1 :
旧安東スレの1 ◆ANDObCPY :
津軽の安東氏については、系図も混乱しており、安倍氏説、藤原氏説などが並立しています。
安藤と書いたり安東と書いたり、若狭の羽賀寺には安倍康季の銘があったり、姓ひとつとっても混乱しています。
蝦夷管領の職務を遂行するため、蝦夷に縁の深い「安倍」姓を名乗っただけなのでしょうか?
また「藤原」姓を名乗ったのも、奥州(平泉)藤原氏の正当後継者と主張したかっただけなのでしょうか?
安東蓮聖、円恵親子に見られるように、鎌倉中期には有力御内人として安東の姓を名乗る人が登場しますが、彼らと津軽安東氏とは何か関係があるのでしょうか?
前スレで分かったことは、
1.「蓮聖の安東氏」は駿河出身の可能性が高い。
2.東鑑に頼朝の奥州征伐の時に参陣した安藤氏がみえる。遅くとも奥州藤原氏の末期頃には安藤氏は存在したとみていいのではないか?
その頃はまだ福島県下の山民の首領のような存在だったらしい。
3.「津軽安藤氏」は鎌倉時代初期から北条氏の被官だった。
そのころには津軽に本拠をもつようになっている。
4.「津軽安藤氏」が長髄彦の兄・安日の子孫という伝説は、室町時代ころ成立の「曽我物語」以降に見られる説であり、「曽我物語」の創作の可能性が高く、江戸初期に編纂した系図も、「曽我物語」の影響を受けているのではないか?
5.「津軽安藤氏」は藤原系の可能性がある。平泉の藤原との関係は不明。
6.安倍氏は前九年役で衰退、「津軽安藤氏」は福島付近の山民首領出身で鎌倉時代から津軽入り、「蓮聖の安東氏」は駿河出身、だとすると、全部別系統の可能性が高い。
以上です。
更なる情報はないのでしょうか?
前スレ
津軽安東氏について(東日流ネタご遠慮ください)
http://mentai.2ch.net/history/kako/985/985251450.html 関連スレ
//安東氏の棟梁秋田家//
http://mentai.2ch.net/history/kako/1012/10127/1012744804.html 地味な一族「安藤」について語り合いたい。
http://mentai.2ch.net/history/kako/1011/10112/1011243012.html
2 :
日本@名無史さん:02/09/13 09:47
2
安東アナはムキムキきんにくん
4 :
日本@名無史さん:02/09/17 02:07
前スレはなかなか良スレだったけど、そろそろ新情報も打止めでは。
【安東のはじめ】
>『姓氏家系大系』(太田亮、昭和38年発行)の中で、
>豊後の安東氏が957〜960年に存在したと記載
>されているのが最も古い。
>それと最初の安東は伊勢安濃川の東西の安東・安西か、駿河安倍川の東西の安東・安西か
>どちらが古いのかよく調べてみないと分からん。(『姓氏家系大系』は鵜のみにできないぞ)
駿河の安東氏が念頭にあったから駿河安倍川が起源かと思ったが、
豊後の安東氏の方が古いのなら伊勢安濃川の方が起源かも。
いや、もともと二系統あった可能性も高いが。
【安藤のはじめ】
>『保元物語』(保元の乱・1156年)に信濃の安藤次、
> 安藤三が出陣とある
>安藤のはじまりは安芸の藤原か安房の藤原かわからんけどたぶん後者みたいね。
安房→信濃→陸奥(福島県)と移動? 信濃と福島は「山民つながり」でもあるね。
藤原氏で安芸守や安房守になった人はいくらでもいたろうし、
(「国司補任」に一覧になってるはず)
その中で現地に土着したケースも
どうにかして調べる方法はあると思うヨ
7 :
日本@名無史さん:02/09/17 13:55
有名どころでは平忠常の乱の時に安房守藤原光業ってのがいたね。
こいつが安藤氏の本当の先祖かな。
保元の乱以前に限定で安芸の方だと、
1)1027年頃に、前安芸守藤原良資
2)源義家に娘を嫁がせた安芸守藤原有継(日野流?)
がある。
でも源義家と婚姻するほどの事実があったら後世に武士におちぶれても
絶対に子孫代々誇り続けると思うが。
安房守藤原光業ってのは忠常の乱で京都に逃げ帰ったりしてるので
先祖として自慢にもならんから伝承されず子孫から忘れられたのかも。
9 :
旧安東スレの1 ◆ANDObCPY :02/09/18 12:53
>>4-8 いやいや、みなさん次から次へと新情報ありがとうございます。
決して打ち止めなんかじゃないですよ。
前スレで不明だった部分や「東」と「藤」の混同の原因など、まだまだネタはあると思います。
なんか個人的感想では安房守藤原光業が有力な気もしますが。
10 :
日本@名無史さん:02/09/19 09:11
残念ながら
>>4-8は旧スレの常連で同一人物です。
漏れの本意は
>>5 安房守藤原光業はたまたま有名なだけで仮によりあげてみただけ。
(たしかに安芸よりは安房って感じはするけど)
平忠常の乱の後、房総は忠常の子孫が土着繁栄して、他の氏族は居所がなくなったみたいだね。
だから仮説としては、忠常系の平氏に圧迫された藤原光業(本人かその子孫)が
信濃に新天地を求めた、と。でもそしたら「安藤」って名乗るかな?
もっと古い時代の安房守かも。
いや藤原光業である可能性が高いように感じることもあるんだけど
この時代の専門家でないのでよくつかめない。
(続き)
あるいは信濃に本拠を移した後も、忠常系の平氏に圧迫されつつあった安房の
正統な領有権を主張するためにあえて「安藤」と名乗り続けたのかな。
12 :
◆ANDObCPY :02/09/19 11:25
ああ、あの方ですねw
いつもいつもありがとうございます。
なんか雑談スレになってしまいそうですが、こういうことから少しづつ情報を積み上げていきたいと思います。
要するに、東鑑、保暦間記以外の安東、安藤情報で何か埋まらないかということなんです。
「名」字とは言え、○藤型の名字は領地とは直接の関係がない場合も多いですし、安房守藤原光業の子孫ということも十分考えられると思います。
ただ、だとしたら何かの系図にでも載っていてもおかしくないかなとも思います。
思いつきですが、安達との関係はないのでしょうかね?
安達も藤原姓でしたよね?しかも本貫は福島だったように思います。
13 :
日本@名無史さん:02/09/19 20:11
日本史板にいる複数の安藤さんの発祥県と家紋を知りたい。
もし福島県にこだわるなら、
藤原系安達氏の他にも安積国造の子孫という安藤氏があったような。
しかしこれらはおそらくかなり後世にでてきた説じゃないかな?
それに保元の乱の頃にすでに信州の安藤があったってのはかなり大きなことで、
あんまり奥州征伐の時の福島の安藤にこだわるのはどうかな?
15 :
日本@名無史さん:02/09/23 19:05
「尊卑文脈」なんかに光業とかでてこないの?
16 :
◆ANDObCPY :02/09/25 11:17
とりあえず、安藤についての中間まとめw
1156 「保元物語」信濃の安藤次、安藤三
1189 「東鑑」陸奥の安藤次、三沢安藤四郎
義時 「保歴間記」安藤五郎(東夷地支配)
義時 「諏訪大明神絵詞」安藤太(蝦夷管領)
1275 「日蓮聖人遺文」蝦夷管領安藤五郎
1322 「保暦間記」奥州ニ安藤五郎三郎同又太郎ト云者アリ
※ 「太平記」新田義貞の舅安藤
(「鑁阿寺新田足利両家系図」新田義顕の母上野国甘羅令安藤左衛門五郎藤原重保女)
で、これを同一家系と考えると、信州→陸奥(福島)→陸奥(津軽)ってことになります。
福島に拘るわけではないです。単に思いつきです。
17 :
日本@名無史さん:02/09/25 17:16
「尊卑文脈」の索引みたら藤原光業って4ケ所にでてた。
「安藤太」の太って「ふとし」と読むのですか?
19 :
1 ◆ANDObCPY :02/09/26 12:52
ネタだとは思うが…
安藤太郎の略というか、俵藤太とかと同じような感じ。
トウタと読むべきだろうな。
「あんどう・た」なのか「あん・とうた」なのか
わからないね。意味いっしょだからどっちでもいいけど。
21 :
日本@名無史さん:02/09/26 17:42
秋田書店は関係あるのかい?
22 :
日本@名無史さん:02/09/26 17:51
区切らない。
「あんどうた」
23 :
1 ◆/EANDObCPY :02/10/03 11:45
>>19でトウタと書いたが、全体を通して読むと当然22の言うとおり
「アンドウタ」だろうなあ。
語源からいうと20と同じ意見なんだが。
24 :
日本@名無史さん:02/10/03 12:31
加藤次景廉
もいるね。
25 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/10/03 16:20
トリップ10桁化に伴い、トリップ変更しました。
>>24 そういうのって平安末から鎌倉にかけて多いけど、どう読めばいいんですかねえ?
カトウジなのは間違いないだろうけど。
26 :
日本@名無史さん:02/10/03 20:29
「太」や「次」のあとには「郎」の字にきまっててそれ以外ありえないから
わざわざ書かなかったってだけでは?
当時(平安末から鎌倉)は安藤太とかいても読みは「あんどうたろう」
加藤次とかいても「かとうじろう」とちゃんと呼んでいたのが
時代が下がって
(そんな略した書き方がすたれると、略して書いているということが理解でできず)
くるにつれ次第に字づらにひかれて
「あんどうた」「かとうじ」と読むようになった。という仮説はどう?
27 :
日本@名無史さん:02/10/04 11:26
安○○
藤原
太郎
の略でしょう。
28 :
日本@名無史さん:02/10/06 21:37
安藤氏は、自信を安部氏の末裔だとか藤原氏の血をひいてるとか唱えてますが、
それは全くあり得ないと言うことでよろしいんでしょうか?
29 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/10/07 09:28
全くあり得ないとか、そういう断定はできないが、藤原氏は日本中に分布しているから、幾分かの血を引いている可能性は案外高いのでは?
ただし、福島とか信州出身ということであれば、衣館の安倍氏との関係は薄いだろうと思われ。
もちろん、女系とか傍系で後に繋がっていることは十分に考えられるけれど。
30 :
日本@名無史さん:02/10/08 20:53
安倍って姓がないのかね?
陸奥話記には書いていないね。
清原は真人なのに。
カバネは八色之姓のうち上位4位までしか名乗る価値がないので、
もとからカバネがなかったと即断はできない。
おそらく「阿部臣」だったのでは。
「安倍」というのは「陸奥話記」以降に定着した表記であって、
リアルタイムでは「阿部」と表記されていた。
そして彼らのカバネは奈良時代に俘囚に賜姓されたもので
たしか「臣」だったと思うけどうろ覚えですまん。
32 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/10/09 12:41
奈良時代の俘囚姓って、多分「阿部○○臣」(○○には地名が入る)のことだと思うけど、確かにそういう説はあるね。(確か高橋崇だったか?)
でも、前段の名乗る価値がないってのにはちょっと疑問。
五位には上2つ(真人、朝臣)しかなれないって話も聞いたことがあるけど真偽のほどは分からん。
まあ、正式な表記がなされない可能性は高いけどね。
だから安倍にも姓があった可能性はあるよ
>>30 多分、31のいうような○○部→○○公→阿部○○臣のような賜姓の過程を経ていると思う。
ほとんど同意。だけど
>でも、前段の名乗る価値がないってのにはちょっと疑問。
なんで?
八色姓以降しばらくすると雑姓は消え、さらにしばらくすると
真人・朝臣・宿禰・忌寸の4姓だけになり、その後、真人・朝臣だけになり
最後に朝臣だけになったんで、カバネってのは徐々に消滅したんでは?
いっぺんに消えたって方が不自然なのでは?
34 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/10/10 12:01
>>33 そういうことなら同意というか理解できる。
名乗る価値がなかったから何時の頃からか消滅していたってことでしょ?
そういうことはあった可能性高いね。
いっぺんに消えたとは思っていないよ。
ただ、無姓よりは「臣」でもましなんじゃないかと思っていただけ。
当時既に「臣」姓が消えていたってことならあり得るから理解した。
姓あった可能性あるのか
臣姓が平安中期以降記録されないってのはどれだけ信憑性あるんかいな?
さあ。
よくわからんけど、平安中期以降、
一般的ごくふつうには臣だの連だの名乗られてないだろ。
37 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/10/15 18:10
見かけませんね。確かに。
みんな朝臣などに改姓してる。
羽州清原氏って、もしかしたら真人姓最後で最大の繁栄?
39 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/10/16 09:09
ちゃうちゃう。
足利氏執事の高師直は高階真人師直。
最大最後の繁栄って言ったらこっちでしょう。
40 :
日本@名無史さん:02/10/16 11:14
>>33 >最後に朝臣だけになったんで、
少なくとも「宿禰」は残っていたと思ったけど。
41 :
日本@名無史さん:02/10/16 11:18
なぜ麻薬を…
すんません、誤爆です。
43 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/10/16 15:52
宿禰は確かに残っているよね。
明治維新の頃、伊藤博文は職員録に越智宿彌博文と載っていたりするしね。
33の言っているのは、例えば土師宿禰が菅原朝臣に改姓したようなことでしょ?
そういう意味では平安時代中期以降の公卿では、ほぼ朝臣を称する氏族しかいないのは事実。
明治維新の頃でさえ、西郷隆盛は平朝臣隆盛、大久保利通は藤原朝臣利通、大隈重信は菅原朝臣重信、板垣退助は平朝臣正形と偽系図だろうがなんだろうが普通は朝臣を名乗るようになったということ。
44 :
日本@名無史さん:02/10/16 18:01
>>43 矛盾しているよ。というか言っていることが意味不明。
伊藤博文が「宿彌」だというのなら
>最後に朝臣だけになった
というのはおかしいよ。
>普通は朝臣を名乗るようになったということ。
「普通」ってなんだよ。
45 :
ロリ−タ−と即アポ:02/10/16 18:02
46 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/10/16 19:09
えっと、確かに私は
>>34で理解を示していますし、
>>37では「みんな」と発言してるけど、
>>39では真人が残っている実例を挙げていますし、朝臣「だけ」になったということを
積極的に主張しているつもりはなかったのですが。
>最後に朝臣だけになった
って発言は私じゃないですし。そのニュアンスだけ肯定したってつもりです。
>普通は
ってのは、例えば公卿補任とか、公家の日記の表記を想定していました。
誤解させたのは文章下手だからでしょう。スマソ。
でも意味不明とまではいかないかと。
47 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/10/16 19:14
補足。
「普通」というのは「一般的」と置き換えて下さい。
実際、物部だって朝臣与えられていますからね。
明治維新の例は極端だったと思います。
これは安藤スレなので、そろそろこの話題は切り上げたいのですが…
48 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/10/22 17:56
ちょっと交通整理&保守。
今のところ、
1.「蓮聖の安東氏」は駿河出身か伊勢出身の可能性が高い。
2.保元物語に信濃の安藤次、安藤三が出陣とある。
また、東鑑に頼朝の奥州征伐の時に参陣した安藤次、三沢安藤四郎(奥州三沢出身?)がみえる。遅くとも奥州藤原氏の末期頃には安藤氏は存在したとみていいのではないか?
上記二者を同一と考えるか否か?
3.保歴間記に義時の頃、安藤五郎を東夷地支配とある。諏訪大明神絵詞では同じ頃安藤太が蝦夷管領とある。
「津軽安藤氏」は鎌倉時代初期から北条氏の被官で、津軽に本拠をもつようになっている。
4.「津軽安藤氏」が長髄彦の兄・安日の子孫という伝説は、室町時代ころ成立の「曽我物語」以降に見られる説であり、「曽我物語」の創作の可能性が高く、江戸初期に編纂した系図も、「曽我物語」の影響を受けているのではないか?
5.「津軽安藤氏」は藤原系の可能性がある。平泉の藤原との関係は不明。
おそらく安芸の藤原か安房の藤原。
安房守藤原光業?安芸守藤原良資?安芸守藤原有継?の可能性もあり。
6.元寇の頃、日蓮聖人遺文には蝦夷管領安藤五郎とある。
7.鎌倉末期、保暦間記には奥州に安藤五郎三郎同又太郎と云う者ありとある。
8.安倍氏は前九年役で衰退、「津軽安藤氏」は信州か福島の山民首領出身で鎌倉時代から津軽入り、「蓮聖の安東氏」は駿河か伊勢出身、だとすると、全部別系統の可能性が高い。
49 :
日本@名無史さん:02/10/25 11:35
良スレage
50 :
日本@名無史さん:02/10/28 18:30
そろそろ出尽くしたんじゃない?
これ以上踏み込むと東日流が出てくるぞ(笑)
>>1
あれ?あがってないぞ
アホか
伊藤博文の「宿禰」は、王政復古の後、タテマエ律令に戻ったってことで
維新政府の幹部連中が姓から推測して「朝臣」とか「忌寸」とか突然名乗り出したんだよっ
(伊藤博文は宿禰でなく藤原朝臣だったと思うけど、こまいことはともかく)
それを古来から継続的に存続した例のようにあげた1の神経がまったく理解不能。
53 :
日本@名無史さん:02/10/29 11:24
>52
>維新政府の幹部連中が姓から推測して「朝臣」とか「忌寸」とか突然名乗り出したんだ
自分の思い込みを押しつけるのは止めよう。
>突然名乗り出した
断定できないでしょう?
54 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/10/29 11:36
ははは。
47で私は「極端な例」と言ってるし、例として不適切だったことは分かります。
一応武士の場合は藩で系譜調査なんかもしてるだろうから、事実は古来から継続していなくても形式的に姓を名乗る慣習は残っていたということで挙げたんですけどね。
だから、もう元の話題に戻させて下さいね。
30さんが姓の話を持ってきたのが発展しただけで、本来のスレの流れとはずれますので、この辺で。
55 :
日本@名無史さん:02/10/29 21:25
津軽には1189年、宇佐見政実が入ってきますが、1190年大河兼任の乱で討たれます。
この乱の勲功として北条義時に平賀郷が与えられたらしいですが(大鰐町史)
1219年曽我小次郎が義時から地頭代に任じられてます。
さらに、津軽には工藤氏も早い時期に入ってるようです。
で、宇佐見、曽我も工藤氏のながれですね。それで安藤氏も工藤氏の
一族ではないかな? とふっと思ったんですけどいかがなものでしょうか?
伊豆あたりに安藤氏はいませんかね?
>>53 田舎の足軽風情が宿禰だの忌寸だの代々名乗ってたの?
ふーん勉強になるなあ(w
57 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/10/30 08:33
伊豆にあるかどうかは分かりません。
安「東」は駿河の可能性ありますけどね。
鎌倉初期からの御内人には伊豆出身が多そうではありますが。
工藤→安藤ってのは聞いたことありませんが、名字の付け方からいって可能性はあると思います。
憶測の域を出ないのが残念ですが。
58 :
日本@名無史さん:02/10/30 10:51
59 :
日本@名無史さん:02/10/30 15:06
「人の脳波、特に日本人の脳波パターンをたまたま採っていたら、お隣の民族の人
とは違っていました。そこで日本人とお隣の民族の人たちの違いを調べるために
は数値化・定量化しなければいけないということになりました。そのため独
自の脳波計を開発したんです。そして、実験的にウチの脳波計のソフトを開発したと
自称する人たちの脳波を採ったんです。そのときβ波が想定した値よりも低か
った。検査した8人全員がそうなりました。それ以外の職業の人たちを計っ
たら、β波が高く出るのです。そこで、彼らは職業的に開発したとか発祥地だとか言ってい
て、本当に開発したりする真の創造性がないことに気付きました。起源を自称するこ
とで、一見、前頭前野を使っているように思われますが、実際には使ってい
ないんじゃないかと。日常的に創造性が少ない、家に帰っても
捏造、隣の国とも会話がない。そういう人たちだったのです」
60 :
日本@名無史さん:02/10/30 18:41
荒らし・煽り・厨房は『完全無視』+削除依頼しましょう。
煽りにはsageでもレスしないこと。無視できない貴方も厨房です。
安房の地名に安西はあるが安東はない
かならず対称的に両方あると決めつけるのは間違い
1.決めつけてはいない。
2.「当時も」安東がなかったか不明。
3.安房出身の藤原乃至安房守藤原の略としての安藤を想定している。
4.このスレは「安藤」の話をしているのであって、別に安房に「安東」がなくてもかまわない。
上記4点から見て、61さんが何をおっしゃりたいのかが分からないのですが。
63 :
日本@名無史さん:02/11/01 22:46
鎌倉時代は圧倒的に「安藤」氏で、「安東」氏を名乗るのは、下國安藤氏が
秋田檜山に本拠を移した「政季」(師季)かららしい(1440年頃)ので
鎌倉時代は「安東氏」を考えなくていいと思いますよ。湊安藤氏も「安東」を名の
ったみたい、つまりどういう訳か秋田に移ってから安東を使うようになって
る見たいですが。
>>62 特に脈絡はありません。個人的な覚え書きです。無視して進めてくらはい
もっとも3と4から考えるとあえて安房に「安東」の存在を想定する必要はないわけで、
であるならば、1(なんら痕跡の残ってない安房の安東地名が存在したと
決めつけていないということ)はそのとおりでごもっとも。
65 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/11/05 09:17
>>64 了解。
>>63 そうなんですよね。
後に秋田氏となるこの一族は、秋田に移ったころから安東を使っていますね。それまでは安藤。
で、そもそもこのスレは、鎌倉時代の「安東」氏(蓮聖とかの)との関係はあるのかどうかということを考えていました。
今現在の結論は、関係なさそう、となっていますが、
もしかしたら秋田に来てから「安東」と関係があることにした方が都合がよかったために表記を変えたということも考えられますね。
鎌倉末期には蓮聖系統の御内人が日本海岸の港を多数押さえていますし。
66 :
日本@名無史さん:02/11/08 14:13
新野直吉秋田大学名誉教授は安藤氏を安倍氏だと決めつけている。
安倍の安と藤崎の藤だという。
実際、安藤氏は若狭国羽賀寺の造営のとき、安倍と自称している。
だが果たして本当か?
蝦夷管領として安倍氏が都合が良かっただけではないのか?
系図にそう書いてあるって事実を
たんじゅんに参考までに言っただけで
それが真相かどうかは断言してないのでは?
いや、あのおっちゃんは(会ったことがあるのでこう呼ばせてもらう)もっとたんじゅんに信じているのでは?
少なくとも系図に書いてあって子孫が後世自称しているから確定!みたいに思っているっぽいです。
「論点あきた史」には千代童子の話は「伝説」と書いてあるけど、安倍氏の流れであることは断言してますね。
69 :
日本@名無史さん:02/11/11 15:36
もうかなりの高齢でしょ? つーか生きてんの? 90歳以上?
さすがに90はいってない(笑)
80歳代半ばくらいかなあ?
結構、自分の憶測と資料に基づく話をごっちゃにして本を書く人なんで、困っちゃいますけど(笑)
>>66 だから鵜呑みにはできないっすよ。
決めつけに根拠はないってことでOK?
72 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/11/14 13:51
OKでしょう。
安藤氏に関して純学問的な史料(何をそう言うのかにも争いがありそうだが)は、ほとんどないと言ってもいいと思います。
問題は、ある程度以上信頼性のある史料からどのような結論が導き出されるか。
その「ある程度」の線引きを巡って、いろいろな意見があるでしょう。
例えば「東日流」のようなトンデモ(と私は思っています)を信頼性があるとする人もいるでしょう。
系図などを信頼する人もいるでしょう。
「東鑑」は認めるが「保暦間記」は駄目という人もいるでしょう。
手紙などの一次史料しか認めないという人もいるでしょう。
そんなところで結論は違ってくるんですね。
安藤氏の場合、自分の家で作った系図と、昔の領内に残っている神社の棟札の名前が違っている(一部は同じ)から、系図は信頼性がないと見ています。
系図を信じないとなると、これまでのスレの流れのような結論の方向にいくのです。
1は神。ようするに漏れがいいたかったのもそういうこと。
このスレにたまに出てくる“中間報告”って、
長い時間かけて皆で検討したから、よく練られてるよね。
素人には反論できない(笑
74 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/11/18 12:39
>神
照れますねえw
反論ではなく、すっごく詳しい人が出てきて、
あくまで自説としたうえで、意見を開陳してほしいんですよね。
75 :
日本@名無史さん:02/11/20 12:04
76 :
日本@名無史さん:02/11/21 10:13
安「藤」というと藤原系のように考えられるが、地名の「藤」崎をとったとこれまでの伝説では語られてきたよね?
安「東」に変えたのは、前レスを読むと蓮聖の安東と意図的に混同させようとしたと考えられそうだけど、
どうなのかな?
蓮聖の安東も安倍氏系だとしたら?
それで同族のよしみで勢いのあった安東の名字を貰ったとか。
77 :
日本@名無史さん:02/11/22 20:17
とんでもない説を一つ
「東」を使ったのは「南部氏」に対抗するため。
「日の本将軍」が南部氏に追われたので悔しくて「南」に対して
「東」じゃ!!と名乗った。
息抜きにどうぞ。
>>76 >蓮聖の安東も安倍氏系だとしたら?
そういう恣意的な憶測でなく、可能性を示唆する根拠モドキでいいから出せよ
たとえば駿河の安東は「安倍川の東」だろ。
安倍川の語源としてそこに安倍氏の部民がいたとかなんとかさ。なんかあるだろうよ
垂れ流しの電波説よりは、こじつけの努力の跡がみえるトンデモ説の方がましってこった(怒
79 :
日本@名無史さん:02/11/22 23:26
安東は関係ないよ。少なくとも鎌倉時代は。
「安藤氏」で考えるべきでしょ。
奥州での安倍は「安倍の貞任、宗任」の安倍氏だよ。安倍川なんか
全然関係ないよ。
>>76 78さんのおっしゃるとおり、証拠紛いのものでも出して頂ければ。
私では78さんの「安倍氏の部民」くらいしか思いつかないですけどw
>>79 ?
76さんのおっしゃるのは、
「奥州での安藤」が後に「安東」と名乗ったのは、駿河安倍川を語源とする「安東」も「安倍氏」の系列だったからではないか、ということ。
それに対する78さんの反論(ってゆーかツッコミ)なんだから。
81 :
日本@名無史さん:02/11/25 22:17
良スレageだ!
82 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/11/28 17:15
またもや交通整理(保守兼)。
現在の状況(中間まとめ)
1.「蓮聖の安東氏」は駿河出身か伊勢出身の可能性が高い。
2.保元物語に信濃の安藤次、安藤三が出陣とある。
また、東鑑に頼朝の奥州征伐の時に参陣した安藤次、三沢安藤四郎(奥州三沢出身?)がみえる。遅くとも奥州藤原氏の末期頃には安藤氏は存在したとみていいのではないか?
上記二者を同一と考えるか否か?
3.保歴間記に義時の頃、安藤五郎を東夷地支配とある。諏訪大明神絵詞では同じ頃安藤太が蝦夷管領とある。
「津軽安藤氏」は鎌倉時代初期から北条氏の被官で、津軽に本拠をもつようになっている。
4.「津軽安藤氏」が長髄彦の兄・安日の子孫という伝説は、室町時代ころ成立の「曽我物語」以降に見られる説であり、「曽我物語」の創作の可能性が高く、江戸初期に編纂した系図も、「曽我物語」の影響を受けているのではないか?
5.「津軽安藤氏」は藤原系の可能性がある。平泉の藤原との関係は不明。
おそらく安芸の藤原か安房の藤原。
安房守藤原光業?安芸守藤原良資?安芸守藤原有継?の可能性もあり。
6.元寇の頃、日蓮聖人遺文には蝦夷管領安藤五郎とある。
7.鎌倉末期、保暦間記には奥州に安藤五郎三郎同又太郎と云う者ありとある。
8.安倍氏は前九年役で衰退、「津軽安藤氏」は信州か福島の山民首領出身で鎌倉時代から津軽入り、「蓮聖の安東氏」は駿河か伊勢出身、だとすると、全部別系統の可能性が高い。
9.もし仮に同一系統だとすると、藤原系ではなく阿部系の可能性も否定できない(?)
83 :
日本@名無史さん:02/11/28 17:41
安芸守藤原良資と安芸守藤原有継は生存年代からいって安藤氏の祖先になるのは無理だと思う。
なお安房守藤原光業と安芸守藤原良資と安芸守藤原有継はたまたまネット上から拾っただけで
「安房守藤原○○」と「安芸守藤原○○」は尊卑文脈その他の史料には大量に存在すると思われ。
84 :
◆ANDOozB1sE :02/11/29 09:15
>>83 いつもすみません。
たくさんいるであろうことは、了解しています。
年代的に無理っていうと、どういうことでしょう?
安芸守藤原良資が1027年に「前安芸守」として出てくるから11世紀初頭の人、
安芸守藤原有継は源頼義と同世代だから前九年頃として11世紀中葉の人。
安藤氏が歴史上に出てくる最初は、今のところ保元物語なので、1156年だから、およそ100〜130年の開きがあります。
無理とは?
あれ? ヘンだなあ・・・・
手持ちのメモには「年代的齟齬により×」と書いてあるんだけど・・・
私がなにかのかんちがいをしていたようです・・・・すいません
86 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/12/02 17:38
>>85 いやいや、もしかしたら何か理由があるのかな〜と思いまして。
88 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/12/09 16:00
ありませんでした…
90 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/12/13 11:19
まあ、思いつきにしては的をかすっているかも。
>>76 定期ageです。
91 :
日本@名無史さん:02/12/16 14:58
92 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/12/18 20:36
ああ、ここ見たことあります。
私もそう思っていたんですよ
>>91 意外とこのスレの常連さんだったりしてw
93 :
日本@名無史さん:02/12/24 12:12
karaage
94 :
日本@名無史さん:02/12/25 06:26
良スレなのに最近伸びてないね
95 :
日本@名無史さん:02/12/25 16:12
そうそう新ネタもないでしょ
96 :
1 ◆ANDOozB1sE :02/12/28 13:07
97 :
日本@名無史さん:02/12/28 18:32
98 :
日本@名無史さん:03/01/03 00:56
あんまり関係ないけれど、蒙古が来る っていう本読んだんだけれど。
結構面白かったなぁ。
99 :
日本@名無史さん:03/01/03 01:44
>97
何をどう考えるんですか?
100 :
1 ◆ANDOozB1sE :03/01/06 08:55
あけおめ。今年もよろしく。
101 :
日本@名無史さん:03/01/08 19:16
(^^)
(^^)
104 :
日本@名無史さん:03/01/17 08:56
age
105 :
日本@名無史さん:03/01/20 18:45
山崎って誰?
106 :
日本@名無史さん:03/01/23 11:48
俺ンち安藤というんだけどさ、調べてみると、
源氏なのか安部氏なのかわかんないの。
どうしたら判別つくんかな?
ちなみに三河です。
藤原氏でしょ
108 :
日本@名無史さん:03/01/23 13:42
>>107 三河の安藤は藤原氏と源氏の両派があるらしくてね。
109 :
日本@名無史さん:03/01/23 21:18
津軽安「藤」氏=蝦夷
110 :
日本@名無史さん:03/01/25 00:08
源氏なのに安“藤”って名乗る神経は逝っちゃってるね(w
(そういいう例がないという意味じゃないよ)
>>110 源氏の「安藤」の場合、
鳥羽天皇かなんかに藤原姓を下賜されたとかナントカの筈だぞ。
ヤベ、違った。
>陸奥安倍氏流安倍仲麿の末裔という朝任が、鳥羽上皇より藤原性を賜り、
>安・藤両家が始まる。紀州藩家老田辺城主、磐城平潘主はその子孫。
これと勘違いしてた。
津軽安「藤」氏=チョン
114 :
日本@名無史さん:03/01/25 07:03
津軽安「藤」氏=ナガスネヒコ
凄まじいデムパ
116 :
1 ◆ANDOozB1sE :03/01/27 09:27
江戸初期の安藤氏末裔秋田(生駒)実季が様々なデムパ説を含む伝承・芸能・語り物に含まれる安藤氏伝説を収集した中に、ナガスネヒコ関係のものもあった。
でも、このデムパは、室町中期頃成立(だったかな?) のおとぎ話の類。
歴史学的に全く根拠のない話です。
117 :
日本@名無史さん:03/01/27 19:58
>>115 伊達遠江家中の思い込み電波に比べれば、大したことはない。
118 :
日本@名無史さん:03/01/27 22:45
現在の状況(中間まとめ)
1.「蓮聖の安東氏」は駿河出身か伊勢出身の可能性が高い。
2.保元物語に信濃の安藤次、安藤三が出陣とある。
また、東鑑に頼朝の奥州征伐の時に参陣した安藤次、三沢安藤四郎(奥州三沢出身?)がみえる。遅くとも奥州藤原氏の末期頃には安藤氏は存在したとみていいのではないか?
上記二者を同一と考えるか否か?
3.保歴間記に義時の頃、安藤五郎を東夷地支配とある。諏訪大明神絵詞では同じ頃安藤太が蝦夷管領とある。
「津軽安藤氏」は鎌倉時代初期から北条氏の被官で、津軽に本拠をもつようになっている。
4.「津軽安藤氏」が長髄彦の兄・安日の子孫という伝説は、室町時代ころ成立の「曽我物語」以降に見られる説であり、「曽我物語」の創作の可能性が高く、江戸初期に編纂した系図も、「曽我物語」の影響を受けているのではないか?
5.「津軽安藤氏」は藤原系の可能性がある。平泉の藤原との関係は不明。
おそらく安芸の藤原か安房の藤原。
安房守藤原光業?安芸守藤原良資?安芸守藤原有継?の可能性もあり。
6.元寇の頃、日蓮聖人遺文には蝦夷管領安藤五郎とある。
7.鎌倉末期、保暦間記には奥州に安藤五郎三郎同又太郎と云う者ありとある。
8.安倍氏は前九年役で衰退、「津軽安藤氏」は信州か福島の山民首領出身で鎌倉時代から津軽入り、「蓮聖の安東氏」は駿河か伊勢出身、だとすると、全部別系統の可能性が高い。
9.もし仮に同一系統だとすると、藤原系ではなく阿部系の可能性も否定できない(?)
家紋とかで判別できないの?
津軽安「藤」氏の家紋は、檜扇鷲羽紋です。
「秋田家系図」(秋田実季作成、前述のとおりかなりトンデモ)には、
建久年間に、安東貞秀が後鳥羽院から朝鮮国から献上された珍しい鷲の羽根二枚を扇の上にのせて賜ったのでこれを家紋としたというような話が見えているんですが、
ただ、建久年間に「朝鮮」はない。高麗だろうと思うんですが、どうも眉唾です。
貰ったのは、奥州の砂金を進上した功によるらしいですが、当時、北条氏家人だった安藤氏が、朝廷と直で交渉するなんてありえませんし、嘘だと思います。
これより以前は、平泉藤原氏と同じ「獅子に牡丹」だったという話もありますが、これは藤原氏と繋げる意図からでしょうから証拠になりません。
>>121 清和源氏頼清流(村上氏族)の安藤氏と、藤原利仁流の安藤氏は、
ポピュラーな藤紋使ってるけど、あれって眉唾なのかな?
>>122 私は121で、いかにも昔から家紋があるように書きましたけど、
実際鎌倉初期に旗指物の類以外で武家が家紋を用いたかどうかは分かりません。
藤紋の起源も分からないので、何とも答えようがないです。
平安後期から室町にかけて、武家の所領に付随した「家」と、血統としての家系は別物でしたから、
家紋がそのどちらに付随したかを考えると、元が貴族の調度品のマークだったり戦場での目印だった訳ですから、
たぶん前者に付いたものだったと思います。私見ですけど。
ってことは、ある時点で家紋が定着した某「家」に、他姓の者が婿に入っても紋は同じだろうと思うのです。
例えば、畠山家は元来平氏で、紋は村濃です。
その未亡人に入り婿した足利の一族の子孫が跡を継ぎますが、この時点で畠山家は源氏になりましたが、
家紋は(たまに二引両も使うとはいえ)村濃のままです。
124 :
日本@名無史さん:03/01/30 22:39
安東は安東将軍から。
当時は北海道を日ノ本と呼ぶなど、今の「北」の感覚を「東」と呼んでいた。
126 :
日本@名無史さん:03/01/31 04:19
>>124 それは東日本の感覚。
当時の北が東なんじゃなくて、畿内からどっちの方向に歩くかの話だから東でいいんだよ。
北海道から見て千島のはじっこが「一番東」なのと一緒。
127 :
日本@名無史さん:03/01/31 22:30
>津軽安「藤」氏の家紋は、檜扇鷲羽紋です。
鷲羽は蝦夷の特産品
128 :
1 ◆ANDOozB1sE :03/02/04 19:15
>>127 あ、そっか、そういう見方もありますね。
元来交易品として管理してきた訳だし。
129 :
日本@名無史さん:03/02/09 16:04
からage
130 :
通りすがり:03/02/09 21:09
1さん ご苦労様です ここは良スレですね
ついでに質問を一つ
安藤氏が「安東」を名乗るのは秋田に本拠を移してからだとのことですが、
本拠を秋田に移した理由は如何なるものだったのでしょうか?
131 :
1 ◆ANDOozB1sE :03/02/10 10:07
>>130 > 安藤氏が「安東」を名乗るのは秋田に本拠を移してからだとのことですが、
> 本拠を秋田に移した理由は如何なるものだったのでしょうか?
おおざっぱに説明すると、
1.津軽安藤氏が日本海の海運に従事する中、当時の中継港であった秋田湊(現秋田市土崎港)に一族をおいた(鹿季流)(応永30年?)
2.安藤本家、下国盛季が南部氏との抗争に敗れ、同じく分家がいた渡島(現北海道上ノ国町?)に逃れる(永享4年?嘉吉3年?)
3.下国政季、同じく南部氏との抗争に敗れ、武田信広(松前氏の祖)らと、渡島に逃れ、盛季の孫義季の養子となる?(享徳3年?)
4.下国政季、小鹿島(現秋田県男鹿市)に、のち桧山(現同県能代市)に移る(康正2年?)
5.桧山愛季、湊家の家督も併せて継ぎ、秋田地方の両安藤家統一(天正13年)
って感じっすかね?
ただ、この辺の事情は、例によって史料がトンデモとの境スレスレなので、特に年代に関しては不確かです。
一応言えるのは、
1.本拠が津軽で、所領が渡島と出羽秋田にあったらしい
2.津軽の本拠は南部氏に追われたらしい
3.本家と称する一族が、室町後期には出羽桧山にいたらしい
ことだけです。
追加:
これは私見であり、根拠も全くありませんが、安藤→安東の一つの理由として、蓮聖系安東氏の影響を考えています。
蓮聖系安東氏は越前若狭など日本海海運の拠点(地頭職は北条得宗家)の地頭代などとして権勢を振るいました。
彼らが鎌倉幕府の滅亡と時を同じくして没落した後、同音異字ながら同じく得宗被官の安藤氏が日本海に沿って北陸にも足を伸ばしたとき、字の混同が始まったのではないでしょうか?
ま、憶測ですけど。
もしかしたら、わざと仮冒してる部分もあるかもしれませんし。
133 :
日本@名無史さん:03/02/12 14:12
なかなかいいスレだ。
1よ、ちなみに聞くが津軽、秋田など荘園制の及ばなかった地域における豪族は国衙領を基盤としたと思うんだが、安藤はどうなんだ?
134 :
1 ◆ANDOozB1sE :03/02/13 08:42
頼朝の奥州仕置以後奥羽両州に置かれた地頭は、概ね郡単位です。
基本的に北部は国衙領基盤だと思います。
特に出羽北部や陸奥北部は荘園もなく、在庁官人的存在の豪族が国衙領を基盤として郡単位で地頭職を有したと思います。
安藤氏は地頭ではありませんが、北条氏の地頭代として同様の存在ではないかと。
135 :
日本@名無史さん:03/02/13 21:57
>荘園制の及ばなかった地域における豪族は国衙領を基盤としたと思うんだが、安藤はどうなんだ?
交易の利権が中心と思われ。
>安藤氏は地頭ではありませんが、北条氏の地頭代として同様の存在ではないかと。
海人が地頭同様の存在とは考え難いと思われ。
「安藤=海人」という思い込みはトの香り。
137 :
1 ◆ANDOozB1sE :03/02/17 09:30
>>135 > >荘園制の及ばなかった地域における豪族は国衙領を基盤としたと思うんだが、安藤はどうなんだ?
> 交易の利権が中心と思われ。
異存なし。でもそれだけじゃないと思われ。
> >安藤氏は地頭ではありませんが、北条氏の地頭代として同様の存在ではないかと。
> 海人が地頭同様の存在とは考え難いと思われ。
得宗被官層は様々です。
地頭代になっている層は、結構非農業民が多い。
まあ
>>136の言うように思いこみはちょっと…とは思いますが。
138 :
日本@名無史さん:03/02/18 22:02
地頭代一般ってより北条得宗被官だろ?
139 :
1 ◆ANDOozB1sE :03/02/19 12:42
北条氏が地頭の場合の地頭代って意味で書いてます。
ってか、そういう文脈でしょ?
140 :
日本@名無史さん:03/02/24 14:12
>>137 > 地頭代になっている層は、結構非農業民が多い。
ってなんだよ
141 :
1 ◆ANDOozB1sE :03/02/24 17:30
すみませんです。
言葉が足りませんでしたので補足します。
「地頭代になっている層は、結構非農業民出身又は非農業民を基盤にしている者が多い」
です。
142 :
日本@名無史さん:03/02/24 21:33
それ以前に真人間(農業民)は北条得宗被官なんぞにならず、御家人になっていると思われ。
143 :
1 ◆ANDOozB1sE :03/02/25 08:30
そうなんですよね。平安末期に東国で開発領主だった豪農層は、ほとんど御家人になってる。
でも西国では「真人間(笑)」でも非御家人の荘司とかも多い。
得宗御内人は、御家人層の庶子も多いけど、旧平家被官や東国非農業系豪族、被占領地(奥)豪族が中心と思われ。
だから少なくとも関東の真っ当な農業民系豪族は一般的には御家人になってるでしょうね。
144 :
日本@名無史さん:03/02/27 12:33
ところで、市川湊家文書ってどうよ?
史料価値としてはどうなの?
最近の青森、秋田の郷土史関係ではよく引用されてるけど
145 :
1 ◆ANDOozB1sE :03/02/28 19:25
>>144 個人的には価値有りと見ていますが、写しが多いってのが微妙ですね。
ただ、原典に当たっていませんから、専門の方の降臨を願っています(w
146 :
日本@名無史さん:03/03/03 18:05
系図なんかは「秋田家文書」と違ってるみたいだよ。
実際の男鹿半島の寺社の棟札の写しが市川湊家文書には残っているらしいっす。
で、その棟札の年月日と大施主名から湊安藤氏の系図を復元すると「秋田家文書」とは違うらしい。
ただ、大施主が湊家当主だっていう証拠はないから、なんとも判断できないと思うんですが。
専門家はどう考えているんでしょ?
148 :
日本@名無史さん:03/03/12 09:01
一般的に大施主ってのは地頭か領家だから、当時の男鹿だと湊家だろうという推測。
男鹿だけで地頭がおけるか?
地頭代は大施主にはならないだろう?
一般論だから例外はありうるけど。
149 :
日本@名無史さん:03/03/21 07:38
単純な疑問を一つ
安藤氏は、鎌倉時代になってから、北条得惣領の地頭、地頭代
として関東近辺からやってきた、それとも在地の豪族として居住していた
どちらでしょうか?
150 :
日本@名無史さん:03/04/04 22:54
↑だから、スレ読んでから書けや
全然かんけいないが俺のじいちゃんは林檎の藤を作った…
でも、あれは藤崎町や藤稽古からきてるから、このスレとは何の関係もない
そんな俺は○藤だったりしているんだが、それも関係ない
152 :
日本@名無史さん:03/04/17 23:53
良スレageだ!
153 :
日本@名無史さん:03/04/18 12:46
あげ
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
155 :
日本@名無史さん:03/05/01 00:01
落とすには惜しいので
age
156 :
フーミン=もしもツアーズ=師走=後小松天皇:03/05/11 14:18
保守!
安倍貞任の次男 高星丸が 親戚の
津軽藤崎城?に預けられ そこから
安藤家が 始まった?
安倍の藤崎?
安倍の藤原?
157 :
日本@名無史さん:03/05/20 22:53
資料 1
安藤宗季譲状 正中二年九月 (1325年) (新渡戸文書)
ゆつりわたす、つかるはなハのこほりけんかしまし
りひきのかう、かたのへんのかう、ならひにゑその
さた、ぬかのふうそりのかう、なかはまのミまき、
みなといけのちとう御たいくわんしきの事
みきのところハ、宗季せんれいにまかせて、さたを
いたすへきよし、御くたしふミを給ハるものなり。
しかるを、しそくいぬほうし一したるによて、御く
たしふミをあいそゑて、ゑいたいこれをゆつりあた
うるところなり。宗季いかなる事もあらんときハ、
このゆつりしやうにまかせてちきやうすへきなり。
たたしうそりのかうのうち、たや、たなふ、あんと
のうらをハ、によしとらこせんいちこゆつりしやう
をあたうるところなり。よてゆつりしやうくたんの
ことし。
正中二年九月十一日 宗季(花押)
158 :
日本@名無史さん:03/05/20 22:55
資料2
安藤宗季譲状 元徳二年六月 (1330年) (新渡戸文書)
ゆつりわたす五郎太郎たかすゑニみちのくにつかる
にしのはま せきあつまゑをのそく事
右、くたんのところハ、むねすゑはいりやうのあい
た、かの御くたしふミをあいそへて、しそくたかす
ゑニゆつりあたふるところ也。たのさまたけなくち
きやうすへし。又いぬ二郎丸か事、ふちをくわへて
いとをしくあたるへし。ゆめゆめこのしやうをそむ
く事あるへからす。よてゆつりしやうくたんのこと
し。
元徳二年六月十四日 むねすゑ(花押)
159 :
日本@名無史さん:03/05/20 22:56
資料3
安藤高季に所領安堵状 建武二年十月廿九日(1335年)
花押(北畠顕家)
陸奥国津軽鼻和郡絹家島、尻引郷、行野辺郷、糠部
郡宇曾利郷、中浜御牧、湊郷以下、同西浜 除安藤次郎太郎後家賢戒知行分関阿曾米等村
地頭職事
右、安藤五郎太郎高季、守先例可令領掌之状、所仰如件
建武二年閏十月廿九日
160 :
日本@名無史さん:03/05/20 23:09
「藤崎」も「十三湊」も影もかたちもみえず。
これいかに? 別家の安藤がいたのでしょうか?
又、「いぬ二郎丸」とはだれにあたるのでしょうか?
「藤崎」も「十三湊」も後世の捏造。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
163 :
日本@名無史さん:03/05/25 12:34
age
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
165 :
日本@名無史さん:03/05/28 21:23
age
166 :
日本@名無史さん:03/05/30 22:04
安藤「水軍」を造った(妄想した?)資料
資料4
大乗院文書 正和五年 (1316年)
沙弥本阿代則房言上状
越中國大袋庄東放生津住人沙弥□阿代則房重言上
欲早本所大乗院家被背関東御下知・数ヶ度御教
書并六波羅殿数ヶ度御催促、不被糺返損物間、及御
注進上者、任傍例、可被経御奏聞旨、重被成関東
御教書於六波羅、大乗院家至御下知違背段者、仰
上裁、同御領越前国坪江郷左幾良・加持羅・阿久
多宇三ヶ浦預書所代左衛門次郎・刀祢十郎権守、又
太郎大夫・進士次郎以下輩等、至所押取大船一艘并
所積若干物等者、任註文被糺返、於交名人等者、
被処重畳罪科鮭以下間事
続く
167 :
日本@名無史さん:03/05/30 22:10
資料5
副審
四通 関東御下知并御判御教書案
一合 御文箱 御奉行所在判
右、大船者、関東御免津軽船二十捜之内随一也。而
去嘉元四年九月廿四日令積以下物等於彼船、令着
左幾良泊之所、三ヶ浦預所代左衛門次郎・同所刀祢
十郎権守・加持羅藤内以下、阿久多宇刀禰太郎以
下、并三国湊住人五郎三郎入道寂房以下、率数多
人勢、号漂倒船、押取大船一艘并所積鮭以下若干干物等
之間、関東訴申之日、雖被成度々召符、依不及参
陳。仰御美作四郎泰景被尋下之処、佐幾良預所以
下之輩、不及請文之由、泰景被及註進之間、以違背
之篇、被経御沙汰。徳治二年十一月六日本阿所預御
下知也。而彼輩背御下知、依不糺返損物等。同三年
五月十三日、被成関東御教書於六波羅之処、以御使
大野五郎秀尚・雑賀中務丞貞尚、被触申本所大乗院
家之処、被召進佐衛門二郎・入道専念等之由、延慶
三年十一月五日、雖被進□□院家御消息於六波羅
殿、専念等不糺返論物之間、同四年三月二日、以斉
藤四郎右衛門尉基夏・津戸筑後権守康朝、重雖被触
申之、猶以不被糺返之間、応長元年六月、則房捧違
背之申状之日、関東之御注進畢。
続く
168 :
日本@名無史さん:03/05/30 22:17
資料6
此刻等御奉行仁罷
成、応長二年二月廿七日、重被成関東御教書六波羅
之間、正和三年正月廿七日、以御使神沢五郎兵衛尉
秀政・関左衛門蔵人正宗、雖被触申大乗院家、依無
御左右、同三月五日以飯尾兵衛太夫為貞・雅楽左近
将監信重、重々雖被触申之、猶以不及御請文之間、
正和四年正月廿八日、以三宮孫四郎国明・雑賀中務
丞貞尚、重雖被触申大乗院家、不被糺返彼論物之
間、重関東所及御注進也。六波羅殿御催促御文并大乗
院家御請御消息等案、備于右。然早御文箱到来之上
者、急速有御披露、任傍例、可経御奏聞之旨、重被
成関東之御教書於六波羅。而本所大乗院家至御下知
違背之段者、被経厳密御沙汰、於船并鮭及小袖以下損
物等者、任註文可被糺返之旨被御下。至左衛門二郎
十郎権守以下交名人等者、欲被処御下知違背罪科、
仍恐々言上如件。
正和五年三月 日
169 :
日本@名無史さん:03/05/30 22:22
さて、二十艘の「関東御免の津軽船」の持ち主はどう読んでも
本阿という人ですね。
安藤のあの字も出てこないんですが。
170 :
日本@名無史さん:03/05/31 22:33
どうか御反論願いたいのですが。
妄想と願望の安藤水軍ですな
誰に反論して貰いたいの?
172 :
日本@名無史さん:03/06/03 23:55
安藤「水軍」が存在したと思ってる人たち、です。
173 :
日本@名無史さん:03/06/03 23:59
>>172 >安藤水軍が存在したと思ってる人たち
どのレスの人?
関東御免の津軽船20艘の持ち主が本阿なんじゃなくて、
関東御免の津軽船20艘のうちの一艘の持ち主が本阿なんじゃないの?
でむぱ?
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
(^^)
新しいトリップの記録を紛失したので旧トリップですが1です。
>>172 津軽船は別に水軍と同一視する必要もないのでは?
当時大規模商船群で「津軽船」と呼ばれているものがあったというだけ。
普通に考えると本拠地乃至主交易地が「津軽」だろうとは推測できる。
中世において大規模商船群の寄港地には、それなりの水軍がいただろうというだけ。
「三郡誌」は信憑性に欠けるから信じてはいません。
「藤崎」は微妙。津軽家の「一統志」でも南部氏の資料でも出てくるから
たぶん安藤時代にも重要な地だっただろうという推測が出来るだけかも。
「十三湊」も「ゑそのさた」の拠点だっただろうというだけかも。
結構「三郡誌」に引きずられた議論が多いから気をつけないとね。
179 :
しったかぶり:03/08/05 22:01
残念ながら「津軽一統志」も津軽藩御用達の資料ですので、あくまで参考
資料程度にしたほうがいいと思います。
「藤崎」が安藤氏発祥の地だと言ってる(藤崎町)根拠はなんでしょうかね?
>>179 > 残念ながら「津軽一統志」も津軽藩御用達の資料ですので、あくまで参考
それはそうですね。
同様に「新羅之記録」も(w
根拠は、それこそ「東日流」のような気がします。
だとしたらアウトっすね。
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
..iiiiiiiiiiiii》| ::: |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiiii|, |iii|
..iiiiiiiiiiiiiiiiii, ( ● ● ) .|iiii|
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii 》━━━━《 |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ 》 / ̄ ̄\ 《 |iiiiiiii|
iiiiiiiii《《《《《《《《 《《 \ ̄ ̄/ 》》 |iiiiiiiiiii|
iiiiiiiiiiii《《《《《《《《《《《 》》  ̄ ̄ 《《 》》》》》iiiii|
iiiiiiiiii《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《》》》》》》》》》》》》》》iii|
iiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》》》IIII
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》iiiiiii
■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■ 〜〜 ■■■■■■
■■■■■■〜〜〜〜〜〜■■■■■■
■■■■■ 〜〜〜〜〜〜〜〜 ■■■■■
■■■■■ ■■〜〜■■ ■■■■■
■■■■■ ■■■■〜〜■■■■ ■■■■■
■■■■ || ■■■■
■■■■■ 〓〓〓〓||〓〓〓〓 ■■■■■
■■■■ 〓〓 || 〓〓 ■■■■
■■■■ // \\ ■■■■
■■■■ //( ●● )\\ ■■■■
■■■■ // ■■■■■■ \\ ■■■■
■■■■■ / ■■■■■■■■ \ ■■■■■
■■■■■ ■/〓〓〓〓〓〓\■ ■■■■■
■■■■■■ ■ /▼▼▼▼▼▼\ ■ ■■■■■■
■■■■■■■■■ ▼▼▼▼▼▼ ■■■■■■■■■
■■■■■■■■■ ■■ ■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
183 :
日本@名無史さん:03/08/07 14:31
よくわからんのだが、
>>170の人は
過去スレもログも読まずに、
タイトルだけ見て勝手に
ここにいる人らは各地にある「安藤伝説」を鵜呑みにしている電波で、
そういう類の討論をしているに違いない
と思い込んで勢いづいて絡んだって印象だね。
誰もそんな話してなくて、
「安藤」ってどこから来たの?
さぁわからんけどこんな伝説あるけどどうだろうね、
わかんないね
って程度のやりとりしかしてないのに。
>>183 ワラタ。
確かにその程度のやりとりしかしてないっす。
185 :
しったかぶり:03/08/07 19:49
「藤崎」がアウトだと、あっちこっちに影響がでそうだなー
>183さん それはちょっと失礼でないかな。
>>185 つか……
失礼なのは170だと思うよ、どう考えても。
189 :
しったかぶり:03/08/08 21:39
>187さん 南部です。
鎌倉時代(特に1300年前)の根本資料は南部氏も、安藤氏も
あまりありません。
安藤氏と南部氏の争いは建武から始まってますので100年以上も
続きますが、南部氏ひいきの私としては、「安藤は倒すぞ!」という
南部氏の気持ちが何となく分かります。
南部氏スレの方ももよろしく御願いします。
>188さん その程度でないと思いますけど。
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
191 :
日本@名無史さん:03/08/19 14:39
藤崎城は無かった(遺構も?)のですか?
192 :
日本@名無史さん:03/08/19 14:47
なぜ盛季は大納言を名乗れたのですか?
193 :
しったかぶり:03/08/23 20:12
ちょっとどなたか教えて欲しいんですが、
安藤氏は「安倍」姓、「安藤」氏となっておりますが「安倍」を名乗っている
文書は、いつ頃のものが最古でしょうか?
鎌倉時代のものがあるんでしょうか?
194 :
1 ◆/EANDObCPY :03/08/28 12:41
私も知りたいのであげ
195 :
日本@名無史さん:03/08/28 15:36
羽賀寺には安倍とあるね。
>193
文書ではないんですが、弘前市長勝寺にある「嘉元鐘」(重文)の
銘文に、
(前略)
嘉元四年丙午八月十五日
大旦那相模州菩薩
戒弟子 崇演
(中略)
施銭檀那(中略)
平高直 安倍季盛 (中略) 丹治宗員 平経広 源光氏
藤原宗直 藤原宗氏 (後略)
とある。嘉元4年は1306年。
崇演は執権北条貞時の法名。
この鐘はもともと護国寺(現藤崎町内にあった)に奉納されたもの
を、慶長年間に津軽公の命で長勝寺に移したもの。
「安倍季盛」が、安藤氏の一員だった可能性が高い。
197 :
しったかぶり:03/08/29 23:54
どうもありがとうございます。
「羽賀寺縁起」は1600年(慶長五年)の成立ですし、「秋田実季」が関係しているみたい
なので資料としてはどうか?と思います。
「嘉元鐘」銘文の安倍季盛は「十三湊新城記」に出てくる安藤貞季といわれて
るようですが、「十三湊新城記」も江戸時代の成立みたいなのでこれも資料としては
いまいち信じられません。「可能性」としては高いでしょうが確定出来ないと思います。
「むねすえ譲り状」にも「むねすえ」としかサインしてないのは残念なことです。
「安倍大納言盛季下国殿」も「津軽一統志」に出てくるだけみたいので何者かは
分かりませんですね。
補足。
上記嘉元鐘は、銘文の出だし2行が鎌倉円覚寺の洪鐘と同一で、
大檀那も崇演で一致している。洪鐘は物部鍛冶が製造したことが
わかっているので、嘉元鐘も鎌倉で製造された可能性が高い。
少なくとも、銘文は後世の捏造ではないと思われる。
なお、施銭檀那のうち平経広は曽我氏といわれている。
ここからは俺の推測だが、
丹治宗員
安保氏 ∵文保2(1318)関東下知状 安保次郎行員に鹿角郡に
領地。建武年間に津軽で安保氏活躍
源光氏
小笠原氏 ∵1336年に船水楯主小笠原孫四郎の記述あり
藤原宗直・宗氏
工藤氏 ∵津軽で藤原姓といえば工藤氏w
平高直
大仏系北条高直かその父親の維貞か祖父の宗宣
∵宗宣は鐘製造の前年に嘉元の乱で功績あり、崇演に気に入ら
れて連署に就任。5年後に11代執権に抜擢。維貞は鐘銘文日付
の11日前に評定衆に就任。維貞の通称:陸奥五郎。高直の通称:
陸奥右馬之助。
安倍季盛に関しては、無理に系図に当てはめなくてもいいんじゃ
ないかな。どの系図もある意味当てにならんしな。
板碑資料だと、深浦町に暦応3年(1340)の「慈父安倍是阿悲母
円阿」、貞和2年(1346)の「安倍季□」の碑文がある。もう鎌倉時代
じゃないがな。
秋田県男鹿市北浦の日吉神社の額の話はガイシュツのようだが、
興国5年(1344)だな。
200 :
日本@名無史さん:03/08/31 03:55
>信濃の安藤次、安藤三
保元物語では「桑原の安藤次」とあるが、この桑原とは諏訪盆地の
桑原郷(国衙領)のこと。
国府の在庁官人として土着したのか?安房守or安芸守と信濃守を
両方やったことある藤原姓の奴を絞り出してみないか!
201 :
日本@名無史さん:03/08/31 03:58
>三沢安藤四郎、安藤次
三沢という地名は、確かに現いわき市や現三沢市にもあるんだが、
武蔵国多摩郡土淵郷三沢村(現日野市)の可能性はないか。
安藤四郎と同じ作戦に従事しているのが三浦氏(相模)や飯富源太
宗季(清和源氏満快流。上総国望陀郡飯富荘住人。後に逸見冠者
光長の猶子となり宗長と改名)なので、坂東武者と考えた方が無難
なのではないかと。まあそうしてしまうと、安藤四郎と安藤次の関係が
薄くなってしまうのだが。
この三沢を名字の地とする武蔵三沢氏は武蔵七党の横山党で、
小野姓=春日臣系=皇別。すぐ近くに住んでいた平山氏は西党
で、日奉氏系(神別。藤原氏とは無関係か)とされているが、安藤
四郎の同時代に平山季重(父直季)という人物がいて、一の谷など
で活躍したのち、奥州戦にも投入されている。
西党も横山党も藤原姓じゃないのが痛いが;
>>201 前スレ59で、「三澤を所領として、かつ現福島県の山の案内が出来る
ような素性の一族だし、東鑑の途中から出てくるので、関東の御家人
ではないだろう」という意見がありました。
確かに三澤安藤四郎は(安藤次も、だが。これはあたりまえかw)、
吾妻鏡の文治5年7月19日の条(発向の日)の参陣者リストに名前が
出ていない。
その想定できる理由としては、
1 途中から進軍に加わったが、その事実を書き漏らされた
1-1 関東御家人だが、途中合流したほうが都合のいいの場所に住ん
でいた(北関東の住人など。ex.佐竹氏)
1-2 作戦開始直前あるいは開始後に平泉側から寝返った(奥州住人)
2 御家人(非関東人含む)で発向の日に鎌倉にいたが、家格が低くて
最初から掲載するほどでもないと判断された
ぐらいが挙げられると思います。
続き。
ただ、1-2のような寝返りがあったのなら吾妻鏡に記載があってもおか
しくないし、2は本文中に飯富源太と並べて書いてあるので、極端に
低い身分であることはないと思われるんですよねえ。
あと、伊予の河野氏や甲斐の武田氏も参加しているので、そっちの面
からも関東人であるとは限定できないと思います。
三澤という地名を、陸奥・武蔵以外にも、信濃や甲斐などにも広げて
考えてみるのでどうでしょう。甲斐には三澤という地名があったような・・・
204 :
日本@名無史さん:03/09/08 01:23
安倍姓を名乗ったのは、地元民に優位に立って貿易をやりやすく
するためとか聞くが、実際安倍氏であることがそんなにプラスになる
とは思えんのだが。藤原3代100年のうち、安倍氏の記憶なんて
風化してただろうし。
205 :
しったかぶり:03/09/12 21:37
板碑も1300〜1330年代のものが弘前市周辺に集中し、1340年代以降
のものが西海岸に偏っているとのことですが、鎌倉時代末期ですし、残念ながら
鎌倉時代の文献資料はないわけですね。
嘉元鐘の安倍も、板碑の安倍も安藤氏とは断定できない訳ですし、鎌倉時代の
安藤氏の資料は殆ど何もないわけですか。
206 :
日本@名無史さん:03/09/15 12:11
>205
安藤氏が安倍姓で記述されている鎌倉時代の文書ってのは、
聞いた事ないねえ。
ところで、文献にこだわるのは、なにか理由があるの?
そういやあ、鎌倉時代の文書って、みんな「安藤」で安倍姓書いていないですね。
だから安藤氏は安倍姓じゃなくて藤原姓なんでしょうが。ループさせんなよ
ループさせてるつもりじゃなくて(w
少なくとも鎌倉時代には藤原姓なんだろうな、という意味で書いたんですが。
そもそも鎌倉時代初期の記録がない(東鑑は津軽安藤氏の祖かどうか確定できない)うえ
当時の記録も本姓を記載していない例が多いため分からないというのが正解。
ただ、○藤を名乗る氏族の多数が藤原姓を名乗っていることから
藤原姓と類推するのが妥当というだけ。
ところで話を混乱させるみたいで申し訳ありませんが、
阿部比羅夫以来、出羽から陸奥にかけては、「安」倍じゃない「阿」部姓(混同しているが)が
広く分布しています。
藤原姓だったと見られる安藤氏が安倍姓を名乗ったのには、
奥六郡の安倍の影響じゃなく、越後・出羽の阿部の影響もあったかもしれません。
(憶測ですけど)
奥六郡の安倍氏も「安倍」とかくのは陸奥話記以降で
リアルタイムでは「阿部」氏だったという話、前スレかどっかで出てなかったかい?
でてましたね。
>>211 ただ、ソースが不明だったもので、再確認したいんですよ。
阿部だとすると、丈部→阿部○○臣→阿部の流れが推測されるんで
藤原姓と推測できる安藤氏とは姓が違うことになります。
平泉藤原氏との関係も「東日流」を避けながら探るのが難しくなんとも言えない状況ですし
一応信憑性のある史料を元にした話は、これ以上なかなかできないんですよね。
安倍と阿部の書き分けってそもそもあまりないんじゃないか。水を
さすようで悪いが。
続日本紀に登場する780年の鎮狄将軍(出羽)は「安倍」家麻呂と、
782年の鎮守府副将軍(陸奥)在は「安倍」墨縄と表記されてるよ。
ご指摘の、丈部に賜姓された阿部信夫臣も、続日本紀では「安倍」
信夫臣になってる。
>>213 あ、そうでしたか。
確かに表記は複数あったりしますね。
215 :
しったかぶり:03/09/27 22:41
安倍姓、藤原姓にしても鎌倉時代の資料は「宗季譲り状」だけが
安藤氏自筆の文献資料になるわけですか。
保守
217 :
しったかぶり:03/10/15 20:56
「下国伊駒安陪姓乃記録」はどの程度まで資料として信頼できるものでしょうか?
後から面白おかしく書いた様な気もしますが。
蛎崎蔵人の乱も関係してきますので面白いのですが。
218 :
しったかぶり:03/11/01 20:58
ちょっと思いつきなんですが、安藤から安東へ名を変えてますが、
奉 籠 (1468年)
熊野那智山願書之事
右意趣者 奥州下國弓矢仁達
本意 如本津軽外濱、宇楚里、鶴子
遍地、悉安堵仕候者、重而寄進可申
処寶也 怨敵退散 武運長久
息災延命 子孫繁昌 殿中安穏
心中所願皆令満足 奉祈申所之願書
之状如件
應仁貳年つちのへね二月廿八日安東下野守師季(花押)
この「安東師季願文」(1468年)が初出ではないでしょうか?
「下国伊駒安陪姓乃系譜」によれば、安藤氏嫡流が滅んで、この師季が
後を継いだらしいので(それを信じればですが)それをきっかけ
に、安藤から安東を名乗ったのではないかな、と。
ああ、そっか。
師季は確かに傍流から宗家を継いでいますね。
そこが一つの契機なんですかね?
220 :
しったかぶり:03/11/05 21:24
「師季」後に「政季」ですが、どうなんでしょうか?
「夷千島王」遐叉とも言われてるんですが、どなたがどういう
根拠から言ったものでしょうか?
海保氏あたりでしょうか?
または新野氏とか。
海保嶺夫が『中世の蝦夷地』(1987、吉川弘文館)の中で、遐叉が
「安東政季ではないかと推定される」と述べているな。
根拠は、
1 『李朝実録』に記録されている遐叉の自称「東海路夷千島王」
のうち、「東海路」が近世においては道東をさす言葉であり、
道東が中世「日ノ本」と呼ばれていたことから、「日ノ本将軍」
を名乗る安東氏の一員であるのではないか
2 「安日王」伝承を持つ安東氏なら、夷千島王を名乗っても違和感
がない
などの点に求めているようだ。
安日王伝承って…
諏訪大明神絵詞以前に遡れるのでしょうか?
中世は語り物全盛期なので、鎌倉初期に遡る資料でないと
ちょっと信用しにくいっすよね。
224 :
1 ◆/EANDObCPY :03/11/25 20:37
保守
225 :
日本@名無史さん:03/12/04 20:54
age
226 :
1 ◆/EANDObCPY :03/12/11 00:41
ところで、「遐叉」の語源はどこにあるんでしょう?
コシャマインのコシャとかでしょうかね?
age
228 :
日本@名無史さん:03/12/18 01:29
ageと書いてsageてるヤシハケーン
229 :
日本@名無史さん:03/12/23 13:34
>>1 おれは220さんじゃないけど、
安日王伝説の信憑性(つうか、ウソに決まってるけど)が大切なんではなく、
そのような伝承(をでっち上げるセンス)があることが、
「夷千島王を名乗る」根拠になりうるという意味なんじゃないかな?
それなら海保説には説得力がある―――とはいっても、
おれ自身は「夷千島王遐叉=対馬・宗氏の騙り」だと思ってるけど。
230 :
日本@名無史さん:04/01/04 14:33
「安藤」、「安東」についてなんだが、静岡市に「安東」という地名があるんだが、
これは先に出た「安東氏の出自は駿河国」の裏付けとはならないかな?
頼時、貞任等の「安倍」家の名称が「阿部」と混同され、後に(奥州)藤原家の「藤」
が組み合わさって「安藤」となったのは分かるような気が。
ただ、そこから何故「東」の字が出てくるかとなると、やはり「安藤」家と
「安東」家とは元々別物と考えるのが妥当かと思う。
231 :
日本@名無史さん:04/01/05 15:18
駿河の「安東」>安倍川の東側(西岸は「安西」)
伊勢の「安東」>安濃川の東岸(西側は「安西」)
安房の「安東」>安房国の東部(西部は「安西」)
あぼーん
保守
安房の西部に藤原氏がいたら、そいつは安藤と名乗るべきか安西と名乗るべきか悩むんだろうか。
235 :
日本@名無史さん:04/01/20 13:26
過去スレからざっと読んでみたが、
1、安藤と安東は実は別系統。
2、安藤が古くて安東が新しい。
3、安藤の最古は保元平治の頃に信濃、ついで奥州征伐の頃に福島県下に
あらわれ、津軽にいったのはさらにその後、北条氏の被官として。
4、安倍氏との関係は津軽に移った後でこじつけられた。
5、安藤は「安房の藤原」か「安芸の藤原」だが、安芸の方は手がかりなし。
安房に平安時代に藤原某がいたし、距離的に安芸よりは信濃に近い。
6、よって安房の藤原が信濃に移って「安藤」を称した可能性が高い。
こんな感じになりますか?
その、安房の藤原さんは南家、北家、式家、京家のどれだったんだろう。
237 :
日本@名無史さん:04/01/22 21:01
津軽安東氏はアイヌ…蝦夷系統でしょ。
家宝がアイヌの弓矢とそっくりだって話だし、十三湊周辺の福島城もアイヌ
のチャシとの類似性が指摘されているし。
釣り?
239 :
日本@名無史さん:04/01/23 23:33
そいや、檜山安東氏の館跡もチャシ形式なのが多いな。
240 :
日本@名無史さん:04/01/27 07:14
安倍氏は、いつから東北にいたの?
もともと京都の阿倍比羅夫系氏族だよね?
241 :
日本@名無史さん:04/01/27 12:39
そいや、
>>1はナガスネヒコ系列の説を完全に無視してるな。
エミシ関係の話を持ち出すと、必死になるし…
別に必死になっていませんよ。
長髄彦の話は
>>1の4で書いていますが、後世の創作ものにしか出てこないんですね。
前スレから読んでみてください。
蝦夷の末裔の可能性は否定しません。チャシ形式とか家宝の弓矢とか状況証拠もありますしね。
ただ、スレの流れというものがありますので、一応目を通しておいて下さい。
奥六郡の俘囚長の安倍氏は、リアルタイムでは阿部氏と表記したのが
後世の陸奥話記以降、安倍に確定したらしい。さらに正確なところを
推測すれば、もともと決まった表記などなかったのだろう。
過去ログからずっと読んでみると、この安倍氏が、奈良時代に
俘囚に賜姓してできた阿部臣の子孫である可能性は高い。
ただ奥六郡の俘囚長になったのは世代数から察するに将門の乱の
あたり。奈良時代まで遡るわけではない。
244 :
日本@名無史さん:04/01/27 22:53
まぁこの頃の漢字表記なんていい加減だからな。
表記どころか、『蝦夷』なんて呼び名すら定まっていないし。
245 :
日本@名無史さん:04/01/29 20:07
ナガスネヒコは創作だとしても、蝦夷の長って線は十分ありうるな。
下手に文献でしらべるより、そちらの線の方が確率高いんじゃないの
かなぁ。
前スレでは不明とした安倍氏の出自も最近の研究では中央官人系の可能性が高くなってきています。
例えば、
ttp://www.jomon.com/~emisi/semi/13semi/emisi-mega.htmによると 「近年、安倍氏の出自について、平範国の日記『範国記』長元9年(1036)12月22日には、
その日の小除目として、陸奥権守に安倍忠好が見え、それが『陸奥話記』などの
安倍頼良の父忠良である可能性が高く、奥六郡安倍氏の出自を中央貴族安倍氏とする
指摘がある(戸川1999)。 」だそうです。
これはたぶん、『中世成立期の政治文化』「前九年合戦と安倍氏」が参考文献だろうと思われます。
また、
ttp://www.hum.u-tokai.ac.jp/~taguchi/Shigakukai_2000.htmには、
「十一世紀の陸奥国で強い力を有していた豪族、安倍氏について、
「公的地位」という視点から考察を行った。
それにより、当時の中央政府の東北支配の姿勢を探ろうと試みた。
新野直吉氏は、その「公的地位」を「六箇郡之司」と、「東夷酋長」という『陸奥話記』中の
語句に求められている。
しかし、その表記が「郡之司」と記されていること、「東夷酋長」と公的地位としての「俘囚長」
との性格の相違からこれは妥当ではない。
安倍氏の公的地位を考える上では、むしろ「安大夫」なる語に注目すべきであろうと考える。
これは、 『陸奥話記』中に見える表記である。
この「大夫」を五位の官人の意味と理解することができる。
また、「散位安倍為元」(『陸奥話記』)、「任陸奥権守安倍忠好」(『範国記』)などといった記述から
長元年間頃から安部氏という氏族が公的地位を得たと考察をした。」だそうです。
247 :
日本@名無史さん:04/01/29 23:39
>>246 中央貴族出なら、堂々とそれを家系に載せる気がするのだが…。
前半のリンクはやけに断定調で、後半は「推測に推測を重ね」なんて
慎重なのが面白いですね。
248 :
日本@名無史さん:04/01/30 02:21
いきなり質問なんですが、愛知・岐阜のあたりって安藤多いですよね??
その安藤さんたちはもともとはどういう人のしそんなんですか??
自分の親がそっちだからきになる・・・。
>>247 前九年の役で系図は萌えますた。といってみるテスト
>>247 私もそう思いましたが、安倍氏の系図には中央の阿部系の系図もあるんですよね。
ずっと仮冒だとばかり思っていましたから注目していなかったんですが。
ただ、確か前スレでもあったと思いますが、清原は真人で安倍は姓(かばね)なしなんですよね。
まあ、朝廷に対する貢献度の違いかもしれませんけど(清原は税の滞納はしていないから)
>>248 たしか三河に藤姓の安藤氏と源姓の安藤氏がいたはず…
>>249 それは前九年じゃなく文禄(ry
>>250さん
ありがとうございます☆
それにしても自分はどっちなんだろうか・・・。
>>248 三河安藤
1 阿部仲麻呂の後裔阿部朝任が鳥羽院より藤原氏の姓を与えられ、
両氏の文字を合わせて安藤を称した
2 『系図総覧』所収の「安藤氏系図」には、その祖を源頼信とし、清和
源氏となっている。
の2説あり。
美濃安藤
安藤伊賀守守就の系統だとすると、藤原秀郷の後裔。鎌倉初期の朝光
が伊賀守だったことから伊賀姓を呼称して、守就の代にどういうわけか
安藤と伊賀の双方を名乗った。
うちも三河の安藤です。
家紋とかで判別つくといいのに。>藤原氏or源氏
源氏説ハ仮冒ニ過キサルヘシ
うちは場所的に美濃ですね〜。
252さんありがとうでした★
256 :
日本@名無史さん:04/02/12 22:37
やっぱり「津軽」安藤氏は蝦夷系だと思うよ。たとえ捏造でも、わざわざ
天皇に逆らった人々の系図を作るなんぞ、反大和政権的心情があったのは
明らかなんじゃないの?
明治維新では子孫は日和見したけどさ。
>>256 反大和の家系伝承を持っていたことと、実際の出自とは、必ずしも結び
つかないような。
要は、安日やナガスネヒコ、「醜蛮」なんかを持ち出してきて、
1 自分達は中央の人間とは起源が別なので、中央の人間の規制を受ける
いわれはない。好き勝手やらせてもらうぜ!
2 醜蛮≒蝦夷の子孫でもあるので、自分らが蝦夷に対する特別な権限を
持つことに一定の正統性がある。文句ないだろ!
と主張し、北辺でフリーハンドで動くための後付け理論武装したってだけじゃ
ないかな。春秋時代の楚王がことあるごとに「俺は蛮人だから、周王のいう
ことなんか聞かなくていい」とごねるのと同じで。
「夷千島王」名で李朝に対して使節を送ってる(一応海保説を支持して)のが、
上記の妄想の一応の論拠だがw
258 :
日本@名無史さん:04/02/13 03:10
>>252 安藤伊賀氏の一族で土佐山内重臣の家は安東だね。
>>256 古代の氏族にも中世の武士にも反逆者の子孫なんてふつうにいるけど?
260 :
日本@名無史さん:04/02/13 12:28
事実だから系図に残したんだろ。
261 :
日本@名無史さん:04/02/25 16:17
ホシュ
中世のこの地域は文化圏的には日本ではないだろう。
血筋なんて貴種伝説以上の意味ないんじゃないか?
まあ、それを言っちゃあおしまいなのでそれはナシ。
貴種伝説のわりには朝敵の末裔を自称していたりと、ちょっと変わっているんですよね。
それが蝦夷のアイデンティティなのかもしれませんが。
でも蝦夷の末裔で正解かというと、前スレからの流れでご承知でしょうけど
そうでもない史料があるわけで…
文化圏の話は、日本・蝦夷が混在していますので一概には言えません。
265 :
日本@名無史さん:04/03/06 20:20
初代 津軽為信(ためのぶ) 従五位下 大浦守信の子で、叔父の大浦為則の女婿となり大浦城主を嗣ぐ。
二代 津軽信枚(のぶひら) 従五位下 越中守 津軽為信三男(長男信建は関ヶ原で西軍に付かせた)
三代 津軽信義(のぶよし) 従五位下 土佐守 二代信枚の長男
四代 津軽信政(のぶまさ) 従五位下 越中守 三代信義の長男
五代 津軽信寿(のぶひさ) 従五位下 土佐守 四代信政の二男
六代 津軽信著(のぶあき) 従五位下 出羽守 五代信寿の子の信興の子(信寿の嫡孫)
七代 津軽信寧(のぶやす) 従五位下 越中守 六代信著の長男
八代 津軽信明(のぶあきら) 従五位下 土佐守 七代信寧の長男
九代 津軽寧親(やすちか) 従五位下 土佐守 支領黒石6千石五代領主、津軽著高の長男で、黒石領六代領主となるが、宗家に嗣子なく、宗藩藩主となる。
十代 津軽信順(のぶゆき) 従四位下 出羽守 侍従 九代寧親の嫡男
十一代 津軽順承(ゆきつぐ) 従四位下 左近将監 三河吉田藩主松平信明の三男で、支藩黒石藩8代当主親足の養子となり黒石藩2代藩主津軽順徳となる、宗家に嗣子なく宗家の藩主となる。
十二代 津軽承昭(つぐあきら)
従四位下 土佐守 肥後熊本藩主細川斉護の四男
266 :
しったかぶり:04/03/06 22:13
時頼最後の時、枕元によばれた側近のなかに、安東氏が出てきますが、
どの?安東でしょうか?
吾妻鏡
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html 11月20日 丁酉
早旦北殿に渡御す。偏に御終焉の一念に及ぶ。昨日厳命を含むの両人、固くその旨を
守り人々の群参を制禁するの間、頗る寂寞たり。御看病の為六七許輩祇候するの外人
無し。所謂、武田の五郎三郎・南部の次郎・長崎次郎左衛門の尉・工藤三郎左衛門の
尉・尾籐太・宿谷左衛門の尉・安東左衛門の尉等なり。
>265 津軽氏と安藤氏は関係ないでしょ。
267 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:30
>>264 史料ばかり頼っちゃ駄目なんじゃ?チャシの形式とか家宝とか、アイヌとの
関わりとかを見ていくべきだと思う。
268 :
日本@名無史さん:04/03/09 03:22
“まつろわぬ人々”の親分だということを軽視して欲しくないというか、
もっと誇りに思って欲しいんだよな。なんか中央との由緒書ばかり気にしちゃってさ。
松前の代になっても当主に“俘囚の長”みたいな自覚があったのは明白なんだから。
十三湊でどことどんな交流があったのかとか、そっちをもっと考えて欲しいよ。
相手方に文書が残っている倭寇の研究と比べたらハンデはあるけど。
269 :
日本@名無史さん:04/03/09 04:29
そうそう。
そのへんが南部なんかとは違うとこだな。
270 :
日本@名無史さん:04/03/09 04:43
史料的な限界の話が出て来たので王権論的なとこから行くと、
だいたい王ってのはその共同体から出て来るのはマズいんだよね。
必ず国の外からやってきて王になったというカタチをとる。
(神話的には神の世界から来たと表現される)
天皇も九州方面から東征してきたことになってるし、
関東の将軍家も実体は関東の権力だけど
西日本の王族から貴種を迎えるって形だよね。
平泉の権力も実質は東北の権力だけど「王」は藤原を名乗ってくる。
逆に津軽安藤氏を貴種と考える地元(蝦夷)の王権があったと考えれば矛盾はない。
271 :
日本@名無史さん:04/03/09 04:47
あ、矛盾てのは血は三河は美濃だけど意識としては蝦夷の王、ってことね。
津軽安藤氏が貴種?
地元がそんなこと思ってた?
王権論?
ハァ?
273 :
日本@名無史さん:04/03/09 18:15
>>272 わしらのとのさま程度には思ってたんじゃないのか?
274 :
日本@名無史さん:04/03/09 23:43
それも充分あり得ると思う。
272にはチト難しすぎるだけだろ。
安藤・工藤は津軽にありふれた地頭そのほかの群小の在地首長だろ
276 :
日本@名無史さん:04/03/10 18:27
>>275 群小かどうかは知らないが、大和からでなく身内からでたという気持ちは
あったと思うぞ。
身内から出たのに「貴種としての王権」?
278 :
日本@名無史さん:04/03/11 04:22
身内からでてるのがわかってるところで貴種伝説が成立し得るのか?
280 :
日本@名無史さん:04/03/11 23:31
>>279 ヤマトの奴らから出るよりよっぽどましだと思っていたんじゃないの?
>>280 「貴種としての王権論」って意味わかってる?
282 :
日本@名無史さん:04/03/12 11:19
>>279 でもなんかそのいいかげんなとこもまた津軽っぽくてイイ。
と思ってしまうのは漏れだけか。
283 :
日本@名無史さん:04/03/12 12:26
だから、むかしヤマトと戦った安倍氏の系図をねつ造したんで
しょ。
284 :
日本@名無史さん:04/03/25 17:54
ほしゅ
285 :
しったかぶり:04/03/30 22:46
建武元年 1334年の南部師行に対する書簡です。
安東、安倍とでてきて、ちょっとビックリ。原文をあげます。
ちょっと難解ですがよんでみてください。簡単な状況としては
師行が無事に京都から帰ってきて喜ばしいことです。
お祝いに鷲羽等を送ります..です。
建武元年 1334年
安倍祐季書状
御上洛之後 久不承候之間 無御心本相存之処 先日安東入道便宜にこそ
御下之由承候へ 無為に御下向候へは 一身之悦と存候 尤入御見参に
諸事可承候処 兼令申候治部左衛門大夫にあたされ候て 一両年合戦に候
干今無隙候之間 乍思其義候条 背本望候 世間静謐候者 懸御目候て
此間事等承 又可令申候
一雖主少候 筋黒一尻 同保呂一鳥令進候 尚々少事之至不少其憚候 恐々謹言
二月廿日
謹上 南部殿 安倍祐季 (花押)
(新渡戸文書)
286 :
しったかぶり:04/04/03 22:21
訂正 乍思其義候条 乍思無其義候条
安東入道は外が濱の安藤明師
安倍祐季は 湊孫次郎 (大正十三造氏)
治部左衛門太夫は、分かりません。
安藤(安東)と安倍は別の「苗字」なんですかねえ?
ずっと安藤は苗字、安倍・藤原は氏と思っていましたが。
なんか安藤と安倍が並立している印象を受けましたが。
もしかしたら署名だけは本姓を使った可能性もありますが。
288 :
しったかぶり:04/04/11 21:15
安藤氏は、安倍姓かもしれませんね。
この時期、鎌倉末期から、南北朝の安藤氏については、南部家文書の中の
「曽我氏文書」に詳しく書かれてますのでちょと参考までに。
曽我貞光申状案(土台)貞和三年五月 1347年
曽我余一左衛門尉貞光謹言上
欲早被経急速御沙汰、任軍忠旨、欲恩賞、弥施弓箭
面目子細事、
副進
六通 御感御教書案
三通 石塔人道殿、同左馬助殿書下案
二通 安藤五郎次郎家季一見津軽合戦奉行也
二通 安藤太師季注進状同前
二通 浅利六郎四郎清連注進一見状同前
一通 曽我左衛門尉師助一見状
右貞光自最前参御方、■於奥州津軽、挙御旗之處、
去建武三年正月六日、安藤五郎次郎家季称下給御教
書、合力之間、令談合之、即攻落南部六郎政長以下凶徒
等畢、
略
安藤太師季は、安藤五郎太郎師季(高季?)らしいです。
どういう訳か、宗家の安藤太に御教書が下されなく、弟の次郎家季
にくだされてます。
hosyu
290 :
日本@名無史さん:04/05/02 11:36
どうして、こうも安藤氏関係は嘘が多いんだろうね。(一般的に)
その連中の心理状態が知りたいな。
東日流のことですか?
このスレは、できるだけ嘘を排除しようとして立てたんですが
どうも嘘が多すぎて分からないことだらけってのが
今のところの結論です。
で、あなたの言う嘘とは、どこのことですか?
292 :
日本@名無史さん:04/05/03 23:01
>290です。
言葉足らずでしたね。
ただあげるのも芸がないもんで、一言述べました。
293 :
日本@名無史さん:04/05/13 21:21
現当主津軽晋氏はどちらからいらした方ですか。
津軽スレではありません。
295 :
しったかぶり:04/05/29 23:23
「蝦夷管領」職は本当にあったんでしょうか?
鎌倉年代記
1325年
6月6日
蝦夷蜂起の事に依って、安藤又太郎を改めらる。五郎三郎を以て代官職に補しをはん ぬ。
1326年
3月29日
工藤右衛門の尉祐貞蝦夷征罰の為に進発す。
7月26日
祐貞季長を虜え帰参す。
こういうときこそ出てくると思うんですが、季長など蝦夷扱い。
296 :
しったかぶり:04/06/05 20:12
298 :
しったかぶり:04/06/23 20:40
あげついでに
宗季譲り状二通に出てくる地名に外が濱、十三湊が
出てきませんが、これはいったいどういうわけでしょう?
>>298 十三湊は元徳譲状の「にしのはま」に含まれるってことはないの?
300 :
日本@名無史さん:04/06/23 21:18
┌"" ̄〔二二二〕 ̄""┐
┌'"" ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄""┐
|゙ .(○○). ゙|
| (1|7|M) l l [糞田舎 |
|..____________ |
| | | ̄ ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ | | |
| | | <・> <・> | | | みんなで広げようクソ田舎の輪
| | |____|____|____| | |
| ────────────..| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ⊂ニニ⊃ .JR | < よゆうで300ゲット クソ田舎 マジック!
| _ | ∩ | ._ | \_________
|_o____.⊂ニ⊃_宙____o_|
l」''豆||豆''H l×ロl H jj''||豆''l」
┌─┘_'__三三三三三'___└─┐
\______________/
/ |
| | |
.| | | |
.| し,,ノ |
!、 /
ヽ、 / 、
ヽ、 、 /ヽ.ヽ、
| | | ヽ.ヽ、
(__(__| ヽ、ニ三
301 :
しったかぶり:04/06/23 23:05
>298
でもそうだとすれば、安藤宗家が十三湊を支配下においたのが
これ以後ということになりますが。
1327年あたりに西浜合戦があったのは確からしく、1322年
の残党退治ということになっていますね。
十三湊行きたいなあ。
何年も前に行ったときは
本数少なすぎるバスの時間が気になって
落ち着いてまわれなかった。
老館長さんまだ元気かなあ。
しったかぶりさん、今後もよろしくお願いしますです。
>>301 すみません、譲状の作成経緯と、季長・季久(宗季)の争いとの関係性を
ちょっと教えていただければ助かります。元徳譲状の所領は宗季の新規
征服地ってことでしょうか?
それにしても
>>296は助かります。感謝!
307 :
しったかぶり:04/07/19 20:53
>305氏へ
譲り状作成経緯はよく分かりませんが、最初の譲り状が書かれた後で
仰るとおり 1327年「西の浜」合戦が行われ、宗季が拝領したのでしょう。
1335年の北畠安堵状に出てくる、「除安藤次郎太郎後家賢戒知行分関阿曾米等村」から
推測すると安藤次郎太郎が当事者で、その未亡人賢戒に、関(深浦付近?)阿曾米等村(小泊付近)
を与えたものと思われます。
でもこれどうして下げ進行なの?
このスレはsage進行推奨です。ネタがネタだけに東日流デムパが寄ってきやすいので。
「宇楚里鶴子遍地」の典拠としては諏訪大明神絵詞が使用されます。
「蝦夷カ千島ト云ヘルハ〜其内ニ宇曾利鶴子別ト前堂宇満伊犬ト云小嶋トモアリ
此種類ハ多ク奥州津軽外浜ニ往来交易ス」
で、前堂宇満伊犬が松前とすれば、宇曾利鶴子別が函館に比定されるわけですが、
一般に、
「宇曾利・鶴子別」と読めば下北周辺。
「宇曾利鶴子別」と読むなら函館周辺と理解される方が多いんです。。
もっとも、前堂宇満伊犬を吾妻鑑にでてくる「多宇末井」として、浅虫に比定
出来なくもないのですが。。。
どちらをとるかは信仰の問題ですな。もっとも「鶴子別」と書いてどう読むのか
分からない。加えて、本当に「鶴」なのかも分からない。そもそも、神頼みする
のにわけのわからない文字を書いたのでは、神も聞き入れてはくれまいて。
コシャマインがしのりの舘を落としたのが1457年、勝ったはずの信廣&師季
が日本海側の勝山、秋田に逃げるのが1460年代初め、で師季のお願いが
1468年 。生駒系図によれば、潮潟生まれで田名部育ちの師季さんのこと
だから、宇曾利じゃなく田名部の回復を祈願するなら理解も出来ようが、もと
もと田名部は南部さんのものだから、いくらなんでも宇曾利の回復を祈願す
るのは津軽弁で言うところの「欲たがり」。だから、「宇楚里鶴子遍地」が函館
だという根拠になるわけですね。
ふつうに考えれば宇曾利=下北で、 前堂宇満伊犬=松前じゃないの?
311 :
日本@名無史さん:04/07/22 01:53
ようするに、頼朝さんの奥州合戦からすでに200年経ってから成立されたと思われる
「諏訪大明神絵詞」が宇曾利鶴子別を蝦夷が千島としているんだから、宇曾利=下北
はありえない。当然下北は本朝だという認識ですね。宇曾利=下北だと、下北、平内の
蝦夷が外の浜に交易しにやってくる話になるんで。
だいたい師季さんの願文「津軽&外浜」なのか「津軽外浜」なのか、「宇曾利鶴子別」
なのか、「宇曾利&鶴子別」なのか、本人に確かめないとわからない。
312 :
しったかぶり:04/08/05 23:01
一寸お聞きしたいのですが「諏訪大明神絵詞」が1356年に成立したとの
根拠はどこからでてきたものでしょうか?
さらに
学者の皆さん方が一級の資料扱いしてますが、疑問です。
ご承知のよう同書には原本が現存しませんが、延文元年の成立は、「園太暦」延文元年八月
条によって確認し得ますし、写本も最も使用度が高いいわゆる権祝本(諏訪神社上社神長官
守矢家伝)が文明四年(1472)。鎌倉幕府滅亡の遠因となった安藤一族の内紛を記述した唯
一の記録ですから、神様のPR資料とは言いながらも使わないわけにはいかないのです。し
かも、中世蝦夷について詳細な記述がある唯一の文献資料でもあるわけですから。
もっとも、記録中にある「宇曽利鶴子別」を「宇曽利&鶴子別」でなく「宇曽利鶴子別」であると
して函館と断定したのは「金田一京助」先生ですから、アイヌ語については、大先生のお言葉
に異議を唱える漢がいなかったという点はあえて指摘しておかなければならないのでありま
した。これにいちゃもんをつけたのが東京国立博物館の佐々木利和資料室長で、蝦夷三類
日ノ本・唐子・渡党の「渡党」を下北半島から野辺地を含めた北海道南西部地域に住むピー
プルと指摘したのだが、開拓記念館の海保嶺夫が支持したくらいのもので、未だに大先生の
権威は絶大です。
基本的には、中世蝦夷を=アイヌオンリーと認識するか、「渡党」については渡道した和人も
含むと考えるかによって見解が異なるといってよいでしょう。
映画八甲田山で緒形拳扮する村山伍長殿が言った言葉、
「おれは自分が正しいと思った道を行く」
自分で正しいと思ったものが正しいのです。
314 :
しったかぶり:04/08/09 22:03
ご丁寧なご教示ありがとうございます。
成立時期については読んだ時に何となく新しい気がしたものですから(直感的に)
1356年と聞いて、え!?と思ってましたので。
今のところ「批判」する力がありませんので宿題として考えていきます。
「宇曽利鶴子別」についてですが、政季願文の「「宇楚里鶴子遍地」の文字が
「100年近く後」に書かれたのに余りに同じすぎるのがかえって不自然な気が
します。アイヌ語だそうですが、このような時は「音」だけで漢字を当てるので
しょうがこんなに一致するものでしょうか?
まあ、こんな風に疑問を感じましたので。
アイヌ語はボキャブラリーが少ないので、おんなじ地名が多すぎるからな〜。
奥内出身て、むつなのか、青森なのか区別が難。
>アイヌ語だそうですが、このような時は「音」だけで漢字を当てるので
>しょうがこんなに一致するものでしょうか
諏訪大明神絵詞には「内末部」もあるので、一致するものなんでしょう。
age
317 :
しったかぶり:04/09/11 19:22:45
二三日前のTO日報に上北町の新館遺跡で、擦文土器が発見されたとの記事がありました。
今まで、津軽平野と田名部地域だけでしか出土してなく、それが偶然安藤氏の
支配地域と重なるので、安藤氏との関連が取りざたされていた事もあるのですが
それが崩れてしまった訳ですね。
擦文土器に関しては又新しい見方が必要になったということですね。
318 :
しったかぶり:04/09/12 09:05:47
>317 訂正
新館遺跡→赤平(3)遺跡
320 :
しったかぶり:04/09/13 19:47:46
まあ時期的に観て無理だとは思っていましたが。
海保氏の説は、安倍富忠と結びつけたものでしたか?
(安倍冨忠が藤崎に来て安藤氏を名乗ったと言うやつ)
安東って地名は朝鮮と中国の間らへんにもあんのな。江川の漫画読んでてみつけた。
安東こそ新羅姓なんじゃねーのか。南北朝動乱のどさくさに安倍姓を冒して押領したんだろ。
323 :
しったかぶり:04/09/25 22:04:17
一応、そういうことになっておりますが。
「一、外濱明師状入見参畢、重々述懐申歟、」の本文がある「北畠顕家御教書」は家季宛ですか?
325 :
しったかぶり:04/10/12 21:00:02
327 :
日本@名無史さん:04/10/17 01:04:12
三国湊住人五郎三郎入道寂房って安藤氏?
1441年に紀伊熊野社に奉納された「津軽下国安藤氏系図」って現存してる?
328 :
しったかぶり:04/10/18 21:51:18
>奥州下國之代々之名法日記
泰季は康季でしょうから、秋田家の系図と案外合致するんですね。
三国湊は越前だったのか。さすがに「五郎三郎」だけで安藤氏とするのは無理があるか。
安藤氏は若狭羽賀寺改修をしたりしているので、
越前だからといって無関係と断言できませんが、なんとなく違う気がしますね。
でも五郎三郎という名乗りがそれっぽくもあり、
寂という字もそれっぽいですね
>>327
tripを変更することにしました。
以後このtripで。
「五郎三郎」がそれっぽいとは? 単に父が五郎で自分はその三男って意味でそ?
>>333 保暦間記とか鎌倉年代記とか、安藤氏関係によく出る名乗りですから。
山辺郡亀山郷てどこらへん?関東人なんでわかりまへん
地図サイトで検索してもでないし、ぐぐっても奈良県ばっかヒットする。
んでも、その五郎三郎季久だけじゃん?→よく出る名乗り
鎌倉中期以降、関東御免津軽船などの例を考えれば、
越前の津・泊はじゅうぶん安藤氏の縄張りだよ。
津軽船って、べつに安藤氏の所有する船って意味じゃないでそ
>関東御免津軽船
関東=鎌倉幕府、この時期は北条氏なので、
“津軽まで往来する交易の特権を北条氏から与えられた船”のこと。
「すべてが安藤氏の船ではない」とする説と、
「津軽にすべての船の所有権があった」とする説に割れている。
前者が正しいとしても、
安藤氏が北条氏被官だったことを考えれば、
この類いの日本海交通・交易に安藤氏が深く関わっていたことは間違いない。
>>338 どちらにしても、越前に安藤氏の影響力が及んでいたということね。
でも、前者と後者では関わりかたの度合いがかなり変わってくるね。
津軽船は「津軽の方から来る船、津軽を回ってくる船」の意味で
安藤氏の所有船という意味ではないと聞いたがな?
341 :
しったかぶり:04/10/28 21:45:54
関東御免 鎌倉幕府(北条氏)から諸湊での通行銭を免除されていると言う事。
津軽船 津軽航路を行き来する商船と言う事。
と言う風に理解しております。
さて
大乗院文書のどこに安藤氏がみえてくるのでしょうか?
山辺郡亀山郷てどこ?
343 :
日本@名無史さん:04/11/07 14:21:33
オレの父方の親戚に「安東」さんが居るが津軽安藤(安東)氏の末裔だろうか?
ちなみにその人は岡山県出身だ。
岡山なら伊勢安東氏の可能性があるんじゃないか?
346 :
日本@名無史さん:04/11/20 12:51:25
>345 サンクス
岡山県美作地方出身なので藤原北家の可能性が高いです。
どうもありがとう
hoshu
348 :
しったかぶり:04/12/05 20:09:08
さてこれはどうでしょうか?
石橋和義奉書 (1357年)
曾我上野介時助申、出羽國小鹿嶋事、訴状具書如此、
安藤孫五郎入道立環遵行之地押領云々、尤招罪科*与欠 *一字
所詮安東太相共莅彼所、沙汰付下地於時助代、可被執進請取、 莅−望
使節緩怠者、可有其咎之状、依仰執達如件、
延文二年六月八日 沙弥(花押)石橋和義
曾我周防守殿
共にこの時期北朝方ですけどね。
349 :
日本@名無史さん:04/12/27 21:38:51
age
津波ってゴイスー
てことで亀山郷てどこですか?
351 :
しったかぶり:05/01/10 12:35:51
山辺郡亀山郷 の事なら、残念ながら現在その地名は残っておりません。
推測として、現、浪岡町付近だと思われます。この付近に住んでる方なら
地図に載ってない地名等知ってる人がいるかも知れませんね。
いくら出自がどうとか言っても、しょせんは劣った低レベルの東北人でしょ?
そうですね。
中央の敗残者や現住の原始人などの劣った人間たちが
常に悲惨な環境ではいつくばって生き長らえてきた。
それが津軽という土地。
希望などどこにもありはしない。無能無知の土民。
だからこそ血筋にこだわるわけですよ。
>>352 激しく同意。
東北人には貴種の血統を誇る奴が異常に多い。
いかに現実にコンプレックスがあるかどうかがわかる。
確かに東北人はコンプレックス多い。
358 :
しったかぶり:05/02/12 15:11:02
奥州下國殿之代々之名法日記
安藤又太郎宗季,其御子息
師季、其子ニ
法季、其子ニ
盛季、其子ニ
泰季と申、今の下國殿也
永享12年
嘉吉元年
(1441年)米良文書 東京大学資料編纂所蔵影写本
359 :
日本@名無史さん:05/02/12 18:58:51
>>357 と、半島から逃げて、淀川沿いで小麦粉焼きながら日本人騙してる在日が、なんかほざいてます。
>>357 歴史の無い民族なんだからしょうがない。
自分達の文字すらもっていなかった原始種族だし。
361 :
日本@名無史さん:05/02/12 22:02:33
逆に、安東氏の祖先が朝廷に反抗した蝦夷の頭領だとしている…ってな話を
書いても叩くくせにねw
いったいどっちなんだw ただ単に叩きたいだけってのが明白。
>>355 歴史を誇るのは勝手だけど稚拙な捏造が多すぎるよ。
かなり重症だね彼らは。
荒んだ土地だからね。
237 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/26 15:41:49
>>234 他所のスレに出て行って暴れるどころか、ホームグラウンドで世界中から叩かれまくってい
るのでそれどころではない模様。
九州人より東北人の方が叩くのに憐憫覚えないし、必死になって反撃してくるから面白いよ。
365 :
日本@名無史さん:05/03/19 01:25:09
荒しばっかでスレの方向性がつかめない。
366 :
日本@名無史さん:05/03/19 01:26:55
やだ。
>>366 つまり東北はアフリカのサバンナ並みの原始的な土民の土地ということがいいたいのですね。
369 :
日本@名無史さん:2005/03/21(月) 12:09:45
>>368 巡回ご苦労様w
いい加減ワンパターンから脱却して、せめて「青虫」から「さなぎ」になってくれw
アフリカ人に失礼すぎる。
彼らは少なくとも独立はしてる。
まあ、東北がアフリカ以下の土地だってのには同意。
日本が併合してやらなければいまだに貧困と飢えとエイズ禍に苦しんでいた土民の土地だろうからな。
373 :
しったかぶり:2005/03/29(火) 23:21:27
昨年の秋に、「中世十三湊の世界」が発刊されました。(市浦村編集)
その中に佐藤仁氏の金石文の報告書があります。主として「板碑」
についての研究です。その内容の一部を簡単に言いますと「板碑」の敷設地が、
津軽平野内陸部から十三湊方面へ移動している、それは「安藤氏」の「拠点」
が同じく移動していった事である、というものです。
その時期は、14世紀中盤から末期とのことです。(南北朝期)
で疑問なんですが、どういう訳で、本拠地を移したのでしょうか?
1362年頃曾我氏が滅んでいます。それ以後強大化した南部氏の圧迫
が強くなったのは間違いないと思いますが、北畠顕家から安堵された
先祖代々の土地を簡単には離れないと思うんですが。
またキモイ奴がきたぞ。
>>373 青森の不毛な大地なぞどこへいっても同じ。
自殺しなかっただけえらいと思うよ。安藤は。
>>373 稚拙な妄想を語って叩かれてた奴か。
みんな迷惑してるんだからさ。いいかげんにしろよ。
すきあればスレの流れを乱すな。ホントに。
おまえほとんど荒らしだぞ。
いいかげんにしろ。
>>371 激しく同意。
アフリカ人に失礼すぎる。
hosyu
あらし気にせずいきましょう
379 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 00:36:38
保守
380 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 07:29:38
>>373 藤崎に安藤氏本家があって、十三湊の別家が海運とかで発展していったのでは?
381 :
安藤組ただし幼稚園の:2005/04/29(金) 19:05:57
高橋克彦の「北条時宗」では、十三湊の安東太郎というひとが元寇の際、九州にわざわざ来て元・高麗群と戦ったけど事実ですか?作者は東北出身なので、東北人を活躍させたことにしたいためのうそかもしれませんが。
382 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 19:40:43
下手すると、安藤氏はアイヌ人とモンゴル帝国の抗争である「北の元寇」にもかかわっている
やも知れず…。とりあえずアイヌに武器供与しているんじゃないのかな?
>>381 九州・長門防備に動員されたのは鎮西や西国の御家人がほとんど。
安藤氏の参戦は高橋の創作だと思います。まあ『北条時宗』は小説だから、
創作でも問題ないんだけどね。
>>382 骨嵬(アイヌのことだといわれている)が倭刀を使っていたとかの記録も
ないし、第一安藤氏がアイヌを応援しなければならない理由があまり思い
浮かばないんだが・・・
たしか東日本の武士は案外元寇には出てないんじゃないか?
おもに西日本の武士だったはず、元寇で戦ったのは。
385 :
安藤組ただし幼稚園の:2005/04/30(土) 22:56:22
ぜんぜん安東氏の話とずれますが、クビライは第3次日本派兵を考えていたのですが、もし、第3次日本派兵、3度目の元寇があったら、日本はどうなったでしょうか?リーダーシップある北条時宗は死んでるかもしれないし、安達奏盛と平頼綱は争ってそうだし。
386 :
しったかぶり:2005/05/03(火) 22:04:10
>>380 1362年頃、曾我氏が滅んだ模様です。
この時期津軽の北朝方は、安藤氏と曾我氏だと思われます。
南朝方の勢力が、津軽で攻勢ををかけて曾我氏を滅ぼし、その結果
安藤氏も北方に後退したと思っております。
実家が秋田実季の配流先にあります。
こんなスレがあるんですねぇ。
記念にカキコ。
親父は歴史にはまったく興味なしですが、
過去、何気に「ここは昔、貴族とか武士が流されてきた土地だよ」
って言ったら、「秋田○○○のことか?」って聞き返された。
○のところは「うまのすけ」とか「さまのすけ」とか、そんな感じ。
ま、それだけなんですけど。
388 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 01:39:48
御主人様・署長・議員・知事を輩出している津軽地方一の名族木村氏って
この地方に古くからいた豪族かなんかですか?
389 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 09:41:51
???
御主人様って、あなたメイドさんでつか?
例の監禁事件の容疑者のことを指してるんだろうけどあれは小林だろ。
あー、テニスの王子様のコスプレして、
額に手を当てるポーズまで真似しながら連行されたやしですか・・・。
392 :
日本@名無史さん:2005/05/20(金) 09:51:39
age
hosyu
394 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 01:50:08
古文書カモン
395 :
ななしさん原 一平:2005/06/20(月) 18:04:27
>327,328,339
遅れたレスで済みません。
1306年、嘉元4年、鮭や小袖を積んだ津軽船20艘あまり、
漂蕩船として越前国三国湊の住人に積荷を差し押さえられる事件発生。
という記録と、安東氏との関連をどなたか説明して下さい。
関係はないよ。
397 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 18:17:35
>395
能登半島の珠洲焼も十三世紀に入ると十三湊に入っており、北海道の上ノ国や
余市にも珠洲焼が流入している。このように日本海の交通ル―トは早くから安定し
ていて、十三湊はそのときの大きな拠点だったと考えられる.
(網野氏は、十一世紀には廻船のル―ト、廻船人の組織が日本列島全域にわたって
できあがっていたと考えてよいと思っている、と言う.)>
[網野善彦『続・日本の歴史をよみなおす』筑摩プリマ―ブックス.一九九六年.九七頁]。
<ここ十三湊は津軽の安藤氏の拠点であり、十四世紀には都市として最盛期をむかえ
ており、西の博多に匹敵するといってもよいほどの繁栄をしていたことが、最近の発
掘によって明らかになった。町並みをもつ都市であり、中国大陸の銭や中国製の青白
磁が大量に出土するし、高麗青磁も出てきた。十四世紀から十五世紀にかけて、十三
湊が北の国際的な都市になっていたことは間違いない。>
[網野前掲書、一三四頁]。
<十四世紀に入ってまもなく、四国、西海で熊野海賊の大反乱がおこる。…しか
も同じころ、北でも「蝦夷」の反乱といわれる、北海道の海上勢力と北条氏との大衝
突がおこっている。アイヌはこのころ活発な交易活動をしているのだが、北方の都
市津軽の十三湊に根拠を置き、日本海から北海道にいたる商業、貿易のネットワ―ク
をおさえている安藤氏の一族内部の対立もからみ、アイヌもまきこんだ北条氏にたい
する大反乱がおこる。何回かくりかえし起こったこの反乱を、北条氏は滅びるまでつ
いに鎮圧しきれなかった。>[網野前掲書.一四三〜一四四頁]。
398 :
しったかぶり:2005/06/22(水) 21:15:57
>>395 は前スレにも出てきたけど安藤氏との直接的な関係は何もないでしょう。
ソースは「大乗院文書」 正和五年 (1316年)
「弘前市史」の「資料編」にのってますので読んでみたらどうでしょうか。
399 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 00:01:15
>395
398氏に同感だが、畠山氏と安藤氏との、海上貿易における勢力争いとか、
元と唐子アイヌの戦争の余波とか、北条氏の意向とか、小説を考えるネタには
なるだろうがファンタジーだろうな。
ファンタジーだらけなんですよね、安藤氏の資料関係って。
401 :
しったかぶり:2005/07/09(土) 00:56:39
それが、ファンタジーじゃなくなってるのですよ。
例えば
安藤水軍
興国の大津波
結構信じてますよ。青森県民。
「外三郡史」が騒がれた時期、マスコミが乗ってしまってテレビで
本当の如く放送してましたから。
402 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 10:54:07
北海道で珠洲焼や大量の宋銭がポコポコ出ているんだから・・・
(環)日本海における交易を“たつき”にした集団が存在したのはファンタジーでもなんでもないでしょ。
三郡志みたいな下世話な偽書騒動を例に出して貶める類の話じゃない。
マスコミは史料批判なんてあまりやらないからねえ。
余市大川・入舟とか上ノ国の夷王山墳墓群とか上磯の矢不来館とかが、
考古学的に面白いことになってるが、これと安藤氏が安易に結びつけられ
ちゃうんじゃないかとちょっと心配だ。402さんのいう交易集団が=安藤氏とは
断言できないはずなのに、そうされちゃわないかと・・・
「交易集団と安藤氏の関係」というアプローチなら面白いし生産的だと思う。
でも、それも史料がなかなかないから茨の道だろうな。
404 :
しったかぶり:2005/07/09(土) 21:45:10
>>402 鎌倉時代に、思っていたより大規模な交易が日本海側で行われてた
事は、「大乗院文書」等からもあきらかでしょう。
しかしそれがすべて「安藤氏」と結びつけられるものでしょうか?
ということを、言いたいまでです。
>>404 日本海交易の基幹港だった十三湊の主権者・管理者が安藤氏なら、
無関係と考えるほうが不自然じゃない?
偽書騒動のあおりで、“十三湊の繁栄すら虚構だった”という声もあるが。
407 :
しったかぶり:2005/07/11(月) 21:16:20
>>405 「日本海交易の基幹港」かどうかはわかりませんが、十三湊についての
鎌倉時代の、文献資料は殆どありません。(安藤氏も)
ですから、詳しいことははっきりしていないというべきでしょう。
十三湊の繁栄は事実でしょうが、それは南北朝時代から1450年頃まで
らしい、ということですし、この時期には安藤氏が十三湊と無関係では
ないでしょうね。
>>405 その「関東御免津軽船」は、十三湊がある西浜でなく、外が浜の油川湊
あたりを起点とする船だったかもしれないぞ。可能性は低いとは思うが。
仮にそうだとすると、鎌倉期には外が浜は安藤氏の所領外だったらしい
から、船の運行には安藤氏とは別の得宗御内人が関わっていたかも
しれない。証拠はないけどね。
>>406 十三湊が大きくて繁栄した港だったことは、ちょっと前の発掘調査に
よって証明済みだよ。護岸と礫石舗装が200mにわたって施された
船着場、市街地における住宅の密集と整然とした屋敷割り、etcが証拠。
ただし、舗装や区画整備が行われたのは14世紀末〜15世紀初頭らしい。
>>407 出てきた古瀬戸・珠洲焼を分析した結果、十三湊が活動を開始したのは
13世紀に入ってまもなくとされてるね。繁栄のピークは14世紀後半以降
だけど。
網野氏の『海と列島の中世』によると・・・ 以下引用。
15世紀末の小浜には“十三丸”というかなり大きな船のあったことが文献にでてきます。
この船の積荷をめぐって、守護の武田氏と一色氏の間に争いが起きていますが、
この十三丸は、津軽の十三湊とかかわりのある船であることはまず確実であろうと私はみています。
武田氏と津軽との深い関係や、羽賀寺と安藤氏の深い関係を背景に置いてみますと、
十三丸は明らかに若狭を基点として津軽と交易を行っていたのだと思います。
410 :
しったかぶり:2005/07/14(木) 00:04:52
>>409 この文献とは何でしょうか?
網野氏ともあろう人が、15世紀末には津軽には安藤氏がいなかった模様
であることがわかってなかったのでしょうか?
更に、十三湊は南部氏は使ってないというのも間違いなのでしょうか?
411 :
409:2005/07/14(木) 06:56:29
羽賀寺縁起にある安東氏=“日の本将軍”の称号はともかく、
鎌倉後期に与えられた蝦夷管領・蝦夷奉行などの役職をみると、
安藤(安東)氏が津軽半島に勢力を持ったのは遅くとも鎌倉時代後期より前。
なぜ「十三湊の繁栄は南北朝期以降」と決めつけたがるのか・・・
大石直正東北学院大学教授による、
「安藤氏の勢力は秋田湊まで及んでいただけでなく、下北半島をこえて、
仙台の近くまでのびていたようだ」 ・・・という見解を受けて、
網野氏は九州の松浦党と対比させて、
「安藤氏も北の“海の武士団”だったのではないか」と409で挙げた著書に述べている。
409で網野氏が引用した十三丸の元ネタ(資料)に関しては、
参考文献などが案内されていなかったのでちと判らない。
わかったらカキコします。
松浦党のような根のはり方をしていたなら――
一時的に主家が断絶した、津軽から追われた・・・なんてのはあくまで象徴的な出来事であって、
土着レベルではたくましく交易にいそしんでいたんでしょうね。
そういう土壌があったからこそ、秋田氏・蠣崎氏への存続が可能だったのかも。
413 :
しったかぶり:2005/07/14(木) 20:04:13
>>411 「中世十三湊の世界」の中で榊原氏の論文を読むかぎり、遺物から推すと、
>>408氏の指摘の通り、始まりは13世紀はじめ頃で最盛期が14世紀末頃とされてます。
前にも指摘したように、文献資料がほとんどないのですから、この事実を尊重すべきでしょう。
更に
>>409で引用している文からも、(揚げ足取りのようで申し訳ないが)
<....と私はみています。
<....と思います
としか言っておりません。断定してませんね。(学者の良心でしょうか)
何にしろ、同時代資料がなさすぎですね。鎌倉時代の安藤氏は。
ですから、真偽のほどは五里霧中かと思います。
414 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 23:31:20
>>401 青森市だけの話かもしれませんが
外三郡史や安藤水軍
信じてるどころか、知ってる人も少ないですよ
郷土史に興味を持ってる人が少ないですからね
>>413 ぼくの“安藤氏が津軽半島に勢力を持ったのは鎌倉後期より前”という見解と、
あなたや408氏のいう“十三湊が機能し始めたのは13世紀はじめ”という通説は、
それほど矛盾していないと思うんだけど。
むしろ、気がかりなのは、“この領域の繁栄に安藤氏が関与していない可能性”だけを強調しようとする姿勢。例えば・・・
※「下北半島の下辺・川内町から中世の中国陶器がたくさん出た」というファクターから、
“下北半島も中国大陸と交流があった”=“津軽半島の安藤氏だけが突出した交易主体ではない”と捉える。
※「北海道から出る中世後期の板碑の様式は、青森よりもむしろ越後や能登に近い」というファクターから、
“十三湊をスキップした文化の伝播例などザラにあった”と捉える。
前者などは408氏の言う「安藤氏以外の海運に長けた得宗御内人が存在して…」というような仮定に通じると思うんだけど、
この領域(辺境)にそんな有力な御内人(しかも未見の)がいたと思える?
下北半島への中国陶器到達に安藤氏がまったく関与していない可能性は小さいでしょ。十三湊経由だったかも知れないし。
後者などは“中世後期だから”こそ、
他の海運エキスパート(時国家など?)が台頭していた=安藤氏・十三湊のプレゼンスが低下していた・・・とも考えられる。
416 :
しったかぶり:2005/07/19(火) 22:05:01
>この領域(辺境)にそんな有力な御内人(しかも未見の)がいたと思える?
そんことありませんよ、沢山おりますよ。
調べてください。
例えば、「津軽降人交名録」を見て下さい。
鎌倉末期の北東北の、地頭、地頭代の主立った武士たちが載っております。
津軽地方の最古の文書は、曾我氏にあてた北条義時の平鹿郡の
下文です。(1219年)
417 :
しったかぶり:2005/07/19(火) 23:23:13
続き
波多野氏申状案
波多野義資代資家申状
「波多野次郎代状」
波多野次郎義資代資家謹言上
欲早被停止安藤四郎実名不知任御下文并手継證文旨 * 「実名下知」は二行
陸奥国山邊郡亀山郷間事
副進
一巻 御下文并證文等案
一通 糸□(系図)
右彼所者義資相傳知行無相違之處自去建武二年以来寄事於動乱押領
之状希代之所行也所詮任御下文以下手継證文仰御使被打渡下地 為
全知行恐々言上如件
康永元年八月 日 (北朝1342年)
以上の文書は、1342年、波多野氏が安藤氏に自分の領地が横領されてるから何とかしてくれと訴えてる文書です。
波多野氏は山邊郡亀山郷を代々領有してたことが分かると思います。
>>416 自分が言っているのは、得宗御内人なんだけど・・・ 北条氏被官の。
その波多野某というのは地頭職なんでしょ? 御家人化した御内人?
波多野とか工藤とかたくさんいたろ。
でも、なにも安藤はいなかったっていってるわけじゃないんだし
問題ないでしょ。
420 :
しったかぶり:2005/07/20(水) 20:05:19
>>418 これはどうも失礼しました。確かに418の文書だけでは、波多野氏が
御内人とは、断言できませんね。
当時、津軽には安藤氏以外誰もいないというふうに読めたものですから。
はやとちりでしたか。
それと、御内人でなければ何か不都合な事でもあるんでしょうか?
421 :
409:2005/07/21(木) 00:41:42
関東御免津軽船を考える際・・・
当時の海運拠点を、北条一門が着々と支配下に組み込んでいった状況は重くみないと。
北条氏の守護代である得宗御内人か否か、軽視できないので。
霜月騒動以降の得宗専制=御内人台頭の実態はとうぜんご存じですよね?
田舎地頭と安藤(東)氏のような有力御内人では、ここでの話の内容も全然変わってくるでしょう?
>>419 なにが言いたいのかよくわかりません。
422 :
しったかぶり:2005/07/21(木) 20:55:57
>>421氏にはこのスレを、最初から読むことをおすすめします。
>>421 安藤氏が関東御免津軽船にどう関わっていたかとか十三湊と安藤氏の関係とかは
少なくとも鎌倉時代には明確な同時代資料がなさすぎるため、何とも言えないんです。
分かりますか?
ここでは、明確な史料に基づいて考察しているのだから、
“この領域の繁栄に安藤氏が関与していない可能性”を指摘しないのは逆に問題。
私個人としては鎌倉初期から津軽には安藤氏がいたと思っておりますが、
それを指し示す「同時代」史料は「ない」のです。
また、鎌倉初期〜中期の十三湊と安藤氏の直結の証拠もありません。
ただ「蝦夷管領」というからにはおそらく鎌倉末期には蝦夷との交易を司っていたでしょうから
その頃は十三湊を支配下においていたと思われますが、明確な史料はなかったはずです。
424 :
409:2005/07/22(金) 10:29:58
>>しったかぶり氏
いちおう、言われる前からザッとは読んでいるんですが・・・
どこらへんの“読み”が足らないのか教えてもらえます?
ちなみに前スレはまったく読んでいないですけど。
南部びいきであるあなたの書き込み履歴を読んで感じるのは、
「信頼のおける資料がないから、○○に安藤は関与していない」と考えたがる人なんだなあ、と。
資料がないなら、関わっていた可能性も関わっていない可能性も考えなければいけないのにね。
自レス
>>415の4行目などは、そーゆー傾向を鑑みて書きました。
資料集をアップしてもらったときお礼のレスつけているのは私だし、
感謝している部分もあるんですけど。
>>1 例に出したとおり、私は網野氏に傾倒していますが、
氏のような先達について「明確な資料がないところで妄想をぶっている」とお考えですか?
与えられたヒントから歴史を紐といていく姿勢は必要なんじゃ?
もちろん飛躍しすぎてはいけないと思いますけど。
425 :
しったかぶり:2005/07/22(金) 21:19:20
>>424氏
>>資料がないなら、関わっていた可能性も関わっていない可能性も考えなければいけないのにね。>>
可能性までは否定しませんが、資料のないところに一体どんな可能性が生まれるのでしょうか?
特に、安藤氏のような、「伝承」「伝説」があたかも事実の如く、多く言われているのであれば、
よけい注意深くなければならないと思います。
例えば
>>
http://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/(を御覧下さいましてありがとうございます。)
この中の、安藤氏の欄の中に 関東御免の津軽船についての「大乗院文書」も
ありますのでお読み下さい。
この文書中からは、私にはどうしても、安藤氏の事が読み取れません。
でもあなたは、其の可能性を考えるわけですね。
これはもう、読んだ人それぞれではないでしょうか?
426 :
409:2005/07/24(日) 15:45:57
>>425 資料として遺されていないさまざまな瞬間においても人間は呼吸していたんですから。
「信頼できる資料のない時間・場所に関しては考察することすら無意味」と言われるなら論外ですよ。
資料を欠く対象について慎重にならなければならないのは当然で、何の異論もありません。
身勝手な妄想を膨らませて断定するなどはもってのほか。この場合、下のどちらもおかしいと言いたいんです。
“明確な資料がないけど、○○に安藤氏が関与していたのは間違いない。安藤氏びいきだから”
“明確な資料を欠くから、○○に安藤氏が関与していたとはいえない。してなかったんじゃないかな。
安藤氏がきらいだから”
歴史を学ぶ人間として、資料にない時間・場所を“証拠がないから”と空白にしてしまうのはいかがなものか、と。
未見の資料が世に出た際、新しい考古学的発見があった際にいちいち衝撃を受けるのではなく、
「ああ、やっぱり」と対応できるような研究をしていかなければいけないと思うんですよ。
427 :
408:2005/07/24(日) 20:46:06
「明確な史料がないけど、少ない間接的史料から頑張って歴史を
再構成する勇気」と、「明確な史料がないので、あえて『この時代のことは
よくわからない』とあえて言い切ってしまう勇気」の、どっちも大切だと
思いますよ。
どっちを自分のスタンスとして選ぶかは自由。その選択の結果の
毀誉褒貶を引き受ける覚悟があれば。
網野さんなんかはその覚悟ができてた人だよね。北奥・夷嶋史に関する
彼の想像は、ちょっと願望入り過ぎに自分には映るけど。
おいらの意見は、1さんの
>>423の意見の後半と一緒です。ただ、
このスレはもともと「安藤氏にまつわる幾多の虚像を、史料に基づいて
剥いでみたら、新しい世界が開けないだろうか」的なスタンスで進行してる
ので、その辺は汲んでやってもらえればありがたい。
いや俺もほんとは想像で頭がパンパンだけどね。鎌倉時代は、安藤氏だけで
なく、曽我氏や工藤氏も得宗権力を背景に日本海交易に携わってたんじゃ
ないかとかね・・・
>>427 > このスレはもともと「安藤氏にまつわる幾多の虚像を、史料に基づいて
> 剥いでみたら、新しい世界が開けないだろうか」的なスタンスで進行してる
> ので、その辺は汲んでやってもらえればありがたい。
私のスレ立ての意図が正確に伝わっていることに感動しました。
みなさん、出来ましたらこのスタンスでお願いします。
> いや俺もほんとは想像で頭がパンパンだけどね。鎌倉時代は、安藤氏だけで
> なく、曽我氏や工藤氏も得宗権力を背景に日本海交易に携わってたんじゃ
> ないかとかね・・・
その可能性は高いと思います。
ここからは想像ですが、その中で安藤氏が鎌倉末期に頭一つ抜け出した要因として
蝦夷の血統の強調と、それを受けての北条氏からの蝦夷管領任命なのではないかと…
安倍姓自称の理由は、その辺りにあるのかな?と思っております。
429 :
しったかぶり:2005/07/27(水) 22:19:13
( 遅くなりました。アクセス規制がかかっておりました。)
>>426 <<下のどちらもおかしいと言いたいんです。
私もそう思います。 確かに安藤氏への好き嫌いはともかくとして
安藤氏の事について、ろくな資料もないのにあれこれ言う人達は嫌ですね。
空白なら、空白でいいんじゃないでしょうか?
でもどうしても言いたい場合は、こういう風に推測できる、又は可能性がある、
くらいの言葉はつけて論じるべきかと思います。
後は、具体的な事、例えば、「大乗院文書」に表れる「津軽船」についてとか、
「諏訪明神絵詞」の内容についてとかを論ずべきじゃないでしょうか?
>>427氏の、曾我氏、工藤氏についての考えは、可能性はゼロというわけにはいかないでしょう。
>1氏の意見に賛成です。
431 :
しったかぶり:2005/08/18(木) 23:04:35
あげついでに、
「十三丸」についてちょいと調べてみたんですが、寛正四年(1463年)
「政所内談記録」にでてくるらしい。全文読めないので何とも言えませんが
若狭武田氏といえば、「蛎崎氏」との方が頭に浮かびますね。1463年頃は、
湊文書等によれば、津軽ではもう安藤氏は勢力をなくしてますけどね。
432 :
409:2005/08/19(金) 09:01:59
>>430 網野氏絡みで、ですか?
ぼくが気になるのは、氏の夷千島王遐叉についての考察。
氏は亡くなるまで頑なに“安東政季=遐叉”とする海保嶺夫氏の説を支持したんですよ。
でも、中世対外交渉史・日朝交流史の学界において、海保説は何段階かに渡って否定されたんです。
特に長節子氏の“遐叉=対馬島人(宗氏?)による偽使”と推定する説はかなり説得力があり、
すでに定説化したといっても過言でないと思います。
長氏の研究結果は網野氏がまだまだお元気な90年代から発表され続けていたにもかかわらず、
なんで網野氏が長説になびかなかったのか、とっても気になる・・・
ttp://www.jkcf.or.jp/history/2/1_1_1tashiro_j.pdf >>431 「政所内談記録」、読んでみたいですなあ。
ところで、sage推奨ではなかったのですか?
蠣崎氏と武田氏について言えば、日本各地で普通に見られる
姓仮冒の典型例でしょうね。
武田を名乗る者が養子に来たことぐらいはあったでしょうが
代々の養子のうち最も名家っぽい家系の子孫を公称するという…。
だいたい古代と違って中世末期になれば、他姓の者が家を継いでも
家の本姓は変えなくなるものですが、
(例:佐竹は源姓であって関東管領上杉の名跡を継ぐと藤姓になってしまう
として継がなかったとか)
蝦夷(とはいえ渡党だろう)の子孫っぽい蠣崎よりも源姓の武田を選択した点
私見ですが蝦夷に対する蔑視を垣間見る思いがします。
>>432=409
私も“安東政季=遐叉”説ですので長節子説には衝撃を受けたんですがw
網野先生は列島各地の独立傾向を重視されていましたので
対朝鮮関係を全て宗氏関連で捉えたくなかったのではないでしょうか?
sage推奨ですが、たまにageてもいいでしょう?
どうせすぐ100番以下まで下がるんですからw
433関連での独り言…
日本海側で対蝦夷交易を司った氏族&場所の変遷を見ると
古代 国府(阿倍氏→秋田城) 越北端(酒田付近→秋田付近)
中世前期 安倍氏?→清原氏?→藤原氏 津軽十三?
中世中期 安藤氏 津軽十三
中世後期 下国安藤氏 津軽十三→茂別、松前
近世初期 湊安藤氏→松前氏 松前
ってとこだと考えていますが、ヤマト民族(仮)の勢力伸長を受けて
根拠地は北上していますね。
氏族も一旦は蝦夷系を標榜しますが、次第に中央の血筋になっていきます。
これとともにアイヌ系蝦夷に対する収奪も強まるのかも…
436 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 16:41:10
じゃあたまにage
437 :
409:2005/08/26(金) 11:33:23
>>1 “大蔵経をください”と唱えれば李朝政府に通交が許され、持ち込んだモノを売りさばける。
対馬を挟んだ海域(李朝⇔西国諸勢力間)でデフォルトだったこの通商システムに、
なんの前触れもなく安東政季が参画してくる・・・ というのはいかにも苦しい。
※遐叉の使者を名乗る宮内卿が、日本国王=足利将軍の使節と同行していること
※夷千島王使の上京(ソウル)実現に宗貞国が関与していること
・・・などのファクターも、遐叉=安東政季説(安藤説)を否定しているように思えます。
武田信広の出自について・・・
43 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:04/09/20 16:48:10
>>42 そう。確証はない。だから、信広の出自は厳密には「いろんな説があるが不明」
としかいえない。まあいろいろ想像する分には楽しいが。
下北土豪説は、根城南部氏(中世の八戸南部氏)史料である『八戸家伝記』
『八戸家系』その他がソース。
南部氏の分流説は、18世紀の南部藩士の著作『祐清私記』から。
南部配下武田氏説は、明治9年『新撰陸奥国誌』所収伝承から。
昆布商人説は、間宮林蔵の師・村上島之允(島之丞)の著作『蝦夷島奇観』から。
439 :
しったかぶり:2005/09/01(木) 21:30:20
政所内談記録 寛正四年六月二十六日 1463年
『(朱筆)』
一、、六月廿六日 内談
(中略)
一、武田被官与一色左京兆被官申舟荷物事
十三丸大船事者、重各別之上者、於小濱立請人、先被
返渡、相論枝舟事者、仰豊前守護、可被召上売主
本奉 ー 清泉
合 ー 治河
「弘前市史」資料編
4月から、六月まで4回、談判して最終的に、以上のように裁定されたようです。
詳しい内容は、私には読み取れませんが、この資料から安藤氏、蛎崎氏の存在を
云々するのは、やはり無理かと思います。
この「資料編」は、大変便利ですので一冊欲しいのですが、残念ながら非売品で
図書館にしかありません。コピーはしてくれますので青森県在住の人は図書館を
覗いてみて下さい。
>>439 同年4月21日、奉行衆の面前で「対決」が行われてる。
一、対決廿一日。
(中略)
明日廿一午刻、武田大膳大夫被官与一色左京兆被官、負物相論対決、
為証人奉行可有参
(中略)
奉行衆寝殿ニ着座。一色殿御使小倉、武田使逸見。其外武田被官庄口
次間ニ控。船頭両人広縁ニ座。於当所対決、依為始一献、不及伺親元
沙汰之。
「武田被官」である庄口という人物、こいつがキーなような気がするが。
もうひとりのキーマン、一色側の被官はどこいったのだ?
全然関係ないけど、「十三丸」という名前、越前三国湊郊外にある
「十三(じゅうそう)」(現あわら市)という地名からきたんだったりして・・・
441 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 04:44:12
十三湊は南部氏が津軽を治めるようになってからは没落していったのですか?
15世紀〜16世紀にかけて、南部氏は朝廷や幕府に馬や海産物を献上したとありますが、
その頃にはもう十三湊は廃れていたのでしょうか?
もし廃れていたら、十三湊の代わりになった湊町とかはあるんでしょうか?
442 :
しったかぶり:2005/09/08(木) 20:44:05
1440年頃に十三湊を攻略した南部氏は理由はよく分かりませんが利用しなかったみたいですね。
代わりに使った湊は、田名部湊、横浜、野辺地更に浪岡御所の管理下にあった
油川湊が繁栄しているようです。外が浜ですね。
再度十三湊が使われるようになるのは、十六世紀末頃からで、津軽氏が整備し直して
使ったようです。
443 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 17:50:26
スレ違いの質問なんですが
青森県にも国民新党から今回の衆議院選挙に出馬する
候補者がいるんですよね。
地元の方々はどのように評価してますか?
ちなみに私は岐阜県民なんですが、もうグダグダです。
444 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 21:57:33
445 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 08:55:01
446 :
1 ◆ANDO.MkcM. :2005/10/19(水) 19:05:49
>>442 確かになんででしょうね?
北畠家に関係あるんでしょうか?
または東日流にある津波が規模はどうあれ本当にあったか…
447 :
しったかぶり:2005/10/21(金) 20:52:02
どうしてでしょうね?
地形的に、安定してなかったのが一番のような気がしますが。
例の発掘調査によれば、焼けこげた木材の上に相当量の砂が
堆積してるとのことですので、想像するに、5、6年使わないうちに
砂に埋もれたりしたところができたりしたのでやめたのではないでしょうか?
南部氏の本拠、糠部からみると遠いしね。
鰺ヶ沢に、日本海側の湊を見いだしたのではないでしょうか?
津波も、北畠氏のこともよくわかりません。
物理的・地形的な要因なら、砂の堆積が最有力だろうね。
人的な要因というのもあり得るけど・・・
>>440 まったく空想の域を出ないんだけど、ちょっと思ったのは・・・
越前三国の旧地名に十三というところがあったなら、それを“十三湊と無関係”とは断定できないよね?
新潟・出雲崎の地名由来が古代の出雲とリンクするように、
漂着や日本海海運の縁で「ゆかりの地名がついた」のかも知れない。
同様の例は日本海に限らず安房などにも多数認められるわけだし。
前出の羽賀寺の例に見られるように、津軽⇔若狭が密接な関係にあったと考えるなら、なおさら。
450 :
しったかぶり:2005/11/17(木) 21:59:12
>>449 1433年 「満済准郷后日記」 で安藤氏は南部と争い一旦エソカ島に没落
幕府の斡旋で講和(津軽に戻ったらしい。)
この後根本資料はないのですが、1444年 嘉吉の乱頃再度南部氏が
安藤氏を責めて蝦夷へ敗走させ、この時十三湊は燃え落ちたらしい。
その後、南部氏は十三湊を使わなかったようですので、「政所内談記録」
は1463年で、十三湊はこの時使われてないと思われます。
ですので、十三丸と津軽十三湊との関係は不明、と思われます。
しかし若狭武田氏とくれば武田信広、若狭の羽賀等、何となく津軽、蝦夷と
関係ありそうな気もしますが、断定できるまでは、どうでしょう?
451 :
449:2005/11/19(土) 00:18:32
そうですね。三国湊の旧地名のひとつに“十三”があるのも知らなかったぐらいなので・・・
時国家・南惣家や渤海使研究などが目当てで北陸・能登へはよく出かけるので、
今度行く時には越前・若狭にも足を伸ばして調べてみます。
>>442 >浪岡御所の管理下にあった
油川湊が繁栄しているようです。外が浜ですね。
油川が浪岡御所の管理下?油川城(館)には南部が居住し、統治してたハズだが・・・。
浪岡北畠の領土であった浪岡〜津軽北部も本来は南部領。
453 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 16:25:50
「本来は」って
その前は南部じゃないよ
454 :
しったかぶり:2005/11/29(火) 20:50:44
>>452 >油川城(館)には南部が居住し、統治してたハズだが・・・。
その資料は何か教えていただきたい。
確かに、正確さにかけますね、、外が浜の油川は「浪岡御所」が支配してたかも知れない
というべきですね。
何せ、この15世紀からの資料はあんまりありませんので、難しいところです。
455 :
1 ◆ANDO.MkcM. :2005/11/29(火) 21:25:10
スレ立てておいて最近来てませんでしたが、活況うれしい限りです。
>>452 浪岡以前に旧浪岡領を南部が支配していたとは寡聞にして知りませんでしたが
私もどの資料にあるのかご教示願いたいです。
南部の津軽進出は、そんなに前なのですか?
456 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 08:51:53
age
457 :
1 ◆ANDO.MkcM. :2006/01/04(水) 13:03:14
おめでとうございます。今年もよろしく。
458 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 10:30:04
452のソースまだぁ?
459 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 16:28:06
堤はどうなんでしょう?
461 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 18:30:53
青森市はもともと南部のものだ
南部の家来の分際で県庁とは生意気だ
県庁は八戸か三戸にかえせ
462 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 22:37:08
海保嶺夫の『エゾの歴史』が出たので読んだんだが、1264〜1308年の
樺太における元と骨嵬との戦いで、骨嵬を指揮したのは安藤氏ではないかと
書いてて仰天した。
理由は、「エゾ地全域に相当の力を行使しえ、これらを統一的に指揮しうる
組織と人物」は蝦夷管領である安藤氏しかいないから、だそうだ・・・
「(『日蓮上人遺文』でエゾに頸を取られたと記されている)安藤五郎自身が
初代の蝦夷管領で対元戦争に備えての任命であったと思われる」とまで
言い切っている。
どうしちゃったの海保さん・・・
463 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 15:54:43
確かに言い切るのはどうかしてますねえ。
個人的には同意したくなる意見ですが、当時の骨嵬の部族連合なり
有力首長が統率した可能性もある訳ですから。
戦闘行為は狩猟の延長ですから別に安東氏でなくても指揮命令はできますし。
464 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 20:43:04
ちんぽ
465 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 21:36:05
>>461 黙れ南部の山猿。大人しく戦闘機と遊んでろ。青森の県庁所在地は津軽為信様が開かれた津軽地方の青森市に決まってる。
466 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 08:14:09
>>452 >>454 >>455 これ蓬田村の村史だけど、南部師行が建武年間に外が浜のあちこちに
所領をもらったと書いてるな。まあ油川(大浜)の名前は出てこないが。
ttp://www.net.pref.aomori.jp/yomogita/www/gida/sont/sont3.htm 外浜内摩部郷、竝未給村々、泉田、湖方、中沢、真板、佐比内、中目等村、
被宛行南部又次郎師行、同一族等候。
可御沙汰之由、被仰政処畢、然而同莅彼所、無事之煩、可令沙汰者、
依仰執達如件
建武二年三月十日
大蔵権少輔清高奉
尾張弾正正左エ衛門 殿
村史の執筆者は、この尾張弾正を津軽奉行人成田頼時に比定している。
文書の出典は(上記サイトにおいては)明らかにされてない。
また、上記の「湖方」を潮方の誤記としている。いわずとしれた、潮潟安東
政季の苗字の地。政季という人物の出自にまたひとつ疑惑が・・・
467 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 08:26:35
>>463 自分は安藤氏の関与には否定的です。そんな大規模な遠征を行っていたら、
秋田実季がどこかから調べてきて、大喜びで系図に書き入れてそうですから。
まあ史実なら何らかの記録や伝承に残らないわけがないと思ってます。
元側の記録にも、倭人の関与は一切登場しませんし。
>>466 これは「根城南部家文書」ですね。北畠顕家からのものです。
この後、南北朝の争いが起きてこのまますんなり南部氏が統治したかどうか
疑問が残りますが、「多分」南部氏が領有権を主張できたでしょう。
その後、北畠氏に与えたものと思っています。浪岡御所の成立時期はいまだ
不明です。
<尾張弾正左エ衛門 は成田頼時の可能性は大いにあると思いますが、
一昨年でた「青森県史」では、「斯波氏」の誰かではないかと言っております。
この国宣は1335年です。「油川」の地名は南北朝期には見たことがないので
この時期からあったかどうか不明とするべきでしょう。
この後おきる安藤氏と南部氏との争いはこの津軽の所領の争いが遠因ではないかと
思っております。
黒石は、工藤氏を通じて南部氏のものになっていますし。
「潮潟四郎」は安藤氏の一族ですが、宗家につかず南朝方についたらしいです。
469 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 12:57:41
496 :日本@名無史さん :2006/03/16(木) 00:05:44
我々が夢見る光景は弘前上空に立ち上る閃光とキノコ雲をこの眼で確認することだ。
>>462 これは前にどこかで見たような気がするけど、
どうしちゃったの海保さん・・・ と私も思います。
「元史」に詳しい人がホームページを開いてたと思いますがURL忘れました。
471 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 22:09:57
終わったな、海保...
終わったは言い過ぎじゃないかな。
ただ、やっぱり安藤氏に何でも背負わせるのはどうかと思うんだな。
骨嵬の戦いについていえば、まずは樺太アイヌの成立や社会体制、交易
活動などについて検討するのが先で、次に北海道アイヌのバックアップが
あったかどうかを検証するべき。安藤氏の関与に関する検討はその後で
ないと。
474 :
1 ◆ANDO.MkcM. :2006/03/20(月) 14:07:21
そうですね。北海道アイヌと安藤氏の関係は兎も角
樺太アイヌと安藤氏に何らかの関係が認められないうちには
軽々に論じられないとは思います。
あとは
>>467に同意(笑)
蝦夷管領ってなにやってたんですかね?
アイヌを支配してたの?
アイヌとの交易窓口を仕切ってた程度?
>「蝦夷管領職」があったかどうか疑問。
「諏訪明神絵詞」にしかでてこないと思いますが、いかがでしょうか?
他に文献がありましたらおしえてください。
蝦夷管領って、
辞典類の鎌倉幕府職制表には必ずといっていいほど出てくるんだが
そんなにアヤフヤなものなのか?
478 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 10:28:11
スレタイ検索しにくい
ホシュ
480 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 22:25:00
ひっそりと、歴史を面白く。
696か・・・ちょうど一ヶ月ともなるとだいぶ下がるな。
482 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 08:42:26
なんと
483 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 14:54:12
安東氏(安藤氏)は、アントン氏で、アン・ジョンファンと同族という
あやふやな解説を浴びてきました…。体力落ちた。
484 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:48:19
馬鹿馬鹿しい
485 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:57:19
安東氏はローマ皇帝のアントニウスと関係あるんじゃないのか?
486 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 22:21:01
487 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 14:44:33
あるよ
488 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 10:20:33
結局、「安倍」と「安藤」の関係は?
489 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 04:35:57
関係はないよ。
南部氏が、源氏を名のり、曾我氏が平氏をを名のるように
安藤氏は、安倍氏を名のったと思います。
491 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 00:25:33
しょせんは津軽
海保さんの『中世の蝦夷地』をひさしぶりに読み返したんだけど・・・
やっぱりこの領域の歴史は、この人の研究成果を抜きにしては語れないと再認識した。
飛躍モード・暴走モードに入ってしまう箇所は確かにあるし、賛否両論はあって当然。
でも、中央の資料(今昔物語とか)と対比させてエミシとエゾの区分に言及するところとか、
“渡党”の実体について突っ込み気味に推論するところとか、「やっぱりいいなあ・・・」と思ったよ。
さまざまな反対意見が出揃って、今や揶揄の対象になってしまった感のある江上氏の騎馬〜説について、
考古学者の森浩一氏が「叩き台としての価値はまったく失われていない」と擁護していたけど、
海保史学もその域に入ったと考えていいんじゃないかなあ。
493 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:11:30
消すのはもったいないから、あげ。
494 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:17:31
>>492 武田信広が蠣崎家の跡ついだって説、最近はわずかだが
疑問視されてるらしい。そもそも出自が全く不明で、
いくらコシャマインの乱で武功を挙げたといっても
分家を継げるほど由緒正しい人物じゃないそうだ。
さらに津軽安東氏はその後、津軽から撤退してるが、
信広を取り立てたことで自分の首を絞めているんだけど、
それも手伝ってるらしい。
おれは492ではないが、海保さんは武田信広がリアル源氏だなんて言ってない。
むしろこのスレ上で出てきた「十三丸の騒動に関与していたような、越前由来の海運従事者じゃないか」
――と推察している。
蠣崎・松前が新羅三郎の裔を称しているのは、あからさまな仮冒でしょう。
>>495 武田を名乗る客将が継いだかどうかではなく、
信広自身の出自があやふやということ?
497 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 14:07:37
そう。越前から渡ってきた、文字通りの“渡党”でしょう。
南部が源義光流だから、その対抗上かもね