>>440 まったく空想の域を出ないんだけど、ちょっと思ったのは・・・
越前三国の旧地名に十三というところがあったなら、それを“十三湊と無関係”とは断定できないよね?
新潟・出雲崎の地名由来が古代の出雲とリンクするように、
漂着や日本海海運の縁で「ゆかりの地名がついた」のかも知れない。
同様の例は日本海に限らず安房などにも多数認められるわけだし。
前出の羽賀寺の例に見られるように、津軽⇔若狭が密接な関係にあったと考えるなら、なおさら。
450 :
しったかぶり:2005/11/17(木) 21:59:12
>>449 1433年 「満済准郷后日記」 で安藤氏は南部と争い一旦エソカ島に没落
幕府の斡旋で講和(津軽に戻ったらしい。)
この後根本資料はないのですが、1444年 嘉吉の乱頃再度南部氏が
安藤氏を責めて蝦夷へ敗走させ、この時十三湊は燃え落ちたらしい。
その後、南部氏は十三湊を使わなかったようですので、「政所内談記録」
は1463年で、十三湊はこの時使われてないと思われます。
ですので、十三丸と津軽十三湊との関係は不明、と思われます。
しかし若狭武田氏とくれば武田信広、若狭の羽賀等、何となく津軽、蝦夷と
関係ありそうな気もしますが、断定できるまでは、どうでしょう?
451 :
449:2005/11/19(土) 00:18:32
そうですね。三国湊の旧地名のひとつに“十三”があるのも知らなかったぐらいなので・・・
時国家・南惣家や渤海使研究などが目当てで北陸・能登へはよく出かけるので、
今度行く時には越前・若狭にも足を伸ばして調べてみます。
>>442 >浪岡御所の管理下にあった
油川湊が繁栄しているようです。外が浜ですね。
油川が浪岡御所の管理下?油川城(館)には南部が居住し、統治してたハズだが・・・。
浪岡北畠の領土であった浪岡〜津軽北部も本来は南部領。
453 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 16:25:50
「本来は」って
その前は南部じゃないよ
454 :
しったかぶり:2005/11/29(火) 20:50:44
>>452 >油川城(館)には南部が居住し、統治してたハズだが・・・。
その資料は何か教えていただきたい。
確かに、正確さにかけますね、、外が浜の油川は「浪岡御所」が支配してたかも知れない
というべきですね。
何せ、この15世紀からの資料はあんまりありませんので、難しいところです。
455 :
1 ◆ANDO.MkcM. :2005/11/29(火) 21:25:10
スレ立てておいて最近来てませんでしたが、活況うれしい限りです。
>>452 浪岡以前に旧浪岡領を南部が支配していたとは寡聞にして知りませんでしたが
私もどの資料にあるのかご教示願いたいです。
南部の津軽進出は、そんなに前なのですか?
456 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 08:51:53
age
457 :
1 ◆ANDO.MkcM. :2006/01/04(水) 13:03:14
おめでとうございます。今年もよろしく。
458 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 10:30:04
452のソースまだぁ?
459 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 16:28:06
堤はどうなんでしょう?
461 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 18:30:53
青森市はもともと南部のものだ
南部の家来の分際で県庁とは生意気だ
県庁は八戸か三戸にかえせ
462 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 22:37:08
海保嶺夫の『エゾの歴史』が出たので読んだんだが、1264〜1308年の
樺太における元と骨嵬との戦いで、骨嵬を指揮したのは安藤氏ではないかと
書いてて仰天した。
理由は、「エゾ地全域に相当の力を行使しえ、これらを統一的に指揮しうる
組織と人物」は蝦夷管領である安藤氏しかいないから、だそうだ・・・
「(『日蓮上人遺文』でエゾに頸を取られたと記されている)安藤五郎自身が
初代の蝦夷管領で対元戦争に備えての任命であったと思われる」とまで
言い切っている。
どうしちゃったの海保さん・・・
463 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 15:54:43
確かに言い切るのはどうかしてますねえ。
個人的には同意したくなる意見ですが、当時の骨嵬の部族連合なり
有力首長が統率した可能性もある訳ですから。
戦闘行為は狩猟の延長ですから別に安東氏でなくても指揮命令はできますし。
464 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 20:43:04
ちんぽ
465 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 21:36:05
>>461 黙れ南部の山猿。大人しく戦闘機と遊んでろ。青森の県庁所在地は津軽為信様が開かれた津軽地方の青森市に決まってる。
466 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 08:14:09
>>452 >>454 >>455 これ蓬田村の村史だけど、南部師行が建武年間に外が浜のあちこちに
所領をもらったと書いてるな。まあ油川(大浜)の名前は出てこないが。
ttp://www.net.pref.aomori.jp/yomogita/www/gida/sont/sont3.htm 外浜内摩部郷、竝未給村々、泉田、湖方、中沢、真板、佐比内、中目等村、
被宛行南部又次郎師行、同一族等候。
可御沙汰之由、被仰政処畢、然而同莅彼所、無事之煩、可令沙汰者、
依仰執達如件
建武二年三月十日
大蔵権少輔清高奉
尾張弾正正左エ衛門 殿
村史の執筆者は、この尾張弾正を津軽奉行人成田頼時に比定している。
文書の出典は(上記サイトにおいては)明らかにされてない。
また、上記の「湖方」を潮方の誤記としている。いわずとしれた、潮潟安東
政季の苗字の地。政季という人物の出自にまたひとつ疑惑が・・・
467 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 08:26:35
>>463 自分は安藤氏の関与には否定的です。そんな大規模な遠征を行っていたら、
秋田実季がどこかから調べてきて、大喜びで系図に書き入れてそうですから。
まあ史実なら何らかの記録や伝承に残らないわけがないと思ってます。
元側の記録にも、倭人の関与は一切登場しませんし。
>>466 これは「根城南部家文書」ですね。北畠顕家からのものです。
この後、南北朝の争いが起きてこのまますんなり南部氏が統治したかどうか
疑問が残りますが、「多分」南部氏が領有権を主張できたでしょう。
その後、北畠氏に与えたものと思っています。浪岡御所の成立時期はいまだ
不明です。
<尾張弾正左エ衛門 は成田頼時の可能性は大いにあると思いますが、
一昨年でた「青森県史」では、「斯波氏」の誰かではないかと言っております。
この国宣は1335年です。「油川」の地名は南北朝期には見たことがないので
この時期からあったかどうか不明とするべきでしょう。
この後おきる安藤氏と南部氏との争いはこの津軽の所領の争いが遠因ではないかと
思っております。
黒石は、工藤氏を通じて南部氏のものになっていますし。
「潮潟四郎」は安藤氏の一族ですが、宗家につかず南朝方についたらしいです。
469 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 12:57:41
496 :日本@名無史さん :2006/03/16(木) 00:05:44
我々が夢見る光景は弘前上空に立ち上る閃光とキノコ雲をこの眼で確認することだ。
>>462 これは前にどこかで見たような気がするけど、
どうしちゃったの海保さん・・・ と私も思います。
「元史」に詳しい人がホームページを開いてたと思いますがURL忘れました。
471 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 22:09:57
終わったな、海保...
終わったは言い過ぎじゃないかな。
ただ、やっぱり安藤氏に何でも背負わせるのはどうかと思うんだな。
骨嵬の戦いについていえば、まずは樺太アイヌの成立や社会体制、交易
活動などについて検討するのが先で、次に北海道アイヌのバックアップが
あったかどうかを検証するべき。安藤氏の関与に関する検討はその後で
ないと。
474 :
1 ◆ANDO.MkcM. :2006/03/20(月) 14:07:21
そうですね。北海道アイヌと安藤氏の関係は兎も角
樺太アイヌと安藤氏に何らかの関係が認められないうちには
軽々に論じられないとは思います。
あとは
>>467に同意(笑)
蝦夷管領ってなにやってたんですかね?
アイヌを支配してたの?
アイヌとの交易窓口を仕切ってた程度?
>「蝦夷管領職」があったかどうか疑問。
「諏訪明神絵詞」にしかでてこないと思いますが、いかがでしょうか?
他に文献がありましたらおしえてください。
蝦夷管領って、
辞典類の鎌倉幕府職制表には必ずといっていいほど出てくるんだが
そんなにアヤフヤなものなのか?
478 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 10:28:11
スレタイ検索しにくい
ホシュ
480 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 22:25:00
ひっそりと、歴史を面白く。
696か・・・ちょうど一ヶ月ともなるとだいぶ下がるな。
482 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 08:42:26
なんと
483 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 14:54:12
安東氏(安藤氏)は、アントン氏で、アン・ジョンファンと同族という
あやふやな解説を浴びてきました…。体力落ちた。
484 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:48:19
馬鹿馬鹿しい
485 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:57:19
安東氏はローマ皇帝のアントニウスと関係あるんじゃないのか?
486 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 22:21:01
487 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 14:44:33
あるよ
488 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 10:20:33
結局、「安倍」と「安藤」の関係は?
489 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 04:35:57
関係はないよ。
南部氏が、源氏を名のり、曾我氏が平氏をを名のるように
安藤氏は、安倍氏を名のったと思います。
491 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 00:25:33
しょせんは津軽
海保さんの『中世の蝦夷地』をひさしぶりに読み返したんだけど・・・
やっぱりこの領域の歴史は、この人の研究成果を抜きにしては語れないと再認識した。
飛躍モード・暴走モードに入ってしまう箇所は確かにあるし、賛否両論はあって当然。
でも、中央の資料(今昔物語とか)と対比させてエミシとエゾの区分に言及するところとか、
“渡党”の実体について突っ込み気味に推論するところとか、「やっぱりいいなあ・・・」と思ったよ。
さまざまな反対意見が出揃って、今や揶揄の対象になってしまった感のある江上氏の騎馬〜説について、
考古学者の森浩一氏が「叩き台としての価値はまったく失われていない」と擁護していたけど、
海保史学もその域に入ったと考えていいんじゃないかなあ。
493 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:11:30
消すのはもったいないから、あげ。
494 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:17:31
>>492 武田信広が蠣崎家の跡ついだって説、最近はわずかだが
疑問視されてるらしい。そもそも出自が全く不明で、
いくらコシャマインの乱で武功を挙げたといっても
分家を継げるほど由緒正しい人物じゃないそうだ。
さらに津軽安東氏はその後、津軽から撤退してるが、
信広を取り立てたことで自分の首を絞めているんだけど、
それも手伝ってるらしい。
おれは492ではないが、海保さんは武田信広がリアル源氏だなんて言ってない。
むしろこのスレ上で出てきた「十三丸の騒動に関与していたような、越前由来の海運従事者じゃないか」
――と推察している。
蠣崎・松前が新羅三郎の裔を称しているのは、あからさまな仮冒でしょう。
>>495 武田を名乗る客将が継いだかどうかではなく、
信広自身の出自があやふやということ?
497 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 14:07:37
そう。越前から渡ってきた、文字通りの“渡党”でしょう。
南部が源義光流だから、その対抗上かもね