武田勝頼 VS 穴山信君

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952日本@名無史さん:02/12/07 03:59
>山田信有が郡内の三十六の寺社に奉納する刀剣を作るのに
>小田原の刀匠「元近」を呼び寄せたなんて話は有名だし、

これは半独立には関係ないですね。

953日本@名無史さん:02/12/07 04:01
俺としては小山田は信玄の葬儀の話から家臣の中で一番手だと思う。
954日本@名無史さん:02/12/07 04:05
小山田の場合、特権の代わりに加増はされてないという事はありますか?
955日本@名無史さん:02/12/07 04:06
>>952
天文17年のことだから、まだ北条とは敵対中。
そんな時に北条家のお膝元から刀鍛冶呼んで領内のイベントに
使ってるのが、普通の家臣にできるか?っちゅうこっちゃ。
956日本@名無史さん:02/12/07 04:08
自分の領地を持っている人が誰かの家臣になった時はみんな信茂タイプ゜じゃないでしょうか?
ある金額なり米を納めれば従来とおりにすると。
だから、高遠なんかは勝頼の時よりも盛信の時の方が領民にとっては良かったそうです。
957日本@名無史さん:02/12/07 04:09
ちなみに郡内枡の導入は天文11年であるという……
958日本@名無史さん:02/12/07 04:12
>>956
信玄が度量衡統一すると言ってるのに、自分だけ従わないというのは
普通の国人領主にゃ無理だろ。
実際他の地域じゃ甲州枡で統一してんだから。

高遠は伊那の行政の中心であり、高遠城自体は武田家の直轄だろ。
そこに城代(行政官)として勝頼なり信廉なり盛信なりが入ったわけで。
959日本@名無史さん:02/12/07 04:15
それはわかりますが、武田家が税率を変えたということですか?
960日本@名無史さん:02/12/07 04:15
>>956
すいません、
前半部分の

>自分の領地を持っている人が誰かの家臣になった時はみんな信茂タイプ゜じゃないでしょうか?
>ある金額なり米を納めれば従来とおりにすると。

と、後半部分の

>だから、高遠なんかは勝頼の時よりも盛信の時の方が領民にとっては良かったそうです。

のつながりがイマイチよく飲み込めないんですが。
961日本@名無史さん:02/12/07 04:16
>>959
なぜそうなるのでしょうか?
962日本@名無史さん:02/12/07 04:21
甲州枡と郡内枡はどれくらい大きさが違うのですか?
963日本@名無史さん:02/12/07 04:24
>>962
わからん。
964日本@名無史さん:02/12/07 04:35
高遠で評判悪かったのは信廉でしょ。
965日本@名無史さん:02/12/07 04:43
どこにも載ってないよ。大きさは。
966日本@名無史さん:02/12/07 04:47
>>965
検索の帝王さんでも駄目ですか?
967日本@名無史さん:02/12/07 04:50
武田の場合、郡代と言って一定の領域支配権を委譲されていました。

郡代は小山田、穴山、木曾、伊那の武田勝頼、仁科の仁科盛信などです。

968日本@名無史さん:02/12/07 04:54
>>967
いや、郡代という役職があったわけではないぞ。
実質的にそう呼べる役割を果たした家臣がいるだけで。
969日本@名無史さん:02/12/07 05:01
そーいえば、設楽ヶ原が信長公記に載ってるって言ってた人はどこいったんだろ?
970日本@名無史さん:02/12/07 05:13
私も、領国支配に関して、枡の話は重要だと思う。
甲州枡と郡内枡の違いや郡内枡の出現要因を944,948,958の皆さんもご存知ないのですか?
単に参考書に書いてあることの右から左に流しているだけなんですか?
971日本@名無史さん:02/12/07 05:13
板垣が諏訪の郡代だったと言うのも作り話なの?
972日本@名無史さん:02/12/07 05:15
>>969

訳した奴が勝手に作ったんだろ。
973日本@名無史さん:02/12/07 05:17
>970

同感です。
974日本@名無史さん:02/12/07 05:19
>>971
武田氏の文書に郡代という役職は登場しないが、板垣は事実上、
諏訪を任されていたのでまあそう呼んでも問題はないのでは?
975日本@名無史さん:02/12/07 05:21
>>970
人に調べが足りないとか言うぐらいなら自分で調べてから大口叩けよ。
976日本@名無史さん:02/12/07 05:21
江戸時代の郡代と同じ役割だから郡代と表現してるだけなんですかね?
977日本@名無史さん:02/12/07 05:22
>>972
と言うことは訳した人の丸写ししてたって事ですか?
角川のには書いてないし、どこの出版本なんでしょうかね?
978日本@名無史さん:02/12/07 05:26
>>976
江戸時代以前から使われてると思うよ。守護代なんかの意味だったかで。
979日本@名無史さん:02/12/07 05:26
譜代家老衆とか○○先方衆は当時の言葉ですか?
国人領主はいまの表現ですか?
980日本@名無史さん:02/12/07 05:29
>>977

786 :日本@名無史さん :02/12/06 03:30
>>783
ああ、あの現代語訳のサイトを見たのねw
原文では「彼(かの)あるみ原は」だから。
981日本@名無史さん:02/12/07 05:30
>>970>>975
甲州枡は三升もある大きな枡だったってのはわかるけど
郡内枡の大きさはわからんね

ま、でも存在したのは証明されてる訳だから
982日本@名無史さん:02/12/07 05:33
http://www.mfi.or.jp/yusuke/ycb/htm/info.htm

ここですね。
でも甲州特有の「甲州枡(郡内では郡内枡)」などの国中だけの特権が武田の時代から続いているのである。
という事は郡内の方が重税だったんでしょうか?
983日本@名無史さん:02/12/07 05:38
>>982
重税かどうかは枡の大きさがわからない事には何もいえません
984日本@名無史さん:02/12/07 05:46
でも郡内よりいい境遇だから「特権」なんでしょ。
985日本@名無史さん:02/12/07 05:49
>>975
以前から探してるけど、郡内枡の大きさがわからないんですよ。いかにもご存知のようなレスだったので
お尋ねしてみただけです。
986日本@名無史さん:02/12/07 05:49
>>984
江戸時代、他の国じゃ統一した枡をとっくに使ってたのに、
甲斐の人間は甲州枡を使うことを要求し、特例として認められた。
だから特権。

郡内枡はそもそも減税のために小山田信有が考案したと聞いているが。
987日本@名無史さん:02/12/07 05:49
>>985
郡内逝けYO!
988日本@名無史さん:02/12/07 05:51
>>984
どこをどう読んだら、そういう解釈になるか謎
989日本@名無史さん:02/12/07 05:52
次スレどうすんべ。
つーかスレタイ変えるべきやな。
990日本@名無史さん:02/12/07 05:52
>>986
負担軽減のためなら小ぶりですね。あと、出典がわかればご教示いただけませんか。
991日本@名無史さん:02/12/07 06:02
この時期になると広域な領国を支配するために、本領甲斐や占領地内で一定の地域支配を委任した
支城主領が確認されている。確実な成果の出ているものとしては、甲斐国内での河内領から江尻領に
およぶ穴山氏、都留郡内領の小山田氏があり、信濃では木曽領の木曽氏、高遠領の武田勝頼・
信廉、仁科領の仁科盛信などの場合があり、今後の検討を要するものとして信濃小諸領の武田信豊、
駿河葛山領での葛山信貞があげられる
地域に根ざした本領主がそのまま旧城と旧領とを安堵されて城主として居続けた場合(在城主)と、
もう一つは武田氏に接収後に新たな城番主として派遣された城主とである。後者の場合は、城代以上
に変動が多く、また相番制や兼任制などがあって、一層複雑な様相を呈している。  

まず支城主として甲斐郡内領主であった小山田信茂を取り上げる。信茂が家督を継いだと思われる
永禄九年(一五六六)から、滅亡した天正十年(一五八二)三月までに外交文書もふくめて発給した
文書は、現在までに四六点が確認されている。またその時期に武田氏が小山田氏および
郡内領に発給した文書も三七点が確認される。ここでの特徴的な点を列記しておくと、まず、
1,小山田氏領とされる都留郡内での武田氏発給文書も小山田氏に匹敵する数量が残っており、
特定事項に関しては武田氏の直轄的支配がおこなわれていた。
2.小山田氏宛信玄書状は年未詳四月十五日付けの一通(『都留市史』資料編一三一号)しか
みられないが、その内容は郡内領の関所の運用を指令したものであり、上部権力としての
武田氏の優位性は厳然としている。

だとさ。
992日本@名無史さん:02/12/07 06:04
普通だな
993日本@名無史さん:02/12/07 06:06
郡内でも棟別銭は武田家が徴収します
994日本@名無史さん:02/12/07 06:08
支配領域に対しては、支城主が知行宛行・安堵、諸役賦課・免除、軍役、過所発給などを行っている。

だから高遠では>高遠なんかは勝頼の時よりも盛信の時の方が領民にとっては良かったそうです。
となるわけですな。

995日本@名無史さん:02/12/07 06:09
以上の小山田・仁科氏の場合に共通している点は、1.武田氏の関与は
あるものの、支配領域に対しては、支城主が知行宛行・安堵、諸役賦課・
免除、軍役、過所発給などを行っている。2.ともに竜朱印状は奉じて
いない。これは武田氏の行政執行機関には組織化されていなかったことを
意味し、独自の領域支配を許容されていたことの反映である。3.判物と
ともに、中途からであるが独自の印判状による領域支配が行われている。
4.同様の支城主である穴山・木曽氏などと共に世襲制がみられること
などである。
996日本@名無史さん:02/12/07 06:11
>郡内や河内には信玄や勝頼の発給文書がほとんど
>なく、他地域よりも大幅に自治を認められていたことは確か。

間違ってるやんか。
997日本@名無史さん:02/12/07 06:11
>>994
小山田や仁科と勝頼を並べちゃいかんよ。高遠はむしろこっちのタイプ。



この両城代領に共通する特徴は、1.圧倒的に武田氏の発給文書が多いこと
であり、城代の判物は城への与力衆である地衆に限定されている。2.城代
には独自の印判状はみられない。3.城代の書状は外交関係が多い。
4.城領内への指令は多く竜朱印状で行われており、知行・軍役関係を
中心に、広範囲な展開をみせている。4.武田家当主から城代への書状は
軍事指令のみであり、竜朱印状でもその割合が高い。5.城代も竜朱印状の
奉者を勤める事例が多く、城領内の地衆・寺社への取次役や指南役を勤め、
その権限内での城領支配を分担していたものと思われる。6.城代は世襲制
と交替制の折衷である。  

998日本@名無史さん:02/12/07 06:13
コピペで偉そうにすんなボケどもが
999日本@名無史さん:02/12/07 06:13
>>997

さすが検索上手ですな。
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1000日本@名無史さん:02/12/07 06:13
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