仁徳天皇

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593日本@名無史さん:03/08/18 10:37
どしたの?
594日本@名無史さん:03/08/19 08:54
ちょっとね・・・
595日本@名無史さん:03/08/19 08:56
仁徳ハッカッカ ヒジリキホッッキョッキョ
596日本@名無史さん:03/08/22 21:49
>>589
仁孝天皇は明仁の祖父の曽祖父。
他に何か語る事ってあるのか。
597日本@名無史さん:03/08/29 23:47
598日本@名無史さん:03/08/30 14:58
ニヒヒヒヒ
599日本@名無史さん:03/09/06 19:25
イヒヒヒヒ
600日本@名無史さん:03/09/14 21:37
ヒヒヒヒヒ
601日本@名無史さん:03/09/15 17:21
にんとーく
602日本@名無史さん:03/09/15 17:36
へんっしーん!とおっっ!!
603日本@名無史さん:03/09/23 22:00
604太国玉:03/09/26 19:34
大雀命 難波宮にて即位  西紀313年1月3日
若年の頃は、ウジノワキイラツコがキラキラであったが、大雀命は
風体が地味で鈍の、見目かんばしい男ではなかったが、まじめ一方
の素直な者ではあった。ワキイラツコも心情の良い男であった。
誉田別尊の皇位継承の話の時世にても同様ではあったが、ワキイラツコ
が自殺した前後の頃から、次第に大雀命にかつて無いほど、姿、なりふり
に威厳が現れるようになった。驚異の変貌と云えよう。そしてついに即位した。
605太国玉:03/09/26 22:34
ワキイラツコの性格は兎の道、即ち草食動物の生きる道であった。
王道を立てるには武道が見える。彼にはこれが耐えられず、皇位
は荷が重過ぎたのでした。これが精神的負担になり、長く悩んで
いましたが、やがて自殺への破綻となるのでした。
一方肉食動物でなくては収まらぬのが王権、即権力争いの道ハヤブサ
でしたが、これを辛くも押しとどめる大雀の心情であるのが、御名
のとおりの大雀命でした。命は本来は小雀の粟、稗等を食べる草食名
ですが、弱肉強食の王権世界では、やむを得ぬ菜食をきわどくも横へ
置く大雀の体を保つ姿をとって行くのでした。命と隼別皇子との葛藤
の因はこの辺にあります。

606日本@名無史さん:03/09/26 22:35
中国人はカエレ!
607太国玉:03/09/28 10:07
唐土(toad)に帰る。
608日本@名無市:03/10/06 21:51
日本が沈没したあとに、仁徳稜はひょうたん島になんだよ!
とりあえず、東大建てとけ!!
609日本@名無史さん:03/10/06 21:54
610日本@名無史さん:03/10/07 00:21
仁も徳もある奴が莫大な国費と奴隷を使って、
生前巨大墓を作るはずは無い。
611日本@名無史さん:03/10/07 00:25
>>610
国費も奴隷も使っていません。カンパとボランティアでつ(w
612テツ:03/10/07 04:05
仁徳天皇稜についての説明の看板〜♪
日本語と英語のモノでは内容違うのなんでだろう〜♪
613日本@名無史さん:03/10/07 04:21
>次第に大雀命にかつて無いほど、姿、なりふりに威厳が現れるようになった。
昔からだよ。ヴァ〜カ
>ワキイラツコの性格は兎の道、
宇治に住んでたからだよ、ヴァ〜カ
>王道を立てるには武道が見える。彼にはこれが耐えられず、
大山守殺してるよ、ヴァ〜カ
614日本@名無史さん:03/10/07 09:08
>>611
天皇制維持もカンパとボランティアでお願いネ
615日本@名無史さん:03/10/07 16:22
>>614
もちろんだ。天皇民営化マンセー。

・・・・ただし戦前の皇室財産すべて返還してからな(w
616太国玉:03/10/07 21:31
部阿  孫行者、一打、唐土から落迦山へ!
617太国玉:03/10/07 22:42
落迦山の裏山か潮音洞のあたりに、雑食性の大山守の相棒?ペアらしき者
がいるよ。 部阿(bear)  部対会(仏衣会)の怪物
618日本@名無史さん:03/10/07 23:16
>>615
江戸時代の貧乏生活で充分。今、生活保護出し過ぎ。
619日本@名無史さん:03/10/16 21:03
620日本@名無史さん:03/10/19 12:11
ん!?
621太国玉:03/10/19 12:43
黒風怪の後身  守山大神
622日本@名無史:03/10/19 19:38
鍵師だろ?
623日本@名無史さん:03/10/23 17:36
キーマン
624太国玉:03/10/23 20:18
Sir The Key
625日本@名無史さん:03/10/25 17:48
みんな、もっと真面目に発言しよーぜ!
626日本@名無史さん:03/10/25 21:31
ふぁ〜い
627日本@名無史さん:03/10/31 00:21
眠いか?
628日本@名無史さん:03/11/08 23:46
大仙古墳は明治になってから仁徳陵になったそうです。
記紀や延喜式は読まなくていいらしいです。
http://www.tetsureki.com/home/labo/shinso/kohun.html
629日本@名無史さん:03/11/30 03:19
やっぱり本当は大仙古墳は大山皇子の墓ではないの?
630太国玉:03/11/30 08:44
ケムリを望みて黎元を撫でたまひ。今に聖帝と伝ふ。
白煙ならよいが?・・・・・   もしも黒煙ならば、あ〜ら黒風怪!守山大神。
631日本@名無史さん:03/11/30 09:36
ある日、オオササギのミコトは、高津宮の高殿から
難波の町を御覧になり、どの室からも煙がのぼっていないことに気付きました。
「おお、どの家からも煙あがってへん!
 電化製品いきとどいた言うこっちゃな!
 よしよし」
632日本@名無史さん:03/11/30 10:41
侵略者応神天皇はよく神社に祭られているね(八幡さん)

聖帝仁徳はん・・・・人気有まへん。有名神社おまへん

日本人は 立派な人嫌いなんや〜
633日本@名無史さん:03/11/30 11:00
ここで怨霊信仰の話だしていいですか?
立派な人なら祭らなくても、祟らない。
恨みをもって死んだ人やDQNな人は、祟らないように祭る必要がある。
さぁ、叩け。よっしゃこい。
634日本@名無史さん:03/11/30 11:40
古墳づくり

まず、候補地決めて、樹を伐採。測量して墳丘予定場所はともかく、周辺の
かなりの面積を平地化。埴輪を焼く場所を決め、あと人夫の居住区を作成。
のべ何十万人が20年くらいかけて作るから、当然集落ができ市が立つ。
壕をつくり墳丘を盛り上げるというのは土木工事そのものであるから
土木経験者を大量に作り出すことになり、各地の開墾灌漑技術者育成につながる。
埴輪制作を通じて焼き物職人も大量に育成。とにかく人が集まり、技術者が育つ。
食い詰めたものは、人夫になれればとりあえず飯は食える。

エジプトのピラミッド、公共工事説、民衆は喜んで制作に加わったという話が
あるが、巨大古墳作りも、当てはまるような気がする。

つまり、民衆が食い詰め(竈の煙が見えない)とき、古墳づくり(公共工事
として寿陵をつくらせる)ととりあえず飯が食え、産業振興ができるんじゃないかな。

もちろん前提として皇室・豪族が莫大な財産を抱えていたことが前提だが。
当時赤字国債なんて考えはないだろうからね。
635日本@名無史さん:03/11/30 12:08
長城や壮大な宮殿、広大な陵墓などの造営や、道路網の整備は、
まさしくその公共工事であり、大土木工事であったのだが、
結果として、それがために民衆は困窮し、その結果、秦はほろんだ・・・・・
636日本@名無史さん:03/11/30 12:27
そういうふうにもなりうるね。

初期の大王陵は岡の上に作ることが多い。(仁徳は平地。溝を作らなければ
水不足になるところ)
墳丘の土は壕の土だけでは足りず、どこかから運んでこなければ
ならない。土を取るにはどこかの樹をきり、丘を切りくずさなければ
ならない。その跡地は田畑・住宅地・ため池となったと思う。樹は建築資材、
炭として利用しただろう。壕も排水施設がなければ大雨の後あふれてしまう。
当然農業用水としての利用も考えられたろう。

そんな風に思う。
637日本@名無史さん:03/11/30 12:28
>溝を作らなければ 水不足になるところ

訂正、 治水が難しいところ。
638太国玉:03/11/30 14:15
ははぁ、 大雀命の御陵と烏鶏国王の井戸か。
639日本@名無史さん:03/12/13 08:00
結局仁徳出てこないのぉ・・・。
640日本@名無史さん:03/12/28 18:45
ホイサーホイサー
641仁徳:03/12/28 21:44
仁徳だけど。

>>639
何か質問ある?
642日本@名無史さん
そんな仁徳はいやだ。