そりゃあ信玄にはかなわないけど
勝頼と信君だったらどちらが強いと思いますか?
もし仮に穴山が武田の頂点に
立っていたら武田は滅亡しなかったか?
武田勝頼に一票!
穴山じゃ無理
器が小さすぎる
3 :
日本@名無史さん:02/11/09 14:17
武2get
4 :
日本@名無史さん:02/11/09 14:21
穴山は江尻城に天主を築いたのですか?
確か山県は穴山を高評価してたね。
5 :
日本@名無史さん:02/11/09 14:21
不運だっただけ
とりまきがわるすぎた
でしょうね??
6 :
日本@名無史さん:02/11/09 14:23
親族衆では信廉と梅雪どっちが発言権あったの?
正直もっと武田軍に信玄時のままの
結束力が継続していれば・・・
この2人が話題になるのは珍しいな・・・
9 :
日本@名無史さん:02/11/09 14:27
武田信勝×穴山信治
信君がもっと武田勝頼と仲良くしていれば
きっともっといい展開があったはず・・・だろう。
11 :
日本@名無史さん:02/11/09 14:32
長篠城を放棄したのが武田の滅亡を早めますた
12 :
日本@名無史さん:02/11/09 14:40
どちらが強いかといえば勝頼でしょう
このスレなんかレアな感じでいいですねw
なんかメジャーな歴史キャラ
ちょっと飽きてたとこなんでw
13 :
日本@名無史さん:02/11/09 14:59
穴山信君は信玄の時の有力親族しかし、勝頼より義信を推していた。
しかし、義信が廃嫡されると信玄が勝頼の側近を穴山信君の上位
に位置付けた為に、勝頼と不仲になった。
14 :
日本@名無史さん:02/11/09 15:02
>>13
信君はなんで勝頼より義信を推していたんですかね?
以前から仲わるかったんですかね?
15 :
日本@名無史さん:02/11/09 15:03
跡部勝資&長坂釣閑マンセ一
16 :
日本@名無史さん:02/11/09 15:03
武田マンセ〜
勝頼はどうすれば天下統一できたと思います?
どうにかすれば統一できたと思えなくもないんですけどねー
18 :
日本@名無史さん:02/11/09 15:10
武田水軍を活用しる!!!!!!
19 :
日本@名無史さん:02/11/09 15:19
穴山信君の弟は義信の件で切腹になっている。
>>14 勝頼は元々側室の子で、まさか勝頼が嫡男になる存在だと
誰も思わなかったと思われる。
20 :
日本@名無史さん:02/11/09 15:24
あばた顔の梅雪は逝ってよし!
21 :
日本@名無史さん :02/11/09 15:28
>>14 穴山信君は今川側にも従属していたため。
今川滅亡後、親族衆とはいえ、信玄や勝頼の専制化による有力国人への
「内政干渉」を嫌ったのが原因。
22 :
日本@名無史さん:02/11/09 15:35
>>17 @松平信康を擁して三河徳川家を乗っ取り
A本願寺と組む
B比叡山を甲斐国内に再建
C日蓮宗を京都で蜂起させる
D伊勢の北畠氏と提携
E武田の人質になっていた信長の五男、勝長を擁して織田家乗っ取り
23 :
日本@名無史さん:02/11/09 15:40
本能寺がもう少し早ければ滅亡しなかったのに
勝頼がもし信玄の跡を継がなかったならば
歴史はかなり塗り変わっていたのではないでしょうかね
しかし勝頼は単体としてはかなり優秀だったと思うんですよ
ただやはり若すぎたのと人間的な幅の問題もあったんでしょうかね
25 :
日本@名無史さん:02/11/09 15:56
>>18
水軍活用とはどんな攻略で??
26 :
日本@名無史さん:02/11/09 16:07
梅雪は全然先読みができていない
徳川に寝返ったところでいずれアボーンするって
ふつうに考えたらわかりそうなもんなのによお
だったら武田でおとなしくしてるか
そんなに嫌なら勝頼に対して謀反起こすかすりゃあいいのに
どういう頭の回転してるんだ梅雪はよお
ただのバカまるだしじゃんかよお
こんなのいたから武田は潰れたんだ
どうせナガシノだって勝頼が考えた作戦じゃないに決まってるよお
27 :
日本@名無史さん:02/11/09 16:13
どうして武田勝頼の回りからはどんどん部下が去っていってしまったんだ。
人望が少々なかったのは側室の子という理由だけとはとてもおもえない。
いくら負けたからとはいえ天目山なんて可愛そう過ぎる。
28 :
日本@名無史さん:02/11/09 19:26
武田勝頼に1票。
子供の頃、筑波常治氏(早大教授、旧侯爵家)の書いた伝記を読んで
好きになったから。勇敢で能力があるのに運が無くてカラ回りしていく様
がフツーの児童向け伝記の内容とは思えず、あはれと思った。
29 :
日本@名無史さん:02/11/09 22:49
勝頼は優秀なほうではあったと思う。
長篠の敗戦から数年間は領国維持できていたし、東への進出はめざましかった。
(織田・徳川が攻めの手を休めたこともあるが)
惜しむらくは信玄と信玄が作り上げた家臣団が優秀すぎて、
大将としての勝頼がかすんでしまったこと。
長篠の敗戦→滅亡
のイメージが強すぎてちょち可哀想。
30 :
日本@名無史さん:02/11/11 02:00
>22
7 .明智光秀を動かして信長を消す
31 :
日本@名無史さん:02/11/11 02:18
>>27 お家滅亡となれば、国人領主は自分の身の方が大切なのはどこも同じ。
朝倉義景の最期なんて、誰が一緒に死んでくれたのか。
勝頼に、名のあるものだけで四十数名もの人間が従って死んだというのは、
それはそれで凄いこと。
32 :
日本@名無史さん:02/11/11 02:30
武田信勝、大熊朝秀、秋山某、跡部勝資、土屋惣蔵、小宮山某
北条夫人&侍女以外誰が最後までお供したか教えて!!!!!
33 :
日本@名無史さん:02/11/11 15:18
>31
鳥居景近
34 :
日本@名無史さん:02/11/11 16:01
新田さんの小説「武田勝頼」で、天目山のシーンで信勝が敵を切り倒し、
勝頼が「あっぱれ、信勝っ!」と叫んだわけだが、まったくのドラマとはいえ、
何度読み返しても涙腺がユルユルになりまふ。
真田は御親類衆ではないので、真田へ落ち延びるわけにはいかなかったのだろうけど、
もし、真田で再起を図っていたら、その後はさぞかし興味深い展開になっていただろうなー
と空想するのは私だけでしょうか?
35 :
日本@名無史さん:02/11/11 16:03
36 :
日本@名無史さん:02/11/11 17:07
『老人雑輪』⇒『老人雑話』に訂正。
38 :
日本@名無史さん:02/11/12 15:02
age
39 :
日本@名無史さん:02/11/12 16:05
鉄砲騎馬隊を整備できたらば、信長の雑兵など恐るるに足らんわっ!
馬防柵を蹴散らして、蹂躙してやるっ!
盛り上がってまいりました
41 :
日本@名無史さん:02/11/13 12:47
もし義信が信玄の後継ぎだったら
武田はどうなっていたかね?
42 :
日本@名無史さん:02/11/13 13:35
上杉に滅ぼされる。
43 :
日本@名無史さん:02/11/13 14:15
今川氏真を駿河に配置、徳川・北条と同盟関係を保ちながら、
織田と講和上杉を打つ
44 :
日本@名無史さん:02/11/13 23:16
>>43 今川との同盟と徳川との同盟の両立は有り得ないぞ・・・
45 :
日本@名無史さん:02/11/13 23:34
成り立ちます。氏真は橋渡しです。
しかしこれは天下統一諦めた場合です。
46 :
日本@名無史さん:02/11/14 00:55
真田昌幸よりもご親類衆の小山田を頼った時点であぼーん。
真田昌幸は武田を皆殺しにしようとしていた織田でさえ、生かして
配下に組み入れようとしたほど『信玄の目』として評価されていた。
真田の軍略に甲斐源氏武田家という神輿がプラスされたら天目山のような
無残な最期の前に、華々しくもう一合戦くらい出来たのでは?
47 :
日本@名無史さん:02/11/14 01:01
織田家にあっさり従属した真田を頼れと?
どっちに逃げても似たような最後になっただろーな
>35
>>穴山路次にて一揆に殺るると云、又東照宮の所為なりとも云々
江戸時代の書物でここまで言うってことはほとんどの人は家康が
穴山殺したと思ってたってことかな?
49 :
日本@名無史さん:02/11/14 01:16
従属もさせてもらえず、出頭した上で首を撥ねられた小山田は
やっぱり惨めな末路だよな・・・・・・・。
ところで武田信廉って最後どうなったの?
50 :
日本@名無史さん:02/11/14 01:17
で実際、勝頼の最後はどうなったの?
疲れて何も出来ずに討ち取られたってのを読んだことあるけど
>49
真っ先に逃げたが捕まって終了。
じゃなかったっけ?
52 :
日本@名無史さん:02/11/14 04:11
>>45 無茶言うなよ。
信玄が信長と同盟したら謙信と手を結ぼうとする人間だよ、氏真は。
>>46 甲斐では裏切ろうが裏切るまいが、武田の重臣クラスは皆殺し。
上野では逆に切られた奴はいない。
真田だから許されたというのではなく、対北条の前線となる地域だから
混乱を招くことを良しとしなかったというのが正解。
53 :
日本@名無史さん:02/11/14 04:31
武田二十四将っていわれるけど、みじめな最期を遂げた武将が多い・・・
54 :
日本@名無史さん:02/11/14 04:46
>>53 みじめな最期を遂げた武田二十四将を教えて下さい
55 :
日本@名無史さん:02/11/14 04:46
56 :
日本@名無史さん:02/11/14 04:48
57 :
日本@名無史さん:02/11/14 05:26
普通の討ち死にはみじめとはいわんだろ。
58 :
日本@名無史さん:02/11/14 08:54
高坂弾上無能説がある
59 :
日本@名無史さん:02/11/14 11:22
>>58 そんな寝言をほざいたのは誰?
ソースキボン
60 :
日本@名無史さん:02/11/14 11:45
高坂弾上は信玄の小姓あがり
「甲陽軍艦」作者というたった
一つの功績も後世に作られた
偽書である。コーエーでは高い評価だが
実際は信玄の寵臣にすぎない。
61 :
日本@名無史さん:02/11/14 12:06
>>27 勝頼はいちど諏訪家を継いじゃってるから、
武田家の当主としては今ひとつ支持をえられなかったんじゃないかなあ。
勝頼はそういう自分の立場が分かっていたからこそ、積極的に領土拡大に
努めることで自分への支持を集めようとしたのだと思う。
62 :
日本@名無史さん:02/11/14 15:20
名前忘れたけど、信虎が駿河でつくった息子ってどうなったの?やっぱり天目山死?
,-ー─‐‐-、
,! || |
!‐-------‐
.|:::i ./ ̄ ̄ヽi
,|:::i | (,,゚д゚) || <
>>58ソース出せ。ゴルァ!!
|::::(ノ 中濃 ||)
|::::i |..ソ ー ス||
\i `-----'/
 ̄U"U ̄
65 :
日本@名無史さん:02/11/14 16:49
66 :
日本@名無史さん:02/11/14 17:38
高坂弾正ってなにした人?
67 :
日本@名無史さん:02/11/14 18:12
九州は俺がモロタ
わしじゃ!
まろもおるぞよ
71 :
日本@名無史さん:02/11/15 16:03
勝頼が天下を望んでたなんて思えん。
72 :
日本@名無史さん:02/11/15 16:18
穴山梅雪は、面白い存在だったよな。本能寺の後に家康に謀殺されずに駿河に
逃げ帰れたら、武田の名跡を嗣いだと思う。
信玄の最大の失敗は、義信を廃嫡・殺害した後の勝頼の後継者としての位置を
確立できないうちに死んだことだろう。
73 :
日本@名無史さん:02/11/15 17:49
穴山・・・うーん、武将・政治家としてどうなんだろ・・・?
・家康(信長)に降伏ではなく北条へ逃亡
・旧武田家臣引き込み
・徳川と北条の間で道具にされつつ
パターン1
小田原攻めの際秀吉方に鞍替え→名を正式に「武田」へ
→上手く転がって江戸時代も中規模大名として
パターン2
小田原攻めの際武田旧臣関東平野にて大暴れ、甲斐乱入等
74 :
日本@名無史さん:02/11/15 18:19
話がズレちゃうけど、勝頼ほどの大大名が何で無位無官なんだろう・・・
朝廷が信長の味方だからです。
76 :
日本@名無史さん:02/11/16 01:26
まあ自称の官位ばかりの中、敢えて正直だったのは偉いよ?
77 :
日本@名無史さん:02/11/16 01:38
大膳大夫名乗ってただろ
78 :
日本@名無史さん:02/11/16 04:12
武田信玄→志半ばで横死
武田勝頼→わずかな供回りと共に自害
武田信繁→川中島で敗死
武田信廉→ひっ捕らえられて処刑
穴山梅雪→土民に殺される
板垣信方→上田原で首をとられた
甘利虎泰→上田原で首をとられた
飯富虎昌→謀反のかどで自害
秋山信友→捕らえられ処刑
甘利晴吉→設楽ヶ原に野ざらし
小幡虎盛→天寿
小幡信貞→天寿
小山田信茂→寝返った挙句処刑
高坂昌信→天寿
三枝守友→設楽ヶ原で戦死
真田信綱→設楽ヶ原で戦死
真田昌輝→設楽ヶ原で戦死
真田昌幸→九度山で野垂れ死に
多田満頼→天寿
土屋昌次→設楽ヶ原で戦死
内藤昌豊→蜂の巣
馬場信房→設楽ヶ原で躯をさらす
原虎胤→天寿
原昌胤→設楽ヶ原で戦死
山県昌景→馬防柵に辿り着けず蜂の巣
山本勘助→謙信の本体にスーサイドアタック
横田備中守→戸石崩れで置いてけぼり死亡
79 :
日本@名無史さん:02/11/16 08:38
漏れは朝鮮人じゃない
80 :
日本@名無史さん:02/11/16 09:04
「我がナチスの科学力はァァァァァァァアアア
世界一ィィィィイイイ」
81 :
日本@名無史さん:02/11/16 09:04
真田ヲタや武田厨ではないんだけど・・・
>>78 >真田昌幸→九度山で野垂れ死に
のたれ死に、の意味知ってるか?
82 :
日本@名無史さん:02/11/16 09:07
「天才バカチョン」
北から昇ったテポドンが
南へ落ちる
(実験失敗なのだ)
これでいいニダ
これでいいニダ
チョンチョン バカチョン
バカチョンチョン
気違い国家だ
バカチョンチョン
南はアジアのストーカー
北と大差無い
(世界の嫌われ者なのだ)
これでいいニダ
これでいいニダ
チョンチョン バカチョン
バカチョンチョン
気違い国家だ
バカチョンチョン
83 :
日本@名無史さん:02/11/16 10:00
>>78 まあ、あんだけ正面攻撃の戦の連続なら華々しく散った武将も多かろう。
敵から見ればそんだけの勢いで命を省みず突っ込んでくるんだから、さぞ
かしおっかなかったってことでしょう。
あきれ果てていたかもしれない。
85 :
日本@名無史さん:02/11/16 10:55
>>78 の書き込みには悪意があるしとか思えない。
86 :
日本@名無史さん:02/11/16 11:02
87 :
日本@名無史さん:02/11/16 15:31
88 :
日本@名無史さん:02/11/16 16:42
山梨県川浦温泉の旅館・山形館は山形昌影の末裔らしいが?
山梨にある山県神社は三郎兵衛昌影を祀ってるんだろうか?
ほかに山県って名の有名な人いないんだけど。。。
(幕末の山県とかいうのは、偽山県だし)
岐阜の山県市はなんか関係あるの?
91 :
日本@名無史さん:02/11/16 23:41
>>90 そもそも山県という一族は、美濃の出身であるという。
92 :
日本@名無史さん:02/11/17 00:00
>>89 山県氏は甲斐源氏の名家確実に違うでしょう。
93 :
日本@名無史さん:02/11/17 01:22
上杉十七将
長尾政景→舟遊びしてて溺死
古志景信→家督争いで敗死
上杉景虎→裏切りに遭い死亡
上杉景勝→落ちぶれたが天寿
上条政繁→激しく落ちぶれたが天寿
中条藤資→天寿
色部勝長→陣没
本庄繁長→天寿
安田長秀→謀殺
宇佐美定満→舟遊びしてて溺死
柿崎景家→処刑
斎藤朝信→天寿
北条高広→逃げるところを槍でつかれる
本庄慶秀→行方不明
直江実綱→天寿
山吉豊守→天寿
河田長親→魚津城と命運を供に
甘糟長重→天寿
鬼小島弥太郎→陰薄い
武田に比べりゃずいぶんと幸せだなおい
94 :
日本@名無史さん:02/11/17 04:10
>>92 山県は清和源氏だが甲斐源氏ではないよ。
美濃の山県氏が没落して応永年間に甲斐武田氏を頼ったとか。
>>93 溺死が多いのは
アンマリ(・∀・)カコヨクナイ
溺死って珍しいよなあ。
96 :
日本@名無史さん:02/11/17 08:35
山県の家紋は桔梗紋だよな。土岐と同じ。
ひょっとして土岐一族?
97 :
日本@名無史さん:02/11/18 12:02
まあね
98 :
日本@名無史さん:02/11/18 12:15
舟遊びしてて溺死
暗殺です
99 :
日本@名無史さん:02/11/18 13:33
>>93 どっちにしろ全員死んでるじゃねえか!
越後十七将弱っ!!
100 :
日本@名無史さん:02/11/18 13:35
山県大弐age
101 :
日本@名無史さん:02/11/18 13:39
>>99 ・・・ひとつ聞くが
いまだ生きてる
ほうが怖くないか?
マジレス希望。
102 :
日本@名無史さん:02/11/18 13:57
>>101 (((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル
103 :
日本@名無史さん:02/12/02 10:43
もうおわりか?勝頼様に申し訳がたたん。
104 :
日本@名無史さん:02/12/02 11:57
105 :
日本@名無史さん:02/12/02 14:26
穴山を責めるのは酷だ。政治家としての評価は高いしな。
106 :
日本@名無史さん:02/12/02 15:14
同じ御親類衆の木曽義昌はどうなのよ?発言権は弱いの?
三方が原や長篠にも従軍してないけど彼はなんか特権があったの?
107 :
日本@名無史さん:02/12/02 15:46
美濃方面の最前線
108 :
日本@名無史さん:02/12/02 15:51
こんな事は言うまでもないだろうけど、
山県は正真正銘、名家だが、山県昌景は元は飯富で
信玄に命じられて絶えていた山県家を継いだだけだ。
109 :
日本@名無史さん:02/12/02 15:55
>>106 そもそも彼の家が本当に木曾義仲の家系なの?
かなり怪しい気が・・・
110 :
日本@名無史さん:02/12/02 16:28
そもそも親戚の中で誰が一番強い権限を持っていたの?
信豊なんかは血筋から言えば結構権限ありそうだけど。。。
age
112 :
日本@名無史さん:02/12/02 16:56
勝頼は養子に出ていたんだから、家臣団の把握が甘かった。
信玄のような素早い軍忠状の発給とかが無いし、人事でつまづいたのでは。
穴山は南巨摩の金山とかも押さえ、地元の有力者をうまく使っていた。
領国経営、行政手腕は高いと思う。
113 :
日本@名無史さん:02/12/02 16:58
>>112 >信玄のような素早い軍忠状の発給とかが無いし、人事でつまづいたのでは。
>穴山は南巨摩の金山とかも押さえ、地元の有力者をうまく使っていた。
>領国経営、行政手腕は高いと思う。
詳細きぼんぬ。
114 :
日本@名無史さん:02/12/02 17:28
>>112 でも勝頼は諏訪郡代だったわけだから、信濃衆や諏訪商人などからは支持されていたのでは?
仲の悪いと言われた穴山がなんで韮崎に新府城築城を勧めたの?あそこは穴山領だったんじゃ
ないの?勝頼が江尻に信君を入れたのも信頼していたからじゃないのか?
115 :
日本@名無史さん:02/12/02 17:41
>>110 だから一番の権力者は穴山だよ。
信廉は武将というより画家のような男。
信豊は信繁の子だが穴山ほどの権威は持てなかった。
木曾、小山田は信玄の娘を貰ったとはいえ独立勢力みたいなもん。
仁科盛信は勝頼より若いし、彼も信濃に養子に出た身。
116 :
日本@名無史さん:02/12/02 17:45
度々、小山田が穴山を罵る場面があるが・・・。
117 :
日本@名無史さん:02/12/02 17:47
このスレでちと気になるのは
仮説でしかない穴山梅雪を家康が陰殺したという説を
断定的に書いているとこが気になる。
それと長尾政景と宇佐美定満が謀殺されという説もね。
別に戦国武将が船遊びで事故死したっていいじゃないか?
不自然とか決めつけるのはどうかと・・・
119 :
日本@名無史さん:02/12/02 18:19
>>117 確かに穴山梅雪を謀殺したとしてもメリットはないね。もし梅雪を
謀殺したのなら、家康が本能寺の変知ってた事になるな。
120 :
日本@名無史さん:02/12/02 18:26
>>115 言うほどの権力者かなあ?
穴山の河内も、扱いは小山田の郡内と同じ、「武田家の許可を受けて自治を
認められているエリア」なわけで、立場は半独立勢力。
そりゃ金山を二つと富士川の水運を押さえる、武田家中でも随一の
金持ちだけど。
121 :
日本@名無史さん:02/12/02 20:21
徳川家に都合の悪い史実は270年の間にほとんど消されているからねー。
残っている公式史料なんて全部徳川により脚色、改ざんされたものだけ。
あとは、後世の人間が推定するとか、巷間のウワサ話を検証するしかない。
122 :
日本@名無史さん:02/12/02 20:53
>119
家康は本能寺の変が起ったから伊賀超えで岡崎に帰国したのだから知ってて当然。
この道中の途中で両者は別コースをとったとされ、その際、梅雪は一揆に殺された
とされる。また、梅雪の死で主のなくなった下山の地に家康は岡崎次郎右衛門に
城の普請をするよう命じている。この地も、その後、徳川もものになったはず。
123 :
日本@名無史さん:02/12/02 20:55
>家康は本能寺の変が起ったから伊賀超えで岡崎に帰国したのだから知ってて当然。
意味不明。
124 :
日本@名無史さん:02/12/02 21:31
>>122 はあ? 結論、先にありきな理屈だなあ。
穴山梅雪が殺されて家康が利益を得たのは事実だが、
それは証拠にならないです。
たまたま家康の利益になる事件が起きただけかもしれないし。
125 :
日本@名無史さん:02/12/02 21:32
それと、確か穴山家は家康の命令で再興されたはずだよ。
領土は削られただろうけど。
梅雪はほんとに一揆に殺されたのだろうか?と言いたかったの。
127 :
日本@名無史さん:02/12/02 21:37
>>123 どうも「家康が本能寺の変が起きた事を知っていた」と
「家康が本能寺の変が起きることを知っていた」がごっちゃになってるね。
そりゃ、本能寺の変が起きた事は知ってるに決まってるだろう。
128 :
日本@名無史さん:02/12/02 21:40
穴山家は梅雪の子勝千代の死(1587年)で断絶では?
129 :
日本@名無史さん:02/12/02 21:47
>>128 んな事はどうでもいい。
家康が穴山家を再興してやったことが大切なんだ。
それともあんたは勝千代は家康が謀殺したとでも言いたいの?
130 :
日本@名無史さん:02/12/02 21:53
化けて出られたら家康も恐ろしいし、かなわんだろ。
131 :
日本@名無史さん:02/12/02 22:08
勝頼はそっちのけかい!!!
132 :
日本@名無史さん:02/12/02 22:42
>>130 怨霊だなw
ところで家康は何故、穴山を同道したんだ?
腹心てわけでもあるまいし。
133 :
日本@名無史さん:02/12/02 22:58
134 :
日本@名無史さん:02/12/02 23:23
穴山は家康を用心して途中から別行動とったという説も読んだことあるが、
何の本だったのか忘れた。
135 :
日本@名無史さん:02/12/03 00:45
>>132 家康は駿河加増の礼のため、穴山は本領安堵の礼と今後の挨拶を信長に言うため。
136 :
日本@名無史さん:02/12/03 00:48
>>132 信長は穴山性をもってのみ武田家の存続を認めていた。それで信君は投降したわけだ。
信長の頭の中では旧武田領統治にあたって穴山の存在は大きかった。甲州征伐後、信長
の陣所に訪れた信君を歓待したのは有名だし、それだけ信長は信君にめをかけていたと
考えるのが自然だ。
137 :
日本@名無史さん:02/12/03 01:21
真木蔵人演じる勝頼を見て以来、勝頼贔屓な自分。
「常に短気なることなく、喧狂におわしまさず、いかにも静かで奥深く見え奉る」甲陽軍艦
勝頼でも信君でも結果は同じだったと思う。信玄一代で築いた広大な版図を
苦労知らずの二人が情勢から判断して維持できっこないんだよ。
139 :
日本@名無史さん:02/12/03 15:52
山ばかりだし織田と較べると結局むり
140 :
日本@名無史さん:02/12/03 16:21
親類衆って実の血のつながりは親類衆じゃないんですよね?
信廉、信龍、盛信、等はなんと呼ぶのでしょうか?
141 :
日本@名無史さん:02/12/03 16:27
御親類衆
142 :
日本@名無史さん:02/12/03 19:58
なぜ信君が筆頭なのですか?
婿でしょ?
信廉か盛信か信勝のどれかでは?
143 :
日本@名無史さん:02/12/03 20:00
天と地との義信は短気だったな。義信ってあんな短気か?
戦国自衛隊の真田広之は義信?勝頼?
144 :
日本@名無史さん:02/12/03 20:08
本来親類衆というのは家臣で武田家と血縁を結んだ者。
信廉は親類衆でない。
145 :
日本@名無史さん:02/12/03 20:15
違う。当主と跡継ぎ以外は親類。
ちなみに信君は勝頼より六歳だけ年上。
146 :
日本@名無史さん:02/12/03 20:20
>>146 たしか勝頼
あれはカッコ良よすぎ
で、竜雷太を槍で刺し殺した薬師丸ひろこは誰役だったのさ
147 :
日本@名無史さん:02/12/03 20:25
信玄時代なら逍遥軒の次が信君のはず。
逍遥軒は川中島で死ぬから実質筆頭だよ。
148 :
146間違えたさ:02/12/03 20:31
>>143 たしか勝頼
あれはカッコ良よすぎ
で、竜雷太を槍で刺し殺した薬師丸ひろこは誰役だったのさ
149 :
日本@名無史さん:02/12/03 20:36
逍遥軒は死んでません。信長に捕まって殺されました。
勝頼より後に死んでますよ。
150 :
日本@名無史さん:02/12/03 21:05
>>147 典厩信繁でした。逍遥軒信廉の次が信君か?
151 :
日本@名無史さん:02/12/03 21:06
ちなみに戦国自衛隊でヘリ落したのは太郎義信です。
>>142 違う。信君の母は信玄の姉。妻は信玄の娘でもっとも信玄の血が濃く御親類衆の筆頭です。
>>144 違います。後継者以外は御親類衆です。よくお勉強してください。
勝頼は後継者ではなかったので御親類衆でした。
それと信玄は兄弟をあまり重用していません。御親類衆は信君を筆頭に次に小山田信茂(信玄従兄弟)です。
153 :
日本@名無史さん:02/12/03 21:37
>もし仮に穴山が武田の頂点に
>立っていたら武田は滅亡しなかったか?
信君の権限が強すぎたから滅びたんだろうが。彼が分限をわきまえて
勝頼に従っていれば、もすこしマシな結果があったんじゃないの?
154 :
日本@名無史さん:02/12/03 21:46
勝頼は最初親類衆だったけど武田性に復帰して実質当主だったんじゃない?
>もっとも信玄の血が濃く御親類衆の筆頭です。
もっとも濃いのは実子の勝頼、盛信でしょ。
155 :
日本@名無史さん:02/12/03 21:51
一番濃いのは典厩です。
156 :
日本@名無史さん:02/12/03 21:52
>>154 実氏とはいえ、勝頼は諏訪氏、盛信は仁科氏を継いでいる。しかも二人とも側室の子(ここが肝心!!!)。
信玄というより武田氏で考えた場合、穴山信君は二人より
武田の血が濃いといえる。御親類衆の筆頭なのも事実。
157 :
日本@名無史さん:02/12/03 21:56
>>155 のわりにヘボい最期だったりする。かっこわるい
嗚呼小諸城。
158 :
日本@名無史さん:02/12/03 21:58
だから穴山は穴山氏の当主でしょ。
側室以下だよ。
穴山でも、油川でも諏訪でも格は同じくらいじゃない?
159 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:01
穴山氏の歴史を知らないな。実は武田氏を凌ぐ勢力を持っている。
まして信虎の娘の子であり、信玄娘の婿である。勝頼を見下すのは
当然。盛信なんかは論外。信玄は穴山・小山田に頭が上がらない事実。。。
160 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:05
>>側室以下だよ。
んな訳ないだろ、アホか。
161 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:05
信玄から見た親族
勝頼 一親等 直系
信廉 二親等 血族
信君 三親等 血族
162 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:07
直系のくせに「信」の字がない罠
163 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:08
直系のくせに「直系」と認めてもらえない罠
164 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:13
だから穴山に馬鹿にされたとか家臣が言う事聞かなかったと言われてるよね。
165 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:13
職業軍人がないところでは豪族を大切にしなさいということだ。
166 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:14
>>162 >>163 武田の親族や家臣団は勝頼をそんな風に見ていたからついてこなかった。
少なくとも勝頼よりも信君の方が武田氏を束ねるのにふさわしいと思ってた!のか?
167 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:15
末弟の信清も改名前も信が付きませんでした。
168 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:16
>勝頼を見下すのは当然。
こんな家臣は他の武家にはいないよ。
169 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:17
>>166 武田氏というより甲斐国主として信君なんだろうな。
170 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:18
勝頼だったら盛信の方が家としては上だよ。
母は武田一族の油川。
171 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:18
>>168 信君は厳密には家臣ではない。盟邦者であり武田とは対等な関係にある。勘違いするな。
172 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:21
穴山は武田家家臣の中でも武田家に近い血筋で発言力もあったよ。
でも血筋は実子の方が上だろ。
実子を差し置いて甥が当主になった家があるか?
173 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:22
>>168 勝頼は諏訪の郡代がせいぜいで武田の総領として甲斐の豪族達からは認めてもらえなかった。
信君からすれば勝頼は目下になってしまう。
174 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:24
>>172 甲斐という土地を考えればありうる。武田・穴山・小山田等の連合国家なんだから。
甲斐は武田氏一家のものではない。
175 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:26
信君の母親は信虎の側室だよ!
176 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:30
>>175 それじゃあ信玄の弟になるじゃんかよ!
信君の母は信玄姉の南松院だよボケ
177 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:36
わりい母親が信虎の側室。だから勝頼より血は薄いわけ。
178 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:37
正しくは家臣ではなく、盟邦者であり武田とは対等な関係にあるでは
なく族臣。
179 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:40
勝頼に諏訪氏の血が入ってしまった事が問題なのでは?
穴山氏は甲斐の名族であり、信君自身の血と信君が信玄の娘を娶っているのだから。
甲斐の豪族集団・武田氏で考えれば諏訪氏の血は認めがたいものがある。
180 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:40
ただ単に嫁さんが信玄の子供の中で一番年長だし正室の子供だから
筆頭にしただけで当主が信長とか他の人だったらこういう選び方はしないと思う。
181 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:44
>>180 信長のような新興勢力を引き合いに出すこと自体おかしい。
武田・穴山の関係はもっと深く長いものがある。
182 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:47
だから盛信の方がと前にスレッドが三戦板で立ったよ。
母親は武田の一族だからってね。
183 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:51
>>182 それって何処なの?リンク張ってよ。
でも盛信は勝頼をとっても尊敬してたからトップには立てないよ。
盛信の子が高遠から落ち延びて現在も家名が残ってるってホントかな?
184 :
日本@名無史さん:02/12/03 22:56
>>183 年齢差が十歳くらいあったので候補に考えられなかったと言う意見もあったよ。
過去ログに落ちてます。
親類衆の話は信君が親類衆筆頭ではなくて穴山家が筆頭だったんです。
信友の時代に武田性の与えられ名乗る事をゆるされ、領地の経営を任された。
同盟ではなくて家臣(族臣)です。
だからご親類衆です。
>181
だから滅びる。
186 :
日本@名無史さん:02/12/03 23:02
>>185 結論はそこにくるなあ。
土地と血に縛られすぎて脱皮できなかった。そこに守護〜戦国大名の古さを見ることが出来る。
187 :
日本@名無史さん:02/12/03 23:04
小山田は譜代家老衆。
武田晴信母大井婦人の葬儀に参列し、武田被官衆の最初に焼香を勤めたり
信玄が、小山田信茂並びに小山田氏被官に起請文を提出させている
188 :
日本@名無史さん:02/12/03 23:10
>信長のような新興勢力
信長は新興かもしれんが織田家は違うだろ。
189 :
日本@名無史さん:02/12/03 23:16
国人領主というのが惑わせているのでは?
安芸も出雲も越後も国人領主はたくさんいた。でもそれらは独立国家でなく
家臣になっていた。
190 :
日本@名無史さん:02/12/03 23:16
家臣でなく同盟と書いたあるホームページもあるんだよね。
191 :
日本@名無史さん:02/12/03 23:20
>織田家は違うだろ。
武田氏は守護大名です。
192 :
日本@名無史さん:02/12/03 23:24
>小山田は譜代家老衆
でも信茂は信玄の従兄弟だったりする。複雑だ。。。
>安芸も出雲も越後も国人領主はたくさんいた。でもそれらは独立国家でなく
家臣になっていた。
その家臣の機嫌を損ねないようにするのが難しい。リーダーは家臣(領主)の期待を背負うから
彼らの意見を無視できない。無視すれば追放や離反の危険がある。独裁者にはなれない。
193 :
日本@名無史さん:02/12/03 23:30
穴山領・小山田領は甲州法度が適用されていない。つまり信玄の力が
及ばない土地。信玄(武田氏)が直接支配出来たのは国中の盆地で案外狭い。
それが盟邦関係と言われてる。
194 :
日本@名無史さん:02/12/03 23:30
そうそう、俺も前から小山田は武田と血縁があるのになんで親族でないの?
と思ってた。要するに親族は実子の起こした家なんだろーね。
国人領主って日本全国、それぞれいたでしよ。
国人 (こくにん)
「こくじん」「くにうど」とも読み、国衆ともいった。
元来、国衙の支配下にある人、国衙領の住人の意味であるが、
特に有力名主層を指すようになり、南北朝期から戦国時代を通じて
在地領主の一般的な呼び名になった。
鎌倉幕府が衰退すると地方の地頭、荘官、有力名主らが自立し、
小規模な国人領主制を形成した。
14世紀頃から地域的な党・一揆などの連合体を組織し、一郡ないし一国的規模で行動した。
室町時代には、勢力保持・拡大のため守護大名の被官化し、国一揆の中核となって守護大名と
対立した。
国人の一部は戦国大名に成長したが、国人の多くは戦国大名の家臣となり、本拠地から切り離されて
大名の城下に集住させられるようになった。
196 :
日本@名無史さん:02/12/03 23:50
御親類衆には葛山信貞や望月信頼、木曾義昌などがいるのだが・・・。
それと勝頼・信君を語る場合、長坂・跡部は外せない。
197 :
日本@名無史さん:02/12/04 00:07
次男・竜宝が還俗して盲目の大将になってもそれはそれでかこイイ!
198 :
日本@名無史さん:02/12/04 00:10
本来、武田の中枢だった甲斐衆に代わって勝頼と一緒に諏訪衆が入ってきたから
問題が出てきたわけでしょ。やっぱ勝頼が甲府に入ったのは失敗だよ。
199 :
日本@名無史さん:02/12/04 00:12
>穴山領・小山田領は甲州法度が適用されていない。
これって2ちゃんでは見かけますが、他では見たことないんです。
何かソースはありますか?
>197
信玄の両の目に代わる者が居るから
盲目OKかもね。
201 :
日本@名無史さん:02/12/04 00:47
>>193 だが郡内では小山田家ではなく武田家に棟別銭を収めていたようだが。
とすればやはり関係は武田が上だったということになる。
関係が古いだけに特例として甲州法度が適用されないだけで。
穴山の河内も同じではないか?
202 :
日本@名無史さん:02/12/04 00:51
穴山? そんな大馬鹿野郎は死んで当然だよ。
主家をもりたてないどころか裏切るなんて屑以下。
武田が滅びたのは全てこいつのせい。
こいつがやりたい放題やるから家中がまとまらない。
長篠で織田にボコられたのもこいつのせい。
長篠で強攻策を主張したのはこいつ。
長篠合戦後には高坂に「穴山を切腹させろ」とまで言われてる。
たぶん信玄以来の家臣たちとも仲悪かったんだろうな。
せめて勝頼たちと一緒に最後まで抵抗すれば・・・。
203 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:01
>>202 一国人領主としては、主家より自分の領土と領民を選択するのは
間違いではなかろう。
義に殉ずるなんて発想は、江戸時代の産物だ。戦国時代にゃ通用せん。
……そんなことを言うと「武田家は古い」なんて言われそうだが、
信長の死後に織田家を盛り立てた奴、いないよな。勝ち馬に乗るのは
当たり前のことだ。
>長篠で織田にボコられたのもこいつのせい。
>長篠で強攻策を主張したのはこいつ。
>長篠合戦後には高坂に「穴山を切腹させろ」とまで言われてる。
基本的に長篠に関しては非常に怪しげな『甲陽軍鑑』がネタ元だな。
信用するに足らん。まして強攻策なんて主張しておらんだろ。
204 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:02
武田が天下統一できないのは
結局本拠が甲斐だったことに集約されると思われ
205 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:08
俺もそう思う。せめて駿府に移せばよかったのに。
甲州法度って駿河の法律を参考にしてるから領民だってすぐに対応
出来るだろうし。
206 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:09
そもそも、領民わ思って勝頼捨てたってのは言い訳じゃないの?
207 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:11
>>205 204が言ってるのはそういうことじゃないのでは?
>>206 言い訳も何も、本当でしょ。
封建体制ってのは、自分の領土を守ってくれない主君に尽くす義務は
本来は無いんだから。自分の領土を守ってくれてこその主君。
これが出来ない主君は見限って、これをやってくれる主君を選ぶ。
そういうものでしょ・
208 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:12
戦国時代はでの国も国人領主の集合体だよ。
国人領主が守護大名の臣下になるか、国人領主が国人領主を従えるか。
ほんの少しの自領民を助ける為に主家を裏切るなんてのはいないだろ。
小山田以外には。
209 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:16
>>208 自領を保全するために裏切るなんて当然の話だろ。
210 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:17
家老クラスでも裏切るわけ?
人質になっていた信茂の娘に罪はないと殺さず面倒みた武田は偉いよ。
211 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:18
212 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:19
>小山田以外には
( ´,_ゝ`)プッ
213 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:21
当然じゃないでしよ。確かに主家を変えるのはあるけど、あんな土壇場で
捨てるやついないよ。
だから信長がなじって殺したんだよ。
214 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:23
説明できないとただ馬鹿にする事しかできないんだね。カスは。
215 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:24
>>210 裏切るだろ。朝倉義景なんて一族も家老もみんな寝返ったぜ。
それこそ土壇場の土壇場で。
戦国時代じゃ当たり前だっつーの。
斎藤義興も美濃三人衆始め寝返られまくり。信長に稲葉山城囲まれても
兵すらろくに集まらない。
落ち目になるとそんなもんだ。
216 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:33
ちょうりゃくの裏切りは別だろ?
217 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:34
勝頼っていい馬もってたけど設楽が原で逃げるとき馬捨てて逃げて
その馬を信長が使ったんだってね。いい馬だって言って。
218 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:36
219 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:37
>>210 >人質になっていた信茂の娘に罪はないと殺さず面倒みた
ところで、松姫の逃亡ルートって思いっきり郡内横断してる上、
八王子まで40日以上もかかってるから、どうも織田家に寝返った後の
小山田領を通ってることになると思うんだけど……
松姫の逃避行の日程ってどうなってるの?
小山田の寝返りが分かった時点で、松姫はどこにいたの?
まだ笹子峠も越えてなかったんなら、「娘に罪は無い」と言えるだろうけど、
それだと甲斐から出られなかっただろうし、逆に郡内に入ってたんなら、
信茂の娘殺したら郡内から出て行けないだろうし。
……まさか人質にしてたとか?w
220 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:38
>>218 『信長公記』にあるな。
『甲陽軍鑑』も勝頼の馬が動かなくなったとか書いてる。
221 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:39
>>216 落ち目でなけりゃ調略も通用しないでしょうな。
だから、落ち目になるとそんなもん。
222 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:42
223 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:46
つまり松姫は信茂の娘を人質にして無事に郡内を通り抜け、八王子に
逃げましたと。で、それが後に美化されたんだなw
224 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:54
225 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:56
>>223 なんで兄の仇と殺さずそのご信茂の娘がちゃんと武家に嫁いでんの?
226 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:58
>>224 いや、それの日程だと郡内にいる時に裏切り発覚のタイミングじゃね?
227 :
日本@名無史さん:02/12/04 01:58
冗談本気にするなよ。
228 :
日本@名無史さん:02/12/04 02:02
松姫が武蔵を目指したのが新府を焼く30日前という事を書いてあるホームページがあったけど、これだとどうなの?
229 :
日本@名無史さん:02/12/04 02:08
>>228 それだと2月3日だな。
ってことは、木曽義昌が裏切って、勝頼が諏訪に出陣すると同時に
逃げたことになる。最初から滅亡覚悟?
230 :
日本@名無史さん:02/12/04 02:15
3月23日に塩山の向獄寺を発ち、4日後の3月27日には
八王子・上恩方にある金照庵に到着ちゅう説明してるところもある。
女子供が主要な街道を通らずに四日で郡内を抜けて八王子に行ける
だろうか。
231 :
日本@名無史さん:02/12/04 02:21
家康って豊臣にとっては鬼こだけど武田には仏だよね。
松姫が生きてるの知って面倒見たり、勝頼親子の為に寺と墓を作ってくれたし、
織田に渡るのをよしとしなくて埋めた盾無しを掘り起こして神社に奉納したり。
232 :
日本@名無史さん:02/12/04 02:25
しかし、すごい名前だね。香具姫だろ?
233 :
日本@名無史さん:02/12/04 02:26
234 :
日本@名無史さん:02/12/04 02:27
天の香具山みたいでいい名前じゃねえか
235 :
日本@名無史さん:02/12/04 02:28
>>231 甲斐・信濃を安定して治めるために、武田の旧臣を抱え込んだ。
とすれば、武田家を無碍にはできまいて。
236 :
日本@名無史さん:02/12/04 02:30
237 :
日本@名無史さん:02/12/04 02:31
(゚Д゚)ハァ?
238 :
日本@名無史さん:02/12/04 02:49
239 :
日本@名無史さん:02/12/04 03:12
>穴山信君の弟は義信の件で切腹になっている。
嘘だろ。
信玄のやり方に問題ありだ。三国同盟堅持して家康を確実に倒しておけば、三国同盟の主導権を握れたし謙信、信長とも安全に対戦出来た。
後継者問題も起きなかったし穴山・小山田の半独立化も阻止出来た。
晩年の信玄は焦りすぎだった。せめて家康を時間かけてでも今川・北条と協力して潰すべきだった。
241 :
日本@名無史さん:02/12/04 12:06
>>203 信君は反対してた。決戦を煽ったのは長坂と跡部。長坂は信玄に恨みをもってた。
242 :
日本@名無史さん:02/12/04 12:20
信玄は駿河の安倍金山を領有と、海が欲しかったので駿河進行した
んですよ。信玄が生きていた時に家康を討ち取るチャンスはあった
はずなのにしなかった。これが問題です。
243 :
日本@名無史さん:02/12/04 14:31
244 :
日本@名無史さん:02/12/04 14:49
なぜうらんでいたのですか
245 :
日本@名無史さん:02/12/04 15:19
穴山信君公のお墓が、京都府京田辺市の木津川西岸の
丘にある村、飯岡の共同墓地の中にあります。
246 :
日本@名無史さん:02/12/04 15:55
>>240 >>242 三河はもともと今川領だったのが離反したという扱いだから、
三国同盟堅持で三河を攻めるなら今川氏真の了解が必要となる。
信玄は氏真に単独での三河攻めも打診しているが、氏真は断っている。
それどころか氏真は信玄が信長と同盟したのに怒って謙信との同盟を
画策している。
あと、小山田・穴山は別に信玄の頃に半独立となったわけではない。
遥かに昔からそうであった。基本的にずっと武田派だった穴山はそれを
認められ続けただけだし、小山田は信虎の頃に敵対もしたが、大勢力の
懐柔ということで信虎が許可を続けた。(それでも棟別銭を徴収したり
しているが)
>>241 長坂は長篠に出陣してないから、たとえ恨みがあっても決戦は主張できない。
武田家の最期にも一緒に自害してるしね。
>>244 長坂の息子が義信事件に連座して切腹となっているから。
まあ恨んでいたとも思えないが。
247 :
日本@名無史さん:02/12/04 16:52
山県だって兄貴が・・・・・
248 :
日本@名無史さん:02/12/04 17:53
油川って信虎のおじいさんが、長男である信虎の父親に後を継がせたくなくて次男に継がせようとしていて、
その次男が油川だったんだね。
信虎の爺さんと信虎の父親の弟が組んで信虎の父親とたたかってるんだね。
結局爺さんが死んだら、跡継ぎは信虎の父親になった。
でも、信虎の親父が早死にして油川とまた、戦いになった。
信虎は小山田とも戦ってるね。
>>247 山県の場合は兄貴を売って出世したんじゃなかったっけ?
250 :
日本@名無史さん:02/12/04 18:51
>>249 あなたがわざと、めちゃくちゃな事を書くのはもうみんなわかってます。
まあ、せいぜい一人で遊んでください。
251 :
日本@名無史さん:02/12/04 19:27
甲斐は武田、穴山、小山田の3家の勢力で三分されていた。
穴山は武田のわかれだが勢力はあるし血筋もよいので御親類衆筆頭なのは
当然。
252 :
日本@名無史さん:02/12/04 21:03
>>251 正論だ。穴山・小山田の存在は大きい。武田氏とは完全と言わなくてもほぼ対等の関係だ。
信玄が居たから抑えられたけど、勝頼では荷が重すぎた。
253 :
日本@名無史さん:02/12/04 21:21
穴山・小山田ってそんなデカかったか?
動員力そんななかったような。
歴史群像見ただけだが。
254 :
日本@名無史さん:02/12/04 21:23
穴山は河内以外にも勝頼の時代に駿河江尻に入ってその勢力は肥大化した。
255 :
日本@名無史さん:02/12/04 21:29
だから族臣と譜代家老だろが。
対等ではないよ。
256 :
日本@名無史さん:02/12/04 21:29
山県昌景の後釜ね。長篠後。それ以前はどうなの?
257 :
日本@名無史さん:02/12/04 21:30
ほぼ対等って・・・んな無茶な。
ちと遅いレスだが
松姫一行が通った松姫峠(なんてベタな名前だろう)は、思いっきり小山田領をとおっているな。
岩殿城の側を通らなきゃ行けない峠だし。
もし、松姫が通った時、既に小山田氏に叛意があったら、たとえ娘が同行していたとしても、松姫を通すだろうか?
それと、4日で北条領まで言ったとか言う説もあるらしいけど、それは無理でしょう
松姫峠越えるだけでも、1日できついというか、女性では無理でしょう!
越えたって、まだ奥多摩より更に奥に出るだけだし。
松姫峠を通ったっていう事から、4日では八王寺にも出れないはず。
可能性があるのは、谷村の雛鶴峠越えをした場合だけだな<4日で北条領
こっちなら、峠越えて、少し行けば相模の国だし、大して険しい道じゃないから。
でも、谷村は小山田の本拠だから、無事に通れるとは思えないけど
259 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:02
小山田が見逃したんじゃないの?
さすがに憐憫の情を禁じえなかったとか。
相手は女だしね。
260 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:05
信玄は血族を重用しなかった。評定での発言権も小さかった。そんな不満が
勝頼の代になって爆発した。特に長篠以降は譜代の家老衆が殆どいなくなった
から、親族は勝頼に無言の圧力をかけた。現実に親族は勝頼の命令に従わなくなり
穴山は国人大名的な立場になる。
勝頼の無能さは語るまでもない。1582年の甲州征伐では木曾口で今福昌和が織田勢と戦い、盛信が高遠で篭城した以外は
殆どが逃亡、若しくは織田軍に投降しており将棋倒し状態だ。勝頼率いる武田氏の組織が勝手に自滅してる。
261 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:07
だから穴山信君が筆頭でなくて穴山家が筆頭だよ。
あと筆頭は一人でない。勝頼時代は信廉と信君だよ。
262 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:08
>>261 んなもんどうでもいい。スレの主旨から脱線してる。
263 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:10
264 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:16
まあ俺が穴山なら勝頼斬り捨てるね。
265 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:19
逸脱してないだろ。それだったら小山田、松姫だろ。
自分に都合悪いからって逃げんなよ。穴山厨め。
266 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:20
まあ俺が勝頼なら穴山斬り捨てるね。
267 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:20
268 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:21
松姫が逃げた時に家臣も一緒に行ってるから子供と女は馬にのっていたんじやないかな?
比較にはならないけど大名行列は江戸から静岡なんて一週間かからないでしよ。
269 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:22
>>267 すごいな。おれもやってみようかな。
みんなはどうよ?
270 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:23
271 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:25
穴山だったら盛信の母親の方が血筋は良いよ。
信玄の姉が嫁ごうが家で比較したら油川の方が上。
ただ、当時の力で筆頭になつただけだよ。
>>268 松姫峠は、馬が通れるような峠じゃないです。
んで、おいらが勝頼の立場だったら、穴山信君を江尻には置かないな。
江尻においたために力を持ったんでしょ?
穴山を辺鄙な所においやって、江尻には真田(長篠以前なら、武藤喜平か)を入れるとか。
273 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:34
山県とか有能な連中が抜けちゃったから
穴山ごときを入れる羽目になったんじゃないの?
能力でなく家柄で駿河を抑えようと。
274 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:34
松姫は勝頼が上原城にいる時に北条婦人と話し合い、戦況が悪く織田軍の甲斐侵攻が
確実なので武田の旧臣がいる八王子に逃れる事にしたそうです。松姫が八王子に向かった後に勝頼は
新府に戻り城を焼いたそうです。
松姫は八王子で勝頼の死を知ったとか。
275 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:36
>ただ、当時の力で筆頭になつただけだよ。
それが重要なんだよ。血筋と力量は比例しない。
>まあ俺が勝頼なら穴山斬り捨てるね。
勝頼にそんな力はありませんでした。
276 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:46
というか家臣の中で一番力があったわけよ。
でも例えば各家臣の兵力が五十人で穴山だけ百人という事もありえるわけ。
全体では五千人いても一番兵力持ってる家臣は百人の場合筆頭になるわけ。
この場合、武田家と対等かな?家臣の中には従順な者もいるわけだしね。
277 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:46
>>273 家柄だけではありません。信玄在世の頃から信君の政治手腕や文化・教養人として
高く評価されています。長篠以後、駿河を治められる人物は他に見当たりません。
善政を敷いた民政家としての信君は清水市にいけばよく分かると思います。
278 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:48
>家臣の中には従順な者もいるわけだしね。
従順な奴が何人いたんだ?滅亡時、40〜100人と言われてる事実。
279 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:54
>>276 だったらなんで勝頼は信君に遠慮すんだよ。勝頼は信君の機嫌を損ねないように必死じゃないか。
信君は当然のような態度だったんだぞ。どう説明する?
280 :
日本@名無史さん:02/12/04 23:10
>>278 またまた、荒らし君だね。
滅亡時逃げたから従順じゃなかったのかよ。
>>279 義理の兄貴であり勝頼は当主じやないからでしよ。
でも必死だったってのはどこからのソースですか?
高坂は長篠の事で信君と信豊に切腹させろと言ったけどさせなかった。
でも、それは重臣がほとんど死んでこれ以上人材不足になるのを恐れたからでしょ。
>>280 おいおい荒らしてるつもりなんてさらさらないぞ。真面目に書いてる。
高天神落城からは従順な家臣なんて消えただろ。絶対見捨てないというのが
主従関係の基本だ。勝頼はそれを怠っている。それ以後、組織的な戦闘は不能
になってでしょ。変ないいがかりつけるなよ。
都合悪い意見は荒らしでは議論にならない。武田の組織崩壊もそんな感じで進行したのでは?
282 :
277・278:02/12/04 23:21
僕は荒らし扱いされてるから抜けるよ。勝手に語って、じゃね?
283 :
八王子市民:02/12/04 23:22
>>259 織田信忠の婚約者でもある松姫を小山田が北条側へ逃がしたので、
それで小山田信茂らは織田信長に殺されたって話も伝わってます。
284 :
日本@名無史さん:02/12/04 23:26
>>273 そうか?
3月23日まで、塩山にある寺でかくまわれていたという話だが。
で、3月27日には八王子の上恩方にいたことになってる。
とすればとりあえず甲斐からの出口は和田峠だったことになるな。
まあ軍勢の行軍なら普通の速度なんで、女子供は輿かなんかに乗せて
移動したと考えるなら辻褄は合うな。
その場合だと信茂も協力的だったと考える方が自然になるのだが……
>>280 穴山の増長ぶりなんてのは『甲陽軍鑑』ぐらいしかネタ元が無いわけで、
その場に存在しない長坂が決戦を主張し始めるような長篠合戦のくだりで、
穴山信君が戦場を勝手に離脱したなんて書かれても信用性低すぎるし、
まして高坂がその事で信君に腹を切らせようとしたなんて話ときたら。
検討する以前の問題と言えるんではないか?
結局『甲陽軍鑑』てのは、武田家滅亡の責任を信君・信豊・信茂・跡部・
長坂あたりに負わせたくて無茶苦茶書いてるとしか思えない。
285 :
日本@名無史さん:02/12/04 23:30
>>281 高天神の後組織的な戦闘が無いと言い切れるのも凄い自信だな。
10月に北条氏と戦っているのに。
それに見捨てたら終わりだってんなら、家康なんざとっくに終わっとる。
当の高天神を最初に見捨ててるのは家康だからな。
戦略的に見捨てるべき時は見捨てるべきだろう。
286 :
日本@名無史さん:02/12/04 23:31
信君が信玄時代は内政・軍事両面で有能だったんだよ。もちろんこれらは
信君の勢力が強かったことが伺える。信君を無能のように言うのは光栄ゲー
ムのやり過ぎ。
287 :
日本@名無史さん:02/12/04 23:36
>>281 穴山が筆頭になった段階で武田家家臣は従順だったわけですよ。
ちなみに八王子の上恩方に出たということは、実は松姫峠を通った
可能性は低いということだ。
あの辺にゃ松姫と名のつくものがやたらとあるが、全部信じてたら
きりがない。
289 :
日本@名無史さん:02/12/04 23:42
>>241 決戦を煽ったのが跡部と長坂?
実際は長坂は留守番してて出陣してなかったし、
跡部も文官だったが。
昨今の説では設楽原の突撃は勝頼と老臣の合意のうえというのが定説、穴山に限った事ではない。
>>280 信豊と信君を切腹させろと高坂が勝頼に進言した。
その話しはおそらくデッチ上げ。
高坂自身が作者の甲陽軍鑑がソースだろうが、この書の信頼度は非常に低い。
常に跡部と長さかが悪役にされているが、最後の方になると信豊、信廉、穴山、小山田の悪口も出てくる。
おそらく高坂の考えが書かれているのだろう。
290 :
日本@名無史さん:02/12/04 23:46
>>289 いや高坂は最後の方死んでるような……
跡部は跡部氏の人間として、かつては武田家と甲斐の主権を争ったほどの
勢力を抱えているだけに、ただの文官だったとも思えんのですが。
『甲陽軍鑑』で若かりし日の昌景と一緒に信玄の太刀持ちしてたりして、
近習上がりのエリート軍人だったということはありません?
まあ本筋には関係ないけどさ。
>>280 >>285 ごめん、やっぱ抜けられない。武田好きだし。組織的戦闘が不能は言い過ぎた。
ただ、長篠以上に高天神落城は家臣にとって衝撃だったのでは?と言いたい。
高天神の最期は悲惨だったでしょ。家康が高天神を落とされた時とは状況が違いすぎる。
信君が家康を通じて信長と交渉に入ったのもこの頃と言われてる。前線の城将は
勝頼の後巻が期待できないと不安にかられて自壊していったんじゃないのかな?
292 :
日本@名無史さん:02/12/04 23:48
信豊、信君を切腹させていたら、その時点で武田家は崩壊しているでしょ。
もっとも、そんな力が勝頼にあるわけないが。
どっちにしろ
>>280は信頼性の低い甲陽軍鑑を信じこんでて
古くさい講談のような話しばかりしてるな。
もう少し勉強して欲しい。
293 :
日本@名無史さん:02/12/04 23:49
>>291 篭ってる本人が来るなって書状よこしたんだからいーじゃん。
>>293 岡部は後巻きを再三頼んでる。一部の城将が援軍無用と言っただけ。
また高天神は信長の命で降伏を許さず皆殺しにするようになってた説がある。
後巻きを頼む岡部に勝頼は家康に降っても自力で脱出してもいいと言ってる。
助けられない自分の非力さを謝るばかりだと岡部に伝えてる。
296 :
日本@名無史さん:02/12/04 23:57
http://www6.airnet.ne.jp/ryotaro3/matuhime-1.html 松姫はここに書いてあります。見識者の方どうですかね?
二月四日新府城を後に、高遠から従ってきた家臣、窪田、金丸、志村、馬場、加藤、
上条、内藤、猿橋、中沢、土橋、平岡、柴田、さらに侍女として柴田の母、土橋の母、
丸山の女、籠かきなどが加わり、総勢二十余人の一行は一路東を目指して韮崎の新府城を出発します。
一先ず古府中では松姫と親しかった盲目の兄竜宝の住む光明寺に厄介になります。
親族と今後の身の上を相談するのですが、次々に入る知らせでは、何れも武田軍の敗色が濃くなるばかりです。
松姫の一行は翌五日朝従者らに護られながら古府中の入明寺を出立して一路東を目指し、笛吹川を渡り一日目は
上栗原(かみくりばら)の海島寺までやって来ます。この寺は武田家と非常に縁の深いお寺で、新羅三郎義光から
十一代目武田形部大輔信成の四男、栗原重郎武続が1382年に如意輪観音を祀り開基した寺で、その後は武田家
歴代の家臣の姫達が尼僧となってこの寺の法灯を護ってきたのです。
297 :
日本@名無史さん:02/12/04 23:57
一行はしばらくはこの海島寺の尼僧の好意によって二月末までお世話になっていましたが、武田軍の敗色がいよいよ濃く、
次々と織田勢に破られたとの噂が伝わる中で、一行はこのまま東を目指すべきか思案をめぐらし一先ずは、山辺にある、
これも武田家と縁の深い塩山の向嶽寺へ向かい身を隠すことにします。
真っ直ぐに笹子峠を越えて、甲州道中を東へ向へなかったようです。その訳は、笹子峠から東は逆賊小山田信茂の領地で
ある為にままならず、ここを避ける必要があったのでしょう。しかし松姫はこの時、信茂の娘、香具姫を連れていたのですから
笹子峠は無事に越えたのでしょうか?
信茂の謀反は三月六日までは発覚しておらず、松姫一行が笹子峠を越えたかどうかは微妙なところで、田野から東へ大鹿峠を越えて
初狩へ下りてくる山路も想像に入れなくてはならいかもしれません。
三月九日には勝頼の一行が小山田信茂の謀反により阻まれて、笹子峠を越えられずに、田野から北の木賊にある、武田家菩提寺の
天目山栖雲寺へ退路を改めましたが、既に行く手を遮られてしまいます。いよいよ覚悟を決めて田野まで戻り、追い詰められて最後
の決戦を交えたのです。勝頼の手勢は脱落者が続出し、最後は僅かに五十名程に減っての戦いだったそうです。
天正十年三月十一日、ついに勝頼は制覇の思いを果せぬままに妻の北条夫人、子の信勝と共に自害したのです。
298 :
日本@名無史さん:02/12/04 23:58
一行が始めから武州を目指していたとしたら、その当時の甲州道中は小仏峠ではなく、大菩薩峠から小菅村を通り、
風張峠から檜原村の浅間尾根を通る道が、東への主要な街道だったはずです。更に地図を良く見ていると
、塩山向嶽寺から東を目指したとすれば、最も自然に考えられるルートが、大菩薩峠になるので、そうだと仮定
すれば小菅へ抜けたと考えた方が妥当と考えてしまいます。
しかし季節は未だ山中は冬と同じ、旧暦として考えても夜間は相当に冷え込んで、大菩薩峠の標高は2000bもあり
街道と言っても獣路同然で、裂石を経て大菩薩峠を越え、現在は「牛の寝通り」と呼ばれている松姫峠に繋がる
尾根路を歩いたと考える事もできますが・・・・一行の中に三〜四歳程の幼女を三人も連れた道中は、想像を超える
大変な難行だったでしょう。
しかしこれは単なる推測でしかなく、これらの足取りも不明な点ばかり、敗走の兵もおそらくは追っ手に追われ東
に落ちていたでしょう、二十名もの人数は追手から目立ちもして、思うようには行動出来なかったのでしょう。
地形的にもルートを考える上でも資料に出てこないのが松姫の名まで付けられた肝心な松姫峠の謎です。
松姫峠へ出かけてみる人は皆一様に松姫が通ったものと信じていますが、どうなのでしょうか?
また大月から北へ国道を14kmも行くと、松姫鉱泉があります。そこに松姫神社と書かれた鳥居があって
、社は有りませんが、奉られている立ち枯れた御神木の根元は直径が1メートルも在り、ここを松姫が通ったのだとすれば
その当時も其処に在った事と思われる立派な巨木です。
299 :
日本@名無史さん:02/12/04 23:59
穴山が勝頼の言うことを聞かなかったっていうのは確かな文献はあるの?
言うこと聞かないから、権力あったとなってないかい?
300 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:00
>>290 長篠の時は生きてるよ。
その後は江戸時代に武田軍学で財をなした小幡とかが、
面白おかしく編纂しまとめた。高坂の息子も執筆してたかな。
跡部に関しては勝頼の守役だから軍議に参加してもおかしくはないが、
設楽原の決戦は勝頼が頑として決戦を主張し老臣を押し切ったなんて話しはウソで、
老臣も賛成したというのがこんにちの説。
302 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:05
跡部が勝頼の守役てのは初耳だな。
303 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:05
小山田逆心の話しも嘘らしいよ。
小山田が勝頼一行に鉄砲を打ちかけたなんて話しは質の低い資料にしか出てこないし、
小山田は最初からほぼ独立勢力のようなものだった。
真田と小山田が「我が城におうつりいたすように」と薦めた話しも嘘だったはず。
ゆえに松姫は妨害されなかったと思うが。
>>303 なら上杉を頼って北に逃げようとは考えなかったのかな?
305 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:09
阿部って本当にいたんだよね。俺跡部で出しにくいから大河ではこいつだけ名前変えた
とおもったんだが。
306 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:09
>>304 甲斐国内に踏みとどまりたかったんだろう。
小山田の積極的支援も内心は期待してたかも。
307 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:11
俺が武田関係のホームページを見た時に、真田が最初誘って真田の元に行くのが決定してそのご信茂が進言して
甲斐を捨てないで岩殿に行くことになったと書いてあったよ。
阿部加賀守勝宝は天目山で勝頼に殉じています。木曾義昌離反の報を最初に受けたのも阿部だった気がします。
309 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:11
>>304 何万いるかわからんような織田の大軍引き連れて北に逃げたら、
越後まで一緒に滅亡してたなw
310 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:12
311 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:12
武田の全ての基盤は甲斐にあるからね。
あと真田にいたっては小山田以上に油断ならないしな。
北条、織田と怪しげなやり取りをしてたし。
312 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:16
甲陽軍艦は二人同時の進言だよ。
313 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:16
>>308 天目山ではなく田野が最後の地だったはず。
ちなみに跡部もそこで死んだ。
>>309 だねえ。とてもじゃないが信濃なんて通ったらルート的に危険。
314 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:19
>>313 むしろ武田家の滅亡を覚悟すれば、身内を越後に逃がすには自身は東に
逃げる必要があっただろうね。武田信清始め結構越後に無事に逃げてるし。
>>304 勝頼のかみさんが、兄(氏邦だっけ?。氏政ではない)を頼れって言ったから北条を頼ったんでしょ?
上杉景勝のかみさんも信玄の娘なんだから、上杉でもよかったかもしれないけど。
でも、御館の乱以後の上杉よりは北条の方が頼りになったんじゃない?
>>296 よく調べてあるサイトを貼ってくれてありがとう
向岳寺にいたのが事実なら、大菩薩→小菅→青梅街道と通ったと考えるのが自然では?
青梅街道からなら、桧原にも行きやすいし、滝山街道を通って、滝山城にもいけるからね。
滝山城の保護下にはいれば、八王寺城に保護されたも同然でしょ。
>>313 便宜上、天目山と書いただけだよ。厳しいなあ。。。
317 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:20
やり取りしてたのは滅亡前なの?
真田は武田には恩があるでしょ。旧領回復してもらってるし。
昌幸なんか人質で行ったのに小姓にしてもらって一度は武藤家を継がせて貰ったし。
318 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:20
どっちにしろ真田はやたらと好意的に見られてるからね。
絶対に裏切らない良い奴の集団って感じだ。
319 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:22
それでも真田は先方衆だからってのも軍艦の記述だっけ?
321 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:25
>>317 そうだよ。現存している北条とのやり取りの書状にも「何度も書状、ありがとうございます」
というくだりがあって、何回も書状をやり取りした形跡がある。
それに勝頼にしてみれば甲斐国内で滅亡を迎えたい気持ちはあるだろうし、
真田や上杉に頼るのは不安でもあったろうな。
322 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:27
松姫峠は名前だけで通っていないというのが統一見解でしよ。
323 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:29
>>317 真田から北条に宛てた現存する手紙は滅亡して1ヶ月後の4月8日付のもの。
文面からするとそれ以前に何度か手紙を出しているらしいが。
324 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:31
>>321 ウソ言うな。
初めて送った書状→「雖未申通候、啓達候」(現存)であって、
何度もやりとりした事実はない。
325 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:31
>>321 滅亡しようとして信茂を頼った訳ではないでしょう?
滅亡前にやりとりしたなら、甲州法度違反ですね。
武田家当主の許可なしに他国の人に書状を出したら破門です。
鬼美濃が一回食らってます。
326 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:31
>>320 幸綱・信綱が先方衆ってのは軍「鑑」だったと思われ
>>319 大月の奥の方には、松姫の伝説が数多く残っていて、松姫峠を通った可能性も捨てがたいと思います。
この場合、大菩薩→橋倉鉱泉(真木鉱泉の更に奥)へでる道もあるから、そっちを通ったのではないでしょうか?
かなりの山道ですけどね。
そうすれば、現在の松姫鉱泉の少し奥に出てこれ、そのまま松姫峠に登れます。
このルートなら、人目につかないし、岩殿城からも見つけられないでしょう!
でも、4日で八王寺城の保護下に入れたってのは、無理だと
間違った。
3月12日付で氏邦から臣従を進める書状が来てるが、
それ以前に何度か真田から打診があったらしい。
4月8日は信長から書状が来た日やね。
>>325 そりゃ違反だろうが何だろうが
滅亡寸前だしさ。
330 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:36
>>327 いや、江戸時代以前にはむしろ大菩薩峠の方が甲州街道の本流なんだから、
人目につかないことはないだろ。
331 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:37
>>325 君は甲州法度の細部を知らんな。「境目の衆に関しては許す」ともある。
つまり敵と境を接してる連中ならOK。真田は上州で前線にいるから
問題ない。
332 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:38
>>325 新府城で信勝が「山小屋などに篭って見苦しい最後を迎えるよりもここで最後を迎えるべきだ」と主張していて、
彼らの覚悟はかなり決まってたのではないだろうか?
それで最後の地として想定したのが天目山だったはず。
ここは要害だし、小山田が援助してくれるかもしれないので。
333 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:39
>>327 岩殿城が問題なのではなく、小山田家が長年治めた郡内の民は
武田家より小山田家に従うだろうから、郡内を通る事自体が危険では?
しかも信茂の娘まで連れて。
334 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:40
>>331 勿論、隠れて書状のやりとりをしてたとは思うが。
335 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:41
>>332 天目山は要害というより、上杉全秀の乱に加担して敗れた武田信満が
自害した場所……その数代に渡って、武田家は甲斐を追い出されてる。
が、その後見事に復活してる。
まあ復活の願掛けみたいなもんじゃないかな。
336 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:42
小山田は裏切ってなどいないと思う。
大月市の研究家もそう言ってる。
確かに積極的援助をしなかったのは消極的裏切りと
言えない事もないが。
どっかの歴史化が言ってたけど、人間は与えられた歴史の中でしか生きられない。
人物を評価する時は、与えられた歴史の中でどれだけ能力を開花できたかを冷静に
判断する必要がある。
信玄と勝頼を比較するのは無理がある。あ〜何が言いたいのか自分でも分からん。
>>327の補足
陣馬街道を通ったって言うのは、否定的ですよ<おいら
大菩薩→小菅でも、松姫峠を通った場合でも、陣馬街道にでるには、一度 上野原に下りてこなければならず、遠回りになるからね。
陣馬街道を通ったとするとしたら、小山田氏が見て見ぬふりしてくれて、岩殿城下を素通りしなけりゃならないと思う。
339 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:44
>>334 隠れてやる必要は無いんだよ。境目の連中は。
真田幸綱の頃にも、上洛して返ってきた謙信に、幸綱が太刀を送ってる。
で、比較する穴山がずっと出てこないのだが・・・。
341 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:45
>>335 じゃあ、やはりその地で最後を迎えて、
のちに子孫が復活して欲しいという祈りだったのかな。
342 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:46
>>339 まあ、そうだけど、場合によっては武田家を裏切る相談かもしれないしさ。
343 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:47
>>338 時間的には笹子峠(と言っても当時は間道だが)を超えて信茂の娘を盾に
大月を通過し、上野原から陣馬街道へと抜けた方が早くないか?
信茂が本気で織田家に寝返るつもりバリバリなら、大菩薩峠はむしろ
必ずチェックしてるだろう。甲州街道は当時はこっちなわけで。
344 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:48
>新府城で信勝が「山小屋などに篭って見苦しい最後を迎えるよりもここで最後を迎えるべきだ」と主張していて、
ソースは?
>それで最後の地として想定したのが天目山だったはず。
>ここは要害だし、小山田が援助してくれるかもしれないので。
岩殿に入場拒否されたから天目山に逃げるしかなかったんですよ。
345 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:48
>>342 境目の衆が敵と話すことなんて、「危なくなったら寝返ります」とか
ばっかりだと思うよ。
むしろそれが普通の行動なんで、信玄も許していただけじゃ。
>>333 327で言ってるルートは、確かに郡内だけれども、人里もないし、安全なルートだとは思うが。。。
小菅は甲州の郡内というより、武蔵の国の山村っていったほうがよいくらいの所だよ。
近くには武田の金山があるけど、沢違いなんで、、、、
もし、上州や秩父の方へっていう気持ちが少しでもあったら、奥多摩まで行けば、山道だけど行けないことはないしね
347 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:50
>>344 信頼できる史料があるんなら、こんなに議論にならないでしょ。
彼の想像だと思うけど、可能性としては否定できないだろう。
何しろマトモな「ソース」が無いからなww
348 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:51
>>346 信長公記では勝頼主従は食料にも窮し、勝頼自身最期はろくな働きもせずに討たれたと
書かれているが。体力的にそこまで逃げられないんじゃないの?
笹子をふさがれて、勝沼には滝川の軍がいたんじゃ、天目山方面しか行けそうな方向はないですね
351 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:53
352 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:55
>>349 信長公記にはんなこと書いてありまへん。
353 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:55
しかし甲乱記には善行寺で勝頼一行が「我らを極楽往生させてくれたまえ」と祈った話しも載っている。
>>352 ごめん、押した後気づいた。なんの史料だったかごちゃ混ぜになってる。
滝山街道からでも陣馬街道からでも上恩方にはいけるよ。
>>346の後半は、上州や秩父の方へっていう気持ちがあったら、つまり鉢形城へ逃げ込む事を視野にいれていたらって事では?
結果として、八王寺に行ったんだけどね。
さて、そろそろ寝るわ
ここが、にぎわってるの初めてじゃ?w
356 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:59
信長方の資料だと勝頼親子は腹へって動けなくて簡単に討ち取られたと残ってるよ。
ろくな働きとは表現してないよ。
ん〜なんかの史料に勝頼を討ち取った足軽の名前もあったぞ。
358 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:00
どっちにしろ情けない最期だったと書きたいわけだろ
359 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:01
武田方の資料では勝頼は自刃したと書かれているが
360 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:02
織田方ちゅうても信長公記だと武田の皆さん頑張ってますな。
361 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:03
362 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:03
あと、信長に提出する段階で勝頼の首がどれかわかんなくなったけど、
ある馬の毛がついていて判断したと信長方の資料に残ってるよ。
364 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:04
365 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:05
>>362 だから「織田方」って何だよ?
何ていう史料?誰が書いたの?何時書かれたの?
367 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:06
>>364 ところがこの部分は、勝頼を討ち取った伊藤伊右衛門の手記の引用って書いてあるんだよね
信用出来るか出来ないかは謎
368 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:06
>>366 改正三河後風土記は織田方じゃなくて徳川だから、356が言ってる史料は
別のものじゃないか?
勝頼の最期について最も信頼できる史料ってなんなの?
370 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:08
>>367 それは「伊藤伊右衛門永光から聞いた話」として津田幸庵が物語ったと
いう話を書いたという二重の伝聞になっているが・・・
371 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:09
372 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:09
『伊藤伊右衛門が咄とて津田幸庵が物語せしは、近年の物語を見るに、
勝頼切腹と書きたるもあり、又事々しく戦て討死し給ふ様に書たるも
あれども、我その頃は小平次といひ、滝川方に居て、伊右衛門と傍輩
なれば、まのあたり見たるに左様にてはなし。勝頼は鎧の櫃に腰を掛け、
太刀にて防戦し給ふといえども、飢疲れ給ひ何の働きもなく、伊右衛門
討取りたりと、板倉周防守宅にて物語せしと見えたり。』
373 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:11
おーいい根性しとるなー
ブラクラは立派な器物破損で刑事罰の対象だからな
一発で規制対象になるから気をつけろよ
374 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:13
つーか踏んだ
クソ
375 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:14
>>372 内容を読んだ?
>我その頃は小平次といひ
この小平次って津田幸庵の事だよ
376 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:19
ブラクラのせいでいきなり寒くなったな
377 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:20
信長方でなくて三河風土記だろ。
378 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:20
>物語せしと見えたり
これってばどういう意味?
379 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:20
そもそもあんまりスレタイとは関係ないところで盛り上がってるわけだが
380 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:20
エラーチェックのため今日はもう落ちるしかありません。
さようなら。
初心者のアフォがどっかの部落らのアドを拾って貼って
脅されてビビっただけだろ
ネット警察に通報しとけばいいよ
382 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:23
>>373 まじですか?
ごめんなさい。あやしいので確かめてもらおうと思って・・・
みなさん371は見ないで下さい。
383 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:23
384 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:23
385 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:24
怖くて見れんが拡張子ついてなくても、ブラクラなのか?
386 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:25
387 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:25
ブラクラって何?
388 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:25
389 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:32
いきなり静かになったな…
390 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:33
391 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:33
392 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:34
393 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:36
>>393 一昔前の無限スクリプトなんて、今時ほとんど効かん
395 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:45
穴山と小山田に甲州法度が適用されなかったと言う資料はあるの?
396 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:47
はっきり親類衆「筆頭」として穴山と書いてある資料はあるの?
397 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:55
>>394 え!踏んですぐに書き込む事は無理って事?
>>397 それよりオマエ、自分で削除依頼でもして来い
399 :
日本@名無史さん:02/12/05 02:07
必死だな。踏んでないくせに。
400 :
日本@名無史さん:02/12/05 02:08
大河の諏訪四郎神勝頼って名前は実際に言われてたの?
阿部勝富ってどんな人?
踏む前にチェックするけどなw
あんな判りやすーいURLなんか踏むかってのw
ま、しっかり報告はしたが
402 :
日本@名無史さん:02/12/05 02:19
急に書き込み無くなったって事は自作自演してるヤシがいたって事かな?
403 :
日本@名無史さん:02/12/05 02:25
404 :
日本@名無史さん:02/12/05 03:30
みんなどうしたの?
405 :
日本@名無史さん:02/12/05 07:53
406 :
日本@名無史さん:02/12/05 07:57
武田二十四将図の中には信玄と信君の顔が似せて書いてるのあるね。
あれはやっぱり近親だからわざわざ似せてるのかな?
それとも実際にてたのかな?
あと大河で信廉が信玄の着物着て影武者やってたけど、信玄の影武者を弟
の信廉がやっているのではなく、中井の影武者を篠塚がやっているように
見えた。篠塚は中井と兄弟だと言えば言えるようなメイクだったよ。
407 :
日本@名無史さん:02/12/05 08:06
書いたらすぐにチェッカーでブラクラと判定して書いた人がいるのに踏んだ人いるの?
踏んだと書いた人いたけど結局チェッカーでしよ。
408 :
日本@名無史さん:02/12/05 08:12
>>407 踏んじゃったよ。それから急にみんないなくなったでしょ。
>>371 のせいでぶちこわしだ。やっぱ所詮2ちゃんではろくな議論が出来ない。
409 :
日本@名無史さん:02/12/05 08:17
この時代、守護大名でなければ国人領主ですよね?
信濃の国でわかるように、何人もの武将がみんな自分の領地はもってるでしょ?
その中で武力と婚姻で勢力を伸ばして国を統一したのが安芸で言えば元就、信玄も同じ。
結局は家臣に組み込んでも家臣の領地を没収するわけではないから、甲斐の穴山、小山田に限らず
他の国でも家臣で領主というのはいるわけですよ。
なぜ日本全国で穴山と小山田だけ同盟者と言われるんでしょうか?
同盟と同盟に近い家臣というのは違うと思いますが・・・・・
410 :
日本@名無史さん:02/12/05 08:18
踏んでどうでしたか?踏んで数分で回復するブラクラらしいですが。
411 :
日本@名無史さん:02/12/05 08:23
同盟だったら出陣命令ではなく出陣依頼であり。断わることは出来る。
出陣してもらったらお礼をする。税なり年貢なり払う必要はない。
小山田、穴山がこうだったと言う記録はあるのかな?
412 :
日本@名無史さん:02/12/05 08:23
関係ないから削除依頼版で話せよ。
413 :
日本@名無史さん:02/12/05 08:35
>家臣に組み込んでも家臣の領地を没収するわけではないから、甲斐の穴山、小山田に限らず
>他の国でも家臣で領主というのはいるわけですよ。
最もだね!
414 :
日本@名無史さん:02/12/05 08:35
>>408 話してる内容からすると最低に見積もると話しに加わってたのは三人だよ。
寝る時間で寝たのとチェッカーで見つけた人間が撤退しただけだろ。
君は今朝なんか書き込んでるかい?他の人もまだ起きてないんだよ。
415 :
日本@名無史さん:02/12/05 08:36
甲斐は国人領主の数が少ないから錯覚を起こしてるんじゃないか?
武田と穴山、小山田で国を三分していたというと聞こえが良いもん。
416 :
日本@名無史さん:02/12/05 08:40
>>414 するどい!ちなみに406 407 409 411は私です。
ちなみにブラクラの時は加わっていませんでした。
417 :
日本@名無史さん:02/12/05 08:49
>>410 再起動してエラーチェック。問題でなかったけど、大丈夫と考えていいの?
412、413、414は俺。俺も加わってはいなかったよ。
420 :
日本@名無史さん:02/12/05 08:54
>>418 違いますよ。
ブラクラについていつまでも書いてるのはあなたですね。
421 :
日本@名無史さん:02/12/05 08:56
422 :
277・417:02/12/05 08:57
なにがしらじらしいだよ。俺は277だよ。踏んじゃって再起動してチェックした。
いいがかりつけるなよ。
423 :
277・417:02/12/05 08:59
で、2時半に寝てさっきここ覗いた。不安だから大丈夫か聞いただけだよ。
資料についてふられたから、すぐに飛びついた。IEが300枚起動したよ。
で仕方なく再起動〜エラーチェック。どう対処するのがベストかわからないから
出勤してから書き込みしてんのよ。
425 :
日本@名無史さん:02/12/05 09:11
ブラクラ張った奴もわるいが、いまだに延々とブラクラうんぬん語ったら荒らしだと言うことに気づけ。
426 :
日本@名無史さん:02/12/05 09:15
427 :
日本@名無史さん:02/12/05 09:20
結局いつを基準にするかでは?
跡部だって国人領主で武田を苦しめたけど信玄の頃には家臣になっていた。
穴山、小山田も信玄の頃には家臣になっていたのでは?
領地は、大昔から家臣ではなく強大な力を持っていたから信玄の時代も領地が
広範囲だったと思うのだがどうだろうか?
木曾だって家臣だけど領地は安堵したので持っていたし何を持って同盟とか言うのかわからない
です。
428 :
日本@名無史さん:02/12/05 09:24
>>427 信玄の力があって領主を抑えられた。勝頼の代になると領主の権限が再び強くなっていったと考えるのが妥当では?
430 :
日本@名無史さん:02/12/05 09:30
小山田って2000くらい動員してたんでしょ
>領主の権限が再び強くなっていったと考えるのが妥当では?
木曾みたいに我慢して、我慢出来なくなったら謀反というのはわかるのですが、
ただ単に命令に従わなかったり、反論して自分の反論を認めなかったら従わなかった
という事でしょうか?もしそんな事をしたら、勝頼の代は武田家も大きく山県、馬場、
内藤、高坂、原などは勝頼に従うので穴山が逆らったら征伐する事も出来るから
そんな事しないと思うんですよ。
432 :
日本@名無史さん:02/12/05 09:37
武田ファンは岩殿を難攻不落と思ってますが、全国的には日本五大山城に
入ってないんですよね。
>>431 全くの正論だよなあ。ただそこに勝頼の諏訪衆と長坂・跡部のような甲斐の人間も入ってきて意見に食い違いが出てくるわけでしょ。穴山一人なら話は早いけど複雑になってくるのは確かだよな。
それと身内の圧力は勝頼にはかなりこたえていたんじゃない?
434 :
日本@名無史さん:02/12/05 09:51
家臣になったのが新しいから自分の領地は自分のやり方で治めろと言われた
だけでこれを同盟とみなして同盟だったと書いている人がいるのでは?
木曾、真田はどうだったのかな?
435 :
日本@名無史さん:02/12/05 09:54
>この頃の信茂は騎馬騎二〇〇を率い武田家の4位あたりの動員兵力を持っていた。
一位から三位は誰かわかりますか?
小山田については同盟破棄が当たり前の時代に主家を土壇場で裏切ったとして信長に処刑されたんだから
確実に家臣ではないですかね。少なくとも信長から見たら信茂は武田家の家臣だったと思わせる状態だったと思います。
437 :
日本@名無史さん:02/12/05 10:05
小山田や穴山だけ認められていた事はなんでしょ?
>>435 内藤や高坂、小幡がでっかいんじゃないの?
信長と家康の関係よりも勝頼(武田家)と小山田の関係が主従関係だった
と私は思います。
440 :
日本@名無史さん:02/12/05 10:35
>>438 高坂は自分の著した甲陽軍鑑でケタ違い(文字通りの意味で他の武将の十倍以上だったと思う)の
動員兵力を持っていて怪しいんですが
441 :
日本@名無史さん:02/12/05 10:35
信茂は天文23年、信玄の長女を相模の北条氏康の嫡男、氏政に嫁がすに当たり、
ヒキメ役を演ずる大役を果たす。このヒキメ役は由緒正しい名家の大将が選ばれた。
この頃の信茂は騎馬騎二〇〇を率い武田家の4位あたりの動員兵力を持っていた。
この時期です。
信茂は信玄の葬儀では家臣では筆頭ですね。
4月12日武田勝頼が父信玄の喪を発し、16日恵林寺で快川国師を大導師として葬礼を執行。この葬礼で喪主勝頼に続き、御影仁科盛信、位牌葛山信貞、四番目に御剣を捧持。
442 :
日本@名無史さん:02/12/05 10:38
信茂哀れ。
3月9日 百名足らずとなった勝頼を岩殿城へ迎えると申し出て一行を離れて郡内へ帰る。
10日、従兄弟で家人の小山田八郎左衛門に命じ勝頼に同行した人質を盗み出し、笹子峠の
下で勝頼の岩殿入城を拒み鉄砲を射かけた(鉄砲を真実発射したかは諸説あり)。11日、
天目山麓で武田家滅亡。このため『甲陽軍艦』『理慶尼記』『武田二十四将伝』などで悪人
扱いされる。24日、甲府善光寺で織田信長に拝謁したが殺された。
70歳余の母も妻も8歳の男子と3歳の女子も成敗された。
443 :
日本@名無史さん:02/12/05 10:42
高坂は騎馬400騎でしょ。桁違いではないです。
444 :
日本@名無史さん:02/12/05 10:44
>>443 そうだった。ケタ違いは比喩表現だったな。
でも確か二位以下と比較して異様に多かったと思う。
甲陽軍鑑の著者なのでちゃっかり水増ししたという説が濃厚。
小幡がすごい多かった気がするけど、仕事中で手元に史料がない。
勝頼200、盛信100、のぶかど80はおぼえてる。
446 :
日本@名無史さん:02/12/05 10:49
447 :
日本@名無史さん:02/12/05 10:54
小幡は高坂の娘婿だか養子。
448 :
日本@名無史さん:02/12/05 11:09
天正十(1582)年、木曾義昌の寝返りに始った織田・徳川の甲州侵攻で、築城なかばの新府城では大軍相手に戦えないと判断した昌幸は、
武田勝頼を岩櫃に招いて再起を図ろうとし、勝頼のために曲輪と仮御殿の造営を始めたが、
勝頼は都留郡の小山田信茂を頼り岩殿城へ向かい、その途中の笹子峠で信茂に裏切られ、天目山で自刃し、武田は滅亡した。
こういうのって何を元にホームページを製作してるんですかね?
真田が本当に誘ったと思えてきます。
449 :
日本@名無史さん:02/12/05 11:14
>>448 思えません。
歴史は勝者や生き残った者が作るのです。
真田が自分に都合の良い事書いただけです。
>>446 小幡信貞は武田滅亡後、北条、真田と主家を変えてるでしょ。
長篠でも結構活躍してるよね?
451 :
日本@名無史さん:02/12/05 11:36
小幡は500騎だ。これってトップ?
>>447 小幡は真田と姻戚関係があって真田に身を寄せたように記憶してるのだが・・・。
453 :
日本@名無史さん:02/12/05 11:42
>>451 だから小幡、高坂は怪しい数字なんだよ。
穴山が離反せず、駿河で家康を迎え撃つ準備をしていたら歴史がかわってたのか?
穴山が裏切ったからとか言うけど、もうそんな段階を超えていたと思うのだが。
それと木曽口で織田勢に戦いを挑んだ今福は独断で衝突したの?それとも勝頼後退後、
木曽口に踏みとどまるように命令されてたの?
455 :
日本@名無史さん:02/12/05 13:04
>>411 信茂の郡内は甲州法度に拠らず独自の統治を認められた。
が、郡内の民は棟別銭を武田家に対して収めていたようだ。
信茂の行動は、独立した小山田家としてのものと、武田家家臣としての
ものと両方ある。だが元々は独立した勢力であったことを考えれば
不思議ではない……
>>415 甲斐の領主を三人しか知らないのもどうかなあ。
>>429 勝頼の政策はむしろ領主の権限を規制し君主の権限を強化するもの。
そんなこと言うと「だから離反されるんだ」とか言われそうだけど、
どんな政策してても落ち目になったら離反はされるわけで、
勝頼の責任だとは言えないだろう……
だいたい信長に従っても領主の権力は戻っちゃこないわけでさ。
強い者に従って生き残るのは国人領主の当然の行動。
木曽・穴山・小山田に限らずね。
456 :
日本@名無史さん:02/12/05 13:15
>>432 城の規模と堅固さは別だでよ。
七尾城・観音寺城・春日山城などはそもそも面積的に大きいからね。
>>435 同じ『甲陽軍鑑』でも記述が一定しない部分はあるのだが、
小幡・高坂・内藤・山県・跡部などは小山田より多い。
457 :
日本@名無史さん:02/12/05 13:18
>>436 信長の基準なんてアテになりまへんがな。
家臣ちゅうても絶対の忠誠が求められる時代じゃありませんからな。
まして国人領主なんだから。
なんやかや言うても、結局は勝頼が東に逃げて、信茂が領内への立ち入りを
拒んだだけでしょ。落ち目の主君を受け入れる義理は、ありまへん。
458 :
日本@名無史さん:02/12/05 13:20
>>453 小幡信貞が甘楽郡一帯の領主と考えられていること、
春日氏に海津一帯の土地(9000貫?)が与えられていることなど
考えると、あながち嘘とも言い切れんのでは?
それに合計が9000騎にもなる統計じゃ、そもそも計算の基準が
よくわからんわけで。
459 :
日本@名無史さん:02/12/05 13:25
>>454 タイミング的に、上伊那あたりで信忠の軍勢と決戦をやらかそうって
時だったのに、南からの甲斐への侵入に備えていた信君が離反したのは、
やはりデカイでしょう。勝てたかどうかは難しいけど。
あと今福ってことは今福昌和で、鳥居峠かな?
それは勝頼の撤退より前、勝頼の命令で木曽を攻めにいったはずでは。
460 :
日本@名無史さん:02/12/05 13:38
>>400 >諏訪四郎神勝頼(すわしろう みわかつより)
>阿部勝富ってどんな人?
知らぬ。スマソ。
461 :
日本@名無史さん:02/12/05 15:46
>歴史は勝者や生き残った者が作るのです。
>真田が自分に都合の良い事書いただけです。
真田が誘ったていうのは真田家の記録でしたったけ?
462 :
日本@名無史さん:02/12/05 15:49
>独立した小山田家としてのものと、武田家家臣としての
>ものと両方ある。だが元々は独立した勢力であったことを考えれば
>不思議ではない……
これは反目または家臣でなかった勢力が新しく家臣になった場合はみんなそうですよ。
豊臣時の真田だったそうでしょ。
463 :
日本@名無史さん:02/12/05 15:58
>>456 日本三大山城と五大山城と二通りあって両方に属す城がないと言うのが笑えますよね。
誰が選んだんでしょうか?
岩殿は私は登った事がありますが、あそこって何人篭れたんでしょうか?
すごく小さな城でした。裏側の方は尾根続きになっていて、実際には堅固という
気はしませんでした。あの城は実戦経験は無かったんですよね。
464 :
日本@名無史さん:02/12/05 16:18
どーでもいいけどさ、一部の連中よ。
甲陽軍鑑を著した小幡景憲と上野で五百騎を動員してたとされる
小幡信貞は無関係だぞ。
465 :
日本@名無史さん:02/12/05 16:19
一万の敵に対して千人で守るなら堅固さは岩殿>小田原
しかし、十万の敵に対して一万で守るんだったら小田原>岩殿だな。
城からあふれた兵は無駄死して、千人対十万の戦いになる。
466 :
◆KASA8sbcJY :02/12/05 16:21
あああ
467 :
日本@名無史さん:02/12/05 16:23
>甲陽軍鑑を著した小幡景憲と×
著したとも言われる、だな。
>>460 阿部勝宝
五郎左衛門・宗貞。加賀守。甲斐武田氏家臣。使番十二人衆を経て、永禄五年(1562)、武田勝頼付の侍大将となる。天正十年(1582)三月、武田氏滅亡の際、天目山田野で殉死。
470 :
日本@名無史さん:02/12/05 16:28
>>469 ってことは・・・。
ひょっとして全部なのか??
471 :
日本@名無史さん:02/12/05 16:29
>小幡氏は結構独立性が高く、同盟的な要素が高かったらしい。
結局、信玄の代に家臣になって本領を安堵された人はこう思われるみたいね。
なんで武田家だけこんな事になるんだろう。
473 :
日本@名無史さん:02/12/05 16:44
善光寺栗田200騎参上
474 :
日本@名無史さん:02/12/05 16:50
475 :
日本@名無史さん:02/12/05 16:52
信貞
小幡氏は上野国甘楽郡小幡を本貫地とする古い有力国人。
尾張守憲重の代に関東管領上杉憲政が越後へ走り、以後は管領職を継承した上杉景虎(謙信)に属した。
信貞は尾張守憲重の子。別説では重貞の長男。しかし重貞=信貞説もある。
景憲パパ(昌盛)
山城守虎盛の長男。原美濃守虎胤の女婿。甲州流兵学者として有名な小幡景憲の父。
信貞とは無関係だよ!
477 :
日本@名無史さん:02/12/05 16:56
武力で傘下にするか、傘下にしてくれと申し出た者を傘下にするか、威圧で本領安堵を約束に傘下にするかの違いじゃないかな。
穴山、小山田は武田が守護大名になる過程で、本領安堵を約束に従ったので武田がその約束を守っていたので
穴山の金山収入にも口出す事はなく、それを同盟ととる学者もいるではないかと思う。
>>471 上野は上杉・北条・武田の係争地帯だから複雑な関係になるんじゃないの?
479 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:02
480 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:10
>信茂の郡内は甲州法度に拠らず独自の統治を認められた。
これって何に書いてあったのでしょうか?
481 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:11
>山城守虎盛の長男。原美濃守虎胤の女婿。甲州流兵学者として有名な小幡景憲の父。
こっちは遠州出身。
482 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:11
ところで信君の立場はどうなのよ
483 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:13
余談だが当時は馬を下りて戦ったので武田騎馬軍団は存在しないと言ってる人もいるが
小幡に関しては信長公記には馬上で戦ったという記録がある。
484 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:13
なんか勝頼VS家臣になってないか?
>>483 小幡は騎馬戦が強くて馬を入れてきたって話が書かれてるよね。
486 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:18
小幡なんかは自分から傘下に加わる事を申し出て来たから、本領安堵されてる。
こういう場合本領安堵でしょ。
487 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:18
>>484 違うよ。穴山、小山田が同盟だったか、家臣だったか。
ファンは同盟と言い張ってる。
488 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:29
余談だが信清を面倒見た景勝と菊姫はえらいね。
本能寺の変の時に甲斐の国民は川尻をぶっ殺してるけどいち早く、
景勝は信清を援助して武田家再興をしてくれればよかったのになー。
489 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:31
武田が滅亡したのは信勝が勝頼の言うことを聞かなかったから。
お前だけでも逃げて再興を計れと言ったのに一緒に死ぬ事を選んだ。
490 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:43
>>487 で、君はどう思うの?
例えば武田方からみて家臣でも穴山・小山田の腹のなかは違ったかもしれないとか。
491 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:44
穴山辻君
492 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:46
家臣。
493 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:51
家臣ではあっても、過去のようにバランスが崩れる、若しくは崩してやろう
なんて考えは起こさなかったのかな?
494 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:03
>>490 本人たちがどういきがったところで所詮は家臣であらふ。
・・・御三家の付家老みたいなもんじゃないの?
かしんなんだがほんにんたちは・・・。
495 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:08
どうであれ、穴山の態度は最低でしょ。
親類でも同盟でも出来ない態度を勝頼にとっていたわけだから。
496 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:12
>>495 禿同。穴山=蒲池
蒲池は謀反を企んで獄門になり、
穴山は謀反をおこして非人の群れに厨殺された。
497 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:17
>>483 正確にいうと、当時の日本には戦場に乗り入れることが可能な気の強い(鈍感?)馬は稀だったということ。
潤沢に馬を保持していない勢力では通常そういう馬は貴重なので事前に戦場から遠ざけていた。
中途半端に歴史の知識をもっていると、史料の記述を検討するのではなく『甲陽軍鑑』のような史料価値に疑問符がつくような文献からの引用というだけで、スレ全体を否定し個人攻撃を行うのは2chでよくあることだがあえて書く
「いずれも馬をば大将と、一そなへの中に七八人のり、残りは皆馬をあとにひかせ、下りたって、槍をとって・・・・」
『甲陽軍鑑』
498 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:21
勝頼は御曹司の坊ちゃん君主だったということで・・・
499 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:24
>正確にいうと、当時の日本には戦場に乗り入れることが可能な気の強い(鈍感?)馬は稀だったということ。
ある程度慣れだと思いますが。でないと移動中に奇襲くらったら人間よりも馬が混乱して全員落馬しますよ。
500 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:33
どうでもいいことだが、信長と敵対しているのに信長の養女に産ませた
男子が跡継ぎじゃあね。
>>499 これ以上はあれるだけだからもう書きこむ気はないけど、躑躅ヶ崎館から発見された戦国の馬の体高は120cm、
体重250kg。
こういう馬に何ができて、何ができないかは見解の相違だね。
個人的には動物を人間の思いどうりにできるというのは傲慢だと思う。
502 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:38
>>486 いや、小幡信貞は身内の争いで親父ともども国峰城を追い出されて信玄に
従い、信玄が国峰を落として本領に帰してやったんでしょ。
だから完璧に家臣だと思う。
503 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:43
>>501 そんなの知ってるよ。体の大きさと気の強さは関係ないよ。
ちなみに今の馬はデカイ馬の方がデリケートだよ。
あと思いどおりに出来るって誰が言った?
504 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:45
>>483 「馬上巧者」で確かに騎乗したまま攻めて来たとはあるね。『信長公記』に。
だがまあ、関東の武士団は北条家の軍役などからすると戦国期にあってさえ
騎馬の割合が高かったようだが、それでも二割止まりってところ。
全軍の二割が馬に乗ってるだけじゃ、騎馬軍団なんて呼ばないだろ。
普通ならその一割二割の人間すら馬を降りるところ、小幡の部隊じゃ馬に
乗って攻めてきたと。
何のためかと思いを巡らせれば、それはおそらく機動力の確保。
軽装の足軽が走る速度と、重装備の武士が走る速度には差があるはずで、
普通に戦うなら重装備で足の遅い武士に合わせた速度で進まねばならないが、
小幡の隊は武士たちが馬に乗ったまま進むことで、足軽の走る速度に
合わせた、一般的な部隊よりも速い速度で突っ込んでくるということ
なんだろう。
505 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:45
武田と穴山の関係は毛利と宍戸の関係と同じでしょ。
宍戸は事実上の家臣。
506 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:46
>>501 その程度の馬でも、日露戦争において、騎兵の馬としてはそれなりに
役にたった事は実証されてるね。
大砲などを引っ張るための輓馬としては使えなかったけど。
507 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:47
>>495 穴山が勝頼にどんな態度をとったのか、それは結局『甲陽軍鑑』が
あることないこと書いたぐらいしかネタ元がないんじゃないか?
508 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:48
あのさー小山田の投石部隊は射程距離200メートルだろ?
なんで設楽ヶ原で投石しなかったの?
火縄銃は200メートルだと命中率低いでしょ。
武田は鉄砲避けの竹筒使ってたんだから竹筒置いて投石すればよかったのに。
509 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:51
>>501 ここに書いてる連中は歴史群像シリーズの武田関連のは持ってると思うが・・・・
510 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:53
当時の馬が小さかったこと、拳銃は片手で打つのが困難な事は、
時代劇と刑事ドラマの常識だよ。
511 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:54
日露の頃もまだアラブは日本に入ってなかったの?
512 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:58
日露戦争前の北海道にいた馬は9万頭だとさ。すげー多くいる。
513 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:01
>>512 日露戦争にあたって軍が買い集めた馬のほとんどは岩手の馬……
514 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:05
風呂椅子は日本人は戦いのとき馬から下りて戦うと記録している。
515 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:06
>>512 北海道にどんな種類の馬がいたか知らんが、日露戦争で使われた馬は
日本馬ばかり……
516 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:07
清正は馬に乗っても足が地面についたらしいよ。
517 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:10
北海道の馬を使ったとは俺は書いてないが?
頭数の具体的資料があったから書いただけだよ。
俺が言いたかったのは明治にもなると馬がこんなにいたのかと言うこと。
518 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:12
>>517 明治時代になった時点で、150万頭は馬がいたはずだが。
519 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:13
軍事馬としての資料ならね岩手の馬が日露戦争時に17万頭ロシアに行った
という資料があるよ。
520 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:14
>>519 違う。日露戦争で日本軍が使用した馬が全部で17万2000頭だ。
521 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:17
東北担当の第八師団が購入した馬の77%が岩手の馬。
522 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:19
523 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:20
騎馬兵じゃなくて輜重用だけどな。
524 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:22
>>522 ちなみに北海道を管区とする第七師団が徴発した馬1万9705頭のうち、
体高が135センチを超えた馬は8385頭で43%。
九州・四国に次いで低い。北海道の馬は小さめだったようだ。
一番小さいのは九州のようだが。
525 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:23
>>523 そうだね。日露の頃になると騎兵用は5%ぐらいのはず。
527 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:28
昨日ブラクラ踏んでから開くのが怖いw
528 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:28
今馬の事を書いてる人って検索して資料丸写しだよね。
529 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:29
ガバメントと水沢市はブラクラじゃないだろ。
530 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:29
>>528 つまらん茶々入れるならなんか書けよ。検索じゃ出てこない価値ある
ネタをよ。
それに検索じゃねえ。手持ちの史料だ。
531 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:30
520も検索してるな。
532 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:30
寒い地方の方が動物は大きいものが多いのだそうだ。
533 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:31
ホッキョクグマ!
534 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:33
530は検索してるのにさも知識があると思わせようとしているのを
指摘されたヤシだな。
535 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:34
( ´,_ゝ`)プッ
536 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:36
狼部隊はいなかったのか?
537 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:39
■ ■ ■ ■ ■
■ ■ ■ ■ ■■■■ ■ ■
■ ■ ■ ■ ■ ■
■ ■ ■ ■ ■
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
■ ■ ■ ■ ■
■ ■ ■■■■ ■ ■ ■
538 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:39
539 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:43
>>538 IEのウインドウが開き、固まる。
突然ハードディスクが「ガリッ!」と嫌な音を……
540 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:44
なんか違う・・・・
541 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:48
彡 ビュウウウ…
彡
彡
.∧ ∧ 寒いスレだなオイ…
ヾ(,,゚Д゚),)
人つゝ 人,,
Yノ人 ノ ノノゞ⌒〜ゞ
. ノ /ミ|\、 ノノ ( 彡
`⌒ .U~U`ヾ 丿
⌒〜⌒
542 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:51
終了しましょう。
結論穴山はくそです。
543 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:51
国人領主が危なくなった君主を見限るのは当然の行為です。
責められるものではありません。
そりゃ人間的にオイオイと思うかもしれないが、彼らも命がけなのです。
544 :
日本@名無史さん:02/12/05 20:07
だから国人領主でも家臣だよ。
まあね家臣が主君を見限るのはあったからいいけども、
見限る前に逆らうなつーの。
545 :
日本@名無史さん:02/12/05 20:08
他国の人は穴山と小山田のどっちが悪いと評価してるの?
546 :
日本@名無史さん:02/12/05 20:11
>>544 家臣でも逆らうのは当たり前じゃないか?
国人領主たちは自腹で戦争参加してるんだから、君主が家臣に与えうる
保護や利益の範囲を超えた要求を続けるなら、逆らって当然。
家臣が逆らわなかったら信玄の存在もあったかどうかわからんぞい。
穴山信君が勝頼にどんな態度をとったかなんて話は、信頼できる話は
ほとんどないわけで、よくわからんとしか言えない。
せいぜい最後に寝返ったという事実から逆算してる程度では?
>>538 IEが立ち上がり続ける。固まった。
フロッピーにもアクセスしてた。
548 :
日本@名無史さん:02/12/05 20:14
>>547 アクティブスクリプトがオフなら、IEが立ち上がり続ける方は
起こらないっぽい。
新規メール作成も勝手に立ち続けたよ。
550 :
日本@名無史さん:02/12/05 20:47
>国人領主たちは自腹で戦争参加してるんだから、君主が家臣に与えうる
>保護や利益の範囲を超えた要求を続けるなら、逆らって当然。
穴山はこういう境遇ではないでしょ。
551 :
日本@名無史さん:02/12/05 20:51
>>550 最後の離反以外は、普通に従ってたでしょ。
552 :
日本@名無史さん:02/12/05 20:59
教えてください。
甲州法度が適用されなかった家臣とソースを教えてください。
真田が勝頼を誘ったというソースを教えてください。
553 :
日本@名無史さん:02/12/05 21:01
どこの国でも足軽組頭クラス以上は武器甲冑など自腹でしょ。
554 :
日本@名無史さん:02/12/05 21:02
穴山ってどんな戦功があるの?
信玄の頃は後備えばっかだったって聞いたが。
555 :
日本@名無史さん:02/12/05 21:24
穴山を江尻に置いたのは軍議に参加させない為。
甲州法度が適用されなかった家臣とソースを教えてください。
557 :
日本@名無史さん:02/12/05 21:51
良いプレーヤーはファインプレーをしない。
>>555 穴山信君の戦功?
東海の堅城 高天神城を落とした時の実質的主将
たしか、この時 勝頼は 浜松城の方を気にしてて、攻城戦は信君にまかせたんではなかったかな?
伊豆の笠原だかを取り込んだのもそうだったはず。
あとは、、、(・_・")?
560 :
日本@名無史さん:02/12/05 22:09
穴山信君は信玄と血のつながった甥であり、また娘婿でもある。
もともと穴山氏は、武田氏と同じく甲斐源氏の流れをくむ一族で
先祖代々、武田宗家の族臣という関係である。信君は、信玄、勝頼
2代にわたって親族衆筆頭の地位にあり武田の重臣に列せられてい
るが家中における地位は単なる重臣ではなかった。信君は信玄から
武田性を名乗ることを許されており処遇は格別であった。信玄の領
国一元化支配体制の中で、小山田氏と共に河内領の再支配という別
格待遇を受け、騎馬200騎の侍大将として名実ともに武田家の中
枢人物であった。信君が生まれたのは天文10年(1541)、信玄が
父、信虎を駿河に追放した年である。信君は左衛門大夫、天正年間
に玄蕃頭、伊豆守、陸奥守などに叙任され、天正8年(1580)入道
して梅雪斉不白と号した。あるいは、この梅雪としての名の方が有
名か。信君は文化的教養も深く風雅に秀で学識も高かったと記され
ている。信君は川中島、三方ヶ原、長篠などなどの代表的な合戦に参
陣しているが、武勇については多くは残っていない。信君は本陣の護
衛などが任務だったので直接的な戦闘には参加していなかったよう
だ。信君は天正10年の武田家滅亡の直前に武田家の救済や家名存続
を条件に徳川方に下ったが、結果的に武田家の滅亡にとどめを刺す結
果になり裏切り者のレッテルを貼られてしまった。信君はその後、
家康に従っていたが堺に滞在中、本能寺の変に遭遇し、浜松へ帰国
途中、土民の手に掛かり非業の死を遂げた。42歳であった
561 :
日本@名無史さん:02/12/05 22:17
だからソースというのはそういう事でなく、歴史書だよ。
ホームページならいくらでもあるよ。
例えば再支配も何を持って再支配するかは人によって基準が違うわけでしょ。
それに他のホームページには信君でなく親の代に武田性を与えられたとの
記載もあるんだよ。
562 :
日本@名無史さん:02/12/05 22:46
>>561 武田信友の署名文書があり、武田姓を許されたのは親の代である。
といってもそもそも武田の分家なんだけどね。
563 :
日本@名無史さん:02/12/05 22:48
>>552 >真田が勝頼を誘ったというソースを教えてください。
『滋野世紀』
『甲陽軍艦』
『加沢記』
他
一回しか書かねーぞ。
内容は勝手に自分で調べろ。
564 :
日本@名無史さん:02/12/05 22:54
結局、設楽ヶ原の合戦は跡部・長坂が突撃を進言したのではなく
山県・馬場などが突撃を進言した結果負けた。突撃戦法自体、武田
騎馬隊が得意とする戦法でどちらかというと古参の個人武力に秀でた
武将がする戦法だからな。穴山は突撃すると負けると解って勝頼が
突撃を命令したのを聞き入れなかった。これが穴山が有能な証拠だ。
565 :
日本@名無史さん:02/12/05 22:56
566 :
日本@名無史さん:02/12/05 22:57
>>564 お前は設楽ヶ原の合戦を見てきたのですか?
武田の陣中で。
と思ったら穴山信綱(信君の祖父)を「武田八郎殿」と呼んでいる史料も
あるから、早い話、武田の分家である穴山家では、武田と称したり穴山と
称したり、どっちもやってたようだ。
568 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:01
信君が母親の法事で自分が武田の正統な後継者であると言い切ってるのを知ってる?
569 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:05
>>568 どこの誰が書いた何て史料に書いてあるの?
570 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:08
>>568 信君の亡母、南松院の17回忌法要での信君の香語。
ここで信君は自分がなぜ勝頼を見捨てたかを語っている。
572 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:09
573 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:12
>>571 569 :日本@名無史さん :02/12/05 23:05
>>568 どこの誰が書いた何て史料に書いてあるの?
574 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:14
>『甲陽軍艦』
ねたですか?
575 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:16
武田で武田を名乗るのは本家だけです。
穴山は信友の時に武田家当主から特別許されました。
576 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:16
577 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:16
>>569 この香語は明院玄ムが起草したものですが、信君の意思を強く受けています。
結構有名な話です。
578 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:18
馬鹿だな。勝頼は信玄の後継者には選らばなれなかったんだよ。
それは、勝頼は武田一族ではない諏訪一族だったんだよ。血縁的には
信玄の子供でも他家の者だったんだよ。その扱いは名前に「信」の
字がない。信玄自身もお家騒動になると思って後継者は勝頼の子供の
信勝を指名して、武田軍団を総帥を勝頼にしたんだよ。もちろん武田親
類は納得してなかっただろう。
579 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:19
『滋野世紀』
『甲陽軍艦』
『加沢記』
ワラタ
580 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:20
本気で「軍艦」だと思ってる人、けっこういるよね。
>>574 だから南松院に残っているよ。これを読めば信君の言い分もわかるよ。
582 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:20
いや軍鑑の字間違ってる以外は問題ないだろ。
「昌幸が勝頼を誘ったソース」としては。
583 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:21
>>581 つまり勝手に裏切って本家を名乗ってる最悪の人間だということですね。
584 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:22
細かいところで揚げ足を取るなって。
変換ミスもあるだろ。
585 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:25
あまいな。試験だと誤字でも0点だよ。
586 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:26
系図にも娘は「女」としか書かれないような時代に、
信虎の娘の息子ってだけで何が正当な後継者かと……
587 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:26
588 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:29
>>586 武田一門から見れば、庶腹の四男が後継者などかたはらいたい。
589 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:29
>あまいな。試験だと誤字でも0点だよ。
( ´,_ゝ`)プッ
590 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:31
>>581 然るに武田家が滅亡した直後に、自ら武田家から寝返った人間が、
公式なもので勝頼を悪く言うのは当然のこと……
591 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:32
592 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:34
勝頼は庶腹の四男で、諏訪家の人間だったのではではではではではでは
593 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:34
>>590 誇張があっても、火のないところに煙はたたない。当然と決めつけるのは
いけない。
594 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:35
穴山家の人間に言われたかあねえよ
595 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:36
596 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:38
常用讒人乱 不聴親族諌 去歳秋之孟 壊古府欲築新府
古府巳破 新府未成 今茲春之季 敵軍雲起遍四辺
嗚呼天乎命乎 一族士卒不動干戈 一時離散 守亦出奔・・・
まあ「物は言い様」ってな内容の批判の仕方だが、
寝返った人間が言うと「てめえが言うなボケ」ってなもんでもあるな。
597 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:38
>>591 勝頼に罪はないかもしれないが、彼は諏訪に出されている。で、義信事件の蟠りが
ある武田家中に入った。そう簡単には認めてもらえない。
598 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:38
分家がまがりなりにも直系相手に大口叩くな
599 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:40
600 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:41
勝頼の場合、生まれたときにすでに三条婦人との間に男子が三人おり、
勝頼は諏訪衆を従わせる為に生ませた子供なのでわざわざ諏訪家が使用している
頼の時を使い信を使わなかったんだよ。
盛信は最初、晴清だったけど仁科は代々盛を使うので盛信に改名。
601 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:41
>>596 596さん。
新府への首都移転も批判してんだ。
602 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:42
>>601 負けた奴にはとことん悪く言います。言わねば自分の正当性が主張できません。
間違っても信君が新府の地を勧めたなんて話は出しません。
603 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:43
604 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:46
諏訪家を継いでから武田家に戻ったら、何か不都合あるのか?
信玄の息子には違いないだろ。
605 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:47
>>603 信玄の鑑定ちがいか、勝頼本人の能力不足か、そういうこともたまにはある。あまり気にせずともよい。
606 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:48
義信事件の衝撃がまだ残ってた。よくもわるくも勝頼はその渦中に放り込まれてしまった。
607 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:48
信玄がもっと早く死ぬかもう何年か生きるかすれば問題はないんだが。
608 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:49
>>604 今と昔じゃ違うんだよ。
勝頼が器が大きすぎた為滅亡したなんて本気で思ってるやつは話にならん
609 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:52
>>608 どこをどうやったらそう読めるのか、君の脳味噌が心配でならん。
610 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:54
611 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:56
諏訪時代の勝頼は親族や譜代から見て同輩だろ。で信君は同輩でも武田なわけだ。
両者が部長だったとして、ある日、地方の部長「勝頼」が社長になりました。
同輩や信君部長は面白いかね?と考えてみたりする。
612 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:59
>>611 そのときの態度で器の大きさがわかると思われる。
別に勝頼も信君も擁護してるわけじゃないが
613 :
日本@名無史さん:02/12/05 23:59
>>611 地方の部長でも会長の息子だったら……本社勤務でも親戚止まりの
人間は黙って従う他ないのでは?
614 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:01
ところで、一門の人間が「勝頼は諏訪の人間じゃねーかゴルァ!」と
言ったとして、信勝を家督とすることに関してはどうだったんですかね?
でも信君部長は株主でもあったりする
616 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:03
長篠の戦の信廉は勝頼置いて退却してます。信君も同様。
勝頼は武田家総帥を認められてなかった。
617 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:03
>>616 その辺の話はマトモなソースが一つもないわけで。
つーか信廉?
618 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:06
信勝は信長の養女雪姫の子供だから。良いと信玄も思ったはず。
また実質勝頼は武功が多い為、総帥を任せたら信頼が集まると
信玄が予想した。ただの親馬鹿だな。
619 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:07
信廉は勝頼についていくでもなく、信清たちと一緒に越後に逃げるでもなく
なんとなく甲府で殺されてますけど、何してたんでしょうかね?
>>618 信勝は信長の養女雪姫の子供だから良い
どうしてこれが根拠に?
勝頼部長改め社長を面白く思わないのは信君部長だけじゃないとも考えてみる。
しかも社長就任決定からそんなに時間が経たないうちに信玄会長が死去してしまう。
622 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:10
>>618 信勝は諏訪家継いだ人間と織田家の娘の子供だから、
勝頼以上に駄目駄目。信君にとっては相手にすらならんカス。
「こちとら武田の分家で母は信玄の姉で妻は信玄の娘だぜ?
おれの息子のほうが武田の血が濃いジャン。超サイアク〜」
とか言ってたよ。たぶん。
623 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:10
勝頼以外で誰がいるのかね?
624 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:16
信玄が勝頼を愛していたんだよ。だから諏訪一族の子供を跡継ぎに
した。その最愛の息子が信勝で家格も大名家である。だから跡継ぎ
に指名された。
625 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:17
信廉・信君・典厩
627 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:19
典厩=信豊
628 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:20
>>625 弟の信廉と甥の信豊はまだしも、
信君って一門とは言えただの分家じゃない?
629 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:21
信廉・信豊も後ろ盾がないが信君はある。
630 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:23
穴山家は半分独立してたんだ!裏切りじゃねーよ!
とか言ってる人たちは、信君が血縁を理由にグダグダ言うのを
何とかしてください。
631 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:24
632 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:25
>>629 後ろ盾って具体的に何のこと。はっきりさせろよな。
633 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:25
しかしこうやって見てると、親戚がいかに信用できないかよくわかるなあ。。。
634 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:27
場違いな感想ゆーな。つまんねえヨ
635 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:27
基本的に世襲制の世の中なんだから、跡を継ぐべき息子が一人もいないなら
ともかく、勝頼がいるなら勝頼しかないのでは。
他家を継いだら駄目だと言うなら、信清あたりを立てて後見人を置くという
ことになるはずで、信君やらが後継ぎを主張できるはずがないのでは。
636 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:30
637 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:33
親戚
勝頼=信豊どちらも新参者同士仲が良い。
信君=信廉どちらも古参仲が良い。
さらに信君は駿河と甲府に領地有り。どちらが権力がある
でしょうか?
638 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:33
>>635 信玄が生きていればね。親族が怪しくなるのは信玄死去後でしょ。
639 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:34
640 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:34
新しいナゾナゾか?
641 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:34
信廉って別に勝頼と対立してないんじゃない?
642 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:34
643 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:36
>>637 勝頼も信君も年はたいして変わらんが。
信君の駿河の領地って?
644 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:38
>>637 っていうか、狭い領地が分散してただけだろ。
武田信玄は人気者だねぇ。
646 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:43
信君が実質駿河支配していたし、勝頼は信君に比べたら軍議では
新参者。
647 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:44
盛信はどうよ。
盛信と母親が同じ菊姫は景勝の正室だよ。
648 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:45
実質駿河支配って・・・w
信君がどんなに所領増やしても、勝頼が継いだ後じゃ勝頼が武田家で
最大の領主でしょ。
駿河はその後の話だから関係ねえべ。
649 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:45
みんな武田好きだね
650 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:45
盛信は平氏だから駄目。
651 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:47
父親も母親も武田一門だろ。
仁科から武田に戻せばすむこと
652 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:47
>>646 実質支配してたっていっても長篠後の話しじゃん。
で、その軍議とやらにはそれぞれ何歳くらいから出てたの?
653 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:49
実質支配なら、駿河の諸将に対して信君の署名のある文書が出てたとか?
山県昌景が「実質駿河を支配していた」とは言わないよね。
654 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:49
>>652 元服した年だよ。馬鹿か揚げ足取るんじゃねえよ。
655 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:51
>>654 ハァ?揚げ足?あんた日本語わかってんの?
656 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:53
馬鹿は相手にしねえ早く寝ろ
657 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:53
年齢差たった六歳だろが アホ
658 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:54
>>646 勝頼と信君って5歳くらいしかかわらんだろ。
大体軍議に先に出てたからってなんになるんだ?
659 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:54
仁科明子って関係あるの?
660 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:55
勝頼の初陣って北条氏の簑輪城攻めだろ。それも義信が存在していた
時は影も形もない。
661 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:56
662 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:57
663 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:57
664 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:58
穴山厨が遊ばれてる(w
665 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:58
666 :
日本@名無史さん:02/12/06 00:59
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
667 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:00
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
668 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:00
まじ?
大河ドラマじゃないの?
実際に箕輪なのか?
669 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:00
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
670 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:00
勝頼の初陣って、1563年、長野氏の箕輪城攻めだろ?
まだ義信は健在だよね。
671 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:01
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
672 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:02
というか義信自体切腹したという文献はあまりなく病死とされてるんだよ。
すげー長生きしたかも。
673 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:02
なんなんだ?火熱か?
674 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:03
いまこそ朝鮮征伐にいくべきだな
675 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:03
勝頼の生まれが1546年であることを考えると、初陣は1566年より
1563年の方が正しそうだな。
で、箕輪城が北条氏に属するのは、織田家滅亡後だ。
676 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:04
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
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677 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:04
>>672 いや、1567年に病死と書いてあるはずだが・・・
678 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:04
朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
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北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮北朝鮮
679 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:05
そのころ前田慶次は滝川益氏の子供で箕輪にいたのかな?
680 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:05
とんだ厨房スレッドだな(藁
681 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:05
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 通報しますた
\
 ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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/ \ \ .\\ / / ,、 ((( ))) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ /~\ \ > ) ) ./ ∧_二∃ ( ´Д` ) < ついでに蝶野にも通報しますた
/ / > ) / // ./  ̄ ̄ ヽ (ぃ9 ) \_____________
/ ノ / / / / / ._/ /~ ̄ ̄/ / / ∧つ
/ / . / ./. / / / )⌒ _ ノ / ./ / \ (゚д゚) ヲラエー!!
/ ./ ( ヽ、 ( ヽ ヽ | / ( ヽ、 / /⌒> ) ゚( )−
( _) \__つ \__つ).し \__つ (_) \_つ / >
682 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:06
683 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:07
南部家に預けられていたという説もあるよ。
勝頼の首は義信の元に届けられたってさ。
詳しくは赤備えを見てね
684 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:09
江頭の尻の不気味でしょ
駿河の一部のことだよ
685 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:09
686 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:10
勝頼は黒駒にのった事あるの?
黒駒はいつ死んだの?
687 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:10
っていうか、おまいらもう切腹してもよいぞよ。
688 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:11
>>686 甲斐の黒駒には甲斐の人間ならみんな乗っただろうよ。
ちょ、蝶野?
690 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:12
なんで
691 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:13
信玄の馬の名前が黒駒だろ。
692 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:13
「甲斐の黒駒」は甲斐で育てられている馬の一般的名称に過ぎない。
693 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:13
694 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:14
黒雲
695 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:14
黒雲?
696 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:14
おまいら淫ら(w
697 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:15
うー 1分差で負けたー
698 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:15
なんで信玄の馬なんだYO
黒駒って
かとうかずこのうちのカレーの事だろ!
699 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:16
クモハタだよ
700 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:17
げんばのかみってどういう意味ですか
701 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:18
702 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:18
703 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:20
しかし滑稽だよな
真田は外様だから信用できないと言っておきながら
信繁が継いだのは真田の一族の望月だし、竜芳は海野だろ
704 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:22
望月って必ずもっちゃんというニックネームがつくんだよな
705 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:22
706 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:23
最近では私はモッチーて呼ばれることの方が多いですが、何か?
707 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:23
真田十勇士の穴山小助は実在した信君の甥です。
708 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:24
竜芳が信親だろ
709 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:25
>>706
まじ?どこ?
710 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:26
じゃない、望月は信頼では? だな。
711 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:26
信君の埋蔵金て知ってる?
712 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:28
埋蔵金なら俺ももってるぞ、今は、教室のロッカーにあるが
713 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:29
穴山小助って『真田三代記』からの登場じゃなかったっけ?
北条氏長の『慶元記』にも出てたか?
信頼性はよくわからん。
714 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:31
家系図見てみろよ。
715 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:34
江戸時代は家系図偽造天国
716 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:34
718 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:36
719 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:39
竜宝は信親で海野
でも信繁の子供も信親で望月
信繁は吉田
吉田って何者?
720 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:39
吉田戦車
721 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:41
大河に穴山、小山田、跡部、長坂、木曾、内藤が出なかったけどなんで?
内藤は超有名でしょ。なんでよ。
722 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:43
すでに長篠で討ち死にしてたから。
723 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:44
大河って武田信玄だよね?
やっぱり地味だからじゃね?
724 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:46
鎌田長門、おらん、石和甚三郎、塩津弥兵衛、きぬ、勘市、作造、平造、平五、岐秀和尚、立木仙元、倉科三郎左衛門、御宿監物、
以上実在したのは誰ですか?
725 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:48
岐秀
726 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:48
御宿監物はいるな
727 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:48
おらん。
728 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:49
まじに書くね。
長篠の戦いというのは長篠城攻撃戦。
織田、徳川連合軍との合戦は設楽ヶ原の戦いと言うの。
一般の人はどっちも長篠だけどね。
長篠では重臣は死んでないよ。
729 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:50
>>728 ちょいと教えてやると、設楽原という呼称自体が当時はなくて、
あの一帯は有海原といったんだが。
730 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:50
御宿は記録残ってるもんね。
731 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:52
でも学術的には設楽ヶ原の戦いというんですよ。
歴史研究家に聞いて見てください。
732 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:53
御宿は武田の一族
733 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:54
>>731 学術的? ( ´,_ゝ`)プッ
長篠でも普通に通用するよ。
わざわざ変な区別をつけるやつの方がおかしい。
734 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:56
735 :
日本@名無史さん:02/12/06 01:57
>>732 御宿は葛山の一族だが、葛山氏を信玄の子の信貞が継いでるというだけで、
武田の一族じゃないだろ。駿河にいたんだし。
736 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:00
知らないから通用すると言っている
737 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:01
年号付けて長篠の戦い言うなら全然okだろがよ
738 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:04
両方を示す時は長篠・設楽ヶ原の戦い
739 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:04
だいたい『三州長篠合戦記』だの『長篠日記』だの、江戸時代の人間も
長篠合戦と呼んでいるし、高柳光寿始め、研究者でも普通に長篠で
通してる。
そもそも、設楽が原と長篠と分けて言う場合、
長篠ってどこ?
741 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:06
「長篠合戦図屏風」は城攻めを描いているのか?
742 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:08
違うよ。長篠の戦いと呼ぶ人は設楽が原自体が長篠と思ってる人だよ。
だからホームページなどではちゃんと分けて書いてる。
743 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:10
744 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:12
長篠の戦いは長篠城攻防戦。
設楽ヶ原はそれ以後の野戦。
屏風の名前がどうであれ、使い分けるように決めたんだろ?
決めた人間に聞けよ。
745 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:12
書店のサイトで
「長篠」と「設楽ヶ原」をそれぞれ検索しましょう。
どっちが多いですか?
746 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:12
はあ?漏れは長篠の戦いって呼んでるが、
設楽が原と長篠が違うことくらいわかっとるわい。
>>741 書いてあるみたい
群像の戦国合戦大全に「長篠合戦図屏風」が丸々載ってて描いてあった
748 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:13
>>744 誰も決めてないよ。こだわってる奴は勝手にすればいい。
当然、学術的にどうのということはない。
749 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:13
>>747 で、織田・徳川連合との合戦は一切描いてないんだな?w
750 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:15
じゃあ耳川の戦いはどうなんだ?
川中島の戦いはどうなんだ?
つまらんことにこだわりなさんな。
751 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:16
752 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:17
>>749 いや、描いてあった
鳶ノ巣山砦の事も全部描いてあるよ
754 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:18
「長篠合戦図屏風」には長篠城攻防戦しか描かれていません。
設楽ヶ原の決戦はまた別のお話です。
755 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:18
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756 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:20
俺が思うに長篠は鳳来町、設楽ヶ原は新城市だから地元の人がわけさせたんじゃないか?
757 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:21
>>751 >ふつう「長篠の戦い」という場合は,天正3年(1575)5月の戦いを指します。
>そしてこの戦いは,前の部分の「長篠城の戦い」と,
>後の部分の「設楽原の戦い」の二つに,大きく分けられます。
長篠の戦でいいんじゃん。
758 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:21
759 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:22
こだわるのは勝手だが、さもそれが正しいかのように言ったり
人に強要するレベルになったらただの馬鹿だよなあ。
>>758 いや、あらしです。
まさかレスつけてもらえるとはおもわんかった。
761 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:26
新城市のホームページ、新城市設楽ヶ原歴史資料館のホームページには
いちいち、長篠・設楽ヶ原の戦いと書いてる。
新城市の主張でこう書くようにしたかもね。
762 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:42
ここでは長篠でいいじゃん。
763 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:43
そんなもんには付き合ってられませんなあ。
764 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:44
例えば山県は長篠の戦いで死んだはオーケーだが、長篠で死んだは駄目。
設楽ヶ原で死んだが正解。これでどうだい?
765 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:46
馬場はどこで氏んだの?
柵からかな〜り遠い山んなかだったと思うが。
当時は木は生えてなかったんだっけ?
766 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:46
>>764 昌景が死んだ当時は設楽原と呼ばれていないので、それも駄目。
本当に正確を期すなら、「有海原で死んだ」とか言えよ。
だいたい長篠城の周辺を長篠と呼んでどこが悪い?
767 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:47
変だ
長篠城の戦い、設楽ヶ原の戦いならわかる
768 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:49
769 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:54
長篠城を包囲した武田
長篠城の後詰に来た、織田・徳川連合
武田の目的は長篠城の占領、織田・徳川の目的は長篠城の解放
これが長篠の戦いと呼ばれる由縁
770 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:54
要は地元民のひがみですね。解決しますた。
771 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:56
小牧長久手も同じだぞ。
小牧でのにらみ合い、長久手での決戦。
よって小牧・長久手の戦い。
772 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:56
×長篠の戦い
○設楽ヶ原の戦い
ってことでOK?>ALL
773 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:57
おっけ〜
774 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:58
決まりですね。
以後、「長篠の戦い」という用語を用いることを禁じます。
775 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:59
776 :
日本@名無史さん:02/12/06 02:59
『小牧長久手合戦図屏風』には長久手の合戦しか描かれてませんが、どーしましょ?
777 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:01
778 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:05
これこそ揚げ足取りだな。
江戸時代に書かれた『三州長篠合戦記』などを持ってきて、
「これは設楽ヶ原が正しいのだ」とか言うのだろうか。
戦国時代当時には存在しない地名なのに。
779 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:07
勝頼は長篠を時間かけて信長をおびき寄せてるよ。
それを書状で国許に報告してるでしょ。
780 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:11
姉川の戦いは姉川という土地でやってないよ。
近くにか姉川が流れてたけど。
781 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:12
>戦国時代当時には存在しない地名なのに。
まじ?
782 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:21
じゃあ連吾川の戦いだね。
783 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:26
信長公記だと設楽原を包む有海原の一帯と書いてあるよ。
有海原より設楽ヶ原では?
784 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:28
『信長公記』に「設楽原」なんて記述は出てこないわな。
「設楽郷」は出て来るが。
785 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:29
>>783 連吾川と有海原はあったけど設楽ヶ原は書いてある?
786 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:30
>>783 ああ、あの現代語訳のサイトを見たのねw
原文では「彼(かの)あるみ原は」だから。
787 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:36
姉川はNHKで言ってたよ。当時は姉川と言わなかったとか・・
788 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:39
『三河物語』なんかも有海原だね。
789 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:42
>>787 姉川と言わなかったというより、織田家と浅井家で「野村の合戦」、
朝倉家で「三田村の合戦」、徳川家で「姉川の合戦」と呼んでいたうち、
姉川が定着したという話じゃなかったっけ?
790 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:50
検索エンジン使ってるから詳しいね。ププ
791 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:51
そうそうその通り。
792 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:52
>>790 8分もかかってやっとそれかよ。悲しいなw
793 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:53
自分でまともに調べたことがないから、すぐ検索エンジンだなんて
言い出すんだな。
794 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:54
よく知ってると思ってたけど検索してホームページ見てるだけか
795 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:55
やれやれ
796 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:57
設楽ヶ原は嘘と言う事でOK?
797 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:57
検索すらできないクズってことだな
798 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:58
799 :
日本@名無史さん:02/12/06 03:59
設楽原厨の根拠は江戸時代のモノと、地元民の町おこしって事でw
800 :
日本@名無史さん:02/12/06 04:00
今のあの変の地名、おかしいよな。
「信玄台地」とかあるしさあ。
801 :
日本@名無史さん:02/12/06 04:03
802 :
日本@名無史さん:02/12/06 04:11
当時の地名が設楽が原でないと書いてあるか、わかるサイトある?
803 :
日本@名無史さん:02/12/06 04:15
>>802 図書館で地誌でも調べた方がいいと思われ。
804 :
日本@名無史さん:02/12/06 04:17
図書館があいている時は仕事です。昼間休めるのは月曜日だけど
図書館休み
805 :
日本@名無史さん:02/12/06 04:18
証拠出そうにも出せないんだって。
806 :
日本@名無史さん:02/12/06 04:19
>>804 じゃあ何日か待て。わしが調べてくるから。
・・・・昼間仕事なのに起きてて大丈夫?w
807 :
日本@名無史さん:02/12/06 04:20
808 :
日本@名無史さん:02/12/06 07:31
>>721 跡部は勝頼の腹心として大々的に出てきましたよ。
しかも、その時の解説で「跡部が勝頼の守役だとか」
「勝頼の連れてきた信濃の家臣(その役として跡部しか出てこなかったが)と武田譜代の対立が深まっていった」
とかいろいろ、誤解をまねく表現が多かったです。
勿論、脚本家などもそんな事はわかってたんでしょうけど、
ドラマとしての面白さのため意図的に間違った解説をしたと思われます。
809 :
日本@名無史さん:02/12/06 11:59
なんか凄い人気だな。これなら光栄の次回作は「勝頼の野望」だな。
勝頼誕生
義信事件
長篠城の攻防戦
穴山離反
のシナリオで。
810 :
日本@名無史さん:02/12/06 12:02
>>808
それは阿部の間違いです。佐藤慶がやってました。
811 :
日本@名無史さん:02/12/06 12:15
次回のタイトルは「義将信君!!奸君勝頼を斬る!!」でよろしく。
812 :
勝頼(本人):02/12/06 14:47
今日中に1000いこうや!
813 :
日本@名無史さん:02/12/06 15:15
だいたい、設楽が原なんて原っぱじゃなかったんだろ?
814 :
日本@名無史さん:02/12/06 15:23
横山の漫画だと穴山はわざと新府城建築をやらせ、木曾を離反させる為に
木曾のの木材を使えと言ってるが、あれって記録残ってますか?
815 :
日本@名無史さん:02/12/06 15:24
影武者では穴山は軍議に出てなかったけどやっぱ江尻にいたら出ないもんかね?
816 :
日本@名無史さん:02/12/06 15:28
三増峠の戦いはなんで小田原の戦いではないの?
小田原城攻城戦でしょ?
なぜか三増の場合、ちゃんと小田原から撤退時の戦のみをちゃんと三増
と説明される
817 :
日本@名無史さん:02/12/06 15:30
設楽が原で穴山と信豊が離脱したてのはソースは何?
818 :
日本@名無史さん:02/12/06 15:35
竜宝、信清以外に盛信の息子の子孫も現在まで続いていて、江戸時代
家康から盛信の息子と認められてるんだね。
なんかれしいよ。
819 :
日本@名無史さん:02/12/06 15:41
親類衆筆頭というのは確かな資料がなく、血筋から当然発言権が高かった
と予想されるので筆頭格と表現していたのをいつのまにか、ホームページ
を作る歴史マニアが筆頭に昇格させただけだよ。
わずか4日前にここで嘆いてみれば、すごいスレののびかた。
勝 頼 様 に 申 し 訳 が た ち ま す た 。
821 :
日本@名無史さん:02/12/06 15:54
甲陽軍艦で検索しても結構引っかかるよ。
みんな間違えてるじゃん。
822 :
日本@名無史さん:02/12/06 15:55
信玄、勝頼はどうでもいい。
俺は中井貴一様の付き人になって親方様と呼びたい。
823 :
日本@名無史さん:02/12/06 16:00
みんな間違えてる=俺が間違えてもおかしくない
824 :
日本@名無史さん:02/12/06 16:26
血筋なら
義信>氏直>信君>勝頼
825 :
日本@名無史さん:02/12/06 16:30
親類衆筆頭は信君 ×
信君の妻 ○
木曾に嫁いだ真理は木曾の裏切りに激怒して子供をつれて失踪。
しかし、信君の妻は何もしなかった。
こいつが黒幕。三条の方の娘としては勝頼の跡目なら潰した方がましと
考えた。
826 :
日本@名無史さん:02/12/06 16:32
義信>氏直>信君>勝頼>秀吉
827 :
日本@名無史さん:02/12/06 16:33
828 :
日本@名無史さん:02/12/06 16:42
829 :
日本@名無史さん:02/12/06 16:51
次スレタイトルは「信君の智謀と勝頼の無謀」に決定しました。
830 :
日本@名無史さん:02/12/06 17:37
「武田家親類衆筆頭 見性院」でどうよ?
831 :
日本@名無史さん:02/12/06 17:39
信君の政治性を称えるやつがいるけどあれはみんな女房の考えだよ。
武田家で三条夫人の力なんて無きに等しかったが、穴山家では当然、
信君の母、信君の妻の発言力は絶大。
832 :
日本@名無史さん:02/12/06 17:49
結局武田があそこまで版図を広げたのは信玄のカリスマ性ですかね?
世界史板にて日本の戦後責任を考えてます。
みなさんの意見を求む。
834 :
日本@名無史さん:02/12/06 17:52
なぜ信玄は勝頼の後見を信龍に依頼したのでしょうか?
盛信は信廉が後見ですよね?
だったら副将である信廉を後見に盛信が当主でもよかったのに。
835 :
日本@名無史さん:02/12/06 18:05
江戸時代の老中に土屋ってのがいたけどあれは武田家家臣の子孫
なんだけど土屋は武田一族ですか?
836 :
日本@名無史さん:02/12/06 18:15
有海原と設楽ヶ原って別でしょ?同じ場所じゃないよ。
837 :
日本@名無史さん:02/12/06 18:27
>「長篠合戦図屏風」
江戸自体の作成。
少なくとも徳川はあの戦いを長篠の戦いと呼んでる。
838 :
日本@名無史さん:02/12/06 18:41
間違えた。
江戸時代
>>834 勝頼の後見が一条信龍って、本当なの?
一条信龍は、信玄が生存中って、いたのかどうかもわからないくらいの存在では?
勝頼の元で足助城を落としたくらいしか目立ってないような気がするんだけど。。。
840 :
日本@名無史さん:02/12/06 18:55
信龍の件はホームページの個人個人の紹介のページで見ましたよ。
二箇所以上のホームページで採用してた。
841 :
日本@名無史さん:02/12/06 19:25
>>816 小田原の戦いって何回ぐらいあったんだろうね。
謙信が年中行事のように関東に来て囲み続けたし、信玄・秀吉もやっている。
合わせると10回以上あるんじゃない?
小田原の戦いだったら多すぎて訳わかんないからだろ。
842 :
日本@名無史さん:02/12/06 19:28
>>841 謙信が小田原まで行ったのは1回だけだと・・・成田の事件があったときね。
囲み続けたってのは、ちと・・・
小田原城って大森氏の時代から数えたら、合戦があったのは10回以上はあるとおもうぞ
>>816 三増峠は、小田原からはかなり離れてるからだろう
↑
っていうか、三増峠の合戦は、明らかに小田原攻城戦じゃないからね。
帰り道の戦だし。
帰ることにしたのは、氏邦だか氏照だか忘れたが、深谷衆や忍衆を引き連れて
近づいてきたから、城方とはさみ打ちにあったらたまらん。って事で、早めに
城攻めを諦めて帰っただけなんだよね。
その途中で、峠にいた軍をけちらしたのが三増峠の合戦
とりあえず調べてみたり。
まあ時間と史料の制約もあて完全ではないが。
明治三十五年に書かれた『大日本地名辞書』の東国・北国の巻では、
まだかの決戦があった場所を「有海原の古戦場」と呼んでいる。
この頃はまだ「設楽原」はメジャーでないか、無かったということか。
つーか地元の人いない?新城市の人。地元で出してる「○○史料」の
類が一番手っ取り早いんだけどさ。
846 :
日本@名無史さん:02/12/06 20:41
高坂弾正忠昌信
こうさかまさのぶ
元々は春日源助と言い、貧しい農民の息子だった。
かなりの美男子だったので信玄に気にいられ、
短期間で小姓から海津城の城主にまで出世した。
しかし、野心がなく慎重な人なので「逃げ弾正」と呼ばれた。
有名な「甲陽軍艦」の元となる物を書いたとされるが
今日では山本勘助晴幸の子で寺の僧になった鉄以が、
父を軍師に仕立てあげ、信玄の活躍を読み物ふうに描いた物に、
武田の遺臣の子孫である江戸初期の学者・小幡景憲が加筆し、
高坂昌信が書き残した物だと称して出版したのと言う説が有力。
まじ?
847 :
日本@名無史さん:02/12/06 20:42
信長公記のサイトの人になんで設楽が原が出てくるか聞いたほうが
いいかも。
848 :
日本@名無史さん:02/12/06 20:42
>>846 「勘介の息子」はそんなに有力じゃないだろ。
849 :
日本@名無史さん:02/12/06 20:52
なにから設楽が原と訳したかだね。
18日にはさらに進んで設楽の郷C極楽寺山Dに陣を取った。同時に信忠殿は新御堂山Eへ陣を張った。
設楽原は周囲を丘陵に囲まれた窪地の野となっており、約三万の織田・徳川勢は、この設楽原を前面に臨む西方の山々へ敵方から
陣容が見えないよう警戒しつつ段々に陣を構えていった。先陣は当地の国侍が務めるという慣例に従い徳川家康がつとめ、ころみつ
坂上の弾正山Fに陣を取った。それに続いて織田勢からは滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀の三将が有海原に上り、東向きに陣して武田勝頼に
差し向かった。そして徳川・滝川の陣前には馬防のための柵が設けられた。
設楽原を包む有海原の一帯は、左手は鳳来寺山Gから西に太山Hが連なり、右手は鳶の巣山Iから西に延々と山塊が続く深山の地となっていた。
また太山と鳶の巣山のあいだには大野川Jが山並を縫って流れており、両山の間は南北に三十町ほどしか離れていなかった。そして北の鳳来寺山脇
から流れてきた寒狭川Kがこの付近で大野川に合流しており、長篠はこの二川が城の南西を流れる平地に位置していた。
この川を前に当てて鳶の巣山に陣を張っていれば、勝頼はその後の惨劇を見ることはなかったはずであった。しかし勝頼は長篠へは七手の攻衆を残し、
みずからは寒狭川を越えて有海原へ三十町ほど踏み出してきた。その軍勢は甲信の兵に西上野の小幡党や駿河衆・遠江衆・三河の作手衆・田峯衆・武節衆
らを加えて総勢一万五千を数え、設楽原を前に西向き十三ヶ所に分かれて布陣した。両陣の間は、わずかに二十町ほどをへだてるのみであった。
850 :
日本@名無史さん:02/12/06 20:55
851 :
日本@名無史さん:02/12/06 20:56
黒雲ってどうなっったのさ。
852 :
日本@名無史さん:02/12/06 20:57
>>849 何からって、今現在、設楽原と呼ばれてるからそう訳したんでしょ。
853 :
日本@名無史さん:02/12/06 20:57
>>851 馬の寿命考えれ!
三国志演義の赤兎馬みたいに何十年も活躍するなんてこた
有り得ねえんだよ!
854 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:04
軍艦だしなw
855 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:05
馬鹿。いつ死んだか聞いてんだよ。信玄死んだとき生きてたんだろ。
その後誰が使ったか知りたいんだよ。
856 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:06
>>853 荒らし君参加してきたね。これで今日中に1000だね。
857 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:06
上杉景虎(1554-1579) 竹王丸、三郎
北条氏康の七男。旧名・氏秀。はじめ武田信玄、次いで北条幻庵の養子となり、北条家と上杉家の同盟(相越同盟)が成立すると上杉謙信の養子となる。謙信の死後、同じ養子の景勝と家督を巡って争う(御館の乱)が、敗れて自殺した。
まじ?
とっとけば良かったのに。
それか助けてやればよかったのに。
858 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:10
>>857 どうも「北条氏秀」は別に存在するので別人らしいぞ。混同されやすいが。
アフォが知識得たいが為に、ググって知ったかして
煽りつつ聞いてるだけだぞ
戦国関係のスレに近頃根拠もないレスしまくってるから
気をつけるように
860 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:11
>>855 そもそも信玄死んだ時は生きてたのか?
若い頃乗ってた馬ならとっくに死んでるだろうし。
いつ手に入れた馬?
861 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:12
まあ勝頼の生き残りを考える時、御館の乱は避けて通れないポイントでは
あるだろうが。
862 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:16
影武者で黒雲だったからって実際にいたの?
863 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:17
>>859 853にもうここにはこない様に説得してください。
864 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:20
865 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:23
>>864 引っかかったな。
味方をすれば俺のことを851と思って蔑んだレスをすると思ったら
案の定してきたね。
866 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:25
>>859
さすが検索の帝王様。
867 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:25
869 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:29
870 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:31
結局、ハードディスクにどれだけホームページダウンロードしているかで
知識人になれるわけね。
私も溜め込んで勉強します。
早くみんなに追いつきたいです。
871 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:32
>>870 馬鹿言え、どれだけ本屋と図書館に通うかだよ。
検索して出て来るようなホームページで手に入る知識のレベルなんて、
たかが知れてる。
872 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:32
そのホームページが間違ってるんだよ
873 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:34
ホームページを作った人は図書館で調べたから結局同じでは?
歴史群像は何から調べたの?
歴史群像見てホームページ作ってる人もいるだろうし。
874 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:36
足を使え。本を持って現場をまわるのがいい。
875 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:36
876 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:37
勝頼厨キモイ!!勝頼無能な愚息だったでいいじゃん。
877 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:37
>>873 そりゃ検討違いだ。歴史群像はせいぜい通説にオマケ付けた程度の内容
でしかない。入門にはいいが、専門レベルからすりゃ全然物足りない。
878 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:38
その前に、サイトの管理人が図書館で調べたと
どうやって判断したのだろうか?
879 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:38
>>873 史料には色々見解の違いがある。武田氏だけでなく、北条氏、織田氏、徳川氏、上杉氏
等の史料なども照らし合わせて考える必要がある。調べだしたらきりがないほど出てくる。
880 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:40
歴史関係でまともなトコは1割もない。
これ真実。
>>880 しかも勝組が書くし、時代が下ると変な武士道精神なんかが出てきて、負け組みの真実は
どんどん分からなくなる。
882 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:02
879さん。そんなのわかってるでしょ。みんな。
883 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:04
>>877 なぜ言い切れる。
ページが限られているから広く薄くなるだけで間違いはないだろう?
例えば戦国の軍用馬で本を出すんなら専門レベルで書けるよ。
884 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:09
朝倉義景>>>>武田信玄>>>穴山信君>>>>>>>>勝頼
で良いね。
885 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:10
>足を使え。本を持って現場をまわるのがいい。
ここまでする価値があるんですか?
人それぞれ満足度、目標があるはずです。
レーシングカートをやっている人はみんなF−1を目指しているんですか?
違うでしょ?
886 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:11
>>882 わからない人が2チャンには多いんじゃないの?議論のレベルすこぶる低いし・・・。
887 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:12
神武天皇>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>)>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
朝倉義景>>>>武田信玄>>>穴山信君>>>>>>>>勝頼
888 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:14
北条氏政>>>>武田信玄=穴山信君>>>>>>>>>>>>>>>>>勝頼
889 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:15
自分の知識で他人を間違いとするのはいいが自分の知識に間違いがないと
どう判断するのかな?
890 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:16
61 :日本@名無史さん :02/12/06 00:07
この板の「武田勝頼VS穴山信君スレ」見てみろ。ディベート気取ったバカのボケとツッコミで結構笑えるぞ。
だとさ。
891 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:17
今わかっているのは甲陽軍鑑は貴重な資料だが、事実と異なる部分もあり
信憑性は?と言う事たろ?
892 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:19
>890
どっちもどっち。所詮2ちゃん。
893 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:19
>>889 その為に研究本や史料を読み漁るのでは?
894 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:19
信玄の上洛だって上洛説、三河平定説などいまだに決着つかないように、
歴史とはそんなもんだょ。
895 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:20
>>890 私から見れば思ったとおりの評価です。
一匹釣れたという感じ。
896 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:22
今川義元>>>>>徳川家康>>>>>>>>>>>>>>武田信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>)>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>勝頼・信君
897 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:22
>>891 貴重な資料で、事実と異なる部分多数、信憑性は低い
898 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:24
大阪城で真田と喧嘩した小幡がなぜ真田が勝頼を誘ったと書いたのか?
899 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:25
>>879 中世で「キリがない」なんて言ってたら、まともな研究なんて出来ないよ。
900 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:28
血筋
見性院>信君
901 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:29
貴重な資料でなくて貴重な物語では?
平家物語みたいな。
902 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:29
903 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:31
貴重な史料ではなく、貴重な資料なのでOK
904 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:32
高坂個人の悲歎の書、なわけだが。
905 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:35
甲陽軍鑑【こうようぐんかん】
高坂弾正昌信著,小幡景憲補訂。20巻。
元和年間(1615‐24)頃の成立。
武田信玄・勝頼2代の事績を通して,甲州流軍学を59品に分けて説く。
武士の心得書として広く読まれ,
江戸時代を通じて20種近くの板本があり,
写本としても流布。〔戦国史料叢書,甲斐叢書〕
『岩波日本史辞典』より
906 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:36
高坂が書いたっつー根拠は無いに等しいのだが。
907 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:37
「甲陽軍鑑」、ネットで検索したら「軍艦」に誤字してるの凄い多いね。
あーゆーの全世界に公開して恥ずかしくないのかね?
908 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:38
高坂弾正昌信の武勇伝も怪しいということだ。
909 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:39
信玄のチンポをくわえたことだけは確かだ
910 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:40
さらに三方が原の戦いの徳川側の武勇伝すら怪しい。
911 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:43
そもそも高坂弾正昌信という名前も(ry
912 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:44
源頼光の鬼退治も怪しいと思う。
913 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:51
大河ドラマなかったら武田スレなんて立たなかったかもね。
おれなんか関東の人間なのに、川中島が長野県というの知らなかったもん。武田信玄が
甲斐の人間だと知らなかったもん。
てっきり西国の人かと思ってたよ。
でも中学の歴史試験では100点とったけどね。
大河のおかげで信玄厨となり来年、甲府に家を買いついに山梨県人になれるよ。
914 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:53
甲陽軍鑑【こうようぐんかん】
高坂弾正昌信著,小幡景憲補訂。20巻。
元和年間(1615‐24)頃の成立。
武田信玄・勝頼2代の事績を通して,甲州流軍学を59品に分けて説く。
武士の心得書として広く読まれ,
江戸時代を通じて20種近くの板本があり,
写本としても流布。〔戦国史料叢書,甲斐叢書〕
これを2ちゃんねるよりと書くと誰も信じないんだろうね。
実際正しいのに。
915 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:55
正しくないw
916 :
日本@名無史さん:02/12/06 23:10
ねえ、ふだん他国の人は信玄と呼んでたの?
917 :
日本@名無史さん:02/12/06 23:14
源氏長者大膳大夫信濃守
918 :
日本@名無史さん:02/12/06 23:22
おれ今日図書館で「設楽が原」「長篠」の地名関係と、合戦の名前について調べまくったんだけどさ
めんどくさいから書かん
919 :
日本@名無史さん:02/12/06 23:27
当時は設楽原じゃないの?
920 :
日本@名無史さん:02/12/06 23:28
武田晴信
921 :
日本@名無史さん:02/12/06 23:39
結論だけ書いてよ。あとほんの名前もね。
922 :
日本@名無史さん:02/12/06 23:41
結論は長篠です。
ソースは池波著の真田太平記。
923 :
日本@名無史さん:02/12/06 23:48
敵の資料の方が正しい。ひいきなしだからね。
よって穴山は半独立とか言ってるのは地元だけで織田、徳川の記録のように
実際は家臣。
924 :
日本@名無史さん:02/12/06 23:49
1よ三戦板にスレ立てろよ。今度からは。
925 :
日本@名無史さん:02/12/06 23:52
まだヴァカ言ってる
926 :
日本@名無史さん:02/12/06 23:58
>>919 その地名はまだなかったようだ。
>>923 勝ち組の史料はそれはそれで、自分たちを褒め称えて敵を貶めるものだ。
それに家臣だろうがなんだろうが、落ち目の君主を裏切るぐらいの
ことは普通にあることで。別に弁護してやるほどのもんでもないだろ。
ただ現実の問題として、郡内や河内には信玄や勝頼の発給文書がほとんど
なく、他地域よりも大幅に自治を認められていたことは確か。
んな事情は他国の人間に分かるはずがないのだから、敵の史料が正しい
だの何だのと言うことは誤り。
927 :
日本@名無史さん:02/12/07 00:34
あと仁科もね。
928 :
日本@名無史さん:02/12/07 01:08
929 :
日本@名無史さん:02/12/07 01:10
証拠ってのは半独立の事ね。
930 :
日本@名無史さん:02/12/07 01:10
931 :
日本@名無史さん:02/12/07 01:55
残ってないだけじゃないんですか?
932 :
日本@名無史さん:02/12/07 01:58
1559年の北条氏の検地帳に小山田信有が載ってる事実……
933 :
日本@名無史さん:02/12/07 01:59
他のところはどれくらい残ってるの?
934 :
日本@名無史さん:02/12/07 02:08
>>932 1559年?年代が違った記憶があるが。
つか氏綱に叩き出されてなかったかいな?
武蔵小山田庄だっけ?所領があったの
935 :
日本@名無史さん:02/12/07 02:17
発給ってさ誰に出すの?
各地帯を任せている家臣か代官のようなやつでしょ。
張り紙はどこにするの?残ってるほうがまれでたまたま
残ってないだけでそれを支配の対象にするのはまずいと思うが・・・
936 :
日本@名無史さん:02/12/07 02:26
もうやめてください。
私の先祖は武田に皆殺しにされました。女、子供も全員です。
こんな悪人を語るのは辞めてください。
嘆き悲しんでいる人の事も考えてください。
悪いが、意味が分からん
>>935 バカな俺にわかるように優しく書いてくれ
938 :
日本@名無史さん:02/12/07 02:29
皆殺しにあって何故君が今、いるわけ?
939 :
日本@名無史さん:02/12/07 02:35
裏切りの言い訳の為に、半独立という嘘をつくりあげたのでは?
940 :
日本@名無史さん:02/12/07 02:41
あー、もう駄目だなこりゃ
低脳が一人紛れ込むとスレが潰れる
別のスレだとこういう時間は、かなり専門的な書きこみになるのだが・・・・・・
なんだかなぁ・・・・・・
942 :
日本@名無史さん:02/12/07 02:48
穴山裏切りは甲陽の作り話じゃねーの?
943 :
日本@名無史さん:02/12/07 02:55
818 名前:明治天皇 :02/12/07 01:28
>>816 これはこれはおじいさま。
決して忘れてはおりませぬ。
私の悩みは、今の皇室に男児が誕生せぬことであります。
皇祖皇宗に祈っておるのですが……
おじいさまのお知恵をお貸し願いたいと思うのであります。
819 名前:孝明天皇 :02/12/07 01:56
>>818 で、お前は本当に俺の子なのか?
820 名前:岩倉具視 :02/12/07 02:01
死人に口無し
944 :
日本@名無史さん:02/12/07 03:14
>>939 そうかね?
小山田信有が郡内の三十六の寺社に奉納する刀剣を作るのに
小田原の刀匠「元近」を呼び寄せたなんて話は有名だし、
信茂が桂川の橋を架け替えたら信玄から太刀や酒が贈られたりしてるし、
郡内の関所の通行料を決める権限は信玄ではなく信茂にあったし。
ただの「家臣」ならちょっと有り得ない事をやってるよね。
もちろん信有も信茂も信玄の家臣としても働いているんだけど、
政治的には非常に独立的要素が大きい。
甲州枡も使わないで郡内枡を使ってたし・・・
945 :
日本@名無史さん:02/12/07 03:15
946 :
日本@名無史さん:02/12/07 03:26
いやーよくつくられた嘘だね。
有名と書けばそれを知らない人は恥ずかしくて反論出来なくなるからね。
でも引っかかったら駄目だよ。みんな。
947 :
日本@名無史さん:02/12/07 03:36
>>946 釣り師にしても面白くないな。
それこそ歴群レベルの内容じゃないかと思うぞ。
>甲州枡も使わないで郡内枡を使ってたし・・・
お見事ですな。そこまでしとけば裏切りもいたし方ないと思わせる事が出来ますな。
949 :
日本@名無史さん:02/12/07 03:44
今も残ってるんでしょ。だから確実だよ。
枡の大きさはどれくらい違うのでしょうか?
950 :
日本@名無史さん:02/12/07 03:46
本人の反撃ですな。話を摩り替えないでよ。
951 :
日本@名無史さん:02/12/07 03:53
枡の事はかなり重要と思うんだが。
952 :
日本@名無史さん:02/12/07 03:59
>山田信有が郡内の三十六の寺社に奉納する刀剣を作るのに
>小田原の刀匠「元近」を呼び寄せたなんて話は有名だし、
これは半独立には関係ないですね。
953 :
日本@名無史さん:02/12/07 04:01
俺としては小山田は信玄の葬儀の話から家臣の中で一番手だと思う。
954 :
日本@名無史さん:02/12/07 04:05
小山田の場合、特権の代わりに加増はされてないという事はありますか?
955 :
日本@名無史さん:02/12/07 04:06
>>952 天文17年のことだから、まだ北条とは敵対中。
そんな時に北条家のお膝元から刀鍛冶呼んで領内のイベントに
使ってるのが、普通の家臣にできるか?っちゅうこっちゃ。
956 :
日本@名無史さん:02/12/07 04:08
自分の領地を持っている人が誰かの家臣になった時はみんな信茂タイプ゜じゃないでしょうか?
ある金額なり米を納めれば従来とおりにすると。
だから、高遠なんかは勝頼の時よりも盛信の時の方が領民にとっては良かったそうです。
957 :
日本@名無史さん:02/12/07 04:09
ちなみに郡内枡の導入は天文11年であるという……
958 :
日本@名無史さん:02/12/07 04:12
>>956 信玄が度量衡統一すると言ってるのに、自分だけ従わないというのは
普通の国人領主にゃ無理だろ。
実際他の地域じゃ甲州枡で統一してんだから。
高遠は伊那の行政の中心であり、高遠城自体は武田家の直轄だろ。
そこに城代(行政官)として勝頼なり信廉なり盛信なりが入ったわけで。
959 :
日本@名無史さん:02/12/07 04:15
それはわかりますが、武田家が税率を変えたということですか?
960 :
日本@名無史さん:02/12/07 04:15
>>956 すいません、
前半部分の
>自分の領地を持っている人が誰かの家臣になった時はみんな信茂タイプ゜じゃないでしょうか?
>ある金額なり米を納めれば従来とおりにすると。
と、後半部分の
>だから、高遠なんかは勝頼の時よりも盛信の時の方が領民にとっては良かったそうです。
のつながりがイマイチよく飲み込めないんですが。
961 :
日本@名無史さん:02/12/07 04:16
962 :
日本@名無史さん:02/12/07 04:21
甲州枡と郡内枡はどれくらい大きさが違うのですか?
963 :
日本@名無史さん:02/12/07 04:24
964 :
日本@名無史さん:02/12/07 04:35
高遠で評判悪かったのは信廉でしょ。
965 :
日本@名無史さん:02/12/07 04:43
どこにも載ってないよ。大きさは。
966 :
日本@名無史さん:02/12/07 04:47
967 :
日本@名無史さん:02/12/07 04:50
武田の場合、郡代と言って一定の領域支配権を委譲されていました。
郡代は小山田、穴山、木曾、伊那の武田勝頼、仁科の仁科盛信などです。
968 :
日本@名無史さん:02/12/07 04:54
>>967 いや、郡代という役職があったわけではないぞ。
実質的にそう呼べる役割を果たした家臣がいるだけで。
969 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:01
そーいえば、設楽ヶ原が信長公記に載ってるって言ってた人はどこいったんだろ?
970 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:13
私も、領国支配に関して、枡の話は重要だと思う。
甲州枡と郡内枡の違いや郡内枡の出現要因を944,948,958の皆さんもご存知ないのですか?
単に参考書に書いてあることの右から左に流しているだけなんですか?
971 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:13
板垣が諏訪の郡代だったと言うのも作り話なの?
972 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:15
973 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:17
>970
同感です。
974 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:19
>>971 武田氏の文書に郡代という役職は登場しないが、板垣は事実上、
諏訪を任されていたのでまあそう呼んでも問題はないのでは?
975 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:21
>>970 人に調べが足りないとか言うぐらいなら自分で調べてから大口叩けよ。
976 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:21
江戸時代の郡代と同じ役割だから郡代と表現してるだけなんですかね?
977 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:22
>>972 と言うことは訳した人の丸写ししてたって事ですか?
角川のには書いてないし、どこの出版本なんでしょうかね?
978 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:26
>>976 江戸時代以前から使われてると思うよ。守護代なんかの意味だったかで。
979 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:26
譜代家老衆とか○○先方衆は当時の言葉ですか?
国人領主はいまの表現ですか?
980 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:29
>>977 786 :日本@名無史さん :02/12/06 03:30
>>783 ああ、あの現代語訳のサイトを見たのねw
原文では「彼(かの)あるみ原は」だから。
981 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:30
>>970、
>>975 甲州枡は三升もある大きな枡だったってのはわかるけど
郡内枡の大きさはわからんね
ま、でも存在したのは証明されてる訳だから
982 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:33
983 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:38
>>982 重税かどうかは枡の大きさがわからない事には何もいえません
984 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:46
でも郡内よりいい境遇だから「特権」なんでしょ。
985 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:49
>>975 以前から探してるけど、郡内枡の大きさがわからないんですよ。いかにもご存知のようなレスだったので
お尋ねしてみただけです。
986 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:49
>>984 江戸時代、他の国じゃ統一した枡をとっくに使ってたのに、
甲斐の人間は甲州枡を使うことを要求し、特例として認められた。
だから特権。
郡内枡はそもそも減税のために小山田信有が考案したと聞いているが。
987 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:49
988 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:51
>>984 どこをどう読んだら、そういう解釈になるか謎
989 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:52
次スレどうすんべ。
つーかスレタイ変えるべきやな。
990 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:52
>>986 負担軽減のためなら小ぶりですね。あと、出典がわかればご教示いただけませんか。
991 :
日本@名無史さん:02/12/07 06:02
この時期になると広域な領国を支配するために、本領甲斐や占領地内で一定の地域支配を委任した
支城主領が確認されている。確実な成果の出ているものとしては、甲斐国内での河内領から江尻領に
およぶ穴山氏、都留郡内領の小山田氏があり、信濃では木曽領の木曽氏、高遠領の武田勝頼・
信廉、仁科領の仁科盛信などの場合があり、今後の検討を要するものとして信濃小諸領の武田信豊、
駿河葛山領での葛山信貞があげられる
地域に根ざした本領主がそのまま旧城と旧領とを安堵されて城主として居続けた場合(在城主)と、
もう一つは武田氏に接収後に新たな城番主として派遣された城主とである。後者の場合は、城代以上
に変動が多く、また相番制や兼任制などがあって、一層複雑な様相を呈している。
まず支城主として甲斐郡内領主であった小山田信茂を取り上げる。信茂が家督を継いだと思われる
永禄九年(一五六六)から、滅亡した天正十年(一五八二)三月までに外交文書もふくめて発給した
文書は、現在までに四六点が確認されている。またその時期に武田氏が小山田氏および
郡内領に発給した文書も三七点が確認される。ここでの特徴的な点を列記しておくと、まず、
1,小山田氏領とされる都留郡内での武田氏発給文書も小山田氏に匹敵する数量が残っており、
特定事項に関しては武田氏の直轄的支配がおこなわれていた。
2.小山田氏宛信玄書状は年未詳四月十五日付けの一通(『都留市史』資料編一三一号)しか
みられないが、その内容は郡内領の関所の運用を指令したものであり、上部権力としての
武田氏の優位性は厳然としている。
だとさ。
992 :
日本@名無史さん:02/12/07 06:04
普通だな
993 :
日本@名無史さん:02/12/07 06:06
郡内でも棟別銭は武田家が徴収します
994 :
日本@名無史さん:02/12/07 06:08
支配領域に対しては、支城主が知行宛行・安堵、諸役賦課・免除、軍役、過所発給などを行っている。
だから高遠では>高遠なんかは勝頼の時よりも盛信の時の方が領民にとっては良かったそうです。
となるわけですな。
995 :
日本@名無史さん:02/12/07 06:09
以上の小山田・仁科氏の場合に共通している点は、1.武田氏の関与は
あるものの、支配領域に対しては、支城主が知行宛行・安堵、諸役賦課・
免除、軍役、過所発給などを行っている。2.ともに竜朱印状は奉じて
いない。これは武田氏の行政執行機関には組織化されていなかったことを
意味し、独自の領域支配を許容されていたことの反映である。3.判物と
ともに、中途からであるが独自の印判状による領域支配が行われている。
4.同様の支城主である穴山・木曽氏などと共に世襲制がみられること
などである。
996 :
日本@名無史さん:02/12/07 06:11
>郡内や河内には信玄や勝頼の発給文書がほとんど
>なく、他地域よりも大幅に自治を認められていたことは確か。
間違ってるやんか。
997 :
日本@名無史さん:02/12/07 06:11
>>994 小山田や仁科と勝頼を並べちゃいかんよ。高遠はむしろこっちのタイプ。
この両城代領に共通する特徴は、1.圧倒的に武田氏の発給文書が多いこと
であり、城代の判物は城への与力衆である地衆に限定されている。2.城代
には独自の印判状はみられない。3.城代の書状は外交関係が多い。
4.城領内への指令は多く竜朱印状で行われており、知行・軍役関係を
中心に、広範囲な展開をみせている。4.武田家当主から城代への書状は
軍事指令のみであり、竜朱印状でもその割合が高い。5.城代も竜朱印状の
奉者を勤める事例が多く、城領内の地衆・寺社への取次役や指南役を勤め、
その権限内での城領支配を分担していたものと思われる。6.城代は世襲制
と交替制の折衷である。
998 :
日本@名無史さん:02/12/07 06:13
コピペで偉そうにすんなボケどもが
999 :
日本@名無史さん:02/12/07 06:13
>>997 さすが検索上手ですな。
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1000 :
日本@名無史さん:02/12/07 06:13
次スレよろ
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