直はクーデターすら画策したが、紀州公、すなわち義直の弟である頼宣に諌
められ、未遂に終わった。
だがこれは幕府の将来に禍根を残すことになった。というのも義直は、これが
ために「尊王」を藩訓としたからである。
果たして幕末、尾張藩は藩訓通りとっとと佐幕派を粛清して幕府に忠義を尽く
さなかった。この動きを見て、東海道諸藩も尾張藩に追従した。
京都、北陸、江戸、東北、北海道と、各所で戦のあった幕末、古来からしばし
ば天下分け目の戦の舞台となった東海道で大きな戦の無かったのには、このよ
うな事情があった。
大袈裟な言い方をすれば、江戸幕府は、三代目にして既に潜在的には東海道を
手放し丸裸の状態になってしまっていたのだ。
家康がその重要性を見抜き大藩に仕立て上げた尾張家であるにもかかわらず、
それを虐げ逆上させた家光は、子孫に大きな負の遺産を遺したと言えるだろう。
あるいは、尾張家から将軍が一人でも出ていれば、まだ違った展開になったの
かも知れないが……。
39 :
日本@名無史さん:02/11/21 11:52
「葉隠」に腰に帯びている大刀の長さを咎められた佐賀藩士の逸話が出ている。
郷里佐賀から江戸へ出てきたこの武士は
いまだ戦国の気風の残る何尺ともつかないでかい大刀を下げていた。
徳川の世では一定の長さを越える刀は御法度。
これをみつけた幕吏が大騒ぎ。「御用だ!御用だ!」
藩士をこのまま討たせては犬死させることになると
江戸藩邸では鍋島勝茂公以下総出で「いざ討ち入りか」の殺気だつ。
40 :
日本@名無史さん:02/11/21 11:59
藩邸前のこの騒ぎは江戸藩邸と幕吏の衝突になり兼ねない勢い。
ここで刀の束を握り締めいつでも抜き放つことができるよう
決死の覚悟を決めたくだんの武士が
「直茂公やお家にはまるで関係ないこと。
ただ拙者の不覚にござる。このこと心におとめおかれい。」と言うと、
無用の軋轢を避けたかった幕吏側も引き下がり
「さればお通りあられい」と事無きをえた。
41 :
日本@名無史さん:02/11/21 12:21
水戸殿も時々は水戸に行っただろうが、そのときはやはり大名行列?
それとももっと小ぢんまりした道中?
42 :
日本@名無史さん:02/11/21 13:03
>>38 紀伊の頼宣も怪しいよね。
由比正雪の乱のときに名前が取り沙汰されてるし...
43 :
日本@名無史さん:02/11/21 21:22
>>42 確かに頼宣は怪しいかもしれん。
義直が「決起するぜよ」と打ち明けたのに対して、頼宣は「助けてやるぜ兄者。
一緒にやろう」と言った。そこで義直は冷静になって思い止まったという話だ。
つまり、結果的に義直が思い止まったから「諌めた」ということになっている
が、もしもここで義直が立ったら、
@義直を江戸と挟み撃ちにして江戸に恩を売る
A義直に将軍家を討たせ、さらに義直を討って将軍家を継ぐ
くらいのことは計算していたかも知れない。
>31
家康が「おまえたちは皆秀忠の家来だ」と言っていたという話もありますが。
同格に近かったのは、秀忠が将軍になるまでの話だったはずです。
そもそも、尾張が「三家筆頭」というのは尾張家の言い分であり、紀州家は
「尾紀両家は互角の家柄」としていたはず。
特に、大坂の陣のときに家康が尾駿両家に与えた旗が、駿河家には将軍家と
同じ旗、尾張家には色違いの旗だったというような事もあり、紀伊家は密か
には「家の方が上だ」と思っていた節もあったとか。
>4
幕府の扱いとしては、格式上は「三家は同格、席次は官位の順(実際には
水戸家は官位が低い分、下座になることが多いが)」だったかと。
だから、場合によっては、水戸>紀伊>尾張の順に着座することもあった
とか。
(例えば家継の頃は、三家の当主はみな中納言で同官だったので、
「水戸黄門(綱條)、紀伊黄門(吉宗)、尾張黄門(継友)」
の順になっていたそうです。)
46 :
日本@名無史さん:02/11/22 02:58
あのう、江戸時代には大阪城ってとこには一体誰がすんでたの?
大阪って、何藩になるの?あと京都は何藩になって、大阪、京都の領主って誰なの?
どんな位置付けの町だったの?
天領の土地は年貢がやさしかったっていうけど、天領ってたとえばどこがあるの?
47 :
日本@名無史さん:02/11/22 03:00
検索である程度調べろ
>>46 大阪城代
大阪城代→大阪町奉行
京都は、二条城城代、所司代、町奉行。
49 :
日本@名無史さん:02/11/22 03:12
まず大坂の定義をしてくれ
それから京都の定義もね
大坂といっても河内は天領が多かったよ
後北条氏の狭山藩なんてのもあったね
河内は大坂じゃなかろう…
51 :
日本@名無史さん:02/11/22 03:18
海路をとった時に
藩主の乗ってる船が沈んで
全員溺死なんて例は無かったのだろうか
一度ぐらいおこってそうだが
52 :
日本@名無史さん:02/11/22 03:22
じゃあ、大阪で百姓やってた奴っていったいどこに年貢をおさめるの?
町奉行におさめんのかよっ。
低レベルの質問すな。スレ違いだボケ。質問スレでやれアホ。
54 :
日本@名無史さん:02/11/22 04:34
お城にはさ、おてんす(天守閣)ってあるでしょ。あそこって基本的に
どんな空間だったの?
ううむ、これはよい眺めじゃのう、じいってな感じの娯楽?
みなさんの知ってる一番いい眺めのてんすって何処。教えて。
おいらは、大阪城がさすがな立派っておもいます。むちゃくちゃデカイ!
テンスからの眺めは排ガスくさくて嫌いだけどね。
安土桃山城があったらなあ・・・って思いまふ。
江戸城と大阪城はどっちが規模えげつなかったのですか?
あと、本当の大阪城ってのは土の中にうめられてるってきいたけど本当?
家康によって壊され、形もくずされ土にうめられたってきいたけど。
55 :
日本@名無史さん:02/11/22 04:47
江戸の上屋敷詰めになった紀伊藩の家臣の日記がのこってるよね。酒井とか言う下っ端の江戸での日記。
貧乏なくらしだったみたいだよ。下っ端は。いくら御三家といえどもね。
それに何度紀伊藩は江戸の屋敷が火事にみまわれ(放火?)、とてつもない散財を余儀無くされたからねえ。
あと吉宗の母親に対する想いは涙でてくるよねえ。
56 :
日本@名無史さん:02/11/22 04:51
吉宗がなぜああまでも人格者だったかというと(天下の将軍様になってもね)、
それは母親の影響なんだよね。吉宗の母親は、どこの馬の骨ともわからない出自なんだよね
(まあ大和の武家で落ちぶれたため、流浪をし紀州におちてきて、あるお寺の前で行き倒れになる。
幼い娘と弟がかいがいしく母の世話をするのをみて感動した町民と寺の住職が面倒みてやる。
うわさをきいた城の者が住職の口ききで御容認としてめいかかえてやる。ある時
母親が禎光の風呂係の時、殿がふざけて湯をかけると、「なにをなさいますっ」と水桶の中身をぶち
かけるんだよね。殿にむかって。しかし殿も漢で「なんと豪気なっ。気に入った!」と
なって側室にするんだよね。その時の子が吉宗。
57 :
日本@名無史さん:02/11/22 04:56
吉宗あばれん某将軍といわれるのは、まだ若い頃、相当ぐれてたんだよね。「妾の子」「末っ子の冷や飯ぐい」でしかない将来を腐って。
また、町町にでかけた逸話もこれは、江戸の将軍になってからではなくて、紀州にいた時、下っ端の末っ子だったので
自由に町を歩いてた時や紀州藩主になったころの事です。町人の夫婦喧嘩にわって入ったり、田んぼにわけいり
こえだめにはまったりしてます。
吉宗の母親は結局側室をは認められず、母親も吉宗が出世してからも華やかな公式の
舞台にはあんまりでようとうはしなかったんだよね。江戸にまねかれても常に吉宗には
暴君になってはいけません。思い上がるな、民のことをおもいなさいって言い聞かせてたんだよね。
58 :
日本@名無史さん:02/11/22 04:57
天守閣ってのは基本的には権威の象徴として建てたのでしょ
あそこには客人を連れて登り眼下を眺めさせたりするだけで
普段は麓の居舘に住んでいた。
江戸城は限りなくでかい。
日本史上最大の城と言い切って間違い無いと思う。
大阪城の惣構えが江戸城外堀よりもデカイとは
言って言えないこともないが
それは比べる上でフェアではない。
それを言えば後北条氏の小田原城は箱根山中城と相模湾、酒匂川が仕切だったし
古河公方の古河城は舘と呼ぶには広すぎる縄張りで江戸城より広かったという説もある。
江戸の場合は両国橋あたりの墨田川と多摩川あたりで仕切られる。
ということは途方もなくデカいスケールで町割りが行われたということになる。
江戸の場合商工業従事者の上方からの移住を奨めたから人口都市の先駆けでもあるが。
59 :
日本@名無史さん:02/11/22 05:03
タカーイ♪
∧∧
(*゚ー゚)
ノ |∧_∧ チヨコみてみなさい。あれが和歌山城だよ。
〜(_⌒)´∀` )
(⌒しξ\_ ⌒)
| \__/
| | 丿
| | |
60 :
日本@名無史さん:02/11/22 05:06
現在は江戸城本丸なんて陰も形もないけど、和歌山城ってのは江戸城を真似て作り
ガンガン増築、改造をしてたんだよね?
江戸城本丸と和歌山城ってのは本当に似てるのですか?
和歌山城ってのも、本来はえげつない広さだったみたいだけど。
皇居っていってみたいんだけど、どう? 感動する?
おれは大阪城のあのえげつない掘りの深さに高所恐怖症になるんだけお。
61 :
日本@名無史さん:02/11/22 05:10
でも吉宗が唯一株を下げたのは、御三競なんてのを作りてめえの
実子かわいいかわいい製作をつくったことじゃない?
やっぱりおまえも人の子かえっ!って
おっかさんの教育はどないなったんやねんっと。
62 :
日本@名無史さん:02/11/22 05:11
吉宗ってちんこでかそうだよね。身の竹がいまでいう
180overな男だったとか。
剣の腕前はいかほどだったんだろ? 文献のこってない?
弓は相当やったみたいだけど。
63 :
日本@名無史さん:02/11/22 05:14
紀伊藩主お歴々の墓のある長えい寺?って前にいってきたけど、雰囲気あったよ。
苔むしたボ席が、歴史をかたってた。蛇は前をよこぎるし、蜘蛛もでるし、併設の
博物館では家主の小学生がファミコンの話をおばあちゃんに熱心にかたってる
声がきこえてきたりして、時代のギャップにほほえましくなったよ。
三年前の話ですけどね。
64 :
日本@名無史さん:02/11/22 05:24
名古屋人の派手な嫁入り様式は、やはり宗春じこみのドキュン派手
好きなのか?
65 :
日本@名無史さん:02/11/22 05:29
紀伊藩主で暴君だったあいつは、誰だったっけ?一人いたよね。
ところで尾張や紀伊の百姓ってのはやはり年貢は比較的には軽かったのかな?
66 :
日本@名無史さん:02/11/22 05:34
ちょっと待て
あくまで紀伊尾張は藩領だろ
殿様の姓が徳川だってことだけはあるが
あとの譜代も外様も
つまり島根も桑名も三河も長州も薩摩も加賀も
江戸から見たら「松平様」でしょ?
67 :
日本@名無史さん:02/11/22 09:57
>>65 徳川重倫のことかな。隣の大名家の高殿で女中が夕涼みしているのを見て、
覗かれていると勘違いして鉄砲をぶっ放したというエピソードからすると、
暴君というよりアブナイ人という気がする。
68 :
日本@名無史さん:02/11/22 10:19
御三家は将軍家に対して遠慮するようになり、葵の御紋ではなく、丸に尾、丸に紀、丸に水の
門を使うようになった。でも最初は、紀州だったかなぁ、ごねてたとか・・・
69 :
日本@名無史さん:02/11/22 10:22
吉宗のように、下賎の母を持つ将軍がたったことで、まともな血脈に戻ったきがする。
公家だの高貴な大名などの、貧弱な母からはまともな子孫はうまれんだろ
70 :
日本@名無史さん:02/11/22 11:03
>68
嘘はやめよう。
71 :
日本@名無史さん:02/11/22 11:08
>70
無知。別に嘘ではあるまい。もちろん葵も使ってたがな。
72 :
日本@名無史さん:02/11/22 11:12
>>71 どういう場面で使ってたの?
徳川美術館でも○に尾なんて調度も旗も衣装も見たことがない。
73 :
日本@名無史さん:02/11/22 11:32
↓○に貧
74 :
日本@名無史さん:02/11/22 12:50
>>6 >加賀藩も藩祖前田利家の荒子城のある尾張をとおらずに
>通常山国信濃から東山道を経て高崎に出ている。
加賀藩は「そっちを通れ」とルート指定されてるんです。
親不知を突破するのにどれほど労力がかかったことか・・・
(そこを越えなきゃいけないのは加賀・越中前田家のみ。
越前松平は東海から)
ホントはできることなら東海道から行きたかったんです。
そっちのほうがカネも労力もかからないから。
現に幕末、幕府の権威が落ちたときには東海道から行ってるはず。
あと東大赤門な、家斉のコネで東海道通ってよかった時期があった、
とも聞いたんですが不詳。
75 :
日本@名無史さん:02/11/22 12:55
>>18 >紀州藩は松坂あたりから伊勢湾を横断したと思う。
それが正式な「東海道」のルートなんですが
76 :
日本@名無史さん:02/11/22 12:56
77 :
日本@名無史さん:02/11/22 14:17
だよ。<正式
伊勢湾は船で渡ったんだよ。
そこから近江水口〜大津〜京都。
関が原を通るのは陸路の別コース。
78 :
日本@名無史さん:02/11/22 14:23
79 :
日本@名無史さん:02/11/22 14:24
越前松平は「将軍家の兄家」として別格扱い。
御三家なんか目じゃないね。
・江戸に大名行列で鉄砲持込オッケー
(関所を通過時咎められたが、「越前松平家をなんと心得る!撃ち払え!」
と命じ、一斉に火縄に点火したため関所番は全員逃走。そのまま通過。
これを聞いた将軍は「・・・しょうがないよ。放置」と言ったためそのまま慣例に。)
・参勤交代の折、将軍自ら品川まで御出迎え
・・・ええ、江戸早期の話ですが。
早々に没落させられましたから。さすがに・・・。
80 :
日本@名無史さん:02/11/22 14:27
>>61 >でも吉宗が唯一株を下げたのは、御三競なんてのを作りてめえの
>実子かわいいかわいい製作をつくったことじゃない?
御三家の影響力(格式・領土のでかさ)を削ぎたかったんだろう。
そのために御三卿を作って、一段格下げした、と。
御三家という威圧力を、なにせ身を持って知ってるから(笑
81 :
日本@名無史さん:02/11/22 16:03
>>72 たしか家光かなんかの圧力を受けて、葵の紋はあまり使わないようにしたとかいう
話を読んだことがある。かなり古い歴史群像かなんかの別冊だったと思う。
家紋ではないが、提灯とかの道具に使ってた・・・らしい。
丸ではなく四角の中に、尾張なら「尾」水戸なら「水」ってな感じで使ってたらしい。
ただし、あくまでただの識別記号であって、家紋ではない。
みだりに葵の紋を使わないための代用品。
82 :
日本@名無史さん:02/11/22 16:47
御三家の江戸屋敷って地図でみたらどでかくてひと期は目立つけど、
東京もんじゃないから実感がない。
どれくらいでかいの? 縦横をメートルで教えてくれない。
83 :
日本@名無史さん:02/11/22 17:18
>>82 赤坂御門内の紀伊藩の屋敷(上屋敷?)は東西200m、南北450mくらい。
現在は赤坂プリンスホテルや参議院議員宿舎、文芸春秋社などがたっている。
安政の地図と現在の地図を見比べたんだが、旧藩邸の形がほぼ残ってる。
赤坂門外にこれの10倍ほどのアホみたいにでかい屋敷(領地?下屋敷?)
をもっている。そのほかにも新宿方面に若干。
84 :
日本@名無史さん:02/11/22 17:33
>>68 ごねてたのは紀州家じゃなくて、尾張家二代目の光友。
85 :
日本@名無史さん:02/11/22 17:57
結局
>>70と
>>78は馬鹿者ということか。
何を根拠に嘘だといっていたんだろう?
86 :
日本@名無史さん:02/11/22 18:12
>>68 その話は歴史読本で読んだことがある。殿様エピソード特集みたいなやつで。
だから少なくとも嘘や無知とは言えないと思う。
ただし、歴史読本の正確性は疑問。歴史と旅よりは数段マシだけど。
初代頼宣がゴネたって話だったけど、もし実話だとすると、御三家制度の未確立期
に一時的に提案され、そのままウヤムヤになった問題だったのかも知れない。
87 :
日本@名無史さん:02/11/22 18:19
>>85 その話は、俗説の類で、真実ではありません。
88 :
日本@名無史さん:02/11/22 21:32
尾張の税金は4公6民。
89 :
日本@名無史さん:02/11/22 21:48
>>87 「紀」の字の紋章の入った、なんかの道具の写真を見たことがあるが。
確か、大名行列なんぞに出てくる中間?の担いでる箱みたいなヤツ。
90 :
日本@名無史さん:02/11/22 22:12
通用の識別符号用の紋(マーク・記号)と、正式な家紋&略式な家紋は
別です。
ま、そりゃ当然。
葵の御紋に限らず、藩主様の御家紋を、旅道具なんぞに書けません。
後生大事に抱えて歩くわけでもなし。
他所の荷物と混じらないように、識別用の記号が書いてあればいい。
>>89の言うように、日常作業用の”道具”に識別符号として書かれている
ことはあるです。
>>82 水戸家の上屋敷は今の後楽園+小石川後楽園+小石川植物園+文京区役所で
800m×500mくらいかな。
尾張家の藩邸の中で一番大きいのは市ヶ谷の中屋敷で、今の防衛庁で水戸家の上屋敷よりちょっと大きいくらい。
紀州家の藩邸の中で一番大きいのは元赤坂の迎賓館を含む赤坂御用地で、市ヶ谷の尾張家中屋敷より更に一回り大きい。
それにしても、尾張家と紀州家の屋敷は広大なものがいくつもあるね。全部合わせると江戸城の本丸くらいの広さにはなりそうだ。
>91
市ヶ谷のは上屋敷だったと思います。
(麹町のが中屋敷だったはず。)
尾張家の屋敷で一番広いのは、戸山の下屋敷ですね。全部で13万6千坪あった
とか。
93 :
日本@名無史さん:02/11/23 13:32
御三家といえば、正室を「御簾中」と呼ぶよね。これも御三家を他大名家から
差別化しているところ。身分が高い人を迎えるから、それなりに遇するために
そうしたのだろか。
あと、家老になれば、家老自身の石高や定員に関係なく従五位下が貰えるよね。
数千石でも本物の「〜守」なんて人がいた。
加賀藩前田家の家老も貰えるけど、あれって重臣「八家」(全員大名並みの
大身)のうちの先任者4人って制限があったらしい。
越前藩、そのほかの家康の倅の藩、駿河・甲府・館林藩もこれに準じていたの
だろうけれど、越前は没落でその他は断絶したので御三家が残った。
>>93 >越前藩、そのほかの家康の倅の藩、駿河・甲府・館林藩もこれに準じていたの
>だろうけれど、越前は没落でその他は断絶したので御三家が残った。
「これに準じて〜」は御三家に掛かってます。加賀藩ではなく。
95 :
日本@名無史さん:02/11/23 13:40
御三家ってあまり役に立たなかったね。
96 :
日本@名無史さん:02/11/23 13:48
>>92 上屋敷、中屋敷、下屋敷の違いってなんですか?
97 :
日本@名無史さん:02/11/23 14:46
>96
字のごとく、上、中、下の順で格がちがうんだよ。
江戸にきた藩主が入るのが上屋敷。したっぱの順で中、下屋敷へとすまわされます。
98 :
日本@名無史さん:02/11/23 15:48
>>96 あと基本的に上ほど当然ながら江戸城に近い
上中下の順で立派度が違う
ただ逆を言えば、上屋敷は儀礼上の立派さがあるけど、
中下は各大名の好きにできた=趣味趣向を凝らせた、
という場合もあるね。庭とか。
99 :
日本@名無史さん:02/11/23 15:56
>>98 尾張家の場合、外堀の外にある市ヶ谷(現防衛庁)藩邸が上屋敷で、
外堀の内側の紀尾井町(現上智大学)の藩邸が中屋敷だったらしいけど、
紀尾井町屋敷の方がお城に近いし便利そうだけど?
100 :
日本@名無史さん:02/11/23 15:57
>>訂正
尾張家の紀尾井町屋敷は、現赤坂プリンスホテルだった。
101 :
日本@名無史さん:02/11/23 16:11
江戸城に最も近い上屋敷といったら会津藩かな?
東京駅丸の内口を出てすぐの皇居外苑・和田倉公園付近。
でも内堀のなかに上屋敷を建てていいのだろうか?
会津は御三家を牽制するため家光に優遇されたのです。
103 :
日本@名無史さん:02/11/23 16:29
104 :
日本@名無史さん:02/11/23 16:36
105 :
日本@名無史さん:02/11/23 16:52
>>104 いや、どの入り口にも紀尾井町の方が近い。
106 :
日本@名無史さん:02/11/23 16:55
>>100 赤坂プリンスは紀伊藩。尾張は上智大。
ちなみにニューオータニが彦根藩。
107 :
日本@名無史さん:02/11/23 17:02
108 :
日本@名無史さん:02/11/23 20:16
いまでいう所の大一等地をえげつない広さで、一人占めしてた
んだね。
すごい話だなあ。
ま、その文人公も少なかったわけだけどさ。
109 :
日本@名無史さん:02/11/23 20:19
おまえら、和歌山を馬鹿にしゅるなっ!
世が世なら手討ちです。
手討ち手討ちっ!!
で、紀州藩の屋敷はどこよ?w
紀尾井町って昔から「紀尾井町」って呼んでたのか?
111 :
日本@名無史さん:02/11/23 20:41
ああ、紀尾井町ってのは、紀州と尾張の頭文字をとってんのかっ!
なるほどっ。
いままで気付かなかったよ)藁。
すごいね、御三家っての威光ってのは。いまだ残照くらいはあるね。
112 :
日本@名無史さん:02/11/23 20:43
紀尾井町は紀伊徳川家、尾張徳川家、彦根藩井伊家の
屋敷があったことから三家の頭文字をとってつけられた
町名です
114 :
日本@名無史さん:02/11/23 20:49
彦根藩なんど御三家の足の裏のお目粒ほどのようなもの。
井の字ははっきりいって厚かましい。
紀尾町に変更すべき。
115 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:02
116 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:03
彦根藩は、上屋敷が桜田門、
中屋敷が紀尾井町(ホテルニューオータニ)、
下屋敷が明治神宮、さらに世田谷一帯を領有してた。
御三家よりすごいかも。
118 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:23
大老って井伊家・酒井家・土井家・堀田家しかなれないんだよね。
119 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:25
ま、たしかに足の裏の米粒でも、不快感は大きいものがあるよね。
120 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:09
しかし鶏頭牛後という言葉にあるように
将軍家に頭の上がらないご一族の別家というのより
譜代筆頭という言葉の響きのほうがカッコイイね
赤備えとか西国監視とか言ってみたくないか?
ぬるま湯にどっぷりつかってる御三家がおんなじこと言っても世間の嘲笑を浴びるだけだもんね
尾張徳川家の子孫の虎狩りのお殿様って人の自伝を読んだけど
我が家はもとから尊王だった、とか堂々と書いてあるし
駄目だこりゃと思ったよ。
121 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:12
122 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:16
下〜にい〜、下にっ 下〜にぃ〜いっ、下に
123 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:18
でも、紀伊藩士なんか江戸詰めになってるとき、町人からは
小馬鹿にされてたよ。
この田舎侍めってな感じでさ。
よって、江戸の粋な町人>御三家の田舎侍(水戸は除く。だって都会だからむかしから、江戸に近く
124 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:19
大老になれる家と将軍になれる家では前者が上なのか・・
面白れー発想だな。権力なんてのは白石、間部のように小物でも握れる。
125 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:23
>>124 >大老になれる家と将軍になれる家では前者が上なのか・・
しかしながら、御三卿創設以降は、御三家には将軍になる目はほとんどなかったわけではある。
126 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:26
>125
尾張家はけきょく一人も将軍排出できなかったけど、クライマクスで
紀伊家から二人目の将軍さまでてるじゃん。
おおとりは、一橋だったけど。その前の14台に。
127 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:29
徳川の系図見ると、幕末あたりはもうぐちゃぐちゃ。
養子の子が養子で、あっちから、こっちへ行ってこっちから・・・
もう訳わからん。
128 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:32
>>126 だから「ほとんどなかった」と書いたんだよ。
それに次期将軍決定に関する発言力でも、現将軍により近い譜代の重臣の方が有利なわけだし。
129 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:42
>>123 代々江戸詰でほとんど国許に帰らない藩士も結構いたのだが。
130 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:43
ちなみに私は井伊家に非常に好意を感じる。
ある意味ですごく一筋の家。
足利氏郷党の地元三河の隣国という地理的条件にもかかわらず
南北朝を通じて南朝宗良親王を井伊谷に奉じ奮闘し続ける。
駿河遠江に今川氏の指導力が確立していく過程で
井伊氏は次第に孤立していく。
戦国末期には土豪の勝間田氏など次々に滅ぼされていき今川領国化が急激に進むなか、
ついに井伊氏の命運も風前の灯火になる。
こうして一度は断絶したかに見えた井伊氏の遺児直政が家康に拾われ
みるみるうちに頭角を表し四天王の一角をしめるようになる。
戦場では常に激しい突撃で知られ
家康から赤備えの踏襲を認められる。
その後、とくに慶長初期の徳川氏の天下掌握の時期には
徳川外交をほとんど一手に引き受けた感があり
箕輪15万石と彦根27万石と譜代では破格の大封を受ける。
幕末の井伊大老も一筋といえば一筋すぎた。
頑固者すぎる頑固者。
肯定的にみるより保守の暴走、頑迷な幕閣の代表格と思われているが
徳川一筋の姿勢は評価していいはずだ。
131 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:59
まぁまぁ 御三家スレだから。。。せめて御三卿までかな、と。
132 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:04
>>131 御三家と比較する対象として、徳川四天王、御三卿、外様の雄藩(前田、島津、伊達、細川、黒田、浅野あたり)
くらいはいいんじゃないかと.......
133 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:10
134 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:33
もしよ、大名行列で御三家と外様の雄藩(前田、島津、伊達、細川、黒田、浅野あたり)
がすれ違うようになってたらどんな反応あったのかな?
とくに、島津と御三家のすれ違いなんて観たいねえ〜。ものすごい見ごたえのある
見物になりそう。
島津の行列のせっこうなんか、血の気ひいちゃったりしてね。藩主をカゴがらおろし
頭さげさす失態なんかおこしちゃったりしたらさ。
もしや、島津候もカゴからおりなかったりしてね。
135 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:36
むかしもなんか御三家の家臣たちにニックネームなんてあったのかね?
○この紀州の山猿侍がっ や
○尾張の田舎侍めが
○水戸のイカレ納豆侍め 等。
織田信長はニックネームをつける名手っていわれてたけどさ。
>>134 たとえば紀伊と島津がすれ違った場合、当然のことですが、
島津藩主が道ばたに土下座して紀伊大納言をやり過ごします。
137 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:45
>>134 そんなことは絶対いないように、道中の全行程はしっかりとスケジューリングされていました。
参勤交代の大名行列は単なる旅行ではなく「行軍」です。行軍の際の営地が他家の軍勢と重なったり
すれ違ったりしないように調整できないようでは武将としての才覚を問われます。
騒動など起こそうものなら、幕府の叱責を受け、お家存亡の危機です。
しかしながら、もしすれ違いが起これば、各大名家の席次は厳密に決まっているので、
それに従って道を譲るだけです。
ただし、藩主に恥をかかせた道中奉行は切腹確実。
138 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:45
土下座までは、さすがにしないし、させることもあからさまなんじゃ
ないの? そこいらのケチな大名だないし。
どうだろ。
139 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:47
>134
三家の答礼は、「四位以上下乗」なんで、国主大名と行き会ったときは、
三家の側でも答礼のために乗物からおりなきゃならなかったんでしょうね。
お互い面倒だから、通常は行き会わないようにしていたんではないかと。
140 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:48
>ただし、藩主に恥をかかせた道中奉行は切腹確実。
こわひぃぃぃ。ガクガクブルブル。一種の凶器の時代だよね。
もんのすごい緊張感のあった時代なんだと想う、あのときは。
141 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:49
142 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:51
ところで、やっぱり御三家の当地には名物のくいものがあるよね。不思議とさ。
みかん納豆、尾張はなんだ?
143 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:53
尾張藩主宗春の最後ってどんな最後だったの?
死に様のこってない?
太く短く生きたクレイジーな野郎だと、大好きなんだけど。
>142
尾州家をくさした落首等々。
「紀ノ国の みかん立花 葉はさかり 尾張大根 今は切りぼし」
「水戸に殿あり、紀州に家来あり、尾張に大根あり」
大根が名物だったようですね。
>143
死に様は知りませんが、69歳で亡くなったそうですから、「太く短く」
ではないですね。
(ちなみに、死後も赦免されず、墓には金網がかけられていたそうな。
赦免されたのは薨後75年経った天保10年で、このときに従二位権大納言
を追贈されたとか。)
146 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:10
>>143 別にクレイジーじゃないでしょう。
今日本でも政府の財政が傾くと、金を使って産業を盛んにして税収アップを図る
入るを図る派と、緊縮財政で出るを図る派の両方が存在するでしょう。
147 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:15
「尾張名古屋は城で持つ」ってあるでしょ? これはどういった格言なの?
また、いつの時代の言葉なの?
もしかして現代にはいってからのフレーズ?
148 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:21
吉宗「(宗春候)これいじょう言うことをきかないと、いくら御三家尾張徳川家といえども
おとり潰しもありますぞ」
宗春「うるせえ、ボケなすび。おれは、派手好きなんだよ。陰気くせえことぬかしてるな
この妾っ腹の息子が。じゃあなあばよ」
もう最高、宗春。
149 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:25
織田信長といい宗春といい、三河の血がそうさせるのかねえ。
この見事なキレっぷり。
150 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:30
>149
キレてるように思うのは吉宗の視点から見た歴史だからでしょう。
151 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:31
いや入府の際のいでたちなどけっこうクレイジーだと思うが。
152 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:32
>>149 いや三河とは全く何の関係もないんですが。
153 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:43
>>151 綱紀粛正、質素倹約を呼びかける吉宗から見るとクレイジーだろう。
しかし、産業振興や流通拡大をはかった秀吉や信長のような人たちは
景気の振興を旨とするわけで、華美な振る舞いは当然だと思う。
154 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:53
>>138 御三家・老中の行列には総土下座と決まってましたので
たとえどんなに大藩の藩主であろうとかち合ったら土下座です。
155 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:55
当然と言うが、大藩の君主としては、当然の域を逸脱していると言わざるを得ない。
156 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:56
>>154 その御三家と老中クラスの大名行列がかち合ったら?
>153
「華美」とはちがうような。
例えば寺に行くとき、行きは黒小袖に裃姿で乗物にゆられていったのが、
帰りには木綿布子に下士の着る羽織を着用し、安編笠をかぶって、串に
さした五平餅を頬張りながら歩いて帰ってきた、なんていう話もあるそ
うですから。
158 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:58
>>154 紀伊殿の行列に彦根殿の行列が出くわしたら、彦根殿は土下座するの?
159 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:00
岡山の祭寿司は質素倹約を奨励した池田輝政の時代、
弁当の蓋を開ければ御飯だけ、しかしそれをひっくり返せば御馳走てんこ盛り
という仕掛けで作られたと聞くが、倹約ばかりじゃ人心も浮き立たんわな
160 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:01
>>157 晩年の秀吉の遊興も凄いぞ。
醍醐の花見なんか仮装したり。
161 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:12
尾張家現当主の個人HP、おもしろいよね。
この人、コンピュータおたくらしい。
「徳川」でクグると出てくる。
>161
徳川さんは有名ですからね…。
私でも名前だけは聞いたことがありました。
(尾張系の方かとは思っていたけど、嫡系とは当時は知りませんでしたが。)
個人でのインターネット接続ができなかったころ、UUCPサービスを提供したりし
ておられたかと。
>>156 >>158 老中クラスではなく、あくまで”老中”です。
で、通常老中になると江戸定府でしたので実質参勤交代で御三家と老中がかち合うことは
ないのです。
ちなみに総土下座ってのは江戸城登城などの際の行列にも適用されるので老中にも
規定があるのです。
164 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:19
天皇家の侍従長をしていた徳川さんは、どういう系統の徳川さん?
165 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:21
殿中の廊下ですれ違っても大名同士なら土下座はしないと思いますが、
街道で出会うと土下座するんですか?
166 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:23
宗春「うるせえ、ボケなすび。おれは、派手好きなんだよ。陰気くせえことぬかしてるな
この妾っ腹の息子が。じゃあなあばよ」
↑ 「うるせえ、ボケなすび---」このくだり最高。
ところで、吉宗と宗春って対面で直接つばぜりあい、口げんか
なんてしたことあるのかな? 第三者同士を通しての、史実上のやりとりなの?
御三家といえば、紀伊家の和歌祭ってのは当時の規模はすごかったらしいですね。
京都の葵祭、もうひとつどこかの祭、と共に三大祭といわれてたとか。
いっぺんみたいもんですなあ。御三家の盛大に開いていた当時の祭りってものを。
167 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:27
宗春と吉宗ってどっちが年上だったの?
やっぱりこうまで宗春たんがイジはったのは、年上だし、御三家筆頭だったからなのでは?
>166
宗春も側室の出生ですけどね…。
>167
御三家に筆頭なんてのは、本来はなかったんではないかと。
建前上は三家とも同格だし、紀伊家は「当家のほうが本当は上だ」
と考えていた節もありますからね。
ちなみに、年齢は吉宗の方が一回り上です。
169 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:35
対面したことはあるのではないかな。
だって参勤交代で宗春も江戸に顔みせにはいくはずだもの。そのときにでもさ。
どんな態度だったのかねえ。ふてぶてしい若者を、大人の吉宗がいさめる
ってな感じなのかな。まさか、対面で
「うるせえ、馬鹿」(いったら最高)なんていわないだろうし。
170 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:37
ところで、絵にかいたような馬鹿そうな顔をした大名の写真、絵画って
ない? みんなそれなりに、さすがなあっていう顔だちのお歴々がおおいけどさ。
特に会津藩主男前だよねえ写真。あと秋田の佐竹。いまでも十分流行りの
若者の顔だちしてるのには驚いたよ。
171 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:39
>>168 でも、石高での格差はあるんじゃない?
吉宗以降は紀州家が優位だったかもしれないが、
それ以前はやはり尾張家が上位じゃなかったのかな?
172 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:43
居城でみると
圧倒的に尾張>紀伊>>>>>水戸のショボーンな平城 ではあるけどね。
名古屋城と大阪城ってどっちが大きい? おれ大阪城しかしらないの。
江戸城、名古屋城、大阪城というように、いまでもこれらの三つが三大都市ってのは
やっぱり自然としたことなんでしょうね。
173 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:50
>>172 名古屋城と和歌山城ではもっと差があるなー。
名古屋城はさすがに「天下普請」といわれるだけあって、
天守の巨大さがすごい。
水戸家は実高では、紀州家の半分以下の25万石弱。
半分以下ってのは御三家としてつりあわないので無理をして35万石を名乗っているし、
江戸定府で水戸は居城ではないので比べるのはかわいそう。
174 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:54
水戸の35万石ってハッタリをいってたんだよね。ないけども、公には
これだけありますって事だったんだよね。
やりくりが大変だったみたいだしさ。金なくて。
175 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:57
水戸藩が嘘で35万石あるって公言するからには、実質的な生活様式も
それなりな風にふるまわねばならなかったらしくて、それで苦しかったみたいね。
参勤交代がなかったけど、それだから同じくらい苦しかったらしい。
>171
石高の差はあっても両家は互角だ、というのが、家を建てて以来の紀伊家の
主張だったかと。
「官位についても、はじめの叙爵から少将、参議、中納言に任ぜられるのも、
同日同刻だ。ことにわが家は七本扇に日の丸と白旗とを賜り、江戸柳営の旗と
寸分も違わない。だから、行幸の辻固め間数割は、知行高には関係なく、尾張
家と同じでなければならぬのだ。」
というのが、寛永三年の行幸のときの紀伊頼宣の主張です。
>172
紀伊家は家康時代には駿遠三50万石が所領で、義直と石高も同じ。
居城でも、義直は新しい城を建ててもらったけど、頼宣は家康自身の城(駿府
城)を貰ってます。
旗の件(尾張家の旗は色違い)もあるんで、紀伊家が「家の方が本当は上だ」
と考えるのも無理はないかと。
(国替えした秀忠への反抗となるんで、正面きって主張はできんでしょうが。)
177 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:01
城は名古屋に劣るけど、紀伊藩はみっつ一国にもってたよね。御法度の一国一城
をやぶる。
田辺と新宮の丹鶴城。
178 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:01
>>174 無理して粉飾した実高にしていた上に、
江戸定府で、物価は高いし諸大名の目や付き合いがあって節約の難しい江戸に
常に大勢の家臣を住まわせていなければならないので、絶望的財政状態だったらしいね。
179 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:02
>>170 九代将軍の徳川家重の肖像が、難儀そうな顔立ちで描かれてる。
180 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:05
181 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:07
綱吉の時代でなく、吉宗の時代だったら、浅野たくみの守の事件も、
恩赦みたいなものがあったかな? 翌日切腹でしょ?怒りくるった綱吉がいいわたしたのは。
おれ、歴代将軍の中でもコレがいちばん嫌いな将軍。
182 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:11
>>147 ♪伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ♪
伊勢音頭の一節です。
183 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:12
茨城県の県庁所在地も茨城市ではないよね?
愛知県もそう。
唯一和歌山県が県名と県庁所在地名がいっちするのは、幕末維新の時に、早くから
官軍の方についたからだったっけ?
だから、一致しない各県ってのは、幕府河だったでしょ?
184 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:13
>>181 即日切腹が理不尽か否かは判断できないな。
そもそも、禁裏からの使者を招いている行事の当日に
こともあろうにその接待役が指南役である高家筆頭に対して、
場所もあろうに殿中で抜刀して切りつけた事件なんて
空前絶後だから比べようもない。
しかし、冷静に考えれば匠頭がしでかしたことは、
とんでもない不祥事なんだから、当然の裁きと考えても
不自然ではない。
185 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:14
当時の紀伊藩って三重県の中程、伊勢市までもそうだったでしょ。で、お隣は
もう尾張藩なんじゃなかったの? 間にちょろちょろっと他の小藩ってのが
あったのかな?
186 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:21
>>181 長矩に切腹を命じたのは当然の処分。無論喧嘩両成敗は成立しないので
義央公にお咎めなしも当然。
あえて言うなら精神異常をきたしたことを理由に切腹を免れることぐらい。
187 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:26
御三家の大名行列だけど、むこうから勅使がくるよね。
これだと、御三家の出方も相手次第になるみたい。
勅使が、御三家のかごをあけ挨拶すると、藩主も頭をさげる等
はっきり覚えてなくて、悪いけど。とにかく、勅使の場合は相手
しだいで対応がかわるみたいってのを読んだ。
188 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:27
浅野匠頭の切腹は当然だと思うよ。
ことこの件に関しては綱吉や柳沢吉保を責めるには値しないでしょう。
189 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:29
御三家のかごをあけ」じゃなくて、「勅使がかごをあけて挨拶すると」
御三家の方も同じようにふるまわなきゃならないみたい。下馬したら下馬というふうに。
190 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:29
>>187 勅旨に対して頭を垂れずに済むヤシはいないんじゃないか?
>183
紀伊家は、むしろ官軍からにらまれていた側だと思いますが。
192 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:31
あのう、「ちょくし」って何? 人? なにかの団体を指す言葉?
193 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:32
実際、尾張藩は表高62万石でも、木曽の山林とかは米じゃないから
数字に入れてないわけで、その辺りは水戸藩と違う所だね。
194 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:33
おしろのお堀にはやはり、太平洋戦争時の人骨がいぱーい、しずんでるのだろうか・・・
ガクガクぶるぶる
196 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:39
それほどまでに偉いチョクシってなによー!
197 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:39
198 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:40
>>185 藤堂高虎の藤堂家の津藩が三十万石ぐらいでなかったかな。
199 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:41
じゃあ、御三家と天皇がすれちがったら、御三家はそう土下座?
200 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:42
どこですれ違うんだ?
202 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:43
紀伊藩の北隣は岸和田藩。これは江戸から正式の紀伊藩の見張り役というのを
まかされていた。
203 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:44
江戸時代でもやっぱり、名目上では天ちゃんが一番偉いってことになってるんだよね?
京都にいるさ。
204 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:47
>>202 御所以外で天子様に出会うことはないと思うが、
御所で謁見する時は将軍様でも土下座です。
205 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:48
>>196 勅使=天皇の意思を直接に伝えるために派遣される使い。
206 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:52
同じ発音の「勅旨」は、この場合は「天皇の意思・考え」それを
書き表した書物。
207 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:58
>>202 三河の諸藩は尾張藩の見張り役。だから江戸幕府の体制が安定するまでは
各藩とも藩主の交代が激しかった。
208 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:59
大名行列に関しては紀伊殿、尾張殿より加賀殿のほうが壮麗だったのでは?
209 :
日本@名無史さん:02/11/24 04:28
参勤交代て江戸詰めを一年間している藩主って、日頃もずっと
上屋敷詰めなの? 息がつまらない?
江戸見物なんかしたくなかったのかな?
210 :
日本@名無史さん:02/11/24 04:31
藩の名前ってなんか由来ある? テキトーにつけていった
とは想わないんだけど。
けっこういい響きした、美しい漢字映えのする、字面でも美しい
名前がおおいよねえ。センスあるっていうか。
尾張。紀州。水戸。薩摩なんてのもぐっとくるねえ。(九州の他の藩名はことごとくダサイけど)
加賀。会津。等さ。
211 :
日本@名無史さん:02/11/24 04:37
ちなみに名古屋の元の字は那古屋だぎゃあ。
212 :
日本@名無史さん:02/11/24 04:39
でら、すげえがぎゃやあ。
けった→自転車。
213 :
日本@名無史さん:02/11/24 04:39
おみゃあもきしめんくうきゃぎゃあ
もうなにいってるのかわかりゃしまへん。
214 :
日本@名無史さん:02/11/24 04:50
>209
吉原に通った大名もいるくらいだ。
適当に懐具合に合わせて遊んでいるさ。
>210
本気で聞いてる?
216 :
日本@名無史さん:02/11/24 04:52
名古屋のきしめんは、これは上手かった!
217 :
日本@名無史さん:02/11/24 04:56
日本史好きはかならずこう想う。
すべての、写真がのこってればなあっと。
江戸城の内部もことごとく写真としていまでもみれて、すべての藩主や家臣、なもない
侍たちの面構えもおがめるのね。
むかしの女性って、ブスだよねえ。
睦奥宗光の嫁さんくらいだね。オナイニの対象にできるのは。
218 :
日本@名無史さん:02/11/24 05:14
でも、写真でみるサムライってじっさいは、チビのチンチクリンで
イメジくるうんだろうな)藁。
馬だって、洋馬みたいなんじゃなくて短足の日本馬だったんでしょ。
サムライがのってたのも。
219 :
日本@名無史さん:02/11/24 05:18
宗春と
220 :
日本@名無史さん:02/11/24 05:20
宗春と前田けいじは、どちが歌舞伎者として上位ですか?)藁
221 :
日本@名無史さん:02/11/24 05:23
>220
佐々木道誉
222 :
かぶきものマンセー:02/11/24 05:27
遠いむかし、ある時代に咲いたあだ花、おれは愛するっ。
パンクだよ、あいつらは。あいつらの気持ち心意気はロンドンだっ!
223 :
?�?O^?《?a`?I`?}???Z?[:02/11/24 05:37
尾張家に突如と現れたロンドン、宗春はパンクだったってことでいいですか?
224 :
日本@名無史さん:02/11/24 12:37
>>183 県名が県庁所在地と一致しないものは、多くの場合、県庁所在地付近の郡名が県名になっている。
だから、新政府側か幕府側かはあまり関係ないと思う。
だいたい、御三家の中でもっとも新政府寄りだったのは尾張だし。
あと、特殊な例として県名と県庁所在地付近の郡名とにねじれ現象が起きているものに埼玉県と三重県がある。
これは、のちに県庁が別の場所(埼玉郡岩槻→足立郡浦和、三重郡四日市→安濃郡津)に移されたから。
225 :
日本@名無史さん:02/11/24 13:12
>>224 >だから、新政府側か幕府側かはあまり関係ないと思う。
かなりあると思います。
226 :
日本@名無史さん:02/11/24 17:46
名古屋市って愛知郡だったん?
227 :
日本@名無史さん:02/11/24 23:54
あげ。
228 :
日本@名無史さん:02/11/25 01:13
>>177 >城は名古屋に劣るけど、紀伊藩はみっつ一国にもってたよね。御法度の一国一城
>をやぶる。
>田辺と新宮の丹鶴城。
藩全体では5つだよ。伊勢国の松坂城と田丸城も紀州藩領。松坂は外見は陣屋に
近かったけど制度上は城扱いで城代を置いた。田丸城は家老の久野氏(一万石)
が城主。1国5城(維新後でも1国3城)は全国でも紀州藩だけだよ。
229 :
日本@名無史さん:02/11/25 03:36
紀州藩の北は紀ノ川から向こう山を境によその藩になるのかな?
で、伊勢との境目は、今でいうところの知名ではどこまでなの?
230 :
日本@名無史さん:02/11/25 04:31
>>225 では、名古屋、金沢、津、大津などが県名になっていないのはなぜですか?
逆に、和歌山、静岡、山形が県名になっている理由は?
231 :
日本@名無史さん:02/11/25 04:34
>>226 旧郡名起源の県名。
岩手、宮城、秋田、茨城、群馬、千葉、石川、愛知、滋賀、香川など。
232 :
日本@名無史さん:02/11/25 06:44
廃藩置県直後は名古屋県だったのが愛知県に変わってる。
>>226 今の名古屋市全域じゃないけどね。
234 :
日本@名無史さん:02/11/25 12:10
>名古屋
これはわからん
>金沢、津、大津
これ新政府側でもないだろ。
>和歌山
これもわからん
>静岡
新しいから
>山形
ホントなら米沢か酒田だよ
間にあったのが山形
235 :
日本@名無史さん:02/11/25 13:06
県名については
>>224が正しい。
ただ、県庁所在地をどこにしたかという話になると別。
236 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:33
>>234 津の場合、鳥羽伏見の戦いでの津藩の寝返りこそが新政府の勝利を確定的にしたという点で、重要だと思うぞ。
237 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:36
現在県名と一致しない県庁所在地も、多くの場合、廃藩置県直後には同名の県があった。
しかし、その後の府県の整理・統廃合の過程で偶々消滅しただけ。
新政府側か旧幕府側かはあまり関係ない。
238 :
日本@名無史さん:02/11/25 16:47
>237
ふーん。
じゃあ浦和県とか横浜県とかあったんだ。
239 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:10
っていうか、お前ら激しくスレ違い。
>御三家の行列は、重戦車のごとく、魁男塾の直進行軍のように
>他の大名がよけるようなものだったのか?
よけるかどうか知らんけど、小競り合いはあったみたいですね。
運悪く行程が重なって同じ宿場になった場合。
241 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:21
御三家って最高だね
242 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:25
>>240 同じ宿場になったりしたら、格下大名側の道中奉行は切腹だろうな。
普通は、手前の宿場でやり過ごすだろうけどね。
そもそも本陣が空かなきゃ、殿様の宿泊場所がないし。
243 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:30
244 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:30
245 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:33
そろそろ話を本題(御三家の話)にもどして、と。
よっこらしょ。
246 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:38
御三家=悟空・御飯・ベジータ
247 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:42
>>245 戻せというなら、何か話題を提供しろよ! ゴルァ!!
248 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:46
尾張=ベジータ
紀州=悟空
水戸=御飯
249 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:48
越前と会津は?
250 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:53
251 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:59
天皇=界王
将軍=亀仙人
越前=ピッコロ
会津=餃子
薩摩=フリーザ
長州=菜っ葉
252 :
日本@名無史さん:02/11/25 18:08
天皇=アテナ
将軍=教皇
尾張=アイオリア
紀州=シャカ
水戸=ムウ
越前=ミロ
253 :
日本@名無史さん:02/11/25 18:11
新御三家を御三家に当てはめてみる。水戸は決まりだな。
254 :
日本@名無史さん:02/11/25 18:18
秀康って一代に限り徳川を名乗ることを許されてたって本当?
255 :
日本@名無史さん:02/11/25 18:20
>>254 初耳。晩年は松平復姓し、結城姓は5男直基が継いだと記憶。
256 :
日本@名無史さん:02/11/25 18:22
>>250 >>237の内容は大筋で正しい。
例外的にもともと同名の県名が存在しなかった横浜や浦和を
>>238がわざと持ち出してるだけ。
基本的に藩が置かれていた都市には、廃藩置県直後にはたいていの場合、同名の県があったはず。
要するに、もともと横浜藩や浦和藩などというものはなかったわけで。
257 :
日本@名無史さん:02/11/25 18:23
しつこい。ええかげんにせい。
259 :
日本@名無史さん:02/11/25 21:41
さ、そろそろ御三家の話をしようかな、と。
260 :
日本@名無史さん:02/11/25 22:50
おまえら、徳川前将軍15人でどれが好き。
おれは、いちばんキャラたってるのは、綱吉かと。前半のよくできたご政道と
人生後半にはいってからの、イカれっぷりはとにかく映像むき。
中野等にあったお犬様の敷地八万坪、もういいかしょの数万坪の犬小屋と八万匹?
の野良犬をぜひ実写でとってほしい。
燕をとって病気の幼児に与えた百姓とその幼児斬罪ってのは、すさまじすぎ。
261 :
日本@名無史さん:02/11/25 23:04
頭のネジがはずれていた、吉宗の次ぎになった将軍家〜とかはあぶなすぎて
実写はむり。人権暖帯からクレムくる。
酒のみすぎ、大奥で酒池肉林しすぎて脳みそあぽーんしてしまったので、後半は
まともにしゃべれず「あわわ」となるらしい。なにをしゃべっても「あわわ」としか
聞こえなかったとのこと。
262 :
日本@名無史さん:02/11/25 23:23
酒の飲みすぎでなったのか?
263 :
日本@名無史さん:02/11/25 23:38
264 :
あわわ)藁サイコー:02/11/26 00:23
あわわアゲ。
265 :
日本@名無史さん:02/11/26 00:24
星のフラメンコーーーっ。おおおーーーつ。おおおーーーーーーっ。
266 :
?�?i´?i´?j?m?T?C?R?[:02/11/26 00:27
松浦あわわ
267 :
日本@名無史さん:02/11/26 00:38
江戸城の前領域って縦横をメートルで教えてくれない? 東京者じゃないから
図鑑でしかみれないし、実感がまるでわからんのよ。
外曲まで全部ふくめた領域ね。
268 :
日本@名無史さん:02/11/26 00:46
>>261 NHKの大河ドラマの吉宗に出てきたよ。
知的障害者じゃなくて言語障害っていう設定だったけど。
269 :
日本@名無史さん:02/11/26 01:59
>>268 中村梅雀さんの演技が良かったね。
大河はえてして、後半は実力どころがいなくなってだれることが多いけど、
彼の演技は後半をしっかり支えていたと思われ。
270 :
日本@名無史さん:02/11/26 04:04
本丸 おてんすアゲ
戦闘力350・・・カスだ
あの将軍を使って
将棋将軍一大記
273 :
日本@名無史さん:02/11/26 09:45
家治VS家慶 地味将軍対決
274 :
日本@名無史さん:02/11/26 16:08
地味だねぇ
275 :
日本@名無史さん:02/11/26 18:03
会津や桑名や越前の親藩も力あったでしょ〜?
276 :
日本@名無史さん:02/11/26 18:22
越前松平家の江戸城内の詰所は、大廊下下の間だっけ?
277 :
日本@名無史さん:02/11/26 19:51
大広間?
278 :
日本@名無史さん:02/11/26 21:00
>>275 桑名はないだろ。
久松松平の分家扱いだし。
279 :
日本@名無史さん:02/11/26 22:19
>>276 正解。他の大廊下下の間は美作越前松平とか、加賀前田。
>>275 >>278 白河時代に田安から養子で入った定信(吉宗の孫、老中筆頭)以降は格があがったみたい。
280 :
日本@名無史さん:02/11/27 01:35
279>>会津藩主兼京都守護職の松平容保と桑名藩主の松平定敬は兄弟だったんでしょ?
281 :
日本@名無史さん:02/11/27 01:37
ガンガレ!松平春嶽
282 :
日本@名無史さん:02/11/27 03:08
越前系松平は、津山藩が本家。久松松平は上総多古藩が本家です。
283 :
日本@名無史さん:02/11/27 07:54
松江も…だよね
284 :
日本@名無史さん:02/11/27 08:51
>280
尾張藩主徳川慶勝・御三卿一橋茂栄も兄弟です。
285 :
日本@名無史さん:02/11/27 08:52
御三家って、強かったの?
格式が高かっただけじゃ無いの?
教えてちょうだい。
287 :
日本@名無史さん:02/11/27 12:36
>>285 少なくとも、強さを証明する機会は無かった。弱いと見てよいと思う。
ホントに強かったら、第二次長州征伐は勝利していたかも。
いや、その前に将軍家と争って江戸幕府の寿命も短かったかも。
288 :
◆CSZ6G0yP9Q :02/11/27 12:39
役に立ったのかなぁ
御三家って…
正当が絶えたとき云々って言っても、秀忠の子孫って全滅したわけじゃ
なかったよね。
う〜ん、きよたけ?だっけ?六代の弟か何か、いたよね。
289 :
日本@名無史さん:02/11/27 12:42
家光の甥(忠長の子)の長七郎の子孫は?
(99%脚色だが、一応モデルになった人物がいたと聞いたが…)
290 :
日本@名無史さん:02/11/27 12:46
>288
清武には子がなかったので何処からか養子をとった。
会津松平家も、七代藩主・容ひろが夭折し水戸から養子をとった。
よって秀忠の男系は全滅。
291 :
日本@名無史さん:02/11/27 13:04
何でだろう…
医療体制日本一のはずなのに… 将軍家
やっぱ衆道のせいかなぁ
高貴で体の弱いのばっか嫁にしたからかなぁ…
(下賎の出の側室の子って多いよね、意外に。)
292 :
日本@名無史さん:02/11/27 13:05
女系は加賀前田家や津山藩松平家に残ってるはず。
293 :
日本@名無史さん:02/11/27 14:25
女系とか、養子ってのはいまいちだなぁ
今の天皇も秀忠の血ひいてるんでないの??
294 :
日本@名無史さん:02/11/27 14:26
明正天皇の血は絶えた
秀忠の血は入っていない
295 :
日本@名無史さん:02/11/27 14:45
越智松平(清武流)は養子ばっかり。
二代武雅は尾張藩連枝の美濃高須藩からの養子で、三代武元は水戸藩連枝の常陸
府中藩からの養子。
296 :
日本@名無史さん:02/11/27 15:40
>294
大河で青年公家が出てきて…九条とどっかだったっけかなぁ
公家衆にも秀忠の血いってるんじゃないの?
結構子供生んでたじゃん。天皇家に言った娘って。
297 :
日本@名無史さん:02/11/27 15:43
日本じゃ養子はどうってことないんだろうけど…
(話それるが)
信雄直系の子孫が本に出ているの見たとき
信長の子孫って言っても養子じゃあなぁ…って思った。
将軍家も家継に線引いて吉宗ってなってる系図って、間違いじゃないけど、嫌い。
養子を無視した系図の方がわかりやすい。
298 :
日本@名無史さん:02/11/27 15:50
御家>>>>>血統
299 :
日本@名無史さん :02/11/27 15:56
家斉======お美代の方
|
|
溶姫=======前田斉泰
|
|
慶寧
|
|
貞子======近衛篤麿
|
|
文麿
|
|
温子=====細川護貞
|
|
細川護熙
300 :
日本@名無史さん:02/11/27 16:02
すごいな、天皇と家康と利家と明智と忠興の子孫ってことか
文麿もそこそこ有名だが
(細川って源義家の子孫だっけ? その兄弟の子孫だっけ??)
301 :
日本@名無史さん:02/11/27 16:12
>>282 越前系松平は越前家が本家。津山家は嫡家。明治時代に伯爵から侯爵に上がった越前家
に対抗して津山家も昇爵運動したがだめだった。
302 :
日本@名無史さん:02/11/28 07:56
徳川なんとかさんって娘が、皇太子妃候補になったよね。
御三家のご令嬢??
303 :
日本@名無史さん:02/11/28 10:46
>>299 孫(慶寧)を将軍にしようと陰謀をたくらんだお美代の方の子孫から、二人も
首相が出ているわけか。
陰謀にはしくじったが、お美代と中野碩翁もあの世で満足かも。
304 :
日本@名無史さん:02/11/28 12:30
305 :
日本@名無史さん:02/11/28 12:33
「日本で一番長い日」で有名な、徳川義寛侍従長でしょ?
306 :
日本@名無史さん:02/11/28 12:43
あそこって美人の家系と思ってるのは漏れだけ?
307 :
日本@名無史さん:02/11/28 12:53
尾張徳川家当主・義親は松平春嶽の子で先代義禮の婿養子となった。
308 :
日本@名無史さん:02/11/28 16:16
金持ちだから、美人の嫁ばっかもらってるんだろ・・・
天皇家を持ち出されると、この理論は成り立たないが・・・
御三家ばんざーい
309 :
日本@名無史さん :02/11/28 16:48
綱重、綱吉の二人は明暦武鑑では松平姓になってるけど、いつから徳川姓に変わったの?
310 :
日本@名無史さん:02/11/28 18:32
昭和の頃、紀州徳川家に婿が入ったけど、離婚して出ていっちゃった人。
何していた人なのだろう。まだ存命中なのかな。
311 :
日本@名無史さん:02/11/28 18:49
>309
領地貰ったときじゃないの?
312 :
日本@名無史さん:02/12/02 06:02
おまえら御三家なめてんじゃねえぞごるぁはっ!age(特に和歌山)
313 :
日本@名無史さん:02/12/02 06:26
俺の先祖は馬廻だぞゴラ
お前等ひざま付けよアホ
314 :
日本@名無史さん:02/12/02 09:23
御三家じゃないけど、家門衆内で軍事面での最強藩は会津藩じゃないの?
でも幕末期に禁門の変で長州をコテンパンに痛めつけた為、最後は恨み辛みを込めてコテンパンにやられてしまった。
かな...?
316 :
日本@名無史さん:02/12/02 11:19
ただ、ごつ系やエラはり系など、ぶさいくちゃんってのは除外されているし
確率から言えば、かわいこちゃんになるはずなんだが・・・
317 :
日本@名無史さん:02/12/02 12:58
話ずれるがオレの知ってる医者はみんなかなりのブサイク
で、嫁さん美人
でも子供はかわいそうなほど父親似のブサイクだった。
強いのかな、ぶさいくの血って
>>317 一樽の美酒に一滴の汚水を入れると一樽の汚水になる。
一樽の汚水に一滴の美酒を入れると一樽の汚水になる。
だっけ。
319 :
日本@名無史さん:02/12/02 18:28
>>315 308は306へのレスと思われ。同家はそんなに古くない。
確かに同家出身の元女官長の若い頃や皇太子のお妃候補
だった人たちはそこそこと思うよ
320 :
日本@名無史さん:02/12/02 19:33
↑何いってるの?
321 :
日本@名無史さん:02/12/03 07:33
御三家・・・
オレだったら、水戸と名古屋と岡山にするね
鳥取は親藩だが岡山は外様だろ。
323 :
日本@名無史さん:02/12/03 10:13
配置場所をどこにするかってことだろ
アフォ?
324 :
日本@名無史さん:02/12/03 19:13
>229
伊勢神宮の内宮周辺を「山田」と言うのだけど
幕府天領の山田奉行をしていた大岡忠すけ が 紀州藩領と林業権かなんかで もめて
このときの采配が 当時藩主の吉宗の目にとまった なんて話を聞きますね。
あと 鳥羽藩の陣屋の碑を 現伊勢市からみて現鳥羽市とは反対側の隣町でみかけます。
飛び地とか相当入り組んでいたと思われる。
325 :
日本@名無史さん:02/12/04 00:14
おそれすすぎだろ・・・
326 :
日本@名無史さん:02/12/04 12:42
当時も御三家って言ってたのかな 庶民も
327 :
日本@名無史さん:02/12/04 14:35
>322
親藩じゃないでしょ。
准家門とかでは?
328 :
日本@名無史さん:02/12/04 16:26
>>296 九条家に行った女は秀忠の血は引いてませんよ。羽柴秀勝の娘です。
329 :
日本@名無史さん:02/12/04 16:33
御三家は門に住む部屋住みだから大名行列はなしの方向で。
基本的に飼い殺しだよな。
330 :
日本@名無史さん:02/12/04 18:05
御三卿でなくて? うん??
331 :
日本@名無史さん:02/12/04 19:30
>>328 スレ違いだけど、羽柴秀勝の子孫って現存するのかな。
豊臣ファミリーの血が残っているとしたら、秀勝の系統
しかないよね。
332 :
日本@名無史さん:02/12/04 20:07
>331
木下家定系は?
旗本木下氏で維新後羽柴氏に改姓したものがあるという報告がありますた
334 :
日本@名無史さん:02/12/04 21:22
公家に嫁いだ娘の血なら・・・
335 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:33
>>332 北政所の実家も一応豊臣ファミリーかもしれないが、
姻族じゃなくて秀吉姉弟の子孫が本物っぽい感じがする。
一時期九条・二条の両摂家に広がったが、その後両家とも
途絶えてしまった。あるとしたら、両家の姫君ルートか。
336 :
日本@名無史さん:02/12/05 16:14
要するに、現代に秀吉もしくはその兄弟姉妹の血を引く人っているの??
一言でいうと?
337 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:09
一言でいうと・・・わからん
338 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:55
ソ⌒ゞヾ、、i^''",,;, ";''_;,"=-'__
'j!',ゞ_`゛、、' ,; ,; :'"、;;"'彡=-_`''‐、,
_i!' ,‐=, 〃 ``゛;.:;=-``、、 ミiミ`ヽ、
_/;'イ 〃"' i !`、,_;、;ゞ ̄ フリi1、_ミiミ;、、 \
// / / "'^!``' ' /;/〃i!i ヾヽ ヽ ヽ ヽ
/;' /〃/,;,;// / / / ,i'リ ハ`ヾ\ ヽ
〃 j l l!/ / , , ;/ イ !ハ ヾ\ i,
イ , i'/ 〃 // 〃 / /i| i リ ; ;:;:ヾ、、 |
,/!i! {i!,,ソj'レ ,;// // // i i川 从; | iヽ;.;.;:ヾ 、、!
j ! ,;;彡'ルリ i l 川 | i !!| 从リ 川' |! i lハヾ j |
i | ;;;r;イ リルLjッ;_,リ,、ノリ' リ _,、i-=j''"''リルi i; !
|リ | i!;;;;| '゙`_,、;=;-;、゙` .゙ _;、-;=;,、,_ 川! | |
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'リ| ;;;;,`!. :.:. リ i' i
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| i リノ リ;:;:;:ソヽ、 /.:.::彡'" ノ .,;;' i! 藤本美貴ちゃんてワキガなんだって!
| |! 川リ;;イ::..:.:.` :ー--‐ ''゙ .:.:.::彡'" ;;从 ねぇ、梨華のワキを堪能して!
ノ! 人リ川';:;:.:.. :: : :::.シ从 人 从_,
_,,、-‐ ' ' ゙从 j:;;从';;':. ';从 ;;人リゞ``'‐-、,,_
ソi !|リ;;;;:;:;;:;:; ;: .:.,, . . . ., .. ; : ;::;;;.リ从 ゞリ`
ノ川リ;;;:.: . : . 'リ 、ト、
イ'リ';;;'' 'リ从
339 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:19
一言でいうと・・・いるかもよ
340 :
日本@名無史さん:02/12/07 08:29
だいたいいるかな〜って感じってゆーかぁ
341 :
日本@名無史さん:02/12/07 23:16
御三家復興をするのじゃ!
342 :
日本@名無史さん:02/12/08 00:03
鳩山家と、安倍家と・・・ 小泉家だっけ?
福田
344 :
日本@名無史さん:02/12/08 02:40
名古屋にトヨトミっていうストーブメーカーがあるじゃん。
たまたま通った国道1号線沿いにあった。
あれはどうなのよ。子孫じゃないのかな。
345 :
日本@名無史さん:02/12/08 14:26
田中家は新興か?
三代目が継がないから断絶しそうだが・・・
346 :
日本@名無史さん:02/12/10 08:27
よっ 御三家
347 :
日本@名無史さん:02/12/10 20:49
ご・さ・ん・け
348 :
日本@名無史さん:02/12/10 23:32
和歌山市は、あほな公共事業をただちにやめて、天下御三家の居城である和歌山城の
完全再現事業を発動しるっ。まずは一刻も早くの御橋廊下の完成。
つづいてはその勢いにのり、本丸御殿を再現しるっ!
馬鹿山市といわれてもしかたないぞ、本丸御殿をつぶして城内給水場をつくってるなんて
全国のお城みわたしても、この市だけ。観光名物にそんなもの作ってるのは。
駅前地下40億円よか、↑の事業でもしてたほうがよっぽどまし。
旧御三家
舟木家 橋家 西郷家
新御三家
野口家 郷家 西条家
御三家って必ず一つだけダントツに劣っているのがいるね。
ランちゃん、スーちゃん。ミキちゃん
352 :
日本@名無史さん:02/12/14 00:27
もっくん、やっくん そして、ふっくん
ヒガシ、ニッキ。 カッチャン。
ただし今は
ヒガシ。 ニッキ、カッチャン。
354 :
日本@名無史さん:02/12/18 00:00
あげ
355 :
日本@名無史さん:02/12/18 03:53
sdva
356 :
日本@名無史さん:02/12/18 09:13
マッチ、、、、、、、、、、中年太りヨッちゃん、、、頭が寒いトシちゃん。
百恵 昌子 というのもいたが、カルトの淳子はどうなった?
358 :
日本@名無史さん:02/12/18 18:53
>>1 尾張付家老の成瀬家の江戸往来の行列も立派だったそうだね。
359 :
日本@名無史さん:02/12/20 07:45
家老だけど2万石くらいあるの?
360 :
日本@名無史さん:02/12/20 09:43
犬山藩は三万五千石
前田の家老は5万石。
362 :
日本@名無史さん:02/12/20 10:11
御過労。
363 :
日本@名無史さん:02/12/22 21:36
御三家の支藩・連枝について語りましょう。
尾張や紀州は連枝から当主を出してるけど、水戸の連枝は数が多いのに当主が
出ていない。
364 :
日本@名無史さん:02/12/22 21:41
尾張では、八代宗勝・十四代慶勝。
紀州では、六代宗直・九代治貞・十四代茂承
が、連枝から本家に入ってる。
365 :
日本@名無史さん:02/12/22 21:41
>>363 4代綱條も綱條のあとを継いだ宗堯も高松藩出身だよ。
366 :
日本@名無史さん:02/12/22 21:42
↑水戸綱條は2代目だった。訂正します。
367 :
日本@名無史さん:02/12/22 21:46
>>363 水戸は特殊な御家でしょ、通称副将軍の。
368 :
日本@名無史さん:02/12/22 21:59
高松藩って、連枝というより、独立した親藩格のような感じがする。
会津と並んで溜間詰めでしょう。他の連枝より格が上って感じ。
369 :
日本@名無史さん:02/12/22 22:26
紀州の頼職、吉宗も連枝でしょ、いちおう。
宗春は異彩を放つ。
高松藩は水戸家の支藩というより、幕府が水戸家に付けた監視役のような。
372 :
日本@名無史さん:02/12/23 00:10
名古屋城を見に行って驚愕!
さすが徳川御三家・尾張家の居城だけあって装備が立派!
非常口やエレベーターまで完備していて、当時の尾張の発展振りを
垣間見ることができ、有意義だった・・・・・
373 :
日本@名無史さん:02/12/23 00:11
連枝って、10万石未満で陣屋なのに大広間詰めなんだよね。
御三家の連枝は別格なんだな。
>372
小田原城なんて象もいたぞ。籠城食かよ・・・
もう少し、雰囲気に気を使って欲しいですね。
375 :
日本@名無史さん:02/12/23 00:19
>>372 洒落で言っている、名古屋城は戦災に遭うまで、
すべて明治以前のまま残っていたんっだよ。
376 :
日本@名無史さん:02/12/23 00:22
>>374 小田原城も随分整備されたよ、どの時代を対照にしたのかは知らんけど。
377 :
日本@名無史さん:02/12/23 12:33
>>373 連枝に限らず、親藩は殆ど大広間以上。
越前系の糸魚川、広瀬および母里、水戸連枝の宍戸は帝鑑間だったけど。
それでも石高以上の扱いだけどね。
ところで、水戸連枝の守山、府中両藩と宍戸の詰ノ間の違いが気になる。
378 :
日本@名無史さん:02/12/24 06:28
御三家筆頭の尾張殿の居城には、うちひしがされたよ。大阪城なみの21性器っぷりにね。
その点、その後のいった(御三家ツアー18切符厨房は俺)和歌山城は、言葉は悪いが廃れ具合というか
ほったらし加減というか、プラモでいう汚しのテク(うぇざりんぐ?)が施されていて
感心させられまくり。こうでなくちゃ。和歌山城おてんすの裏側(ぐるりと一周できるんだけど
これが、もう春にはいい桜並木になるだろうなってな具合で昔のまんまでよかったよ。地面は土のまま、
眼下には人の手のはいっていない山の木々が恐くすらあった。
※ 来年完成する御橋廊下も、ぜひとも新品の木材に汚しを施して年代をだして
ほすぃものですな。
379 :
日本@名無史さん:02/12/25 01:23
こーーーーんくらい強かったんですぅ。
380 :
日本@名無史さん:02/12/25 02:56
尾張付家老の成瀬家と言へば犬山城の件はどうなったの?
成瀬家と犬山市が争っていたみたいだけど。
381 :
日本@名無史さん:02/12/25 03:50
名古屋城って観光にむいてる?
二時間くらいでまわれるかな?
382 :
日本@名無史さん:02/12/25 07:20
もし豊臣家が潰されなければ、何万石の外様大名になってたんでしょうか?
>>382 想像に過ぎないけど、大和郡山15万石くらいかな。
それでも織田に比べれば悪くない待遇だと思うが・・・。
384 :
日本@名無史さん:02/12/26 01:29
うんこちんちんアゲ。
385 :
日本@名無史さん:02/12/26 13:35
>380
決着はついた。ググってみなされ。
>381
2時間あれば大丈夫かと。
386 :
日本@名無史さん:02/12/26 14:27
387 :
日本@名無史さん:02/12/29 12:10
すげー強かったよ
388 :
日本@名無史さん:02/12/29 14:20
★御三家の家老(幕末の一万石以上)★
【尾張藩】
成瀬氏(犬山城主35,000石、付家老、子爵)
竹腰氏(今尾領主30,000石、付家老、男爵)
渡辺氏(寺部領主13,300石、男爵)
石河氏(10,000石、男爵)
志水氏(10,000石、士族)
【紀伊藩】
安藤氏(田辺城主38,800石、付家老、男爵)
水野氏(新宮城主35,000石、付家老、男爵)
三浦氏(15,000、男爵)
久野氏(田丸城主10,000石、士族)
【水戸藩】
中山氏(松岡領主25,000石、付家老、男爵)
山野辺氏(水戸城内→助川海防陣屋10,000、士族)
所領の記載のないものは、不明または蔵米と思われる。
久野氏の田丸城は伊勢の飛び地にあるので、独立領主みたいで
カッコイイと思う。
389 :
日本@名無史さん:02/12/29 14:34
志水、久野、山野辺の3家はかわいそうだね。
>>389 同感。華族になれない理由は多分貧乏だったのでしょう。
山野辺は水戸のゴタゴタで粛清された経験があるから察しがつくけれど、
志水や久野の維新後は興味あり。
そういえば、「松平三代の女」(松平すゞ著、風媒社刊)の著者は
尾張藩の上級藩士(5千石)の娘で、維新後経済的に困窮し、父は
乞食同然、その姉妹は妾奉公とかっていう内容だった。生活力のない
大身の武士ってそんなものなのかな。
391 :
日本@名無史さん:02/12/29 15:56
>>390 確かに大身の武士達で士族になった人たちってその後どうなったんだろうね。
松平三代の女みたいに凄まじい人生になったのかね。
392 :
日本@名無史さん:02/12/30 01:47
紀州は陪臣の城主が多いな。たぶん初代頼宣公の尚武キャラによると思われ。
ついでに全国の陪臣城主を調べてみた。(スレと無関係だが)
(仙台藩)片倉氏=白石城主
(尾張藩)成瀬氏=犬山城主
(紀州藩)安藤氏=田辺城主、水野氏=新宮城主、久野氏=田丸城主
(広島藩)浅野氏(藩主一門)=三原城主
(熊本藩)松井氏=八代城主
この中では八代城が一番立派な城郭と思われ。
393 :
日本@名無史さん:02/12/30 03:09
三原のほうが上とちゃう?
山野辺は「最上」なのにねぇ・・・。
395 :
日本@名無史さん:02/12/31 00:17
>>393 三原城って立派だったの?今は新幹線の線路の下みたいだけど。
八代城は五層天守で立派よねえ。
396 :
日本@名無史さん:02/12/31 12:35
御三家
家康・秀忠時代は、越前松平家>御三家(将軍家以外の)だったのに、いつの間
にか勢力を失っていった越前家。秀康時代は70万石とか言われていたのに、時代が
下るにつれ、石高が減っていたような気がする。最後って32万石だったっけ?
減封された時期と理由を教えてください。
398 :
日本@名無史さん:02/12/31 17:30
越前守家は秀康の嫡流ではないよ。
秀康の次男忠昌の系統です。
秀康の嫡流家は津山の越後守家です。
秀康:67万石
忠直:改易→越後高田25万石
忠昌:55.5万石(新知)
光通:弟二人に分知
昌親:47.5万石(支藩分も合わせる)
綱昌:改易
吉品:25万石(新知)
宗昌:30万石(支藩分も合わせる)
治好:後加増で32万石
>398 ありがとうございます。
400 :
日本@名無史さん:02/12/31 20:01
でも、越前守家と越後守家には嫡流争いがあった。
越後守家は有名な越後騒動のとき、一旦お取りつぶしになったけど、その後復活
したの?
402 :
日本@名無史さん:02/12/31 23:12
光長は改易後、赦されて蔵米をもらっています。
その名跡を継ぐかたちで、越前家支流から養子が入りました。
これが美作津山藩のおこりです。
403 :
日本@名無史さん:02/12/31 23:14
>401
光長は後に赦免され、三万俵貰っています。
養子宣維のときに津山十万石。
404 :
日本@名無史さん:02/12/31 23:16
幕末の津山侯松平斉民は11代家斉の実子。
この縁組で越後守家は10万石に加増され、国主に復しました。
隠居後は確堂と称し、家茂からはたいへん信頼されていたそうです。
宣維と斉民の間で幼主が早世し、5万石に減封されていました。
406 :
日本@名無史さん:02/12/31 23:20
宣維の子浅五郎が死んだため、
長煕が末期養子として5万石に減封。
越前松平系では結局、10万石以上の大名としては、福井藩、松江藩、津山藩、が
残ったわけですね(養子が入って秀康の血統ではないにしろ)。戊辰戦争直前の時
点で福井藩32万石、松江藩15万石(?)、津山藩10万石、その他の分家を合わせる
とちょうど68万石くらいか。
御三家最小の水戸家(25万石)でも、高松(15万石)を合わせると40万石になる。
尾張と紀伊は、10万石以上の分家はあったっけ?本家がでかすぎるから、将軍家に
にらまれて作ってもらえなかったのだろうか?
408 :
日本@名無史さん:02/12/31 23:38
>407
尾張では、徳川義寛が分家して男爵に叙されました。
409 :
日本@名無史さん:03/01/01 00:12
越前家一門の明治維新時の石高は、
福井藩(32万石)松江藩(18.6万石)前橋藩(17万石)
津山藩(10万石)明石藩(8万石)広瀬藩(3万石)母里藩(1万石)
糸魚川藩(1万石)です。
ついでに爵位は、
侯爵(福井)伯爵(松江、前橋)子爵(残り五家)
後に福井の分家が子爵、津山の分家が男爵になってます。
新年おめでとう。
なるほど。一門合わせると90.6万石(養子ばかりとは言え)ですか。足し算
に意味があるかどうかは別にして、意外に多いですね。結城秀康が100万石を
欲していたというエピソードがあったと記憶しているが、強引に言えば、ほぼ
叶えられたということか?
このうち結城家の家紋を残しているのが広瀬藩だったっけ?
宜しければ、御三家の連枝をまとめたものもお願いします。
411 :
日本@名無史さん:03/01/01 00:42
★御三家連枝一覧
●尾張
美濃高須藩(3万石):松平摂津守義行 大広間
●紀州
伊予西条藩(5万石):松平左京大夫 大広間
●水戸
讃岐高松藩(12万石):松平讃岐守 溜間
陸奥守山藩(2万石):松平大学頭 大広間
常陸府中藩(2万石):松平播磨守 大広間
常陸宍戸藩(1万石):松平大炊頭 帝鑑間
>411 ありがとうございます。いつも教えてもらってばかりで申し訳ない。
連枝を含めて合計すると越前90.6万、尾張65万、紀伊60万、水戸42万となるわけ
ですね。改易された松平忠輝、早死した松平忠吉系は、一藩も残ってないのです
か?もともと子供がなかったのかも知れませんが。
413 :
日本@名無史さん:03/01/01 00:54
連枝って本家の内分なのかどうかはわかりません。
>>410 >このうち結城家の家紋を残しているのが広瀬藩だったっけ?
結城家の家紋を使ってるのは、私は前橋藩だと思い込んでるけど?
>>413 美濃高須は微妙な気がするけど、その他の連枝は内分ではないと思い込んで
ますよ。
415 :
日本@名無史さん:03/01/01 01:20
>414
開き直るのはやめよう。
家康直系ではないけど、久松家一門の各支藩と石高を教えてください。松山、今治
白河(→桑名)あたりは有名ですが。
418 :
日本@名無史さん:03/01/01 12:26
★久松家について★
簡単な系図
某 女
├─信俊
久松俊勝
├─康元
├─康俊(多古藩祖)
├─定勝┬定行(松山藩祖)
於 大 ├定勝(桑名藩祖)
├定房(今治藩祖)
└定政(刈谷藩祖)
於大は家康の生母です。
419 :
日本@名無史さん:03/01/01 12:41
久松(松平)家の各藩
伊予松山藩(15万石):松平隠岐守定勝 溜間
伊勢桑名藩(11万石):松平越中守定綱 溜間
伊予今治藩(3万5千石):松平美作守定房 帝鑑間
三河刈谷藩(2万石):松平能登守定政 帝鑑間 (慶安四年、改易)
信濃小諸藩(5万石):松平因幡守康元 ??? (無嗣改易)
下総多古藩(1万2千石):松平豊前守 帝鑑間
420 :
日本@名無史さん:03/01/01 13:05
>>416 それを開き直ると言うんじゃないの?
別にいいけど。
>419 ありがと(以下略)
422 :
日本@名無史さん:03/01/03 13:48
>>414 内分の連枝・越前分家は、これだけでしょう。
○越前系:松江支藩の広瀬・母里両藩
○西条藩5万石のうち、紀州蔵米の2万石。
○水戸系:守山・府中両藩の最初の頃(額田藩・保内藩時代)。
その他連枝は、すべて幕府から貰った領地。
ちなみに結城姓は直基(のちの厩橋藩)が継いだ。
423 :
日本@名無史さん:03/01/03 14:16
もう8、9年経つだろうか。大河ドラマの「八代将軍吉宗」のこと。
吉宗が頼方といい、3万石の葛生藩主時代の裃衣装で、葵紋が叔父の
西条藩主頼純とは違って、水戸連枝っぽい形(正八角形)をしていた。
わざわざ変えているっていうことは、本当にそうだったのかなぁ。
424 :
日本@名無史さん:03/01/03 14:18
徳川一門の葵紋は、家ごとにすべて違います。
425 :
日本@名無史さん:03/01/03 22:33
将軍家だって何回も変えてるじゃん
426 :
日本@名無史さん:03/01/04 01:38
この前、尾張義直の男系男子は残っているかどうか調べてみたけど、
付家老→今尾藩主の竹腰男爵家の家系だけみたい。現代のご当主の事
までは調べていないけど。
427 :
日本@名無史さん:03/01/04 08:25
今の尾張本家はどの血筋なの?
428 :
日本@名無史さん:03/01/04 10:04
現在の御当主の男系の血筋を遡ると
佐賀の鍋島家になりますね。
429 :
日本@名無史さん:03/01/04 10:32
鍋島直茂の男系子孫が尾張徳川家の当主??
430 :
日本@名無史さん:03/01/04 11:57
徳川義宣氏の実家は佐倉堀田家。
堀田家は明治まで藩祖の血筋が続いているので、明治以後の養子か?
431 :
日本@名無史さん:03/01/04 14:51
紀州家最後の剛タソって、どんな人?もっと一門っぽい名前に
変えればよかったのに。
鍋島(佐賀)直正−鍋島(蓮池)直柔−堀田(佐倉)正恒−徳川義宣−義崇
幕末に西上する天狗党の水戸葵と幕軍の徳川宗家の葵紋を見間違えて、
幕軍の兵を捕縛したという出来事が大垣藩で起きた。
434 :
日本@名無史さん:03/01/04 19:45
>431
だれそれ?
紀州には剛なんていう人はいません。
435 :
日本@名無史さん:03/01/04 19:50
森田剛
436 :
日本@名無史さん:03/01/04 20:41
まじー、なんで鍋島なんて外様が、御三家継げたんだろう・・・ 摩訶不思議
437 :
日本@名無史さん:03/01/04 20:47
>>434 戦後、頼貞氏のあとに婿養子になった人らしい(のち離縁)。
>>436 戦後の養子だから、徳川一門にはこだわらなかったんだろう。
それに譜代の堀田家を経由している。
438 :
日本@名無史さん:03/01/04 20:48
>436
徳川幕府が崩壊したからです。
新政府は旧幕府の権威など否定したいだろうし・・・
439 :
日本@名無史さん:03/01/04 20:56
>>438 もっと下った時期の話です。
戦前に外様の蓮池鍋島家から譜代の佐倉堀田家に養子が入り、
戦後に堀田家から義宣氏が尾張徳川家に養子にいったんです。
明治の尾張家は親藩の越前松平家から養子をもらっています。
440 :
日本@名無史さん:03/01/04 20:56
お妃候補になってた徳川家の人も実は鍋島家の子孫とか??
441 :
日本@名無史さん:03/01/04 21:02
>440
尾張徳川義知と正子婦人(松平恒雄女)との間に生まれた三千子の婿になった
のです。>義宣
442 :
日本@名無史さん:03/01/04 21:08
おいおい 御三家筆頭の尾張家の当主が鍋島なのか
呆れるな
もし、将来、徳川宗家が絶えても、尾張家からは絶対に養子をとれんな
現尾張家当主はいかにも徳川でございという感じのホームページを作って
いるが、養子やったらもうちょっと遠慮せんとあかんがな
443 :
日本@名無史さん:03/01/04 21:10
>442
尾張家は江戸期から連続養子なんだから、別にいいんじゃないの?
>>442 鍋島出だろうが尾張党首は尾張党首。お前みたいな下郎とは違うから安心しろ。
445 :
日本@名無史さん:03/01/04 23:39
信長の子孫も養子だよね。(信雄系)
いまいちだよなぁ・・・
446 :
日本@名無史さん:03/01/05 00:15
皇室と徳川って相性が悪いと思う。
お子様がいない秩父宮、高松宮、常陸宮の妃殿下方は
みんな徳川一門の出。
常陸宮妃は津軽家だけど父君は尾張徳川(分家)からの養子。
447 :
日本@名無史さん:03/01/05 01:51
加藤清正の孫は徳川吉宗って本当なの?
448 :
日本@名無史さん:03/01/05 01:57
たしかに頼宣の正室は清正の娘だが、次の光貞は側室の子。
だから血はつながっていない。
449 :
日本@名無史さん:03/01/05 02:25
清正の娘って姫は産んだの?
450 :
日本@名無史さん:03/01/05 02:28
産んでない。頼宣の子はすべて妾腹。
451 :
日本@名無史さん:03/01/05 09:08
家斉・家慶の子供がその後どうなったか教えてくれ(全員)
452 :
日本@名無史さん:03/01/05 09:17
家斉の子で20歳以上まで生存し、子供を残した者はごく少数。
・徳川家慶(12代将軍)
・徳川斉順(清水→紀伊、14代家茂の父)
・徳川斉荘(田安→尾張、一橋昌丸の父)
・松平斉民(津山藩主、子孫現存)
・蜂須賀斉裕(徳島藩主)
家慶の子で成人したのは13代家定のみ。
453 :
日本@名無史さん:03/01/05 11:31
なんでだろう…
一般庶民の子だって山ほど生存してるのに
衛生状態とか、食うものとか最高のはずの将軍の子が育たないのは一体…
運動不足による不健康? 高貴な血ってのがよくない??
454 :
日本@名無史さん:03/01/05 11:49
家斉の子57人
うち5歳未満での死亡は敦之助を含めて32人
男子で成長したのは13人
452以外では
斉明:清水徳川
斉衆:因幡池田
斉温:尾張徳川
斉良:越智松平
斉彊:紀伊徳川
斉善:越前松平
斉省:川越松平
斉宣:明石松平
455 :
日本@名無史さん:03/01/05 12:39
>>454 しかも、彼らのほとんどが30歳を迎えずに、子のないまま没している。
456 :
日本@名無史さん:03/01/05 13:01
家斉の成長した女子の嫁ぎ先一覧
淑姫→尾張藩主・徳川斉朝室
峯姫→水戸藩主・徳川斉脩室
浅姫→尾張藩主・徳川斉承室
元姫→会津藩主・松平容衆室
文姫→高松藩主・松平頼胤室
盛姫→佐賀藩主・鍋島直正室
和姫→萩藩主・毛利斉広室
溶姫→金沢藩主・前田斉泰室
末姫→広島藩主・浅野斉粛室
喜代姫→姫路藩主・酒井忠学室
永姫→一橋斉位室
泰姫→岡山藩主・池田斉訓室
457 :
日本@名無史さん:03/01/05 13:12
家斉の男子で大政奉還後まで生存していた人物
松平確堂(斉民、前津山藩主)
蜂須賀斉裕(徳島藩主、慶応4年1月没)
女子は加賀の溶姫、芸州の末姫、姫路の喜代姫、一橋の永姫の4人
458 :
日本@名無史さん:03/01/05 15:41
やっぱり血が濃すぎるんでしょ。子種がないのは。
なんらかの遺伝だね。
459 :
日本@名無史さん:03/01/05 15:49
蜂須賀家はまだ家斉の血は残ってるの?
460 :
日本@名無史さん:03/01/05 16:04
>>459 家斉→斉裕→茂韶→正韶→正氏(断絶)
正氏さんが金遣いが荒くて身代もつぶしました。
461 :
日本@名無史さん:03/01/05 16:29
>>453 当時の化粧品が良くなかったという説を何かで読んだ記憶があるけど。
有毒な物質を含んだ白粉を塗りたくった乳母に育てられたのが原因とか。
462 :
日本@名無史さん:03/01/05 16:43
鉛毒だったかな
463 :
日本@名無史さん:03/01/05 16:49
俗説だろうけど…
宴会のとき皿を持ちかえろうとした蜂須賀家当主にむかって明治天皇が
「さすが蜂須賀小六(盗賊)の子孫だな」と言ったとか言わないとか…
将軍家の子あるいは孫にむかってそんなこと言うのは変だよなァ
464 :
日本@名無史さん:03/01/05 17:34
>>463 やっぱ、江戸時代の講釈がきいたのでは?
465 :
日本@名無史さん:03/01/06 01:31
健全なのは水戸家だけだ
466 :
日本@名無史さん:03/01/06 08:24
ずばり現在の御三家の「実の」先祖って誰なの…
尾張家 …
紀伊家 … 鍋島直茂
水戸家 … 徳川家康
467 :
日本@名無史さん:03/01/06 09:38
源為義・源義朝・平忠盛・徳川家康らの子供がほとんど成人したのと比べると
異常だな
468 :
日本@名無史さん:03/01/06 10:54
尾張家は家斉の時代にすでに藩祖の血を絶えています。
469 :
日本@名無史さん:03/01/06 11:56
尾張・紀伊は家斉の時代に荒らされた
470 :
日本@名無史さん:03/01/06 12:08
水戸家も家斉によって荒らされそうになった。
斉脩の跡継ぎを弟の敬三郎にするか、家斉の子を養子に貰うかで家中が割れた。
斉脩の正室(家斉の娘)や家老は家斉の子を推したんだけど、斉脩の遺言により
跡継ぎは弟の敬三郎に決まった。
敬三郎、後の「烈公」水戸斉昭である。
471 :
日本@名無史さん:03/01/06 12:20
紀州慶福こと14代将軍家茂の死因は、偏食による脚気。
脚気という病気は今ではあんまり聞かないけど、昔はこれで死ぬ人は結構多かった。
472 :
日本@名無史さん:03/01/06 12:25
家茂の遺骨を調査した写真見ると虫歯がひどかった。
奥歯なんて穴だらけ(まだ20歳そこそこなのに)・・・。
そういうのも影響してるかも。
473 :
日本@名無史さん:03/01/06 12:49
脚気ってどんな病気か分からんかったから、保健体育の時間に保険の先生に聞いたら、
『ひざを木槌で叩いても上がらなくなる病気です。』だってさ。
それは調べ方だっちゅうの、知らんかったら知らんと言え、ヴォケ。
474 :
日本@名無史さん:03/01/06 13:22
>>466 現在の御三家の「実の」先祖
尾張家・・・鍋島直茂
紀伊家・・・断絶(断絶前は徳川家康)
水戸家・・・徳川家康
驚きの一言です
スレ違いになるけど、他の大名家で妙なのってどこがあるの?
蜂須賀家が実は徳川家康の子孫ってのぐらい妙なやつ
476 :
日本@名無史さん:03/01/06 17:27
因州池田家が実は徳川慶喜の子孫だった!
津軽家が実は徳川家康の子孫だった!
黒田家が実は藤堂高虎の子孫だった!
477 :
日本@名無史さん:03/01/06 19:01
盛岡南部家が実は後陽成天皇の子孫だった!
478 :
日本@名無史さん:03/01/06 19:03
真田家が実は伊達政宗の子孫だった!
479 :
日本@名無史さん:03/01/06 20:38
近衛家は細川幽斎の子孫だった!
480 :
日本@名無史さん:03/01/06 21:10
女系も許してくれるなら、
鳥居元忠の曾孫だか玄孫が大石内蔵助良雄。
481 :
日本@名無史さん:03/01/07 18:26
482 :
日本@名無史さん:03/01/07 18:29
現鷹司家当主は松平家から養子
483 :
日本@名無史さん:03/01/07 18:29
麻生太郎の先祖が加納五郎左衛門というのは、案外知られていない。
吉田や大久保だけじゃないんだよ。
484 :
日本@名無史さん:03/01/07 18:38
現在の西園寺家は毛利家の子孫
485 :
日本@名無史さん:03/01/07 19:01
現在の天皇家は百済武寧王の子孫。
セワシ君はのび太の子孫。しかし、しずかちゃんの子孫かどうかは不明。
487 :
日本@名無史さん:03/01/07 19:07
セワシはジャイ子の子孫なんじゃないの
えっ...ど、ドラえも〜ん!!!
今どきのアイドルの先祖が気になる。モー娘。とか。
490 :
日本@名無史さん:03/01/07 19:33
高い確率で農民だな
加護の場合は(以下略
492 :
日本@名無史さん:03/01/07 23:51
部落
493 :
日本@名無史さん:03/01/08 00:01
芸能人は昔からみんなチョメチョメでしょ
494 :
日本@名無史さん:03/01/08 00:08
おまえら、みんなスレ違いじゃ。漫画板やモ娘。板へ逝け!!
>>463 ×皿
○葉巻
ちょっとメモ
越前松平家 松平忠直(越前福井67)
本多富正 越前府中3.9
本多成重 越前丸岡4 付家老
越後松平家 松平忠輝(越後高田60)
松平重勝 越後三条2 付家老
尾張徳川家 徳川義直(尾張名古屋62)
成瀬正成 下総・尾張・三河3.4 付家老
竹越正信 美濃今尾3 付家老
渡辺守綱 武蔵・近江・三河・尾張1.4
駿河徳川家 徳川頼宣(駿河府中50)
安藤直次 武蔵・遠江・近江1.3
水野重央 遠江浜松2.5 付家老
水戸徳川家 徳川頼房(常陸水戸25)
中山信吉 常盤松岡2.5 付家老
496 :
日本@名無史さん:03/01/08 12:35
加賀藩と肥前藩の万石クラスの家老をぜんぶ言える人いる?
497 :
日本@名無史さん:03/01/09 00:49
>>497 仙台藩の館主は?
}}}}}}}}}}}}}}}
499 :
日本@名無史さん:03/01/09 12:35
長州一門の吉川家は、ソレを凌駕する6万石。
500 :
日本@名無史さん:03/01/09 13:07
長州一門って?
分家ってこと?
家老じゃないじゃん
501 :
日本@名無史さん:03/01/09 14:42
502 :
日本@名無史さん:03/01/09 17:14
弟は弟なんだけどね。ちょっち変わりもん。
503 :
日本@名無史さん :03/01/09 19:19
>>457 盛姫→佐賀藩主・鍋島直正室
和姫→萩藩主・毛利斉広室
末姫→広島藩主・浅野斉粛室
喜代姫→姫路藩主・酒井忠学室
泰姫→岡山藩主・池田斉訓室
将軍家から嫁を貰いながら鳥羽伏見で将軍家に弓を引くなんてなんて恥じ知らす!
504 :
日本@名無史さん:03/01/10 01:15
>>503 溶姫が嫁いだ加賀藩も恥知らずだよ。
藩主・斉泰は最初佐幕派だったが、情勢が変わると勤皇派の息子・慶寧に
地位を譲り、幕府が倒れると溶姫を離縁しようとした。さすがに慶寧に
制止されたが。
505 :
日本@名無史さん:03/01/10 18:36
>>503 姫路藩自体は新政府に帰順したが、これは地理的条件から仕方ない。
当時老中だった藩主酒井忠惇は、慶喜とともに江戸に帰っているし、
元大老の前藩主忠績も江戸にいた。
506 :
日本@名無史さん:03/01/11 01:31
>>496 手持ち資料でわかるのはこれだけ。
★幕末の加賀藩(12家)
本多 5.0万石 男爵
長 3.3万石 男爵
横山 3.0万石 男爵
前田 1.8万石 男爵
奥村 1.7万石 男爵
村井 1.6万石 男爵
今枝 1.4万石 男爵
奥村 1.2万石 男爵
前田 1.1万石 男爵
斯波 1.0万石 男爵
※あと、華族になれず、士族どまりが2家あるらしい。
山崎氏と富田氏か?わからない。
★同じく幕末の佐賀藩(8家)
諫早氏 諫早2.6万石 男爵 (竜造寺一門)
多久氏 多久2.2万石 男爵 (竜造寺一門)
鍋島氏 武雄2.2万石 男爵 (後藤氏後裔、竜造寺系)
鍋島氏 須古 ?万石 士族 (竜造寺一門)
鍋島氏 白石2.0万石 男爵 (宗藩の親戚)
神代氏 川久保?万石 士族 (少弐資宗後裔)
村田氏 鳥栖 ?万石 士族 (神代の親類)
村田氏 久保田?万石 士族 (竜造寺高房弟の後裔)
507 :
日本@名無史さん:03/01/11 01:47
誰か497に答えてやってくれよ
仙台藩とか薩摩藩の知行割って結構気になるね。
まるでミニ幕府。
508 :
日本@名無史さん:03/01/11 02:33
吉川家は家老じゃない、岩国藩っつー長州藩の支藩ね
長州藩には長府藩や徳山藩などがあったのよ
>>508 そこが機能してたのは序盤だけだからなあ。
中盤以降はコテ叩きスレ→廃墟スレ化して、現在はマターリだけどあまり質問に
答えてくれそうな雰囲気はない。
>>509 でも、岩国藩として正式に認められたのは廃藩置県直前という罠。
萩藩+長府藩+徳山藩+清末藩=長州藩って感じ?
まるで合体ロボだな。
511 :
日本@名無史さん:03/01/11 07:53
支藩の独立性はどのくらいあったのだろう。御三家の話に戻すが、幕末に
御三家は幕府の役にはたっていないね。尾張は真っ先に新政府軍に参加する
し、紀伊も新政府軍に参加、慶喜の実家の水戸は尊皇攘夷に基づき幕府
にテロばかりやっていた。御三家の人々の中に幕府に対する反感があった
のだろうか。
>>510 岩国藩として正式に認められたと言うより
支藩ではなく独立した藩として認められたって事です
岩国藩は単独で参勤交代も行なってたけど、毛利宗家が許さなかった訳で…
一時期、徳山藩が独立しようとして、宗家によって取り潰された事もありました
513 :
日本@名無史さん:03/01/11 13:17
>>511 第二次征長の紀州藩はヘタレだったけど、付家老水野家の新宮兵は
そこそこ強かったらしい。林業で富裕だったので、装備が良かったのだろうか。
>512
新宮党には行朝の子孫は居ますか?
(^^)
仙台藩の家臣のこと、小生は詳しくないのだけど、以前調べた
リストを提供します。
データは複数の本をつき合わせて作りました。改易のコメント
あるものを除いて、時点は幕末です。序列は正しいと思うけれど、
石高や領地に古いものが混ざっているかも知れません。
誤りや虫食いについてのご指摘歓迎です。
城や要害はその旨明記しました。地名のみの所領は普通の在所です。
では、何回かに分けて掲載します。
席 家格 氏 所領 石高 備考
01 一門 石川 伊具郡角田要害 21,000
02 一門 伊達(成実系) 亘理郡亘理要害 23,800 支城:谷地小屋要害
03 一門 伊達(留守) 胆沢郡水沢要害 16,000
04 一門 伊達(亘理) 遠田郡涌谷要害 22,000
05 一門 伊達(白石) 登米郡寺池要害 21,000
06 一門 伊達(岩城) 江刺郡岩谷堂要害 5,000
07 一門 伊達(田手) 黒川郡宮床 8,000
08 一門 伊達 玉造郡岩出山要害 14,000
09 一門 伊達 柴田郡川崎要害 2,000? 綱村次男村和後裔
10 一門 白川(白河?) 栗原郡一迫真坂 1,000 義親、宗広など
11 一門 三沢 胆沢郡前沢 3,000?
12 一家 鮎貝 本吉郡松崎 1,000
13 一家 秋保
14 一家 柴田 柴田郡船岡(柴田)要害 3,000?
15 一家 小梁川 元禄期3100石
16 一家 塩森
17 一家 大条 亘理郡坂元 4,000
18 一家 泉田
19 一家 村田 桃生郡長井 1591年、村田から移封
20 一家 黒木 志田郡師山 3,000?
席 家格 氏 所領 石高 備考
21 一家 石母田 栗原郡高清水要害 6,700 1757年、宮崎から移封
22 一家 瀬上 桃生郡鹿股 2,000
23 一家 中村 栗原郡岩ヶ崎 5,000
24 一家 石川
25 一家 中目
26 一家 亘理 登米郡佐沼要害 5,000 1756年以前は津田氏
27 一家 梁川
28 一家 片倉 刈田郡白石城 17,200 城主。
29 準一家 猪苗代 胆沢郡西根永沢 5,000
30 準一家 天童 宮城郡八幡 1,500?
31 準一家 松前 栗原郡清滝 1,000?
32 準一家 芦名 登米郡小谷地 1710年当時1,500石
33 準一家 本宮
34 準一家 高泉 登米郡米谷 3,000
35 準一家 葛西 (桃生郡相野谷1000石? 1773年改易)
36 準一家 上遠野
37 準一家 保土原
38 準一家 福原 宮城郡高城 700
39 一族 大立目 1,000 桃生郡相野谷(1773年〜?)
40 一族 大町 胆沢郡金ヶ崎要害 2,500
41 一族 大塚
42 一族 大内 登米郡西郡 1,300
43 一族 西大条
44 一族 小原
45 一族 西大立目
46 一族 中島 江刺郡上口内要害 1,600
47 一族 宮内
48 一族 中島 伊具郡金山要害 2,000
49 一族 茂庭 志田郡松山 13,000
50 一族 遠藤
席 家格 氏 所領 石高 備考
51 一族 佐藤 伊具郡小斎 1,000
52 一族 畠中
53 一族 片平 柴田郡村田(1866年、加美郡谷地森1,000石より移封)
54 一族 下郡山 黒川郡大谷成田 300
55 一族 沼辺 江刺郡人首要害 1,000
56 一族 大町 宮城郡中野 500 1677年、着座から昇格
57 一族 高城 桃生郡小船越 100
58 一族 大松沢 600
59 一族 石母田 栗原郡宮沢村桜ノ目 1,000 一家・石母田の分家
60 一族 坂 磐井郡黄海 500
61 宿老 遠藤 栗原郡川口 3,000
62 宿老 但木 黒川郡吉岡 1,500
63 宿老 後藤 遠田郡不動堂要害 2,600
64 着座 只野 1,000?
65 着座 大条 伊具郡丸森 1,000 一家・大条の分家
66 着座 奥山 磐井郡藤沢
67 着座 奥山 加美郡小野田 1,060 吉岡→岩沼→村田を経由
68 着座 古内 名取郡岩沼要害
69 着座 古内 加美郡宮崎 3,300
70 着座 高野 江戸初期、光兼は刈田郡平沢1,000石
席 家格 氏 所領 石高 備考
71 着座 伊東 2,600 慶長期は桃生郡小野
72 着座 佐々 伊具郡丸森? 1,800 3,000石から減封
73 着座 富田 桃生郡小野 2,000
74 着座 長沼 加美郡中新田 1,500?
75 着座 布施 2,000?
76 着座 黒沢 桃生郡中津山 3,000
77 着座 芝多 加美郡谷地森(1684〜1866柴田郡村田2000石、大番組降格?)
78 着座 松岡
79 着座 石田 黒川郡大松沢 3,000
80 着座 松本 遠田郡休塚 1,400
81 着座 和田 宮城郡蒲生 1,600
82 着座 氏家 志田郡下中野目 2,000
83 着座 戸田
84 着座 和久 1,000? 1619年当時、栗原郡沼倉
85 着座 笠原
86 着座 大町
87 着座 川島 (黒川郡大松沢1000石を安永期に改易?)
88 着座 高屋
89 着座 猪苗代 政宗治世は500石
90 着座 錦織 300?
席 家格 氏 所領 石高 備考
91 着座 良覚院
92 着座 古田 2,500
93 着座 増田 1836年、着座昇格
94 着座 平賀
95 着座 真山 磐井郡東山下折壁 2,000
96 着座 山本
97 着座 石井
※上記表の内、準一家が2家途中絶家では?また、着座はあと4家あるはず?
※以下のの維新時の領主は不明。
・坂本要害
・平沢要害
・栗原郡宮沢要害(それ以前は、上郡山氏。為倫1300石の代に太刀上に降格)
※番外編:伊達騒動の原田甲斐(改易)は着座で1,000石。
以上です。
補足です。
02、08、28は男爵になっています。
ところで、家格や石高が高いからといって”要害”とは限らないようです。
また、石高も家格と必ずしも一致していません。茂庭が石高のわりに低位置
にいます。
522 :
日本@名無史さん:03/01/12 20:03
508て福祉版で有名なコロ基地?
ちがうよ。誰それ?
2chは歴史板をたまに見るくらい。福祉板なんて行ったこともないのだけど。
大失礼!煽りなのは522れす。
508さんのデータを一部補足してみました。その1は一門〜一家です。
席 家格 氏 所領 石高 備考
01 一門 石川 伊具郡角田要害 21,380
02 一門 伊達(成実系) 亘理郡亘理要害 23,853 支城:谷地小屋要害
03 一門 伊達(留守) 胆沢郡水沢要害 16,135
04 一門 伊達(亘理) 遠田郡涌谷要害 22,640
06 一門 伊達(岩城) 江刺郡岩谷堂要害 5,015
07 一門 伊達(田手) 黒川郡宮床 8,071
08 一門 伊達 玉造郡岩出山要害 14,643
09 一門 伊達 柴田郡川崎要害 2,000 綱村次男村和後裔
10 一門 白川(白河?) 栗原郡一迫真坂 1,022 義親、宗広など
11 一門 三沢 胆沢郡前沢 3,000
13 一家 秋保 名取郡長袋 1,000
15 一家 小梁川 江刺郡野手崎 800 元禄期3100石
16 一家 塩森 栗原郡若柳 238
18 一家 泉田 磐井郡薄衣 1,414
19 一家 村田 桃生郡長井 687 1591年、村田から移封
20 一家 黒木 栗原郡一迫照越 800
21 一家 石母田 栗原郡高清水要害 6,700 1757年、宮崎から移封
22 一家 瀬上 桃生郡鹿股 2,000
23 一家 中村 栗原郡岩ヶ崎 4,524
24 一家 石川 志田郡長尾 150
25 一家 中目 江刺郡上門岡 497
26 一家 亘理 登米郡佐沼要害 5,000 1756年以前は津田氏
27 一家 梁川 栗原郡鶯沢 300
28 一家 片倉 刈田郡白石城 18,000 城主。
508さんのデータを一部補足してみました。その2は准一家〜一族です。
席 家格 氏 所領 石高 備考
29 準一家 猪苗代 胆沢郡西根永沢 360
30 準一家 天童 宮城郡八幡 1,347
31 準一家 松前 栗原郡清水沢 1,700
32 準一家 芦名 栗原郡小谷地 1,500
33 準一家 本宮 文化8、不行跡で改易
34 準一家 高泉 登米郡米谷 2,700
35 準一家 葛西 寛政元改易、文化13平士再興50俵
36 準一家 上遠野 栗原郡一迫大川口 802
37 準一家 保土原 志田郡新沼 329
38 準一家 福原 宮城郡高城 1,000
39 一族 大立目 桃生郡飯野川 1,000
40 一族 大町 胆沢郡金ヶ崎要害 3,000
41 一族 大塚 磐井郡西永井 187
43 一族 西大条 桃生郡前谷地 569
44 一族 小原 宮城郡松森 500
45 一族 西大立目 磐井郡薄衣 171
46 一族 中島 江刺郡上口内要害 1,682
47 一族 宮内 宇多郡駒ヶ嶺 1,422
50 一族 遠藤 胆沢郡下衣川 600
52 一族 畠中 宮城郡中野 1,000
54 一族 下郡山 黒川郡大谷成田 305
56 一族 大町 宮城郡中野 509 1677年、着座から昇格
57 一族 高城 桃生郡小船越 163
58 一族 大松沢 黒川郡大松沢 615
508さんのデータを一部補足してみました。その3は宿老〜着座です。
席 家格 氏 所領 石高 備考
63 宿老 後藤 遠田郡不動堂要害 2,700
64 着座 只野 加美郡中新田 1,200
65 着座 大条 伊具郡尾山 1,000 一家・大条の分家
66 着座 奥山 磐井郡藤沢 1,813
67 着座 奥山 加美郡小野田 1,666 吉岡→岩沼→村田を経由
68 着座 古内 名取郡岩沼要害 7,042
70 着座 高野 刈田郡平沢要害 1,650
71 着座 伊東 桃生郡小野 700
72 着座 佐々 伊具郡丸森 1,800 3,000石から減封?
74 着座 長沼 栗原郡宮沢要害 1,500
75 着座 布施 本吉郡柳津 1,700
78 着座 松岡 刈田郡内親 1,000
79 着座 石田 黒川郡大松沢 1,500
82 着座 氏家 志田郡下中目 2,000
83 着座 戸田 黒川郡大衡村 500
84 着座 和久 栗原郡沼倉 307
85 着座 笠原 登米郡石森 1,113
86 着座 大町 栗原郡新田 637
88 着座 高屋 栗原郡平形 1,034
89 着座 猪苗代 京都在住 320
90 着座 錦織 宮城郡上谷刈 250
91 着座 良覚院 黒川郡北目 300
92 着座 古田 800
93 着座 増田 430 1836年、着座昇格
94 着座 平賀 磐井郡大原 2,000
95 着座 真山 磐井郡東山下折壁 2,000
96 着座 山本 300 慶邦母生家、文久3着座
97 着座 石井 (不明)
508さんのデータを一部補足してみました。最後は付記です。
当方の手持ちの資料では着座が28〜30と、38にはならないようです。
古田・増田・山本氏は在郷屋敷を持っていなかったようです。
着座猪苗代氏は、准一家の同族ですが連歌師です。京都に在住して近江領か
ら蔵米で支給されていたようです。
増田氏の幕末の当主は、後に宮城県初代議長となった歴治繁幸です。
石井家については、手持ちの資料では該当者が見当たりませんでした。
不明とされている要害主は下記のとおりです。
・坂本要害=坂元なので一家大条氏
・平沢要害と宮沢要害は着座の高野氏・長沼氏
資料:『私本 仙台藩士事典(増補版)』坂田啓
『仙台藩歴史事典』仙台郷土研究会
補足ありがとうございます。
97の石井氏は、「奥羽越列藩同盟」(星亮一 著、中公新書1235)20頁を
参照しました。同書では着座は34氏としております。38氏はそれ以前
の数かもしれません。
>>530 星亮一ですか・・・。信頼性今一ですねぇ。基本的には小説家だし、会津ス
レを見る限りではあまりあてにはならないような気がします。
幕末土壇場に着座に昇格したためにあまり取り上げられない増田・山本氏を
押さえている反面、途中で改易して家格下降した葛西・川島氏や断絶した本
宮氏を残したままにしているというケアミスもあるんですよね。
もしかしたら? と思えるのが毎年正月の連歌会の役を猪苗代氏と交代で勤
める連歌師の石井氏で、これまた京都在住で250石を近江領から支給されて
います。
ええと・・・
真田信繁子孫の「片倉」さんはないんですか?
>>532 途中片倉から真田に復して、幕末の兵学家喜平太幸歓を出します。
家格は召出です。
534 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:31
和久氏って宗是の子孫だよね?
535 :
日本@名無史さん:03/01/14 14:14
すれ違いの話題が続いているね
536 :
日本@名無史さん:03/01/14 19:24
伊達つながりで、紀州藩士の伊達家(陸奥宗光の実家)について教えて下さい。
537 :
日本@名無史さん:03/01/14 22:00
>536
激しく擦れ違い。
陸奥スレがあるから、そこでしろ。
538 :
日本@名無史さん:03/01/14 22:48
紀州藩家老の三浦氏は他の重臣のように在所があったのでしょうか?
それとも和歌山城内か江戸屋敷にずっと詰めていたのでしょうか?
(^^)
540 :
日本@名無史さん:03/01/16 14:17
御三家ってすごいね
541 :
日本@名無史さん:03/01/16 17:49
徳川義寛侍従長が一番ステキ
542 :
日本@名無史さん:03/01/17 00:54
徳川義親はどう?
543 :
日本@名無史さん:03/01/17 16:16
徳川宗家の現在の当主は、会津の松平容保の子孫で、容保は美濃高須からの養
子で、その祖父は水戸家からの養子。だから、家康の血を引いてはいるけど、
ずいぶん遠回わりしている。
544 :
日本@名無史さん:03/01/19 14:16
現在の当主って幻の16代家郷の子孫じゃないの?
どうなったかは全然知らないけど
そもそも当主(官位役職があるわけでもなかろうに)ってどうやって決めるの?
545 :
日本@名無史さん:03/01/19 14:25
>>544 現在の当主恒孝氏は、
>>543に書いてあるように水戸系の血筋です。
水戸徳川治保
↓
高須松平義和→松平義建
↓
会津松平容保→松平恒雄→松平一郎
↓
徳川恒孝(母が徳川家正女)
宗家17代家正(最後の貴族院議長)の嫡子家英が夭折したため、
外孫の恒孝氏が会津松平家から養子に入ったわけです。
それから「当主」というのは、現代はとくに決まりはないでしょうが、
その家の家名と祭祀を継いだ人と考えればいいでしょう。
547 :
日本@名無史さん:03/01/21 00:12
>>538 三浦の在所は貴志(現在の和歌山市内)。
548 :
日本@名無史さん:03/01/21 08:47
なるほど 父系は遠いが徳川だし、母系では17代の孫か
これは当時での最良の選択だな
これって誰が決めたんだ? 徳川一門・譜代が集まって会議かなんかで決めた
のかね?
それにしても、尾張家・紀州家の方はなんとかならなかったのか
549 :
日本@名無史さん:03/01/21 09:04
>>584 恒孝氏の宗家相続については、17代家正公爵の娘さんの著書(題名忘れた)の中でふれてます。
家正公爵には養子が恒孝氏の他、忠永氏(越前系松平氏)と言う方も居た模様。
584にプレッシャーがかかりました。
551 :
日本@名無史さん:03/01/21 12:08
恒孝氏は先月テレビ東京の番組に出ていましたね。日本郵船副社長を退任され、新しい
財団を設立されるようなことをおっしゃってました。会津松平家のお宝なんかも披露してました。
552 :
日本@名無史さん:03/01/21 16:52
>549
松平忠永氏は最後の宮内大臣・松平慶民子爵の倅です。
553 :
日本@名無史さん:03/01/21 22:43
松平忠永は徳川家英の死後、徳川宗家に養子に入ったが、
軍人であったからいつ命を落とすか分からないという理由で
離縁して、恒孝氏が18代目になった。
554 :
日本@名無史さん:03/01/22 00:16
555 :
日本@名無史さん:03/01/24 17:03
>>552 田安徳川斉匡→越前松平慶永→慶民→忠永
16代家達の父田安慶頼が慶永の弟だから、血縁の近さでは妥当だったな。
556 :
日本@名無史さん:03/01/24 17:10
テレビ朝日のコメンテーターはひどい。
オーストラリアの鯨のニュースはちゃかして報道して、
北朝鮮のドラマについては論評なしかよ。
なら、マスコミやめろよ。
オレのほうがまともに報道できるぜ。
CFはら抜き言葉のオンパレードだし。
英語の翻訳も朝鮮語の翻訳も字幕と言っていることがまったく違うし。
557 :
日本@名無史さん:03/01/24 23:52
>>554 大河ドラマ「八代将軍吉宗」で寺泉憲が演じてた役でしょうか。
たしか、ドラマでは頼雄という名だったけど、頼路から改名したのかな?
ドラマでは隠れキリシタンだから廃嫡されたということになってたけど、
あれはさすがにフィクションでしょうね。
559 :
日本@名無史さん:03/01/25 14:16
560 :
日本@名無史さん:03/01/26 10:02
宗直(頼致)には兄が3人います。
長男 頼路(豊後守) 元禄11年 卒
次男 頼廉 天和3年 卒
三男 頼雄(山城守) 宝永3年 廃嫡
この三人は正室の子供で、宗直は側室の子供です。
561 :
日本@名無史さん:03/01/26 11:59
尾張の藩祖義直は、息子と娘が各1人しかいない。
2人ともうまく成人して、男子は2代光友となり、女子は皇室へ嫁いだ。
下手すれば、義直1人で直系が終わっていたかもしれないわけで、なんか不自然。
562 :
日本@名無史さん:03/01/26 13:13
>>560 なるほど、頼路と頼雄は別人だったわけですね。
それにしても兄たちが死んだり廃嫡されたりしたために藩主になれた
という点では、宗直の幸運さはいとこの吉宗に似てますね。
563 :
日本@名無史さん:03/01/26 14:30
もしかしたら、正室がすでに死んでいて、宗直の母親が仕組んだことだとか言うことは
ありえないかな。
564 :
日本@名無史さん :03/01/26 23:55
尾張の吉通?は家来に
斬られたってほんとですか?
565 :
日本@名無史さん:03/01/27 00:35
>564
毒殺説なら聞いたことがあるぞ
566 :
日本@名無史さん:03/01/27 06:15
567 :
日本@名無史さん:03/01/27 20:46
>>560 頼雄も兄が死んだときは、ラッキー!って思ったのかな。
でも自分も通過して弟へ。しょんぼり。
宗直はラッキーだけど、六男の頼渡もラッキーだね。
ところで560さんは、頼路と頼廉の没年を何で調べたのでしょうか?
部屋住みのデータって徳川一門でも資料が少ないですよね。
>>567 徳川諸家系譜(全4巻)で調べました。
大きめの図書館に行けば大体あると思いますよ。
自分は神田の古本屋で買ってしまったけど・・・
569 :
日本@名無史さん:03/01/28 20:47
テレビで徳川恒孝氏の娘さんが出てたんだけど
なんかあんまり垢抜けてなかった。東京生まれなんだろうけど
田舎娘って感じ。世が世なら将軍家の姫君なんだろうけど。
不細工じゃないんだけどね。世が世ならこんな事書いた俺は打ち首もんだろうな
570 :
日本@名無史さん:03/01/28 21:19
571 :
日本@名無史さん:03/01/29 01:18
>560
徳川宗直には、他にもナゾの兄弟がいる。
恭綱・・・(庶長子?)通称主水。和歌山藩士渡辺氏養子
尚峯・・・三堀氏。
三堀ってなんだそりゃ。神君家康公の曾孫なのに結構扱いが悪いね。
572 :
日本@名無史さん:03/01/29 09:54
家康の息子でありながら他人扱いされた小笠原権之丞・松平民部というのは
実話か?
今となってはなんともいえないでしょ。
土井もいるし。
574 :
日本@名無史さん:03/01/29 18:24
>>568 以前思い込み厨の伊達遠江守家中がこの本を出典にしたら「思い込みだ」っ
て叩かれてたけど、信用するに足りる本なの?
575 :
日本@名無史さん:03/01/30 18:00
576 :
日本@名無史さん:03/01/30 18:01
吉宗が将軍に繰りあがったとき、紀伊藩は天領化するとか、当面空位にしておいて
次男あたりに継がせるといった選択肢はなかったんだろうか。
従兄弟なんかに譲っても・・・ なぁ・・・。
577 :
日本@名無史さん:03/01/30 18:05
紀伊を無くすと尾張が強くなる。
578 :
日本@名無史さん:03/01/30 20:40
御三卿をつくったのだから、吉宗の戦略的には成功したわけでしょ。
以後の将軍家は自分の子孫が独占したのだから。
一度水戸系の慶喜にいった宗家も、家達が取り戻したわけだし。
579 :
日本@名無史さん:03/01/30 21:17
>575
繰り上げで西条松平家を継げたからさ
580 :
日本@名無史さん:03/01/31 00:50
一番、我が世の春を謳歌したのは治済かな
やりたい砲台だよね
581 :
日本@名無史さん:03/02/04 14:30
御三家って、
伊達遠江守家中、嶽原、東郷平八郎, 888Getの「日本史板思い込み御三家」のことだろ?
この中で最強のデムパは誰だろ。 ご意見キボンヌ。
582 :
尾張大納言:03/02/04 21:21
伊達遠江守家中に一票
583 :
日本@名無史さん:03/02/04 21:55
>>582 いずれ劣らぬデムパ揃いだが、禿同。
他の二人の思い込みはネタっぽいが、ヤシの思い込みは真性っぽいからな。
ま、一番いいのは、三人とも回線切って首(以下略)
584 :
日本@名無史さん:03/02/04 22:42
>581
4人?
585 :
日本@名無史さん:03/02/04 23:14
586 :
日本@名無史さん:03/02/05 12:09
みなさん勘違いしているようです。
伊達遠江守家中が思込厨といわれる原因をつくってしまった人間としては、一言いっておきます。
彼のことを思い込みと指摘したのは、彼のひとつの意見に対してであって、全ての意見についてではありません。
便乗して、彼を全否定しようとするのは間違っています。
ご理解を賜りたいと思います。
587 :
日本@名無史さん:03/02/05 13:25
>>586 それは全部あなたの思い込みです。
・・・と煽ってみたいところですが、あなたが本当にこの件の原因を作った方なら
私も一緒に煽ったクチではありますが、申し上げておきます。
最早最初の指摘が何についてであったかは第三者では分かりません。彼のカキコの
どれが本当に思い込みだったのかも分からないほど全て思い込みであるということ
になっています。
そして、反証を挙げずに「それはあなたの思い込みです。指摘されたら相手に反証
を求めるのでなく、まず反省しろ」というフォーマットは既にあなたの手を離れて
煽りの一つの形としてこの板に定着しつつあります。
これは、最初にこうした(根拠を持っていても明示せずに指摘のみするという)対
応をあなたがなさったために、コテハン叩きの風潮と相乗して「(あなたの形だけ
真似して)根拠がなくても彼のカキコはまず叩く」という風潮が生まれたものと言
えるでしょう。
であれば、ここで「どの発言に対して、どんな根拠で指摘したのか」を明示してい
ただき、それを検証して行くのが正道ではないかと思います。
個人的には、ネタスレ以外は某HPの議論板のように出典明記を義務付けるのが良い
と思っているのですが。
588 :
日本@名無史さん:03/02/05 13:39
589 :
日本@名無史さん:03/02/05 13:46
伊達談義で盛り上がってるとこ悪いんですが、
今日、図書館で見た「画報 近世史」の五巻に徳川斉荘の木像?
の写真が載っていたんですが、その像が今どこにあるか解る人います?
590 :
日本@名無史さん:03/02/05 13:46
>>587 残念ながら、その手法なるものは私の考えたものではありません。
便乗した人間の行動が積み重なったものでしょう。
私の指摘に対して、即座に厨房呼ばわりその他の失礼な言動で答えてきたため、便乗犯を利用した面もありますが。
591 :
日本@名無史さん:03/02/05 14:13
>>590 で、早速
>>588みたいなのも出てくるわけです。
ところで、発端の話題は何ですか? それがわからなければ内容の検証どころか、
>私の指摘に対して、即座に厨房呼ばわりその他の失礼な言動で答えてきたため、
が事実かどうかすらわからんし。それに、その時には現状の叩きフォーマットとは
違って反証を挙げていたのですか?
それがなければ、そういう場合によっては失礼とも感じられる叩きはどこのスレで
も日常的に見られるし、甚だしいのは全人格否定するようなレスがついている場合
も多々あるようですが。
>便乗犯を利用した面もありますが。
それはアンチ、叩きを肯定するようなモノなので、あまり学問的な手法(学会的な
手法ではありますね)ではないのではと思いますがどうでしょう?
592 :
日本@名無史さん:03/02/05 14:14
>個人的には、ネタスレ以外は某HPの議論板のように出典明記を義務付けるのが良い
>と思っているのですが。
これどこ?
正直、読んでみたい
593 :
日本@名無史さん:03/02/05 14:21
>>592 大山格(大山巌の子孫)氏のHP(
ttp://www3.ocn.ne.jp/~zeon/)の、「歴史談
義専用掲示板V3」です。
注意書きはこんな風になっています。
>こちらでは歴史談義をおこなうため、ある書籍の著者名等個人名を掲げて批判する
>こともできますが、根拠を掲げてきちんと論証してください。単なる誹謗・中傷に
>過ぎない書き込みは予告なく削除させていただくことがあります。
594 :
日本@名無史さん:03/02/05 14:32
595 :
日本@名無史さん:03/02/05 15:37
水戸家だけ国主でもなく、大納言にもなれず、石高も25万石と他家の半分以下、
と明らかに待遇?が悪いのはなぜ?
秀忠二男の駿河大納言忠長が、御三家に入るはずだったから?
596 :
日本@名無史さん:03/02/05 15:40
尾張・・・ナッパ
紀州・・・ベジータ
水戸・・・ヤムチャ
597 :
日本@名無史さん:03/02/05 16:04
>>595 頼房が頼宣と同母だったから。
家康の後宮の視点では紀伊+水戸で一単位。
家康にしてみれば側室間のバランスをとる必要があったのだろう。
598 :
□□■週間盗撮ベストランキング■□□:03/02/05 16:16
599 :
日本@名無史さん:03/02/05 19:40
こういう同母云々ってのは家康独自の考え方?
ほんとかどうか知らんけど、秀忠の家督相続にも似たような話が。
秀忠→なんかあっても同母弟の忠吉がいる
秀康→同母弟がいない
ってことで秀忠に家督を継がせることになったとか。
まあ
>>597を元にした作り話だろうけど。
600 :
日本@名無史さん:03/02/05 20:53
尾張家実高100万石総兵力2万5000(尾張家の各家臣への軍役合計の値)
紀州家実高60万石総兵力1万5000
水戸家実高20万石総兵力5000
601 :
日本@名無史さん:03/02/05 21:01
>>597 レス、ありがとうございます。
でも、頼房は頼宣と同腹ですが、子の無い側室に養子に行ってますよね。
それに、尾張義直と紀伊頼宣は同格ですよね。すると頼房はでる幕無いですよね。
水戸家の位置づけがわかりません。
602 :
日本@名無史さん:03/02/05 22:12
>>601 このスレ最初から読むとわかると思うんだが・・・
要は、当初の御三家(将軍家・尾張家・紀伊家)が家光の時代に将軍家は別格となって、
まあ御三家自体の言葉の語呂はいいんで残そうやって時に、
あと一人残った家康の子供の水戸家でもいれとけやって具合に
適当に突っ込まれた家だから、立場なんつうものはもとからないのでは?
越前松平はゴタゴタ続きのときだったし。
それに、水戸家は分家が多いのでそれなりにバランスはとれてる気もするし。
いかん、完全にループしとる・・・他の衆、すまん。
603 :
日本@名無史さん:03/02/05 22:15
>>602 越前松平家は、このスレでも色々とゴタゴタしてるしな(w
604 :
日本@名無史さん:03/02/05 22:35
御三家の覚えかた、女のションベンのイメージで。
キシュー!みとみとみと、終わり、って教わったな。
605 :
日本@名無史さん:03/02/06 01:00
水戸家は途中までは松平ですよ皆さん。
606 :
日本@名無史さん:03/02/06 01:04
家康は息子たちに対し、立地に応じて必要と思われる石高を割り当てただけで
平等とかは重視していなかったのでは、と思う。
江戸の後背地である水戸領に親藩を置く必要は認めても、それを別に50万石
規模にする必要は認めなかったのだと思う。親藩でも近くて大きすぎる藩は
将軍を脅かしそうだし。
一方、尾張や駿河、越前は遠国の大藩が攻めてくるルートだから、対抗しう
る石高を与えようと思っただけではないか。
6男忠輝より9男義直の方が石高が多かった時期があったのもそれが理由
じゃないかなあ。
607 :
日本@名無史さん:03/02/06 02:36
昨日、図書館で見た「画報 近世史」の五巻に徳川斉荘の木像?
の写真が載っていたんですが、その像が今どこにあるか解る人います?
608 :
日本@名無史さん :03/02/06 10:30
>>595 ガイシュツですみませんが頼宣、頼房は同腹。水戸家は紀伊家の連枝という
感覚でしょ。官位での格差を支藩や江戸定府(いわゆる天下の副将軍ってやつですか)
でバランスをとったんじゃないですかね。お陰で物入りだったと思うけど。
>>606 >6男忠輝より9男義直の方が石高が多かった時期があったのも
伊達怖い
610 :
日本@名無史さん:03/02/06 11:41
611 :
日本@名無史さん:03/02/06 16:51
面白い記述があったので転載。
水戸の二代光圀は頼房の二男であった。
長男の頼重は父の跡を継がないで別に高松へ松平家を創立した。
光圀は二男たる自分が家を継いだことに非常な慚愧を感じ、
自分の嗣子には高松の松平を継がせ、水戸家三代には兄の子を迎えた。
これが綱条(つなえだ)である。
綱条の跡を継いだのも高松の頼豊の子だった。
そして同時に自分の子を高松へ養子にやるのである。
こうして水戸と高松とは、実に濃い血の繋がりと、本枝不離の密接な関係をもつ。
(その後も嗣子を養子に出し合う)
【山本周五郎『新潮記』】
612 :
日本@名無史さん:03/02/06 17:58
でも光圀の男孫はいないからね。
613 :
bloom:03/02/06 18:06
614 :
日本@名無史さん:03/02/06 19:23
>>611 養子に出し合う、といっても後継ぎがいない場合の融通で、本藩・支藩の
ふつうのやりとりだね。光圀・頼重のエピソード以外は特別なことは
ないとおもうよ。
615 :
日本@名無史さん:03/02/06 21:27
>>606 それは全部あなたの思い込みです。
伊達君、捨てハンだから何書いてもいいということじゃないだろ?
その思い込みを反省しる!
616 :
日本@名無史さん:03/02/07 02:34
松平頼儀公(?代目高松藩主)には五人の子がいた。
しかし跡目は水戸から入った。
その水戸からの養子の養子として、自分の三男である頼胤を入れた。
つまり自分の実の子を、世孫にした。
讃岐→水戸→讃岐
松平頼胤の叔父は徳川斉昭。
嫡(よつぎ)がいないから養子に迎えるのではなく、
養子を出し合うことが慣例化していたと思う。
『甲辰の事』で不仲になるまでは。
>>615 煽り屋にマジレスするのもなんだけど、伊達某とは別人なので念の為。
ついでに606レスは「〜思う」「〜ないか」を多用しているので小生の私見で
あることを明確にしている。煽り屋に非難される覚えはない。
606レスの意図は、家康がもしリアリストであれば、格式や兄弟のバランス
にはとらわれないのではないか、と考えて載せたものです。煽り屋は論外と
して、ご意見・反論いただければありがたいです。
618 :
日本@名無史さん:03/02/07 23:50
>>617 >「〜思う」「〜ないか」を多用しているので小生の私見であることを明確に
>している。
それを「思い込み」って言うんだよ(プ
>伊達某とは別人なので念の為。
なら、思い込みの人が増えたわけだ。なお始末におえないな。
619 :
日本@名無史さん:03/02/07 23:53
>>618 >それを「思い込み」って言うんだよ(プ
意味不明。解説されたし。
620 :
日本@名無史さん:03/02/07 23:56
>>619 思い込みを指摘されたら、まず自分の言動を反省するべきだ。そして自分で
調べろ。
何でも人に聞けばいいと思ってるのか?
>>620 それは全部あなたの思い込みです。
伊達ヲタ必死だな(W
623 :
日本@名無史さん:03/02/09 02:17
江戸後期、ひそかにイスパニアから武器を密輸して幕府転覆をはかる紀州徳川家。
この大陰謀に立ち向かう花田三兄弟の剣と恋の物語。
『風流太平記』山本周五郎
花田って三兄弟なの?
両横綱の他にもいるの?
625 :
日本@名無史さん:03/02/09 08:12
水戸徳川は江戸から見て鬼門の方向にあり「水戸家から将軍が出ると幕府は終わる」という言い伝えがあり、
それで水戸から将軍は出なかったとも言われる。
おかしな話しと思われる人も居るだろうが迷信深かった昔の話しだから到底、馬鹿にはできない。
黒衣の宰総・天海の風水術による江戸鎮護構想というのもあったしね。
皮肉にも「水戸家から将軍が出ると幕府が終わる」はものの見事に現実になってしまった。
626 :
日本@名無史さん:03/02/09 13:08
忠吉、信吉が長生きしていたら、どういう扱いになったんだろう。
627 :
日本@名無史さん:03/02/09 15:48
>>626 忠吉・・・秀忠の同母弟なので、仲が悪かったら有力なライバルとして家光
における忠長と同じ運命。仲が良かった場合、嫡子がいなければ
史実と同じ&いた場合は領地が減っても家は存続。
信吉・・・体が丈夫でなかったという逸話が残っているので想像がつきにく
い。死亡時に嫡子がいたら、これも何となく存続できたような。
628 :
日本@名無史さん:03/02/09 18:56
>>627 ありえんなあ、秀忠の温厚で控えめな性格からして、
同母弟の忠吉は大切にされたと思われる。
家光は性格が激しいからね。
629 :
(。・_・。):03/02/09 18:57
630 :
日本@名無史さん:03/02/09 19:09
>>628 >秀忠の温厚で控えめな性格からして、
それは前提としてあるわけですが、忠吉本人が忠輝みたいな行動に走ればど
うなるかわからないし、双方の取り巻きが対決姿勢を煽ることで関係に亀裂
が入らざるを得ない場合もあるでしょう。
その場合は、同母兄弟というのは最も有力な対抗馬になるわけで、政治的存
在である将軍として個人の感情とは別の動きをしなければならない場合も出
てきます。
631 :
日本@名無史さん:03/02/09 19:49
忠吉は生きてたら秀忠と言うより家康に排除される可能性が高いかもね。
632 :
日本@名無史さん:03/02/10 01:07
秀忠の温厚性格っていっても、忠長つぶしたのは秀忠だし。
必要とあれば容赦支那かったんとちゃう?
633 :
日本@名無史さん:03/02/10 01:35
保科正之はよく潰されなかったな。
634 :
日本@名無史さん:03/02/10 10:08
>>633 マジレスすまそだが保科正之は養子に出ていたので将軍にとって脅威ではな
かった。紀伊頼宣なんかだとなんかあれば本家を乗っ取られる危険性が
あったから警戒されたけど。
635 :
日本@名無史さん:03/02/10 12:01
>>627 忠吉:義直の尾張家はなかった。
信吉:頼宣の紀伊家、頼房の水戸家はなかった。
636 :
日本@名無史さん:03/02/10 19:40
>>633 御三家を牽制する意味でも家光が保科政之を厚遇し、会津藩を親藩屈指の大名にした。
政之もこれによく答え、家綱を補佐した。
637 :
日本@名無史さん:03/02/10 19:53
忠吉、信吉が生きていたら御三家ではなく御五家になってたかもね。
ただし、将軍は忠吉、信吉の家計から出ただろ。
御三家の三人は世良田二郎三郎の子だし。
│あ、どうもスイマセン、>638がお騒がせしました・・・
└───v───────────────
/⌒\ っ /\
/'⌒'ヽ \ っ/\ |
(●.●) )/ |: | すぐ連れて逝きますんで・・・
>冊/ ./ |: /
/⌒ ミミ \ 〆
/ / |::|λ| |
|√7ミ |::| ト、 |
|:/ V_ハ |
/| i | ∧|∧
и .i N /⌒ ヽ) >638
λヘ、| i .NV | | |
V\W ( 、 ∪
|| |
∪∪
640 :
日本@名無史さん:03/02/11 11:43
>>637 >御三家の三人は世良田二郎三郎の子だし。
デムパゆんゆん絶好調だね(w
641 :
日本@名無史さん:03/02/11 11:50
>>635 なんのこっちゃ。5人ともがそれぞれに家をたてるだけのことだろ。
結城秀康、松平忠輝とあせて御七家。
642 :
日本@名無史さん:03/02/11 12:00
家康が、秀忠・秀康・忠吉のうち、跡継ぎには誰が良いか家臣たちに
相談した逸話があるけど
仮に義直、頼宣、頼房、忠輝も同年代であり、信吉が生きていたら(?)
家康は誰を選んだだろうね?
>>642 資質が平均より上でバランスがとれているという点で、義直か頼房あたりじゃねーか
644 :
日本@名無史さん:03/02/11 12:48
御三家のうち尾張、水戸は現在も大都市として発展してるのに紀伊は・・・
646 :
日本@名無史さん:03/02/11 13:04
>>644 水戸市人口25万。
和歌山市人口38万。
人口だけ見ても和歌山の方が大きいな。
水戸市は周辺町村を合併して人口増やしてるから、人口以上に
和歌山市の方が大きいよ。
647 :
日本@名無史さん:03/02/11 13:08
和歌山も日本の十大都市の一つだった昔日の面影はないけどな。
648 :
日本@名無史さん:03/02/11 13:10
>和歌山も日本の十大都市の一つだった
pupu
649 :
日本@名無史さん:03/02/11 13:12
名古屋市218万人
650 :
日本@名無史さん:03/02/11 13:17
愛知県 704万人
茨城県 298万人
和歌山県 106万人
651 :
日本@名無史さん:03/02/11 13:37
金沢も大都市だったんだよ、面影ないけど
652 :
日本@名無史さん:03/02/11 13:41
石川県118万人
金沢市43万人
653 :
日本@名無史さん:03/02/11 14:09
水戸よりも和歌山市の方が都会だと思うが・・・・・・。
茨城県民の知能の低さがうかがえるなぁ。
654 :
日本@名無史さん:03/02/11 14:11
納豆とミカンの喧嘩か
655 :
日本@名無史さん:03/02/11 14:12
土佐・佐賀もかつては大都市ではないが、
一応大藩だったが
今では・・・・・・・・・・
656 :
日本@名無史さん:03/02/11 14:20
目糞鼻糞とはまさにこのこと
歴史の知識がないから普段は書きこめないけど、
地理ネタになると書き込むヴァカが多いな。
地理板へ逝けYO(藁
658 :
日本@名無史さん:03/02/11 19:04
>>651 金沢は三都(江戸、京都、大阪)と名古屋を併せて五大都市の一つだった。
659 :
日本@名無史さん:03/02/11 19:33
660 :
日本@名無史さん:03/02/11 19:56
661 :
日本@名無史さん:03/02/11 20:03
662 :
日本@名無史さん:03/02/11 20:10
加賀100万石は嘘らしい
664 :
日本@名無史さん:03/02/11 20:17
>>662 だねえ、正確には利長の代に実高で120万石、幕末には160万石はあったね。
もしかして、加賀の石高って意味、そりゃ前田家の領地の能登、越中も含んで加賀百万石というんだよ。
665 :
日本@名無史さん:03/02/11 20:21
666 :
日本@名無史さん:03/02/11 20:25
>>665 わかれ、読解力の無い奴だな。
加賀百万石は加賀一国の石高という意味ではなく前田家の領地全体を含んでの石高という事。
しかも実高は百万石より遥かに多かったという事だ。
667 :
日本@名無史さん:03/02/11 20:28
668 :
日本@名無史さん:03/02/11 20:44
>>667 単純に石高で言えば凄いだろう。
もっとも世継つぎをも出せる立場の親藩たる御三家と
外様でしかない前田家では
御三家の方が遥かに上だったわけだが。
669 :
日本@名無史さん:03/02/11 20:45
>>667 単純に石高で言えば凄いだろう。
もっとも世継ぎをも出せる立場の親藩たる御三家と
外様でしかない前田家では
御三家の方が遥かに上だったわけだが。
670 :
日本@名無史さん:03/02/11 20:48
>>667 薩摩だって御三家より多い77万石だよ。実高は半分くらいかもしれんが。
仙台も尾張家とほぼ同じ。
水戸家より石高の多い外様大名はけっこう多い。
671 :
日本@名無史さん:03/02/11 20:54
つーか石高って経済力と比例してるの?
672 :
日本@名無史さん:03/02/11 20:55
>>671 稲作に適してるかどうかで決まるんじゃない?>石高
673 :
日本@名無史さん:03/02/11 21:49
NO!
商業や米以外も換算してるよ・・・もっとも稲作が一番重要な要素ではあるが
674 :
日本@名無史さん:03/02/11 21:52
>>673 上の方に林業は入ってないって書いてあったよ
675 :
日本@名無史さん:03/02/11 23:55
水戸が石高直ししたのは、家来筋の彦根より下がいやだったのでは?
安政の大獄、桜田門外の変の伏線?
676 :
日本@名無史さん:03/02/12 00:24
677 :
日本@名無史さん:03/02/12 00:38
>>675 ちと考えすぎでは。というか現代的な発想に思う。
格式を決める要素として石高も無くは無いが、やはり主筋と譜代、
大廊下と溜の間詰め、三位と四位、という歴然とした差がある以上、
コンプレックスを持つ必要もないな。
678 :
日本@名無史さん:03/02/12 01:29
尾張藩石高61万9500石、実高100万石、官位従二位権大納言
紀州藩石高55万5000石、実高60万石、官位従二位権大納言
水戸藩石高35万石、実高25万石、官位従三位権中納言
加賀藩石高102万石、実高130万石、官位従三位参議加賀守(筑前守)
彦根藩石高35万石、実高35万石、官位正四位中将
水戸はあきらかに冷遇されているね。
譜代筆頭よりも石高が低いなんて。
680 :
日本@名無史さん:03/02/12 11:21
石高が高いより官位が高い方がいいんじゃないの?
それにしても会津中将様はく耐えたよ・・・
681 :
日本@名無史さん:03/02/12 11:37
経済力が無ければ虚勢も張れないのでは?
水戸家は常府で物入りのうえ、尾張家、紀伊家とも張り合わなければならなかったから、
御三家とはいえ、ものすごい貧乏藩だよね。
682 :
日本@名無史さん:03/02/12 12:34
>>681 >経済力が無ければ虚勢も張れないのでは?
意味不明
683 :
日本@名無史さん:03/02/12 14:22
684 :
日本@名無史さん:03/02/12 14:42
大河「徳川慶喜」では水戸藩士は皆、真っ黒の紋付き?を着ていたが、あれは
事実かね?
他藩ではどう?
会津の保科正之は三位を固辞した。
>>686 駿河大納言の没落を間近で見てるからねえ。
御三家に並ぶ三位は怖くてもらえなかったでしょう。
ある意味見事な保身術。
687 :
日本@名無史さん:03/02/13 23:31
水戸は冷遇かも知れないけれど、高松松平家は石高といい江戸城詰ノ間といい、
十分な厚遇と言えるね。
688 :
日本@名無史さん:03/02/14 01:34
会津の松平容保は三位まで昇進したんだっけ
689 :
日本@名無史さん:03/02/14 02:42
水戸は昔はショボイけど、現在は肛門様のおかげで、有名だなー
690 :
日本@名無史さん:03/02/14 22:00
水戸家や水戸連枝の出身者は結構いいところに養子に行ってる。尾張・紀伊より
もすごいよ。
江戸前期では本多忠国(姫路15万石)。中期は松平武元(老中館林6万石、府中より)
や松平定賢(白河11万石、守山より)。後期は会津松平容敬や斉昭の多くの子供
たち。
691 :
日本@名無史さん:03/02/15 21:01
紀伊家は将軍吉宗を出しているのだから、断然すごいでしょ。
将軍家、御三卿はもとより、家斉の息子だって元をただせば全部頼宣の血統。
692 :
日本@名無史さん :03/02/18 15:31
>>688 従三位 参議。保科正之が従三位を固辞した事から正之以上の官位は受けられないと再三
固辞したみたいだけどね。
693 :
日本@名無史さん:03/02/18 21:30
694 :
日本@名無史さん:03/02/20 04:33
おらおら、おまえら天下御三家の和歌山市をナメっとったらあきまへんで。
打ち首にしちゃうYO
695 :
日本@名無史さん:03/02/20 09:50
これだけあちこち養子をとりまくり&だしまくって血統がしっちゃかめっちゃかに
なっていたら親藩も譜代も外様もヘッタクレもないと思うが
外様だけど親は徳川御三家とか、親藩だけど外様出身とかごろごろいるわけで
696 :
日本@名無史さん:03/02/20 10:14
ほんとだね
現代人の感覚からすると、養子ってあまりないから、血統が全てって気がする
・先祖が家康の蜂須賀家なんて、蜂須賀家じゃないー。
・信長子孫(養子)って何のありがたみもないんじゃボケー
よっぽどの名家じゃないとわからん「お家」の感覚なのかなぁ
697 :
日本@名無史さん:03/02/20 10:17
「血」より「名」なんだよなぁ
「名」は家格、支配地、官位などと直結してきたから
698 :
日本@名無史さん:03/02/20 16:59
今年幕府誕生400年
699 :
日本@名無史さん:03/02/20 17:07
ところで、
幕末では尾張御三家は、何やってたの?
700 :
日本@名無史さん:03/02/20 17:09
ところで、
幕末では尾張御三家は、何やってたの?
>>700 水戸は、内ゲバ
紀州、尾張もほとんど様子見
702 :
日本@名無史さん:03/02/20 23:07
>>694 >おらおら、おまえら天下御三家の和歌山市をナメっとったらあきまへんで。
>打ち首にしちゃうYO
和歌山市って。。。あ〜、前の市長がタイホされた和歌山市ね。毒入りカレー
でおなじみの和歌山市ね。
703 :
日本@名無史さん:03/02/20 23:13
徳川茂承(もちつぐ)
従一位 中納言 伊予西条藩主松平(紀伊)頼学の七男 紀州藩としては、
仇敵一橋から将軍が出た以上、すみやかに幕府から朝廷よりスタンスを
シフトされたと解するのが判例・通説である。
704 :
日本@名無史さん:03/02/20 23:15
徳川昭武(あきたけ)
従一位 徳川斉昭の十八男 当初清水家を継ぎ清水昭武 水戸藩も、内ゲバ
が著しく、幕末の政局を握ることができず、その上明治維新後に至っては、
尊王の本山であるにもかかわらず、水戸県になれず、茨城県になるはめに。
705 :
ちょっとだけ専門家:03/02/20 23:25
御三家が重要視されたのは、吉宗まで。
以後、御三卿に取って代わられる。
706 :
日本@名無史さん:03/02/20 23:27
真の実力者は、大廊下詰の高司松平だな。
707 :
ちょっとだけ専門家:03/02/20 23:43
>>703 それって後知恵っぽく感じるなぁ。通説なの?いろいろ読んだけど初耳だなぁ。
709 :
日本@名無史さん:03/02/20 23:57
>>704 水戸県になれずなんて、いい加減なこと書くんじゃないよ全く。
廃藩置県で水戸藩は水戸県になってる。明治4年7月14日な。
同年11月13日、水戸県に宍戸県・笠間県・下館県・下妻県・松岡県を
併せて茨城県が出来てるんだ。県庁所在地は水戸。
更に明治8年、千葉県から4郡、解体された新治県から6郡を加え、
今の茨城県が出来た。県庁所在地はもちろん水戸。
710 :
日本@名無史さん:03/02/21 00:19
704のような俗説信じる人は、自称歴史好きでも結構いるんだね。
しかし703の変なコメントと同一人物とすると、ちょっとツメの甘い人なのか
と思ってしまう。
野口五郎は弱いよ。
712 :
日本@名無史さん:03/02/21 00:35
713 :
名無しさん:03/02/21 01:52
ところで南原幹雄の「御三家大乱」は面白いよ。
「生まれながらの将軍」を自負し抑圧的な態度をとる3代家光と
「神君家康の薫陶を受けた息子」である尾張侯義直が激しい睨み合い。
弟頼宣、頼房を誘って義直が江戸をのっとってしまうお話。
もちろんフィクションだけど、1634(寛永10)年に家光が重病に
なった際義直が大軍を率いて江戸に乗り込んだ記録があるから、
あながち空想とはいえないかも。
714 :
名無しさん:03/02/21 01:58
あと、このお話には義直の側近成瀬隼人正が主君に側室を
もたせるために悪戦苦闘するちょっとエッチな部分もあって
なかなか面白いですよ。ちなみに実際には、義直は側室は
一人しか持たなかったし子供も一男一女しかいなかったけど。
715 :
日本@名無史さん:03/02/21 02:02
よく考えてみると、尾張藩祖義直は1600年生まれ、
紀州藩祖頼宣は1602年生まれ、水戸藩祖頼房は1603年生まれ、
3代将軍家光は1604年生まれで4人とも同世代。
だけど家光は将軍、御三家の3人は家康の子で将軍の叔父だから
はりあってもしょうがなかったかもね。
716 :
日本@名無史さん:03/02/21 02:53
あと面白い情報。
尾張藩祖義直の母は京都の神官の娘で、家康に会う前に
すでに結婚して子供が1人いたが離婚して家康の元に来た。
この子供は竹腰正綱で、義直の異母兄。つまり尾張徳川家の
親戚ですね。
717 :
日本@名無史さん:03/02/21 03:02
>>716 せっかくのレスだけど、それって周知の情報だよ。このスレ見る人にとってはね。
718 :
日本@名無史さん:03/02/21 09:08
>>716 で、竹腰正綱が義直の付家老になったんでしょ。
719 :
日本@名無史さん:03/02/21 09:34
>>697 戦国時代、吉川・小早川家が毛利家の一部になったように、徳川家出身者が当主
である外様はほとんど一門扱いになったんじゃないのか?
忠臣蔵を見ても、吉良家は上杉家の支援を受けているし
720 :
日本@名無史さん:03/02/21 11:25
721 :
日本@名無史さん:03/02/21 16:14
>>718 失礼。竹腰山城守正信でした。義直より5歳上で3万石余りです。
でもなぜか成瀬隼人正より影が薄い気が・・・
722 :
日本@名無史さん:03/02/21 16:26
>>719 義直の奥さんは広島浅野家の娘だそうです。
でも35歳で死んでしまった上に、子供はいなかった。
もし子供がいたら、忠臣蔵のときピンチだった?
723 :
日本@名無史さん:03/02/21 21:02
水戸藩って区域はどこまであったんですか?
ちなみに尾張藩は愛知県尾張地方、岐阜県恵那郡・益田郡・揖斐郡、
長野県木曽郡、愛知県西加茂郡一部、滋賀県東浅井郡・高島郡一部、
旧摂津国の一部だそうです。尾張以外の土地は家臣を養うための
領地だったそうですけど。
724 :
日本@名無史さん:03/02/21 21:33
紀州藩と言ったり、紀伊藩と言ったりする違いはなんですか。
725 :
日本@名無史さん:03/02/21 23:04
>>724 ぶわっはっはっはっは そのギャグ面白い 最高
726 :
日本@名無史さん:03/02/22 01:26
三つ葉葵紋使用の家
大御所 前将軍 丸39葉三葉葵巴変 家康、秀忠、家斉の3人
将軍 徳川将軍 丸39葉三葉葵巴変 家康〜慶喜の15人
大納言(西丸) 将軍家後継者 丸39葉三葉葵巴変 秀忠、家光、家宣、家基、家慶、家定など
尾張家 徳川 丸63葉三葉葵巴 家督も同じ尾張葵、替えは六つ葵
紀伊家 徳川 丸39葉三葉葵巴 家督も同じ、替えは六つ葵
水戸家 徳川 丸51葉三葉葵巴 家督も同じ、替えは六つ葵
御三卿 徳川 丸39葉三葉葵巴変 田安、一橋、清水の3家
津山(越前)家 松平越後守 丸51葉三葉葵巴 家督も、六つ葵
福井(越前)家 松平越前守 丸51葉三葉葵巴 家督も、六つ葵
会津(保科)家 松平肥後守 丸57葉三葉河骨巴 家督も、六つ葵・角九曜
高松(水戸)家 水戸松平讃岐守 丸51葉三葉葵巴 家督も、六つ葵
松江(越前)家 越前松平出羽守 丸39葉三葉葵巴 家督も、六つ葵・三鐶39葉三葉葵巴
前橋(結城)家 越前松平大和守 丸39葉三葉葵巴 当主のみ許し、通常は松平桐
浜田(越智)家 越智松平右近将監 丸39葉三葉葵巴 当主のみ許し、通常は松平桐
高須(尾張)家 尾張松平摂津守 菊輪丸39葉三葉葵巴 当主のみ、替えは六つ葵
西条(紀伊)家 紀伊松平左京大夫 平隅切39葉三葉葵巴 当主のみ、替えは六つ葵
守山(水戸)家 水戸松平大学頭 平隅切39葉三葉葵巴 当主のみ、替えは六つ葵
府中(水戸)家 水戸松平播磨守 平隅切39葉三葉葵巴 当主のみ、替えは六つ葵
727 :
日本@名無史さん:03/02/22 01:32
>>726 これを見ると、
@大御所・将軍・西丸
A尾張
B紀伊・田安・一橋・清水・松江・前橋(川越)・越智・
C水戸・津山・福井・高松
D会津
E高須
F西条・守山・府中
に分類できるね。
>>701 >>703 どうもです。。
ところで、倒幕派は江戸に行くまで尾張藩を通らなかったの?
もし陸路で江戸まで行こうと思ったら、倒幕派は尾張を通る
ために尾張御三家の協力を得なければならないように思えるけど?
それとも、海路で江戸まで行ったの?
詳しくないので・・。
729 :
日本@名無史さん:03/02/22 15:36
>728
尾張藩は東海地方における倒幕派の代表です。
藩主・徳川慶勝は藩内の佐幕派を大量に抹殺した。
これを青松葉事件という。
730 :
日本@名無史さん:03/02/22 17:27
>>727>>726 Fは平隅切39葉三葉葵巴とひとくくりにしているけれど、
紀伊連枝の西条と水戸連枝の三家(守山・府中・宍戸←もれてるね)じゃ、
見た目がちがうよ。
西条はカドがとれた4角形で水戸系三家は8角形。
ところで、
>>423レスは漏れなのですが、疑問はいまもとけていません。
731 :
日本@名無史さん:03/02/22 18:42
732 :
松平陸奥守:03/02/22 20:10
江戸時代のおける、外様大藩の徳川養子ぶりを瞥見すると、よくわかろう。
因州鳥取藩主 池田因幡守慶徳(水戸藩からの養子)
阿波徳島藩主 蜂須賀阿波守斉裕(徳川家斉の子)
733 :
日本@名無史さん:03/02/22 23:17
>>732 確かに数は多かったが、いざという時誰も役に立たなかった。
備前岡山藩の池田茂政などは、養家を守って隠居した。
734 :
日本@名無史さん:03/02/22 23:20
>>728 御三家筆頭の尾張が討幕派ではどうにもならないな。それとも初代
の尊皇の教えが効いたかな。水戸といい尾張といい宗家よりも
天皇絶対だったのかな。
735 :
日本@名無史さん:03/02/22 23:23
>>729 御三家筆頭が討幕派ではどうにもならないな。初代の尊皇の教え
が効いたか。
736 :
日本@名無史さん:03/02/22 23:45
>徳川慶勝は藩内の佐幕派を大量に抹殺した。
佐幕派の佐ってなにをさすんでしょう?
737 :
日本@名無史さん:03/02/22 23:50
幕府を佐(たす)く。
738 :
日本@名無史さん:03/02/23 00:33
>>734 風向きをみたんでしょ。
あと、藩を動かすのは家老。藩主が徳川一門や出身でも、家の大事を優先する
藩の吏僚にとっては関係ないことだもんね。
739 :
日本@名無しさん:03/02/23 00:54
見事、当初の役割をはたしたんじゃないの
宗家が皆殺しになっても、家康の子孫は生き残る
740 :
日本@名無史さん:03/02/23 01:04
>>739 そうかも知れないが。。。しかし、家康はそんな消極的な理由で親藩を配置したのだろうか?
741 :
日本@名無しさん:03/02/23 01:17
>740
俗説だが、本来は水戸は天皇につく。他が幕府につくってことだったとか
実際には逆になるんだけど
742 :
日本@名無史さん:03/02/23 02:54
御三家のうち尾張と紀州は将軍の跡継ぎを出せる資格があったけど、
どうして水戸にはその権利はなかったんだろうか?
743 :
日本@名無史さん:03/02/23 09:02
旧御三家じゃなかったから。。。じゃないの?
744 :
日本@名無史さん:03/02/23 12:49
徳川慶勝は、
・第一次長州征伐で手抜き(逆賊長州に加担)
・実弟で世継ぎの茂徳とは藩内抗争
・実弟の会津容保や桑名定敬は見殺し同然
745 :
日本@名無史さん:03/02/23 13:29
>>738 今の感覚でいうと
会社が残ればオーナー社長の子孫でなくても
銀行が送り込んだ社長でもOKってこと?
746 :
日本@名無しさん:03/02/23 14:35
>742
741の理由じゃないの
747 :
日本@名無史さん:03/02/23 17:03
>>723 尾張藩の畿内の飛び地で家老志水領があり、これは志水氏が豊臣家臣の頃から
持っていたものだと何かに書いてあったな。どこかは知らないが。
748 :
日本@名無史さん:03/02/23 17:31
>>742 家康の遺言で、水戸はその補佐すべし
とあったからでは。
749 :
日本@名無史さん:03/02/23 17:56
家光は尾張義直や駿河忠長とは仲が悪かったが、
1歳違いの叔父水戸頼房は仲がよかったらしい。
(だったら水戸に加増してあげればいいのに)
750 :
日本@名無史さん:03/02/23 18:40
家光ほどの名君が個人の感情で加増をするはずがない。
そういう後世かつ私的な感情移入判断もどうかと・・・
ごめんなさい、冗談です。
753 :
日本@名無史さん:03/02/23 20:34
>>750 それは、全てあなたの思い込みです。
>>752と書いて逃げれば済むと思ってるのですか? 考えが甘いですよ、伊達君。
754 :
ちょっとだけ専門家:03/02/23 21:21
>>740 親藩を配置した理由?子供や親戚がたくさんいたからじゃないの?
8代将軍選びのときは、一応は三家の当主全員が対象ではなかったかと。
徳川実紀にも、吉宗自身が「門地をもって申せば尾張殿、年齢をもって
言えば水戸殿」と言ったという記述があるそうですし。
756 :
日本@名無史さん:03/02/23 23:53
三重県は紀州藩の領地ですか。
藤堂高虎の津や尾張系の桑名藩、伊賀上野、天領の伊勢があって、
三河みたいにいりくんでいますね。
757 :
日本@名無史さん:03/02/24 01:21
758 :
日本@名無史さん:03/02/24 05:16
紀伊藩55万5千石は日本一ぃいいいいいいい
フィクションとはいえ、徳川光圀はなぜあんな態度がデカイのですか?
主役だから
761 :
日本@名無史さん:03/02/24 11:37
>>755 それは将軍内定の吉宗が、他家をたてるためにとったパフォーマンスでしょう。
そして、一度紀伊家の血統となった将軍家(宗家)は、御三卿の創設などもあって、
徳川家正氏まで紀伊家の血統が続く。(除慶喜)
762 :
日本@名無史さん:03/02/24 16:35
しかし、いまの和歌山市は、御三家の頃の威光も、誇りも、そして自信も、政治家の
程度もあまりにもひくすぎでなさけななってくるわ。
和歌山城行ったらさみしかった・・・
764 :
日本@名無史さん:03/02/24 17:12
>>762 御三家は、鳥羽・伏見の時点ですでに威光も誇りも無くなってますね。
一応伯爵にはなってますが。
765 :
日本@名無史さん:03/02/24 17:17
>>764 御三家は侯爵でしょ。
水戸は勤皇が評価されて後から公爵に昇ったし。
766 :
日本@名無史さん:03/02/24 17:18
伯爵は御三強だな
767 :
日本@名無史さん:03/02/24 23:22
>763
ば、ばかやろうっ! てめえクノヤロう。アレがいいんじゃねえか。
プラモデルでいうところの「汚し」ってやつです。
ぴっかぴかのお城なんて、興醒めしちゃうじゃん。(大阪城の壁とかさ。伏見桃山キャスルランド等の)
768 :
日本@名無史さん:03/02/25 02:38
↑ボーイング767
769 :
日本@名無史さん:03/02/25 08:19
紀州といったら雑賀衆。
770 :
日本@名無史さん:03/02/25 10:35
紀州家の農民絞りは有名だったからね。
余りにひどい搾取やった地域は、資本集積がないから
明治期のマニュファクチャリングに乗り遅れた。
771 :
日本@名無史さん:03/02/25 12:36
和歌山といえば旅田卓宗・前市長。うさんくさいねぇと思ったら、
滋賀県で小学校の校舎壊しかけた町長の方がもっとあやしかった。
772 :
日本@名無史さん:03/02/25 14:04
滋賀県のあいつは首にすべきだな。
773 :
日本@名無史さん:03/02/25 15:22
>>729 尾張御三家が、佐幕派だったら明治維新はなかったのかな?
774 :
日本@名無史さん:03/02/25 16:57
>>773 仮に佐幕派としても、情勢不利になるとともに藩内少数派の恭順派に追いやられ、
東北か箱館あたりで逃げながら戦う羽目になっていただろう。
775 :
日本@名無史さん:03/02/25 22:29
尾張藩主徳川慶勝は実弟の会津藩主松平容保を裏切らなければ
ならなかったからちょっと悲惨だね。
776 :
日本@名無史さん:03/02/25 22:59
会津狂信者いるな。
ところで何を裏切ったんだ?尾張には尾張の動きがあって当然。
何で正当が会津になる?変な発想だな。
狂信者は言いすぎだが
裏切り云々っていう見方は確かに一方的だね。
778 :
日本@名無史さん:03/02/26 01:19
確かに尾張は尊皇という藩祖以来の家訓を守っただけ
だからね。よそが佐幕派になろうが討幕派になろうが知ったことかと
思っていただろう。別に尾張は会津なんか歯牙にもかけなかったからね。
779 :
日本@名無史さん:03/02/26 08:23
尾張家は将軍家と何度となく諍いを起こしてるからね。
それが幕府と距離を置く最大の原因なのでは?
780 :
bloom:03/02/26 08:35
781 :
日本@名無史さん:03/02/26 09:16
西郷輝彦だろ。
782 :
日本@名無史さん:03/02/26 16:18
朱子学の流行で、江戸中期以後は一部を除いて尊王が当たり前の考え方になった
から、尾張家だけが特に尊王だった訳ではない。思想的には普通だった。
なにしろ朱子学は幕府も奨励していた。別に危険思想ではない。
むしろ会津など東北諸藩には尊王が十分浸透していなかったことが驚き。
地理的条件や保守的な土地柄もあるだろうが、論語ばかり読んでいたのかな。
783 :
日本@名無史さん:03/02/26 17:20
>>782 いや、会津にも尊王は浸透していた。江戸後期に尊王教育を受けていない
武士はまずいなかっただろう。尊王を真面目に実行した会津藩士は御所警備で
抜群の信頼を光明天皇から得ている。
ただ尊王が勤王に変わるとまでは、会津は読めなかった。
勤王思想は、西日本の商人や豪農には既に広まっていた。名古屋は商業都市だから
当然藩士達も勤王は感じていただろう。
784 :
日本@名無史さん:03/02/26 21:32
尊皇と勤王、倒幕と討幕、
定義はきちんとせなならんですよね。
私は徳川の血を引くものです 正確には徳川宗家別家です 慶喜から数えると、慶喜の三男義久-慶光-慶朝-私になりますが歴史は全くだめでわかりませんゴ先祖様は立派なのに私は…
787 :
日本@名無史さん:03/02/26 22:14
徳川の将軍なんて物凄い子供つくってるから血を引く者なんて
大変な数でないのかい?
「物凄い子供」...オーメンのダミアンみたいなの?
789 :
日本@名無史さん:03/02/27 08:55
尾張徳川家略系図
徳川慶勝┯茂栄━義のり━慶勝(再承)━義禮(松平頼聰次男)━義親(松平慶永5男)
├義のり
└義恕(別家・男爵)┬義寛(侍従長)
└義孝(津軽家相続)
続き
義親─義知─正子
│
堀田正恒─義宣
790 :
日本@名無史さん:03/02/27 10:20
徳川慶勝の跡を継いだ茂栄は、慶勝の実弟(高須松平義建の子)で後に一橋家を
相続し一橋茂徳と名乗った。
その後は慶勝の子の義のりが継いだが義のりが夭折したため慶勝が再び尾張家
を相続。その後は高松松平家から養子(義禮)を迎え、さらにその後は松平春嶽の
5男・義親を養子に迎えた。
791 :
日本@名無史さん:03/02/28 19:35
尾張家の徳川義崇氏は義宣氏と正子夫人との間に生まれた子なんですか?
792 :
日本@名無史さん:03/03/03 19:13
皇太子お妃候補に出てなかったっけ?
尾張家
793 :
日本@名無史さん:03/03/03 19:21
徳川家は多産じゃないわな。
794 :
日本@名無史さん:03/03/03 20:22
もはや将軍職はないのだから、
「徳川家」はないんじゃないの?
795 :
日本@名無史さん:03/03/03 20:32
皇室の血も入っている
796 :
日本@名無史さん:03/03/04 01:34
>>792 田安家も候補に入ってたとかいないとか・・・
797 :
日本@名無史さん:03/03/05 01:07
徳川宗家の家紋って、今でも代替わりの都度、葉脈の数とか変えているのかな?
変えていないとしたら、誰のデザインで止まったのかな。
798 :
日本@名無史さん:03/03/05 09:48
最近の2ちゃんねるは凄いな
徳川のスレッドには徳川さんが書くし、公家スレッドには烏丸さんが書くし
あとは皇族のスレッドに皇族が登場すれば。。。。
799 :
日本@名無史さん:03/03/05 09:55
>>785 もし幕府が倒れなかったらあなたこそが19代目の征夷大将軍です
あなたが日本の国家元首です
ここは一つ幕府を再興しませんか?
800 :
日本@名無史さん:03/03/05 12:13
>799
19代目は家廣氏です。
801 :
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802 :
日本@名無史さん:03/03/05 13:58
>>800 幕府が倒れて宗家が田安亀之助のところにいったが、本来は慶喜家のもの
>799
幕府再興・・・
その方がしばらくの間は政治に期待できそうな感じがするよ。
804 :
日本@名無史さん:03/03/05 15:10
>>802 そうだね。
でも幕府が倒れそうじゃなく安泰であれば、15代将軍は田安亀之助だったかも。
でも田安亀之助、長じて家達公は慶喜公を嫌っていたらしい...
心情的には慶喜家が明治期も宗家としての立場で居て欲しかった。
805 :
日本@名無史さん:03/03/06 01:09
あのさ〜徳川記念財団に入りたいんだけど
806 :
日本@名無史さん:03/03/06 02:33
807 :
日本@名無史さん:03/03/07 21:40
松平容保って、どの時点で正三位・参議になったの?
(`Д´)
809 :
日本@名無史さん:03/03/08 23:34
正直で馬鹿を見るのは良く分かる・・・・・フッ・・これも運命さ
言うだけ言い捨てて・・・さっさと消えるぜ、アバヨ・・・
俺が言わねば誰が言う!・・・俺しかいない・・・・
810 :
日本@名無史さん:03/03/11 19:41
あげ
811 :
日本@名無史さん :03/03/12 11:26
>>807 孝明帝崩御のちょっと前だと思うよ。慶喜の将軍宣下の直後かもしれない。
再三固辞したらしいけどね。
正三位じゃなくて従三位。
812 :
日本@名無史さん:03/03/13 16:31
紀伊家の領地って、実際どこでコメがとれたんだろ。
紀ノ川流域や伊勢の一部を除いて、ほとんど山ばっかり。
尾張家は濃尾平野に、水戸家は関東平野に領地があるから、
納得いくのだが。
813 :
日本@名無史さん:03/03/13 17:30
>>812 地図をよく見なされ。
沿岸部に結構平野あるぞ。
814 :
日本@名無史さん:03/03/13 19:17
平野って和歌山市周辺だけちゃうの?
紀伊藩が大藩だったのは、伊勢の南部も所領だったからじゃないっけ?
あてずっぽうレスだけど
木材
じゃないの?
建築用材としての。
かなりの収入になったのではないかと。
だから
表高・・・高い
実高(米)低い
実収入・高い
でとんとん、なのかなぁ?と。
816 :
日本@名無史さん:03/03/16 01:56
あげー
817 :
日本@名無史さん:03/03/30 12:05
家斉の諱を貰った人一覧
尾張(斉朝、斉温、斉荘) 紀伊(斉順、斉彊) 水戸(斉脩、斉昭)
田安(斉匡、斉荘) 一橋(斉敦、斉礼、斉位) 清水(斉順、斉明、斉彊)
福井(斉承、斉善) 松江(斉恒、斉斎) 前橋(斉典、斉省) 明石(斉韶、斉宜)
津山(斉孝、斉民) 越智(斉厚、斉良) 浅野(斉賢、斉粛)
岡山池田(斉政、斉輝、斉成、斉敏) 鳥取池田(斉邦、斉稷、斉衆、斉訓)
上杉(斉定、斉憲) 黒田(斉隆、斉清、斉溥) 島津(斉宣、斉興、斉彬)
伊達(斉村、斉宗、斉義、斉邦) 鍋島(斉直、斉正) 二条(斉通、斉信、斉敬)
蜂須賀(斉昌、斉裕) 細川(斉茲、斉樹、斉護) 前田(斉敬、斉広、斉泰)
毛利(斉房、斉煕、斉元、斉広)
818 :
日本@名無史さん:03/03/30 12:40
tt>freedom
819 :
日本@名無史さん:03/03/31 15:51
820 :
日本@名無史さん:03/04/02 04:05
>>819 どうせ普段は「松平肥前守」とか「松平大膳大夫」とかしか呼んでないんだ
から実名がダブっても不都合はないのでは?
821 :
日本@名無史さん:03/04/03 17:49
家定の諱を貰った人一覧
松平定安
毛利定広
だけ?
>>821 逆に「定」が通字の久松松平で
伊予松山の「勝喜」「勝成」は「定」の字を 御遠慮したのかな?
823 :
日本@名無史さん:03/04/04 22:25
>>822 そのとおり
定穀→勝善(松山藩)、定猷→猷(桑名藩)
824 :
日本@名無史さん:03/04/04 22:56
>815
紀伊は吉野や木曽と並んで、良質な檜や杉の産地だよ。
825 :
日本@名無史さん:03/04/04 22:58
817で紹介されている名前は読み方がなかなか難しの。
江戸時代の殿様はたいていみんな読めないな。
827 :
日本@名無史さん:03/04/14 15:26
>822
そういや「家」が通字の大名家があったような。
>>827 大和高取藩の植村家ですね。
家康から家の諱を貰ったから、当主は家が通字になったのかも。
(^^)
へぇぇ 知らんかったので調べてみたよ
大和高取藩 植村家 譜代 帝鑑間 2万5千石
家政,家貞,家言,家敬,家包,家道,家久,
家利,家長,家教,家貴,家興,家保,家壷
植村家政は父家次の家督を継いだときには500石だったが、
秀忠の小姓となり、大坂の陣で1千石加増、
家光付きとなり、3千5百石加増、さらに4千石加増されて、9千石となっていた。
二代植村家貞は
弟の政春に3千石、三代家言は弟政明に1千石、正澄に500石を分知し、
本藩の石高は2万500石となるが、
九代目植村家長は老中となって、その功で4500石を加増され、もとの2万5千石に復した。
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
832 :
日本@名無史さん:03/04/20 02:36
>>831 十四代目藩主「家壺」って、なんか情けない名前だな。
読み方は「いえつぼ」でいいの?
833 :
日本@名無史さん:03/04/20 14:55
実際、家斉の子供貰って大名家継いだ所が多いのでは?だから幕末大名家は皆親戚w
835 :
日本@名無史さん :03/05/08 23:16
官位特格家がずいぶん増えたよね。少将が極官の家が中将になったり。
前田家はよう姫を貰って中納言になったでしょ。
葵の紋もそこらじゅうに許したし。
836 :
日本@名無史さん:03/05/08 23:27
尾張系の松平友著の読み方をどなたか教えてください。
837 :
日本@名無史さん:03/05/09 00:32
838 :
日本@名無史さん:03/05/09 12:10
>>837 ありがとうございました。長年疑問でした。
839 :
日本@名無史さん:03/05/09 12:18
野口ごろうジャン!やっぱ
842 :
日本@名無史さん:03/05/09 23:12
一橋慶寿と松平慶永の兄弟、読みは二人とも「よしなが」?
843 :
日本@名無史さん:03/05/10 00:42
>842
そうです。
844 :
日本@名無史さん:03/05/11 14:01
徳川斉英という人は、水戸の徳川斉正氏のご子息ですか?
>>842 一橋慶寿と松平慶永の兄弟、読みは二人とも「よしなが」?
一橋慶寿→ひとつばしよしひさ
難読殿様スレになった模様。。。
しかしあれ 名前って「読む」機会ってあったの?
官職名(中納言様,越後守様)
領地名(水戸様,館林様)
地位名(殿様)
で呼ぶほうが多かったと思うのですが。
書くことはあっても 読むことがあったかどうかが疑問。
あるいは「正しい」読み方というものが,ほんとうにあったのかどうか。
847 :
日本@名無史さん:03/05/11 22:04
848 :
日本@名無史さん:03/05/12 23:35
徳川義直の男系子孫は、全く残っていませんか?
849 :
日本@名無史さん:03/05/13 20:33
竹腰家では?
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
>>848 :徳川義直の男系子孫は、全く残っていませんか?
尾張8代藩主徳川宗勝の子に尾張藩付家老竹腰家を継いだ勝起がいます。
そしてその次男正紀が下総高岡1万石井上家を継いでいて
その血筋が、存続している筈ですが....
852 :
日本@名無史さん:03/05/23 21:28
>御三家ってどれ程強かったの?
バイブの水戸 ミカンの紀伊 天むすの尾張
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
854 :
日本@名無史さん:03/06/09 00:46
学生時代、近所の喫茶店のおやじさん徳川義広(寛?)さんとかっていう人だった。
泉谷しげるさんみたいな顔してた。
家康の面影はあまり無かった。(家康本人見たことないけども)
855 :
日本@名無史さん:03/06/09 01:17
856 :
日本@名無史さん:03/06/09 01:27
>>785 もう一つ言うなら、三男じゃなく、七男だよ。
まあ実質的には、男は、4人【厚(徳川宗家分家)・仲博(鳥取池田家)・慶久(徳川宗家別家)・誠(徳川宗家別家分家)】しか成人しなかったんだからあってるけどね。
よく家達公が慶喜公を嫌ってったって言うけど、
勿論最初から虫が好かないっていう場合もあるだろうけど、
この場合は後天的な教育?の成果じゃない?
6歳くらいでわけも分からず江戸から駿河に移されるし、
当然お付の人間なんかは慶喜公が戦いもせずに大政奉還したからだ
とか吹き込むだろうしさ。
確か家達公の後見だか養育見てた天璋院が慶喜嫌いだったて言うし。
余程のことがない限りそんな環境だったら慶喜公嫌いになるだろうね
もし、幕府が続いていたら普通に将軍家と田安家(それでももしかしたら16代?)
の関係だったんだろうな。
858 :
日本@名無史さん:03/06/16 00:35
もし斉昭が水戸藩主争いに負けて、譜代大名の家に養子に出されて、老中になって松平定信みたいな存在になってたらどうなったと思う?(たらればですみません。すごく気になったので…)
859 :
日本@名無史さん:03/06/16 01:31
江戸時代の紀州は、海上輸送の要衝だった。
港町で稼いでたんだよ。
水戸藩って基本的に譜代よりも外様に養子出す傾向がある。
水戸に殿あり、紀州に家来あり、尾張に大根あり
862 :
日本@名無史さん:03/06/20 21:29
壁に耳あり 庄司にメアリー
863 :
日本@名無史さん:03/06/22 03:52
>862
庄司メアリーってだれ?
864 :
日本@名無史さん:03/06/22 04:13
庄司永健の娘だっけ
865 :
日本@名無史さん:03/06/22 12:38
>>863 落乱できり丸が「障子に目あり」を間違えて「しょうじにメアリー」といった。
866 :
日本@名無史さん:03/06/24 16:39
>851
竹腰家での義直の血筋は絶えてしまったんですか?
867 :
日本@名無史さん:03/07/09 09:12
竹越家の家系図が見たいなぁ。
ググって見たけど出てこないよぅ。
869 :
日本@名無史さん:03/07/09 13:38
>>868 尾張家の連枝は3家あったが、幕末まで残ったのは美濃高須藩のみ。
しかも、血統的には水戸系になっていた。
竹腰家では幕末まで義直の血統が残っていたはず。
林董一氏に聞いてみれば?
870 :
日本@名無史さん:03/07/10 14:26
幕末に竹腰正旧が養子に入ってますね。三宅康直(三河田原藩)の三男です。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
873 :
日本@名無史さん:03/07/15 12:37
>>851にあるように、
義直の男系の子孫は竹腰ではなく、
井上氏の方に受け継がれている。
将来井上氏→尾張徳川氏に養子が入ったら、
義直の血統復活!!なのだが……夢か。
874 :
日本@名無史さん:03/07/15 21:19
875 :
日本@名無史さん:03/07/15 21:46
竹腰勝起(尾張藩家老)ー井上正紀(下総高岡藩)ー井上正瀧ー永井直哉(櫛羅藩、子爵)
↑こちらの永井家は続いてるんでしょうか?
876 :
日本@名無史さん:03/07/19 22:21
>>874 正順−正言=正鑑(南部利克男)−正誠
ですので義直の血統ではないです。
でも正言氏の実子で正方氏が分家になってるので、
まだ続いてるかもしれませんが不明です。
>>875 こちらは続いてるようです。
878 :
日本@名無史さん:03/07/20 12:36
>>876 874です。レスありがとうございました。
義直の男系の血統は、色々な家に飛び散りながら細々と続いているんですね。
頼宣、頼房の血統が幕末まで続いたのに、
義直家は九代で断絶して、何かかわいそうだなあと思っていたので、
ちょっと心暖まるような思いがしました。
879 :
日本@名無史さん:03/07/20 13:12
参勤交代で船で領地〜江戸まで行き来した方が安くあがらない?
宿場とか街道は発達しないだろうけど(w
880 :
日本@名無史さん:03/07/22 10:12
881 :
日本@名無史さん:03/07/22 11:31
大河ドラマ「吉宗」でナレーションの近松門左衛門が
御三家の説明をしていて、尾張紀州水戸に加え、加賀
も御三家と同列に扱われたと説明していましたが、それ
だけ、前田家は特別な家だったんですか?
また同じく、大河ドラマで「葵 徳川三代」で家康が
死ね間際、遺言を言う時「伊達、島津には松平の姓を
与えよ。」と言ってましたが実際、伊達島津家は松平
を名乗っていたのですか?
882 :
日本@名無史さん:03/07/22 11:55
>>881 そうです
ちなみに国主クラスの大体の外様大名は通常「松平〜」と名乗っていました。
違うのは熊本の細川くらいかな。
そうですか。しかし、細川家は源氏の名門家の一つだから、
室町時代には、えたいのしれぬ、松平一族の姓を名乗りたく
なかったのでしょうなあ。内心、徳川宗家が実力で征夷大将軍
になったのは、しかたないが源氏長者になったのは納得して
いないと思います。
884 :
日本@名無史さん:03/07/22 16:51
確かに島津も鎌倉以来の家系だから
松平を名乗らないのかね。
ありがたがってるのは、関ヶ原で
潰されないように頑張ってた小大名だけか?
>>884 ? 名乗っていた…というか名乗らされていたのでは?
外様国主 称松平11家
加賀前田、仙台伊達、薩摩島津、福岡黒田、安芸浅野
長門毛利、佐賀鍋島、因幡池田、備前池田、阿波蜂須賀、土佐山内
外様城主 称松平5家
富山前田、大聖寺前田、浅野分家、池田分家2
887 :
日本@名無史さん:03/07/23 03:14
鳥取池田は家康の孫ってことで松平姓もらってるからちょっと意味違うよね。
たしか奥平家昌の子の松平忠明もそうだよね。
888 :
日本@名無史さん:03/07/23 03:17
>>883 細川って豊臣姓もらってなかったっけ?
すくなくとも羽柴はもらってたよ。
チミたちは姓と氏の違いがわからんのかね。
890 :
日本@名無史さん:03/07/23 17:40
氏は確か、明治以前は藤氏(藤原)、橘氏、源氏、平氏に
加え秀吉に特別にあたえた豊臣氏の5つしかなかったと
思う。足利も徳川も朝廷や外交などの正式の場では、
源朝臣尊氏や源朝臣家康と名乗っていたらしいですね。
891 :
日本@名無史さん:03/07/23 18:09
>>890 毛利家は大江氏、前田家は菅原氏というように、氏はたくさんあります。
たったの5つなんてことはありません。
892 :
日本@名無史さん:03/07/23 18:11
>>888 羽柴は名字、豊臣は氏なのでそれぞれ次元の違うものです。
また、羽柴の名字をもらえるのは大名のなかでもごく一部ですが、
豊臣の氏は従五位下以上の官位を持つ武士すべてに与えられました。
893 :
日本@名無史さん:03/07/23 18:28
>>892 >豊臣の氏は従五位下以上の官位を持つ武士すべてに与えられました。
いくらなんでもそりゃないだろ。征朝のときに加藤清正がもらってないのに勝手に称して問題になったような。
894 :
日本@名無史さん:03/07/23 18:35
>>893 羽柴よりも豊臣のほうがもらえる範囲が広い(したがって格下)なのは事実。
895 :
日本@名無史さん:03/07/23 18:38
家康は、羽柴はもらったけど、豊臣はもらってなかったんじゃなかったっけ?
897 :
日本@名無史さん:03/07/23 18:42
羽柴もらったやつ、豊臣もらったやつ、なんももらってないやつと、いろいろいたはず。
>豊臣の氏は従五位下以上の官位を持つ武士すべてに与えられました。
ソースキボン。
898 :
日本@名無史さん:03/07/23 22:59
>>890 もう半可通は書くな
氏は1000以上ある
899 :
日本@名無史さん:03/07/23 23:35
御三家の話に戻りましょう。
900 :
日本@名無史さん:03/07/23 23:37
御三家の強さはだいたい天津飯ぐらい。
ピッコロには及ばない。
901 :
日本@名無史さん:03/07/23 23:46
どの板も夏厨で大繁盛
902 :
日本@名無史さん:03/07/23 23:50
スレタイ自体が厨丸出しだから仕方がない。
しかしスレタイのわりには良スレだったと
↓話題提供
当主を「おやかたさま」と呼べる家
御三家、越前松平、松江越前松平
島津、伊達、細川、毛利、佐竹、上杉、宗
(旗本) 山名、最上、横瀬
904 :
日本@名無史さん:03/07/25 18:48
>>887 松平忠明は家康の養子になっていたから、その子孫は家門扱い
池田家の場合とはこれまたちょっと違う罠。
906 :
日本@名無史さん:03/07/25 18:50
907 :
日本@名無史さん:03/07/25 20:30
>大河ドラマ「吉宗」でナレーションの近松門左衛門が
>御三家の説明をしていて、尾張紀州水戸に加え、加賀
>も御三家と同列に扱われた
正確には御三家に準じた扱いを受けたといってた
と記憶している。これは、正しい。
綱吉の時代に、越前松平家より家格が上になった。
例えば、正月元旦の将軍への拝謁の順番も
越前松平より先になり、御三家ー前田ー越前松平
の順になった、」
908 :
日本@名無史さん:03/07/25 20:33
細川は松平性を名乗るように言われたけど
辞退、実際には拒否している。
909 :
日本@名無史さん:03/07/25 20:43
綱吉は確か外様を老中にしようとしたこともあるそうだ。
綱吉は、将軍こそ絶対的支配者であり、どんな前例も、慣習も好き勝手に無視しようとした。
910 :
日本@名無史さん:03/07/25 20:44
911 :
日本@名無史さん:03/07/25 20:47
912 :
日本@名無史さん:03/07/26 03:43
>>910 >細川家の方が家格は上だから
うそはダメ
ところでおまえのいう「家格」って何?
実体があるの?
それとも脳内のおはなし?
913 :
日本@名無史さん:03/07/26 03:45
914 :
日本@名無史さん:03/07/26 13:50
>912
徳川家に対して”このコジキ坊主の子孫が!”
くらいは思ってただろうねぇ。
915 :
日本@名無史さん:03/07/26 14:25
やっぱ、橋幸夫が稼ぎ頭でないの?
916 :
日本@名無史さん:03/07/26 15:10
>>903 宗って何気に名家だよな。鎌倉時代からあるし。
その割にマイナーな存在。誰かいい藩主いたっけ?
>>881 あの場面は確か、紀伊綱教、前田綱紀が同席していた。
前後して上杉綱憲も出てきたので、ツナノリだらけで混乱した。
917 :
日本@名無史さん:03/07/26 16:07
900番代にもなって915みたいなヤツが現れると
なんだか嬉しいような情けないような
918 :
日本@名無史さん:03/07/26 19:02
強いかどうか知らんが幕末に異人斬りの事件がおきると
水戸浪士の仕業と決めつける風潮があった。
920 :
日本@名無史さん:03/07/27 01:14
(´-`).oO(からかってるんだろうなぁ 文章力磨けよ・・・)
922 :
日本@名無史さん:03/07/27 09:58
>>920 細川家は、天皇家の血を引くれっきとして源氏の一門。
徳川家は、元は三河の山奥で農家か、山賊だったからな。そのころは細川家は京で右京太夫だったし。
923 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:30
>>922 徳川家は、天皇家の血を引くれっきとして源氏の一門。
世良田氏の子孫。
924 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:34
>>922 >徳川家は、元は三河の山奥で農家か、山賊だったからな。
遊行僧じゃねえのか
>>923 >徳川家は、天皇家の血を引くれっきとして源氏の一門。
わかりました 私が悪うございました
925 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:35
>>923 日曜朝早くから釣りですか。今日はどんなのが釣れますかね。
梅雨も明けたことだし、潮の加減によっては意外な大物がかかりそうですね。
926 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:36
927 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:38
>>926 その高飛車な態度はなんですか?謝罪しなさい
928 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:49
流れ坊主が、泊まった先の農家(酒井家)の娘との間に子供をもうけ、で、隣の郷の農家(松平家)の娘との間に子供を設けた。
無論、自分は「天皇家の血を引くれっきとして源氏の一門。世良田氏の子孫」っていって手をつけたわけだが。どこまで本当の話か。
929 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:50
>流れ坊主が、泊まった先の農家(酒井家)の娘との間に子供をもうけ、で、隣の郷の農家(松平
>家)の娘との間に子供を設けた。
どこまで本当の話か。
930 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:56
>>929 大久保彦左衛門の暴露話だそうだ。
大久保家はそのころ将軍家に取り潰されていたから(小田原の本家がね)、その意趣返しだからあまり信用できない。
どの途、下克上の世の中で成りあがった家だからな、細川家にとっては、成上がりものめらが、って感じ。
931 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:57
細川藤孝だってある意味成り上がりだよ。
932 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:58
細川も発祥は三河。因縁は深い。
933 :
日本@名無史さん:03/07/27 11:00
細川親世も松平一族です。
934 :
日本@名無史さん:03/07/27 11:00
>>931,932
お互い、似たもの同志で反目しあうのだろうな。
細川藤孝は、噂だと足利将軍家の御落胤との噂はあるが。
935 :
日本@名無史さん:03/07/27 11:01
>>930 違いますよ
豊田市松平町に伝わる話ですよ
彦左衛門じゃありません
>>932 岡崎市細川町は豊田市との市境
936 :
日本@名無史さん:03/07/27 11:03
>935
>伝わる話ですよ
それだけ?
937 :
日本@名無史さん:03/07/27 11:03
もっとも、細川家は、徳川家寄りで、覚えめでたく、肥後55万石?をもらったからな。
考えてみれば、世渡り上手。太平記の時から始まり、足利→織田→豊臣→徳川と、少なくとも準主流で生き残ってきた。
938 :
日本@名無史さん:03/07/27 11:10
939 :
日本@名無史さん:03/07/27 11:59
>938
結局よくわからん
940 :
名無しさん@ピンキー:03/07/29 01:28
細川藤孝は、母が公家の菅原家出身、父が三渕家(室町将軍の一族)と
されているが将軍の御落胤説もある。
いずれにしても、室町将軍家の血筋ということになる。
養子先の細川家(管領家ではなく、その一族)も足利家の連枝、
ということで、少なくとも、戦国大名のようなどこかの馬の骨ではないこと
は確か。
941 :
日本@名無史さん:03/07/29 02:04
でも成り上がりだよ。
確かに浪人から大名になったので細川も成り上がりともいえるかもしれない。
でも、清和源氏であることは確かだし、公家の血統も引いているし、当代随一
の文化人だった。
要するに江戸時代の高家みたいなもので、対朝廷工作には不可欠だったし、
有職故実に通じていたから、作法指南役としても不可欠だったと思う。
でも、軍略も優れていたらしい。関ヶ原の際の籠城とか、
それに息子も勇猛だった。
943 :
日本@名無史さん:03/07/29 10:06
だからどうしたの?
話ずれてない?
944 :
日本@名無史さん:03/07/29 10:25
なんだ 細川って直系じゃなかったのか
(^^)
946 :
日本@名無史さん:03/08/04 00:10
947 :
日本@名無史さん:03/08/04 00:45
>944
細川管領家は滅亡済だった。
948 :
日本@名無史さん:03/08/04 00:49
>941
そしたら、小笠原も諏訪も井伊も成り上がり?
私は名家だと思うが・・・
949 :
日本@名無史さん:03/08/04 04:27
>>947 滅亡済ていうか、細川藤孝が頭角を現した頃には、管領家当主の昭元も
信長の家臣として、目立たぬ立場ではあったが健在だったはず。たしか
信長の妹を妻に迎えてた。
950 :
日本@名無史さん:03/08/04 04:36
管領家当主っても天狗親父のせいで、本当の当主は誰?状態
951 :
日本@名無史さん:03/08/04 11:44
細川信良の子は秀吉に仕えているよ。
御三家の話題にしろよ。
スレが終わっちゃうだろ。
953 :
日本@名無史さん:03/08/04 22:19
>>952 西城秀樹のところに、野口ゴロウがお見舞いにいったそうだな。
955 :
日本@名無史さん:03/08/05 23:41
>954
高国
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
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959 :
日本@名無史さん:03/08/11 10:18
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
961 :
日本@名無史さん:03/08/28 21:19
西条ローラ
962 :
日本@名無史さん:03/09/05 20:55
963 :
日本@名無史さん:03/09/07 12:57
>>940 藤孝の細川家はいわゆる和泉(守護家)細川氏。
元常の代に三好の台頭で勝龍寺城主に没落。
元常に子はいないが、弟の晴員が三淵氏を継いでいたので、その次男の藤孝を養子とした。
964 :
日本@名無史さん:03/09/07 13:27
>963
藤孝の実父は足利義晴じゃなかった?
965 :
日本@名無史さん:03/09/07 13:56
>>964 落胤となってるけど、確証はないということ。系譜的には
>>963となる。
(江戸幕府的に言えば「大奥」のなかだし真相は闇の中)
そろそろスレの結論をだそう。
ズバリ「御三家は弱かった」
200年以上ただ威張っていただけで、肝心の幕末にはなんの役にも立たなかった。
むしろ御三家が官軍になびいたことで、諸藩は我も我もと官軍に味方した。
967 :
日本@名無史さん:03/09/10 22:15
966 は 「弱かった」と結論しながら
諸藩への影響力の強さを物語ってるのは なんでだろう
水戸藩って幕末暴れ捲くりで、大老を斬ったり、天狗党が幕府軍を夜襲や奇襲で負かしたりしたのは966は知らないと見える。
969 :
日本@名無史さん:03/09/11 19:27
政治的強弱と軍事的強弱も別物だろうし…。
>>968 そのエネルギーが、内ゲバによる自滅の方向にしか向かなかったという点では三百諸侯屈
指のバカさ加減だったりする。
旗本兵の方が明かに弱い。紀州は征長で旗本が逃げ捲くりの中で善戦しているらしいし、
水戸は旗本兵を下妻で夜襲をかけ破っている。
972 :
日本@名無史さん:03/09/13 09:50
実力は別として、御三家の中で尾張が一番弱い。
フィクションとはいえ、武士が滅んで100年以上たっても、紀伊と水戸はドラマの世界で語りつがれたが、尾張にはない。
吉宗や光圀の影響で和歌山・水戸に行く観光客はいても名古屋にはない。
(宗春や慶勝の単発ドラマはあったが)
973 :
日本@名無史さん:03/09/16 01:26
次のスレでは御三卿も希望。
974 :
日本@名無史さん:03/09/16 17:05
御三卿は将軍の家族扱いで大名では無く、血縁関係も滅茶苦茶。
定察亡き後の田安や、重好亡き後の清水など、当主不在で無いも同然。
弱い、弱すぎる。
975 :
日本@名無史さん:03/09/16 20:42
徳川家広−金之助=慶尚−覚忍(田畑)
976 :
日本@名無史さん:03/09/23 09:12
新スレ立てる元気もないということは、家康の息子スレと強制統合か?
家基スレと統合しろ
附家老スレと統合でいいじゃん。
979 :
日本@名無史さん:03/09/24 23:06
>>974 治察だろ。潰れかかってるスレだが何となく上げてみる。
980 :
日本@名無史さん:03/09/25 02:06
今日(正確には昨日)テレビ東京で再放送してた三船敏郎主演の「江戸の鷹」
で、田沼時代の田安と一橋の暗闘をもとにした話が放映されてた。
一橋家家老だった田沼の弟が、田安の家老の放った刺客に暗殺されたことに
なってた。
981 :
日本@名無史さん:03/09/26 07:28
江戸城の清水門はなんか異常に草深かった
っていうか雑草ぼうぼうだった
なんで清水だけ……
982 :
日本@名無史さん:03/09/26 10:31
983 :
日本@名無史さん:03/09/26 14:40
>>981 一橋門なんて現存じないじゃないか。
田安門は立派だけど。
984 :
日本@名無史さん:
西武武蔵野線の沿線にはいまだにイタチが出るって本当?