101 :
日本@名無史さん:
血統って感覚が当時的でないと思うよ。
双系社会から父系社会への過渡期ちゅうか前夜くらいじゃないの?
ちなみに武烈と継体は2親等。
102 :
日本@名無史さん:02/10/31 21:29
だから当時はみんな納得してたのに後世の人が騒ぎ出した。
それで直系5世以内ならOKよ!なんて法律もあとから作った。
103 :
九州王朝大好き:02/10/31 22:34
一日で50レス超えた。
びっくり。
くそレスに反省。
104 :
日本@名無史さん:02/10/31 22:43
105 :
日本@名無史さん:02/10/31 22:51
>ちなみに武烈と継体は2親等。
そうそう。
父系だけでみると遠いけど女系もふくめてみると案外近いんだよな
106 :
日本@名無史さん:02/10/31 22:57
2親等!?武烈と継体は兄弟?それとも祖父・孫の関係?それとも、それ以外に2親等の
関係ってあるか?
107 :
日本@名無史さん:02/10/31 23:00
女系って書き込んでるだろ。つまり武烈と継体は父違いの兄弟なんだよ。
108 :
日本@名無史さん:02/10/31 23:16
普通、それは2親等とはいわないがなぁ。
やはり、怪しい5親等やろ。
欽明がいれば、ダイジョーブ。
110 :
日本@名無史さん:02/10/31 23:22
二重王朝ですか?
111 :
日本@名無史さん:02/11/01 01:05
日本書紀による継体から欽明までの各天皇の生没年
継体 450−531
安閑 466−535
宣化 467−539
欽明 507−571
112 :
日本@名無史さん:02/11/01 01:24
>>108 仮りに記紀のいうとおりだったとしても
5親等でもまったくないぞ(w
「親等」の数え方わかってんの???
113 :
日本@名無史さん:02/11/01 02:17
114 :
日本@名無史さん:02/11/01 02:24
>>103 おい!
>血統が正当な場合には、敢えて「継体」を使うことはありません。
はやくウソ書いたの認めれ。
115 :
日本@名無史さん:02/11/01 05:17
>>88 「稚野毛二派皇子」を隼総別皇子と記す書があるのは何故?
>>111 欽明は509年生です。
116 :
日本@名無史さん:02/11/01 06:52
けっきょく欽明は武烈の甥だから王朝は断絶してないのね。
117 :
日本@名無史さん:02/11/01 11:44
>>115 欽明の没年齢は数えで65歳じゃなかった?
118 :
日本@名無史さん:02/11/02 00:48
九州王朝大好きはウソついてバレたら逃げた。卑怯者
119 :
日本@名無しさん:02/11/02 06:42
↑すぐに他説を罵倒する粘着橿原系。お前、ウヨか?
120 :
日本@名無史さん:02/11/02 07:55
>血統が正当な場合には、敢えて「継体」を使うことはありません。
はやくウソ書いたの認めれ。
121 :
九州王朝大好き:02/11/02 08:34
「継体」について。
5世紀以前の中国文献の「継体」使用例を調べて反論すべし。
後世の文献による「継体」使用例は無意味。
122 :
日本@名無史さん:02/11/02 08:36
あ、ウソつきが居直った!
123 :
日本@名無史さん:02/11/02 08:41
>>121 ひとに根拠を聞く前にじぶんがそう述べる根拠を言えば?
124 :
日本@名無史さん:02/11/02 09:34
「康叔親属有十。武王継体、周公輔成王」史記
周の武王はもちろん文王姫昌の実子。
125 :
日本@名無史さん:02/11/02 10:20
>>124 だからそんなの常識なんだよ。常識!
それをなんで
>>121は
>血統が正当な場合には、敢えて「継体」を使うことはありません。
なんて言い張るのか理由を聞いてるの。
でもまともな答えが返ってこない。
126 :
日本@名無しさん:02/11/02 10:58
だから124しかネタがないんだよ。
もう、そっとしといてやれよ。
127 :
日本@名無史さん:02/11/02 11:17
「漢興九世、百九十余載、継体之主七、皆承天順道、遵先祖法度」(漢書)
ろくに物知らないのに平気でウソを断言できるその神経がわからんね
まあそうでもなければ妄想に妄想を重ねて九州脳内王朝を信じることはできないだろうけど
129 :
日本@名無史さん:02/11/02 15:01
九州王朝は正しい。
周の武王はもちろん文王姫昌と血がつながってないし、
漢王朝の歴代皇帝も全部血筋はバラバラです。
隠された歴史の真相をつかむには定説にこだわっていてはいけません。
130 :
日本@名無しさん:02/11/02 15:19
あいかわらず橿原一派はきつい言葉つかうね。
ほんとヒステリックなんだから。
131 :
日本@名無史さん:02/11/02 15:20
「昔周公奉継体之嗣、拠上公之尊、然猶七年制度乃定」漢書
成王も武王の実の息子ではありません。
九州王朝を信じなさい。中国の歴史をすべて書き換えるのです。
橿原一派ってなに?
133 :
日本@名無史さん:02/11/02 15:30
>>121 >血統が正当な場合には、敢えて「継体」を使うことはありません。
さあ早くウソ書いたこと認めろ。
134 :
九州王朝大好き:02/11/02 15:37
>>131 にちゃんねるにも、古代漢文を理解し文書比較をし、深く読み取れる方がいることが証明されました。
131氏は高度な読解力をもった方と推察されます。
頭おかしいの?
136 :
日本@名無史さん:02/11/02 16:01
>>134 おい!
周の武王は文王とも成王とも血がつながってないのか?
漢王朝の歴代皇帝も全部血筋はバラバラだとでもいうのか?
137 :
九州王朝大好き:02/11/02 16:01
>>129 >>131 訂正
にちゃんねるにも、古代漢文を理解し文書比較をし、深く読み取れる方がいることが証明されました。
129氏は高度な読解力をもった方と推察されます。
138 :
日本@名無史さん:02/11/02 16:08
皮肉もわかんねえ奴
139 :
日本@名無史さん:02/11/02 17:27
ーー仁徳O─┬履中P──□ー仁賢24ー武烈25
| ├反正Q
| └允恭Rーー安康20
| \雄略21ー清寧22
|
|ー□ー□ー□ー□ー継体26ーー 安閑27
|ーー宣化28
|ーー欽明29ーー以後、天智・天武朝へ
140 :
訂正<継体が天智・天武系の祖ね>:02/11/02 17:38
ーー仁徳O─┬履中P──□ー仁賢24ー武烈25
| ├反正Q
| └允恭Rーー安康20
| \雄略21ー清寧22
|
|ー□ー□ー□ー□ー継体26ーー 安閑27
。。。。。。。。。。。。。。。|ーー宣化28
。。。。。。。。。。。。。。。|ーー欽明29ーー以後、天智・天武朝へ
141 :
訂正<継体が天智・天武系の祖ね>:02/11/02 17:39
ーー仁徳O─┬履中P──□ー仁賢24ー武烈25
| ├反正Q
| └允恭Rーー安康20
| \雄略21ー清寧22
|
|ー□ー□ー□ー□ー継体26ーー 安閑27
。。。。。。。。。。。。。。。。。。|ーー宣化28
。。。。。。。。。。。。。。。。。。|ーー欽明29ーー以後、天智・天武朝へ
142 :
日本@名無史さん:02/11/02 18:05
でも欽明は仁賢の孫で雄略のひ孫。
143 :
日本@名無しさん:02/11/02 18:27
だから問題は、□(四角)の所でつ。仮に本当であっても、それって他人と一緒じゃん。
記紀でも認めたということは、皇統は完全に断絶したということを一応認めてる罠。
いったい奈良で、何が起こったんでせうか?
144 :
日本@名無史さん:02/11/02 18:29
でも欽明は仁賢の孫で雄略のひ孫だから断絶してないもんね。
145 :
日本@名無史さん:02/11/02 18:32
ー□ー□ー■ー□ー継体26
■は雄略のイトコ
146 :
日本@名無史さん:02/11/02 18:49
ぜったい男系じゃなきゃってことになったのはもっと後世になってからってことだな。
147 :
日本@名無しさん:02/11/02 19:17
欽明って、いろいろ怪しいんだよね。
148 :
日本@名無史さん:02/11/02 19:23
…とまたデマを流すのだった。
149 :
日本@名無史さん:02/11/02 21:20
>>145 応神天皇−稚野毛二派皇子−意富富杼王−乎非王−彦主人王−男大迹王(継体天皇)
允恭天皇の皇后で安康・雄略の母に当たる忍坂大中姫は、意富富杼王の妹とされます。
150 :
日本@名無史さん:02/11/02 21:52
>>147 >欽明天皇
日本書紀によると継体は応神の5世の孫とされている。
その後、安閑・宣化・欽明と続いているが、この時期の記述は資料によ
り混乱。
実際は、大伴のおす安閑・宣化と蘇我のおす欽明との間で皇位継承を
めぐる内乱があったと考えられている。
欽明の即位により、大伴が没落し、蘇我が台頭することとなった。
1、記紀神話編纂期・日本書紀編纂期には、5世の孫と言う見解。
二世などという解釈はどこにもない。
2、欽明朝は、二重王朝内乱期と解釈できる。
3、
>>145従兄弟の子の子では、血統とは言いがたい。
4、
>>149血統とは言いがたい。
151 :
日本@名無史さん:02/11/02 21:57
そして雄略の娘の春日大娘が仁賢に嫁いで生んだのが手白香と武烈。
手白香の息子が欽明。
152 :
日本@名無史さん:02/11/02 22:20
>>150 >日本書紀によると継体は応神の5世の孫とされている。
・・・・・とされているのであって、血統ではないということでしょう?
153 :
日本@名無史さん:02/11/02 22:31
>>150 その説は賛否両論。否定的な研究者(うちの大学の教授もその一人)も結構いる。
その理由としては、
1.
宣化が都した檜隈高田宮は蘇我氏の本拠地のそぐ近くであり、対立関係にあるものが敵の本拠地付近に都を置くことは考えにくい。
2.
日本書紀の記述では、最初に蘇我稲目を大臣に任じたのは欽明ではなく宣化となっている。
3.
継体が手白香皇女を皇后にしたのと同様に、安閑・宣化の両名もともに仁賢の皇女を皇后に迎えているため、前王朝との血縁という点では欽明の系統と安閑・宣化の系統にさほど優劣はない。
4.
欽明の皇后は宣化の娘、敏達の皇后は安閑の孫であり、両系統は幾重にも婚姻関係で繋がっている。
ということなどがある。
154 :
日本@名無史さん:02/11/02 22:33
訂正
× 蘇我氏の本拠地のそぐ近くであり、
○ 蘇我氏の本拠地のすぐ近くであり、
155 :
日本@名無史さん:02/11/02 23:06
150ですが。
>>153 丁寧なレスどうも。両論ありますね。私の説は、史書が混乱している点
から導かれた説だと思う。
あと、大伴と蘇我のその後の力関係ね。
>>152 私もそう思います。普通、この関連性では血統が続いているとは、
常識的には考えられない。
156 :
日本@名無史さん:02/11/02 23:08
欽明は安康→雄略の血統と履中→仁賢の血統の両方を継ぐかなめの大王だったわけ。
157 :
日本@名無史さん:02/11/02 23:09
おっと安康じゃなくて允恭
158 :
日本@名無しさん:02/11/02 23:18
>156
しつこい。ひとりで逝ってな。
159 :
日本@名無史さん:02/11/02 23:21
>>156 それで、安徳系の血統保持との理屈かな。
そうは、ならないでしょう。
時、すでに遅しでは。
それに、両方は継げないよ。
160 :
日本@名無史さん:02/11/02 23:29
允恭は意富富杼の妹を二人も娶っている。
意富富杼は強力な同盟者、後援者とでもいう関係だろう。
161 :
日本@名無史さん:02/11/02 23:31
162 :
日本@名無史さん:02/11/02 23:48
>>115 >>117 欽明の年齢は日本書紀に「若干」とあるのみ
「皇年代略記」に63歳、「一代要記」に62歳、「神皇正統記」に81歳
過去ログの前スレに比べるとだいぶ質が低下してるな
164 :
日本@名無史さん:02/11/02 23:53
ともかく継体は怪しいと言うことでいいのかな。
165 :
日本@名無史さん:02/11/02 23:56
どう怪しいの?
別にあやしくないって。
あやしいって言ってる奴は昔の学説をわかりやすく書いた通俗書に影響されてるだけ。
最近の学説ではあんまりいわない。
167 :
日本@名無史さん:02/11/03 00:06
多くの大王候補が逃げたり固辞したやっとの末、越から呼び寄せて、
20年間大和に入れなかったのは事実だね。
普通じゃないことだけはわかるよね。
問題なければ、すぐ大和に直行だろうから。
168 :
日本@名無史さん:02/11/03 00:11
政権そのものは当初は不安定だったんだろう。
手白髪と結婚しなきゃ誰もが認める正統NO1じゃないんだから。
古来から反乱の多かったところを順々に潰して歩いてる。
169 :
日本@名無史さん:02/11/03 00:27
>>92 >継体が帝位を継承できたのは、允恭の皇后の実家の子孫だったからだろ。
違うと思う。継体を中心とした越の国の豪族が、経済力を持っていた為と
思われる。
170 :
日本@名無史さん:02/11/03 00:31
かなり遠縁でも軍事力経済力があって手白香とケコーンできれば大王になれるシチュエーションだったんでしょ。
171 :
日本@名無史さん:02/11/03 00:44
そうそう
172 :
日本@名無史さん:02/11/03 00:47
血縁にうるさくなったのは律令制が行き届いてから。
。・゚・(ノД`)・゚・。自演は辞めようよ
かわいそうで涙が止まりませんよ(つд`)サメザメ
いや、コレさすがに自演じゃないだろう?
175 :
日本@名無史さん:02/11/03 02:07
と思われますが。
176 :
日本@名無史さん:02/11/03 15:13
177 :
日本@名無史さん:02/11/04 07:34
トンデモさんがから騒ぎ。結局うやむや。
178 :
日本@名無史さん:02/11/04 10:14
なんでトンデモさんは欽明が手白髪の息子なことを無視するのかな。
179 :
日本@名無史さん:02/11/05 13:03
てゆうか、もともと日本書紀が継体について「応神五世の孫」としか書いておらず、応神から継体に至る具体的な系図を載せていないことから、継体の血統について疑問視する説が生まれた。
しかし、日本書紀よりも成立が古いといわれる上宮聖徳法王帝説などに応神から継体までの系図が載っていることが知られるようになり、この説は揺らいできている。
上のほうのレスで出ていたことだが、允恭の皇后(忍坂大中姫)の兄が継体の曽祖父(意富富杼王)であることも、この系図からの情報である。
少なくとも継体が即位前から中央とある程度の接点があったことはほぼ間違いないと言われるようになってきた。(継体新王朝説はある意味トーンダウン)
ちなみに、継体新王朝説を頑なに主張する人の多くは、どういうわけか、この説では無視した上宮聖徳法王帝説における欽明の在位年数や仏教伝来年の記載を根拠に、継体死後の両朝並立説を支持しているのは、不思議というか滑稽な感じさえする。
継体新王朝説と継体が万世一系からちょっとずれるな説では、
少しニュアンスが違うわな。
上宮聖徳法王帝説から継体は新王朝ではないと主張してるが、
上宮聖徳法王帝説を無視して、欽明の両朝並立を否定する逆パターン
の人もいるよね。
182 :
日本@名無史さん:02/11/05 13:30
継体は結局王孫の一人だったわけだが、なぜ日本書紀の武列紀が
荒れてるのかが疑問視される。内政は知らないが、外交に対しては
積極外交で、名君の様な気がする。それに対して、継体の外交は
消極外交で、失地をした暗君の様な気がしないでもない。
183 :
日本@名無史さん:02/11/05 16:19
あなた方良くご存知で感心しますがもし専門家なら当然のこと。それなら自信をもって
いちいち署名してください。
185 :
日本@名無史さん:02/11/05 20:47
外交→外政で
186 :
日本@名無しさん:02/11/05 20:49
↑ おお!ほんとの歴史家光臨!!
気がする歴史家
188 :
日本@名無史さん:02/11/05 21:21
「新王朝」とかって簡単に言うけど、そもそも「王朝」という言葉をどのように定義するかにもよる。
つまり、「王朝が交代する」とはどのようなことを指すのかと言うこと。
ヨーロッパ的な考え方では、血が繋がっていても傍流の者が即位すれば王朝が変わる。
この考え方に立てば、伏見宮家出身の後花園天皇や閑院宮家出身の光格天皇は新王朝の創始者となる。
もちろん、継体天皇についても記紀の記述を100%と正しいとしても新王朝と言うことが可能となる。
189 :
日本@名無しさん:02/11/05 21:36
そうですね。王家ってすぐに婚姻策で親戚になるわけだし。
それと、当時の日本において、大和の王の血筋が何故、あるいはどれだけ
重要なものだったかということもこれからの研究に待ちたいところです。
もしかしたら、継体が「われこそは応神天皇の・・・」とか、劉備や孫堅
みたいに自称しただけかもしれないですし。結局最後に決定づけたのはそ
の経済力と軍事力だと思われますし。
190 :
日本@名無史さん:02/11/05 21:42
血縁は確実にあると思うよ。なぜなら、武列時代の河内豪族がそっくり
継体時代の重臣になってるからね。戦乱の世の中でない限り、自称
では成り上がれないでしょう。また越は早くから大和朝廷の枠組み
内であったから、自称ではないでしょう。もし自称だったら河内豪族
が黙っていないでしょう。
191 :
日本@名無史さん:02/11/05 21:51
雄略朝の盟友にして血縁者、越前近江尾張の実力者ってあたりじゃないの?
192 :
日本@名無史さん:02/11/05 21:58
>>190 河内豪族がそのままだったのはその通り。
しかし、20年間大和には入れなかった点から、何らかの政争が河内豪族
であったと予測できる。継体でいいのかとの予測が妥当。
反対勢力の拠点をつぶしてたとは推測しづらい。
話は飛ぶかもしれないが、中国王権思想の
1、血統重視
2、天命による王権神授
のうち、天皇家は1をアピールし、
2を隠し続けた。
政治が悪いと天命により王権革命がおきねばならなかったからだ。
記紀は、神に連なる血統の正しさを天武朝が自己正当化のために
かかれた物だが、
その創作物である「万世一系の幻」を、
現在は脱してもいいんじゃないかな。
万世一系に何の価値もなし。
193 :
日本@名無史さん:02/11/05 22:15
「大和には入れなかった」ってのは予断じゃないかな。
自分のホームグラウンドに宮を置くのは歴代大王みなやってきたこと。
淀川木津川の要衝を抑える意味も大きい。
母方で欽明が成長したので後年になっておおやまとに入る必要が出てきただけではないか?
194 :
日本@名無史さん:02/11/05 22:16
男「徒労だね」
女「ええ、徒労ですわ」
>>193 大王継体は確か各地を移動したはず。
表現を変えれば、各地をてんてんとしていた。
欽明の成長での大和入りの必要性説は、きびしいのでは。
ワザと淀川木津川の要衝(その重要性は同意見だが)を拠点としたのなら、
欽明が大和から出てくるはず。
豪族達の、大和からその要衝への移動も聞かないから、
やはり、継体に関連する何らかの政争が起きてたことが自然に感じるが。
196 :
日本@名無史さん:02/11/05 22:28
しかし各地を平定しながら
そのたびに拠点を替えるのも
おかしな話
197 :
日本@名無史さん:02/11/05 22:38
成人している二人の息子を高市の勾と檜隈に配置しているし、欽明はおそらくおおやまとの手白香のもとで雄略系の御曹司として養育されていたと思われる。
継体が各地を転々といっても非常に政略的なものと思われ、継体を擁立したはずの河内豪族の政争を想定する必要は感じられない。
むしろ地方での継体を正統と認めない勢力の独立運動(具体的には磐井)こそ警戒すべきものだったのではないか。
198 :
日本@名無史さん:02/11/05 22:47
欽明は継体の子供じゃないの?話についていけない。
199 :
日本@名無史さん:02/11/05 22:49
政略的とはどのような物なのか?
後継者になるのでよろしくとのあいさつ回りでもないだろうし。
入りにくい要因があったと、しつこいが、考えてしまう。
継体即位は507年、内乱説では513年から継体欽明朝の内乱。
この間、豪族間の対立強まる。522年に司馬達等が仏像崇拝。
527年に磐井の乱、地方豪族に不穏な動き。
が、背景にあるね。
200 :
日本@名無史さん:02/11/05 22:53
欽明は継体の第3?子。
地方豪族と連携した、継体反対の動きが大和豪族で動いてた可能性もあり。