大室寅之祐と睦仁=京都明治天皇は別人と言える 6

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>>499日本初!!大公開!!
徳川家康の秘密全て解けました。(大室寅之祐式読み方)

貸間さんに言いたいのだけど確か歴史捏造の歴史で家系図捏造するときに並立
した2つの王朝をたてにつなぐから時代がどんどんあとのほうに進んで行くというのが
あったよねえ。
具体的には、並立する神武天皇の王朝と考安、考昭王朝を縦につないだとか。

王朝A a-b-c-d-e
王朝B a-b-c-d-e
A+B a-b-c-d-e-a-b-c-d-e-・・・・・

でもっと早く言おうと思ったんだけど、並立する2つの家の家系図を交互にからました
というのもあるんだ。つまり

王朝A a-b-c-d-e
王朝B a-b-c-d-e
A+B a-a-b-b-c-c-d-d-e-e-・・・・・

ワカルかなあ???
そう、このこと
1代目親氏ー2代目信光ー3代親忠ー4代長親ー5代信忠ー6代清康ー7代広忠ー8代家康ー9代秀忠ー10代家光

これ、もともと
Aグループ親氏
    ー信光(親氏+信光とする。)ー長親ー清康ー家康ー家光
Bグループ親忠ー信忠ー広忠ー秀忠   なわけ。

>>508の続き
さて「忠」の字の謎解けたかな???酒井「忠」次の事。
この意味がわかれば徳川幕府の二元政治の理由がわかるよ。
Aグループが世良田徳川家(エタの松本坊の息子の子孫,徳川の南朝、童話徳川家、駿府派 世良田家康ー家康と春日局の間の家光 秀康、水戸頼房、武田信吉も家康の子)
Bグループが酒井忠次徳川家(こちらは徳川の北朝。幕閣徳川家、江戸派 酒井忠次ー徳川(酒井)秀忠ー忠長、和子、尾張義直、紀伊頼宣も秀忠の子)

北朝水戸斉昭三笠宮家系秋篠宮と南朝大室家系徳仁と2つ血筋の異なる家系が天皇家の内部に
あるように徳川家の内部にも2派あって3代将軍に誰がなるかの際、忠長と家光の対立は江戸派と駿府派の対立でもあったわけ。

貸間先生は徳川家の始祖家康がエタの松本坊の息子だから徳川家の中に南朝のDNA
をもっていた。と書かれていたがそうではなく尾張も紀伊も北朝で水戸と秀康の福井藩
と家光だけが南朝で家光には子供が出来なかったし秀康の福井藩はほとんど断絶して養子だらけ
なので実質水戸藩だけが南朝の要素をもっていたが(その後駿府城は廃城)もっと詳しく言えば水戸藩も実は
血筋が断絶していて水戸斉昭を初代とする後水戸家だけが南朝の要素をもっていた。
だから尾張も紀州も北朝の東武皇帝を支持し水戸藩(詳しくは水戸別家昭斉家)(水戸本家は有栖川宮ー北朝
を玉にした)だけ南朝の天皇を支持した。

5代将軍の時、何故幸仁親王を幕府はおしたかというと・・・・
秀忠の子供たち全員子供が出来なかった。世良田元信の息子家光の息子南朝派の後西天皇の息子幸仁親王がこの時代徳川家康の血を引く唯一の人物だったから。
4代将軍、5代将軍、6代7代将軍みな徳川家の血は引いてない。世良田家康は息子水戸頼房の代で断絶し家光は頼房の息子高松頼重を
次期将軍に据えようとしたくらいで家光は子なきため断絶。
一方秀忠の方も尾張義直、紀伊頼宣に子供なきために断絶。唯一の子孫である世良田家康ー家光ー後西天皇ー幸仁親王ー娘で男子なきため断絶。
よって徳川家も最長5代で血筋が絶えたとさ。
                          
>>509の続き 徳川家康の謎解き
さて、松平家の家系図の作り方は
Aグループ親氏
    ー信光(親氏+信光とする。)ー長親ー清康ー家康ー家光

Bグループ親忠ー信忠ー広忠ー秀忠
Aグループ+Bグループで
1代目親氏ー2代目信光ー3代親忠ー4代長親ー5代信忠ー6代清康ー7代広忠ー8代家康ー9代秀忠ー10代家光
と言う事がわかりましたね。
さて、なぜ交互かと申しますと、三井銀行と住友銀行が仲良く合併し三井住友銀行に
なった時のことを思い出してください。頭取のポストは三井銀行出身役員と住友銀行出身役員が交互に
仲良く就くでしょう。三井系の頭取が辞めて会長に退けば次の頭取は住友系から。住友系頭取が退けば
次は三井系の役員が頭取に。。といった具合で。
この点を踏まえてワカッタことは、1代目親氏ー2代目信光ー3代親忠ー4代長親
ー5代信忠ー6代清康ー7代広忠ー8代家康ー9代秀忠ー10代家光
の系図の謎は↓ということでした。
1代目江田松本坊ー2代目松平清康ー3代目松平広忠ー4代目松平元康ー5代目酒井忠次(堀田孫七)
ー6代目酒井忠次の息子松平家康(堀田孫七2世)ー7代目大久保忠世ー8代目世良田元信ー9代目酒井忠次の息子徳川秀忠ー10代目世良田家康と春日局の間の家光。

Aグループ親氏
    ー信光(親氏+信光とする。)ー長親ー清康ー家康ー家光

Bグループ親忠ー信忠ー広忠ー秀忠
↑これ式にわけてみますと
Aグループ江田松本坊
    ー松平清康(松本坊+清康とする。)ー松平元康ー松平(酒井)家康(堀田孫七2世)ー世良田元信ー家光

Bグループ松平広忠ー酒井忠次ー大久保忠世ー徳川(酒井)秀忠
こうなります。


  
>>510の続き
家康について
4代目松平元康が1561年数え20の時、守山崩れ(清康の時代の事とされている)
で殺されてしまう。そこで三河一向一揆の真相は松平家の跡目争いのことで
世良田元信が松平元康の息子である信康を奪って玉にし酒井忠次と戦ったのが
本当の所です。酒井忠次は松平広忠の姉と結婚し養子のような形で松平家に入り
込みました。酒井忠次と広忠の姉の間の子が松平家康。つまり忠次の玉は松平家康です。
忠次は松平家康を松平家の後継にしたいし、世良田の大義名分は松平元康の子信康を
松平家の後継者にすることで世良田がキャスティングボード(玉)を握るというわけ。
激しい戦いの中で松平家康は討ち死にして(玉が武具にあたったが助かったことになっている)
世良田が有利になって行き1548年生れのサル年生れの世良田元信が1564年、満16歳の時、
岡崎城に入った。(松平家康として)(幼少の信康とともに)この辺は明治天皇に似ている。
ただ酒井忠次も力は温存していて吉田城となって世良田と協力し三河を統一
することになる。旧(元祖)松平家はここに終焉し、酒井と世良田の三河二元政治が
始まった。そしてその証拠に世良田元信は松平家とは何の関連もないから「徳川」に苗字を
変える。岡崎城とも縁が薄いのでさっさと信康に岡崎城を譲り1570年に浜松城に移る。
酒井忠次は上皇に似ていて世良田の息子秀康と忠次の息子秀忠どちらが2代将軍
になるかの時、忠次の力で秀忠が決定したし、(秀康は家康に似すぎていたとは世良田家康
の子が秀康と言う意味)3代将軍の時は世良田家康の力で息子の家光に決定した。
つまり忠長の父秀忠より家康のほうが権力あったから。
 ※家康は大阪の冬の陣の時殺されて堺の寺に家康の墓が存在するがこれはホントの事。
以後の家康はもちろん本多正信が家康になりすました。家康の没年は正信の没年に合わせた
ものでタヌキオヤジのイメージは正信のこと。
日光東照宮のサルは世良田家康がサル年にちなんだもので松平元康は1842年生れで寅年。(世良田の生年は松平元康にあわせた)
 次回本能寺の変の真相に迫る。
    ご期待ください!!