★★幻の11代将軍 徳川家基★★

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11
家斉みたいに酒池肉林がしたかった。
2一橋治済:02/10/18 13:26
家斉を恨むでない。治済を恨め。でも叔父さんのほうが官位は上だよ。
大納言殿。
3日本@名無史さん:02/10/18 13:27
したかった。って今からすればいいだろ
4日本@名無史さん:02/10/18 14:38
死亡した原因ってホントのところナゼ??
落馬、毒殺etc...
5日本@名無史さん :02/10/18 16:22
>>4
どう考えても毒殺じゃないかな?条件がそろってる。
一橋治済は相当な権謀術数家だしね、徳川一門の中で一番じゃないの。
6日本@名無史さん:02/10/20 21:35
仕事人に殺されたんだよ。(必殺仕事人V・最終回)
7日本@名無史さん:02/10/21 09:11
早くに亡くなったんだよね?
享年いくつ?
8日本@名無史さん:02/10/21 10:08
16くらいじゃなかったかな?
9日本@名無史さん :02/10/22 10:44
興味ある人物だけど、盛り上がらないね。
将軍世子として西の丸に入って「家」のイミナまで貰って将軍になれなかった
のは彼だけでしょ。単に将軍の子供が死んだという事ではなく、今で言えば
皇太子浩宮が死んだのと同じことでしょ。当時は相当な大事件だったと思うんだけどね。
詳しい人教えて。
10日本@名無史さん:02/10/22 14:45
これはマニアックなスレですね
11日本@名無史さん:02/10/22 14:50
初めて聞いたな

吉宗-家重-家治?-(家基)-家斉

家治の子ってこと? 家斉とはどういう関係?
12日本@名無史さん :02/10/22 17:39
>>11
徳川家基(とくがわいえもと:1761〜1778)
家基は家治の実子です。家斉とは従兄弟の関係になります(父は一橋治済)。
俗説では家治以降の政権の存続を画策した田沼意次が一橋治済と結託し、まず
田安家の定信を白河松平家に養子に出し、世子・家基を毒殺。治済の息子・豊千代
(家斉)を家治の世継ぎに据えた。というもの。
でも首謀者は一橋治済のような気がしますね。田沼意次の失脚、松平定信の登場を
画策したのは治済のようだし。治済は相当な策士ですよ。当時、田安家は当主・
田安治察が病弱だったことから定信は養子に出したくなかった。それを家治の命だと
強引に養子に出した。案の定、治察は程なく病死。世子・家基も死んだ。
定信が養子に出なければ田安家当主として将軍継嗣の筆頭だったでしょう。
13日本@名無史さん :02/10/23 11:12
松平定信が将軍になってたら、文化文政の爛熟はなかっただろうね。相当暗い
時代になったんじゃないの?
14日本@名無史さん:02/10/23 18:14
家重に孫がいたんだね。感動した。
15 :02/10/23 18:47
家斉は家基の祟りを非常におそれてたらしい。
そして怪僧につけこまれた。
16日本@名無史さん:02/10/23 19:09
怪僧は知らないが、家基の廟所を
月イチで若年寄が代参している
17日本@名無史さん :02/10/24 10:19
>>15
という事は家斉時代のあの退廃的、享楽的、官能的なあの文化は祟りを恐れた
家斉の現実逃避がそうさせたってことですかね。非常に面白いですね。興味沸いてきました。
18日本@名無史さん:02/10/25 17:08
墓はどこにあるんだい?
19日本@名無史さん:02/10/25 19:24
>>18
上野寛永寺。

>>17
家斉の時代にやたら日蓮宗の寺院が建立されたのは、
家斉の嫡孫、家祥(のちの13代将軍家定)の病気は家基の祟りだと信じていた、とか。
(井沢元彦、梅原猛など)

>>15>>16
家斉の側室、お美代の方の実父の日啓ですな。
20日本@名無史さん:02/10/25 21:39
黒幕は田沼意知暗殺とおなじく、
三家・溜間詰の連中。
一橋はかつがれて結果的に得したずるいやつ。
白河もかつぎ出されただけ。
ただ白河は、頭が良すぎてやりすぎたから、
黒幕どもから、あとで捨てられた。
あんがい一橋と田沼は、
裏でつながっていたのかもしれない。
21日本@名無史さん:02/10/26 13:51
>13
田沼、一橋への恨みつらみがなければ、定信(にはならんか)もあそこまで
暗く理屈っぽくはならなかったのではないかと…。
22日本@名無史さん:02/10/26 15:38
>>20
たしかに一橋と田沼はある程度つながっているね。
一橋治済死後に家斉は田沼意次の四男の意?を登用しているし。
ただ、兄貴や親父さんほどの才覚はなかったみたいだけど・・・・・・
23日本@名無史さん :02/10/28 11:06
>>19
井沢元彦、梅原猛あたりがこの辺のこと書いている本ってあるんですか?
教えてください。
24   :02/10/28 13:56
十八代・徳川宗家当主(予定だった)家英

・・・彼の”おかげで”ツネナリ氏が現当主ナリ。
25日本@名無史さん:02/10/29 14:29
>24
戦後にも怪事件があったのですか?
26日本@名無史さん :02/10/29 16:31
もし、松平定信が養子に出ず田安家を継いでいたら、11代将軍になっていたので
しょうか?
定信の父、田安宗武は家重と相当に不仲でお目見えも叶わなかったようですね。
御三家でも筆頭の尾張家より紀伊家のほうから将軍が出たように(いろいろ
条件が揃ったにしても)。田安、一橋の争いになったら一橋に分があったような気がします。
最後は将軍家治の裁決でしょ。先代、先々代からいろいろ言い含められてたんじゃ
ないでしょうか?定信の養子を最終的に裁決したのは家治らしいですから、邪魔者は早めに
飛ばした、ってところでしょうね。それにしても田安家っていうのは不運な家ですね。
宗武、定信と人物は出したのに。
27日本@名無史さん:02/10/29 16:47
家基毒殺説に根拠は全くないし、
そんなこと真顔で言ったら、鼻で笑われますよ。

28日本@名無史さん:02/10/29 16:53
『続三王外記』という史料には、確かに家基毒殺説の話が載っているが
この史料の信憑性自体、大石氏によってコテンパンにされています。
これに関係する、松平定信をむりやり養子にしたとの説は
渋沢栄一『楽翁公伝』にかかれていますが、
この話も今や、根拠の無い話です。
電波の集まるスレですか?ここは。
29日本@名無史さん:02/10/29 16:57
>>27
根拠って何かな?状況証拠は結構揃ってるんじゃない?
為政者の関与した資料だけを拠り所にするっていうのも、なんかね。
根拠ちゅーのをちょっと教えてください。
30日本@名無史さん:02/10/29 17:01
>>28
井沢氏に言わせればそういう信憑性のない資料の中に真実が隠されている。
とうい事でしょうな。
でも、確かに『三王外記』『続三王外記』は荒唐無稽だね。
綱吉が御台所に殺されたとか、ね。
31日本@名無史さん:02/10/29 19:19
>>24>>25
家英氏は家正公の長男で東北帝大の学生でしたが、病弱なため早世しました。
確か戦前のことです。
よって、戦後になって家正公の外孫である恒孝氏が養子に入ったわけです。
32日本@名無史さん:02/10/29 19:33
>>22
田沼意正は、家斉の寵臣水野忠成の政権で若年寄に登用されました。
実は意正は若い頃、この水野家に養子に迎えられていたのですが、
父意正の失脚で離縁されたという因縁があります。
そのおかげで、忠成が幕臣岡野家から入って相続できたわけですが・・・
33日本@名無史さん:02/10/29 19:34
↑父は「意次」でした。訂正(汗
34日本@名無史さん:02/10/29 19:57
またぞろ毒殺厨が出てきたな

こんどは家基かよ(w
35日本@名無史さん:02/10/29 22:12
>>34
努力しなくてもいい説明だからね。
「Aの死因は何だろう・・・?」
「陰謀による毒殺です!」
ああ、なんて甘美な誘惑だ・・・
36日本@名無史さん:02/10/30 08:52
>35
いやいや死因なんぞは結局どうでもいいのよ。
ただ将軍家継承者の急死は政治的大事件じゃないですか。
そしてそれによって得をする連中がいて、毒殺の噂が立つような政治状況であったと。
それを少々面白く語ろうってことではだめですか?
37日本@名無史さん:02/10/30 12:55
>>36
いいんでない?
例えば、家基が若死にしなければ田沼は開国していた、とかさ。
38日本@名無史さん :02/10/30 16:33
>34>35
36さんが言うように死因なんてどうでもいいのよ。楽しく語りましょう。
スレッドも「幻の11代将軍 徳川家基」なんだからさ。
39日本@名無史さん:02/10/30 16:36
>先代、先々代からいろいろ言い含められてたんじゃないでしょうか?

家重が言い含めることはほぼ不可能と思われ、言語障害だもんね
40日本@名無史さん:02/10/30 17:17
毒殺ヲタ必死だな(w
41日本@名無史さん:02/10/30 17:27
>>40
君、出て行けよ。不愉快だよ。チャチャ入れるようなレスを付けないでくれよ。
友達いないの?
42日本@名無史さん:02/10/30 17:32
>>40
定番フレーズ。暇だねあんたも。
43日本@名無史さん:02/10/30 18:36
大納言徳川家祥
は将軍になりました。
44日本@名無史さん:02/10/30 20:34
>>43
家祥(家定)が将軍になるまでいろいろあったね〜。
お美代の方による前田犬千代(前田慶寧)擁立未遂事件もそうだけど、
家慶も、もしかしたら自分より先に嫡子の家祥は死ぬんじゃないかと思っていた節あるし。
義理の甥にあたる水戸慶篤・一橋慶喜兄弟を「将軍候補」として西の丸に入れようとしていたし、
1853年にうまれた家慶の26番目の子、長四郎を家祥の養子にしようとしたり。
45日本@名無史さん :02/10/31 10:28
話題がそれて申し訳ないけど、家宣の弟、松平清武は何で8代将軍の候補に
上がらなかったの?血筋は問題ないでしょ?将軍の弟としての処遇としては
ずいぶん低いようだけど、官位とかも。
初歩的な質問だったら、ごめん。
46日本@名無史さん:02/10/31 11:12
>45
家臣の養子だったから。
47日本@名無史さん:02/10/31 12:35
>>45
大事なのは兄貴の身分ではなく、父親の身分。
清武の資格は、あくまで「甲府藩主の嫡男ではない公子」ってこと。
あれ、清武のスレになりそう
48日本@名無史さん:02/10/31 19:48
>>45
清武は甲府家の家臣越智氏の養子に入っているので、公子ですらない。
兄家宣が甲府藩主、ついで将軍世子となったあとも甲府藩士→幕臣のままで、
大名に取り立てられたのはずっとあとである。
また、家臣扱いなのは実名に将軍の一字を拝領できなかったことからも明白。
吉宣→清宣→清武と将軍の代替わりの度に改名している。
49日本@名無史さん:02/10/31 20:09
ををを、家基から外れると
いいレスが続くなあ(w
50日本@名無史さん:02/10/31 21:16
ほんじゃ、家基がらみの話にちょこっとだけ戻すね。
家基毒殺の「黒幕」とされる一橋治済だけど、家基死後、息子たちに
「生姜」や「黄柏(キハダ)」を「毒消し(ま、食中毒防止の事ですな)」として
毎日服用させたそうな。んで、黄柏(キハダ)のあまりの苦さに息子たちが嫌がると、
「先の西城の君(家基)のように、親より早く死ぬ事は最大の親不孝じゃ」と言って
叱り飛ばしたとか。
51日本@名無史さん :02/11/01 12:33
>>48
清武さんの官位ってどれくらいだったの?
それと、溜り間詰?
52日本@名無史さん:02/11/01 13:00
清武の跡継ぎは武元(たけちか)です。
53日本@名無史さん:02/11/01 13:02
>>48
高松藩、会津藩は溜間詰のほか、親藩大名の多くは大広間詰。
越智松平家も幕末はそうなんだけど、このHPでは雁間としている。(情報量
に脱帽!)
ttp://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kantou/tatebayashi.html
2代あとの武元が老中になっているので、初期の頃は譜代並み、あるいは
譜代大名そのものだったと思う。

 ところで、松平清武は、あまり良い殿様ではなかったよう。。。
ttp://www.page.sannet.ne.jp/tsekigu/newpage1.htmを参照
尾張を差し置いて吉宗が8代将軍になった理由の一つに藩政の実績
があったようですが、ウラを返せば清武君は減点ってことね。
ちなみに水戸綱条も、家格・年齢とは別に、そのあたりもマズかった
らしいです。

5453:02/11/01 13:09
スマソ>>51への回答でした。
>>52
53掲載前(執筆中)のツッコミ。予知能力があるのでしょうか?
だけど武元さんは3代目。2代目は尾張連枝高須藩出身の武雅さん
です。
この武雅さんは高須藩主の唯一の実子なのに養子に出されています。
石高はともかく、家格と将来のチャンスを考えると実家に残ったほうが
良かったのにね。カワイソ
55日本@名無史さん:02/11/02 00:12
このスレは清武に乗っ取られている
56日本@名無史さん:02/11/02 01:30
実際、存在としては謎深いからねぇ・・・<越智清武

禍根を残さないためにも地位は低く抑えられた、というのもあるんでは?
江戸始まって以来「将軍の兄弟」というのはどーも縁起が悪いし(笑
57日本@名無史さん:02/11/02 23:34
結局、秀忠の男系の子孫も、家重の子孫も全滅したの?
58日本@名無史さん:02/11/03 00:07
家重の子孫は家基でおしまい。
秀忠の子孫で家光系は家継と越智松平清方でおしまい。
保科正之系が続いたけど、江戸後期の容衆(容保の先々代)でおしまい
と推測するけど、分家筋まで調べたことがないので、会津藩士として
続いている可能性も少しあり(他大名家には養子に出たもの無し)。

ところで、羽柴小吉秀勝の子孫(男系・女系とも)の子孫って現在に続いて
いるかどうか確認した人いたら情報きぼんぬ。なお、九条・二条両家は
途中養子で途切れているようです。
59日本@名無史さん:02/11/03 03:02
尾張綱誠は家光の孫、吉通、継友、宗春は曾孫、宗春の娘、千姫から九条家へ。
60日本@名無史さん:02/11/03 21:02
家斉の血統で残っているのは、津山藩の養子にいった斉民(確堂)の子孫だけ?
61    :02/11/03 21:27
>>60
”越前”松平分家。
あと、蜂須賀家(ちょっと前まで・・・)
62日本@名無史さん:02/11/03 22:27
↑本当だ。あんなにたくさんいたのに。
生命力が弱かったのかな。
63日本@名無史さん :02/11/03 22:27
>45
もし、綱重が5代将軍になっていたら、清武の運命も変わっていたのか?
徳川を名乗る親藩が一つ余計に出来ていたとか?

>60
家斉はたくさん子供がいたから、丹念に調べれば子孫は今でもいるのでは?
64日本@名無史さん:02/11/03 22:36
>>63
以前、興味があったので調べてみたことがある。
男女とも半数以上は未成年で死亡。残りも若死にした人がほとんどで、
男系では上記の津山松平家と蜂須賀家しか子孫はいなかった。
女系は加賀前田家のほかは酒井家が可能性があるが、不明。
いずれにせよ、家斉の子女の生命力はきわめて弱かったようだ。
6563:02/11/03 22:40
>64
どうもありがとうございました。
家斉は精力絶大だったのに、子供たちはそうでもないのか。
それとも、鉛入りの白粉がいけないのか?
14代家茂に子供がいればね−
6664:02/11/03 22:55
>>65
やっぱり子孫を残した人ほど長生きしている。
津山の松平斉民は70代まで生きてたし、
阿波の蜂須賀斉裕、紀伊斉順(家茂の父)は40代まで生きてた。
この3人が長命ベスト3だが、40代でもベスト3とは・・・
67日本@名無史さん:02/11/04 00:45


家斉======お美代の方
        |
        |
        溶姫=======前田斉泰
             |
             |
             慶寧
             |
             |
             貞子======近衛篤麿
                  |
                  |
                  文麿
                  |
                  |
                  温子=====細川護貞
                      |
                      |
                     細川護熙



68日本@名無史さん :02/11/04 00:53
>67
夜に「貞子」なんて書くと、1週間以内に死んじゃうよ!
69徳川家基:02/11/04 02:47
>>58
秀勝って子孫いるの?
70日本@名無史さん:02/11/04 18:37
越智松平家といえば、家斉の子斉厚を養子に迎えているね。
そのおかげで譜代から親藩に昇格して、養父武厚も「斉」の字を拝領、
さらに収入増加を期待して館林から浜田に国替えしてもらっている。
もっとも、国替えは結果的に逆効果だったみたいだけど。
71日本@名無史さん:02/11/04 18:39
↑の訂正
× 家斉の子斉厚
○ 家斉の子斉良
72日本@名無史さん:02/11/05 01:43
何で越智って言うの?
73日本@名無史さん:02/11/05 02:16
>>72
初代清武が甲府藩士越智氏の養子に入ったから。
74日本@名無史さん:02/11/05 10:56
>>71
家斉の子に斉良なんていないよ。
75日本@名無史さん:02/11/05 19:12
>>74
家斉の子に斉良(なりなが)はいますよ。
越智松平武厚(斉厚と改名)の養子になりましたが、養父に先立ちました。
新人物往来社「日本史総覧」の「徳川将軍系図」にも出ています。
76日本@名無史さん:02/11/05 20:13
本来、家綱→綱吉、家継→吉宗、家茂→慶喜
の各相続の時に、末期養子の禁により
お取り潰しにならなければいけない。
77日本@名無史さん:02/11/05 20:20
>>76
大河ドラマで、将軍家継が亡くなった時に紀州藩主吉宗が幕閣に対して
「浪人のかたがた」と言い放っていたのを思い出したよ。
けっこう面白かった(w

ありゃドラマだけど、確かにお取り潰しにならなければいけないよね。
78日本@名無史さん:02/11/05 20:22
そういえば漏れが、同じ会社で撤退する事業所にいるヤシに向かって
浪人呼ばわりしたのも思い出したよ。
79日本@名無史さん:02/11/05 21:39
高3の時、早々と私大推薦が決まった嫌みな同級生が俺らに向かって「浪人諸君」と言ってので袋叩きにしたことを思い出したよ。
80日本@名無史さん:02/11/05 22:37
越智松平家の家臣って甲府徳川家からつれてきたのかな?
そのへんの除封された藩の浪人を集めたのかな?
81日本@名無史さん:02/11/05 22:39
>80
おそらく甲府藩からの出向では?
82日本@名無史さん :02/11/06 00:24
>>76
>本来、家綱→綱吉、
>の各相続の時に、末期養子の禁により
>お取り潰しにならなければいけない。

家綱の時に末期養子の禁が緩和されているから
家継→吉宗、家茂→慶喜
くらいなら、末期養子は認められたと思われる。
だけど半知になるけれど…
83日本@名無史さん :02/11/06 16:24
江戸時代に生まれ変われるなら御三卿の当主がいいな。将軍も親藩の大名もいいけど
いろいろ面倒なことが多そうだし。御三卿って地位や身分は高いけど何となく自由気儘
な感じだよね。かっこいい。
84日本@名無史さん:02/11/06 16:35
御三卿は大名ではなく将軍家ご家族、血統溜り。将軍とは内輪の関係ですね。
家臣はすべて幕臣からの出向。賄い料は10万石。確か江戸城の席次も
御三家は大廊下ですが御三卿は特定の控の間が無かったんじゃないかな。
登城の際も表御殿玄関からではなく中奥の玄関から登城したんだと思います。
元服して従三位左近衛権中将に任官、20歳ぐらいで参議、極官は中納言ぐらいでしょう
(大納言になった人もいますし、一橋治済のように准大臣になったのもいますが
例外でしょう)。
85日本@名無史さん:02/11/06 18:11
>>81
出向はないよ。
御三卿とはちがうんだから。
86日本@名無史さん:02/11/06 18:25
気になっていたことだけど、控の間が無いってことは
居場所が無いことなのか?
廊下の隅っこに腰をおろしてボヤーっとしていたのかな。
また、喜連川家は無席と資料にあったけど、旗本でも柳間詰
がいるのになぜだろう。誤りだろうか?
87:日本@名無史さん :02/11/07 11:41
>>86
御三卿の場合、将軍との対面は中奥の御座の間ですよね。御三家は表御殿の大広間か白書院
じゃないの?御三卿の控えの間って聞いたことないけど、家格からして大廊下じゃないの?
でも、御三卿の登城ってごく内輪のことじゃないのかな。おじさん今日は、という感じで。
登城したところで何かすることがあるわけじゃないしね。
88日本@名無史さん:02/11/08 09:56
>>82
なるほど、それが上杉家の例ですね。
89日本@名無史さん :02/11/13 14:58
家基さんて高校の日本史の教科書(山川)には出てなかったんですが、
どういう人物なんですか?
90日本@名無史さん:02/11/13 15:07
>>89

手抜きをせずに、前レス読め
91徳川家茂:02/11/13 18:06
松平清武ファンのスレはここですか?
92日本@名無史さん:02/11/13 18:15
越智松平なんて長州に襲われ逃げたヘタレ。
93日本@名無史さん:02/11/13 18:19
扇原番所を守備した岸静江国治はがんがったがね。
94日本@名無史さん:02/11/16 20:50
12代家慶の末子長吉郎も運が悪い。
ペリー来航の年に夭折しているが、生存していれば将軍になれただろう。
95日本@名無史さん:02/11/17 11:49
12代家慶も父親同様子沢山だったのに、成人したのは家定一人とは・・・
せめて一橋慶昌が生存していれば、家定の継嗣問題もおこらなかったのにね。
96日本@名無史さん:02/11/17 20:35
家定は偉大!
97 :02/11/17 21:34
ここですら影の薄い清水重好たんハァハァ
98日本@名無史さん:02/11/17 21:35
田安亀之助が最強!!
99日本@名無史さん:02/11/17 23:24
意味が判らない...
100日本@名無史さん :02/11/18 11:17
>>95
確かに、一橋慶昌が生存していればその後の幕府の展開も変わってたんだろうね。
勝海舟は慶昌の幼少期から側にいて、もし慶昌が将軍職を継げば側用人だろうからね。
101日本@名無史さん :02/11/19 13:31
age
102教えてください:02/11/22 07:20
初歩的な質問で申しわけないのですが、徳川歴代将軍のうち、綱吉・吉宗・慶喜は、名前に「家」の字がなく、あきらかに家来筋のネーミングのままですよね(秀忠はこの際除外)。
徳川宗家の出身でないからかもしれませんが、それなら家宣や家茂ら将軍になってから改名した人たちも同様のはずです。
どうして綱吉や吉宗らが「家」の字をあえて使わず、家来筋の名前で通したのか(あるいは通さざるをえなかったのか)、ご存知の方がいれば、真剣に教えてください。
103日本@名無史さん:02/11/22 09:21
その三者とも

先代体制からの改革(良くも悪くも)

というのが人生テーマ
104日本@名無史さん:02/11/22 09:31
>>102

なるほど。検討に値すると思う

ただ、慶喜は時間切れで改名の機会を逸した可能性大だから
綱吉・吉宗を考えればよいだろう
105日本@名無史さん:02/11/22 12:31
>>102
徳川将軍で”家”がつく基準は、先代の実子・養子がつけることができ、
遺跡相続(先代死後の相続)はこれを名乗れない。

家光、家綱、家継、家重、家治、家慶、家定は将軍実子。
家宣、家斉、家茂は先代存命中の養子。
綱吉、吉宗、慶喜は養子ではなく、先代死後の相続。
とステータスが違う(実子と養子は同一視かもだけど)。
また、実子のうち、生まれながらの嫡子は”竹千代”がつくが、
繰り上げ嫡子はフツーの幼名。
106105:02/11/22 13:05
言い方がわかりにくいと思い補足。
家督相続(養子)と遺跡相続の違いは、「将軍世子(実子かどうか別)」
を経験したかどうかです。
一般の武士でもこれにより相続時の作法が違うなど、「家」を重視する
武士の価値観ではこの違いは権威の度合いにかかわる重要な要素らしい。
107教えてください:02/11/22 13:57
みなさん、ご教示、ありがとうございました。
勉強になりました!
108日本@名無史さん:02/11/22 14:48
>>105
>生まれながらの嫡子は”竹千代”がつくが、
>繰り上げ嫡子はフツーの幼名。
嫡子になったときに幼名を改めたりもするでしょう?
具体的な例はいま挙げられないけど。
109日本@名無史さん:02/11/22 17:48
家継は家宣が将軍就任後に生まれたが幼名は鍋松
家斉は家治の存命中の養子だが幼名は豊千代
家斉の次男家慶の幼名は敏次郎、家慶の4男家定の幼名は政之助
将軍の長子は竹千代と名付けられるみたいだが、
将軍の世子=竹千代とは限らないみたいだね。
110109:02/11/22 17:52
>109
>将軍の長子は竹千代と名付けられるみたいだが、
>将軍の世子=竹千代とは限らないみたいだね。

将軍の長子は竹千代と名付けられるみたいだが、
長子が早世して次子以降が継ぐことも有るので
将軍の世子=竹千代とは限らないみたいだね。
111105:02/11/22 18:04
>>109
そうそう。それが言いたかったのだけど、正確じゃなかった...失礼。
112日本@名無史さん :02/11/25 10:45
age
113日本@名無史さん:02/11/25 12:38
>>109
家慶は竹千代に改めているよ。
114日本@名無史さん :02/11/26 10:50
幻の二代将軍 秀康
幻の三代将軍 忠長
幻の五代将軍 綱重
幻の六代将軍 綱教
幻の八代将軍 吉通
幻の九代将軍 宗武
幻の十三代将軍 慶昌

115日本@名無史さん:02/11/26 12:16
>>113

興味深い。いつ改名したか日付を教示きぼんぬ
116日本@名無史さん:02/11/27 16:05
>>114
幻の「十四代」将軍 慶喜
117日本@名無史さん:02/11/28 18:21
>>114
幻の「九代」将軍 天一坊
118日本@名無史さん:02/11/29 21:48
田安亀之助は?
119日本@名無史さん:02/12/04 11:02
この時代って大河ドラマとかになった事無いよね。
権力闘争や化政文化の勃興期で結構面白い素材だと思うんだけどね。
登場人物も田沼意次、松平定信、将軍家の人々、大奥の女性、
市井の有名人とか結構いるでしょ。
120日本@名無史さん:02/12/04 11:44
>>114
幻の「五代」将軍 有栖川宮幸仁親王
121日本@名無史さん:02/12/04 19:32
>>119
概ね同意。
しかし、面白く書ける脚本家は限られそう。
122日本@名無史さん:02/12/04 21:36
大河じゃなくても正月ドラマとかでやってホシー
123日本@名無史さん :02/12/05 10:26
>>121
ジェームズ三木あたりはどう?
124日本@名無史さん:02/12/06 14:45
やはり松平清武を主人公にしてほしい。
「まつ」でもドラマにできたんだから、清武でもできるのでは?
125日本@名無史さん:02/12/06 14:46
「家宣と清武」とか・・・
126日本@名無史さん:02/12/14 09:09
あげ
127日本@名無史さん:02/12/14 11:24
>>119
>>121
>>123
>>124

マジレスだけど、「合戦シーン」「信長秀吉家康」がないと、
視聴率が格段に落ちるんですよ
128日本@名無史さん:02/12/14 13:35
>>127
確かにそうなんだけどさ。でもそれだけだと一般視聴者も飽きるかもよ。
時々大衆におもねらないシブ〜いのを制作して後々まで賞賛されるように
がんがって欲しいね。NHKには。
個人的には「吉宗」の一族連続病死ネタはオモロかったけどね。普通の
視聴者には魅力ないのかなぁ。
129日本@名無史さん:02/12/17 20:25
考えてみたら、慶喜より松平春嶽や松平確堂の方が宗家に近い血筋なんだよな。
この人たちを宗家に復帰させた方がよかったのでは?
130日本@名無史さん:02/12/17 22:03
>>129
家斉の晩年に前田慶寧を将軍継嗣にする陰謀があったそうだが、
将軍の外孫とはいえ外様大名の子が継嗣になれる可能性があったのなら、
春嶽(田安家出身)や斉民、斉裕(家斉の子)でもよかったと思う。
131日本@名無史さん:02/12/18 11:34
血筋よりも御三卿かどうかが重要です。
132日本@名無史さん :02/12/18 16:07
>>131
家斉対清水重好も血筋、格式からいっても違わないんじゃないの?
確かに清水家はマイナーだけど。
133日本@名無史さん:02/12/18 18:41
>>132
病弱では駄目です。
134日本@名無史さん:02/12/19 10:55
>>133
元気モリモリなのは家康、秀忠、吉宗、家斉ぐらいなんじゃないの?
135日本@名無史さん:02/12/19 18:49
>>132
重好は年齢が高い上に子供がいなかった点で失格。
しかし、決定的な理由は生母の実家が遊郭の経営者だったことだ。
136日本@名無史さん:02/12/20 20:54
重好の人生って幸福だったのかな?
137日本@名無史さん:02/12/20 21:26
田安亀之助こと徳川家達と津田梅子が従兄妹同士というのは本当でしょうか?
前に津田梅子の伝記を読んでいたら、母親同士が実の姉妹(梅子の父は婿養子)
と書いてあったのですが。
138日本@名無史さん :02/12/27 10:02
家基の肖像画って無いの?
139日本@名無史さん:02/12/27 10:06
下絵に着色したような絵がある。目がパッチリして華奢な美少年だ。
140日本@名無史さん:02/12/27 10:46
しかし、徳川宗家の肖像画って下絵みたいなのばっかりだな。
141日本@名無史さん:02/12/29 15:23
家基タンの肖像画キボンヌ
142日本@名無史さん:02/12/31 22:40
歴史読本の増刊号で将軍家の特集やってる号にのってたような。
143日本@名無史さん:02/12/31 22:44
>139 それって家綱の肖像って書いてある本もあるよ。
144日本@名無史さん:02/12/31 22:57
>>143
家綱は別の肖像画があるから、多分、家基の方が正解でしょう。

それにしても歴史読本って、この手のミスが多いですよね。
以前、松平容大の写真といって広沢安任の写真が掲載されてました。
会津落城後に生まれた子供がチョンマゲ帯刀のオッサンだなんて・・・
145日本@名無史さん:03/01/02 13:14
>>144
新人物往来社って、今でもそんなミスが多いの?
146日本@名無史さん:03/01/03 13:24
>>144 >>145
最近は知らないけど、昔はミスが多かった。でも弁護すると、翌月に
正誤表が掲載される(しかも件数が多い!)ことがあるので、後チェック
はしていたと思われ。

歴史読本よりもひどかったのは「歴史と旅」(秋田書店)。今は無いかな。
「旗本の最高石高は大沢氏で9999石だった」とか、誤植や勘違いではなく、
悪意のメチャクチャな記事が堂々と載っていた。
147日本@名無史さん:03/01/10 12:49
age
148日本@名無史さん:03/01/10 13:10
>>128
確かにそうなんです。

一般視聴者は全く飽きません。
結局世間が大河に求めてるものは歌舞伎や座長公演のようなもの。
お約束な、知ってるキャラを演じる、役者の顔見世興行なんです。

ちょっとでもおかしな(工夫した)話をやるとガクンと視聴率が落ちます。

むしろ飽きるのは作ってるほう。
なので毎回、信長秀吉家康が出て、合戦シーンがあって、でも去年とは
ちょっと違うものを・・・という感じです。
それに地方振興(カネ出してくれるから)を盛り込んで・・・
はい、「利家とまつ」の出来上がり。
信長が出ないんならせめてみんなが知ってる話を・・・んで役者がいっぱ
い出れば視聴率が・・・
はい!いいこと思いついた!「勘九郎in忠臣蔵」をやることにしましょう!


結局歴史ヲタと一般視聴者は大河ドラマに求めてるものが違うんですよ。
そして実は大河ドラマとはまさしく後者のためにあるもので・・・。
そこに歴史マニア的視点を持ち込むことが既に無意味なんです。

教育テレビででもやってもらうしか(笑
149日本@名無史さん:03/01/10 14:49
>>148
むしろ戦国〜江戸より前の時代を扱った作品、
「太平記」とか「花の乱」は面白かったけどね。
確かに視聴率的には厳しい罠w
150日本@名無史さん:03/01/10 18:28
大河ドラマ見てる視聴者には、十代以下の子供もいるからなあ。
二十代以上の人間にとっては、戦国も忠臣蔵もマンネリだろうが、
過去の作品を知らず、これから見る世代だっているんだよ。

マンネリだからやめろってのは、年長者の傲慢だな。
151日本@名無史さん:03/01/10 18:46
急死だったので毒殺説を唱える人も多い
容疑者とすれば田沼意次・一橋治済あたりか
152山崎渉:03/01/11 16:41
(^^)
153山崎渉:03/01/16 08:54
(^^)
154日本@名無史さん:03/01/19 15:04
良スレあげ
155日本@名無史さん:03/01/19 17:28
>>143
>>144
たしかにそっくりだけど、よく見ると違うよ。

家綱像:まつげが長い。唇は家基像に比べてやや厚い。口は閉じている。
家基像:三白眼。唇は薄く、すこし口をあけて、歯が見えている。
156日本@名無史さん:03/01/19 23:19
>>149
でもそこも

・一応「一般教養日本史」的有名人が出てくる。
 足利尊氏、楠木正成等
(花の乱?・・・銀閣寺とか)

・合戦シーンがある。

という大原則。
少しずれ気味だった花の乱の視聴率は・・・。
157日本@名無史さん:03/02/19 01:01
あげ
158日本@名無史さん:03/02/28 20:16
あげ
159日本@名無史さん:03/03/01 09:04
>>151

治済説に一票。田沼は確かに悪役イメージ強いが、家基が死んで得する理由はない。
160日本@名無史さん:03/03/02 23:20
あげとこう。家康〜慶喜の歴史の中で、イミ名に「家」がつくのに唯一将軍になれなかった人物。
そのある種悲劇的な生涯を記念する意味で。
161日本@名無史さん:03/03/15 00:16
あげ
162日本@名無史さん:03/03/18 22:35
あげてみる
163日本@名無史さん:03/03/30 22:36
またあげる
164日本@名無史さん:03/04/01 22:54
十四代将軍徳川家茂が徳川家基の生まれ変わりって伝説が和歌山にあるらしいです。
ご存知の方情報きぼ〜ん
165日本@名無史さん:03/04/03 22:56
家宣の弟(清武)がいたのに吉宗に(早世家継が間にいるが)
家治の弟(重好)がいたのに家斉に
家茂の従兄弟(松平康倫)や従兄弟半が(松平慶永、徳川慶頼)がいたのに慶喜に
遠い家系に将軍位が移る時には、必ず身近にわけありの親族あり。
徳川は徳川の作った罠に嵌って行く。
166衣笠宮:03/04/03 23:09
松平定信の養子問題
御三卿は、領地は全国飛び地の10万石浮草人生。
良い養子口あれば、最初から長男でも、平気で養子に出している。
一橋宗尹の長男次男は、越前30万石へ
定信の次兄も松山15万石へ
残った者は運よければ将軍、運悪けば将軍スペアの種馬人生!!
167日本@名無史さん:03/04/06 17:47
あげ
168日本@名無史さん:03/04/06 21:04
>>166
田安家の場合、二代治察が世継ぎも無く今にも死にそうなときに、
実弟定信が白河に養子に出されたのは、普通じゃないでしょう。

ハンドルネーム、なんとかしなよ。
169衣笠宮:03/04/07 22:01
>>168田安家の場合、二代治察が世継ぎも無く今にも死にそうなときに、
実弟定信が白河に養子に出されたのは、普通じゃないでしょう。

普通じゃないと思います。多分、田沼の陰謀は本当でしょう。
しかし、一橋宗尹の長男が越前に養子に行った時点では、
一橋家の弟たちは、まだ生まれてなく、跡取りが確定していないのに
養子に出した。これも普通じゃないでしょう。
170多羅尾 半蔵:03/04/08 18:17
田沼が家基を毒殺すべく影の軍団を雇ったの?
171山崎渉:03/04/17 14:28
(^^)
172山崎渉:03/04/20 02:08
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
173日本@名無史さん:03/04/20 11:04
あげておく
174日本@名無史さん:03/04/20 11:31
運がなかったということだ罠
175a:03/05/08 09:21
test
176a ◆XqrQAy2Hxg :03/05/08 09:22
test?
177日本@名無史さん:03/05/09 19:17
age
178日本@名無史さん:03/05/15 03:03
家斉の男系子孫も、いまや津山松平家しか残ってないね。
179山崎渉:03/05/22 03:21
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
180日本@名無史さん:03/05/25 09:29
あげておく
181山崎渉:03/05/28 10:59
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
182日本@名無史さん:03/06/08 10:07
みんな御三卿がそもそも「家」ではないということを忘れている
183日本@名無史さん:03/06/09 21:51
家基のことを研究したら18代様の財団から研究助成受けられないかなあ
184とも:03/06/09 21:54
18512 ◆HjxDweuVmo :03/06/30 22:15
>>149
ワロタ

ところで話は変わるけど、携帯ゲーム機"プレイステーションポータブル(PSP)

 このPSPは、新規格UMD(ユニバーサルメディアディスク)というディスクを利用しており、そのサイズは直径6cmととても小さい(CDの半分程度)。 容量は1.8GBとなっている。
画面は4.5インチのTFT液晶で、480px x 272px(16:9)。MPEG4の再生やポリゴンも表示可能。外部端子として、USB2.0とメモリースティックコネクタが用意されているという。

この際、スク・エニもGBAからPSPに乗り換えたらどうでしょう。スク・エニの場合、PSPの方が実力を出しやすいような気がするんですが。
任天堂が携帯ゲーム機で圧倒的なシェアをもってるなら、スク・エニがそれを崩してみるのもおもしろいですし。かつて、PS人気の引き金となったFF7のように。

いきなりこんな事書いてスマソ‥
GBAと比べてみてどうですかね?シェアのことは抜きで。
1861:03/07/02 21:40
久々のage
187日本@名無史さん:03/07/02 23:59
なんか怨霊伝説なかったっけ?
徳川家慶の子供が次々と夭折したり、家慶の嫡男家祥(のちの家定)の病気は
徳川家基のたたりだってことを聞いた事があるけど。
188山崎 渉:03/07/15 11:58

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
189日本@名無史さん:03/07/20 22:23
あげ
190日本@名無史さん:03/07/20 22:58
>178
津山に養子にいった斉民は

(春本「生寫相生源氏」を刷った人という説あり)
・・・とかくつまらぬ噂が絶えぬ人で
さかんに「田舎源氏」の光氏ばりの
真似をし、ご本丸の大奥から御使のお女中が
来るたびに怪しからぬいたずらをし、あまり度が
過ぎて蟄居を命ぜられた曰くつきの人物である
(「江戸の枕絵師」林美一著)

ちょっと人格的に問題のあった人なのかも。
191日本@名無史さん:03/07/24 22:09
>>190
さすが家斉公の実子だけのことはある。
192日本@名無史さん:03/07/24 22:22
今、江戸東京博物館で開催されている『徳川将軍家展』では、初代将軍家康公から十四代家茂公の肖像画、及び十五代将軍慶喜公,十六代当主家達公爵,十七代当主家正公爵の油絵と共に家基公の肖像画も展示されてるよ。
193日本@名無史さん:03/07/25 23:35
綱吉の肖像画って徳川宗家には伝来してないのかな?
長谷寺蔵の他に徳川美術館蔵の肖像画しか見たことないヨ!
194山崎 渉:03/08/02 01:34
(^^)
195日本@名無史さん:03/08/11 19:15
家治の死後の将軍職後継なんだけど、
家治からみて血統的に一番近い、叔父の清水家の重好が将軍になれなかったのは、
家柄の格(田安⇒一橋⇒清水)にもよるんでしょうか?
もちろん、治済の大奥などへの画策で家斉が誕生したのは分かるのですが。。。
196日本@名無史さん:03/08/11 19:28
>>195
家治晩年の段階で、年齢が高いことと子供がいないことが原因でした。
あと、生母の実家が吉原遊郭の経営者だったことがまずかったようです。
197日本@名無史さん:03/08/11 19:51
>>196
サンクス。
でも、その原因の情報源はなんですか?
できれば教えてください。
198日本@名無史さん:03/08/11 20:27
>>197
俺もそう聞いたことあるがソースはなにかの本だった。なんだろう。
ちなみに御三卿は基本的に同格で、そのときの当主の年齢順に着座した。
199日本@名無史さん:03/08/11 21:00
スレチガイかもしれないんですが、
家茂の死後(1868)、
家斉系の子孫で存命だったのは、
子:斉民 1814-1891
孫:斉民の子達
だったと思うのですが、
まったく血縁のない慶喜に譲るのは、(一応、一橋家ですが)
暗愚であっても血統を大事にしてきた、吉宗以降の継嗣から考えれば
ちょっと納得がいきません。

それほどまでに国内情勢が緊迫していたのは分かるのですが、
どうせ幕府を終わらせるなら、家斉の子、斉民で終わって欲しかった^^

※家斉の子孫で家茂死後で存命だったものがもし抜けていればすいません。
 大丈夫だとは思うのですが。
200日本@名無史さん:03/08/11 21:23
>>199
家茂没後も生存していた家斉の子孫は以下のとおり。

実子 
前津山藩主松平斉民(確堂)、阿波藩主蜂須賀斉裕

松平康倫、康民(以上、斉民の子)、蜂須賀茂韶
201日本@名無史さん:03/08/11 21:56
>>199>>200
女系も入れてよければ

家斉女 偕子(前田)、貴子(浅野)、賢子(一橋)
家斉孫 前田慶寧
202日本@名無史さん:03/08/11 22:29
そういえば、家斉の晩年に側室お美代の方が孫の前田犬千代(慶寧)を
病身の家定に替えて将軍継嗣にしようとする陰謀があったような・・・
203日本@名無史さん:03/08/11 23:32
どっちにしろ、
親藩や譜代・外様などの大名に養子に行って、
「徳川」という姓がないものは将軍にはなれない。
というのは、慣例だったような。

吉宗・慶喜の場合は、松平を名乗ったが、
のちそれぞれ紀州藩・一橋家を継いで、徳川に戻ってから将軍に就いているので注意。
204日本@名無史さん:03/08/12 12:38
あげとこ
205日本@名無史さん:03/08/12 16:07
徳川の将軍もそうだけど、
今の皇室の皇位継承順がさだめられているように、
徳川の姓を持っているの中で、
将軍位継承順位を各将軍在位時に決定しておけば、
争いとか揉め事とか、大奥、外様大名などがからんだりしてこないのにね。
206日本@名無史さん:03/08/12 19:18
>>199
一度他家へ養子に行った者は将軍になれない。
家宣の弟越智松平武元しかり、家重の弟白河松平定信しかり。
綱吉は館林、家宣は甲府に領地を持ち、養子には行っていない。

田安慶頼の出番がなかった方が不思議だな。
207日本@名無史さん:03/08/12 20:37
>>206
家重の弟ではなく、甥
ばかか、お前
208@@:03/08/12 20:38
はっきり言ってかなり映像の質は悪いです。
しかしながらこの可愛らしい女子校生の顔を見ているだけで
勃起してしまうのは私だけでしょうか?
処女太りの体形もマニアにはたまらないでしょうな。
さてさて?のなかにはどんな数字が入るのでしょうか?
いえいえそれは絶対いえません。
無料ムービー観てね(当然モロみえ)
http://www.cappuchinko.com/
209日本@名無史さん:03/08/12 20:54
>>199>>200
蜂須賀父子は一橋派でしたね。
奇妙な話、ではあるが。
210日本@名無史さん:03/08/12 21:05
>>209
それだけ国内憂慮だったんでしょう。
もはや血縁だけではどうしようもなかった時代です。
211日本@名無史さん:03/08/12 21:07
>>206
細かいことをいうようで申し訳ないが、家宣の弟は松平清武。
清武の養子のそのまた養子(系譜上の孫)が武元。
212日本@名無史さん:03/08/12 21:17
>>206
慶喜は一橋家に養子に行っていますが、
将軍になってますよ。
同じ徳川でも一応他家ですので。
213日本@名無史さん:03/08/12 21:21
養子自体が不可というのではなく、
徳川姓でない家に養子に出たらアウトということでしょ。
214日本@名無史さん:03/08/12 21:25
>>213
そうだよ。
徳川の姓がないものは将軍になれない。
ま、どうぢようもないときは、
無理やりどこかの徳川家に養子に戻したかもしれんが、
なにぶん、皆様種馬だったので、
徳川はいっぱいいました。
215日本@名無史さん:03/08/12 21:28
ただ、8代吉宗の場合を考えると、
まず紀伊家から分家して「松平頼方」という一大名だったわけで、
そのあと実家にもどって「徳川(紀伊)吉宗」になっている。

将軍継承資格のある三家・三卿の当主の場合も、
支藩から入った尾張慶勝、紀伊茂承、一橋茂栄は、はじめ松平姓だった。
216日本@名無史さん:03/08/12 22:10
ま、将軍職の優先順位としては、
家康から数えて何親等にあたるかも結構重要だよ。
吉宗は後継人物たちの中で家康の曾孫にあたるのは
吉宗と水戸の綱条だけだった。(もちろん徳川姓の中でね)

徳川姓は最低条件。それに付帯条件がつく
217日本@名無史さん:03/08/13 00:08
寛永寺にある家基の墓は他の将軍の実子の墓と違って、
将軍と同じ墓域にあり、宝塔の大きさも歴代将軍並の
扱いですね。しかし、なぜ幕府は家宣の実父みたいに
「贈征夷大将軍」を贈らなっかったのか?将軍の実父
じゃないとだめなのか?
218日本@名無史さん:03/08/13 00:48
>216
実際には「吉宗選出」ありきで、理屈は後付けでしょうけどね。

仮に吉宗と継友の間に親等の差がなかったとしたら、吉宗優位になるような
条件を外に持ってきていたんじゃないかと思いますね。
219日本@名無史さん:03/08/13 01:50
>>215
吉宗は紀伊の分家じゃなくて、
新知3万石だよ。
220日本@名無史さん:03/08/13 15:19
家基って確か鷹狩の最中に落馬して・・・
とか聞いたことがあるけど、
毒を盛られて落馬という説もあるしなあ。

とにかく、田沼と一橋がしくんだことは間違いないらしいが。
221日本@名無史さん:03/08/13 19:22
家康の陰の血
家康(陰謀好き)→頼宣(陰謀好き)→光貞→吉宗(陰謀好き)→宗尹→治済(陰謀好き)
222日本@名無史さん:03/08/13 20:30
家康の女好きの血
家康(女好き)→頼宣→光貞(女好き)→吉宗(女好き)→宗尹→治済(女好き)
⇒家斉(女好き)
223日本@名無史さん:03/08/14 13:44
>>222
家斉→家慶(女好き)
が抜けとる。

吉宗は大奥の人員を整理したりして、女好きとは言えないと思うが。
224日本@名無史さん:03/08/14 16:51
吉宗は「暴れん坊将軍」の影響があり、女性には真面目
だと思われぎみだが、実は女好きで有名。しかし家斉と
違い、公私混同をしない人だったので吉宗が大奥の人員
整理をしたのは、幕府の財政が火の車だったので経費削減と
大奥の表に対する影響力を低下させるためと思う。
江戸幕府で家光の死後、吉宗時代が唯一、幕政に大奥の影響力
がなかった期間と思われ。
225日本@名無史さん:03/08/14 18:37
吉宗の側室として知られているものは四人であるが、「清濁太平記」によれば、
二の間、三の間付きの女中などで懐妊したものは十人にのぼり、
お手つきの者は数知れないという。
これらの懐妊した女中たちは、それぞれ近侍や旗本などに下賜されたと伝えられている。
226日本@名無史さん:03/08/14 21:15
>>222
確かに紀州系には、家光系の男好きの血は入っていないな。
227日本@名無史さん:03/08/14 21:27
>>226
おまえ、馬鹿??(大笑)
228あぼーん:あぼーん
あぼーん
229日本@名無史さん:03/08/15 11:20
家基だけでは、レスが続かないな。
230日本@名無史さん:03/08/15 11:46
甲府綱重、松平清武、清水重好、松平斉民などもよろしく。
231山崎 渉:03/08/15 12:06
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
232日本@名無史さん:03/08/16 00:03
徳川吉里
233日本@名無史さん:03/08/16 00:05
厳密には「松平吉里」だな。
234日本@名無史さん:03/08/30 11:00
柳沢父子は正真正銘、「松平吉保、吉里」です。
235日本@名無史さん:03/08/30 12:12
徳川定信もな
236日本@名無史さん:03/08/30 12:21
>>235
「定信」は白河松平家に養子に入ってからの名前なので、
その名乗りはありえない。
237日本@名無史さん:03/08/31 17:38
>>206
田安は暗愚すぎて誰からも相手にされなかったというが、江戸城開城後の収拾に尽くした話もあり、演技の可能性もある。
238吉備宮:03/09/07 00:28
>>213
そうだよ。
徳川の姓がないものは将軍になれない

松平名乗ったことあっても後連枝(御三家分家)からの格上げはOK  
将軍の子や甥でも、後連枝以外の松平家や他姓はNG  
239日本@名無史さん:03/09/07 17:13
>238
実態を見ようよ。
吉宗の紀州を嗣ぐ前の時代なんて実質的には領地にも行っていないし、独立した
松平家の大名として見れるのか疑問。
実態としては、紀州家の部屋住みのまま捨て扶持としてもらっているようなもの
でしょ。御三卿の紀州家版みたいなもの。四国の分家に養子にいっていたら
アウトだったんじゃないの?
240日本@名無史さん:03/09/07 17:50
四国の分家(西条藩)は本家の相続権を持っている。
紀州本家を相続したら、当然、徳川姓となり将軍継承権が生じる。
241日本@名無史さん:03/09/07 17:52
つまり将軍家のスペアが御三家で、御三家のスペアが御連枝ということ。
242日本@名無史さん:03/09/10 12:58
うんうん
243日本@名無史さん:03/09/11 00:16
>>199
遅スレですが、ここ見ると斉民はなかなか名君ぽいよ。
>>http://www.tsuyamajo.com/history/matuke/
244日本@名無史さん:03/09/13 19:24
>>241
吉宗以降は将軍家のスペアは後三卿

>>206
松平定信は家重の弟じゃネーよ。家重の弟宗武のガキだよ。
245日本@名無史さん:03/09/30 21:17
あげとこ
246日本@名無史さん
テレビ東京で再放送中の「江戸の鷹」、今日放映された話に、家基が鷹狩り
の最中、田沼の手の者に毒殺されるシーンがあった。
出演者名もクレジットされないくらい出番が少なかったけど、時代劇で
家基の登場シーンって初めて見た気がする。