異色の公家 西園寺公望を語ろう!

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1日本@名無史さん
孝明、明治、大正、昭和の四代の帝に仕えた、
国家の大柱石「従一位 西園寺公望」について語ろう。
幕末から太平洋戦争の前夜まで、近代日本史は西園寺公望
がすべてを政府の中枢から見てきた。この偉大な人物について
語りつくすべし。
2日本@名無史さん:02/09/08 01:46
お、来たか。
俺も公家スレから移ってきたよ。
3園池:02/09/08 01:49
公チャンのカミさんってだれよ
4日本@名無史さん:02/09/08 01:51
西園寺が洋装で御所に入ろうとして、
女官に止められたというエピソードがある。
女官が「異人の格好で御所に入るとは何事ですか?」
西園寺は「いづれ、宮中はみんな洋装になるよ。
     なんだったら賭けをしようか?」
とやりとりがあったようだ。
5日本@名無史さん:02/09/08 01:52
中枢に居ながら力不足。
と煽ってみるw
6日本@名無史さん:02/09/08 01:52
>3
公望さんは正室がいないんだよ。
側室が二人いたはず。
7日本@名無史さん:02/09/08 01:52
西園寺があと10年生きていたら、日本はどうなってたんだろうな
8日本@名無史さん:02/09/08 01:55
どうにもならなかったろうな。
あと10ねんいきたら101歳じゃん。
それに西園寺一人じゃ無理よ。
9日本@名無史さん:02/09/08 01:59
ちょうど良い時に薨じたのかも。
幸せな人だ。
10日本@名無史さん:02/09/08 02:00
フランス時代は結構もてたようだ。
背が高いし、顔立ちも上品だったから、
海外にでても見劣りしなかった。
11日本@名無史さん:02/09/08 02:01
たしか維新前に、武家風のコスプレをした写真が残っていたよ。
若い頃は、かなりやんちゃだったのだろうね。
12日本@名無史さん:02/09/08 02:04
簡単な系図はないのだろうか。
13日本@名無史さん:02/09/08 02:06
流行に敏感だから、維新後には
「望一郎」って名前を使っていた時代もあった。
14日本@名無史さん:02/09/08 02:08
>13
流行っていうか、公家風の名前を嫌ったってことだよね。
15日本@名無史さん:02/09/08 02:09
当時としては珍しくヒゲをはやさなかったし、
髪の毛も短く刈り上げていた
ようは変わりもんだったんだよ。
16日本@名無史さん:02/09/08 02:09
西園寺は結構なかなかの人物だよ。
岩倉は別格というか突然変異だが、彼レベルなら十分やんちゃ。

戊辰戦争のときは公家たちは日和見しようとしたが、彼はそういうエライサンたちを一喝し、どこぞの将軍として参加。
フランス時代は自由民権にかぶれ、帰国後は当時最左派の中江兆民と社長として新聞発行し、政府はパニック。
原敬という有能な人材を使って第一次政友会全盛時代を迎える。
昭和はじめは元老として政党時代を演出。

まずは一級の政治家と言えるんじゃないか。
17日本@名無史さん:02/09/08 02:14
福田和也はけなしてたな。

何をやりたかったかわからないとか言って.

最近の若手論客はすぐ、ゲームの「能力値」よろしく
点数つけて人物評価したりするが、あれどうにかならんものか。
西園寺に50点くらいつけてたな。
18日本@名無史さん:02/09/08 02:19
福田和也ってなにもん?
だいいち批評家っていきものは
世の中で何も成功をおさめなかった輩がなる職業だろ。
19日本@名無史さん:02/09/08 02:19
しかし西園寺家は、かつて伊予で武家化した過去を持つからな(笑)
変わり者の血が流れている。
20日本@名無史さん:02/09/08 02:21
西園寺家は琵琶を伝承してきた家だから。
三味線も得意としていたようだ。
芸者の三味線を調弦してあげたりしてるしね。
21日本@名無史さん:02/09/08 02:23
略系図
東山天皇ー(閑院宮)直仁ー(鷹司)輔平ー(鷹司)政熙ー(鷹司)政通
ー(徳大寺)公純ー西園寺公望ー(以下略)
22日本@名無史さん:02/09/08 02:28
民主主義というものを肯定的に考えるなら、西園寺の役割・貢献度は近代史においては伊藤博文や原敬と同じくらい大きいと思う。
実際、政党内閣というものを現実的に成立させたのは西園寺。
大隈内閣や第4次伊藤内閣も政党内閣ではあったが、すぐぽしゃってる。
その意味ではもっと評価されていい。
23日本@名無史さん:02/09/08 02:29
西園寺は実弟が純友財閥に養子に入ったから、
金にはまったくこまらなかったようだ。
24日本@名無史さん:02/09/08 02:33
とりあえず、
公家スレから、西園寺公望の部分だけを抜き出して
だれか貼り付けてくれんかな。

すでに議論にでてることを
また蒸し返すのがうざい。
25日本@名無史さん:02/09/08 02:39
若い時はてきとーにやんちゃで、しかも美化しやすい功績をあげているから、大河ドラマの主役向きだな。
ま、皇室との関係で無理だとは思うが。
26日本@名無史さん:02/09/08 02:42
>>16
山陰鎮撫軍総督だろ。
京都は山国で旗揚げの貧乏部隊。ガツガツ村民から飯食ってるのを見られて
時代も変ったもんだと言われたようだ。概して評価ゆるいね。

>>17
同意。そのほうがウケがよく一発明快なんだろうが、福田レベルの鑑識眼では・・

桂園時代ぐらいから西園寺は好きでない。
良くも悪くも波を立てずの流儀だ。
ある意味現代を先取りした総理大臣ではある。
山本権兵衛を嫌って同列の「元老」にしたがらなかったのもその証左。
山縣との抗争をウザく思っていたのだろう。政友会総裁で巻き込まれていたし。
27日本@名無史さん:02/09/08 02:58
>良くも悪くも波を立てずの流儀だ。

一概にそうもいえないと思うが。
社会党を始めて公認したのは西園寺総理と原内相だし。
あの当時、社会党を公認するなんて、今で言えば「アレフ」に市民権を与えるようなもんでは?

それに国家体制が固まってくると、そうは元勲時代のように冒険も出来ないだろう。
特に彼が政権を担当した時代は日露戦争後で日本の地位も世界的に飛躍したし。
28日本@名無史さん:02/09/08 03:16
山縣の圧力でそっこー禁止した狼狽ぶり。
29日本@名無史さん:02/09/08 14:33
公家スレから抜粋。

○藤原北家閑院流、清華家、家業は琵琶。公爵。
○西園寺の当主ほ代々妻帯せず、歴代妾腹。
 公望も徳大寺からの養子、自身も養子を迎えている。
 家の守り神が女性なので嫉妬をおそれて、が理由
○慶応末期には従三位権中納言。
 公家で最初に洋服着た人。戊辰戦争にも従軍。
 立命館(後の立命館大学)という私塾も作ったね。
 フランスに10年間留学し、帰国後は自由民権運動にはまる。
 が、明治天皇からしかられ、政界にデビュー。
 その後、貴族院議員、オーストリア公使、文部大臣、
 立憲政友会総裁、内閣総理大臣、とのぼりつめ、ついに元老に。
 昭和になって、ただ一人の元老として影響力を残す。
 日本の右傾化に非常に心を痛め、最後まで日本の行く末を案じていたが
 昭和15年に無くなった。
 下女に「おまいら、もうたたみの上で死ねないぞ」と言ったそうだ。

 ただし、本当に「おまいら」と言ったかどうかは不明。
 晩年は「コチにはわかりまへん」が口癖だった。
30日本@名無史さん:02/09/08 14:37
続き

○洋装の木戸孝允とまだ子供子供した洋装の
 西園寺の写真があった。(13〜14くらいにみえる)
○新潟県の水原町役場に
 初代水原県知事西園寺公望21歳の肖像画がある。満なら19歳。
○江戸時代の石高は597石。三条、徳大寺よりやや高い。
○兄の徳大寺実則は明治天皇の侍従長を長く務めていた。
○実弟の友純は住友財閥の養子に入っている。
31日本@名無史さん:02/09/08 14:41
陶庵随筆は面白いね。ところで公家140家スレにもまた遊びにきてねー
32日本@名無史さん:02/09/08 14:45
続き

○孫の西園寺公一は、風変わりな人生を歩んでいる
 共産主義者でもある。戦後北京にながく住んでいた。
 日本共産党は除名された。
 何期が参議院議員を務め、
 日中の橋渡しとして長く活躍することとなる。
○西園寺昌美(「白光真宏会」会長)は「琉球王朝の末裔」で、
 「西園寺公望の子孫である西園寺裕夫と結婚」したらしい。
 白光真宏会は、「世界人類が平和でありますように」の札を
 日本中の至る所に貼りまくることで有名な教団。
○西園寺は公卿政治家として近衛を自分の後継者にと思っていたが、
 陸軍のいいなりの近衛に失望の色を隠せなかった。
 結局、近衛は西園寺には完全に見限られている。
 西園寺は「おまいら日本をどこに持っていく気だ?」と
 憂いながら無くなった。

 ここでも本当に西園寺が「おまいら」と言ったかどうかは不明。
33日本@名無史さん:02/09/08 14:46
続き

○西園寺は面長で本当に公家さんの顔をしている。
○薩長藩閥が強い中で公家の政治家を,ということで近衛に目をつけた。
○幕末には御所の朝議に出席してた。
 朝議で「圧倒的な幕府の兵力に対し、薩長の兵力が少ないから、
     薩長を距離をおいたほうがいいのでは?」
 という臆病公家の発言に対し、
 「ここまできたら、薩長と朝廷はもう運命共同体だ。
  いまさら、何をいうか?」
 とまくし立てた。それを聞いていた岩倉が
 「小僧でかした!」と激をとばした。
○岩倉は生意気。

○そのときには西園寺は権中納言だった。
 官位は西園寺の方が上だが、
 まだ朝議の末席に座らせてもらったていた 程度だったようだ。
 数えで20くらい。
 岩倉のほうが年齢が上で、武家顔まけのこわもてだから
 誰も文句言えん
○幕末に、
 「では西園寺はんは、大久保中納言や西郷大納言を作るおつもりか?」
 と言われて、
 「大納言や中納言ではなく大臣になってもらわないと困りますね」
 とも言ったらしい。
34日本@名無史さん:02/09/08 14:48
続き

○元服したとき、孝明天皇の前でお家芸である琵琶をちょこっと演奏した。
○岩倉は、右近衛権少将じゃ無かった。
 やっぱり生意気。しかも下品。
○長州の百姓出身の軍略家:大村益次郎に弟子入りしている。
 本当は軍人になりたかったようだ。

 大村益次郎が暗殺されたとき、
 益次郎から西園寺が酒に誘われていたけど、
 万里小路某とかいう公家に祇園に誘われて、それを
 すっぽかしたから、難を逃れたこともあった。
 あの時、その場にいたら、歴史は変わっていたかも。
35日本@名無史さん:02/09/08 15:12
西園寺家って清華なのに内々ではなく外様なんだよねー 
36日本@名無史さん:02/09/08 15:15
>4
女官ではなく、大原重徳(おおはらしげとみ)。
賭けの内容は、腹を切るか切らないか。
で、大原はそんなもんに付き合ってられるかってプリプリして通り過ぎていったという。
37日本@名無史さん:02/09/08 15:18
大原三位はいい人だけど凡庸だった
38日本@名無史さん:02/09/08 15:22
>>35
「幕末の宮廷」にその話出ていたね。
著者が直接、公望にその理由を問いただしたとか。

とにかく西園寺っていうのは変わった家だ。
3935:02/09/08 15:31
たしか鎌倉頃の当主が謀反を起こしたんじゃなかったかな。「幕末の宮廷」はすごいよね。
40日本@名無史さん:02/09/08 15:35
しかし、「幕末の宮廷」では
菓子屋の「川端道喜」についての記述が間違っているって、
川端道喜本人が書いていたよ。
41日本@名無史さん:02/09/08 15:45
じゃあ下橋敬長に電話で聞いとく
42日本@名無史さん:02/09/08 17:03
岩倉は明治帝の祖父の大納言中山忠能を完全に抱き込み、
勅命は思いのまま。当時の勅命はすべて岩倉が書いたもの。
朝議は岩倉とその盟友たる大久保のシナリオ通り、粛々と進行してていった。

そりゃ、西園寺を小僧よばわりする傲慢さはでてくる。

ただ、明治天皇は岩倉の強引さがお嫌いだった用だ。
成長するに従い、うざったく思われるようになったそうだ。
43日本@名無史さん:02/09/08 17:07
でも岩倉の強引さがなければ、今ごろフランス語とかで2chにカキコしてたかも
44日本@名無史さん:02/09/08 17:22
西園寺公望、ベルサイユ講和条約ではもっと活躍してほしかった。
自分が全権大使なのに、交渉は全部、代理にまかせきりだった。
代理は、米英仏と四国交渉のい場で、全く発言しなく、
日本はなんで、何も言わないんだと詰め寄られる場もあった。
なんで、西園寺自ら乗りでなかったんだろ。
当時68歳の高齢とはいえ、78歳のフランスのクレマンソーが
老骨を鞭打って高度な交渉を行っていたと時に。
得意のフランス語を駆使して、クレマンソーと渡り合って欲しかった。

当時随行員だった近衛文麿がまったく発言しなかった日本の交渉団を
批判している。まあ、批判派だれにでもできるが。
45日本@名無史さん:02/09/08 17:25
あげ
46日本@名無史さん:02/09/08 18:00
公望は山陰道鎮武総督のときに、松江藩をひどく苛めたそうだね。
今でも松江の人は西園寺のことをよく言わないそうだよ。
47日本@名無史さん:02/09/08 18:16
西園寺公望は北越戦争で河井継之助の逆襲を受けたとき
派手な陣羽織を裏返して逃げたアフォーです。
48日本@名無史さん:02/09/08 18:20
原熊萌え
49日本@名無史さん:02/09/08 19:12
>>39
西園寺公宗でしょ。後醍醐天皇を屋敷に招き、風呂場の床が抜ける仕掛け
(下に刀が植えてある)で暗殺しようとしたけど、弟にチクられて計画発覚。
名和長年に斬首されてあぼーん。
謀反人だけど、持明院統側からすれば忠臣だね。
50日本@名無史さん:02/09/08 19:16
そんな何百年前のことでいびられるなんてねー 庶民でよかった
51日本@名無史さん:02/09/08 20:26
>>50
何を言ってる。武家ならお家取り潰し。無関係の人間まで一族というだけで、男は斬首や切腹、女は出家だ。
公家だから本人が殺されるだけで済んだんだよ。
52>44:02/09/08 20:31
しかし、交渉といっても、特に日本としては望むものは無かったんじゃないの?
とりあえず、列強と同じ席に座れただけでもオッケーって感じで。
基本的には第一次大戦はヨーロッパ内の争いだし、交渉次第では国がパンクしかねないフランスとは立場が違うよ。
日露戦争時とは違うよ。
5350:02/09/08 21:10
51 なるほどね やはり公家さんはいいでんなあー
54日本@名無史さん:02/09/08 21:20
>>52
話がどんどん別になって済まないんだが、この時、日露戦争に勝ったあたりから、
日本は列強になったけれど、それが英米にとっては脅威に感じてきた時代でもあった。
だからカリフォルニアの移民なんかは相当いじめられてるいる。
そこで日本としては、いい機会だから「人種平等宣言」なんかを、この講和会議で出したけど、
日本政府自体の無関心と、植民地を持っていた欧米が、
「そんなことをやられちゃ、植民地の人間をつけあがらせるだけだ」という
ことで拒否されたろ(「その時、歴史は動いた」より)。
逆に「何も言わない国」ということで、欧米にとっては
「扱いやすいジャップだ」と思わせたんじゃないか。
55>54:02/09/08 22:15
>そこで日本としては、いい機会だから「人種平等宣言」なんかを、この講和会議で出したけど、日本政府自体の無関心と、植民地を持っていた欧米が、
「そんなことをやられちゃ、植民地の人間をつけあがらせるだけだ」ということで拒否されたろ

俺はその回は見ていなかったが、政府は無関心というより、むしろそれは国益に反することだったんじゃないか?
なにしろ当時の日本は列強と一緒に韓国や中国を苛めていたんだから。
だからむしろ当時の政府としては「白人マンセー、アジア人はアホです。でも我が国だけは可愛がって下さいね。列強の皆様。ウフ!」
てな具合で茶坊主外交に徹するほうが国益に合致すると思ったのでは?
今のアメリカへの茶坊主外交と一緒。
56日本@名無史さん:02/09/08 22:50
その回見てたが、賛成してくれたヨーロッパの国もあったらしいよ。
強硬に反対していたのがイギリス。「国内法に抵触する部分がある」って。
日本は「政治的な理念を宣言するだけでいいんだ」と主張。
その結果、採決すれば勝てる!っていうところまでいったらしい。
ところが、いざ採決する段になって、議長のアメリカ・ウィルソンが、
「では採決します、重要な問題なので方式で・・・反対ありと認めこの案は却下」
日本はなぜ全会一致なのかと食い下がったが後の祭り。
記憶があいまいなのだが、ウィルソンはたしか直前には日本に理解を示していたと思った。
日本は最後に意外な国に裏切られた形に。
ウィルソンといったら学者出身で理想主義的なイメージがあったが、
残念に思った記憶がある。国内の黒人問題があったからだろうか。
57日本@名無史さん:02/09/09 00:32
もし公望が東京裁判まで生きていたら、
連合国はどういう扱いをするのだろう。
58日本@名無史さん:02/09/09 00:49
無罪というか、訴追しようもないよ。
寧ろ天皇への影響力を最大限利用しようとしただろう。
59日本@名無史さん:02/09/09 00:57
村田さんの対西郷最終兵器でしたね。
維新第一世代の中でも坊ちゃん的な純真さを失わなかった人という感じがします。
60日本@名無史さん:02/09/09 01:00
西園寺が木戸等に排斥されてから日本はおかしくなったな。
もちろんそれまでもおかしかったが
それ以上におかしくなった。もう取り返しがつかないくらい。
61日本@名無史さん:02/09/09 01:05
近衛文麿もどうしようもないけど,木戸幸一はそれ以上。
62日本@名無史さん:02/09/09 01:22
俗にいう元君のご子弟たちがあまりにも危機感がないから当時の日本は破滅したと思われ、
西園寺さんに戻すと晩年かなり投げやりだったのは、当時の第二、第三世代の連中に対して失望したような印象があります。
大正初めの二個師団削減に対する統帥権干犯問題の初期まではかなりつっぱっていたのに。
63日本@名無史さん:02/09/09 01:26
元勲たちは、何だかんだ言ってやはり
能力も責任感もある人々だったよな。
64日本@名無史さん:02/09/09 01:44
貴族の責任として議会政治の育成をしようという気概はあったような気がしますね。
でも、議員自体が成り上がりと坊ちゃんと軍人しかいなくなったときに、彼はなにを思ったか、今では想像も私にはできません。
維新のときにおいらが一番身分の低い女性とケコーンしたらみんな維新のこと解ってくれるよね。といったのは公望さんでしたよね。
65日本@名無史さん:02/09/09 07:30
男色の公家、かと思って思わず覗いてみたが、異色なのね。
ま、男色の公家天皇じゃ異色じゃない罠。
66日本@名無史さん:02/09/09 07:42
異色が黄色に見える
67日本@名無史さん:02/09/09 10:02
略称 「園公」
68>67:02/09/09 10:26
一昔なら「興津公」って呼ばれていたんだろうね。
69  :02/09/09 10:58
70日本@名無史さん:02/09/09 17:45
この人、目がこわい
71日本@名無史さん:02/09/09 20:58
永井さんの講義面白そうだな。
72日本@名無史さん:02/09/09 21:00
伊予西園寺家との関係知ってる?
73日本@名無史さん:02/09/09 21:03
伊予はまだ16だから・・・
74日本@名無史さん:02/09/09 21:50
おっさんハケーン
75日本@名無史さん:02/09/09 23:15
ゆうきまさみ「究極超人あーる」に出てくる
西園寺まりいは、西園寺家と関係あんの?
76日本@名無史さん:02/09/09 23:16
「庶民じゃないわ
西園寺家は名家なのよ」って言ってたな。
77日本@名無史さん:02/09/09 23:45
和田慎二「スケバン刑事」に出てきた、
神恭一郎の盟友:西園寺京吾は西園寺家と関係あんの?
78日本@名無史さん:02/09/09 23:54
孫か曾孫が侍従になってました 数年前に
79日本@名無史さん:02/09/10 00:30
なぜ公望は息子に八郎なんて名前をつけたのだ。
なんか意図があるのか?
80日本@名無史さん:02/09/10 00:38
>79
八郎さんは毛利家出身の養子
兄弟に三郎とか五郎とかいたはず
81日本@名無史さん:02/09/10 00:58
公一(きんかず)が嫡男じゃないの?
82日本@名無史さん:02/09/10 01:00
きんかは公望の孫!
83日本@名無史さん:02/09/10 01:12
了。
公一の回顧録買ったはいいけど未読のまま。
赤い侯爵ちょっと萌え。
84日本@名無史さん:02/09/10 21:12
時代劇によく出てくる脇役俳優の西園寺章雄って、西園寺家と血の繋がり
あるのかな。
85日本@名無史さん:02/09/10 21:17
>>80
しかし毛利宗家も、なんで「八郎」なんて名前つけるかねぇ・・・カコワルイ

って近衛とかも「篤麿」「文麿」だから、幼名をそのままという点では同じか。
86日本@名無史さん:02/09/11 02:02
木戸幸一の日記より。

「秘書官長退官の御挨拶を述ぶ。(中略)結局人民の程度しかいかないものだね等と
述懐を漏らされた。又、明治の功臣あなたの御祖父さん等に只一つ感謝することは、
あの変革の際、国教を定めよとの論が随分強かったが、それを押し切って今日の様に
信教の自由を確立されたことだ等との御話もあった。(後略)」

87日本@名無史さん:02/09/11 05:46
西園寺は木戸の官僚上がりの事務処理能力を買っていたし、
毛並みもよかった。目をかけていて、侍従長あたりにしたかったようだ。
後に内大臣に就任したときも「まあ、いいか」ぐらいのリリーフ的感覚だと思う。
近衛文麿が内大臣にならず、敢えて政界に留まるのならばその補佐として。
まさか空前絶後の大戦争の時期の内大臣になるとは西園寺も泉下で嘆いているだろう。
能吏かもしれないが、あまりにも重責すぎた。内大臣選考で西園寺はミスをしたと言えよう。
88日本@名無史さん:02/09/11 20:38
話はそれるけどー西園寺って金閣寺のことやんなー
89世界@名無史さん:02/09/11 20:41
>>85
小早川家を再興したのは毛利三郎。
90日本@名無史さん:02/09/11 20:44
>>88
ちょっと違うだろ。
北山山荘内にあった寺の名を家名とした。
そして、北山山荘を足利義満に取られた。
さらに、義満は山荘をゴージャスにした。
91日本@名無史さん:02/09/11 22:16
>>75
そういえば、えりかが「近衛く〜ん」とか逝っていたな。
いとこって設定だったっけ?
92  :02/09/12 15:56
>>83
>赤い侯爵

通常の侯爵の3倍の権力がありそう
93?u´?{???1/4?3?j?3?n :02/09/12 17:44
>>83
宇津井健の主役でドラマ化決定
94日本@名無史さん:02/09/12 19:43
西園寺は侯爵ではなくて公爵では?
それにしてもシャア専用みたいでかっこいいな。
95日本@名無史さん:02/09/12 20:26
五摂家と徳川宗家は公爵。
清華家と御三家と50万石以上の大名家が一律侯爵だったような。

維新の勲功のあた、
岩倉家、三条家、中山家、毛利家、島津家が公爵。
維新第一世代の西郷家、大久保家、木戸家などが侯爵。
維新第二世代伊藤家、山縣家、大山家、西郷(弟)家などが伯爵だったような。
後にこいつら公爵になってるけど。
(これであってた?)

西園寺家と徳大寺家は後に功績により公爵に格上げされた。
桂太郎が西園寺より先に公爵になってるのが不思議だ。
96日本@名無史さん:02/09/12 20:35
しかし五摂家とかから見ると、
わけのわからん連中がわんさか公爵になって、
内心複雑な心境だっただろうな。
97日本@名無史さん:02/09/12 21:01
近衛忠煕太閤(文麿の祖父)が、公家の東京移住に不快感にあらわし、
しばらく東京にいて、京都に帰って二度と東京には
でてこなかった。
誇り高き太閤殿下は
岩倉、三条ごときのの風下に立つのがいやだったと思われ。
98日本@名無史さん:02/09/12 21:34
>95

中山家は公爵ではなかったと思うが。
確か公爵は20家だったと思う

大名 徳川宗家、慶喜家、水戸徳川家、毛利家、島津宗家、島津久光家
公家 近衛、九条、一条、二条、鷹司の5摂家、岩倉、三条、西園寺、徳大寺
元勲 伊藤博文、山県有朋、大山巌、桂太郎、松方正義

桂太郎は日英同盟で伯爵、日露戦争で侯爵、韓国併合で公爵になった。
維新の元勲である井上馨(後に侯爵)、松方正義(後に公爵)をゴボウ抜き。
維新の時は木戸孝允の家の書生だったのに。
9998:02/09/12 21:47
西園寺はベルサイユ条約締結により、公爵になった。
徳大寺の公爵はなんでだろう?
確かに内大臣を長く務めたらしいが。
西園寺公望のお兄様だから気をつかったのか?

>わけのわからん連中がわんさか公爵になって、 内心複雑な心境だっただろうな。
当初憲法と併せて華族制度を創設するときには、岩倉は公家・大名と元勲は別建の制度を主張した。
が、途中で岩倉があぽーんしたため、伊藤博文は強引に一本化した。
で、のちに伊藤も公爵となる。
100100:02/09/12 22:01
100ゲト
101日本@名無史さん:02/09/12 22:28
>>91
近衛君は光画部ではなく写真部に入ったね。
西園寺まりいとえりかのいとこだったね。

このスレの人、わかる人すくないだろうな。

実際の近衛家と西園寺家の距離はかなり離れていて
まったく接点はないし(養子とか婚姻とか)
家同士で接したことはほとんどないと近衛文麿が言ってたよ。
102日本@名無史さん:02/09/12 23:27
何かの時若かりし日の近衛文麿と西園寺公望が会って
西園寺がしきりに近衛を「(公爵)閣下、閣下」というもんだから
当時まだ無官だった近衛は逆に馬鹿にされていると気分を害したらしい。
103日本@名無史さん:02/09/13 16:36
森有礼【もりありのり】 1847〜89 
明治期の啓蒙思想家・政治家。
薩摩藩の下級藩士の子に生まれる。
藩校造士館をへて藩の洋学校開成所にはいり、1865年(慶応元)藩派遣
のイギリス留学生にえらばれて渡欧した。
67年からはアメリカにわたってまなび、トマス・ハリスから社会改良
主義的なキリスト教の影響を強くうけた。
1868年(明治元)に帰国し、議事体裁取調御用、公議所議長心得などを
つとめて新制度をつぎつぎ提案したが、69年に提出した廃刀案が士族
層の非難をあびて辞職した。翌70年、再出仕を命じられ、アメリカへ
外交官として赴任。73年に帰国すると、明六社を結成して西洋思想の
紹介と啓蒙活動にのりだし、75年には商法講習所(一橋大学の前身)も
設立した。
の後も駐清(ちゅうしん)公使・駐英公使などを歴任したが、1884年
からは文教畑に転じ、85年に初代の文相となり、翌年の学校令公布な
ど近代教育制度を創出するための全国的改革にとりかかった。しかし、
その政策は性急な西洋化と誤解され、89年2月11日の大日本帝国憲法
発布の日、官邸玄関で国粋主義者に暗殺された。
104日本@名無史さん:02/09/13 19:37
>>103
なんで森が?まあいいや。急進的日本語廃止論者。
海外を実際に見た人間が陥る典型的な文明へのコンプを抱く。

暗殺された直接の原因は伊勢神宮に参拝した際に御簾をステッキでくぐり上げた
ということが憤激をかったということだが・・・
この人物が日本で最初の洋風結婚式を挙げたらしい。
洋食のフルコースで、椅子とテーブルをセットして。
105日本@名無史さん:02/09/14 04:09
>>101
おれは鳥坂先輩好きだ。というかおかゆライス食べたいぞ!
106日本@名無史さん:02/09/15 12:17
age
107日本@名無史さん:02/09/16 21:46
age
108日本@名無史さん:02/09/18 23:51
今西園寺家継いでるのは、八郎の次男不二男の系統で、その子公友でスポーツマン何とか言う
会社の役員やったと思う。さらにその子直之は立命館出身とか
109田中一郎:02/09/19 01:43
あ〜○ネタ大いにage
110日本@名無史さん:02/09/19 02:07
>さらにその子直之は立命館出身とか

校祖の血を引くものがヘンチョコリンな成績だったらやだね。
111日本@名無史さん:02/09/19 02:17
112日本@名無史さん:02/09/20 05:26
>>44
ケインズ「平和の経済的帰結」によると,
ウィルソンは英語のみを理解し,
ロイドジョージは英語とフランス語を理解し,
クレマンソーはフランス語とイタリア語を理解し,
オルランドはイタリア語のみを解したそうだ.
首脳間で通訳を介さずに直接会話できるかどうかという関係は
ドイツ賠償問題の行方に微妙な影をおとしたようだ.
西園寺はともかくウィルソンが蚊帳の外だったわけで.

>>52
日本も山東ドイツ利権への要求でしょ.フィウメ要求の伊や巨額賠償要求の仏に同調.
どうせ英仏伊側につくわけだから,日本代表が寡黙だろうと雄弁だろうと大差ないわけだが.

 
113日本@名無史さん:02/09/20 19:25
東灘区に西園寺っているな。

灘区には徳大寺男爵家の末裔がいます。
114日本@名無史さん:02/09/20 19:26
神戸は洛中とあいなりました
115日本@名無史さん:02/09/20 20:25
>>108
http://www.sportstation.co.jp/
これやろ。それにしてもずいぶん軽い・・・失礼、前衛的と言うべきか。
116とりあえずage♯@:02/09/20 22:30
世が世なら公爵サマの会社がヲトハ写真集の発売元とは・・・・・。
泉下の園公もさぞさし・・・イヤイヤこれが千年の都を支えた公家衆の底力か?
117とりあえずage♯@:02/09/20 22:37
失礼
泉下の園公もさぞさし→泉下の園公もさぞかし
118 :02/09/21 21:32
>>36
大原重徳って島津三郎と一緒に幕政改革(一橋派の復権)のために江戸へ行った人だね。
島津三郎も維新後の左大臣になったときに洋装反対してるから、さもありあんって
感じだね。



>>49
宇都宮城の吊り天井事件のモデル??
119 :02/09/21 21:36
>>25
1年じゃ終われない(藁

ま、大河ドラマもボロくなってきたから、最後の元老西園寺公望を最後の大河に
して、最終特別シリーズとして2年かけて散ってほすぃ。
120日本@名無史さん:02/09/21 23:18
大原家
新家で、石高は御蔵米三十石。
どうやって生活していたんだろう?
121日本@名無史さん:02/09/21 23:28
幕府に攘夷を迫り、朝廷の権威を振りかざし、
勅使大原には幕府は参ったらしい。

こいつ、興奮すると口調が漢文調になるんだそうな。
122日本@名無史さん:02/09/22 00:13
>>108
西園寺八郎は競馬の馬主で、昔は仮定名称と言って有名人はほとんど
実名を出さなかった。八郎の馬主名は「スポーツマン氏」。
123日本@名無史さん:02/09/29 01:05
きんもちはソルボンヌ大学を卒業した、日本人第一号。

舛添の先輩か。
124【^▽^】酔鯨ジョーカー@司牡丹:02/09/29 01:57
彼が「元老」なのは許せる。
125日本@名無史さん:02/09/29 13:32
>>119
それいいなー。西園寺の生涯を追いながら
幕末から第二次大戦までの日本近代史を通覧できる。

主役の西園寺役は、大滝秀治にやってほしい。
他に適役っぽいキャストあるかな?
126日本@名無史さん:02/09/29 14:52
>125
石井正則
127日本@名無史さん:02/09/29 15:00
>>126
古畑かよ!
128 :02/09/29 23:55
>>125
題材として悪くはないでしょ。
「翔ぶが如く」が二部構成だったと思うけど、ああいう感じで何部かにわけて
配役も変えるのが良いかと。

一部:少年時代〜維新後の留学をするまで(幕末編)
二部:留学中からベルサイユ条約まで(フランス編)
三部:ベルサイユ後から日米開戦を憂いながら死ぬまで(日米開戦前夜編)

という感じで24ヶ月かけてやるの。二部が長すぎるから、分割するのも
良いかもね。大滝秀治は第三部(藁。

今の大河ドラマみたいのがダラダラ続くの見てらんない。
129日本@名無史さん:02/10/03 00:26
スパッとね。西園寺が主役の大河ならね、
維新から、終戦まで引っ張っていけるぜ。
第1回で、睦仁親王と相撲をとってるシーンで、
     孝明天皇に「睦仁と遊んでやってくれよ」といわれたシーンから。
第49回で、「おまいら、日本をどうする気だ」て憂いながら死ぬシーン。
最終回で、原田熊雄が、西園寺公望の墓前で、
「御前、日本はとうとう滅びてしまいましたよ。」
「でも、安心してください。御前の意志を引き継き、日本人は
 第二の維新を成し遂げ、見事に復興します。」
て報告して、「完」
ってのはどうだい?

これなら、ドラマを感じるだろ?
130日本@名無史さん:02/10/03 04:20
幕末モノの大河ドラマって最近だと徳川慶喜がそうだったっけね。
頃合いかもね。どこぞの財閥に協力させて良いの撮れないかな。
131日本@名無史さん:02/10/03 07:40
>>129
カコイイ。やってほしい
132日本@名無史さん:02/10/03 07:48
>>83
赤い公爵、西園寺公一の息子って、
朝日新聞社の幹部(局長か役員)らしいね。
いかにも朝日。
133日本@名無史さん:02/10/03 18:53
略歴を見よ
バリバリの中共シンパやな(層化シンパでもあるが)
http://www.sokagakkai.or.jp/sokanet/Siten/Kinnohasi/yuukou-miti.html
134日本@名無史さん:02/10/04 00:10
日本における自由主義、民主主義の草分け的存在である公望の子孫から、
なにゆえ、このような全体主義賛美者が育つのか。
教育を間違えたか。

公望の意志を引き継ぎ、正常な自由主義と民主主義を日本に
根付かせるのが、公望の子孫としての使命ではないか。

公望が天国でなげいているぞ。
135日本@名無史さん:02/10/04 00:25
大河
第2回 「御所デビュー 編」
第3回 「幕末の風雲  編」
第4回 「御所で徳川慶喜を論破した編」
第5回 「小僧でかした by 岩倉 編」
第6回 「戊辰戦争 最弱新政府軍を率いて・・ 編」
第7回 「立命館設立 編」
第8回 「フランス留学への道 編」
第9回 「パリ、社交界デビュー 編」
第10回 「中江兆民との出会い 編」
第11回 「帰国 編」
第12回 「新聞社設立 編」
第13回 「自由主義者公望 編」
第14回 「岩倉の怒りと、帝の懇願 編」
136日本@名無史さん:02/10/04 01:00
第15回 「憲法調査への旅 編」
第16回 「オーストリア ベルギー ドイツ公使 編」
第17回 「貴族院議員へ 編」
第18回 「日清戦争1 編」
第19回 「日清戦争2 編」
第20回 「ドイツ、オーストリア公使 編」
第21回 「立憲政友会への参加 編」
第22回 「文部大臣就任 世界主義を唱え絶賛 編」
第23回 「立憲政友会総裁就任 編
第24回 「日露戦争 1」
第25回 「日露戦争 2」
第26回  「日露戦争 3」
第27回 「内閣総理大臣就任 編」
第28回 「桂園時代の幕開け 編」
第29回 「軍拡に反対 軍部との対立 編」
第30回 「西園寺内閣崩壊 第二次桂内閣 編」
第30回 「第2次西園寺内閣設立 明治大帝崩御 編」
137日本@名無史さん:02/10/04 01:10
訂正  第20回 「ダブった

第32回 「元老就任 編」
第33回 「総裁辞任 原敬政友会総裁 編」
第34回 「第一次世界大戦1 編」
第35回 「第一次世界大戦2 編」
第36回 「ベルサイユ講和会議 全権大使 編」
第37回 「西園寺公爵 誕生 編」
第38回 「大正帝崩御 昭和大帝誕生 編」
第39回 「最後の元老へ 唯一の首相推薦人へ 編」
第40回 「軍靴への足跡 張作霖 爆殺 編」
第41回 「世界恐慌 編」
第42回 「満州事変 編」 
138純一郎:02/10/04 01:13
感動したーー
139日本@名無史さん:02/10/04 01:17
第43回 「5.15事件 編」
第44回 「軍部の台頭 編」
第45回 「2・26事件1 公望危機一髪 編」
第46回 「2.26事件2 発言力の低下 編」
第47回 「支那事変 編」
第48回 「国粋主義の台頭 世界主義者西園寺の憂い 編」
第49回 「公望死去。おまいら日本をどうする気だ! 編」
第50回 「帝国崩壊 黄泉の公望へ第2の維新を宣言 編」
   
          完

疲れたぜ。大河完成だ。これを放映。NHKに売り込もうか?
140日本@名無史さん:02/10/04 01:19
わかった。
俺が主演してやる
141日本@名無史さん:02/10/04 01:22
第一部をやれ。
第二部は秀治だぜ。
142日本@名無史さん:02/10/04 01:39
この人維新直後に17歳で県知事やってたんでしょ
すごいね
143日本@名無史さん:02/10/04 12:07
お前じゃ無理ダニ
144日本@名無史さん:02/10/04 12:19
議会制民主主義に理解があったというより、
政局の安定を最重視したリアリストだな。
145日本@名無史さん:02/10/04 12:46
自由民権運動にはまった頃に明治大学の設立に参画してるね。
講義もしていたらしい。
146日本@名無史さん:02/10/04 23:32
国際通っていったら、当時のお偉いさんで、西園寺に右にでるもんは
おらんだろ。
フランスに10年間、在外公館公使として 7年間のヨーロッパ勤務。
計で、海外在住17年だからな。

また、西園寺の文化サロンはすごいぞ。
夏目漱石とか層々たる、文豪、詩人が名とつらねとる。
147日本@名無史さん:02/10/06 05:48
>>146
「雨声会」のことかい?
西園寺の文化的側面を持ち上げすぎても貶めすぎても適当ではないが、
毅然とした明治の文化人たちは距離をおいた。
漱石も正宗白鳥も一線をおいていた。

お公卿さんだからと片付けるのもよろしくないが、
山縣のサロン(?)「常磐会」なんぞよりは上質の作品が生まれたようだが。
148日本@名無史さん:02/10/06 05:56
京都の立命館大学の校名の「立命館」は西園寺公望の私塾の名称がルーツで、
その「立命館」と書いた西園寺の書いた額が立命館大学の図書館に掲げられているが、
そこには、西園寺公望ではなくて「藤原公望」と書かれている。
西園寺公望の意識が分かるね。
149日本@名無史さん:02/10/06 09:12
明治大学設立にかかわってるののに、
明治大学は、大学の沿革では西園寺の「さ」の字もださねえぞ。
堀とほか3人により設立されってことになっている。

わけのわからんやつより、西園寺の名前だしたほうがよかったじゃん。
明大出身の我としては、創設者が西園寺のほうがよかった。
堀とかいう あんなわけわからん名前も誰もわからん奴よりはな。
なんかくやしいな。立命館が羨ましい。

なにゆえ設立史から削除されてるのだろ。
対立した歴史でもあんのかな。
150 :02/10/06 09:42
>>139
なかなか面白そう。
NHKは勉強しる!!
151日本@名無史さん:02/10/07 23:20
お前も勉強するダニ!
152日本@名無史さん:02/10/08 11:48
2つ目の帝国大学を京都に持ってきたのも西園寺公望文相。つまり京大創設者なの?
153日本@名無史さん:02/10/08 18:23
漱石は西園寺に呼ばれても、行かなかったそうだがな。
漱石ってへそ曲がりだからな。
154日本@名無史さん:02/10/08 18:32
漱石って一応教授ってことになってるけど、本書く前は
不人気なただの講師で冷遇されていたらしい。
彼の講義の内容は、なにがなんだかわからないような
講義で他の英文学の外国人講師に比べて非常に見劣りしていたらしい
155日本@名無史さん:02/10/08 18:35
しかも、分裂病で妻に自分の不遇を当り散らしていたらしい
156日本@名無史さん:02/10/08 18:45
>>135 >>136 >>137 >>139 すごい!すごい!素晴らしい。
昭和天皇が信頼を置いていたのは西園寺公望と鈴木貫太郎の二人だったと
天皇崩御の頃に聞いたような記憶があるんだけど。西園寺が亡くなってから
戦争に突入したし、戦争終結内閣は鈴木貫太郎内閣だったな。西園寺の存在
はとてつもなく大きい。今の時代的要請の上からも是非、実現してほしいな。


157日本@名無史さん:02/10/09 00:07
京大帝大設置については、西園寺の思い入れが
かなり入っている。

官僚養成所の東京帝大とは異なり、京都帝大は、官とは距離を置き、
自由な学問研究を探求する場として設置することを基本方針とした。

さらには、当時帝大は旧制高校出身者しか入学できない為、
旧制高校に行かなかった人に対して、大学進学の道を開く目的で
京都法政学校(立命館)設立にも尽力した。

西園寺という人間は偉い人だよ。
158日本@名無史さん:02/10/10 20:31
偉い人ダニ!
159日本@名無史さん:02/10/13 00:55
なぜ、
 岩公
 条公
 園公
と呼ぶのだ?
160日本@名無史さん:02/10/15 14:16
立命館・京大・明治だけでなく日本女子大や梅花女子大も作ったんじゃなかったっけ?
161日本@名無史さん:02/10/15 15:32
  
162日本@名無史さん:02/10/16 12:39
>>159 伯爵・男爵・侯爵じゃなくて、
も一つ上の「公爵」だったからじゃないの‥。
163日本@名無史さん:02/10/17 13:29
>>162 子爵が抜けてる。上から公爵>侯爵>伯爵>子爵>男爵
    公爵は家柄プラス明治維新の功績がないと賜れない爵位。 
164日本@名無史さん:02/10/17 14:39
平沼男とか大河内子とかの表記を初めてみた時、昔はわざわざ性別やら
親子の違いをも書き表していたのかと妙に納得した覚えがある。
165日本@名無史さん:02/10/18 00:52
西園寺っていつから元老になったの?
井上や黒田の時代からそうだったの?
166日本@名無史さん:02/10/18 07:47
西園寺が元老の資格を持つのは、大正時代以降と考えていい。
新たに元老として認められるためには、まず天皇の代替わり時に
大政輔弼の詔勅を受けることが必要条件だったが
西園寺はこの詔勅を、大正天皇から受けている。

ちなみに、西園寺が初めて元老会議に出席したのは
大正二年の二月、第一次山本内閣が成立する時。
その後、違勅問題などで首相選定から遠ざかるが
寺内内閣の時に復活して、死ぬまで元老だった。

もっとも昭和に入ると、政治の低調ぶりを嘆いて
「元老やめたい」と何度かボヤいてるけど
牧野や木戸が反対して、結局やめられなかった。
167日本@名無史さん:02/10/18 21:11
ちと間借り。
元老スレ建てたいんだけど、ありますか?
一応探したけど見あたらないんで。
168日本@名無史さん:02/10/19 00:19
元老の中で大卒は、西園寺だけだ。
169王翦:02/10/19 20:07
 「明治史実 外交秘話」(原題は旧字 昭和2年出版)によると西園寺家は正室を置くと祟りがあるという家風
だったので西園寺公は妻帯せず、西園寺がフランスから帰り東洋自由新聞を経営していた頃、新橋の名妓を根
引して妾とし、本妻同様に扱われていたが、その本が書かれた頃には大磯に隠棲し、「お花坊」と呼ばれる平凡
な女中に手を出しているようだ。
170日本@名無史さん:02/10/19 22:03
西園寺を知るのに何かいい本ありますか?
一応、豊田穣「最後の元老 西園寺公望」ってのは読んだんですけど。
他に何かいい本があれば、と思って。
171日本@名無史さん:02/10/19 22:53
西園寺公望伝 立命館大学西園寺公望伝編纂委員会/編 岩波書店 1冊5千円ぐらい×6巻ぐらい
172日本@名無史さん:02/10/19 23:53
>>166
西園寺が元老になったのは大正5年以降、という説もあるね。
まあ、元老なんてもんは定義がイイカゲンな存在だから。
173王翦:02/10/19 23:53
岩波書店刊「西園寺公と政局」 別巻込みで9冊 古書店でセット売りしてるのをたまに見かけます。高いけど・・・

文春文庫から「重臣たちの昭和史」というのも出ている。
大正時代の西園寺の活動に関しては児島襄の「平和の失速 大正時代とシベリア出兵」全8巻文春文庫が
手に入れやすいです
174日本@名無史さん:02/10/20 15:39
文春文庫・勝田龍夫著「重臣たちの昭和史」上下2巻 (こちらは安いです)

近衛文麿、木戸幸一、原田熊雄は元老・西園寺公望の門下生で
<園公三羽烏>と呼ばれた。公はこの三羽烏の情報をもとに
昭和激動期の後継首班を推奏していく‥原田の女婿である筆者が
知り得た事実等をもとに昭和政治を綴った歴史ドキュメント。
175日本@名無史さん:02/10/20 16:06
徳間書店・三好徹著「幸運な志士・若き日の元勲たち」 (深みはありませんがお手軽です)

伊藤・黒田・山縣・大隈・西園寺・原啓の青春群像を描く。
176日本@名無史さん:02/10/20 17:01
171>の西園寺公望伝ほど本格的ではありませんが、こちらにもあります。

「立命館百年史・通史一」
第1章 草創期の立命館
 第1節 学祖・西園寺公望と立命館
   明治維新と西園寺 山陰道鎮撫使 フランス留学 東洋自由新聞
   憲法調査と駐欧公使 維新と教育の近代化 私塾立命館の創設 
   私塾立命館の人々 中川の文部省時代 樺太庁と台湾銀行 
   元老西園寺公望 西園寺と大正の政局 坐漁荘時代の秘書中川
   昭和の政局と西園寺・中川 中川小十郎の政治活動
 第2節 京都法政学校の創立
   西園寺文相の世界主義 女子教育への関心 第二次教育勅語案
   京都帝国大学創設と京都法政学校構想
 第3節 戦時下の大学の展開
   西園寺文庫と管見記 西園寺公望の逝去   (等、西園寺関連抜粋)
177日本@名無史さん:02/10/20 20:55
2・26事件で殺されかけたんだっけ
178日本@名無史さん:02/10/20 21:10
誰の本で読んだのか思い出させないが、西園寺が若いころフランスに留学中、
小間使いを手元に置いておいて、勉学に飽きると彼女と一発やり、また勉強を
始めたそうな。俺も受験勉強中この話を知ってえらく羨ましかったことを
覚えている。俺なんか自分の手で抜くしかなかったもんな。
誰か出典を知らないか。
179日本@名無史さん:02/10/20 21:15
「こちは、殺されていまへん。」
「あやうく、難をのがれましたんや。」
   by 公望

180日本@名無史さん:02/10/21 03:01
元老の定義は曖昧で研究者や当時のジャーナリズムでも不明瞭。
敢えて位置付ければ西園寺の元老は昭和天皇の即位の際に出された
勅語により正式に元老と称することができたと言えよう。
それ以前にも後継首相選定に関与はしているが。

ちなみに「元勲優遇の詔」というものです。
大正天皇即位の際にはこの詔勅は山縣・井上・桂・大山・松方にしか出されていない。
西園寺には時の首相としての勅語のみ。
昭和天皇即位の際にも首相・若槻礼次郎に出されているので慣例なのであろう。
年齢的にも西園寺には焦って元老の詔を出さなくてもよいでは、と。
本人もがっついて求めるタイプではないし。
181日本@名無史さん:02/10/21 07:13
元老と元勲の違いが分から…
182日本@名無史さん:02/10/22 02:12
元勲は明治期から、元老はも少し後になってから だろ。
公的な天皇陛下への最高補佐役という役目は同じ。
183日本@名無史さん:02/10/22 10:19
西園寺元老が戦前の議会主義に貢献したのは事実。
しかし、年寄りがいつまでも権力を持つという悪習もある。
そういう意味で226の連中の元老引っ込めにもちょっと理解したい気もする。

現在の日本でも政界では大勲位、銀行業界では103歳の元三和頭取がドンとして君臨しているのを見ると。
184  :02/10/22 12:18
>>180-182

元勲は明治維新の功労者

元老は元勲の中で天皇の政治的助言者として公認されたもの。一般的には「元勲優遇の詔」を賜った政治家。
但し、西郷、大山のように「元勲優遇の詔」がなくても元老と認められた政治かもいる。
「元勲優遇の詔」を賜った政治家は伊藤、黒田、山県、井上(文面は若干異なる)、松方、桂、西園寺

>西園寺には時の首相としての勅語のみ。
 西園寺は、首相退任直後に「元勲優遇の詔」を賜っている

西園寺の一人元老期以降は、元老、内大臣協議制、元老、内大臣、「重臣」協議制(これは、時代によって若干の変化がある)と変遷

「重臣」とは元々、「枢密院議長と総理大臣前官礼遇者」だったが、後に、「枢密院議長と首相経験者」と範囲が拡大された
「最後の元老」についてはこちら
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/works/saionji.htm
「元勲優遇の詔」についてはこちら
http://plaza2.mbn.or.jp/~duplex/choku/cm22.htm (伊藤、黒田)
http://plaza2.mbn.or.jp/~duplex/choku/cm24.htm (山県)
http://plaza2.mbn.or.jp/~duplex/choku/cm31.htm (松方)
http://plaza2.mbn.or.jp/~duplex/choku/cm37.htm (井上)
185日本@名無史さん:02/10/22 12:22
エンコー
186日本@名無史さん:02/10/22 12:29



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187  :02/10/23 12:31
あげ
188日本@名無史さん:02/10/23 17:55
>>184 ありがと。
という事は元勲だけでは天皇の政治的助言者とはならなかったんだ。
王政復古で維新したんだから、その功労者なら同じようなものかも
しれないが。
189日本@名無史さん:02/10/23 18:08
大隈重信や山本権兵衛が二度も組閣してるのに
元老になれなかったことを考えると興味深い。
あくまでも元勲どまりな二人。
190日本@名無史さん:02/10/23 18:42
年寄りの政権維持の弊害を自覚してたからこそ
坐漁荘に移り住んだって事はなかったのかな。
どちらにしろ現実の政治の動きに黙認は出来なかったんだろうけど。
青年将校の気分は、それを理解するどころではなかったという事か。

大村益次郎暗殺の時と2.26事件の時、2回も殺されかけてるんだねぇ。
191  :02/10/23 20:01
>189

大隈は
http://plaza2.mbn.or.jp/~duplex/choku/ct05.htm
の御沙汰書によって元老とみなす少数説もある。
所管の宮内大臣はこの御沙汰書による大隈の元老化を容認したらしい
「事典昭和戦前記の日本 制度と実態」より

また、山本権兵衛については、「西園寺後」を睨んでの元老擁立運動があったが、結局立ち消え
大隈については明治14年の政変による下野、山本については「桂園権」といわれながらも
いつのまにか「桂園体制」といわれ、また、首相になったのが大正天皇即位後という「運の悪さ」だったのだろう

西郷弟については、日露戦争まで生存していれば、井上馨と同時に井上と同文の勅語を賜った可能性が高い

首相経験者については原則として、首相退任後、「元勲優遇の詔」を賜り、
首相になれなかった元老(井上)については、日露戦争を睨んで文面が若干異なる「元勲優遇の詔」を賜った

但し、「元勲優遇の詔」は無役(になった)時に賜るため、明治37年当時参謀総長だった大山には
井上と同様の直後が賜ることが出来ず大正天皇即位時まで「元勲優遇の詔」を賜る機会がなかったのだろう。
西郷は生存しても無役の可能性が極めて高く、西郷が生存していれば、
井上と同時に「元勲優遇の詔」を賜る可能性が極めて高かったと思われる
192  :02/10/24 16:30
閑院流あげ
193日本@名無史さん:02/10/24 18:45
大隈は明治の草創期に、揉めたり遠ざけられたりしたからねぇ。
薩長ではなく佐賀出身だった事も関係してるかも。
このおっさん、結構長生きしたんだが。
194日本@名無史さん:02/10/24 23:53
>>193
>薩長ではなく佐賀出身だった事も関係してるかも。
ていうかそれが一番の原因だと思う
公家の西園寺以外は全員薩長だし
195日本@名無史さん:02/10/25 05:01
>>194
大隈の元老化を積極的に進めたのは、山縣という情報があるよ。
(原敬日記にしっかり書いてある)
山縣閥の波多野宮内大臣が、大隈の元老化をしきりに
容認する発言をしたのも、山縣の意向が働いてると考えられる。
実際、原敬が首相に選ばれた時には、大隈も元老として御下問を受けている。
山縣は大隈を元老にすることで、立憲同志会系の反発を抑えようとしたのだろう。

反対したのは松方や西園寺、それに寺内首相などの有力者。
また同志会系も、政府に取り込まれることを恐れる反対意見が多く(尾崎とか)
何より大隈自身が、自分の元老化に反対だった。
元老を蹴った方が大衆ウケが良い、という判断もあったかもしれない。
事実、マスコミは大隈の元老反対論に拍手喝采だったし。

元老の間で大隈の評判が悪かった点に関しては
佐賀出身ということが絡んでいることも考えられるけどね。
196日本@名無史さん:02/10/25 23:21
原敬日記といえば、寺内内閣の時代、
山県から西園寺を枢密顧問官にしようとして断られたと愚痴られた三浦梧楼が、
山県に「お前がいるからだ」とはさすがに言えなかったと
原敬に話して二人で山県を笑っていたという記事があったね。
197 :02/10/27 22:28
大隈・山本が元老にならなかったのは、経歴にはっきりとしたキズがあるためでは?
もっとも"正式な元老"って言っても、結局は本人の自負心によるところが大きいんだけどね。
198日本@名無史さん:02/10/28 02:20
山本権兵衛元老擁立運動が昭和初期に展開されるが
西園寺が嫌って最終的に潰した。その辺の詳細を知りたい。
199日本@名無史さん:02/10/30 14:27
>>198

山川(?)から出ていた「年報日本の近代 20」に関連の論文がある
200日本@名無史さん:02/10/31 16:19
陸奥宗光の孫が他界したね。
陸奥陽之助て幼名まんまやん。95歳ぐらいだった。
西園寺と関係なくてスマソ。
201日本@名無史さん:02/10/31 20:48
>>199
そうそう。「天皇・皇室と政治」だっけ。
山本(準)元老化作戦wとか何とか。本が見当らんので分からん。
内容は興味がある人には、まあまあ面白いと思われ。

西園寺側の論文だと、永井和の長い題名の論文があるよ。
これは確かWebで探せば読めるはず。ぐぐってみるべし。
202日本@名無史さん:02/11/01 12:17
>>201
>西園寺側の論文だと、永井和の長い題名の論文があるよ。

http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/works/saionji.htm

のことか
203日本@名無史さん:02/11/03 18:42
一人元老となった西園寺自身が政党政治促進の為に
元老自然消滅論をとっていたと言うのか。抜群の先見性か。
204日本@名無史さん:02/11/03 19:09
西園寺公を
「何をしたかったのかわからない」とか言って
東條英機より低い点数付けをしていた福田和也は一体・・・・。
205日本@名無史さん:02/11/03 19:19
>>204
「総理の値打ち」とかいう本?
読んで無いけど、あれって総理時代だけの評価で点数付けてるんじゃないの?
まあ、福田和也ごときが誰に何点を付けようと、どうでもいいことだろうけど。
206日本@名無史さん:02/11/03 22:29
戦前の政党が辿った道を考えると、元老はまだ必要だった気もする。
207日本@名無史さん:02/11/05 19:39
>>204
ただのヴァカでしょう>福田
西園寺…貴族出身とはいえ、キングメーカー。
      大正後期から昭和初期の政党政治を演出。
東條…ただの官僚

その差は明白。
208日本@名無史さん:02/11/06 15:56
愛知県犬山市にある「明治村」に坐漁荘が
そのままの形で保存されてるじゃないか!

TVで皇后陛下の実家・正田邸を物納されても取り壊したりせずに
歴史的建造物として明治村へ移築せよと言ってたので思い出した。
209日本@名無史さん:02/11/06 16:21
その博物館明治村公式ホームページの西園寺公望邸の添え書きによると、
「公家出身でありながら、その姿勢は終始平民主義を貫いていた」とある。

時代のベクトルと思想的バランスを取ることに於いては秀逸だと思う。
それ故晩年は失望の日々になったが‥福田の意図する事がわからないな〜。
210日本@名無史さん:02/11/06 17:49
戦前の政党政治の成立の時期と藩閥政治による縄張り争い、
元勲第三世代の危機感のないブランド化の一方で軍部の苛立ちと台頭、
これらが同時並行で推移し難しい状態だったので>206のようにもう少し
元老が必要だったかと思わないでもないが、大方の流れでは元老制は
消滅する方向で間違っていなかったのではないか。それに西園寺の意思
を正確に受け継ぐ空気やスーパーパワーが日本のどこにもなかった。
211日本@名無史さん:02/11/06 20:22
彼にもう少し力があれば軍部を止める事もできたんじゃ...
で、結局なにをした人なの?
212日本@名無史さん:02/11/06 21:22
>>211
リベラルな公家。
色々な事に興味を示すがいつもケツまくり。
213日本@名無史さん:02/11/07 16:40
元老挙げ
214日本@名無史さん:02/11/10 11:52
彼が生きている間は戦争が起きなかった事だけは厳然たる事実。
215日本@名無史さん:02/11/10 17:05
>>214
満州事変は?
西園寺ごときが生きていようと死んでいようと
関係ないだろう。
216日本@名無史さん:02/11/12 13:34
age
217日本@名無史さん:02/11/12 14:25
あ〜太平洋戦争の事だよ。真珠湾の奇襲攻撃は彼が生きていれば
一定の歯止めがかかったんじゃないかな。彼が昭和15年に亡くな
ってから急速に戦時体制に突っ込んでいった。良し悪しはともかく。
218 :02/11/12 17:40
>>217
昭和15年の主な出来事
米内光政内閣成立、
第二次近衛内閣成立
 北部仏印に進駐
 日独伊三国同盟締結
 大政翼賛会発足

確かに陸軍主導の政策、行動が目立つ。
しかし、西園寺が生きていてこれをどうやって止めるの?
是非お聞きしたいね。
219 :02/11/12 22:25
>>218
止めようとしたら、陸軍の誰かが殺してたね。
グループ単位じゃなくても個人的にだれかに。
226事件でも候補に挙がってたくらいだし
220日本@名無史さん:02/11/12 23:10
満州事変ですでに陸軍が政府を無視して
勝手に行動してるじゃないか。
それを厳しく処分できなかったから日中戦争まで進んだ。
アホな近衛に事態収拾を期待するが
人を見る目が全くなく死んだ。
それが西園寺だ。
221日本@名無史さん:02/11/13 00:04
昭和に必要な元老は西園寺ではなく、山本権兵衛のような人だったと思う。
222日本@名無史さん:02/11/13 03:43
>>221
山本権兵衛のような人とは具体的にどんな人?
そしてそのような人がなぜ必要だったと思う?
223日本@名無史さん:02/11/13 07:10
>>222
山本を知る人々は、彼の勇気を称えている。
晩年の彼にどれだけの事が出来たかは疑問だけれど、
彼の勇気、実行力に期待していた人も多かったと思う。
西園寺は立派な見識を持っていたと思うけど、
愚痴ばっかりで、命がけで何かを成そうという
気迫が感じられない。
224日本@名無史さん:02/11/13 12:28
西園寺は調整役としては非常に優れていたんじゃないかな。
でも自らが主体となって実行できるタイプじゃないよ。
「彼は結局聡明なお殿様に過ぎない。」
って誰かが書いてたよ。
225217です:02/11/13 12:52
その見識からにじみ出る愚痴が、信頼を置かれていた昭和天皇が
何らかの示唆と受け取る可能性は否定出来ない。さすがの陸軍も
統帥権のある天皇陛下の意向に反することは難しいだろうし。
西園寺が生きていても開戦を止める事が出来たとまでは思わないが
奇襲攻撃という形で開戦しただろうか。たらればで申し訳ないが。

陸軍は政府を無視できても天皇陛下を無視できない。
昭和天皇は西園寺を強く信頼していた。
西園寺は国際通である。       この観点でみたらという事だが。
226224:02/11/13 13:23
>225
なんかさ、特におかしなことを言ってるとは思わないけど、形式的なことにこだわりすぎてるのではない?
殊更煽るつもりはないけど、なんか"必死だな"と自然に思ってしまうよ。
彼はスレタイ通り、"異色の公家"という括りで捉えるのが一番いいと思う。
227日本@名無史さん:02/11/14 10:27
奇襲攻撃という形式が米軍のみならず米国民の感情に火をつけ
原爆投下も容認される空気を作り出した。50年以上経っても
何かテロ行為があると「リメンバー・パールハーバー」という言葉で
報復攻撃が行われる。西園寺が生きていて太平洋戦争開戦の宣戦布告が
真珠湾の「奇襲攻撃とは違った形」で成されていたらと思わずにはいられない。
228日本@名無史さん:02/11/14 15:03
>>226
異色ではあるが所詮公家ってことだね
229日本@名無史さん:02/11/14 22:15
>227
西園寺主役の大河ドラマをやるなら、最後のナレーションはそれでいいと思うけど…
230日本@名無史さん:02/11/14 22:59
>>228
所詮公家 所詮お殿様 所詮平民 
チョンボすれば誰でもその出自を叩かれる。

所詮公家というが、ほかに西園寺に替わる者が現れなかった以上、
所詮公家どころか、所詮平民というほうが適切。
彼はそれなりに仕事をした。
231日本@名無史さん:02/11/15 07:24
大河ドラマは、主人公の「ご当地」が無いと
実現する可能性はなさそうだな。経済効果とかあるし。
西園寺の場合は京都か、興津ということになるのか。
誘致運動としては弱っちくなりそう。題材はいいのにね。

参考
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20021114-00000006-cnc-l24
「藤堂高虎」大河ドラマ化を 津、上野で10万人署名
232日本@名無史さん:02/11/15 13:34
西園寺を大河ドラマでやるのは
まだ50年ぐらいの先だろうね。
233日本@名無史さん:02/11/15 20:53
>>225
陸軍が昭和天皇の意向に背いたことなどいくらでもあったのだが。
>>227
西園寺に軍の作戦を左右するような権限は無かったのでは?
234日本@名無史さん:02/11/15 21:05
>>233
>陸軍が昭和天皇の意向に背いたことなどいくらでもあったのだが。
>西園寺に軍の作戦を左右するような権限は無かったのでは?
俺もそう思う。
本当に西園寺が昭和天皇の後見役として機能していたならば、
満州国はなかったはずだし日中戦争も大規模な戦闘に入る前に
終結できたはず。
満州国が成立し、日中戦争が大規模になった事は西園寺の意見が
通らなくなっていた事を示している。
リベラルな考え方を持った一個人としての西園寺に対する評価と、
実際の政局を動かす政治家としての西園寺に対する評価が混同されていると思う。
235日本@名無史さん:02/11/16 01:54
西園寺は時代の象徴だと思う。
明治天皇とか昭和天皇みたく。
激動の時代を長生したということで。
だから大河ドラマにしたら面白そうだとは思うよ。
236日本@名無史さん:02/11/16 07:02
>>235
一年間見続けた視聴者全員が
「で、この人は結局何をしたの?」と思うだろうな。
237日本@名無史さん:02/11/16 07:37
>>236
大村益次郎の教えを受けただけ
238日本@名無史さん:02/11/16 08:05
>>237
教えと言っても西園寺は大村を気味悪がっていたような
感じだけどね。
239日本@名無史さん:02/11/16 22:42
ま、あれだ。けっきょく国家の命運ってものは
「聡明な一個人」の力だけでは、どうにもならないってこった。
西園寺の考え方を評価することと、それが現実の政治に
どう影響したかということは、分けて考えないといけないのだね。
たとえ昭和戦前期の西園寺が、事実上の「最高権力者」だったと言っても。
240日本@名無史さん:02/11/19 10:50
結果責任を要求される政治家としては、>233>234の言ってる事はもっともだと思う。
おそらく福田和也氏もこの部分に焦点を当てて評価したのだろう。ただし西園寺公望
という人物を総合的にみたら>227や>235のような表現もわからないでもない。
>239の言うように「聡明な一個人」ではなく「聡明な一般国民」を民主国家のもとで
育むには西園寺の大河ドラマ化は非常に有意義じゃないかな。娯楽物とすれば良質だよ。
241日本@名無史さん:02/11/19 13:51
>>233
正面きって天皇陛下に逆らうことは無かっただろう?旧憲法下ではあり得ないよ。
まあ、昭和天皇の「意向」なんて言葉を使うから紛らわしいんだけど。
242日本@名無史さん:02/11/19 18:57
>>241
「正面きって」ってのは、天皇の御前で、ってこと?
そりゃ、天皇の言葉に反論することはなかっただろうね。
天皇に叱責されても「恐懼して、云々」ってやつ。
そういう形式的な話を言いたいわけでしょうか?
243日本@名無史さん:02/11/19 23:29
西園寺は歴史、政治が回転した重大局面、あるいは時代の流行の場所に常にいた。
戊辰戦争、欧州への留学、中江兆民らとの新聞創設、政友会創設、桂園時代、大正政変、ベルサイユ条約締結、政党政治の演出等々。
これはすごいことだと思うよ。
ただいただけ!とも言えるが…
244日本@名無史さん:02/11/20 10:35
>ただいただけ!
それが誰にも真似出来ない重要な役割を果たした訳なんよ。
存在そのものが大きな意味を持つ人物の代表格だね西園寺は。
245日本@名無史さん:02/11/20 10:43
>>244
彼がいることにそれほどの意味はなかったと思うけどね。
本当に「いただけ」のような。
246日本@名無史さん:02/11/20 10:49
>>242
形式的と言うんではなくそのようなシステムと捉えて欲しい。
もち、それはほとんど綻んでいたのだが、最低限の機能はしていた。
247日本@名無史さん:02/11/20 10:59
能力と良識をもちあわせていたが政治的情熱に欠けていた
そういう評価で動かないんじゃないの?
248日本@名無史さん:02/11/20 11:00
>>247
良識に関してはそうだろうけど、能力は疑問。
249 ◆zroWOhjJpc :02/11/20 22:12
西園寺さんと菊亭さんは同族でしたよね。
菊亭という人が楽琵琶を弾いているHPがありました。
ttp://www.tim.hi-ho.ne.jp/soigne/museum/museum02.html
250京・明・立命:02/11/29 19:27
高円宮憲仁殿下のあまりにもお若い薨去を悼み、良識の西園寺スレに敬意を
表してしばらく書き込みを自粛いたします。でもDAT落ちしないでね。
251日本@名無史さん:02/12/02 10:57
あげ
252日本@名無史さん:02/12/04 00:46
立命館、創ったのって西園寺だっけ
それ知ってる学生って何人ぐらいいるのだろう?
253日本@名無史さん:02/12/04 02:17
いっぱいいると思う
大学受験で日本史を勉強していれば出てくるよ
254日本@名無史さん:02/12/04 02:28
公望は、竹下登みたいな、調整ばっかりやってるクズだろう。
255日本@名無史さん:02/12/04 10:38
昭和期には首班推薦をただ1人で行うことができた元老という
256日本@名無史さん:02/12/04 23:29
>>255
元老ではないが
田中角栄や岸信介もキングメーカー
257日本@名無史さん:02/12/05 11:18
天皇は神聖にして侵すベカラズ。の大日本国憲法の下、更に帝国陸海軍の統帥権を
も保持していた戦前の天皇陛下に政治的に助言・進言できるただ一人の最期の元老。
戦後憲法下の竹下・角栄・岸などのキングメーカーとは比べるべくもないよ。
258日本@名無史さん:02/12/05 18:35
ありゃっ、「帝」が抜けてるよ。↑大日本帝国憲法ネ。
259日本@名無史さん:02/12/05 23:19
>>257
元老ではないが木戸幸一もかなり近いのでは?
東条内閣もみんなが反対するのを毒を持って毒を制すの論理で
ほとんど彼一人の判断で決めたみたいなもんだし
辞めさせる時も然り
近衛や東久邇や幣原もそうじゃなかったっけ?

それに天皇ともかなり近い存在だったし
260日本@名無史さん:02/12/06 06:04
木戸・近衛・原田は西園寺の後継者として育てられたからね。
東条内閣成立に寄与したけど、
対米戦回避は結局避けられなかったね。
彼は良くも悪くも宮中政治家だった。
261日本@名無史さん:02/12/07 15:11
今、豊田穣の『西園寺公望』を読んでる。
パリ留学中の西園寺の写真がちょっと笑う。
262日本@名無史さん:02/12/10 13:03
「花神」に書いてあったことなんだけど、
被差別階級の女を欲しがってたってほんと?
公家と被差別民が結婚すれば、それこそ四民平等だって言って。
結婚してないけどね。
これが本当なら偽善っぽいけど、それでも私的好感度大幅アップ
263日本@名無史さん:02/12/10 18:56
ところでさあ、四民って士農工商のことでしょ?
士の上位者として朝廷があるわけで、公家は四民平等とは無関係の気が…
264262:02/12/10 21:30
あっ!そうだよね。
四民平等とは書いてなかったかも・・・あやふやですまそ。
でも、なんかこれからは平等な世の中になるのだから、とか言ってた。らしい。
265青侍:02/12/11 04:39
園公の子孫で左翼になった人いませんでした?

革新的な家系なんでは、、、
266日本@名無史さん:02/12/11 06:17
>>265
このスレをちゃんと見なさい。
何度も話題にでてきているんだから。
267日本@名無史さん:02/12/11 08:58
んー、前半生はわりに好きなんだけど。
竜頭蛇尾という感じだ、西園寺の生き方は。
>>265がシメた時
269日本@名無史さん:02/12/19 11:05
>>222

現役軍人首相の軍部統制内閣というパラドックスを実現したからではないか
(木戸内大臣は、東条で同じことをやろうとして失敗した)

山本が元帥・元老になっていれば
昭和の山県となって軍部の独走をとめられた可能性はある
270日本@名無史さん:02/12/19 14:54
調整クズ、金餅。

交互に首相を指名とか調整ばっかやってるんじゃねえよ!!
軍部と戦え!!
271日本@名無史さん:02/12/19 19:54
>>270
武器は何を使って軍部と戦いましょう?
272日本@名無史さん:02/12/19 23:34
琵琶。
273日本@名無史さん:02/12/19 23:52
公家が軍人に鉄砲持って戦えるわけが無いだろ?

公望がすべきだったのは、軍人にとって、統帥権から
旨みを無くす事。公望には天皇以下、いろんな人間を
動かせた。

高級軍人というのは統帥権を出世の道具にしたやつら
ばっかりだったんだから、統帥権から旨みが無くなったら
そこから離れてゆくよ。
274日本@名無史さん:02/12/20 00:02
統帥権の旨味と、それを出世の道具にしていた高級軍人について
教えてチョ。参考になるサイトとか。
スレ違いかもしれんがカナリ知りたい。
275日本@名無史さん:02/12/20 00:32
>>269
暗殺された可能性が高いな
276日本@名無史さん:02/12/20 20:34
>>273
ま、後からならなんとでも言えるわな。
>>274
俺も知りたい。
277日本@名無史さん:02/12/20 20:53
>>274
素人の範囲で言えば、
統帥権というよりは正確には帷幄奏上権かな。
本来、天皇に提言(上奏って言うのかな)できるのは、
閣僚だけだった。
陸相・海相は閣僚なので当然出来る。
しかし、陸相・海相は基本的に軍政面を担当するので
彼らが提言できるのはあくまで軍政面のみ。

閣僚以外で提言できるのは、
陸軍の作戦を担当する陸軍参謀総長と、
海軍の作戦を担当する海軍軍令部長。
作戦の秘密保持の観点から特別に帷幄奏上権を与えられ、
直接提言できた。
帷幄奏上権は内閣の介入なしに行える。
つまり内閣の方針と反する作戦及びそれに付随するものを
参謀総長と軍令部長は提言できる。

大日本帝国憲法における天皇は基本的に承認機関でしかないので、
提言があれば承認するシステムになっていた。

ちょっとわかりづらい?
278日本@名無史さん:02/12/20 22:10
ん?帷幄奏上権と、「統帥権の旨み」「出世の道具」がどう結びつくのか
わからない。参謀総長や軍令部長が帷幄奏上権を出世の道具に使った
(奏上によって天皇の覚えをめでたくする?)と言ったって、
彼らはもう「大将」だしね。それ以上の出世と言うと元帥になるか、
あとは爵位でももらうくらい?
279日本@名無史さん:02/12/21 00:52
>278
帷幄上奏権を使って人事を行なうことができたんだよ。
だから派閥人事をやってやたらに将官が増えたのさ。
280日本@名無史さん:02/12/21 17:56
上の理論に、もうひとつ付け加えて言うとすると、日本は
貧乏で、ポスト枠も限られていた。
例えば大佐や少将で予備役にならなければならなかったりする。
そうなると、後の経済的待遇が大将までなったのとは違うわけね。
陸軍もそうだったと思うが、大将と中将では定年も違う。
発言力を持って軍備を拡張させることが出来ればポストも増える。
そういう気分があったのは確か。
加えて、青年将校の反乱なんかも、農村の貧乏から発している。
結局、日本の貧乏が関係していたと思う。

統帥権によって、自分たちの権力が拡大するものではないし、自分たちは
実際には天皇の直属でもないと認識させることが出来たら、
軍人の暴走はなかったのではないかと思う。
281日本@名無史さん:02/12/21 18:16
愚民どもが
282日本@名無史さん:02/12/21 18:44
屁をこいた。
283日本@名無史さん:02/12/21 21:20
>>280
地方出身者の経済的困窮は2・26事件の遠因でしょうね。
ただ、統制派将校が経済的困窮に陥っていたということはない。
結局彼らは金銭面より出世(権力欲)が勝っていたかと。
日本の陸軍は日露戦争時にすでに膨れ上がっていて、
その後も軍備縮小(数的な)をしなかった。
財政支出に占める陸軍費は尋常ではない。
とにかく人件費の割合が高いので装備は二の次になり、
第一次大戦後装備面で欧米に比べ劣るようになった。

日露戦争後、数的軍縮・装備充実という形をとっていれば
太平洋戦争での悲劇はもっと小さくて済んだかも。
284日本@名無史さん:02/12/24 16:19
>貧乏で、ポスト枠も限られていた。

これは、いわゆる編制大権で陸軍大臣の輔弼事項で統帥権独立とは関係ないのでは
285メル友掲示板:02/12/24 16:21
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286日本@名無史さん:02/12/25 20:07
留学時代クレマンソーと同じ下宿だったってホントかね?
287日本@名無史さん:02/12/27 05:29
藤原公望
288日本@名無史さん:02/12/28 15:38
『幕末の人物なりきりスレッド』

↑園公にも来て欲しいでつ
289日本@名無史さん:02/12/28 15:43
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1041039437/l50
『幕末の人物なりきりスレッド』
290日本@名無史さん:02/12/29 15:44
立命館を作る時、西園寺公望は、藤原公望と名乗っていた。
291日本@名無史さん:02/12/29 18:22
>>290
西園寺家は藤原氏でしょ?何の不思議も無いんじゃ?
292日本@名無史さん:03/01/07 17:35
その立命館の教師は広瀬青村、松本巌(竜)、板倉塊童、神山鳳陽、江馬天江、
富岡鉄斎、山本秀五郎ぐらいだったかな。あと伊藤猶斎、梁川紅蘭、頼支峰、
横山湖山、山中静逸、谷口露山なんかも関係あり。京都の偉い漢学者を集めていた。
     (固有名詞に当て字が3ヶ所入っています、スミマセン)
293日本@名無史さん:03/01/07 17:52
西園寺公望公は東山天皇の御子孫であられる
294日本@名無史さん:03/01/07 17:55
西園寺家家臣の浜崎廉太郎も立命館賓師だった、ヌケマスタw
しかしスゴイ陣容だわな。塾生も直に100人近く集まったらしい。
その中に中川小十郎と同郷の人見一族の記録が複数確認されている。
295日本@名無史さん:03/01/07 18:31
王政復古の大号令に伴う宮中改革の時に、彼はフランス語学習に熱を入れたり
立命館を誕生させたりしていた。最初から広く外に開かれた塾として開設され
公家家塾の枠をはみ出た一般的な私的教育機関としての性格を備えていた。
296日本@名無史さん:03/01/09 16:04
漢詩人・橋本蓉塘を忘れちゃダメだな。たぶん“立命館”命名に
関わる人物で 後で皇典講究所の開設時、そこの教授にもなった。
著書の蓉塘詩抄が西園寺文庫に収められているらしい。
297日本@名無史さん:03/01/09 16:27
私塾立命館開設は明治2年だから西園寺公望は22才ぐらいだろ?
清華家とはいえ二十歳過ぎの若者がよくもこれだけの
大先生達を集められたもんだ!維新の動乱期にも拘わらず。
298日本@名無史さん:03/01/09 17:56
松本巌(竜)などは頼支峰(頼山陽の子)の大学南校(東京大学の前身)への推挙を
断ってまで公望の立命館招聘に応じた。若き公望には強烈な魅力があったようだ。

299日本@名無史さん:03/01/09 23:22
江馬天江は緒方洪庵に学んだ蘭方医で仁和寺宮侍医、太政官史官にもなった。
長崎遊学中の公望から立命館賓師へ宛てた書簡はこの江馬家に蔵されていた。
もっとも本人は長崎勤学時、庶民的な「北山望一郎」の名を好んで使っていた。
300日本@名無史さん:03/01/10 02:56
望一郎がでた所で上の方のレス>13>14に戻るって感じだ、このスレ終わらないよ、飽きないねえ。
301日本@名無史さん:03/01/10 03:07
共産党の訪中団と一緒に行って、あちらの骨董品を闇で持ち帰ったヤツさ。
俺は聞いて知ってるゾ。
302日本@名無史さん:03/01/10 06:51
望一郎という通称を最初に使ったのは語学学習で開成学校に通い出した時。
京都で立命館を開いたり長崎の広運館に入ったのは、その少し後。
そして念願の渡仏となる。横浜から出航した船では森有礼が同船していた。
303日本@名無史さん:03/01/10 07:13
東回りで、まず米国に入りワシントンに立ち寄った時には
森有礼の斡旋でグラント大統領に面会している。
304日本@名無史さん:03/01/10 16:28
>128の3部作版ならば、この辺りが1部・幕末編の最終回になるかな。
305山崎渉:03/01/11 16:42
(^^)
306日本@名無史さん:03/01/11 21:00
公望にフランス留学の命令が降りたのは清華家という上層公家だったからではなく
王政復古を成し遂げた新進気鋭の青年公卿であったからこそ。本人の力による所が大きい。
摂関・清華・大臣・羽林等の旧い宮廷秩序が崩壊した明治初年の宮廷改革のおかげもあるが。

307日本@名無史さん:03/01/12 01:30
米国から英国へ渡る汽船では船上で出会ったカワイイ子供にキスを迫られ
公望はスゴク驚いて笑うしかなかったのだが、子供の方は怒って泣き出して
しまったw 西洋的挨拶の風習だとわかっていても馴染めず閉口ていたんだ。
308日本@名無史さん:03/01/12 01:48
ロンドン滞在は13日間、米国に続いて英国でも文明開化の空気に接する
につけ、西洋をいたずらに排撃する事(攘夷)の不可が自覚されだしている。
309日本@名無史さん:03/01/12 02:24
とは言え、目的地パリに着いた当初はまだ尊皇攘夷的公卿の眼差しで
コミューン=賊軍、政府=OKとして是認 という単純な色分けで
フランス革命以降の事態の是非を判断していたかも知れない。

ナポレオンの第一帝政、七月革命、二月革命、ナポレオン3世、普仏戦争の敗戦
国防政府とティエール政権 と続いてきた経過を理解するのは無理だっただろう。 

国防軍・青年遊動隊・国民軍・憲兵・警察等の各種軍隊を区別するだけでも大変だし。
310世界@名無史さん:03/01/13 09:14
公望さんは当時の政府中枢の人間にしては、
海外経験がずば抜けてるからなあ。

 フランス留学10年
 駐ドイツ、オーストリア、ベルギー公使 6年
16年間海外在住している。
311日本@名無史さん:03/01/14 16:25
>>286  クレマンソーと同じ下宿ってのは中々わからないんだけど‥
ソロボンヌ大学(パリ大学)に入る前に通ったアコラースの私塾で八つ年上の
クレマンソー(後1906ヨリ仏首相)と同じ門下生としてかなり親しく交際してた。
312山崎渉:03/01/16 08:46
(^^)
313日本@名無史さん:03/01/16 15:05
ネット検索クレマンソーでは「たまたま同じ下宿だった」って記述がたしかにあるなぁ。
回顧録によると、後年のパリ講和会議の時に「この人は昔、自分と一緒にアコラスに学んだ」とある。

314日本@名無史さん:03/01/17 02:47
第3共和制下の各軍事衝突を見て、彼が後年政治的衝突を避けようとする
政治手法を取り、暴力紛争を嫌う下地が出来上がったのではないだろうか。
尊皇攘夷的憤慨が共和制をも理解する識見に変わっていったのがこの時期か。
315日本@名無史さん:03/01/22 02:41
そうでもないでしょ。
西園寺は「憲政の常道」が行われている時でさえ、
あくまで宮中の人材充実を重視していた。
加藤高明・浜口雄幸らを宮中に取り込み、
天皇の側近にしようとしていたよ。

西園寺はあくまで天皇制を前提としてどこまで
政党政治ができるか試していたに過ぎない。

結局、統帥権をめぐり議会・内閣・宮中は軍部に負けた。
316日本@名無史さん:03/01/26 19:00
ageとこうかな

立憲政友会vs立憲民政党(憲政会)
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1007783170/
と合流しても良いんじゃないかと思うけど
317日本@名無史さん:03/01/29 13:13
あげ
318日本@名無史さん:03/02/04 23:15
あがれあがれ
319日本@名無史さん:03/02/05 13:13
宇垣に対する信頼は厚かったらしいね。
彼に、陸軍を抑えてほしかったんだろうな。
320日本@名無史さん:03/02/06 15:32
>315→高齢熟年期の公望さん 現実的政治家
>314→若き留学期の公望さん 理想主義学徒

戦前に西園寺による政党政治の経験があったからこそ
戦後、米国によるお仕着せの新憲法の下でも何とか
日本に民主主義が根付いた。今イラクの戦後を心配
している声の根拠はイラクにその経験がないこと。
321日本@名無史さん:03/02/15 00:59
もちもち♪
322日本@名無史さん:03/03/05 22:39
定期あげ
323日本@名無史さん:03/03/06 08:55
>>320
なるほど…
324日本@名無史さん:03/03/06 11:31
西園寺大河か〜。最近の大河は大衆受けの走狗に成り下がってるからな。
視聴率稼ぎには信長秀吉家康かチャンバラ合戦シーンがないと無理らしい。
よって西園寺は無理くさい。

というか大河で下手な捏造ストーリー&役者で西園寺像を歪められるよりも
読みやすい文庫本とかで出て欲しい。
325日本@名無史さん:03/03/15 10:06
あげときます
326日本@名無史さん:03/03/19 14:49
西園寺公望に隠し子っていたの知ってる人いますか?
327日本@名無史さん:03/03/22 21:45
最後の元老院
328日本@名無史さん:03/03/22 21:54
>>327
院はつかないべや。
329日本@名無史さん:03/03/23 12:25
>読みやすい文庫本とかで出て欲しい。
さいきん岩波新書で出たよん。
330日本@名無史さん:03/03/23 12:41
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/43/1/4308290.html

西園寺公望 ―― 最後の元老 ――
岩井 忠熊
■新赤版 829
■体裁=新書判・並製・カバー・256頁
■本体 780円
■2003年3月20日
■ISBN4-00-430829-1 C0223

--------------------------------------------------------------------------------
フランス留学で培われた広い国際的視野と自由主義をもって,軍閥支配に抵抗しながら,明治から昭和まで長期にわたって権力の中枢にいた元老政治家の評伝.
時代が1つの方向に流されていく時,それに歯止めをかけられるバランス感覚をもった稀有の政治家として,また和漢洋の学問や詩文に造詣が深い文化人としても興味ぶかい.
331日本@名無史さん:03/03/23 19:01
>329
岩波ってサヨの巣窟なんじゃないの?大丈夫かよ。
332日本@名無史さん:03/03/23 21:36
>>331
西園寺もフランスでサヨにかぶれた時期があったから良いんじゃない?
333日本@名無史さん:03/03/30 18:09
http://www.tim.hi-ho.ne.jp/soigne/museum/museum02.html
いまはあとつぎいるの?
334日本@名無史さん:03/03/30 18:19
 西園寺公は青年時代には剣術に凝って、剣術道場に通っていたり、公家の
若様らしくないところがあったよ。
 岩倉公が、青年公家華族のホープとして大いに期待していたしね。
335/:03/03/30 18:37
白光真宏会の理事って西園寺家です
336日本@名無史さん:03/03/30 18:37
>>334
なぜか大村益次郎も西園寺に期待していたみたいだね
理由がさぁぱり分からんけど
337日本@名無史さん:03/03/31 17:34
>335
アヤシイ新新興宗教なの?
338日本@名無史さん:03/04/16 20:14
ループするけど当主は正妻が持てません。

何故なら、、、
339山崎渉:03/04/17 13:11
(^^)
340日本@名無史さん:03/04/18 01:51

中枢に居ながら力不足。
と煽ってみるw
341山崎渉:03/04/20 01:58
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
342日本@名無史さん:03/04/26 20:57
キープ
343日本@名無史さん:03/04/29 15:11
西園寺公望と教育勅語の関わりを教えてください。
344日本@名無史さん:03/04/29 21:17
>>338
そのネタはもう聞き飽きた。ネタが割れてるからやめときな。
345動画直リン:03/04/29 21:17
346日本@名無史さん:03/04/29 22:40
西園寺って文部大臣になったことあったっけ?
347日本ななし:03/05/01 01:17
文部大臣になった。なった。世界主義を唱えとった。
途中から外相も兼務しとった。
公望さん、教育に関しても熱心よ。

京都帝大設立では、東京帝大とは違い、自由に研究できる学術的探求
する大学とするように指示している。
また、旧制高校卒でなくても大学進学の道を開く為、私立大学の設置のも
非常に力をいれた。立命館大学は公望さんの意図を汲み取り設立
されたのであるよ。

348動画直リン:03/05/01 01:17
349日本@名無史さん:03/05/02 13:05
>>334

模様見の貴族が多い中で、若干16歳にして薩長につくべしと断言したから。
350日本@名無史さん:03/05/10 06:57
「若干16歳」って何だ?w
351日本@名無史さん:03/05/10 11:49
弱冠
352日本@名無史さん:03/05/10 12:56
16歳って弱冠だっけ?
353日本@名無史さん:03/05/10 13:52
じゃっかん じやくくわん 0 【弱冠】
(1)〔「礼記(曲礼上)」による。二〇歳を「弱」といって元服して冠をかぶったことから〕男子二〇歳のこと。
(2)年が若いこと。
「―一八歳にして新人王」

16才は弱冠でエエんでない?
354日本@名無史さん:03/05/20 23:16
S太郎
355日本@名無史さん:03/05/21 00:08
北山望一郎。
356山崎渉:03/05/22 02:52
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
357山崎渉:03/05/28 11:34
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
358日本@名無史さん:03/07/08 15:41
ホシュアゲ
359日本@名無史さん:03/07/10 21:32
『西園寺公と政局』ってあんなにバカ高いものだったとは…。
文庫本20巻ぐらいでだしてくんないかなー。
360日本@名無史さん:03/07/12 12:07
>>359
1950年くらいに出た古いやつなら
古本で、一万五千くらいで買えるぞ。
361山崎 渉:03/07/12 12:14

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
362山崎 渉:03/07/15 11:50

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
363日本@名無史さん:03/07/31 03:55
『スパイ・ゾルゲ』の西園寺公望役が、大滝秀治だった!

このスレの上のほうに、西園寺の大河ドラマ化(後半の主演は大滝でw)
という話があったが、まさか本当に見れるとは…雰囲気もバッチリでめちゃ感動した。

シルクハット&明治村坐漁荘の大滝西園寺age
364山崎 渉
(^^)