秀吉は何故家康を潰さなかったか。

このエントリーをはてなブックマークに追加
251日本@名無史さん:02/10/16 14:40
>>250
北条だけと組んだとしても秀吉はやばかった。海道一の弓取りが率いる
三河武士と武田の遺臣、坂東武者を制圧した北条軍団。弱い敵に対して
圧倒的な数で城攻めしかすることのできない秀吉と違って、家康は敵より
少ない精鋭で野戦に持ち込み連戦連勝するだろう。上杉も呼応し、優柔不断
な毛利が秀吉の背後をつくだろう。関東に封じられることもなく家康は
三河幕府を開き、北条が外様100万石として残ったかもしれない。
252日本@名無史さん:02/10/16 14:56
>>251
そこまで家康を貶すこともなかろうに……。
253日本@名無史さん:02/10/16 15:23
>>251
上杉が徳川になびくわけないでしょ?
そんなに簡単に鞍替えできる性格だったら
家康が前田家の次に上杉をターゲットにした時
家康に恭順して関が原の戦い自体が起こってないと思うぞ。
254日本@名無史さん:02/10/16 18:07
どうもここで家康を過剰評価してる奴は「家康の政治力」とかゲーム厨のように思えるな。
255日本@名無史さん:02/10/16 18:33
いや、過小評価だろ。
家康は天下を取れる好機を逸したバカだと言いたいんじゃないの(藁
256日本@名無史さん:02/10/16 21:28
もし仮に徳川、北条、伊達連合で秀吉に対抗したとする。
ここでの議論のように伊達は東北を制圧するでしょう。
北条は十分な戦力を保持したまま北関東に進出するでしょう。
徳川は対豊臣の最前線に立って戦い、仮に勝ちを収めたとしても
西国は毛利に押さえられ、畿内は群雄割拠状態に逆戻りでは?
せいぜい徳川の手に入るのは尾張、美濃だけ。
それ以上軍を進めるのは背後に北条が控えている以上危険でしょう。

その状態で東北を押さえた伊達や北条に囲まれ、西からは
毛利の圧力が…

秀吉に臣従するほうが賢明だと思いますけどね。
257日本@名無史さん:02/10/16 22:22
>>256
>秀吉に臣従するほうが賢明だと思いますけどね。
その通り!だから家康は天下が取れた!
258日本@名無史さん:02/10/17 00:17
秀吉・秀長兄弟って
尊氏・直義兄弟に似てない?
259日本@名無史さん:02/10/17 00:31
>258
今は人生選べるから
やっぱり兄弟は仲が良いから
同じ道は歩まないよね
260日本@名無史さん:02/10/17 01:45
>>257
いや、臣従したから天下が取れたは結果論過ぎて話にならんだろ。
261日本@名無史さん:02/10/17 05:53
家康の立場なら天下を取るしか生き延びる道が無い様に思える。

秀頼にどんなに忠誠を尽くしても豊臣にしてみれば徳川は厄介者でしょ?
家康は己の死後の徳川家を按じて、天下よりも徳川家の安泰の為に
天下取りに出たんじゃない?
262日本@名無史さん:02/10/17 07:17
>>261
豊臣家が徳川幕府初期のような苛烈で巧妙な圧制に出て来ればともかく
秀吉時代ぐらいでは家康の地方勢力は揺るがないでしょう。

逆に言えば、それだけの基盤がある状態で秀吉が死んだから家康は簡単に公儀を自分の元に引き寄せることができたんだろうけど
263日本@名無史さん:02/10/17 07:56
>>262にさんせー。
その成立過程の差異から豊臣政権は後の徳川政権のような
外様に対する強硬策はとりえないわけで。

264日本@名無史さん:02/10/17 10:39
三戦板でやってくれんかあんたら
三戦板がネタスレだらけになるぞ
265日本@名無史さん:02/10/17 12:47
二人はホモ達だったのさ。
266日本@名無史さん:02/10/17 19:52
豊臣滅亡の原因は五奉行を五大老の下に置いたことだ。
徳川の官僚層を構成した譜代や旗本達は、石高は低くても
お上として外様大大名に命令を下すことができた。豊臣の
ご奉行にはそれが出来なかった。
267日本@名無史さん:02/10/17 21:15
NO.2で外様な家康の立場なら>>261な考えも有ったのでは?と思ったのよ。

家康亡き後の徳川家が
成人した秀頼&石田等に「国家安康」みたいな因縁をつけられたら
秀忠ら徳川一門で上手くかわせる人材はいるのだろうか?
どう思います?
268日本@名無史さん:02/10/17 21:28
豊臣政権は構造的に外様の大大名に対して因縁をつけられない。という話では?
269日本@名無史さん:02/10/17 21:31
>>268
鎌倉政権・足利政権も配下の大勢力には因縁付けられなかったな。

鎌倉は北条をコントロールできなかったし、足利も三管領をうまく抑えることが出来なかった。
いずれも大物が死んでから強硬策で抑えようとしたけど、逆に自分があぼーん。
270日本@名無史さん:02/10/17 22:28
むしろ足利は、うまく強攻策で押さえつけたら屋台骨壊してただけだった、なのでは(藁
271日本@名無史さん:02/10/17 22:48
>>267
徳川は謀臣が多いから大丈夫だろ。
天海僧正、金地院崇伝、土井利勝、本多正純。

少なくとも、大阪のアホ臣よりは優れていると思うぞ。
272日本@名無史さん:02/10/17 23:17
なるほど、徳川家は家臣に恵まれてますね。

関白秀頼&五奉行では家康が死んだとしても
徳川には敵わないか・・・
273日本@名無史さん:02/10/18 00:52
>>272
しかも五奉行の結束がてんでばらばらだったからねぇ。

関ヶ原合戦の開始時点では、戦力は西軍の方が若干上で
地形的にも西軍優位だったんだけど・・・・
274日本@名無史さん:02/10/18 08:24
真田幸村と同じく徳川家臣が有能だなんて江戸時代の迷信だろ
豊臣家の崩壊の最大要因はしょぼい田舎の大名じゃなく
主家の適齢の家督相続者の欠如だろ?
まぁ、運が無かっただけ


275日本@名無史さん:02/10/18 09:36
>>274
>主家の適齢の家督相続者の欠如だろ?
信長もそうだったな。

徳川家臣・参謀が有能ぶりを発揮するのは、むしろ江戸幕府樹立後だね。
それまではほとんど目立たなかったし。

>主家の適齢の家督相続者の欠如だろ?
>まぁ、運が無かっただけ
秀吉の対外出征も災いしたな。
276日本@名無史さん:02/10/18 09:48
>>275
徳川幕府の初期も徳川家に豊臣政権のように武功派と官僚派の対立はあったしね。
結局トップの家康が官僚派を優先したのと家康創業時の武功派が家康より先に死んだということが大きい

結局、秀吉が家康をというのはともかく
豊臣家が徳川家を圧倒できなかったのは
秀吉が政権確立をできないうちに死んだの一言につきるね。
277日本@名無史さん:02/10/18 20:16
いや、武功派なんてものは戦争が終わったら
そもそも長期的には存在し得ないって。
2781バカ:02/10/18 20:20
そんなこと言ったら、毛利潰さなかって大政奉還はなんだよ。
結局、1つの時代は終わったと認識すれば?
279日本@名無史さん:02/10/19 00:11
>>274
徳川は名臣に恵まれとる。
 秀忠 → 土井利勝
 家光 → 土井利勝、松平信綱(知恵伊豆)
 家綱 → 松平信綱
 綱吉   柳沢吉保
 家宣   間部アキフサ
 家継   間部アキフサ
 家治   田沼意次
 家定   阿部正弘
 
特に徳川初期は、土井利勝の活躍が目覚しく、
幕府の基礎を築いたのは、まさに土井利勝といっても過言ではない。
280日本@名無史さん:02/10/19 09:17
>>277
そう長期的に存在し得ないんだから、トップが武功派を押さえている間に勢力を失っていくものだ。
ただ豊臣政権にとってはその時間が与えられなかったことと、最終的に武力衝突の可能性が消えていなかったこと
281日本@名無史さん:02/10/19 09:33
そこへ行くと家康は権限委譲をうまくやったよな。

282bloom:02/10/19 09:34
283日本@名無史さん:02/10/19 10:14
>>279

ほ  し  な  ま  さ  ゆ  き  がいないのは何でなんだ!?
284日本@名無史さん:02/10/20 00:37
保科正之が、幕府安泰のためになにをやったのか?
285日本@名無史さん:02/10/20 00:40
>>284
飢饉に苦しむ山形の農民を大虐殺。
286日本@名無史さん:02/10/20 04:36
それは素晴らしい
287日本@名無史さん:02/10/20 05:01
ほんとかよ
288285:02/10/20 15:21
寛永十五年(1638)の出羽白岩の百姓一揆(?)事件

寛永15年9月、酒井長門守の知行地の一つ、出羽国白岩でイナゴが大発生し、
農作物は全滅状態に陥り、飢饉が発生したため、百姓らは年貢の納期の延期を陳情した。
にも関わらず、酒井長門守は強硬に年貢を徴収しようとしたため百姓は反発し、
大騒動に発展した。これに対して幕府は、天領の延沢の代官に騒動鎮圧を命じたが、
鎮圧に失敗したため、保科正之が自ら鎮圧の任を買って出た。
当時、保科正之は出羽20万石を治めており、白岩の百姓等も「肥後守様ならば」と
大いに期待した。そこで保科正之は家臣に命じて白岩の百姓らに使者を送り、
「今、保科肥後守様が山形に帰国しておられるので、代表者を山形に来させよ。
解決に尽力してくれるであろう」と伝えさせた。
その言葉を信じた百姓たちは、喜んでさっそく三十五人の代表者が山形へ向かった。
ところが、山形へついたとたん、彼ら三十五人は捕らえられ、即日、山形城下の河原にて
磔刑にして殺害した。さらに白岩に兵を送り、隠れキリシタンを探すと言う名目で
多数の百姓を捕らえ、彼らを山形へ連れ去った。
(註:その後、彼らは殺害されたとも、非人の身分に落とされたとも言われる)
この、あまりの苛烈な処置に対して、やりすぎではないかと言う声もあったが、
保科正之は「これ公儀のためにもなる事なり、如何」と反論し、叱責したという。

(「千載之松」白岩一揆ノ事)




289日本@名無史さん:02/11/14 11:16
朝鮮出兵をやめて、秀吉対家康となった時、家康側に誰がつくのか?
小牧長久手の時とは情勢が違いますが・・・。
290 :02/11/14 13:45
支配者は自分の死後の事も十分考えなければいけないという教訓ですね。



291金魚:02/11/14 18:31
 家康に2つの転機があった。
1,長久手の戦いの勝利
 これで、生き残れる可能性ができた。依然として、純軍事的には家康は不利のままだ。
しかし、「家康が勝った。」という情報が全国に広まる。その政治的意味は大きい。

2,朝鮮出兵
 秀吉は迷ったと思う。朝鮮出兵か徳川家粛正か。結局は、秀吉の誇大妄想と家康の
必死の要領と駆け引きが、秀吉を朝鮮出兵に向かわせた。
292京都市民:02/11/14 18:32
めんどくさかったんじゃない秀吉さん たぶん
293日本@名無史さん:02/11/15 16:33
朝鮮出兵も十分めんどくせーっしょ(w
294日本@名無史さん:02/11/23 00:47
そういや朝鮮出兵の意義ってさ、領土獲得ではなく、単なる兵士の口減らしだったっていう説があるね。
もう国内は治まり、兵士など数はいらないのに兵糧はどんどん消費する。だったらさらに戦で減らしてしまおうという説。
治まった天下の中で、武断派の不満のはけ口だったとか、それで万が一朝鮮がとれたら
それこそ運がいいっていう話。
295日本@名無史さん:02/11/23 00:56
キリシタン大名をすりつぶす為の出兵って説は?
単に、九州にキリシタン大名が多かったからかもしれないけれど
そのような事があっても不思議じゃないと思う。
296日本@名無史さん:02/11/23 23:28
石高だと家康の所領が関東250万石でそのうち直轄領が100万石。
秀吉が所領日本全国1850万石で直轄領も日本全国220万石となる。
経済力、支配地域でいえば力の差は歴然だったよ。
297巌 ◆22jbnpRock :02/11/29 00:01
>>294
あんまりな間違い
兵士の多くは農民の足軽か、地方領主の武士
戦争させずに開墾、耕作させれば済むだけの話
(ちなみに朝鮮出兵時、家康がこれをやって国力を蓄えた)
298日本@名無史さん:02/12/01 20:20
秀吉は本当に家康をつぶせなかったのか?
秀吉は本当に家康をつぶせなかったのか?
299日本@名無史さん:02/12/01 20:26
   ´   ヾ
   ゛(⌒) ヽ
   ((、´゛))
    ||||||
   Λ_Λ   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   <;#`Д´> < アイゴー!秀吉の朝鮮侵略には
  ⊂    _つ | 謝罪と賠償を要求するニダ!!!
   | | |   \________
   〈_フ__フ
300日本@名無史さん
300万石get