戦前の大英雄。
戦後は自己の保身のために南朝についただけの地方豪族。
その出自も謎だし、その評価もいまだ未確定。
一体どんな人だったの?
2 :
日本@名無史さん:02/08/16 15:19
とりあえず3?
ちなみに河内弁の常套脅し文句の
『どたまかちわったろか!』
は楠木党が鎌倉武士どもに浴びせた罵倒文句がはじまりと言われている。
4 :
日本@名無史さん:02/08/16 15:21
東国の腰抜け武士どもを手玉にとった関西の英雄
5 :
日本@名無史さん:02/08/16 15:59
戦後は日教組のバカどもに封印されたけど、
間違いなく日本史上最高の忠臣。
確実に死ぬということがわかっていても主君のため国のために
身を捧げたのは楠木正成と特攻隊員くらい。
今の日教組の偽善教育で育った我々には逆立ちしても真似できない。
なぜ封印されたかよくわかるね。
6 :
コギャルとHな出会い:02/08/16 16:00
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7 :
日本@名無史さん:02/08/16 16:01
嗚呼!!忠臣大楠公!
8 :
日本@名無史さん:02/08/16 16:12
ただの悪党です。
9 :
日本@名無史さん:02/08/16 17:28
熊野連系列ってことでよいのでは?
10 :
日本@名無史さん:02/08/16 17:43
福沢諭吉『学問のスゝメ』
古来日本にて討死せし者も多く切腹せし者も多し、
何れも忠臣義士とて評判は高しと雖ども、
其身を棄たる由縁を尋るに、多くは両主政権を争ふの師に関係する者か、
又は主人の敵討等に由て花々しく一命を投たる者のみ、
其形は実に似たれども其実は世に益することなし
【現代訳】
あのなあ、楠木だのなんだのを称えるバカウヨよ、よう聞けや。
昔から日本では、いろいろ戦争があってな、そんで、
死んだり切腹したやつも多いわけやろが。
そんでもって忠臣だなんだっちゅーて、おめーらがアホのように賞賛するわけやんけ。
そやけど、なんで死んだかをちゃんと調べるとやな、要は政争、
その政争のために死ぬとか、主人の敵討ちとかの、アホなことで死んどるわけやんけ。
形だけは中味があるように見えるけど、実際のところ、ただの犬死に。
世の中になーんの役にも立っとらんちゅうことや
11 :
日本@名無史さん:02/08/16 17:51
とんでもない悪党です。
オロナイン楠公
13 :
日本@名無史さん:02/08/16 19:08
10 に少し関係あるかな。ある人の1943/6/1の日記より
「頃日南洋において山本大将の戦死、つづいて北海の孤島に上陸せし日本軍兵士の全滅に関して、
一部の愛国者はこれ即ち楠公が遺訓を実践せしものとなせり。これに反して他の憂国者の言うところ
・・・・・・・・(略)・・・凡そ一国の興亡は一時の勝敗と一将帥の生死によりて定まるものに非ず。
戦敗れて一将軍の死するはその人の自暴自棄に基くものにして一個人の満足に外ならず。自己の名誉と
一刹那の感情のために無辜の兵士を犠牲にして顧りみざるは、利己主義の甚だしきと言わざるべからず。
かつて福沢先生が楠公の敗死を以て、一愚夫が主人より託せられし財布を失い申し訳なしとて縊首せし
ものに、喩えたりしは、今日においてその比喩のいよいよ妙なるを知るに・・・。
14 :
日本@名無史さん:02/08/16 20:32
当時は「悪党」というのは悪人のことではなく、御家人以外の
様々な新興勢力をこう称していたということを知らないのかね?
15 :
日本@名無史さん:02/08/16 20:38
悪党(中世語):荘園内の反領主的荘民の集団 (広辞苑)
16 :
日本@名無史さん:02/08/16 23:03
名誉ある鎌倉武士に熱湯をぶちかけるという
とんでもない悪党です。
17 :
日本@名無史さん:02/08/16 23:09
悪党
18 :
日本@名無史さん:02/08/16 23:29
ワル
19 :
日本@名無史さん:02/08/16 23:39
楠木正成の先祖は東大寺の荘園に
夜中に押し入って荘民の財産を根こそぎ強奪して逃げました。
とんでもない悪党です。
20 :
日本@名無史さん:02/08/16 23:50
敵対者にクソや小便を浴びせかけるというクサイ手も使った
21 :
日本@名無史さん:02/08/17 00:00
とんでもない悪党だな!
22 :
日本@名無史さん:02/08/17 00:03
別に戦後になって罵倒されたり封印されたりしてるわけじゃないだろう。
>>5は脳内妄想で勝手に怒りを爆発させないようにな。
23 :
日本@名無史さん:02/08/17 00:05
>>4 関西の英雄もクソも、北条得宗家家人である可能性が高いのだが…。
後醍醐天皇の厚遇に応えて、全身全霊で闘った武士といった方が妥当。
別に皇統の正統だとか尊皇の大儀のためというより己を知るものの為に殉ず、
という武士のモラルに殉じたと思う。
25 :
日本@名無史さん:02/08/17 13:25
悪政で当時の民を苦しめていた坂東のへっぽこサムライ政権の
おえらいさん達に小便を浴びせ掛けた関西が生んだ最強のヒーローという
ことでよかですか?
26 :
日本@名無史さん:02/08/17 13:26
27 :
山野野衾 ◆NDQJtGoM :02/08/17 13:28
散所の長者説あり。
28 :
日本@名無史さん:02/08/17 13:49
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30 :
日本@名無史さん:02/08/17 13:53
あー実は俺、彼の子孫の一人らしいよ。爺さんが言ってた。
詳しい事は知らんが。
31 :
日本@名無史さん:02/08/17 14:27
いやくすのき正成の精神を継承する日本人は全て彼の子孫だ!
32 :
東国の尊皇家:02/08/17 14:33
一、
青葉茂れる桜井の
里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下蔭(したかげ)に駒とめて
世の行く末をつくづくと
忍(しの)ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に
散るは涙かはた露か
33 :
東国の尊皇家:02/08/17 14:34
二、
正成(まさしげ)涙を打ち払い
我子正行(まさつら)呼び寄せて
父は兵庫に赴(おもむ)かん
彼方(かなた)の浦にて討ち死にせん
いましはここ迄来(きつ)れども
とくとく帰れ故郷(ふるさと)へ
34 :
東国の尊皇家:02/08/17 14:35
三、
父上(ちちうえ)いかにのたもうも
見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん
此(この)正行は年こそは
未(いま)だ若けれ諸共(もろとも)に
御供(おんとも)仕(つか)えん死出(しで)の旅
35 :
東国の尊皇家:02/08/17 14:37
四、
此(この)一刀(ひとふり)は往(いに)し年(とし)
君の賜(たま)いし物なるぞ
此世(このよ)の別れの形見にと
いましにこれを贈りてん
行けよ正行故郷へ
老いたる母の待ちまさん
36 :
東国の尊皇家:02/08/17 14:39
嗚呼!!感涙!
忠君大楠公!
この歌を聞きこの物語を聞いた全ての日本人で心を打たれぬものがあろうか。
死を覚悟しての旅立ち。
これこそ日本の父親の原風景だ!
37 :
日本@名無史さん:02/08/17 15:23
東国の尊皇家は自虐史観論者か?
38 :
日本@名無史さん:02/08/17 16:15
史上最高の忠臣
39 :
日本@名無史さん:02/08/17 17:29
軟膏の銅像の前では鼠でさえ、チュウチュウと鳴きます。
40 :
日本@名無史さん:02/08/17 17:31
嗚呼 忠臣難死の墓 梅里先生
41 :
日本@名無史さん:02/08/17 18:16
御家人かもしれないというのを聞いた事がある。
42 :
日本@名無史さん:02/08/17 18:19
福沢諭吉『学問のスゝメ』
古来日本にて討死せし者も多く切腹せし者も多し、
何れも忠臣義士とて評判は高しと雖ども、
其身を棄たる由縁を尋るに、多くは両主政権を争ふの師に関係する者か、
又は主人の敵討等に由て花々しく一命を投たる者のみ、
其形は実に似たれども其実は世に益することなし
【現代訳】
あのなあ、楠木だのなんだのを称えるバカウヨよ、よう聞けや。
昔から日本では、いろいろ戦争があってな、そんで、
死んだり切腹したやつも多いわけやろが。
そんでもって忠臣だなんだっちゅーて、おめーらがアホのように賞賛するわけやんけ。
そやけど、なんで死んだかをちゃんと調べるとやな、要は政争、
その政争のために死ぬとか、主人の敵討ちとかの、アホなことで死んどるわけやんけ。
形だけは中味があるように見えるけど、実際のところ、ただの犬死に。
世の中になーんの役にも立っとらんちゅうことや
43 :
日本@名無史さん:02/08/17 18:31
本当に「忠臣」だったのかな。
彼は結構後醍醐天皇やその政治を批判しており、いわゆるウヨの好きな「忠臣」とは言えない。
さらに彼は一度は後醍醐を見捨てて地元に引っ込んだりしている。
彼が湊川合戦に赴いたのは天皇への忠義の心というより、当時「謀反人」呼ばわりされたことへの意地だと思われる。
「命を惜しまず、名こそ惜しむ」行動をとったのは確かだけどね。
44 :
日本@名無史さん:02/08/17 20:44
>>26 >>28 楠木正成や楠木氏に関する確実な史料は数少ないし、、確実に何者で
あるかは判明しているとはいえない。しかしいくつかの傍証によって北条
得宗披官だった可能性を指摘できる。
1.「吾妻鏡」の建久6年には源頼朝の随兵として楠木四郎という人物が
出てくるが、この人物は武藏国御家人と推定される。
この記事は昔から知られていたが、戦前には忠臣正成が御家人のはず
はないという思いこみのため無視されていた。
2.「高野春秋編年輯録」に正成が得宗北条高時の命で紀伊国保田荘
司湯浅氏を討ったという記事がある。
比較的信用のおけるこれらの記事から推定して、武藏国御家人楠木氏
が河内に移住して正成の頃には北条得宗披官になっていたのではない
か。
この文章は網野善彦氏の記事を要約したもの。全文は「日本中世史を見
直す」(悠思社)か、「週刊朝日百科日本の歴史11」に載ってます。
戦前の楠木正成像は皇国史観に合わせて脚色されており、真実の正成ではなさそう。
自分のもっている人物事典では、河内国石川郡赤坂(現・大阪府千早赤坂村)に居舘
があった。北条氏得宗家の被官であった可能性が高いが、文観らを通じて後醍後天皇
と結びついたと思われる。とある。
46 :
日本@名無史さん:02/08/17 23:03
>>44 そういう根拠だと、仮説の域を出ない話ですね。
別に被官でなくても、土地の有力者なら、討伐にくらい行くこともあるでしょう。
兵衛尉の官位もあったようであり、何らかの権力と繋がっていたのは確かでしょうが。
47 :
日本@名無史さん:02/08/17 23:08
しかし南朝を賛美する人って、「二条河原落書」や北畠顕家と楠木正成の
後醍醐天皇と新政に対する批判をどう思ってるの?
ぜひ聞きたい。
48 :
日本@名無史さん:02/08/17 23:19
>>47 後醍醐天皇の政治が時代に逆行しているものだったということは
楠木正成も北畠顕家も厳しく諫言しており、それは誰の目から見ても
明らかだった。
それでも足利尊氏のように現実主義に走らずに、
君に仕えて死ぬから忠臣なのだよ。
>>46 もちろん確たる事は言えないけど、
正成の活動拠点として知られる河内の観心寺や天河はいずれも得宗領です。
得宗領内の武士で得宗家の下知に従っているのだから、得宗披官と考えた
方が自然でしょう。
50 :
日本@名無史さん:02/08/17 23:34
>>48 俺は北畠顕家や楠木正成は好きなんだが、後醍醐はクソ野郎だと思ってる。
そういうのもアリかね?
51 :
日本@名無史さん:02/08/17 23:41
アズマ史観では天皇に媚びへつらった武士のクズです。
後醍醐天皇の政治は必ずしも時代に逆行しているとは言えない。
むしろ、彼の政治は新たな「後醍醐幕府」を作ったようなもの。
だから、既得権復活を夢見た公家からは激しく反発されている(北畠顕家がまさにそう)。
ただ、彼の政治の一番の失敗は論功行賞にあまりにも偏りがありすぎ、一部の優待族を除けばほとんど不平側に回ったことが大きい。
その点で、論功行賞の公平さで政権を担った頼朝との差が生じているいるといえる。
53 :
日本@名無史さん:02/08/18 01:00
>>52 俺は48ではないが横レススマソ。
建武新政は「後醍醐幕府」も何も、理念や確たる方針があってやっているよう
には見えない。ある研究者が「パロディ」だと形容したように、非常に場当たり
的でいい加減だ(鎌倉幕府の政務機関を名前だけ変えて引き継いだり)。
例えばこの時期もっとも重要かつ大量に処理する必要がある政務は土地訴訟
に関する案件だが、鎌倉幕府亡きあとは当然建武新政権がちゃっちゃっと処
理しなくちゃいけない。
それが出来る能力がなかったのが建武新政崩壊の最大要因だと思う。
んでもって、何でそうなっちゃったかというと、後醍醐天皇の倒幕理由にあるだ
ろう。後醍醐は自分の子孫に天皇位を継承させたかっただけなのだ。
54 :
日本@名無史さん:02/08/18 01:04
>>46 河内の得宗被官同士の得宗領内の領地の取り合いが正成が後醍醐帝に
接近していくきっかけになったとか言う話ですね。
日本という国はそういうのを忠臣というわけか。おもしろいですね。
(w
55 :
日本@名無史さん:02/08/18 01:20
後醍醐のやったことは結局のちに
足利がやってる。
要するにちょっと早かったのと
やる主体としてふさわしくなかったってことか
56 :
日本@名無史さん:02/08/18 01:23
57 :
日本@名無史さん:02/08/18 01:30
>>55 どんな点を引き継いだのか、俺も聞きたい。
58 :
日本@名無史さん:02/08/18 01:39
>>46 >河内の観心寺
それ自体1つの荘園で、霜月騒動以前は安達泰盛だった。
霜月騒動後得宗領となり、楠木氏は正地頭得宗の代官
(もしくは又代官)として送り込まれた可能性が高い。
楠木氏の出身地は駿河入江庄の一部、楠木村ではないか
と言われている。
霜月騒動以前は安達泰盛
→霜月騒動以前は安達泰盛が地頭
>建武新政は「後醍醐幕府」も何も、理念や確たる方針があってやっているようには見えない。
いや彼なりの理念はある。
彼はどうも中国あたりの皇帝を中心とした「官僚制国家」を考えていたらしい。
自分を中心とし、彼の手足となる人間を縦横無尽に使っての独裁。
その意味でいわば「幕府」の頼朝時代や得宗専制政治に近い。
>それが出来る能力がなかったのが建武新政崩壊の最大要因だと思う。
ある意味そうともいえるが、彼の現実に対する認識不足だろう。
もともと土地なんぞでこんなにもめるとは思ってもいないらしく、適当な政令を出してしまった。
例えば土地は元の所有者に返せ、と命令したはいいが、その元の所有者とは誰?って話になり混乱してしまったり。
時効制度というのがわかっていなかったんだろう(鎌倉幕府下ではこの時効制度らしきものが存在した)。
いずれにしても、有能な部下を多く離反してしまったことが一番の難点。
足利尊氏についてはなんとしても、自分の味方につけておかなければならなかった。
61 :
日本@名無史さん:02/08/18 02:01
>>58 >楠木氏の出身地は駿河入江庄の一部、楠木村ではないか
>と言われている。
これは初耳でした。出典わかります?
楠木氏の名字の元になるような楠木という地名は、河内国や近在にはないから、
楠木氏は河内以外の地で生まれている可能性が大。
河内へ来たのは、得宗被官だったことも関係あると思う。河内に移り、土豪としての
勢力をはり、得宗家から自立したのではないか。
63 :
日本@名無史さん:02/08/18 02:30
>>60 >彼はどうも中国あたりの皇帝を中心とした「官僚制国家」を考えていた
>らしい。
これだとようは昔風の律令制にする、って事になると思うけど…。
というか、
>自分を中心とし、彼の手足となる人間を縦横無尽に使っての独裁。
これは中国的な「官僚制国家」とは全くの別物だと思うですよ。
後醍醐新政は公武折衷的な体制で、施策は文字通り朝令暮改を繰り返し
ているので、中国の何かを範に取ったりもしていないし理念もない、と思う。
要は勝手をしたかった、と。
>もともと土地なんぞでこんなにもめるとは思ってもいないらしく、適当な
>政令を出してしまった。
荘園公領制の成立した後期王朝国家体制期以来、土地問題は朝廷にとっ
ても最も重要な政治課題なので、後醍醐がそれに無頓着なワケはない。
とはいえ鎌倉幕府成立以後はそういう面倒な問題の大半は幕府に任せて
いたので、甘くみてたのもしょうがないかもしれないけどね。
64 :
日本@名無史さん:02/08/18 02:51
>>62 >土豪としての勢力をはり、得宗家から自立したのではないか。
それは普通「横領」と言わないか?(w
65 :
日本@名無史さん:02/08/18 06:52
>>49 不勉強で恐れ入りますが、「観心寺や天河はいずれも得宗領」とはどういう
意味ですか?領家職を持っていたということですか?
また、どのような資料にのっているか教えて下さい。
>>60 史記なんかは当時の知識人はみんな読んでいたから、
「始皇帝は好き勝手に権力をふりかざしてるのに、俺はこんな
制約だらけでいいのか」と短絡的に後醍醐帝が思い込み、
それがたまたま当時の幕府政権下で不満のたまっていた層と
ニーズが合致しただけという可能性は高いね。
67 :
日本@名無史さん:02/08/18 18:44
68 :
日本@名無史さん:02/08/18 19:16
>これは中国的な「官僚制国家」とは全くの別物だと思うですよ。
後醍醐新政は公武折衷的な体制で、施策は文字通り朝令暮改を繰り返し
ているので、中国の何かを範に取ったりもしていないし理念もない、と思う。
要は勝手をしたかった、と。
彼が理想とした官僚制は具体的には「宋」をモデルにしていたらしい。
「宋 」は確か科挙制度をつくり、有能な人材を皇帝が自ら選び直属の人間として使っている。
総理大臣格の人間も律令制のような貴族ではなく、皇帝が科挙の合格者から選んだ人間。
だから、後醍醐は、まだ科挙は出来ていないが、自分の選んだ人間を重要ポストに配置している。
北畠顕家はこういう彼のやり方を「家柄に関係なく、功績があるからと言って重要ポストにつけるな。」って抗議している。
ま、要するに貴族も武家などの身分は関係なく、自分のお気に入りの人間を自由に使う、まさに独裁なんだけどね。
69 :
日本@名無史さん:02/08/18 19:21
>荘園公領制の成立した後期王朝国家体制期以来、土地問題は朝廷にとっ
ても最も重要な政治課題なので、後醍醐がそれに無頓着なワケはない。
無頓着というより、あまりに現実を知らなかったんだよね。
その例が土地を元の所有者に復帰すべしという政令。
これは彼としては北条氏に不当に奪われた人の所有権復帰を考えていたらしいが、時期を明示しなかったため、
100年前に土地を奪われた、って人間も出てきてしまった。
100年も経過していれば、その後転々と所有者も変わっているだろうから、「所有者」が何人も出てきて
収拾がつかなくなってしまっている。
本来なら1280年以降とか期限を区切ったりしていれば良かったんだけどね。
今の民法はこういう現実重視の観点から時効制度を設けている。
当時の法律にもやはりそういう点で時効制度に類似したものがある。
後醍醐は法律というものに疎かったんだろう。もしくは有能なスタッフがいなかったか。
>>68 中国は知識人の層が厚くて武人はどちらかといえば軽視されて
いたからできた制度なのでできたことだね。
武人が事実上支配者階級だった日本とは環境が違いすぎるのに
無理に導入しようとしたから無理が出た。
71 :
日本@名無史さん:02/08/18 21:01
>>68 後醍醐が宋の政治体制をモデルにしたという話はよく聞くんだけど、実際なにか
対応しているようには見えないなあ。
宋朝の専制体制は貴族層の没落を背景に、科挙を行って天下の人材を吸収し
て上級官僚に採用することにより、皇帝の独裁制を強化するのがキモだと思う。
単にお気に入りを抜擢してとかいうのは、院政の延長線上に考えた方が良いの
では。
後醍醐のスローガンは「延喜・天暦へ還れ」だけど、これは現実の政治モデルの
話をしているわけじゃなくって、曖昧模糊とした理想の話をしているわけで、宋朝
中国がモデルっていうのも同じ感じなんじゃないかな。
72 :
日本@名無史さん:02/08/18 21:13
>>70 そんなこたぁーない。
少数の貴族層が没落し、受験勉強が出来る多数の富裕層がいるという条件が
整えば可能だと思うぞ。
その意味で全国津々浦々に存在する武士層は宋朝の士大夫層と同じ役割を果
たせる可能性があった。
武士=軍人ではないわけだし。
73 :
日本@名無史さん:02/08/18 21:15
てめらがどんなこと言っても正成は正成なんだ
経営基盤が農業より流通においていたから南朝に付いたんでしょ
74 :
日本@名無史さん:02/08/18 21:20
>宋朝の専制体制は貴族層の没落を背景に、科挙を行って天下の人材を吸収し
て上級官僚に採用することにより、皇帝の独裁制を強化するのがキモだと思う。
単にお気に入りを抜擢してとかいうのは、院政の延長線上に考えた方が良いの
では。
というか、彼の単細胞な頭ではそこまで理解しているわけではない。
なにしろ「延喜天暦」を単に摂政、関白、武家がいないだけで天皇が好き勝手できたいい時代って思っているくらいだから。
当時は関白なども藤原氏の中の主流が交替でなるくらいで天皇の人事権も形だけ。
彼としては、要するに人事も含めて万能の権力を持ちたい、その理想やモデルが「宋」だったわけだ。
まあ、「宋」も金とか元に好き放題されるなど、決して理想国家とはいえないんだけどね。
75 :
日本@名無史さん:02/08/18 23:56
>>74 まあ理想なり理念なりはあったけど、現実離れしていた上に実務能力もなかった
と、そういうことかな。
しかし宋学(朱子学)にははまる、密教には凝る、皇位継承の約束は無視すると、
やりたい放題やったこの人にとっては、日々の訴訟問題なんかは重要視するよう
な事じゃなかったのかもね。
58で書かれていることは、講談社「日本の歴史」第10巻『蒙古襲来と徳政令』に載ってます。
著者の筧先生が楠木氏の駿河出身説を唱えてますね。
駿河はかなり早い時期から鎌倉の勢力圏に組み込まれましたから、
あの辺に出自を持つ武士が頼朝の上洛までに御家人になっててもおかしくない。
御家人になった楠木氏が何らかの理由で北条氏の傘下に入ったと考えるのが妥当では?
鎌倉時代は弱小御家人が有力御家人の被官になった例が多いから。
77 :
日本@名無史さん:02/08/19 01:33
楠木正成も真言立川流信者?
78 :
旧安東スレの1 ◆ANDObCPY :02/08/19 12:18
良スレage
79 :
日本@名無史さん:02/08/19 13:10
>>76 10巻はお買い得ですかね?
今11巻「太平記の時代」を読んでます。後醍醐政権のあたりまで読んだ限りでは
特に目を引く内容はないですね。
このシリーズでは7巻の「武士の成長と院政」が素晴らしかったです。
どうやって武士が全国に広がり、やがて政権を担うに至ったかがよくわかる良書
だと思う。
80 :
日本@名無史さん:02/08/19 18:49
「古代氏族系譜集成」に出ている中臣和太連系統と
熊野連系統の婚姻関係からの出自検討はどうなのだろう?
これの系図だと、服部氏に嫁いだ正遠の娘ってのは正成の妹ではなく
従姉妹ってことになりそうだけど。
81 :
日本@名無史さん:02/08/19 20:05
>>80 宝賀寿男編著「古代氏族系譜集成 」は今ひとつ信用度の低い資料のようなので、
他でウラが取れない限りなんとも言えないんじゃないでしょうか。
82 :
日本@名無史さん:02/08/20 01:52
楠木は朱子学信者だろ
菊地氏(肥後)-児島高徳(備中)-楠木(河内)と当時の交易ラインに沿って南朝方の忠臣は存在する
交易で収益を上げ、なおかつ書物を手にすることが早かった連中が朱子学に毒されていても不思議ではない
83 :
日本@名無史さん:02/08/20 01:53
楠木は水戸馬鹿学のせいで
利用された
死んだ後のこととはいえ
この罪は大きい
84 :
日本@名無史さん:02/08/20 02:04
>>83 無茶いうな…何百年も後のことなんか想像できるか。
講談社「日本の歴史」10巻はいいんじゃないですか?
ただ、朝廷の鎌倉時代における存在意義を呪術的な方面に集約しちゃってる観も……
僕としてはもっと得宗被官や朝廷の実効支配を書いて欲しかったな。
もっとも十分解明されてないんでしょうけど。
個人的には「室町人の精神」も好きです。
筧先生の論調だと、楠木正成が得宗被官だったと考えるほうが、
鎌倉幕府が倒壊したか理由がわかりやすい。
要するに、被官にそむかれてしまったのだ、と(あの先生いわく)。
ただ、最大の問題点である、なぜ得宗被官が離反したかに言及してなかったのが痛い!
平安時代に比べれば格段に解明の進んでる鎌倉時代も、これが限界なのか?
10巻に比較して言うと、9巻「頼朝の天下草創」は頼朝の人間像に固執しすぎて、
肝腎な「なぜ関東の武士団が全国制覇できたのか?」が言及不足。
歴史学者は経済を研究して欲しい。
鎌倉幕府って、民族的なレベルの問題まで発展し得る……と僕は勝手に考えてるんですけど
でも、中公の最高の古典「日本の歴史」より研究が進んでていい。
僕が個人的に気に入ったのは平安時代のあたりですね。
院政がなぜ定着したかがわかりやすかったから。
竹内理三先生のはちょっと……
でも中公のは先生方の顔ぶれがすごすぎ!(佐藤進一先生や石井進先生だもん)
皆さんは悪党の意味を間違えていらっしゃるようです。
悪党とは、幕府や荘園所有者の支配に従わない在地武士の総称です。
皆さんご存知のように、鎌倉幕府は守護と地頭を置いて一部の土地を支配することを許されたに過ぎません。
寺社や貴族の荘園も多数存在していました。そしてそのどちらにも属さない物が居たと言うことです。
ウヨ・サヨの間抜けな言い合いの前に、日本史を勉強してください。
悪党と忠臣を対比する事は意味が有りません。
このスレはレベルが低いようです。
89 :
日本@名無史さん:02/08/20 04:48
要は時代遅れの王権神授説にはまってしまって革命を引き起こしてしまった
イギリスの王と同じでいいのかな?
90 :
日本@名無史さん:02/08/20 07:48
>86
みんな承知の上でおふざけしてるんだから、あまり固く考えないでチョー。
91 :
日本@名無史さん:02/08/20 08:38
>>86 イタ杉。空気を読めよと小一時間(以下略
(w
92 :
日本@名無史さん:02/08/20 10:30
>>86 ちゃんとわかって書いてる人もいるよ。
「皆さん」なんてあいまいな事かかないで、これとこれとこれ、って個別に指摘する
事を覚えませう。
93 :
日本@名無史さん:02/08/20 10:37
>>85 なるほど10巻良さそうですね。買おっと。
6巻「道長と宮廷政治」も摂関期の政治システムを手際よく説明していて面白かったです。
僕は文化面より、政治や制度の方に興味があるんで。
94 :
日本@名無史さん:02/08/20 12:03
どうでもいいけど戦前の本とかよむと軍人がことあるごとに我昭和の楠木公ならん
…みたいなことばっかりいってる。迷惑だろ…
95 :
日本@名無史さん:02/08/20 14:52
僕が楠木正成に魅力感じるのは、別段忠勇に死した武士だからじゃない。
んなんだったら、別に新田義興だって同じでしょ。
でも、新田残党には無い魅力を正成には感じる。
楠木氏の来歴がサッパリわからないので、正成の実像は推測しかない。
特によく言われるのが、@得宗被官説、A散所長者説、B商人的武士説の3つ。
@とBは両立しない気もするけど、
僕は正成はかなり多岐にわたる活動をしてたんじゃないかと思う。
おそらく関西で多くなってきた被差別民に関わっていたのも事実だろうし(律僧もそう)、
正成が朱砂(酸化水銀。朱肉製造に用いた)をあつかっていたという説もあるくらいだから、
彼は武士であり、商人でもあり、特殊な仕事に携わってた人物なんでしょう。
鎌倉時代ぐらいだと、まだまだ職業の分化が後世ほどではなく、
地方の大武家が商業やってたりもした。
得宗被官として有名な津軽の安藤氏もそんな手合いだった(戦国時代には材木売ってたらしい)。
陸奥の南部氏も馬を売ってたそうだから、得宗被官はそんな人が多かったのかも知れない。
そう考えると、
楠木正成は当時関西近辺に特に多く発生した「新しい武士」の典型だった気がする。
また、楠木は足利みたいな大武家でもなかったろうから、
当時の武士の典型でもあったと思う。
「太平記」の作者は、楠木正成という実在の人物を「脚色」することによって、
当時の武士の姿を描きたかったんじゃないかな?
本によるけど、正成が兵庫出陣の際、
「討ち死にせよとの勅定なれ!」
とぼやくのも、武士の多数を占めた中下流の思いを反映してるようで興味深い。
楠木正成は、いろんな意味で南北朝の武士を象徴してると思う。
97 :
日本@名無史さん:02/08/21 11:34
>>96 ナイスまとめ
正成って妙にマジメっぽいのが魅力だと思うですよ。
足利と和解せよって実にもっともな事を直言しても暖簾に腕押し。
なんでこんな”いい人”がDQN後醍醐なんかの犠牲にならなきゃいかんのか…。
新田義貞に人望なく、どっちかと言うと足利尊氏に好意的だった楠木正成が
なぜ後醍醐天皇に「盲従」して、湊川で戦死したかは南北朝史の謎ですね。
でも、これは正成一個人ではどうしようも無かったことだと思います。
当時の人間は「家」「一門」を単位に活動してましたから、
惣領である正成が北朝に味方しとうとしても、
一門(+被官)の重鎮の反対に遭ったらいかんともできなかったでしょう。
弟の正季なんて強硬なアンチ足利党だったみたいだし、
もともと護良親王に従っていたと推測される楠木一門は多くはアンチ足利だったでしょう。
同じく大塔宮に従った赤松一門は物の見事に寝返りましたが。
赤松氏が嘉吉政変まで最有力守護だったことを勘案すると、
もし正成が足利に従ったら畠山氏の代わりに河内〜大和を支配する大大名になったかもね。
旧得宗被官はかなりの率で南朝に味方したようですから(津軽安藤、南部、諏訪)、
楠木一門が最後まで南朝に従った理由も、その辺から調査すると良いかも知れません。
99 :
日本@名無史さん:02/08/21 18:25
>>98 なるほど。そういえば楠木一族で足利に味方した人物っていないような。
楠木一族の確かな末裔といえる家系も残ってないし。
ところで話が横道にそれるけど、建武新政の意義ってなんだろう。
鎌倉幕府誕生以来、江戸時代に至るまでの間は、公家の公儀が武家の
公儀に呑み込まれる歴史のように思うのだけど、後醍醐の所行って結局
その流れをスピードアップしただけのような気がする。
100 :
歴史の勉強:02/08/21 23:23
「革命は歴史の機関車」なんてことばもありますが、
たしかに建武の新政は公家の没落を早めちゃった側面がありますね。
ゆくゆくは鎌倉幕府って滅亡する運命にあったのでしょうが、
その起爆剤になったんでしょうね。
結果としては鎌倉幕府って、古代勢力の温存に貢献してる感じですね。
寺院も強大な勢力を保持できたし、公家(天皇も含む)もそうですね。
南朝の近畿最大の支持基盤は吉野と紀伊でした。
長慶天皇(南朝第3代)が合体後に移り住んだのも紀伊だって言われてますし、
護良親王が潜伏中に動き回ったのも紀伊の山間部だそうですから。
楠木氏も河内の最南部を拠点にしてましたから、
その関係からも研究できそうな気がします。
楠木氏は湯浅氏と対立してましたが、その関係はどうなんだろ?
101 :
日本@名無史さん:02/08/22 15:27
楠木正成は国司に2ヶ国、守護に3ヶ国任命されてて、そういう点後醍醐
は気前いいよね。
何のかんの言っても結局裏切らなかったのもわかる気がする。
1ヶ国守護しかもらえなかった赤松なんかはその辺恨みに思ってたのだろ
うか。
それにしても後醍醐は宋朝風に専制を目指していたかのように言われる事
があるのだけど、地方統治のやり方を見ていると、とてもそうは見えない。
国司・守護を並立したままなのは単に現状追認?
両者の関係や役割分担も不明だし、何も考えてないようにしか思えない。
102 :
歴史の勉強:02/08/22 23:50
楠木氏と赤松氏の運命を分けたのは、意外と立地にあったかも。
赤松氏は播磨を基盤としてましたから、地政学的に考えて、
絶対に足利氏は最重視する国だったでしょう。
それに対して近畿地方南部は織田信長でさえ浸透できなかったような地域で、
京都に対抗する勢力が基盤を置くには最適だったのかも。
楠木氏に関しては「宗教」の問題もあったんじゃないでしょうか?
(もちろん「天皇教」とかじゃないよ)
正成が深く帰依していたという観心寺だかは密教寺院として有力だったそうですし、
もし楠木氏の深く関与する寺院が南朝に属したなら、
楠木氏が一貫して南朝党だった理由もそこに求められるかも知れない。
国司・守護並置問題はいまだに結論を見ませんが、
鎌倉時代が下るにつれて守護の権限がどんどん拡大してしまいましたから、
後醍醐天皇の発想も意外と現実主義だったのかも。
つまりまあ、一挙に統一するのはやめといて、次第にもっと合理的な行政にしたかったのかも。
守護も国司も、必ずしも全ての国に設置されてたわけじゃなかったし。
大和なんか、興福寺が両方を兼帯してましたからね(原則、大和守護は不設置)。
ただ、当時の地方行政は難しかったと思います。
たとえば陸奥なんて関東の2倍以上あるのに一国で、糠部郡だけで国並のサイズ。
島津庄なんか3カ国にまたがってて、守護の権限が錯綜して大変だったろうし。
鎌倉時代の行政はものすごく複雑だったのだろうと思います。
一国、一郡を単位に地頭を設置したこともあったし、
何より旧国制が行政上不合理になってた可能性が高い。
いつの時代もそうですが、地方を平等に区画するのって難しいんでしょうね。
一番いいのはプーチンがやったみたいな「管区」かも知れない。
103 :
日本@名無史さん:02/08/27 02:06
age
104 :
日本@名無史さん:02/08/28 17:53
>>82 なるほど。
なかなか鋭い指摘ですね。
当時にあっては宋学は大陸最先端の知識なわけで楠木正成がその思想的
影響を受けていたとしても何ら不思議ではないわけですね。
そして、楠木のような商人気質もまた農民気質の鎌倉 武士と対立する要素を
充分にはらんでいたと言えますね。
105 :
日本@名無史さん:02/08/28 17:56
>>70 たしかに。
昔から中国は文の国。日本は武の国と言われていますからね。
いまでこそ、あやしげな中国拳法で中国も武を売りにしていますが、
日本には武を代々継承する家が数え切れないほどあり、それぞれが武芸十八般
を身につけていたのですからね。(江戸時代のことですが)
106 :
日本@名無史さん:02/08/28 17:57
北条得宗を裏切った卑劣漢正成に
デビルマン的哀感を感じた。
107 :
日本@名無史さん:02/08/28 17:58
結局、楠木正成が忠臣だったってのは間違いないことだと思う。
楠木正成は裏切り者だからいいのです。
末路もデビルマン的だ。
(マンガの方の)
109 :
日本@名無史さん:02/08/28 19:54
>>107 色々不満はあったろうに結局は後醍醐を守って氏んだのだから、忠臣には違いないよな。
ま、俺には絶対出来ないね。
110 :
日本@名無史さん:02/08/29 01:02
楠木が結果として忠臣になったことは事実だろう。
もし、彼が足利に寝返っていれば、その時点で南朝は終わり。
新田義貞なんて無能な将軍という評価だったようだしな。
楠木については尊氏の評価は相当高かったから、行政官のトップとして迎え入れていただろう。
つまり足利−楠木幕府の誕生。
忠義は必ずしも得とは言えないな。
111 :
日本@名無史さん:02/08/29 01:49
>>110 尊氏が正成を評価してたのは確かだけど、そこまで重用されるかな…?
足利方についた時の仮想図は「歴史の勉強」さんの
>>98あたりが妥当と思う。
112 :
日本@名無史さん :02/09/01 22:52
>>111>>98 てことは、応仁の乱より早く別のクーデターが起きてたかも
ってことになりそう。
義満の傲慢の反動が即爆発
義教を待たずして守護制度の崩壊
赤松の代わりに楠の名が、暗殺者の代名詞に・・・
妄想妄想・・・・・・・・
113 :
日本@名無史さん:02/09/01 23:06
>>110 義貞に責任追わせるのは酷。新田氏は家柄は足利氏と並ぶほどイイが、家格は低い。
旧守護家クラスの武士達は無位無冠で無名だった義貞の下につくことにかなり抵抗が
あったろう。北畠氏は公家でも家格も高かったから武士もその指揮下につきやすかっ
たと思われる。後醍醐政権の軍事的最大の失策は旧守護クラスを味方にできなかった
こと。当時は家格がかなりものを言ったからね。
114 :
(^0^):02/09/05 23:24
楠木正成は最高だよ。
115 :
日本@名無史さん:02/09/14 20:19
楠木正行も最高だよ。
116 :
日本@名無史さん:02/09/15 00:50
大饗正虎はサイテー
118 :
日本@名無史さん:02/09/30 14:08
119 :
日本@名無史さん:02/09/30 16:53
楠木正勝
120 :
(^0^)/:02/09/30 17:27
121 :
日本@名無史さん:02/10/01 00:28
>>114,115,116
ぼ、ボクは? by楠木正時
ごめん忘れてた(w
123 :
日本@名無史さん:02/11/02 15:51
由井正雪の師匠の楠木流の軍学者の楠木不伝は、楠木正辰(くすのき・まさたつ)
という名前らしい。
125 :
日本@名無史さん:02/12/08 18:04
たまにはage
126 :
日本@名無史さん:02/12/16 21:50
ごくたまにはage
127 :
日本@名無史さん:02/12/16 22:56
>>99
女系ですが 楠氏の断絶を惜しんだ徳川氏によって探し出され
甲斐荘氏として旗本に取り立てられ 現在も繁栄しているはずです
ちなみに甲斐荘は 南朝は楠氏に 北朝は佐々木道誉に与えた土地で
正行が旗揚げした時 ここを突破口にした因縁の土地です
朱子学は主君がどんなにDQNでも忠義を尽くさなければならないと説いています
だから楠木正成は日本最大の大忠臣なのです
だって後醍醐天皇って天皇史上のベストテンに入るDQNだもん
129 :
日本@名無史さん:02/12/27 05:13
>>124 楠木不伝の軍学の流派名称は、楠木流ではなくて南木流。
130 :
日本@名無史さん:02/12/29 13:33
楠木氏の子孫は戦国時代終盤までは生き残っていたようです。
最後は、北伊勢の小勢力に落ちぶれていたようですが。
織田信長の北伊勢平定戦の際に、抵抗したものの敗れて降伏し、領地を没収され追放になったようです。
その後、どうなったのかは不明だと思います。
後に楠木正虎なる人物が出てきましたが、楠木氏の子孫かどうかは怪しいです。
楠木の姓を変えて、「木南」等にして生き延びた子孫もいると聞きますが本当の事はわかりません。
131 :
日本@名無史さん:02/12/29 18:13
>>130 石山本願寺に入って安治川の戦で戦死したという説がある
132 :
日本@名無史さん:03/01/11 14:54
(^^)
(^^)
135 :
日本@名無史さん:03/01/17 21:50
age
136 :
日本@名無史さん:03/01/17 22:00
当時は「家来あっての主君」が常識。負け組の後醍醐に最期まで尽くすとは
どうにも理解できん。新田は足利との対抗意識があったんだろうけど、楠木
は足利と組めない何かしがらみがあったのか?
137 :
名無し募集中。。。:03/01/17 22:13
現代人の感覚で言えば「嫉妬」ではないのか
武士の間で人気があり、家柄も高い足利
かたや倒幕でも重要な役割を果たしたにもかかわらず
公家にも武士にも人気がなかった楠木
楠木とすれば足利を倒さなければ武士の頂点にはなれなかった
138 :
日本@名無史さん:03/01/17 22:53
>>136 多分湊川の結構前から足利に寝返ろうとは思っていただろ。
でも後醍醐側、新田義貞らが常に監視していたから裏切るタイミングを逃しつづけてきた。
結局湊川では、信用ならない人物であることが足利、新田両軍に知れ渡っていたために
裏切ることも忠節を尽くすこともできぬ立場になってしまい、
最後の一花を咲かす(もちろん九死に一生を得ることを全く期待してなかったわけでもなかろう)つもりで玉砕。
139 :
日本@名無史さん:03/01/17 23:27
>>127 よく考えて見たら徳川は新田の系譜・・・
なるほどね・・・
140 :
日本@名無史さん:03/01/17 23:52
兵農分離ができていなかったことが最大の原因
141 :
日本@名無史さん:03/01/27 22:13
142 :
日本@名無史さん:03/02/02 09:54
>>139 それが常識。
旅の修行僧なんて言うのは,俗説
>>136 その常識も家々によって違ってくるだろうし、ましてや朱子学を学んでいたとすれば
せっかく自分を引き上げてくれた後醍醐天皇を裏切るって事も出来なかったんでしょう。
後は一族の内部の結束の問題もあっただろうし。で、結局尽くした後醍醐天皇に裏切ら
れる形で戦死してしまうのですが、その反動で正儀は「裏切り」まくり・・・正儀はどう思っ
てたんだろう?やっぱり「やってられるかこんちくしょう!!」だったんだろうか
144 :
日本@名無史さん:03/02/02 15:49
正成の遺言「七度生まれ変わり七度国に報いん」は捏造っぽいな。
このせりふがあってこそ忠臣大楠公、って感じだし。
146 :
日本@名無史さん:03/02/06 23:11
尊氏と正成はお互いに相手の能力を認めてもいたし尊敬もしてたけど
ただ単純に反りが合わなかっただけということはないの?
147 :
日本@名無史さん:03/02/07 00:04
北伊勢の楠木十郎さんは、石山本願寺へ行ったそうな。
足利に着いたら領国いっぱい貰えたろうけど、
後醍醐天皇に貰った、菊水の紋章はずさなあかん
いややったんや、皆もベンツから国産車、
やっぱベンツが良い(^^)
149 :
日本@名無史さん:03/02/07 00:52
しかも「国に報いん」なんて言ってない
「朝敵を滅さばや」やし
150 :
日本@名無史さん:03/02/12 22:04
案の定、NHKはつまらんかったな。
151 :
日本@名無史さん:03/02/12 22:20
漏れの家の家紋は、菊水なんだけど…
152 :
日本@名無史さん:03/02/12 23:22
ウオシュレットでケツを洗っている様子を図案化した家紋だな・・・
153 :
日本@名無史さん:03/02/12 23:55
↑死ねアホ
154 :
日本@名無史さん:03/02/13 00:23
護良親王
が、足利にやられましたね。
正っんは、ゴダイゴより
親王に尽くしたんじゃないの?
155 :
日本@名無史さん:03/02/13 01:18
正成=高橋紹運=大谷吉継=義に殉じた武士
156 :
日本@名無史さん:03/02/13 03:59
157 :
日本@名無史さん:03/02/13 12:39
158 :
日本@名無史さん:03/02/13 22:24
159 :
日本@名無史さん:03/02/14 14:51
>>156 バカは>>137-
>>138あたりにいるぞ。
正成が足利に嫉妬?裏切りたいのに新田が監視してできなかった?
いったいどこからそんな妄想が生まれるんだよ(W
だいたい監視くらいで裏切れりがとめられるんだったら、この時代の合戦でどうしてあんなに裏切りが
続発しているのを止められない?
君たち自身の根性が下劣だからって、そいつを尺度に人を判断するのはやめたまえよ、滑稽だから。
160 :
日本@名無史さん:03/02/14 18:54
関西が生んだ最大のヒーローだろね
161 :
日本@名無史さん:03/02/16 15:04
日本の歴史は庶民の歴史。
正成も庶民の中から現れ
権力者である鎌倉武士を打倒し、
尊皇の大義に殉じた。
162 :
日本@名無史さん:03/02/16 15:21
>>161 おいおい、権力者vs庶民かよ
今どき、なんて単純で古臭い歴史観だW
163 :
日本@名無史さん:03/02/16 15:33
散所の王、だろう。
江戸時代でいえば、弾左衛門
164 :
中世史爆弾:03/02/20 00:18
三男の正儀は正成の真の後継者
彼は、藤井寺に勝利し四条畷に散った兄正行(まさつら)よりも
戦(いくさ)巧みで、一時は南朝勢力のために北都(京都)を奪回したらしい。
兄や父のように、親房や坊門など公家たちの政治力にも翻弄されることなく、
一時は北朝勢力にも帰順し、南北両朝の和解に尽力した
まことの志士、和平の使者、尊氏にも匹敵するリアリスト、といえる。
もっとも第二次大戦中は「楠木家の変人」扱いされてしまっていたそうだが。
165 :
日本@名無史さん:03/02/20 00:20
正儀の晩年はどうよ?
166 :
日本@名無史さん:03/02/20 20:35
正儀の没後は急速に衰えたね。
正儀の死後、畠山が河内の楠木の城(千早城だったと思うが)を二千の兵で
攻めた時、防戦した楠木勢はたったの三十騎程度だった。
167 :
日本@名無史さん:03/02/20 21:48
戦国時代の楠木正虎(長暗)ってホントに正成の子孫?
168 :
日本@名無史さん:03/02/21 20:28
>>167 当時から本物の子孫では無いと言われた。
推して知るべし。
169 :
日本@名無史さん:03/02/23 00:50
楠木氏は河内の悪党…と言うのは有名だが、そもそも何氏の出とかいうのはわかってるんですか?
突然千早城に立てこもって、正儀あたりでひっそり消えたというイメージしかないのですが
なんでもありの戦国時代にも子孫を僭称してるやつほとんどいないし、一族は正成の近い兄弟息子しかいなかったんですかね?
170 :
日本@名無しさん:03/02/23 00:58
>169
本姓 橘 それぐらいしかわからん
171 :
日本@名無史さん:03/02/23 19:07
正儀の子孫は、南北朝合一後も北朝に降伏せず、
亡びるまで戦ったはず。
但し、正行の室内藤氏の女が、正行の子を懐妊したまま
正行戦死後、摂津池田氏に嫁ぎ、池田氏はこの子を正系とした。
徳川氏は、楠氏が絶えるのを惜しみ、女子を捜し出して
甲斐庄氏として旗本に取り立て、明治時代になって、子孫が
高砂香料を設立、その弟の甲斐庄楠音は、画家として著名。
172 :
日本@名無史さん:03/02/27 14:52
楠木氏は、北条氏の被官として河内に来て土着し豪族化した。
174 :
日本@名無史さん:03/03/01 21:31
正儀の子孫はたびたび挙兵しては室町幕府軍に破れ、殺されて族滅に近い
状況になったと思われるが、一部子孫が伊勢の国の国司であった北畠家を
頼り生き延びていた。
戦国時代終盤までは北伊勢の小勢力として生き延びた。
織田信長の北伊勢平定戦で戦うが降伏し、領地没収の上で追放となった。
その後はよく解らん。
175 :
日本@名無史さん:03/03/01 21:53
大阪の生野の南巽に
楠木正○
のなんかあるけど
あれ何?
176 :
日本@名無史さん:03/03/01 22:05
>>176 そうなん?
なんで、あそこにいたんだろ?
179 :
日本@名無史さん:03/03/02 02:52
橘性ですか、珍しいですね。
自称なんでしょうか?
豊臣秀吉子飼の戦国武将田中吉政が子孫を自称していたようですが、
これも怪しいんでしょうか。
それにしても菊水紋。
出自はどうでも菊水の紋を下賜したということは、後醍醐天皇にとっては心強い
味方と思えたのでしょうね。
181 :
日本@名無史さん:03/03/02 08:30
182 :
日本@名無史さん:03/03/08 18:33
>181
子孫ではない。
183 :
日本@名無史さん:03/03/15 22:29
age
184 :
日本@名無史さん:03/03/15 23:41
橘姓を名乗ってはいるが、系図がかなり怪しい作り。
橘諸兄の次男諸方から出たことになっているが、
奈良時代の記録にはそういう人物は見出せない。
もう少しもっともらしく作ればよかったのに。
185 :
日本@名無史さん:03/03/16 13:00
子孫は散り散りになりながら、絶え亡びるまで戦ったので、
そんな余裕はないでしょう。
系図は何通りも残っているが皆バラバラ、
真実の掴みようがない。
それよりも楠一族と縁組みしていた伊勢の服部氏、
能の観世家のような傍系を調べる方が興味深いし、
楠氏の実体にも近づけるのでは。
186 :
日本@名無史さん:03/03/16 15:19
正時ってほとんど話題にならないけど、どんな人物だったのかな。
どっかで正儀を主人公にした小説で読んだ時は、結構直情径行というイメージだったけど。
>>150 漏れは武田鉄矢の熱演で、完全に吉川英治史観に洗脳された。
「七生人の子に生まれ、家の小庭には花を植えて、外には平和な世を眺めたい」
あの最期のシーンを思い出すと、今でも。・゚・(ノД`)・゚・。
>>144>>148-149 捏造っつーより、軍記物=文学作品としての『太平記』の創作。なお、作者は正成に
「罪深いことだが思いはお前と同じ」と言わせている。
~~~~~~~~~~~~
つまり「目的はどうあれ『来世も来々世も人殺しをしまくりたい』などと望みながら死を迎えれば
人間には生まれ変われず、修羅道に堕ちるだろうな」というニュアンスを含ませているのだろう。
実際、作中には護良親王ら争いの中で死んでいった者達が天狗に生まれ変わり
世の中にもっと戦乱を巻き起こそうと謀議する、なんて描写がある。
吉川英治が、正成と正季にこんな会話をさせたのも、その辺を踏まえているのかも知れん。
正季「七度生まれ変わり朝敵を滅ぼしたい」
正成「七生人にか、七生鬼にか」
正季「鬼となっても!」
正成「そうか。だが儂は鬼にはなれん。思いはお前と変わらぬが」
正季「悲願と悲願、どう違うのです!?」
正成「(
>>186に示した台詞)」
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191 :
日本@名無史さん:03/03/24 22:19
保守
192 :
日本@名無史さん:03/04/03 06:32
子供たちの評価になるけどごめん。
正儀って、確かにリアリストとして苦労してるとは思うけど、
164ほどに賞賛するまでの活躍だとは感じないな。
京都を復したのだって、尊氏・師直vs直義・直冬の図式が生まれて、
そいつらが南朝に降服した状況とか、彼らの武力が大きかった。
で、その尊氏・師直vs直義・直冬の図式ってのは、
正行の思い切った挙兵があってこそ、促進された政治状況で。
戦も、兄の戦ほどの勢力差じゃない相手に、
勝ったり負けたり、どっこいどっこいな印象がある。
兄の頃と違って、和田ともくっついたり離れたりになるし、
北朝に降じた時は、ついてこなかった一族と矛を交えてるし。
南朝の貴族では、戦場で真面目に戦ってきたほうの四条隆俊を討死させるし。
逆に言えば、南朝を見放した自分に逆らう一族を犠牲にしてまで、
和睦の理想を貫こうとしたのはすごいのだが。
それに、正行の能力も低いと思わない。
尊氏が佐々木道誉に自領の甲斐荘地頭職とか与えて刺激してきたり、
公家が開戦唱えたりする中で、少なくとも一族を全くばらけさせずに、
最後の挙兵の時までは、あんな位置で何年も非戦貫いてたんだから。
戦も、籠城戦でなく平地戦であの兵力差で勝つのは希少だ。
四条縄手の経緯も、フィールドワークすると太平記の記述通りでないようだし。
ま、正儀の視点のほうがグローバルと言われればそうだろうけど、
それは個性だけでなく、かなり時代状況の違いもあるだろう。
あと、正行ってなぜか、あの身分で公家の娘娶らされそうになってる。
案外、彼だけ母親が藤氏の娘っていう系図&史料も本当かも。
>186
歴史上に記録がない人物、たいていそう書かれるような・・・。
そうだ、元々の出自だけど、玉櫛荘周辺or駿河楠木村→観心寺で迷う。
得宗被官説とれば後者? 玉櫛は縁者が住んでただけ?
あげ
楠・和田党の本拠から遠く離れた常陸で戦った正家にも
よくがんがったと誉めてやりたい
196 :
世界@名無史さん:03/04/11 22:24
>>195 みんな知識が豊富ですね。どこで調べたのですか?
197 :
日本@名無史さん:03/04/14 22:27
南朝はすでに歴史に埋没した形で人々にはただの山賊集団でもあるかのごとく語られ伝えられておりました。
その典型的極悪人として楠木正成の名がありました。
彼らの子孫や配下の系列は、幕府転覆を計る悪党集団としてことごとく捕らえられ斬首され、
その命脈は完全に絶たれたのでした。
1390年、楠木右馬頭
1429年、楠木光正
1437年、楠木兄弟
1447年、楠木雅楽助
1460年、楠木某...
と、わずかばかりの反逆の記録を残して。
198 :
日本@名無史さん:03/04/16 22:42
(^^)
200get 楠木萌えー
201 :
日本@名無史さん:03/04/18 01:46
難聴の忠臣
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
203 :
日本@名無史さん:03/04/22 13:52
以前、十津川に行った時、楠木正勝の墓を見たことがある。
楠木正勝は、正成の孫だと案内板に書いてあったけど、正行の子?正儀の子?
それから、うちのおやじ(都山流尺八をしている)が、正勝は尺八の名人っていってたけど、どーなの?
よく知ってる人,おせーて。
204 :
192&193:03/04/22 14:32
よくあんなとこまで行ったね〜(^-^;
正儀の子だよ。正儀が北朝に降った時は父と戦った根性の人。
明治には正元といっしょに正四位、従四位って贈位されてる。
正行のほうの子孫は、真偽半分といった話しか残ってないからさ・・・。
正勝は、尺八の名人って言うか、虚無僧の元祖という話があるんです。
ちなみに正勝の墓、鹿児島の国分にもあるよ。
205 :
日本@名無史さん:03/04/22 14:43
>>197
昭和期に童謡の作詞をした野口雨情は楠木正季の末裔だろ。こないだ野口
の身内の方がTVにでてた。
あと、秀吉に仕えた楠木正虎、その子不伝も末裔だ。
206 :
日本@名無史さん:03/04/22 15:40
正勝の墓はいっぱいあるねえ
207 :
日本@名無史さん:03/04/24 00:07
>205
楠木氏の場合、これが正統といえる子孫はいません。
自称子孫なら一杯いますが、証明できるようなものはありません。
室町末期に北伊勢の小勢力の楠木氏が滅んでからは正統な子孫はいないと
見るのが良いと考えます。
>207
ええ、正統と確認できない子孫の数は日本一かもしれない。
そして、それを指摘した時の抵抗の強さも・・・。
このスレでも、あまり指摘しないほうがいいかもですね(荒れたらイヤ)
千早赤坂村立資料館に腹巻やら軍旗やら城砦図やらの資料を
一手に提供されている方は、比較的関係があるのかも。
江戸時代、落ちぶれた子孫から買い集めた地主、というオチもありえますが。
209 :
日本@名無史さん:03/04/24 12:06
徳島市内にある袋井用水を開発した楠藤吉左衛門も楠木正成の子孫らしい。
>>207-208 そうなんだ、指摘した時の抵抗の強さにも定評あるんでつか
漏れも以前そういう香具師に会った事あるけど
同じ一族らしいだけでご先祖云々ゆかりの地がどうのとまるで直系の子孫みたいなこといってますた
211 :
日本@名無史さん:03/04/24 22:41
>戦後は自己の保身のために南朝についただけの地方豪族。
誰がそんなことを言っているのか....はぁ???
当時の主要人物の中でもっともまともな人だと思われ。
後醍醐天皇:政治的無能&妄想過多、下半身暴走。
足利尊氏:人格者兼政治的失格者。
足利直義:人格者兼軍事的無能者。
高兄弟:人格破綻者兼軍事的才能者。
佐々木道誉:節操&道徳観念欠如、裏切りの帝王。
新田義貞:戦闘有能、戦術・戦略無能。
北畠親房:時代錯誤的誇大妄想者。
懐良親王:屈辱的売国外交。
212 :
日本@名無史さん:03/04/24 23:54
自称子孫の人たちの系図は、バラバラ。
統一性がなく後から捏造されたと思われるものばかり。
まず信用出来ない。
正成のネームバリューがあるだけに偽子孫だらけ。
子孫という方が、ある研究者の正成像に納得ゆかれなかったのか、
「文献史料ではわからない、血で伝えられてこそわかる楠木氏の雰囲気もある」
みたいなことをおっしゃられていて、ちょっとビビりました。
島津氏とかなら、まだそう語られても納得しちゃいそうだけど。
>>213 頭から信じて同一化してる人ってのも、
ある意味では、そこで初めて理解できる物もあるのかも。
そういう奴に限って血も何も繋がってないとおもうが。
そんな意味ではギリシアも同じようなもんだろう。
216 :
日本@名無史さん:03/04/25 00:42
正成は普通の悪党
>>215 でも理解と言ってもそれってただの脳内ご先祖様理想像になだけでは?
217のおっしゃるとおりであるかもしれないが、
215の考え方は好きです。
>216
正成と、他の悪党の花押の特徴を調べた論文をどっかで
見たのですが(ソースはっきりしなくてすみません)、
正成のは、他の悪党がオリジナル街道突っ走ってるのに比べて、
宋学風な生真面目なものらしい。
そういうところにも性格は出るのではないかと書かれてました。
219 :
日本@名無史さん:03/04/26 02:07
花押の点はともかく、自筆書状が残ってるけど
あれホンマに自筆なんかね?
あれってどの書状のことですか?
221 :
日本@名無史さん:03/04/26 09:42
>>220 自筆書状。観心寺のとか金剛寺のとか湊川神社のとか、
何点か残っとるでしょう
何点かって・・・全書状のことを疑っているのですか。
なぜ? 教養の問題として?
私は正成専門じゃないけど、個人的に物事頼む手紙や
(滝覚に来るよう頼んでいるものとか)は自筆じゃないかな。
あと、神仏への祈願文も一般的に自筆。
よほど悪筆で一貫して右筆連れ歩いてないかぎりは(笑)。
仕事絡み(雑訴決断所にいた時のとか守護としての宛行状とか)は、
花押以外の本文は配下ってことは十分あるので、筆跡見比べてみたら
どうでしょう? 恐々謹言、の部分とかなら素人にも見比べやすいと思う。
いかにも書かれたのが江戸時代っぽい内容のは、すぐわかるよ。
花押が全然違うから。
223 :
日本@名無史さん:03/04/26 16:22
正成の父親の文書はなぜ残ってないのでしょうね?
223は221かな? もしそうなら、疑問の前に勉強してみては。
教えてクンがうざいとか言うわけじゃなくて、こっちも
言ったことに反応返してもらえないと勉強にならないし。
返してもらった反応によって、こっちも獲るものがほしいんだ。
223=221じゃなかったら、ごめんね。
正成の父親は、仮に得宗被官だったとしても、それほどに多数の
文書を発給する立場を持っていた立場(守護とか)ではないから、
史料残存の偶然性の問題。
もし、こんな簡単な答え以上の突っ込んだ展開を話し合いたいなら、
もう少し質問文を詳しくお願い致しマス。
× 発給する立場を持っていた立場
○ 発給する立場を持っていた人物
日本語変でスマソ。
223は違うぞ
「素人にも」なんて言うやつにレス返したくねぇやな
223違うのね。223スマソ。
流れと文体が一続きに見えたからつい。
221もすまんね。
古文書学とかやってる人ではなさそうかなという思い込みから、
悪気もなく初心者って意味で使ってしまった。
こういうの気をつけなきゃな〜(;´д`)トホホ。
とりあえず逝ってきます
>>227 ほんまもんの素人にかかずらって逝かんでも。と思たがもともと専門違うのか。
個人的に、正成と同時期の他の悪党に差があるとすれば何かききたかったのだが。
230 :
日本@名無史さん:03/05/04 22:14
保守
231 :
日本@名無史さん:03/05/06 20:24
hossyu
232 :
日本@名無史さん:03/05/19 22:42
保守
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
234 :
日本@名無史さん:03/05/24 22:25
保守
235 :
日本@名無史さん:03/05/24 22:34
楠木正成ってすごいよね。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
237 :
日本@名無史さん:03/05/28 22:00
すごいよね。
238 :
日本@名無史さん:03/05/28 22:02
239 :
日本@名無史さん:03/06/03 16:48
age
240 :
日本@名無史さん:03/06/23 08:17
三重北部に楠町があるが長い間なぜと思っていた。このスレをみて疑問氷解。ありがとう
241 :
日本@名無史さん:03/06/23 21:39
240です。あと一つ知りたいことがあるのですが、常陸に派遣された楠正家の系統はどうなったのですか。
204の話について個人的見解。楠一門とともに近畿圏の武の中心として活躍した和田(みきた)氏は最終的に和泉の地頭職の島津氏にとりこまれたらしく、島津とともに薩摩に移ったらしい。
〔つづき〕正勝と共に正儀を攻めたがちがちの南朝派。恐らくは正勝顕彰のため、建立したのでは。
>242
へえええ。そうなのですか。シランカッタ!
しかし、その和泉にいた島津というのはいつからいつまで和泉にいたんだろう。
鹿児島に正行の墓があるのも同じことかな。
実家に帰らないと資料がなく、わからない。ごめんな〜。正行の墓まで鹿児島にあるとは!びっくり。多分同じ理由では。四條畷で和田源秀他多数戦死しているし。
246 :
日本@名無史さん:03/06/24 08:04
242の話は個人的見解ということに注意
墓のある家では正勝の子孫とかいってるという話もある
「和田文書」の和田氏も鹿児島だが同一人物だっけかな?
鹿児島の墓というのは甑島のことだね
あんな遠いところに・・・???
>242
個人的見解、了解。
甑島の和田氏は、正行自身が落ち延びてきた&その子孫であると
名乗っています。今は北九州のほうに移住なされたみたいですが、
墓のあるほうとは別の島に歴史資料館のようなものがあって、
多少の遺品が残されているとか聞きました。
鹿児島の和田文書は「みきた」OR「わだ」?堺市立博物館で公開していたのは「みきた」でした。
本筋とは関係ないですが、E-mail記入欄に
半角で sage と入れていただけるとよろしいかと思います。
スレッド上がると業者の宣伝カキコがざあっとつくので、それを避けるために。
下がりすぎてる場合はこのかぎりではないですが。
250 :
日本@名無史さん:03/06/24 22:31
251 :
日本@名無史さん:03/06/24 22:32
ああああああ0000000
ケツの穴を舐めてくれや!
楠木正家は北畠顕家とともに上洛してそのまま河内に留まって、
のちに四條畷の戦いで正行らと一緒に討ち死にしたというのが
一般的にいわれています。四條畷神社にも祀られています。
253 :
日本@名無史さん:03/06/25 21:31
252さんありがとう。機会があれば四條畷神社にいってみます
254 :
日本@名無史さん:03/06/29 21:38
それにしても、
観心寺様式と称される
独特のフォルムを有する国宝「観心寺金堂」。
楠木正成の造営と伝えられる。
あの様式がもつバランス感覚は、
鎌倉南北朝建築の白眉といえる。
このことは、
寺社勢力や修験者のネットワークが
建武中興に多大に貢献したであろうことを物語っている。
255 :
日本@名無史さん:03/07/03 02:38
そういえば由比正雪も駿河出身で楠木後裔を称していたね。
駿河楠木の出身だっけ?
>>254 理由になってないよ??
修験者が加担していたことは否定しないが、
後醍醐天皇は当時の朝廷では
決して主流じゃない。
倒幕に成功したからといって
過大評価するのはナンセンスじゃないか?
散所の王の説あり
>>258 だからそれは一面的で
>>44 に有るような得宗被官というかそれなりの地位もあった気もするが
>>96 にまとめて有るような悪党としての商工業者的な面も有った様に思われる。
いずれにしても忠臣愛国と言った一言では片付けられない
多面性のあった人物と思われる。
最後が切腹→介錯でなく刺し違えと言うのも武士とは一風変っている。
>>255 違うよ。ただの自称。あるいは楠不伝の弟子やとか、
そんな関係があっただけ。
>>256 あなたのようなツッコミを待っていた(w!
261 :
日本@名無史さん:03/07/09 18:54
正成の偉いところ 1 武功第一を菊池武敏に譲った 2 湯浅氏攻めに代表される様な見事な戦略 3 散り際が見事 4 足利方の梅松論でもベタ誉めされている
262 :
日本@名無史さん:03/07/09 19:35
>>261 梅松論は正成一人をべた褒めしてるわけじゃないけどね。
新田義貞や結城親光だってずいぶん讃えられているし。
敵であっても見事な振るまいに対しては武士のかがみとして賞揚するのは、
あの時代の空気がそうだったんだろ。
>>261 1は菊池武敏ではなくその親爺(武時)。しかしなぜ菊池?
中興のさきがけとなって死んでいった武士は他にもいるだろうに(桜山慈俊とか足助重範など)。
2は戦略というよりは戦術のレベル。
戦略をいうなら、赤坂千早金剛山の城塞化、全国の討幕の気運を読み取る先見の明、自軍の兵力の消耗を極力避けた持久戦の妙
3は異論なし
4はわからん。梅松論の正成の誉め方は不自然なくらいで義貞や親光とはだいぶ印象が異なる。
正成が、尊氏と後醍醐の和睦を提唱していたことと関係があるのかも、と思ったりもするんだが。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
265 :
岸和田治氏軍忠状:03/07/16 22:37
服部文書は偽書らしいが、どんな内容が書かれていたのかな?記憶では服部半蔵の先祖が正成と姻戚関係があったという記事しかしらないが。
毛利氏と関係深い大江先生に師事していた少年時代から、彼は
観心寺で4月のたった2日間だけ開帳される如意輪観音を拝していたことだろう。
「国宝 如意輪観音」(平安時代)今さら言うまでもなく密教美術の最高峰でもある。
幼い頃から「国宝 如意輪観音(平安時代)」を拝していた武人は
私利私欲のために略奪行為などをはたらいた可能性など到底考えられない。
彼は嫡子を表す「多聞丸」と名付けられていたが、
多聞は毘沙門天の別名、吉祥天の夫、七福神の1。
こうした事実から、敬虔で慈悲深い武人といった印象が強い。
残存する文書の断片や信憑性の史学研究などのパズルのコマをながめるより
直截に彼の真実のかたちがおぼろげながら現れてくる。
268 :
日本@名無史さん:03/07/27 15:08
>>266 >幼い頃から「国宝 如意輪観音(平安時代)」を拝していた武人は私利私欲のために略奪行為などをはたらいた可能性など到底考えられない。
幼い頃から仏像を拝していた武人なんて、その当時いっぱいいるだろ。
つーか、ほぼ全員がそうじゃないか?
>彼は嫡子を表す「多聞丸」と名付けられていたが、多聞は毘沙門天の別名、吉祥天の夫、七福神の1。こうした事実から、敬虔で慈悲深い武人といった印象が強い。
伊達政宗は幼名梵天丸だが、特別「敬虔で慈悲深い武人」ってわけでもないぞ。
まあ、君がそんな風に色々思い込みたいのは自由だが、ここは日本史板なんだから、
もう少し根拠のある話をしてくれ。
‥‥それとも、ただの釣りか?
269 :
日本@名無史さん:03/07/27 15:30
>>266 正成が足利軍と宇治で戦った時、楠木軍の放火によって平等院が焼け落ちた。
こうした事実から、正成の敬虔さや慈悲深さといったものなど、
わざわざ特筆するほどのものではなかったことがうかがい知れる。
(^^)
271 :
日本@名無史さん:03/08/02 19:54
272 :
日本@名無史さん:03/08/09 00:49
273 :
日本@名無史さん:03/08/09 15:57
楠正行のおかげで、日本は赤十字加盟ができたといって過言ではない。
楠正成のおかげで、神風特攻隊が誕生したといって過言ではない。
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
276 :
日本@名無史さん:03/08/16 13:08
277 :
日本@名無史さん:03/08/21 13:25
278 :
日本@名無史さん:03/08/21 16:39
´*:;,. ★ 〜☆・:.,;*
http://www.gals-cafe.tv ´*:;,. ★ 〜☆・:.,;*
夏なのにカノジョがいなくてこまってるそこのアナタ!
同じくカレシのいないなつきちゃんに会いにこないっ?
一週間の間、10分間はカクジツにさんごはあなたのもの♪
え?それ以上?それはぁ・・・えへっ(≧▽≦)~~*
アナタがなつきにもっと会いたくなってくれたら、かな☆
ここで待ってるから、必ず来てね!来てくれないなら…おしかけちゃうぞ♪
´*:;,. ★ 〜☆・:.,;*
http://www.gals-cafe.tv ´*:;,. ★ 〜☆・:.,;*
279 :
日本@名無史さん:03/08/21 16:47
戦国までの主と家臣のあり方
一味同心
江戸の主と家臣のあり方
君君たらずとも臣臣たらざるべからず
280 :
日本@名無史さん:03/08/29 20:37
281 :
日本@名無史さん:03/09/05 02:21
282 :
日本@名無史さん:03/09/05 03:39
>>211 > 後醍醐天皇:政治的無能&妄想過多、下半身暴走。
ワラタ。
知らなかったので調べてみた。
なんか年増からローティーンまでいろいろあるのね。
身内の女性が多いようだけど、これって当時の朝廷では普通のことだったん?
宋学に凝ってたらしいけど、儒教倫理には激しく矛盾するんでないの??
283 :
日本@名無史さん:03/09/06 20:43
俺、四條畷に住んでいるんだけど楠木正行の墓と四条畷神社が有名だけど
和田賢秀の墓もあるんだわ。地元では「歯牙様」(しがさま)とよばれてる。
和田賢秀が討ち死にした時、相手の武者に首を取られたんだがその時相手を
口で噛んで喰らいついてそのまま首を取られても離さなかったそうだ。
284 :
日本@名無史さん:03/09/15 12:41
和田賢秀は四条畷の戦いで大塚某とともに小唄を歌いながら、両陣の間を悠然と
進み、敵陣へ突入。そこから合戦が始まった。
285 :
日本@名無史さん:03/09/17 03:07
伊勢楠氏って本当に楠公の子孫?
286 :
日本@名無史さん:03/09/19 20:24
楠木正成を指して「悪党」って言うケド、これは現代の意味での悪党とは
違うと思います。
平安末期〜鎌倉初期は悪源太、悪七郎兵衛らのように「武勇に優れた」と
いう意味で「悪」と言う文字を使っていたようです。
言語学者でもないので何時までそのような意味で使われていたのか不明で
すが、もし室町時代までそのような意味で使われていたのだとすれば、楠
木正成の「悪党」とは「強いヤツラ」程度の意味で使われていた可能性が
あるのではないでしょうか。
スレを見つけたばかりで全部読んでないので既出だったらゴメン。
>>286 そうですね、強いと言う意味ですね、其れが戦後正茂は河内の悪党だった
歴史学者か知らないが、言い出すのが居りました。
正成の字を間違えるな、ボケッ
ガイシュツすぎ。高校の教科書でも載ってるぽ。
んだんだ。
>284
住吉合戦の間違いじゃ?
292 :
日本@名無史さん:03/10/01 23:49
293 :
日本@名無史さん:03/10/03 08:24
「強い」って・・・。元はそういう意味だったと思うけど、私の記憶では、
鎌倉末期の「悪党」って、幕府の秩序に従わないやつらのことだと
思ってたけど、違うん?
294 :
日本@名無史さん:03/10/03 19:02
たぶん当たってます。
南朝の顔ぶれは鎌倉幕府による体制から
虐げられてきた人々ですからね。
295 :
日本@名無史さん:03/10/13 00:58
296 :
日本@名無史さん:03/10/15 00:15
中世では、悪は強いという意味ですが、ポジティブな意味合いではなくネガティブな意味合いでの強いだから、
>>293が言うように「悪党」は反体制的暴力的集団を指したんですね。
297 :
日本@名無史さん:03/10/15 18:00
楠木兵衛という悪党が荘園に押し入って強盗まがいのことしてるから、やっぱ今風の悪だろ。
298 :
日本@名無史さん:03/10/15 22:17
>297
そりゃ武力を持ってるんだから中には賊もいる。
だからといって全てがそうではない。
299 :
日本@名無史さん:03/10/18 14:50
結構前になるかもしれんが、某写真週刊誌に、楠正成の子孫の人が出とった。
ほんまにそうなんかいな?大饗正虎の子孫ちゃうんか?それはそれで笑えるが
300 :
名無しさん:03/10/19 09:29
300ゲト−
301 :
日本@名無史さん:03/10/19 09:55
>299
次男だったか三男だったか孫だったかは生き残ったらしいけど、後の消息は全くの不明だったはず。
戦国時代あたりに適当に偽造した家系伝承じゃねーか?
302 :
日本@名無史さん:03/10/19 10:06
>悪党
鎌倉幕府の御家人体制からは、荘園や公領を侵略する反体制勢力です。
しかし、北条身内人が悪党と結びついていていることが多く、鎮圧しき
れなかったそうです。
身内人は、悪党の分捕った領地から収入の一部を取ってたようです。
在地では、悪党が荘官や代官となって、荘園の請負を行ってる面もあります。
それは、彼らが商業にも関係し、富を蓄積し、銭の蓄積を評価する時代風潮
が彼らの存在を認めさせていたようです。
あと、特に西国では、領地裁判のとき、本所が相手を「悪党」ということにして、
幕府の鎮圧令の適用を受けようとしたようです。
それで、悪党でないのに悪党にされてしまい、幕府に反感を盛ったようです。
303 :
日本@名無史さん:03/10/19 10:09
楠正虎に関しては微妙。足利幕府が存続中に「楠木氏の赦免申請」っていうのは、一歩間違えれば朝敵としてバッサリだからそこまでして家系を偽造するメリットが分からなくなる。
304 :
日本@名無史さん:03/10/19 10:11
当時,山野河海,道路などの〈無主〉の場においては,世俗の秩序から
みて山賊,海賊などといわれた行為を,むしろ当然のこととする慣習が
あり,悪党が山伏のような〈無縁〉の人の姿をしたのも,そこに理由が
あったと思われる。
実際,悪党の中には,狩猟・漁労,商工業,交通,金融など非農業的生業
に主として携わり,本拠を中心に広く遍歴する人々が多く,供御人,神人,
山僧などの地位を持つ人も少なくない。
畿内とその周辺の武士団も,かなり一般的に同様の性格を色濃く持っており,
御家人で神人を兼ね,悪党といわれた事例も見いだしうる。
鎌倉後期以降,こうした人々は下級荘官や代官となって荘園を請け負い,
荘園支配者の対立の間をぬって地歩を保ち,富を積んで無視しがたい勢力
になってくるが,その背景には,このような悪党的行動による致富,
貨幣の集積を積極的に肯定する時代の風潮があったのである。
これに対し,鎌倉幕府は1258年(正嘉2)に悪党禁圧令を発したのをはじめ,
モンゴル襲来のさいには,その統治権を西国にまで拡大して悪党の制圧
につとめた。とくに1324年(正中1)には,本所一円地への守護使の入部を
含むきびしい禁圧令をもってこれに臨んだが,効果なく,むしろ頻発する
紛争のさい,当事者が互いに相手を〈悪党〉とよび,禁圧令を適用させ
ようとする動きが広がり,幕府に対する不信感を増大させる結果を生んだ。
305 :
日本@名無史さん:03/10/19 10:11
この不満を組織して,討幕の方向に導いたのが後醍醐天皇で,楠木正成,
赤松円心,名和長年など,その直属武力はいずれも悪党的性格を持つ武士
団であった。南朝が室町幕府に完全に圧倒されながらも,長く命脈を保った
のは,悪党・海賊的な武力を多少ともその基盤となしえたからにほかならない。
一方,室町幕府でも,高師直がこうした武士を組織したのに対し,足利直義
は寺社本所の申請に応じ,守護を通じて悪党鎮圧を強行,幕府の方針は
動揺をつづけた。しかし動乱の中で,悪党的な武士自身,守護の被官と
なり,国人一揆を形成するなど,しだいに組織化される一方,商工業者,
金融業者として都市に定着するものも多く,悪党的な風潮は徐々に時代
の表面から退いていく。
306 :
日本@名無史さん:03/10/19 23:43
>>303 それを言ったら家康が新田子孫を自称したのも同じじゃない。実際新田の子孫だと言うだけで切られたのもいるんだし。
307 :
日本@名無史さん:03/11/02 16:46
308 :
日本@名無史さん:03/11/02 17:49
同じ新田系岩松氏は足利と歩調を合わせ、生き残り
309 :
日本@名無史さん:03/11/02 18:19
足利義詮は楠正行をなぜあんなに尊敬していたのだろうか?
自分の墓の横に小楠公をまつるのは...
敵だったはずでは?
小楠公の人柄に惚れ込んだのか?
>309
太平記には書かれていないことが、何かあったのかねー。
漏れも詳細キボンヌ。
正行タンハアハアハアハア
兄上に近寄るな変態!
313 :
日本@名無史さん:03/11/04 01:40
楠木家の家紋はしりたいのですが
314 :
日本@名無史さん:03/11/04 19:31
菊水ですが何か?
315 :
日本@名無史さん:03/11/04 21:28
>308
新田支族のはずなのに山名などは・・・・
316 :
日本@名無史さん:03/11/06 00:06
山名の嫁は上杉から来てるので、むしろ足利に近いと。
実家が近いので、少々悪さをしても楠一族、特に正成・正行・正儀は
やはり褒めてあげたい。
歴史上、純粋に大阪出身で優れた武将はいなかったと思う。
そりゃマイナーな人なら何人か出て来ると思うが(常山紀談に
出て来る中村新兵衛など)。
日本人の判官びいきの際たる例ちゃうかな。小勢力ながら敢然と
立ち向かうその姿に神々しささえうかがえる。
相撲でいえば舞の海が曙と立ち会う姿とだぶる。
そりゃ舞の海が勝った日にゃあんた、
座ぶとんも舞うっちゅうもんや。
318 :
日本@名無史さん:03/11/16 15:21
age
319 :
日本@名無史さん:03/11/16 20:23
たしかに正成とその一族、朗党は
生粋の河内人。
たぶん、実際は英雄的な戦いというより
かなり相手をおちょくった戦い方
であったと思われます。
現代で言えば漫才コンビのダウンタウンのような感じ。
320 :
日本@名無史さん:03/11/16 20:36
>> 317
舞の海か、なるほど。
たしかに技のデパートっていう感じがする。
いるんだな、14世紀から大阪人がボケ突っ込み人種だと思ってる、
史学ともっとも程遠いような思考の319のような輩が…。
>>321 じゃあどんな人種だったの?
まさかチョンの血が入ってからそうなったとは言わないよね?
323 :
日本@名無史さん:03/11/29 20:41
子供のスレッドが立ったので親としてあげておく
324 :
日本@名無史さん:03/12/02 00:26
楠木正儀の子孫の消息、陸奥よりご報告。
大正14年発行の「江刺郡志」に以下の記述がありました。梁川村誌に曰くとして。
北朝後光厳院の貞治元年、楠木正儀・その子伯耆・大學・対馬・内膳(兄弟四人)等
共に細川頼之と交戦すること数回、その間朝廷に策を献ずるも容れられず。遂に正儀は
天を仰ぎてその往く所を知らず、四人の兄弟は身を脱して浪々の姿と変じ、三河の国
大井川の辺りに居を構え、大なる槻の木の有りしをとりて槻の木太郎と変名し、四隣を
圧したるため衆の忌む所となり、該槻の木を伐採せられたるに之に屈せず、切口太郎と
名乗りいよいよ益々衆の忌む所となり、この事北朝の庁に訴うる者ありて厳重の調べを
受くる事となりたるを以て、兄弟四人は同地を脱して源顕信を尋ねんと東奥に志し、
栗生澤村に来たり、長兄伯耆は現今の芦澤に住し、次兄大學は現今の桂に、三男対馬は
現今の中野屋敷に、末弟なる内膳は現今の字落合川畑の地に、大井川内膳正義といひ、
永徳二年七月十五日卒す。その系統絶えず今に及ぶと云う。伯耆大學対馬の直系は絶え
て、今日に残れるはその末葉のみ。
維新の際姓を冠せるる令ありし時、楠の後胤なるを以て、楠と姓を届け出でしに、その
筋よりの注意に依り大井川と届け出づ、時の筆耕者は及川と誤記せる結果として、その
まま今日に至る。しかして、正儀が鎮国の神としてはたまた氏神として居住地に八幡大
神を奉祀したるは、若宮八幡宮にして、その当時よりの神木今なお存す云々。
四隣を圧したるため衆の忌む所となり、該槻の木を伐採せられたるに之に屈せず、
切口太郎と名乗りいよいよ益々衆の忌む所となり、この事北朝の庁に訴うる者ありて
厳重の調べを受くる事となりたるを以て、兄弟四人は同地を脱し
正儀の子孫って、DQNつうか悪人つうか民の敵だったのか。
がっかり。
326 :
日本@名無史さん:03/12/02 01:09
大阪府河内長野市民です。
楠公、市中に山ほどあふれてますよ。リアル南北朝です。
引っ越しませんか?イヤホント。(私は北攝か阪神間に行きたいが・・・)
私は長慶以降の小倉宮一統と応仁の乱の関係に個人的に興味あります。
宮の孫が西軍に担がれたという。
327 :
日本@名無史さん:03/12/02 16:52
俺は、奈良在住で抜け道として良く通ったりするんだけど、確かに、千早赤阪村
なんか行くと、いたる所に菊水の紋の付のついた顕彰碑がありますな。
で、暇だった日に、千早赤阪城址なんて行ってみたんだけど、ホントかヨって
思うくらいその規模の小ささ、狭さにビックリしますな。
ま、山岳ゲリラ戦だからしょうがないか。
>>327 源氏は内部の近親憎悪や焦りが伏流水みたいに底流に存在し、権力掌握ができなかった一族が
時代の切れ目で動きます。
私は応仁の乱もそれだと見ています。
おそらく女装させて三重と和歌山の県境からはるばる京都まで連れて来たのでしょう。
宗全死んで(病死かどうか分からないが)、西軍が瓦解したから用がなくなった。
それに比べると楠木正成はよほどスッキリしてますね。
私は楠公、好きですよ。
平安期の学者、大江正房の子孫が三日市という所に隠棲していて、この人に観心寺で学問習ったみたいです。
非常に学はあるわけで、DQNじゃないと思います。
今も庵跡もあります。新興住宅地の真ん中です。
(自分は大江の血筋を引くんだと言っている人から聞きました)
「匡房」 誤字でしたね。スミマセン。
330 :
日本@名無史さん:03/12/07 09:45
>>324 正儀の子ってそんなにいたん?ちょっと気になる。確かに宮城の大崎地方には
及川姓が多いけど、及川氏が楠木子孫というのは初耳。
ここで書くことちゃうけど、あまりにもむかついたんで・・・
転勤の家探しに行き、新大阪の駅で北方けんぞーの楠木正成を買って
読んだがあまりの内容の薄さにげっそり。新しい楠公像を書こうとして
大失敗といった感じや。
上下巻を東京に着くまでに読みきってしまった。ほんま損をした。
げんくそわるいわ!もう2度とけんぞーは読まん。
332 :
日本@名無史さん:03/12/22 18:59
>>331 北方は北畠顕家や赤松円心を主人公にした小説もすっごく薄っぺら。
きくところによると、次は土方歳三について書きたいらしい。
「もうそろそろ新しい土方像を作らないといけないね」とか某雑誌のインタビューでほざいてた。
「新しい」=「良いこと」という思い込みがイタ過ぎる。
なんでこんな糞作家が売れているのかさっぱりわからんな。
333 :
日本@名無史さん:03/12/23 14:00
北方の作品は、すぐに「謎の山の民」とかが出てきてシラける
道誉とか円心とかは読んでないが、顕家も懐良親王も正成も
みんな変な架空の奴が出てなかったっけか?
土方はもう書いたねえ。「黒竜の柩」ってそうでしょ?
読んでないけど(w
334 :
日本@名無史さん:03/12/24 02:38
北方って自分で資料とか古典とかをきちんと調べて書いてるとはとても思えないんだよな。
現代の作家の作品とか解説書の類だけ読んで、そこに自分の電波な想像加えているだけって感じ。
薄っぺらいのはおそらくそのせいだろう。
335 :
日本@名無史さん:03/12/24 08:53
おまいらがおすすめの正成小説希望!
336 :
日本@名無史さん:03/12/24 21:22
やっぱ太平記だろ、原典の。
337 :
日本@名無史さん:03/12/24 21:48
>325
大井川は三河でなく
駿河か遠江では
338 :
日本@名無史さん:03/12/25 02:27
>336
確かに原典太平記を上回るほどカコイイ正成ってなかなかお目にかかれないね
あぼーん
340 :
日本@名無史さん:04/01/09 01:56
ゲリラっぽくて好きよ
341 :
日本@名無史さん:04/01/24 01:41
342 :
日本@名無史さん:04/01/24 15:22
自己の保身のために南朝についただけ=所領安堵=武士の本分
343 :
日本@名無史さん:04/01/24 21:12
保身て何の保身やねん?南朝についてまで保身せなあかんことあるか?
まあ少なくとも正儀は保身。
正儀を現実的な和睦主義者って持ち上げるむきあるけど、
その時々で直義派と手を結ぼうとしたり、尊氏派と手を結ぼうとしてるだけ。
南朝のために人の力借りて、もう一方を倒そうとしてるだけだよ。
和睦を現実に考えてたなら、協定破って京へ攻め込み義詮を追い出したりできんだろう。
歴史家がむりやり、現代から見てかっこいい人物像当てはめたって感じで変。
その時々で自分たちにとって一番いいように動いただけで、
それは当時の常識じゃ普通のことだったんじゃないかな。
親父や兄と違って、なぜか武家方には好かれてなかったみたいだね。
太平記との道誉との一件でも正儀は阿呆扱いされてるからなあ。
普通は正儀の「粋」な所を褒めるもんだろうけど。
そんな評価をされるってことはあんまり人徳無かったのかも。
>>345-346 なるほどな〜。俺も正儀マンセーはちと胡散臭く感じてたので、いろいろと腑に落ちた。
>歴史家がむりやり、現代から見てかっこいい人物像当てはめたって感じで変。
戦前→戦後で180度変わった楠氏の評価に着眼して、
「今こそ俺が変わったこと言ってみせるぜ!」ってな感じだったんだろな。
しかし人物の評価って、どうとでもコロコロ変わるよなあ。
348 :
日本@名無史さん:04/01/29 09:56
保身の為に動く人間の方が
正成よりも正儀の方が
人として等身大ぽくていいと思う
正儀いいってのは人それぞれじゃん。
わざわざ「正成よりも」とか引き合いにして言うところがいやだな。
正成が人として等身大っぽくなかったなんて、誰が決めたんだよ?
挙げてくれ!
もっと楠公続いてくれ!
351 :
日本@名無史さん:04/01/31 10:21
非理法権天やない旗の文句って何だっけ?
蟠龍○○○とかいうの。
352 :
日本@名無史さん:04/01/31 11:08
え!広益俗説弁の井沢蟠龍
353 :
日本@名無史さん:04/02/09 23:53
354 :
日本@名無史さん:04/02/10 06:51
楠木正辰(楠木不伝): 南木流軍学者で由比正雪の師匠。
355 :
日本@名無史さん:04/02/10 21:54
楠流でござるか。
拙者は神武流でござる。
356 :
日本@名無史さん:04/02/10 23:54
>>328殿
ガイシュツかもしれんが、その大江匡房の子孫って毛利時親のことじゃないか?
357 :
日本@名無史さん:04/02/12 03:11
汚ネ、ペッペッ、あぁ〜おいらの鎧に、正成氏ね!
359 :
日本@名無史さん:04/02/22 05:49
360 :
日本@名無史さん:04/02/28 18:29
age
362 :
日本@名無史さん:04/03/03 20:45
湊川前夜、戦友新田義貞と語り合った
酒宴に感動。
南朝の武将にはロマンがある
363 :
日本@名無史さん:04/03/04 00:00
>>361 大して面白くねーよ。見るだけ時間の無駄(北方けんぞーよりはマシだが)
南朝の武将はただの悪党。
365 :
日本@名無史さん:04/03/07 17:31
うるせー
366 :
日本@名無史さん:04/03/07 17:52
悪党っていうか、紀伊や大和あたりの土豪出身が多そう
367 :
日本@名無史さん:04/03/07 21:44
368 :
日本@名無史さん:04/03/11 04:48
だんだん糞スレになってきたな
>364
「ただの悪党」って、この頃の悪党の意味、知ってるの?w
371 :
日本@名無史さん:04/03/11 22:52
楠木正成と金王盛俊の関係について教えれ。
呑み友だち?
373 :
日本@名無史さん:04/04/02 17:13
375 :
日本@名無史さん:04/04/07 15:38
『君 恥ずかしめれば 臣死す』『仇討ちは武士の誉れ』
よって英雄。
しかも、切腹だった事を考えれば悪ではない。
兄弟で刺し違えたんだがね
寺島良安「和漢三才図会」の大和国吉野郡の如意輪観音寺の条で、過去帳に楠正成一族の名があるとのことだが、具体的に誰が書かれているのか知っている人おらへんかな?
数カ国の国司、守護だったのに湊川に数百の兵しか
連れてこられなかったのはどうしてなんですかね?
動員かけても集まらんかったから。
>>378 参考に
今度は君の戦必破るべし。
人の心を以てその事計に、去元弘の初、潜に勅命を受て金剛山の城に籠し時、私の計ひにもてなして、国中を頼て其功をなしたるとき、
爰にしりぬ、皆心ざしを君に、通奉しゆへなりと。
今度は正成、和泉、河内の両国の守護として勅命を蒙り、軍勢を催に、親類猶以難渋の色有かくのごとし。
況国人土民等にをいておや、是則天下君を背ける事明らけし、然間正成存命無益也。最前に命を落すべき
381 :
日本@名無史さん:04/04/13 04:04
>>380 足利氏の身内が書いた梅松論じゃないか。
しかも足利幕府を正当化するべく楠公を利用した箇所。
ほとんど参考になりません。せいぜい半信半疑ってところですな。
ちっ!ばれたか。まあ楠公関連では常識すぎた。反省します。
383 :
日本@名無史さん:04/04/14 03:48
ただ、その「梅松論」だと湊川での楠軍の実数は書いていないんだよね。
「太平記」だと僅か700なんだけど、こっちだともっといそうな描写。
「敵は湊川の後の山より里まで旗をなびかし楯をならべてひかへたり。
これは楠太夫判官とぞきこえし」。
山から里まで?それってかなりいるんじゃ‥‥
で、その直後には
「播磨海道の須磨口も大勢むかひてささへたり」
須磨口「も」?
まぁ足利方としては、あんまり少人数相手に勝っても自慢にならんから
わざと多くいるように書いているだけなのかもしれんけど。
384 :
日本@名無史さん:04/04/15 15:35
悪党の爆笑秘話 教えれ
385 :
日本@名無史さん:04/04/20 19:06
正儀の息子に楠木正勝と言う人がいる。この人もまた、南朝再興のために、兵を挙げ
足利義満の兵と戦ったそうだ。このあたりになると、もはや家業と言うしかないね。
>>385 まあ北朝に一時降った親を攻めた人だから・・・
387 :
日本@名無史さん:04/04/21 14:40
日本悪党党
388 :
日本@名無史さん:04/04/21 14:41
日本悪党党
忠臣、悪党なんてどうでもいいが
楠公が平地で戦わなければもう少し生き永らえたのにな
平地でも互角の戦力なら楠公が強いのは周知の通りだが
主君に恵まれなかった悲劇だな
390 :
日本@名無史さん:04/05/03 03:35
391 :
日本@名無史さん:04/05/03 04:45
散所の差別民でしょ、楠木って。名和もだけど。
証拠は?
393 :
日本@名無史さん:04/05/03 21:38
394 :
日本@名無史さん:04/05/06 18:20
あんまり面白くない
396 :
日本@名無史さん:04/05/18 12:50
俺は、正成公に仕えていた和田正遠の子孫なのだが、このスレ見てると、
何か、複雑な気分になるなぁ・・・
397 :
日本@名無史さん:04/05/18 22:34
僭称?
俺、本当にばあちゃんに、うちは楠木正成の子孫って、教えてもらったよ。苗字は楠木じゃないけど。
>398
自称「子孫」が異常に多いからね、楠木氏は。
正成がメジャーなだけに、明治になり姓を名乗れるようになると
好き放題に付けた香具師がゴロゴロと。
そんなのでも何代かすると立派に「子孫」を名乗るんだよな。
>>401 少なくとも、うちはそれは無いね。取り合えず、江戸時代くらいまでならさかのぼれるらしいし。
明治に入って、うちの家から、苗字を分けた(やったor売った?)のは、あるらしいけど。
因みに、昔から菊水紋を使い続けてるってのは、証拠になるの?
402=398です
>402
それだけじゃ駄目だろうね。
子孫と示すものがないと認知されないよ。
例えば、系図(古く正当性が客観的に判るもの)、古文書(もちろん本物)、
先祖から伝わる遺品(刀剣、鎧など)、菩提寺(有名で歴史の古い寺)の過去帳
などなど思いつくものは色々あるけど。
なかなかそこまで揃っている家は無いよね。
だから殆どが自称「子孫」なんだよ。
ちなみに楠木氏の子孫として、徳川幕府に認知され
今日まで認められているのは「甲斐庄氏」のみと思います。
それ以外の楠木氏族は、皆「自称」のレベルを超えるものではありません。
ごめん、間違えた。
「甲斐荘氏」ね。
へぇ、そうなんだ。一回、過去帳調べてみようかな。
先祖からの遺品は皆無に等しいです。自分から、3代か4代前の人が、人の借金背負って、身包みはがされたそうですから。
一応、言い伝え的には残党狩り?から逃れる時に、苗字を分けたらしい(これで、苗字はばれたな)。分けて、順番に並べたのがうちの系統。その中でも、3系統あって、うちはその本家筋らしい。逆に並べたのが、傍流らしい。
世の中には、同じ苗字で読み方が違う人が、いっぱいいるけど。
こみなみさん ならば大阪には一杯いるな。
こみなみじゃぁ、無いんだよなこれが。
正直、そういうこと知らない。古文書を見たわけでもないし。
親族の間でも、噂程度の認識だしね。ここの書き込み見て、ますます信じられなくなったし…
412 :
日本@名無史さん:04/06/18 19:06
413 :
日本@名無史さん:04/06/18 20:27
>>409 木南(きなみ)さんでしょ?「楠」を二字に分けた苗字。
>>413 きなみでもない。これ以上は言えないなぁ
415 :
日本@名無史さん:04/06/19 00:19
416 :
帰ってきた24歳無職:04/06/19 00:22
日本史上最高の忠臣にして名将だと思いますが。
もう398は来なくていい
418 :
日本@名無史さん:04/07/19 19:10
karaage
『楠木正成』大谷晃一著/河出文庫が個人的には好きだな。
小説の類いは読めたもんじゃない。
三重の楠町って四日市市と合併するみたいやね。一応楠木一族最後の勢力が残っていた場所といわれるところなのに・・・
>>345 正儀マンセーしたくなる人間の気持ちってのは何となくではあるが分かるのよ。
正成や正行の求道的な生き方死に方ってのは、美談にもなるが反面もどかしさ
も感じるわけで「何でそんなに邪険にされてまで『忠節』つくさにゃならんの?
もうやる事はやったんだから好きなように動けばいいじゃないか!?」とも毒づき
たくなってくる。そういう人からすると正儀のエゴ剥き出してめえの保身しか考えて
いない生き方って物凄く爽快感があるわけ。ただ、その爽快感を正当化したくて
「現実的な和睦主義者」という幻想を知らず知らずのうちに作りだしていると思う
のですが。
ちなみに私は「自己保身しか考えてないエゴ剥き出し」な正儀は好きですよ。
>>420 ええやん。
四日市市 字 楠
で残るっしょ。それで十分やん。
423 :
日本@名無史さん:04/08/01 12:22
正成以来の河内の英雄といえば
お笑いのダウンタウンが知られている。
正成の実像にもっとも近いのはダウンタウンか千原兄弟だろう。
425 :
日本@名無史さん:04/08/01 19:47
著名神社に奉られている武将は楠正成のみでありましょう。
しかも菊の紋章を半分もらってます。
426 :
日本@名無史さん:04/08/01 21:47
>>425 電波?ネタ?
平将門 → 将門神社
徳川家康 → 日光東照宮
明治以降はいっぱい
427 :
日本@名無史さん:04/08/02 07:34
なんで楠正成なんて言う匪賊まがいの野武士が、あれほどまでに後醍醐天皇の寵を受けられたのでしょうか?
なんで>427という厨房まがいのやつが日本史板という格調高い板を
発見できたのでしょうか? という質問に近いな。
至誠これ万事を貫く、だよ
いるんだよな。
「悪党」という歴史用語をそのまま受け取って,なにか武装盗賊団か何かと勘違いするやつ。
430 :
日本@名無史さん:04/09/05 18:45
431 :
日本@名無史さん:04/09/05 20:47
>429
鎌倉からみたらそのとおりだべ
刃の下におく心が忍。真中にあるのが忠。ちょっと反れたのが悪。
もともと、ひどい意味ではない。
因みに
言葉通りなのが、誠。誠が面倒なヒトは沈黙している。沈黙は金。
スレ違いだが、谷という字は卑猥と思わないか。
433 :
日本@名無史さん:04/09/24 01:21:30
434 :
日本@名無史さん:04/09/24 01:52:04
和田さん
>431
でも盗賊というのは明らかに違うだろう。
鎌倉の命令に従わないのは御家人であれ荘官やら神人、僧侶であれ悪党と呼ばれた。
あの時代は得宗家と朝廷・公家・寺社が利権をめぐって各地でせめぎ合っていたし。
楠正成も金剛山あたりの神人じゃなかったんかな?
>>435 車借、馬借の大親分とかの話もある。あっちこっちネットワークを持っていて
世の中が多少見えていたのかも知れない。
しかし、誇張して言えば、河内の雰囲気って、東京の政府なんぞ当てにして
ないとこ、今でもありそう。
437 :
日本@名無史さん:04/10/01 23:49:08
>>2は日教組の自虐教育の落とし子。
ここは自由主義史観支持の俺がヘッドスライディングで3ゲット!
2年前受けた後遺症がやっと治ったのかな
○楠 ▲楠木
440 :
日本@名無史さん:04/10/09 14:20:12
俺も家系図からみる限り子孫だよ。ちなみに楠木正成の親父(正玄)は興福寺の坊主だったらしい。寺に奉納されてた家系図だから信憑性はあるかも。忌み名以外もちゃんと書いてあるし
>>440 その家系図がいつ書かれたものかとその内容がポイントです。
400年前くらいでも嘘の家系図というのはいくらでもありますから。
残念ながら、それだけで子孫とは言えません。
特に楠さんの場合は、ニセ子孫だらけです。
正成がメジャーである事と直系子孫が絶えている事から
ニセ系図をつくる格好の標的にされた感がありますので。
子孫なら子孫でいいんでは それがハドメとなって悪さしなきゃ
悪さして捕まって、子孫だって分かったら超困るだろ
>>442 楠公八臣の末裔として、その発言は看過できんな。
主君の家系を偽るなど言語道断なり。
巨人の投手にも末裔がいて、みんな期待してるんだよね。
447 :
日本@名無史さん:04/10/28 00:37:03
443は取り合えず逝け
>>447 いや、意味がわからん。
漏れの事なら別に騙ってるわけじゃないぞ。
楠公八臣の末裔で定かな人なんて限られてると思うんで
あんまり詳しく書けないから疑われても仕方ないけどさ。
449 :
日本@名無史さん:04/11/07 07:03:14
末裔の真偽なんてどうでもいいよ。
楠公について語ってくれ。
当時の帝国陸軍が民意先導のため始めた歴史教育は「七生報国」の理念と「大和魂」
の精神を植え付けるため色々な歴史上の人物を利用して行われていたんだな。
織田信長や楠木正成はいいように解釈され、教育に利用されたに過ぎない。
また戦前は徳川家康を題材にした文献は極めて少ない。彼を語ることは
ある意味ご法度だった。なにせ徳川家の最後は賊軍扱いだったからね。
楠木八臣って誰誰だっけ?
いつも一人足らんような気がする‥‥
452 :
日本@名無史さん:04/11/13 07:51:19
>>450 陸軍が国民の教育もやってたんですか?ずいぶん忙しい話ですね。
453 :
日本@名無史さん :04/11/14 04:13:37
糞尿だけで戦っていたイメージが
454 :
日本@名無史さん:04/11/14 21:07:12
糞まくど! 糞まくど!
糞まくさかい風流せい!
窮乏を極めた人間が持っていないもの(失うもの)は、自尊心と礼節の「心」か。
日本というアジアの盟主の過保護の中で、なんの圧政もうけず、粛々と生活が出来ているのに、
北の人間は・・・・・・・、生活レベルだけでなく、人心も荒廃の極みのようだな。
そのうち民意が最高潮に達した時、ここに住めなくなるんだぞ。
今のうちに心を入れ替え、このまま排斥されずに済むように胸に手をあてて一考しろ。
それにしても。身形も言う事も「汚いな」
456 :
日本@名無史さん:04/11/22 04:20:32
非理法権天
457 :
日本@名無史さん:04/12/03 01:04:11
ほほー
458 :
日本@名無史さん:04/12/05 20:52:19
459 :
日本@名無史さん:04/12/12 18:19:31
ほ
460 :
日本@名無史さん:04/12/12 20:14:26
南北朝の実態は
南朝=天皇派
北朝=幕府派
天皇対将軍では勝ち目がないとみた
足利が巧妙に南北の朝廷の対立にすりかえた
461 :
日本@名無史さん:04/12/12 21:11:52
南北朝の実態は
南朝=後醍醐院個人の独裁政権への移行をめざす過激派
北朝=鎌倉時代と同じ幕府と朝廷の連立政権を維持しようとする穏健派
後醍醐院は政治社会では孤立した存在でしかなかった。
南朝が存続できたのは、北朝内部の権力争いで負けそうになったほうが
南朝を味方に引き入れてなんとか勝とうとした結果。
462 :
日本@名無史さん:04/12/12 21:21:07
大河ドラマ化してほしいな。
『楠公記』
バリバリ河内弁の大河とか最高じゃん。
463 :
日本@名無史さん:04/12/15 17:10:46
ほんまかどうかは知らへんが、正成とともに湊川で自害した面々(かも?)。
南江備前守正忠・恵美(和田?)太郎正遠・橋本八郎正員・宇佐美河内守正安・伊藤兵部義和
矢尾(八尾?)新介正春・神宮司(神宮寺?)太郎兵衛正師・和田五郎正隆・江田四郎高次
安西五郎正光・富田七郎正武・河原九郎正次・岡田四郎兵衛友治・三石藤内行隆
菊池七郎武朝・箕浦兵衛朝房
〜太平記秘伝理尽鈔の解説より〜
464 :
日本@名無史さん:04/12/15 22:32:23
>>463 菊池七郎は武朝でなく武吉だと思います。
武朝は征西府で活躍した武将。(武光の孫、武政の子供)
さらに、恵美正遠と和田正遠は別人ですね
466 :
日本@名無史さん:04/12/15 23:07:51
文天祥と楠木正成は「忠義心」が高い評価
を受けているが、どうだろうかな。先見性
には乏しいな。
467 :
日本@名無史さん:04/12/15 23:31:19
たぶん俺の祖先この人だと思う。祖母の家の黒くて古い箱に入ってた紙に橘氏楠家って書いてあったから。あと違う時代のだけど賞典録って書いてあった紙もあった!
469 :
日本@名無史さん:04/12/16 21:25:21
>>466 正成は先見性はあるような気がしますが。
いずれ負けると判っていながら恩義のある後醍醐帝のため、
出陣していくところに魅力があるわけで。
470 :
日本@名無史さん:04/12/17 07:56:43
恩義と先見性は別物だろ。
楠木や名和といった悪党上がりは武家方で相手にしてくれなかったから、必然的に宮方に付いただけ。
471 :
日本@名無史さん:04/12/17 10:01:45
おやおや、赤松を忘れちゃいないかい?
赤松は後醍醐に冷遇された腹いせにあっちについただけだろう
473 :
日本@名無史さん:04/12/17 12:28:55
赤松は武家方で相手にされなかったわけじゃないのだろう?
474 :
求道心:04/12/17 22:36:42
正成の享年は、頼山陽の日本外史で年43歳とあり、一方、寺島良安の和漢三才図会を読むと、35歳となっているが、実際はどうなのかな?
一応正成妻の実家といわれる南江氏って何者?楠木の郎党の苗字は、今でも旧河内国内に、地名として残っているが、自分の記憶では、南江という地名はないと思う。もしかして、一休さんのマブダチの南江宗元は、その一族?
475 :
日本@名無史さん:04/12/18 19:06:57
楠木が河内・和泉に勢力を維持したまま足利氏に下っていたら
赤松程度には処遇されたと思いますけど、尊氏の性格からしても。
赤松が後醍醐から冷遇されたのは大塔宮の一党と思われたからですかね。
後醍醐帝は、本当に政治オンチだと思う。
途中まではうまく行ったんだよね。しかし政治は一人じゃ出来ないってとこが、
辛いとこだね。
477 :
日本@名無史さん:05/01/02 16:49:25
ゴダイゴ
478 :
日本@名無史さん:05/01/02 17:22:29
ミッキー吉野朝廷
479 :
そのまんま東:05/01/25 02:21:13
mwQjL8r60
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480 :
日本@名無史さん:05/01/25 18:12:12
>>470 >楠木や名和といった悪党上がりは武家方で相手にしてくれなかったから、必然的に宮方に付いただけ。
相手にしてくれないってこたぁ無いだろ。帰順すればそれなりに遇せられたはず(赤松がいい例)。
あと何か根本的な勘違いしてるようだが、「悪党」というのは特定の豪族を指す固有名詞ではなくて、
鎌倉幕府に従わない行為をする連中を総称していう形容詞的な言葉。
御家人だろうがそうで無かろうが、武家だろうが社家だろうが、幕府の法令に反した行為をする者はみんな「悪党」。
481 :
日本@名無史さん:05/01/25 21:21:59
楠木も名和も元悪党なら悪党上がりだろうよ
482 :
日本@名無史さん:05/01/26 01:39:16
>481
だから何?
もしかして「悪党上がり」は「由緒正しい武家」からは蔑視されていたとでも言いたいの?
483 :
日本@名無史さん:05/01/30 00:34:31
まぁみんな、太平記秘伝理尽鈔でも読んで、楠木正成の偉大さを再確認しよう。
484 :
日本@名無史さん:05/01/30 01:53:19
>>480、482
誰もそんなこと言っていないのにシャドーボクシングはやめろよ
485 :
日本@名無史さん:05/02/07 00:55:49
楠正儀の奥さんが新田四天王の一人篠塚伊賀守の娘だったという話は
どの程度信憑性がある?
商業的存在だったかどうかもよくわからないが、それだけのセンスがありながらなんで
尊氏に降らなかったんだろうね。
それこそ末代まで祟ってるようなしつこさだし、個人的に足利となんかあったのだろうか?
487 :
日本@名無史さん:05/02/08 15:25:46
>>486 勤王の精神に決まってるだろ。なんでそう矮小化したがるんだ?
488 :
日本@名無史さん:05/02/08 16:49:02
若いころは押し込み強盗もやった近所でも評判のワル
487 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 05/02/08 15:25:46
>>486 勤王の精神に決まってるだろ。なんでそう矮小化したがるんだ?
はあ?馬鹿じゃねえの?
490 :
日本@名無史さん:05/02/08 17:41:59
487のいうとおり!
都合が悪くなったら降参するんじゃ、まるで支那人
491 :
日本史@名無しさん:05/02/08 18:12:16
( ´_ゝ`)
492 :
日本@名無史さん:05/02/08 18:29:09
>>489 愚劣な奴め。
日本の歴史の中で勤王の精神は特別珍しいものでも何でもない。
戦後教育に毒されて、日教組に教わったことを当り前のように思い込んでいるおまえこそ馬鹿の大間抜け野郎。
司馬遼太郎や北方謙三ばっかり読んでないでたまには古典でも読め。
愚劣な奴め。
愚劣な奴め。
愚劣な奴め。
愚劣な奴め。
_、_
( ,_ノ` )y━・~~~
戦後教育を多とする輩は、幕末の志士の中に、先史以来徳川の世があり、鎖国を
やっていたと信じていたのと同じだね。
忠臣蔵の大石内蔵助が赤穂の城を出るとき、父祖以来の城を見るのもこれが終わりだ
なんて台詞がでるときがあるが、何年、赤穂にいたか脚本家は考えたことがあるのか
と疑いたくなる。
495 :
日本@名無史さん:05/02/11 02:36:07
そういうのを愚劣な行為というんだよw
そういうのを愚劣な行為というんだよw
そういうのを愚劣な行為というんだよw
497 :
日本@名無史さん:05/02/16 11:05:14
宇治の平等院を焼いているんですよね、大楠公。
あまり悪くいわれないのは何故?
498 :
日本@名無史さん:05/02/18 17:44:40
499 :
日本@名無史さん:05/02/18 17:51:46
>>497 所詮、摂関家は前時代の遺物と後醍醐天皇が思っていたから
>>498 やっぱり楠ヲタとは会話が成立しないのかな・・・
徳川ラーメン光圀が宣伝してくれたおかげで崇拝されてきただけの
単なる土豪じゃねえか。糞便篭城、容赦ない焼き討ち、やってる事は赤松と同レベル。
501 :
日本@名無史さん:05/02/20 03:46:07
>>500 だから、おまえのいう「同レベル」にもかかわらず、
なんで片一方(赤松)だと非難され、
もう一方(楠)は非難されないのかって話じゃないのか?
「光圀の宣伝」ってだけで説明がつくとでも?
502 :
日本@名無史さん:05/02/20 04:07:24
散所の王、つまり、賤民の王だろう楠は。
503 :
日本@名無史さん:05/02/20 11:45:44
ゴダイゴは人望が薄く、良い味方に恵まれず、楠木如きスジの悪い地方ボスを
頼りにするしかなかった
504 :
日本@名無史さん:05/02/20 12:04:17
太平記は鎮魂の物語。
クソ上司のせいで悲劇に追い込まれた楠木は最大の忠臣、英雄として
描いてやらんと怨霊になる。
赤松は足利政権でいい目見たから、誇張せんでもいい。
正成は太平記の中で怨霊になってましたが?
506 :
日本@名無史さん:05/02/20 18:42:07
>>504 物語で実物よりよく描いてやると怨霊抑止になるなんて聞いたこともない。
それなら御霊社建てるとか位を贈るとかするのが普通じゃネーノ?
507 :
504:05/02/20 21:27:13
ネタだから真剣につっこむな
楠木正成の子孫が一向一揆に参加してたってのは確かなの?
出自の不思議さからして有り得る話だけどさ。
509 :
日本@名無史さん:05/02/23 08:39:06
NHK放送age
武田鉄也演じる「河内のオッサン」的な正成はおそらく戦後の中世史研究が反映されてるのだろうけど、
大河「太平記」放送当時でも戦前までの美化された正成を知ってる人はご老人だろうから、あんましピンと
来なかった人が多数なのでは。雨乞いして小躍りしている正成がファーストインパクトって人も多いはず。
511 :
日本@名無史さん:05/02/23 09:13:00
義教時代に出てくる楠木正光とか、応仁の乱で出てくる楠木正憲とか、コイツラナニモノ
512 :
日本@名無史さん:05/02/23 12:24:33
今の儀・・朕は聞かざりし事とする。
513 :
日本@名無史さん:05/02/23 22:00:31
民衆は正成と天皇を支持した
今日のNHKその時より
514 :
日本@名無史さん:05/02/23 22:02:52
社会主義思想が入る前の
体制に不満をもつ民衆は天皇派になるんだな。
楠木正成しかり、幕末維新しかり。
515 :
日本@名無史さん:05/02/23 22:37:17
悪 党 じ ゃ な い ん で す か ?
正成が軍師的イメージなのは松平アナの世代までか?
次回、新田義貞(既婚)が匂当内侍に告白するその時。
518 :
日本@名無史さん:05/02/23 22:51:04
>>516 軍師?そんな風に思ってる奴一人もいないのでは?
軍師、智将、策士、英雄。
520 :
日本@名無史さん:05/02/24 08:03:36
ローカルネタで恐縮だが、千早赤阪村の「千早」と「赤阪(赤坂)」は共に福岡市の地名。しかも、
いずれの場所にもハローワークがある。
521 :
日本@名無史さん:05/02/24 08:49:23
賢才武略の勇士とはかような人を申すなり
敵も味方も惜しまぬものはなかりけり。
>>520 千早も赤坂も、ある種の謂われ、地形があると付く名前。
岡崎、川口、沼田、田原、吉田、須賀、落合などもその例。
もし地元のを有名にしようと思えば、「お大師さまといえば弘法大師」と
いわれるほどの宣伝をしないと、マイナーで終わる。
523 :
日本@名無史さん:05/02/25 13:38:53
赤坂とつく地名は、赤い鉱石(水銀)が採掘された場所らしい
そ、本題からはずれるが、赤い石だか砂だが、辰砂=酸化水銀。
空海の頃は、水銀は不老長寿関連薬と考えられていたり、魔よけのためとして
建物に塗った。青丹良し奈良の都は...の丹色。代わりに酸化鉄のときもあり、
これはベンガラ。赤土に含まれる。
水銀の鉱脈は、四国山脈、吉野川、紀ノ川の東西の線上にあるとされ、空海が
この近辺にお寺を配したのは、鉱脈を保全するためという人もいる。
神社仏閣は、今の警備会社、監視カメラみたいな面もあるから、そうかなと
思う。
俺の先祖楠木正成とは関係ないはずなのだけど楠神社を建てよった。なんか恥ずかしい
>>神社仏閣は、今の警備会社、監視カメラみたいな面もある
江戸時代、家老任せにしないで、政治をしようとする藩主は、神官、僧侶を密偵
代わりに使っていた。八代将軍吉宗が目安箱を設けたり、お庭番を儲けたのも、
直接世情を把握するため。(官僚機構を通さないということ)
ときどきお寺さんへ行くと、家康に寄進してもらったのを機会に葵の紋をつけて
いるところがあるが、ま、オルグされたのかなと(も)思う。
>>525 建立の時代によっては、いろいろ行く立てが考えられる。
詮索すると、面白い話がみつかるかも知れない。
527 :
日本@名無史さん:05/03/08 16:50:19
528 :
日本@名無史さん:05/03/08 16:52:11
楠氏、楠木氏に信用出来る系図は無い。
実家の近くの堺市美木多地区(かつての和田荘)には、和田氏の子孫がいる。
530 :
日本@名無史さん:2005/03/25(金) 18:19:58
>528
系図とは程度の差はあれ、そうしたもの
531 :
求道心:2005/04/05(火) 21:25:23
ちょっと知ってる人がいればご教授願いたいが・・
江戸後期に活躍した漢学者「松崎慊堂」の日記に、よく楠大受という人物が出てくるが、いったい何者かさっぱりわからない。
その大受の子の元服に際し、慊堂が名付け親となり、「正通」と名づけたとあるが、正通も色々探したがどうも出てこない。甲斐荘氏の一族が楠氏に帰姓したんかな?
532 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 00:46:59
楠木姓の人間なんて結構いたんじゃないの?
>>530 その「程度の差」が大問題なんだが。
「程度の差」ですべての問題が吸収できるならば、すべての系図が本物だよ。
甲斐荘氏ってのも、名家コレクションの趣味があった徳川家康が
楠木の血(女系だが)を引くと主張する者を取り立てただけで、本当に
楠木の子孫がどうかは怪しい。
だいたい、子孫というのは普通は男系。
楠木氏の場合は、それが見当たらなかったから、女系の子孫といわれる
甲斐荘氏を立てた。
当時も楠木氏の子孫を自称する者は、電波系も含めて多数いただろう。
その中では、家康から見て一番マシに見えたのが甲斐荘氏とも言える。
言いたかないですけど在日さん(元・在日)は
滅びた大名や過去の名家の苗字を自称することが
多々ありますよ。
誰も証拠を持ってない、どこにも確たる子孫がいない。
イコール、誰も成りすましだと気がつかない上に、敬意も集められる。
という理由で。そういう捏造「一族会」も。
536 :
日本@名無史さん:2005/04/27(水) 12:08:04
537 :
日本@名無史さん:2005/04/28(木) 02:22:29
悪党でも英雄でもかまわねえが、千代田の御城の前の銅像は余計だ。
大阪に突き返せ。ついでに上野の西郷も鹿児島に。
やっぱ江戸城前に鎮座すべきは家康公、少なくとも平将門。
江戸城ではない、皇居だ
よって将門も家康も相応しくない
相応しいのは・・・・
マッカーサー元帥でつよ
539 :
日本@名無史さん:2005/04/28(木) 02:47:49
真の皇居は京都御所だ。大体、ミカドが京に居ないのはおかしい。
540 :
日本@名無史さん:2005/04/28(木) 20:31:03
遷都したから東京の旧江戸城、現皇居でよい。
541 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:56:15
無駄だよ
542 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 23:43:26
土地の無駄ってこと?
543 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 23:48:16
由比正雪の軍学上の師匠の楠木不伝(楠木正辰)も、楠木正成の子孫と称していた。
544 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 23:53:50
>>540 遷都はしてないですよ。江戸行幸のまま滞在しているだけ。
だから「遷都」ではなく「奠都」といわれています。
また皇室所在地は、高御座の置かれているところで、ここが天皇の本宅になります。
現在、高御座は、京都御所にあり、今上天皇の即位の時に京都から運び、京都に戻しています。
したがって、皇居は京都御所であり、東京の所謂「皇居」は、東京行宮となります。
545 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 01:20:52
明治天皇はもちろん大正天皇も昭和天皇も践祚や皇霊殿・神殿奉告の儀
剣璽等承継の儀、朝見の儀は皇居でやっても即位の礼だけは京都御所で行い、即位してきた。
桓武天皇が平安遷都して以来1200年、天皇は京都から生まれてきた。
しかし、今上の代に至りついに東京で即位された。
此処に至って京都はついに旧都に転じたといわざるおえないだろう。
飛鳥や奈良と同じく、「かつて天皇が居られた、即位されてきた場所だけど今は関係のない場所」となった、
というわけだ。
1200年間、ありがとう京都。おつかれさま京都。
次の1000年は東京が受けもとう。
546 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 00:37:22
なるへそ
547 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 23:51:49
つーかスレ違い
さっさと京都に帰れよ
君主面しやがって
549 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 06:52:39
いらねえよ。そっちで面倒見てくれ。
550 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 10:51:00
さっさと半島に帰れよ
日本人面しやがって
551 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 13:35:05
楠木正成は忠臣ということでいいよ。
この人がもう少し知名度高かったら
初対面の人に俺の名前も正しく読んでもらえるのになぁ
553 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 04:09:43
山本集の「浪商のヤマモトじゃ!」読んでて、
もしかしたら楠公って、この本に出て来る和島って人みたいだったんじゃないかと思えた。
少なくとも北方謙三の「楠木正成」よりかは、楠公の面影が見えた気がした。
554 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 17:28:39
555 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 20:22:47
楠木正成って戦時中はかなり評価されてたから今の天皇家は南朝家の血筋なのだろうか?
>>555 バカな釣り乙。
ま、夏休みだから仕方ないが。
557 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 18:05:39
>>554 早い話が仁侠の大親分。
喧嘩上手で、義理人情に熱くて、子分の面倒見もよく、全てにおいて筋をきっちり通す人物。
558 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 18:19:20
|
| ↑
└―┘
560 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 00:50:12
561 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 18:36:52
楠氏、楠木氏に信用出来る系図は無い。
562 :
求道心:2005/10/08(土) 00:01:00
先日、車で移動中に、大阪の門真市に「岸和田」という地名があった。もしかして、岸和田治氏の支配地だったのかな〜と思いを馳せ、家に戻り、ネットで色々探すも、手掛かりなし。
門真市の歴史に詳しい人、実際はどうなのか教えてください。
563 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 02:59:52
こいつチンギス・ハーンになって、頑張ったよな
564 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 03:53:50
出自は名族橘氏の末裔です
565 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 14:10:50
新スレ立てようと思ったけどこっちで。ちょっと楠木に限定した話じゃないからスレちがいかもしれんが。
「悪党」について調べてたんだよ。んでモレの理解としては
・中世には地域の自律的集団がいて,彼らが地域的な秩序を形成していた。
・元寇という対外的な圧力によって東アジア諸国家が中央集権化を開始。
・結果として幕府と自律的集団が対立し,彼らは幕府から「悪党」というレッテルを貼られる。
て感じだったんだよね。こまかいところは省略してるけど。
で,これに関してある人から
・「悪」には「強い」というニュアンス(悪源太とか)もあるから,「悪党というレッテル貼り」というマイナスイメージ
の強い表現はよくない。
って言われたんだよ。(国語大辞典で調べたら確かにそういう意味があった)
確かに元々は「悪の集団」じゃないから彼らが悪者じゃないのはわかってるんだけど,幕府(朝廷)から見れば
不法集団,命令に従わない集団であって「レッテル貼り」でいいんじゃないかと思うんだけど,どう思う?
その人には「レッテル貼り」の表現が良くないと理解できる文献を教えてくれって頼んでも,「文献の問題じゃない」っていうし。
「悪」という文字の説明と,「悪党」という歴史用語の説明をごちゃまぜにしてよいのかが激しく疑問なんだよね。
教えてエロい使徒
566 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 17:42:13
楠木正成は実は忍者だったという説が濃厚だよね
567 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 17:47:04
忍者・・・
568 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 12:08:17
楠木正成って商人系じゃなかたけ?
569 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 12:45:44
正成の親は土地を開墾してそこに市場を開いた人(よするに悪党)だから正成も商人系だね
570 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 02:01:28
571 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 01:28:58
あげ
572 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 15:16:32
楠木正成の使用していた刀の銘柄などをご存知の方はいますか?
573 :
;:2005/12/24(土) 18:17:57
574 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 08:48:57
>>566 うんうん、狭山衆を飼っていたという話はあるが・・・
575 :
甲斐犬:2005/12/29(木) 09:23:31
1,武士とは、基本的に、「暴力による土地利権の支配者」である。故に
新興武士ほどヤクザ的体質が強くなる。老舗は貴族的体質になりやすい。
2,一粒の種籾は、半年で100倍以上の米になる。農業とは、本来、ハイリスク
ハイリターンな投機的職業なのである。さらに、貨幣経済の浸透により
市場の変動という不安定要素が加わると、貧富の差、勝ち組・負け組の差
があざやかになる。
576 :
甲斐犬:2005/12/29(木) 09:31:31
多くの御家人が、貨幣経済の負け組になった時代に、
足利・新田は老舗の勝ち組だな。
楠木は、新興勢力の勝ち組。新興勢力であるから、旧来の勢力から見れば
悪党に見えただろう。そして、新興勢力だから、新種の利権を持っている。
また、戦法にも形式や伝統から自由だったのだろう。
皇室好きも、新興勢力故のブランド好き、という側面があると思う。
577 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:09:14
2chって逆賊高氏信者のファンクラブかなんかかい?
逆賊側の梅松論でさえ大楠公を讃えざるをえなかった。
そんな大楠公が貴様ら逆賊高氏信者の書くような人間だったはずないだろ。
578 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 15:59:28
逆賊高氏信者のファンクラブって日本語はおかしい。
逆賊高氏のファンクラブとするのが妥当だろう。
主張としては正しいのだが。
579 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 17:08:48
>>577 名誉ある鎌倉武士に
うんこぶっ掛けるような奴が、お前の頭の中にあるような
立派な人間のわけないだろ。
580 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 20:13:02
勤皇大楠公はその御大便も勤皇なのです。
ブサヨクの分際でその尊い御大便をかけていただいた鎌倉武士は幸せでしょう。
581 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 21:23:05
現皇室の御先祖を簒奪者と弾劾する逆族の楠木某とかいう犯罪者が忠臣であるはずがない。
ましてやそれを讃える輩は反日ブサヨ以外何者でもない。
582 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 21:26:55
はぁ?
お前らほんと大日本史読んでこいよ。
583 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 21:49:56
アナル光圀が書かせた反日プロパカンダブサヨ偽書か(W
あんなの読むこと自体が反日ブサヨの揺るがぬ証拠(WW
>>582 徳川家のご先祖である得川と、その本家の新田が、
南朝のために大活躍したという観点から、
どうしても南朝を正当化せざるを得なかっただけじゃないか。
そんな、色眼鏡付きの歴史書を参考にしても無意味だろ。
585 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 21:38:20
そんならもっと新田義貞マンセーしてるだろーが。
大楠公が偉すぎたんだよ
586 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 22:02:42
光圀は犬喰いのチョンだからな(w
587 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 07:37:47
そういえばアナルはチョンの学者をそばに置いてマンセー話をいつも聞いていたそうだし
588 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 18:22:12
逆賊アナルは逆賊をたたえた
589 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 06:50:08
楠木好きはチョンばかり
590 :
;:2006/01/13(金) 11:44:17
楠はチョンではないが。同和ではある。
その昔、大河ドラマで武田鉄矢が演じていたよな・・・。
その時はべつにふ〜んって感じだったけど、このスレの住人達
にとってはどうだったの?
592 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 12:24:58
593 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 08:49:29
楠公はチョンじゃねぇ。。。
てめぇらよりかよっぽど強い男だ。。。
高校の時に子孫だと言ってた同級生がいたけどチョンでも同和でもなかったよ。
神格化しててちょい鼻に付いたけど。
595 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 18:51:12
楠木がチョンなのではなくて楠木好きがチョンだという話
596 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 17:18:43
>>596 本物だとしても直接の子孫とかじゃなくて正成の従兄弟のはとこぐらいの子孫て話だった。
上見ると、それもどうだかわからない感じなんだな。
598 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 15:37:55
東北地方に戦国時代初期まで南朝の残党がいて、そのなかに「新田民部」ってのと「楠木」氏がいたらしいけど誰か詳しいこと知ってますか?
599 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 17:45:18
南朝御後胤で新田某(忘れただけ)というのが南部氏の庇護下今の青森県にいた。
ただし、読みは「にいだ」だったような気がする。
幕府とよしみを通じて官位を貰ったことに怒った蠣崎某(後の松前氏)が湖に舟で誘い出して突き落として溺死させて滅亡した。
600 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 16:15:23
>599 ありがとうございます。
601 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 17:52:14
子孫の楠木正虎のほうが最強
楠木正虎は、ニセ子孫の可能性大です。
系図もありますが、後から作られたものでしょう。
603 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 18:49:00
604 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 22:11:30
明治維新でなぜ楠マサシゲが重宝されたのか。
太平記よみが尊皇思想を吹聴して回ったから、
太平記で最大のヒーローであるマサシゲが尊崇されたんじゃね?
606 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 07:12:15
>>604 アナルが「忠臣の鏡」として持ち上げてから一般的には広がったといわれている
明治政府の場合は南北朝正閏論の後。日清日露戦争もあり、国民に具体的な「忠臣」の例として洗脳教育の格好の教材だったんだよ。
607 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 01:13:58
>>603 戦国時代に、松永久秀や織田信長に右筆として仕えた人。朝廷に正成が朝敵であるというのを撤回
するように働きかけて成功させています。この人の倅(と言われているのが)由比正雪の師匠・楠木不伝。
ただ、信憑性は余り高くないですな。
そういえば、野口雨情は楠木正季の末裔らしいな。一応テレビで系図も出ていた
608 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 02:43:15
明治政府が新田菊地名和を華族に列したとき
正成の子孫も探してるからやっぱり野口氏は
偽子孫と判定されたんだろうね
609 :
求道心:2006/03/11(土) 11:42:31
信長軍が一度敗退した、伊勢の楠木正具って誰の系統だろう?正行の孫に楠城主の楠木正倶という人はいたようだが、年代的に全く合わない。知ってる人教えてほしい。
室町後期から戦国時代にかけて、武士の間で「太平記」が多く読まれるようになり、人気を博したため、
楠木正成の人気・崇拝の念が高まった。そこで自分は正成の子孫であると自称する者が続々と現れてきた。
その一人で、最も自己演出が巧みだった人物が楠木正虎だった。
正虎は河内国大饗(おあい)の出身で、文化的教養があったため、天文十五年(1546)に上洛して時の将軍、足利義輝に仕えたという。
その頃、正虎は大和国の信貴山多聞天に参り、自筆の願文を捧げたが、
その書に「我こそは、楠木正成朝臣十一代の嫡系、大饗左衛門正虎」と署名して、武運長久の祈願をし、自分が楠木家系の後裔であると宣言した。
たまたまこの頃、大和信貴山を本拠に勢力を伸ばしていた松永久秀に近づき、彼を介して正虎は宮中に入り込み、正親町天皇やその親王に筆跡を授けている。
この時、楠木正成はまだ朝敵の汚名を着たままだったが、正虎はその名誉回復を申し出て、天皇から朝敵恩免の綸旨をもらうことに成功している。
さらに自分も正成の子孫として、河内守の地位につくことができた。
正虎はその後も政界をうまく飛び回り、織田信長の右筆になり、さらに豊臣秀吉の右筆にもなって、多くの文書記録を残して七十七歳で亡くなっている。
この正虎についてだが、血縁的には彼が正成の子孫であるという確証は少ない。
正虎はたまたま自分が正成と同じ河内国の出身であることに着目して、正成が英雄視されている時流を見て、
楠木の家系を最大限に利用して政界での自分の地位を確保したと見ることができる。
こうして見ると、正虎という人物は楠木の名を騙るペテン師のようにも見えてしまうが、彼の尽力のお陰で、それまで朝敵とされていた楠木正成と
その一族も赦免されたのであるから、彼が果たした歴史的意義は大きいと言える。
>>610 >この正虎についてだが、血縁的には彼が正成の子孫であるという確証は少ない。
子孫でない確証はあるの?
子孫である確証が無い限り、ニセ子孫。
徳川幕府が楠木氏の子孫として認めたのは甲斐荘氏のみ。
なぜ、楠木正虎の系統は子孫として認められなかったのか考えてみなさい。
正虎は、大饗(おあい)氏であり、楠木氏ではないとみなされたからだろう。
613 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 21:49:34
あげ
蚊帳の中から片足出して
615 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 23:40:00
楠木正儀の子孫っていないの?
北朝に帰順したんだから、いてもよさそうなのに。
616 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 23:55:13
>>615 結局また南朝に帰って来てるからなあ。ちなみに子孫と思しき
楠木姓の人物がたびたび将軍暗殺未遂やらで名が出てくる。
合一後も抵抗してた模様
617 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 22:45:37
小倉宮も応仁の乱の頃まで亡霊のように出てくるね。
あと嘉吉の乱のときには足利直冬の孫とかいうのも出てきたような。
618 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 00:05:37
筑波山神社に楠木正親のお墓があるけど
どういう素性の人物だろう?
619 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 22:43:05
悪党だと思う。
620 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 21:15:57
結局は高氏(尊氏)と新田と楠木のお陰で鎌倉幕府が倒され、室町幕府になったわけだし。しかし、楠木さんも朝廷に最後まで忠臣をしなくても良かったのに。一緒に高氏と腐り始めた朝廷に挑めば最も強い室町幕府が出来たはず。
621 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 21:19:25
そういえば、八田城主の楠木正具は楠木正成の子孫らしいがどうなの?とりあえず楠木流兵法とやらで信長をくるしめたらしいが
622 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 23:16:11
常陸国瓜連城の楠木氏はどうなったの?
623 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 23:50:45
嗚呼、天は何故この忠誠無比なる人物にこのような苦難を授けられるのか!
逆賊ばかりの世の中では忠の道を歩むことはつらい。
俺も君の怒りとそれによる苦しみはよく理解できる。
しかし、君は休んでばかりいられるのだろうか!?
いや、そうではないはずだ。君の気持ち、君の辛さは痛いほどわかる。
だが、俺は君の立場を否認する必要がある。
なぜなら、逆賊高氏の存在を許してしまった我々一人が逆賊だからである。
我々は決して休むことを許された存在ではないのだ。
逆賊である我々は、つねに懺悔せねばならないのだ。
力乏しく逆賊高氏に敗れ去った吉野時代のことを君はどう思っているのか!
君もいま力乏しく逆賊高氏の時空を超越した逆賊エネルギーに敗れつつあるのだ!
君の気持ちは痛いほどよくわかる。だが俺は君を許さない。涙をもって、こういう他無い。君は逆賊だ!
つらければ大楠公のことを想え。君がここで倒れては大楠公の御遺志を無駄にしてしまうことになるぞ。
大楠公万歳!万歳!万歳!
>620
たぶん何かの小説かドラマの影響なんだろうけど、
何を以て「腐り始めた朝廷」と言うのかな?
そもそも権力には腐敗は付き物。
別に朝廷「だけ」が腐っていたわけじゃあるまいに。
625 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 17:35:44
後醍醐天皇「ス…超天皇てのは…うっ…ゴホッ」
義良親王「それいじょうしゃべられますな!死を早めるだけでござりますぞ!」
後醍醐天皇「よ…よ…よくきけ義良……
建武の中興がと…頓挫したのは………朕の政治に…問題があったせいなどでは
な…なかったのじゃ………
ぎゃ…逆賊高氏が裏切りやがったのじゃ……!
ち…朕はあやつの実力を高くかって参議にまで就けたというのに…」
逆賊高氏「皇位を奪ったのにしぶといね。話はまだ続くわけ?」
後醍醐天皇「た…たのむ…逆賊高氏を…逆賊高氏をたおしてくれ………た…のむ。南帝の…手……で………」
逆賊高氏「やっとくたばったか…じゃあ恐怖のショーを再開しようか。」
義良親王「父上が泣かれるなんて…父上が私にたのまれるなんて…
よっぽどおくやしかったのでしょう………わかってますぞ…建武の中興が失敗に終わったのが
おくやしいのではございませぬのでしょう…?
逆賊高氏にいいように利用されなさったのがくやしくて仕方がないのでございましょう…?
父上の政治は頓挫してしまったけれど、民への熱い思いは持っておられた…
私にもすこし分けていただきますぞ その思いを…
おめえに追われた父上のためにも そしておめえに殺された尊き血潮のためにも
おめえをぶったおす!」
↑
街中にて、大音量危地外カーに乗ってるお人
627 :
\__________/:2006/05/14(日) 23:48:24
∨
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ ←逆賊高氏信者
( 人_____,,)
|ミ/ ー◎-◎-)
(6 (_ _) ) カタカタカタ
| ∴ ノ 3 .ノ ______
ヽ、,, __,ノ | | ̄ ̄\ \
/ \.____| | | ̄ ̄|
/ \___ | | |__|
| \ |つ |__|__/ /
/  ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
628 :
\__________/:2006/05/15(月) 00:40:57
∨
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ ←得宗裏切り楠木信者
( 人_____,,)
|ミ/ ー◎-◎-)
(6 (_ _) ) カタカタカタ
| ∴ ノ 3 .ノ ______
ヽ、,, __,ノ | | ̄ ̄\ \
/ \.____| | | ̄ ̄|
/ \___ | | |__|
| \ |つ |__|__/ /
/  ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
629 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 00:21:32
証拠とかの話になると必ず611みたいなバカが出てくるなぁw
亀であげるなクズ
631 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 13:24:31
お前に言われる筋合いはないよw
632 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 18:33:02
常陸国瓜連城の楠木正家?は正成の甥で正成の代官として派遣されていた。
しかし一代で北朝の高氏に滅ぼされた。
>>631 まだ懲りないのかクズ
内容のないレスしてあげるなってことよ
他スレの迷惑だろが
634 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 01:17:43
>>624をと言われますと腐った北条高時(鎌倉幕府)を倒したのはいいが、朝廷が前よりも重く課税し、民の生活が変わることなく、逆に苦しくなっていったと言うことから、腐ったと言うよりは良くならないと言うべきだったのでしょう
635 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 01:22:48
いずれは幕府が腐り、そこに倒幕し新たな幕府を立てようとするやつがでて来ると、この場合は楠木正成が鎌倉幕府相手に戦いそれを良く思わない高氏が裏切り倒幕をした。
その時に正成は朝廷をそこまで忠誠しなくてもよかったのではないかとおもったのです
636 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 09:31:08
楠木正成を自殺に追い込んだ大森彦七って武将は実在するの?
637 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 11:03:20
楠木は今風に言うと極右だろ、ただの電波
638 :
\__________/:2006/05/22(月) 13:51:48
∨
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ ←逆賊高氏信者
( 人_____,,)
|ミ/ ー◎-◎-)
(6 (_ _) ) カタカタカタ
| ∴ ノ 3 .ノ ______
ヽ、,, __,ノ | | ̄ ̄\ \
/ \.____| | | ̄ ̄|
/ \___ | | |__|
| \ |つ |__|__/ /
/  ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
639 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 23:46:42
>>637 正成はしっかり情勢判断ができてるだろう。
義貞はちょっと単純一途的なきらいがあるが。
640 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 23:53:36
もしこの辺に楠と謂へる武士やある
河内国、金剛山の西にこそ
641 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:02:41
正成は護良派だったから護良失脚後、正成も失脚して河内に逼塞していたんだよな
642 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:20:54
赤松も護良派だった。
643 :
618:2006/06/10(土) 23:03:21
> 筑波山神社に楠木正親のお墓があるけど
> どういう素性の人物だろう?
ごめんなさい^^;
確認したら、楠正勝公のお墓でした。
644 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 23:12:28
ウチの近く(東淀川区)にも正勝さんのお墓あるよ
645 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 23:19:11
十津川にもありますね
新潟にもある。鹿児島にもある。
とりあえず、ざーと流してみたが、
楠木正遠の父はまだ橘姓だったよね。
記憶が正しければ正遠から楠木姓を
名乗り始めたということだから、鎌倉期の楠木氏とは
関係が無いような気がしないではない。まあ適当だが。
とりあえず、菊水紋で楠木姓の家系は、信憑性少ないだろう。
たしか菊水紋はお前ら使うなよ的な事言ってたはずだから。
自称子孫っていっぱいいるんだね。
親から神社やってる本家の家紋が菊水だと聞いて、このスレ覗いたけど・・
関係無いなこりゃ。
650 :
求道心:2006/06/11(日) 19:36:42
>>650 ごめん、初めて聞いたし神社詳しく無いからわからない。
群馬の館林にあるって言ってたけど。
652 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 20:26:30
大南光は不滅です
653 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 01:43:14
>>641 正成って護良派だったの?
正季ではなく?
>>647 橘正遠(平安時代の人物)を楠氏に結びつけるのは、後世のドキュソ説(通字に引っ張られた)。
655 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 19:48:14
正成「よ…よ…よくききなされ尊氏どの……
わしや…そなたの…や…建武中興での…立場が…ひ…低かったのは…
鎌倉倒幕の働きが悪かったせいなどでは… な…なかったのじゃ……」
尊治「湊川へ追いやったのにしぶといのう。話はまだ続くのかの?」
正成「み…帝が裏切られたのじゃ……!
わ…わしら臣下は…帝の手となり足となり…命令どおりに働き申したと言うのに…」
尊氏「………!」
正成「わ…わしら以外は…全員…切り捨てられた……
新田義貞どのも、帝のお子である護良親王も…
帝は…力を付け始めたわしらもののふのなかから…棟梁が生まれるのを恐れたのじゃ…
尊治「ふっ…よくいうわい…」
正成「た…たのむ…帝を…帝をたおしてくだされ………た…のむ…
も…もののふの…手……で………」
尊治「やっとくたばっりおったか…じゃあ綸旨書きを再開しようかの。」
尊氏「そなたが泣かれるなんて…そなたがわしにたのまれるなんて…
よっぽどくやしかったであろうな………わかっておるぞ…帝に恩賞を賜れなかったのが
くやしいのではなかろう…?
帝にいいように利用され申したのがくやしゅうてぜひもないのであろう…?
そなたとは敵対はしておったが、さむらいの誇りは持っておられた…
わしにもすこし分けてもらうぞその誇りを…
帝に殺され申した正成のためにも そして先日亡くなられた護良親王のためにも
帝を成敗申す!」
656 :
日本@名無史さん:2006/07/16(日) 01:03:52
逆賊高氏信者死ね
657 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 01:30:35
太平記だかで、出陣に当たり暇乞いに訪れた楠木正行に対し
「なにやってんだ、さっさと戦え」的な罵倒をした公家って、
北畠親房だったよな?
658 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 17:44:47
逆賊高氏
659 :
日本@名無史さん:2006/08/14(月) 08:57:35
昔、如意輪寺の後醍醐天皇陵で写真を撮ったら、心霊写真らしきものが撮れてしま
いました。そのまま机の中に放置してあったのですが、昨日、霊感が強い友人らに
酒飲みがてらに見てもらったら、自分が気にしてたところと全然違うところを指して、
「豪快に口を開けて笑っている武士みたいな人が写っているよ」、「このお墓の人の
家臣?みたい」、「あ、ザンギリ頭になった!」と。。その方は竹を割ったような
サバサバした性格の方で、「ぜんぶ俺にまかしとけ」と言っておられるそうです。
そして、「忠臣蔵の大石内蔵助みたいな人だね」とも。気にしていた方は、邪悪
な顔をしているのですぐにお焚きあげに出さなければいけないのですが。
帰ってきてから気になって徹夜でググッて、このスレや如意輪寺に関するHPを見て
いたのですが、結構ビンゴな感じでワクワクしてしまいました。ただ、考えても「ザン
ギリ頭になった方も一人ではなさそうだし、もともとザンギリ頭だったのかもしれないし…
、忠臣は沢山おられるしなぁ…で、かなり頭が混乱してしまいました。
友人とはバイバイしましたが、掛かったような時は何を自分が喋ったか、全然覚えて
いないし、南北朝時代に詳しいわけではないので、誰だかはわからないです。
ザンギリ頭さんも、「こまかい事はいいじゃないか。」といっておられたそうなので
、こんな事を特定するのも嫌がられるかもしれないのですが…。この時代に詳しい
みなさんなら、こんな性格の方ならあの人かも…、などの意見が聞けるかもしれない、
と思い、カキコしました。
スレチもいいところかも。。ですが、どうでもよければスルーで。もしご意見のある
方がいらっしゃったら、ぜひお聞かせ下さい。
660 :
日本@名無史さん:2006/08/14(月) 23:39:01
それは偽帝吉野廃帝を山奥に追い払い、真の皇統をお守りした大忠臣足利尊氏公に間違いない
661 :
659:2006/08/15(火) 08:29:51
〈(660 それはないっしょw なんとなく、楠木正成様か、楠木正行様かなぁ、と思えてきた。
佐々木道誉か、高師直みたいな性格の奴ではないか。
663 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 12:10:03
戦争責任は人類すべての人間にあるのです
野生の動物の世界は弱肉強食の悪法がはびこり、戦争状態である。たとえ、
百獣の王ライオンであっても、その子はハイエナに食われる。人間の世界も物
欲によって争闘し、最後には殺し合いとなる。これは人間の欲望に限りがない
からであり、ぜいたくを享楽しているためである。肉食は食欲のぜいたくの極
みであり、これを得るためには家畜を殺し、弱者を犠牲にしなければならない。
動物を殺すことは人間を殺すことと同じである。これでは、人間の霊性は獣と
何ら変わることがなく、自分の子供がハイエナに食われても文句が言えない。
人間の横暴によってすべての生物が地獄の苦しみにあえいでいる。先の大戦
の犠牲者はこうした人間の行為の償いであり、神からの啓示である。だから、
戦争責任は人間が自らの行為を反省することなく、物欲を発揮してぜいたくを
むさぼっている、人間一人一人にあるのです。
偽科学が常識を盲信させる
非ユダヤ人において、科学の盲目的信仰が功を奏しているようである。学校
の教科書で教えられる事がすべて正しいと信じる。こういった人々にとっては
権威ある学会が言うことのみが正しく絶対なのである。
ユダヤ議定書(第2議定書)
非ユダヤ人は歴史を基礎とする観察を怠り、専ら理論上の旧弊に囚われて、
その結果に対する批判的工作を忘却している。我々は新聞雑誌を利用してこの
科学理論を盲目的に信用させる。非ユダヤ人の知識階級は自己の知識を誇りと
して、科学から得た知識でものを考えようとする。その知識を論理的に吟味も
せず、その知識なるものが、人間を我々の目的の実現に向けて、教育するため
に作られた事に気がつかないのである。悪魔の世界制覇に向けて。我々の主張
を根拠なきものと思ってはいけない。我々の仕組んだところのダーウィン、マ
ルクスの教説の成功に注意なさるがよろしい。これらの教説は非ユダヤ人の心
に破壊的作用を及ぼした。ダーウィンの進化論は常識となっている。チンパン
ジーは何時になったら人間となるのか。急には進化できないから、その中間の
形態のものが存在しなくてはならない。
664 :
日本@名無史さん :2006/09/01(金) 15:46:21
正成と円心って、つながりあったの?
何かで書いてあったの見た事あるんやけど。
665 :
日本@名無史さん:2006/09/01(金) 19:46:01
護良親王繋がり
666 :
日本@名無史さん:2006/09/04(月) 21:50:23
賢才武略の勇士様、敵も味方もその最後を惜しまぬ者はいなかった。って文章いいね
667 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 18:02:07
楠木正雪
668 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 17:24:21
ファチマ第3の予言
貴方たちは、私の忠告を妄想だと言って無視したり、自分の知識を誇って、
無知だとあざ笑って、自尊心を満足させましたね。それで、改心の機会を失い
ました。
麻原の死刑が確定したように、貴方たちの死刑も確定しました。原爆の超高
熱で焼かれるのです。どこへ逃げても、天変地異によって、マグマと津波の生
けにえになる。たとえ、あの世へ逃げても、地獄の極熱の業火で、魂まで焼き
尽くされる。悪業の報いを受けるのである。そうしなければ、犠牲になった動
物たちの魂(怨霊となった)を救えないし、宇宙が破滅する。
聖母マリア像が血の涙を流している。神が貴方たちを哀れんで、救えない苦
しみの血涙を流しているのです。
神の臣民である日本人を救うために日月神示がこの地に下ろされた。キりス
トは偽の救世主であり、人類の罪をあがなう役割は日本人に委ねられたのであ
る。みのおわりの美濃、日本のへそ岐阜県に救世主がいるのです。昔から美濃
を制する者は天下を制すると言われ、壬申の乱で大海人皇子が勝利したのは美
濃の豪族が味方したからであり、足利尊氏が天下を取れたのは土岐源氏の桔梗
衆のお陰であり、信長が天下を取れたのも最強の軍団美濃衆のお陰である。
岐阜県の裏金問題はどこの官庁でもやっている事であり、元職員が良心の呵
責に責められて暴露したのです。よその官庁は隠蔽された。悪は岐阜県から清
められて行くのです。
669 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 19:10:25
楠木は今風に言うと極右だろ、ただの電波
670 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 03:21:15
671 :
求道心:2006/09/30(土) 17:56:20
大阪狭山市あたりの忍者衆。
後光明天皇が火葬から土葬を希望したとき、幕府に逃げ腰の公家たちに強く天皇の本願をかなえるべく、嘆願した江戸初期の天皇家御用達魚屋八兵衛も狭山衆出身又は部下に狭山衆を使っていたとの話がある。
後北条氏が今の大阪狭山市に封じられたのも、狭山衆を抑える目的との話を聞いたことがある。
672 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 13:08:47
673 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 06:58:55
レスがないけど、忍者スレできいた方がいいかも知れないね。
674 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 01:48:12
10数万の坂東武者相手にたった500人で耐えたのがすごいな。(結果的には高氏のおかげみたいになったけど)
日本歴史上最大の戦だよ。違う意味で。
675 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 22:33:34
おれのひいおじいちゃんは河内の生まれで楠木氏の子孫ということで
東京に行きそこで右翼となり田中かくえいに仕事を与えていたらしい。
だからじいちゃんが小さい頃よく軍のえらいさんが出入りしてたってゆうてた。
そんなわけで楠木正成をおれも尊敬してます
676 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 15:58:32
北方謙三の本、メチャ面白いな
677 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 16:24:23
北方なら破軍の星のがオモロイ
678 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 16:39:49
北方の「楠木正成」、楠木兄弟の最期まで書いてほしいな。
しかし公家どもが腹立つな。千種忠顕氏ね
つーか 北方の本を読んでる時点であれなんだが・・・
あいつ ろくに取材もしないで書いてるだろうなって思うわ。
直ぐに謎の山の民とか出てくるし。
680 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 00:21:12
明治の間違った歴史観のため、楠木の評価が出来なくなった。
歴史観を正すにはまた日数がいる
小説には小説の読み方がある。細かいことほじって史実と違う、
なんてことを小説に対して逝ってる奴は知ったかぶりのドキュン。
北方太平記は面白いの多いけど「楠木正成」はつまんなかった。
>小説には小説の読み方がある。細かいことほじって史実と違う、
>なんてことを小説に対して逝ってる奴は知ったかぶりのドキュン。
お前のがDQNだぞ。
司馬にしろ津本にしろ一流どころは、過去の歴史を調べてから書いている。
それが当たり前。
史実と小説は違うにしても、ベースとして史実を知っているのと知らないのとでは
小説の出来が違う。
具体的に言うと、深さがあるかないか。
北方は表面だけで奥行き・深さが無く、所詮はハードボイルド作家だと思う。
683 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 16:55:11
水戸のご老公は
楠木正成を「大楠公」と呼び尊敬していました。
(参考資料、初代東野水戸黄門、箱根越えの回)
684 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 17:48:39
ドラマを参考資料に出す痛さが失笑を買うな
湊川に光國が建てた碑文があるだろ
685 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 18:26:29
史実を知っていても、史実を書くとは限らないのが小説。
686 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:54:12
正成の直系子孫の家の娘が漫画家の楠本まきだって噂だけど本当かね
>正成の直系子孫の家の娘が漫画家の楠本まきだって噂だけど本当かね
嘘。
直系子孫は断絶したから。
女系の子孫が徳川幕府から認められた唯一の楠木家子孫となっている。
それは甲斐荘氏。
甲斐荘は河内国、今の大阪府河内長野市の荘園の名前です。
甲斐荘氏は徳川の旗本になり、出身地の河内国錦部郡に領地を与えられました。
最終的には禄高4000国の旗本としては大身となりました。
「楠本まき」が甲斐荘氏の一族ならば、子孫と言えるかも知れんがそういうソースは無いだろ?
4000石の間違いです スイマセン。
>>687 dクス
721 :本当にあった怖い名無し :2006/08/03(木) 12:07:12 ID:fWHAwVYH0
母方の祖母が武家の出(祖父は公家)なんだけど。
戦後の食い物難で、同じ苗字の家に先祖代々の家系図を売ったんだと……。
古びた家系図持ってる奴でも信用できんな。
ちなみに父方は五代前まで商人と農民らしいんだけど、楠正成の子孫が本家だった。
どういう繋がり方してるかは知らん。
小さい頃何度か屋敷に行ったが、すごい場所だった…。
山奥だわデカいわ古いわ。
漫画家の楠本まきが直系(本家)系列の子。
祖母様(血のつながりナシ)がサインもろてた。
ジャンプ読者だったからスルーしたのを今、悔やんでいる。
っての読んだんで、どうなのかなと思って
確かに彼女の実家はものすごい家だし、子孫はみんな頭いいんだよね
おじいさまは地元でお殿様と呼ばれてたらしい。
>>689 勝手に楠木正成の子孫を名乗ってるだけだろう。
一杯いるよ、そんなの。
楠木正成がメジャーな上に、直系子孫が滅んだのでニセ系図作るときの
格好のターゲットにされたから。
北朝に追い立てられて、正成の子孫は族滅するまで各地で戦ったから
逆にどこにでも正成の子孫がいてもおかしくないと妙な解釈する奴が
出てもう滅茶苦茶だから。
一応、男子系の子孫は、戦国時代末期まで三重県北部の楠町に楠木城を
構えていた一族で、最後は織田信長の北伊勢平定戦で降伏し、当主は
高野山に逃げて消息不明。その息子は、美濃の国で秀吉に嬲り殺しに
されて滅亡だったと思う。
>>690 嬲り殺し(((;゚Д゚)))ガクガクブルブル
子孫だったらいいなと思ったんだけど残念w
くわしく説明してくれてアリガトン
692 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 22:42:45
>>689 自称新田義貞子孫と同じくらいの胡散臭さだと思え
>>685 その通りだが>682の言いたいのは、
北方が史実をよく知っているとはとても思えなかった、
ってのを読んでいて感じちゃったってことだろ。
俺も北方は下手クソだと思う。
歴史にかなり詳しい読者にも「なるほど〜」って思わせる技術が無い。
だからって司馬や津本が一流とは思わないけど、北方よりははるかに上なのは確か。
>>690 可能性でいうなら、中には「本物」だっているかもしれない。
でも、「だから何?」って話になっちゃう。
名門とか家門に価値があるとすれば、
あくまでその家固有の祭祀や家風を絶やさずに継承していることが大前提。
だから楠木正成に相応しい伝統や家風を受け継いでおらず、
ただ単に生物学上の遺伝子を持って今も生きているというだけでは、
社会的には自称子孫と同じ意味しかない。
保守
696 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 00:50:43
hu-
697 :
楠木大ファン:2007/01/08(月) 12:20:47
とても良い人ですよ。なんせ700の軍勢で50万の足利軍と戦ったのだから
698 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 02:09:27
なんかの本で
日本人は源義経や楠木正成のように小人数で大軍を倒すのを好む
ってあった
699 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 02:28:38
判官贔屓ってやつですね。忠臣蔵もそうだな。
それで、ちょっと板違いだが、近代史における帝国陸軍の思想が気になってくる。
士官学校や陸軍大学で、教官が生徒に問題を出す。
「敵は1万の兵力で陣を構えている。これを破るには、どうすればよいか?」
こたえは、
「教官殿ッ! わがほうは、その2倍…、も、もといッ、余裕をみてその3倍、
すなわち3万の兵力をもって、敵を包囲しますッ!」
タテマエはこれで「正解」なのだが、果たして実戦で、こうした正攻法が
いつもとられていたであろうか。
日本人特有の「判官贔屓」の思想が、ふと帝国陸軍の中にも立ち込めていたのでは?
700 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 07:24:19
帝国陸軍は義経、正成、桶狭間が大好きで奇襲を推奨していたからな
701 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 10:49:39
帝国陸軍は劣位戦に勝つことが至上命題だったから。
702 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 23:40:53
服部党とよしみを結んでいたらしいね
703 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 00:53:53
服部党て忍者の?・・・ 楠木正成が、か? ほんとか。
>>703 むしろ、このスレに来るような奴が知らないことに驚いた
>>699 >敵は1万の兵力で陣を構えている。これを破るには、どうすればよいか?
こんな無意味な設問、どこで目にしたのさ?
せめて「我が軍の兵力は○○であり、地形はこうで、天候はこうで‥‥」
くらい設定してからこういう問題出すもんだろ普通。
>タテマエはこれで「正解」なのだが、果たして実戦で、こうした正攻法が
いつもとられていたであろうか。
だろうか、ってあんた、
「いつも」そんな「正攻法」が使えるくらい戦力的に余裕があったなら勝ってるよw
正攻法をやりたくても出来なかったんであってさ。
いくら「帝国陸軍=硬直した精神論」って思い込みがあるからって、
あんたの思ってるほど底なしのアホじゃないっての。
>>705 ただ、次第に精神論に傾いていったのは事実な訳で。
桶狭間にしても、戦時中にある将校が「桶狭間の例に習いうんぬん」と煽り立てた際に
「桶狭間の合戦のような天佑を、戦争の指揮者たるあんたらが頼ってどうすんねん」
というツッコミを喰らって返す言葉が無かったっていうことをどっかで聞いたぞ
最近のガキは態度でかいな
ちんこがその分小さいんだよ
肝が小さかったり、懐が狭かったりもするな。
んで、腹がすわってない。
710 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 18:24:17
日本は悪魔の支配下
日朝共同声明は小泉総理と金正日が協議して出したものだが、一日でお互い
の利害を調整出来る訳がない。事前に外務官が条件を提示し合って合意にこぎ
つけたのである(本当はメーソンの指示)。だから、外務省は拉致被害者の生
死一覧表を事前に把握していた筈で、小泉が訪朝時に初めて見たと言うのは嘘
であり、偽りの一覧表だと判断すれば書類を叩きつけて帰ってくれば良かった
のである。金正日は拉致問題に終止符をうって、日本の経済支援を獲得しよう
としたのである。金正日はしたたか者で日本の総理など相手にしないのである。
日朝共同声明は拉致被害者の帰還によって小泉総理の人気を高め、メーソン
の傀儡政権である小泉内閣を継続させて、日本の国益を吐き出させる為の策略
である。それが証拠に参議院選挙の前日に、曽我ひとみの娘とジェイキンスが
帰ってこれたのだ。郵政民営化はアメリカの年次要望書にうたってあり、郵貯
と簡易保険を外資が獲得する為の措置である。北朝鮮の核開発は、日本に危機
感をあおって憲法を改正させて集団的自衛権を行使させて、日本を戦争に巻き
込む為の陰謀である。
太平洋戦争はアメリカが仕組んだ陰謀で、日本が国力が10倍もあるアメリカ
に戦争(負けると判っている戦争)を仕掛ける筈がない。日本は支那事変には
められ、蒋介石支援ルート(米英)によって本当の敵が米英だと知らされ、経
済封鎖、石油禁輸によって国家存亡の危機に追い込まれたから、やむなく、米
英に宣戦布告したのである。アメリカは国際法を踏みにじった、非戦闘員の大
虐殺(大空襲、原爆投下)を行ったのである。そんな国が日本の危機を救って
くれると思っている者はおめでたいと言わざるを得ない。
711 :
日本@名無史さん:2007/02/01(木) 04:16:31
おれ千早赤坂村やけどおじいちゃんとか今でも楠公さんてゆうよ
712 :
日本@名無史さん:2007/02/01(木) 04:48:18
∧_∧
(`・ω・)シランガナ!
ノ^ yヽ、
ヽ,ノ==lノ
/ l|
""~"""""~""~
昔大阪の親類に行ったとき、公園の前を通って「楠公さん」って聞いて、
何のことかわからなかった。
薬屋の神様かなにかかと思ったな。「軟膏さん」
南光さん
>706
どこで誰に聞いたのかもはっきりしない、
嘘かホントなのかさえ確かめようのない話を
そうやって信じているわけか‥‥
716 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 00:27:35
あげ
717 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 17:07:47
は?
718 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 03:46:59
幕末に2ちゃんがあったらこのスレには志士だからけだな
志士っていうより、猪か鹿(シシ)ばっかりだろ。
拙者、志士であるが、2ちゃんなどせぬ!
721 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 07:09:11
今度、フジの偉人特番で楠木正成取り上げられるみたい。
てか最近、歴史の偉人やら英雄っていう特番増えたな。
722 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 23:16:41
お前らが100億人束になっても楠公の足元にも及ばん。
楠家臣の末裔の俺的には、
戊辰戦争時の譜代大名の行為も軽蔑するが
それより敗戦続きで楠家が消息不明になったのを良いことに
ちゃっかり楠家末裔を自称してる市民共がムカつくぜ。
主家を慕ってくれるのはありがたいが
出自の捏造は冒涜だ。
724 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 17:34:13
自分で自分を罵倒してどうする?
>723
末裔を名乗るくらいいいじゃないか。
どうせ誰も信じやしないし
楠公の偉大な行為の1割も真似出来ない連中ばかりなんだから、
血筋くらいは自慢させてやれよ。
726 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 05:40:47
悪党
727 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 12:12:25
正行は帝が言った言葉を重んじて
命を全うして生き残るべきった
728 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 19:24:30
湊川で潔く死んだ正成がおれはすきだ。
>728
おれも好きだ
千早赤坂村が・・・・なくなる。
城自体今ではなんともないみかん山だが、かつては楠公が幕府軍を苦しめた地名が・・・・あぁこれも時代の流れ。
731 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 20:52:38
まじで!なくなんの!?確か大阪唯一の村だよね?
732 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 21:01:29
歴史的な地名は残すべきだろ。
733 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 21:02:52
734 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 22:50:25
>>732 財政難で千早赤阪村からの吸収要請だからまず無理
まあ合併でも主導権握ったところが多数の意見無視して勝手に決めるから絶望的だっただろうが
最近だと山城町が消えたし
736 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 14:58:34
湊川以降の南朝派の面々は死に急ぎすぎ。
正成は湊川という自分の時期が来たから覚悟の討ち死にをしたが
それ以前は敗れても生き残り何度も再起している。
楠木正成は関西人の英雄なんですか?
>>737 近畿は長らく首都圏だったから偉人が多く、地方全体で英雄視するような人物はいないかと
精々千早赤阪村とその周辺部程度じゃないかな
739 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 05:29:30
ほんとの関西人は知らないよ
ほんとの関西人だけど知ってる
>>738 つまり山梨に偉人が多ければ
武田信玄は崇拝されなかったと
武田は江戸幕府に持ち上げられた影響がでかすぎるから何とも言えない
ただ戦国時代だと畿内制覇した上に将軍暗殺に荷担とか結構派手なことやってる三好家が、
ほとんど注目されてないって事例もあるわけで
743 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 22:23:17
幕末には甲斐の人は信玄好きだったみたいよ。板垣退助が利用した。
ところで私本太平記以外でいい小説ある?
744 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 00:02:40
三好は四国だし
いや、出身じゃなくて‥‥めんどくさいから以下略
747 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 10:41:16
ところで楠正成って、その当時橘姓と認識されてたの?
748 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 10:54:49
朝廷から位をもらうとき、
源平藤橘のいずれかを名乗ったんだよ。
実際には繋がってなくても。
749 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 12:58:04
>>748 いや。一般論を聞いてるのではなく、正成が当時橘姓を名乗ったという同時代史料があるのかと聞いてるの。
750 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 18:15:06
現存する楠氏の系図って、戦国か江戸になって子孫と称する人たちによってでっち上げられたものじゃないかねえ。
そのとき、橘姓ということに成ったんじゃないの?
751 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 18:19:02
>>742 武田が江戸幕府にもちあげられすぎた
って俗説には反論あるな。
スレッド違いなのでここでは避けるが
>>749 直接的にはない。あったら解決してるw
建武年間記に「橘正景」の名があってその肩書きが「楠木帯刀」。
通字が「正」なんで、この人が正成の一族だろうと推測され、
そこから楠木一族が橘姓を名乗っていたのではされるのでしょう。
ちなみに正成は「河内大夫判官正成」になってて、橘とも楠木とも
書いてない…。
754 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 17:56:11
湊川神社で「大楠公六百七十年祭・楠公武者行列」ってやるね。
赤井英和が「楠木正季」やるみたいやど。
ついでに、金八も呼んだらんとね。
755 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 16:49:17
赤井秀和がまさしげ役の映画作ってほしい
大河の太平記なんてどうでもいいよ
757 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 18:21:30
赤井英和
高校生当時、乗る電車の車両の不良全てが
別の車両に移動したという浪速のロッキーの異名をもつ武勇者、
一方幾多の悲運を乗り越え立直ってきた
義理も人情もわかる現在の伝説の河内男児。
758 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 18:32:17
赤井秀和
最初の奥さんを殴って、離婚したってのがいただけない。
楠木正成は、あの時代に、生涯奥さんを守った人なんだよ?
赤井は再婚。
最近芸能界デビューした最初の奥さんとの娘は、
4歳の頃から会っていなくて、どういう風に成長したのか全く知らなかったそうだ。
偉そうに新聞の子育て討論に出て、今の奥さんの子供に対しての父親の役割述べてたが。
だんだん赤井秀和スレになってきてるなw
759 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 18:47:16
おまえ赤井さんの奥さんは
交通事故で亡くなったんだぞ。
760 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 18:55:47
水戸光クニは楠公ファン。
761 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 18:59:49
赤井の最初の奥さん、死んでないってw
娘は、別れた奥さんが引き取って育ててた。
赤井の娘、母親のことも言ってたぞ。
762 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 19:06:50
たしか奥さんとお子さんを交通事故でなくしていたはずだが
そして、自身も試合中に意識不明の重体に
幾多の苦難を乗り越え今の赤井氏がある。
763 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 19:25:37
赤井秀和の娘赤井沙希(2006年旭化成キャンペーンガール)
ぐぐってみろ。
最初の奥さんとの娘。
あんなブ男に正成は似合わない
もこみちあたりが相応しい
もこみちヒョロすぎ
あれ50kgちょっとぐらいだろ
766 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 09:03:35
楠木正成は若い頃何していたかよくわからん、
後醍醐天皇に呼応して挙兵したときは、いい年のおっさんだったからな。
もこみちは、正成やるのには若すぎ。
むしろ、成人した正成の息子正行あたりがいいかも。
じゃあ紀香の元カレの加藤雅也あたりで
↑それはむしろ正季かと。正成にはもっと土の匂いのする人を。例えば永嶋敏行、あるいは柳葉敏郎。
不細工は嫌だ
謙信がガクトの時代なんだからさ
吉川晃司はどう?「三國志」好きらしいから、「太平記」も嫌いではないだろう。
若い頃の吉川ならな
今はTOKIOのデブと容姿が変わらない
ガクト謙信観たわ。したらば土豪は蔵之介。
773 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 22:49:27
流れぶったぎるようで悪いんだが。
悪党の「悪」は悪いの意ではなく強いといったニュアンスがあるってよく言うよね。
そこで気になるのが御成敗式目。
御成敗式目には処罰されるべき存在として悪党の用語が用いられてる。
32条「盗賊・悪党を所領内に隠し置くこと」
悪党は犯罪者を示すもので、ここからは悪=悪いというニュアンスしか出てこない。
梅津一朗氏の論文を読んだんだけど、梅津氏も「異界性・異形性などが差別的に強調される」
とか、「「悪」「異類異形」「センダラ」などという強烈な宗教的排斥を被るよう変貌」と書いてる。
実態として中小領主層で、自力救済社会下での在地秩序を担った存在だったものが、
弘安新制以降の幕府の政策の中で顕在化してきたものであることは分かってるんだけど、
やはり「悪党」という言葉について言及するならば、「強い」よりも「悪い」のほうが適当ではないか?
と思うんだけど、やはり「悪源太」的ニュアンスがあるものなのだろうか。
土豪は蔵之介。
「まつろわぬもの」でないかい?近畿以西に多いので「エミシ」ってわけにもいかないので「悪党」ってこと。東国武者は粗雑ってことで。
775 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 23:33:09
まつろわぬもの
なるほど。端的な気がする。
でも「悪」の解釈はこの場合どうなるんだろう
難しくて困っている。もう眠いので後日。済まない。
777 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 19:41:36
age
御成敗式目で言う「悪党」に限って言えば
逆にその用語自身が平安末期からのものという考えかたはないかい?
藤原兼実の「玉葉」から見た坂東武者(…鬼?)的なイメージ。
鎌倉幕府は坂東武者の政権だが、坂東武者以上の存在であることを示すため
貴族的な言葉遣いを敢えて、というのは考えられると思う。
建武のころというのは貴族(天皇家)を再び政治の中心に、と動いたころだし
楠木に至ってはそのために生きた忠臣だから
みやびてうるわしい貴族に対しての「俺たちしょせん武家」として
語感としては悪=悪いである悪党を「へりくだって自称」したというのは
あるかもな。
>>776 だが、私は北関東の人間なので、近畿のことは実感としては解らないのだが、国衙領や貴族荘園、法王領や天皇自身の荘園、寺社荘園が入り組んでいたのだろう。
だが、実質的にそれらを管理するのは、平安後期からは、いわゆる国人・地侍に(もちろんすべてではないが)なった。
それらの者達が、いかにして土豪や百姓達に自分達の支配の正当性を喧伝するか。
橘である。奈良麻呂があんなことをしなければ。
大伴である。善男があんなことをしなければ。
物部である。蘇我である。藤原も南家である。純友系である。みんな悪の烙印を捺された族だが、在地での影響力は大きい。たとえ実力を持った者の勝手な自称でも。
780 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 00:36:13
>>778 「悪党」は平安末期の荘園史料から出現するので、式目については
その流れを汲んでいると思っています。
ただ「悪党」というのは統制用語というか、上が名付けたものということなんです。
梅津氏の論文(
>>773)でも自称ではないと書いてるんですよね。
確かに建武新政以降はちょっと話が変わってくるかもしれないですね。
ただ悪=強いの代表例である悪源太なんかは平安時代の用例ですよね。
式目の「悪党」はその他の犯罪者と同列に扱われてるので、「強い」よりも「悪」そのもの
の用例に感じるんですよね。
>>779 悪党と呼ばれた人は在地で成長した勢力なので、その過程で国衙領や荘園に入り込んでいったものです。
在地の秩序(自力救済機能)を担った存在でした(梅津氏の論文より)。
ただ同論文によると、悪党という用語は自称ではないようなんですね。上からの統制用語らしいです。
そして式目にも犯罪者と同列になってますので、ここでの「悪」には「強い」の意が感じられないんです。
また考えるよ。今夜はもう眠る。
海津もしらんヴァカだらけw
783 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 01:00:17
イチロー51
あの〜、梅津って何者?
786 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 01:17:23
『日本史講座』に執筆されてる人です。
歴史学研究会・日本史研究会編の概説書ですので何者というのは失礼かと。
もう少し勉強してください。
787 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 11:58:24
>>582 中華思想丸出しのあの糞書物が救いだとは南朝ヲタも落ちたなw
ところで、近頃南朝関係の本ちょっとだけ多くないか?「歴史読本」で後南朝やってるし、「津軽南朝秘史」とか、「悪党の戦旗」とか、つい買っちゃうんだよな。
>梅津一朗氏の論文を読んだんだけど
海津大先生の名前もロクにしらん奴がレスのやりとりしてたのかw
↑してたぁ。林屋辰三郎じゃダメか?
791 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 03:47:03
悪党
792 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 19:48:27
三木一草と言われていたけれど、あまりいい意味では使われてなかった
のでしょう?
793 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/14(土) 00:15:41
結局この人倒幕できたの?
新田が倒幕したの?
795 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 20:17:18
796 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 22:08:37
「非理法権天」の軍旗は後付けらしいですが
楠公は当時最先端の宗学をどこで習ったのだろう。
797 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 22:32:16
>>794 北条氏の力は強大無比と思われていた
正成が頑強に抵抗することによってこれは?という空気が生まれ
各地の豪族が雪崩を打って宮方につくようになった
倒幕の主体は源氏の棟梁と目された足利尊氏
鎌倉を攻め落とした指揮官は新田義貞だが最初は小勢だった
関東一円の豪族が新田に加担したのは彼が尊氏の名代と思われたから
鎌倉攻めの総大将は足利千寿丸(4歳)とも言える
征西将軍宮が6歳だったことから推しても無理な考えではない
大軍を糾合するには旗頭の正統性が最も重要だからね
798 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 01:24:04
↑ 千寿丸じゃなくて千寿王ね
>>797 関東では北条氏の力はまだまだ強大と思われていた
そこで新田義貞が果敢にも挙兵し
あいつぐ合戦に次々と勝利していくことによってこれは?という空気が生まれ
関東各地の豪族が次々と馳せ参じてくるようになった
倒幕の主体は何といっても後醍醐天皇
鎌倉を攻め落とした指揮官は新田義貞だが最初は小勢だった
関東一円の豪族が新田に加担したのは新田勢の緒戦の勝利と
護良親王の根回しがあったから
鎌倉攻めの総大将は足利千寿王(4歳)という説が
近年一部で出ているようだが
これを定説とするにはまだまだ疑問が多い
理由の1つに足利側に立った歴史書『梅松論』ですら
鎌倉攻めの大将を新田義貞だとはっきり書いていることが挙げられる
また宮様と足利(当時の足利。後年の将軍家となった足利ではない)
の幼児とでは求心力がまるで違い同列に論じることはできない
旗頭の正統性でいえば義貞は後醍醐天皇(護良親王経由だが)の
綸旨を奉じているから無問題
また同じく先に挙げた「梅松論」では
足利千寿王は鎌倉陥落後だいぶ経ってから武士たちに守られて入って来たと書いてあることから
実戦にも全く参加していなかったようである
当時の武家の感覚ではこうした存在を総大将だと認定することはありえない
800 :
求道心:2007/09/13(木) 20:06:48
太平記秘伝理尽鈔第4巻(東洋文庫版)を読むと、大楠公大活躍。
すべてがすべて思ったとおりに物事が進むといった感じ。
もうまるでスーパーマン。
別異本の陰符抄だと「正成神」と呼ばれているとのこと。
正成大好きな人にはたまらないパートと思う。
楠木正成は北条家を嫌悪していたに違いない
それはおいておいて正虎って正成の子孫は信長に仕えたらしい
楠正虎はそもそも子孫なのかどうかも怪しいだろ。
その直前にも別の楠氏が畠山に敗けてるしどさくさ紛れに名乗ったとも考えられるからな。
っていうか湊川の戦以降 主だった合戦には全て敗けてるのが何というか悲しすぎる…。
楠木氏は鎌倉幕府に迫害されていた御家人じゃないか?
天皇に利用されて哀れな最期を遂げる
正成自身天皇に対して恨みとか持ったと思う
今も深い遺恨が残る死に様だろう
実際後になると新田のほうに天皇は期待するようになったのだろう
>>803 > 正成自身天皇に対して恨みとか持ったと思う
> 今も深い遺恨が残る死に様だろう
自分を安易に投影するなよ
805 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 15:14:01
私の母親も、自称楠木正成の子孫です。
母方の祖父の実家の本家(Wに、後醍醐天皇から拝領したという、
菊のご紋の入った金杯が伝わってるそうです。
中学のとき、友達にそんな話をしたら、その後しばらく「悪党」と
呼ばれてしまった・・・。
806 :
805:2007/09/15(土) 15:15:49
追加です。本家は福知山にあるそうです。
なお、自称子孫は、全国に1万人以上いると聞きました。
807 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 18:58:19
明治政府は南朝の忠臣を顕彰するため子孫を探したけど
楠木正成の子孫と確認できる家はなかったんだよな
野口雨情も自称正成の子孫だね
楠木まきも子孫ってファンの間で噂があって、地元の人に聞いても
ひた隠しにされちゃうんだよね
本物ほど目立たないようにするもんだなあ
直義の肖像画が頼朝と同じなんて気味が悪い
頼朝の幽霊が直義に乗り移ったのか?
新田や天皇が楠木を見殺しにしたんだね
楠木は足利勢とできればやり合いたくなかった
本当に忠君なのかな?この人
新田が逃げたから死んだだけで
もし新田が逃げなかったら死んでいたかわからんと思うが
正成が死ななければならない状況を作り出したのは天皇と新田
なわけで別に正成自身喜んで死んだとは思えない
天皇と正成より天皇に期待されていた新田が
見殺しにしたとしか思えんなぁ
裏切りに等しい哀れな死に様だと思ふ
五代後は最低な奴
南北朝室町をなかったことにするな
814 :
;:2007/10/04(木) 15:30:34
>>811 楠は湊川に死ににいったんだろう。摂津 河内 和泉 の国主だった
んだから.動員が1000余っていうのはあまり少なすぎる。本当にまじめに動員
したら.大和 紀伊 伊賀 なんかからも与党が集まり2万くらいは動員できた
はず。正成に旧領南河内を維持させるために相当兵力を温存させたんだと思
う。
815 :
日本@名無史さん:2007/10/04(木) 18:39:03
297 名前:武陽陰士 ◆ATDF4vFZys [] 投稿日:2007/08/04(土) 23:08:28
>>292 確かに。
後鳥羽帝は傲慢でいらしたから、ああいう目にあわれたわけだ。
後醍醐もそうだな。
北朝の花園帝は人格高潔、
というより北朝には素晴らしい人格の帝が多くあらせられる。
我らが今上帝は無論、北朝の貴き血を受け継いでおられるのは皆さんもご存じだろう。
ところが2ちゃんねるなるフザケタ匿名掲示板では、
忠臣尊氏公を逆賊とし、正統な皇統に反逆した義貞正成の如き逆賊を忠臣呼ばわり。
嘆かわしいことだ。
それとも北朝の系統であらせられる今上帝に反逆せんとの企みを抱くものか?
あるいは纂奪者か?
明治帝が南朝を正統とし北朝を閏統とされたからと言って、
何故今上帝の醜の御楯である我らが臣民までもが
北朝が正統であることを言論の拠り所としないのだ!
不忠の者どもめ逆臣どもが!天誅!
816 :
日本@名無史さん:2007/10/04(木) 19:37:56
あぼーんが来た。バカコテか
死ね
>>815 >我らが今上帝は無論、北朝の貴き血を受け継いでおられるのは皆さんもご存じだろう。
>何故今上帝の醜の御楯である我らが臣民までもが
> 北朝が正統であることを言論の拠り所としないのだ!
> 不忠の者どもめ逆臣どもが!天誅!
ほんとにバカなんだな。
大事なのは大義名文、道理道義であって血統じゃないだろ。
私利私欲のため北朝を擁立し、しかもそれを利用することしか考えなかった足利政権に大義はなく、大義は南朝側にあった、と考えるのが純粋な勤王というもの。
そもそも真に北朝に大義があるのなら、その後南北朝合一なんかする必要もない。
しかもその後、南北朝合一によって事態は終結している。
だから以後の皇統が血統的に北朝になったからといって、
それを重んじるのは当然のことで、南北朝期に南朝を重んじることとの間には何の矛盾もない。
ヤン・ジシュカ
に似てる 正成
819 :
日本@名無史さん:2007/10/06(土) 21:24:13
勤皇派ですがゴダイゴは大嫌いです
後醍醐天皇信者は尊氏の名前を勝手に高氏に改名したり、
狂信的で気持ち悪い人が多いでつ!
↑狂信的な逆賊高氏信者
822 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 11:45:28
後醍醐みたいな無徳の廃帝に最期まで従った楠公はかっこいいo(^-^)o
823 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 13:38:45
まあ忠臣かどうかは知らんが歴史上の中でも屈指の戦上手だったのは確かだな。
この人戦国時代に生まれてたらどうなってたのかな
いち早く鉄砲とかに興味持ってたかも
ゲリラ戦法が得意らしい
戦国時代の武将って攻めるのが中心だから
守り上手な正成に務まるか
島原の乱の天草と被るかなぁ
純粋な革命家
実はちゃんとした身分がある正成
大阪あたりで野戦もしてたはずだが。
まああれも守りの戦といえばそうかね?
革命家とか気持ち悪いんでついついツッコミ
827 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 21:06:35
天草って天草四郎?w
おまえばかだろw
つーか合戦の作法も何もかも無視したらそりゃ強いよ
義経といい正成といい
828 :
日本@名無史さん:2007/10/12(金) 04:01:30
千早赤阪に住んでるが、出自不明。ただの地方豪族だな。
829 :
;:2007/10/13(土) 15:28:35
散所の長者だよ。あのあたりはいわゆる部落が多い。
830 :
日本@名無史さん:2007/10/13(土) 15:53:24
御家人の名簿にさえ載っていない正成がきちんとした身分を持っているわけがない。
今まで言われてきた通りの身分だ。
「悪党」なのは確か。
後醍醐天皇や公家についたのが大失敗。
しかし、勤皇の思想が強い当時では当然のことだ。
>>830 悪党というのは身分じゃなくて呼称に過ぎないわけだが‥‥
御家人だろうが寺社の神人だろうが、悪党的行為をすれば「悪党」。
勤皇の思想が強い当時w
1000vs幕府勢百万って嘘だろ?
正成自身戦時中の天皇家によって美化されただけで
本当に五代後の為に死んだとは思えない
>>833 いつも「思えない」ばっかりだな。少しは根拠も示してくれよ。
赤坂城の戦い
楠木正成×幕府軍 500人 対 20万人 wiki (太平記では300人対30万となっている)
篭城で一ヶ月間防いだが、最後は城から逃げ落ち千早城に篭城した。
千早城の戦い
楠木正成×幕府軍 1000人 対 100万人
篭城及びゲリラ戦を展開、日本中で反幕府軍が決起し楠木軍の粘り勝ち。鎌倉幕府は滅びた。
湊川の戦い
楠木正成×足利尊氏 700人 対 50万人
6時間で楠木軍は全滅。
凄いぞ 正成
836 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 07:36:26
凄い?
たしかに赤坂、千早はがんばったろう。
湊川の軍勢は何だ?本気で集めてこれしか動員できなかったのか?手抜きでこれしか集めなかったのか?
837 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 08:00:31
たぶんあまり勝てると思ってなかったので全軍は集結させず
自分の死後のために兵力を温存したんではない?
楠木一族だけで700なら総力を結集しているんじゃないの?
むしろ他の氏族は動員かけても応じて来なかったんじゃないかと。
839 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 12:42:41
>>839 どっちも違う。正成は最善を尽くした。栗田は迷った挙句の‥‥略。
最善尽くすなら守護としてもっと軍勢を動員してこない?
家の名をを利用しようとしない人は先祖の具体的な話は公表しないだろう
例の噂だって親戚の子がもらしてしまっただけだしね。
地元民に聞いても隠されちゃうんで、余計に信憑性があるなとは思ったけど
もちろん本当のところはわからないよ。
ただ、先日の柴田勝家の子孫の家といい、公表していない家ってのは意外といるものなんだよね
>>843 滅亡した家の末裔なんて公表しても得るものなんて無いしな。
本物であればあるほどひっそり暮らしてるものなんじゃないか?
馬鹿かよ。
楠木家の場合は子孫がいるの!!
河内の国で領地をもらい徳川幕府に旗本として仕え、子孫と認められた甲斐荘氏が。
その漫画家が甲斐荘氏の一族ならば、子孫と名乗る資格はあるが
そうでないからば資格は無いというだけ。
簡単な話だろ。
本物の子孫を差し置いて、子孫だというのは失礼な事だよ。
>>845 なんでそんなに必死なんだ?
本物が1つだとは限らんだろ。傍流、支流もある。
まぁどうでもいいけどさw
847 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 02:55:19
楠木の子孫がいるかどうかの時点でかなり胡散くさい
848 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:36:38
>>835 ゲリラ戦だけじゃ勝てないよ…ベトナム戦争でもサイゴン陥落させたのは正規軍
楠木正成は正規戦にも強かったのは戦史勉強してりゃわかりそうなものだが
盾と足軽弓を使った戦術に秀でてた
突っ込みどころが違うだろ
楠木正成をもう一度歴史の教科書に大々的に載せよう
天皇による国家体制への反乱という点じゃ歴史上特異だが
なにかしら大きな変化に繋がったかと言えばそれほどでもない時代だよな。
群雄割拠で戦国時代の下地になったくらいか。
歴史物語の講釈ならなんぼでも語られるべきだと思うが
歴史学の教科書で多くの章を割く人じゃなかろ。
皮肉だが新選組みたいなもんだ。
つかいいかげん教科書をそういうことに使うのやめれと。
日本は悪い国ですと載せるのも
天皇は偉い人ですと載せるのも同じアフォ。
852 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 13:52:39
こんなこというと悪いが 時代のあだ花に過ぎない。
>>851-852 でも思想史的には偉大だぞ。
後年の日本人の精神にこれほど大きな影響を及ぼした人は稀だからな。
思想?
馬鹿ですか?
855 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 01:44:03
だね
ほんとレベル低いなこいつら
>>846 お前が甲斐荘さんだったらどう思う?
まったく血縁の無い人間が「俺は楠木家の子孫だ」なんて名乗ったら腹が立つだろ?
徳川家から認められて、領地ももらってたのは甲斐荘さんだけなのに。
甲斐荘さんには、「親戚でも何でもないのに勝手に子孫と名乗るな」という権利はあるはずだよな?
んで
>>845はその甲斐荘さんなのかね
そんでその甲斐荘さんは支流・傍流の全ての人間と家を把握してるのか
859 :
;:2007/10/24(水) 15:15:01
>>841 本拠の河内.和泉.摂津だけじゃなく.大和.紀伊.伊賀あたりまで広く
与党がいたはずだが.... エロイ人に聞きたいが.そのころの身代は楠氏と
赤松氏とどちらが大きかったんだろう?
860 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 18:10:02
>>857 逆にいえば、他に楠木末葉を信じている人たち(真実かどうかは問わない)から見ると、「何の権限があってそんなこと言い切るのか?俺たちが楠木末葉で無い証拠あるのか?」
となる。
>>859 楠木。赤松への恩賞は本領安堵だけだったのに、楠木には大盤振る舞い。
明治維新や度重なる敗戦のどさくさで、無関係の農民風情が楠木性を名乗ってるのが
楠公八臣の末裔としては本当に口惜しい。
性を名乗るんならいいんじゃね?w
863 :
;:2007/10/25(木) 14:08:10
>>859 赤松が白旗城にいれてた人数は700余ってものじゃなかった。
それに昔.六波羅を攻撃していたとき.2−3万の軍勢を率いていたという。
>>857 やけにこだわるんだね。あなた、その甲斐荘って人の知り合い?
でも江戸幕府が認めようが何しようが、
自分の家は楠木の末裔だって言い伝えている家はあるよ。
それも詐称とか捏造とかなんじゃなくて代々でそう信じてきてるわけ。
そういう家に「勝手に名乗るな」とまで言う権利なんて誰にも無いと思うよw
>>857 楠木氏と共に南朝の雄だった新田氏だって、
幕府とか維新政府が公認していた男爵新田家以外にも
末裔だという家はたくさんあるよね。
有名どころでは某勤王家とか、日本サッカー協会で役員だった某さんとか。
この人たちは明治維新でそれまで別の姓だったのを新田姓に復しているんだけど、男爵家の方から文句が出たなんて話は聞いたことも無い。
まぁ片や華族様、片や平民だしね。
気にもしないってところじゃないの?
「お墨付きのあるれっきとした本家はウチだけ」ってなもんで、
泰然としたもんじゃないかと思うけどなぁ。
まぁ当事者じゃないんでわからんけどさw
>>859 与党といっても絶対的なものではない。
形勢次第で味方にも敵にもなる。
元弘当時は与党であっても建武以降は敵。
>>863 700ってのは楠木の直属とか一族だけの数字じゃないか?
赤松の2〜3万てのも他の諸豪族が合力しての数字。
しかも太平記特有の誇張した数字だし、はっきりしたことは不明。
>>864 代々 捏造系譜や伝承を信じ込まされてる農民乙
って言ってほしいのか?w
869 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 00:59:50
捏造系譜なんて言ってたらほとんどが捏造だろw
バカじゃねーの
江戸時代は将軍家から捏造だったからな。
成り上がりの織豊、徳川譜代の大名なんて全てと言っていいほど捏造。
農民で名家の子孫を名乗った不届き物は腐るほどいた。
事実、楠木家の末裔に爵位を与えようと明治政府が探していたときに
「我こそは楠木家の子孫」と名乗り出た奴が一杯いた。
で、明治政府が名乗り出た奴等の調査を全部したんだが、子孫と思われる者は1名もなし。
つまり、明治政府は「楠木家の正統な子孫なし」という見解だった。
*注 ここで言う子孫だが「男子系の子孫」を指す。
甲斐荘家は、女系の子孫なので徳川幕府からのお墨付きは得ていたが、男子系では
なかったので除かれた。
楠木正儀の子孫ならいそうだがなあ。したたかな男だったし。
873 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 00:01:17
正成はあの地域の水利権を持ってたんだよ。
千早赤阪村に建水分(たけみくまり)神社があるが、ここに正成も
神として祀られている。
神社の名前の通り、水が貴重だった時代に
水利を持った者が力を持ってたんだよな。
そして鎌倉に通じる荘園の年貢を奪う悪党もしていたんだよ。
河内源氏の末裔とかか?
義貞と高氏は源氏の頭領だけどな。
874 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 15:52:36
>>873 あのへんは 散所が多く その長者だった可能性がある。
875 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 13:00:13
あの辺は今も昔も農村。正成の母方の故郷。
父方が東大阪の玉串の散所の長者ではなかった
ですか?
876 :
名無しさん:2007/11/11(日) 18:01:34
>>867 もし 後醍醐が赤松を 播磨 備前 美作 とかの守護にしてたら 尊氏に味方せず 足利幕府も成立したかどうかあやしいね。
>>876 赤松は護良親王派ってことで干されたんじゃないかね?
それ意外にあそこまで不当に扱う理由がわからん。
尊氏よりずっと前に宮方として頑張っていたのに。
878 :
:日本@名無史さん:2007/11/12(月) 12:41:01
>>877 赤松が南朝方だとしたら.名和と今の鳥取県から岡山県に縦断する線で
防衛線をはれたはず....
それにしても.瀬戸内海の水軍はほとんど南朝方だったのに.尊氏をフリ−
パスさせたんだね。
>>878 > それにしても.瀬戸内海の水軍はほとんど南朝方だったのに
そんなこと無いだろ。
太平記でも援軍としてやって来た水軍が途中から敵味方に二手に分かれるとかいう描写があったはず。
梅松論だと尾道の水軍は大挙して尊氏方についている。
880 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 19:52:03
楠公は決して名門の出とは
言えないながらあの軍略や学問は一体どこで得たのか?
881 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 20:43:33
ゲリラ作戦だろただの
>>880 名門じゃない悪党出身だから、鎌倉武士の戦法を全くとらない悪党戦法をとっただけ
>>880>>882 名門じゃないって、そりゃ宮廷貴族や新田足利に比べればそうだろうが、別に山賊の親分じゃないんだからさ。
長年その土地に根付いて、幼少より一門の棟梁としての
教育くらい当然受けているでしょうよ。
884 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 14:54:38
age
885 :
日本@名無史さん :2007/11/21(水) 16:27:04
>211
懐良親王は売国者じゃないよ。明の洪武帝に出した挑戦状を読んでごらん。
メチャクチャ面白いから。どっかの島でさしで勝負、なんてまるでヤクザ。
886 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 09:13:29
楠木正成は、神の子。
887 :
日本@名無史さん :2007/11/22(木) 11:30:34
北条9代記という本がある。今なら、何とか文庫で現代語訳で手に入る。
この最後の条に、河内の楠木左衛門尉(だったかな)とかちゅう、とっても
戦に強い御家人が出てくる。どっかで反乱が起こったので派遣したら、
あっという間にかたを付けたという話が書かれている。最近、これが正成のこと
ではないかと言われている。一考の要あり。
888 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 06:44:45
まあ、登場シーンは、日本史史上最もかっこいい。
889 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 15:27:38
秦氏と北条氏説があるが、解明されないほうがいいかも。
伊予橘氏
891 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 15:55:22
南朝方についたただの地侍。
華やかさはないね。
892 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 22:44:38
age
とりあえず世間に反発してみたくなったような子供の意見はいらん。
894 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 05:12:00
後裔は和田氏とは知ってる。
895 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 03:32:32
896 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 09:54:47
ただの有力国人だったのか?でも、源姓、平姓、藤姓…とかは分からないのかな?
897 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 10:16:10
一般的に橘姓と言われてる。後裔には和田氏、旗本甲斐庄氏がある。
898 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 11:57:55
楠氏の本拠の河内.和田氏の本拠の和泉はかたぎとやくざの境目がない
。
899 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 12:28:03
農民あがりの黒田悪党の中にも源平藤原を名乗っている者がいるから、楠木氏が橘姓を名乗るのもその類と見た方が正解だろ。
赤松も名和も野武士軍団の頭領格。
902 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 14:02:50
河内の国は他に幕末に活躍した天誅組があるよ。
903 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 11:13:37
悲劇の英雄
904 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 13:44:54
>>883 吉川英治の私本太平記には.正成の近くに後の毛利氏の祖になる大江時
親の飛領があり.そこに時親が隠居していて.彼に大江流の兵法を授けられたと
いう。
905 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 18:20:32
小説なんか全くアテにならんだろう
906 :
求道心:2007/11/28(水) 19:57:32
泉州の和田氏には3氏ある。
当初、幕府側と後醍醐側に分かれさせて、家の存続を図った和田(みきた)氏。後に楠氏と姻戚関係になった様子。和田助氏の名が文書に見える。今では、美木多地区と言う地名で残る。
岸和田の地名の由来になった、岸村の和田氏。岸和田治氏の軍忠状が残る。
楠木正成の弟といわれる正季が継いだ和田氏。かの源(賢)秀がその流れ。
>>894の和田氏は、正季の和田氏と思われる。今でも堺市を流れる和田川の近くに、その子孫が居住。
堺市・和泉市・岸和田市には、和田の地名が残る。近くに城跡があったりする。
和田(にぎた)ね。
908 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 03:29:26
河内国の錦織村(現在、富田林錦織)甲斐庄氏発祥の地。
909 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 22:29:15
関西では、楠公さん!と呼ばれ凄い愛されてる。
910 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 12:55:51
落語家の桂南光(千早赤阪村出身)も愛されているよ。
あそこはいつまで村なんだろうなw
913 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 12:10:18
河内国の住人ですが、
>>62の説が有力だとおもう。楠木(楠)と云う地名が存在しない。
914 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 01:47:57
一番信頼できる楠木氏系図ってどれですかね?
915 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 18:30:47
御家人帳に乗ってない非正規の武士でしょ当時の悪党と呼ばれた
盾と足軽弓使った戦術に秀でてた
赤松氏も同じだね
916 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 00:25:13
千早赤阪村の地名の由来は正成が村人のウンコを集めて城に攻めて来る敵に城壁から煮えたぎるウンコを流したと云う伝説がある。辺りの山肌は赤く染まり、赤阪村の地名になったという。
917 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 00:41:53
ウンコは貴重な肥料なのに
煮たら赤くなるのか、赤痢のウンコだったのか
>>915 鎌倉幕府に御家人帳なんてものがあったんですか?
仮にあったにしても、とても全部は残ってないんだろうし、
それだけで載ってないと言い切れるもんなの?
920 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 10:25:33
そのあたり、中央と地方では雲泥の違いだろう。なんせ、下剋上の時代だから、地方の豪族、国人領主が各地で旗揚げしてたのだから。
921 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 10:05:16
全国の楠木(楠)姓の方の分布図とかで分からないかなぁ?家伝とかあれば。
922 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 00:51:45
楠公のうんこ食べたい★
俺のクラスメートに楠って奴がいた。
お寺、家紋は菊水、系図、代々「正」の字がつく。あの楠木の子孫か?
クラスメートの事なのに寺や系図の事までよく知ってるなw
925 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 00:14:17
お前にとっちゃクラスメイトとは話もできない人間だろうが
普通それくらい本人に聞けば分かる程度の話
926 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 00:59:37
テレビタックルの番組内で悪党党なるものがある。
気になってしかたない。
>>923 >お寺、家紋は菊水
真宗の寺の出では? 真宗の住職には楠氏が結構見られる(大谷大学の過去の寮監にも楠潜龍という人の名が)
個人的に、楠氏の系図・血族問題で重要な役割を果たすのは、一向宗だと思っている
周知の通り、真宗は住職の世襲ないし血縁相続が一般的
ならば他の「自称」楠氏よりも、信憑性は多少なりとも高いのかな、と
そこで重要なのが正具との関係なのだが、東西本願寺にはその手の系図が眠っていたりしないのだろうか
石山本願寺が焼失しているからには、望み薄という他ないが・・・
929 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 18:12:40
楠木正季の子孫と云われる甲斐庄氏は苗字から本姓に替えた。甲斐庄→楠木→橘
930 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 05:07:50
その苗字は大体どこらへんで残ってるの?やっぱ大阪?
その苗字とはどの苗字?
932 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 13:00:37
甲斐庄氏は河内国の甲斐庄を領してたと云われる。家康に大阪の地理案内などした事により、旗本になった。
>>932 日本語読めるのか?
下位笑止は、今どの辺に多くいるの?
934 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 17:36:13
日本の苗字7000傑で見たら?
935 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 18:14:40
甲斐氏は宮崎県に多い。
936 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 02:21:14
楠木正成をもっと目立たせるべきだ
歴史上の人物としてね
こいつや新田が目立たないの陰謀だろ?
巨大権力が裏で情報操作しているに違いない
937 :
信長:2008/01/30(水) 02:24:37
誰か戦国時代も情報操作してくれよー
石原さーん
新しい歴史の教科書を作る会の連中で
歴史捏造しようとしてるの丸分かりだぞ
おーい
938 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 02:36:37
石原○太郎や北○武辺り連中で日本の冷鬼死を捏造しようと
してる?
939 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 02:39:39
吉本興業って室町幕府の残党がいっぱい絡んでんだろ?
940 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 22:52:42
941 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 14:05:46
俺、大阪人だけど大阪出身の有名な武将って言ったら
戦国時代は殆ど居ないし、結局南北朝時代の
大楠公さんしか居ないとオモタ。
なのに、大阪の人間は口を開けば「太閤さん、太閤さん」ばっかりだ・・・。
もっと楠公さんの知名度と人気を広めなければダメだな。
942 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 14:08:07
しかも、秀吉ってよく考えると・・・愛知の出身なんだよな。
何で愛知から来た人間を愛して、バリバリの河内生まれの
河内育ちである楠公さんをもっと支持しないんだ・・・。
こう言う所が、大阪人の浅はかな所だと我ながら思ってしまう。
943 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 14:09:09
大阪の中心部は旧摂津国。
南の河内国とは別物だと思っているから。
人気の元はどれだけ地元に利益をもたらしたかだかんなぁ
945 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 18:08:29
しかし、時代って変われば変わるもんだね・・・・。
戦前は楠公さんと言えば、日本全国小学生でも知ってる
忠臣の代名詞とも言える英雄だったのに・・・・。
戦争に行った俺の爺ちゃんもそう言ってたよ。
今じゃ歴史の教科書でちょっと習うだけだもんな。
太閤さんは信長と絡められたり
ドラマ等でしばしば取り上げられるから有名だしな。
もっと楠公さんをテレビで取り上げてくれよぉ。
946 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 18:12:53
後醍醐天皇に尽くして散った土豪楠木公の功績と
天下人豊臣秀吉の功績では
どうしても後者が大きい
947 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 20:01:24
>>946 やっぱりそうか・・・。
せめて、後醍醐天皇にもっと権力があったのなら
楠公さんの知名度も変わったのだろうか?
>>947 後醍醐天皇にもっと権力があったら碌な事にならんw
時代劇とか大河の影響が大きいからなあ
今だとゲームかな
楠公をかっこよく描いたゲームが出れば人気も出るんだろうね
950 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 23:36:41
悲運の武将と言う事になると・・・
日本じゃどうしても義経がNo1になるんだろうな。
No2が真田幸村だろうか・・・・楠公さんはNo3ぐらいか?
951 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 23:40:57
あと、楠公さんの人気がどうしても上がらないのは
やはり、出自が克明でないのと幼少時あるいは
若い頃のエピソードが無いのも原因かなと思ってる。
鎌倉幕府打倒でいきなり出てくくるからね。
しかも登場時は既に、いい年だしね。
それに戦前の基地外忠君愛国主義の手垢にまみれていて、現代人には敬遠されがち
>>949 チンギス・ハーンW
登場するシナリオじゃ日本最強の武将
954 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 01:43:46
ノブヤボでも出るよ
隠れキャラ的存在だけど
>>947 後醍醐天皇にもっと権力があったところで
つき従う武将のひとり(それも将軍にもなれない土豪の出)
ではあんまり重用されなかった気が・・・
自分で大阪の町を整備して大阪城を築いた
秀吉ほどの恩恵を大阪にもたらすことはなかったかも。。。
秀吉は土豪以下の出だけど関白
つか昔は人気あったんだよね
戦後の教育と時代劇の印象がいまいちなせいだろう
957 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 20:47:16
う〜ん出自不明。
958 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 13:27:33
馬借の自警団の親方。
959 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 17:43:54
大阪の人間の俺からすると、楠公さんよりも
やっぱり太閤さんや真田幸村の方が人気あると思うよ。
摂津と河内じゃ国が違うってのもあるだろうね
あと太閤さんは、大阪のそこらじゅうに逸話や由来のものが残ってるから
親しみやすいんだろう
真田は太閤さんほどには親しまれてないかもしれない
最近の秀吉は狡猾に描かれることが多いからだな人気ないの
962 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 01:59:43
『判官びいき』って言葉は昔から日本人は好きだからな。悲劇のヒーローが持て囃されやすい。
でもそれってたぶん武士で流行ってたもんだと思う
中斎先生の立場は‥‥
965 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 20:19:29
大塩中斎先生?
洗心洞の中齊先生も浪速の英雄かと思いますが、いまひとつ話題に取り上げられませんね。
967 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 10:46:19
おれんちらへん(南河内)は秀吉よりやっぱ楠公さんかなぁ。家に楠木正成のかけじくあるし
アホだろうな。
969 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 11:50:11
戦前は学校で習わないものはいない忠臣だったからね
だけど若い世代は楠公にほとんどなじみはないと思うよ
そりゃあ戦前生まれの爺さん、婆さんにとっては
河内国が生んだ英雄かもしれないけどさ
970 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 12:27:41
七生報国
紀州湯浅楠木党ではいかんの?
972 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 11:05:50
紀伊湯浅氏は南朝方で楠木正成と共に奮戦した。楠木氏とは姻戚関係はない模様。
973 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 11:25:34
明治政府が子孫に爵位を与えようとしが遂に発見できなかったらしいな。
974 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 13:15:19
忠義は確かに美徳だが、相手を間違えるととんでもないことになる。
その実例が楠木氏。
>>973 子孫を称している家は実は結構あったりするが、正真正銘の嫡流は?というと
疑わしいものばっかだからな。戦国時代に正成朝敵というのを取り下げてもらった正虎ですら怪しいわけだし。
976 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 00:36:14
嫡男の子孫はいないのか?正季の子孫は甲斐庄氏だったな。
977 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 05:44:27
河内の国に楠木(楠)と云う地名が存在しないから土着の豪族、国人領主の説は薄い可能性が高い。他国からの入国の豪族かも…
「後南朝」スレにもお越しを!
>>977 駿河の楠木庄の出自という説もあったような
980 :
日本@名無史さん: