どうぞ!
2 :
日本@名無史さん:02/09/12 19:37
三大夜戦の一つ
川越夜戦
3 :
日本@名無史さん:02/09/12 19:46
早雲と氏康と氏直はすごい。隔世遺伝か?
おまえら、偽北条だろ。北条氏とか名乗るんじゃねーよ。
5 :
日本@名無史さん:02/09/12 20:18
氏綱もいいじゃん
おまえら、たかが伊勢氏じゃねーかよ。
7 :
日本@名無史さん:02/09/12 21:02
氏照は?
ひるがえる地黄八幡軍団。
結局、鎌倉北条氏とは何の関係も無い一族なの?
>>8 日光猿軍団のまねした日本猿軍団みたいなもんだろ。
本物と比べるだけムダ。
10 :
日本@名無史さん:02/09/12 21:43
虎の印と、伝馬の印、カコイイ
11 :
日本@名無史さん:02/09/12 21:50
「武田信玄」の杉良太郎の北条氏康はかっこえかった。
>結局、鎌倉北条氏とは何の関係も無い一族なの?
伊豆に住んでいた北条氏の末裔の女性と北条早雲が結婚していたはず。
小早川隆景と一緒。
>伊豆に住んでいた北条氏の末裔の女性と北条早雲が結婚していたはず。
そんなの偽者だよ。
関東の覇者とかいいながら
安房には里見氏がいるし、常陸は佐竹だし野州も今イチだったし
実効支配してたのって関東の半分以下じゃないのか?
どうよ?
14 :
日本@名無史さん:02/09/12 22:37
>>13 関東250万石というのは誇張ですよね。
しかし、北条氏康は結構頑張ったんじゃない?
信玄、謙信に小田原城包囲されたけど、持ちこたえたし。
まあ、氏康が優秀だったのか、小田原城が優秀だったのかは分からんけど。
>>13 どの時期のことを言ってるのか分からんけど
最大版図で言えば関東の半分は軽く越えてるでしょ。
16 :
日本@名無史さん:02/09/13 12:14
うp
17 :
日本@名無史さん:02/09/14 13:29
あげ
18 :
日本@名無史さん:02/09/14 13:33
マイナーだが北条早雲はいい!
「箱根の坂」読んでからはファンだ。
19 :
日本@名無史さん:02/09/14 13:52
早雲のどこがマイナーなんだ
18はまだリア賞。長い目でみてやれ。
21 :
日本@名無史さん:02/09/14 14:21
>>19>>20 すいません。早雲は戦国で最もメジャーな武将でした。m(__)m
これで満足してください。
23 :
日本@名無史さん:02/09/14 22:27
『月と星より』ご一行様
降臨期待age
鎌倉北条氏の流れをくむ女性を妻にしとか定かではないけれど…
それを逆手に取ったところとか、領国経営の巧みさは評価されていいんじゃない?
25 :
日本@名無史さん:02/09/19 16:34
>>13 150〜200万石くらいはきっちり領国として支配してたように思われる。
怖くて味噌汁かけご飯が食べれません
27 :
日本@名無史さん:02/09/19 17:27
氏秀くんが越後を相続していたら,どうなったんだろうか.
28 :
日本@名無史さん:02/09/19 17:43
>>24 >鎌倉北条氏の流れをくむ女性を妻にしとか定かではないけれど…
それも定かじゃないでしょう。
伝承の類で信憑性は限りなくゼロ。
29 :
日本@名無史さん:02/09/19 19:17
>>24 >それを逆手に取ったところとか
どういう意味でつかってんの?まず日本語の勉強してきた方が(以下略(藁
30 :
日本@名無史さん:02/09/19 21:34
>>26 味噌汁にご飯を入れればよかったんだよ
ご飯のほうを味噌汁に合わせる発想がほしかったね
31 :
日本@名無史さん:02/09/20 15:50
ウジウジウジウジしてんじゃねぇ!
(ダジャレなんで悪意はありません。)
>>30 味噌汁がこぼれないようにご飯を二回に分けて入れたら、
叱られました。
麦畑があるではないか
麦飯にして持ってまいれ
34 :
黒田かんべー:02/09/20 21:13
日光一文字って,そんなに大層なお宝なのか?
35 :
日本@名無史さん:02/09/20 21:29
もし北条氏が秀吉に臣下の礼を取っていたら、家康は秀吉死後、
天下を取れただろうか?
36 :
日本@名無史さん:02/09/20 21:30
どうだろ?
37 :
日本@名無史さん :02/09/20 21:35
取ったでしょう。
それより、五大老制度はどうなっていたのでしょう?
38 :
日本@名無史さん:02/09/20 23:40
ついでに河内狭山藩についても語りませんか?
>>35 上杉・佐竹が納得しない
伊達は拍子抜け
淘汰された関東の豪族が離合集散
これを駿越連合が取り込み
北条が孤立、これを助けるのに力が要り
九州を治め切れなくなる
加賀兵も越後には踏み入れず
奥羽は合従連衡
小牧長久手Uいやプレ関ケ原が太閤存命中に・・・
・・・妄想妄想
40 :
日本@名無史さん:02/09/20 23:57
氏政はもっと評価されるべきだ。氏康亡き後も北条家を拡大し続けた。最後はこけたけど・・・
41 :
日本@名無史さん:02/09/21 00:21
>>35 歴史上のIFの話なんでどうかと思うけど
小牧以前であれば
徳川も後背に敵を置いて秀吉と一戦交えようとは考えないだろうから
秀吉の天下統一が早まっていた
というより、まず、その時点で敵なしになって天下統一完了と思われる
小牧の時点であれば
徳川家を挟撃して、徳川消滅
天下統一後は、正史上の徳川家のような領土を持ち
毛利家のような待遇を受けていた可能性が考えられる
北条家は家康に比べ天下への野望が薄いので
関が原は無しで、豊臣の天下が続く
小田原の役直前ならば
良くて九州(肥後)当たりに国替え(しょぼーん)
悪ければ、朝鮮出兵→因縁つけて改易
こんな感じかな
歴史の禁じ手IFなのであしからず
42 :
日本@名無史さん:02/09/21 01:28
実は風魔小太郎が一番凄かったと言ってみるテスト。
私も参加してもいいですか?
45 :
日本@名無史さん:02/09/21 11:11
>>43 どうぞ
いつか来ると思ってたけど、チョッと遅くないかえ
46 :
日本@名無史さん:02/09/21 11:26
やったー、できたね、待ってました。
小田原市民だもんで、笑
>2
三大云々て小田原は街の規模の割りに多いね。
敵討ちは、曾我兄弟、
奇襲は小田原城攻略
合戦は川越と。
>21
戦国時代は早雲・道三からはじまり小田原征伐くらいで
終わるのだ。
長くなるので、とりあえず。
……朝倉孝景は戦国時代違うの?(涙
48 :
日本@名無史さん:02/09/21 18:07
>>47 そうなんだけど
北条さん所とあんまり関係ないから
なんとも
49 :
日本@名無史さん:02/09/21 18:26
幻庵最強
毛利輝元の号が幻庵宗瑞なのは偶然?
51 :
日本@名無史さん:02/09/21 18:32
52 :
日本@名無史さん:02/09/21 18:32
54 :
日本@名無史さん:02/09/21 18:43
北条高広マンセー
55 :
日本@名無史さん:02/09/21 18:47
>>52 & all
その書き方は
みたことがあるような?酉、付けなさいよ
ほかの人も、日本史版だからって遠慮しなくていいですよ
こてハン付けて一見三戦板風でも
内容が日本史板なら問題なし
三戦板より一歩踏み込んで良スレにしましょう
また来ました。
>>44 44番さんへ。
一応、本物なのですが、そう言ってもね。
>>45 45番さんへ。
ありがとうございます♪
ごめんなさい。遅くなってしまったみたいで。
戦国大名二代目が突然書けなくなってしまったものですからそれっきり・・・。
北条家当主を語るスレ。
皆さん好きですから悩む所ですが、
創業者に敬意を表し伊勢新九郎から♪全ては彼から始まる!
>51 >52
そうなんだ、教えてくれてありがとう。
正直言って、早雲だけで言うのは照れて道三も書いた、笑。
確認してみます。
再び。
どの時点をさすかは別とし、
死亡年 早雲 1519
道三 1556
でみると一世代というところか?
>>58 46番さんへ。
世代で考えますなら斎藤道三は北条氏綱や毛利元就と同世代かな。
齋藤義龍は北条氏康と同世代かな?(私的にですが。)
60 :
日本@名無史さん:02/09/22 09:19
早雲と伊勢貞親は関係あるのかい?
何か?
63 :
日本@名無史さん:02/09/22 10:24
>>59 早雲と道三は世代が違ってても、活動時期で言えば
早雲は爺さんになってからなのでそんなに大きくは離れてない。
それに一説によると美濃で成り上がって国を奪ったのは道三の父親なので、
世間に流布した道三のエピソードは父子のものが混同している、
つまり道三のイメージ=斉藤氏初代&二代を併せたものと考えれば
早雲・道三が戦国の世を開いたといってもあながち違わない。
64 :
日本@名無史さん:02/09/22 11:16
尼子経久のも加えてくれ。
追加
1486年(?)月山富田城入場。
66 :
日本@名無史さん:02/09/22 11:58
戦国時代の始まりって明応の政変じゃなかったか?
67 :
日本@名無史さん:02/09/22 12:07
戦国時代の定義によって変わるから断定しかねます。
68 :
2チャンネルで超有名:02/09/22 12:11
>63
そういうふうに理解していました。
>67
ですね。
北条高広が北条方についた際に
喜多条高広にさせられたのはあんまりだ
また来ました。
>>63 63番さんへ。
活動時期で考えるのですね。
☆伊勢新九郎(北条早雲)の場合。
1487年に今川家の長享の騒動で活躍。
本格的な活動は、
1493年頃の伊豆乱入から1519年の死去までかな。
伊豆、相模を平定。
☆松波庄五郎(斎藤道三)の場合。
1535年の土岐家の天文の騒乱から活躍?(本格的に下剋上スタート!)
1544年の織田信秀の第一次美濃遠征と、
1548年の織田信秀の第二次美濃遠征を退けて、
美濃の国盗りは1550年代(?)に完成。
1556年の長良川合戦で戦死。
美濃を平定。
斎藤道三の方はそれほど詳しくないので、あまり深い話はできませんが。
この二人は下剋上の先駆者でいいと思いますよ。
そして、活動時期で考えるのでしたら、三好長慶も私は入れたいですね♪
>>64 64番さんへ。
尼子経久・・・、ごめんなさい。よく知りませんのでここでは触れず。
>>66 66番さんへ。
戦国時代の始まりですか?難しいですね。
私的には『加賀の一向一揆』『明応の政変』『伊勢新九郎の伊豆乱入』からかな?
今、気が付きました!
今日って1544年の第一次美濃遠征の加納口合戦の日でした。(ははは。)
斎藤道三を語るスレではないのに・・・。
一般的に戦国時代の始まりは
1484年(文明十六年) 尼子経久の月山富田城奪還
1492年(延徳 三年) 伊勢宗瑞の伊豆討入り
のどちらかとされる事が多いようです
一般によく言われる『下克上』で、応仁の乱から続く一連の騒乱とは
若干性格を殊にしています
下克上というのは戦国時代固有の現象ではなく、平安時代からある言葉で
下位のものが上位のものを押しのけて権威を振るうことを言います
室町時代から頻発するようになり、徐々にスケール、性格を変え
職や権威、伝統が完全に否定されるようになり、戦国時代が訪れます
スレ違いですが、斉藤道三については不明な点も多いようですが
最近では、道三親子二人説が有力です
75 :
日本@名無史さん:02/09/23 01:02
>73
> 職や権威、伝統が完全に否定されるようになり、戦国時代が訪れます
これにはちと異論あり。
>>75 早いなー
リロードしたらレス付いてた
異論とは如何に
77 :
日本@名無史さん:02/09/23 01:13
戦国時代の始まりと言えば
応仁の乱か、享徳の乱か、明応の政変じゃないの?
78 :
日本@名無史さん:02/09/23 01:30
諸説あるからどれかが正解というわけじゃないけど
月山富田城入場も伊豆討入りも応仁の乱以降の一連の騒乱に深く影響
されていますし、連続的なものですが、その性格の違いから
時代区分されることが多いようです
応仁の乱以降の一連の騒乱は、幕府内部の権力抗争、継嗣抗争で
室町幕府構造の内部の争い、またはそれが飛び火したものです
一方、尼子経久、伊勢宗瑞以降の下克上は、幕府の職制、権威を否定した
抗争で性格を異にしています
>>75 75番さんへ。
『完全に否定される』と『道具として利用される』の違いかな?
室町幕府を滅ぼした織田信長でさえも、
滝川一益に関東管領を与えたりして関東平定を意識して、
北条家に対して圧力をかけたりしていますからね。
本能寺の変が無かったら、毛利家も上杉家も長曾我部家、
そして北条家も武田家と同じ運命をたどっていたでしょうね。
あ、何とか北条家に結びつきました♪
北条氏政くん、がんばれ〜!(もう、終わっているって。)
まあ戦国時代の始まりの定義は広義ですね。
本題に戻すと、誰が最も優秀だったのか?
初代か3代目が多そうだが、2代目も結構
評価したいし4代目も同情する。5代目は
史実が少ない、、、あれ、まとまらなかった。
ごめん。。。基準や時代背景でまた抽象的に
なってしまうかな。。。
>>80 46番さんへ。
私は五人とも好きですから、今すぐには答えられませんね。
ここでしばらく考えまして、結論は後日にということでお願いします。
優劣の評価は非常に難しいのですが
初代、二代でおおよその体制が決まって
以後その延長線上にあったという感じがします
というより、そこからの脱却が出来なかったのではないかと
そんな感じがします
北条氏について詳しくないので、外から見た印象だけですけど
>>30,41,45,48,73-74,76,78
が私です
>>23で召還したのも私です
-----------藤原三位卿----------
83 :
?u?L?{?j?j?1/2?--:02/09/23 02:40
氏政「めしのじかんだ!!」
汁を2回に分けて御飯にかける。
氏康「北条家おわった・・・・こんな巻の悪い息子じゃ・・・(目が血走っている)」
氏政「気にしない、気にしない」
氏康「このまえも。麦畑をみて・・・ああ情けない」
氏規「父上、御安心を、私の子孫が存続します故」
氏勝「俺もですよ、正房系が存続します」
氏康「よかった。氏政。逝ってよし!!」
operaユーザー発見(藁
存続ってあれか、狭山藩の話ですか。
高校生の頃、「ガキの頃よく遊びに行った狭山に北条が存続してたなんて」と妙な感慨を覚えたものです。
また来ました。
>>82 藤原三位卿さんへ。
お久しぶりです。自分の世界に入らない程度に参加します。
北条家初代、伊勢新九郎。
彼のいいところは何も無い所から始まったところ♪
才能や環境があっても下剋上できる人は少ないでしょうね。
故に、『梟雄』という言葉がいい意味で似合います。
86 :
日本@名無史さん:02/09/24 20:04
伊勢 新九郎から行きますか
伊勢新九郎盛時 後北条氏初代
永享4年頃(1432年頃)〜永正16年(1519年)/享年88歳位
永享4年頃(1432年頃)に生まれ
備中伊勢氏の高越山城の城主伊勢盛定の子
京都伊勢氏の伊勢貞高の養子となる
寛正5年(1464年)8代将軍足利義政の弟・足利義規の近士となる
足利家の後継者争い足利義規と共に、伊勢へと逃れまる
足利義規は京へと戻るが、早雲はそのまま伊勢にる
文明7年頃(1475年頃)早雲、荒木兵庫・山中才四郎・多目権兵衛・荒川又次郎
大導寺太郎・在竹兵衛ら7人と伊勢神宮伊勢神宮にて誓いを交わす
(七人の内一人でも大名になったらお互い引き立て、盛り立てて行く)
87 :
日本@名無史さん:02/09/24 20:15
駿河・今川義忠のもとに嫁いだ妹・北川殿、氏親のため
文明8年(1476年)駿河へと向かう
「龍王丸が元服するまでの間だけ、小鹿範満が家督を代行する」
という案により今川家家督相続を納め、伊豆の堀越公方足利政知
扇谷上杉氏による干渉を排除
文明11年頃(1479年頃)京へと上り寺に入り修行する
文明15年(1483年)室町幕府の足利義尚の申次衆を務める
長享元年(1487年)駿府へと向う
小鹿範満の約束不履行に対し、龍王丸擁立派の軍勢と共に密かに石脇城へと入り
同年11月9日、駿府今川館の小鹿範満を急襲、小鹿範満を討つ
氏親が今川氏第7代の家督の座につき、恩賞として駿河の駿東郡興国寺城と
富士下方十二郷を与えられる
実質的に甥・今川氏親の後見、補佐役として駿河守護代の地位へと就く
88 :
日本@名無史さん:02/09/24 20:27
「伊豆討ち入り」
延徳3年(1491年)4月3日、堀越公方足利政知の死去
同年10月11日の夜、氏親の兵を借り堀越御所を急襲し茶々丸を自害させる
これにより伊豆一国を手中に収める
明応4年(1495年)9月、小田原城・大森藤頼に夜襲をかけ、城と城付の領地を奪う
今川氏親とともに
明応5年(1496年)7月、相模西部で山内上杉顕定と戦う
文亀1年(1501年)9月、甲斐吉田へと出陣
永正1年(1504年)9月27日、扇谷上杉朝良の援助のため
武蔵立河原で再び山内上杉顕定と戦う
永正3年(1506年)同5年(1508年)と三河へと出陣
永正3年、検地を行う
永正7年(1510年)6月、早雲が扇谷上杉朝良の家臣・上田政盛を味方に寝返らせる
そのため早雲に好意的だった上杉朝良と決裂、敵対
同年7月19日早雲の城として取り立てられたばかりの権現山城へ山内、扇谷両上杉
連合軍が攻めかかる
大連合軍の前に大敗を喫す
89 :
日本@名無史さん:02/09/24 20:37
永正8年(1511年)扇谷上杉氏と和睦
永正9年(1512年)8月、三浦氏当主・義同(道寸)のいる岡崎城を急襲
三浦道寸は城を支えることが出来ず住吉城へと逃れ新井城へと落ちのびる
(三浦義同は扇谷上杉氏の重臣)
古都鎌倉を手中に収める
三浦半島を押さえるため玉縄城を築き、新井城を攻略
永正10年(1513年)1月29日、新井城(三浦氏)を攻め
4月には三浦方の三崎城を攻め
9月29日には三浦方の太田資康(太田道灌の子)を打ち取り
永正13年(1516年)7月、新井城を落とし、三浦同寸・義意父子を自刃に追い込む
永正15年(1518年)、家督を子・氏綱に譲る
その前後より虎をかたどった印「虎印判状」を使い始める
印に彫られた文字は「禄寿応隠」、「人民よ皆平和に暮らそう」という意味
家督を譲った翌年、永正16年(1519年)8月15日、韮山城で逝去
88歳という当時としてはかなりの大往生でした。
法名・早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門
墓所は箱根の早雲寺
以上、略歴です -----藤原三位卿-----
お疲れ様です。
また来ました。
>>86 >>87 >>88 >>89 藤原三位卿さんへ。
本気ですごいですね〜!お疲れ様でした。
それにしましても、伊勢新九郎、彼の行動は鮮やかですね。
小田原城奪取の奇策は見事の一言に尽きますね。
かと思えば、三浦道寸との戦いは堅実な作戦を用いたりしています。
四公六民という税制を断行した慈悲深さを持ちながら、
深根城攻城戦の際に見せた修羅のごとき振る舞い。
さすが、梟雄と呼ばれた男ですね!
やはり初代は道を切り開くわけですごいですよね。
しかもあの歳からで。現代でも自分で見切ってし
まうような年代なのに。
大器晩成というよりは、時代がやっとその人が活躍
できるような場になったという感じに思えます。
なんだ、伝説まで史実のように語るスレだったら
三戦板でやりゃいいのに
・・・いてもいい? ・・・いじめない?
>>94は挨拶ということで…。
北条家の台頭を語る場合、上杉禅秀の乱の辺りからのの関東の情勢を抑えていた方が良いかも。
平将門、鎌倉幕府に代表される関東の独立性の高さ(京都とは別の国:将軍VS公方)を考慮した上で、
上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦およびそれ以降の流れの中で、鎌倉(古河)公方と関東管領・
上杉氏の対立と各勢力の集合離散を見ておくのは必要かと・・・。
今川(含む北条)、武田、長尾の三家の戦国大名化の起点になったのは、公方VS管領の対立から
自家を守るとこから始まっているのではと、私的には思っています。
(戦国時代だけで限定すると武田家や長尾家が関東への介入が不思議に見えるけど、ここから
見ておけば素直に納得できます…三戦板じゃないから御承知の事とは存じますが。ついでに
いうと、伊豆切り取りまでは京の政権抗争も抑えていた方がいいかな…? 下克上というよりは
幕府の関東への介入に見えないことはないし)
おまけ・・・最近の研究だと茶々丸は堀越御所落城の際に死んだのではなく、甲斐の武田氏
の元に逃げ込んで保護されてたそうです。その後、結局は早雲と氏親が甲斐に
攻め込んで自刃したそうですが。
96 :
日本@名無史さん:02/09/25 20:05
北条氏ってそれほどの名将ではなかったのではないか?(氏康も)
武田信玄との駿河を巡る攻防戦では愚策を繰り返し、結局は駿河を取られている。
三増峠の合戦でも武田に大敗している。上杉との同盟はどう考えても愚策。
ここは今川を見限り、信玄と結び、富士川以東をもらうべきだった。
さらなる愚策は信長死後の甲斐信濃をめぐる攻防。数倍の兵をもっても徳川に破れ、
奪ったはずの都留郡、佐久郡、小県郡も失ってしまった。
つまり北条の一時は獲得しながら失った領土は駿河、上野、信濃・甲斐一部に及び、ここが上杉・武田に大きく劣る点だ。
97 :
名無しのゴンベ@縷縷:02/09/25 20:15
氏政、氏直はアホ。氏直は奥方が家康の次女の督姫だったから助かったよう
なもんじゃん。そうじゃなかったら切腹してるって。
98 :
日本@名無史さん:02/09/25 21:03
氏政、氏直を信玄や家康と比較するのは酷と言うもの。
一族経営の何代目としてはよくやっていたとしなければ。
「伊勢の国の住人、古市の伊藤武者景綱、その子五郎忠清、同じく六郎忠直が今日の一番乗りだ」
で有名な保元物語の台詞。
北条早雲の伊勢氏と同根なの?
「北条氏」ってくくるのもどうかと思うが・・・
私は歴代当主で「武将」としての一番は氏綱だと思ってる。
氏康は政治家として優れていた。
上杉・武田など目立つ武将との折衝だけをみるとそういう見解もでると思うけど
周辺の国人等々との関係や取りなし、領国内支配に視点をおけば、かなりのやり手
に思えるのだけど。
ちなみに早雲も実際の年齢は10才か20才くらい若いというのが最近の有力な
学説です。
戦国時代で2代、3代、4代、5代と続いたのは立派。
北条氏と言うより、北条家として評価。
102 :
日本@名無史さん:02/09/25 23:41
伊勢新九郎の生涯は大きく四つに分けられるんじゃないかと
そう思って、上では四つの時期に分けてまとめました
1.歴史の表に登場しない時期
2.今川家の家督に干渉した時期
3.伊豆制覇により戦国大名として独立した時期
4.関東制覇に向けて動き出した時期
で、
>>86の歴史に登場しない時期ですが
>>100に有るように10歳から20歳若いのではないかという説ですが
(私も氏綱の年齢や精力的な行動力から、20歳とは行かなくても
10歳くらいは鯖読みがあるのではないかと思うのですが)
そうすると、備中伊勢氏から母方京伊勢氏に養子に行った時期は
どのような扱いになっているのでしょうか
>>99 伊藤影綱は名前からもわかるように、伊勢守藤原氏で出自は藤原氏です
一方、伊勢新九郎の伊勢氏は桓武平氏を始祖と名乗っています(自称)
藤原姓伊勢氏も有りますが、こちらとは別族のようです
103 :
日本@名無史さん:02/09/26 00:11
>>95 いじめてもお母さんに言いつけちゃだめだよ
伊勢新九郎の坂東進出の動機を
「幕府の坂東への介入」とするのも
うなずける説ではあるのですが
当時の幕府は、将軍家自身の家督問題、有力家臣斯波
細川家の内紛等、家臣団の不協和音
さらに、近畿地方を中心に広がりを見せ始めた徳政一揆、国一揆
郡一揆等による税収体制の崩壊
などが重なり、坂東どころではなかったのではないかと思えます
私としては、凋落の一途にある幕府を見限って
「坂東の地に新たに活路を求めた」のではないかと
そんな気がします
また来ました。
>>94 外郎屋さんへ。
お久しぶりです。私も最近、来たばかりです。
95レス(
>>95)は同意です。
>>96 96番さんへ。
まあ、北条家の歴代の当主が名将かどうかはわかりません。
成果の有無は誰にでもあることですからね。
失った領土のことで考えますと、
長尾上杉家の方が北条家よりも失っているかなと、
考えることもできます。(石高で考えますと尚更。)
武田家の方は領土拡張に成功していますが、
西上野を抑える意義を感じることはできませんし、
駿河も嫡男義信を失ってまで必要なのかなと思います。
武田信玄はそんな寄り道よりも、
もっと速く美濃に進出するべきでしたね。
織田信長に上手く丸め込まれてしまいましたね。
武田信玄の1568年からの駿河侵攻は、
織田信長の上洛に焦りを感じながらも、
寿桂尼の死による今川家の動揺を待たないと、
行動できないという後手をとっています。(これは言い過ぎですね。)
嫡男義信の死去直後のため、
勝頼を心配して武田家を盤石にしたかったのかな?
北条家としてみれば、
そんな武田家の私利私欲のために動くことは反対だったのでしょう。
結果、富士郡&駿東郡は要らない。(でも、欲しいですけどね。)
長すぎましたため、一回切ります。
つづき。
>>97 名無しのゴンベ@縷縷さんへ。
北条氏直は城兵の助命を条件に自身は切腹すると言っていますので、
その意見はあまり・・・。
>>98 98番さんへ。
北条氏政と武田信玄を比べてもピンときませんが、
北条氏政と徳川家康を比べてもいいかな〜。
当然、徳川家康の方が役者は上ですけどね。
四代目氏政と苦労人家康、違いすぎますね。
>>99 ほさんへ。
さあ、どうでしょうね〜?
あ、102番さんがお答えしていますね。
>>100 100番さんへ。
うん、みんな、いいところがあるんですよ♪
>>101 46番さんへ。
北条家の家訓がいいのかな?
どちらにしましても戦国時代百年をよく戦い抜きましたね♪
>>102 102番さんへ。
私は1432年生まれがいいな〜♪
太田道灌と同年代の方がドラマチック!
>>103 103番さんへ。
103番スレに同意です。
戦国時代ですから何でもありということで。
では、また。
106 :
日本@名無史さん:02/09/26 07:05
北条氏康と武田信玄を比べると、互角と言うより信玄の方が一枚上と見ていいだろう。
既出の駿河の国での攻防、三増峠の合戦、深沢城・興国寺城の攻防戦などをみると
信玄優位に終わっている。甲相同盟が結ばれなければ伊豆も奪われるとこだったのでは。
これも謙信を信用し信玄を敵に回したのが失策だったと思う。
107 :
日本@名無史さん:02/09/26 23:20
もう少し伊勢新九郎にこだわります
嘉吉元年(1441年) 河内守護畠山持国更迭
同年 将軍足利義教、赤松満祐に暗殺される(嘉吉の乱)
同年 京都にて土民一揆蜂起し嘉吉の徳政令発布される
嘉吉三年(1443年) 加賀両流相論起こり日野重子の政事介入始まる
文安四年(1447年) 文安土一揆起こる
享徳三年(1454年) 畠山家家督争い起こる(義就vs政長)
同年 関東公方足利成氏、執事上杉憲忠を襲殺する
関東地方は一足早く戦国時代の様相を呈する
康生元年(1455年) 足利義政の側近政治始まる
寛正元年(1460年) 畠山義就罷免され河内岳山城に籠城する
寛正二年(1461年) 寛正の大飢饉発生し胸中餓死者八万
同年 幕府財政難のため京都五山より多額の融資を受ける
文正元年(1466年) 伊勢貞親(伊勢守、政所執事)蔭涼軒らと将軍義視
の暗殺を企て失敗
同年 山名持豊、細川勝元領国の軍勢を京都に集結
同年 畠山義就、入京し政長との対決を迫る
(応仁の乱前夜)
応仁元年(1467年) 応仁の乱始まる
文明元年(1469年) 乱全国に伝播拡散始まる
文明五年(1473年) 細川勝元、山名持豊相次いで死去する
同年 和泉国人一期起こる
文明六年(1474年) 山名政豊、幕府軍(東軍)に投降する
文明九年(1477年) 畠山義就の河内撤兵により京都の戦火収まる
>>86のあたりに対応する出来事をピックアップしました
108 :
日本@名無史さん:02/09/26 23:50
>>106 いや伊豆を奪われる事はまずないと思われ。
駿河では負けていたが、本拠の関東ではそうでもない。
また本拠の関東では、支城同士が強固なネットワーク結んでいて、これを落すのは容易ではない。
三増峠にしても、氏康が率いる部隊が負けたわけじゃないしね。
(氏照氏規の部隊が防衛をしていればよかったのに、小勢なのに攻勢にでて事が敗因、
まあ信玄とは彼等では訳者がそもそも違うから仕方ないけどね)
それに北条氏の本当の敵は上杉でも武田でもなく、関東の諸勢力だと思われ。
109 :
日本@名無史さん:02/09/26 23:52
続き
伊勢新九郎の前半生を取り巻く環境は
おおよそこのようなものかな
要約すると
将軍足利家をはじめ、斯波家、畠山家、細川家等
幕府の中枢を占める勢力の内部分裂および
勢力抗争
国一揆、郡一揆等による領民の自立および寛正の大飢饉
による幕府税収体制の崩壊
度重なる徳政令の発効、女人政事、側近政治による
政局の混乱
このようなところが後日の応仁の乱へと進行してゆく
要因となったものと思われる
幕府の崩壊してゆく様を、その内部からつぶさに見たことは
後の行動に大きな影響を与えているように思う
(北条家については、詳しくないので具体的なことは良くわからない、ごめん)
また来ました。
でも、もう寝ます。では、また。
111 :
日本@名無史さん:02/09/27 18:30
伊勢新九郎を取り巻く人
1.足利義視(義尋)あしかがよしみ
永享十一年(1439年) 誕生、六代将軍・義教の十男として生まれる
一旦出家して義尋と名乗が、兄将軍義政に嫡子がないため、義政の後継者となる
(還俗し義視と改名)
寛正六年(1465年) 義政に嫡男・義尚が誕生、
伊勢貞親の讒言により義政は義視の暗殺を図るが、義視は細川勝元邸へ逃亡
一旦、細川勝元により伊勢貞親を伊勢へ追放するが、義政は伊勢貞親を赦免
今度は、義視が伊勢国へ逃亡
応仁の乱に伴い上京し細川勝元(東軍)の陣営に参加するが、後山名宗全(西軍)の陣営へ鞍替え
義政、義視へ和解を申し入れ、義視の娘を養女とする
美濃国へ逃亡後、義政と義視との間に和解成立
延徳元年(1489年) 九代将軍・義熙(義尚)の死去により嫡子・義材と上京
翌年、義政死去、義材が十代将軍に就任し、義視は「大御所」と呼ばれる
延徳三年(1491年) 死去、法名・大智院久山道存
112 :
日本@名無史さん:02/09/27 18:31
伊勢新九郎を取り巻く人
2.北川殿
伊勢新九郎の妹(新九郎88歳説)
嘉吉二年(1442年)頃生まれる(推定)、父 伊勢備中守盛時(貞藤)とされる
応仁の乱の際東軍として上洛中の駿河守護今川義忠に嫁す
北川のほとり(安倍川支流)現臨済寺に館を構えたことから、北川殿の呼称で呼ばれる
夫今川義忠との間に、娘(正親町三条実望室)と竜王丸(今川氏親)をもうける
文明八年(1476年)夫今川義忠、塩買坂の戦いで国人衆によって討たれる
嫡子竜王丸幼少(四歳または六歳)のため、一族重鎮 小鹿新五郎範満(義忠の従弟)
との間に、家督争奪が発生、竜王丸とともに西(小川法栄長者)へ難を逃れる
堀越公方足利政知、扇谷上杉政憲による武力干渉を招くが、伊勢新九郎の調停により
和解(竜王丸成人まで小鹿範満が後見として家督を代行)
長享元年(1487年) 伊勢長氏、朝比奈泰以ら小鹿範満を倒し、竜王丸とともに駿府館へ入る
同年 竜王丸元服、五郎氏親と称す(北条氏綱生まれる)
永正五年(1508年) 氏親、中御門宣胤の娘(のちの寿桂尼)を室に迎える
永正十年(1513年) 氏親嫡男、氏輝、永正十六年(1519年)次男、義元生まれる
同年 (兄?)伊勢新九郎、伊豆韮山城にて没す
大永六年(1526年) 氏親没し若き家督氏輝に代わり氏親室寿桂尼が実権を握る
享禄二年(1529年) 十二月七日 北川殿没す(享年八十八歳??)
113 :
日本@名無史さん:02/09/27 18:31
伊勢新九郎を取り巻く人
3.伊勢氏(京都伊勢氏)
桓武平氏、維衝の後裔とされ室町幕府に仕えて一族繁栄したが、鎌倉時代以前の事歴は詳らかではない
足利氏が守護であった上総国の守護代として伊勢九郎の名が見える
家伝では、貞継は足利尊氏の父貞氏の烏帽子子であったため、尊氏の養育にあたったとされている
これらのことから足利氏の近臣であったものと推定される
康暦元年(1379年) 貞継が政所執事に任じられた以降、二階堂忠行が一時執事となった他は
伊勢氏が代々幕府政所執事を努めた
新九郎の出身である備中伊勢氏はこの一族とされ、母方の京都伊勢氏へ養子として
入ったとされている説が主流
新九郎が足利義視の近習を勤めていたことから、伊勢本家との関係も一時険悪であった可能性が
考えられる
114 :
日本@名無史さん:02/09/27 18:41
伊勢氏については、幕府政所執事である貞親による
畠山家、斯波家に対する継嗣問題の干渉が応仁の乱
の原因の一端であるとされていますし
混乱を一層深める行動を取っています
一方で、貞親の子貞宗は
式目を正し、応仁・文明の大乱を収め
京都の回復をもたらした政治家
として当時好意的な評価を受けていました
上杉禅秀(上杉氏憲)の乱
鎌倉公方足利持氏に対し、その執事(関東管領)であった上杉氏憲が
起こした大規模な反乱
事の発端は、上杉家の家人(常陸国の住人の越幡六郎某)が犯した
微罪に対し、持氏が所領を没収したこととされている
この事件をきっかけにして、氏憲は執事(関東管領)を辞任(実質罷免)
その後任に、氏憲のライバル上杉憲基を当てたことから両者の対立が
決定的となる
氏憲は持氏と仲の悪かった足利満隆(持氏の叔父)を担ぎ、一年余を
かけて勢力の強化を図った
一方京都の幕府においても、これに先立ち四代将軍義持の弟義嗣による
二度の将軍に簒奪未遂があり、この義嗣とも結びつくようになった
応永二十三年(1416年)十月 氏憲の挙兵により大乱の火蓋が切られ
不意を突かれた持氏、憲基はそれぞれ駿河、越後へと逃亡
当初幕府も不介入の姿勢をとり一旦はクーデター成功かに思われたが
義嗣の幕府転覆計画が明るみに出るにおよび幕府の介入が始まった
義嗣を捕え処刑すると上杉氏憲(禅秀)の討伐を越後守護の上杉房方と
駿河守護の今川範政に命じ、信濃守護小笠原政康にも上杉房方を助け
るよう発令、北と西から挟撃する体制をとった
氏憲(禅秀)軍は越後・信濃両守護勢を武蔵世谷原にて打ち破ったが
東海道から攻め上った今川勢の攻撃を受け、鎌倉自邸にて自害し
乱は収束した
上杉禅秀の乱の後遺症
上杉禅秀の乱には多くの勢力が加担していたが、復権した足利持氏は
それらの勢力に対して、武力を背景に徹底した弾圧を繰り返したため
北関東を中心に連年のように禅秀の残党による叛乱が頻発した
禅秀の乱以降の主だった叛乱
1417年 4月 稲木義信 常陸で叛す。
1417年 5月 岩松満純 叛して入間川にて敗北
1418年 5月 上総本一揆 叛乱する。
1421年 6月 常陸で額田義亮反乱する。
1422年 8月 常陸で小栗満重が叛する。
1423年 8月 下野にて宇都宮持綱叛する。
1425年 8月 甲斐にて武田信長が一揆を起こす
さらに、甲斐武田家、上総佐竹家にも大きな傷を残した
甲斐武田家は乱の直後に討伐を受け、当主信満が殺されると嫡子信重は
連座して高野山へゆき、守護が不在となったため、持氏は武田一族の
逸見政経を守護として送りこんだ
しかし信満の次男武田信長が武田派の国人一揆を組織し1425年に蜂起
1430年代に上総へ撤退するまで甲斐では内乱が続いた
佐竹氏の庶流の山入氏も禅秀に加担したため1422年
佐竹義憲(上杉氏から入嗣した佐竹氏の正系)と持氏が図り山入与義を暗殺
以後佐竹氏は数十年にわたり山入氏と佐竹宗家が相争う相克となっていった
外郎屋さんのリクエストにお答えして
禅秀の乱あたりからの関東地方の
情勢です
続きは明日か明後日か
>>86に登場する早雲の同士は、当然北条家が大きくなれば重臣になりそうなもんだが、
大道寺と多米以外はぱっとした子孫がいなくない?
>>118 私もその件を知りたくて
あの行を付け加えたんですが
北条家の家臣団編成を考える上で
知りたい情報です
この七人だけで乗りだしてったのかっていうのにも疑問があるしな。
松田や清水・笠原も国人出身じゃなくて備中から来たって説もあるし。
121 :
日本@名無史さん:02/09/29 08:30
>>116 武田にも信長なんて武将がいたのでしょうか?
武田信長=武田一族です
足利持氏方の武将 一色持家に負けたヘタレだけどね
さがってないやん
鬱だ。逝ってきます
武田信長はその後上総に真里谷城などを建て、この国を支配するようになります。
上総武田氏の祖ですね。
後にその子孫が小弓御所を奉じると。
125 :
日本@名無史さん:02/09/29 09:26
>>121 乱の後、武田信長は古河公方足利成氏(持氏の遺児)の命により
上総(現千葉県)に領地を得て、上総武田氏として定着しました
後に小弓御所足利義明を報じて活躍する真里谷氏、庁南武田氏
の祖です
126 :
日本@名無史さん:02/09/29 09:29
128 :
日本@名無史さん:02/09/29 12:09
大道寺と多米以外は消息不明・・・
少し戻るが、武田の軍が最強であることは周辺大名もよくわかっていたはず。
それゆえ氏康は城に篭ったわけで。一方、動いたほうが補給が大変なのも十分見越している。
相模での勝負は小田原を落とせるかどうかが全てになっていた。たいした城ですね。
129 :
コギャルとH:02/09/29 13:33
130 :
日本@名無史さん:02/09/29 21:59
>>120 伝説にしろ、こういった話が残っているところをみると
伊勢にいた時点で家臣らしきものが有ったと
考えて良いみたいですね
まったくの素浪人じゃなかったってことですね
ところで、武田の侵攻のさいにそれぞれの支城群も攻撃されたわけだが、
氏邦付きの家臣で酔いつぶれて寝てる間に敵が押し寄せたんで、奥方が指揮を取って追い返したって言う
諏訪部定勝って部将知ってる人いる?
秩父風土記に載ってるそうだが
>>116の続き
幕府による関東への介入(禅秀の乱以降)
上杉禅秀の乱以降、反乱軍の残党討伐を進める
鎌倉公方に対し、幕府は勢力削減の好機と判断し
関東に対する介入を開始した
1.京都御扶持衆の創設
『京都御扶持衆』を新設し、持氏による弾圧を受けている関東地方の
有力国人領主たちに与えた
これによって、国人たちは賊軍の将から幕府公認の領主という肩書きを得
鎌倉府(鎌倉公方)の支配下から脱した
2.幕府による常陸守護の親任
叛乱の続く常陸を鎮圧するという名目下に、従来鎌倉府の管掌下にあった
常陸の国のうち、その半国の守護を鎌倉府と対立していた山入氏に与えた
3.執事(関東管領職)に親幕府派の人物を任命
親幕府派の山内上杉憲実(禅秀の乱で越後に逃げた上杉憲基の養子)を任命
持氏の行動にブレーキを懸けさせた
こうした一連の策により、鎌倉府による叛乱軍掃討は事実上不可能となり
鎌倉府管掌下の地域に反鎌倉府の勢力が公然と存在するようになるとともに
鎌倉府内の中心である執事(関東管領職)までもが、親幕府の人物となり
鎌倉公方の力は大幅に減少することとなった
幕府と鎌倉府の対立(永亨の乱前夜)
親幕府vs親鎌倉府という対立構図を残したまま、一旦の平和を得るが
幕府将軍の交代により、一気に対立が過熱、永亨の乱へと至る
事の発端は四代将軍義持が没し、後任に御神籤によって足利義教が選ばれた事
とされてる
鎌倉公方足利持氏は幕府に対する態度を硬化させるとともに、親幕府派である
執事(関東管領職)上杉憲みとの対立も深刻化していった
年号が「正長」から「永亨」に変わっても年号を改めなかった
(上杉憲実が諌めたため、事無きを得る)
足利義教、富士遊覧と称し、軍を率いて駿河へ下向、持氏を挑発
(上杉憲実が関東の代表として義教に謁見)
足利持氏は信濃守護小笠原政康と国人村上頼清対立に際して
村上方が持氏に援兵を求め、持氏はそれに応じようとした
(上杉憲実の猛反対により対立が決定的となった)
鎌倉にて足利持氏が上杉憲実暗殺するという流言蜚語が流された
(上杉憲実は鎌倉を脱出、上野へ逃れる)
足利持氏は上杉憲実党の討伐を始める(1438年)
こうした一連の動きに対し幕府は叛乱と認定し、鎌倉府討伐の決定を下した
134 :
日本@名無史さん:02/09/30 19:00
長尾上杉家の失った領土とは上野のことでしょうか?
それとも越中、能登のことでしょうか?
謙信の時には領土を失っておらず、景勝の時代のことだと思いますが。
135 :
日本@名無史さん:02/09/30 19:50
身内で家督争いとか、内紛が無かったのはすげー。
>>133続き
永亨の乱(鎌倉府の解体)
1438年 幕府(足利義教)は事態の収拾のため軍事介入を決意
軍事介入に先立ち、朝廷より『治罰綸旨』を受け足利持氏を朝敵と
することに成功、持氏与党の切り崩しに成功
同年8月 今日より軍を進発、信濃守護小笠原、甲斐守護武田両氏
の軍を加え、箱根(本体)足柄(別働隊)の二方面より関東侵攻を
開始した
討伐軍本体は箱根水呑の合戦に破れるも、別働隊は小田原近郊
早河尻において鎌倉府軍(持氏)に大勝、さらに憲実党の一員
三浦時高が鎌倉を落としいれ、勝利を決定付けた
武蔵出陣中の持氏は和睦し、武蔵永安寺に蟄居剃髪、上杉憲実
の執成しがあったが許されず、幕府は上杉憲実に命じて一族ことごとく
殺戮させた
これにより鎌倉府は解体され、上杉憲実を中心とした体制により騒乱も
鎮圧されるかに見えた
新たな火種(結城合戦)
しかし持氏の子、春王、安王の二人は難を逃れ(一説には、不憫に思った
憲実が逃がしたとも)持氏党最大の勢力、結城氏朝の元へ身を寄せた
又、持氏党の勢力もほとんど手付かずで、北関東を中心に兵力を
温存したままで残ってしまった
さらに、禅秀の乱の際には持氏党は幕府軍、禅秀党は反乱軍とされて
いたのが、今回の乱ではまったく逆となり、持氏軍が反乱軍とされるなど
幕府の不定見さを露呈することなり、幕府の権威が失墜することとなった
こうして、翌1439年、結城氏朝を中心として持氏党の国人勢力が集結
持氏の遺児(春王、安王)を担ぎ結城城にて挙兵、結城合戦が始まった
幕府はこれに対して上杉憲実に命じて結城城を包囲させ持久戦とし
さらに信濃、甲斐、駿河の軍勢を結城に向かわせた
結城方も奮戦し約一年に及ぶ包城戦となるも、幕府、憲実軍の勝利となり
一連の騒乱に一段の終止符が打たれた
持氏の遺児春王、安王は京都への護送途中、美濃垂井において殺され
鎌倉公方の一族は絶えたかに見えた
>135
そうですね。
あと北条家では、抵抗的な宗教勢力というのは
あったのかな。。。聞かないけど。。。
>>137続き
足利成り氏の下向
1439年 結城合戦以降、鎌倉公方は廃止され関東管領上杉氏の元
平安な時期が十年ほど続くが、水面下では対立の構造を引きずった
ままだった
上杉氏による単独政権は諸方より抵抗を受け、さらに底流の対立を
解消することが難しく、持氏の遺児が再び鎌倉公方として迎えらる
ことになった
1449年 足利成氏が鎌倉公方となり、鎌倉府が再興されたが
逆に新たなる混乱の火種となった
鎌倉公方と上杉氏の対立
足利成氏は上杉氏により鎌倉公方に迎えられたにもかかわらず
徐々に上杉氏との溝が深まりやがて対立するようになる
成り氏の周囲には、旧持氏党である簗田、結城、宇都宮氏等の
北関東諸氏が集まり、上杉氏の執政を妨害し始め、対立は決定的
となった
1454年に足利成氏は、当時の関東管領上杉憲忠を鎌倉の自邸に
呼び寄せ謀殺、亨徳の大乱と呼ばれる戦乱へと発展していった
亨徳の大乱と堀越公方
1454年〜1455年 緒戦において足利成氏以下公方党(旧持氏党)は
武蔵を中心とした戦いで上杉党を圧倒するとともに、幕府に対し上杉憲忠
殺害の弁明も行った
しかし、将軍義政は関東公方足利成氏を罷免、弟政知を新たに鎌倉公方
として任命、成氏討伐を決定した
1457年 将軍義政は駿河守護今川義忠(伊勢親九郎の姉、北川殿の夫)
に鎌倉攻撃を下命したが、この時すでに成氏は鎌倉を捨て、公方党の勢力
の中心、下総古河へと本拠を移していた
(義忠の攻撃により鎌倉は灰燼に帰して、以後再建されることはなかった)
1458年 足利政知は伊豆堀越に入り、足利成氏討伐を進めたが
1459年10月 武蔵大田、上野海老瀬口などの合戦で関東管領上杉氏を
中心とした軍が成氏に連敗、関東における、管領上杉氏、新公方足利政知
体制は権威を失墜した
さらに政知派遣に際して補佐として連れてきた渋川氏と上杉氏の間に対立
が生じ内部混乱をきたした
このため、政知は鎌倉に入ることができず、公方とはいいながらも事実上
伊豆1国の守護程度の地位にとどまることになった
一方、 足利成氏はこれ以後、京都が定めた正朔を用いず1482年の
都鄙合体まで亨徳の年号を使いつづけるなど、完全に幕府の傘下かより
独立した勢力となった
伊豆堀越の足利政知の系統を『堀越公方』、下総古河の足利成氏の系統を
『古河公方』と呼び、以後20年近く2人の公方が存立する事態となった
また来ました。でも眠い〜。
>>131 131番さんへ。
へ〜!面白い話ですね。何処の城なのでしょう?
奥方、素敵です♪
>>134 134番さんへ。
ああ、アレのことですね。あれは96番さんの話に合わせて書きました。
という訳でまた明日来ますね。
>>140続き
上杉氏の分裂
上杉氏は足利尊氏の母、清子の実家であることから
幕府創生の時期から重臣として重んじられ、鎌倉府
成立直後より執事(後関東管領)に就任できる唯一の
一族として、関東地方に大きな勢力を有していた
一族は、犬懸、扇谷、山内、小山田、詫間、等の支族に
分かれており同属間での勢力争い、離合集散も
絶えなかった
応永の頃、犬懸氏憲(上杉禅秀)が公方持氏と対立し
滅ぼされた後、山内上杉氏が関東管領職を独占するよう
になり、合わせて、越後、上野、伊豆の守護職も得た
一方、扇谷上杉氏も相模、武蔵の大半を領国化し
山内上杉氏に対抗する勢力となった
堀越公方と古河公方が対立して戦った『享徳の大乱』の
際には、山内、扇谷両上杉氏とも堀越公方がたとして
協調して戦っていたが、
管領山内(上杉)顕定が、主である堀越公方足利政知より
古河公方足利成氏との協調を画策し、幕府による仲裁を
取り付けたことにより、山内、扇谷両上杉氏の対立が表面化
1482年 堀越、古河両公方の和睦により、今度は
両上杉氏が相争う事となった
また来ました。
>>142 関東騒乱記の語部さんへ。
いよいよ、北条早雲が登場しますね?
両上杉家の対立『長享の大乱』(1487〜1505)を舞台に、
今、関東の地に舞い降りる。
私の心の中では、1504年の立河原合戦はメインイベントです♪
ところで、太田道灌の話はないの?
144 :
日本@名無史さん:02/10/03 22:42
>>142続き
長尾氏
関東管領山内上杉氏の家宰を勤めた長尾氏は、三浦氏
の乱によって一旦滅んだ長尾影茂の名跡をついだ影直を
祖とする
南北朝騒乱の折、影直の子満影が上杉憲定の家宰となり、以後
上杉氏と運命をともにした
また上杉氏の分家化に伴い、長尾氏も多くの庶家を輩出し
上杉氏の領国、越後・上野・武蔵・伊豆各国の守護代を勤め
小領主たちを糾合し大きな勢力を持った
上杉謙信の父、長尾為影は越後の守護代を勤めていた
長尾影春の乱
1476年 堀越公方と古河公方と争った享徳の大乱の真っ只中
山内(上杉)家の家宰の職を巡って長男家の嫡子、長尾影春が
敵対していた古河公方に寝返り、居城武蔵鉢形城に立てこもる
事件が起こった
この際、上野、武蔵、相模の在地領主の勢力三千人も影春に
同調し、古河公方方へと寝返った
乱の討伐には、扇谷上杉家の家宰 大田道灌が当たったが
なかなか進捗が得られず、逆に
堀越公方の要請で、大田道灌が駿河今川家の家督争いを調停
するため駿河に下向している間に、武蔵五十子において
山内顕定、扇谷定正の両上杉連合軍が長尾影春の軍に破れる
という事態に至った
その後、討伐は大田道灌指揮の本、四年に及ぶ長期戦のとなり
平定されるのは1480年となった
太田氏
太田氏は清和源氏の一族とされており、本貫地、丹波国太田郷
が同国上杉郷地頭上杉氏と近かったことから上杉重房に仕えた
事から、上杉氏との主従が始まったとされている
その後、太田持資(道灌)の活躍により、主家扇谷上杉を
関東管領山内上杉家と対等の地位まで押し上げることに成功した
太田持資(道灌)
1432年 禅秀の乱と、永亨乱のあいだに生まれ、幼少のころより
秀才の誉れ高い少年だった
長じては、坂東一の武略と謳われ、歌道にも通じた風流人で
築城にも優れた才能を見せる、文武両道に渡る名将と謳われた
1455年 扇谷上杉氏の家宰を継ぎ、享徳の乱(古河公方成氏
との戦い)では、主君の扇谷(上杉)持朝を助け、山内上杉家と
並ぶ勢力にまでに成しとげた
1457年 には江戸城、岩槻城、河越城を築城、改修し防御ライン
を築くとともに、支配地域の在地領主、武士たちを組織化し
兵力の中心となった
このとき築城した江戸城は、従来とは様式を異にし『道灌がかり』
と呼ばれた(当時26歳)
又、兵制を一新し従来の騎馬戦、大将戦に頼らない足軽戦法を
編み出して多くの武勲を挙げた
長尾影春の乱(上記)の際にも、両上杉家に代わり、支配下の
武士を組織化して主戦力となり、武蔵をはじめ相模、上野、下総
などを転戦、華々しい武功を上げ、名声と配下の信望は主家を
しのぐようになった
太田持資の最期は、両上杉氏の関係が冷え込み始める中で、
山内顕定の讒言を信じた主君の扇谷定正により惨殺された
これを知った、扇谷傘下の武将たちの多くは、主家を見限り
山内顕定へと鞍替えした
>>143 ごめんなさいね、われらが早雲の出番は
もうちょっと先になりそう
ところで、誰か読んでるのだろうか
禅秀の乱からだと長すぎた気がする
また来ました。
>>146 関東騒乱記の語部さん(?)へ。
早雲のこと・・・・・・・・了解しました!
『関東騒乱記』のこと・・・は〜い。読んでいますよ〜♪
大変だと思いますが、がんばって下さいね〜☆
関宿城マンセー
私も読んでます。
ときに、細かいことかもしれませんが、長尾「影」春って誤字ですか?あと「大」田道灌とか。
全部「影」で統一して書いてるのは、そういう書き方をしている史料があるんでしょうか?
……穿ちすぎ?
150 :
日本@名無史さん:02/10/04 11:22
穿ちすぎ
ただの誤字。
どして足利学校の話がでて来ないんだ?
>>145続き
享徳の乱の終焉
(時期は少しさかのぼって、享徳の乱の末期)
1477年 太田道灌の活躍もあって長尾景春の乱が
沈静化に向かう中、古河公方と両上杉家との間で
和議が成立し、景春の乱を除いて休戦状態を迎えた
1480年 古河公方という後ろ盾を失った長尾景春も
太田道灌により鉢形城を奪われ、秩父へ逃れ
乱も平定された
1482年 さらに幕府の仲裁により、堀越、古河両公方
の間にも和議(都鄙合体)が成立し、享徳の乱に正式に
終止符が打たれた
この和議の条件に、堀越公方政知の処遇について
『古河公方成氏は、伊豆一国を政知の御料所として
割譲する』とあり、古河公方成氏は公私共に認める
関東の主として返り咲いたことが伺われる
また、堀越公方政知は公方とは名ばかりの伊豆
一国の守護程度の地位に落ち、その国政も旧領主
山内顕定が握っているのが実情であった
また、両上杉氏は堀越公方の配下であったにも
かかわらず、独自に古河公方との和議を締結している
等、すでに堀越公方政知に見切りをつけていたことが
想像される
こうして、領地の中に、あるいは一族の中に多くの
対立と矛盾を抱えたまま、享徳の乱は終焉を向かえ
一時の平安を迎えた
長享年中の乱
和平実現後、ともに古河公方に対してきた両上杉家
の間に亀裂が入り始める
事の発端は、関東管領山内顕定が主君である堀越
公方政知を見限り、威光を回復してきた古河公方成氏
に鞍替えしたことに、扇谷定正が反発し始めたこととか
和平のプロセスが、山内顕定の思惑に沿ったもので
あった事が発覚したことと言われているが
確実なことは、太田道灌の力により扇谷上杉家が
関東管領山内上杉家と肩を並べるほどの力を持った
ことを、山内顕定が警戒したことが原因と思われる
1486年 扇谷上杉家の家宰太田道灌が、主君の
扇谷定正により謀殺される事件が起こった
これは、太田道灌の力量を恐れた山内顕定が
吹き込んだ讒言を、扇谷定正が信じてしまったため
といわれているが、これにより道灌を慕う多くの領主
武士たちが扇谷定正の傘下を離れ、山内や古河の
元へ走ったといわれている
このことが、両者の関係を決定的なものとし、長享元年
1487年 以来上野、武蔵、相模の各地において
両上杉氏が干戈を交えるようになった
特に、1488年 長享二年 二月の相模の国実蒔原
の合戦、同年六月 武蔵野国須賀谷原の合戦
同年十一月 武蔵野国高見原の合戦は、特に
大規模な合戦として知られている
この長享年中の乱に際し、われらが『伊勢新九郎長氏』
は、いよいよ坂東の地に打って出ます
>>149 そうです、単なる誤字です
>>151 『足利学校』は出てくるかも?!
出ないかも!?
書くようになったら、書きます
それまでに誰かが書けば
何よりです
読者が三人位いるようなので
続けます
参照する資料によっては
内容が微妙に違ったりしてますし
私の思い込みも有るので
気が付いたら訂正してください
注意!!
当方、九州人なので
関東地方に詳しいわけでは有りません(w;
あしからず
155 :
日本@名無史さん:02/10/05 00:18
伊豆討入りの前に
ちょっと道草
上杉氏
小田原北条氏にとって良くも悪くも、一番深い関係を持って
いたのは、上杉氏でしょう
上杉氏の始まりは勧修寺流藤原氏とされており、古くは朝廷の
文官を務めていたが、鎌倉幕府の親皇将軍、宗尊親王に随伴
鎌倉へ下向してきた
足利氏と上杉氏の縁戚は深く、特に足利尊氏の母方に当たる
ことから、室町時代を通して鎌倉公方の執事(関東管領)職を
一族で独占するほど、重く用いられてきた
上杉氏は、それぞれの鎌倉に持っていた屋敷地名を冠して
扇谷(おおぎがやつ)、山内(やまのうち)、犬懸(いぬがけ)、
宅間(たくま)の四家に分かれた
最盛期には一族合わせると、越後、上野、武蔵、相模、伊豆
と関東平野の西半分を、ほぼ手中にするほど栄えた
山内(上杉)家
四家のうち、最大の勢力を有し一番多くの関東管領を輩出
している
犬懸(上杉)氏憲(禅秀)が関東管領のとき、山内、犬懸両家
の間に軋轢が生じ、やがてこれが鎌倉公方持氏をも巻き込み
上杉禅秀の乱へと発展して行った
その後、山内家が台頭し管領職を独占し、越後、上野、伊豆
三か国の守護を掌握、権勢を極めた
続いて、長享年中の乱では、やはり同族の扇谷家と争い、
ともに勢力を消耗していった
特に内には、家宰を勤めていた長尾氏の離反、外には新進
気鋭、成長著しい北条家の進出の、内憂外患にさらされて
家門を保てず、越後守護代長男景虎(上杉謙信)に管領の職
と姓を譲り、家名を保つのがやっとだった
山内家からは、
越後守護を務めた憲栄の家系(越後上杉氏)、そこより
分かれた上条(じょうじょう)氏など、多くの庶流、庶家を
排出している
また、常陸の国守護佐竹家へ嗣子として入り、入山党と激しい
家督争いを続けた佐竹義憲もこの家の出身
第十二代管領 山内(上杉)憲実は、さびれかけていた足利学校
に多くの書物を寄進し、保護育成したことで有名
第20代管領憲政より管領職と上杉の姓を譲られた、われらが
北条氏のライバル、上杉謙信も家系的にはこの系統ということになる
扇谷(上杉)家
一時は山内家と並ぶほどの視力を誇ったのが、この家系より
管領職を出すことはなかった
はじめ、山内家の元で行動してきたが、家宰に太田道灌を迎えて
大きく勢力を伸ばし、山内家と比肩するほどの勢力を持った
これに危機感を持った山内顕定の讒言を信じた扇谷定正が
太田道灌を惨殺して、自ら家勢を傾けることとなった
その後、山内家との間で長期にわたる抗争を繰り返し、結果的に
われらが北条氏の関東進出を助けることとなった
北条氏により、領国の相模、武蔵を奪われさらに河越夜戦において
頭首朝定が討たれ、著しく勢力を減退させた
扇谷(上杉)憲勝は、上杉謙信によって、松山城に返り咲くも
北条綱成に攻められ、最後は北条氏の膝下に屈した
扇谷家からは
相模三浦家へ嗣子として入り、北条氏によって打たれた
三浦同寸(義同)、北条氏に仕えた憲勝(上記)など出ている
犬懸(上杉)家
山内家と並び、鎌倉府初期の関東管領を多く排出し、大きな
権勢を誇ったが、第10代管領 氏憲(禅秀)の頃、叛乱を
起こして討たれ、一気に家勢を失い、家名が耐えることとなった
乱の根底には、幕府、鎌倉府よりの山内家と、在地勢力よりの
犬懸家の軋轢があったとされている
越後上杉家の始祖 上杉憲栄は山内家の出であるが
第4代管領 犬懸朝房の養子となっており、系譜的には
犬懸家に属する
宅間(上杉)家
宅間家は大きな勢力を持ち得なかった為、北条家の相模進出
の折に軍門に下っている
宅間(上杉)憲方は、本領永谷を安堵されて玉縄城主北条氏時
に従ったが、格式の高い家として『宅間殿』と敬称をつけて呼び
また知行地不入り権も安堵されている
小田原の陣で北条氏が滅亡した後は、徳川家康に仕え、旗本
として関が原の戦いに参陣し、代々旗本として存続した
>>154 は〜い。わたくしも読者です。
というか、わたくしのリクエストに応じて頂きありがとうございます。
藤原三位卿ですよね(もし間違ってたらゴメンなさい…トリップのバラバラなのが…)。
ガンバって下さい。
ここを書いておかないと、後に武田、長尾家が関東に関係してくる元々の理由がわからな
いですから(後だけど、長尾為景の越後征服の顛末等…)。関東武将の変わり身の早さの理由も。
また来ました。
>>160 外郎屋さんへ。
さらに付け加えますと、
北条家が関東の地に発展する事ができた理由も。
当時の戦国大名で考えると信じられないような努力を展開してきた理由も。
誰もが簡単に関東進出ができた訳ではないことまでが分かると嬉しいな〜♪
今川家家督継承問題
1476年 今川家当主義忠の討ち死ににより、義忠の遺児
龍王丸(たつおうまる)と小鹿範満(おしかのりみつ)との
間に家督継承問題が発生し、家中を二分する争いとなった
一回目の家督問題が発生しています
この年、関東では古河公方と堀越公方とに別れて戦った
享徳の大乱のさなかで、古河公方と管領上杉氏との間で
抗争が繰り広げられていました
そのような情勢の中で、この件に対して、堀越公方政知と
扇谷政憲がそれぞれ三百騎の兵をもって、干渉してきました
手元の資料が乏しく(自慢じゃないがほとんど無い)
どちらが、どちらを支援していたのか不明ですが、
この問題を解決するのに扇谷家の家宰、太田道灌が
駿河に出向いて、伊勢新九郎と交渉したとされています
後年の伊豆討入り(伊豆侵攻戦)の動機を考える上で
重要なファクターかとも思われます
たとえば、このとき堀越公方政知が小鹿よりのスタンスだった
とすれば、後年の伊豆侵攻の動機の一端とも考えられます
そのあたりの資料ないでしょうか
>>160 は〜い、あたりです
毎日Tripwo100個ほど出して、よさげなのを使ってます
結構いけてるので、しばらくこれ使おうかな
ホームグラウンドだった九州は、おばかが一人いて
無茶苦茶にしてくれたので、下のほうの、さびれたあたりで
数人で細々やってたんですが、規定が変わって
一気に脱兎落ちしたので行くとこがなく
寂しい思いしてました
で、今度はここに寄生しようかなと思ってます
北条関係の資料ってほとんど手元に無いので
九郎判官義経しています
(北条だから、新 九郎 盛氏してますのほうが良いか?)
『中世村組織の変遷』とか『一揆と戦国大名』
みたいなのが2〜3冊有るだけです
数日前、学研の赤本『戦国関東三国志』を買ってきましたが
後はInterNetが情報源です
私の書いたのは、電波注意です
>一時は山内家と並ぶほどの視力を誇ったのが
ついワラタ
上杉憲勝ってれっきとした扇谷上杉だったのか…
そのへんの庶流の部将だと思ってた
>>170 笑わないでくれ〜
結構大変なんだから
とか言いながら、実は自分でもおかしかった
>>168 自分で探したら、というよりUPしてすぐに見つかった
扇谷上杉、太田道灌は、小鹿範満を支持していたらしい
つまり、隣接国相模の守護扇谷は小鹿範満
(おしかのりみつ、おがのりみつ、どっちだろ)
もう一つの隣接国伊豆の堀越公方が、龍王丸
を支持していたという事のよう
つまり、堀越公方政知と新九郎の関係は良好だったと
考えてよいのかな
もう一つ、堀越公方の後ろ盾が山内家なので
山内と扇谷の勢力争いだったとも取れる
このときは、古河公方と上杉一門が争って
景春が寝返ったときなので、上杉一門は
足並みそろえて事に当たっていたように思ってたけど
水面下では、すでに勢力争いが始まっていた
ということか
>>170 河越で氏康が討ち取った朝定が最後の扇谷頭首
この時点で、領地の相模、武蔵は北条の手に
渡っているので、扇谷家の総領は消滅しているのし
頭首の討ち死にで家督も消滅と考えていいと思います
憲勝は、系譜的には庶流になるのですが
関東に進出してきた謙信が、扇谷として松山城に
置いた事になっています
山之内家の家督を継承した謙信の扇谷家に対する
けじめみたいなものかなと思います
>小鹿範満
は「おしかのりみつ」でいいと思う。静岡市内に小鹿(おしか)ってあるから。
…「おがはんま」とかだったら困るな…
あれ?なんかレス番詰まってるね
169 :
日本@名無史さん:02/10/08 16:55
北条氏盛あげ
>>165 小鹿範満…「おしかのりみつ」でOKです。
>>167さんのいう通りです。
この人の室は扇谷の出らしいです。
(新人物往来社の『関東管領上杉一族』に載っていた…氏康代変わり位まで役に立つかも)
人名・地名絡みで…この家督争いに早雲に協力した人で『小川の法栄』こと長谷川政宣が有名ですが、
この『小川』は『コガワ』(焼津市の地名)と読みます。ちなみに、この人の子孫に長谷川平蔵がいます。
今日の小田原は、雨後曇り。。。
天気悪りー。
晴れていたら、湯本の日帰り温泉にでも行こうと思ったのだが。
いつも行く温泉は、早雲寺の近くなのだ。
172 :
日本@名無史さん:02/10/08 18:12
>>162 >扇谷政憲
犬懸上杉じゃなかったっけ?
上杉禅秀の孫だとおもったけど。
>>168 おっしゃるとおり、番号がずれてました
Abone使ってるんで、時々発生します
適当に読み替えてください(w;
>>172 そうですね、系譜では禅秀の孫ですね
出展が、どこだったか記憶がなくて申し訳ない
扇谷と堀越公方が兵を率いて干渉してきた
という内容はあっていると思うんですが
当時扇谷の傘下だったのでしょうか
太田道灌本人って言うニュアンスのも
あったような記憶
とにかく当方素人なのでこれからもよろしく
関東足利氏
上杉氏と並び、北条氏が大きな影響を受けたのが
堀越公方、古河公方をはじめとする、足利諸氏でしょう
鎌倉府と鎌倉公方
南北朝の時代、室町幕府は関東地方で優勢であった
南朝方より、武士の本拠地である鎌倉(関東)を守るため
鎌倉府を設立し、足利一門をその長として常任させて
鎌倉公方と称されていた
初代の鎌倉公方は、後の二代将軍となる 義詮が就任
したが、二代以降は義詮の弟 基氏が就任し
以後この家系が世襲した
鎌倉府の管轄範囲は、関八州(相模、武蔵、上野、下野
上総、下総、安房、常陸)に甲斐、伊豆を含めた十カ国
に及び、後に陸奥、出羽も加えられ広範な地域に及んだ
またその権限は、国役、棟別銭などの税収の代行
鎌倉五山侍従、鎌倉公方、および管轄区域内の守護の
任命権を持ち、さらに、恩昇給付権を持つことなり
幕府に比肩しうる権益を有していた
こうした大きな権力を背景に、幕府と対立することが多く
代々、第四代の鎌倉公方 持氏の代において永享の乱に
発展し、幕府の討伐を受け、四代百年の歴史を持って
滅亡した
古河公方
鎌倉府滅亡後、これに変わって関東地方の行政、軍事を
統括的に掌握する機関が存在せず、いっそうの混乱を
きたしたため、鎌倉府を再興することと成り、持氏遺児の
成氏を鎌倉公方に任じ、鎌倉府を復活した
しかし関東管領上杉氏との関係が険悪となり、程なく
在地の領主たちを取り込み下総の古河城に立て篭もり
上杉一門と激しく対立した
このとき、幕府、関東管領上杉氏の支持する堀越公方
との両公方並立の時期を迎えるが、在地の領主たちの
多くを傘下にした持氏方が優勢となり、関東管領上杉氏
そして幕府と、相次いで和解が成立
再び、古河公方として関東の頂点に復権した
以後、成氏の家系により継承され、関東管領上杉氏
北条氏らと相克、或いは和解しながら繁栄した
第二代古河公方政氏の子 顕実が、また第三代古河公方
高基の子憲広が管領山内家の養子となり管領職を
継ぐなど、冷え切った管領との関係も修復を図っている
第五代古河公方 義氏の代に後嗣に恵まれず断絶する
堀越公方
古河公方成氏に対抗するため、将軍義政と管領上杉氏
によって擁立された、新たな鎌倉公方
将軍義政の弟政知を初代とするが、強大な古河公方の
勢力の前に、鎌倉入りが出来ず、伊豆の駿河との国境
にある堀越館を本拠としたため、堀越公方とされる
古河公方と管領上杉氏、幕府と相次いで和議が成立し
古河公方が正式に復権したため、堀越公方は伊豆一国を
御料所として与えられるだけとなり、伊豆の守護程度の
地位にとどまることとなった
さらに、伊豆の実権は管領山内家が握っており、名ばかり
の公方となっていた
政知病死により、茶々丸が二代目堀越公方となるが、
伊勢親九郎の伊豆侵攻により御所を追われ二代で
消滅した
小弓御所
第二代古河公方政氏の子義明は父とも、兄高基とも
折り合いが悪く、奥羽の国を転々としていたが、上総武田氏
里見氏らの招聘を受け挙兵、下総生実(小弓)城の原胤隆を
破り、小弓城を拠点とした
北条氏と結び、父政氏を追うようにして公方に就任した
兄高基に対抗して、古河公方の正統を主張し小弓公方と称した
大義名分を手に入れた武田、里見連合軍は原、千葉連合軍を
圧倒し房総において確固たる基盤を築いた
しかし、里見氏に後嗣問題が発生、これが武田氏にも飛び火し
武田氏の内紛問題となった
これに北条氏が加わり、北条VS小弓公方、里見連合で争われ
ることなり、第一次国府台の合戦にいたった
この戦いで、義明親子は北条氏に討たれ、小弓公方は絶えた
喜連川家
古河公方は五代義氏の代で後嗣がなく絶えることとなったが
名跡を惜しんだ豊臣秀吉により復活することとなった
義氏の娘に、義明の孫国朝を養子とし、下野の国喜連川
を与えた
以後、字地名の喜連川を称し、徳川幕府より実高五千石
格式十万石の高家としての処遇を受けた
稲村公方、篠川公方(ささがわくぼう)
第三代鎌倉公方満兼のとき、奥羽二州が鎌倉府の所轄と
なったことを受け、満兼の弟満直を篠川御所として、満貞を
稲村御所として、奥羽へ下校させましたが、幕府は直ちに
大崎詮持(あきもち)を奥州探題に任じて対抗します
禅秀の乱、永享の乱で鎌倉府が滅亡したことにより
実権をなくし、篠川公方の横死とともに奥州の実権は
大崎氏が握った
伊豆への侵攻に際しては、中央(幕府)との関係も
かなり窺えます
外郎屋サンの言っていた件です
で、時系列的に堀越公方と新九郎の関係を
追ってみます
私の独断で関係有るかなーと思われるところをピックアップしました
年は、読む資料によって若干違いがありますが
『違いの判る男、私としては』出来るだけ新しいのを採用したつもりです
1458年 足利政知、伊豆堀越に入る
1464年 新九郎、足利義視の近侍となる
1467年 応仁の乱始まる
同年 新九郎、義視とともに伊勢へ落ちる
1468年 義視京へ戻るが、新九郎伊勢に留まる
1468年頃 新九郎、駿河へ移り石脇城主となる
1473年 山名宗全、細川勝元相次いで死去
1474年 山名政豊(西軍)、幕府(東軍)に降りる
1476年 新九郎、道灌の間で今川家の家督問題を調停
1477年 京都の戦火収束する
1478年 将軍義政と義視の間に和解成立
1479年頃 新九郎、京都へ上り寺に入る
1486年 太田道灌、上杉定正に謀殺される
1487年 新九郎、幕府申し次衆となる
同年 将軍義尚、第一次六角征伐で近江に出兵
同年 駿河に戻り小鹿範満を討ち、氏親を今川家家督とする
同年 富士下方郡十二郷と興国寺城を与えられ、駿河守護代に就く
1488年 扇谷定正、高見原で山内顕定を破る
1490年 足利義視の子義材が十代将軍に就く
1491年 堀越公方政知死去
同年 足利茶々丸、政知正嫡、潤童子とその母を撃ち堀越公方に就く
同年 三浦時高、養子義同に討たれる
1493年 明応の政変起き、堀越公方政知の子義澄、将軍に就く
同年 新九郎、伊豆へ侵攻し茶々丸を追い堀越御所滅亡
1)足利義視との関係
新九郎の出身国とされている備中の守護職を務めていたのは
細川勝久で、もちろん東軍です
1466年、義視は義政によって命を狙われるのですが、そのときに無事に
伊勢に落としたのは、東軍の細川勝元でした
1468年、京都に戻る際の義視は東軍に属していましたが、伊勢貞親の処遇
に対しての不満から西軍の山名宗全の元に移ります
義視が伊勢に落ち延びた際、東軍により京に復帰した際、細川氏との
コネクションを持つ、新九郎が根回しをしていたと考えるのはどうでしょう
その後、西軍に寝返った義視に愛想をつかして、袂を分かったと考えると
自然なような気がします
(ちょっと読みすぎとは思いますが、あながち、とも思います)
2)細川氏との関係
上で書いた続きですが、新九郎の伊豆侵攻は1493年の明応の政変
の直後に行われています
明応の政変は、細川政元が堀越公方政知の遺児、清晃(義尚)を担いで
起こしたクーデターです
このあたりは偶然とは考えにくいでしょう
さらに、後年今川氏親とともに遠江を攻めますが、遠江守護は元西軍の
斯波氏だったことを考えると、東西変節極まりない将軍、幕府よりも
細川(東軍)サイドで行動していたのではないかとも考えられます
(これも推測でしかありません)
3)再上京の件
1476年 道灌との間で一回目の今川家家督問題を収めた後
1479年 新九郎は京都に上っています
それ以後、北川殿親子は命の危険を感じながら、身を潜めるように
して生活をしていたとされています
新九郎の上京を、上杉という後ろ盾を持つ小鹿一派から身を守るため
とも取れますが、北川殿親子を見捨てていったとは考えにくいですし
現に、後年小鹿を打ちに戻ってきます
新九郎の上京という行動には何らかの目的があったのでは
ないかという推測が出来ます
で、考えられるのが、上杉氏に対抗しうる後ろ盾や大義名分を
得るために上京したのではないかという考えです
1486年 太田道灌が謀殺されると、次の年には幕府の申し次衆
となり、将軍の近江親征に合わせるようにして駿河に下向し
鮮やかに小鹿範満を撃っています
小鹿討伐後の混乱もほとんどなかったようですし、この件で
上杉からの干渉も受けていないようなので、上京していた
間にかなりの準備をしていたのではないかと
これも推測ですが、細川と何らかの繋がりを持っていたとすれば
どうなんでしょう??Xfile並の電波ですかね
先週の土日から書きだめて来た分
昨日吐き出してしまったんで
さすがに、今日は書くことが纏ってないので
お休み
何ゆえ、伊豆、相模でほとんど叛乱を受けずに
統治できたのか
そのあたりを、知りたいんですが
手元の資料が少なすぎる
また来ました。
>>183 私もそんなにたいそうな資料なんてものは持っておりません。
ですから私的な考えを一つ!
@伊豆・相模の国人・土豪が必ずしも堀越公方・山内上杉・扇谷上杉に、
絶対的な忠節を持ってはいなかったのでしょう。
足利家・両上杉家と伊勢新九郎を比較した時、
伊勢新九郎の方に賭けてみたくなったのかもしれません。
関東地方独特の政治抗争の所為ですね。
Aまた、反対勢力は滅ぼされてしまったと考えてもいいのかもしれません。
関戸吉信、三浦道寸といった人たちは最初から抵抗していましたから。
伊勢新九郎の場合、よそ者としての登場の仕方と成上がり的な登場の仕方が、
余計に最初から反発させたのかもしれません。
B抗争を続ける旧体制の両上杉家でほとんどない出世の機会を待つのと、
台頭著しい新興勢力の伊勢新九郎のもとで数ある出世の機会を待つのと、
考える必要はないでしょう。
ただ、両上杉家の戦力は強大ですから先見力のない人たちは、
難しい問題になりますね。
注、考え方に偏見あり。
週末に円覚寺に行ったら、山吹が生えていた。
道灌と早雲は共に音読みだね。。。
186 :
日本@名無史さん:02/10/11 17:06
わ!
187 :
日本@名無史さん:02/10/11 17:14
炎のなんとかっていうアニメのDVDを見させられたのですが、
北条の扱いってあんなでいいのか?
188 :
日本@名無史さん:02/10/11 18:19
このスレ、面白いです。
昔、司馬遼太郎の小説は読みましたが、あっさりしすぎて
あれっ?というところも感じてましたので。
「四公六民」に代表されるように北条の内政は結構よかったってのもあるんじゃないですかね
早雲時代は興国寺領に他領の農民が逃げてきたらしいし
また来ました。
>>185 46番さんへ。
円覚寺に行っていらしたのですね。
私もずいぶん前に行ったことがありますがいい所でした。
>>187 187番さんへ。
『炎のミラージュ』かな?
>>188 188番さんへ。
私、小説とかは読まない人なのでわかりませんが、
熱く北条家のことを語ってもそのことを面白く感じる人は少ないでしょうね。(悲)
>>189 189番さんへ。
内政は良かったと思います。二代目当主の北条氏綱の政治手腕を考えますとね。
>>189 確かに四公六民などの撫民政策も大きいのですが
社会システム後進地の関東に中央のシステムを
持ち込んで、定着させたのが大きいのではないかと
思います
以前、月星さんと所にちょっと書いた件です
関東地方では当時有力な領主が存在せず、鎌倉時代の
地頭のような小規模の領主たちが、その時々の利害によって
幕府、鎌倉府、管領家の傘下で戦うということが繰り替え
されてきました
(このあたりの話を始めるときりがないので省略)
このような小戦国時代の関東地方に中央の政治システムを
持ち込んで、小領主たちを家臣団化に成功したことが
新九郎、氏綱時代の躍進を支えているのは間違いない
でしょう
ただ、堀越御所を急襲して伊豆を入手、その次の年には
今川氏親と供に遠江の遠征を行っていますし
引き続き小田原も攻めています
ほとんど期間をおかずに、在地領主を家臣化している
ようなのですが、この早業を成しえた要因は何なのか
ちょっと調べてみようかなと思っています
>>170 外郎屋さん、いいもの持ってますね
うち、ホンと何にもないよ状態
Googleが一番心強い味方
以前から、北条氏には興味があったので
このスレに寄生してしましました
基礎知識くらいしかないので
ほとんど、初めて知ることばかりです
以後、良しなに
>>184 おおむね同意ですが
伊豆、相模の領地化があまりにも早いので
そのあたりの要因を、と思っていますが
なにぶん、手元に何もないので
それにつけても
北条の三つ鱗の紋は、新九郎、氏綱が指向した
家臣団の姿を模しているようで
意味深ですね
スレ番が前後してますが
あしからず
また来ました。
>>193 無い知恵をさらに絞って考えながら書きます。
☆伊豆
@伊勢新九郎の頃の家臣団についてはわかりませんが、
早い時期に笠原氏、清水氏などを登用して、
支城体制を作り上げていたのかもしれません。
そもそも伊豆半島の地理は山地が複雑の上、
南北に長いため見通しが利くような土地ではありません。
韮山から伊豆を治めるのは難しいと思います。
海上交通は盛んのようでしたから外国からの干渉も考えられます。
特に南伊豆の賀茂郡は目が届かない土地でありますから、
下田城が重要視されたのは海賊衆の基地としてだけではないのかも・・・。
A伊豆については狩野氏という一族が存在します。
その一族出身かどうか分かりませんが狩野姓の人物が北条家で活躍しています。
一族かどうかは置いておきまして伊豆の人たちも活躍していると思います。
実際、駿河湾や相模湾の海のことを知っているのは彼らですから、
海賊衆として活躍したことでしょう。
そして、関東進出の際は伊豆の軍勢が中心となって相模を平定していくので、
伊豆の人たちも活躍の場がある以上、領地化が早かったのでしょう。
織田家の美濃や近江と同じような展開ですかね?
機種依存文字使うなヴォケ
>>194 地形的にみて、山多く地味少なし、という感じですし
大きな平野、盆地、河川が少ないので
大きな勢力が育たない地形なので
大きな抵抗勢力ができなかっ様です
名前までは載っていなかったんですが
足利政知が鎌倉公方として下向するときに
一通りの官僚を同伴していたようです
堀越御所を中心に、室町風の官僚システムを
敷こうとした形跡もみられます
実権は山内上杉家が握っていたので
うまくいかなかった様ですが
伊豆討入りの際に、これらをそっくり頂いた
という可能性がありますね
伊豆討入りの際、扇谷定正(?)が支援した
ということのようですが
力関係からみると
山内=茶々丸同盟に対抗するため
扇谷=新九郎同盟
と考えてよさそうな気がするのですが
外戚とはいえ、親族の小鹿範満を討った新九郎と、
短期間の内に同盟を結ぶ
変わり身の早さにも驚かされます
>>197 ☆扇谷上杉定正と伊勢新九郎の同盟(?)について。
扇谷上杉家の立場から。
@当時、扇谷上杉定正はなかなかの将であるみたいで、
太田道灌暗殺後、山内上杉家を圧倒しています。
無能ということはなかったのでしょう。
A外戚小鹿範満のことについても、
同族山内上杉と争っているのですから、
それほど気にならなかったのではないのでしょうか?
B『伊勢新九郎は使える!』
そう思っただけなのかもしれませんし、
大国駿河の今川家を意識していただけかもしれません。
こじれたままにしておく方が無策ですからね。
Cここは読まないで下さい。(気分を害す可能性があります。)
ひょっとしますと、
以前、太田道灌からの駿河での報告の際、
伊勢新九郎のことを聞いていて興味を持ち、
伊豆の支配権を与え、
関東管領扇谷上杉帝国(仮称)の家宰に取り込もうと、
考えていたのかもしれませんね。
その扇谷上杉定正は1494年に落馬がもとで死去。
伊勢新九郎の小田原城奪取はその後まもなくのこと。
両上杉家の関東騒乱は1505年まで続きます。
なんとなく、早雲は親山内派を取り込んだんだと思ってた。
伊豆は本来山内上杉の領国だし、武蔵で扇谷上杉が勃興したら、
親山内=反扇谷は分断された形になるわけで、
北条早雲と親扇谷の小鹿範満が争ったから、北条=反扇谷だろうと。
でも、
>伊豆討入りの際、扇谷定正(?)が支援した
ってことは、全然違うのか……。
また来ました。
>>199 199番さんへ。
まあ、昔のことですからわかりませんよ。
(教科書や資料に載っていることが真実という訳でもありませんからね。)
堀越公方足利茶々丸が『反山内上杉路線』を政策にしたのかもしれません。
そうなると、今川家に依頼して伊勢新九郎に攻めさせたのかもしれません。
山内上杉家は伊豆に援軍を派遣した様子もないですしね。
実際、伊豆の地元の人たちの大半は伊勢新九郎の平定を受け入れています。
関戸吉信(賀茂郡)は反抗しましたけど。
古河公方の動向も気なるところですね。
この考えはあまり一般的ではないですから、
『この人ちょっと変な人』ぐらいに読んでいただけますと嬉しいです。
大切なのは自分の主張を持つことで、
そのためには人から聞くより自分で調べることが一番と思います。
是非、山内上杉顕定と伊勢新九郎の同盟を提唱して下さいね。
>>199-200 そうなんだよね
新九郎が山内派だったら前後関係がスッキリしてるんだけどね
どうも、そうじゃないみたい
山内は伊豆の国衆を武蔵中央部の戦いに動員していたようなんだけど
伊豆自体が騒乱の地じゃなかった
で、山内側の兵力削減を狙って、扇谷が支援したというシナリオみたい
この当時の関東地方の騒乱は、後の戦国時代とは違って
領地を争っての戦いじゃないんですよね
実は、応仁の乱も良くみれば同じように、領地の争いを
していないんです
で、何を争っていたかというと
役職や地位などの権益なんです
関東で言えば、将軍の地位を欲した持氏とか
関東の主の地位を求めた上杉氏とか
管領家の権益を奪おうとした扇谷とか
それぞれの家の家督を争った国衆とかetc
で、新九郎の伊豆討入りは明らかに領地獲得を
求めた戦いで、それまでの戦いとは一戦を隔しています
これに触発されるように、以後の戦いが領地を求めての
戦いに変わって行きます
で、伊勢新九郎の伊豆討入りをもって戦国の到来と
されています
本日二回目の書き込み。
ここのみなさん、小田原城の奪取のことを微妙に避けていません?
私の気のせいでしょうか?と議題を投げかけてみます。
吉と出ますか凶と出ますか。
避けてるんじゃなくて
まだそこまでたどり着けないのです
私が
伊豆の次ですね
小田原は
>>204 了解。
あ、でも、小田原のことは難しいと思いますのでゆっくりでいいですよ。
他の人は小田原のことをどう考えているのかな?
新九郎の伊豆討入りと前後して
長尾春景の乱、越後長尾為景の乱が発生しています
1476年 長尾春景が山内家に背く
1493年 伊勢新九郎伊豆討入り
1507年 長尾為景、越後守護上杉房能を討つ
これらの反乱は、いずれも中小の国衆(国人)達の連年の戦い
に対する不満の表れと考えてよいのでしょう
特に、伊豆と越後は戦乱の地、関東の後背地に当たり、
直接自分たちの利害に関係しない戦いに対しての
兵力、戦費の供出を求められており
これに対する中小の国衆(国人)の不満が、
新しいリーダーと体制を求めていた
新九郎、為影はその力の上にうまく乗ったということでしょう
しかし、不思議ですよね
関東の公儀、管領を否定して新たに興った二つの家なんですが
新九郎の孫氏康と、為影の子謙信の二人は関東の公儀、管領の
職をかけてまた争うことになるんですよね
また来ました。
>>206 関東管領をめぐる戦い。
北条氏康にとっては野望のため。上杉謙信にとっては正義のため。
まだ関東の地にそれは影響力があったのでしょう。
天下統一に燃える織田信長も、
関東政策には多少なりとも必要性を感じていたようですしね。
しかし、伊勢新九郎にとっては無用の長物でしかなかったのでしょう。
関東管領という役職、北条家は本気で欲しいとは考えてはいなかったのでは?
北条氏綱は関東管領に対抗するため『北条』を名乗る訳ですし、
さらに自分の娘を古河公方足利晴氏に嫁がしています。
北条氏康は関東管領上杉憲政を関東から追い出し事実上関東の覇者になります。
(このあたりは織田信長の将軍足利義昭追放と似ていますね。)
問題は長尾景虎が律儀にも鶴岡八幡宮で関東管領を受け継いだことです。
一度はその意味を失った関東管領という役職、
再びそれまで以上の意味を持ってしまったことが問題ですね。
北条氏康は武田晴信に西上野を攻めさせ、
上杉政虎(輝虎)への対策を考えていますが、
関東管領という役職を奪うということまでは考えてはいないみたいです。
もし北条家が必要と思うのでしたら、
それは、自分が持っていれば心配する必要がないということでしょう。
その後は越相同盟で関東管領の意味を失い(殺してという方が適切ですね。)、
上杉謙信の死去後は上杉景勝が上野を武田勝頼に譲ってしまっているので、
上杉家の関東政策は終了します。(注、上杉憲政は御館の乱で殺害されます。)
伊豆討入りのアウトラインはつかめた気がします
やっぱり、かなり環境が整っていたということのようですね
伊豆討入りを成功させた要因ですが
1.関東中央部での戦いのため、ほとんどの兵力が出払っており
抵抗勢力がなかった
2.室町将軍の代替わりにより、堀越公方茶々丸が公儀の仇となり
大義名分が生まれた
3.今川氏は一貫して堀越公方を支援してきたので
警戒されなかった
かなり短期間で伊豆を領地化できた要因は
1.関東中央部の戦乱が膠着化しており、奪還のための
兵力を割けなかった
2.伊豆が小国であり、また紛争の当該地域から離れていたため
関東全体に与える影響が小さかった
3.伊豆の中小勢力(国人)たちの間に、厭戦気運が高まっており
現状のシステムに対する不満が蔓延していた
で、最大の要因は
新九郎本人が、元幕府の官僚で組織の生成、運用に長けていたこと
同時に、社会の変化に十分対応できなかった幕府もつぶさに見ていたこと
四公六民の税制
組織化による領地の保障
一方で、なびかない者に対しては、断固たる態度で臨む厳しさ
このあたりが国人層に大きくアピールしたと思われる
>>207 やっと、伊豆討入りなんで、氏康の時代に対しては
私自身かなり疎いのですが
北条五代を見るとき、氏綱と氏康の間でかなりの
落差を感じさせられます
前半の二人は、戦乱をうまく利用しながら
自身はその外に身をおいて、領土の拡充に努めています
周りの勢力とは、価値観で一線を画しているような印象を
受けます
氏康の時代は、戦乱にどっぷり浸かって
当人自ら戦乱の主役を演じてしまっています
領地の拡大はしたものの、前二代のような、周囲から
超越した存在ではなくなっています
(周囲が変化したのかもしれませんが)
最後の二人は、完全に時代から取り残されています
>>206は
このあたりの私自身の北条五大の思いに基づいて
書いたものなので、アバウトなものです
また来ました。
>>208 環境が整っていたことの中で一番重要なこと。
1494年の扇谷上杉定正の死去と1510年の山内上杉顕定の戦死。
このふたつは北条家にとても大きな意味を持つことになります。
彼らには伊勢新九郎の台頭を抑えることができたかもしれない行動力が、
充分にあったと思いますから。
後を継ぐことになる山内上杉顕実―憲房―憲広―憲政、
もう一方の扇谷上杉朝良―朝興―朝定、
彼らに北条家の台頭を抑えることは難しいと思います。
扇谷上杉朝興はがんばっていましたが・・・無念。
山内上杉家は顕実と憲房が対立して再び内紛。
さらに古河公方足利家の政氏と高基の父子争いが結びついてしまい泥沼化。
とてもじゃありませんが、北条家の対策は無理。
既に両上杉家の巻き返しはできなくなっています。
>>209 人の想いはそれぞれ!
今となりましては、これが本当の北条一族と証明するものはないでしょう。
逆に考えますと、人が想う北条一族の全てが本当のことでいいと思います。
後は自分で判断すればいいでしょう♪
みなさん御存知の通り私は北条家五代の全てが好きですが、
良い所だけ見て悪い所は見ないとかですと、
本当の北条家が見えてきませんし意味も無いのでしません。
もっと欲張りますと、
北条家を知る全ての人の北条家の想いが知りたいですね。善し悪し関係なく。
と、えらそうなことを書いてしまいました!
ただ、優秀かどうかで好き嫌いを考えるのでしたらつまらない。
戦国時代の扉を開いた伊勢新九郎から、
そして戦国時代の終焉を迎えた北条氏直まで、
魅力が充分にありますので、私は好きと思います。
>>210の補足。
行が多過ぎたのかしら、なかなか書き込めずバッサリ切り捨てましたら、
意味が変わっているみたいですので付け足し。
扇谷上杉定正の死は小田原城攻略に影響があったと思います。
伊勢新九郎は時間をかけて攻略するタイプのように思います。
しかし、小田原城攻略は伊豆平定直後と考えていいでしょう。
伊豆の民衆をまとめるのに急いだのかもしれませんね。
同時に小田原城攻略戦を短期間で終了させることも考えていたのでしょうね。
短期間での伊豆領国化はこういう事情もあったのでは?
(あまり一般的な話ではないですけどね。)
山内家の話はついでですよ。
山内上杉と扇谷上杉の争いは1505年まで続きます。
伊豆のことより関東管領が大切でしたのでしょう。
伊豆、相模平定時の主要な戦いです
1493年 伊勢新九郎、堀越御所攻め足利茶々丸を追う
1495年 伊勢新九郎、小田原城を攻略し、大森藤頼(扇谷上杉方)を追う
1496年 伊勢新九郎、相模西部で山内顕定と戦う
1504年 伊勢新九郎、扇谷朝良、今川氏親とともに、立河原で山内顕定を破る
1507年 越後守護代長尾為景、守護上杉房能を攻め敗死させる
1509年 山内顕定、越後に侵攻し長尾為景を越中に追う
1510年 長尾為景、越後長森で山内顕定を敗死させる
1510年 上田政盛(扇谷武将)を寝返らせ、権現山城で挙兵させるが失敗
1512年 伊勢新九郎、相模岡崎城攻略し三浦義同を追う
1513年 伊勢新九郎、三崎で太田資康を討つ
1516年 伊勢新九郎、新井城を攻略し三浦義同を敗死させる
1517年 今川氏親、遠江引間城を攻め守護斯波義陸を降ろす
この間の主な出来事
1494年 扇谷定正死去、朝良(定正の甥)が継ぐ
1505年 山内、扇谷両上杉間で和議成立し扇谷朝良隠居、甥の朝興が後を継ぐ
1510年 山内顕定戦死により、顕実(古河公方政氏の弟)が管領職を継承
1510年 山内家内で鉢形上(武蔵)の顕実と平井城(上野)の憲房に分かれて対立
1512年 古河公方家で政氏、高基親子間で対立し、関東を二分する抗争に発展する
1512年 玉縄城を築城する
1510年の古河公方家の分裂には新九郎の策略が有ったようです
以前より公方政氏と高基親子さらにもう一人の子供義明(後の小弓公方)
の間は仲が悪かったところに、管領家の分裂をうまくリンクさせて
決裂させたようです
古河公方方には管領上杉顕実が付き、さらに
常陸の佐竹氏、安房の里見氏が参加
関宿城に移った高基には弟義明、上杉憲房以下
下野の結城、宇都宮、小山氏らが参加
再び関東を二分する騒乱へと発展します
さらに、越後の長尾為影とも連動しながら行動
していたようですし、沈静化していた長尾景春に対しても
再び炊き付けているようです
このあたりの新九郎の行動を纏めると
山内、扇谷様上杉の内紛に乗じて、山内方の伊豆を制圧
引き続き、扇谷方の小田原奪取
両上杉が和解すると、次は北の越後、長尾為影と連携して
クーデターを起こさせる
管領の戦死とその後の管領家の内紛に付け込んで
さらに古河公方家の内部分裂を誘い、騒乱を拡大
兵力を北関東に釘付けにしておいて、扇谷武将
上田政盛を寝返らせる
そして、準備が整ったところで岡崎城をせめて三浦義同を
三浦半島に追い
玉縄城を築いて、押し込めておいて、国人の調略を行い
従わないものには断固たる態度を示す(太田資康)
三浦氏が弱りきったところで、止めを刺す
相模制圧後は、時を移さず国人達を組織化し
伊豆相模の検地を行って領有化
書いていて怖いくらい鮮やかですね
こうしてみると、伊豆討入りが単体であったわけではなく
その後の相模侵攻とセットになっていたと考えたほうが
良いみたいですね
この後まもなく新九郎の寿命が尽きるのですが
この後の展開の、シナリオもあったのかもしれませんね
寿命が続けば、武蔵あたりも視野に入っていたかも
というより、当然考えていたでしょうね
>>211 そうなんですよね
古河公方や両上杉とは価値観が違っているんですよね
新九郎を選択した多くの国人たちも、これに賭けたんでしょうね
216 :
日本@名無史さん:02/10/18 02:26
また来ました。
相模平定戦に突入ですね!
>>212 大森藤頼を扇谷上杉家側にしたのですか。
本によっては山内上杉家側でしたり扇谷上杉家側でしたりでわかりにくいです。
まあ、どちらでも私はいいのですが。
注目すべきは伊勢新九郎の鮮やかな戦略ですから♪
ところで、古河公方家と山内上杉家の家督争いは、
足利高基&山内上杉憲房派が勝利します。
さらに足利高基は、
1525年に盟友憲房が死去しますと、
山内上杉家に弟(?)の憲広を送り、
暫定的に家督を継がせて勢力を拡大させます(〜1531年)。
しかし、弟である小弓公方足利義明が房総で台頭し始めますと、
北条家と結びつき対抗しようとしますが、1535年に死去。
一方、小弓公方の足利義明も里見義堯を味方に勢力拡大を図るも、
1538年の第一次国府台合戦において兄の後を追うように戦死。
その直後の1539年に古河公方足利晴氏と北条氏綱の娘の婚儀が成立。
これにより古河公方の時代は終わりを告げます。
>>217 大森藤頼の件ですが、前後の関係から考えると
山内方のほうがスッキリしますね
(特に、立河原の合戦は扇谷側で参戦してますから)
藤頼の父、氏頼の代は長尾景春の乱の時から
太田道灌と共に働いているので、扇谷方であること
は間違いないようです
太田道灌が謀殺された折に、「大森教訓状」を書いて
扇谷定正を諌めていますから、このあたりで袂を分かった
と考えられないこともないのですが
藤頼の妹が扇谷一門の扇谷高求の元に嫁いでいます
また、その間の子供が、後に三浦家に養子に入った義同で
三浦氏と大森氏は協調して扇谷配下として相模を統治
していたと考えられます
それともう一つ
小田原城奪取の際の逸話としてよく語られる「鹿」の件ですが
話の真意は別にして、この話が伝わっていることから
大森藤頼は新九郎の軍に対してまったく警戒していなかった
つまり味方と思っていたと考えられます
先年の伊豆討入りの際、新九郎は扇谷側として動いているようなので
それを味方と信じた、大森藤頼も扇谷側であると
考えたほうが良いのではないかと思ってます
伊豆討入りの時、新九郎が山内サイドだったと考えると
さかのぼって、大森藤頼の父氏頼は太田道灌謀殺の時に
扇谷に見切りをつけて山内に付いた
室町将軍が義澄に代わり、堀越の茶々丸が将軍の仇
となったことを受け、幕府との関係が深かった山内顕定も
茶々丸に見切りをつけた
新九郎の伊豆討入りの際に、山内顕定は影響下にあった
大森氏頼に新九郎の手引きをさせた
伊豆を奪った新九郎は、次は矛先を変えて扇谷と組み
山内側の小田原大森氏を攻めた
その後しばらく扇谷の側について戦いを進めた
このシナリオも十分考えられますね
でも、この当時の関東地方は
「昨日の友は今日の敵、今日の敵は明日の友」
のような状態で、親子兄弟の間でも家督をめぐって
それぞれが別の陣営に走ったり、協調して戦っていたりする
時代ですから、どちらの陣営にいたということは
それほど重要ではなかったと考えたほうが
よさそうですね
それよりも、古河公方、上杉氏をはじめ国人衆たちも
伊勢新九郎を新しい勢力としてよりも今川家の一武将
良くて家宰くらいにしか認識していなかった
と考えたほうがよさそうです
220 :
日本@名無史さん:02/10/19 22:49
ぐへへへ
また来ました。
>>218 大森藤頼のことはよくわかりません。
最初に読みました本に扇谷上杉家の家臣と紹介されていましたので、
私もその説を採用していますが、どちらでも構いませんよ。
新興勢力の伊勢新九郎が台頭できました理由は大体出尽くしましたね。
関八州の政局が有利に働いていますし、
今川家の政治力を背景に進出していますし、
何より新九朗自身が本当に怖いくらい鮮やかにやりのけています。
伊勢新九郎の行動全てが本物かどうか今となってはわかりませんが、
重要なことは、この行動こそが後の北条家の全ての始まりであり、
上杉謙信の死まで続く関東管領家との戦いの始まりでもあります。
北条家の果てし無い関東制覇の夢、全てはここから・・・♪
月星さん
もう一つ重要なファクターが有りますよ
関東進出の両輪のもう一方
政治力です
煽り半分、マジレス半分なんだが、月と星よりって井沢と一緒だな。
まず、〜ありきで、その大前提に都合のいいように史実を利用する。
1495年の小田原城奪取と1512年の岡崎城攻略までの
侵攻の手を休めている間
1506年 伊豆と相模西部の検地を行っています
これによって、伊豆と相模西部の領有を宣言した
といっても良いでしょう
両上杉氏が和解した背景には、この事が両氏に大きな
危機感を与えたということも要因の一つとして
考えてよいかと思います
北条氏の検地は総貫高制をとっています
具体的には、まず、郷村ごとに検地帳が作成されて
田畠の面積と年貢請負責任者が明確化されます
田一反あたり基準評価額五百文
畠一反あたり基準評価額百六十五文
が決められていて、田畠の総数に基準評価額を掛けた
ものが村高となり、給人の知行高となります
また一方で控除分も明確化し
公事免(領国全体の維持運営を負担するための控除)
井料(灌漑維持管理費用)
代官給等控除(現地管理者の給与)
などの基本的なもの以外に
郷村内の寺社の維持管理費なども認められていました
賦課は郷村単位に、村高から控除分を差し引いたものとなります
総貫高制ですが全銭納ではなく、現物納併用型だったようです
この検地の画期的な点は
1.領内の賦課を均一にしたこと
2.従来の棟別銭、段銭による徴収と違い安定した収税、納税である
3.間に領主や家臣を置かず、直接北条家と百姓の間の契約である
(百姓は、今の農民という意味ではなく、村長さんくらいの位置付けかな)
上に書いた分は、後の氏康時代のもので、新九郎が伊豆で行った
検地と税収システムが実際にはどうだったのか、探してみたけど
そのあたりを記述した資料がないので、一部推測が入っています
ただし、新九郎の伊豆相模検地に触発されるように、近隣の今川
武田両氏も、検地を進めていますから、新九郎の行った検地賦課
の体系が本格的なものであったと予想できます
基準評価額の数字あたりは違うかもしれませんが、全体的には
上記のようなものでよいと思います
誤解を招くといけないので、補足します
検地の方法は、後の太閤検地のような丈量検地ではなく、差出検地
(担当役人を交えての自己申告)がほとんどでした
また、検地自体は新九郎が始めて行ったものではなく、従来の
荘園公領制下でも、繰り返し行ってきたものです
比較に、荘園公領制度での検地と賦課システムの概要を書いておきます
税収の基本は棟別銭と段銭でした(他にも有るけど省略)
棟別銭は、一軒の家ごとに掛けられる一種の人頭税のようなもので
恒常的な税でした
人の転出が直接税収に影響するため、各領主たち(郡司や地頭)は
人の往来を規制し、領外への移住を禁止していました
段銭は、田圃の面積一反あたりに掛けられるもので、本来は
臨時徴収税のような性格のものでしたが、恒常的に賦課される税金に
変っていたようです
必要額を徴収するため、税率が一定しておらず、地域による格差も
存在しました
収税の基本単位は郡で郡司が徴収権限を持っており、実際の徴税は
各庄、院、郷などの地頭たちでした
>>222 あ、忘れていました。ははは。
>>223 井沢さんって一体?
史実を利用するは半分あっていますね。
私は歴史家ではありません。
ロマンがある方が面白いので私的に考えてやっています。(何を?)
ですから、小説の類は一切読みませんので王道から逸脱していると思いますよ。
史実から逸脱しないようにはしていますけどね〜。
>>225 丁寧に調べましたね〜。感服いたしました。
国を運営するということは今も昔もお金がかかります。
財力アップを考えていた人はたくさんいたと思いますが、
手段をしっかり考えていた人は少なかったのでしょうね。
太閤検地を実行した豊臣秀吉も、
その昔(さらに昔ですね。)は、
織田家の財力を上げるために炭の節約を図ったとか?
いつの時代も工夫した人が勝ち上がるということで。
>>224 の内容は、省略しすぎてなんか実態を表してないような
読み返してみると、なんか違うような、でも
詳しく書こうにも、データが少なすぎてよく分からない
そんな感じです
>>226 秀吉の件は、俗に言う『市場経済』『市場原理』を
導入したんですよね
炭や米の件、壁の修理の件なども単体で語られることが
多いのですが、秀吉が行ったことはほとんどの場合
市場原理を導入しているんですよね
それが当事の織田家家中で画期的だったんで
信長に目を掛けられたようなんですが
後年天下を取ったあと、首都大阪を商都にしたのも
そういう側面があると思います
内政に関しては、三代氏康時代の資料は少し有るので
そのときにチャンスがあれば書くかもしれません
ただ、新九郎の全半生は頃幕府の官僚で、ちょうど
応仁の乱前後に当たります
当事の近畿地方を中心とした西日本では
農民や、彼らを纏めた国人たちの独立の気運が
高まっていた時期で、幕府や、周辺の領主たちの
政策も従来とは変化して来ていたようです
伊豆、相模の統治に当たっては、このあたりのノウハウが
生かされていたことは、予想できます
ちなみに、新九郎が手に入れた伊豆、相模の国力を
書いときます
当時のものがないので、太閤検地の石高です
伊豆 6万9000石
相模 19万4000石
比較に、周辺地域の石高(同じく太閤検地石高)
武蔵 66万7000石
上野 49万6000石
まだまだ小さな勢力というか
前途に大きな希望が控えているというか
やっと関東計略の端緒に就いたところです
230 :
日本@名無史さん:02/10/23 15:31
また来ました。
>>228 本格的な領国経営は、二代目当主、北条氏綱の手腕が重要かな?
ちょっとだけ外交史。
初代の伊勢新九郎、二代目の北条氏綱、三代目の北条氏康、4代目の北条氏政、
そして五代目の北条氏直と百年の歴史を見ますと、
昨日の敵は今日の友ではありませんが、
めまぐるしく変わる政情に、戦国の世の無情を感じてしまいます。
この中で生き抜くには、
やはり外交が重要な鍵を握ることになるのでしょう。
伊勢新九郎は強大な関東管領両上杉家を相手によくがんばりました。
北条氏政も強大な関白豊臣秀吉を相手によくがんばりましたと考えると、
なんとなく無能の一言で片付けてしまうのは勿体無いですね。
結果の違いで評価が大きく変わってしまう、この現代的な考えが嫌いです。
>231
俺の考え方でしかないが、
氏政は早雲・氏綱・氏康と比べて、
資質に欠けていたわけではなく
時代の流れを読む能力が欠けていたから
低く評価されているんだと思う。
老大国率いて良くやったとも言えるけれどね。
新九郎の内政に関する資料がないかと思って
探したんですが、諦めました
どなたか資料お持ちの方、お願いします
ちょっとわかったことは
やはり後の氏康の時代に完成する北条氏の政策の
基本は、新九郎、氏綱時代に出来ているということと
一般に新九郎は五公五民の税制を四公六民にして
減税したように言われていますが、実際には
そんな単純なものではなく、実質増税だった
ということです
また来ました。
>>232 232番さんへ。
私は北条氏政の資質の評価は勿論、
時代の流れを読む能力もよかったと考えているのですよ。
(まあ、こんなことを考えている人はいないでしょうね。)
ただ、豊臣秀吉(苦労人)の資質が北条氏政(エリート)の資質より、
勝っていただけでしょう。
徳川家康(さらに苦労人)の資質はその上を行くようですが・・・。
戦国大名の誇りを持った北条氏政、
戦国大名の誇りを持たない(形振り構わない)豊臣秀吉、
カードの多い方が勝つということでしょうね。
老大国を率いてよくやりましたよね。
>>233 私は歴史家ではありませんので持っていません。
専門の人がいらっしゃるといいですね。
ところで二代目、北条氏綱の章はまだなのかな〜?
1518年 氏綱に家督を譲ります
これと前後して、有名な虎の印判を使い始めたと
言われています
これは、一度に大量の文章を処理するための技術で
新九郎や氏綱が直接百姓を統治し始めたため、年貢や
兵役等で大量の文書を扱い始めたためとされています
このあたりも、当事の京都周辺と幕府の影響を感じます
検地と同じく、ここでも北条氏による領民の直接統治
が新九郎、氏綱の時代から始まっていたと考えられます
検地にしろ、こうした直接統治は西日本、特に九州と
比較すると、びっくりですね
大友宗麟がうらやましがって、化けて出てきそうです
(このあたりは壷で、はまると長くなりそうなので
以下省略します)
そしてもう一つ、『早雲寺殿廿一箇条』の家訓を後の代に
残しています
一、可信佛神事 二、朝早可起事 三、夕早可寝事
四、手水事 五、拝事 六、刀衣裳事 七、結髪事
八、出仕事 九、受上意時事 十、不可爲時事
十一、諸事可任人事 十二、讀書事 十三、宿老祇候時禮義事
十四、不可申虚言事 十五、可學歌道事 十六、乗馬事
十七、可撰朋友事 十八、可修理四壁垣牆事 十九、門事
二十、火用心事 二十一、文武弓馬道事
気付いたとこだけ。
伊豆侵攻は将軍の代替わりの影響や疫病が流行っていたために、難なく成功するのは納得。
小田原城奪取は良く分からない(火牛の件も講談の世界だし)。大森氏自体箱根別当は氏頼の
叔父だし大山(山岳信仰の拠点…九州でいえば彦山?)も一族が支配していてかなりの支配力
があったはず。そう考えると代替わりだけで揺れるのかな?とはいえ、箱根別当が小田原城
攻略に協力しているから、家督争いも影響しているのかな?
大森氏があっさり滅亡かと思うと、真田城辺りに篭って反撃してるし。一回は小田原城を取
り返している(早雲の弟、伊勢弥次郎はこのとき戦死)。
相模の国人領主は少ないと思いませんか?三浦氏と大森氏だけ。松田氏も備中松田氏とか言
われてるし。相模が小さい国でも、もう2、3家ありそうなんですけど…。ここらは資料少
ないし…伝承が史実になってるとこがあるから…う〜ん。
>>234 実は氏政が北条家の中で一、二番目に苦労している(対抗は早雲)。
氏康時代までは衰退していく名家と争ってきたのが、初めて(伸び盛りの)新興勢力とぶつか
り合うのは氏政の時代。嫁は実家に帰される、弟・妹も政略の為に命を落とさせる決断をす
るわ。
問題があるとすれば…氏綱の遺言の、卑怯な戦いをして家を残す位なら正々堂々戦って滅亡
しろって奴。そのプライドが命取り。同じようなプライドの島津は生き残ってるのに…。
まあ、これは後々に…。
>>236 伊豆のほうは、当時山内上杉氏がほとんどの
国人層を武蔵中央部の戦いに動員していた
ようですし、堀越公方も京都からは官僚だけで
兵力はまったく連れて来ていなかったため
無人の荒野を行くが如しという状態で
制圧が出来たようです
伊豆は国力も小さいですし、大きな平野部がないため
大きな勢力が育たなかったので、今川氏の勢力と
ネームバリューを生かして、急を聞いて駆け戻ってきた
勢力を順次取り込んでいったようです
ただし、まったく無風で制圧できたわけではないようで
御所を追われた茶々丸は、甲斐、相模だけではなく
伊豆でも活動した形跡がありますし
権現山の敗戦時には伊豆でも戦いがあったと
されています
小田原城の奪取は大森氏頼が死去した次の
年を狙っています
跡を継いだ藤頼と箱根別当は兄弟なので
当時関東地方で大流行していた家督相続争いが
有ったのかもしれないですね
相模の諸勢力ですが
武蔵南部の猪俣党、相模西部の三浦党など
徒党を組んでいたようなので、一括して三浦氏で
くくられて、各個に表に出てこないのかもしれません
でも、権現山の戦いの際に新九郎は、上田政盛
のほかにも相模の国人層に内応の働きかけを
行っていたようなので、このあたりを調べれば
出てきそうです
240 :
日本@名無史さん:02/10/26 07:37
>234
時代の流れを読む能力が高かったら
秀吉にさっさと頭を垂れたでしょう。
ましてや、あんな籠城戦なんて・・・
まぁ、老大国ゆえの過ちかもしれませんが
それを補正できなかったのも、一流ではない証拠だと思う。
241 :
日本@名無史さん:02/10/26 09:22
二流でもまわりが三流だったから何とかやっていけてたというところでしょうか。
>>236 曽我・大和、あと上杉(宅間)ぐらい?>国人
二代目頭首 北条氏綱
父早雲と子氏康の両巨星の間に挟まれて目立たない存在で
あまりにも知名度が低いく、資料が少ないのですが
北条氏発展の基礎を作り、土台を固めたのはこの人であり
概略を見ただけでも、実は北条五代の中でも抜きん出た
存在であった事がしのばれます
1487年 氏綱誕生(仮名新九郎)
1512年 父早雲との連名での感状発給(これがデビュー)
1515年 相模小田原城にて嫡男氏康誕生(仮名新九郎)
1518年 伊勢家の家督を継承
1519年 父早雲逝去
駿河今川家で氏親の第三子満菊丸(後の義元)生まれる
1520年 小田原、鎌倉で検地を行う(代替わり検地)
1521年 甲斐武田家で嫡男太郎晴信(後の信玄)生まれる
1523年頃 伊勢より北条に改姓する(23〜24年)
1524年 武蔵高輪原の戦いで扇谷朝興を破る
以降、武蔵、相模を中心に扇谷朝興と全面戦争となる
1526年 安房の里見実尭が鎌倉を急襲
1530年 越後長尾家で虎千代(後の上杉謙信)生まれる
1533年 冷泉為和、小田原に来遊、歌会を開く
1534年 安房里見家の家督問題に介入、実尭の子義尭を支援
1535年 今川氏輝を支援し甲斐に侵攻するが隙を突いて扇谷朝興が相模に侵攻
氏綱、兵を返して武蔵入間川で扇谷勢を破り、河越城に迫る
1536年 今川氏輝逝去、花倉の乱起こり、梅岳承芳が後継と成る
還俗して将軍より偏諱を受け義元と名乗る
1537年 尾張の国で百姓弥右衛門に男子生まれる(困ったことだ)
今川家、突如甲斐武田家と同盟し駿河東部の北条領を奪う
氏綱、駿河に出兵し駿河東部を奪還(河東一乱)
以後今川氏、武田とも交戦状態となる
武蔵河越城にて扇谷朝興が逝去、朝定が継ぐ
上総武田氏に内訌が起こり、氏綱出兵するも
支援した峯上城が落城、武田隆信が小田原へ落ち来る
武蔵河越城を攻め扇谷朝定を松山城に追う
さらに松山城へ兵を進める
扇谷朝定、武蔵より退去し、山内家を頼る(年は不明)
1538年 下総葛西城を奪う
下総国府台の合戦で小弓公方義明親子を討ち、里見義尭を追う
氏康の次男(後の氏政)が小田原城で誕生
武蔵をほぼ掌握する
1539年 古河公方の嫡男晴氏と氏綱の娘の縁組がなる
1540年 鶴岡八幡宮の造営成り、遷宮する
1541年 甲斐武田信玄、父の信虎を追放し頭首となる
そして
同年 七月四日 氏綱、病の床にて出家、戒名は春松院殿快翁宗活大居士
同年 七月十四日 享年五十五歳で永眠
遺骸は父早雲の眠る箱根の早雲寺に葬られる
>>242 あと、鎌倉党の梶原姓諸氏が相模ではなかったかと思います
(横山、秩父、稲毛)
宅間氏と並んで上杉庶家の深谷氏の名前も見えます
相模三浦党で検索すると
和田、 佐原氏、津久井、芦名、岡崎、杉本、山口、大多和
多々良、大河戸、長井、杜、等の各氏の名前が見えます
当時どのくらい残っていたかは不明ですが
これらのうちの幾つかは残っていたと思います
*近藤氏が残っていたのは確認できています
小田原の近隣の大友郷、古庄郷です
勢力としては小さなものだったのですが
九州の大友氏の母体となった家で
俵(田原)の藤太からたどれる名門です
また来ました。
>>244 いよいよ北条氏綱の章に入りましたね。
扇谷上杉朝興はよくがんばっていたと思います。
(誰も賛成はしないと思いますが。)
高縄原合戦後、江戸城を失った扇谷上杉朝興は、
山内上杉憲房(1525年3月死去)と対北条同盟を結び共闘します。
最初は優勢に展開していましたが、
岩付城を失うなどすぐ劣勢に転じてしまいます。
しかし、白子原合戦は戦局を大きく変える一戦となり、
今度は北条家の方が劣勢に追い込まれます。
さらに房総の里見家が北条家に敵対するという展開は、
扇谷上杉朝興にとって有利に展開することができます。
247 :
日本@名無史さん:02/10/28 22:55
秩父と稲毛はいつから鎌倉党になったのさ
>>247 確かに、よく読んでみれば
秩父氏は文字どうり秩父党でした
稲毛氏は千葉党でした
ご指摘痛み入ります
鎌倉党はこちらが正解でした
(と断言してよいのかどうか)
長江・大庭・梶原・俣野・長尾の各氏
ただ、どのくらい相模に残っていたかは不明です
私が持っている程度の本では
氏綱に関してあまり触れられておらず
細かいところが見えてきません
何でこの人、実績の割りに語られることが少ないんでしょうか
早雲、氏康と比べても決して遜色ないように思えるんですが
また来ました。
>>248 北条氏綱について深く追及した本なんて見たことがありませんね。
どうします?
進められます?
いや稲毛氏も小山田流だから秩父党だよ
>>249 今、氏綱のアウトラインを見ています
たいしたものがないので、Netが中心になります
国府台とか部分的には詳しく語られているのですが
やっぱ、九州からじゃ判らない事が多すぎます
地形とか地名とかも、ただの記号にしか過ぎませんから
これが氏康の代になると、めったやたらと多くなるんで
こちらは、史実と講談ネタの分別が大変になりそうです
ゆっくりと調べてまとめて下さ〜い。
私、体調を崩していますので、その間に治したいと思いま〜す。
氏綱の代になって戦略的に変ってきた点は
早雲の代の、諸勢力の対立を利用して
その狭間に勢力を伸ばし扶養するという
戦略から、
完全に独立した一個の勢力としての拡大を
目指したということかと思います
顕著な例が、北条を自称したことでしょうし
本人は望んではいなかったでしょうが、結果的に
出来上がってしまった『全方位敵対外交』
等も、その表れかと考えられます
氏綱の戦略対象は扇谷上杉に絞られていたと思います
対上杉戦略として考えられるものに
1.伊勢から北条への改姓
2.本拠地を伊豆韮山から相模小田原へ移した
3.上杉に対抗する名声である古河公方に接近した
4.鶴岡八幡宮の再建を行った
後いろいろ有るんでしょうが
主要なところはこのあたりでしょうか
氏綱は伊勢から北条に改姓していますが
単に自称しただけでは、何の意味もありません
武力と経済力を背景に周囲の勢力に認めさせて
行ったわけです
このあたりを逆の視点(上杉など)から見てみると
何処の馬の骨とも知れない男(早雲)が、勢力争いの
隙間を就いて自分らの土地を奪い、さらにその子の代(氏綱)
になると、名門中の名門『北条』の名を自称するは
あろうことか、古河公方の縁戚にまで成り上がる
今風に考えれば、まさに『成金やくざ』そのもので
当時の人も、多分そう見ていたのではないかと
思います
氏綱が人気薄なのは、そんな当時の人たちの
感情が左右していたと思いますし
さらに、里見、今川等の家督継承に積極的に関与して
親北条国を作ろうとしますが、ことごとく失敗している
背景にも、周囲の各勢力が北条氏を『成金やくざ』と
観ていたであろうということが、伺えます
ありゃ
コピペに失敗して途中が抜けていますが
たいしたことは書いてないので
適当に読んでください
それと、『成金やくざ』は嫌いですが
氏綱は好きです
ただし
私が当時の関東地方に住んでいたら
嫌いだったでしょうが
256 :
日本@名無史さん:02/11/03 00:57
>255
俺は武蔵の生れだが、郷土の英雄だと思ってる。
武蔵といっても神奈川県だからね。
氏綱、氏政は参加した勝ち戦も多いし
内政も結果を出しているんだけれど
講談のネタになるような華がなくて損をしているね。
小机城跡をやっと見つけたので
近々見に行ってくる!
上杉家のようにゆるい支配体制で成長してきた関東の国人クラスには領国制で統治を行う北条氏の評判が良くないのは仕方がないこと。
当時の関東地方は文化、軍事力では優れていたが
文化、経済の面ではかなり後進地域であったようです
北条家はそんな関東地方に、都で培ってきた
領国制度を持ち込んできた
これが在地の国人たちに受け入れられたおかげで
急速に勢力を伸ばすことが出来たと考えられます
例えば、前に書いた税制の件ですが
よく言われている五公五民を四公六民にして
税負担を軽減したことが民意を得たことになっていますが
実際の北条氏の政策はかなりの増税だったようです
しかし、北条氏は領国の中での税の均一化を
行っていますし、税の明確化を進めています
このあたりが領民、国人層に支持されて領土の拡大に
繋がったものと思われます
あと、係争の調停(裁判)と土地所有の明確化、均一化
なども寄与しているように思います
>相模国人
ttp://www4.justnet.ne.jp/~kmamiya/fsubx1zz1kyuki.htm 相模衆十四家
間宮家。石巻家。安藤家。梶原家。大谷家。諏訪家。橋本家。
関家。福島家。中村家。酒和家。行方家。河村家。布施家。
この内、以下四家は相模じゃないと思う
間宮家→外戚の渋谷家領(河崎や横浜沿岸)継承だから武蔵
諏訪家→諏訪氏の築城伝説は横浜・川崎の北部や秩父地方に散見=武蔵
福島家→元今川家臣だから相模出身じゃない
行方家→元上杉家臣で館が大田区だから武蔵
>>258 北条や佐竹のように公家と婚を通じてる家もあるし
16世紀初期には連歌師も結構東国に来てる
南蛮文化には決定的な遅れがあったけど、日本伝来の文化って意味ではどう?
東国が文化に遅れた地なら、近畿以外ほとんど後進地じゃないすか?
>>259 まず農業だけど
平野部や河川流域の全面水田化が
濃尾平野に届いたのが16世紀当初でした
家康が江戸城に入ったときでも
まだ周囲は湿地帯と丘陵が多く見られた
となっています
又、農生産の向上によって農村も変化しており
近畿地方を中心に国一揆や土一揆など
守護や幕府権力から独立しようという動きが
活発化してきて
新しい村落、郷村へと脱皮しています
都市は
西日本では特に瀬戸内海の海運により
交易が盛んになり都市が形成されつつありました
また、都市に産業が集中するようになり
ちょっとした産業革命のようなものも起きています
農業の進化により、大量の食料を供給できるように
なったのも、都市の成長を助けています
関東地方では、北条氏が小田原に職人や商人を
集めたのが都市の始まりといってもよい状況でした
文化は
大陸、朝鮮や南蛮との交易ルートがやはり
瀬戸内海であったこともあって
文化の西高東低は必然でした
一方軍事力ですが
古くから関東の強兵は知られていましたが
これを支えていたのが、広い関東平野と
血縁を機軸に置く『党』の存在です
西日本では『党』に対して『一揆』という契約で
集団を形成していました
この違いを生んだのは、西日本と東日本の
地形もありますが、狩猟を中心としてきた
縄文文化と、農耕により社会を形成してきた
弥生文化の違いといわれています
特に関東地方は、広い平野に恵まれて
党の成長が進んだ土地です
また、広い土地では党の成長により
互いに領土が接するようになり、領土争いも
生まれてきて、強力な兵が育ってきます
農耕が浸透して来た後も、こうした風土が残り
関東の強兵が生まれたと考えられています
又、こうした風土が禅秀の乱以降も戦乱を
長引かせた原因とも取れます
なんだか乱文になってしまった
意味通じるかな??
262 :
日本@名無史さん:02/11/04 23:19
党と一揆の違いがよくわからないですが、
党=血縁関係の一族
一揆=血縁関係とは直接関係しない契約社会
ってことでいいですか?
>>262 党の語義は『一つの理念に集合した集団』
とか、何かそんな感じでしたが
この場合の党は、血縁を中心にすえた
部族社会というのが近いかもしれません
一方の一揆は、一つの目的を持って
一揆という契約を結んで集団を作る
事を言っています
で、党が関東地方だけのものかというと
そうではなく西日本にも数多く見られるのですが
東西を比較した場合に、関東地方の行動単位が
党であるのに対し、近畿を中心に西日本では
一揆による、契約集団を単位として
行動していることが多いということです
又、党は関東地方でいっそう発展している
世です
うーーーん、書いていて判り難くなっている
例えば、武蔵七党などを見れば、党の概略が
見えると思います
一方、応仁の乱前後に近畿地方で多発した
国人一揆、国一揆などを見れば
一揆の概要がつかめます
守護富樫氏を追放した加賀国人一揆とか
有名ですし
借金の棒引きを訴える為に結ばれた
徳政一揆などもあります
>>259 こういうのが有ると良いですね
ただ、九州からだとそれぞれの家の名前も
ただの記号にしか過ぎないのが悲しいですね
豊後の話だと、阿南家とか緒方家等の名前で
具体的なイメージが有るんですが
多分、神奈川あたりの人には
それぞれの名前で、ある程度イメージみたいなのが
有るんでしょうね
265 :
日本@名無史さん:02/11/05 18:26
百姓一揆
農地開発や江戸に関しても言いたい事がいくつかあるけど割愛
>>260 舶来文化が西高東低なのは当然ですが
こういった物は都市整備や文化の範疇に入りますか?
『2002年9月28日付
◆真壁城跡で戦国時代の水道管「木樋」出土
真壁町古城の国指定史跡「真壁城跡」を発掘、復元している同町教育委員会は
二十七日、戦国時代のものとみられる木製の水道管「木樋(もくひ)」が出土
したと発表した。今後、他の史跡からの出土状況によっては、戦国期のものと
しては全国初の発見となる可能性もあるという。』(以下略
関東武家出身のメジャーな画家としても、佐竹氏出身の雪村、小栗宗湛・宗継親子
上の真壁城戦国期の当主にも一族の画家が書いた肖像が
ttp://www.intio.or.jp/makabeht/newmakabejou.files/doumu.jpg この形式の肖像画は小田氏にもあって、当時関東(か常陸)で流行ってたそうです
(鷹や太刀、割られた杯について説明したHPがあった筈なんだけど忘れてしまいした)
つーことで関東武士の文化・教養レベルが低かったということには同意しかねます
関東地方に文化が無かったと言うんでは
なくて、
ちょうど東山文化と安土桃山文化の
継ぎ目に当たるんですが
やはり当時の文化の中心は
京都を中心とした近畿地方だと思います
今川氏なども積極的に京都の文化を取り入れていますし
一番積極的だったのが北条氏綱ではないかと
そう思います
氏綱の北条姓への改姓ですが
扇谷朝興より『他国之兇徒』と呼ばれたことに端を発して
上杉氏に対抗できる家格、つまり守護クラスより上の
格を持つ姓として『北条』を選び、これを名乗ったと
考えられています
しかし、伊勢と北条を比較して大きな差があるようには
思えません
伊勢氏は、幕府の中枢にあり、応仁の乱にあって将軍
管領等がめまぐるしく交替する中、終始実務の頂点で
幕府を切り盛りしてきた家ですし、早雲の姉妹である
北川殿が嫁いだ今川家は足利家の親族で吉良家に継ぐ
家格を誇る家です
伊勢姓のままでも十分に上杉姓と対抗できるように思いますし
逆に北条姓は、足利氏が討った敵の姓であり、、その姓を
名乗るということはリスクが伴うことでもあります
伊勢より北条への改姓はそれほどメリットがあるようには
見えません
あえて改姓した目的には、幕府との決別という意味も
あったのではないかと考えられます
伊豆、相模への進出に際して、幕府の手先として関東に
介入してきたという背景があり、少なくとも周囲はそういう見方を
していたのではないかと考えられますが
この改姓を機に、幕府や今川家とは独立した一個の勢力で
あることを宣言する目的もあったのではないかと考えられます
また、鎌倉北条氏が源氏を傀儡化して実権を握ったことに習って
古河公方を傀儡化して実権を握る為の遠謀とも取れます
現実に、娘を古河公方に嫁がせていますから
いずれにせよ、守護の下の国人層に対する働きかけと考えて
よいと思います
>>268 いや、伊勢は室町幕府の中枢の家柄なんだから、
家格はともかく関東の武士たちにとっては縁遠い存在じゃないか?
幕府からの独立というのも納得できるけど、
関東武士という観点からは北条>>>>>伊勢だと思う。
>>269 そうか、関東ブロックじゃ無名というか
逆に京都の息のかかったよそ者なのか
やっぱり、鶴岡八幡宮の再建とセットになっていた
と考える方が自然な感じかな
『鶴岡八幡宮再建+北条姓』で
関東の柱石としてデビューすることを宣言して
国人層にアピールした
二つのうちどちらがかけてもだめだったのでしょうね
ただ、この政策は成果も上がっているけど
敵もたくさん作ってますね
『北条』姓を名乗った為に管領、守護層から敵対視され
『鶴岡八幡宮再建』で領民たちからかなり怨嗟を買ってます
とことん国人層に対してアピールする政策だった様です
戦国大名の要諦を衝いた戦略と言えばそうなんですが
>268
>逆に北条姓は、足利氏が討った敵の姓であり、、その姓を
名乗るということはリスクが伴うことでもあります
北条への改姓が)
>鎌倉北条氏が源氏を傀儡化して実権を握ったことに習って
古河公方を傀儡化して実権を握る為の遠謀とも取れます
矛盾してない
お久しぶりです。また来ました。
レスは進んでいるみたいですが、
まだ、二代目当主の北条氏綱の話題でいいのですね。
よかった!間に合いました〜♪
文化面から考察した北条家の関東政策といったところでしょうか?
>>270 鶴岡八幡宮&北条姓で敵を作ることは、
最初から関八州(または関十州)を治めるつもりなら当然でしょうね。
関東管領や守護(戦国大名)からその治める土地を奪うのですからね。
領民からの怨嗟の声は別に気にするほどのことではないでしょう。
このことにより大規模な一揆や欠落が発生したことは無いようですし。
領民たちも安定した北条家を望んだのでしょう。(日々の暮らしのために。)
274 :
日本@名無史さん:02/11/18 16:44
275 :
日本@名無史さん:02/11/18 16:49
皆さーん
その昔、後北条氏研究会という団体があったがご存じですか?
>>272 安定した北条家というより
検地や税の一様化と領主たちの権限(不入り権)を
大幅に制限したことにより
領民が領主を選択することが出来なくなったという
事も考えられます
それと、鶴岡八幡と平行して各地の神社、仏閣に対しても
造営、改築を進めていますから
搾取されたという感覚を与えなかったということも
考えられます
>>274 274番さんへ。
世田谷新宿の楽市ですね。
北条家はこの他にも楽市を展開していますが、
楽市政策は北条氏政・氏直の時代のこと。
今川氏真はそれよりも前の1566年に楽市を開いています。
(でも、翌年、今川家は滅亡しますが・・・。)
六角家、織田家、豊臣家、徳川家の他には楽市を開いた戦国大名はいるのかな?
>>276 はいは〜い♪北条家の政治がいいかどうかは兎も角としまして、
当時の北条家の台頭は誰が見ましてもあきらか!
敵対国の両上杉家はひとつになって対抗しようとしましたし、
今川家、里見家も敵対行動を展開。(いろいろな思惑があるようですが・・・。)
そんな政情の中、領民も北条家を注目していたと思います。(根拠なしですが。)
それにしましてもこの北条氏綱、
第一次河東の乱、河越城攻略、第一次国府台合戦とこの戦歴は凄いですね〜♪
(あ、私、今川義元や里見義堯を高く評価していますので。)
また来ました。なんとなく前レス(
>>277)のつづきです。
今川義元と里見義堯は何故北条家に敵対していったのでしょうね?
今川義元は武田家と結び、里見義堯は小弓足利家と結び、
北条家に対抗しようと行動を起こすのですが、
実際は北条家の方が侵攻しているのも面白いですね。
先手必勝というところでしょうか?
以後、この政情は北条氏康の時代まで続きます。
>>267 そんなの当り前
>>259に東国が文化に遅れた地なら、近畿以外ほとんど後進地じゃないすか?
って書いてるし
早雲の子、氏綱・幻庵にお公家さんの娘が嫁いでるのも上杉対策なのかな
というか関白の娘を室にするのって凄すぎない?
今川・武田を除く関東の領主層の中ではかなり特殊じゃない?
関白近衛尚通の娘って本当に氏綱に嫁いだの?
コピペ
氏綱は、相模守護であった扇谷上杉朝興と、相模支配をめぐり激しく抗争するなかで
朝興の「他国の凶徒」論理に対抗して、氏を北条と改めているのである。この北条は
鎌倉幕府の執権北条氏につながるものであることは確かといえる。
282 :
日本@名無史さん:02/11/26 02:28
後北条氏に興味があります。
入門にお薦めの本がありましたら、教えてください。
age
286 :
日本@名無史さん:02/11/28 02:18
良かった
ダット落ちしてるのではないかと心配してました
287 :
日本@名無史さん:02/11/28 02:45
>>284 このスレ、戦国史研究会の関係者もカキコしているんだー
で、後北条氏研究会ってどうなっちゃったの
>>287 悪いが戦国史研究会の関係者ではない。
が、先に書いたように後北条氏研究会が範囲を広げていって
今の戦国史研究会になったはず。
289 :
日本@名無史さん:02/11/28 17:57
北条綱成の家臣にはどういった人がいたの?
290 :
日本@名無史さん:02/11/28 18:23
福島正則の父、権左衛門成金。
291 :
日本@名無史さん:02/11/28 18:25
はいはい。わかりました。
292 :
日本@名無史さん:02/11/28 20:22
>>290 291
自作自演かな?
事実ではないぞ。後北条氏研究会に入会して勉強しなさい。
293 :
日本@名無史さん:02/11/28 20:53
294 :
日本@名無史さん:02/12/01 16:49
295 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:12
296 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:41
あのですね、小田原近辺で珍しい苗字の家って,後北条遺臣の家だって話聞いたことあるけど,ホント?
うちの苗字も,珍しいんですけどどうなのかな?
ご先祖は足柄の方の出身で,明治になって横浜に出てきたらしいです。
それ以前はお寺の過去帳も戦災で焼けて良くわからないらしい。
297 :
日本@名無史さん:02/12/05 01:37
北条家臣に朝倉政元っていますよね。
朝倉孝景ー秀景ー政景ー政元ー政明
家中での役割とか、そもそも北条に仕えるに至った経緯等キボンヌ。
ちなみに子の政明は旗本。
298 :
日本@名無史さん:02/12/05 02:19
北条家には佐久間安政、勝之兄弟が仕えたりもする
299 :
日本@名無史さん:02/12/05 11:02
御宿勘兵衛って、北条家の遺臣だったんですか?
300 :
日本@名無史さん:02/12/05 12:05
>>298 佐久間安政って賤ヶ岳、雑賀攻め、小田原征伐とことごとく負け組に回ってるのに、
最後は3万石の大名になるんだよな
ある意味すごい
>>296 >うちの苗字も,珍しいんですけどどうなのかな?
あなたの苗字、ここで書かないと、解らないよ
>>296 「小田原衆所領役帳」(チョト漢字が違うかも?)
を見なさいな
北条氏康、武田信玄、斉藤道三、織田信長、…
こやつ等はある意味、馬鹿者だ。
戦は強かった、政治も上手かった、中には天下の7分にまで達したものもいた…
どっこいこれ等の家は江戸時代を迎えることなく滅びている。
後継ぎが愚息なら愚息で負けない、滅びない治国の方法を
残さなかったし、伝えなかった。親としては全員失格。
氏康のごときは滅びを予感しながら防ぐ手立てを考えられなかった。
そこへいくと流石は徳川家康、天下をとるだけの事はある。
たとえ家康なら天下はとれなくても家を滅ぼしはしなかったろう、
毛利のようにしていたのではないか?
勝者側の歴史だけで判断したらダメではないかな?
305 :
日本@名無史さん:02/12/06 07:56
>>301 やだ
知り合いが見たら絶対にばれるからやだ
>>302 サンクス
今,市立図書館のページに行ったらみつかったよ
小田原衆所領役帳
資料種別 和図書
書名 小田原衆所領役帳
著者 佐脇栄智/校注
出版社 東京堂出版
出版年月 1998.12
ページ 264p
大きさ 22cm
価格 9500円(税別)
一般注記 『戦国遺文 後北条氏編』別巻
内容注記 索引あり
ISBN 4-490-30546-X
分類記号 210.47
書誌番号 9810072586
コレでいいの?
索引がついてるからさくっと調べられるから良いネ
ご先祖の話もウチの一族の内輪話程度なんで,ほんとかナ〜と思いつつこの本で判ればウチの謎の出自が少しは判るかも
あっ、一応小瀬木には特別な喜哉はありません,確か。
306 :
日本@名無史さん:02/12/07 01:53
>>303 能力によらず、嫡男が家督を相続する。徳川幕府3代目で示された
政権安定のための相続方法。北条家と全く同じ。
308 :
日本@名無史さん:02/12/11 11:06
質問厨で申し訳ないけど、小田原篭城の時に名前が出てくる
水之尾口担当の北条氏忠
渋取口担当の内藤量豊
荻窪口・久野・井細田担当の長尾顕長・北条直重
酒匂口担当の上田朝広・北条繁広
それと山中城にいた朝倉能登守について教えてくれないだろうか?
309 :
日本@名無史さん:02/12/11 11:15
北条氏忠は北条一門
長尾顕長は由良一族
北条直重は千葉介を継いだ北条一門
上田朝広は上杉旧臣
北条繁広は玉縄北条
あと知らん
310 :
日本@名無史さん :02/12/12 22:33
内藤量豊は「景豊」だと思うけど津久井城主内藤氏らしいが詳細は不明
311 :
日本@名無史さん:02/12/20 00:23
>>305 あんたさんは、横浜市の市民ですね
横浜市図書館で検索しましたね
312 :
日本@名無史さん:02/12/20 01:33
もしも、北条家が秀吉に服従していたら、
家康より石高は上だったはず。
5大老の筆頭になっていた。
家康が天下を取る事もなかっただろう。
313 :
日本@名無史さん :02/12/20 01:45
>>312 服従した年代にもよるが、全て本領安堵になったかどうか、微妙な問題だよね
惣無事令が出された天正15年段階で服従していれば、可能性もあるが、
かなり所領を縮小されたと思うよ
土佐の長宗我部氏でさえも、土佐一国が安堵された例があるからね
それに、北条氏は簡単に秀吉に服従するつもりはなく、あくまでも臨戦態勢でいたからね
また、仮に服従していても、豊臣政権の中枢には入れないと思うよ
ましてや、五大老は全く無理でしょう
314 :
日本@名無史さん:02/12/20 02:10
おーい伊達は攻め取った会津以外は本領安堵されてるぞ
>>313 つーか長宗我部は豊臣に攻められて降伏したからだろ>土佐一国
北条が臣従した場合、島津と同じように兄弟で分割して安堵されると思うのだが
>>314 土佐の長宗我部氏のことは勘違いだわね
スマソ
316 :
日本@名無史さん:02/12/21 15:28
既出ならば、スマソ
早雲は無位無官と言われるけれども、氏綱以降氏直までは、左京太夫を称し、
また、氏康と氏政は受領名の相模守を称しているが、
これらは、正式に朝廷から任命されていたの
317 :
日本@名無史さん:02/12/22 01:12
伊達に攻め取られたまま会津を返してもらえなかった
蘆名義広は可哀想。
318 :
日本@名無史さん:02/12/22 01:36
北条はチョン
319 :
日本@名無史さん:02/12/22 06:12
>>316 氏綱は足利義晴と相婿になるはず
関白の娘を室にできるならそんくらい楽勝でしょ
>>317 そこらへんは義重と義宣の政治センスの差じゃないかな
321 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:16
保守
ホッシュ
密かに、あけましておめでとうございます♪
少し脱線しつつも北条氏康の話に突入していきます。
1541年に北条氏綱が死去しますと北条家に逆風が吹き始めていきます。
家督を継いだ嫡男北条氏康は試練の時を迎えます。
第一次河東の乱・河越城攻略・第一次国府台合戦、
北条氏綱に敗北した今川義元・扇谷上杉朝定・里見義堯らが北条家に反撃していきます。
さらに山内上杉憲政も好機とばかりに軍事行動を展開し、
甲斐の武田晴信も同盟国の今川家に同調していきます。
この四面楚歌の状態はやはり先代氏綱の軍事&外交の政策の副作用と考えていいでしょう。
いまだかつてない危機を北条家は迎えることになったのです。
つづき〜!
最初に動いたのは扇谷上杉朝定!
1541年、武蔵国河越城の奪還を目指すも撃退されてしまいます。
ですが、反北条家の諸国はこの頃から活発化していきます。
この情勢の打開を図ろうと動いたのは北条氏康!
1543年、上総国笹子城を攻略し房総半島に緊張が走ります。
1544年、安房国に侵攻し里見義堯と衝突します。
北条氏康は各個撃破を考えていたのかもしれません。
しかし、この状況を狙っていたかのように行動を起こしたのは今川義元!
1545年、駿河国駿東郡で武田晴信と共に軍事行動を展開。
さらに同年、武蔵国河越城において、山内上杉憲政と扇谷上杉朝定が包囲戦を展開し、
北条氏康は存亡の危機に立たされてしまいます。
つづき〜!
この状況下において、北条氏康の妹婿の古河公方足利晴氏の動向がにわかに注目されていきます。
(幕末維新の戊辰戦争における錦旗のようなモノかな?)
この過去の遺物である足利の名の権威が10月27日に反北条家を宣言することにより、
北条家は完全に関東で孤立することになります。
しかし、優勢であるにもかかわらず、この状況を喜ばない人物がいます。武田晴信であります。
自分には何も得ることのない合戦であり、
反対に同盟国の今川家の強大化を助けるだけに過ぎないことを彼は知っていました。
そして、8月からの長陣(今川家は7月から。)は財政的にも大きな負担となっていました。
ちなみに、武田晴信の1545年の軍事行動は、6月まで信濃国へ積極的に進行していました。
10月、駿東郡は今川家の領国へ組み込まれ、第二次河東の乱が終結します。
つづき〜!
今川家と北条家は和睦しましたが、だからといって西が安全になったわけではありません。
北条氏康は駿河国との国境に対今川家に対しての兵を、
他に、三浦半島にも対里見家に対しての兵をおきます。
残った兵を引き連れて、未だ包囲戦が展開されている河越城に出陣します。
しかし、足利・両上杉の関東連合軍は80000の兵力(と言われています)。
それに対して北条家の後詰の援軍は8000の兵力。河越城の城兵は3000の兵。
兵力の差は歴然としていますから、まともに戦っても勝てる訳がありません。
依然として、北条家の苦しい展開が続きます。
つづき〜!
1546年4月20日、後に『河越の夜戦』と呼ばれる一大合戦が展開され、
北条氏康は大逆転の勝利を収め、関東の覇王となります。
ところで、何故、勝利できたのでしょう?
当然、兵数の誇張はあると思われますが(兵站という考えがないこの時期に兵80000は難しい。)、
北条家の劣勢であることは変わりありません。
勝利の要因は?
@士気
足利・両上杉の関東連合軍は1545年9月から(足利軍は10月から。)、約半年間の包囲戦を展開。
しかも内容は無理な力攻めを避けての兵糧攻め、覚悟の戦という訳ではなくなっていました。
多分、敵地ということもあって兵の規律も悪かったと思います。
略奪強盗に明け暮れていたのであれば、戦の意義は薄れてしまいます。
それに対して北条後詰軍は1546年4月に出陣し士気は高いと思います。
北条篭城軍の方も『援軍到着す!』の方に士気が上がったと思われます。
A作戦
足利・両上杉の関東連合軍は兵数にものをいわせた包囲作戦を展開し工夫が見つかりませんが、
北条軍は和睦を請い、勝てる訳が無いという演技を見せます。
出陣しても合戦を避け逃げ惑う行動に徹し(稲荷山の小競り合い。)、
やはり勝てる訳無いという演技をし続けます。
まさか北条軍が戦を仕掛けてくるなど思いもしなかったでしょうね。
B合戦
『夜戦』とは言っても闇夜で戦いますと同士討ちの可能性が高くなりますので、
東の空が明るくなる明け方の襲撃と思います。
攻めてくる訳が無いと思って寝ている兵士達に戦の術は無かったと思います。
兵80000の大軍も眠っていては勝てる訳がありません。
長くなりますので3つで終わりますね。
『待ちの戦』というのかな?心理戦の面白い所ですね。
余談ですが、この時の敗軍側の評価は酷いものになってしまいます。
私がもし、上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏と共に河越城を包囲する側の人間なら、
一緒に敗走しているか、討死しているような気がします。(笑)
なんか、ここまで真面目に書いているのに
無反応というのも寂しいのでレス。
夜戦じゃないと言う説もないですか?
月星さんの邪魔しちゃ悪いかと思って…>無反応
合戦前の情報戦で北条有利になってたんじゃないでしょうか?
330 :
日本@名無史さん :03/01/11 15:21
この連載、何時まで続くの?
北条五代史を執筆するつもりのな
>329
でも、見ていて寂しいから・・・
ソースは忘れたんだけれど、
川越の夜戦は、夜戦だった証拠がない。
夜戦じゃなかったとした方が辻褄が合う。
と言った、説を見たことがあるのです。
(^^)
333 :
日本@名無史さん:03/01/11 19:56
ちゃんと見てますよ〜〜!
皆さんほど詳しくので、あまりコメントできないですけど。
あらら、バレちゃいましたね。(『バレていましたね。』という方が正しいのかな?)
>>328 夜戦のこと・・・夜戦の方がカッコイイので〜♪(笑)
>>329 情報戦のこと・・初めから圧倒的な軍勢ですから北条家も頭を使ったということでしょう。
>>330 いつまで・・・・気まぐれですから〜!(私もわかりません。)
>>333 がんばります〜。
つづき〜!
『河越の夜戦』・・・この戦で山内上杉憲政は敗走し、扇谷上杉朝定は戦死してしまいます。
古河公方足利晴氏も北条綱成に追い散らされてしまいます。(古河へ敗走。)
北条氏康はさらに兵を進め松山城を奪取し、敗者の上杉憲政を上野国へ走らせてしまいます。
翌年、松山城は太田資正により奪還されますが、
上杉憲政は武田晴信の信濃侵攻に巻き込まれてしまい、
1547年、小田井原合戦と志賀城陥落という負け戦をしてしまいます。
そんな状況を見て、滝山城の大石定久、天神山城の藤田泰邦らが北条家の軍門に下ります。
また、一時奪われていました松山城も上田朝直の内応で再び取り戻しますと、
岩付城の太田資正も抵抗を諦めて軍門に下ります。
その後、忍城の成田長泰も北条家の傘下に入り、武蔵国は北条家の領国になります。
北条家の台頭と足利家・両上杉家の没落、明暗を分けた戦となりました。
つづき〜!
滅びへの道を進み行く関東管領上杉憲政には、もはや未来はありませんでした。
1552年(?)、北条家に居城平井城を攻め込まれて関東管領上杉家は滅亡します。
上杉憲政は、何故か越後国の長尾景虎の所へ落ち延びます。
この頃の越後国は混乱していると判断していいでしょう。(私的にですが。)
越後の守護は上杉定美です。
しかし、越後国の運営は守護代の長尾家が執り行っていました。
その長尾家も守護代の長尾晴景と弟の長尾景虎が対立し、
1548年、兄の晴景は弟の景虎に守護代の職を譲り退きます。
1550年、越後の守護である上杉定美が死去しますと越後の国主という地位に就きます。
ところがここで問題が発生します。
前守護代の長尾晴景派の長尾房長・政景の父子が長尾景虎に反旗を翻します。
1551年、この戦は和議が成立し混乱は収まりましたが、
この頃の越後は決して頼りになる国ではなかったのです。
そんな国に何故?
正直、この時期では他の国も便りになることはなかったと思いますが、
同じ関東の名門の佐竹義昭や同じ反北条を掲げる里見義堯、
奥州ではありますが大国の蘆名盛氏のところでもよかったのに。
おまけ〜!
注、この書き込みの内容は読む必要がありません。
零落れた関東管領を越後国の長尾景虎のところへ敗走することにより誰が得するのか?
この時期ではなかなか分かりませが、これからの歴史に目を向けると見えてくるのかも。
甲斐国の武田晴信。
信濃を平定した後、己の野心に燃える晴信は、
長尾景虎がこれから自分に敵対する注意人物ということを意識していたのかもしれません。
そして、武田家には恐ろしい武将がいます。真田幸隆。
彼は謀将であり、また、上野国の政情を熟知しています。
真田幸隆の活躍が表に出るのは、関東管領が越後に落ち延びた一年後、
1553年、戸石城攻略。後に『戸石崩れ』と呼ばれる合戦です。
純粋な正義を実行しようとする寺育ちの影響か?
長尾景虎は関東を掠め盗った北条家を敵視することだろうと考えての策謀なら面白いのに。
信濃国の小笠原長時や村上義清といった人たちも上杉憲政に倣った行動と考えますと面白いかな?
>336
幸隆の戸石城奪取と、戸石崩れは別だよ。
そうでした。ご指摘サンクス♪
339 :
日本@名無史さん:03/01/13 09:45
早逝した北条氏康の嫡男(氏政ではなく)、
新九郎についてご存知の方
いらっしゃいますか?
>河越夜戦
私の聞いた話では上杉方の兵力は3万だったと思うのですが。
まーソースが不明なんで聞き流してください。
河越夜戦は何度かにわたって行われた戦闘を一夜に凝縮した伝説だ、という話もありますね。
良スレですね。
楽しく読ませていただきました。
>312
「秀吉に服従していたら…」という仮定は大変興味深いもの。
「関が原で西軍が勝っていたら…」以上に大きく歴史の流れを変えたでしょう。
個人的には
服従⇒本領安堵⇒五大老(六大老?)入り
って考えてます。
最終的に家康が天下を取るにしても江戸幕府ならぬ、駿河幕府になってたかも!?
342 :
日本@名無史さん:03/01/13 13:09
北条早雲は亡命朝鮮人ですた。
343 :
日本@名無史さん:03/01/13 13:26
344 :
日本@名無史さん:03/01/13 14:33
342=343
345 :
日本@名無史さん:03/01/13 17:15
電波がいっぱいだな
346 :
日本@名無史さん:03/01/13 18:44
ひきこもり
今川氏と北条氏が大名として対等に付き合い始めたのはいつ頃でつか??
348 :
日本@名無史さん:03/01/13 20:18
>>342 それ漏れも聞いたことがある。
そういう説もあるらしいね。
詳しくは知らないけど。
来ました〜!
>>339 新九郎(天用院)について・・・名前なら知っています。1552年頃、死去?
>>340 河越の夜戦について・・・兵数80000の食料を補うのは難しいでしょうね。正確な数字は不明。
>>347 今川氏と北条氏・・・対等に付き合い始めるのは1537年第一次河東の乱からと言われています。
つづき〜!
北条家の北の敵対国、関東管領上杉家は関東の地より滅び去りましたが、
何故か北条家の北進は止まります。理由は南の敵対国、今川家の存在にあるのかな?
(実際北進しても、箕輪城の長野業正がいますので、簡単には成功しないでしょうね。)
1554年、遥か西、尾張・三河の国境付近の村木城(付城)で軍事衝突が起こります。
今川家の軍事行動に織田信長が出陣し、村木城の救援のために今川義元が後詰として出陣します。
その行動を見計らって北条氏康が駿河国駿東郡に侵攻します。
この一報に武田晴信が救援し、今川義元も東に反転し対陣します。
ところで、織田信長は後詰が来ないことが分かると村木城を一気に攻め落とします。
この時期、尾張は混乱期にありましたので、北条家に救われた形になります。
傅役の平手政秀は諌死し、鳴海城の山口教継が今川家に通じて反旗を翻し、
こんな時期に今川義元の大規模な軍事行動が行われていましたら、
確実に滅ぼされていたことでしょうね。
チョン氏ね
>あらら、バレちゃいましたね。(『バレていましたね。』という方が正しいのかな?)
ごめん。ほんっっとうに意味が分からない。何がバレちゃっ(て)たの?
『328が自己レスなのがバレた』→328に対してレスしてるから違う。
『名無しでレスしていたのにコテハンだとバレた』→323〜327まで署名入りだから違う。
一体何がバレたんだ?????
長いこと月星さん書いてなかったじゃん?
(つか、あんま人も来てなかったでしょ)
沈みゆくように見えるスレにひっそりと月星さんがカキコしたのを、
見てる人がいたんですね〜というくらいの意味で言ったのだと。
違うかな? スレ汚しスマソ。
来ました〜!
>>351 誰もいなくなったと思いまして、1月7日からひたすら好き勝手に書き込んでいました。
でも、1月11日にその書き込み行動がバレてしまいました。
よく文を読んでみますとみなさん知っていたようですから、
『(ず〜っと前から)バレていましたね。』という文を書いた訳になります。
>>352 沈み逝くように見えるスレ・・・かなりいい感じで沈んでいましたから。(笑)
>353
Aboneとか使っていると、
sageでもレスついたの判るから(笑
つづき〜!
1554年、第三次河東の乱が展開されます。
しかし、今回はいつもと様子が違っていました。
お互いに軍事衝突を避けた行動をしています。
武田家は前回と同様、この軍事行動に自国の利益があるとは考えていません。
さらに前年、長尾景虎と第一次川中島合戦を展開し、
信濃国平定戦に全力を尽くしたいと考えています。
今川家も三河国を平定しますと尾張国に目を向けたいと考えるようになります。
村木城についてもその軍事行動のひとつであります。
北条家の方にも事情があります。
無主の上野国を平定したいと考えていますし、
古河公方足利晴氏の処遇や佐竹家や里見家の対策もあります。
ただ、北条家の出発地である駿東郡ということと、
そして、今川家に負けっぱなしということが、
今回の軍事作戦につながったと思います。(説得力はありません。)
このような状況下で、あの有名な『善徳寺の会盟』が行われます。
甲相駿三国同盟成立。
背後の安全を確保した三者は、以後、己の野心のためにそれぞれの道を進みます。
ここでしばらくお休みします〜!
(^^)
357 :
日本@名無史さん:03/01/16 11:06
>>355 >あの有名な『善徳寺の会盟』が行われます。
↑架空の出来事と聞いているけど、事実なの?
三国同盟自体は史実だろうけれども、氏康・信玄・義元が会盟した事実は無いと聞いた
沈んでますね・・・。
初めまして、通りすがりの北条ファンっす。
ちょいとおじゃまします。
>>357 善徳寺の会盟については
どれも江戸時代に成立した文書(関八州古戦録など)に
記載されているのみ、
また三国同盟の一、武田側の資料ではほとんど触れられることもなく、
かなり創作臭いです。
あと、蛇足ながら
この三国同盟で誕生したカップルにどなた様もご祝福を。
今川氏真 − 早河殿(北条氏康の娘)
北条氏政 − 黄梅院殿(武田信玄の娘)
武田義信 − 嶺松院殿(今川義元の娘) ただし、三国同盟に先立つ天文21年
余談ですが、周知の通り氏政・義信夫妻は三国同盟消滅と共に破局になりますが、
氏真夫妻は最後まで添い遂げました。
慶長17年江戸で夫・氏真が死に、早川殿も翌年後を追うように江戸市内で息を引き取りました。
360 :
日本@名無史さん:03/02/01 16:04
昭和〜平成の政治家でいえば、どんな香具師に相当するのかなぁ
おひさー♪
甲相駿三国同盟が成立しますと北条家はすぐに行動を起こします。
その矛先は古河公方足利家に向けられます。
足利晴氏は北条家により幽閉され、これにより河越夜戦の敗将たちは関東の地から消滅します。
里見家が再び北条家と衝突を起こします。
三浦沖海戦、勝敗の行方は里見家が撃退されたということにします。
海老ヶ嶋合戦と宇都宮城合戦が、この頃の関東での大きな合戦になりますが、
北条家にとってどう関わるのかは正直わかりません。
ただ、佐竹家、宇都宮家、里見家、は勿論、
千葉家、小田家、結城家、小山家、壬生家、皆川家という勢力までが、
古河公方足利家消滅後の政局をどう乗り切ろうとしていたのか。
難しい選択を迫られていたと思います。
名を取り滅びの道を歩むのか。
名を捨て生きる道を歩むのか。
しかも時は待ってはくれません。北条家がついに動きます。
そして狙われたのは里見家。1560年4月の頃か。
甲相駿三国同盟の成立と古河公方足利家の幽閉から、上杉政虎の関東管領職の就任まで。
この期間、北条家以外の関東の諸勢力の動向が知りたいですね。
大体の流れはわかるのですが、いくつかの合戦が不明です。
でも、こんなところにこだわっていますと先に進まないですね。
つづき〜!
甲相駿三国同盟締結その後。
☆北条氏康
1554年、古河公方足利晴氏を幽閉する。
1556年、三浦沖海戦で里見義堯を撃退する。
海老ヶ嶋合戦で結城家・北条家の連合軍が小田家に勝利する。
1557年、宇都宮城合戦。宇都宮家・佐竹家・北条家(?)の連合軍が壬生家に勝利する。
この時期の佐竹家の動向が気になりますね。
小田家との友好関係。宇都宮広綱との婚姻関係。
☆武田晴信
1554年、木曾福島を攻略する。木曾義康が軍門に下る。
1555年、第二次川中島合戦で長尾景虎と対陣する。
1557年、第三次川中島合戦で長尾景虎と対陣する。
☆今川義元
1554年、村木城合戦。(甲相駿三国同盟以前のこと。)
????年、奥三河(田峰・長篠・作手)平定政策。(かなりの期間をかけています。)
1558年、寺部合戦。(今川家に反旗を翻した鈴木氏を討伐する。)
実は、積極的な軍事行動はあまり見られません。空白の5年間と言えますね。理由はわかりません。
1560年の北条家の里見家討伐遠征や今川家の桶狭間合戦に向けての準備かな?
武田家も翌年の第四次川中島合戦では大規模な軍事作戦を展開していますし。(させられたかな?)
まあ、どちらにしましても1560年を境に戦国時代は大きく動きます。
つづき〜!
を書こうと思いましたが止めにします。
第一次小田原城包囲は有名過ぎますから書いてもね。
さて、長尾景虎が関東遠征を実行します。
関東の諸将は越後軍に参加します。
しかし、北条家傘下の太田資正・成田長泰が離反して長尾越後軍に合流し、
その下での武勇目覚しい働きは有名ですが、
里見家・佐竹家・宇都宮家は話題にあまり出てきませんね。
思いますに、これら関東の諸勢力としては、北条家が滅亡すればそれでよし。
それより、長尾越後軍が反北条派として、
自分達のために動いてくれたという事実の方が重要に思えます。
これで、北条家は長尾越後軍に目を向けざるをえない状況と
自分達に目を向けている場合ではない状況を作り上げることに成功します。
里見家・佐竹家・宇都宮家は実力を蓄えることができるようになります。
千葉家や小田家は北条家の軍門に下ることで里見家・佐竹家に対抗しようとします。
結城家・小山家はもっと複雑で、北条家と長尾家の対策に苦慮します。
里見家は国力が充実しますと1564年に第二次国府台合戦を起こしますが敗戦。
佐竹家は佐竹義重の登場により常陸統一の道を進めます。(小田家との衝突。)
宇都宮家はよくわかりませんが佐竹家と歩調を合わせて国力の充実を図っているのかな?
北条家と長尾家の戦いの影に彼らの戦いもあったわけです。
いつも楽しく読ませてもらっています。
がんばって下さい。
月星さん、いつも楽しみにさせてもらってます。
あれだけ権勢を誇った足利氏も本家ともに、なんだか儚いですね…時代、ですか。
来ました〜♪
>>364 はい!しばらくはがんばりま〜す♪
>>365 足利家は勿論、今川家・武田家・北条家・織田家・豊臣家も儚いですよね♪
でも、その儚さが好きです〜☆
つづき〜!
第一次小田原城包囲が成功か失敗かはさて置き、
上杉政虎は関東に任せられる人物を配置していません。
厩橋城には配下の北条高広を置きます。
松山城には上杉憲勝を置き、岩付城の太田資正が援護します。
古河城には足利藤氏・近衛前久・上杉憲政を据え、関宿城の簗田晴助が支えます。
このあたりに、上杉政虎の考えが見え隠れします。
よく言われる『領土的野心が無い。』というよりは、
『越後軍を関東に割きたくなかった。』というところが本音かな?
何故なら、上杉政虎の敵は北条家だけではないから。
甲斐の武田晴信。敵はもう一人いたからです。
武田家と対等に戦うには越後軍を分割する訳にはいきません。
北条家と武田家の両方に対抗する限界ですね。
このことを理解していたからこそ、
上杉政虎は領土拡張をしなかったのでしょう。
そして、北条氏康と武田晴信も連携した軍事行動を展開したのでしょう。
上杉政虎にとって運がよかったのは、
北条氏康・武田晴信の二人ともが越後に関心を示さなかったこと。
もし、二人がかりで攻められましたら厳しかったでしょう。
いつものことですが、こんな考え方の人なんていませんよね。(笑)
>366
ここまで来たら、旗本になった残党まで語ろうね(w
謙信に領土的野心がないって本当かな?
越後の兵を分けたくなかったってのは、
地勢的に賛成します。
来ました〜♪
>>367 『上杉政虎に領土的野心が無い。』
歴史家の人たちはこう考えるでしょうね。
(それではつまらないということでの新説です。)
つづき〜!
さて、そろそろ北条氏康のお話に戻るとします。
まず、北条氏康の目標!
上杉憲勝の松山城・太田資正の岩付城・足利藤氏の古河城・簗田晴助の関宿城を奪還すること。
1562年、古河城を攻略。
1563年、松山城を攻略。(武田信玄と共同作戦。)
1564年、第二次国府台合戦で里見義堯・義弘を打ち破る。
そして同年、岩付城が北条家の傘下に入り、太田資正が追放される。
1565年、第一次関宿城合戦。
こんな感じで着実に領土を再平定しています。
それに対して、上杉輝虎も関東遠征を毎年実行しています。
しかし、北条氏康との直接対決はありません。
(北条氏康・上杉輝虎の双方に対決する意志がないですからね。)
佐野昌綱・由良成繁・小山秀綱・小田氏治・原胤貞といった小勢力を討伐しますが、
実利はなく、関東における勢力圏は徐々に後退していきます。
関東における北条家と上杉家の勝負は見えてきたように思われます。
しかし、この抗争は意外な方向へ展開していきます。
1565年、武田義信謀反失敗。
1568年、武田信玄、第一次駿河侵攻。
この状況を支えていた、甲相駿三国同盟は崩壊します。
つづき〜♪
1566年、金山城の由良成繁が上杉家に叛し北条家に属す。武田信玄、箕輪城を攻略。
1567年、上杉家の家臣である厩橋城の北条高広が上杉輝虎に叛し北条家に属す。(?)
これらの出来事は上杉家の関東計略に大きな打撃を与えることになります。
こう見ますと北条家に都合よく聞こえますが、実際は行き詰まりを見せ始めています。
対上杉家との抗争は勝利を収めていますが、多方面の戦局は思わしくありません。
1567年、三船台合戦で里見家に敗退します。
1568年、第二次関宿城合戦も翌年には中止になります。(越相同盟のため。)
この二つの合戦は以外に大きな負け戦かもしれませんね。
つづき〜♪(前編)
いくら関東平定戦が行き詰まっても、
対上杉家との抗争が収まれば国力が違いますから問題がありません。
しかし、北条氏康は関東平定戦に集中することはもうありません。
1568年3月、今川氏真の祖母、寿桂尼が死去します。
その年、この時を待っていたかのように武田信玄の第一次駿河侵攻が展開されます。
北条氏康は今川家に援軍を送ります。北条家四代目当主北条氏政が派遣されます。
1569年、第二次サッタ峠合戦(対陣)で北条氏政は武田信玄を甲斐に追い返します。
しかし、第二次駿河侵攻、さらに、第二次小田原城包囲、三増峠合戦と戦いの連続になります。
さらに、つづき〜!(後編)
ところで、北条氏康は武田信玄と決戦をするつもりで三増峠に出陣します。
『小田原城に篭城!』はよく出る話ですが、そんなに簡単な話ではないかなと思います。
あ、この話は別の機会に書くとします。
ただ北条氏康としては、余命を対武田家作戦に費やすことにし、
命尽きるまで武田信玄との死闘を展開することになります。
今日は何故かな?長文が書けない。
前後編になってしまいました。
『北条氏康』の章ももうすぐ終わります。
誰か『北条氏政』の章を書かないかな?
373 :
日本@名無史さん:03/02/08 11:34
>372
いえいえ、ここまでまとめられると
跡を継ぐのは怖くて出来ないです。
>1568年3月、今川氏真の祖母、寿桂尼が死去します。
>その年、この時を待っていたかのように武田信玄の第一次駿河侵攻が展開されます。
関係あるのかな?
374 :
日本@名無史さん:03/02/08 12:02
べつに、原稿の締め切り日があるわけでもないのだから
ずーと続けられたどうですか
現在読んでいる本や興味の対象のせいか、
北条氏好きなんだけど氏政以降についてはさっぱりです。
こちらのスレはとても勉強になるし氏政以降も楽しみにしてるので。
是非続けてくださいな。
来ました〜♪
>>373 &
>>374 『伊勢新九郎』の章と『北条氏綱』の章は別の人が担当しています。
私は前章と違う進め方で書いています。決まりは無いですよ。
それに、私が『北条氏政』の章を書きますと暴走します。(笑)
文献で歴史を語りますと『寿桂尼』一人に注目されることは無いでしょう。
武田家の政策も難しい時期です。
1564年、第五次川中島合戦。
1565年、東美濃で織田家と紛争。(?)
倉賀野城を攻略。
嫡男義信の謀叛が発覚。(?)
甲尾同盟成立。
1566年、箕輪城を攻略。
1567年、惣社城(前橋市)を攻略。
嫡男義信、幽閉中に死去。
今川氏真の塩止め。
今川氏真に不利な状況へ、そして、織田信長に有利な状況へ展開していきます。
余談ですが、上杉輝虎の方は由良成繁の離反と箕輪城陥落で打撃を受けている最中です。
武田信玄は効率のよい戦略(負けない戦)を心掛ける人と思います。
今川家の弱体化を考えるのでしたら、
寿桂尼の死、今川家臣団の内応、徳川家康との同盟は必要かなと思います。
>376
シンプルな話でしたか。
何か裏があるのかと深読みしてました。
わざわざ詳細にスマソです。
>>375 ごめんなさい。擦れ違ってしまいました。
でも、私の書くことを信じてはいけませんよ。(一般的な考えではありません。)
願わくは調べた方が楽しいですよ。(笑)
>>377 考えられることは多々ありますが暴走しすぎてもね。(今でも充分暴走していますが。)
>379
個人的には、北条家はこの先傾いていくので
暴走したほうを聞きたいけれど
それは一通り語ってからに期待します(w
つづき〜!(前編)
第二次小田原城包囲と三増峠合戦について。
1569年、武田信玄は第二次駿河侵攻を展開します。
しかし、成果を得ることができません。
駿河・伊豆方面に軍事行動を展開している北条家の背後、
上野方面から侵攻して小田原城を攻める作戦を立案します。
この作戦は名案と思います。しかし、武田信玄に予想もしない出来事が発生します。
どうやら台風が関東の地を襲ったようです。
水害のため行軍が制約され、兵糧も現地調達が不可能になります。
7月の軍事作戦が9月に延期されることになります。
鉢形城・滝山城に攻めますがほとんど素通りしているのは、
『冬』の到来を恐れたためかと思います。
それでも、小田原城を包囲し始めたのは10月初旬、冬の足音が聞こえ始めています。
さらに、つづき〜!(中編)
武田信玄の問題点。
@兵站線の確保。
この時代では補給路という概念が無さそうですから、それほど重要ではないかな。
(補給路の重要性を意識した当時の代表的な人は石田三成かな。)
退路の確保といった方がいいのかな。(退却想定の遠征。)
A北条家の支城の軍事力。
滝山城の北条氏照、鉢形城の北条氏邦を中心とした勢力が、
敏速に軍事行動を展開しています。(短期間で三増峠に軍勢二万を集結。)
背後を衝かれましたら負け戦は必定。
B『冬』の到来。
上杉輝虎のように一ヶ月も包囲戦を展開しましたら、
甲斐に帰れなくなるかもしれません。(こんなことは考えていませんが。)
この合戦はいつ撤退を開始するのかが本当の勝負になります。
これは武田信玄だけが考えていた訳ではありません。
北条氏康も同じことを考えています。
もう一つ、つづき〜!(後編)
この合戦の本当の戦いはここからです。
北条氏康は小田原直属軍と北条氏照と北条氏邦の連合軍とで、
武田信玄を前後から挟み撃ちにすることを考えて展開しています。
武田信玄も二・三日で小田原城包囲を解いて撤退を開始します。
甲斐への退路の方は、
駿河方面経由は北条家と旧今川家の軍勢が展開中ですし、
武田信玄が考えている駿河の北条家の軍勢を関東に戻すという作戦の意味がなくなります。
上野方面経由はあまりにも長い退路ですし、北条家の支城がそのまま残っています。
小荷駄隊を連れての撤退は難しいですし、兵糧の獲得もままなりません。
もともと武田信玄には勝ち戦をするための戦いではなかったのかもしれません。
早急に脱出する!
この相模から甲斐へ直接撤退する方法しかないと思います。
そして、この考えは北条氏康も簡単に想像でします。
北条氏照と北条氏邦の軍勢の建て直しの早さと機敏な行動は前もっての作戦かもしれません。
前回の第一次小田原城包囲では追撃戦を実行しませんでしたが、
今回は追撃戦をやる気で行動しています。
しかし、あまり早い追撃戦は武田信玄に有利になります。
武田信玄も熟慮しての行動、追撃軍を迎え撃つ気でいたことでしょう。
(後年、三方ヶ原合戦で追撃してきた徳川家康を見事撃破できたのはここが原点かもしれませんね。)
そして、第四次川中島合戦で重臣達を失った苦い経験を思い出していたかもしれません。
挟み撃ちの作戦が上杉政虎(輝虎)の猛攻で逃げられてしまったことを・・・。
武田信玄は北条氏照・北条氏邦の連合軍を激しい戦いで撃破します。
ここで、北条氏康本軍を待って雌雄を決してもよかったのに急ぎ撤退しています。
武田信玄は北条氏康との決戦を避けたのです。
(それが目的ではなかったのかな?それとも、負け戦になると思ったのかな?)
北条氏康は武田信玄との決戦を望んでいましたが、もはやここまで。
自分が生きている時に二度と武田信玄が関東に侵攻することがないと悟ったことでしょう。
おまけ〜!
第二次小田原城包囲と三増峠合戦。この戦いと第四次川中島合戦はよく似ています。
挟撃戦(追撃戦)と退却戦の軍事作戦ですしね。
☆第四次川中島合戦。
@攻めてきた上杉軍が退却。
A負けはしませんでしたが武田軍は甚大な被害を被っています。(重臣達の戦死。)
B攻めた上杉軍は領土を獲得できていません。
☆第二次小田原城包囲と三増峠合戦。
@攻めてきた武田軍が退却。
A撃破されて逃げられましたが北条軍は重臣を失っていません。(戦死者は多数。)
B攻めた武田軍は領土を獲得できていません。(注、関東方面ね。)
ただ、見逃してはいけないのが武田信玄の戦略は駿河獲得で関東への領土拡張ではないこと。
北条氏康の戦略も武田信玄を討ち取るだけで甲斐・信濃への領土拡張ではないこと。
1569年、徳川家康、掛川城開城。武田信玄と徳川家康の間に紛争(事件)が発生。
第二次小田原城包囲。三増峠合戦。
第三次駿河侵攻。武田信玄、サッタ峠占領。蒲原城攻略。駿府城無血開城。
1570年、第四次駿河侵攻。武田信玄、花沢城攻略。
第五次駿河侵攻。北条氏政と武田信玄が吉原・沼津で衝突。
武田信玄、韮山城(北条氏規)・興国寺城(垪和氏続)を攻める。
1571年、第六次駿河侵攻。
武田信玄、深沢城(北条綱成)・興国寺城(垪和氏続)を攻める。
注、深沢城は落城。
北条氏康、死去。
駿東郡を支配できない以上、駿河の運営は難しいですが、
北条氏康が死去して甲相同盟が成立しますと武田信玄の駿河支配は完成することになります。
ここで、ようやく北条家と武田家の抗争は終わりを告げることになります。
講談と逸話と史実と仮説をふんだんに織り交ぜてるなw
>>385 それを一言で表すと、「思い込み」つーことだな(w
387 :
日本@名無史さん:03/02/10 10:49
月と星よりさん、
↑
学生ですか、この方どういう人ですか
カキコの内容よりも、その素生に興味があります
スマソ
昔の一時期、伊勢新九郎の氏素性を執拗に解明する人々がいました
信玄の氏康、謙信に対する小田原攻めの評価が的を得ている
北条家をたやすく責め干すことは出来ない。氏康のためにはかえっていい試練になり、
つよみになろう。関東の諸将は、いったんは謙信に帰伏しても、謙信は短慮で人をて
なづけることの出来ない人だ。勇ばかりを外に表し、仁をおこなう心が欠けている。
政道も手荒いので、恨みを受けることが少なくないようだ。いく程も立たないうちに
諸将はみな謙信をうとみ、離れてゆき、氏康に従うより外なくなるだろう。
この予言どうり成田親子をはじめ上杉家重臣北条高広まで北条方に寝返った。謙信は
山内上杉領のほとんどを失った。
氏綱(もしくは早雲)が鎌倉北条氏の末孫の娘と結婚し、名実ともに北条性を
名乗るにいたったともいわれている
391 :
日本@名無史さん:03/02/10 18:59
氏康長男(天用院)は側室の子であったのに新九朗を名乗ってるということは
天用院は嫡子扱いだったのだろうか?1552年に死んだみたいだが
何年に生まれたの?
来ました〜♪
『北条氏康』の章は北条氏康に興味を持っていただければと思って書きました。
文献にあることだけを書いても本を読めば済むことですし、
暴走をして書いても独りよがりで終わってしまいますから、
こんな感じになりました。
この文の内容はさて置き、北条氏康を知らない人が興味を持っていただけますと嬉しいですね。
私のことは秘密ということでお願いします。
でも、インターネットを始めて1年経っていませんから、
伊勢新九郎の素性を解明する人ではないですよ。(読んでみたかったな。)
関東の諸将については色んな考えがありますね。
長野業盛は第一次小田原包囲に参加していたのかな?
太田資正は佐竹家を頼ってしまいます。(1564年のことですから仕方がないですね。)
北条氏康が生きている間は、
千葉胤富・小田氏治・結城晴朝・小山秀綱・佐野昌綱・由良成繁らが北条家の傘下に入ります。
生き残るためには立派な戦略でしょう。(小田氏治だけは勢力後退していますが。)
関東に本拠がある北条家と本拠がない上杉家の差が大きいですね。
彼らの敵は北条家ではなく、里見家・佐竹家・宇都宮家だったのかもしれません。
つづき〜!(最終回)
元亀二年十月三日、北条氏康、死去。
彼の時代は3期に分けることができると思います。
1542年〜1551年・1552年〜1561年・1562年〜1571年。
3期全てが、それぞれ違った難しい時代と思いますが、
見事、走り抜いたという感じがします。
戦った相手も扇谷上杉家・山内上杉家・古河公方足利家・
今川家・長尾家・里見家・武田家と強敵ばかり。(両上杉家も強敵ですよね!)
北条氏康は代表的な戦国大名の一人、智勇兼ね揃えた名将でしょう♪
(大将としての器も大きそうですし、人格も良さそうですしね。)
『北条氏康』の章・・・おしまい。
つか、すでに独り善がり
なら
>>393が氏政時代を書くがよろし
さぞかし、ひとりよがりではない文を投稿してくれることでしょう
わくわく
395 :
日本@名無史さん:03/02/11 14:43
来ました〜♪
『独りよがり』について。
歴史を語る人は多かれ少なかれ独りよがりでしょう。
でなきゃ、やってられませんよ。(見たこともないことを語る訳ですからね。)
それにここは『語るスレ』です。
語らなきゃ損ですよ。(本当か!?)
397 :
日本@名無史さん:03/02/12 20:44
文句言ってるだけの奴は楽だな。
代案出せないなら黙っていればいいのに。
399 :
日本@名無史さん:03/02/13 00:41
>>396 月星殿らしい意見にニンマリw
語ってなんぼ、ごもっともかと。
気に入らなければ反論すればいいわけです。
401 :
日本@名無史さん:03/02/13 01:32
まったりやっていたのに、性格悪いのが居着いたな。
403 :
日本@名無史さん:03/02/13 11:58
経こき虫がわいた模様・・・
405 :
日本@名無史さん:03/02/15 11:35
>>403 煽るなら代案出してくれよ
知識も無いくせにあおるなよ
さー歴史読本買いに本屋へGO!
406 :
日本@名無史さん:03/02/15 11:42
>>みなさんへ
すいませんもうしません
今、河内狭山藩の北条氏の子孫の方(正房系も)はなにしてるんでしょうか。
409 :
日本@名無史さん:03/02/16 10:59
411 :
日本@名無史さん:03/02/16 15:25
>>408 一番有名なのが、創価学会第四代会長 北条浩(故人)氏ではないかと。
学習院から海軍兵学校に入学、戦時中は海軍の飛行士官を経て戦後は会社員
をしていて入信したとのこと。
ただし、子爵家直系かどうかはわからんし、彼に子供がいるかどうかも知ら
ない。
ともあれ、現在は旧華族の中でも絶対に皇室が縁組しないだろう家のひとつ
ではないかと。
412 :
日本@名無史さん:03/02/16 16:04
北条氏恭 (狭山藩12代藩主、狭山藩知事)1855〜1919(在任:1861〜1869辞任廃藩)
狭山藩12代藩主、狭山藩知事。従五位下 相模守。子爵、宮中顧問官。下野佐野藩主
堀田正衡の三男。
1915年12月、勲一等瑞宝章受章。廃藩置県を待たずに藩知事を辞任し狭山藩は廃藩と
なった。
413 :
日本@名無史さん:03/02/16 16:18
>>411 戦前まで神道系の華族で六頭身に犯罪者がいないことがしきたりだったはず
414 :
日本@名無史さん:03/02/16 18:25
>>413 しきたりはしきたりだし、別に犯罪者というわけだはないんだけど、宗教的
にどうかな?と考えて「実質的に」という意味を持たせてでそう書いてみた。
あ、ただし皇室が学会に帰依して政府が国立戒壇の設立に同意した場合には
話がまったく逆になるわけだが(w
北条氏康は1559年に上野を完全に傘下に治めるんだけど
そのあとの謙信の関東進攻をうけて河越まで後退する。
1567年に西上野を除く上野を完全支配するが
翌年の相越同盟により上野、北武蔵を謙信に譲渡。
あと、関東管領職を謙信に譲り(北条家は古河足利家より
管領に任命されていた)、氏秀を人質に差し出す。
しかし、謙信は上野に入っただけで信玄とは戦わず。
416 :
日本@名無史さん:03/02/17 00:08
晴信は北条家との同盟関係にかなり気を使ってたみたいだけど
なぜ一言言わなかったんだろう
義信が死んだとき今川がしお止めを実施したとき、氏康が同調
しなかったから大丈夫だと思ったんだろうか?
417 :
日本@名無史さん:03/02/17 00:23
>>392 佐野昌綱はもっと評価されてもいいと思う
418 :
日本@名無史さん:03/02/17 00:31
419 :
日本@名無史さん:03/02/17 00:35
420 :
謙信は義の人?:03/02/19 03:13
藤木久志さんが書いた「雑兵たちの戦場」という本では謙信の関東出兵は義
による戦というよりは冬に飢えた越後の人々のために北条領の物資を略奪す
るためのものとしての意味合いが強かったと説明されており、さらに謙信の
指示により攻め取った側の領民を奴隷として売買していたという
421 :
日本@名無史さん:03/02/24 22:20
過去レスに関東の都市についての話がちょっと出てるけど
実際問題、関東の諸都市(城下町)をランク付けするとどんな順位?
各国府、各守護の政庁、日光・鹿島・香取とかの門前町?とかも。
各国内の都市規模の順位は?
相模・小田原、玉縄(鎌倉)、岡崎、あとは三浦半島のどこか?
武蔵・江戸、河越、岩槻、深谷、世田谷、品川、八王子(滝山)、鉢形、小机、忍、国府(府中)
上野・厩橋(国府)、箕輪、沼田、金山?
下野・宇都宮、日光山、足利、祇園、国府(皆川)、烏山
常陸・水戸、国府(石岡)、太田、小田、鹿島、土浦?、笠間?
下総・結城、佐倉、古河、関宿、小弓、佐原(香取)、国府(市川)、銚子?
上総・久留里、佐貫、国府(市原)、真里谷、大多喜、勝浦
422 :
氏康って結構猛将:03/02/28 02:34
氏康は加美という黒き馬に跨がり、一そり反った白江柄の長刀振り廻し強敵三十余騎を切って落とし、
猛威をふるい勝利を収められた。氏康の身には鎗刀の傷七ヶ所、頬先に太刀の傷があり。それで、
侍の面疵をば褒めたたえ褒美を出して氏康疵と申します。
北条五代記より
現代では鉢形と烏山と関宿以外は市制
425 :
日本@名無史さん:03/03/08 10:13
保守
426 :
日本@名無史さん:03/03/08 10:22
伊勢早雲・伊勢氏綱・北条氏康・北条氏政・北条氏直
427 :
日本@名無史さん:03/03/15 12:16
あげ
425-427
こーゆー保守が続くと書き込む気が失せる
里見スレのように
>422-423
信綱の息子(秀胤だったかな)が師匠か?
429 :
日本@名無史さん:03/03/18 13:57
綱成の娘が信綱に嫁いでなかった?
鉢形城・滝山城・八王子城
は、絶対に行くべし!
八王子城からは、関東平野一望できる。
苦労しても登る価値は大いにある。
絶景間違いなし!
八王子城はオバケでるからなあ
432 :
日本@名無史さん:03/03/19 11:15
433 :
日本@名無史さん:03/03/19 11:17
個人的には氏直の将来性について妄想してみたい。
北条で赤備えの武将って知っている人いますか?
もしくは赤い鎧で戦時になんらしらかの軍事行為に関わった
役目とか部署ってあったのかな?
435 :
日本@名無史さん:03/03/23 20:48
>>434 北条綱高
北条五色備……北条綱高(赤)・北条綱成(黄)・笠原康勝(白)・多目周防守(黒)
・富永右衛門尉(青)
436 :
日本@名無史さん:03/03/23 21:23
動乱期に一から身を起こして100年続いたんだから
早雲、氏綱の基盤作りは流石だわな、徳川が受け継ぐハズだ。
個人的に氏政もっと評価してホスィ。
437 :
日本@名無史さん:03/03/23 21:26
北条五色備(北条五家老)…重臣「五家老」を中核として成る陣立て。五行説を取り入れ、
関東の北を守る平井に黒、川越に黄色、栗橋に青、西の伊豆に白、南の相模に赤の軍旗を用いる
ようにしたと言われている。
438 :
日本@名無史さん:03/03/23 21:37
>動乱期に一から身を起こして
早雲の家臣には遠山氏のように優秀な元幕臣がたくさんいたから
一からとはいえないと思う。領土的には一からだけど
氏政の評価が低いのなんで?
氏政が権力を握ってる間が北条家最大の版図だったんじゃないの?
>439
武田の版図が最大になったのは勝頼の時代。
領土の大きさだけでは計れないけれど、
氏政&勝頼両人の評価が不当に低いって気はするね。
>>435>>437 レスありがとうございます。
五行説って事は真田や井伊のような所謂「赤備え」とは意味合いが違う
という事ですよね?
444 :
日本@名無史さん:03/03/24 23:21
後妻っていっても、上泉家(信綱の子)が北条に下ったのは永禄年間ですぜ?
信綱(当時は未だ秀綱)は長野家に仕えてたし、長野家滅亡後は上洛してる
綱成はいつ信綱に嫁がせたんでしょ?
446 :
日本@名無史さん:03/03/25 00:46
>>445 詳しくは知らんが、秀綱の本家筋は扇谷上杉家の傘下にあったが、上杉朝興が北条
1537に死去した際に扇谷上杉家を見限って江戸へ移り、北条氏の傘下に入った。
だから北条家とも交流が会ったのではないかな?秀綱は大胡城に残ったと考えられ
てる。
上泉家文書?によると初めて京に登る途中小田原によった時に氏康と綱成が入門し、
ここで綱成の娘を娶ったらしい。
秀綱は1528年に大森泰頼の娘を娶っているが秀胤を生んで死去している。
447 :
日本@名無史さん:03/03/25 10:54
>>445 1508年源五郎秀綱出生
1528年大森式部少輔泰頼の女を娶る。
京都平野社大祝吉田兼興の末妹を娶る
1546年北条氏康、綱成ら入門。信綱北条左衛門大夫綱成の女と再婚。北条家
兵法師範となる。これより、嫡子秀胤北条家に仕える。
1552年高崎の豪族和田兵部亟の女と再婚
1573年信綱孫主水佐泰綱、北条左衛門佐氏忠の女娶る
1574年北条氏政に招かれて兵法、軍学師範となる。信綱次男有綱、三男行綱、
孫主水佐泰綱、師範代としてこれを補佐する。
1582年信綱小田原にて没、享年七十七歳。
綱成の娘との間にもうけた子は次男有綱・三男行綱
448 :
日本@名無史さん:03/03/28 01:27
449 :
日本@名無史さん:03/03/28 16:29
>>448 北条家って氏盛や氏勝の子孫って氏がつくのでわ?
450 :
日本@名無史さん:03/03/28 16:41
通字は「氏」だが、狭山藩主の直系子孫(創価の人)は通字ではない。
451 :
日本@名無史さん:03/03/28 19:14
小机城跡行ってきた。
しかし、思いのほか小さい城だねぇ。
一応、重要な拠点だったはずなのになぁ・・・
これと言って何もないけれど、
かなり大がかりな遺構が残っているし、
なかなか感慨深げでした。
それなりの人数が籠もったら、
地形的にもなかなかだし攻めづらそうだねぇ。
454 :
日本@名無史さん:03/04/04 15:34
北条って地味だけど重みはあるよな。
北条綱高ってどんな人だったのでしょうか?
ぐぐってもほとんど資料無いようですし、詳しいHPや
書籍があったら教えて下さい。
456 :
日本@名無史さん:03/04/08 04:10
>>455 三鷹市牟礼牟礼開村の祖 高橋綱種=北条常陸介綱高 伊豆水軍高橋将監と同一人物?
高橋氏の先祖は中国の後漢の霊帝とされており、早雲の伊豆討入以後の家臣で伊豆衆二十一家に属する
北条氏綱の養子として北条姓を賜はり御家門に列す
氏綱が高橋兄弟に牟礼・烏山に砦を築かせて扇谷上杉氏の深大寺城を封鎖させた。
弟の氏高は氏直が秀吉に毒殺されたと聞いて太閤を罵倒しにいき、殺されかけたらしい。
457 :
日本@名無史さん:03/04/08 14:40
>>456 伝承ですね。
養子なら姓は賜らないですし、高橋兄弟なんていわれるはずもない。
本当に実在するの?
458 :
日本@名無史さん:03/04/08 15:37
>>457 実在します
三鷹市の歴史か大蔵高橋氏の系図の駿河を調べてください
福島氏も養子だろ
459 :
日本@名無史さん:03/04/08 16:04
>>458 いやだから高橋某が養子になった事実はないよ。
460 :
日本@名無史さん:03/04/08 16:15
461 :
日本@名無史さん:03/04/08 17:06
>>459 高橋家の文書でも調べてください
間宮家に関する資料としても有名ですから
>>456 ありがとうございます。
高橋綱種、高橋将監で検索すると各10個ぐらい
出てきますね。
463 :
こんなの発見:03/04/15 08:53
ここには、『高橋家系図記録』という文書が残っている。それによると高橋家の
先祖大蔵高種は伊豆国雲見郷に住み、北條早雲に仕え高橋左近太夫将監高種と
改名した。先にあげた『小田原旧記』に、伊豆衆二十家の中に高橋家がみえる。高
種の子綱種は早雲に養育され、のち軍巧により猶子となり、北條常陸介綱種と名乗
り、相模国甘縄城を守った。
さらに江戸城に入り、天文6年(1537)、上杉朝臣の臣難波田弾正の深大寺城を
攻めて、これを敗走させた。その子高橋常陸介康種は北條氏康に仕え、江戸城に
入り、天正18年(1590)、小田原落城後、子種資らと共に牟礼に来住した。種資は、
北條氏直が秀吉により高野山に追放されたとき随行している。のち福島正則に仕え
たが、福島氏が改易になる以前に辞して、牟礼に戻り帰農したという。
http://www.zephyr.dti.ne.jp/~momos/komaefile/hata.htm
(^^)
壁|ω・)ノひっそり書きます。
いい感じに沈んできましたね。お久しぶりです。
北条氏康と北条氏政について。(1570年頃)
甲相駿三国同盟が瓦解すると氏康は武田家と決戦を決意します。
考えられる理由としては、
@血縁という観点で考えた場合、娘(早川殿)が今川氏真の正室なので親今川派の立場で行動。
A野心という観点で考えた場合、駿東郡奪還。(駿河国で軍事行動を展開。)
B寿命という観点で考えた場合、自分が死んだ後、武田家信玄の相手が氏政では荷が重い。
こんなところでしょうか?
それに対して氏政は親武田政策を展開します。
考えられる理由としては、
@弟の上杉景虎の上杉家は同盟国になりえない。(ひょっとしますと氏政は期待していたのかも?)
対上杉戦略を想定した場合、妹の早川殿の今川家と結ぶ実利がない。(国力的・地理的の両方。)
A駿東郡を切り捨て、関東の平定に集中。(上杉家はやはり敵。)
B本当の敵の上杉輝虎と対抗する場合、国力的にも地理的にも武田家と結ぶ方が合理的。
こんなところでしょうか?(1570年頃の情勢では・・・。)
それに氏康としては、武田家はもともと敵対国。また敵対しても不思議ではありません。
しかし氏政としては、対上杉作戦では信頼できる同盟国。敵対国としての印象は希薄ですね。
それに氏姓の正室『黄梅院』は武田信玄の娘。
氏政は関東の覇者になるために、現実的な行動『甲相同盟』を選択したと思います。
故に、氏政は常識には強いが革新には弱いともとれますね。(織田家・徳川家との同盟という手もあったのにね。)
攻めより守りに向いている性格と思います。
逆に、この書き方ですと氏康は非現実的な行動ですね。(父様には父様のお考えが・・・。)
以後、北条家の戦略は関東計略に集中していきます。
そして、対上杉戦略の甲相同盟は、その上杉家で起きる内訌により瓦解することになりますが、
その話はまたいつか・・・。
>465
待ってたよ。
今日もいい感じに沈んでいますね。ひっそりいきます。
武田信玄と北条氏政について。(1571年頃)
甲相同盟の実態を考えてみます。
北条氏政が関東の覇王として君臨するには、上杉輝虎の存在がとても邪魔になります。
利害が一致し、地理的にも合理的で、軍事面でも期待できる武田家との攻守同盟はわかります。
さて、武田信玄としてはこの同盟にどんなメリットがあるのでしょう?
@当時、四面楚歌の武田家としては北条家との同盟は地獄に仏という感じでしょうか?
A西上作戦を実行したい武田家には東の安定が必要。(南の駿河国の安定化。)
B上杉輝虎への押さえとしても有効。
こんなところでしょうか?
実際、信玄も氏政と対陣して評価していたのでしょう。
武断的な思考の持ち主ではない。
謀略的な心理の持ち主でもない。
革新的な発想の持ち主でもない。
しかし、堅実的な性格の持ち主であると・・・。
信玄の目標が京の都であり関東の地ではない以上、同盟するメリットがあります。
氏政の堅実性は氏康や輝虎よりも敵にまわすと厄介な存在に見えたのかもしれませんね。
1571年10月、北条氏康、死去。
その直後、12月に締結された甲相同盟は7年間続きます。
1572年1月、上杉輝虎の関東遠征の際、武田信玄は西上野を防衛するために利根川で対陣します。
これ以降、信玄は関東の地に現れることはありません。
1573年4月、武田信玄、死去。
北条氏康の死から約一年半後のことになります。
この年の7月、織田信長が室町幕府を滅ぼします。
氏政に対する評価は面白いですね。
個人的には天性の物ってよりも、
弟たちの存在からそうするより仕方がなかった面も
多々あったのではないかと思っています。
469 :
日本@名無史さん:03/04/19 12:41
良スレと思われage
470 :
日本@名無史さん:03/04/19 13:40
おまいら投票しる!
タイム誌・アジアのヒーロー20人
http://www.time.com/time/asia/hero/ 是非、『宮崎 駿』に投票を!現在、韓国サッカー代表が一位です。
Hayao Miyazaki となっています。
嫌韓厨じゃなくても、日本人なら日本人に1位を取って欲しい筈。
さぁ、今こそ2chの力を見せつけましょう!
タシロの再来を!
※コピペ推奨
471 :
日本@名無史さん:03/04/19 16:14
北条早雲のことを調べているのですが、
早雲時代の末期から氏康時代の前期の重臣
大道寺盛昌のことを早雲の従兄弟とか氏綱のいとことか
書かれていることがあります。
どういう関係なのか、ソースとなる資料が何なのか
わかる方、ご教授願います。
それと、2005年に北条早雲で大河ドラマが作られるという
レスを見ましたが、本当ならソースと詳報をお願いします。
472 :
日本@名無史さん:03/04/19 18:00
おいおい、信玄は麦のことで氏政を馬鹿にしてただろ
>>471 >北条早雲で大河ドラマ
どっかでそのスレ見ましたが、今見つからないなぁ
それを読んだ所ではソースは提示されず、どうも噂だけのような
でも内容に妙に具体性があって説得力があったような
474 :
日本@名無史さん:03/04/19 18:56
北條早雲って誰?(藁)
伊勢宗瑞だったら知ってるけど?
475 :
日本@名無史さん:03/04/19 18:59
北條早雲っていう人物自体 歴史上に存在しませんけど何か?
477 :
日本@名無史さん:03/04/19 19:52
( ´,_ゝ`)プッ
478 :
日本@名無史さん:03/04/19 21:39
北条氏政の評価ですか・・・
う〜ん、秀吉という中央の覇者を甘く見たのが致命的かな。
家康も小牧長久手で勝利しても結局秀吉の懐柔策に妥協した事で
その後に幕府を開くことができました。
伊達も東北の雄であり続けることができ、宇和島にも分家を作りました。
結局、家が亡んじゃしょうがないじゃない!
伊豆・相模・武蔵の3国位しか安堵されなかったかもしれないけど・・・
時流が理解できなかった田舎武将という評価は仕方がないんじゃないかな?
479 :
日本@名無史さん:03/04/20 00:45
北条が生き残ってたら、徳川より石高上だろ?
五大老筆頭になれたのに、もったいないな。
また思い込み厨が現れた
481 :
日本@名無史さん:03/04/20 01:21
うるせー。
俺様は北条一族の血をひいている。
関八州の支配者&日本一豊かな大名家&豊臣政権の影の支配者は
北条家のはずだったんだよ。
たまたま運が悪かっただけだ。
不運に遭遇しなければ、俺様は華族だったんだよ。
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
483 :
日本@名無史さん:03/04/20 01:42
氏政は愚か者。なんであの氏康がこいつを後継ぎにしたのか・・・
曽祖父から築き上げた大きな遺産を秀吉に対した為に全領土あぼーんされたね。
秀吉だって最初は北條を潰す気無かったと見えるよ。上杉だって毛利だって残ってるしね。
最後まで抵抗した島津や長曾我部も赦したくらいだし・・・
秀吉も何度も何度も上洛しろ上洛しろと促したのに、結局 氏政が出てこなかったから 結局征伐に・・・
で 北條は4代で滅びました。よく5代続いたと人は言うけれど、家督は氏直に譲られてはいたが、依然として氏政が関東支配の実権を握っており彼の手には無くそれが無かったわけで4代で滅んだと言っても過言ではなかろう。
484 :
日本@名無史さん:03/04/20 01:48
伊勢新九朗長氏(伊勢宗瑞)が基礎を築き、次の氏綱の代に勢力拡大し、伊勢から北條に改姓。
次の氏康の頃が領土拡張し最盛期。折りしも時代はあの武田信玄や上杉謙信の時代。彼らと張り合えるほどの大器だった(小田原城が難攻不落の城だったこともあるが)
次の氏政からは武田を離れ、織田と接近するが、本能寺の変後、秀吉に逆らい続け、討伐を受ける
氏政と前代で資質に大きな差があったと言うよりも、
北条家を囲む状況が大きく変わったのと、
老大国化し硬直化した組織が問題だったと思う。
あの状態で大改革は難しいんじゃないだろうか?
486 :
日本@名無史さん:03/04/20 12:17
>>483 跡継ぎ争いが起きるのを恐れたからでしょう。
後北条氏は早雲以来全く跡継ぎ争いが起きたことがないという
戦国史上奇跡的な存在。
長子相続制を確立していたからでしょう。
だとすれば氏政に後を継がせないわけにはいかない。
彼が秀吉をナメていたことが滅亡の最大の理由だが、
それで彼一人を責めるのは公平ではあるまい。
あの伊達政宗や島津義久でさえ秀吉を軽視していたのだから。
487 :
日本@名無史さん:03/04/20 18:52
>>486 もちろん秀吉の誘いを何度も突っぱねた首脳陣の連帯責任でも
あるけど、結局北条家の最高司令官は隠居の身とはいえ氏政なんだよね。
トップが責任を問われるのは組織である以上しかたがない。
氏政が若死にしていて、氏照が当主だったらという妄想をしてみる
のも面白いかも。
488 :
日本@名無史さん:03/04/21 04:28
>486
氏政は次男です。
>>487 氏照だって同じ結果になってたよ。
主戦派の急先鋒だったんだから。
>>488 長男が若死にしてるんだから、
長子相続という意味ではあってるでしょ。
490 :
日本@名無史さん:03/04/21 22:36
氏照は晩年病気がちだったそうだよ
いつの間にやら賑やかに・・・。
今川氏真と北条氏政について。(1571年頃)
さて、北条氏康は今川家を援助する意味があるのでしょうか?
1560年の桶狭間合戦の敗戦。
今川義元の戦死だけに止まらず、
松井宗信、由比正信、飯尾乗連、井伊直盛といった有力武将たちも戦死してしまいます。
さらに岡崎城の松平元康(徳川家康)が独立、三河国を掌握します。
その過程で関口家・鵜殿家という有力家臣たちが没落します。
遠江国でも巻き込まれるように井伊直親と飯尾連龍という城主たちが没落します。
これ以降、家臣たちが次々と今川家から離反してしまい、
1568年に武田家と徳川家に挟撃されて滅亡の道を歩みます。
大国今川家は政治的にも軍事的にも終焉を迎えていたのにもかかわらず援助したのは、
深い考えが北条氏康にはあったのでしょう。
しかし、北条氏政は関東平定を目論んでいます。今川家の援助に意味を見出すことができません。
それに北条家が駿河国を領有しても困るだけかもしれません。
駿河の金山は魅力的ですが武田家のような整備された金堀衆を持っている訳でもありません。
武田家の侵攻で駿府も灰燼に帰していますから、商業も文化も混乱しています。
さらに、箱根が商業的にも文化的にも相模と駿河の交通の遮断をしています。
余談ですが、武田家の方は富士川の水運を利用すれば駿河経営は簡単になります。
さて、もう一人、今川氏真、彼の考えはどうなのでしょう?
積極策が見えませんから、もはや新しい人生を模索していたのかもしれませんね。
北条氏照について・・・。
武田家で例えるなら、
北条氏政=武田義信
北条氏照=武田勝頼
毛利家で例えるなら、
北条氏政=毛利隆元
北条氏照=吉川春元
という感じがします。
それから、北条氏政でも北条氏照でも滅亡していたと思います。
豊臣秀吉は、長曾我部元親、島津義久、伊達政宗という戦国大名を、
滅ぼしても生かしてもどちらでも良かったのかなと思いますが、
北条家だけは必ず滅ぼすつもりだったと思います。
極端なことを書きますと臣下の礼をとっても滅ぼされる可能性は高いと思います。
(後年、北条家を再興させますが、これについては長くなりそうですから割愛します。)
徳川家康は三河・遠江という本貫地を放棄することができました。
織田信雄は尾張・伊勢という本貫地を放棄することができませんでした。
北条氏政は関東という地を放棄することができますでしょうか?
・・・そこまでは無理でしょうね。
天下統一の最後の大仕事は秀吉としては征夷をしたかったのかもしれません。
徳川家康との小牧・長久手合戦での敗戦以来、東国での勝ち戦がありません。
(これにより豊臣秀吉が征夷大将軍になれなかったかどうかはわかりませんが・・・。)
徳川家と同等の国力を持つ北条家なら最後の合戦に相応しかったのでしょう。
それに今、この合戦で徳川家康を使わないと使う機会を逸してしまい、
民衆の目からは『徳川家康だけは豊臣秀吉に勝ち戦をしたから特別な人。』と見られかねません。
ああ、これは豊臣秀吉の時に書く内容ですね。
この続きはまたいつか・・・。
493 :
日本@名無史さん:03/04/22 11:29
492
じゃあ島津はなんで本貫地を放棄させられなかったの?
494 :
日本@名無史さん:03/04/22 11:45
( ´,_ゝ`)プッ
495 :
日本@名無史さん:03/04/22 17:59
秀吉は北条氏規に講和の条件として伊豆、相模、武蔵の
安堵とそれ以外の没収を提案してたんだよ
その前に氏政は降伏してしまったけど
こんばんは〜♪
>>493 島津家の国替ですか・・・?
九州征伐時点ではどこに転封しても栄転ですよ。
島津家の場合は幸運にも長曾我部元親が大隈国の領有を放棄し、大友宗麟が日向国を隠居料にするのを辞退します。
地道な裏工作も手伝い、1588年に薩摩、大隈、日向(南部)の三国を手中に収めます。
それなりに領土回復をしますが、肥後国の領主の佐々成政が肥後一揆の責で切腹しますと、
1589年には小西行長と加藤清正が肥後国の新領主になり肥後方面の進出は難しくなります。
1590年、小田原征伐により天下統一が実現しますと、これ以降の所領拡張は難しくなります。
(肥後一揆を伊達家の葛西・大崎一揆のそれに見立てるのは苦しいですから、さらりと流します。)
>>495 今から書くことは私的な考えで証拠とかはありませんが、
豊臣秀吉の情報網は北条家の総意が抗戦に進むと解析していたかもしれません。
真田家の謀略も展開されていたかもしれません。
北条氏規に対しての和平案は家中分裂を狙っての策かもしれません。
(絶対和睦しない相手に何を約束してもかまいませんからね。)
北条家が先に手を出すの待って大義名分の口実を待って(作って)いたかもしれません。
こう書きますと関ヶ原合戦のきっかけ(伏見城攻防戦)と同じですね。
まあ、どちらにしましても、
徳川家と同じような国力の北条家をそのままにしておくことはできませんよね。
北条氏政は関東平定が何より一番と考えていると思います。
その関東平定が挫折するということは北条家の存在意義を失うに等しいかもしれません。
う〜ん、ここで書き過ぎますと、後が困りますね。
こんばんは〜♪
上杉謙信と北条氏政について。(1572年頃)
北条氏政は上杉謙信の存在をどう捉えていたのでしょう。
北条氏政が北条家第四代目の家督を相続しますと、
まもなく長尾景虎(上杉謙信)の関東遠征が毎年のように繰り返されます。
関東平定を目指す北条家には敵対国にしか見えなかったことでしょう。
それでも武田信玄の駿河侵攻によって甲相駿三国同盟が瓦解しますと、
対武田家政策のために越相同盟を締結しますが、
双方の政策(関東における考え方)の相違によりこの同盟は短命に終わります。
お互いに不信感だけが残り、謙信の死まで抗争が続きます。
ところで北条氏康としては、
越相同盟を攻守同盟としては捉えないで不戦協定程度に考え、
駿河方面の軍事作戦に終始します。
1564年の第五次川中島合戦以降、謙信は関東遠征に集中していきます。
駿河方面で信玄と、上野方面で謙信と前後で対決するのは最悪な展開になりますが、
そうならなければいい程度に考えていたのでしょう。
しかし、北条氏政としては、
越相同盟に最愛の妻と離縁させられてまでの価値を、
感じることはできなかったのでしょう。
そして、関東平定を目指すには最後まで敵に回る可能性が高いでしょう。
さらに、謙信の『義』の行動が氏政の堅実的な目には理解できないでしょう。
昨日の敵は・・・やっぱり今日も敵ということでしょうか・・・?
またコイツか!
思い込みで嘘を吹き込むのはヤメロ
>>498 またオマエか!
思い込みで嘘を吹き込むのはヤメロ
どーして捏造に必死なんでつか?
502 :
日本@名無史さん:03/04/25 13:04
( ´,_ゝ`)プッ
503 :
日本@名無史さん:03/04/25 14:13
このスレ的には
話題があるとき>>保守かきこだけしかないとき>>無駄な長レスがあるとき
>>496>>497ともに私的な見解として面白いと思うけど?
そもそも定義の問題だけど史学やっているわけじゃないし
いいんでないの?
面白くない。
むしろ、害。
では、有用なレスをつけてください>叩きさんたち
無理に話題を作る必要無し
無駄に虚構を振り撒く必要無し
要は思い込み厨は要らないって事だ
509 :
日本@名無史さん:03/04/26 01:17
( ´,_ゝ`)プッ
510 :
動画直リン:03/04/26 01:17
511 :
日本@名無史さん:03/04/26 01:21
コテハンの必死な自己弁護・自己正当化ほど醜いものはないぞ。
正直、こういう叩きがウザイので
妄想コテの書き込みは御遠慮願いたい
叩きは私見はダメだってこと?
だったらこれからは文献の提示ソースの提示は必須だろ?
514 :
日本@名無史さん:03/04/26 12:46
月と星より さん。
いいんじゃない?
少なくとも、人に読んで貰えるような話題を提供しているし。
>508さん。
それをいったら、そもそも2ch自体の存在意義が無い。
まぁ、とりあえずageるな。
>514
>少なくとも、人に読んで貰えるような話題を提供しているし。
話題を提供していることは多謝。
だが、その振られた話題に食いついている人たちをおいて
話を進め始めるのは如何なものかと思う訳よ。
ちょいとマイペースに過ぎる。
糞コテは二度と来るな
>>517 コテ叩きは御法度だろ
一人よがりな文章をやめて欲しい
すさまじく、どーでもいいことだが
>>492 吉川春元でなく、吉川元春な
あと、
>>495 小田原城より先に、韮山城は開城しているんだが・・・
しかも、氏規が小田原に赴いて氏政・氏直を説得するわけだが・・・
最後に、意志はともかく小田原城を出て降伏に赴いたのは氏直な訳だが・・・
>>519 小田原への途上で落城したんじゃなかった?
>>519 ごめん勘違い
でも、講和の条件として伊豆、相模、武蔵を言ったのは事実だよ
残念ながら氏政は決断しなかったが
522 :
日本@名無史さん:03/05/01 00:15
おそらく氏康時代が後北條最氏の最盛期だろうね。暗愚な息子が家を潰すわけだが
523 :
日本@名無史さん:03/05/01 23:36
氏康は古河公方義氏をうまくつっかた
件は信長の先を行ってたと思う。
俺的には氏綱が居城を小田原に移し、山城であった
小田原城を城下町にした功績をもっと評価してほしいんだが。
524 :
日本@名無史さん:03/05/02 09:43
>>523 伊勢姓から北條姓に改めたり、小田原に居城移したりと なんだか伊勢宗瑞より
北條氏綱の方が実質的に北條家の創始者って感じするよね。
なのに、先代の伊勢宗瑞や息子の氏康という英雄の影に隠れてしまってる感がしなくないが。
525 :
日本@名無史さん:03/05/02 09:45
個人的な評価で言うと
伊勢宗瑞>氏康>氏綱>氏直>氏政
526 :
日本@名無史さん:03/05/02 21:03
>>524 今川の甲斐攻めの総大将を務めるなどした福島一族を
受け入れた功績も大きい。
527 :
日本@名無史さん:03/05/05 21:52
大道寺盛昌と宗瑞、あるいは氏綱との間に
血縁関係があったという説があるが、
その真偽を誰か教えて欲しい。
528 :
日本@名無史さん:03/05/05 22:26
>>527 早雲が駿河にきたときの家臣が弟弥二朗と大道寺盛昌の二人じゃなかった?
血縁関係あったかな?
氏綱の母は幕府の小笠原政清の娘
529 :
日本@名無史さん:03/05/06 10:41
>>528 盛昌はそんな年じゃないよ。
寛政重修諸家譜によれば、
発専という人が初代で、早雲に従って駿河に下向し、
小田原城で戦死した、と記してある。
おそらく発専=大道寺太郎であり、1496年の山内上杉房能の
相模侵攻の時か、早雲の小田原城奪取の時に戦死したものと
思われます。
盛昌は太郎の息子でしょう。
なぜだか盛昌を氏綱の従兄弟とか、早雲の従兄弟とか記したものが
あるんですよね。
氏綱の母はおっしゃるとおり小笠原氏、
早雲の母は伊勢貞親の妹で、そのどちらかの姉妹が
大道寺太郎の妻になって盛昌を生んだということになりますが・・・
そのソースがわからないんですよね。
早期は早雲に食われ、晩年を氏康に食われて
損しているだけで氏綱はそうとうな英傑だ。
氏康は信玄、謙信と戦った分得しているので
実状は氏康よりも氏綱の方が上だと思う。
531 :
日本@名無史さん:03/05/07 02:37
大 道 寺 盛 昌 だいどうじもりまさ
生没年不詳。創生期の北条家を支えた重要な家臣。その出自は備中か。北条
早雲の従兄弟に当たる大道寺発専の男子と伝え、早雲の伊豆侵攻以前からの
家臣として史料に残される。少なくとも、信頼に値する史料上から明らかに
なる伊豆侵攻以前の家臣は、この大道寺盛昌と早雲の弟弥次郎しかいない。
ただし、大道寺の出自は別に山城国宇治田原郷と言う説もあり、これまた捨
て難い説だと言う。蔵人、駿河守、号して宗心が知られる。古くから鎌倉と
の繋がりが深く、本覚寺の制札や鶴岡八幡宮の造営奉行などに関わる。また
氏綱の第2子為昌の後見を務め、その元服のときには烏帽子親になったと伝
える。
氏康を信玄と謙信と戦ったから得した?
両上杉氏の排除、今川家からの脱却など対外的な成果と
領内の検地の徹底による貫高制の導入など
そこが評価されてるのでは?
氏康が家督継いだのは氏綱死後だよ
>>530
>>532 伊勢(北條)はいつくらいまで今川の家臣だったんですか?
534 :
日本@名無史さん:03/05/07 23:10
>>531 おお!ありがとう。
ちなみにそれが載っているのは何の辞典か教えてくれない?
ということは、伊勢貞親の妹が大道寺家に嫁ぎ発専(=太郎)を生んだ、
つまり盛昌を発専の息子とすると氏綱の又従兄弟にあたるわけだ。
勉強になったよ。
>>535 ありがとう。
伊勢本家ではなく、備中系だったわけね。
まとめると、
伊勢貞親の妹と伊勢盛定の間に生まれたのが新九郎(早雲)
伊勢盛定の妹と大道寺顕重の間に生まれたのが太郎(発専)
なわけか。大道寺家はもともと伊勢一族との関係が深い家臣で、
宇治田原の豪族と見ていいね。
>>535 北条五代記丸写しで恥ずかしくねーか?
出家後の号の確認は出来てるのか?
538 :
日本@名無史さん:03/05/08 19:45
一言いっとく
て め え ら み た い な ゴ ム ど も に 日 本 史 の 何 が わ か る ?
539 :
日本@名無史さん:03/05/08 21:05
『北条五代記』は早雲寺殿廿一箇条の存在が確認されるもっとも早い史料
などとして資料価値が高いのだが
>>537 春松院殿快翁宗活大居士
院号→春松院殿
道号→快翁
戒名→宗活
病床で家督を譲ってる氏綱が文書に署名してるとも思えないから、確認しようが
ないが、おそらく逆修戒名だろう。
逆修戒名・・・生前に戒名を授けられると、死んでから戒名を与えられるよりも
何倍も縁起がよいとされる。
541 :
日本@名無史さん:03/05/08 23:14
確認しようがないのになぜおそらくと言えるのだ?
縁起が良いから生前に戒名を得たと直結するのも謎
>>539 では北条五代記で確認出来るのだね?(・∀・)ニヤニヤ
543 :
日本@名無しさん:03/05/09 11:02
反証が見つかったり、矛盾点が指摘されないぶんには
北条五代記がある程度の信頼性がある以上踏襲してもいいのでは。
ただ、三浦浄心が伝聞を書いているものだから、
誇張された伝聞をそのまま書いたりしていることはあるはず。
また、時期が古くなるほど信頼性が低くなるのも当然。
544 :
日本@名無しさん:03/05/09 11:09
早雲の実像について別スレに書いたことを
誤字等を修正して転載
1、年齢 現在の研究では1456年生まれ、没年は数えで64歳。
従来の1432年生まれは北条五代記だけが書いている
ことで、伝承の可能性が高い。北条五代記は氏直の家臣
三浦浄心が書いたもので、伝承をそのまま書いたもので
あり、事実と違うことが証明されているケースが多い。
早雲はおそらく年齢からは信じられないくらい若々しく、
同時代の人も彼の年齢がわからなくなったからと思われる。
彼が死ぬまで一本も歯が欠けなかったとか、風邪一つひいた
ことがないというエピソードがその健康ぶりを物語っている。
2、北川殿 古い記録ではすべて姉、一部に叔母と記してある。
妹というのは早雲を1432年生まれとした場合、北川殿
は40歳以上で今川氏親を生んだことになり、矛盾すること
から創作されたもの。早雲が1456年生まれなら、氏親が
生まれた時早雲は16歳であり、北川殿は姉と見てよい。
また、氏綱は早雲が32歳の時の子となり、従来の56歳説
より、年齢的には極めて妥当となる。また、末子の幻庵は通
説より遅い永正年間の生まれであることが推定されており、
早雲1456年生まれ説では80歳前後の時の子になってし
まうが、これも50代での子と考えることが出来る。
3、政知の死 政知の死は病死であり、茶々丸が殺したというのは誤り。
茶々丸が継母と異母弟を殺したのは父の死後である。
545 :
日本@名無しさん:03/05/09 11:19
4、茶々丸の最期 茶々丸は早雲の伊豆侵攻の後逃げのび、武田信縄
(信玄の祖父)の庇護を受けて甲斐にいたことが妙法寺記
で明らかになっている。甲斐で反早雲勢力を指揮しており、
そのため早雲が完全に伊豆を平定するためには茶々丸を殺
す必要があった。1497年早雲は甲斐に攻め込んで茶々
丸を自殺させ、これによって旗印を失った反早雲勢力は鎮
定されていった。北条五代記にある二十日あまりで伊豆を
平定したというのは誤り。この頃まで抵抗が続いたことは
早雲が伊東伊賀入道に出した知行宛行状で明らかである。
この前年(1496年)、反早雲派の中心と見られる狩野
道一の本拠狩野城が落城し、狩野道一は脱出したものの、
修善寺町中島辺で自害している。このあたりでようやく
伊豆平定は最大のヤマを越したと見ていい。
546 :
日本@名無しさん:03/05/09 11:20
5、小田原攻め 早雲の小田原城奪取は1493年のことと従来なっ
ていたが、1496年に山内上杉房能が相模に侵攻した時、
大森氏が小田原城主であったことが明らかになっており、
この時かその直後に大森氏が山内方へ寝返ったために、早
雲が扇谷上杉朝良の了解を得て小田原を攻撃し奪ったと考
えられる。そうでないと、早雲が扇谷方の重臣だった大森
藤頼を攻撃して扇谷上杉氏が何も咎めないということが説
明できない。奪った時期は1496年〜1506年の間と
しか今のところ特定できない。
6 弟弥次郎の存在 弟の弥次郎の存在が確認されているにもかかわ
らず、司馬遼太郎「箱根の坂」早乙女貢「北条早雲」など
には全く出てこない。
7 伊豆侵攻の舞台裏 細川政元の起こしたクーデター、明応の政変
と呼応したものであることが近年の研究で明らかになって
いる。政元が擁立した足利義澄(清晃)は茶々丸の異母弟
であり、実母と弟を茶々丸に殺された人。おそらく彼が傀
儡となることに同意する見返りとして茶々丸討滅を要求し
たものと考えられる。また、明応の政変の首謀者の一人、
伊勢貞宗は早雲の従兄弟であり、貞宗から早雲へ話が
あったことが推定できる。
549 :
日本@名無しさん:03/05/10 12:22
>>544 早雲1456年生まれ説では80歳前後の時の子になってしまうが、
↓
早雲1432年生まれ説では
に訂正スマソ
550 :
日本@名無史さん:03/05/10 15:40
>544〜546
御塚れ様。
弟の存在は初耳。
司馬、早乙女に出てないのは、本当の弟なのか、自称「弟」なのか
裏付け資料がないからでは?
詳細求む。
552 :
日本@名無しさん:03/05/11 00:17
>>550 妙法寺記 明応五年のところに
「伊勢入道ノ弟弥次郎、七月 郎等太敷共ニ打死ス」
とある。
明応五年、山内上杉顕定は弟の越後守護の房能に命じ、古河公方政氏を
奉じて相模に侵攻した。この時、上杉顕定の書状(宇津江氏文書)
によると、長尾景春らが「陣城」を構えて応戦してきたので、
これを攻撃して弥次郎らを討ち取ったとある。
またこの手紙の中で、小田原城主大森式部少輔藤頼、同刑部大輔、
三浦氏(おそらく道寸)、大田六郎右衛門尉(資康の一族か)、
上田一族(権現山城主政盛の一族か)らが
いずれも逃亡して相模西部は情勢が一変したと書いており、
大森藤頼がこの時まで小田原城主であったことは確実である。
>>551 別スレに私が書いたものです。書きなぐりなので悪文はお許しを。
553 :
日本@名無史さん:03/05/11 00:32
554 :
日本@名無史さん:03/05/11 01:15
コピペ知識
555 :
日本@名無しさん:03/05/11 08:52
556 :
日本@名無しさん:03/05/15 14:56
北条早雲という名がなぜこれだけ有名で
伊勢宗瑞という名がなぜこれだけ無名なのか。
557 :
日本@名無史さん:03/05/15 15:55
>>556 それは戦国時代から本人が名乗ってないのに早雲と呼ばれてたから
朝倉宗滴話記にも
・・・但、伊豆之相雲ははりをも蔵に積むべきほど蓄仕候つる
雖然、武者辺につかふ事は、玉をも砕つべう見へたる仁に候由、宗長常に物語候事・・・
とありますので、当時から早雲(文中では相雲)という通り名で呼ばれてたとわかる
宗長とは連歌師の柴屋軒宗長の事
宗長は駿河島田出身で早雲と同年代の人物です
それは、伊勢早雲庵宗瑞と号していたからだろ?
>>558 早雲庵宗瑞と号してて、どうして宗瑞じゃなく早雲と呼ばれたかだろ。
理解力ないなオマエ。
>>559 「早雲庵」は号。
「早瑞」は法名。
どちらで呼ばれても不思議ではない。
実際、伊東一刀斎・太田三楽斎らの様に号でも通じるし、
武田信玄や上杉謙信のように法名でも通じる。
どちらを使うかはTPOにあわせてだろ?
561 :
日本@名無史さん:03/05/15 23:51
徳川吉宗は北条早雲の血が流れてるって知ってた?
頼宣の母お万は北条氏隆の娘と里見家の家臣正木頼忠の間に出来た
娘だそうです。
562 :
日本@名無史さん:03/05/15 23:54
早雲庵は号なのか?
伊豆にある宗瑞の隠居所だったような
>茶道・華道をはじめとして雅号・俳号・地名・家名・趣味・特技・業績など、その人の雰囲気が伝わる縁のある文字を組み入れて構成されるのが一般的です。
だそうだ。
↑道号の場合。
院号ちゅうものもあって普通、○○院殿もしくは○○○院とつくんだが
その院号の代わりに○○庵、○○軒、○○斎とつける場合もあるそうな
早雲庵は、早雲寺が臨済宗だから〜庵。
庵号は早雲庵に住む人間が踏襲するもの。
法名は早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門。
「北條」姓 って氏綱が1523年頃に改めたんだろ それまでは「伊勢」姓だったんだから、
「伊勢宗瑞」でいいんじゃないか。「北條早雲」は誤りですね。
言ってみれば、ヌルハチが「清」を建てたと言うのと一緒
>566
後に帝位をおくるんだから、
北条姓をおくっても良いじゃん!
喜ぶかはしらんが。
法名の「宗瑞」でいいじゃん。武田「信玄」上杉「謙信」みたいに・・・「早雲」よりこっちの方が好きだ
武田晴信→武田信玄
長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→上杉謙信
伊勢長氏→伊勢宗瑞
本人が「北條早雲」って名乗ってないわけのに この呼び方はちょっとおかしい
570 :
日本@名無しさん:03/05/16 09:24
571 :
日本@名無史さん:03/05/16 18:18
どっちが正しいのか、学者の間でも意見が分かれているんじゃなかった?
最近決定的な証拠でも出たのでしょうか。
572 :
動画直リン:03/05/16 18:20
573 :
日本@名無史さん:03/05/17 10:28
多目家って実在したのかなぁ??
574 :
日本@名無しさん:03/05/17 11:21
>>573 たしか氏綱と扇谷上杉朝興が戦った高輪原の戦いで
氏綱軍の先陣を務めたのが多目六郎という人。
おそらく早雲と共に駿河に下った多目権兵衛の息子と思われる。
間とって伊勢早雲でいいって言ってるよ
いや 絶対 伊勢宗瑞だ
武田信玄、上杉謙信みたいに法名で呼ぶほうがいいよ。
「号」で呼ぶのはカッコ悪いよ 織田有楽みたいな
577 :
日本@名無史さん:03/05/17 23:59
_,,,,...---ー-、 _____________
())a )) ))c ) /ちょっと休憩
゙i,[| ̄( ゚Д゚) ̄\ < Somewhere over the rainbow♪
__|U| ̄ ̄| ̄\ \ \ bluebirds fiy ♪
|--------| \ \  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
[[二[]二[]二]] \_)
U U
じゃ、間を取って北條宗瑞でいいよ
専門書や論文だと、「伊勢宗瑞」が増えたね。
早雲を使っても、「本当は伊勢宗瑞を使うべきだが便宜的に早雲と表記する」
てな前置きがあったりする。
まあ、宗瑞で通じる人はまだ少ないけど、現場じゃ宗瑞と呼ぶのが普通かなあ。
一般的には早雲だけど、教科書は学会の動向に追随するので、いつか「宗瑞」が一般になるかもね。
581 :
日本@名無史さん:03/05/18 13:34
でも、早雲の名称が消えるのは寂しいな。
582 :
日本@名無史さん:03/05/18 14:21
>>581 消えんやろ
大道寺の書状とか早雲殿となってんだから
幻庵も宗哲になるのか?
>>581 別に寂しくはないと思うが・・・
例えば・・・真田幸村=× 真田信繁=○
みたいに、誤って伝えられたものより正確な呼称の方がいいでしょ?
まあ、宗瑞の場合も同じく。
585 :
日本@名無史さん:03/05/18 20:29
北条記・・令孫伊勢新九朗入道宗瑞
今川記・・北川殿弟伊勢新九朗入道早雲
鎌倉九代記・・北条早雲
北条五代記・・新九朗、後は北条早雲宗瑞と改号する
北条氏の系図では永正15年2月8日に氏綱に北条を名乗るように言ったとか
正直わからん♪
1523年の氏綱から名乗ったのだから それまでは「伊勢」だし、明らかに「伊勢宗瑞」じゃん
587 :
日本@名無史さん:03/05/18 21:45
しっかし、なんで北条早雲で定着してしまったのかね・・・
589 :
日本@名無史さん:03/05/18 22:45
1523年の根拠は何よ
>>590 例えば 愛新覚羅 弩爾哈斉(ヌルハチ)はあくまで「明」から独立した「金」という満洲というローカルな王朝を建てたのであって
「清」王朝を建てたわけじゃないよね?
息子のホンタイジ(皇太極)になって王朝名を「清」に改めたわけだが ヌルハチ自体は「清」という名前すら知らないわけだ。
その彼が「清」を建てたというのはどうだろうか?
おかしいよね?
それと一緒で、伊勢宗瑞は「北條」という名前で無かったのに彼の姓を「北條」と呼ぶのはちょっとおかしいよ。
>>591 おかしいよもなにも、ヌルハチが清の初代皇帝だぞ。
他ならぬ清朝がそう主張して、彼に太祖という名を贈ってるからな。
思わず不安になって世界史用語辞典ひいちまったじゃねーか。
早雲が北条を名乗ったとする説も否定しがたいらしいよ
寛政重修諸家譜 多米氏家譜 北条五代記
などがあるみたい
特に多米氏家譜は伊勢新九郎氏茂が多米権兵衛と平氏再興を相議
し、のち伊豆平定後北条左京太夫長氏と称すとある
594 :
日本@名無史さん:03/05/19 12:42
>>592 いや ヌルハチが建てた国は「清」じゃなくって「金」なんだが
>>593 家譜も軍記も、史料としてはねえ・・・
無視はしないけどさ、それより、信頼できる同時代史料はないのかね。
598 :
日本@名無史さん:03/05/19 17:54
ヌルハチ
(1559〜1626)中国,清朝第1代の皇帝(在位1616〜1626)。
太祖という。▽中国東北区の女真族の出身。狩りの組織をもとに八旗という軍
隊をつくり,1616年,後金国をたててハン(王)を称した。◇子のホンタ
イジ(太宗)が国を清とあらため,孫の順治帝のとき中国本土を支配。
学研学習事典データベース (C)Gakken 1999
599 :
日本@名無史さん:03/05/19 18:20
ところで、本家の伊勢家はどうなったの?
氏康の時代になったら全くの交流なしになってしまったのだろうか?
本家をうまく取り込んでいれば、秀吉にあんな形で潰されることも
なかったろうに、と思ってしまう。
山崎合戦で本家もアボ-ソ
601 :
日本@名無史さん:03/05/19 19:58
政所執事伊勢貞孝は三好方につき義輝と対立。松永久秀の裏切りにより、1562年に坂本で
敗死、子の貞良も死亡。政所は義輝に摂取される。
貞孝の孫の貞為は父の死後幼少のため若狭小浜城へ家臣とともに退避。信長、秀吉に仕え
ているが、病によってどちらも辞した
貞為の弟貞興は信長の家臣になったあと、
光秀に荷担し、山崎の合戦で討死した。
江戸中期の幕臣・故実家伊勢貞丈は京都伊勢氏の子孫らしい。
有事法制絶対ダメ!!
北朝鮮が攻撃してくるわけない!!!
オイルも食料もねえのにどうやって
戦争するんだよ!!!
もし、一発でもミサイル発射してきたら
アメリカに攻撃されて
金正日政権が崩壊してしまうんだから
北朝鮮(金正日)が攻撃してきて
北朝鮮(金正日)にとって良いことなんてひとつもないんじゃー!!
だから、北朝鮮が攻撃するわけない!!!
本当の問題は、北朝鮮問題を利用して
市民の生活の自由を制限して
政治家に都合の良い
ムチャクチャな法案を作ろうとしていることなんだよ!!!
有事法制が参議院でもしも可決されたら、
反対していなかったことを後で後悔しますよ。絶対!!
今の政治家が本当に国民のことを考えて政治をしているんなら
日本が今、社会的にも、経済的にもこんなに情けない国になるわけないでしょ!!
有事法制絶対ダメ!!
そのことは声を大にして言いたい!!!!
603 :
日本@名無史さん:03/05/19 20:08
頼りにならない本家だったのね。
京都で「伊勢」を名乗ってもバカにされるだけだったりして。
>>595 んなこたー知ってるよ。
ただ、女真族の間では「金」も「清」も同じ音ということもあって別王朝と見なしていないってことだ。
中国の王朝はよくやるんだよ。王朝が出来る前にさかのぼっておくりなしたりな。
まあ、あれだ。スレ違いだし無視してくれ。
605 :
日本@名無史さん:03/05/19 20:37
606 :
日本@名無史さん:03/05/19 20:39
HP貼り付けている間にずれた・・・602のことね
607 :
日本@名無史さん:03/05/19 20:42
>>603 昔ほど権力はなかったけど一目おかれてたんじゃないかな。
池田恒興も息子の元助に伊勢貞良の娘を入れてるし、山崎の
戦いでは伊勢貞興は2千の軍勢を率いて参陣してる。光秀が
5千で斎藤利三が2千のことを思えばそれなりの勢力だった
と思う。
足利義満が伊勢家は内向きの礼法を、弓馬の武術に長じていた小笠
原家には弓馬に関する礼法・外向きの礼法を制定させたらしいから、
信長、秀吉もそれなりに必要だったんじゃない。
608 :
日本@名無史さん:03/05/20 20:21
北条家の勢力範囲ってどれだけなん?
609 :
日本@名無史さん:03/05/20 21:48
ところで北条氏綱が謙信の親父にびびって贈ったっていう家宝はなんてやつだっけ?
たしか屏風だったと思うんだが思いだせん。
知ってる人教えて。
610 :
日本@名無史さん:03/05/20 23:09
>>609 何でびびるんだ?出典根拠は?
あいだに両上杉がいるのに?
>>609 氏綱の山内上杉包囲のために送ったんじゃなかった?
為景が坊主の絵はいらんと送り返した
という1524年の北条氏綱書状があるだけでなんの絵かは不明じゃなかったかな?
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
613 :
日本@名無しさん:03/05/23 00:47
早雲基地としてあげ
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
( 人____)
|ミ/ ー◎-◎-)
(6 (_ _) )
|/ ∴ ノ 3 ノ ボ・・ボクノデカチンミテヨ・・
\_____ノ n
(⌒ \ .( E) 。ρ゚。
\ \_// /⌒゚。゚
//\ _/) ゝ .ノ
// \ ) / / ドクドクッ
υ ( . |/ ./
| / ビクンビクン
. ノ ノ●●
丿 丿|
/ /| /
// μ
∪
615 :
日本@名無史さん:03/05/24 00:15
!!(#><)ムカー
616 :
日本@名無史さん:03/05/24 16:53
617 :
日本@名無しさん:03/05/26 16:38
民政は後北条氏が日本史上ナンバーワン
618 :
日本@名無史さん:03/05/27 01:32
馬鹿晒しあげ
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
620 :
日本@名無史さん:03/05/30 22:50
あげ
621 :
日本@名無史さん:03/05/31 14:56
大藤式部丞 相模國 壱千伍百くわんもん
勝ち戦で戦死・・・・
623 :
風魔党 ◆CtZQaXXkMM :03/05/31 17:22
おお!こんなスレがあったのですね!
私は武田勝頼が憎い。御館の乱で勝頼が
金と領地に目が眩み、北条を裏切らなければ
武田=上杉=北条の巨大姻戚帝国が実現し
関八州王国も成立したはずなのに・・
624 :
困っています:03/05/31 17:38
625 :
風魔党 ◆CtZQaXXkMM :03/05/31 17:41
北条氏政は天才的な戦略眼だったのに
徳川のプロパガンタって凄いね。。
平成の世なのに氏政愚鈍説を多くの人が
信じてしまっている・・
626 :
日本@名無史さん:03/05/31 19:13
>>625 お前バカか?どこが天才的な戦略眼だったんだ?
信長公の遺志を受け継ぎ、飛ぶ鳥落とす勢いで天下を統一していっている秀吉公に逆らうようなマネするのが天才的な戦略眼なのか?
秀吉公が亡くなられるまで天下を待つのが 天才的戦略眼だろう
627 :
日本@名無史さん:03/05/31 19:20
浅井久政も北條氏政も武田勝頼も時勢が読めないバカだ
まーバカって言っちゃうのは簡単なんだけどね
630 :
風魔党 ◆CtZQaXXkMM :03/06/01 09:26
>>626 秀吉っつっても、伊達が東北で威勢を張りつづけてたら
秀吉軍は内部崩壊してたんだよ。
伊達が小田原へ来た事で秀吉側の結束が完全なものに
なってしまいましたがね
秀吉軍が内部崩壊?
北条が内部崩壊してんですよ。
成田、松田が謀反しそうなかんじだったじゃん。
不信の城状態。兵同士も不信感いっぱい。
これはどう説明するのかね〜。
方や秀吉軍は城まで築いて、楽勝ってかんじで、補給も十分!
秀吉の寿命が尽きるまで篭城するつもりだったのかな?
氏政は氏康が生前いっていたように、だめだめだったってことです。
真田昌幸には糞虫といわれていたみたいだし・・・。
633 :
風魔党 ◆CtZQaXXkMM :03/06/01 20:46
>>632 だから伊達さんの行動が命運を分けたって言ってるでしょん
634 :
日本@名無史さん:03/06/01 21:15
>>630 >伊達が東北で威勢を張りつづけてたら
秀吉軍は内部崩壊してたんだよ。
その根拠は?
>632
> 真田昌幸には糞虫といわれていたみたいだし・・・。
ソースは小説?
636 :
風魔党 ◆hpHoHZ9qtw :03/06/02 08:26
ここ十年でいろんな歴史的資料が発見されています
漏れ、そのうち隠れた史実を掘り起こして小説を書こうと思ってます
誰かに先をこされちゃうと価値がなくなっちゃうので証拠がかかれている
ものの出典はここではあげられません。スマソ。
でもネタとか脳内とかじゃなくてマジ話しです。
秀吉も薄々知っていた様で、危険な早雲寺から陣を移動したいがため
城を建設することを早急に進めてたようです。
とにかくこの戦では、名目じょうは相手の戦意を削ぐという形で
『どう足掻いても天下人は自分であるのだから
裏切って自分【秀吉】を急襲することのない様に
考えを実行に移さないように』との意図で
裏でかなりの手段が行なわれました
637 :
日本@名無史さん :03/06/02 10:21
>>636 隠れた史実とか言ってるけど知ってる人は知ってるっしょ。
秀吉さんは、周りの人には「長期戦になるからゆっくり構える」
とか言いつつ、内心短期決戦を目論んでいたんだよ。
戦が停滞したら雲行きが怪しくなって危ない事を知っていたんだな。
だから利家に「城兵は捕虜にせず皆殺しにせよ」って言ったんだよ!
投降兵たちが騒ぎ立てて、その動乱と共に幾つかの大名たちが
反旗を翻す盟約があることを知っていたのだからな!
利家を叱責した際の秀吉の書状にそのことが書かれてて、
それが前田家系から出て来たってことぐらい知ってるやつは知ってんだよ!
だから自慢になんねーんだよ!このバカが!
>>632 >氏政は氏康が生前いっていたように・・
これって江戸時代の創作話だって知ってた?
639 :
日本@名無史さん:03/06/02 15:49
>>638 創作だろうが、氏雅が駄目なのは事実だろw
640 :
日本@名無史さん:03/06/02 18:48
いつの時代も倒しにくい敵はウジ虫でしょ。
ブッシュJrもフセインをぼろくそ言ってたし。
641 :
日本@名無史さん :03/06/02 21:43
>640
フセインが倒しにくい?全然戦争になってなかったじゃん
まじでワンサイドゲームだったじゃん。まだ生きていても、
兵も金もなければ死んだも同じ。
ビンラディンも同じ。
>637
誰が反旗を翻すの?
642 :
日本@名無史さん:03/06/02 21:50
通常の外交圧力では政権崩壊に追い込むことができないから
なりふりかまわず力ずくで叩き潰したんだよ。
ミリタリーにはまった人ならそう考えても仕方がないが。
まーブッシュも馬鹿だがフセインも糞だからどーだって良いけどね。
643 :
日本@名無史さん:03/06/02 22:12
その馬鹿やろうの力の恩恵にあずかって、食料やら石油輸入してる日本人がいえる事か。
くそ氏政も同じ叩き潰されたんだ!そのおかげで、俺らがくらしてるんだ。
本題をかたれ「640」
嫌なら一人で生きてみろってんだ!
644 :
日本@名無史さんよ:03/06/02 22:16
氏綱いいよね?
だれか同意してチョ
糞スレだなw
646 :
日本@名無史さん:03/06/02 23:38
漏れは北條家は実質、伊勢宗瑞から氏政までの4代と思ってるんだけど
>>643 >その馬鹿やろうの力の恩恵にあずかって、食料やら石油輸入してる日本人がいえる事か.
それは違う。
少なくとも中東外交はアメリカと一線を画した独自のものだったよ。
>くそ氏政も同じ叩き潰されたんだ!そのおかげで、俺らがくらしてるんだ。
前後の文の繋がりが不明瞭。
少なくとも秀吉が北條を潰したことと、
我々の生活が成り立っていることの関連性が無い。
他人が読むと言うことを頭に置いて、書き込むべき。
嫌なら、一人で生きて下さい。
もお、終わりにしましょう。
>644
同意。
俺は実質的には初代だと思う。
650 :
日本@名無史さん:03/06/03 03:36
651 :
日本@名無史さん:03/06/03 14:41
652 :
日本@名無史さん:03/06/03 22:53
氏綱公の功績無くして、北条はありえない。
氏康以降はみんな、氏綱公の遺産でやっていたようなもの。
ありがたーいお人でございます。
北条を語るには、まず氏綱。
良き2代目無くしてお家無しです。
独立した一個の勢力として考えた場合、初代は氏綱かもな。
宗瑞は結局、今川の呪縛から逃れて無いし。
654 :
日本@名無史さん:03/06/04 03:57
初代は氏綱?
長宗我部も元親が初代か?(W
656 :
日本@名無史さん:03/06/04 05:52
氏繁
あべぽ
657 :
日本@名無史さん:03/06/04 05:57
658 :
日本@名無史さん:03/06/04 08:35
643の1人のために...
659 :
日本@名無史さん:03/06/04 10:15
>>653 氏綱さんも立派だがやはり早雲でしょ
彼が行動を起こさなけりゃ今川家臣の
伊勢氏のままで終わってただろーから
もしかすると、北条を名乗った最初が氏綱だから、
初代と呼んでいるのかも。
33歳。
去年まで金無し君だったけど、内紛調停とパチンコで
二年で城一個貰った。一度やってみなよ。
初回のみだけど、近親を側室に差し出せば30貫(150石くらい)は貰える。
もらうだけもらって仕事せずに往生することもできるし、内紛で赤か黒に
思い切って賭けてしまえば50パーセントで二倍になる。
命が惜しけりゃ楽隠居でゲームすればいいだけ。暇つぶしになる。
闘茶とか双六とか色々あるのでマジでお勧め。
http://www.imagawa.com/~kokokuji/japanese/
>>660 いや、おそらく厨房でしょ!
それと実は氏政は研究すればする程、駄目武将ではないことがわかる
後世の世間一般の評価が低い
も少し高いと報われるのに
東国武士だから仕様がないのだが・・・
663 :
日本@名無史さん:03/06/05 18:57
>>662 漏れも北条研究家だが、調べれば調べるほど
実は氏康さんより氏政さんのが優秀だったと思うようになってきた。
氏政の時代、二度も大飢饉にみまわれ農民達の離散が深刻で
村単位で夜逃げしてたのを再び集めたり、飢饉ゆえ今までやっていた
代代わり検地も氏政の時代はできなかった。
本当なら破産で崩壊してただろーに良く領地を広げたよホント!
それに風魔の使い方が上手い!家康みたいに家臣にするのは簡単だが、
彼等を治安維持や飢饉で苦しんでいる農民たちが一揆を起こさない様に
利用している。『こわいこわい風魔に、悪事や殺人をしないように見張ったり
厳しく言えるのは北条さまだけ・・』という書状を村長たちに回して
治安維持を見事に成功させた!
664 :
日本@名無史さん:03/06/05 19:14
>>663 風魔の治安維持ってどんな資料でわかるの?
安堵状とかじゃないだろうし
665 :
日本@名無史さん:03/06/05 19:38
箱根は風間谷の住人。実態はあまり分かりません。
どうやら放火などが得意だった模様。
666 :
日本@名無史さん:03/06/05 19:52
ゲリラのような活動を得意とする野武士集団ってところかね。
667 :
日本@名無史さん:03/06/05 22:33
今の風祭のあたり?
668 :
日本@名無史さん:03/06/05 22:50
ここは言い逃げのスレですか?
出典書け 低学歴ども
669 :
甘えんな!:03/06/05 23:04
出典なんて自分で探せ!北条氏にまつわる資料とか見りゃ載ってるじゃんか!何でも人から聞こうなんて厨房の極み!
元風祭あたりにいた騎馬を扱う集団。
根城は南足柄市の最上寺が最有力。
北条との窓口はおもに幻庵さんで、
彼の領内にはなぜか宗派に属していない寺があった。
横浜の小机とかにもあり各地でやりとりしていた。
北条氏の中で最も所領が多かったのも幻庵さんでした
671 :
日本@名無史さん:03/06/05 23:24
>>669 低学歴には論文書く機会がないから
習慣になってないんだろ(W
672 :
日本@名無史さん:03/06/05 23:24
間違いなくあんたより高学歴だがなw いちいち細かく書く場所じゃねーだろここはよ!
事実だけを伝えりゃいいんだよ!
君みたいに暇じゃねえんだよ。
気分転換でここに来てるだけだからな
674 :
日本@名無史さん:03/06/06 00:56
まあ出典が明らかでないものを「事実」と言われても納得しかねるぞw
676 :
日本@名無史さん:03/06/06 08:19
>>673 出典=お宝の宝庫 だから他の人が入手してしまったら
ここで自慢できなくなるから言いたくないだけでしょ。
素直にそういえばイイのにw
神奈川のちょっと大きな本屋へ逝くと似たようなことが
資料にそってかかれてるしね!
手柄にしたいんだよね、君はw
あと最上寺ネタはインターネットだろ!南足柄市の職員と寺側が最上寺の
歴史を調べていて、そうなんじゃないかって言ってたしな。
確かにあそこは武田との交通の要害だし今川とも近い。
同盟しつつも警戒を怠ってなかったわけだ。
677 :
日本@名無史さん:03/06/06 08:26
武田(甲斐)とだったら交通の要衝って足柄より
八王子方面じゃないか・・・?
というか、正直な話、出典も満足に示せないようなやつに、
>間違いなくあんたより高学歴だがなw
などと言われても納得しかねるのだが。
>事実だけを伝えりゃいいんだよ!
事実、ね。事実。今時ランケカヨ。
679 :
日本@名無史さん:03/06/06 11:11
事実と言われても、江戸時代に書かれたものだと随分と脚色もあるし、
できるだけ古い史料を、というと良くわからん、で終わったりする。
680 :
日本@名無史さん:03/06/06 12:33
早雲は伊勢氏を名乗っているが、北条の祖が桓武平氏→平清盛だからで、
清盛といえば伊勢平氏の嫡流。ここら辺と関係してないのか?
682 :
日本@名無史さん:03/06/06 14:40
伊勢新九郎は、備中高越山城主伊勢盛定の息子というのが有力な説。
高越山城跡行ったことあるけど、北条早雲生誕の地っていう
大きな石碑が建っていた。
>>681 北条の子孫の娘と早雲が形だけでも結婚したというのが一番正しいのでは?
板部岡江雪斎融成の父田中泰行は執権北条高時の二男時行の子孫というし、
北条の子孫なんてたくさんいたと思う。
ただ、早雲が平氏であるとは関東でも認識されてたみたい。千葉氏とも
同じ平氏として友好関係にあった。
今川氏親の氏は長氏の氏?
685 :
日本@名無しさん:03/06/06 21:45
>>684 目上にあたる氏親が早雲から名を貰う事はありえない。
仮説だが、もし貰ったとすれば古河公方政氏からしかない、と推測する。
今川家の当主に名を与えられる目上の存在は
足利将軍家か関東公方家しか考えられないから。
氏親が元服した頃の大名以上の身分の人を見ても、
政氏しかいないと思う。
>>685 俺もそれを考えたが自分を古河においやった今川を
許すだろうか?
687 :
日本@名無史さん:03/06/06 22:35
初代今川の国氏の後、氏を通字にしたからそれに習ったのでは?
小鹿範満の範は使いたくなかったかも。。。
元服の烏帽子親が一字与えることもあるから早雲である可能性も
あるけど。
688 :
日本@名無史さん:03/06/06 22:38
689 :
日本@名無史さん:03/06/06 22:56
673ってあほだな。
>>671にレスするつもりで名前に671って書いてる。
>>688 伊達遠江守家中←おもろいと思ってんの?
( ´,_ゝ`)プッ
690 :
日本@名無史さん:03/06/07 08:05
ここで出典晒せってウルサイ椰子は
小説書こうとしてたり雑誌者の椰子じゃないか?
またそっち系の関係者も見てるし
せっかく将来自分が公表しようとしてるのを
パクられるの嫌だから、こんな公の所にはかきませんよー
692 :
日本@名無史さん:03/06/07 09:34
>>690 心配するな。その程度の才能ならすでに終わってる。
693 :
日本@名無史さん:03/06/07 10:26
もう出典云々はどうでもいいよ
ただ、本当に小説を書く気のある奴なら
卵がかえらないうちにヒヨコの数を数えないと思うがね
695 :
日本@名無史さん:03/06/07 12:27
まぁ出版社勤務としては、ときどき来るのよ、この手のやつ。
資料とか突付けて、あぁだこうだと能書きたれて、読者の意向を無視しているのが。
ほとんどが駄作なのよ。読者はそんな資料がどうのこうのなどあんまり関係無いの、
時代小説はグッとくるものがないと駄目なのよ。
売れないのよ、こちらは商売なんだから。
まぁ、趣味でやるのは勝手だけど(自費でね)、どこの社もとりあわないよ。
マジで。
しかも、ネタが北条だしねぇ〜。もっと、インパクトのあるどちらかというと、
イメージで英雄っぽいのをネタにするとよい。まず本屋で買手の手に取れせないと駄目なのよ。
嘘がはいったてだれも文句なんかでないから、教科書じゃないんだから。
小説書くならそこらへんも勉強してからにしないと、ただの紙の無駄。
駄作読まされるオレラの身にもなれよ。といっても全文なんて読まないけどね。
氏綱はいつ頃から実権を握っていたのかな?
697 :
日本@名無史さん:03/06/07 15:48
>>695 ほらみたことか!だから日本の出版社はダメなんだよね(ゲラ
北条だからグッとくるのが書けるんじゃん!
低脳で発想が貧困な人はかわいそうですねー
698 :
日本@名無史さん:03/06/07 16:28
俺も出版です。(理工系だけど。)
本、売れてますか?
699 :
日本@名無史さん:03/06/07 16:58
>>681 北条氏の祖は直方。これも信憑性は薄いらしいけど。清盛とは直接関係無い。
>>683 その北条の子孫と結婚したというのも、全く根拠が無い俗説。
そもそもそんな女性が住んでいたこと自体が証明されていない。
>>684 早雲の実名は確認できない。氏茂、長氏、行盛等は
すべて系図、その他根拠が無いものが元になっている。
現在は備中出身の伊勢新九郎盛時の後身が早雲らしいので、盛時が有力になっている。
>>685 そもそも古河公方は成氏。
それに今川と古河公方の関係を考えた方がいい。
可能性として、早雲はともかく、子の氏綱は今川から貰った可能性ある。
氏親の一族になるし。
糞スレだね
701 :
日本@名無史さん:03/06/08 00:45
>>690 アホだな〜
小説は小説であって、面白ければ出典なんてどうでもいいんだよ。
事実が知りたいから出典ぐらい書けって言ってるんだろ。
702 :
日本@名無しさん:03/06/08 10:32
>>699 氏綱は氏親から貰ったと思うよ。
当時は早雲は事実上今川家に家臣の礼をとっていたしね。
今川と古河公方家の関係は百も承知の上。ただ、
当時の慣例として、目上の人の名は貰った人以外遠慮するのが普通。
たとえば、義満の時代に満の名を持っている人は
(畠山満家、足利満兼など)
100%彼から貰ったものと見ていい。
今川氏親が氏の名をつけるというのは、貰ったのかあるいは
「同格だぞ」という意思表示のどちらかということになる。
つーか、小説がどうの出典はどうでもいいだの言ってる奴は、要するに北条をネタに妄想を開陳したくてしょうがないってことですか。
>>695を読むと、ようするに根拠がなくてもぐっと来るおもろい話なら構わんと言ってるように思えるんだが。
ここは歴史板じゃないのか?
704 :
日本@名無史さん:03/06/08 11:00
>702
もらったのでしょう。今川の背後の公方勢力、というか
公方のまねをして、田舎侍違いを見せ付ける事が
当時としての権力のありかただったから、北条としても
臣下やまわりの勢力に、後ろには公方がいる事を印象づけるには
今川の勢力下にいることが大事だったのでしょう。
しかも、今川から一字をもらったってことでも、周りには十分なハッタリ
になりますからなぁ〜。
弱小の北条にとっては、なによりの得難い、一字でしょう。
北条氏綱が『氏綱』をいつから名のり始めたのかは知りませんが、
今川氏親は『氏親』を長享元年11月9日の事件以降に名のり始めていますよね。
(奇遇にも氏綱が誕生したのも長享元年ですが。)
この頃の今川家は駿河一国がようやく落ち着いた頃。
遠江の支配を目標とする訳ですから、目は西に向いていたことでしょう。
今川家の『氏』を用いて創建当時の意気込み(?)で望もうとしたのでしょう。
もし、伊勢長氏という名が本当なら伊勢家への感謝(恩義)の意を込めるを内心としたのかもしれませんね。
古河公方足利成氏は・・・わかりません。
真相は闇の中ということで。
20年後・・・。
1506年と1508年に三河に出陣する伊勢新九郎の姿があります。
氏綱の姿はわかりません。
多分、父子共に参加ということはないかなと思いますが・・・。
(氏綱が父と同じように諸国を放浪していたら面白いですね。)
扇谷上杉朝良と同盟を結んでいますし、
1495年以降小田原城奪取していますから、
関東の情勢も安定していたと思います。
(1507年に越後で起きた事件の影響もあるかな?)
この頃は氏綱も立派に成長して元服を済ませているはず(?)ですので、
親交ある今川氏親から『氏』をもらっている可能性が高いですね。
706 :
日本@名無史さん:03/06/08 15:19
>>703 いーえ、違います。ここは思い込み厨の楽園です。
707 :
日本@名無史さん:03/06/10 06:50
通字と偏諱は違うだろ?
偏諱は代々受け継いではいけないし、それをさらに家臣に与えたりしたらいけないわけだし。
もし氏綱が氏親から貰ったのなら、氏綱が駿東兵乱で今川氏と戦闘状態になった際「氏」を捨てて別の名を名乗るはずだろう。
主人を滅ぼした陶晴賢しかり、今川氏から独立した徳川家康しかり。直後は無理でも死ぬまでに改名するんじゃないの?
今川氏の勢力を背後に云々は、今川氏と北条氏が対立した後にはふさわしくない説明だと思うけど。
とはいえ否定はできないかなあ・・・。立場も血縁も近いしなあ。無関係とするほうがおかしっか、やっぱり。
そういえば、氏綱って、北条を称する以前から「氏綱」って名乗りなの?
708 :
日本@名無史さん:03/06/10 07:33
>>699 直方は紛れもなく北条氏祖だよ
但し時政の家は庶流
709 :
日本@名無しさん:03/06/10 09:17
>>707 改姓以前は伊勢氏綱と名乗っている古文書あり。
他の名乗りをした証拠はない。
通字でも偏諱でもどちらでもかまいませんよ。(笑)
ただ、伊勢新九郎の名が、よく言われている伊勢盛時なら、
『貞』か『盛』が通字で『氏』ではありません。(違いましたらごめんなさい。)
『氏』を使用しているのは長男氏綱、次男氏時、三男氏広からなので、
別に今川家からの偏諱説でもいいかなと思いました。
天文6年の第一次河東の乱の件は、
氏親・氏輝の親北条家路線から義元の親武田家路線への転換ということですから、
『氏』を捨てる必要は無かったのかもしれません。
そもそも、花蔵の乱自体が今ひとつ不明な点が多いのでわかりにくいですね。
その義元は、第12代将軍足利義晴から偏諱を受けて『義』を一字拝領し、
代わりに『氏』という字を捨ててしまいますが・・・。(意味ありなのかな?)
でも、北条家は何故『氏』を用いたのかな?(長氏なのかな?)
氏綱の別名・・・私も聞いたことがありませんね。
711 :
日本@名無史さん:03/06/11 02:44
>>708 それはあくまでも系図上のこと。
しかもその系図も2系統はあるし、その間に不詳な人物が入っているので疑わしい。
無理やり直方に繋げた節がある。
北条の本家は時定の方だっけ?
712 :
日本@名無史さん:03/06/11 02:54
>>707 >通字と偏諱は違うだろ?
>偏諱は代々受け継いではいけないし、それをさらに家臣に与えたりしたらいけないわけだし。
そうとも限りません。
例えば近世の例で言えば、大岡氏や長岡藩の牧野氏、植村氏など、偏諱を通字にしています。
中世でも、確認していませんが奥州の斯波諸氏や幸手一色氏なども同様と思われます。
また関東公方は将軍から偏諱を受けていますが、貰った偏諱を関東などの諸大名に与えています。
713 :
日本@名無史さん:03/06/11 23:16
そうでもないよ
>>708 直方−維方−時方−時家−時政
直方−聖範−時方−時家−時政
直方−聖範−時直−時家−時方−時政
直方−維方−聖範−時家−時兼−時政
氏は古河公方からだろうよ
714 :
日本@名無史さん:03/06/13 00:43
>713
「聖範」なんていかにも唐突だし、法名っぽいね。
715 :
日本@名無史さん:03/06/13 00:46
氏綱の従兄弟が幻庵だっけか?
何でもかんでもニセ系図かい
北条、熊谷は紛れもなく直方流だよ(熊谷が嫡流)
佐々木紀一「北条時家略伝」ぐらい読もうね。
>>715 幻庵って氏綱の末弟じゃなかったっけ?
あれ?違う?
718 :
日本@名無史さん:03/06/13 10:51
>716
そんなもの読む必要がない。
その本を鵜のみにしてるんだ。
719 :
日本@名無史さん:03/06/13 10:56
>>717 幻庵は氏綱の末弟で名は長綱。
そこから父親の伊勢新九郎の実名が「長氏」という妄想が生まれた。
北条為昌はどうなるんだよ。
720 :
日本@名無史さん:03/06/13 17:51
>719
妄想だったの?
それが本当だったら最初に言い出した学者は罪深い奴になるけど。
721 :
日本@名無史さん:03/06/13 20:41
>>716 室賀氏のサイト見てみ
前北条=パチモン、後北条=マジモンの平氏って言ってから
722 :
日本@名無史さん:03/06/13 21:29
たのしいとき! くそ小説家を出版社に呼び出すとき
たのしいとき! くそ小説家を出版社に呼び出すとき
たのしいとき! そんでもって、くそ小説家に読まずに才能無いねって言う時
たのしいとき! そんでもって、くそ小説家に読まずに才能無いねって言う時
たのしいとき! くそ小説家に「まぁがんばってと」心にも無い事いいながら心で笑っている時
たのしいとき! くそ小説家に「まぁがんばってと」心にも無い事いいながら心で笑っている時
たのしいとき! そんでもって、また持ってくる奴がいるとき
たのしいとき! そんでもって、また持ってくる奴がいるとき
723 :
日本@名無史さん:03/06/13 21:42
粘着がいるな。そんなに悔しかったのか。
惨めだな。
724 :
日本@名無史さん:03/06/13 22:02
室賀氏のサイト見てみ
前北条=デジモン、後北条=ポケモンの平氏って言ってから
725 :
日本@名無史さん:03/06/13 22:15
執着至極にございます
726 :
日本@名無史さん:03/06/13 22:29
再来年の大河ドラマは源義経。
北条早雲はガセだったのか・・・・
727 :
日本@名無史さん:03/06/13 22:30
ガセ?!カゼ?!どっちなんだぁ――――――
後北条じゃ視聴率とれんからなぁ・・・
729 :
日本@名無史さん:03/06/14 04:00
だってタイトル「北條早雲」として、
肝心の北條早雲が出てこないドラマなんて作れないよ。
主人公は伊勢新九郎としか呼ばれないでしょ。
730 :
日本@名無史さん:03/06/14 07:06
>>720 妄想だったら長氏よりも氏長にしそうなもんだがなあ
731 :
歴史学博士の俺様 NEO:03/06/14 09:06
729
GOODですよ
>>718,721
可哀想な人達ね。君たちには佐々木論文は無理だろうから
せめて野口実「中条家文書「桓武平氏諸流系図」」ぐらいは
読もうね、坊やたち。室賀って宝賀のこと?
733 :
日本@名無史さん:03/06/14 12:32
>>732 まだ言ってら。
なんでもいいけど鵜のみにしてはだめだよ。
痛々しいスレですな。
735 :
日本@名無史さん:03/06/14 22:44
途中までは良スレだったんだけどねー。
p どっちが鵜呑みにしてんだか。可哀想に。
ま、勉強する気があるなら佐々木論文読むこった。
アラシになるのは本意ではないので、ばいなら〜
734,735 氏すまぬ
737 :
日本@名無史さん:03/06/15 08:00
荒れてくるというのは、新しいネタがないということなのかなー?
あとは不毛な解釈の論争...悲しいねぇ。
アホな文科系学者の世界と同じか。
どっちを鵜呑みにするか、は解釈論争と言わんな。
ともあれ、大河ドラマは残念sage……
739 :
日本@名無史さん:03/06/15 16:13
つーか、また諱ネタで荒らしかよ。
伊達遠江守家中は相変わらずウザいな。
740 :
日本@名無しさん:03/06/16 10:02
神奈川(正確には武蔵)生まれな俺だが、
小田原が遠いからか、北条家の地元って気がしない。
地元の誇りは鎌倉幕府だな、やっぱし。
その鎌倉幕府の中心、鶴ヶ丘八幡宮を再興したのはゴニョゴニョゴニョ
>742
北条がいなければ、再建の必要もなかったんじゃ・・・
>>732 お〜、今まで間違えてた惨薬子。視覚がOCR以下だな
>>736 中条家所蔵桓武平氏諸流系図は某サイトで見たことある
維将−維時−直方−維方−聖範(或直方子)−時家−時兼−時政ってのだろ?
ちなみに、北条氏へと続く上記人物(維方−聖範−時家−時兼)には官職を記さず
維将−時叙(周防守)−重永(式部丞)、弟重通−重弘(土佐守)
−顕弘(民部少輔)には官職が記されてる
この系図に拠るならばこっちが主流だね>熊谷が嫡流
>>716 同じサイトで読める久下系図では祖が舒明天皇、熊谷系図では
維衡−政度(惟雅)−惟時−直方−惟方−時方−時家−時政
これで何がわかるん?で、何で直方の嫡流が私市党の一庶流を継ぐのか
北条の祖が伊豆に土着する経緯は伊豆守維衡ですか
なぜ一族で任官していた上野に土着しなかったんでしょうか
坊やに教えて下さい
745 :
日本@名無史さん:03/06/19 01:34
前北条って系図に「北条介」とかあるけど嘘だよね。
中国の伊豆には介がいないはずだからね
それはそれとしてここは後北条スレ
747 :
日本@名無史さん:03/06/21 03:08
>746
えっ?
狩野介って伊豆権介かなんかじゃなかったけ?
748 :
日本@名無史さん:03/06/21 14:29
北川殿は伊勢守の娘なんでしょ?伊勢氏で伊勢守を名乗れるのは
政所執事だけだから伊勢貞国の娘じゃないの?
749 :
日本@名無史さん:03/06/21 14:48
今川の資料では貞国の子伊勢貞藤の娘になってた。
関東武士の受領号は律令制国司とは無関係だよ、自称。
○○介ってのが本当に国の次官やってたわけじゃない。
だから伊豆みたいに介のいない国にだって○○介はいるw
751 :
日本@名無史さん:03/06/22 12:16
織田信長は朝廷から任命された訳でも赴任したわけでも
ないのに勝手に上総介を称していた
最初は上総守なんて自称したらしいな(藁
753 :
日本@名無史さん:03/06/22 14:00
>>750 えっ?
八介ってみんな勝手に名乗ってたっけ?
754 :
日本@名無史さん:03/06/22 23:10
753 八郎ってなのったんです
折れは親王身分なので上総守であったわけではあるが
今は治天の君であるがなw
756 :
日本@名無史さん:03/06/23 02:26
八介とは
三浦介、冨樫介、大内介、千葉介、狩野介、(秋田)城介、上総介、
あとひとつは何だっけ?
井伊
秋田城介だけは、いちおう律令時代からあるが
他は在庁連中の自称
758 :
八王子だけが武田氏小田原侵攻の入り口と考えるな:03/06/23 08:26
河村城跡
山北町には、河村氏の居城として中世から戦国時代にかけて
脚光を浴びた河村城跡をはじめ、戦国時代小田原北条氏が武田氏にそなえて
整備した楊ノ沢城、中川城、新城などの城郭遺構が残つています。
特に河村城跡は、郭(くるわ=堀や土塁などで区切られた平担面)の配置などが
近世の絵図に残つており、また最近の調査により「畝堀(うねぼり)」が発掘され、
城の性格や意義について注目されています。
--------------------------------------------------------------
「河村城跡」(県指定史跡 平成8年2月13日指定)
山北町山北、岸に所在し、酒匂川中流城左岸の通称城山と呼ばれる
標高約225m、酒匂川河川敷との比高差約130mを測る独立丘陵上に
位置しています。北は旧皆瀬川、南は酒匂川によって囲まれた自然の要害
というべき地でした。
河村城は平安時代不期から河村氏の居城として知られ、
南北朝時代新田義興らと共に篭城したことは太平記等の文献にみることが
できます。その後、畠山国清、上杉憲実、大森氏を経て、
小田原北条氏の持城となり、新城、中川城、湯ノ沢城等とともに、
武田氏に対する重要な城でした。このため古文書には大規模な修理を
したとありますが、何度かの武田氏の攻撃にあい廃城になったと
考えられています。
河村城の郭配置は古絵図筆によってうかがえますが、
この地がみかん畑となっていたため、現地でもその位置が容易に確認できます。
759 :
日本@名無しさん:03/06/23 09:53
760 :
日本@名無史さん:03/06/24 03:10
>>757 上総介も律令にあるよ。
広常が任官しているかは知らないけど。
大内の周防権介って任官してなかったけ?
あはは、なるほど。
ただ他の例からして、上総ってのは国名じゃなくてウジ名でしょう。
757で「ある」って書いたのは、秋田城介だけは任官の事実がある
ってことっす。舌足らずでした。
地方豪族が権介任官てのはあり得ないんじゃないかな。
織田家!?
で最近では、狩野介って誰なのか比定はできているのかな?
763 :
日本@名無史さん:03/06/24 11:57
>>761 >上総ってのは国名じゃなくてウジ名でしょう
というか上総介の「ウジ名」は「平」だよ。
それに「ウジ名」が名字という意味なら、
代々上総介を名乗っていたから上総氏と言われるだけ。
城介と上総介は、先に職名ありき。代々そう名乗ってたから、
城氏・上総氏と呼ばれるようになった。
他は先に名字ありき。狩野氏だから狩野介。
てことでいい?
>>751 それは別の問題(私称)
八介の多くは私称どうのではなく創作てカンジ?
城介は城氏じゃなくて、安達氏だったかと
城氏が滅んだあと安達が世襲ね
767 :
日本@名無史さん:03/06/26 02:59
>>764 >代々そう名乗ってたから
他の八介だって代々名乗っていたからだよ。
知らないみたいだけど、
たとえば三浦介は相模(大)介
冨樫介は加賀介
千葉介は下総介
大内介は周防権介
狩野介は伊豆(権?)介
など
いや、だから
加賀介とか、下総介と言わなくて、富樫介、千葉介ってゆうのは
富樫、千葉ってゆう名字が先にありきなんだね、
上総介を代々名乗ってたから上総氏になったってのとは
逆だね、って言ってんの。
769 :
日本@名無史さん:03/06/26 14:14
>768
なんだそんなことか。
で?だからそれが何なの?
それだけw
城と上総以外は、介を自称する前に名字があったってこと。
城と上総はそうゆう連中とは違うってこと。
771 :
日本@名無史さん:03/06/27 00:46
なんだつまらん
772 :
日本@名無史さん:03/06/27 01:14
となると767の「代々名乗っていたから」の次には何が続くんだ?
城と上総は代々○○介を名乗っていたから、名字になったわけだが
他のは名乗る前から名字があったとなると、「名乗っていたから」
どうなるんだろう。
773 :
日本@名無史さん:03/06/27 02:30
名字+介
つまり名字が先か官職名が先かというはなしでは?
774 :
日本@名無史さん:03/06/27 11:27
漏れは後北条の前身である伊勢氏のことが知りたいのだが、
どなたかご教授くだされ。
775 :
日本@名無史さん:03/06/27 17:33
>>774 桓武平氏季衡流 伊勢平氏
伊勢平氏の流れを汲む平正度の三男季衡にはじまる流れで、俊継が天照大神の神託
によって伊勢氏を称したという。
伊勢氏の名がはじめて見えるのは元徳二年の文書に、足利氏が守護であった上総国
の守護代伊勢宗継である伊勢九郎の名がみえる。
俊継の孫貞継は足利尊氏の父貞氏が貞継の烏帽子親であったため、尊氏の養育にあ
たったとされている。義満が貞継邸で誕生したことなどにより信任され、義満により政
所(財政)執事に登用された。
貞継が政所執事に任じられた以来、足利義政元服のときに二階堂忠行が一時執事と
なった他は、伊勢氏が代々政所執事を努めた。
盛経(貞継の弟)が伊勢新九朗盛時の祖となる。
>772-773
たぶん767は過去レスの流れ読まずにレスしたと思われ。
なぜ八介と言うか、それは代々○○介と名乗っていたからw
という至極当然のことを言ってるのではないかと。
777 :
日本@名無史さん:03/06/28 12:22
北条氏は時政を始祖とし、伊豆国田方郡北条を本拠とした。桓武平氏直方の流れ
をひくと称し、関東の有力武士団にまさる伊豆の大豪族であったという。しかし、
この説には疑問が多く、実際のところは伊豆の中級官人であったと思われる。
執権北条氏は、阿多美禅師聖範自体疑問大であり、平氏とは関係ない。全くの仮冒。
778 :
日本@名無史さん:03/06/28 21:48
氏康の頃が最盛期だな
779 :
日本@名無史さん:03/06/28 23:05
氏政だろ。
最盛期なら氏直じゃねぇ?
北条氏の全盛期がいつだったかなんて我々には関係ないことじゃないですか
もっと建設的なことに頭を使いましょうよ
782 :
日本@名無史さん:03/06/30 16:47
実際のところ、氏政と氏直は無能(バカ)だったの?
783 :
日本@名無史さん:03/06/30 18:25
>>782 氏政は慎重すぎた。信長が北条氏邦に信濃への出陣を要請したとき信頼
できないと許可しなかった。木曽が寝返っても信忠が信濃に入っても行動
を起こさなかったというのが残念すぎる。結局旧武田領は手に入らず。
>>783 同感!
氏政って慎重過ぎて行動が弱いというイメージがありますね。
失敗を恐れていたのかな?
785 :
日本@名無史さん:03/06/30 20:01
関東を第一目標にしていたからじゃないの?
氏康の遺言で武田と同盟結んだってことは駿河
を武田に上げるってことだし、この時点で都へ
の道はいいやって思い氏康が氏政を天下は無理だと
思い信玄の領地に攻め込むなと思わせたとか。
うん。読み返すとなに言ってるかわからんね。
武田がいずれ滅ぶことは明白で、
そのときに勝頼が頼ってくるだろうことも分かってたからじゃない?
もちろん、二月一日に木曾が寝返ってから一ヶ月ほどで新府城落城、
という短期間で武田が滅亡に至ったこともあるだろうし。
787 :
日本@名無史さん:03/06/30 21:24
穴山が裏切らなかったら北条介入する暇あったんじゃないか?
789 :
日本@名無史さん:03/06/30 22:19
>785
要するに天下の状況も把握できずに、結局潰されたのです。
ヤッパリ無能
790 :
日本@名無史さん:03/06/30 22:45
>>789 つまり身のほど知らずに織田と戦い滅んだ武田頼勝も無能。
天下の状況も把握できずに徳川家康と戦った石田三成も無能。
天下の状況も把握できずに徳川家康と戦うように
幼少の豊臣秀頼を仕向けた浪人、豊臣上層部も無能。
ってこと?
氏政がどうのというよりも、
今の日本と同じで、組織が腐っていたと思うな。
手を付けようにも元老だし・・・
792 :
日本@名無史さん:03/06/30 23:03
今の日本のどこが腐ってるんだよ!
オレん家の蜜柑
>792
官僚組織&政治家
795 :
日本@名無史さん:03/07/01 01:10
>>794 そんなことはない。どんな政策を出してもよくないとマスコミや野党が決まって
反対するからそう見えるだけ。
本当なら消費税30%ぐらいにして、中国へのODAもやめてほしい。
しかし今の国民は政治家のすることはすべて間違いと思うようになって
いるので出来ない。
数十年後、困るのは自分なのに・・・
>伊豆の大豪族であったという。しかし、この説には疑問が多く、
>実際のところは伊豆の中級官人であった
逆だよ。下級官人にすら任官されてない。
ただの地方豪族。
しかも時政の家は北条氏の中でも庶流。
798 :
日本@名無史さん:03/07/01 02:20
誤爆でつか?
800 :
日本@名無史さん:03/07/01 03:26
>>795、798
ネタでなくてマジで言ってんの?
折れの友人で天下りのじじぃやキャリアとかいるけど、本音は・・・って
いうよ!
中央官僚制の弊害がおもいっきりでてんのに?
でも後北条氏の官僚制はすばらしいな!
行政の先進性では戦国時代では群を抜いている!!
文意はサパーリ判らんのはいいとして、
友人でジジィって… おまいもジジィ?
802 :
日本@名無史さん:03/07/01 19:15
>>800 マジで言ってるよ。
天下りするようなやつは権力闘争からもう抜け落ちたやつであって・・・
その権力闘争を勝ちぬいたやつがしかるべきところにたったらやるんだよ。
おまえ等だってそうだろ?
北条の話はしないんですか?
804 :
日本@名無史さん:03/07/03 01:17
>>801 ジジィではない。少なくとも自分ではそう思っている。
その友人達は本当の(心が)ジジィだが!
>>802 消費税30%などどいっているからそれについて。802さんは裏の情報に乏しい
のかな?
実際は非道い行政が行われているって事を言いたいわけ。談合や特殊法人など
の実態のこと。談合による価格吊り上げでさえ十数兆円にもなっている。まず
無駄に消えている税金があるって事。ここ十年間で地方交付金と景気対策で幾
らだと思う?まぁ警察にさえ情報が少ないから・・・!長野県では逮捕者が出て
き始めてはいるが・・・でも野党に変わったって厳しい部分は同意。
>>803 では、氏康の軍制の延長線上に氏政の軍制があるわけなんだけど、氏康が制定
したとされる「五色備え」についてはどうだろう?
赤備えに北条綱高(玉縄)、黄備えに北条綱成(川越)、黒備えに多目周防守(平井)
白備えに笠原康勝(伊豆)、青備えに富永右衛門尉(栗橋)
そもそも実際にあったのだろうか?武勇に誇る武人のみで選抜、方面軍構想。
あったと仮定して、氏康は失敗しているのでは?
また氏政に継承されているのだろうか?
805 :
日本@名無史さん:03/07/03 08:32
>>804 >赤備えに北条綱高
この時点で実際にはなかったでしょう。
旧武田領に進軍したときの長い軍議が
今のイラクへの自衛隊派遣に被るな。
既に韓国は医師団と軍隊を派遣しているぞ。
日本もそれで良いじゃん。
NPOとそれを守るための、最小編成の自衛隊派遣で。
軍制は氏康を継いだかもしれないが
迅速さを欠いたのが氏政。
いや、父親が偉大だったからこそかもしれないな。
807 :
日本@名無史さん:03/07/03 11:58
チョソなどどうでもいい
>>805 北条綱高は牟礼高橋氏の祖、高橋綱種らしいよ。
父は伊勢宗瑞の娘を貰い、
綱種は北条早雲に養育されて、
軍功により北条姓に列せられているとか。
809 :
日本@名無史さん:03/07/03 18:37
玉縄、平井、栗橋ってそれぞれどこですか?
810 :
日本@名無史さん:03/07/03 20:30
俺の知る限り、
玉縄は神奈川県鎌倉市、
平井は群馬県藤岡市、
栗原は茨城県猿島郡五霞町。
あっているかどうかは保証しないがな。
812 :
日本@名無史さん:03/07/04 02:30
>>808 >父は伊勢宗瑞の娘を貰い、
>綱種は北条早雲に養育されて、
>軍功により北条姓に列せられているとか。
ここんとこが眉唾。
813 :
日本@名無史さん:03/07/04 03:38
814 :
日本@名無史さん:03/07/04 04:11
綱高とみられる武将が玉縄城主と比定される年代は、為昌の死去後天
文11年(1542)から、綱成が玉縄衆を完全に直轄し始める永禄元年
(1558)までと思う。
実は弘治2年(1556)以前は綱成による発給文書とみられるものがない
ようなのだ!
私見だと玉縄歴代城主は六代ではなく、『七代』だと思うが
どうであろう!?
氏尭と氏光、氏秀と景虎が別人であったように・・・
815 :
日本@名無史さん:03/07/04 04:28
続き
ただ綱種だと為昌の本光院殿衆の配下は相模中、東郡全域と武蔵久良
岐、橘樹郡に及んでいる。
小机城の北条三郎と三浦衆、また蒔田殿や鎌倉代官の大道寺氏などを、
管理下に置くことは直系一門で御家中でないと厳しいのでは?
816 :
日本@名無史さん :03/07/04 07:59
>>814 氏秀と景虎が別人と決め付けるのは早計
今でも同一人物説は根強い
小田原城内の資料も氏秀=景虎としている
818 :
日本@名無史さん:03/07/05 13:14
あっちこっち飛びながら結構栄えてるスレだな。
>>813 小田原旧記って高橋家伝来では?
徳川家が伝える記録類では徳川氏は新田氏の子孫ですが信じますか?
眉に唾つけて読むね
821 :
日本@名無史さん:03/07/07 00:49
だから眉唾なんだね。
822 :
日本@名無史さん:03/07/08 14:45
上記で厳しいって指摘したが、深大寺高橋家はどうやら折れの先祖と関連して
いるw
それと高橋家以上にすごいのが多米家なんて時行落胤で『真』の北条家直系だ
よw!
眉に唾つけて読みますた!
824 :
日本@名無史さん:03/07/08 22:33
北条氏規は実は名将ではないか?
彼が当主なら北条家は滅びる事はなかった。
実はって何でよ
826 :
日本@名無史さん:03/07/09 08:21
氏規って誰?
827 :
日本@名無しさん:03/07/09 13:59
なんで武田勝頼、上杉景勝が柴田勝家や家康と戦って
関東に手が回らなかった頃に
氏政は関東統一をやらなかったんだろう?
佐竹は難しいにしてもそれ以外は滅ぼせなかったのかな?
828 :
日本@名無史さん:03/07/09 21:04
>>827 上杉だって越中取るのに何年もかかったし、信玄だって西上野
とるのに何年もかかっただろ・・・
そう簡単に国は取れないのですよ。
829 :
日本@名無史さん:03/07/09 21:36
>>827 御館の乱以降、北条家と武田家は戦闘状態に突入します。
1579年9月には北条軍が駿河国の黄瀬川へ出陣しています。
同年10月には武田軍が上野国の厩橋城に侵攻し諸城を落としています。
(小林城の悲劇もこのときに起きていますが・・・。)
1580年以降は駿河・伊豆方面での戦闘が展開されます。
余談ではありますが、
その頃の徳川家は正室築山殿の殺害&嫡男信康の自害という大事件がありましたが、
北条家と対武田同盟を結び東西から挟撃することになります。
(時期が時期だけに、この同盟は織田家への対抗策とも言われていますが・・・。)
1581年3月、高天神城攻略。
北条家と武田家の抗争が、この一戦に大きく影響を与えていますね。
という訳で、北条家は武田家と交戦中で関東制覇どころではなくなっていますね。
ただ、実際のところ、歴史なんて本当のことなんてわかりませんから、
里見家や佐竹家とも密かに戦闘を展開していたのかもしれませんね。
ところで、里見義頼のところに北条家の鶴姫が嫁いで、
同盟関係にあったみたいですが、いつまで続いていたのかな?
鶴姫は早くに亡くなられてしまったようですが・・・。
831 :
日本@名無史さん:03/07/10 02:50
832 :
日本@名無史さん:03/07/10 02:52
>831
かかか
図星だった?
ごめんね
833 :
日本@名無史さん:03/07/10 03:48
>>829 信長の野望では全般的に北条家の武将は過小評価されている。皆で
光栄に投書すればあがるとのこと。里見家などは地道の甲斐あってあが
っている。
あと、できたら前スレ読んでね!家康とおさななじみとか、韮山合戦で
の活躍くらいは最低ここの住人は知っているから・・・
無駄レスはやめ・・・・れ!?
あと秀吉の小田原征伐時の韮山や忍と下田城は何故永く守れたかは鉄砲
の有効射程などにヒントがあるよ!
山中城をみても北条の築城術は残念ながら少し時代遅れ・・・
834 :
日本@名無史さん:03/07/10 05:40
>>827 関東は板東武者という言葉があるようにプライドが高く
歴史の表に出てこないような土着の豪族たちは
容易に北条氏の指示に従わなかったのです。
武蔵や相模の一部ですら氏政の時代になっても
検地ができず北条氏の関与が及ばない土地がたくさんありました
また彼の時代、二度程大きな飢饉が生じ農民の離散(村を捨てて逃げる)
が日常化していましたから内政面でも困難を生じていました
氏政はこれを乗り切った優れた人物です。
私は氏康公よりも内政面では優れた人物だと評価しています
それは毛利に完全に従わなかった中国地方の豪族にも言えるよね。
836 :
日本@名無史さん:03/07/10 15:31
837 :
日本@名無史さん:03/07/10 17:08
>>834 禿げしく同意
後北条氏を調べるにつれ、氏政が如何に優れた治世を行っていたのかが
分かってくる。戦略判断さえもそれほど遅くはないとさえ思う。例えば
神流川の戦いなどが良い例。変の確報が入ってからすぐ出陣しているな
ど。支城ネットワークがうまく機能している。
しかし小田原征伐での後北条宗家滅亡がこれほど汚名を着せられるとは
氏政も思っても見なかったろう。敵対の要因は様々だが、西国と比べ土
地の執着が非常に高い土豪、武士団(毛利家など他の戦国大名の配下よ
りも)がいることが上げられる。
838 :
日本@名無史さん:03/07/10 17:20
続き
関東から将門や頼朝、関東公方が起こったのかを考えてみてほしい。単
に関東が都から遠い事や、人口が多く豊穣な土地というだけでなく、武
蔵七党にみられるように平安時代からの極めて独立性が高い極めて小さ
な名族(百姓身分に近い庶子など)が飛び地で割拠している。
更に永禄年間になっても甲斐の小山田氏などは武蔵成瀬に広大な城を構
築してもいる(武田氏旗下であるが、北条家からも知行を受けている)。
また、百姓でも多摩川河川流路が大幅に変わった時(因みに氏綱治世では鶴見
方面に流れている)の比較的小さな土地争いなども、小机、江戸城の
検視以外にもわざわざ北条宗家の小田原から検分している。
虎の印判
ttp://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/stop/zukan/z0407.htm こういった背景からも豊臣家との敵対行動をせざるおえないことを考察
できる。後北条家は豊臣家に負けても合戦をしたことは容易に想像でき
よう。しかし恐らく氏政が後世の汚名が着せられることが想像できたな
らば、後北条家は大身として残ったであろう。
839 :
日本@名無史さん:03/07/10 21:30
>>833 もちろん前スレ読んでいるさ。
でも氏規知らない人がいるのでちょっと解説しただけだ。
それを無駄レスとは何だよ?
偉そうに言うなよ。
そんなこと言っていると折角知的な人が集まっているスレが荒れるぞ。
840 :
日本@名無史さん:03/07/10 21:35
841 :
日本@名無史さん:03/07/10 21:40
氏政は対武田ではぼろ負けで駿河を失い、本能寺の変後の甲斐・信濃争奪戦では
家康に作戦負けして甲信を取れなかった。
この点でも名将とはいえないと思うが。
842 :
日本@名無史さん:03/07/10 22:20
確かに実戦担当は氏照だしね。
氏政は戦術面ですぐれていたかどうか。
治世面では、後北条氏最大の版図を得たわけだし、
戦略的にはいい線行っていたと思うが、豊臣の力を読み損ねたからなあ・・
当時の武田家の戦略を考えた場合、
駿河と遠江の重要性を考えますと、
駿河を優先してしまうのでは?
駿河を守るため北条家への対策を重視し、
そのため、北条家としては苦しい戦いになったのかもしれません。
一方、遠江の守りは手薄になってしまい、
徳川家への対策が遅れることにしまったのかもしれません。
(高天神城守将、岡部長教の働きは見事と思いますが・・・。)
武田勝頼の方も戦略は兎も角、戦術は有能と思います。
(長篠合戦での評価は厳し過ぎるかな?)
甲斐、信濃、上野の争奪戦と考えた場合、
北条家より徳川家の方が厳しい立場だったと思います。
当時、羽柴秀吉は徳川家康のことを高く評価していたでしょうし、
その反面、脅威にも感じていたと思います。
『律義者』と『狸親父』の別名を持つ家康に・・・。
その徳川家康も羽柴秀吉のことを同じように考えていたことでしょう。
秀吉が旧織田政権をまとめ上げた場合、
徳川家を従来通りの同盟関係で接するとは限りません。
武田家滅亡後、徳川家が第二の武田家になってしまっていますからね。
秀吉が征夷大将軍を求めるには、
征夷を実行する必要があるかもしれませんし。
東に北条氏政(当主は氏直)、西に羽柴秀吉。
東西から挟撃されれば、間違いなく徳川家は滅亡しますね。
北条家と徳川家の同盟。
@甲斐と信濃は徳川領。
A上野は北条領。
B徳川家の督姫と北条氏直の婚姻。
徳川家康の方が、北条氏政より羽柴秀吉より危機的状態であった分、
生き残るための知恵を搾り出せたかな?
845 :
日本@名無史さん:03/07/11 01:43
846 :
日本@名無史さん:03/07/11 02:02
家康との甲斐・信濃争奪戦は、家康が織田の旧領のうち関東部分を手放す
ことでケリがついている。
関東制覇にこだわるのが氏政の戦略だと仮定するなら、氏政も家康に
負けたということにはならない。
連続書き込みでごめんなさい。
甲斐、信濃、上野の争奪戦のことですが、
北条氏忠の軍が御坂峠を越えて侵攻し、
北条氏直の軍が信濃から甲斐に侵攻する戦略の際に、
黒駒辺りで北条氏忠が徳川軍に敗走してしまいますよね?
その後、若神子対陣へと続くわけですが・・・。
この一戦が命運を分けたのような気がします。(泣)
真田に背かれて、碓井峠が塞がったのも痛かった。
それでも、大きなチャンスはあったハズなんだが・・・
小説だと長軍議でチャンスを逸する事になる。
軍は多いが兵糧は少ない場面で
何故に持久戦になったのかが謎ですねぇ。
甲斐の国は関東じゃなかったっけ?
本当は欲しかったと思うな。
849 :
日本@名無史さん:03/07/11 02:38
関東管領の管轄域ではあるが「関八州」ではないね。
今日3回目の書き込みでごめんなさい。
真田家に続いて、木曾家も徳川家に味方してしまいます。
さらに諏訪へ出陣されてしまっています。
これにより信濃方面の作戦は失敗に終わります。
徳川家としては西の動向が気になりますから、
無闇に戦力を消耗したくはなかったと思います。
他方、北条家としては正直手をこまねいていたと思います。
戦をするには機を逸していますしね。
本音のところ、甲斐だけに限らず信濃も領有化できるなら、
したかったんじゃないのかな?
甲斐を関東と言うには厳しいかなと思います。
でも、関東管領の影響力が伊豆と甲斐も含まれるらしいですから、
そういう意味でも欲しかったのかもしれませんね。
長陣もそんな心理から働いていたのかも・・・?
851 :
日本@名無史さん:03/07/11 04:15
>>839 気分を害されたのでしたらスマソ。
でも釣られたのでは・・・
それともっと氏規の優れた部分を紹介していただきたい。
>>841 信玄公ですか!戦国時代でも一二を争う名将を引き合いに出されては・・
しかも戦闘に限ってで、他は全て名将ではなくなるな!
っていうか、名将軍ってことだろ!意味を履き違えている・・・
氏政の行政は優れたものだったといっているわけで・・・
852 :
日本@名無史さん:03/07/11 05:37
北条坊が多く生息してるスレは此処でつか?(:´Д`)ハアハア
北信は上杉も出張ってたしね。
854 :
日本@名無史さん:03/07/11 08:25
北条家は虎の朱印を完成させた時点で 王 を自負していました。
おそらく家訓として、王は他の勢力の配下にはならないとの
暗黙の決まりごとみたいなのが北条家にはあったのではないでしょうか・・
氏政が最初、織田信長と友好的だったのは織田方が北条王国を認めるとの
嘘の約束をしたからです。
>>854 諸外国の制度とごっちゃにしてはいませんか?
王は必ずしも絶対権力ではありませんよね。
氏政って関東以外での事になると冴えないね。
まぁ、相手が悪すぎたんだろうけれど。
氏綱以降、天才肌でなく秀才って感じを受ける。
家風なのか、体制の問題なのか・・・
858 :
日本@名無史さん:03/07/11 21:05
>>856-857 北条氏の目標は関東独立国家の樹立でしょ コレ基本。
だから氏政が関東以外で冴えないのは当たり前
甲斐信濃もあわよくば程度だったし、徳川と睨めっこしてたとき
氏直の主張した時期に追撃してたら徳川軍が総くずれになったものを
どちらかといえば敵に回すのではなく同盟を考えて対秀吉にしたかったため
躊躇して負けちゃった。つーか願いどおりに婚姻同盟できたのだから
それでよかったのかもな。
>858
関東独立国家の樹立ってのは、
それが北条家の目的になったのは何故だろ?
領国経営のための大義から?
義元、信玄、謙信の存在から?
信長の急成長?
>>859 前北条・鎌倉幕府の存在って無視できないと思う。
歴史的下地というか彼らなりの美意識ってあったように思う。
>北条氏の目標は関東独立国家の樹立でしょ コレ基本。
これはどんな史料、どのような記述から解るのでしょうか。
漏れは素人ですけど、いまいち納得が...
>861
状況証拠からじゃないかな?
だからこそ、何故そのように取れる
戦略を行っていたかが気になる。
北条を名乗った大義からなら
本能寺の変後に甲斐の国で
積極策を採らなかったのが気になるなぁ。
徳川と手を結んで・・・って、
甲斐を取れなかった結果論って気がするなぁ。
まぁ、勝頼滅亡時の不手際が後を引いたんだろうなぁ。
毛利、島津、長宗我部、
↑>859ね
865 :
日本@名無史さん:03/07/12 02:39
866 :
日本@名無史さん:03/07/12 02:41
>>862 >状況証拠からじゃないかな?
>だからこそ、何故そのように取れる
>戦略を行っていたかが気になる。
状況証拠って…。
もしかして思い込みのこと?
>>862 越後の景虎を応援して、氏照らを送り込んだこともありますし。
氏照らが何もしなかったこともあって、景虎はどんどん劣勢に追い込まれたらしいですけど。
氏照らが動かなかったのも、「関東独立国家云々」になってしまうんでしょうか。
北条家って元々、今川家の備えとして
関東を切り取ったんじゃないの?
869 :
日本@名無史さん:03/07/12 10:56
>甲斐の国は関東じゃなかったっけ?
昔、金丸なんとかという自民党の爺さんが、土木工事の予算をたくさん
ふんだくるため、無理矢理山梨県を関東のカテゴリーに押し込んだんじゃ
なかったっけ?
鎌倉公方の管轄に、甲斐は含んでなかったと思う。関八州+伊豆+奥羽。
但し、甲斐と駿河は関東との関係が深くて、何かあれば関東に干渉していた。
武田信長とかね。
>関東の独立性
室町時代はずっと鎌倉公方が独立性を保って将軍権力と争ってたし、
関東が京都に対抗する、という構図は鎌倉時代から綿々と受け継がれている気がする。
後北条がその轍を踏もうとしたと考えるのは思いこみとは言えないと思うよ。
>>868 伊豆を切り取ったのは、堀越公方を潰したいけど今川がやると世間的にまずいから、
出自のようわからん客将にやらせた、という話を聞いたことが。
871 :
日本@名無史さん:03/07/12 17:06
872 :
日本@名無史さん:03/07/12 18:32
北条はしっかりと駿河への道を閉ざしてないよな。
ってことは天下への道もあったんじゃないだろうか?
北条家の西への政策ですか〜。
当たり前な話ですが現実的に考えますと、
関東から上洛をするには遠過ぎますから上洛をしようとは考えてはいなかったでしょうね。
それに、東海道は今川家が統治していますし、箱根の関も多少の障害になっていたと思います。
中山道は上野方面が激戦区で関東管領山内上杉家を追い落とすことはできましたが、
長尾(上杉)家の存在が西への道を閉ざしています。
甲斐方面の道は武田家が勢力を拡げている以上、さらに厳しいと思います。
ただ、好機もあったと思います。
☆最初は1569年の駿河。
今川家の領土を争奪するために武田信玄と争った時。
蒲原城は陥落してしまったものの、駿東郡は北条家が占領し続けていました。
この時は、北条氏康の死により中止。駿河を放棄してしまいます。
☆次は1582年の上野。
武田家の領土を争奪するために織田・徳川連合の一翼を担った時。
この時は、北条家の消極策と織田・徳川家の情報操作により蚊帳の外。
(積極策をとっていましたら北条家は滅亡していたかな?本能寺の変は発生したかな?)
☆さらにその直後の本能寺の変。
徳川家と甲斐・信濃・上野の争奪戦を演じた時。
甲斐侵攻における一連の軍事作戦は失敗に終わりますが上野の領国化に成功します。
☆最後は1584年の小牧・長久手合戦における戦略。
徳川家と同盟しているなら積極的に援軍を送ってあげれば、
その後の歴史の流れが少しは変わっていたのかもしれません。
『もしも・・・?』の話はおいておきまして、
北条家の西に今川家、武田家、徳川家と常に大国が存在していたことは不運ですね。
逆に織田家の場合、西に大国が存在しなかったのが幸運ですね。
信長が上洛する以前に斎藤義龍や三好長慶が鬼籍に入っていた影響も大きいかな?
北条家が天下を狙うには、やはり関東平定が第一条件のような気がします・・・?
相変わらずの長文書き込みでごめんなさい。
結局、関東の盟主ってのは結果論なわけでしょ?
いや、電波
876 :
日本@名無史さん:03/07/13 13:45
>>873 >☆1582年の上野。
武田家の領土を争奪するために織田・徳川連合の一翼を担った時。
北条家(積極策をとっていましたら北条家は滅亡していたかな?
↑
織田は内心、武田の次は北条を潰すことを考えていましたから
情報操作をし、西で何がおきているのか判らない様にしていました。
ですから積極策を取っていても同じだったと思います。
やはり御館の乱の際の勝頼の行動が、北条、武田、上杉の将来を
決定づけてしまったのではないかと思います。
878 :
日本@名無史さん:03/07/13 20:47
駿河の国の深沢城、興国寺城は武田軍に取られた後、北条軍が奪還したという説もあるが、
甲相同盟直前はこれらの諸城及び駿東郡はどちらが領有していたのだろうか?
879 :
日本@名無史さん:03/07/13 20:56
鎌倉街道上つ道
880 :
日本@名無史さん:03/07/14 17:43
知行の飛び地が多く、線引きは非常に難しい。大まかにまず駿東郡は、今川
方ではあるが元々独立領主的な葛山氏の所領。小山田氏と同じく北条方からも
知行を受けているようだ。そして早雲の子の氏広が継いでもいる。
その後、今川家に見切りを付けた葛山氏は武田方に与する事になり、駿東大宮
城を攻めるが、知行が安堵されなく、今度は北条方に就く。信玄に攻められ、
葛山領(ほぼ駿東全域)は武田領となるが、綱成が深沢城を奪取する。
深沢城は元亀2年の一月に綱成が開城(矢文で降伏)してその後は武田方になっ
ている。城代は駒井昌直。興国寺城も武田方(穴山領)。天正十年、徳川方(一
時的、部分的に北条方)になるまで続く。
それと、深沢城や泉頭城の縄張りは武田流に非常に酷似している事から、武田
氏の支配を裏付けている。
881 :
日本@名無史さん:03/07/14 18:01
続き
文献では新田氏文書、由良氏文書で確認できるが、外交文書であるので
、話半分で留めて置こう。
がしかし、裏づけは他にも色々あるので駿東郡の殆どが武田家の勢力版
図であったろう。北条方は城は取れずとも領国、人身掌握が優れている
のか、武田方は何度も出兵し苦心している。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
883 :
日本@名無史さん:03/07/16 22:15
駿東郡の戦国史をまとめてみますと・・・
1554年、善徳寺会盟により今川領。
1568年、武田信玄の第一次駿河侵攻。第一次サッタ峠合戦において、葛山氏元が武田家に内応。
(この時点で駿東郡は武田家の影響下にあるといえるかな?)
武田軍、府中占拠。その直後、北条氏政が援軍を率いて駿河進軍。三島着陣。
1569年、第二次サッタ峠合戦。武田信玄、甲斐に帰国。
(この時点でも駿東郡は武田家の影響下にあるといえるでしょう。)
今川家旧臣岡部正綱、府中奪還に成功。
武田信玄の第二次駿河侵攻。伊豆の三島、駿河の富士に侵攻。帰国。
(富士大宮城攻略の際、葛山氏元も参戦。6月以降消息不明。)
この頃、北条家の駿河戦略が展開されるのかな?
北条家の軍勢が駿河に投入される?
秋に入ると武田信玄が上野侵攻。さらに、第二次小田原城包囲、三増峠合戦。
ついで、武田信玄の第三次駿河侵攻。サッタ峠占拠。
蒲原城陥落(守将は北条氏信)。
府中無血開城(守将は今川家旧臣岡部正綱)。
北条軍が興国寺城、葛山城を攻略?
1570年、花沢城攻略(守将は今川家旧臣大原資良)。
これにより駿河西部が平定。帰国。
武田信玄の第四次駿河侵攻。吉原、沼津に侵攻。
武田信玄の第五次駿河侵攻。黄瀬川対陣。
韮山城攻防戦(守将は北条氏規)。
興国寺城攻防戦(守将は垪和氏続)。
(この時点になりますと駿東郡は北条家の影響下にあるといえるでしょう。)
1571年、武田信玄の第六次駿河侵攻。
興国寺城攻防戦(守将は垪和氏続)。
深沢城陥落(守将は北条綱成)。
北条氏康、死去。甲相同盟。(駿河全域が武田領に。)
この状況は1578年の御館の乱により、武田家と北条家が敵対関係になるまで続きます。
こんな感じでいいかな?
,、-‐''''' ‐‐- 、,
/ ` 、
. | `,
l ,,,,,__ ,,、-l
. l´`' ,,,,,,,` 、r=l、
゙,ゝ `゙゙´ ヽ、l
`.、、 ' ‐'i゙
,r| 、, ‐''''7
,、イ ゙、. `‐、,,,,,,,,,,、ノ_
゙、 .`、 | ',
*北条早雲*
886 :
日本@名無史さん:03/07/18 03:08
>>870 その通りなんだけど、要は管領の管轄区域を述べているのではなく後北条家が
ただ単に関八州の太守になりたいのか、それとも東国の太守なのかという処だ
と思う。
例えば、豆相記(成立1590〜1616)
『凡そ管領に属する州国、相、武、上野、房、総、羽、奥、越後、信、佐等の
州なり。茲において両上杉、昆弟の言の間有りて、不和久しき』
と当時の人は関東管領=東国との認識なのでは?
厳密な室町管領職ではなく、東国の太守的な、言い換えれば頼朝があった地位
のようなものではなかろうか?現に徳川、伊達との三国同盟で北条家が盟主に
なっていることからも。また氏政にはその気概、自負があった為、上洛しな
かったと思われる。定説だった猪俣能登守邦憲の沼田城奪取原因説もその前に
秀吉と敵対状況になっているしな。
887 :
日本@名無史さん:03/07/18 03:23
続き
それと『関東』は『鎌倉公方の管轄』ではなく、当時は東国全般で尾張なども
『関東』です。
江戸期とは違うので・・・
言葉足らずの文章なのでツッコンでみました。他に余りこの辺りを理解してい
ない方もおられるので・・・。
因みに鎌倉公方は「鎌倉公方の管轄地域」に満足できなく『室町公方』に戦い
を挑んだことをお忘れなく。承久の乱もあります。
888 :
日本@名無史さん:03/07/18 04:21
関東って駿河以東じゃないの?
今川は関東公方の配下ではないと思ったけど。
むしろ将軍家の命令を受けて行動しているほうが多い
890 :
日本@名無史さん:03/07/18 11:12
ん?
まず870のレスの前には『鎌倉公方の管轄』とは誰も言ってないですね?
>>甲斐の国は関東じゃなかったっけ?
といっているだけです。
『関東』(東国全域の地域)を断りもなく(レス上)『鎌倉公方の管轄』(室
町幕府の職制の地域)に置き換えて、地域と職制をごっちゃにしていたので・・
>>関東って駿河以東じゃないの?
正確にいうと室町期は不破の関より東国(美濃より東)の事。関八州といっ
た場合は現在の関東地域で、相模、武蔵、上野、下野、常陸、上総、下総、安
房のこと。江戸時代ころから関東は箱根の関所より東になった。
戦国時代は甲斐の国は関東であってます。がしかし当然、甲斐、駿河は鎌倉公
方の所轄ではない。
891 :
(;´Д`):03/07/18 11:12
893 :
日本@名無史さん:03/07/18 11:16
ただ、関東下向といった場合は関八州(関東平野)のことを指します。
公家衆などにいった場合はこの上ではない。
関東の「関」ってどこでしたっけ。
不破と愛発?
えーことわりなく関東と鎌倉公方管轄国をごっちゃにしたもんですが。
「関東独立国化」とか後北条氏のスレで出てきてるのに、まさか不破関以東の話をしてるとは思わなかったんですが。
現在の意味での関東つーつもりで話してるんだろうなあと思ったんで、鎌倉公方管轄を持ち出したんですが。
まぁなんにせよ、勝手な思い込みで
持論を展開するのは良くないな。
897 :
日本@名無史さん:03/07/19 06:02
898 :
日本@名無史さん:03/07/19 13:21
>月と星より ◆jaxQ5494pE :03/07/17 04:12
朝早くからご苦労さんですね。
もしかして研究者の人?
899 :
日本@名無史さん:03/07/19 13:22
↑のは悪い意味ではないですよ。念のため。
伊達?
901 :
日本@名無史さん:03/07/20 13:50
こちらは後北条氏
鎌倉幕府の執権は北条氏
つながりはあるんだろうか
>>898 朝早くから、私は何をやっているのでしょうね。(汗)
別に研究者ではないですよ。
ただ、歴史が好きなだけです。
戦国時代では『織田家』と『北条家』に興味を持っていますよ♪
毛利家、上杉家、長曾我部家、島津家、伊達家は、
豊臣家の傘下に入ってしまいましたが、
北条家は滅びてしまいました。
もし、北条家が豊臣秀吉に滅ぼされていなかったら、
ここまで好きにはなれなかったかもしれません。
903 :
日本@名無史さん:03/07/21 14:10
>>902 折れも同じだ!
犬として生きるよりも武門として獅子のままで死んだ氏政は立派。
しかも彼が思い描いていたように諸大名たちが動いていたなら
豊臣は崩壊していた。
まわりがもっと武骨な香具師らだったら・・
904 :
日本@名無史さん:03/07/21 15:23
初心者なんですが。
上杉に養子に行って一度絶縁された三郎氏秀について。
御館の乱の際の遅くて中途半端な援軍は、なんであぁ
なってしまったのでしょうか...
単に「氏政が馬鹿だったから」というような書き方をされる
ことが多いみたいですけど...皆さんの想像力を働かせると
どうなりますか?
偽物説はなんかおもしろいようでおもしろくないし。
綱成から絶縁されていた と言ってみるテスト
信濃・甲斐侵入、越後への援軍、対秀吉戦・・・
すべてが、同じような原因で、ああなったと俺は妄想する。
関東外での軍事に消極的なのは
君主がしっかりとした君主権を
確立できていなかったからじゃないかな?
>>906 戦国大名一と言われる組織を持っていたのに?! と書いてみたりするテスト
↑
(『中世に生まれた近世』の受け売りです)
908 :
日本@名無史さん:03/07/22 04:01
>>906 折れの私見ではあるが、氏政が関東外での軍事に消極的だとは到底思えない。
氏政を調べれば調べるほど関東の覇者(関東管領的)ではなく、東国の覇者的(執
権的)な視野に立っていたように思う。
御館の乱では氏政や上州方面担当の氏邦の動きは、実は初動は早い。しかし武
田勝頼が景勝との盟約を結んだ事によりかなり進軍が制限されてしまっている
ように思う。
あとやはり景勝が優秀だったのと、タイミングと運が良かったと思うが・・。
勝頼に織田家と北条家に挟み込まれるという危機感だろうが・・・。
これが後、逆に武田家滅亡を早める結果になったとさえ思う。
910 :
日本@名無史さん:03/07/23 12:53
>>904 三郎氏秀を上杉の当主として擁立できたなら氏政の思い描いていた
対織田の姻戚同盟が成立した。
上杉家の中にも次期当主は氏秀との声が大きかったから
のちのちまで上杉家は混乱するが・・
しかしバカ勝頼が、景勝に「臣下になるから・・」と騙されて裏切った
慎重派の氏政は、援軍に赴くと 景勝と勝頼に挟み撃ちにあう可能性が
高かったため出陣を諦めた・・
>>バカ勝頼が、景勝に「臣下になるから・・」と騙されて裏切った
ソースは?
>910
つかさ、それって単に戦略で影勝に負けただけじゃん。
信濃・甲斐侵攻も家康に戦略で負けている。
関東では強いんだけれどねぇ・・・
>>904 妄想でよろしければお付き合いします。(其の壱)
1578年3月13日、上杉謙信死去。その直後、上杉景勝、春日山城に入城。
家中に不穏な空気が流れ始めてきますと、
5月13日、上杉景虎、御館に脱出し元関東管領上杉憲政を頼ります。
景虎派の有力武将は、
上杉景信、本庄秀綱、北条高広、景広父子、山本寺定長などなど。
景虎派に友好的な戦国大名は、
北条氏政、武田勝頼、蘆名盛隆などなど。
さらに没落したとはいえ、元関東管領上杉憲政も景虎派に与しています。
この状況に上杉景勝は焦りを隠せなかったでしょうね。
さらに、武田勝頼、越後に進軍。
この時点で上杉景勝が勝利する確立は無いに等しいものと思います。
それは、景勝自身が一番感じていたことでしょう。
妄想でよろしければお付き合いします。(其の弐)
ここで上杉景勝が形振り構わない外交を展開しますが、
これが東日本の命運を左右するほどの大きな流れを生みます。
6月、上杉景勝の賄賂により、
武田家の家臣、長坂と跡部が武田勝頼に外交転換を薦めます。
当時の武田家の内情は苦しいものと思います。
長篠合戦で家臣の新旧交代が進んだものの、
戦線離脱してしまった武田信豊と穴山信君の、親族の処罰をすることができません。
家臣に対して強い態度が取れない状況にありました。
さらに長篠合戦での敗戦は、やはり勝頼の家中の権威を失墜させるものと思います。
また、武田勝頼にとっては今までにない好条件の同盟であります。
内政に厳しい時に外交で活路を見出すことは今も昔も同じでしょう。
武田勝頼にとっては、
景虎派と景勝派を和平調停できれば・・・と考えていたのかもしれません。
8月、和平成立。その直後、決裂。
勝頼の目論みは失敗に終わります。
武田軍は帰陣。12月頃、武田家と上杉家、同盟成立。
一方、北条氏政は9月に援軍を派遣します。
妄想でよろしければお付き合いします。(其の参)
肝心の北条氏政の行動はどうだったのでしょうか?
6月頃上野の沼田城を攻略。
この時点での上野は、西上野は武田家の所領ですが、
東部、中部、北部は北条家の制圧下にあります。
北条家の目標である関東制覇の一つ、上野平定は一応完了します。
9月に越後に景虎への援軍を派遣します。
ただ、8月の武田勝頼の行動は北条氏政の不信感を生じさせてしまっています。
そして、越後への進軍は政治上それほど簡単ではなかったと思います。
多分、上杉家の名だたる武将、
上杉景信(既に戦死。)、山本寺定長、本庄秀綱、北条高広は景虎派ではありますが、
北条家の必要以上の干渉には反対でしょう。
氏政としましても味方をこれ以上失うわけにもいきませんからね。
そして、冬に入りますと雪が北条軍の進軍を許しません。
一説には北条氏邦が援軍として進軍する予定ということでしたが・・・。
1579年3月24日、景虎、自刃。
さらに、武田勝頼が上野侵攻。厩城陥落。
以後、北条家は徳川家と同盟を結び、武田家と戦闘状態に入ります。
妄想でよろしければお付き合いします。(これでお終いです〜♪)
さて、まとめです。
北条氏政としては・・・
『武田勝頼』と『三国峠の雪』が、越後への援軍を阻んでいたのでしょう。
さらに、途中には坂戸城があります。多少は厄介だと思います。
氏政の構想としては、
あくまでも越後は上杉景虎が治めるべきであり、
北条家の支配を考えてはいないでしょうね。
武田勝頼としては・・・
何か結果を出したかったのかと思います。評価されるものを・・・。
越後での外交を成功させることができれば、何か変わったのかもしれませんね。
これから織田家と対抗するには上杉家とも協調路線をとる必要もあります。
『まさか北条家と戦うとは・・・。』
勝頼は1569年駿河侵攻の際の父の信玄と同じ心境だったのかもしれませんね。
裏切ったつもりはなかったのが勝頼の心かもしれません。
勝頼の夫人の行動もそれを物語っているのかも・・・。
上杉景勝としては・・・。
形振り構わない行動(暗殺や外交)で窮地を脱したというところが本音でしょうね。
しかし、御館の乱の影響は深刻で、
織田家の重臣の柴田勝家に加賀と能登を奪われ、さらに越中をも失いかけています。
(本能寺の変以降も越中は佐々成政が統治します。)
もはや、戦国大名としての生き残りは不可能になっています。
御館の乱に勝ち残っても運命は決まっていますね。
917 :
日本@名無史さん:03/07/24 18:39
皆さんレス感謝です。言い出しっぺなので、挨拶がてら...
>906
>関東外での軍事に消極的なのは君主がしっかりとした君主権を確立できていなかったからじゃないかな?
今までの経験から、越後の人間とは関わり会いたくなかったのかも。(苦笑)あるいは、部下たちの間にも実は純粋な領土欲は薄かったとは考えられませんか?
治水や開墾が進んで農業の生産性が向上すれば、他国へ侵攻するのはコストパフォーマンスが良くない、と感じるような。
(考え過ぎかな...)
>908
>あとやはり景勝が優秀だったのと、タイミングと運が良かったと思うが・・。
景勝にとって謙信の死は、思いの外早かったとはいえ、待ち望んでいたチャンスだったように思うんですが。(三郎抹殺目的)この時のために、いろいろと策を練っていたんでしょうか。
>910
>景勝と勝頼に挟み撃ちにあう可能性が高かったため出陣を諦めた・・
あ、これは気づきませんでした。たしかにそうですね。
そういえば、佐竹や宇都宮(?)とかは静観してたんでしょうか。北条軍を背後から襲う機会もあったと思うんですけど。
>月と星より ◆jaxQ5494pE
長文感謝々々です。
>当時の武田家の内情は苦しいものと思います。
勝頼と三郎って幼少時代に面識あるんでしょうか。面識があれば少しは情が移ったりするのに。あるいは、もし信玄の実の子の勝頼が「自分より養子の三郎のほうが可愛がられている」と感じていたとしたら、逆に嫌悪感を感じる?
甲斐が同盟を結ぶなら、穏和な北条より何するかわからん景勝のほうがメリットがあったんでしょうか...
>北条家の必要以上の干渉には反対でしょう。
そーですよね。北条が好んで参戦すると、景勝側に越後愛国運動の大義名文を与えてしまうことになります。
それにしても、御館の乱の初期は武将の大半が三郎景虎側についてるみたいですね。
実権の無い御神輿みたいに思われていたとは想像しますが、それを差し引いても、三郎には人徳があったのかもしれないなぁ...と感じます。
つまらんコメントで失礼しました。
918 :
日本@名無史さん:03/07/24 20:30
月と星さんに質問です。
深谷上杉氏は奥州に領地を持っていたと聞きましたが、
どの辺りなのでしょう
919 :
日本@名無史さん:03/07/25 03:46
>>816、他
でもやはり、氏秀と三郎景虎は別人だと思うが!
別人同名は可能性が無きにしもあらずであるが、それ以外だと・・・。
同一人だった場合、氏秀=北条孫二郎(綱成次男)の可能性の方が非常に高いで
しょ?
因みに武田三郎は全くありえない・・・と思う今日この頃。
え、何? 氏秀=景虎な流れになってるの? 長文ばかりで読む気になれずw
>915
1579年3月24日、景虎、自刃。
さらに、武田勝頼が上野侵攻。厩城陥落。
以後、北条家は徳川家と同盟を結び、武田家と戦闘状態に入ります。
厩橋城陥落というのは・・・ 攻城戦があったのでしょうか。北条高広が説得に
応じて武田方についたのだったと記憶しています。そのことを指しているので
しょうか。すいません、細かいことですが気になりましたので、よろしく。
922 :
日本@名無史さん:03/07/25 04:23
923 :
日本@名無史さん:03/07/25 18:42
昔小田原城に行ったんだけど、入場券についてる肖像画が氏康じゃなくて氏政でちょっと首をかしげた。
ココを読んでいると、そうか氏政=名君的な見方もあるのか、という気になれたけど。
あれは今もそのまんま残っているのかな。
924 :
日本@名無史さん:03/07/25 20:42
小田原城内の説明では氏秀と三郎景虎は同一人物です
925 :
日本@名無しさん:03/07/26 01:11
>>924 そういうのはあてにならないよ。
護良親王が幽閉された洞穴ツアーなんていうのもあるからね。
俗説がそのまま使われる事は多い。
ちなみに護良は寺に幽閉されていたらしいから、
洞穴とか洞窟とするのは誤り。
>>924はそのくらい判ってるから書いたんじゃないかねぇ。
927 :
日本@名無史さん:03/07/26 15:17
なら、氏秀と三郎景虎が同一人物でないという説の証拠を挙げよ
928 :
日本@名無史さん:03/07/26 15:20
927と同じですけど、私も詳しくないんでソース教えてください。
一番古い資料だと、どこらへん?
まさか「上杉謙信は本当は女だった!」とか言ってる人ですか?
929 :
日本@名無史さん:03/07/26 15:31
>>925 一応、鎌倉宮内の山に その洞穴があるのだが・・・
930 :
日本@名無史さん:03/07/26 21:18
飛ぶ鳥落す勢いで天下を平定していってる信長公から服従を迫られなく 関東の独立を保てたのは見事だね
931 :
日本@名無史さん:03/07/27 08:17
>>927 氏秀と三郎景虎の同一人物との『通説』は、関八州古戦録や寛政重修諸家譜などで
『江戸中後期』に入ってからの『軍記物語や作為系図等の二級どころか、三〜四級といった史料でなく著作』によるもの。
別人説を唱えたのは、長塚孝氏。
長塚氏によれば『北条家過去帳』に『武州江戸 北條治部少輔殿 ・・・ ・・・・・ 平氏秀 □花押 天正十一・・六月二日 三上備後守奉之』
とあり、北条治部少輔氏秀は三郎景虎死去より後の天正11年(1583)6月2日に死去しているとした。
また、三郎景虎が越後に養子にいった後も、江戸にて北条治部少輔発行の文書『武州文書』がある。
そして、『豆相記』(成立1590〜1616、著作は氏勝家中と推定)に北条治部少輔は綱成次男の北条孫二郎としている。その他の文書も数点あり同様で一致している。
したがって同一年代で別地域で全く違う『氏秀花押』が使われていることが決定的な証拠である。そして、花押以外に『印章』でも全く違う。
北条家中では数人複数の『印章』を使用しているものもあるが、がしかし三郎景虎は養子後、江戸にはおろか関東にさえ来ていない。
『本人』発行文書があるので確実な『一級史料』。またその他、後北条家関連文書からも同様一致しているとのこと。
では、氏秀と三郎景虎が同一人物であるという説の証拠を挙げよ
932 :
日本@名無史さん:03/07/27 10:40
>>931 つまり北條孫二郎氏秀=北條治部少輔氏秀
そして北條三郎氏秀=武田三郎=上杉三郎景虎
ということか
>>917 武田勝頼と武田三郎(上杉景虎)・・・。
この二人は出会っていたと思いますが、二人の関係はわかりません。
武田三郎は武田信玄の駿河侵攻により北条家に戻ってきます。
10代の純粋な眼で戦国の世を見つめる際、何かを感じとっていたと思いますよ。
越相同盟が瓦解した時、上杉家にそのまま残る心境にもつながっているのかも・・・。
武田勝頼にしてみれば武田三郎が善徳寺会盟派の一員である以上、
当人同士が何も思わなくても家中の雰囲気の影響を受けることになるでしょうね。
それに、年下なのに『三郎』というのも・・・。(笑)
父の信玄からは勝頼への愛情を感じていたと思いますから、
そういう意味の嫌悪感はないかな〜と思います。
>>933のつづき。
上杉家の内情・・・。
景虎派には、古志長尾家の上杉景信、山本寺定長、本庄秀綱、柿崎晴家、北条高広と、
一門衆や上郡&中郡の国人衆が中心かな?(斎藤朝信、安田顕元は景勝派。)
揚北衆はほとんどが景勝派ということでまとめちゃいますね。
景虎派側の立場で話を進めますが、
ひょっとしますと上杉家重臣たちは、
上杉謙信の関東遠征を負担に思っていたのかもしれません。
毎年の関東遠征は越後の農兵にとってありがたいものかもしれませんが、
武将にとってはそれほど大きな合戦があるわけでもないですから、
出世のことを考えますと、あまり意味のあることではないのかもしれません。
農兵と武将では物の考え方や生き方が違いますからね。
ならば、越後農民救済政策の関東遠征で北条家と終わることのない戦を続けることより、
西の脅威、織田家との戦を積極的に展開し、出世や恩賞を目的に行動したいと考えるのでは・・・?
北陸の領土化もそんな事情があったのかもしれません。
手取川合戦もこうした背景があるのでしたら、士気が高かったかもしれません。
再び関東遠征を目論む上杉謙信は、この状況下でこの世を去ります。
もし、こうした動きがあるのなら、
北条家と同盟して背後を固めたいところでしょう。
そして上杉景虎は後継者として選ばれる・・・はずでした。
>>918 これは上杉憲英のことかな?
もしそうでしたら関東管領上杉家や南北朝に詳しい人に聞いた方がいいですよ。
領地の件、力になれそうもないです・・・無念。
>>921 厩橋城での攻城戦は聞いていませんが、
この城は北条家の支配下(?)にありましたので陥落と書きました。
935 :
日本@名無史さん:03/07/27 11:12
>931
初めて目にする名前がいっぱいですね...
ちなみに長塚孝さんという方は、どちらの大学の方ですか?
「この人のが定説」と言われても、判断しようがありません。
この話、結局堂々巡りでしょうか...
>>932 少なくとも、武田三郎や北條三郎氏秀とは言ってないようだが。
937 :
日本@名無史さん:03/07/27 11:47
でもそういうことだよね。
私にはそうは読めなかったが。
>>934 厩橋城での攻城戦は聞いていませんが、
この城は北条家の支配下(?)にありましたので陥落と書きました。
細かい質問に応じていただき、有難うございます。
天正7(1579)年8月ころに、北条(きたじょう)高広は、厩橋領の利根川対岸に
ある箕輪城代の内藤氏を通じて、武田への服属を申し入れて、それを勝頼も喜んだとのことです。
おそらく、厩橋城は後北条氏の支配化にはなってはいなかったと思います。
高広服属後、武田氏の東上州攻略は勢いづき、後北条氏の勢力は後退していきました。
訂正 後北条氏の勢力→後北条氏の東上野における勢力
941 :
日本@名無史さん:03/07/27 13:27
>>938 読解力不足の君に説明してあげよう。
と思ったけど>私にはそうは読めなかったが。
の「そう」って何?
で、お前は誰だ?
943 :
日本@名無史さん:03/07/27 15:21
月と星より ◆jaxQ5494pE さん。
度々のレスどーもです。
>上杉謙信の関東遠征を負担に思っていたのかもしれません。
という説は新鮮に感じますね。
今ある謙信スレは...
あと、遅くなりましたが、931さんもどーもです。
NHK大河で戦国北条家を取り上げないのもここらへんに理由があるのかな?
944 :
日本@名無史さん:03/07/27 17:34
北条治部少輔は氏秀とは別の人物なのであたりまえ
945 :
日本@名無史さん:03/07/27 23:32
946 :
日本@名無史さん:03/07/27 23:34
947 :
日本@名無史さん:03/07/27 23:45
>>931 だからよ
北条治部少輔は綱成次男の北条孫二郎だから氏秀じゃねえんだよ。
氏秀は氏康さんの子だろう
直系の人間じゃなきゃ人質になんねえだろうがバカたれが
>>935 >「この人のが定説」と言われても、判断しようがありません。
>この話、結局堂々巡りでしょうか...
ちょっと貴方は失礼な物言いではないのか。
「ソースを出せ」といっておいて・・・。貴方自身では確認することもせず。
>判断しようがありません。
こういうレスを書く前にご自身で確認してみてはどうか?
氏秀文書等は県とか市の重要文化財に指定されている、それに豆相記などは図書館で閲覧できる。
また後北條家の研究会関連また書籍等などでご自身で『ソースを確認』できるはずだ。
こっちは三郎氏秀といわれるようになった『ソース』まで出しているのに。
現在、後北条氏研究家では北條三郎氏秀=武田三郎=上杉三郎景虎はほぼ完全に否定されている。
関八州古戦録は文芸作品としては素晴らしいものであるし否定もしない。
しかし、これを『三郎氏秀説のソース』とするのはいかがなものか?
それは例えば小説の話と実際あった事実を混同しているのと同じことになってしまう。
現在の所、後北條家には氏秀という名前も含め一人しか存在が確認されておらず北条治部少輔氏秀しか該当していない。
武田三郎(三郎景虎)も『文芸作品』の『作者の創作』である。幻庵の養子になってから三郎を名乗っている。
北条早雲や三郎氏秀の呼び方を別に否定はしないが、現在までの史料や研究などで『歴史上』、早雲は伊勢盛時、氏秀は北条治部少輔とされている。
昔の人は名をとても大事にしていたし、そしてそれは今もあまり変わらない。過去の人ではあるが三郎景虎を勝手に氏秀とするのは、当の本人に対してとても失礼な事ではないだろうか。
現在で言えば、もし自分が会社同僚の名前を自分の名前にされているのと同様なのであり、会社に貢献した人物ほど不快に感じると思うがいかがなものだろうか。
因みに947は無視します。
951 :
日本@名無史さん:03/07/28 02:12
じゃあ三郎景虎は誰?
>>949 そういう時は、まず「ぐぐれ」と言うべし。
名前と単純な単語だけでしっかりヒットするのだから。
反応しすぎは逆効果に陥いるぞ。
953 :
日本@名無史さん:03/07/28 03:50
ヴァカでつね
スレが活性化されるよ。
954 :
日本@名無史さん:03/07/28 04:14
活性化と荒らしは紙一重
955 :
日本@名無しさん:03/07/28 09:13
そろそろ新スレ立てろや
956 :
日本@名無史さん:03/07/28 19:05
931は厨房と認定されますたw
957 :
日本@名無史さん:03/07/29 22:40
>>939 源氏さんへ。
1578年、北条高広は景虎派ですから北条家と同盟関係みたいなものかな?
1579年、子の北条景広が戦死。
その後、北条高広は上杉景勝派の武田勝頼に服属をするのですか・・・。
上杉景勝や北条氏政ではなく・・・。
ギャンブラーな人ですね。(笑)
>>943 上杉謙信っていうと、どうしても義勇の人というイメージがありますが、
家臣一同が義勇に賛成というわけではないかな〜と思いまして。
冷静に考えますと1575年まで名目的な勢力範囲はあったのかもしれませんが、
実質的な所領の確保はそれほどできていないような気がします。(だから義勇なのかな?)
領地の拡大がない以上、家臣の繁栄もないかな〜?(単純過ぎですね。)
あら?二つたってる・・・
折れ、sageてるよな…?
……sageてるね……。
(^^)
966 :
日本@名無史さん:03/08/05 17:39
>>960 御館の乱において、高広はあくまでも上杉家臣として戦ったのだと思います。
彼は、武田滅亡後は滝川一益に仕えました。
本能寺の変後は、後北条氏に従わず、厩橋城を接収されましたね。
景虎敗死後、後北条氏は東上州の領有宣言をしましたが、結局無理でしたね。
たしかに、謙信は占領した土地を直臣以外に与えたことはほとんどありませんね。
付け足し
>上杉謙信の関東遠征を負担に思っていたのかもしれません。
たしか、本庄繁長の反乱の原因の一つが、関東遠征に対する恩賞がなかったことである、
といわれていますね。
揚北衆の色部も、危険な下野佐野城に駐留するのを嫌がったりしています。
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
..iiiiiiiiiiiii》| ::: |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiiii|, |iii|
..iiiiiiiiiiiiiiiiii, ( ● ● ) .|iiii|
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii 》━━━━《 |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ 》 / ̄ ̄\ 《 |iiiiiiii|
iiiiiiiii《《《《《《《《 《《 \ ̄ ̄/ 》》 |iiiiiiiiiii|
iiiiiiiiiiii《《《《《《《《《《《 》》  ̄ ̄ 《《 》》》》》iiiii|
iiiiiiiiii《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《》》》》》》》》》》》》》》iii|
iiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》》》IIII
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》iiiiiii
■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■ 〜〜 ■■■■■■
■■■■■■〜〜〜〜〜〜■■■■■■
■■■■■ 〜〜〜〜〜〜〜〜 ■■■■■
■■■■■ ■■〜〜■■ ■■■■■
■■■■■ ■■■■〜〜■■■■ ■■■■■
■■■■ || ■■■■
■■■■■ 〓〓〓〓||〓〓〓〓 ■■■■■
■■■■ 〓〓 || 〓〓 ■■■■
■■■■ // \\ ■■■■
■■■■ //( ●● )\\ ■■■■
■■■■ // ■■■■■■ \\ ■■■■
■■■■■ / ■■■■■■■■ \ ■■■■■
■■■■■ ■/〓〓〓〓〓〓\■ ■■■■■
■■■■■■ ■ /▼▼▼▼▼▼\ ■ ■■■■■■
■■■■■■■■■ ▼▼▼▼▼▼ ■■■■■■■■■
■■■■■■■■■ ■■ ■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□□□□
□□□□□□□■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□□□
□□□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□□
□□□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□
□□□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□
□□□□■■■■■□□□□□□□□□□□■■■■■■□□□□□□
□□□□■■■■□■■■□□□■■■■□□■■■■■□□□□□□
□□□■■■■□□□□□□□□□□□□□□□■■■■■□□□□□
□□□■■■■□□■■■□□□■■■□□□□■■■■■■□□□□
□□□■■■□□■□□□□□□□□□■□□□□■■■■■□□□□
□□□■■■□■□□■■■■□□□□□■□□□■■■■■□□□□
□□■■■■□□□□■□□□□□□□□□□□□□■■■■■□□□
□■■■■□□□□□■■■■□□□□□□□□□□■■■■■□□□
□■■■■□□□□□□■■■■■■□□□□□□□■■■■■■□□
□■■■□□□□□■■■□□□□■■□□□□□□■■■■■■□□
□■■■□□□□□■□■■■■■□■■□□□□□■■■■■■□□
□■■■■□□□■■□■□□□□□□■■□□□□□■■■■■□□
□■■■■□□■■□□■■■□□□□■■□□□□■■■■■■□□
□■■■■■■■■□□■□□□□□□□■■□■■■■■■■■□□
□■■■■■■■■□□■■■■■□□□■■■■■■■■■■■□□
□■■■■■■■■□□□□□□□□□■■■■■■■■■■■■□□
□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□
□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□
□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□
□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□
□□□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
971 :
日本@名無史さん:03/08/14 17:37
箱根か小田原かわすれたけど、北条家の墓所に北条マニア連絡帳みたいな
ものがおかれていた。なかなかコアなファンが多い。
972 :
日本@名無史さん:03/08/14 22:44
973 :
日本@名無史さん:03/08/14 22:51
飯田氏:橘氏を祖とする。徳川家康の側室阿茶局はこの系譜。
安倍氏:孝元天皇の末裔。阿部比羅夫を祖とする。
保田氏:紀伊国在田郡保田荘発祥の清和源氏頼光流。
矢口氏:信濃国安曇郡の豪族。武田信玄の娘に真里姫なるものあり。
石川氏:小野妹子を祖とする。小野道風も同系。
吉澤氏:桓武平氏北条氏流。熊谷氏の祖。
加護氏:不明。現在人口約370人。
辻氏:孝安天皇末裔。大森氏を祖とする。
高橋氏:越後の高橋祝の後裔。
小川氏:尾張源氏。緒川氏、水野氏も同系。徳川家康の母の系譜。
紺野氏:左大臣安倍倉橋麻呂を祖とする東北の豪族。今野、金野も同系。
新垣氏:沖縄の姓、仲城間切新垣村発祥。
藤本氏:藤原兼家十二世孫兼実を祖として信濃に広がる
975 :
日本@名無史さん:03/08/14 23:00
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
977 :
日本@名無史さん:03/08/16 14:42
二∋ノハヽ∈
≡≡(,´D`)⊃ 山崎渉ハキモイ...
三三〜(, /
| ) )
∪
978 :
日本@名無史さん:03/08/19 18:41
19時03分−上野発夜光列車−
979 :
日本@名無史さん:03/08/22 22:32
で・・でたーー!!
アストロズのあとさき考えない必殺の
「恐怖なにがなんでもおれがとっからなりふりかまっていられっかーい
とにかく球をおいかけろー」現象ーっ!!
980 :
日本@名無史さん:03/08/25 20:45
981 :
日本@名無史さん: