285 :
日本@名無史さん:02/10/30 23:34
286 :
日本@名無史さん:02/10/31 15:27
秋田遊撃隊について教えて。
287 :
日本@名無史さん:02/11/01 17:23
大山柏の「戊辰役戦史」って鳥羽伏見から函館戦争まで描かれてるの?
>>240 たしか、容保様が日光東照宮の宮司だった時に慶喜が東照宮を訪ねた時の話だよね。
かなり昔の歴史読本での、徳川恒孝氏、徳川慶朝氏、松平保久氏の三者鼎談にも出てるよ。
>>288 慶朝氏、保久氏は名前から誰の子孫か解るけど、恒孝氏は誰の子孫?
日光東照宮といえば脱藩大名林忠崇も何かの職で勤めてなかったけ?
佐幕に生きた大名にとってはやっぱり東照宮は特別だったんだろうな
>>287 かなり詳細に書かれており、戦闘序列まで書かれていたのは
驚いた。
その反面、スープが薄くなってしまっているけど、戊辰戦争
全般をきちんと描いたのは凄かった。
>>287の指摘通りに鳥羽伏見から函館戦争まできちんと網羅
されてる。圧巻なのは最終章で書かれている参考史料だけど
膨大な量には驚いた!市販されていないのは残念。
291 :
日本@名無史さん:02/11/02 08:24
>289
松平容保─恒雄─一郎
├恒孝
徳川家達─家正─某女
292 :
日本@名無史さん:02/11/03 07:55
>288
保久さんじゃなくて、父君の保定さんじゃないの?
293 :
日本@名無史さん:02/11/03 08:00
会津松平12代当主・松平保男子爵は、海軍少将まで出世した。
大名華族が将官まで出世するケースは非常に少ないらしい。
というか華族自体、あんまり軍人にはならなかったらしいぞ(元々軍人の新華族の一部は除く)
華族用の仕官学校だか作ったのにあまりにもなり手がいなくて直ぐに廃止になったとか。
295 :
日本@名無史さん:02/11/03 14:57
戦時中、大名華族で将官だった人は、このくらいかな。
陸軍中将 清水家の徳川好敏、加賀藩の前田利為
海軍少将 薩摩藩の島津忠重
296 :
日本@名無史さん:02/11/03 15:00
>>294 以外と公家出身の軍人が多い。醍醐、一条、四条、町尻など。
297 :
日本@名無史さん:02/11/03 16:48
伊達一門の伊達邦成は、北海道開拓の功で男爵に叙爵。
>>297 同じく北海道開拓の巧があった伊達邦直(伊達一門、邦成の実兄)の嫡孫伊達正人も男爵モナー。
ついでにその二家が叙爵して、旧家臣が我らが主家が叙爵しないとは不公平だと騒いで
宮内省に嘆願し、めでたく男爵となったのが伊達一家の片倉家。やはり北海道移住開拓組。
ってか、邦成叙爵の話題は奥羽越列藩同盟ともスレの流れとも
あんまり関係ない気がするんだが、気の所為か? 華族スレか、仙台藩スレに行こうぜ。
299 :
日本@名無史さん:02/11/04 16:37
奥羽の小藩(新庄・天童藩など)の対応は同情の余地は大いにあると思う。
秋田は許せんが。
300 :
日本@名無史さん:02/11/04 16:40
なしてだ?都合が悪くなればあれは本意ではないって言う方が
卑怯!
確かに格好良い対応とは言えないけど、周りを同盟藩に囲まれてたわけだし。
小藩にしてみれば、生き残るのに必死だったんでしょう。
秋田は許せんが。
なんだ?山田の映画でも見てきたかw
303 :
日本@名無史さん:02/11/04 21:06
>302
映画なぞ知らん。
304 :
日本@名無史さん:02/11/04 21:57
「戊辰役戦史」、講談社学術文庫あたりで出してくれないかな?
>>302 山田の映画というと「たそがれセイベエ」?
東北の小藩海坂藩→同情→新庄・天童藩ら小藩に同情の余地ありって発想か?
306 :
日本@名無史さん:02/11/04 22:31
秋田は、そもそも新政府の論理的基盤を草創した国学。その権威である平田実篤
がいて影響力を及ぼしていた所なんだから、少し頭があったら、秋田が新政府側
につくなんて分かるようなもんだろ。
佐竹に徳川に殉ぜよというのは無理な要求だ。
308 :
日本@名無史さん:02/11/04 22:45
ちなみに戦後、会津・仙台・米沢・庄内・盛岡各藩の藩主を死罪にせよと主張した
のが、秋田藩士の初岡敬治。
309 :
日本@名無史さん:02/11/04 23:24
>>308 それを聞いた薩長の人々には、「それは良い案ですな」とさぞ受けたことでしょう。
ただし、内心では相当馬鹿にされていたとは思うが。
例えば、「オマエ(のところの殿様)モナー」とか。
311 :
日本@名無史さん:02/11/05 16:57
秋田に攻めるほうが悪い。怒って当然だで。
は〜い。先生!!
>>311の意味がわかりませ〜ん。
313 :
日本@名無史さん:02/11/05 18:05
>>310 秋田の殿様は、平賀源内を呼んで蘭学を勉強し、自ら蘭画を描いたりしたんだ
よね。また、天皇崇拝の傾向が高い国学で江戸を追われた平田実篤をかくまっ
てもいる…。で、エライ人はともかく、若者たちは平田の影響を受けまくって
いたんだよね。やはり、秋田は新政府側の殿様だったと思うな。
314 :
日本@名無史さん:02/11/05 20:46
男鹿半島は良いところらしいんだけどね。
>>304 戊辰役戦史を学術文庫には難しいだろうねえ。
でも復刻してほしい本ではある。
実際に持っているけど、軍事的見地で見ているから会津、長岡に対する
批判は容赦がないけど、会津の先生はそれを感受しているし、十六橋の
攻防戦は手厳しく会津の行動を批判している。
で、当の著作者本人は、専門が考古学者というのには驚いた(w
316 :
日本@名無史さん:02/11/05 22:08
>315
岩波文庫では出ないかな?
317 :
日本@名無史さん:02/11/06 20:30
>315
空襲で、自宅もろとも考古学の研究資料が焼失したため、考古学はあえなく断念。
318 :
日本@名無史さん:02/11/06 21:17
>>317 明治の元勲、大山巌の家を「わざと」ターゲットにして攻撃したそうな。
それと、大森貝塚論争に巻き込まれたのと公職追放により慶応大学
をクビ。
酷い話だ。
319 :
日本@名無史さん:02/11/06 23:04
秋田の南部にあった小藩の動向をば…。
1万石足らずの矢島藩なんかは、佐竹藩よりも前にキンノーになっていたんだ
よね。1968年3月18日に藩論を統一している。以後、秋田藩と行動を共にしてい
る。本荘藩は14才の藩主で、始終秋田藩と行動を共にした。
亀田藩もキンノーが多かったし、最初は秋田と行動を共にしたんだけど、藩主
が庄内藩に連れ去られ、脅迫されたか同盟側についたら朝敵になってしまい、
悲惨な運命に…。
秋田藩は…心情的にはキンノーが多いものの実は平田実篤の一派はホントは
DQNなんじゃないのかと疑ってもいた佐竹藩主なんだけど、妻悦子の叔父があ
の土佐の山内容堂な為か、徳川に恨みを持っていたためか、キンノー側につ
くことになったんだよね。
320 :
日本@名無史さん:02/11/10 14:34
それが正しいのだが、同盟の名をかりた賊軍が暴威の限りを尽くし
軍事偏重は破滅へと。
軍事で解決しようとして破滅した
323 :
日本@名無史さん:02/11/15 17:10
軍事ではなんも解決しないだで。
>>319 矢島藩はおいらが生まれるちょっと前まで藩論を統一できてなかったのか(w
325 :
日本@名無史さん:02/11/22 04:03
>>319 >藩主
が庄内藩に連れ去られ、脅迫されたか同盟側についたら朝敵になってしまい、
悲惨な運命に…。
詳しくキボンヌ
そろそろ保守っとかないとヤバげなので保守。
このスレって盛上る時は盛上るけど止る時は止るね
日本史板で会津叩きがフィーバーしている今、このスレを上げるのは非常に危険。
そうなのか…常駐スレしか見てないから知らんかったよ。
329 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:11
晒しage
330 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:32
保守
331 :
日本@名無史さん:03/01/05 00:03
>>319 >藩主
が庄内藩に連れ去られ、脅迫されたか同盟側についたら朝敵になってしまい、
悲惨な運命に…。
この話聞いた事あるけど、なんか違くないか?
庄内を悪にしようとした西軍の見解だよこれは。実際は違うらしいぞ
(^^)
細谷十太夫。
(^^)