1 :
大久保彦左衛門:
公家140家スレの姉妹スレです。
2 :
日本@名無史さん:02/10/21 20:08
BINGO!! ワタクシ ぺリーが 2get デース!
_,,-―- 、__
>>3 ねえ・・・
_,,/;;;;;;ヾヾ 、,;;;;;;;;''ヽ_
>>4 開国してください
ノ;_;,-―--''''゙゙ ̄ フ::::;;:'-、
>>5 開国してくださいよー
// l、::::::: l、
>>6 このチョンマゲ!!
(ヾ:::l |::::::、::、::::.ヽ,
>>7 いーじゃない開国。
、ノ:::::.| _,,、 ,、、__ |:::::::::::ゝ::::::>
>>8 あなた尊皇派?攘夷派?
ゝ:::::::|''=・-`l ト'=・=ー` ヽ:::::::::::ゞ:::ゝ
>>9 シカトですか?
ヽ.| ` ー ,ヽ::,-;:::;;::/
>>10 そんなに黄色くないのネ日本人て
| 、_,、,` l/6l::::ノ
>>11 ペリーね、この間孫が生まれたの。
| ! , , l_ ノ:/
>>12 「R」と「L」の発音の区別もできないくせに!
__| -'ー-ヽ / /`)
>>13 お茶もださないの?
ヽ | ,  ̄ __l_/,,-'=i______
>>14 寝ましょか?ここで?
__,,\`、_ ー-―' _//='''_-;;;;;;(( oo(( ))
>>15 風呂桶がぬるぬるする〜
;;;;;;;;;;○>\ ̄ ̄//○'.;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|l |l |l |l |l ||
>>16 外人ナメると後がコワイヨ〜?
はー12分待ってこういう2げっとか、、、
4 :
日本@名無史さん:02/10/21 20:22
>>4 開国してください
静岡に移住しなきゃなんないから嫌です。
5 :
日本@名無史さん:02/10/21 20:24
6 :
日本@名無史さん:02/10/21 20:25
>>6 このチョンマゲ!!
このもっこりタイツ!!!
7 :
日本@名無史さん:02/10/21 20:27
>>7 いーじゃない開国。
いやよ、いやよ、も好きのうちーーー
8 :
【^▽^】山宗我部土佐守豊親:02/10/21 20:28
僕の先祖は微禄御家人でした。
9 :
日本@名無史さん:02/10/21 20:29
>>8 あなた尊皇派?攘夷派?
どっちかってーと騎上位派かな。
10 :
日本@名無史さん:02/10/21 20:30
>>10 そんなに黄色くないのネ日本人て
うるさい!!赤ら顔
11 :
【^▽^】山宗我部土佐守豊親:02/10/21 20:33
12 :
日本@名無史さん:02/10/21 20:36
>>12 「R」と「L」の発音の区別もできないくせに!
本土と間違えて沖縄に上陸したくせに、、、
13 :
日本@名無史さん:02/10/21 20:39
>>8
何石くらいですか?役職は?
14 :
【^▽^】山宗我部土佐守豊親:02/10/21 20:49
>>13 土佐藩士のご先祖は200石前後(留守居組としては
比較的禄が多いのは、白札郷士時代からかなり
土地を持っていたから)で上士最下位の留守居組(といっても
江戸や京都や大坂の「留守居役」は馬廻以上の身分の
人しかなれず、主に国内で仕事をしていたらしい)でした。
御家人のご先祖は50石前後でほとんどプータローだった
ようです。
15 :
日本@名無史さん:02/10/21 20:53
16 :
【^▽^】山宗我部土佐守豊親:02/10/21 20:56
>>15 土佐藩士は父方の先祖の一人、
御家人は母方の先祖の一人です。
御家人@江戸になる前は八王子千人同心なる
多摩の郷士で、御家人株を購入したそうです。
17 :
日本@名無史さん:02/10/21 20:58
八王子千人同心について詳細希望
18 :
【^▽^】山宗我部土佐守豊親:02/10/21 21:02
>>17 私もよく知りません。
内藤さんという、武田遺臣末裔らしいです。
でも遠い先祖は甲州じゃなく信州諏訪の出らしい。
どなたか千人組について教えて下さい。
19 :
日本@名無史さん:02/10/21 21:06
旗本って武田家の遺臣が多いんだよね。
旗本御家人の子孫の書き込みを待ってます、、、
21 :
【^▽^】御家人ジーモン@見廻組:02/10/21 21:43
ドクター中松はお旗本の末裔だそうです。
10年前の東京都知事選の政見放送で
自慢していました(w
22 :
日本@名無史さん:02/10/21 22:10
神保町って神保氏6000石の屋敷があったらしい。
23 :
日本@名無史さん:02/10/21 23:24
糞尿汲んでた末端御家人の子孫て聞いたことねぇな。
確実にいるはずなんだけどな。
24 :
日本@名無史さん:02/10/22 11:02
血は繋がっていませんが、私の先祖は旗本御家人です。
祐筆をしたり、一橋家に仕えたりしたそうです。
血の繋がっている先祖も、旗本御家人です。
幕臣→政府役人になり、勲章もらいました。
どこかの幕末人物事典に載っていました。
25 :
日本@名無史さん:02/10/22 20:12
26 :
日本@名無史さん:02/10/22 20:40
24 幕臣→政府役人になり、勲章もらいました。
何て言う人物ですか?
27 :
日本@名無史さん:02/10/22 21:27
黒鍬者って御家人に含むの?
28 :
日本@名無史さん:02/10/22 21:42
>>16 八王子千人同心は立派な御家人では? 槍奉行支配で八王子方面の防御を
任された屯田兵だったはず。そこを見込まれたかどうか知らないけど、幕末
には蝦夷地防御にもかり出されたそうな。ただ、御家人としては裕福な方な
ので、より格上の御家人の家に養子を出す(御家人株を買う)ことはあったの
かもしれない。
>>25 公人朝夕人は、土田孫右衛門が世襲で勤めていたそうです。
29 :
日本@名無史さん:02/10/22 22:06
>>28 公人朝夕人は室町時代にもあったのですか?
30 :
日本@名無史さん:02/10/22 22:28
>>25 公人朝夕人のことじゃないよ。
同心(足軽)より下の御家人は、ようは単なる奉公人。
黒鍬、御中間、御掃除などは職の世襲を認めらていても最下層お目見え以下無役。
非人の汚物処理は町人対象。江戸城のはこの手の御家人のどれか。
子孫に詳しいこと聞きたいなと思って。
31 :
日本@名無史さん:02/10/22 23:07
芥川って幕臣(茶坊主)の子孫だよね。
32 :
日本@名無史さん:02/10/22 23:57
旗本の子孫の書き込み希望
33 :
日本@名無史さん:02/10/23 11:33
>>28 八王子の千人同心は裕福ではないと思いますが。
彼らがしていた内職は江戸でも有名だったと思います。
34 :
日本@名無史さん:02/10/23 19:22
age
35 :
日本@名無史さん:02/10/24 18:41
age
36 :
日本@名無史さん:02/10/24 22:04
age
37 :
日本@名無史さん:02/10/24 22:13
>>33 あくまで「御家人としては」ね。半士半農で知行高も多いし、大番組や
先手組なんかの与力,同心よりは余裕のある生活をしてたらしい。もっと
も同じ御家人でも、その他収入の多い勘定方や町与力,町同心には遠く及
ばないだろうけど。
sage
39 :
日本@名無史さん:02/10/25 12:51
>>37 千人同心は比較的早くから、株の売買が頻繁に行われています。
裕福でないため、同心の株を裕福な者に売っていたためです。
したがって、本来の同心設置の目的を考えると問題ですが、
その居住地もまとまりがみられなくなっていきます。
40 :
日本@名無史さん:02/10/27 09:36
age
sage
42 :
日本@名無史さん:02/10/27 13:22
徳川幕府中期以降には、金で旗本・御家人の株を買うことが多くなった聞くが、
漏れは勝海舟しかしらないが。
勝海舟の曽祖父は検校で、金貸しで成功を収め、千石取りの旗本、男谷家の株
を子供のために買った。
男谷家から勝家へ婿養子に行ったのが、海舟の父、小吉である。
後に、海舟は徳川慶喜の子を養子にして、後を継がせている。
勝と小栗が仲が悪かったのも、小栗が三河以来の大身旗本(3000石)で、金で武士になった勝を
馬鹿にしてのが遠因だと言われている。
他に著名な幕臣で、株を買って幕臣になった人はいないの。
43 :
日本@名無史さん:02/10/27 13:24
外様大名の分家で旗本になった血筋もあったが、明治以降どうなったの。
特に島津や毛利の分家筋とかは。
44 :
日本@名無史さん:02/10/27 13:31
>>42 徳川慶喜は新門辰五郎に旗本株を与えようとしたが、
新門辰五郎がそれを断った話は有名。
45 :
日本@名無史さん:02/10/28 12:32
>>42 父か祖父の代かは知らないが、
「耳袋」の著作でも知られている、町奉行根岸肥前守鎮衛も農民出身といわれている。
46 :
日本@名無史さん:02/10/28 12:40
こないだNHK教育だったかやってたけど
川路聖獏もそうらしい。
樋口一葉の父も御家人株を買いましたね
48 :
日本@名無史さん:02/10/28 13:01
>46
「謨」だよ。川路聖謨。
父親は豊後日田代官所の手付内藤歳由。
先祖は武田遺臣ともいうが不明。
弟も幕臣井上家の養子に入っている。
49 :
日本@名無史さん:02/10/28 14:53
息子2人を養子に出せるほど財力があったんでしょうか?
代官所の手付って御家人でしょ?
50 :
日本@名無史さん:02/10/28 16:23
かならずしも金銭がからむとは
限りませんよ
51 :
日本@名無史さん:02/10/28 16:26
代官所の手付・手代は、武士と武士以外かの両方からの取り立てがあった。
一般的に、かなり余禄があったらしい。
内藤家では、そこでの蓄えと日々の切り詰めた生活で工面したらしい。
父親も代官所をやめて、直参になりたかったのか、江戸に下って徒士になっている。
52 :
日本@名無史さん:02/10/28 16:30
えっ!旗本八万騎?
う〜ん、やっぱ初期の方が良かったよねぇ
とか言えば良いんですか
53 :
九州王朝大好き:02/10/28 21:47
ぼくの先祖のお殿様は旗本でした。
750石の旗本でしたが領地にいる百姓であるぼくの祖先の方が裕福になったようです。
ぼくの祖先は領地の上がりをピンはねしていたようです。
明治には750石の地主になっていました。
あっそ。
八万もいるのか?
56 :
日本@名無史さん:02/10/28 22:44
榎本武揚、天野八郎(彰義隊は多い)。
曲亭馬琴も孫達の為に御家人株買った。
探せばそこそこ有名なのもかなりいると思う。
57 :
日本@名無史さん:02/10/28 22:51
5万前後みたいよ。八は縁起のいい数字だった。
>>55 あくまでも帳簿上の数字らしい。
実数は直臣の旗本御家人合わせて1万数千だったそうな。
そんで旗本御家人の所領総数四百万石を軍役表で割ると
陪臣も含めて八万人になるという計算とか聞いたよ。
age
60 :
日本@名無史さん:02/10/29 00:48
>>58 400万石で動員が一万数千?
戦国時代より減ってるんでねぇ?
61 :
日本@名無史さん:02/10/29 01:01
だって平和なんだから。
62 :
日本@名無史さん :02/10/29 01:18
旗本・御家人構成
宝永2年「御家人分限帳」 寛政年間(旗本のみ)「国字分武鑑」
0〜49石 13788人 112人
50〜99石 1130人 269人
100〜199石 1490人 883人
200〜299石 2476人 1085人 屋敷坪数 約600坪
300〜399石 1303人 837人 屋敷坪数 約600坪
400〜499石 339人 344人 屋敷坪数 約600〜750坪
500〜999石 866人 840人 屋敷坪数 約750〜800坪
1000〜1999石 445人 421人 屋敷坪数 約900坪
2000〜2999石 162人 160人 屋敷坪数 約1000坪
3000〜4999石 144人 142人 屋敷坪数 約1200〜1800坪
5000〜7999石 100人 106人 屋敷坪数 約2000坪〜2400坪
8000〜9999石 7人 6人 屋敷坪数 約2500坪
宝永2年(1705)
旗本 約5,331人 御家人 約17,213人
享保7年(1722)
旗本 約5,205人 御家人 約17,399人
63 :
日本@名無史さん:02/10/29 01:47
あげ
64 :
日本@名無史さん:02/10/29 13:55
じゃぁ、戦国時代はなんで多いんだ?そいつらどうなったんだ?
65 :
日本@名無史さん:02/10/29 14:09
400万石だったら軍役は10万人以上。
戦国期は兵農分離が進んでないから、石高に対してより多く
の兵がいたのでは、、、
>400万石だったら軍役は10万人以上。
8万なら近似値ですな
68 :
日本@名無史さん:02/10/29 21:31
浅野内匠頭の弟、大学は赤穂藩改易後、広島藩(浅野本家)に預かりだった
けど、後に500石の旗本に取り立てられたよ。
でも、交代寄合ではなかったけどね。
幕末まで、持ったのかな。
69 :
日本@名無史さん:02/10/29 21:41
旗本の人数は1722(享保7)年、5,205人、御家人17,399人で直参数約22,600人。
この数は寛政期もほぼ同じ。幕府軍役規定による陪臣数を加算すれば、旗本八万騎に
近い数値となる。他にも、家康関東入府の日が八月朔日とされており、8の数字は
武家にとって縁起の良い数であるとも・・・・・。
70 :
日本@名無史さん:02/10/29 23:53
>>68 大学は本家からも300石をもらっていた。
子孫は昭和6?年だかに断絶。傍系は分からない。
71 :
日本@名無史さん:02/10/29 23:55
八万騎の排糞量は?
多分、武家のほうがいいもん食ってないから、、、
73 :
日本@名無史さん:02/10/30 00:29
満州八旗と旗本八万騎ってにてねえかい?
>そうそう似てるよ
75 :
日本@名無史さん:02/10/30 22:21
age
76 :
日本@名無史さん:02/10/31 02:27
お庭番は何石トリ?
78 :
日本@名無史さん:02/11/01 00:59
age
79 :
日本@名無史さん:02/11/01 16:17
>69
旗本八万騎はたぶん単なるゴロだと思う。
それ以前にも頼朝時代に
鎌倉八万騎の御家人とか言っていなかったっけ?
それに対して秀衡の藤原家は奥州16満騎とかさ。
単に多いという意味だけの数字だと思うよ。
80 :
日本@名無史さん:02/11/01 16:24
>76
100〜200俵くらいじゃなかったっけ?
81 :
日本@名無史さん:02/11/01 22:29
旗本には家来(中間除く)何人いたの?
用人というのでしたか?
82 :
日本@名無史さん:02/11/02 19:02
旗本退屈て、何石だったのだろう?いつも、派手な衣裳着てるけど。
83 :
日本@名無史さん:02/11/03 14:19
旗本の家臣って「渡り用人」とかいって、出入りが激しかったようですが、
十返舎一九とか滝沢馬琴の経歴を見てると実感します。
ある意味、武士と庶民のボーダーラインみたいなポジションですね。
数千石の旗本だったら、小大名並みの家臣もいた。
まぁ、殆どの旗本は数人程度の家臣しかもてないが。
85 :
日本@名無史さん:02/11/03 23:56
age
>>82 一応1300石取りの筈ですが
あの作品は時代考証はいい加減ですんで・・・
87 :
江戸幕府役職集成によると:02/11/04 01:13
慶安の軍役表にでは百石で槍持ち一人、中間一人の二名の家来が必要です。
二百石は侍、槍持ち、甲冑持ち、馬の口取り、小荷駄が各一名の計五人の家臣と馬一頭だそうです。
千石取りは侍五人、立弓一人、鉄砲一人、槍持ち二人、等々で合計21人の家臣となっています。
三千石は合計56人で五千石は103人となっています。
ちなみに一万石の大名は合計225人となっています。
とはいえこの人数はあくまでも戦時の出陣人数の規定ですから
留守部隊の人員や非戦闘員である屋敷の雑用係は別勘定です。
なので本来はこれよりも多い人数の家臣がいないといけないのですが
泰平の世ではどこも財政難でどこも規定以下の家臣数となっていたようです。
実際に一人の複数の家で共同雇用したりとか
登城や出仕の時だけ供を日雇いで雇い入れて体面を保ったりとか
色々やりくりがあったようです。
実際に幕末動乱期に旗本に動員令が出されましたが
規定の人員が確保できないので領地の村に人員の割当を行い。
農民や浮浪人に武器を持たせて頭数だけ揃えたといった事例が
あったそうです。
88 :
日本@名無史さん:02/11/04 01:20
高家の今川家が日光に代参する時も、領地の農民を臨時の足軽にしたらしい。
89 :
日本@名無史さん:02/11/04 01:25
>>76 一番最初に吉宗が創設した時は30俵二人扶持です。
その後各自の各自の功績などにより加増があり
家禄としては百〜二百俵程度になりました。
また優秀で幕府の役職を歴任したりして五百〜千石などになった人もいます。
90 :
日本@名無史さん:02/11/04 01:28
扶持を貰う卒や奴は武士でないよ
>>90 武士ではないが家臣団を構成する家来の一員でしょ?
あげ
93 :
いたい旗本の子孫:02/11/04 07:35
僕の先祖も旗本1200石取り。旗本寄合が永く、幕末の洋式軍隊で歩兵頭並?
以外官職にはついてないとのことです。子供のころに、歴史に興味持ったので祖父
にいろいろ質問しました。そんな内容でよかったら書き込みます。
>>93 歩兵頭並?
おもしろそうですね。差し支えのない範囲で是非おねがいします
95 :
いたい旗本の子孫:02/11/04 09:48
幕末、フランス支援下に洋式軍隊を徳川幕府が作ったのはご承知の事と思います。
歩兵頭並は、確か中佐か少佐くらいに相当して部隊指揮官で言えば大隊長以下、中隊長
以上だったと思います。旗本寄合・御普請組にとっては、役職にありつけた訳で当初は
人気だったそうです。しかし、軍事教練が半端じゃなく中級将校以下は泥まみれ汗まみれ
で不評だったとのことです。先祖の話では、第一次長州征伐時は、元亀天正の頃と同じ
ような鎧姿での出征でしたが、大政奉還時に激高して大阪に乗り込んだ幕軍の中級指揮官
として品川から軍艦 咸臨丸とかかな?に乗った時は、勝海舟とかが馬鹿にしていた 例
のゴミ拾いのような恰好だったそうです。また、祖父から聞いた話によれば、幕末期では、
将軍の事は、公式には「上様」とか言っていたが、同僚内では「旦那」と呼び「公方様」
は庶民がそう呼んだとか、家康は、「権現様」でしたが、その他の将軍は、「何代様」と
陰では言っていたそうです。また、江戸期旗本に「織田信長」は不人気だったそうです。
理由は聞いたのですが、よく覚えていないのですが、「信康・築山殿」と件だと聞いた事
があり、本能寺の時も、同盟者の死を悼むより、「この罰当たり」と徳川家の多くの者が
思ったそうです。今から、仕事ですが僕の聞いた話でよければ書き込みます。
96 :
日本@名無史さん:02/11/04 12:58
>>53 柳生宗家と領地の家老の関係みたい( ´,_ゝ`)
現柳生当主と家老の子孫の対面は見ものでした
家老の預かってた柳生屋敷の蔵は非公開でした
>95さん、 続きを待ってます。
98 :
日本@名無史さん:02/11/05 10:54
99 :
日本@名無史さん:02/11/05 14:06
マンガ界の大御所の一人、杉浦幸雄さんのお祖父さんも幕臣で
フランス式調練を受けたひとで、フランス語ぺらぺらのいきな
じいさんだったそうな
100 :
日本@名無史さん:02/11/05 19:02
>>98 ドラマ「大江戸捜査網」の内藤勘解由でおなじみの旗本寄合席とは、
三千石以上の無役の旗本のことで、交代寄合とは別物です。
ちなみに三千石未満の無役の幕臣は小普請組です。
あげ
102 :
日本@名無史さん:02/11/06 12:08
なるほど
1 新番ってなんですか?
2 大番、小十人組筋の旗本はどれくらいまで出世できるのですか?
3 叩き上げの旗本の家禄は五百石が多いですがなぜですか?
>103
1は新御番組のことでしょうかね・・。
2は「江戸時代の官僚制」という本にのっていたかと思いましたが
見つからないんですいません。
3ですが大体ですが5百石以上が知行取りということですので
その関係ではないでしょうか?
あと弓がもてるの五百石以上ですな。
それと幕府の職制上五百石の役職が多く持高勤め(足し高不要)ですむといった理由が
考えられますね。
新御番組は幕府役職集成によると
「将軍御成りの際に先駆けを勤め〜」とありますね。
番方みたいですね。
平番士の新御番衆は250俵で中の間席だそうです。
6〜8組あり一組20人とあります。
因みに9000石クラスだと華族になれた家となれなかった家があるようです。
107 :
日本@名無史さん:02/11/07 04:39
>>104 マジ?じゃあうちの担任の先祖って流鏑馬やってたっていうから500石以上の
上級武士の子孫なんだな。
今流鏑馬なんてやってるヤツは大抵百姓の末裔だろうがな。
108 :
日本@名無史さん:02/11/07 11:38
>107
>流鏑馬やってたっていうから500石以上の
>上級武士の子孫なんだな。
ネタですよね。
109 :
日本@名無史さん:02/11/07 11:50
五番方の序列をくわしく教えてくれ
それと御家人には五番方に相当するものはあるのかい?
110 :
日本@名無史さん :02/11/07 15:26
番方組織
旗本で構成された大番組12組、書院番10組、小姓組8組、新番組6組の四部隊が直属軍の中核をなす。
総員1620人は全旗本の3割に相当する。この四部隊は騎馬隊で、それぞれ番頭(部将)、組頭(中隊長)
、番士(各組50人)で編成されていた。さらに、卒にあたる与力・同心を付属する場合がある。このほか
に、旗本の歩兵部隊の小十人組があった。また、弓・槍・鉄砲などの部隊は旗本の部隊長(槍奉行、持頭、
先手頭、百人組頭)の指揮下に、御家人が与力(騎馬を許された小隊長)・同心(歩兵隊員)として編成
されていた。中でも鉄砲隊は先陣に配置される先手組に20組(弓は9組にすぎない)があり、与力200騎・
同心1000人で編成されている。百人組の4組の与力85騎・同心400人と将軍親衛隊の持筒組4組の与力40騎・
同心220人も加えると大変充実している。番頭、奉行は旗本から選任するのが原則である。
役方組織
寺社奉行、勘定奉行、町奉行の三奉行が幕閣の中枢部を構成していた。寺社奉行は譜代大名の中で奏者番を
勤めたものから選ばれていた。老中への登竜門となっていた。勘定奉行は首座・次席・・・と4名で構成され
2名ずつ公事方(訴訟担当)、勝手方(財政担当)に分かれており、郡代(勘定奉行または勘定吟味役首座
を兼任することが多い関東郡代は別格)、代官を指揮して民政を統轄し、勘定所の勘定組頭、勘定を指揮し
幕府財政を運営した。この三奉行に続くのが”下三奉行”とよばれる作事奉行、普請奉行、小普請奉行である。
また機密文書を扱い、御手伝い普請の割り当てを老中に進言できる奥右筆、幕府の日記をつけていた表右筆がある。
特に奥右筆組頭は普請の割り当てを軽くしてもらおうと大名からの賄賂が絶えず、意外と金持ちであった。
他にも留守居や奥表坊主などがある。
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×8
112 :
いたい旗本の子孫:02/11/08 21:40
祖父の話の続き
歴史に興味を持ってかつ旗本の末裔と来たら歴史上の人物と交流があったのかと期待
して色々聞きましたが余りいませんが、少々書きます。
小学生当時の記憶で曖昧ですが、小牧長久手の戦いの間、織田信雄のもとに連絡将校
としていた時期があるそうです。役職名というか・・軍制上なんと言うかはよく覚え
ていないです。また、先祖は三方が原、小牧長久手、小田原、関ヶ原、大阪夏の陣に
従軍したそうですが、戦場では余り活躍していないそうです。幕末では、二度の長州
征伐、鳥羽伏見、東北転戦、五稜郭だそうです。ちなみに、自由民権運動にも関係し
たそうです。よく聞いた話は、戊辰戦争関係です。大政奉還後の薩摩の挑発に対して
幕臣が激発して大挙大阪に乗り込む際、強硬派が携行した「倒薩の表」?の起草に参
加したとの事で、仏語より漢文に長けており薩摩を中国の故事を引用して罵倒する文章
作成に参加したとの事ですが、どなたか「倒薩の表」の本文教えてください。
また、京都に侵攻する時幕軍の計画は戦術級なのに対し、薩長は戦略級であり開戦以前
に勝敗が決まっていたような文献がありますが、どなたか幕軍の運用等について情報交換
したものです。
>112 わかってる一番古い祖先は、やはり三河武士なのですか?
114 :
日本@名無史さん:02/11/09 10:36
三河以来の旗本で、一番の最古参は酒井氏。本家は勿論、大名だが、分家で旗本
になった者多数。
松平家の始祖、親氏が最初に入り婿したのは酒井氏。その後、酒井家より裕福
な松平家に入り婿に行った。(勿論、酒井家の娘とは離婚)
親氏と酒井家の娘にできのが、酒井家の始祖。
だから、酒井氏の家系図には「松平庶流」と書かれているものもある。
115 :
いたい旗本の子孫:02/11/09 18:05
遠祖は、近江・常陸・下野を転々として三河に流れてきたとの事で「安祥普代」と
言う括りに属すると大叔父から聞いた事があり、「コアな三河武士」かどうかは個人
的には判断つきかねます。中学生の時、夏休みの宿題の自由研究として、「郷土史」
実際は、先祖探し記を書いた際、親類等から聞いた怪しげな話の一つを書きます。江戸
中期の幕臣間に「飲酒」による肝機能障害?と過度のセックスによる死亡が蔓延したと
言う話で、6代様の頃の我が家の当主も3人続けて過度のセックスで急死し、その都度
一族から養子を取ってしのいだそうです・・・今思っても怪しいものです。
また、織田・豊臣時代特に関東入府以前は、東三河と西三河、三河と遠江・駿河の対立
が激しく石川数正の一族郎党による逐電の遠因だそうです。三河武士間も決して一枚岩
ではないと祖父も伝聞されていたそうです。
あと、幕末や静岡藩時代の話とかもお聞かせください。
age
旗本で華族になれたのは、榎本と勝だけ?
119 :
日本@名無史さん:02/11/10 16:58
大久保一翁、松本良順、赤松則良、大鳥圭介
120 :
日本@名無史さん:02/11/10 17:01
山岡鉄舟
松本良順って医者だっけ?
122 :
日本@名無史さん:02/11/10 17:13
幕府の御典医。維新後は軍医総監。
じゃあ、森鴎外も貰える可能性はあったんだね、、、
鴎外は旗本じゃないけど
幕府の医師で爵位を得た人がもうひとり
池田謙斎
126 :
日本@名無史さん:02/11/10 17:22
津和野の偉人。文豪としての名が有名。
127 :
日本@名無史さん:02/11/10 17:57
鴎外の先妻の父は旧幕臣の赤松則良男爵。
age
129 :
日本@名無史さん:02/11/10 21:57
鴎外つながりで洋学者の西周。
津和野藩出身だが、幕臣になって目付にまで出世した。
維新後は新政府に仕えて男爵になっている。
130 :
いたい旗本の子孫:02/11/10 22:33
静岡転封には、ほぼ無禄に近い形で支族が同行しました(支族も日露戦争出征に
伴い静岡から離れました)本家・・僕の先祖は・・五稜郭陥落直前に離脱して何事も
なかったように帰京し、元領地で帰農・・すぐ止めましたが・・しました。遠縁の
幕臣は、東京に残り朝臣として新政府に出仕し、今で言うところの文部科学省のノン
キャリのような人もいたようです。静岡に行かず、徹底抗戦をせず昨日の敵に仕える
者の心中はいかに・・。
余談だけど
池田多仲(謙斎の養父)→西 周→森 鴎外
左→右に蘭学の手ほどきをしました
>>123 簡単に言うと、戦時(日清・日露など)に軍医総監を勤めたものは
爵位を貰えたようだ
鴎外は日露戦争に従軍しているが、当時まだ総監ではなかった
133 :
日本@名無史さん:02/11/11 09:59
北里柴三郎は軍医総監じゃないぞ。
>133
医者で爵位をもらったもの、という設問ではないと思いますが?
>130 大河小説みたいで面白かったです。よければ、また続き書いてください。
あと江戸在住の楽人(東儀家など)は幕臣扱いだったのでしょうか?
137 :
日本@名無史さん:02/11/11 22:02
>>136 寺社奉行支配の紅葉山楽人だったので幕臣でいいと思う。
>137 さんくす!!!でも、どんな仕事したんだろう、、、
139 :
日本@名無史さん:02/11/11 22:17
江戸城内の紅葉山東照宮で雅楽を演奏してたのでは?
そうか、権現様の神格化、、、というわけですね。
あと公家の土御門家(陰陽道)と争った幸徳井家って幕臣ですか?
テレビ朝日社員のレイプ事件真相はこれ?
今のところ岡部一人が捕まってるけど、暴行されたのはアイドルの卵が大半。
その住所なんか中途入社でましてや営業の岡部が知ることなぞ出来ない。
はっきり言おう。Viviaの関係者やテレ朝の制作スタッフが岡部に住所のデータを奴のパソコンに
メールして、連中はそれと引き換えに奴の「場面」収めたビデオテープ、またメモリースティックを
もらって仲間内で「鑑賞」してた。その中にはかなり上の管理職も混ざってる。
もし、何らかのきっかけでその証拠が外部に漏れたらテレ朝は崩壊する。
なんたって社内でレイプビデオ鑑賞サークルが存在してるんだから。
http://ex.2ch.net/test/read.cgi/korea/1035676130/
age
>いたい旗本の子孫さん
たいへん興味深かったです。感謝
144 :
日本@名無史さん:02/11/12 19:06
江戸開城後、大奥の女性たちはどうなったのでしょうか?
和宮や天璋院について田安邸や清水邸などに立ち退いたらしいのですが、
そのあとがわかりません。
145 :
日本@名無史さん:02/11/12 19:14
宿場女郎に落ちぶれますた???
「いたい旗本の子孫」さん、待ちまちです〜
江戸市中や静岡に住んだらしい。
明治初期に関する聞書きに品のある女性が多数市内にいて
それが大奥出身者だったとかあったよ。
148 :
日本@名無史さん:02/11/12 21:02
>>145 んなーことはない。大部分は実家とか、親類とか、寄る辺を頼って
帰りました
大幅リストラになったが、そのまま華族家の奥に仕えたものもある筈
>>140 手元に、地下家伝がないが「幸徳井」も載ってると思う
幕臣じゃないよ
>149 あ、そうでしか、、、
地下家伝って何?
堂上←→地下
152 :
いたい旗本の子孫:02/11/12 21:16
情報提供「大奥女中衆の件」
多くは、実家や親族の元に戻ったようです。祖父の話に、「近所に外様
の分家筋にあたる旗本がおり、江戸開城後に大奥にいた娘か養女が戻って
きたが特に退職金の類はなかった」と言うのがありました。
「姫お輿入れ付き衆について」
徳川家は、豊臣期末期から幕末まで外様大名に政略結婚を仕掛け養子を
押しつけたのですが、彼ら彼女らは女中や用人の他に大量の幕臣をつれて
いきます。祖父の話によると、彼らは幕臣であり幕臣ではないとのことで
す。姫君が、男子懐妊・無事出産となれば「暇」を出され、養子君がその
大名家の家督を継げば「暇」を出されるか微禄で「召し抱えられ」て直参
から陪臣「またもの」になるため、姫の懐妊は歓迎されざるものであった
とのことであり、十二代様の時、他家に嫁いだ姫を流産させようと薬を盛
った女中がいたそうです。確か、「最後の殿様」か誰かの自叙伝にも似た
ような内容を読んだことがあり、祖父の話を思い出しました。
若干ここの趣旨とは離れますが、十六代様に首相大命の打診があった時の
旧幕臣の動向につきて今度書きます
>152 家来が薬を盛る話って本当だったんですね、、、
154 :
日本@名無史さん:02/11/12 21:42
1712年、旗本は約5400家。御家人は17400人。
155 :
日本@名無史さん:02/11/12 22:08
9500石の大旗本横田筑後守について教えて下さい。
156 :
日本@名無史さん:02/11/13 11:36
信玄の家臣で川中島で討ち死にした、
横田備中守高松の子孫だよね。
age
三河以来の徳川家臣と外様大名分家の旗本を一くくりにできるのでしょうか?
外様大名の分家や武田家の遺臣系は出世できないとかいうことは?
松下嘉兵衛(秀吉の旧主)の子孫は3000石の旗本ですが
外様ですよね。
160 :
日本@名無史さん:02/11/14 07:20
>>158 柳沢吉保や跡部良弼は武田の遺臣系。
鍋島家や松前家の分家が町奉行になった例もある。
吉宗の代に編入された
紀州系の旗本もいるよ
じゃあ、とくに区別はないんですね、、、
そこまで詳しく調べていないんでわからないな。
ただ自分達では「三河以来」とかいってたようだな。
それがどのように影響したかは不明です。
小栗上野介忠順は三河以来ですよね、、、
165 :
日本@名無史さん:02/11/15 03:18
神坂次郎の「猫男爵」にでている岩松家は、120石の旗本。
明治維新の後、身内の武という女性を、井上馨に嫁がせています。
題名のとおり、男爵になっています。
166 :
日本@名無史さん:02/11/15 11:49
168 :
いたい旗本の子孫:02/11/16 08:58
「16代家達公を首相に」
ご存じの方もいると思いますが、公爵 徳川家達公に首相の打診があった事
があり、詳細は知りませんが当時(祖父からの伝聞ではなく、曾祖父の言動)
の旧幕臣は表面上は「無関心」であり、最大公約数の意見は「御前の意志次第」
との事でした。いつ頃なのか、結局対抗馬は誰だったのかよく僕もわかりませ
ん。ただ、16代様が「勝だったら何と言うか?」と側近に尋ね「やんわり辞
退」と答えたと言う話もあったようですが・・。しかし、確か貴族院議長?を
勤めたところから、政治的手腕はあったと思われます。15代 慶喜公に知事
の打診があり、「余に町奉行をやれと言うのか・・薩長は」と言ったとか・・。
さて、前回の書き込みの一部補足をしますと、将軍家の子弟の養子入り・輿入
れに同行する幕臣は、受け入れ先の規模でまちまちであり、今年の大河ドラマ
で有名な雄藩に言った際は、約百名が同行したようです。幕臣の多くは次男・
三男が多く、「暇」を出されると実家に戻ったそうです。江戸開城に伴い、某
藩に嫁いでいた姫君が、初めて領内に行くことになったとき、領内に入る直前
に輿入れ以来同行していた幕臣・女中全員に某藩の国家老から、「江戸に帰っ
て徳川家に殉じなされ」と言い放たれ「暇」を出され、多くが姫同行を懇願し
たが拒絶され、泣く泣く江戸に帰ったそうです。
維新後も徳川一門はそれなりに優遇されているような印象があります。
公爵家だけで3家ありますからね。家達公の首相擁立は薩長の反対
があったのでは?
170 :
いたい旗本の子孫:02/11/16 13:47
政党が、薩長藩閥政治に対し脅威のなりつつあり、「毒(旧敵)をもって
毒(潜在的な敵)を制する」と当時は言われていたそうです。たぶん、本命
を偽装するためのダミーだったと思いますが・・どなたか意見を頂きたいも
のです。
さて、戊辰戦争当時の伝聞について書きます。各種文献にもありますが、幕軍
の洋式軍隊の階級について陸軍総裁(元帥)、陸軍副総裁(大将)、陸軍奉行
(中将 5000石)、歩・騎兵奉行(少将 3000石)、歩・騎兵頭(大佐 2000石)、
歩・騎兵頭並、大砲組頭(中佐 1000石)、歩・騎兵総目付(少佐 700石)、歩
・騎・砲兵指図役頭取、大砲隊指図役頭取(大尉 400俵)、歩・騎・砲兵指図役
(中尉 300俵)、歩・騎・砲兵指図役並(少尉 250俵)。洋式軍隊は、当時12000
定員としたそうですが、旗本・御家人では充当できず庶民を採用しましたが、
幕臣救済と経済効果を少なからず狙いとしたようです。
>170 やはり仏蘭西式の軍制なんですか?下士官の階級も希望。
幕府が布いたのはフランス式でオッケ−なはず。
今度の映画はなぜかアメリカ式だとかなんとかいってたが。
173 :
いたい旗本の子孫:02/11/16 19:02
下士官・兵の階級についても、祖父から聞いてメモした筈ですので、実家に
帰った時、捜してみます。たしか、仏式が幕府・土佐・彦根・米沢、英式が薩摩
・佐賀・備前・尾張・肥後、蘭式が水戸・前橋・筑前、普式は紀州だったと思い
ます。
洋式軍隊の話で面白い逸話がありますので書きます。幕軍の将兵は、浮浪者・博徒
の類のため「士気」が低く負けるべきして負けたように喧伝されていますがどうも
違うようです。洋式軍隊(俗称 陸軍)で役職に有り付いた先祖は、陸軍での出世を
思いついたらしく勤勉且つ積極的に勤務しなかなか高評価だったそうで、他藩の軍事
関係者とも交流があったそうです。「御三家の某家(関係者の名誉のため匿名)では、
武器・弾薬以上に食事の出費が馬鹿にならないが大公儀はどう処置しているか?」
と内々で相談を受けたそうです。よくよく聞いてみると、藩内の門地の高い家老等の
子弟が洋式軍隊に参加する際、彼等の親(家老達)が親心で俗に言う筒持ちと言う下男
を付ける。行軍などでは若君に代わり銃を持ちいざ、戦闘となったら後になり、前
になり若を守る。完全に私兵のため定員外である。しかし、食事は藩兵同様に食べて
いる・・との事。幕軍は、創設早々にこれらを禁止してしたそうですが諸藩も食費に
閉口して幕軍にならったそうです。少なくとも、幕軍の中堅将校以下は士気も高く
下士官・兵卒は一定の範囲で平等であり高い規律を維持しており、明治以降「敗者
の弁」は封殺され、旧幕兵は弱兵と言うのは幕軍に参加した者にとっては不本意との
事でした。
174 :
日本@名無史さん:02/11/16 19:46
幕府の中にも開明派はいたんでしょうね。
洋式軍隊と旧来の旗本の装備のニ段構えだったのでしょうか?
175 :
日本@名無史さん:02/11/16 19:56
諸藩よりは幕府の方が開明的だよ。
身分にかかわらず人材を登用してたのは幕府であって、
諸藩ほうが身分差別が激しく、保守的だった。
土佐の漁師だったジョン万次郎は旗本になってるし。
大村益次郎は長州藩では武士の資格を長い間与えられなかった。
その間、幕府は益次郎を旗本に取り立てるから
幕臣になるよう懇願していたし。
勝海舟の海軍奉行、川路年聖の勘定奉行など身分の低い武士から
登用している。
176 :
日本@名無史さん:02/11/16 20:08
川路としあきら、って警視庁の初代大警視だよね、、、
177 :
日本@名無史さん:02/11/16 20:10
初代大警視は薩摩人の「としよし」です。
178 :
日本@名無史さん:02/11/16 20:12
字が難しくてわからん、、、
179 :
日本@名無史さん:02/11/16 20:27
難しい方が「聖謨=としあきら」(幕臣)
簡単な方が「利良=としよし」(大警視)
>179 サンクス!
181 :
日本@名無史さん:02/11/16 20:36
180は2じゃありません。間違えた、、、
>>173 いたい旗本たんありがd
勉強になったYO!
183 :
いたい旗本の子孫:02/11/16 23:11
>174さんへ
同様の質問を祖父にしたことがありますが不明です。しかし、第一次長州
征伐では、軍令通り20名を率いて大阪城に駐屯したが、第二次長州征伐で
は、それだけの人数を揃えられないため、上役 陸軍奉行?に申し出たと言
う話であり、洋式軍隊と従来の三河以来の軍制の区分は曖昧だったようです。
一族主立った者は、幕府陸軍に参加しており、伝聞によれば奥詰銃隊2名、
撤兵隊3名、歩兵1連隊1名、伝習第1大隊1名が階級の差こそあれ参加し
たとのこと。また、領内の農家の子弟を歩兵1連隊・御料兵を大挙入隊させ
たとのことです。さて、鳥羽伏見の戦いと並行して大阪でも薩摩屋敷の攻撃
がありましたが、攻撃した幕軍は大阪で徴募した歩兵11連隊ですが、指図
役頭取(中隊長)として参加した方が江戸に戻ってから僕の先祖に話した事で
すが、薩摩の大阪屋敷は、江戸の薩摩屋敷焼き討ち同様留守居役を捕縛でき
ないまでも攻撃自体は完璧だったそうです。屋敷に突入すると、使用人しか
いなかったため、尋問すると「3万両」持って木場伝内らは脱出したとの事。
急いで追撃すると、小判が路面に蒔かれていたそうです。なぜ、追撃したか
と言えば当時の千両箱は、大人1名では持てず・・700両位は持てたらし
い・・遠くにはいけないので、追撃すれば間に合うと計算したようです。結局
2万数千両を持ち帰った木場伝内らは大絶賛され、明治期に新聞に戊辰戦争
当時の特集記事にも載ったそうです。
>183さん レスありがとうございます。
ところで、旗本の末裔には未だに薩摩に対するわだかまりはあるんですか?
薩摩は関が原で負けたにも拘わらず70万石を安堵され、
しかも幕府を裏切ったのですから、、、
185 :
いたい旗本の子孫:02/11/17 21:06
特にない様です。僕もないし、祖父もなかったようですが・・。薩摩でも
西郷隆盛は、旧幕臣間でも人気があり、西南戦争で死んだ事を残念がったそ
うです。西南戦争では、政府軍に会津系の方々が勇躍参加したのに対し、旧
幕臣はほとんど参加していないはずです。しかし、慶喜公は心中穏やかでな
く明治期にも何やら復権を目論んでいたと言う話もありますが、基本的には
薩摩の対しては「交流せず」だったようです。余り知られていない話ですが、
静岡・東京時代の慶喜公の元には、旧譜代大名や旧幕臣が定期的に訪ねて密
談していたそうです。祖父も内容は知らないそうですが・・。
186 :
日本@名無史さん:02/11/17 21:09
その代わり、幕府に目をつけられて、木曽三川の治水工事を押し付けられて、大いに
財政を圧迫されたよ。最初に必要な工事費が、約20万両。これは当時の薩摩藩の年収
半年分に相当。
しかも、三川流域は親藩・譜代の領地が多いから、薩摩には一文の得にもならんし。
参勤交代は江戸から一番遠く、70万石の格式に相当した行列を仕立てないといけない
から、旅費も他藩とは比べ物にならないしね。
北海道の松前藩や対馬藩は、遠方で海防に費用がかかることを口実に、松前藩は5年1回、
対馬藩は3年に1回に軽減されていたんだよ。
鹿児島の鶴丸城が小さいのも幕府の陰謀でしょうか?
>>186 そもそも関が原で公然敵対したわけで
幕府の対薩摩政策としては当たり前すぎ
江戸後期には御台所を出したりして
準親藩みたいな扱いになったんだから
ひどい裏切りだわな。
190 :
日本@名無史さん:02/11/17 22:40
でも、徳川幕府があのまま続いていたら、日本はフランスの植民地になってたよ。
新政府は廃刀令・秩禄処分などで士族の特権を廃止したけど、徳川にそれだけの改革
はできんだろうが。
191 :
日本@名無史さん:02/11/18 11:57
そのための第一歩としての大政奉還だよ。
192 :
日本@名無史さん:02/11/18 21:44
西周の「議題草案」を読むかぎりでは、ドイツに近い政体をめざしていた。
議政院の下院には武士以外の代表も認めていたようだ。
193 :
日本@名無史さん:02/11/18 23:19
西も所詮津和野の藩医の息子からの成り上がり幕臣。
勝、榎本、天野、渋沢(栄一、成一郎)の様に実質幕府が崩壊してから表舞台
に出れる幕臣の一人だと思うが。
195 :
日本@名無史さん:02/11/19 05:28
>194 徳川(武田)史観というと?
196 :
日本@名無史さん:02/11/19 11:23
>193
>実質幕府が崩壊してから表舞台
>に出れる
抽象的な表現はやめよう。
幕府崩壊前に表舞台に立っているでしょう?
197 :
日本@名無史さん:02/11/19 11:31
>>195 権現様をして師と仰がせるほどの武田信玄公。
権現様が尊敬するほどだから、信玄公はさぞかし偉大な武将だったのだろう。
・・・・・・ってとこかね?
198 :
日本@名無史さん:02/11/19 20:17
家康が信玄を尊敬してたので武田の遺臣が多いのですか?
199 :
日本@名無史さん:02/11/19 20:49
維新後、旗本で華族になった家はどれくらいあるのでしょうか?
高家や交代寄合クラスであれば1万石級の大名よりも
なんか格上に感じてしまうのですが。
200 :
日本@名無史さん:02/11/19 20:51
武田は確か子爵になったはずだけど。
尊敬してたから召抱えたの?それとも単に所領増に併せて武田遺臣を吸収しただけ?
武田びいき・北条貶しが徳川のプロパガンダなのは本当?
202 :
日本@名無史さん:02/11/19 20:53
>>200 武田家は華族になっていません。
上杉家より下の爵位は受けられないとの理由で断ったそうです。
203 :
日本@名無史さん:02/11/19 20:53
>202
あらら、そうだったの。
205 :
日本@名無史さん:02/11/19 20:58
>202
なかなか格好いいね。
勝○舟とは大違いだ(W
206 :
日本@名無史さん:02/11/19 21:12
>>199 旗本から華族になった家には二通りあります。
@幕末に高直しで諸侯になった家
本多(三河西端)、蒔田(備中浅尾)、牧野(越後三根山)など
A維新後、高直しで立藩した交代寄合
池田(播磨福本)、生駒(出羽矢島)、平野(大和田原本)、本堂(常陸志筑)
山崎(備中成羽)、山名(但馬村岡)など
なお、@は維新前の諸侯なので子爵、Aは維新後の諸侯なので男爵に叙爵されました。
207 :
日本@名無史さん:02/11/20 10:56
>>202 そんなの嘘に決まっている。
華族になる要件を満たしていないから、最初からなれません。
候補にもなっていない。
208 :
日本@名無史さん:02/11/22 07:15
>207 華族になる要件ってかなり曖昧です。名和長年の子孫とか
南朝の功臣の子孫でも華族になれてます。
209 :
日本@名無史さん:02/11/22 11:13
>208
たしかに華族の要件は曖昧です。
それは華族制度が時の権力者のお手盛りでできたものだからといえるでしょう。
しかし、華族制度が廃止されている現在、結果論として要件はあります。
武田家はそのいづれにも当てはまりません。
というか無理に当てはめようと考えることが不思議です。
210 :
日本@名無史さん:02/11/22 21:38
>>202 十数年前の新聞記事で武田家の当主が語っていた。
華族令公布当時ではなく、もっとあとの時代だったそうだ。
211 :
日本@名無史さん:02/11/22 23:32
>>209 はげどう
旗本八万騎からずれるが、贈位諸賢伝をみると噴飯もののデッチアゲが
行なわれている
おおかた(有力代議士あたりが)俺の出身地にも王事に尽くした武士が
いないと肩身が狭い、いっちょ作るか
という程度と思われ。はばかりがあるので実例は出さんが(w
212 :
日本@名無史さん:02/11/22 23:36
補足
王事=具体的には、戦国時代に皇室が衰えていた時に献金したとかナントカ
213 :
日本@名無史さん:02/11/23 01:24
>>210 そもそも武田は上杉に世話になりこそすれ、位がどうこう言える立場じゃないような
江戸時代なら津軽と南部で騒動になったことがあるけど
華族には千家家から山縣家まで各時代を代表する門閥がそろって
いるのですから、信玄の子孫もいれていいと思います。
松前藩主は武田家ですかね?
世の中華族だらけ
216 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:25
中太夫、下太夫、上士について教えて下さい。
217 :
日本@名無史さん:02/11/24 09:01
ついでと言っては何ですが
明治になって、減禄が行なわれた際の基準を教えてください
もしくは載っている資料名をお願いします
何石以上〜何石まで → 何石に減禄 というようなものです。よろしく
218 :
日本@名無史さん:02/11/24 17:21
>214
松前(蠣崎)氏は自称若狭武田支流。
219 :
日本@名無史さん:02/11/24 17:34
>>216 慶応4年5月の段階で上京して朝廷に帰順した旧幕臣のうち、
高家、交代寄合が中太夫、千石以上が下太夫、それ以外が上士となった。
五千石の旗本上田義命の場合、下太夫となり本領安堵されたものの、
翌年の禄制改革で知行五千石から蔵米150石に減禄されている。
このとき、三代以上相恩の陪臣は新政府から扶持されることになったが、
明治3年に一時金とひきかえに平民に編入された。
220 :
日本@名無史さん:02/11/24 18:18
公家侍は士族、家老の家来は卒族、旗本の家来は平民・・・
222 :
日本@名無史さん:02/11/27 22:55
>220 本当?
223 :
日本@名無史さん:02/11/29 22:57
黒鍬者について詳細希望
224 :
日本@名無史さん:02/11/30 09:25
>>222 基本的にはそれでいいらしい
旗本 → 平民 というケースもあるし
農工商が士族株を買うというケースもある
戸籍が士族だから喜んだり、平民だからがっかりというのは
素人レベルと言わざるを得ない
225 :
日本@名無史さん:02/12/04 23:40
>>219 もう少し詳しく知りたい。上大夫はなかったの?
226 :
日本@名無史さん:02/12/09 00:23
旗本の家臣て最高何石くらい?
227 :
日本@名無史さん:02/12/09 19:08
滝沢馬琴の家は千石取りの旗本の家老(用人)だったが、禄は50石だった。
吉川の「旗本」(新見吉治著)に載っている
3000石の池田氏の筆頭家臣は150石ですた
229 :
日本@名無史さん:02/12/10 06:41
主君の20分の1の石高って割合から言ったらすごいよね。
旗本の筆頭家臣ってなんていうの?
用人? 年寄? 家老?
230 :
日本@名無史さん:02/12/10 11:01
用人
231 :
日本@名無史さん:02/12/10 18:54
大きい旗本の場合は家老もいる。
232 :
日本@名無史さん:02/12/10 20:04
>>226>>229 高級旗本の家臣団構成と俸禄の例をあげます。
播磨池田家(3000石)の場合、家老1人・用人3人・給人3人が重役で、
その下に中小姓約10人、徒士約10人、足軽・小人33人と続きます。
家臣の俸禄は家老100〜50俵、用人45〜30俵、給人30〜20俵です。
信州の仙石家(2700石)の場合も、家老1人・用人3人・給人3人で、
俸禄は家老が120〜100俵、用人90〜70俵、給人40俵となっています。
233 :
日本@名無史さん:02/12/10 20:29
>>217>>225 旗本から「朝臣」となった者の処遇は次のとおりです。
まず、慶応4年5月までに上京し「本領安堵」された者は、
高家・交代寄合が中大夫に、1000石以上の旗本が下大夫に、
それ以下の者は上士席・中士席に編入されました。
これ以外の朝廷帰順者に対しては同年9月に禄制改革が行われ、
旧家禄を9等に分け1000俵〜40俵までの家禄が現米で支給されました。
さらに翌年6月、本領安堵組も士族に編入され、禄制が一本化されましたが、
これは
>>219のように知行5000石が現米150石になる過酷なものでした。
234 :
日本@名無史さん:02/12/10 21:10
235 :
日本@名無史さん:02/12/10 21:17
>>234 調べた限りでは、いなかったようです。
強いていえば、五位の大名や公家の諸大夫が相当するんでは?
236 :
1・234:02/12/11 04:33
なるほど。 しかし中大夫とかは後の華族制に反映されなかったようですね。
237 :
日本@名無史さん:02/12/12 22:22
「いたい旗本の子孫」氏また来ないかなー
238 :
日本@名無史さん:02/12/13 22:25
黒鍬は運搬人夫。将軍家の奉公人の中でも御掃除、御中間等と同じ世襲を
認められた最末端御家人。御家人は原則では代抱え。
ようは将軍直の人夫や清掃員は陪臣より上が建前だから末端御家人には興味ある。
我は権現様以来の清掃員なるぞ陪臣など頭が高い!みたいなエピソード聞きてぇ。
239 :
日本@名無史さん:02/12/13 23:17
黒鍬者って輜重兵みたいな感じ?
>>239 どちらかと言えば、工兵じゃないかな。
それとも悪名高き「ロームシャ」かな?
241 :
日本@名無史さん:02/12/14 04:20
忍者と同類かも。
242 :
いたい旗本の子孫:02/12/14 20:05
仕事でなかなか書き込めなく気にしていましたが色々勉強になる書き込みを
見て触発されまた書き込みます。11代様の頃の我家の当主通称「佐渡殿」・
・・佐渡介を名乗った祖先がおり一時期当主は佐渡を称した・・・は、特に
目立った人物ではないそうですが、驚異の記憶力を有しており登城する大名の
列を一瞬見ただけで「会津中将」とか「松平修理太夫(島津)」とか言い当て
たそうです。城内でも評判となりさる老中から家斉公の耳に入り急遽「登城」
との事になり、本人も役職を期待したそうですが、登城する数日前に突如病死
してしまい一族の落胆もひとしおだったそうです。
>>242 小川恭一氏の著書の受け売りですが、旗本は任官していない限り国名乗りは
不可だったはずですけど。(伊達安芸のように陪臣はOK) 家斉の頃というと寛
政譜で特定可能だから、それを避けるためにわざとあり得ない名乗りを書いて
おられるのかもしれませんが。
244 :
日本@名無史さん:02/12/15 20:36
寛政譜以降、明治維新までの旗本の家系をまとめた本はまだありませんよね。
>244
上記の小川氏が復元を試みた本が出ています
ただその努力は多とするものですが、不完全です
史料がないのでやむを得ない点もありますが
246 :
1 ◆hjMS7HyjWg :02/12/16 06:38
>>242 やあ〜来てくださいましたか。「いたい旗本の子孫」氏の書き込み、
1以外でも心待ちにしている人多いと思います。
是非また書き込んでください。
247 :
日本@名無史さん:02/12/18 22:51
age
248 :
いたい旗本の子孫:02/12/18 23:00
242さんへ
確かに、幕府開闢以来、当家は官位を持ち得なかったのですが、大昔
の先祖・・・藤原秀郷の後胤と称し・・・が「佐渡介」と称し俗称とし
併用したようです。しかし、勝手にみなまちまちの名乗りを上げたため、
文政のころから自粛して幕末期には廃れたそうです。ちょっと誤解され
かねない話で反省しています。さて、なぜ「いたい旗本」なのかという
話を今後書きたいものです。
249 :
いたい旗本の子孫:02/12/18 23:02
243さんへでした・・
250 :
1 ◆hjMS7HyjWg :02/12/18 23:10
旗本の官位ってどうなってたんでしょうね?
自分で先祖の受領名を名乗ることも多かったのかな。
>さて、なぜ「いたい旗本」なのかという話を今後書きたいものです。
期待してます。
251 :
日本@名無史さん:02/12/18 23:39
旗本の一番上が高家なの?
252 :
日本@名無史さん:02/12/18 23:56
>>251 石高・官位位階・役職etc何を持って一番というかはできません。
大名にも言える事だけどな。
253 :
1 ◆hjMS7HyjWg :02/12/19 00:04
高家、交代寄合が上級旗本かな?
あと若年寄とか。
254 :
日本@名無史さん:02/12/19 13:06
若年寄って大名職でしょ
255 :
日本@名無史さん:02/12/19 18:33
そうですね。
256 :
1 ◆hjMS7HyjWg :02/12/20 01:26
若年寄は旗本だろう。
例;永井尚志(なおむね)〜三島由紀夫の祖母なつ、の祖先
最初の方だけな。
昔、国立公文書館で『干城録』を調べた事があります。
文化年間堀田摂津守正敦
寛政重修諸家譜編集の後、禄万石に満さる家の伝記乏しく、
祖先の勲功泯滅して伝はらさるを憂ひ、国家創業より慶安四年に至るまて、
禄万石以下の伝記を編集す。嘉永四年十月三日御庫に収む。
と書いてありました。江戸幕府開設を「国家創業」と言っているところには、
感心しました。
259 :
日本@名無史さん:02/12/20 12:15
>>256 あれは「若年寄」ではなくて、「若年寄格」。
ちなみに「老中格」の小笠原長行は藩主ではなく「世子」のままです。
260 :
日本@名無史さん:02/12/20 19:15
>>259 永井尚志は、途中から正規の若年寄に昇格しています。
小笠原長行も慶応元年10月以降は正規の老中です。
実は私も旗本の子孫です。先祖調べで、何とか『寛政譜』につなげようと
していますが、1800-1850年頃の史料が少なく、最後の一点で寛政譜に
つながりません。ちなみに、禄高は200俵です。これまで以下の文献にあたりました。
小川(編著)江戸幕府旗本人名事典
小西(監)江戸幕臣人名事典
「万石以下・家名以呂波分」「元治武鑑・慶応武鑑」「柳営補任」
「江戸城下武家屋敷名鑑」
国立公文書館の「御番士代々記」を2/3程まで調べました。
どなたかよいお知恵を拝借したいものです。
262 :
日本@名無史さん:02/12/20 20:53
>>261 そこまで調べておられるのなら、アマチュア卒業クラスと申せましょう
基本書ですが「続徳川実紀」が挙がっていないようですが?
(ちなみに私は幕府医師を調べています)
263 :
日本@名無史さん:02/12/20 23:18
>261
過去帳があれば寛政譜に繋がらないことはないと思うのですが
素朴な疑問・・
264 :
日本@名無史さん:02/12/21 08:44
>>262,
>>263 レスありがとうございます。「いたい…氏」のいたい話を聞きたい時に、
先祖調べなんかで話題独占して恐縮です。プロキシ規制トカで投稿できなくなる事が
あるので、ここをチャンスとお知恵を拝借します。そのうちレスの流れに沿った、
祖母に聞いた話(大したものではありませんが)も書きたいと思います。
>>262 「続徳川実記」はあたっていませんでした。ありがとうございます。
>>263 私の所は静岡引退組で、明治末迄は「平将門征討陣中日記」・江戸軍用地図・
旗差し物・元服祝い差しがあったそうです。これらは、火事・転居で無くした
そうです。また、昭和15年の静岡市大火で家系図を焼き、昭和20年の空襲で
過去帳も焼きました。10代目当主が記憶に頼って過去帳を書き直したのですが、
1800年代中頃迄で、間違いも多いのです。恐縮ですが、↓に問題点を書きます。
10代目が書いた「静岡深尾氏過去帳」
F元興-G元宝(宝は本当は旧字で)-H信四郎-Iショウ(音へんに召)
F元興
「深尾家中興の英主」駿府城代の代参をした。
G五太夫元宝モトトミ
幕府瓦解時に「散兵指図役」トカ言う官職にあった。
元興の3女の女婿。日下某氏の息。四百俵十人扶持。
剣術の友人に山岡鉄舟がいた。
H信四郎元養モトキヨ
武蔵四谷新屋敷で、安政元(1854)年生。
静岡で県庁の収税吏になり、後小学校教員。
現・清水市の山の中の小学校の初代校長を
最後に、明治年代と共に教職を辞す。
Iショウ
明治13(1880)年生。私の祖母はショウの妹です。
以上に該当するものが「江戸幕臣人名事典」にあるので
↓に書きます。
深尾与兵衛-善十郎-政五郎
与兵衛
政五郎の養祖父。新御番相勤申候。
善十郎
政五郎の養父。御納戸頭。
「柳営補任」には嘉永5(1852)年御納戸頭、万延元(1860)
和宮下向御用。文久2(1862)年二丸御留守居。
慶応2(1866)年並寄合
政五郎セイゴロウ
養子総領。実父松波平兵衛小普請。
万延元(1860)年御書院番。申年三十五.
高三百俵内百俵御足高。
「柳営補任」には、御裏門御切手番頭
騎兵指図役頭取とあります。
恐縮ですが、更に続けます。
268 :
1 ◆hjMS7HyjWg :02/12/21 10:16
韶、は音読みですか?珍しいですね。
維新前後の話とか、良ければ書き込んでください。
「静岡深尾氏過去帳」の七代目元興=善十郎
と思っています。
善十郎の父・新番与兵衛(「元治武鑑・慶応武鑑」では
与助250俵)が「寛政譜」の幕臣深尾氏六家の
いずれかの当主と思われますが、ここが分かりません。
今の所、次のように考えています。
>>268 1さん、レスありがとうございます。
「維新前後の話とか」ありますが、問題点を書いて
しまいますね。
「寛政譜」の深尾氏は2代目元治の3男元氏は小石川に
住んだ。4男元吉の6代目元長は小川(1989)によれば
四谷内藤宿天竜寺脇(=オソラク四谷新屋敷)に住んだ。
「寛政譜」のE元長には子に元貞と2女が居る。善十郎
(元興?)は元長の跡を継いだのだろう。元貞が善十郎で
あるかどうかは分からない。小川(1989)では善十郎は
白山御殿に住んだ。先の3男元氏の小石川深尾の7代目
錠五郎元親は小川では小石川元御殿跡に住んでいる。
「御番士代々記」の「新御番の三番」に「250俵深尾錠五郎
元親(後與兵衛)・文化5(1808)年4月16日大御番本多
大隅守組ヨリ(着任カ?)」とあるので、『善十郎は小石川の
深尾錠五郎(後與兵衛)元親の実子で、四谷内藤宿の
6代目深尾(市之丞・四郎兵衛)元長(小川(1989)では
元孝)の養子になったのかも知れないが、目下「御番士
代々記」以外に史料はない。』が問題点です。
どうも、お邪魔しました。
祖母に聞いた「静岡引退組」の惨状の一部を書きます。
今メモが出ないのでウロ覚えですが。
「駿河へ行って乞食になっても将軍様をお守りするのだ」
と、家屋敷・財産を二束三文で売り払った。金は襟に縫い込んで
品川からイギリスの大きな軍艦に乗った。甲板に野菜畑があるのが
珍しかった。航海中、信四郎は船でカクレンボして遊んだ。
この頃の事が「氷川清話」にこう書かれています。
「一万二千戸より他にない静岡へ、一時に八万人も入り込む
のだから、俺は自分で農家の間を奔走して、とにかく
ひとまず皆のものに尻をすえさせた。さて、…三、四日たつと
沢庵漬はなくなり、四,五日たつとちり紙がなくなり、
俺も実に狼狽したよ」。
身分の高い者程働く事ができず、最後には車引きのような
者になって、野垂れ死にしてしまった。ウチは元もと微禄だったから、
働く事は厭わなかった。それでも随分貧乏したよ。(続)
272 :
1 ◆hjMS7HyjWg :02/12/21 12:48
清朝末の満州旗人の置かれた状況に似ていますね。
勝海舟は「静岡引退組」の顔役だったんでしょうか?
静岡時代の徳川慶喜は呑気に自転車を乗り回し
「貴人は情が少ない」
と旧家臣達に言われたらしい。
信四郎は小学校教師になったので、子供には学問で身を
立てる事を勧めました。「学問ノススメ」の影響もあったのでしょう。
ところがショウは、親に反抗して教師になるのを嫌がりました。
ショウの「音へんに召」とは「孔子の奨める音楽」の事です。
(ショウの妹〔私の祖母〕は静岡女子師範の一期生です)
ショウは代用教員の後、平民新聞社に入り、当人に言わせれば
「堺利彦の右腕」として社会主義者になります。
少しショウを調べましたが、この頃の「社会主義者」とは
「貧民救済を目的とした人道主義者」が穏当です。
調べて私が感じたのですが、親に反抗したショウも、
親の持っていた「明治政府に対する不信感」を
シッカリ受け継いだのではないかと思います。
また、旗本か否かはともかく、元士族には
「家系などの記録癖」がありますね。御一新以前は、
家系図は身分証明書として就職には重要なものらしい
ですね。あとはソコソコのプライドのためでしょうか。
このプライドも維新で紙屑同然になる訳ですが、
「記録癖」は残った様に感じます。この各家庭に残る
「記録癖」が文系・理系を問わず維新後の科学の発展に
貢献したのではないか、と感じています。
274 :
1 ◆hjMS7HyjWg :02/12/21 13:11
旗本の家系って学問で立身した人が多いのでしょうね。
官吏、教師、医師なんかが多そうですね。
そういえば、東京農大って徳川家ゆかりだったような。。。
>>272 「氷川清話」には、以下の記述があります。
「維新の際、旧旗本の人々を静岡に移したのは、
およそ八万人もあったが、政府では十日の間に
移してしまえと注文したけれども、それはとうてい
できないから、二十日の猶予を願って、汽船二艘で
もって運搬した。しかしその困難は非常なもので…」
勝海舟はこの時静岡にも行っているので、
「旗本の静岡移住」を政府から請け負った様です。
276 :
1 ◆hjMS7HyjWg :02/12/21 13:32
確か静岡って明治になって旗本が移住してからついた名前ですよね。
今でも静岡には旗本の子孫は多いんでしょうか?
>>276 私は東京の生まれ・住まいですが、
静岡県清水市興津が亡母の田舎です。
静岡県には、旗本の子孫は多いと聞きます。
明治期に牧ノ原台地の茶畑を開墾したのも、
旗者の子孫と小学校で習いました。
新聞記事のウロ覚えですが、20年程前に存命だった
高橋トカ言う割と有名な評論家(小説家?)も
移住旗本の子孫です。この人にも、
明治政府に対するウラミがあったようです。
278 :
通りすがりの者です:02/12/21 14:13
山さんの先祖の話し読ませていただきました。
単純に思うのですが、信四郎は四谷新屋敷で生まれたんですよね?
で、四郎兵衛元吉の系統も四谷新屋敷に屋敷があるというなら
信四郎は元吉の子孫では?と思うのですが。
家禄も元吉の系統は200俵で合ってますし。
私も一応本当にそこに屋敷があるか調べました。
別冊歴史読本「江戸切絵図」を見ると嘉永4年(1851)の内藤新宿新屋敷辺之図と
文久2年(1862)の内藤新宿千駄ヶ谷辺図のいずれにも深尾四郎兵衛の名で載っていました。
これで四郎兵衛の系統は少なくとも元長からずっと四谷新屋敷だったのがわかりますね。
また善十郎についてなんですが、和宮下向御用とあったので
下向の行列の様子を描いた瓦版を見ると、
確かに御納戸頭 250俵 深尾善十郎と記載されていました。
ここで家禄が250俵ということは、善十郎は別に四郎兵衛元吉の系統へ入養せずに
唯普通に錠五郎元親(250俵)の跡を継いだと思います。
ただ政五郎の家禄が200俵というのはどう説明するの?といわれると正直わからないです。
あと一言二言。元宝の通名の五太夫ってのは元吉の子元重の通名五大夫と同じですよね。
また元宝は日下某の息子とありますが、日下色之助(色之丞)いう人の屋敷が
深尾四郎兵衛の屋敷の斜め向いにあります。ちなみに寛政譜に日下と称する家は2家。
江戸後期に新しく取り立てられた家があったとしてもそう多くないはず。
何か関係してるのではとも思えるのですが…。
>>278 ヒエーー!!とんでもなく親切で専門的な
「通りすがりの者です」氏が現れてビックリ仰天です。
「江戸切り絵図」で住所は知っていましたが、
瓦版や日下氏については調べていませんでした。
気持ちを落ち着けて、手持ちの史料と付き合わせて、
二、三時間後にレスさせていただきますね。
ありがとうございます。
なお、↑の「高橋トカ言う割と有名な評論家(小説家?)」は、
芹沢光治良(1897-)の事らしいです。
この人は静岡県生まれです。
280 :
いたい旗本の子孫:02/12/21 20:47
山氏の書き込みとそれに対する書き込みは非常に興味深いものであり、続き
が聞きたいものです。洋式軍隊にいたことや、静岡移駐など他人ごとではなく
因果を感じます。さて、1氏をはじめ多くの方が疑問である「なぜいたいのか?
」について書きます。まず、前提条件として江戸期の祖先の概要を書きます。
1 三河以来の直参
2 武勲はなく、連絡・調整能力に長け代々、記憶力が良かったらしい
3 駿河大納言事件で、禄高が半減し、復権は家宣公の時
4 代々「政局」に弱く、時の権勢家に取り入れない
等々ですが、今日まで「あの時こうしていれば」的な伝承が多すぎます。
どうも「いたい・・・だめな」当主が多いので「いたい旗本の子孫」を
名乗っています。そうそうまた多くの方は、僕の姓についても疑問のこ
とと思いますが、江戸後期までは、徳川四天王の一家と同姓でしたが、
ある時を期に「現在の姓」になりました・・・というか復姓しました。
>>280 とうとう本命の、「いたい旗本の子孫」氏が
「いたい」と名乗る理由が開陳されました。
深尾(なお、私は深尾姓ではありません)如きの
微禄者が御当家にもの申すのもなんですが、
太平の世ではそれ程「いたい」旗本とも思えない
のですが…。調整能力も記憶力も、官僚としては
立派な能力ですよね。
当主が「出世して権勢を振るえなかった」
と言うことが、御当家の家人として「いたい」と
感じておられるように受け取られますが…。
なまじ権勢家に取り入る能力に長けていると、
親方が失脚した時に憂き目にあうのでは
ないでしょうか。
皆さんお留守の間に
「通りすがりの者です」氏にレスしてしまいますね。
>>278 ご指摘の日下色之助につき、文久2年版「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」で確認
しました。記憶で書き直したショウの「過去帳」は間違いが多いので、日下某
も調べていませんでした。祖父の五太夫元宝をショウの妹も知っているので、
ショウも元宝に話を聞いたはずです。日比谷図書館で寛政譜の幕臣日下氏を
調べてみます。
四郎兵衛(2代元治の4男ダカラカ?)元吉の系統が、少なくとも市之丞(後・四郎兵衛)
元長以後は、「四谷新屋敷」に住んだ事は、次の史料でも確認できました。
『万石以下 家名以呂波分(家名集御旗本武鑑写)』公文書館蔵
「発行は不明だが、寛政譜成立(1812年)頃であろうと考えられている」(続)
善十郎の禄高
小川(1989)では、四郎兵衛元孝(寛政譜の元長)二百俵の子孫としての
『幕士録〔文政10(1827)年頃〕』による善十郎は二百俵・屋敷は
白山御殿(昔、館林城主当時の徳川綱吉の屋敷があったので)です。
和宮下向御用の文久2(1862)年当時の御納戸頭としての足高で
+50俵なんでしょうか?白山御殿と言うのも実父(?)錠五郎(後・
與兵衛)元親のもとなのかナア、とも思いますが分かりません。
元親の祖・元氏の通名は寛政譜で與兵衛になっていますね。(続)
ただ、「江戸幕臣人名事典」の出典になった次の史料(多聞櫓
文庫目録明細短冊の部)は信頼できると思います。
御書院番深尾政五郎分限
高 三百俵 本国近江
内百俵御足高 生国武蔵
養祖父深尾與兵衛死 新御番相勤申候
養父 深尾善十郎 御納戸頭
実祖父松波平三郎死 新御番相勤申候
実父 松波平兵衛 小普請
養子総領
深尾政五郎
申歳三十五
萬延元庚申年五月十四日従部屋住両御番之内御番入御書院番江入
(続)
↑は投稿したら字間がつまって読みづらくなり、申し訳ありません。
善十郎の養子は「日下でなく松波の息」になっています。或いは、ショウの
聞き違えかも知れません。静岡生まれの彼らは江戸の地理や人間関係
を知らないので、祖父の江戸話は分かりにくかった様です。祖父が
「日下さんとは親しかった」と言う話を聞き違える恐れはあります。
ショウが書き直した過去帳にこう書いてあります。
「物心ついて、予(ショウ)が父信四郎や母ひさに江戸の住所や菩提寺の
所在を尋ねて見たが、何分瓦解のゴタゴタ紛れで、町名も何も判らず、
父母も子供心に四谷火の番町とか聞き齧って居る程度で、一向手掛か
りも無いのは残念である。」
嘉永7(1854)年の「東都駒込辺絵図」の「小石川白山御殿跡大通」には、
↑の「松波平兵エ(政五郎の実父)地守」の区画がありますが、元親の
深尾家は見あたりません。「地守」とは、「住まずに土地管理を任され
ていた」事でしょうか?(続)
ショウの過去帳による「維新後の生活」
「我が家は将軍慶喜公に随伴して駿河に移り、駿府旧城内に与えられた
家に住んだ。そこで九代目信四郎は生長し、就職し、結婚した。
元宝は、維新後酒癖のため、換禄公債も売り払って可なり貧しい生活を
続けては居たが、それでも三人の子供、特に長男信四郎の教育は、
出来るだけの面倒を見たらしく、有名な故・山路弥吉(愛山と号す)氏と
同じ家塾に入れたり、英人・クラーク・ヴァンダイク等に就いて英語を勉強させ
たりした。後年、徳川家達公が始めて外遊されるとき、御学友として
共に渡欧(ベルギーらしい)せぬかとの勧誘があったとき、舐犢シトクの愛
(親が子を溺愛すること)に溺れた母が之れを拒んだ為め、可惜アタラ立身
の機を逸したというような話もある。」(続)
元宝の話
私が亡き祖母に元宝の事を聞くと、祖母は
「飲ん兵衛だったよ。由比で死んだ」と言ったきりでした。
元宝の履歴を「明細短冊の部」や「柳営補任」で知ると、
なかなか大した男だったんだろうナアと思います。
恐らくは、御納戸頭?だった善十郎に見込まれて婿入りし、
御書院番から騎兵指図役頭取までなり、それなりに
「凛々しい」男盛りを過ごしたのではないかと思います。
それが御一新で静岡引退となり、貧乏暮らしとなった訳です。
鬱屈する心は、酒でも飲まなければやっていられなかった
のでしょう。望みは子供の教育だけだったと思われます。
老残の元宝を、孫娘(私の祖母)は、たぶん「汚い酒飲みジジイ」
と思っていたのではないかと感じます。
元宝さんに、私は同情を禁じ得ないのであります。
これらは5年前まで必死に調べましたが、仕事が忙しくなって
ほったらかしていたものです。調べるヒントをいただけて
ありがとうございます。答なり、調べるヒントなり、
更にいただければ、幸いこれにすぎるものはありません。
以上、長々と、どうも失礼いたしました。
288 :
いたい旗本の子孫:02/12/22 08:41
いやいや山氏の書き込みは、本当に興味を引くもので非常に刺激を受けます。
いい意味で。さて、当家の家風について書きます。直参旗本の千余石と言うと
江戸太平の世では、大久保彦左衛門的な頑固親父か、尖鋭不平分子「旗本奴」
とか、時代劇の悪役のイメージがありますが、実際はどうなんでしょう?
歴代当主は、「いたい・・と言うはさっぱり」した者が多かったようです。
江戸初期、駿河大納言忠長卿の付目付?・・伝承ではこうなっているが実際
こんな役職は確認できない。郷土史家が言うには御三家における付家老に準
ずると言われたが・・となり、駿府在任間に卿より下問あり「聞くところに
よると大阪の陣に参戦したと言うが、豊臣家はなんで滅んだか?」とあり、
多くの者が「家康の威光」「豊家の没落・・秀頼・淀殿の無能さ」を言うの
に対し先祖は、「偉いのは、関白であり豊家ではない 豊家は幕府開闢後は
諸侯に過ぎず 武家の棟梁たる将軍は偉いが、徳川家も豊家と同様」と言い
放ち周囲を相当「退かせた」そうです。天皇機関説ではないが、将軍機関説
のような言を吐き、忠長卿に「父秀忠・兄家光本人が偉いのでなく、将軍
だから偉いのだ。卿も将軍になれば宜しい」的な発言ととられかね現に幕府
に讒言されたようですが、伝承によれば「あまり深い意味はなく、立場が
人を育てるから卿も与えられた立場でがんばれ」と言った思いだったそうで
す。
289 :
いたい旗本の子孫:02/12/22 09:06
また、家斉公の治世で、当家に行儀作法見習いとして勤めていた町人の娘
が非常に美人で評判となつたことがあり、当主に上は大大名が「側室」に、
下でも大商人から「妾」と申し入れがあったそうですが、当主は「この娘は、
行儀見習いで当家で預かっており、当家にいる間は当家の娘だ。正室・正妻
にとなれば、当家が正式に養女として当家の娘として嫁に出す。側女ならば
上様と言えど断る。大体、妻一人いればいいでしょう?」といい断固拒否し
たそうです。城内で、同輩からその話を振られた時「自分の娘ならば考えな
いことはないが、町人と言えど他人の娘にそんなことはできない。しかし、
こうでも言っておかないと自分がちょっかいを娘に出しかけない・・爆笑」
と言ったそうです。後日、娘は実家に戻り相当の男・・町人と結婚したそう
です。
山さんの御投稿たいへん興味深く読ませていただきました
肝心の>1800-1850年頃の史料
にはこころあたりがないのですが参考まで
四四二 深尾元宝 三十四歳
五太夫 天保五年生 高二百俵
子息信四郎(明治十八年静岡県御用掛準判任
同三十一年庵原郡小河内小訓導)
明治二年 三州横須賀奉行支配割付
同 二年 静岡本通川越町権右衛門方寄留
同 二年 新居勤番組頭支配二等勤番
同 四年 松岡万付属改心所勤番 静岡城内九一一転
同 六年より九年まで静岡本通裏町五四居住
「駿遠へ移住した 徳川家臣団 第四編」 前田匡一郎著
なお拝領屋敷の変遷を追うには「東京市史稿」も使えます
索引もありますので、運がよければ載っているかも
291 :
通りすがりの者です:02/12/22 14:16
>山さんへ
>和宮下向御用の文久2(1862)年当時の御納戸頭としての足高で
>+50俵なんでしょうか?
それはちょっと考えられないと思います。
その瓦版には善十郎の隣に設楽八三郎なる人物がいるのですが
勘定吟味役で150俵となってます(勘定吟味役は500石高)。
もっとも御納戸頭は700石高で慶応3年に場所高をやめて500両となっているので、
その点からもそのように考えるのは無理じゃないかなと思います
(700石高から250俵高になったいうのも無理が…)。
>小川(1989)では、四郎兵衛元孝(寛政譜の元長)二百俵の子孫としての
>『幕士録〔文政10(1827)年頃〕』による善十郎は二百俵
なんかこんがらがってきました。
こういうことかなぁ?
善十郎は一時元吉系に養子になって家督を継ぎ、
後に実家に戻って元氏系の跡を継いだってこと?
それかただ単に50俵加増?
石高から見るとこんな風にしか考えられないです(汗)。
>祖父が「日下さんとは親しかった」と言う話を聞き違える恐れはあります。
近所に住んでたからその可能性はありますね。
でも262さんが示してくれたデータからだと元宝と政五郎(文政9年生まれ)は
同一人物ではないことがはっきりしたようですね。
292 :
通りすがりの者です:02/12/22 14:17
>嘉永7(1854)年の「東都駒込辺絵図」の「小石川白山御殿跡大通」には、
>↑の「松波平兵エ(政五郎の実父)地守」の区画がありますが、元親の
>深尾家は見あたりません。「地守」とは、「住まずに土地管理を任され
>ていた」事でしょうか?
私も白山御殿の深尾家を探していてそれに気付きました。
地守の意味はわからないですが、ここが深尾家の屋敷とも考えられますよね。
でも嘉永7年頃なら政五郎の養父善十郎は御納戸頭ですし
屋敷の管理を息子の実家の松波家に任せるのは個人的にはちょっと考えにくいですね。
ちょっと疑問に思ったこと書きますね。
もう関係のない可能性の出てきた政五郎に関してなんですが、
彼の養父善十郎は文久2年(1862)に二丸留守居とあるので、
少なくともその頃までは隠居してないことになりますよね
(隠居の身で役職にはつけないですよね)。
ということは「江戸幕臣人名辞典」所収の政五郎の文書は
申歳即ち万延元年(1860)に書かれたものですから、
このころはまだ家督を継いでないと思えるんです。
だから200俵=家禄とはとれないのでは?って思うのですが。
でも家督を継いでない即ち元がないのに足高ってあるのかなって疑問も出てくるのですが、
この辺の事情よくわからないです。
あと一般的なことなんですが、政五郎は御書院番で足高込みで高300俵ってなってますよね。
御書院番って200俵高の役職じゃないのかなって。
「江戸幕府役職集成」にはそう書かれてるんで思ったのですが。
幕末期に変わったのかな?
293 :
日本@名無史さん:02/12/22 16:14
山氏へ
正月実家に帰った際、山氏に参考になる文献・記録はないか捜してみます。
また、山氏又は深尾氏は現在「柳営会」には参加又は登録しておられますか?
我が家は参加していませんが、旧幕臣の子孫の会なので何かヒントがあるや
も知れませんね。さて、明治期に旧幕府関係者の証言を集めた「旧幕府記事」
なる書籍があり、近代戦で本邦初の野戦築城を実施したのが「旧幕軍」である
とか、戊辰戦争で薩軍は橋梁破壊に液体爆破薬を使用したとか、軍事史家には
非常に興味を引くものです。残念ながら、所持していませんが、それを読んだ
当主 元歩兵頭並は、事実とはかけ離れた数箇所について出版元に抗議したと
言う伝承もあります。さて、戊辰ネタを・・・鳥羽・伏見での敗走を経験した
先祖は、何とか大坂城てに逃げ帰り「大坂で態勢を立て直し再度上京し官賊
薩長を討ち、君側の奸を除くべし」と上司たる陸軍奉行 竹中重固に進言しよ
うと待てどいつまでたっても竹中氏は会議から戻らない。不審に重い、廊下で
会った者に聞くと「上様が逃げた。海軍の榎本の手引きで軍資金を軍艦に積む
。大坂で一戦のはずが偉い人は何考えてるのかわからない。自分は城内にいる
部下をまとめて軍艦で江戸に行く。あんたも早くしたほうがいい」と言って立
ちさったそうです。後に、大正期に地元の新聞記者から取材を受けた曽祖父は
・・彼の父が元歩兵頭並・・は、記者から「城内からの早期脱出を勧めたのは
新撰組の土方か」との問いに「否」と言ったきりだったとのこと。先祖が、五
稜郭にいき、一兵士同様に銃を持って戦いつつ何かのきっかけで「離脱」した
のは、やはり五稜郭の重鎮達のうち誰かに関係があったような伝承もあります。
社交的かつ多弁であったといわれる先祖は、五稜郭での話はいやがったそうで
す。特に、松平太郎・大鳥圭介及び榎本武揚の話は、禁句だったそうです。
さて、実は鳥羽・伏見の戦いについて詳細な資料があり、連載までいきません
が抜粋を書き込みたいのですが、ここの私物化に成りかねないので躊躇してい
ますが、皆さんよろしいでしょうか?
>>293 横から口を挟んで申しわけありません
この場でそういう貴重な話が聞けるのは大歓迎ですが
せっかくですから「鳥羽・伏見」という別なスレを建てた
ほうが、より目立つのではないかと
このスレの>1さんの意向もあると思いますし、あくまで
個人的意見です
295 :
いたい旗本の子孫:02/12/22 21:49
262氏の言は正鵠を得ております。機会を見つけ別のスレを立てます。
さてさて、仕事のためしばし休憩です。来月には書き込むつもりですが、
皆さんの活発なる書き込みに期待してます。
本日なにげに武鑑(東洋書林)で「深尾善十郎」を見ていましたら
古いところで200俵、新しくなると250俵になるようです
元高の変更はめったにおこなわれませんから、やはり200俵が
誤りで、あとから修正されたのではないかと感じました
誤→正の修正はありそうですが、正→誤になるのは変ですからね
また同資料の善十郎の住所は嘉永六(1853)年では
牛込わせたよこ丁(早稲田横丁)となっており
>H信四郎元養モトキヨ
>武蔵四谷新屋敷で、安政元(1854)年生。
とは矛盾するようです
残念ながら翌年の武鑑は持っておりませんので断定は
できませんが
実際には二万人だよ。幕府はサバを読んだ。
>>288 >>290 >>291 >>292 >>293 >>296 みなさん、ありがとうございます。よく考えて後ほどレスさせて頂きます。
う〜む…、それにしても
五太夫元宝≠政五郎
は、イタイ!!
>>295いたい旗本の子孫様
貴重な史料ですね。新スレ立てる時は、いつ頃どんな名で立てるか、
本スレで予告して頂けるとありがたいです。新スレの名は
「旗本実録・鳥羽伏見の戦い」
なんてのはいかがでしょう?
>>290・263さん
重要文献のご指摘まことにありがとうございます。
>「駿遠へ移住した徳川家臣団・第四編」前田笈齪Y著
の発行年と発行所について、
>「東京市史稿」
の編著者、発行年、発行所について、
御教示頂ければ幸いです。
>>278・通りすがりの者ですさん
>>296・262さん
深尾信四郎の生まれた場所と時について
>>266の「信四郎・安政元(1854)年生」は誤りでした。正しくは、
「ショウの父・信四郎は安政5(1858)年生まれ。
場所は、武蔵国豊島郡四谷新屋敷」です。
これは、信四郎が初代校長を勤めた清水市立小河内小学校
に残した履歴書の内容です。
>>285のショウの「過去帳」の記述も、この履歴書を調べていない事が判ります。
恐縮です。どうも失礼いたしました。
>また同資料〔武鑑(東洋書林)〕の善十郎の住所は嘉永六(1853)年では
>牛込わせたよこ丁(早稲田横丁)
白石(編)(1993)「江戸切絵図と東京名所絵」小学館で、探してみました。
嘉永4(1851)年の市ヶ谷牛込絵図に「早稲田丁」があり、
嘉永7(1854)年の牛込市ヶ谷大久保絵図に「牛込ワセダ」「ワセタ丁」が
ありましたが、嘉永7年の後者にも、「深尾善十郎の屋敷」は
ありませんでした。おそらく、同所の拝領屋敷に住んだものでしょうか。
301 :
1 ◆hjMS7HyjWg :02/12/23 08:01
しばらく見ない間にすごい展開ですね。
>>295 いたい旗本の子孫氏
是非このスレに新スレのアドレス貼ってください。
>>291 >>292通りすがりの者ですさん
五太夫元宝〔天保5(1834)年〕≠政五郎〔文政9(1826)年〕
エライ事になってしまいました。「割と出世した善十郎を調べれば、
どこかで寛政譜につながる」と考えておりました。頭を冷やして
考え直してみます。ショウの過去帳から、私にそう思わせた部分を
お示しする他ないかナ?、ととりあえず思っております。
政五郎の分限で
>家督を継いでいないのに家禄をとれるのか?
>御書院番って200俵高の役職じゃないかなって。
ごもっともです。「江戸幕府役職集成」はキッチリ読み込んだ訳
ではありませんが、素人の私にもナントカ分かる位には書かれております。
いろいろな例外を簡略化して、分かり易さを狙って書かれたのか?
1800年代にいろいろ職制が改革されたのだが、史料が散逸して
本当のところは解明されていないのか?
どうなんでしょう?もう、シロウトの手に負えません。
>>293いたい旗本の子孫さん
ありがとうございます。よろしくお願いいたします。
「柳営会」について
私も静岡の深尾家も、参加・登録しておりません。また、東京の
幕臣深尾氏本家(私の縁者は分家筋に当たります)の方とも付き合いが
ありますが、こちらも同様のようです。
柳営会については、活動等問い合わせてみようかと思っております。
>それ(「旧幕府記事」)を読んだ当主・元歩兵頭並は、事実とかけ離れた
>数箇所について出版元に抗議したという伝承もあります。
売れた本が多数派になります。「多数派=定説」ではありませんが、
政治的には限りなくこれに近づきますよね。抗議したご本人が
亡くなれば、「誤った記述の本」しか残りません。
その「伝承」は、記録に残されてはいかがでしょうか。
山さんへ
お訊ねの
>「駿遠へ移住した 徳川家臣団 第四編」 前田匡一郎著
ですが、私家版ですのでここで公開するのは憚られます
メール欄に捨てアドを入れておきますので、お手数ですが
私まで御照会ください
ただし内容的には掲出したものが全文で、ほかに深尾姓も見えません
>「東京市史稿」
のほうは東京市役所/東京都編 臨川書店です。<市街編>だけで
数十巻ありますが、近年索引2冊が出て使い易くなりました
>嘉永7(1854)年の牛込市ヶ谷大久保絵図に「牛込ワセダ」「ワセタ丁」が
>ありましたが、嘉永7年の後者にも、「深尾善十郎の屋敷」は
>ありませんでした。
切絵図がないので即答しかねますが、私の手元の資料(※)では
牛込早稲田町(済松寺領)の外れ、宗参寺と井伊掃部頭の中間くらい
のところに「深尾善十郎」が見えます
(※)朝日新聞社「復元 江戸情報地図」とそれをすっかりCD化した
ような(株)エーピーピーカンパニーの「江戸東京 重ね地図」の双方
に記載がありました
>>302 >家督を継いでいないのに家禄をとれるのか?
>御書院番って200俵高の役職じゃないかなって。
家禄ではなく、職禄として親と別に出仕する例なら、意外とあるようです。
大名の例ではありますが、唐津藩世子小笠原長行は当主ではないのに若年寄・
老中になっていますよ。
>>304 いろいろご丁寧に、どうもありがとうございます。
「お送り」しておきました。
>>305 なるほど、「職禄」ですかア。
「江戸幕府役職集成」の「役職の手当(p.17-19.)」に、
「職禄」ではありませんが、それに類する説明がありました。
複雑なんですねエ。
「こうした複雑な機構であるから、五百石の家禄のものが
三千石級の役高に当たる役職につくと、二千五百石足してくれても、
三千石級の威儀と交際、運営をしなければならぬから大変である。」
とありました。
保全をかねて、また、プロキシ規制で私が投稿出来なくなる前に、
>>302の上半の趣旨で、ショウの過去帳の「古い部分の記述」を続けます。
先祖探しでみなさんのお知恵拝借しようなんて、すみません。
「(1)〜:は後で注記する」の意味です。
原文は昭和21年10月に書かれ、昭和32年まで加筆しています。
深尾氏過去帳
深尾家十代目戸主深尾韶ショウ手記
序
昭和十五年一月十五日、静岡市の大火に因り、住宅全焼の厄に遭い、深尾家
系図を焼き、更に、昭和二十年六月十日、アメリカ航空隊の襲撃を受け、
全市火の海と化し、我家の過去帳は烏有ウユウに帰した。残念にもあり、
申し訳なく思う。因って、茲ココに記憶を辿り、知る限りを記して、
子孫に伝えることとする。
深尾家の由来
我が深尾家は、近江源氏佐々木氏より出た武士である。家紋は、佐々木氏
と同じく七ツ割隅立スミタテ四ツ目。即ち、陰陽の泉を七等分せる四角四個の
組み合わせを用い、裏替紋としては、五三ノ桐を用いている。−略−
徳川幕府の旗本八万騎の一人として代々忠勤に励み、七代目元興は、深尾家
中興の英主と聞こえた。駿府御城代として(1)、江戸より今の静岡に在勤し、
往復の途上は「下ニ下ニ」の警蹕ケイヒツの声も勇ましく、大名待遇であったと言う。
元興は武技にも秀で、又、膂力人に勝れ、大身の槍二本の石突を両手に、
水平運動をしたと伝えられる。
元興には不幸にして男子なく、女子三人の中、最長の姉(ハマ)は上野秀業ヒデナリ
に嫁し、二女伊豆仁田大八郎夫人となり、三女さきは留めて実家を相続し、
日下クサカ某氏の息を迎えて婿(旧字、知の下に耳と書く)とした。
これが八代目元宝モトトミ(宝は原文で旧字)である。元宝は四百俵十人扶持の
俸禄を食み、小身ではあったが剣道に達し、明治維新、徳川幕府瓦解の際は、
「散兵指図役」とか言う官名(2)を持って居た。
予の記憶によれば、明治末葉頃までは、我が家に平将門征討陣中日記、
江戸軍用地図、家紋付旗差し物、信四郎の元服祝い差し大小等が蔵されて
あったが、転居やら火事やらで今は一物もない。(続)
深尾家の歴史
深尾家の歴史三百七十八年(これはあまりアテにならない)を
十代に平分すると、一代の平均三十七年八分に当たるが、之を
最近世代の実情に記録して見ると、第十代深尾韶(大正12年
・西暦1923ー昭和22年・1947迄を数えて)二十四年、第九代深尾
信四郎(明治15年・1882年-大正12年・1923)四十一年、第八代
深尾五太夫元宝(推定万延元年・1860(3)−明治15年・1882)
四十二年である。〔以上、「ショウの過去帳」引用終わり〕
以下、注記を書きます。
(1)について
これはショウ兄妹が「先祖の誉れ」として、よく聞かされた話らしい。
明治維新時の信四郎は十歳だから、実際に見聞しているのは
祖父の五太夫元宝(維新時に34歳)である。なお、「柳営補任」
には、徳川幕府全期間を通じて、幕府の上級職の名簿がある。
深尾氏は12名載るが、しかし、深尾元興の名はない。また、
駿府城代となった深尾氏もない。
一方、ショウの妹(私の祖母)によると、家紋付旗差し物について、
こう語った。「元興だか元宝が、大名か家老か副将軍だかの
代参で登城する時に、この旗差し物を背にさした」。
この話から、「駿府城代」はおそらく代参だろう、元興は
少なくとも「大役の代参を勤める地位」に居たのだろうと、
考えました。そのような地位に居た善十郎〔嘉永5(1852)年
御納戸頭・文久2(1862)年二丸御留守居〕が、元興ではないか
と考えました。しかし、その養子・政五郎は五太夫元宝とは別人
であることが262さんのご指摘で判り、元興=善十郎の可能性は
低くなりました。でも、元興と善十郎が別人と確定した訳では
ありません。(続)
(2)について
「江戸幕府役職集成」によれば、正しくは「撒兵」。
「柳営補任」に深尾五大夫元宝の名はない。
「柳営補任」の「政五郎・騎兵指図役頭取」の類似から、
政五郎を五大夫元宝と判断しましたが、今回
誤りであることが判りました。残念ではありますが、
これは進歩です。262さん、ありがとうございます。
(3)について
八代目元宝が七代目元興から家督を継いだ年を
「推定万延元(1860)年」としていますが、推定の根拠は
示されておりません。(続)
以上から、
静岡深尾氏
F元興−G五大夫元宝-H信四郎元養−I韶
の信四郎は安政5(1858)年四谷新屋敷生まれ
なので、元宝はそこに住んだと判ります。
一方、寛政譜では以下です。
幕臣深尾氏
@元次−A元治−B元吉-C元重-D元孝−E元長-元貞
三代元吉は元治の4男で分家し、通名を四郎兵衛としました。
六代目元長は四谷新屋敷に住んだ事がはっきりしています。
従って、静岡深尾氏7代目元興は元長の跡を継いだ事は
ほぼ間違いありません。寛政譜当時〔寛政11(1799)年〕、
元長は70歳で、元貞の他に2女がいます。元興が元貞と
同一人物か養子かは、判りません。
なお、小川の「江戸幕府旗本人名事典」では、元長の跡を
善十郎〔「幕士録[文政10(1827)年頃]〕が継いだ事になって
います。しかし、同書で善十郎は同族の深尾清太夫アキヨシを
「ママ」の注記で継いだ事にもなっています〔「旗本姓名
高寄[天保9(1838)年頃]」〕。こうした点からも、
「元興=善十郎」の可能性は捨て切れません。幕末の文書は
イミナを略す傾向がありますが、善十郎のイミナか元興の通名を
調べるしかないと考えております。その点で、1830年頃迄
書いた「御番士代々記」を調べるしかないのかナと思って
おります。
どうも、お邪魔しました。
みなさん、どうもありがとうございます。
312 :
新屋敷と天竜寺:02/12/25 08:41
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1089.html 半七捕物帳
雷獣(らいじゅう)と蛇(へび)
岡本綺堂
あま酒で元気をつけて、半七老人は団扇(うちわ)の手を
働かせながら又話し出した。
「あれはたしか文久三年とおぼえています。なんでも六月の
末でした。新宿の新屋敷……と云っても、今の若い方々は御
存知ないかも知れませんが、今日(こんにち)の千駄ケ谷の
一部を俗に新屋敷と唱えまして、新屋敷六軒町、黒鍬町
(くろくわちょう)、仲町通りなどという町名がありました。
いつの時代にか新らしい屋敷町として開かれたので、新屋敷
という名が出来たのでしょう。その辺には大名の下屋敷、旗
本屋敷、そのほかにも小さい御家人(ごけにん)の屋敷がた
くさんありまして、そのあいだには町屋(まちや)もまじっ
ていましたが、一方には田や畑が広くつづいていて、いかに
も場末らしい寂しいところでした。
(中略)
・・・そのうちに夏の日も暮れかかって、天竜寺の暮れ六ツ
がきこえる頃、そこへ一人の若い娘が来ました。
へ〜エ、そうなんですかア…。
文久2(1862)年版内藤新宿千駄ヶ谷辺図によると、
天竜寺周辺にパラパラと「明ヤシキ」がありますね。
甲州街道最初の宿場の内藤新宿は、元禄11(1698)年
内藤家下屋敷前に開設したのが始まりとされますね。
四谷から西へ延びる甲州街道沿いに、大木戸を越えて
町屋が建ち並び、宿場になったんでしょうかね。
その南裏手の天竜寺から紀伊殿にかけて(今のJR新宿
南口〜JR千駄ヶ谷)武家屋敷が新設され、四谷新屋敷
と呼ばれたと推測します。
「四谷新屋敷」が分かって、四谷周辺を探しましたが
なかなか見つかりませんでした。小川(1989)の
「四谷内藤宿天竜寺脇」で、やっと分かりました(笑)。
山さんへ
久しぶりに東京市史稿を一瞥してきました
2種ある索引のうち、事項別目次索引のほうに(屋敷地明細)というのがあり
アイウエオ順になっていますから検索は容易です。深尾姓も多くはないが、
いくつか挙がっています。一例を紹介しますと
屋敷授受 享保十三年二月中授受スル所ノ屋敷ヲ列記ス。
享保十三戊申年
(三十三名略)
但、右同断(=麹町屋敷御用地ニ被召上為台地渡)
二月十二日渡。蔭山数馬組与力上ケ地之内 大御番山名因幡守組
一、四谷天竜寺脇二百拾坪 深尾四郎兵衛
(九名略)
という具合です。市街編第22の14頁から19頁の一部です
うまく表示されなかったら御勘弁。書体もほんとうは旧字です
262さん
これはこれは、重ね重ね、貴重な具体的情報を
ありがとうございます。
正月明けに東京市史稿を探すつもりでした。
書名から、日比谷図書館にありそうですが、
ヒビヤでよろしいんでしょうか?
「四谷天竜寺脇」と言うと、今の新宿4丁目天竜寺辺り
までが「四谷」の内なんでしょうかね。
享保13(1728)年と言うと、寛政譜での当主は
>>311の四郎兵衛元孝モトヨシさんですね。
幕臣深尾氏六家の内、寛政譜での最新当主「元長の流れ」
は、5代元孝から四谷新屋敷住まい、
それ以前は麹町住まいらしいと言う事ですね。
>日比谷図書館にありそうですが、
もちろん、あるだろうとは思いますが・・・
区立の図書館でも各区の中央館(最大のところ)であれば
揃えているのではないかと思います。私が利用したことがあるのは
中央区立日本橋図書館や台東区立中央図書館等々です。後者の
郷土資料室(2F)は開架で利用し易かったと思います
台東区立中央図書館郷土資料室は面白そうですね。
行ってみます。
ありがとうございました。
>>312 綺堂さんのタネ本に「四谷新屋敷」が載っていたのでしょうね。
でも、小説とはいえそのまま使うと今日では誤解を生じるから、
「新宿の新屋敷」と言い直したようですね。
文久2年版の内藤新宿千駄ヶ谷辺図の天竜寺から紀伊殿
にかけて、内藤宿六軒町・中丁通・クロクワ丁があります。
>いつの時代にか新しい屋敷町として開かれたので、新屋敷
という名ができたのでしょう。
>>314から
四谷新屋敷ができたのは、享保年間かも知れませんね。
念の為お訊ねしますが、菩提寺は探訪されてますか?
深尾一門の菩提寺は多くはないようですが
私の経験ですと、墓碑が無くなっていても
過去帳は存在していて、忌日・戒名を教えてもらった
経験があります
おや、「経験」がダブりました(笑)
簡単な続柄、何代目何右衛門とか、何右衛門ツマくらいは
書いてあるようです
さすがに経験豊富な262さん(笑)、
有益なご指摘ありがとうございます。
菩提寺調査は先祖調べの基本と言われますが、ぬかっておりました。
幕臣深尾氏の菩提寺は麹町栖岸院ですが、明治維新で杉並区永福へ
移転し、栖岸寺となっております。一度行って、三代元吉の弟・元國の
墓はみましたが、過去帳については話を詰めませんでした。
静岡深尾氏の駿河移住に老人(7代元興)が同行した話はないので、
元興は維新前に江戸で死去したものと思われます。
過去帳があれば、元興までは記載があるはずです。
年明けに、もう一度行ってみます。
なお、28日に台東区立中央図書館郷土資料室を
ちょっと下見してきました。なかなかよい所ですね。
322 :
日本@名無史さん:03/01/03 14:11
部外者には書き込みにくい状況になってますが、さがりすぎだったので、
「旗本」についてどんどん書き込んで下さい。
323 :
いたい旗本の子孫:03/01/03 19:01
実家から、帰ってきたので書き込みます。実家は、関東で旧領地ではありま
せんが、将軍家の日光参拝ルート上にあり当家と少なからず縁があります。
さて、お正月と言うことで、将軍参賀について。御三家・国持ちから始まり、
お目見え以上の大人数をこなす上様には同情を禁じえませんが、参賀の順序や
要領についても関係者の苦労も相当なものだったそうです。家重公の頃、参賀
応対の役にあった幕臣が、お役目で不手際となり「切腹」するしないで、正月
早々もめたそうです。城内で、参賀に来た諸侯達の交通統制をしたいた彼が、
島津家と伊東家を鉢合わせにした直後、南部家と津軽家をも鉢合わせにしてし
まい閣老・・老中?に罵倒されたとか
324 :
いたい旗本の子孫:03/01/03 19:11
さて、島津と伊東と言えば、秀吉九州攻めまで宿敵として戦い幕府
開闢後も、歴代将軍の斡旋にも関わらず「和睦」せず、南部と津軽と
言えば、元は主従であり、秀吉の小田原攻め以降ともに諸侯として立
っており痼りもあったとか、相馬事件でしたっけ?
江戸幕府も豊臣体制同様に、諸侯の連合体であり、将軍の絶対主義では
ないため、幕府も家康公以来相当「気に病んだ」ようでした。さて、不
手際をなじられた某氏は、「病気につき隠居」し実弟が継いだとのこと
です。宮仕えはきついものですな・・。結局、島津と伊東は同席せずと
言った申し送りも結構いいかげんなようですね、祖父曰く赤穂浅野と吉
良も以外と単純なことの積み重ねでは・・・と言っていたを思い出しま
す。
325 :
いたい旗本の子孫:03/01/04 13:41
追記 前田と丹羽も江戸城内で同席せずとなっていたと言うことですが、織田・
豊臣の時に何かありましたっけ?
326 :
日本@名無史さん:03/01/04 22:34
327 :
日本@名無史さん:03/01/06 13:40
京都や大坂の町奉行所役人は幕臣のはずだが、維新後、どうなったのだろう?
328 :
日本@名無史さん:03/01/06 13:58
大半は新政府の地方官僚になったと思われ。
大阪鎮台→大阪裁判所→大阪府
京都市中取締所→京都裁判所→京都府
維新期の裁判所は行政・司法共管、
つまり徳川時代の町奉行所そのもの。
329 :
日本@名無史さん:03/01/06 15:12
>>327 京都出身の人間はその地に留まった者もいるし、
静岡に移住した者もいるだろう。
>>327〜
>>329 旗本が維新後どうなったかについては、研究があるようです。
文献を探しましたが出て来ません。およそ、以下のようだったと記憶
しています。
6割:静岡移住
3割:江戸で自営
1割:明治政府の官吏
331 :
日本@名無史さん:03/01/07 22:06
age
言い出しっぺの責任として、ちょっと「続徳川実紀」を見て
みました
享和元年十二月
○十六日
(略)
新番深尾四郎兵衛元長老免し小普請に入。褒金二枚を賜ふ。
実紀もここらまでは通称+実名の並記なんですがねえ
>>332 262さん、どうもありがとうございます。
まだ、「実紀」を見るに至っておりません。
ところで、幕末では「実名を略して通称のみ」というのは
当時の流行なんでしょうか?
(^^)
335 :
日本@名無史さん:03/01/11 17:53
>>334 山崎渉さんて、
あちこち顔を出して
愛嬌ありますね。
たまには、なにかしゃべって下さい。
ふたたび「続徳川実紀」
天保九年九月
○三日
・・・この日西城書院番松平靱負は松平長門守が邸にて
死を賜ふ。こはその実父寄合佐原勘右衛門が家にゆきて。
嫡孫金蔵および其妻に斬付しをとがめられてなり。勘右
衛門はそのをり病とはいへど。取はからひもあるべきに。
靱負を取逃せしをもて御前をとゞめらる
これだけですが「藤岡屋日記」(三一書房版 第二巻
64〜66頁)によると、この時斬り殺された佐原金蔵
の妻は、先手頭深尾小源太の娘とあります
山さんの御研究とは直接関係はなさそうですが参考まで
262さん、ありがとうございます。
そんな事があったのですか。
深尾小源太は「幕臣深尾氏」の幕末での大物です。
父は権太夫元篤(二百俵十人扶持)・評定所勤役儒者。
小源太の初期の通称は栄蔵・権左衛門、イミナは元隆。
寛政4年・19歳で家を継ぐ。
文化6年・新御番一番組(「御番士代々記」)
文化12年・新御番組頭一番組
天保2年・御留守居番
天保9年・御先弓頭
嘉永2年・御先手御弓頭(1500石)(「大成武鑑」)
嘉永3年・御鎗奉行
嘉永7年・81歳で卒
寛政譜成立(1812年)頃には、
権左衛門・小源太父子は
牛込軽子坂に住んでいます(「万石以下・家名以呂波分」)。
通称はこの頃から小源太です。
深尾小源太元隆の養子繁次郎は
嘉永4年・御小姓組
文久3年・講武所奉行支配取締役
元治元年2月・同頭取並同支配組頭同取締役
元治元年5月・御役御免・小普請
深尾小源太元隆が養子繁次郎をとっている事から、
小源太には男子はいなかったようです。
繁次郎の妻は小源太の娘かも知れません。
娘の嫁ぎ先の佐原家の騒動は、
小源太の所でも一悶着起こしたのかも知れませんね。
(^^)
>>277、
>>279に関連して、
「明治の旗本縁者は、明治政府に対して不信感を持っており、
批判的であった」という事について、
作家・中村真一郎が書いた芹沢光治良の追悼文を紹介。
朝日新聞平成5(1993)年3月27日夕刊
「西欧的な広い教養人―芹沢光治良さんの思い出―
(自分の生き方を貫く強さも)」(作家・中村真一郎)
―略―
芹沢さんは私が同じように静岡県の田舎で幼時を過ごし、同じように苦学生
としてやっている身分に、同情を感じたらしく、私が戦後すぐに『死の影の
下に』を発表すると、いち早く、世界に向かって開かれた作品が現れたという、
大変に好意的な発言をされ、それから終生変わらず、私の立場を支持しつづ
けてくれた。―略―
芹沢さんは学究的知識人として、個人生活と社会情勢とを一つの展望の下に
とらえる作品を示し続け、晩年におよんで更に、そこに宇宙との対話による
神秘的傾向が加わってきて、いよいよ日常的リアリズムに基礎を置く文壇の作家
たちの作風とは離れていったが、その生活態度においても、一部の作家たち
のような、自分の行動を実験と見る、放蕩無頼な危険的な生き方とは無縁の
温厚な紳士で、破滅的なロマンチックな生き方にポエジーを感じる文学青年たちとは
別種の際だった存在として終始した。(続)
しかし、そうした芹沢さんにも、少年時代の困苦と、青春の終わりの
異国での療養生活によって培われた剛直な一面があり、それが稀に
ほとばしり出て、周囲を粛然とさせることもあった。
今でも覚えている方もあろうが、かつて河上徹太郎氏がある文学賞
を受け、その祝賀会の席上、ペンクラブを代表して立った芹沢さんは、
冒頭で突然に、氏の幼時、維新によって江戸を追われた旗本たちの
家族が、餓死同然に次々と倒れて行くのを見て育った自分が、
彼らを死地に追いやった長州の、その支藩吉川家の家老の血筋の
人のために、祝辞を述べることとなった運命の巡り合わせは
感慨無量だと述べたのである。
それまでフランス風の教養を持つ、穏雅な近代的紳士とばかり思って
いた私は、その芹沢さんの生き方を貫く、武士のような毅然たる
物に触れ、芹沢さんが生涯かけて、自分の文学的態度を守り続け、
孤独に耐えている強さの秘密を知ったと、その時、思った。(了)
芹沢光治良さんの話なかなか興味深いものでした
深尾氏については徹底的にお調べですね(笑)
みたび「続徳川実紀」です
嘉永六年二月
○廿二日
・・・去りし十八日御成のをり鳥射し番士一人時服を賜ふ
これが「藤岡屋日記」だと
○同月二十二日
御小性組、溝口讃岐守組
時服三 深尾繁次郎
右、去ル十八日御成之節、鳥射留候ニ付、被下旨、於
御右筆部屋縁頬、伊勢守申渡之、若年寄中侍座
なかなか弓の達者と見えます。ちなみに御成先は
浜御殿です
342 :
日本@名無史さん:03/01/19 14:49
旗本深尾氏って土佐藩家老深尾氏と関係ありますか?
このスレ面白くなくなってきたな。
もっと普遍的な書き込み・・「いたい旗本の子孫」氏でもギリギリ・・希望
345 :
日本@名無史さん:03/01/19 22:50
通りすがりが自由に書き込む雰囲気じゃなくなったな。
346 :
日本@名無史さん:03/01/19 23:50
漏れは2ちゃんねる日本史板には珍しい良スレだと思うが
平行して一般的な話題も書き込んでください。
1は小栗上野介なんかが好きです。
正月テレビでやってたけどさ。星新一の小説の主人公でもある。
みんなも好きな旗本の名前書いてね。御家人も含みます。
もちろん山氏、いたい旗本の子孫氏にも期待してます。
349 :
日本@名無史さん:03/01/23 03:08
age
初鹿野
>>342 ふかおし 深尾氏 君家を除き土佐藩最大の
門閥 深尾氏は宇多源氏佐佐木庶流、いわゆ
る近江源氏の出で、源平争乱期から中世にか
けての一時期、伊勢国員弁郡深尾谷にひそみ、
その縁をもって深尾を名字としたようだ。深
尾氏は文明年間(1469〜1486)美濃国の守護
・土岐氏に仕えて山県郡太郎丸の城主とな
り、土岐氏滅亡後は斎藤氏に仕えた。深尾が菅
原の氏に改めたのは菅原信仰の厚いこの斎藤
氏を主君としたことによると考えられる。斎
藤氏滅亡後は織田氏に仕え、信孝の自決後浪
人となっていた重良が初めて山内一豊に迎え
られた。(以下略)
高知県人名事典 新版 1999
262さん、
>>341ありがとうございました。
「浜御殿」とは、現在の浜離宮の事ですか?
>>342 >>351 があるので、深尾氏について述べます。どうも、「深尾氏スレ」になって
恐縮です。後に時間があったら、話を別に振ってみるつもりです。
深尾氏
佐々木庶流だが、いずれも深尾谷(現・三重県員弁郡藤原町中里ダム)に関係
している。深尾氏には次の3流ある。
(1)浅小井(あさごい)深尾氏:戦国末期、主家佐々木六角氏を失って郷士となる。
(2)仮称・伊庭(いば)深尾氏:旗本深尾氏の祖。
(3)仮称・真野深尾氏:土佐深尾氏の祖。
次に、系図を示します。
宇多天皇-敦実親王-(4代略)┐
┌────────────┘..┌重綱(旗本佐々木氏祖)
│.....┌季定-秀義-┌定綱-信綱┼泰綱(佐々木六角氏祖)
│.....│.........└高綱.....└氏綱(佐々木京極氏祖)
│.....│─定道┌盛実(成実)-家実-@長家(浅小井深尾氏祖)-A清長--
└經方-│─行実┼実綱..............┌定平
.......│.....└実高(伊庭氏祖)-定資┤
.......│─家行...................└定継(綱昌)(伊庭深尾氏祖)
.......├@行範(真野深尾氏祖)-A定時(近江真野荘に住む)┐
.......└実綱.......................................│
┌──────────────────────────-┘
└(略)-G定義-H刑部高義(深尾を称す)-I行信─J-重列───┐
.........................................└--宮内定広..│
┌────────────────────────────┘
└(略)-M重良(山内一豊に仕え、土佐に移住)
系図は何やら判らなく成りましたが、宇多天皇から7代目經方の子・
行実(井上・伊庭を名のる)から浅子井深尾氏と伊庭深尾氏が出て
います。真野深尾氏は、行実の兄弟・行範から出ています。
浅小井深尾・伊庭深尾の由来
@長家(1187年没)は、佐々木荘の蒲生郡浅小井村(現・近江八幡市
大字浅小井)に住み、浅小井氏を称して佐々木源三秀義に従った。
平治の乱(1159年)の後、A浅小井清長は平家の追及を逃れて、
承安3(1173)年〜治承4(1180)年、深尾谷に隠住した。当時、近くの
三国岳に熊坂長範の残党の山賊が横行していたので、同じく近在の細野に
隠住していた同族の伊庭綱昌と協力して山賊を討ち、共に「深尾」を
名のったと伝えられる。源頼朝の挙兵は治承4年の事。その後、彼ら
は頼朝に従ったものと考えられる。浅小井深尾氏は、その後六角氏→京極氏
に従い、再び六角氏に従ったJ元範K元秀時代は浅小井城主として盛ん
だったが、N勝隆の時、主家・六角氏を失い郷士となる。
現在、滋賀県近江八幡市・安土町・八日市市に浅小井深尾氏の流れと
見られる深尾氏は多い(田中政三[近江源氏])。
数年前の女子マラソンランナーの「深尾」もこの系統と見られる。
伊庭深尾氏のその後はよくわかっていない。綱昌から11代の
深尾刑部少輔元方は近江長濱或いは長原(永原御殿城の事か?)に掻揚城を
持ったと伝えられる。その長男・元治が家康に仕え、旗本深尾氏の祖と
なった。浅小井深尾氏はH元房(1380年頃)〜M元勝(1579没)まで
「元」を通字として、その後絶えた。伊庭深尾氏は元方の親・市郎左衛門
元清以来、旗本深尾氏から現代に至るまで「元」を通字としている。
このことから、伊庭深尾氏は1500年代の浅小井深尾氏と密接な関わりが
あったと想像される。東京周辺の江戸時代からの深尾氏は、ほぼ旗本
深尾氏の流れである。数はあまり多くない。
真野深尾氏の由来
A定時・文永10(1273)年近江真野荘に住み、真野氏を称す(真野
源三)。G定義・真野荘最後の領主。地頭の勢力拡大に直面した
らしい。治安悪化のため、応永20(1413)年、12歳のH刑部高義を
深尾谷に送る。応永26(1419)年、刑部高義深尾氏を称す。
その後、美濃守護土岐氏の庇護を受ける。I刑部行信の子・
兄J重列(美濃太郎丸初代城主・築城1478年・土佐深尾氏の祖)
弟・宮内定広(旗本西尾氏祖)。M重良・山内一豊と「両家の
いずれかが一国を支配する大大名になった時は、お互いに
協力しあう」と盟約す。長曽我部氏を平定後、一豊を土佐に
迎えて盟約を果たし、後乞われて土佐の国老。太郎丸城を
弟の重光に譲る。
357 :
日本@名無史さん:03/01/27 02:46
行信ー定広ー広泰ー定利ー定正ー正広ー正義
村上源氏佐々木氏じゃなくて、孝元帝後佐々貴山公氏裔
358 :
日本@名無史さん:03/01/27 02:53
>1
明治維新のときに八万騎は一体何をやっていたんだ!
譜代藩士の末裔として腹が立つ。自分の先祖にも腹が立つ。
359 :
日本@名無史さん:03/01/27 03:16
機を見るに敏 武士として立派さ
古い体制にしがみつかなかったんだよ
先祖を誇りに思いな
おかげでその後も生きて子孫を残せたんだから
江戸の衰退
諸藩が国詰めとなったため、1868年閏4月頃より空き屋が急増し、
江戸市中が急激にさびれる。犯罪が多発し、自警団が組織される。
同年7月、江戸を東京とする詔書が出されるが、生活に困窮した
小身武士が骨董屋・露天商等を開いて売り食いする者増える。
10〜11月、旧幕臣のほぼ半数が静岡に去る。明治2年4月、東京
市街地の人口は50万3700余人で、流出人口がピークに達する。
荒廃した武家屋敷周辺では、お得意を失った商工業者ら
一般市民は生活がしにくくなり、更に人口が減少した。
明治4年10月には、78万人に回復。
この頃、おそらく明治3年夏と思われる東京の光景を
次に紹介。なかなか味わい深い。
旧幕臣ことごとく各所に流離転滞し、その居宅みな変じて
草木の藪となり、諸侯大中小の邸宅も荒廃を極め、
八重葎(カナムグラ・蔓草)軒を覆う。
昔に壮麗を誇りたる大名小路もことごとく廃墟に変じ、
市街の商売工匠も過半退転して、小民飢餓に陥れり。
中にも、番町・深川・本所・下谷の地は、満月空屋にして
腐朽累々たり。
また、城内とても焼燼のままに荒れ果て、狐狸の巣窟となりて
草木いたずらに生え繁り、目も当てられぬ有様なり。西丸は
殿閣のみ依然たりといえども、無主無人なれば廃頽する所多し。
ただし、内外三十六見附の門楼のみ残りて旧観を保ちたり。
二年の東行以来ようやく人心安堵し、民業やや開けたれど、
昔日に比すれば十分の一なり。従って人心恟々堵に安んぜず
(「市来四郎自伝」史談会速記録・「東京百年史・第二巻」より)。
362 :
いたい旗本の子孫:03/01/27 06:03
1氏へ
戊辰時の、旧幕臣や親藩・譜代の諸士等をなじるのは微妙な問題です。西国
に領地を持ちなおのこと家族のいた者は、鳥羽・伏見以降急速に薩長になびく
結果になることは致し方ないのでは・・。上野彰義隊にも、様々な将士が参加
しますが、領地を抑えられた者は「個人参戦」「グループ参戦」と親類・主家
に迷惑にならないよう処置してますし。当家は、領地が北関東にあること・典
型的な門閥旗本であること・旧幕軍「陸軍」に命運をかけていたこと等比較的
しがらみなく参戦できたようです。しかし、分家を静岡又は東京に残し山岡ル
ートで勝海舟への紹介状を入手してそうそうに明治政府の官職を得るなど家名
存続に留意しています。こうした全方位作戦の結果、明治になっても、直参の
意気地(戊辰戦争)、臣下の勤め(静岡移駐)、国家創成(新政府官吏)に勤めたと
称したようです。生きるためには仕方なかったのかな・・・・
363 :
いたい旗本の子孫:03/01/27 06:10
358氏へでしたね
>362
おしゃることはよく分かります。皆さん大変だったでしょうね。
が、あまりにもあっけなかったような気がしたものですから。
365 :
日本@名無史さん:03/01/27 22:28
ところで、幕末の旗本家って一部の諸侯のように家中を洋式軍制にしたり、
兵器の近代化などに努めた例はあるのでしょうかな。交代寄合ならいるかな。
>>364・
>>365 徳川慶喜は更に幕政改革を実施する。従来の家格重視を廃して優秀で能力
のある人材をどんどん登用する。賞罰を厳正にし、冗費の節約、外交の
刷新を実施、陸海軍を充実して常備軍を置く。貨幣や商法制度の改革も
始める。更にフランス公使ロッシュのアドバイスにより、シャノワンやブリューネら18名の
軍事教官をフランスから呼び、歩兵・騎兵・砲兵の三兵の教育を行い、1万数千人
の近代的な軍隊を造ろうとする。ブリューネ達は、幕府が滅びた後も皇帝ナポレオン
に手紙を書いて軍籍を脱し、北海道の五稜郭まで旧幕府側と行動を共にした。
彼らが五稜郭を離れたのは、落城寸前のことであった。
行政については、従来は同じポストに2・3人置いてチェック・アンド・バランスをはかっ
ていた。民主的と言えば民主的だが、責任の所在の点で不明確だったため、
制度の改革を行い、担当は一人とした。また、外国の官僚組織に倣って老中
を廃止し、海軍・陸軍・国内・外国・会計の各総裁を置き、これによって内閣に
似たようなものを編成した。
これら改革の他、八月にはフランスとの間で600万ドルの借款を結び、武器や軍事
品の購入を契約する。代償として貿易独占の商社を作り、特権商人を組織、
紙幣の発行権限をこれに与える事で財政改革も行った。外交関係では、
使節や留学生を大幅に派遣して国際化に努めた。(続)
このように将軍慶喜の幕府強化策は多岐にわたり、かつ従来できなかった
事を一度にやろうとするのだから相当な勇断である。これらは明治政府
の施策を先取りしたようなものが多かった。明治政府もだいたいこれを
真似ている。
その為慶喜の行動力に反幕派は脅威を感じていた。岩倉具視や坂本龍馬
などは「大変な強敵が現れた。家康の再来ではあるまいか」と言ったと
いう(「徳川慶喜公伝」)。後の慶喜の行動を見るだけでは、とてもそれ程
の人物には見えないが、将軍職に就いた当時の慶喜は優れた実績を残し
ている。
危機感を抱いて幕府もそれなりの準備をし、反幕派も着々と近代的戦
力を整えていった。反幕派にしてみれば、ただちに幕府をたたけば勝て
る。この機を逃して徳川慶喜に縦横にやらせたらどうなるか分からん、
と言う切迫した状況になってきた。そこで緊急の問題になってきたの
が「玉を抱く」と言うことだった。要するに、「玉(天皇)」を抱き込み、
朝廷を味方につけると言う構想である。「玉を抱く」と言う言葉は、
維新の志士の間で盛んに使われていたようで、これが権力闘争の
焦点となってきた。(続)
以上は
小島慶三(1996)「戊辰戦争から西南戦争へ」中公新書
からの抜粋です。358さん向けに「あとがき」から抜粋します。
著者を維新史ののめり込ませたのは、2つの動機がある。
1つは、親藩・忍藩の微禄な武士として、幕末動乱の世に生きた
祖父兄弟の存在である。
2つは、貿易・プラント輸出で52カ国に出かけ、もっとも多く問われた
のが「日本はなぜ近代化に成功したのか?」であった。だが、これに
答える知識を持ち合わせていない。学校で教えるのは、江戸時代の
貧しさに対する明治維新の素晴らしさばかり。
しかし、本当にそうか?
祖父兄弟を中心としたミクロ史の検証からすると、事実は逆。
江戸時代の物的レベルは高く、人的、主体的、社会的条件は熟して
おり、近代化すべくして近代化したのである。だから、
ネガ(江戸時代)とポジ(明治維新)の入れ替えが必要なのだ。
変革の過程から見ても、必ずしも理論的な妥当性が先行するもの
ではなく、あらゆる政治過程に通用するような権謀術策は
目をおおうばかりである。
これが美化されたのは、やはり勝者としての歴史のみが
残されたからである。(了)
最近では、反薩長側の本もふえています。
父祖の事跡を調べるのも、お仕着せでない、他人事でない、
自前の歴史観に目を開かれるかも知れませんし、
供養になるかも知れません。
「勝てば官軍」とは、おそらく明治維新から言われ始めた言葉
でしょう。なぜ、このような言われ方になったのか、背景を
吟味すべきです。
西郷や竜馬で語られる明治維新史は、小学校までにして欲しい
ものです(笑)。
交代寄合で男爵になった家について誰か教えて!
1のネタふりでした。
>>342も1の書き込みだけどレス有難うございました。。。
>366-368
ありゃりゃ。うちの先祖は小島氏と同じ忍藩士です。
「忍藩の維新史」もたしか氏の著作だったような気が。
忍藩は親藩に準ずる譜代藩でありながら、たいした抵抗もせずに
維新を迎えました。それを非難する気はありませんが、
なんとなく割りきれない思いはありますね。
個人個人は必死だったんでしょうけどね。
372 :
日本@名無史さん:03/01/31 12:34
>>16>>17>>33>>37>>39 八王子千人同心について最近本を読んだので。
もともと同心はその出自はともかく、百姓身分であり、公式には苗字を名乗ることを許されず、
刀を差すのも日光火の番のときのみ許されていたそうです。
もともとは中間と同じ武家奉公人という扱いだったようです。
したがって本来は御家人ではなかったのですが、次第にまわりから御家人として見られることが多くなり、
本人たちも御家人としての身分を求めるようになったそうです。
同心株として売買されるようになったのも、武士と百姓の中間的な身分であったことが理由のひとつとして考えられるようです。
373 :
日本@名無史さん:03/01/31 22:05
千人同心って、武田の遺臣じゃないの?
374 :
日本@名無史さん:03/01/31 23:58
八王子千人同心についてはよく知らないんだけど
同心と言うからには同心なんでしょ。
身分制度から言うと同心は卒ですよ。
藩制一覧という本があるんだけど、明治の初期に新政府への
分担金を出させる目的で各藩の租税収入額を提出させた時の
資料をまとめたもので、それを見ると大体どの藩でも
藩士の4割強が士族で、6割弱が卒となってる。
卒はその後、世襲身分の者は士族に編入され、
代々召抱えられていても親の隠居または死に際して
子がまた新たに採用される形のものは平民に編入された。
暗黙のうちに隠居する者に後任を推薦する権利ができていたので、
大抵は自分の子を推挙したが、他人のこともあった。
当然そこには金銭の授受があり、それを同心株の売買と呼んだ。
江戸町奉行の同心の場合は本来の世襲ではないので、
卒から平民に編入されるパターンになる。
375 :
日本@名無史さん:03/02/01 01:23
旗本の近代軍制なんて、ほぼ無理だろうな。
小栗が幕軍洋式化の財源として軍役を金納にしたから。
軍役自体、人員、装備の貸し借りの誤魔化し状態だったのに結局止め刺した。
交代寄合も格式は高いから余裕ないだろうし。
376 :
日本@名無史さん:03/02/01 12:46
>>374 樋口一葉の父親は江戸町奉行所の同心から士族になったのでは?
うちの先祖も旗本だった。
けどさ、幕末に上野で負けて五稜郭で負けて…なんか(;つД‘)ゥワァァン
378 :
日本@名無史さん:03/02/01 16:17
エッセイストの中野翠氏も幕臣の子孫らしいです。
379 :
日本@名無史さん:03/02/02 01:54
>>374 身分というのは必ずしも固定化されているものではありません。
明治の時にどうだったかというのは直接関係ありません。
380 :
日本@名無史さん:03/02/02 02:31
八王子の千人頭10家はもともと旗本でした。
同心の中でも、千人町の拝領屋敷に住んでいた旧家と呼ばれる家は譜代扱いされていたため、
維新のときに屋敷は没収されたそうです。
千人同心は百姓として村の人別帳に載せられていました。
つまり町奉行の同心とは違い、武士として認められていませんでした。
381 :
日本@名無史さん:03/02/02 08:00
はちまんにんってうそくせーな
1600前後の日本の総人口がせいぜいごまんにんくらいだろ
まったくあふぉくせー
382 :
日本@名無史さん:03/02/02 08:41
↑
恥
383 :
日本@名無史さん:03/02/02 13:37
極小大名と交代寄合の扱いの違いって、明治維新以降はかなり違う
ってわかるけれど(知藩事と県編入、華族と士族)、江戸時代は
違いがあったのかな。漏れの知る限り、交代寄合も老中支配だし、
江戸城詰の間も大名並みだし、石高以外に違いがわかる人ご教示きぼん
384 :
日本@名無史さん:03/02/02 17:18
大名は諸侯とも呼ばれ、所領を持っていた。
喜連川家が5千石でも大名なのはそのため。
交代寄合が陣屋を構えたのは旗本としての知行地。
所領ではなく、天領の一部を知行したもの。
それと大名は毎年参勤交代を行ったが
交代寄合の参勤は隔年または数年に1度だった。
385 :
日本@名無史さん:03/02/02 17:28
386 :
日本@名無史さん:03/02/02 21:44
旗本領、天領、併せて700万石ですね。
天領は400万石。
387 :
日本@名無史さん:03/02/02 22:25
足利子孫の旗本は華族になれたの?
なれません
喜連川だけなった
389 :
日本@名無史さん:03/02/02 22:54
喜連川は旗本でしょ?
390 :
日本@名無史さん:03/02/02 23:09
391 :
日本@名無史さん:03/02/02 23:12
そうでしか、、、
石高は?
392 :
日本@名無史さん:03/02/02 23:13
>391
10万石「格」です。
ただし実質5000石。
393 :
日本@名無史さん:03/02/03 00:28
伊達家も喜連川には頭を下げる。
394 :
日本@名無史さん:03/02/03 07:46
喜連川は聡氏の代に足利姓に戻してる。
395 :
日本@名無史さん:03/02/03 21:54
交代寄合と無城大名の違いは分類の違いだけで格式の違いではないでしょ。
石高が格式に影響するのは10万石以上と未満のライン。だから新発田藩や
大聖寺藩のように経済的負担を承知で高直しする藩が出てくる。また、
明石藩、対馬藩、喜連川藩のように「10万石格」なんて格式がある。
396 :
日本@名無史さん:03/02/03 22:40
旗本じゃないけれど、忍藩といえば鳥居強右衛門家が家老だったね。
いまでも子孫はいるのかな。
397 :
日本@名無史さん:03/02/04 00:49
交代寄合の多くは中世からの豪族・守護大名・松平支流などの末裔で
領地を持ちながら1万石以下のため大名に列せられなかったもので、
大名に倣って自発的に参勤交代を始めたものと推測される。
武鑑ははじめ彼らを無視していたが、元禄16年から交代寄合衆として
掲載した。これが交代寄合という語の初出とされる。
享保頃から石高の大きな者20家を交代寄合表御礼衆と呼ぶようになった。
知行地の仕置は完全に独立しており、小型の大名と言うべきであろうか。
最上・山名両家は特に名門で、国主並みの屋形号を許された。
維新に際し高直しをして大名に列せられた6家はいずれも表御礼衆である。
交代寄合衆14家は、那須衆・美濃衆・信濃衆・三河衆の四州12家と、
それ以外の3家に分かれる。数が合わないのは長沢松平家は普通は交代寄合に
数えないため。同家は江戸時代初期に御家断絶となった元大名の末裔で、
親戚に身を寄せながら御家再興の運動を続け、享保4年無石で御目見得を許され、
天保5年に10人扶持となり、安政6年に300俵で交代寄合に列し、慶応2年
300石の知行を得た。
この他、交代寄合から江戸時代に大名に昇ったのが2家ある。
松前家と下総多古の松平家。松前家は江戸時代初期から大名並みの待遇を
受けていたが、享保4年に正式に5万石格とされた。多古は9千石しかない
ので、正徳13年に各地から3千石かき集めて1万2千石の大名となった。
また、交代寄合から単なる旗本あるいは高家となったり絶家した家が20家、
武鑑が公認する以前に参勤していたと思われる家が21家以上ある。
398 :
日本@名無史さん:03/02/04 06:23
>397 すごく面白いです。
>維新に際し高直しをして大名に列せられた6家はいずれも表御礼衆である。
この6家についてもう少し教えてください。
399 :
日本@名無史さん:03/02/04 17:12
出羽国由利郡矢島生駒家 柳間 元大名が弟に所領を文知して寄合に身を転じたもの
寛永17年生駒高俊入府1万石 万治2年廃藩8千石 明治元年15200石で立藩
常陸国新治郡志筑本堂家 柳間 戦国時代以来の土豪
元8100石 明治元年10100石で立藩
大和国式上郡田原本平野家 無席 賤ヶ岳七本槍のひとり平野長泰の子孫
元5千石 明治元年10000石で立藩
但馬国七味郡村岡山名家 柳間 応仁の乱の西軍首領山名宗全の末裔
元6700石 明治元年11000石で立藩
播磨国神東郡福本池田家 柳間 大名家が嗣子なく当主の弟たちに分知されたもの
寛文2年池田政直入封1万石 寛文6年廃藩7千石 貞享4年6千石
明治元年10500石で立藩 明治3年鳥取藩に併合され廃藩
備中国川上郡成羽山崎家 柳間 断絶した大名家の分家
元和3年山崎家治入封3万5千石 寛永15年家治肥後富岡に移封
寛永18年家治讃岐丸亀に移封 承応元年治頼のとき豊治に5千石を分与
明暦3年治頼除封も豊治は交代寄合として存置 万治元年豊治備中成羽に知行替
明治元年12700石で立藩
400 :
日本@名無史さん:03/02/05 03:10
岩松氏がなぜ120石で交代寄合の格式を保てたのかは面白い問題です。
答えは3つありました。
1つは農業。家老以下家臣全員が田畑を耕していました。
残る2つは岩松氏の家柄に関係します。
新田氏の正統が途絶えた後、新田の嫡流は岩松氏が継いだと思われていました。
徳川将軍家が新田氏流を称した結果、岩松氏は将軍家の本家筋になったのです。
戦前の日本には狐憑きの人が多数存在しましたが、この狐退治には特別な
霊力が必要と思われていたので、日本一偉い公方様の本家筋ということで、
岩松氏には狐を退治する力があると信じられました。
そのため、狐祓い、狐落としの祈祷で多額の報酬が得られたのです。
もうひとつは参勤交代そのものにありました。岩松氏は江戸に着くと、
あちこちの大名屋敷に挨拶に回りました。来られた方は将軍の本家筋ですから、
手土産に数倍する引き出物を持たせて帰ってもらわないと格好がつきません。
岩松氏はそれを金に替えて多額の収入を得ていました。
>399、400
サンクス!
面白いです。
402 :
日本@名無史さん:03/02/05 11:50
菊池一族の米良氏(明治に菊池男爵)は無禄の交代寄合だった。
無禄ってどうやって生計をたててたのかな?
403 :
日本@名無史さん:03/02/05 11:55
>>400 120石で家老はいないんでは?
だいたい120石で何人の家臣が雇えるのか。
二人くらい?
404 :
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405 :
日本@名無史さん:03/02/05 14:02
>>400 当時、公方の「本家筋」なんて考え方はなかったよ。
小説からの引用はやめよう。
>>405 そうなんですか?それを証明するのも意外と難しいのでは?
>>400 まじ面白いっす!また書き込んでね。
>>402 >無禄の交代寄合
特権を与えられた郷士みたいなもんかな?
408 :
日本@名無史さん:03/02/06 08:01
409 :
日本@名無史さん:03/02/06 11:48
>>406 何をもって証明とするかにもよるけど、
本家筋だと思うなら120石はないんじゃない?
本家はあくまで徳川家という意識だよ。
410 :
日本@名無史さん:03/02/06 14:28
松平氏の総本家であるはずの三河松平郷の松平氏も
交代寄合だけど400石しかないよ。
江戸に拝領屋敷もなくて
参府したときは親戚の大名に身を寄せてたらしい。
411 :
日本@名無史さん:03/02/06 18:02
>>407 郷士じゃないでしょう。
れっきとした交代寄合なんだから。
412 :
日本@名無史さん:03/02/06 18:20
米良氏は人吉相良家の客将のようなかたちだったようです。
江戸では相良家の江戸屋敷に滞在していたようです。
相良家から禄を受けていたのでしょうか?
413 :
日本@名無史さん:03/02/06 19:27
>>410・412
江戸屋敷が無く、居候の直参ってカッコ悪〜い。
>>399 平野家って江戸城詰の間がなかったんですか。居場所がないって悲し〜い。
414 :
日本@名無史さん:03/02/07 01:15
平野氏 高5000石→10001石
慶応4年7月13日諸侯列
田原本村 533→1498
保津村 432→715
薬王寺村 725→1416
十六面村 584→981
竹田村 714→1422
佐味村 639→1307
満田村 514→957
飯高村内 284→753
秦楽寺村 329→540
九品寺村 246→422
415 :
日本@名無史さん:03/02/07 08:15
416 :
日本@名無史さん:03/02/07 15:35
>>415 陣屋跡が町役場ってわかりやすい歴史だな
417 :
日本@名無史さん:03/02/07 15:36
418 :
日本@名無史さん:03/02/12 02:23
>>397 長沢松平家は幕末に交代寄合に列せられたけど
当主の松平忠敏は安政年間から講武所の剣術教授で維新を迎えてるので
江戸定府だったはず。慶応2年まで知行地もないわけだし
参勤交代はしてないと思う。
419 :
日本@名無史さん:03/02/12 07:47
>>399の6家と勝、榎本以外の幕臣で華族になった家はないんですか?
420 :
日本@名無史さん:03/02/12 08:28
大鳥圭介
赤松則良
松本良順
池田謙斎
他にもありそうだが・・
>明石藩、対馬藩、喜連川藩のように「10万石格」なんて格式がある。
この格ってのは領地じゃなくて家についてるんだよね?
422 :
日本@名無史さん:03/02/13 07:53
松本良順は医者ですね。
他は知らない。
423 :
日本@名無史さん:03/02/13 08:34
明石藩の場合は藩主が将軍家斉の子供で駄々をこねたんだよね。
424 :
日本@名無史さん:03/02/13 15:53
大久保忠寛 子爵
黒田久孝 男爵
佐野延勝 男爵
425 :
日本@名無史さん:03/02/13 15:55
渋沢栄一 男爵
426 :
日本@名無史さん:03/02/13 15:58
益田孝 男爵
427 :
日本@名無史さん:03/02/13 23:15
目賀田種太郎 男爵
428 :
日本@名無史さん:03/02/14 14:37
429 :
日本@名無史さん:03/02/14 15:59
幕臣益田鷹之助は佐渡の地方役人だったが外国奉行定役元締として横浜へ出た。
その長男徳之進は数え16歳で外国奉行に通弁当分御雇として出仕し、幕府使節団に加わって渡欧。
維新後、孝と名を改め商業に転進し、数え29歳で三越呉服店を基礎に三井物産を起こし社長に就任。
430 :
日本@名無史さん:03/02/14 16:03
>429
thanks
431 :
日本@名無史さん:03/02/14 17:25
433 :
日本@名無史さん:03/02/14 21:35
>>429 益田孝の倅が「コロッケの唄」をつくった人ね
434 :
日本@名無史さん:03/02/15 03:20
もうちょっと詳しく言うと益田孝は維新後
大蔵省に出仕して数え25歳で租税権頭になってるんだよな。
数え27歳でやめて先収会社(三井物産の前身)副社長。
数え29歳で三井物産社長。
数え91歳で大往生。
チョンマゲでヨーロッパを見てきた人が支那事変まで生きてたってのもスゴイ。
晩年は小田原に隠棲して養鶏や養魚をやってたとか。
益田太郎冠者は帝劇の社長にして座付作者ですな。
益田を旧幕臣というなら、石黒忠悳もセーフだ
西 周も可
西周は津和野藩士。
>424以降ひとりづつ何やったひとか教えて。
澁澤龍彦って澁澤栄一の一族ですか?同じ埼玉だし。
438 :
日本@名無史さん:03/02/17 15:59
交代寄合がいまいち理解できないでつ。
旗本じゃないし。大名でもない。直臣?それとも陪臣?
参勤交代はするし。大名格?
一体なんじゃい? 変なぽ。
439 :
日本@名無史さん:03/02/17 16:10
大久保忠寛
文化14年生まれ、明治21年没。
一般には隠居名の大久保一翁で知られる。
目付・海防掛・蕃書調所頭取・京都町奉行・外国奉行・大目付・勘定奉行を歴任。
安政年間、老中阿部正弘に小普請組にくすぶっていた勝海舟の登用を進言。
文久年間、政権を朝廷に返し徳川家は駿遠三3国の大名となり国事は各藩合議で行うよう建言。
幕府瓦解に際しては若年寄(徳川家の家職)となり江戸開城に尽力。
静岡県参事(知事は幼少の徳川家達)、東京府知事、教部少輔を経て元老院議官。
征服政権である新政府にとって明治5〜8年の間、
大久保が東京府知事だったことは治安上大きな意味があったと思われる。
坂本竜馬も大久保の薫陶を受けており、大久保案を敷衍した坂本の船中八策が
後藤象二郎、山内容堂を経て徳川慶喜に採用され、大政奉還となった。
440 :
日本@名無史さん:03/02/17 16:15
>>438 交代寄合は旗本です。
だから直臣です。
441 :
日本@名無史さん:03/02/17 16:26
交代寄合って5000石以上で参勤交代する旗本のことだっけ?
442 :
日本@名無史さん:03/02/17 16:29
交代寄合は旗本なんでつね。
じゃーなんで旗本が大名格になるぽ?
おまけに参勤交代もするぽ?
やっぱ変なぽ。
443 :
日本@名無史さん:03/02/17 16:30
>>441 過去レスくらいよもう。
交代寄合は交代寄合です。石高は関係ありません。
0〜8000石くらいです。
444 :
日本@名無史さん:03/02/17 16:32
>>437 慶応二年三月十三日 幕府直参に列し開成所教授職となり百表二十人扶持
「西周略年譜」 『西周全集』第三巻
445 :
日本@名無史さん:03/02/17 16:33
西周
文政12年生まれ、明治30年没。
津和野藩外科医(僧体)の子。嘉永元年一代還俗を命じられる。
安政年間に脱藩し幕府の蕃書調所に出仕。文久2年オランダに留学。
帰国後の慶応2年開成所(東大の前身)教授となり、
直参旗本に取り立てられ徳川慶喜にフランス語を教授。
維新後は兵部・陸軍・文部・内務の各省に出仕し、元老院議官、貴族院議員。
軍人訓戒・軍人勅諭を起草。
一方でお福沢諭吉らと明六社を起こし西洋事情を紹介。「万国公法」を翻訳。
446 :
日本@名無史さん:03/02/23 08:34
age
447 :
日本@名無史さん:03/02/24 18:54
鳳啓助
448 :
交代寄合に付いて:03/02/24 19:53
江戸時代、参勤交代は大名のみが行うもので、大名の石高は万石以上の領主ということが、歴史常識になっている。
しかし、実際は、一万石以下の大名がいて参勤交代を行っていた。
現代人の歴史常識の方が、実は間違っているのである。
大名のみならず、万石以下の幕臣、いわいる旗本の中にも参勤交代を行う家があった。
それが「交代寄合」である。
旗本というものが、将軍直属の軍で小身の侍ばかりではなく、幕府が便宜上、
大名の家臣を除く万石未満の侍を、旗本に組み入れてしまったため、
松平家譜代の家臣ばかりではなく、中世豪族の生き残りや、
大名になりきれなかった戦国武将、外様大名の分家、没落した名門の子孫など、
松平家とあまり縁のない人々まで旗本になってしまったのである。
交代寄合は、寺社奉行に就いた山名家もあるが一般的には非職(役職に就いていない)であった。交代寄合は、大名同様、所領の司法・行政権を握っており、一般の旗本が若年寄の支配に属するのに対して、大名と同じく老中の支配に属した。
登城の際も大名と互して帝鑑間や柳間に詰める。
そして、上級旗本に組み入れられていた八千石級の領地を得、大名格として列せられていた少数の大名(交代寄合)はあった。
449 :
日本@名無史さん:03/02/25 04:41
交代寄合って奥高家ぐらいエライの?
450 :
日本@名無史さん:03/02/25 04:52
大名から交代寄合に落とされた朽木の次男坊が旗本になって
才覚で出世して若年寄にまでなって福知山3万2千石の大名に
なったのは江戸時代でも屈指の出世物語だよな
451 :
日本@名無史さん:03/02/25 07:09
うちの家も旗本らしいです。
452 :
日本@名無史さん:03/02/25 08:12
>>451 もう少しぐらいヒントちょうだいよ。
石高とか誰系統とか。
453 :
高家の方が官位が高い:03/02/25 15:24
>>449 高家の禄高は、たいてい5千石以下だが、朝廷と接するので官位が高く
、四位中将まで進むことが出来た。しかし、政治上の実権は与えられなかった。
四位中将というのは、国守大名でも彦根25万石の藩主井伊家あたりでなければ
もらえない官位。 (江戸幕府役職一覧表より)
だから 高家>交代寄合 で正解だ。
454 :
日本@名無史さん:03/02/25 16:53
久能山東照宮を警備する旗本、駿河国久能領主1800石の榊原照久(清久。榊原康政の甥)は、
従二位まですすんだね。たぶん旗本の叙位では最高位だろう。
455 :
453を訂正。:03/02/25 17:48
453を訂正。
(だから 高家>交代寄合 で正解だ)を訂正。
一般的には 高家>交代寄合 だが、
徳川家以外の大名、旗本中にその例をみない従二位に陞叙された
久能山東照宮を警備する旗本(交代寄合)、榊原照久のような例外もある。
456 :
日本@名無史さん:03/02/25 19:53
457 :
日本@名無史さん:03/02/25 20:01
>>452 伝え聞いてる話では800石
でも、自分で調べてみたけど、寛政の本には乗ってなかった。
三河系です。安城以来ですね。
5代前は駒井氏から婿養子にきたそうですよ。
458 :
日本@名無史さん:03/02/25 20:03
あ、451=457です。
>>457 それはありえないと思います
寛政譜成立以降に新規取り立ての旗本に与えられた家禄は
100〜200石程度です
安城以来で、800石で寛政譜未載というのは甚だしく矛盾です
460 :
日本@名無史さん:03/02/25 20:43
>>459 単なる伝聞ミスだろ。寛政重修諸家譜の索引は充実してるから
検索ミスとも思えんし
うん、僕も調べてて伝聞ミスだと思います。
一応、寛政譜で、同姓が何家かあり、
一番上が1300石
後は国取りではなく、300俵前後でした。
家紋もどれも同じなので、どこからかわからないが・・。
462 :
日本@名無史さん:03/02/26 18:36
近藤石見守は交代寄合?
463 :
日本@名無史さん:03/02/26 18:41
461> 墓所はどうなってるの? 墓石から確認できないの? 空襲でやられているんですか?
>>463 墓所は当時は浅草。
今は23区の別の場所に移動してるんだけど、
それも寛政譜とは違う・・。
過去帖も一番古いのは宝暦のがあるけど、
俗名は載ってないし、没年と戒名のみ。
ただ、やはり寛政譜などの資料の人物の没年月日とも合わない。
維新後、慶喜家の側近だったので、
一橋家付きなのかなと思ったのだが、
ちょっと知識が足りなくて、
教えていただきたいんですが、
御三卿の家来でも、寛政譜に載りますよね?
長くなってすみません。
465 :
日本@名無史さん:03/02/26 23:54
464> ちょっと書名をわすれたけれど、もう少し後代までわかる旗本人名事典のようなものがなかった?
図書館で見たことがあります。
466 :
日本@名無史さん:03/02/26 23:56
これです。これは、確認しましたか?
石井良助監修『江戸幕府旗本人名事典 第1巻』 原書房 平成1年
>>464 >御三卿の家来でも、寛政譜に載りますよね?
私は一橋家臣・村山義倫ヨシトモ(文政9ー明治31)の系譜を寛政譜で
探したことがあります。
「一橋家臣も元はと言えば幕臣が大部分だろう」との考えからです。
寛政譜の旗本村山氏は2流ありますが、一橋家に仕えた村山氏の記録
はありませんでした。根拠はこれだけですが、寛政譜にはおそらく
御三卿の家臣は載らないのではないかと思います。
どなたか、「一橋家臣目録」のような物を御存知でしたら教えて下さい。
468 :
日本@名無史さん:03/02/27 03:26
御三卿は将軍の家族の扱いで、
田安屋敷・一橋屋敷・清水屋敷に仕える者も
家老以下全員直参の幕臣です。
469 :
日本@名無史さん:03/02/27 07:58
>>464 >過去帖も一番古いのは宝暦のがあるけど、
>俗名は載ってないし、没年と戒名のみ。
>ただ、やはり寛政譜などの資料の人物の没年月日とも合わない。
じっさい調べてみると、寛政譜と過去帳が数カ月から1年近くズレがあることは
よくあります。やはり前者が公式に届けが出された日、後者が実際の没日と考え
られます。ただし戒名は一致しそうなもんですが・・
470 :
日本@名無史さん:03/02/27 11:04
>>468 全員ではありません。
もう少し正確に言うと、上級家臣は直参ですが、下級家臣は直参ではなく、いわば家付きです。
471 :
日本@名無史さん:03/02/27 20:19
>>467 山さん、おひさしぶりです
『橋府分限帳』というものが、茨城県立歴史館にあるようです。私はそのごく一部
のコピーを友人からもらったことがありますが、全体像は分かりません
天保八年のもののようでした
>>466 ご親切にありがとうございます。
まだ未見です、図書館で探してみようと思います。
>>469 本当に不安になるくらい一致しないんです。
それにしても過去帖みて思うのは、
3分の1くらいの人が戒名に「童子」がついている。
子供のまま亡くなった人が多かったようです。
>>464 寛政譜に載る範囲について
この板のスレ「寛政重修諸家譜について」
のNo.13,16に回答があります。
ただし、正解か誤りを含むかは分かりません。
>>471 ひょっとして262さんですか(笑)?
その節はお世話になりました。
『橋府分限帳』とは「一橋家臣目録」ですよね。
この度も有益な御教示ありがとうございます。
国立公文書館の「御番士代々記」に索引はなく、
全394冊中80冊までしか調べていませんでした。
現在307冊まで行きましたが、意外に雑用があってはかどらずに
弱っています(笑)。
>>472 >>261をちょっと御覧下さい。
>>466氏の本に加えて
「江戸幕臣人名事典」
「江戸城下武家屋敷名鑑」も有用です。
これら3冊とも、都立日比谷図書館にあったと思います。
これらに信頼できる記録がないと、
今の私のようにエラク苦労します(笑)。
>>474 失礼しました。名前欄の入力を忘れました(笑)
『橋府』は一ツ橋家です。当時の日記等によく『田橋両府』などという
表現が出てきます
「御番士代々記」、かなり進捗されたようですね
ぜひ成果を開陳して頂きたいものです
質問、最近来てないけど「いたい旗本の子孫」氏の実家って
某街道沿いのS家かT家じゃないですか?郷土史の殿様の話、
ここに書いてあることとかぶるけど・・・ご本人からの書き込み
待ってます。Sは酒井だと思うけど・・・。
478 :
日本@名無史さん:03/03/10 23:13
あげ
479 :
日本@名無史さん:03/03/14 21:08
もう一度あげ
480 :
日本@名無史さん:03/03/16 21:33
最近、書き込みがないが。 あげ
481 :
日本@名無史さん:03/03/22 16:24
age
482 :
日本@名無史さん:03/03/22 16:55
このスレ、終わったな。
483 :
日本@名無史さん:03/03/22 17:02
江戸旗本を満州旗人と比較してみよう。
1、兵力
2、家数
3、歴史
4、財力
5、子孫の活躍度
484 :
日本@名無史さん:03/03/22 17:17
満州旗人のデータがないので、比較できない(泣
485 :
日本@名無史さん:03/03/22 17:31
486 :
日本@名無史さん:03/03/25 17:56
age
487 :
日本@名無史さん:03/03/28 20:32
外様の旗本っているんですか?
488 :
日本@名無史さん:03/03/29 11:07
島津、鍋島、松前など外様大名の分家もいる。
福島など改易された外様大名の子孫もいる。
旗本は幕府の直臣だから、身分的にはみんな譜代ということになるが、
家系の出自として「外様(大名)系」の旗本もいるということか。
490 :
日本@名無史さん:03/03/29 22:20
成る程
491 :
日本@名無史さん:03/03/30 22:41
あげ
492 :
日本@名無史さん:03/04/03 22:28
>>487 448を読むべし。
旗本というものが、将軍直属の軍で小身の侍ばかりではなく、幕府が便宜上、
大名の家臣を除く万石未満の侍を、旗本に組み入れてしまったため、
松平家譜代の家臣ばかりではなく、中世豪族の生き残りや、
大名になりきれなかった戦国武将、外様大名の分家、没落した名門の子孫など、
松平家とあまり縁のない人々まで旗本になってしまったのである。
493 :
日本@名無史さん:03/04/03 22:34
>487-489
春日局の夫の稲葉家、ここは外様大名だけど、家光の乳兄弟として
旗本→大名になった春日局の子は譜代大名扱いになったな。
同じ出自の稲葉家でも外様大名と譜代大名があるわけか。
494 :
日本@名無史さん:03/04/05 01:46
朽木もそんな存在だね
もともと外様大名だったのが改易されて交代寄合になって譜代
分家から出世したのが出て鹿沼1万石→福知山3万石
譜代大名になっちゃった
495 :
日本@名無史さん:03/04/05 12:14
age
>494
松代真田家(帝鑑間詰め御譜代衆,老中経験者もあり)はどうなるのでしょう?
佐藤雅美著『大君の通貨』を読んでいたらおかしな記述が目についた。
若き日の水野筑後守は、西丸小姓組に入ったが病気を言い立てて勤めにはほと
んど出ず、内職に精を出し、ついでに御役高もちゃっかりもらい、その金を
「権門に遣って西丸目付へ抜擢され」たと書いてあるが、水野の家は四百石高
だから三百表高の御小姓組をつとめても御足高はもらえなし、そもそも御小姓
組に役料などない。
水野が出世のために金を使ったのが事実だとしたら、その金の出所は、水野の
実家ではないだろうか。実父諏訪庄右衛門頼篤は家禄二百五十表なのになぜか
羽振りがいい。江戸時代の随筆をよんていると寄付をした人名をずらりと書き
つらねてあるものがあるが、諏訪庄右衛門の名はよく見かける。
498 :
日本@名無史さん:03/04/09 21:56
500ゲットまであと少し
499 :
日本@名無史さん:03/04/10 18:48
↓500ゲットした香具師なんかネタふって
500 :
日本@名無史さん:03/04/11 16:39
>>496 スレ違いだけど答えると
松代真田家は「願譜代」です。
ここはオタ臭いでつね
風呂に入りましょう
502 :
日本@名無史さん:03/04/12 14:56
‘山’氏、‘いたい旗本の子孫’氏が来なくて寂しい限りです
503 :
日本@名無史さん:03/04/13 12:31
>>502 禿同。伊達遠江守家中が来ないのは何よりの朗報だが。
504 :
日本@名無史さん:03/04/15 22:12
>503
直参に畏れをなしているんでしょう。
505 :
日本@名無史さん:03/04/16 20:36
>松代真田家は「願譜代」です。
何ですかそれ?
506 :
日本@名無史さん:03/04/16 20:46
外様大名が自ら希望して譜代の家格になること。
真田のほか、脇坂もこれで幕閣入りしている。
507 :
日本@名無史さん:03/04/16 21:14
なるほど。ありがとうございます。
旗本にも譜代外様の区別はありますか?
508 :
日本@名無史さん:03/04/16 21:19
448を読むべし。
旗本というものが、将軍直属の軍で小身の侍ばかりではなく、幕府が便宜上、
大名の家臣を除く万石未満の侍を、旗本に組み入れてしまったため、
松平家譜代の家臣ばかりではなく、中世豪族の生き残りや、
大名になりきれなかった戦国武将、外様大名の分家、没落した名門の子孫など、
松平家とあまり縁のない人々まで旗本になってしまったのである。
509 :
日本@名無史さん:03/04/16 21:37
なるほど。個人的には、中世豪族の生き残りに興味あります。
510 :
日本@名無史さん:03/04/17 13:59
>没落した名門の子孫など
百二十石の旗本、岩松氏なんかも名門だよな。
わずか百二十石で大名並みの格式を許されていたというから。
明治の元勲・井上馨夫人武子は、岩松家の娘。
鹿鳴館の花と謳われていた、その武子をモデルにした映画、テレビドラマがあるよね。
岩松家の資料情報によると
岩松氏は上野国(群馬県)新田庄で勢力をふるった清和源氏、
八幡太郎義家以来の名族。家臣の反逆で城を追われ逼塞していた十三代守純の時、
新田の系図に自分の祖先を入れることを目論んだ徳川家康に招かれたが、
守純が応じなかったため、わずか二十石を与えて帰したという。
十五代秀純のとき、幕閣、阿部忠秋などの推挙で百石を加増されたが、
百二十石は現在の年収に換算して384万円。
家臣たちは農耕にで、名門、岩松家へ出入りを願う旧家臣や商人などからの融通金で
家計は賄われた、という。
将軍家への拝謁での江戸城の控えは、大名並みの柳の間。
引き戸のついた籠に乗り、万石以上、侍従以上の格式を許されていたという。
また、殿様の満次郎自身も各大名家へ年始回り、その祝儀が大きな財源となった。
幕末満次郎は新田官軍として江戸城攻撃に加わる。
511 :
日本@名無史さん:03/04/17 16:02
徳山ダム建設反対運動がまだ続いている事で知られる(旧・徳山村はほとんど無人化)
岐阜県 美濃国徳山村は
江戸期も旗本として存続した、土着の豪族・徳山氏の領地。
512 :
,,,,,,,,,,,:03/04/17 16:08
513 :
日本@名無史さん:03/04/17 16:16
江川太郎左衛門は?
514 :
日本@名無史さん:03/04/17 22:27
age
515 :
日本@名無史さん:03/04/18 00:30
旗本による知行地に対する権力(行政、司法、徴税、労役など)は
どの程度まで幕府から認められていたのですか?
516 :
日本@名無史さん:03/04/18 02:06
>>515 三千石以上の旗本は、知行所に陣屋を設けて、そこで旗本知行所代官
が領主・旗本の代行として知行所の政務を携わった。
代官の配下に手代、同心がおり、年貢の徴収、一般行政、治安を司った。
知行所で解決出来ない事件は、江戸の旗本屋敷で旗本が直々にお白洲
(取り調べ、判決)を行った。とモノの本に書いてるから
大名と同じじゃないかな。。
517 :
日本@名無史さん:03/04/19 20:24
518 :
いたい旗本の子孫:03/04/19 23:03
久方ぶりの書き込み
「ある芸能人の先祖も幕臣」
江戸後期、小身よりその才覚で三倍の禄をはむ旗本がいました。
加増挨拶と称して関係上司にところに行くと行く先々で「石田三成」
の話をされ「才覚では限界がある」と諭されたそうです。本心から
か嫉妬なのかとうとう城内で切れた某は、逐電したそうです。職務
放棄なので、最終的には「お家断絶」となりましたが、その才を惜
しんだ元上司の嘆願により死ぬことなく出家したそうです。そして
その子孫は・・・今は芸能人になりました。さて、その芸能人て誰
ですかね・・・・。知ってる人は知ってますね。
519 :
いたい旗本の子孫:03/04/19 23:05
ヒントは姓です
もっとヒントちゃぶ台
野球の江川さん?
522 :
いたい旗本の子孫:03/04/20 00:55
女性です
出家を機に改称してその姓になりました
じゃあ江川紹子さん?
↑ちがうよね〜
524 :
http://academy2.2ch.net/history/:03/04/20 01:16
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
526 :
いたい旗本の子孫:03/04/20 17:42
ここ一年でイメージチェンジした女優・・・タレントかな
菊川玲?
528 :
日本@名無史さん:03/04/23 20:44
あげ
529 :
日本@名無史さん:03/04/24 19:45
答えマダ〜
>いたい旗本の子孫氏
完璧、答え書くの忘れてると思う。
531 :
いたい旗本の子孫:03/04/27 00:53
某特撮映画に出てます
当主は、出家しましたが一族は改名したとこが味噌なんですけど
ちょっと前のとぼけてた頃もいいなあ
変な姓ではあります
532 :
日本@名無史さん:03/04/27 00:55
釈由美子?
533 :
いたい旗本の子孫:03/04/27 00:59
という伝承です。しかし、確かめたこともないので・・・
534 :
いたい旗本の子孫:03/04/27 01:19
「織田家の公達」
以前書きましたが、先祖はお使番?として織田家に出入りしていたそう
です。武田攻め前後に安土にいた先祖は、ある織田家の重臣・・伝承によ
れば滝川一益の邸宅で、織田信雄・信孝に会う機会があったそうです。そ
の立ち振る舞いから「信雄は、とるに足りず。信孝は、信長の半分」と評
したそうです。その後、豊臣時代に大坂城内で同様のことを同僚に話した
そうです。それがどういう経緯か、織田秀信の耳に入り、「叔父のことを
知っているならば亡き父信忠についてもしっていることを話してほしい」
と乞われたそうです。恐縮した先祖は、本多忠信経由で家康公に伺いたて
ると家康公は無言だったそうです。意味を掴みかねた先祖は、「仮病」を
使い秀信の邸宅にはいかなかったそうです。この話には、特に意味がない
と思いますが何か意図あつたのでしょうか?
535 :
いたい旗本の子孫:03/04/27 01:22
本多正信です。誤字・・
釈由美子が正解なんですか?
いたい旗本の子孫氏、待ちアゲ
537 :
日本@名無史さん:03/04/29 23:10
一番退屈してる旗本は誰?
538 :
日本@名無史さん:03/05/01 12:19
うちの祖先は代々両番を勤めるいわゆるお歴々です。
中には緒大夫職に付いた者もおります。
539 :
いたい旗本の子孫:03/05/01 18:45
1さんへ
たぶんいいはず
徳島藩蜂須賀家に仕官した分家もあるそうです。
中公新書「幕府歩兵隊」を読んでます。非常に
詳細な内容で当家の家伝の間違いと正しさを確認
できます。皆さんも一読の価値有り。
538さんへ
是非家伝等お書き込みください。
540 :
日本@名無史さん:03/05/03 20:57
公家から旗本になった家はないの?
541 :
日本@名無史さん:03/05/03 21:07
>>540 高家の六角、有馬、前田などは公家の分家。
542 :
日本@名無史さん:03/05/03 22:52
六角というのは近江佐々木のそれですか?
543 :
日本@名無史さん:03/05/03 22:53
佐々木六角は江戸初期に断絶してます。
高家の六角氏は全く無関係yです。
544 :
日本@名無史さん:03/05/04 11:35
545 :
日本@名無史さん:03/05/04 19:20
大沢右京大夫基之:?
戸田備後守氏倚 :大名分家
中条河内守信義 :?
宮原弾状大弼義周:古河公方一族
織田豊後守信順 :織田信長子孫
畠山飛騨守義宣 :上条政繁(能登畠山)子孫
上杉中務大輔義長: 同上
由良播磨守貞陰 :称新田源氏
今川刑部大輔義用:今川氏真
横瀬駿河守貞征 :称新田源氏由良分家
前田信濃守長粲 :?
大沢修理大夫基休:?
武田左京大夫信典:織田信長子孫
畠山左衛門基利 :管領畠山氏子孫
織田主殿信味 :織田一族
織田大膳長孺 : 同上
六角頼母 :公家六条家一族
日野岩丸 :?
京極采女高正 :大名分家
吉良中務義房 :吉良一族
長沢大蔵資言 :?
前田繁之助長晧 :?
大友左京義智 :豊後大友氏子孫
土岐■之助 :?
有馬繁丸 :?
品川内記 :今川氏分家
546 :
日本@名無史さん:03/05/04 19:22
宮原弾状大弼義周→宮原弾正大弼義周
547 :
日本@名無史さん:03/05/05 23:05
初めは吉良、大沢、だけが高家だったのに。
なんでこんなにふえたのかな?
548 :
日本@名無史さん:03/05/05 23:47
古今亭しん生という落語家、おじいさんが3000石の旗本だったらしいけど
詳しいこと知ってる人いる?
549 :
日本@名無史さん:03/05/06 02:14
増えたと言っても半数は非役の表高家だからね
550 :
動画直リン:03/05/06 02:21
551 :
日本@名無史さん:03/05/09 22:50
552 :
日本@名無史さん:03/05/10 00:08
548551
志ん生の本名は「美濃部」。
旗本の美濃部氏といえば、近江国甲賀?出身の美濃部氏でしょう。
家斉の側室の父で権勢を誇った中野碩翁の取り巻きというか、「三悪」と呼ばれた中に、
小納戸頭取・美濃部筑前守茂育という旗本がいたと思います。
一族もたくさんいましたので、いずれにせよその一族ではないでしょうか?
553 :
日本@名無史さん:03/05/10 00:21
都知事の美濃部は?
554 :
日本@名無史さん:03/05/10 18:03
おれは桓武平家の北条家遺臣、水戸藩付の御典医の子孫だ
>554
家名希望
556 :
日本@名無史さん:03/05/12 22:43
雲取り暫平という漫画に9990石の旗本いうのがでてきた。そんな旗本いたの?
557 :
日本@名無史さん:03/05/12 22:50
9000石クラスはいました。
558 :
日本@名無史さん:03/05/14 13:09
旗本最高は9500石の横田氏です。
559 :
日本@名無史さん:03/05/14 14:30
旗本最低は11石の縦田氏です。
560 :
日本@名無史さん:03/05/18 22:32
御家人の最高は250石くらいだったと思う。
561 :
日本@名無史さん:03/05/18 22:47
11石の人の仕事ってどんなんだろう?
お茶くみとか?
562 :
日本@名無史さん:03/05/18 23:40
563 :
日本@名無史さん:03/05/19 20:26
564 :
日本@名無史さん:03/05/22 22:04
565 :
日本@名無史さん:03/05/24 00:17
age
566 :
日本@名無史さん:03/05/24 13:00
『布袋』って何?
ごめん。布衣、でした。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
569 :
日本@名無史さん:03/05/29 00:01
570 :
日本@名無史さん:03/05/31 19:24
いたい旗本の子孫氏 来ないかな〜
571 :
いたい旗本の子孫:03/06/01 17:44
仕事で、2週間缶詰で書き込みできませんでした。
「維新時の幕府側の人材の知名度」
幕末・維新時の薩長側の人材の知名度については、幕臣間でも浸透しており
重臣や西郷・大久保・高杉クラスは広く知られていたようです。さて、味方側
の知名度は・・・。勝・大久保・小栗クラスは別ですが、後に五稜郭に行く面々
については少なくとも江戸開城前後まであまり幕臣間でも知られていないよう
でした。大鳥圭介の伝習歩兵が日光を目指すため例幣使街道に入ってから我が
先祖も合流するのですが、陸軍に勤務していたので大鳥は知っていた先祖です
が同行していた幕臣達は余り知らず「武鑑」に載ってないとか「一代限り」だ
のと言って当初は警戒していたようです。また、京都見回組と新撰組、新徴組
の区別もあまりついていなかつたようです。さて、大鳥圭介・榎本武揚と勝と
の密約説については当初からあったらしく、五稜郭に行ってからも命令不履行
や殺傷沙汰も度々あつたそうです。停戦直前には、榎本・松平・大鳥の首を土
産に投降しようと博徒上がりの歩兵士官からもちかけられた先祖は、「こりゃ
だめだ」と思ったそうです。その3日後開城したそうです。
次回は、「長州征伐時の幕府軍の実相」について我が先祖が新妻に宛てた手紙
からいろいろ書き込みたいと思います。
573 :
日本@名無史さん:03/06/07 15:38
「いたい旗本の子孫」氏期待あげ
574 :
日本@名無史さん:03/06/08 16:07
武田家以外の戦国大名の遺臣で旗本になった家はあるんですか?
575 :
日本@名無史さん:03/06/08 16:25
朝比奈家は今川、岡野家は北条の旧臣
576 :
日本@名無史さん:03/06/08 16:27
>575
なるほど。どういう経緯で幕臣に組み込まれたか気になりますね。
577 :
いたい旗本の子孫:03/06/08 21:24
「第二次長州征伐」
洋式部隊とともに当初大坂に駐屯し開戦直後に山陽方面の戦線投入のため
広島に進出し、戦場に出ることなく江戸に戻ったようです。先祖は、家族・
同僚に手紙をまめに出していたようで、妻に宛てた手紙の内容が我が家の伝
承の主構成をなしています。当時、当主は数えで27歳でしたが、当時として
晩婚だったようで、新婚直後の出陣だったそうです。確か、妻は13歳とも
14歳とも言われており譜代大名T家の縁者だったそうです。1通目は、呑気
に大坂の流行や土産について書いてあり第一次長州征伐同様楽観しており「
御用早々に終いにつき帰府速まりし・・・」と言う記述もあつたようです。
578 :
日本@名無史さん:03/06/09 10:33
>>574 マイナーどころですが、佐竹氏に滅ぼされた常陸の大掾氏の支族の家がいくつか旗本になっております。
579 :
日本@名無史さん:03/06/09 19:33
大沢右京大夫藤原基之:<武家>藤原氏
戸田備後守源氏倚 :<公家>村上源氏六条氏
中条河内守藤原信義 :<公家>?
宮原弾正大弼源義周:<武家>清和源氏足利氏(鎌倉公方裔)
織田豊後守平信順 :<武家>桓武平氏、織田信長子孫
畠山飛騨守源義宣 :<武家>清和源氏足利氏、上条政繁(能登畠山)子孫
上杉中務大輔藤原義長:<武家> 同上(称 藤原氏)
由良播磨守源貞陰 :<武家>清和源氏新田氏、(称)新田義貞末裔
今川刑部大輔源義用:<武家>清和源氏足利氏、今川義元末裔
横瀬駿河守源貞征 :<武家>清和源氏新田氏、由良分家
前田信濃守菅原長粲 :<公家>高辻氏
大沢修理大夫藤原基休:<公家>藤原氏北家持明院家
武田左京大夫源信典:<武家>清和源氏、武田信玄末裔
畠山左衛門源基利 :<武家>清和源氏足利氏、管領畠山氏子孫
織田主殿平信味 :<武家>桓武平氏、織田信長末裔
織田大膳平長孺 : 同上
六角頼母藤原●● :<公家>藤原氏烏丸家
日野岩丸藤原●● :<公家>藤原氏日野家
京極采女源高正 :<武家>宇多源氏佐々木氏
吉良中務源義房 :<武家>清和源氏足利氏、初め蒔田姓を称す。
長沢大蔵藤原資言 :<公家>藤原氏日野(外山)家
前田繁之助藤原長晧 :<武家>藤原氏押小路家
大友左京源義智 :<武家>清和源氏、大友宗麟末裔
土岐■之助源●● :<武家>清和源氏、美濃国守護家
有馬繁丸源●● :<公家>村上源氏堀河家
品川内記源●● :<武家>清和源氏足利氏、今川氏分家
580 :
日本@名無史さん:03/06/10 22:12
>579
前田繁之助長晧 :×<武家>藤原氏押小路家
○<公家>〃
581 :
日本@名無史さん:03/06/13 18:57
>487
うちの先祖も旗本だが、多分その分類になると思う。
582 :
日本@名無史さん:03/06/14 14:13
水戸藩じゃなかった。土浦だっけ、そこに行けば遠い親戚の病院があるぞ。
俺は東京に住んでるけど
583 :
日本@名無史さん:03/06/14 16:00
>582
誤爆?
584 :
いたい旗本の子孫:03/06/14 17:15
「第二次長州征伐2 作戦計画の起案者は?」
現存する資料によると、征長総督 紀州中納言 山陽方面 浅野・井伊・
榊原 山陰方面 福山阿部・浜田松平・亀井 瀬戸内海方面 松山松平・宇
和島伊達 九州方面 細川・立花・小笠原・島津・有馬とありますが、島津
・浅野・伊達は口実設けて参戦していません。鳥羽・伏見の配備計画同様かな
り杜撰でさり、戦術面に終始し、大戦略は欠如していたようです。では、幕府
陸軍には参謀本部と呼べるものはあつたのでしょう・・・。家伝によれば、
同僚に宛てた手紙によればこの作戦計画を幕臣達もよくしらなかつたようです。
。そのため、開戦早々、井伊・榊原部隊が惨敗したことに対して「芸州・彦根・
高田兵ほうほうのていにして敗走とのこと、広島城下に銃創ある将兵多々あり
、不可思議なのは戦傷おいたるは彦根・高田兵のみ」とあります。広島藩は、
参戦していない事実を知らないとは・・・
誤爆じゃないよ≫554のこと
>585
ごめんね、話がとんでてわからんかった
587 :
日本@名無史さん:03/06/14 17:58
「いたい旗本の子孫」氏の御家の記録等に
幕末維新時の幕閣の人物評みたいなのはありますか?
588 :
いたい旗本の子孫:03/06/14 22:13
587さんへ
板倉伊賀守・・・治世にあっても老中としては?頑迷固陋にして柔軟性欠如
「殿中にて、数度挨拶した程度。いつも困ったような顔をして
いた」
小笠原壱岐守・・羽振りがいい。気さくな人物。世が世なら名宰相
「第二次長州征伐後、殿中にて大声で「あーあー負け戦」と
鼻歌を」
井伊直弼・・・無口。声を掛けられた陸軍士官はいないのでは・・
直接面識はなかったようでですが、幕府陸軍では、鳥羽・伏見で戦史した指揮官
の佐久間近江守・窪田備前守は高く評価してますが、上司の陸軍奉行 竹中重固
はあまりよく思ってないような口伝があります。
589 :
日本@名無史さん:03/06/14 22:21
>588
実に面白い。もっとないですか?
590 :
いたい旗本の子孫:03/06/14 23:21
では、もう少し
勝安房守・・・多弁・利殖家、殿中でも自慢話多く老中から幕臣に至るまで
よく白けさせたそう・・
「江戸開城のどさくさに紛れて土地購入しておりそれを非難され
たため徳川家や旧幕臣に対して負い目あつた?」との口伝ある
も根拠乏しい
小栗上野介・・・老成した感あり、やや幕臣間でも浮いてた
「門閥貴族の貴公子ぜんとしているので直参達からも畏敬の
念を持たれていた。殿中では、もつぱら聞き役で先祖も徹底
抗戦についての私案を蕩々と述べるのを黙視していた」そう
です
レス、ありがとうおざいます。
小笠原壱岐のところは特に面白く読ませて頂きました
ところで、私の先祖も旗本で、幕末時に若年寄を勤めたらしい
のですが、それらしき人物についての評はありますか?
個人的な話で申し訳ありませんが・・
592 :
いたい旗本の子孫:03/06/18 20:26
587さんへ
実家に残存する資料「大正期の地元郷土史家との対談集の原稿から」からもし気分を害しても悪しからず・・・笑
1 静岡転封前後
ご存じでしょうが、大政奉還以降は譜代大名はついていません。中央官僚ではなく徳川宗家の家令と言った位置づけです。静岡には我が一族も同行し
てますが、私の直接の先祖は北関東にて転戦していたので誰がついていたのか知らなかったようです。親交のあったと言われているのは、「討薩の表」
を共に起案した塚原但馬、服部筑前、今川形部
2 維新前後
竹中重固・・・鳥羽・伏見の戦いの時の伏見方面の実質的責任者ですが、大事な時、伏見奉行所にいたり大坂城に帰ったりしたので先祖は、死ぬまで恨んでいたようです。「奴は腰が軽い」と言っていたそうです。
永井玄蕃・・・某作家の先祖 若年寄よりも外国奉行として能力を発揮鳥羽・伏見の敗因を「銃器の性能」と「徴募兵」と外国公使達に吹いた陸軍関係者からは、蛇蝎のように嫌われていた。
永井備前、平山図書は、能臣と評していたそうです。
松平(大河内)豊前・・・「討薩の表」を朝廷に上奏すべき入京しようとした旧幕軍の総督。鳥羽・伏見から敗走してきた旧幕兵を見て意気消沈した慶喜公を見て意気消沈してしまった御仁。大坂城内で「寒い、寒い」と言っていた姿が印象的だったそうです。
593 :
いたい旗本の子孫:03/06/18 20:37
そう言えば、鳥羽方面の責任者?滝川播磨も竹中も織田・豊臣系の
子孫ですね。滝川は、織田信雄の付家老、竹中は軍師の末裔ですね。
「第二次長州征伐3 幕兵と奇兵隊の共通点」
どちらが、「柄」が悪いと思いますか。誰かレスしてください。
レス有り難うございます。
幸か不幸か592の人物の中には入っていません{w
うーん、残念。
>593
素人の考えなのですが、素直に考えるならば
筋目の侍が集まっている幕軍の方が、百姓・町人等の
身分を問わず集められた奇兵隊の方が「柄」は悪そうに思えますが
しかし「いたい旗本の子孫」氏の御家はすごいですね。
それだけ、詳しい生の情報が脈々と伝えられてるとは。
家にあるのは、虫食いで読めない家系図と手紙類等・・
それから、何故か女者の籠ぐらいですわ。
595 :
いたい旗本の子孫:03/06/19 19:46
587氏へ
どのみち、我が家より家格が上のようですよ。世が世なら、上司・部下だっ
たのでは・・笑。明治・大正期には、回顧録云々のブームがあったようで、
元勲や元大名達もそれに載った・乗ったようです。徳川宗家でも、徳川家の
家格を正当化するため「松平記」を出してますよね。我が先祖もインタビュー
型式ではありますが何度か取材を受け、それらの記録を残しているにすぎま
せん・・・苦笑。メールで、実家に確認してみましたが、若年寄の勤めた人
について確認してみます。我が家も、家系図・草履・弾倉袋及び家宣公から
拝領した「春夏秋冬」の掛け軸くらいですよ。
>595
わざわざ申し訳ありません。
私の家は名字が同じままなので、それ以外のデータでご勘弁を・・
禄高は確か2600石程で、若年寄在任時の官は備後守
家紋は、鳳凰に桐です。江戸城明け渡しの時の責任者の一人です。
しかし、将軍家拝領の品とは凄い物を所有されてますね・・・。
重文指定とかされてる一品なのでしょうか?
ところで、長州征討時のお話の続きもお聞かせ下さい。
このスレを読んでる人も待っている人がいるでしょうから。
597 :
いたい旗本の子孫:03/06/20 19:29
備後殿御子孫へ
「実家の資料から」
地元の新聞記者が維新50年記念の企画で受けた取材資料の一部です。
鳥羽・伏見後から江戸脱走までについてです。()は、私の注釈です。
幕兵、会桑の将兵約2百名で誰が指揮を取る訳でもなくフラフラ帰ってい
きました。薩摩守同様のことをして街道の人たちには迷惑だったでしょう。
(薩摩守 平忠度のこと 忠度だだのりと無銭飲食・搭乗を掛けた)
さて、江戸に戻ってみると、大樹公(将軍家)は恭順一点張りで、会津中将を
所払いにしておきながらお城に砲台作ったりと和戦どっちなのかなかなかは
っきりしませんでした。役職も一新され、本来譜代の諸侯がつくべきお役も
つきて無く大身の直参が就いていたものです。お達しも出鱈目で、内々に言
って歩兵奉行の打診があった次の日に、若年寄の名で、半コ大隊指揮して房
州に行けとか相当出鱈目でしたね。困って屯所(西の丸下の幕軍駐屯地)にい
ると、大久保さんが来て歩兵頭並として徴募兵の慰撫してくれと頼まれたの
でしばらくそうすることにしました。実は、私の歩兵頭並と言うのは公儀か
らのものではないんですよ。(正式な辞令では「歩兵指図役頭取」陸軍大尉)
いざ、お城明け渡しと聞くと私もかなり激高しました。田安卿と尾州公が当
たるとだけ聞いていただけで誰が指図していたかは開城直前まで知らなかっ
たのが実情です。さてお城に立て籠もろうとする一軍もおり一橋屋敷にいる
御台様(慶喜夫人は、大奥ではなく一橋邸に終始いた)を質に上様に籠城を強
訴しようとする物騒な幕臣もいたものです。そんなことされては、江戸も焦
土に化しかねないと勝安房も思ったのか、若年寄のK(たぶんご先祖ですよ
ね ここは私の判断でイニシャルにしてます)を派遣して説得させましたが、
双方から加勢を頼まれほとほと困りました。そのうち、開城の日前後に幕兵
決起・脱走との話も持ちかけられ市川の軍議に参加することになりました。
この記録を信じると貴方のご先祖とニアミスしているようですよ・・笑
>597
毎度有り難うございます。
まさに、ここで会ったが百年目(w)。会ってはいないみたいですが(残念
しかし、他の方のご先祖の記録を通じて、自分の先祖の話を聞かせて頂くのは、何やら不思議
な感じがします。
何だか、備後さんの右往左往する姿が浮かんでくるようです(w
しかし、この状態でよく無血開城できましたね。
その気になって、本気で幕府が官軍とやりあっていたら
どうなったか・・
まあ、全てが押さえきれなくて彰義隊ができちゃったんでしょうけど。
ところで、「いたい旗本の子孫」氏は松本清張の「西郷札」を
ご存じでしょうか。
どの程度清張が調べて書いたのかは分からないのですが、没落した旗本が
主人公の短編がいくつか収録されていて、気になったので。
イニシャルについてのご配慮感謝します。
「いたい旗本の子孫」氏とやりとりさせて貰ってると忘れがちですが、
ここは2ちゃんですから(w
>>598 横レス失礼します。幕末の人物への評価は面白いです。
紙の上の履歴には出てこない人間臭い部分が伺えます。
587さんのご先祖、何となくわかりました。
旗本は旗本でもそもそもは・・・・の部類ですね(w
一代限りの旗本の子供とかって親父存命中は殿様の息子扱いですか?
しんだら急に回りの態度変わるのかな
601 :
いたい旗本の子孫:03/06/21 09:12
「第2次長州征伐4」幕末の上陸作戦
我々は、上陸作戦と言うとノルマンディーや硫黄島や思いがちですが、この
幕長戦争でも実はありました。先祖が、広島城で上司から聞いた話を書きます。
()は私の注釈・私感です。
周防大島へは、松山兵・幕兵2コ大隊等約二千(誇張 実際は千人強
)で実施されたとのことです。細かくはわかりませんが、丹後殿(陸軍
奉行 竹中重固)の起案でして征討軍総督府でもさしたる案もないので
即座に「そうせい」となったのでしょう。ただ、海路攻略と言うこと
でしたが、皆源平の頃のように船押し立てていくものと思っておりま
した。その月の初旬(慶応二年六月 松山兵の上陸7日・幕兵上陸1
1日)には、大島を抑えたのですがまずは軍艦押し立てて海岸と言わ
ず集落と言わず砲弾を放ち、賊兵等も戦わず逃げ去ったとのこと。軍
艦の大砲は、軍艦と戦うためと思っていた私たちにとっては驚きであ
ると同時に自分の考えが固く・浅いものとほとほと自省したくらいで
す。軍艦で砲撃したのち兵で推し進める。今となっては常態(記録では
明治末期・大正期の内容なので日清・日露戦争は終了していたはず)な
んでしょうな。
>599
いえいえ、こちらこそ何やら個人的な話に終始してしまって・・
そうなんですよね、紙面だけではなかなか人物までは分からない。
「いたい旗本の子孫」氏は、そういう話題を提供して下さってるんで
感謝ですね。
私の先祖については何分にもご内密に(w
ところで、「旗本でもそもそもは・・」これはどういう意味でしょう?
>「いたい旗本の子孫」氏
お話の続き期待します。
587さん
そろそろコテハンにされては?
>>602 >ところで、「旗本でもそもそもは・・」これはどういう意味でしょう?
「旗本」は単に禄高1万石に足りない直参武士のことであって、「譜代大名未満」も「外様大
名未満」も含まれる、という意味で書いてみました。
注:「外様大名未満」・・・最上・生駒氏などの旧族大名・織豊取立大名で後に1万石を割っ
て大名と見なされなくなった直参武士を指す(つもり)
605 :
日本@名無史さん:03/06/22 14:17
>604
説明になっていない…
>>605 ん〜、587さん自身が「ご内密に」って言ってるから遠まわしにしか書けないよぉ。
でも、本人がご自分の家の出自を知っておられれば意味がわかるはずなんだが・・・。
>599
有り難うございます。
意味分かりました。うちのようなマイナーな家についてよく御存知ですね。
何かそういった研究等に関わっておられるのでしょうか?
確かに関ヶ原戦の資料等には名が見られたりしますね。
織豊時代の領地については、資料がごちゃついてるのと、家の者が言ってる
事が微妙に異なるので599氏のご想像どうりかは分かりません。
「いたい旗本の子孫」氏のようにきちんとした記録はないので・・
>601
やはり幕府の海軍力は、当時の国内では群を抜いていたということでしょうか・・
陸軍の方は薩摩や肥前等とくらべてどうだったんでしょう?
>603
有り難うございます。
適当に考えてみます。
>>607 あ、意味わかっていただけましたか。助かりました。
これ以上バレずにどうやってヒント出そうか?という感じでしたから(w
まあ、私の場合趣味が嵩じて大学で専攻し、時々仕事に役立ててるという感じでしょうか。
本当は、一般に語られている領地と家伝の領地の違いについてお伺いしてみたいところで
すが、ネタバレしてもいけませんからこの程度にしておきましょう。
609 :
いたい旗本の子孫:03/06/22 21:48
「第2次長州征伐5 プロイセン式紀州部隊奮戦!」
広島城内では、初戦の井伊・榊原の惨敗に驚愕しているなか、当の徳川四
天王の両家は戦意喪失して撤退してしまい、主戦場たる山陽方面は戦線を維
持できなくなる危惧を持った征討総督府は、大島にいた幕軍を転用して長州
の進出を阻止しようとします。第一線は、イギリス式の長州とフランス式の
幕軍の激突が迫りつつある前線に進出した部隊があります。征討総督紀州中
納言家付家老 水野大炊頭に率いられた紀州部隊です。紀州部隊の前線投入
で戦線は膠着し、長州も相当焦っていたようです。さて、紀州の洋式部隊に
ついては記録が少なく全容はわかりませんが、明治政府が、仏式から独式に
陸軍の制度を改編したことからも相当紀州兵は強かったようです。さて、紀
州兵の活躍の中、征討総督府内の政争に嫌気をさした紀州公の総督辞任騒ぎ
の中、幕軍は総攻撃を準備します。家伝によれば、「紀州公の申し立ては、
紀州兵の損害過多なねも、井伊・榊原は初戦以降戦線を維持せず、島津・浅
野・伊達等も参戦しないだけに飽きたらず長州と通じていると言ってもいい」
とあります。薩長同盟など明治期の元勲の伝記を読むまで知らなかった先祖
でも薄々歴史の流れを感じていたようです。
610 :
いたい旗本の子孫:03/06/22 21:56
補足 紀州公は、自軍ばかり損害がでて、譜代大名のふがいなさと総督府の
ハト派が、長州との停戦協定を模索していたことに嫌気がさした
と書きたかったのですが、上記は中抜けした文章になってしまいました・・・
国語力のなさを笑ってください
>599
家伝といってもご大層なものでは無いです。
家の者はあまりそういう事に熱心では無い連中が多いんで。
親父が・・・・・石だと言ってたり(これは何の意味も無いでしょう)、
親類の子(彼も一応史学科出身ですが)が豊家代官を勤めていたから
それを合わせて・・・・・石だとか。
ところで599氏の「一般に語られてる領地」と言われるのは
関ヶ原戦について書かれた文庫とかの終わりにのってるあの数字でしょうか?
家の者が言ってる数字はあれより大きいですね。
妄想入ってるのかも知れませんが。
後、ご配慮誠に感謝します。
>610
ご謙遜を・・
いつも興味深く読ませてもらってます。
こうみると、幕府は軍事力で負けたと言うより、内部崩壊していった
いやさせられたというべきなのでしょうか。
御三家にまで見限られるのでは保つわけないですね。
>>611 > ところで599氏の「一般に語られてる領地」と言われるのは
> 関ヶ原戦について書かれた文庫とかの終わりにのってるあの数字でしょうか?
> 家の者が言ってる数字はあれより大きいですね。
> 妄想入ってるのかも知れませんが。
その時期は、直轄地を付近の領主に預けるのが主流(幕末会津藩における南山5万石み
たいなものか?)だったそうなので、預かり地も加えた高が伝わってるのかもしれませんね。
その辺りの制度を踏まえて言っているのなら、数値はともかく587さんの親類の子の考え方
でいいんではないかと思います。
それから、幕府も親藩・譜代があれだけ当てにならないとは思ってなかったんでしょうね。
私が住んでるところも旧親藩・譜代が数家続いたところですが、かなり格の高いはずの職
に就きながら威令が行き届かないという名目で職を降りて国許に引きこもったりしてました
から。
613 :
いたい旗本の子孫:03/06/23 22:06
「第2次長州征伐6 幕軍総攻撃の内幕」
慶応二年八月七日 大野会戦は、山陽方面のフィナーレと言える戦いでし
た。「総打ち込み」と称するこの総攻撃は、純軍事的なものではなく、将軍
就任間もない慶喜公の政治的思惑から開始された戦闘です。総督 紀州中納
言の辞任を撤回させ、幕軍・紀州・彦根・高田・福山等の大軍が萩・山口に
通ずる要地 大野を占領したのに対し長州が奪回するため猛攻を掛けると言
う戦いは、砲撃戦で長州がじょじょに幕軍の砲台をつぶし、脇の甘い彦根・
高田部隊に攻撃すると見せかけただけで、両家の部隊は敗走し、幕軍は包囲
され広島への退路も遮断されつつあるなか命からがら撤退します。元々、反
戦的だつた広島藩もこの幕軍の敗走により、一気に反幕色を強める結果にな
りました。実際、幕軍の攻撃再興に先立ち大野方向に広島藩は、兵力を進め
長州と幕軍の間に展開し、間接的に長州軍を守る態勢を取ることになります。
幕軍の損耗も激しく、我が先祖が広島城下から幕軍の第一線部隊に補充され
たのも、この前後と思われます。伝承によれば幕軍一番隊 仏式歩兵大隊に
籍のあった先祖は戦地で、九番隊 1コ大隊に転属した形になります。狙撃
を恐れて白い陣羽織を紺に染めたとの伝承もあることから、幕軍の指揮官ク
ラスの戦死は狙撃が少なからずあったことを示すものなんでしょうか?
>599
レス感謝です。
しかしですね、その子の言う数字は10以上なんですよ(w
どこをどうひっくり返したのかは知りませんが。
599氏は幕末の例を挙げておられますが、私のイメージでは大谷良継のパターン
なのかなと・・
599氏のお考えでは、実質どれぐらいだったと思われますか?
何だかスレ違いで申し訳有りませんが。
何だか、家康の眼力も薩長が敵になることを予測するまでが限界だったんでしょうか?
それだけでもかなりの眼力ですが。
似たような所で秀吉も哀れですね。家康を押さえるはずの海道筋の大名に悉く裏切られ・・
それを考えると会津藩の様な存在は例外中の例外でしょうか・・
>613
そういえばこの戦で幕軍は、大村益次郎にやられましたが、
大村って知名度はどんなもんだったんでしょうか?
長文の書き込みお疲れさまです。
>>614 > 599氏は幕末の例を挙げておられますが、私のイメージでは大谷良継のパターン
> なのかなと・・
> 599氏のお考えでは、実質どれぐらいだったと思われますか?
本領5000石前後+預領5〜10万石と予想します。
大抵隣接地を預かるケースが多いみたいだし、五畿内とその周辺は直轄地多そうだから。
>599
レス有り難うございます。
うーんそうですか・・先の大谷良継のケースを言うと、彼は敦賀5萬石と
代官領5萬石、合わせて10萬石分の兵力で確か関ヶ原に出陣してました
よね?
>五畿内とその周辺は
もう完全に599氏にはばれてますね(w
あのあたりは確かに豊家直轄領がほとんどだったと聞いていますから
そう考えることもできますか・・
>本領5000石前後
私自身一度江戸初期の資料で計算してみたことがあるんですが、
本家と分知した家の分を足すと大体6000石だった記憶があります。
いや、色々と有り難うございます。
617 :
日本@名無史さん:03/06/26 07:13
甲子夜話の記事に旗本河嶋家の話がある。革島氏は南山城の豪族で戦国期一時勢力をもったが最後は帰農。分家が旗本にとりたてられた。しかし本家は農民にもかかわらず分家に正月の挨拶をうけていたとのこと。
618 :
日本@名無史さん:03/06/26 14:12
>>587 >>大谷良継
細かいけど何度も間違えているようなので・・・大谷「吉」継ですよ。
>618
訂正どうもです(汗
>617
そういう家が有ったんですか・・・
調べれば面白い存在の家はもっと有るのでしょうね。
620 :
日本@名無史さん:03/06/26 22:33
根岸肥前の話があったのでもう一つ甲子夜話記載の逸話を一席。 根岸が勘定奉行公事方の時、白洲で吟味中に罪人が側の役人に襲いかかった。 根岸は席から飛び出し罪人を取り押さえ、ことあるごとに、人に自慢していた。
621 :
日本@名無史さん:03/06/26 22:48
(つづき) 自分をひきあげてくれた松平定信に自慢したところ逆に無作法なことと注意された。著者いわく根岸は粗暴で礼法に疎く、そのことを定信は指摘したとのこと。耳袋の著者はソコツ者だった様子。
622 :
日本@名無史さん:03/06/26 23:40
旧高旧領(備中、飛地と思います)にでてくる
小堀大学
高山安左衛門
長谷川都五郎
毛利兵橘
などの本領、石高などについてわかりませんか?
623 :
日本@名無史さん:03/06/30 22:48
>622
「寛政譜」をみればある程度わかりますよ。
小堀大学 高3000石
大和国葛上・宇智郡内で2000石(「寛政譜」では宇智郡のことは言及してませんがございます)
備中国後月郡内と近江国浅井郡内で合わせて1000石
高山安左衛門 高1000石
上野国新田郡内550石、備中国後月郡内450石
長谷川都五郎 高3110石余
摂津国島下・武庫・川辺・八部郡内、備中国窪屋郡内
毛利兵橘 高300石
備中国小田郡内
但し当然ですが寛政譜以後の加増や所領替えなどもありますので。
624 :
日本@名無史さん:03/07/01 17:14
623> ありがとう。 本日、図書館で確認しました。図書館にはなかなか行けないです。
寛政譜電子データになりませんかね。
旧高旧領帳に対応する人名事典もほしいですね。
>621
手元の本では、定信ではなく松平豆州(信明)となっていますね。
「(略)豆州挨拶には、さても不用心なることに候と斗なり。根岸、其失言を
悔しとなり。豆州の言は、奉行職吟味の席は、その属吏等正々堂々とあるべき
所、必竟備の足らざりしより、不虞の事ありと云意とぞ聞へし。根岸、人と為
り鄙野にて、礼法に疎なるを戒めての言なりけらし。(後略)」
しかし、根岸肥前守は評定所留役なども勤め、現場を熟知している人物です
しね。
「不慮のことが起こるのは心がけの問題だ」などという、実情を知らぬ「お殿
様」の建前論的説教には、案外内心で苦笑いしていたんではないですかね。
626 :
いたい旗本の子孫:03/07/03 21:36
「第2次長州征伐7 大坂城内の混迷・・征長大本営のバックステージ」
口伝に基づいた記録より停戦から、帰府まで書きます。
いざ、前線に行こうと息巻いていると前線に張り付いている士官以外主立っ
た者は、大坂に来いと言うことで、大阪城に登城したのは慶応2年7月初旬だ
ったはずです。軍議は、毎日あり江戸と違い朝から晩までどこかしかでやって
おり刻々と戦況が伝わり小倉・浜田の落城を聞いた時は、後生楽(超楽観)な上
司達も日に日に焦っていたようです。そのうち、小倉から召された小笠原壱岐
守や芸州口指揮官の竹中丹後守が登城する一方で停戦交渉のため広島に向かう
勝安房守が出て行ったりと俗に言う「お偉い方」は食事の時間もなく大変そう
でした。私も、同僚達と起死回生の案をと考えましたが何も出ません・・苦笑。
7月末、老中にして征長副総督 本庄伯耆守の罷免を聞く一方で、フランスの
軍事介入により長州を叩こうと下交渉していたという老中 板倉伊賀守が大坂
城内で他の重役に問いつめられてちょっとした騒ぎになったりしました。
8月上旬、奥向きからの情報で城内でも14代様お亡くなりと知り、重役達も
公然と将軍宣下前の慶喜公を「上様」呼ばわりしていました。結局、対外的に
家茂公の死を公表したのは20日前後だつたと思います。9月初めのある夜に
、主な者は大広間に集まり、新公方の慶喜公の口から「征長の中止」が達せら
れ長州との交渉により10日から毛利領からの撤退が発表されたのですが、実
際4日には撤退がはじまっていたようです。そんな中、領土を失った浜田候
松平右近将監様の老臣がお家再建について上訴に来たが仲介を頼まれたり、大
坂で徴募した幕兵の手当でのゴタゴタを城内の金で片づけたり洋式部隊の再編
成について意見具申したりして帰府したのは11月になってからです。
627 :
日本@名無史さん:03/07/03 21:44
628 :
日本@名無史さん:03/07/03 22:30
旗もとって何なの?親衛隊のことか?
629 :
いたい旗本の子孫:03/07/04 09:50
補足
書き込むうちにある矛盾に気づきました。今まで、前線配備については総
攻撃直前と言われていましたがどうも違うようです。大坂の軍議の前、7月
初旬には前線に転属を内示されていてそのため、連絡将校的立場にあつたた
め大坂城の軍議に参加したのち広島城に戻り、前線部隊の指揮官達に決定事
項か風聞を伝えていたのではないかと思われます。長州を平らげて「大目付」
「3千石」への御加増との皮算用は、家茂公の死と征長失敗で潰えたわけで
す。
630 :
いたい旗本の子孫:03/07/05 12:48
「幕軍の構造改革」
先祖の口伝と諸記録等から、征長戦から鳥羽・伏見前後の幕政改革と幕臣
の生活について書きます。
まず、兎角誤解しがちですが、徴募兵はこの時期まで幕臣領からの差し出
し(手当は、領主持ち)で、従順な農民出身者だったのですが改革により、所
領に応ずる金納制に移行し、兵については一般民衆からの直接採用となりま
す。俗に「旧幕軍の士卒は無頼の徒であり、君恩に対する志低く勤王の・・」
と悪評の連中です。金納制については、救済処置もありとにかく幕府は、無
言なままにも直参に対して「戦力として期待してないから金出せ」と言って
いるようなもので直参でも、比較的まともな者は意識改革の契機になつたよう
です。当家も、松平忠輝公所有と伝承の鎧以外、弓矢・槍の類は処分したそう
で、家の武具庫は、子供の遊び場に化したとのことです。慶応2年11月、無
事帰宅した先祖は、4カ所ある幕軍の駐屯地のうちの一つ「西の丸下組」に配
置を命じられます。そして、赴任早々に「幕兵の吉原暴動事件」に立ち会うこ
とになり本来部下で在るはずの幕兵に発砲される災難に遭います。
631 :
日本@名無史さん:03/07/06 22:58
621です。信明でした。申し訳ない。肥前は下情に通じていたが、如何せん目立とうとするところがちょっと…。確かに異例の出世をとげる人だが…
632 :
日本@名無史さん:03/07/10 21:15
age,
633 :
日本@名無史さん:03/07/10 21:23
よーし、おまえらー。
知ったかしよーぜー。
自慢しよーぜー。
おれなんか旗本八万旗
全部名前言えるぜー。
>>633 ばーか、名前なんか言えても何もえらくねーよ。
俺なんか八万ある旗の柄全部知ってるもんね。
>>633 で、いつの時点の名前が言えるわけですか?
それとも、本当に80,000人いたわけじゃないという前提を踏まえての釣りですか?
>635
江戸時代に存在した全旗本の名前を言えるに決まってるだろ!
8万人いるのかどうか知らんがな。
>>636 あぁ、やっぱ質問の意味が理解されなかった。言い換えてみよう。
で、慶長8年から慶応3年までの間の、いつの時点の旗本の名前が言えるんですか?
途中で結構入れ替わりがあるんですが。
それから、もしここに書けても結局は資料を『江戸旗本事典』とか『寛政譜』等を横に置いて
書いてるだけだろうしなぁ(w
全部知ってる、言えるって言うくらいならやっぱ諳んじてないとねぇ。
あきらかな釣りつーかネタにマジスレするのがここの作法なんですか?
ん・・・・正常化希望
ま、まさか釣れるとは……!
637は真面目よのう。633も634も636もネタなのに…
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
646 :
日本@名無史さん:03/07/18 20:10
647 :
日本@名無史さん:03/07/18 20:31
旗本・御家人構成
宝永2年「御家人分限帳」 寛政年間(旗本のみ)「国字分武鑑」
0〜49石 13788人 112人
50〜99石 1130人 269人
100〜199石 1490人 883人
200〜299石 2476人 1085人 屋敷坪数 約600坪
300〜399石 1303人 837人 屋敷坪数 約600坪
400〜499石 339人 344人 屋敷坪数 約600〜750坪
500〜999石 866人 840人 屋敷坪数 約750〜800坪
1000〜1999石 445人 421人 屋敷坪数 約900坪
2000〜2999石 162人 160人 屋敷坪数 約1000坪
3000〜4999石 144人 142人 屋敷坪数 約1200〜1800坪
5000〜7999石 100人 106人 屋敷坪数 約2000坪〜2400坪
8000〜9999石 7人 6人 屋敷坪数 約2500坪
宝永2年(1705)
旗本 約5,331人 御家人 約17,213人
享保7年(1722)
旗本 約5,205人 御家人 約17,399人
正常化しますた。
649 :
日本@名無史さん:03/07/25 00:53
650 :
日本@名無史さん:03/07/31 00:12
御家人だと50石未満がずいぶん多いんだねえ。
旗本も2〜300石がいちばん多いんだよね
(^^)
653 :
日本@名無史さん:03/08/04 00:30
655 :
日本@名無史さん:03/08/04 14:08
誰か活性化してよ。
656 :
「いたい旗本の子孫」:03/08/04 20:08
「幕兵吉原騒動顛末」
慶応3年(前回の書き込みで2年と記したが間違いです)11月14日、3
百余名の幕兵が吉原で暴れ、屯所より持ち出した鉄砲で一斉射撃し、着剣し
て逃げまどう遊女や通行客を追い回した。風説によれば歩兵指図役(幕臣 尉
官)が指揮し「家は壊すも人は殺すな」と命じたと言う。ことの始まりは、前
日、外出した歩兵の一人がただで登楼しようとして土地の若い衆に撲殺された
のの仇討ちと言う。登城しようとして役宅で支度している最中に若年寄、町奉
行、陸軍奉行、歩兵奉行の使者が暇なく訪問し、「吉原に出向き暴徒と化した
幕兵を鎮撫せよ」と言う。先祖は、陸軍奉行の名前で8百名ほどの鎮圧部隊を
編成させ本人は、斥候よろしく吉原に行くと角海老と言う大店が今にもうちこ
わされようとしていたので、抜刀して大声するし、幕兵おかまいなく終いには
数名先祖に発砲する始末。幕兵は、ひとしきり暴れると隊列組んで整斉と引き
上げたとこと。先祖の命令は、伝言ゲームよろしく屯所にはうまく伝わらず鎮
圧部隊は、呑気に弁当食べていたとのことであり、その中には暴れた幕兵の中
に見た顔も多々あったそうです。
657 :
日本@名無史さん:03/08/04 20:35
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
..iiiiiiiiiiiii》| ::: |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiiii|, |iii|
..iiiiiiiiiiiiiiiiii, ( ● ● ) .|iiii|
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii 》━━━━《 |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ 》 / ̄ ̄\ 《 |iiiiiiii|
iiiiiiiii《《《《《《《《 《《 \ ̄ ̄/ 》》 |iiiiiiiiiii|
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661 :
いたい旗本の子孫:03/08/07 19:19
違います。しがない公務員です。
662 :
日本@名無史さん:03/08/10 22:33
いやいや御先祖も徳川政府の公務員、立派なものではありませんか。
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
664 :
日本@名無史さん:03/08/16 02:06
665 :
日本@名無史さん:03/08/21 00:08
666 :
日本@名無史さん:03/08/29 20:08
667 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/08/29 22:33
旗本八万期の元足軽でしたが、
612年御主君様の領地の農民となり、
その御主君様を食いものにし、
御主君様は貧乏御家人に貶め、
750石の領地は我がものとし、
明治の世には、地主となっていました。
668 :
日本@名無史さん:03/08/30 23:10
勝海舟いわく
「旗本八万騎って言っても今じゃ八千、それも戦になったら半分は逃げ出す」
669 :
日本@名無史さん:03/08/30 23:19
そうそう、援交ものはこうでなくっちゃ。
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670 :
日本@名無史さん:03/09/06 21:55
今大路家 橘氏 幕府医官
織豊期の名医曲直瀬道三の子孫。曲直瀬氏は元来源姓であったが、1592年(文禄1)、
親清の時に後陽成天皇より橘姓と今大路の家号を下賜された。のち徳川家に仕えて
幕府医官となり、山城・上総で1200石を与えられた。戊辰戦争の際、いち早く新政府に
帰順して中太夫(男爵相当)となるが、華族制度成立の過程で除外された。
671 :
日本@名無史さん:03/09/06 21:56
岡田家 清和源氏 旗本
尾張岡田の出身で戦国時代に織田家に仕えて星崎城主となる。
岡田重孝は織田信長の2男信雄の家老を務めたが、
小牧長久手の役直前に豊臣秀吉に内通した疑いをかけられ、
信雄に殺害された。重孝の弟善同は佐々成政・加藤清正に仕えたのち、
1600年(慶長5)、関ヶ原の役で徳川家康に属して旗本に取立てられ、
子孫は美濃大野で6600石を領した。
戊辰戦争の際には早々に幕府を見限って官軍につき、
1868年(明治1)、分家の禄と新墾田を合わせて1万石となることを
理由に諸侯への昇格を願い出たが、本家の禄だけでは万石に満たなかったために却下された。
672 :
日本@名無史さん:03/09/06 22:52
大沢とか岡田は必死だな
とか当時言われたのかな?
交代寄合で大名になった連中の石高も相当胡散臭いと思うのだが
とくに平野
674 :
日本@名無史さん:03/09/07 19:07
座光寺家 清和源氏 交代寄合信濃衆
源為朝の2男為家の後裔という。信濃国伊那郡座光寺村に住して座光寺を称した。
戦国時代には甲斐武田氏に属したが、1582年(天正10)、為清の代に徳川家康に
仕え、子孫は交代寄合として信濃山吹1115石を領した。
明治後、同じ交代寄合で実高1万石以上の山名家など6家が華族に列したことから、
座光寺家も華族昇格を望み請願書を提出するが、禄高が少なかったため諸侯格
として認められず却下された。なお、幕府が編纂した『寛永伝』『寛政譜』では
なぜか清和源氏ではなく藤原氏に分類されている。
675 :
日本@名無史さん:03/09/07 19:45
座光寺家は幕末には新政府側につき、梁田宿での新政府軍と幕府軍の
戦闘に参加しようとしたものの、迷子になってしまい、梁田宿に到着
した時には戦闘は終了していた。
出陣の際、行く先々の宿場で至れり尽くせりの接待を受けたが、これは
座光寺という名前がいかにも公家風で偉そうな印象だったかららしい。
676 :
日本@名無史さん:03/09/07 20:54
江戸幕府旗本における武田旧臣の割合ってどのくらいなんだろうか
かなり多いと思うが。
677 :
日本@名無史さん:03/09/07 21:05
逆に大名にまで取り立てられた武田旧臣というのは意外と少ない。
幕末まで続いたのは柳沢家くらい。
678 :
日本@名無史さん:03/09/07 22:27
幕府を見限って官軍につき・・・
こんな忠誠心低いやつら
旗本って呼べるか
679 :
日本@名無史さん:03/09/08 01:59
680 :
日本@名無史さん:03/09/08 02:07
>678
武士の風上にも置けない。事情は知らんが胸糞悪い。
世が世なら天誅の対象。
681 :
日本@名無史さん:03/09/08 09:15
岡田家は旗本と言っても
経歴見る限りは関ヶ原の際に徳川に属した外様だから
もともと忠誠心なんて大してなかったのだろうな。
これが三河以来の譜代とかだったら情けない話だが。
682 :
日本@名無史さん:03/09/14 16:17
講談社文庫『江戸の旗本事典』
勉強になるよ。
683 :
日本@名無史さん:03/09/21 04:18
うちの御先祖、幕臣で鉄砲組同心とか普請方とかの役職だったんだけど、
これって御家人だと思うけど。
いわゆる譜代席という区分になりますか?
教えてください。
684 :
日本@名無史さん:03/09/21 04:45
旗本だから忠誠心が高くて大名だからそうじゃないってもんでもないよな
万石越えたらやる気なくなるのか(w
685 :
日本@名無史さん:03/09/21 11:53
>683
最近そういう詳しいことについて語れるほどの知識をもつ人いなくなった。
>>685 そうそう。どいつもこいつも思い込みばっかりで語りやがって。
伊達遠江守家中みたいなのが出てきてから一層ひどくなったよ。
687 :
日本@名無史さん:03/09/27 22:35
age
もう伊達の話は寄席。
>>688 じゃ、乃木大将信者の嶽原の話でもしますか?(w
690 :
日本@名無史さん:03/10/02 00:03
age
691 :
日本@名無史さん:03/10/05 09:35
うちの家は坂東なんとかいう土着の武士団から
戦国江戸期を経て千人同心とかやってたらしい。
んで、その株うっぱらって商人になり今に至ると
爺様がいってた。
でもね、ちょっと調べりゃそんな家系存在しないっつーことが
すぐにわかるのよ、爺さん。年寄りの夢を壊すのもアレなんで
黙ってそういうことになっているってことにしてますが。
692 :
日本@名無史さん:03/10/05 11:22
>691
まあまあそんなこと言わずに
同心というのは正しいかもしれないでしょ。
八王子千人同心は百姓と同じ出し、金持ちが株を買ってなったりもしたし。
旗本八万騎というのは
武士が神と崇める応神天皇の軍団八幡軍=満州八旗軍
に倣ったものという説。
694 :
日本@名無史さん:03/10/05 11:40
>693
バカ?
ああ自説か…
釣られちゃった。
695 :
日本@名無史さん:03/10/08 20:08
紀伊国屋のお勧め本コーナーで
歴史・時代小説ファン必携
「江戸の旗本事典」 小川恭一 講談社文庫 667円
買って来た内容は面白いのだが、
詠みづらい文章だな。
696 :
日本@名無史さん:03/10/09 01:11
>695
またコピペか
698 :
日本@名無史さん:03/10/09 03:24
>697
とくに最後の2行
700ゲット、こいつ等がまともに働けばな。
701 :
日本@名無史さん:03/10/10 03:26
702 :
日本@名無史さん:03/10/10 22:28
塩飽の人名は旗本か御家人の一種でつか?
現在でも領地が持分として継承されていますが、、、。
703 :
日本@名無史さん:03/10/11 02:54
>702
意味不明
「人名が旗本か御家人か」って何を言いたいのかわからん。
704 :
日本@名無史さん:03/10/11 18:09
人名の身分だよ。旗本相当とか御家人相当とかどこに属するのか?
650人程で1200石程の朱印状をもらっていたわけだから、、、。
身分的にはどうなのかってことよ。 士分になるのか?
705 :
日本@名無史さん:03/10/11 18:18
>>703はニンミョウをジンメイと取り違えているのだろう。
706 :
日本@名無史さん:03/10/11 18:18
塩飽の人名は武士ではないよ。
707 :
日本@名無史さん:03/10/11 21:42
明治以降は平民かな。
708 :
日本@名無史さん:03/10/11 21:53
709 :
日本@名無史さん:03/11/03 00:59
華族になりそこねた座光寺家について詳細希望でつ
710 :
日本@名無史さん:03/11/03 08:52
ザコ氏
寛政譜16巻見たけどとくにこれといって目立った活躍してないなあ。
711 :
日本@名無史さん:03/11/03 09:42
旗本八万騎 ミミズ千匹
712 :
日本@名無史さん:03/11/06 23:02
いたい旗本の子孫氏とか来ないかな、、、
何だか静かになっちゃいましたね。
適当なネタは無いのでしょうか?
714 :
いたい旗本の子孫:03/11/09 18:04
仕事で、ここ数ヶ月書き込みできませんでした。
以前、八切止夫氏著作から「徳川埋蔵金」「家康二人説」「信長謀殺
主犯 家康説」等々の衝撃的な内容を読み私なりに調べたことを書き
ます。氏によれば、幕臣の多くは三河出身ではなく三河島出身であり、
沢田源内らの系図屋により家伝を創作していたと言う記述があります。
確かに、旗本の先祖がなぜか源平藤橘に統一されていたりするのは
違和感がありますし、関東入国に際して武蔵七党系の者が大量に採用
されたことはたぶんにあるはずです。我が家も、当初新田源氏の傍流
と称すも、将軍家に遠慮して「藤原秀郷系」としたそうです。
あやしい・・・・
715 :
日本@名無史さん:03/11/09 18:41
吉良家が自分の家の系図を将軍家に譲ったと言うのは
本当でしょうか?
716 :
いたい旗本の子孫:03/11/11 08:40
矢野内記こと浅草弾左衛門について
幕臣間での上記人物は鎌倉将軍家の血縁であり、実質数十万石の勢威を持つ
ことは知られていました。幕府が陸軍を作る際の将兵の供給源は、矢野家支配
からであったことも事実であります。江戸に戻ってきた近藤勇に兵隊・武器を
つけて甲州に行かせたのも矢野家ですし、江戸脱走時に資金供与を受けていた
形跡も旧幕軍にはあつたようです・・・確認資料なし。どうも、士農工商その
他と言う身分制もなにやらそれだけではないようですね。我が家の家伝でも、
矢野内記については何もないのですが・・・。
幕府管轄の関所の役人と言うのは旗本なのでしょうか?
教えて下さい。
718 :
日本@名無史さん:03/11/12 01:06
違います
等身大の歴史が見えていいスレですね。
鳥羽伏見や新選組に関わった先祖の話って関西ではわりと多いみたい。
720 :
いたい旗本の子孫:03/11/15 06:59
「人を斬るのが侍ならば恋の未練がなぜ切れぬ・・・」
子供の頃、見た映画で主人公が歌っていたもので何からだったか不明ですが
今回は抜刀について書き込みます。時代劇では頻繁に斬り合いますが、実際
は違うようです。幕府開闢以来、当家当主が抜刀したのは数えられるほど少
ないです。270余年で第2次長州征伐と吉原暴動鎮圧時の二回だけで、歴
代当主は抜刀したことはないと言われてます。武家諸法度にも、抜刀は死罪
とありますが少なすぎる・・・・と質問すると明確な答えはなかったのです
が・・・誰がお答えください。単純に江戸期の幕臣は、インフレに苦しみつ
つも当たり障りないお勤めをなし平々凡々と暮らしていた・・・天下泰平を
享受していたのでしょうか・・・。最近、当家の旧領にある古寺の記録を保
存すると言った事業に協力するため某自治体に当家の文書等を提供しました
が興味引く内容がわかりました。○元禄以降、当主は一度も領内に行ってい
ない○一揆を未然に阻止した形跡あり○名主に、相当年貢の中間マージン取
られていた等々です。まだ、歴史的裏付けがないので推測で書けない部分も
ありますが、今後詳細が判明することを期待してます。
人を斬るのが侍ならば
恋いの未練がなぜ切れぬ
のびた月代寂しくなでて
新納鶴千代にが笑い
「侍ニッポン」です。
名主・庄屋が百姓を搾取していた話も聞きますね。
佐倉惣五郎は稀な例だったから芝居になったのでしょう。
722 :
いたい旗本の子孫:03/11/15 20:47
素朴な疑問「江戸時代は天下泰平だったのか?」
前述した内容の中間報告のコピーをメールで頂いた。まだまだ不明な点もある
が結構えらい学校の先生に考証・検証してもらっているそうです。楽しみ・・
さて、善良なる閲覧者の皆さんに質問を提示したい。幕臣にとって本当に天下
泰平だったのか、そして実際の生活はどうだったのか・・・と。ちょっとネタ
振りです。
さて、文政年間、名主から当家執事の某に「不作につき年貢3割減をとする」
とある。領主ではなく、徴収責任者の名主が年貢の比率を決め領主に通知した
とある。しかし、その地方その時期不作を誘発するような異常気象等はなかっ
たので名主と執事の共謀による年貢の中間搾取であると当主は判断し、まず
執事を処断しようとしたところ、執事身の危険を感じ大公儀(目付?)に主君
失念(乱心との差異不明)と届け出、当主は隠居させられ幼少の末弟を持って
家名を継いだと言う。これをこの地方では、「○○騒動」○○は、当家の名字
です・・と言う。家伝では、こうなっていました。しかし、今回の調査でどう
も違うようだったのです。真相が。寺の記録から、当家の財政が破綻をきたし
そうになったので、執事を通して年貢の前借り・・1年で2年分取ろうとして
領民の総スカンとなり、名主と執事の協議により領民から年貢ではなく借金と
して物納してもらい返済のかわりに翌年からの年貢から返済するようにした・・
と言うのが真相のようです。しかし、名主と執事から一揆になりかねないと脅
された当主が、誰に言われるでもなく隠居してしまったと言うのです。
さて、どっちなのでしょう・・・・。
723 :
いたい旗本の子孫:03/11/16 14:38
「入国御遠慮願い」
組織が、うまく行ってるのはトップがリーダーシップを発揮しているか、逆
に何もせず部下に委任しているかと言ったとこですが、元禄以降領内に一度も
立ち入らなかったのは、歴代当主の意志ではなく名主ら現場サイドからの要望
によるところが大きかったようです。現在の近畿圏に領地をもらったはいいが
大坂・京都での勤務でもない限り領地に立ち入ることもなく、名主等の交代時
だけその年の正月に江戸で領内の責任者等の挨拶を受ける。当主が交代した際
は、名主またはその代理が来て挨拶していたようです。島原の乱前後に、領地
の実力者達の連名で「入国ご遠慮願いの儀」なる文書を受け渋々なのかどうか
当主は受諾したようです。時代劇的と言うかマルクス・レーニンの共産史観的
な搾取する悪逆な封建君主と搾取され苦しむ農奴と言う図式はあきらかに成立
しません。また、領内には鎌倉御家人の流れを組む豪農がおり、領主たる我が
家でも一目おいおり家重公の治世ではその豪農の娘を一旦 さる旗本の養女と
して改めて当主の正妻として迎えたこともあるそうです。それも神無月擾騒の
言う領内の揉め事の解決策として泣く泣く領主たる我が家が呑んだ婚姻だった
そうです。
「神無月擾騒」
当主死去に伴い、領内の実力者が葬儀に参列すべき入府したさい同行した上記
の豪農の子女にちょっかい出した新当主が葬儀の席で糾弾され責任を取る形で
結婚したあまりパッとしない事件。結局、私の直接的先祖である・・・・・。
ロシアでは貴族が地主であるのに対し我が国では
領主たる大名・旗本の下に地主・庄屋がいます。
両者の関係がどんなものだったか以前から気になって
いましたが「いたい旗本の子孫」氏の書き込みで
雰囲気が少しわかったように思います。
続き希望です。
主君押し込めとかありますからねえ…
726 :
いたい旗本の子孫:03/11/17 19:22
「我君臨すれど統治せず」
領内の政務は、名主と数名の豪農の合議により決定され、本百姓達の意見
が反映されたものであり苛烈な年貢取り立てや役務等も皆無であり人別帳に
記載されている農民たちにとっては比較的民主的かつ自由を謳歌していた形
跡があり、当時の天領や幕臣領地はこんな感じだったのでは考えています。
ただ、豪農たちに囲われていた小作人・・・農奴?にとっては苛烈かつ理不
尽なことを領主ではなく名主・豪農クラスはやっていたようです。戦前まで
タブー視されていたことですが、口減らしとして姥捨て山や人身売買のよう
なことは頻繁にあったようですし、初夜権のようなものもあったようです。
毎年春になると、領地からその年の農作物の収穫見積書のような物が当家に
送られてきた当主が花押して返送すると言う行為を幕末まで繰り返していま
した。その中で、「人馬売却」と言う項目があり、馬はわかるのですが、人
は・・・・人間だと思うのですが・・・。執事にある当主が「人馬」の意味
について質問したところ「殿様は、すべて知る必要はありません。公方様は、
天下国家について全て知らなくとも大公儀の威光は四海にわたっているでは
ないですか。知らなくともいいことと言うことは当家にもあります。」と言
われたそうです。当主は、私の五代前の先祖で、彼が私の曾祖父に語ってこ
とであり江戸後期〜末期の領内の実情を知る手がかりではと思っています。
727 :
日本@名無史さん:03/11/17 21:53
>いたい旗本の子孫さん
毎回のレス非常に興味深く拝見しています
そういう細かいやりとりまで伝わっているんですね
日本史の資料として一級品の価値があるのではないでしょうか
失われる前に是非まとめられることをお勧めします
いえ、希望致します
728 :
いたい旗本の子孫:03/11/21 19:32
「外様大名にまつわるタブー」
譜代・外様と言えども島津・毛利・山内・前田及び伊達以外は国替えの対象
であり常に取りつぶしの対象であるが、上記に上げた諸侯は幕府といえどおい
それと手をつけられない。つまり、江戸期純粋に治外法権だったのは一部の有
力外様だけだった。江戸初期、地侍や豪農が言うことを聞かず困っていたさる
大名は、宴会とかこつけて城内に招いた反体制的な地侍達を閉じこめ弓矢で皆
殺しにしたあげく彼らの勢力圏の農村を強襲して根こそぎ殺してそののち他の
周辺の村落から強制的に移住させ地名まで変えてしまった。さるルート・・・
柳生?からその情報を知った老中は、江戸城内でさりげなくその大名に真偽を
尋ねると顔色変えずに「いかにも」とだけ答えたと言う。もちろん極秘なのだ
ろうが、城内でも噂にもならず幕閣間の話題にも将軍の耳にもはいらなかった
と言う。将軍家と外様の関係も一筋縄ではなかったようですね。
追記
上記は、さる大名行列を見た時祖先が同僚から聞いた話だそうです。
なお、上記の名前を挙げた諸侯ではありません。上記諸侯の関係者の方の名誉
のため断っておきます。
729 :
いたい旗本の子孫:03/11/21 19:51
「旗本の夫婦」
子供の頃、古い写真を綴じた物が入っていた重箱が家にありました。当時
は特に意識しませんでしたが、上下姿、陣羽織や黒いスエット・・軍服?の
ようなものを着込んだ丁髷の男の写真を見つけ祖母の聞くと「私のじいさん
だよ」と言われた。祖父は、東北の豪農の出身の婿養子であり家名を守るた
め入り婿となったことや自分が武士の子孫であることを初めて知った瞬間で
もありました。なぜ、最近そんなことを思い出したかと言うと最近見た映画
に出ていたさる女優の方に見てその重箱からそっくりの女性が映った写真も
見ていたこと思い出したからです。ちょっと目がこわいとこなんかそっくり
です。その女性のことは祖母がなんと言っていたか覚えていません。ただ、
男尊女卑と言われていて江戸時代にあっても男女の一緒に写真に写っている
写真も数枚ありなぜか子供心にも好感を持ったように思います。たぶん私の
ご先祖夫婦だったのでしょうが、どんな生活をしてどんな話をしていたのか
写真を見る限りは「仲良し夫婦」だったと私は確信してます。
>730
クヮンノヒョウエ殿の御領内?
732 :
日本@名無史さん:03/11/29 00:43
age
733 :
日本@名無史さん:03/12/05 22:09
age
734 :
日本@名無史さん:03/12/12 22:33
いたい旗本の子孫氏待ちあげ
735 :
いたい旗本の子孫:03/12/13 21:29
「慶応の幕軍改革について」
ある資料を閲覧する機会がありました。慶応二年に幕府がフランスに注文
した兵器等の内訳です。小銃が約二万丁、軽野戦砲千門及び歩兵の個人装具
二万五千人分等々です。驚くことに、小銃は約10種類近くにもわかれ騎兵
用の小物まで詳細多岐にわたる購入品がありました。我々は、現在旧幕軍の
兵装を白黒写真でしか確認できませんが、ナポレオンの流れを組む煌びやか
な機能美を有する幕軍と言う一面もあったのではないでしょうか・・実際は。
フランス式の陸軍四万がしつかり編成装備化されていれば、薩長を押さえ列
国に対する抑止力になり得たのではないでしょうか?
736 :
日本@名無史さん:03/12/13 21:46
こと武器の購入に関してはフランスの方が良心的だったのかもしれない。
737 :
日本@名無史さん:03/12/13 23:54
そうですね。幕府による近代化もありえたかも知れません。
小栗、勝クラスの人材があと10人いれば、、、
738 :
日本@名無史さん:03/12/14 00:01
大久保一翁、永井尚志、木村芥舟、高橋泥舟、福地桜痴、長浜万次郎
山岡鉄太郎、高島秋帆、福沢諭吉
739 :
日本@名無史さん:03/12/14 00:05
永井尚志>三島由紀夫の先祖の一人
740 :
日本@名無史さん:03/12/14 00:06
741 :
いたい旗本の子孫:03/12/14 12:41
「兵要日本地理小誌」
上記は、明治初期 旧幕臣にして後に明治政府に出仕した中根香亭氏が記し
た地誌の先駆けです。原本は見たことはないのですが・・情報希望。
「慶応三年末の幕軍の一中堅将校の行動」
12月25日庄内藩士による薩摩藩邸焼き討ちについては、それ以前から庄
内藩及び町方(町奉行?)から浪士の狼藉は薩摩の謀略との情報を得ていた幕閣
はさしたる対策を取られなかったのが実情だったようです。さて、当日西の丸
屯所(駐屯地)にて、詰めていたところ「三田にて砲声あり」との情報を得た
ため出勤(治安出動)の有無を吟味していたところ、上役から幕府より押し出し
の支度(出動待機命令)があったそうです。生憎、指図役(大尉)クラスで屯所に
居合わせた者が皆無だけだったため、屯所の幕兵を指図したのは私でした。
結局その夜登城して、指図を待っていると大目付(滝川播磨守)より汽船にて大
坂に出仕し、上様(慶喜公)に上申すると言う。上申の文案は、儒学者に起案さ
せつつその場に居合わせた幕臣の意見が反映されており美文とはいいがたいも
のであり、誰がつけたのは汽船に乗る頃には、「討薩の表」と言うものになっ
てました。大目付の滝川さんは文官で、軍務については素人なんで陸軍から何
人かつけてくれと言うことになり、私も行くことになりました。ただ丸腰に行
くのもなんだから汽船に乗れるだけ兵を連れて行こうとなり、二百名ほど連れ
ていくことになりました。私は、本所から武器をできるだけ持って行きたかっ
たのですが急かされそれもできず、結局 本所の竹蔵にあったシャスポー銃は
使われず、江戸開城の際し薩長に押さえられて関東・奥州で東軍(奥州同盟)に
対し使われたのですから、皮肉なものです。28日、大坂城に入りことの顛末
が知れ渡ると「熱湯」のようになりました。いざ、上京となり大河内公松平正
質様を総督に、上京のための戦闘編成・部署を起案することになり実際上京の
ための指図は30日にはできていたようです。さて、「討薩の表」の主旨は、
12月9日以来の薩摩の行動は、陰謀をもって政変を起こし、兵を用い御所を
囲み、浮浪の徒を持って江戸で強盗する等々「天人共に憎む所」である。奸臣
の引き渡しを要求し、朝廷より誠意ふる解答ない場合は誅戮するでしてた。
742 :
日本@名無史さん:03/12/14 16:43
743 :
日本@名無史さん:03/12/14 16:49
鳥羽伏見の戦いのきっかけとなる薩摩藩邸焼き討ち事件が起こる
幕府内の情勢を書かれています。
744 :
日本@名無史さん:03/12/14 16:51
745 :
日本@名無史さん:03/12/14 17:30
おそらくこんな資料をもってるよ。
って自慢したいのでは。
746 :
いたい旗本の子孫:03/12/14 18:02
はは 文章力なくてすいません。
もう書かない方がいいみたいなので当分来ません。
いろいろレス付けていただき感謝です。
747 :
日本@名無史さん:03/12/14 18:07
眉間に三日月傷の旗本なんて居ないよ! 武士の面子丸潰れ。
無役だからって旗本が全国行脚できるわけないだろ!
旗本が長屋に出入りするわけないだろ!
748 :
日本@名無史さん:03/12/14 18:19
749 :
日本@名無史さん:03/12/14 18:21
勝小吉は若い頃、当主の身で家出して東海道を行脚してたし、
年食ってからは某旗本の領地のある大坂近郊まで旅行してるんだが。
市井の無頼の輩とも交際してたのも有名だな。
750 :
日本@名無史さん:03/12/14 18:31
751 :
日本@名無史さん:03/12/14 18:43
旗本には門限があるのだが。
752 :
日本@名無史さん:03/12/14 18:56
勝家は石高的には御家人クラスだが、身分は旗本だよ。
753 :
日本@名無史さん:03/12/14 19:08
>>746 どうかお気になさらずに。どのような書物にもないような
生の資料を毎回提示していただき感謝します。
他の人もいちゃもんつけるくらいなら一般的な
知識でもいいですから書き込んでください。
753=1です。
755 :
日本@名無史さん:03/12/14 19:13
>>753 同感。現代語訳までしてくれているのに失礼だぞ。744、745。
ただ、希少価値が高い史料をこのような荒んだ掲示板で出しても
徒労に終わる可能性があるかも、という懸念があります。
「いたい旗本の子孫」氏の話題についていける人はそれをベースに
議論すればいいし、1行ネタで楽しみたい人は短いレスだけ
読んでいけばいいでしょう。
個人的いは「いたい旗本の子孫」氏のレスは司馬さんの幕末ものを読んで
いるみたいなリアリティーがあって面白いと思うのですが、、、
757 :
日本@名無史さん:03/12/14 19:31
>220 :日本@名無史さん :02/11/24 18:18
>公家侍は士族、家老の家来は卒族、旗本の家来は平民・・・
ところでこれはどうなんでしょう?
758 :
日本@名無史さん:03/12/14 19:35
「いたい旗本の子孫」さんのようなソースを持ってる人は、
チャンバラなしの時代劇(例:フジの「大奥」)のような、
ヒットしそうな原石を持ってるようなもんですな。羨ましい。
過労の家来は平民えすよ。
公家侍は士族ですが・・。
760 :
日本@名無史さん:03/12/14 19:54
万石家老の家臣はどーなるの?
淡路洲本城代稲田氏の家臣とかは卒族だったよーな
それで士族になりたくて徳島本藩から独立しようとして
暴動になったあるよ
761 :
日本@名無史さん:03/12/14 19:58
家来といってもピンキリな気が・・。
762 :
日本@名無史さん:03/12/14 20:02
763 :
日本@名無史さん:03/12/14 20:13
公家侍は三代以上恩顧の者が士族、それ以外は平民。
旗本の家来も、主人が朝臣になった場合は公家侍と同様の扱い。
家老の家来はケース・バイ・ケース。
陪臣は卒族になった場合もあるし、朝敵藩では帰農して平民になっている。
764 :
日本@名無史さん:03/12/14 20:18
>763
ありがとうございます。
765 :
いたい旗本の子孫:03/12/14 21:11
今週は缶詰で仕事するので・・懲りずに少々
「鳥羽・伏見開戦前の戦闘計画について」(明治期新聞記者からの取材から)
主力は、鳥羽口の千余名(幕・桑)でして伝習隊(伝習1大隊:モデル部隊)
と5連隊の1コ大隊でして砲は10門以下だったように記憶してます。この
部隊が入京する2日前に兵糧があった大仏と武器を貯蔵していた黒谷に各2
コ大隊程度(黒谷には会津藩邸あり)が確保する。1日前に、二条城守備用に
2コ大隊が入京して、伏見口から主力(鳥羽部隊)の進出を掩護するため2コ
大隊程度が前進する予定でした。ただ、出発直前まで鳥羽から前進する予定
だった大目付(滝川播磨)が伏見にまわつたりバタバタしていたのは上も下も
一緒でした。ただ、ああなったため(鳥羽・伏見の2コ方面での遭遇戦)に黒
谷に行く予定だった勇将の佐久間さん(近江守・歩兵奉行並)がそうそうに戦
死したり、徳山さん(出羽守・二条城守備予定の1連隊の大隊長)とこか゛モ
タモタしてて鳥羽部隊に追いつかれてしまい幕軍の主力は、前衛部隊による
掩護のないまま前進して薩兵と押し問答となったり(結局は徳山大隊は壊滅
する)してました。私も、大坂で5連隊から12連隊に配置替えを命じられ
て上司・部下の顔をよくわからないまま伏見部隊にとして行軍することにな
つた次第です。ただ1大隊長の窪田備前守は佐久間さん同様幕軍の将星たる
人だったので特に不安はなかったと記憶してます。戦争(日清?)では、薩長
の将官達だらけでしたが佐久間さんや窪田さん達も生きてたら相当やれたと
思いますよ。ただ私も、長征には行っただけだったので実際銃火の中でどこ
までやれるかは甚だ不安はありましたよ。
>>765 何が言いたいの?
文章は簡潔に書きましょう。
>>766 またあなたですか、、、
>>765の「いたい旗本の子孫」氏のレスは細部の生々しい記述が
我々日本史ファンを魅了するのです。
長い文章が読みたくないなら他に読みやすいスレが沢山
ありますが?
769 :
日本@名無史さん:03/12/15 02:13
鵜のみはいかんよ
770 :
日本@名無史さん:03/12/15 02:19
>>767 >我々日本史ファンを魅了するのです。
ははは
魅了されてるのは君だけだろ?
771 :
日本@名無史さん:03/12/15 21:32
「いたい旗本の子孫」氏、是非スレ立てて。
ここは、荒らされつつある。
773 :
日本@名無史さん:03/12/17 13:52
「いたい旗本の子孫」氏は
『「いたい旗本の子孫」が好きなことを語るスレ』でも立てるべし。
>774
激しく萌え萌え。
>1を初めとする諸君
荒らしを相手にするのも荒らしですよ。
>いたい旗本の子孫さん
あなたの書きこみを楽しみにしている人もいます。荒らしはウザいですがここは2chですし止められません。
気にせず今後も書き込みのほうお願いします。
私は幕末に詳しくないのでとても勉強になります。
今後も「いたい旗本の子孫」氏の書き込みを歓迎します。
文句のある人はそれ以上の内容のあるレスをつければいい。
780 :
日本@名無史さん:03/12/20 13:15
ここは「いたい旗本の子孫と無知で思い込みの激しい厨房たちのスレ」ですか?
781 :
日本@名無史さん:03/12/20 13:20
>780
長いな(プ
782 :
日本@名無史さん:03/12/20 13:48
このスレ、終わったな(鬱
783 :
日本@名無史さん:03/12/20 18:33
784 :
日本@名無史さん:03/12/20 19:14
ここは「いたい旗本の子孫とあぽーんな厨房のスレ」です。
785 :
日本@名無史さん:03/12/20 19:18
フッ、このスレ、終わったな(諦観
大丈夫、どんなスレも一度はこれ位あれるものです。
「いたい旗本の子孫」氏さえ来てくれれば1000まで余裕です。
787 :
日本@名無史さん:03/12/21 22:08
正常化希望
788 :
日本@名無史さん:03/12/21 22:17
先祖が何某かの財産を残してくれたなら自慢もしようが、血縁がかすったぐらいではそんな気も起きん。
789 :
日本@名無史さん:03/12/22 00:20
k
790 :
日本@名無史さん:03/12/22 03:07
>>786 いつのまにか「いたい旗本の子孫とそのシンパのスレ」になったんだ?
もうそろそろ本人自ら「いたい」と名乗っていることの意味を考えよう。
791 :
日本@名無史さん:03/12/22 21:09
壮大なネタだったってこった。
792 :
日本@名無史さん:03/12/22 21:42
>>790 「いたい」がひらがななので、真意は本人にしかわからない。
「痛い」じゃなくて「遺体」「異体」「射たい」「居たい」「鋳たい」「板井」のどれかかもしれんぞ?
それを勝手に一つに絞るのは、おまいさんの壮大な思い込み。
793 :
日本@名無史さん:03/12/23 02:19
>>792 >おまいさんの壮大な思い込み。
おまいさんの壮大な思い込み。
794 :
日本@名無史さん:03/12/23 09:33
旗本筆頭は九千石の横山氏
795 :
日本@名無史さん:03/12/23 09:36
丹波の赤井氏など小豪族出身の旗本って
三河以来の譜代の旗本とは言葉遣いも違うのかな。
>>792 多分、「いたい」は、旗本に係るんだと思うのだが。
つまり『【いたい旗本】の子孫』とするのでは。
797 :
日本@名無史さん:03/12/23 12:00
いたい[旗本の子孫]
じゃないの?
798 :
日本@名無史さん:03/12/23 13:52
平 安 時 代
この時代は「太刀」が主流ですが、この時代のものは刃が先端部分より柄側の方が太く、全体的に細い造りです。
反りにも特徴があって、「腰反り」といって腰元で一番反りが強調された形です。刃紋は大人し目の「直刃」「丁子」で、
全体的に優美なイメージを受けます。 ちなみにこの時代の刀剣から「日本刀」と呼ばれる様になります。
日本刀と呼ぶ為の条件は「複合鍛え」「焼き入れ技術」「反り」「鎬造り」これらが全て完成している必要があります。
有名な刀工には安綱、行安、行平、一文字則宗、助宗等がいます。
799 :
日本@名無史さん:03/12/23 13:57
800 :
いたい旗本の子孫:03/12/23 18:24
ん・・・いたいは単に「ダメな」的な意味で使ってまして壮大なネタふり
ではないです。ここ一年近く断続的に書き込ませていただきましたが、ここ
がなくなるまでは書き込ませてください。そのあとは自分で立ててみようか
な・・と思ったりしてます。
私の書き込みは伝承家伝、先祖の自叙伝の原稿及び旧幕臣の記録等を多く所
有している知人から得た話が主です。煽るつもりはないですが、市井にはま
だまだ多くの旗本の資料があるはずです。私の書き込みをねじ伏せるような
貴重な資料の開陳を期待します。
801 :
日本@名無史さん:03/12/23 23:38
>800
いたいさん 頑張って下さいね
ウチの文書は 戦争で焼けてしまったらしいので・・・
802 :
日本@名無史さん:03/12/24 03:19
>>794 意味わからんけど、石高だったら近藤家とか横田家の方が多いのでは?
803 :
日本@名無史さん:03/12/24 03:20
>800
つまり「小説」ですね。
804 :
日本@名無史さん:03/12/24 09:12
805 :
日本@名無史さん:03/12/24 12:34
>>804 802ではないが、近藤家はわからんが近藤登之助の家だったら初代秀用は大名だったし、その後は5450石くらい。
表高は武田二十四神将の子孫横田家は9500石でもっとも高い。
794はおそらく横田家の間違い。
>>800 八万旗だけに800ゲットですね。
次スレは貴兄が立ててください。
>805
近藤登之助家の初代で田植え中に権現様にお目見えした
あの人ですか?
大名から旗本て改易くらったのでしょうか?
改易くらったら平民やがな
809 :
いたい旗本の子孫:03/12/24 20:35
「鳥羽伏見戦後(慶喜公退城後)の大坂城内の状況(バックステージ)」
大正期隠棲していた祖先は、近隣の学校に去る歴史学者が来て戊辰戦争
の講演を聞きそのデタラメさに憤激し後日友人(地方紙記者)に語った内容
の一部を書きます。
慶喜公が、近臣とともに逐電同様に退城したことは承知のことと思いま
すが、公の行動は今考えればその兆候はありました。大坂に戻ってきた私
は同僚と残兵収容に奔走してまして・・特に12連隊は大坂周辺で徴募し
たので勝手に家に帰った者も多く非常に苦労しました。夜ウトウトしてい
ると奥詰銃隊(旗本の師弟で構成された将軍家親衛隊でナポレオンの近衛
隊をモデルとしていると言われていた)にいる遠縁の者が詰所に入ってき
て「上様、老中の松平豊前守、陸軍奉行竹中、若年寄塚原・永井を召し
何か沙汰あり。お城は尾州・越前両家に託し、残兵解散の様子。竹中・塚
原両名語気荒く再戦を進言するも公は江戸で再起の一点張りで奥詰銃隊・
撤兵隊の投入認めず。」そんな話を聞いているうち朝になってみると公も
会・桑両候も退城になっていることを知り多くの者は狐に化かされたよう
な感じになってましたが、奥向きに通じていた者達にとっては「やりやが
った」ってな感じでした・・・笑。
つづく
810 :
いたい旗本の子孫:03/12/24 21:02
つづき
公の達しは、残兵解散とともに大坂残留者の指名をありまして、総
司令官たる大河内松平豊前守、副司令官で実質的な実戦指揮官の竹中
さん、そして大目付の滝川さんと一緒に「討薩の表」を持ってきた塚
原さんに残留するよう命じています。兵を解散させながら司令部の幕
僚達のみ残すとはどういう真意があるのか皆目検討つきませんでした。
ただ恭順派の永井玄蕃頭も残りました。塚原さんと城内で会うと「慶
喜公退け御三卿からしかるべき君を立て大公儀の興廃を決す」と言う。
夜、松平豊前守を首班とする軍議がありまして慶喜公の真意は、鳥羽
伏見の敗戦の責を問うため松平・竹中・塚原らに残留を命じた。真に
忠勇の士のみで大坂城に立て籠もり討ち死にすべしと言う言あり。誰
の発言はわかりませんが軍議の空気重くその線(幕軍の一部による籠
城)に傾きつつある中、永井玄蕃から老中板倉伊賀守の伝言が開陳され
(無駄死にするなと言う意味らしい)一挙に全員撤退に傾いていくこと
になる。1月8日総督たる松平豊前守が軍艦で江戸に向かうのと前後し
て多くの将兵は大坂を後にします。塚原さんは、あくまで徹底抗戦する
意志を持っており洋式軍隊の士官約10名ほどを呼んで・・私もおりま
した・・「陸軍(洋式軍隊)で城内にいる将兵で一戦交えたい」と言い
ました。我々も必勝の策もないため誰も無言でいると、一番年少の某(某
外様大名の分家にあたる旗本・・彼は養子であり当該大名家の血は引い
ていない)が、「敗軍の将、一度ならずも二度も兵を損なうか」と塚原さ
んを罵倒しました。
つづく
811 :
いたい旗本の子孫:03/12/24 21:28
つづき
結局、塚原さんもあきらめした。あのまま籠城してたら私も切り死にして
たでしょうね・・笑。さて、強硬派の塚原但馬守には後日談があり紀州から
幕府が雇った船に乗ろうとした所すでに乗船している会・桑の将兵や新撰組
らに乗船を拒否されたそうです。強気なのもどんなものなんでしょうね・・。
さて、いつの間にか目付の妻木さんが城内に残り薩長が来たら城を明け渡す
と言うことになりました。ただ残留しているのが文官ばかりだと心細かろう
と言うことになり洋式軍隊のうち性根の座った半コ大隊約100名が残ると
言うことになりました。私も残ることになりました。目付の妻木さんは、淡
々とした人物でして、「薩長を刺激すると行けないのであんたらも江戸にか
えんなさい。」と言われて私も当時は本気で江戸で再起を信じていたのです
が、実際1月7日の解散命令直後に私も同僚・部下70名余りと退城しまし
た。
と言った感じでした。慶喜公の深謀遠慮と言うよりは責任逃れ、徹底抗戦を
叫びながらも腰砕け、敗戦らよる不調和音・・・本当はもっと滅茶苦茶だっ
たのて゛はと思えてなりません。長々と書いてすいませんが、記録は更に江
戸への後退記と続きますが長すぎるのでこれくらいにしとかないとまた、お
しかりを受けそうなんのでこの辺にしときます。
812 :
日本@名無史さん:03/12/24 23:55
「株式でもうかり、預金だけで1億円ある。若くしてカネを持つと目的意識がなくなってつまらない」
男なら一度言ってみたい。
813 :
日本@名無史さん:03/12/25 03:14
>>807 出仕の経緯はよくわからないが、大名から旗本になったのは遺領を配分したから。
近藤家はもともと結構な大身だったと思った。
814 :
いたい旗本の子孫:03/12/25 23:06
「大坂城放火の犯人は?」
鳥羽伏見に敗戦により早々に江戸に戻った慶喜公とそのあとを追い幕軍も
東走しましたが、薩長の大坂城確保前後に突如大坂城内に火災が発生し天下
の名城は灰になったのは承知のことと思いますが、旧幕側で当時通説になっ
ていた話を先祖も聞いていたらしくこんな話が残ってます。
五稜郭に行ってみると結構余裕が出てきたようで、鳥羽伏見の戦いについ
ても相当情報が共有化されていたようです。ある日酒の席で、さる譜代大名
の家臣で脱藩参戦した者が酔いに任せて「大坂城放火は自分の勇み足であっ
た。太閤から続く天下の名城を消失させたことは痛恨の極み」と吐露した。
同席した者は、酔いの勢いと相手にしていないと、放火についての詳細な計
画を滔々としゃべり出す。周囲の者は、ことがことだけに他言は無用とする
も翌日には、五稜郭の相当数の将兵が知っていたそうです。上層部からは特
に沙汰なく、自称「放火の主犯」は五稜郭降伏前後に消息不明になりその真
相は不明になったそうです。
815 :
いたい旗本の子孫:03/12/25 23:14
つづき
旧幕側の公式見解は・・明治以降・・残留全権の目付 妻木多宮が
断固主張したように幕側の放火ではなく、自然発生的な火災としてい
ます。大坂城の消失は、旧幕側が本当に江戸再起を企図するなら、大
坂城を焼くことにより薩長の大坂城の使用を阻止すると言うねらいと
言えなくもないですが・・・。少なくとも鳥羽伏見以降も巻き返しを
旧幕側がねらっていたと言えないでしょうか・・・。
816 :
日本@名無史さん:03/12/26 02:47
>>814 スレ違いだろ。
それともやはりここは『「いたい旗本の子孫」のスレ』なのか?
>それともやはりここは『「いたい旗本の子孫」のスレ』なのか?
「いたい旗本の子孫」の書込みへの論理的な指摘・討論をできる環境を持つ人が
このスレに参加しない限りにおいてはそうかと。
殆どの日本史板住人は論理的ツッコミの手段がないと思います。
・・・今、我々にできるのは、相づちだけです。
818 :
日本@名無史さん:03/12/26 11:18
>817
意味わからん。
旗本八万騎スレに無関係な814−815のようなスレは論理的も何もスレ違いだろ?
819 :
日本@名無史さん:03/12/26 11:33
>>818 いいんだよ。
この日本史板、スレ違いや板違いのレス多いんだからw
820 :
日本@名無史さん:03/12/26 11:35
>>818 すれ違い気味なのは同意するけど、ネタとしてはおもしろかったよ。
ただ、肝心の人物を「ある人物」とかにしている時点で
まったくバリューのない芸能人のイニシャルトークレベルになって
学問板としては不適当なレスになってるよね。
せめて、類推して誰なのかかけなければね。
821 :
日本@名無史さん:03/12/26 12:10
>>820 いいんだよ。
いたい旗本の子孫のネタなんだからw
822 :
日本@名無史さん:03/12/26 12:11
>>820 いいんだよ。
それをよろこんでいるDQNがいるんだからw
>>821-822 そういうものなのか(笑)
その話(そういう巷間説がある)が本当だったら、それはそれで、
おもしろいエピソードとして伝えられる内容ではあるんだけどね。
まぁでも、学問と云うより、文学の守備範囲ではありそうだね。
824 :
日本@名無史さん:03/12/27 03:06
古見森氏について教えて
825 :
正常化希望:03/12/27 11:25
いたい氏もいいが、他の幕臣の子孫や研究家の書き込みも希望。
ただ、いたい氏は否定しませんので引き続き書き込み希望。誰で
もいいので面白いの書いてほしいのが最大公約数の意見では?
826 :
日本@名無史さん:03/12/27 13:35
面白ければスレ違いもOK
面白ければ荒しもOK
>面白ければスレ違いもOK
同意
>面白ければ荒しもOK
なんでやねん
いたい旗本の子孫氏の書き込みと、私の郷里の殿様の話は、かなりかぶ
っています。もし同一人物(領主)なら領地は、S県で姓はTかHで、江
戸中期まで名門S井氏の縁者としてS井氏を名乗り、同家出身の大老が失
脚した後、T姓に復帰しているはず。いたい旗本の子孫氏の書き込みにあ
るよう武鑑等では、自称藤原氏になっているが陰家紋として一引両と新田
氏を思わせる形跡があります。いたい旗本の子孫氏は、彼らの一族か?
それともなんだかの方法で彼らの記録を入手してここで書き込んでいるか
?
>>828 「いたい旗本の子孫」に対する、まともなツッコミが
初めて出たような気がする・・・。
いたい旗本の子孫氏の書き込みが開始されてから、気になって調べて
いたが、領地経営等については、S県の教育委員会監修の「幕藩体制下
でのN地方(昭和初期の物で原本なく、Googleや国会図書館にもない)」
最近頻繁に書き込まれている戊辰ネタは、「T氏戊辰顛末記(抜粋のコ
ピーはゲットできた)」に似たような記述があるが、ここの書き込みの
方が詳しかったり生々しかったりするため(若干の相違点あり)今一突っ
込めないが・・。
どうです?「いたい旗本の子孫」氏。
「いたい旗本の子孫」はまだですか(´・ω・`)ショボーン
832 :
いたい旗本の子孫:03/12/29 23:10
直参太郎氏へ
828への回答
当家は、御指摘のとおりT姓です。駿河大納言忠長公に仕えていたおり公
から、徳川四天王にあやかるべしと酒井姓を名乗るよう命じられその後、酒
井氏の縁者となり酒井雅楽頭家に連なる者となりましたが、綱吉公の将軍就
任前後も禄を削られ幕末まで無役となります。T姓については家綱公の時に
幕府に申し出て復姓したことになっています。私は、直系の子孫で歴代当主
の逸話は、やや誇張されその地方の寓話に取り入れられていることも承知し
ています。いやー、2チャンネル恐るべし・・・わかるもんなんですね。
833 :
いたい旗本の子孫:03/12/30 09:00
家綱公→家継公の誤りです
母方の先祖は三河以来の直参旗本だった。将軍家に直接お目見えが
できたことを誇りとしていた。曽祖父は最後の幕臣で慶喜公に従って
静岡に移住したが、仕事に失敗して、東京に戻り、困窮の中に
生涯を終わった。武士であったが人を斬ったことはない。時代劇は
誇張である。ただ、当時のエピソードがある。ある店で侍の顧客が帰った
ところ、小僧が別のことで笑った。するときびすをかえして戻ってきた
侍は小僧を斬り伏せた。誤解ではあるが、武士は笑われることには
敏感で、絶対に許さない。もちろん侍は逮捕されて重罪に問われた。
新井白石の「折焚く柴の期」を読むと侍の気概がわかる。
835 :
いたい旗本の子孫:03/12/30 11:43
直参太郎氏へ
829への回答
明治○年記念とか元勲の回顧録とかの便乗して旧幕時代の体制側の資料を
編纂して出版された「旧幕府」が出てから旧幕側の生の声も封印解除となり
多くの出版物が出ました。発行部数も少なく余りにも反明治政府の内容のた
め発禁になった「旧幕言行禄」?(未確認)と言うものがあり、「戊辰顛末
記」の種本と言われています。ただ、どっちが元祖でどっちが引用(ぱくった
)のかは不明です。また、当家には地方紙記者の取材を受けた際の筆記録(原
稿?)と称する文書の写ししかなく当家独自の記録とは言い難いのが現状で
す。
漏れも
>>834の常連化キボンヌ。
出来れば「いたい旗本の子孫」氏同様にコテハン(※)で。
※コテハン=固定ハンドル名
838 :
日本@名無史さん:04/01/01 03:20
俺の家も三河以来の直参旗本。
大番頭とかについてたこともあるみたい。
とか書いて常連になるよw
839 :
日本@名無史さん:04/01/01 03:44
age
曽祖父は直参旗本でした。事情があり12歳で家督を相続し、大奥に少年時代
仕えました。
大奥に仕える奥女中は宿下がりといって、定期的に実家に帰りましたが、
その際は朋輩が2,3人がついてきて、監視していたそうです。
御殿の秘密を話さないようにしていたわけです。テレビの時代劇では1人で
宿下がりをしていたので、高齢の母が「違うね」といっていました。
841 :
竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/01/01 13:05
>>834 そんなんで人を斬るのか? ヤクザ並やのう ひいこわ
>>840 男子禁制の大奥に少年とは言え、男が入ってもええんですか?
842 :
日本@名無史さん:04/01/01 14:23
子供時代の勝海舟が親類の伝手で大奥に出入りし、
それがきっかけで家斉将軍の孫の遊び相手になったという話はある。
843 :
日本@名無史さん:04/01/01 14:40
>>842 つまらない、という理由でやめた遊び相手だがな。
844 :
日本@名無史さん:04/01/01 14:58
単に年齢制限に引っかかったからじゃないのか?
その孫(一橋慶昌)の近臣として仕える予定が、慶昌の急死でダメになって、
小吉が残念がったという話もあるし。
845 :
旧幕臣の血脈:04/01/01 18:36
いたい旗本の子孫から、コテハンを「旧幕臣の血脈」に変更します。
特に深い意味ないです。さて、私事ですがスレをなぜか立てられません。
戊辰ネタは、やや主旨と違うのでできれば戊辰戦争のスレがあれば移行
したいと考えてます。と言うことでちょいと戊辰ネタを・・。
「軍配書による命令下達の時期はいつだったのか?」
軍配書は、平たく言えば討薩長作戦計画であります。作戦の概要につい
ては、古くは「慶喜公伝」や昨年発売された「幕府歩兵隊」に記載されて
いるので割愛しますが、いつ幕軍諸兵に下達されたか未だ不明です。私の
祖先は慶応4年1月1日昼過ぎと言っていたそうですが・・正月なのでち
ょっと時間があったので考察してみました。まず同書の起案時期について
ですが、慶応3年12月28日〜慶応4年1月1日と絞れます。
理由としては、1 京都での武力対決回避のため旧幕軍は、慶応3年12
月13日に大坂に移動しているがいつでも上京できるとの判断から大坂〜
京都の要所には必要最小限の兵力しか配備していない 2 12月17日
時点、伏見奉行所(新撰組含む幕軍千余名)や、淀、山崎、八幡に配備され
た幕軍3百弱および枚方にいる戦術予備の撤兵隊3百強に対して特に命令
が下達された形跡はなく彼らも積極的に戦術行動した形跡もない 3 江
戸での薩邸焼き討ちの状況報告と討薩の表の起案書を携行して海路大坂に
大目付滝川播磨 勘定奉行小野内膳 塚原但馬らが着いたのは12月28
日昼過ぎ 4 上京して京都を制圧開始を慶応4年1月3日とし、前日2
日には幕軍は大坂から出発して行進縦隊のまま前進している。戦術的尺度
から、1万以上の軍隊(師団?)に行進命令および攻撃命令を下達して戦闘
準備に掛かる時間は、旧軍で半日、陸上自衛隊では1日必要とあることか
ら幕兵、会桑等の参戦諸藩に対して軍配書の伝達・細部調整及び徹底には
最低1日必要だったのではないでしょうか・・。コピー機も無線機もない
時代ですし・・・。上記から同書は慶応3年12月28日夜〜慶応4年1
月1日朝までに起案されたと推測できます。遅くとも年内には起案〜下達
〜戦闘準備は完了できていたのではないでしょうか
846 :
日本@名無史さん:04/01/01 20:44
>>845 文が無駄に長い。
段落をつけるとか考えよう。
847 :
日本@名無史さん:04/01/03 21:09
>>845 右筆は何人もいるし、細かい指示は口頭で行うから、
トップダウンの命令にはさして時間はかからなかったはず。
848 :
旧幕臣の血脈:04/01/03 22:05
前回は酔っ払いながらの書き込みなんでグダグタの文章になって
すいません。やっぱりスレ立てました。そっちにシフトします。
今までいろいろ指導いただきありがとうございました。
>>848 新スレ立てられましたか。またこちらもひいきにしてください。
あぼーん
851 :
日本@名無史さん:04/01/09 00:55
しなやかにage
しなやかにsage
853 :
日本@名無史さん:04/01/10 20:40
ネギだく頼む勢いでage
主力選手が抜けた穴はあまりに大きいな・・・。
855 :
日本@名無史さん:04/01/11 01:20
次に徳川二百六十年間を支えてきた要素を挙げてみたいと思います。
まず、「小さな政府、低い税金」です。年貢(ねんぐ)は綱吉公のころには天領で三公七民になります。
江戸、大坂の町民は年貢ゼロでした。インフラ、公共財は発達し、教育水準、モラルは非常に高かった。
文化文政のころには江戸の町人男子の70−86%が読み書きができ、女子では25%。
これは、当時の英国一般男子の20−25%と比べても、驚くべき数字だと言えると思います。
武家の連座制に見られるような重い責任感、高い衛生管理、完全なリサイクル社会、二百五十五校もあった藩校での人格教育、
現在の小学校並みの約二万もあった寺子屋など、どれを取っても、その文化的水準の高さは世界に誇るに足ります。
最後に、この時代は身分社会ではあっても、場を変えれば武士と町人が平等な付き合いもできましたし、
そういう柔構造の中で自由な精神が育っていたということを申し上げたいと思います。
856 :
日本@名無史さん:04/01/11 09:23
858 :
日本@名無史さん:04/01/11 13:05
>>592 今川氏を中心に江戸幕府高家を調べている者ですが、
「今川刑部(今川範叙)」についてご存じの事とか
ありましたらお教えいただけませんか。
高家でありながら唯一、若年寄になり、
勝海舟らとともに徳川慶喜の助命嘆願を朝廷に訴え、
維新後は觸頭になるも、没落して今川家最後の当主となる人なのですが。
今川氏については、特に書き込むべき情報を有していません。直参でも
小栗 滝川 小野 塚原各氏が強硬派として有名ですが今川氏については
そこまでイデオロギー化していたかは確認できません。高家は、役職に就
けない・就かないのが定説ですが、先祖の伝承に「吉良上野介」は若年寄
を欲していたと言う当時の異説を殿中で聞いたと言う短いものもあります。
幕末期の人材重視策のための登用なのでしょうが・・・・。
伝承によると「討薩の表」の起案者の一人と先祖はしていますが、私の調
査では私の先祖も今川氏の直接的には関与していないようです。純粋に事
務方だったのでしょうか?
>859
元いたい旗本の子孫様。お立てになったスレのURLをば
ご教示ありたし。
>>859 ありがとうございました。
範叙が高家と若年寄を兼ねる事ができたのは
やはり人材重視のためだと思われます。
討薩の表も仰るとおり、事務方だったのかも知れませんね。
ところで範叙とともに討薩の表の起案者とされている
塚原但馬と服部筑前というのは若年寄を勤めた、
塚原但馬守昌義と服部筑前守常純の事でしょうか?
質問ばかりで申し訳ないですが。
862 :
日本@名無史さん:04/01/11 15:57
大政奉還後は、大名は国元に帰り、老中・家中職をいっさい放棄したため
高家だの旗本だの御家人だのいっていられる状況ではなかった。
また、小ずるい旗本御家人たちの中には、12-3最以上の子供にとっとと家督を譲り
隠居してしまうような腰抜けが多く、戦といっても役にも立たず、
政治といっても役に立たないような奴も多かった。
実際最後の1年は動乱もいいところで、石高に関係なく、
実力で役職に就けていたモノの、実際に薬療を受け取る暇もなく
江戸開城を迎えているはず。
863 :
日本@名無史さん:04/01/11 15:58
誤字訂正
12-3最以上→12-3歳以上
薬療→役料
861>
その通りです。殿中では、とても対等に会話できなかった先祖も
明治以降その手のしがらみから解放されたのか、単に気が大きくな
っていたのか旧幕臣の多くを同僚・部下扱いのように言ってきたよ
うです。滝川 塚原らのタカ派に属していたように言っていました
が明治・大正期には勝 大久保らに少なからず援助を受けていたよ
うで、分家の者は新政府に再就職を世話してもらっていたようです。
今資料を捜してみますが、高家でも山名 畠山 今川氏らは徳川家
が源氏を称していることからも幕臣間でも畏敬の念をもって見られ
ていたと言った伝承しかないですね。
866 :
日本@名無史さん:04/01/12 15:17
五百旗頭さん
さてなんと読むでしょうか?
867 :
日本@名無史さん:04/01/12 22:55
いおきべじゃないか?
868 :
日本@名無史さん:04/01/12 23:08
869 :
日本@名無史さん:04/01/13 20:58
いおきべは、けっこう有名だよな。
870 :
日本@名無史さん:04/01/13 23:26
いおきべって旗本いたのか?
871 :
日本@名無史さん:04/01/14 20:01
age
872 :
日本@名無史さん:04/01/18 20:56
旗本奴、水野十郎左衛門
873 :
日本@名無史さん:04/01/19 12:53
874 :
日本@名無史さん:04/01/21 01:15
age
875 :
日本@名無史さん:04/01/21 02:11
何が八万旗だよ、役立たずどもめ
876 :
日本@名無史さん:04/01/21 02:30
薩長が攻め寄せてくるというのに屋敷にこもって震えるしか能のない連中
877 :
日本@名無史さん:04/01/21 21:18
そりゃ仕方が無いな。
家康のころの旗本、即ち建国時の参画者と
たまたまその子孫に生まれたというだけで、特権をむさぼるしか能の無い連中。
初代と幕末期の子孫とは環境が違いすぎる。
だから、徳川の世は終わった。
この構図は、古今東西変わらない。
現代の日本も似たような状況にあるんじゃないか?
明治維新時の帝大出の官僚が、開幕時の譜代大名や旗本とすると
今の官僚は地位にあぐらをかいてる幕末時の旗本にみえる。
878 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:24
>>876 旗本でもがんばった連中もいるじゃない。
逆の立場だったらお前は一人、外に出て戦えるのか?
879 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:28
がんばった連中も多いんだがな。
彰義隊はともかく、五稜郭にこもった連中とか。
ていうか、あまり詳しくもないようなのでレスするだけ無駄だと思うけど。
880 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:33
彰義隊は情けなかったらしいね
881 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:37
そういや薩長の兵士の中にも夜盗強盗の類が多かったな。
江戸無血開城後に、勝が軍資金何万両も隠してると信じて、
勝邸に乱入したあげく、壁だの床だの打ち壊して帰っていった
馬鹿共がいるらしい。
882 :
日本@名無史さん:04/01/21 22:39
彰義隊は頑張ったよ。大村の奇策がなければ薩摩兵は全滅してた。
いや、大村の本音は
「薩摩は全滅してくれて当然です。」だろ。
884 :
日本@名無史さん:04/01/22 00:45
彰義隊と共に戦った各藩の隊もあるね。
>878
そういう奴等もいたな。
榎本とかな。
しかし、俺が思うに、300年近く大身旗本だ、従五位だ、布衣の大身だの
いい生活をさせて貰ってた奴等はとんずらこいて、昨日まで幕臣じゃ無かった
勝だの、多摩の百姓だった近藤や土方だのの新参物が頑張った傾向があるだろ。
例えば旗本筆頭の横田はどうした?
近藤登之助の近藤家はよ?
宇喜多旧臣の花房は?旗本の中核はこの大身連中じゃないんか?
こいつらの中にはちゃっかり明治政府に入り込んだ奴もいるんじゃないか?
小栗上野介はあの世でこいつらに何て言ってんだろな?
小栗はきつい性格だったらしいから、こいつら俯いてるしか無いかもな。
あ、ちなみに俺は876じゃないんで。
886 :
日本@名無史さん:04/01/23 00:35
age
887 :
元いたい旗本の子孫:04/01/23 01:20
大坂を捨てて逃げ帰った幕臣でも高級旗本の多くは、汽船で帰ってきた
ため1月13日の時点では、「大局を見て大坂に再度進出する」と言う旧
幕側の公式見解が出された。和戦どちらになるかわからない表現だったた
め鳥羽・伏見での敗北の責任も曖昧にされようとする空気が江戸城内には
あった。実戦指揮官たる陸軍奉行の竹中、大目付の滝川、勘定奉行の小野
らもお咎めなしと言う雰囲気を一掃したのは和平派の勝・大久保ラインで
はなく抗戦派の小栗である。慶喜公が江戸に帰ってきた1月12日から終
戦内閣たる勝・大久保体制が発表された23日までの10日間において、
鳥羽・伏見参戦者の滝川・小野・塚原・竹中らの発言力がほとんどなかっ
たことに当時城内で言われていた下記のような噂がある。
「老中主宰の軍議で、徹底抗戦を叫ぶ竹中らに和平派が押されている中、小
栗さんが入ってきた。抗戦派は、小栗さんに援護射撃してほしくて話を向け
ると小栗さんは「まず貴殿らの身の処し方が評議されるべきでは」と冷徹に
言い放し退場したと言う。罰悪くなった彼らも黙ってしまい待ってましたと
勝が和平案をまとめてしまった」
私の先祖は、陸路帰ってきたため江戸に着いたのは1月下旬であり、大鳥圭介
の小田原藩工作に従事していたおり大鳥から聞いた話として伝承です。
888 :
日本@名無史さん:04/01/23 01:47
そのころ小田原に行ったのは伊庭か人見だけだろ?
889 :
日本史@名無史さん:04/01/23 06:25
887 888>
遊撃隊が箱根で戦ったのは五月で伊庭が隻腕になったのは18日だったのでは・・・・。
幕命で、箱根関所厳守を命じられたのは鳥羽・伏見直後だが、小田原藩が煮え切らないので
大鳥が工作したと本人の自叙伝的な「幕末実戦記」とあり。小田原藩の帰順は、2月23日
なので大鳥の工作は1月中旬から2月中旬のはず>ソース 戊辰役戦史(上) 大山柏著から
890 :
日本@名無史さん:04/01/24 00:22
老中とか御三家がふらついている時点で仕方ないのかな
まあ 直参旗本って名乗りは泣けるね
そういえば、5000石の旗本だったと思うが、吉原の遊女に引っかかって
5000石パーにした馬鹿いたろ。ある意味神だけど。
何ていう旗本だっけ?
知ってる人いない?
892 :
日本史@名無史さん:04/01/24 23:43
891>
「藤枝外記」です。「君と寝よろか、五千石とろか・・・・」の方ですね。
19歳の花魁と心中した28歳の大身の旗本青年ですね。親類に座敷牢に
入れられ脱出したあと心中そして御家断絶でしたよね。旗本でも吉原通い
できるものは一握りなんですよね。三千石以上の大身でないと頻繁に行け
なかったそうです。
>892
おう、はやい回答ありがと。
でもさ、吉原の遊女もピンきりじゃん。
安い遊女でもそんなにしたんかね?この藤枝君の買ってた遊女って
どれ位のランク?
これいつ頃の話だっけ?
また、心中した香具師って死体曝されるんよな、確か。
大身旗本でも扱いはいっしょだったんかな?
質問ばっかでスマソけど知ってる範囲で宜しく。
ランクは、わかりません。
天明5年(1785)の出来事で、後に「箕輪心中」と入った劇になってます。
藤枝家では、元々この外記の放蕩を幕府から注意されていたため心中したこと
を隠蔽しようとした所、噂を聞きつけた幕府から詰問されこれを認め御家断絶
となりました。なお、芝居の中に出てくる幕府の目付役の役名にTなる登場人
物あり。いたい旗本の先祖氏との関係はいかに?
895 :
元いたい旗本の子孫:04/01/25 14:00
ん・・・箕輪心中に出てくる詰問使とは関係ないです。たぶん・・笑。
896 :
元いたい旗本の子孫:04/01/25 14:15
藤枝外記ではなく、藤枝家に幕府としては遠慮したのではないで
しょうか?まずこの藤枝氏ですが、現存する資料等から俗に言う
「蛍大名・旗本」ぽっと出に属します。家光公の御台所鷹司氏の
次女として江戸に入り家光公のお手つきとなり、甲府宰相綱重の
ご生母となった娘のつてで藤枝家は、甲府家に仕え綱重公の子綱
豊公が家宣公として将軍家を継いで直参になったはず。天明と言
えば家宣公の治世ゆえ縁の家たる藤枝家には幕府も気を遣ったの
ではないでしょうか・・。その外記は、確か6代目か7代目で直
系ではなく徳山家からの養子だったと思います。家宣公自身が外
戚を廃したとか、紀州公が将軍継嗣を見越しての陰謀なんてこと
はないんでしょうね・・・実際は。
897 :
元いたい旗本の子孫:04/01/25 14:16
次女じゃなくて侍女です
ひさしぶりに来て見たら結構釣れてたんだな
寝がけに一言書いといたら悔しがる奴の多い事多い事
>>879 江戸で頑張らなきゃ何の意味もねえよ馬鹿w
なーんだ、筋目の武士じゃないってのか。
んなら潰れてもいいよな。
こういう奴の方が痛い旗本だろ?本当のいみでさ。
天明の飢饉の頃じゃないかよ。
こんな時期に女と乳繰り合って挙句の果てに心中ってのは、虫酸が走るな。
民百姓は食う物も無く野山彷徨ってるのにさ。
それに、5000石なら家臣も100人や200人位いた筈で、自分が馬鹿やってあぽーん
したらこいつらとその家族は路頭に迷うだろうに、そんな事もわからないなんざ
人の上に立つ資格なしだな。
今も昔も、馬鹿が上におって大勢が迷惑するちゅう構図は変わらんな。
自分さえ良ければいいって奴は、公権力及びパブリックなものと離れたとこにいるべきだな。
>892、いたいさんありがとな。
それと いたいさん、天明って家宣の頃じゃないだろ?
この頃の老中って田沼じゃ無いのか?
900 :
日本@名無史さん:04/01/25 18:03
>>899 江戸には被害出てないけどな。飢饉では。
901 :
元いたい旗本の子孫:04/01/25 18:16
899>
そうですね
間違いです。家治公の治世ですね。
902 :
日本@名無史さん:04/01/25 19:36
age
903 :
日本@名無史さん:04/01/25 21:07
急にレスがつきまくり
解かりやすい自演スレだな(w
次の話はまだかな?
まあどこぞのアホスレに比べりゃ、余程楽しめるが。
905 :
日本@名無史さん:04/02/01 22:58
自演じゃないでしょ。
そろそろ次スレ行く?
>905
そりゃ良いけど、次スレの必要あるんだろうか・・?
907 :
日本@名無史さん:04/02/03 01:06
もう立てました
908 :
日本@名無史さん:04/02/23 13:40
もうしばらく、あげとく。
909 :
日本@名無史さん:04/02/24 22:13
age
910 :
日本@名無史さん:04/03/13 22:27
911 :
日本@名無史さん:04/03/16 21:30
age
912 :
日本@名無史さん:04/03/16 21:42
age
913 :
日本@名無史さん:04/03/17 21:25
座光寺家が男爵位を取り損ねました
914 :
日本@名無史さん:04/03/17 21:54
幕臣の鈴木氏について教えてください。
915 :
日本@名無史さん:04/03/22 19:41
age
916 :
日本@名無史さん:04/03/22 20:07
age
917 :
日本@名無史さん:04/04/15 23:00
918 :
日本@名無史さん:04/05/03 12:36
age
sage
新撰組・幕末モノの展示会が多いが、旗本八万騎の
事に触れたトコは無いなあ・・・
921 :
日本@名無史さん:04/05/07 23:48
age
座光寺ってそんなに名族なのか?
あれより家柄のよい旗本なんかざらにいそうだが。
千石そこそこの小禄でしかないのに交代寄合っていうのも
おこがましいのに、華族なぞもってのほかだろ。
家柄で言えば、高家なんかの足下ににも及ばないんじゃないか?
この家が、特殊な扱いを受けた理由のわかる人いる?
923 :
日本@名無史さん:04/05/23 18:03
確か倒幕に参加したじゃなかったかな?
でも肝心かなめの決戦に間に合わなかった木がする。
924 :
日本@名無史さん:04/06/18 21:19
>>922 官軍側に付いて江戸入リ後山吹藩を称す。
どうやら、俺の書き方が悪かったみたいだな。
華族になり損ねた理由じゃなくて、交代寄合になれた経緯が知りたい。
大名の分家筋でもないし、禄高も千石そこそこしかない。
為朝の子孫と名乗ってるらしいが、藤原氏として紹介してるケースも
あるらしい。
正真正銘の為朝の子孫ならともかく、なんか嘘くさいように思う。
他の交代寄合に比べて、家格は数段劣るような気がするのは俺だけか?
別に座光寺家に悪意があるわけではないが、この家が交代寄合というのは
不思議に感じたのでな。
そこのところ詳しい人どうぞよろしく。
927 :
日本@名無史さん:04/06/26 00:11
旧来の豪族だからじゃない。知久家と並んで信濃衆と呼ばれていたし、
東西高木家も美濃衆として寄合だったし米良家も無高でもなっている
し、元々は徳川家の家臣じゃなかったから寄合になったかもしれない。
ただ座光寺も知久も関東転封時にはついていったはず。
大坂の陣の陣立てでは那須衆・美濃衆・信濃衆と別に名前が出ている
から普通の旗本の扱いではない。
>927
レスありがとう。
交代寄合と言っても2通りあるみたいだな。
交代寄合表御礼衆と交代寄合衆と。
前者は高禄で大名の分家などが多く格が高い。
後者はやや格落ちする。
座光寺家は後者に属するが、比較のため後者に属する家をあげてみる。
那須衆
○下野福原1000石 那須家(元大名)
○下野佐久山3500石 福原家
○下野芦野3016石 芦野家
○下野森田1300石 大田原家
*美濃衆
○美濃多良2300石 高木(西)家
○美濃多良1000石 高木(東)家
○美濃多良1000石 高木(北)家
*信濃(伊那)衆
○信濃阿島2700石 知久家
○信濃伊豆木1000石 小笠原家
○信濃山吹1115石 座光寺家
*三河衆
○三河松平440石 松平家
○三河大崎607石 中嶋家
これらの家は幕末時点で交代寄合だった家で時代により少し入れ替わりがあるらしい。
続き
この家々の中で、石高家柄ともに座光寺家は中途半端に感じる。
美濃衆の高木家は、西が本家、東 北は分家。あわせれば4300石の大身。
那須衆は高禄か前身が大名か大名分家。
三河衆中嶋家は板倉家の縁者。
信濃衆の知久家は高禄、小笠原は大名分家。
米良家は確か菊池の一族だったな。無石でも広大な山林を保持していたと聞いたことがある。
>ただ座光寺も知久も関東転封時にはついていったはず。
>大坂の陣の陣立てでは那須衆・美濃衆・信濃衆と別に名前が出ている
>から普通の旗本の扱いではない。
ここの特殊扱いされた理由がわかれば、謎は解けるかもしれないな。
大阪の陣までに座光寺家と徳川家との間に何かあったんだろうか・・。
後、旧来の豪族であるかどうかについては、あまり関係ないような気がする。
旧来の豪族で3000石以上でも単なる寄合という家もあるしね。
長文スマソ
>>922さんへ
レスありがとうございます
信濃衆や美濃衆だけではとても1軍団を形成できるだけの動員力はなかったの
に別扱いになっているのは変ですし、米良家などはとても以前に徳川と接点
が合ったとは思えませんから寄合と普通の旗本と分ける基準は何だったの
でしょうね?
名家コレクターの家康がこれらの家よりもはるかに家格の高い家を普通の旗本
にしかしてないのはなぜでしょうか?
交代寄合を研究している人でいるでしょうか。
>>927氏
こちらこそどうも。
ところで、上で旧豪族か否かはあまり関係ないのではと書いたが、訂正を。
交代寄合表御礼衆も交代寄合衆も、徳川・松平家に歴代仕えてきた家は皆無に等しい。
そうだとすると、旧豪族として自立した存在であった事は、要件の一つとも考えられる。
但し、旧豪族であれさえすればよいという訳でも無いと考える。
その他の要件も併せて考慮されたのではないだろうか。
その他の要件とは、やはり禄高かという気がするが、旧豪族+禄高という単純なものでも
無いだろう。
具体的なメルクマールをご存じの方がいれば是非教えてください。
933 :
日本@名無史さん:04/07/04 21:40
age
旗本って
>>885みたいに将軍直参、忠誠心が厚くあるべしみたいなイメージがあるけど、
単に領地の過多と格式の差だけだよな?
外様(って言い方は変かも知れないが)あがりのやつも多いだろうし
1万石の小大名と9000石の旗本の間に大差があったとも思えないんだが…
935 :
日本@名無史さん:04/07/29 14:42
揚げ
936 :
日本@名無史さん:04/08/22 22:21
age
937 :
日本@名無史さん:04/08/23 19:59
>>934 参勤交代で領地と江戸を行ったり来たりの大名と、江戸常駐の旗本は、
やはりかなり違いはあるよ。
旗本のほうはその分の余裕で、幕府内の要職に就いたりできたから。
938 :
日本@名無史さん:04/09/12 17:20:10
>>934 島津、浅野、池田、鍋島、松浦など外様大名の分家で旗本になった家もある。
939 :
日本@名無史さん:04/09/12 17:27:03
旗本の人名辞典を見てみて。結構あるよ。
940 :
日本@名無史さん:04/10/01 22:33:31
941 :
日本@名無史さん:04/11/11 01:04:32
942 :
日本@名無史さん:04/12/03 10:11:59
943 :
日本@名無史さん:04/12/31 01:04:52
なんで
944 :
日本@名無史さん:04/12/31 02:16:16
下級幕吏から五百石の旗本に成り仰せた川路左衛門尉聖謨を忘れてもらっては困る。
肖像画をみると佐藤慶のような顔をしているが、皆さんご存じじゃな?
945 :
日本@名無史さん:05/01/15 23:56:47
旗本の知行地の村でも盛んに新田開発が行われたようですが
この増収分はどういった扱いになったのでしょうか?
大名家では新田開発による高直しや○○新田藩の立藩という話をよく聞きますが
旗本では加増以外で高直しなどによる石高増などはあったのでしょうか?
ごぞんじの方は教えてください。
946 :
日本@名無史さん:05/01/30 23:15:50
尋ね人
私の先祖が仕えていた、梶清三郎 禄高1000石 知行地常陸国 外国奉行並 維新後行方が判りません。ご存知のかたいらっしゃいませんか。
947 :
日本@名無史さん:05/01/31 00:06:56
>>944 勝海舟が氷川清話で「川路は取り立て者だから人が悪くてね。こすくてね」と
朝起きると槍を200本突き毎日小普請組頭宅に通って就職運動
14歳で元服してからそんなことずっとやってた
その間養母は毎日水垢離を取ってたというからよく死ななかったものだ
筆算吟味に合格して勘定所の出役に採用されてからはトントン拍子
949 :
日本@名無史さん:05/02/27 23:02:31
もう死んだよ
951 :
渡辺の名無しさん:05/03/13 17:57:43
>>914 家の先祖の親戚。鈴木氏から養子をもらっている。
ちなみに我が家は、千石取りの旗本。
京都で、町奉行やっていた。
渡辺半蔵守綱の遠縁。
952 :
日本@名無史さん:05/03/14 15:37:41
>>950 勝の場合、じいさんが成り上がりとなるのか?
953 :
日本@名無史さん:05/03/14 18:03:31
【1】勧修寺村の道徳が、明応二年の元日、蓮如上人のもとへ新年のご挨拶にうかがったところ、上人は、
「道徳は今年でいくつになったのか。
道徳よ、念仏申しなさい。
念仏といっても自力と他力とがある。
自力の念仏というのは、念仏を数多く称えて仏に差しあげ、その称えた功徳によって仏が救ってくださるように思って称えるのである。
他力というのは、弥陀におまかせする信心がおこるそのとき、ただちにお救いいただくのであり、その上で申す他力の念仏は、お救いいただいたことを、ありがたいことだ、ありがたいことだと喜んで、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すばかりなのである。
このようなわけで、他力というのは他の力、如来の本願のはたらきという意味である。
この信心は臨終まで続き、浄土に往生するのである」
と仰せになりました。
954 :
日本@名無史さん:05/03/14 18:17:02
>>952 いや
勝家も川路家と同じ小普請だからまともなら一生うだつが上がらずに終了
海舟は7歳のとき徳川家慶の五男初之丞の御学友に抜擢され
その後は蘭学・兵学を学んで英才の聞こえが高く
ペリーが来て外国対策に蕃書調所が開かれるとすぐ採用された
小普請から役を得たという意味では勝海舟自身が取り立て者
しかし自分は招かれて役に就いたのだと思っていたから
筆算吟味から成り上がったソロバン侍・川路をバカにしていた
>>946 ご自身の先祖でなく、主人とは珍しい
梶清三郎という人に心当たりはないですが、まず菩提寺の浅草の浄念寺に
あたってはいかが?
956 :
日本@名無史さん:
>>955 有り難うございます。浄念寺に行ってみます。
私の五代前が建てた墓誌名に主人旗本梶清三郎の名が書いてあったので(知行地等)調べています。