秀吉没後宇喜多秀家が暫定関白だったら?

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1日本@名無史さん
@盲点だった。秀吉没後でも豊臣家は領土で220万石、堺などの商業都市や金山銀山を有する最大の大名であった。
 意思表示の権能がなく動くべき時に動けなかったのでジリ貧になり滅亡した。
Aが、豊臣一族の誰かが暫定関白となり、秀次のような立場になっていたら、家康も
 容易に動けなかったのではないか?
B当時残っていた豊臣一族といえば、宇喜多秀家、小早川秀秋、結城秀康。後は木下勝俊とか延俊等とか。
 秀家が一番、関白に適任であろう。
C秀吉没後のラインナップは
 関 白:宇喜多秀家
 五大老:徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、そして佐竹義宣
 五奉行:前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家 

 これで秀吉没後も豊臣政権は安泰と思うが、・・・どうよ!!!



2日本@名無史さん:02/07/21 20:45
後に顕現するように宇喜多家自体の家中自体が揺らいでいる
から駄目。自家を統括できないで日本が束ねられるかどーか。
3日本@名無史さん:02/07/21 20:52
能力や人柄はともかく。
やっぱ血が繋がっていないときついんじゃないの?
例えば信長の後を蒲生氏郷が継ぐってことでしょ。
4日本@名無史さん:02/07/21 20:58
結城秀康が豊臣家を継いで、秀頼と秀忠が後の御三家のような
特別な地位の大名になってれば全て丸く納まったんだよ。
5日本@名無史さん:02/07/21 21:02
関ヶ原の時に三成が小早川秀明に秀頼の成人まで関白を任せると
約束したみたいだから、可能性としてはこっちの方があったかもしれないが

宇喜多家は関ヶ原の前にお家騒動で、千姫助けた坂崎出羽守とかが
分裂したりとかで紆余曲折があるでしょう
もし宇喜多秀家が暫定関白だったとしても徳川の野心は消える事はないと思います
6日本@名無史さん:02/07/21 21:08
家康から見たら
秀家ごとき小僧は
赤子の手をひねるも同然
7日本@名無史さん:02/07/21 21:12
逆をいえば、秀次が生きていても状況は変わらなかったということだな。
1は、秀次の変わりが秀家というイメージだと思うが。
8日本@名無史さん:02/07/21 22:36
オレも思った。
秀家か秀康のどちらかを関白にしておれば、豊臣家は続いただろうな。
しかし、秀頼はどうなったか分からない。
9日本@名無史さん:02/07/21 22:37
>1
ありえなくはない。
血のつながりはなくても秀家の母親は、秀吉の愛人だった。
ローマの2代皇帝もオクタビアヌスの嫁の連れ子だった。
10日本@名無史さん:02/07/21 22:43
なぜローマを例に出す?
11家康:02/07/21 22:43
誰が関白になろうと、余の天下は揺らがぬ!
馬鹿も休み休み申せ!
そもそも秀家ごときと余とでは器が違いすぎるのじゃ!
12>3:02/07/21 22:45
上杉謙信も子供がおらんぞ。
大名家では養子なんぞよくあること。
幕末なんて養子ばっか。
13日本@名無史さん:02/07/21 22:45
だめだこりゃ。次行ってみよう
14日本@名無史さん:02/07/21 22:46
>>11
以上、エロ坊主の末裔の戯言でした。
15日本@名無史さん:02/07/21 22:47
>>12
謙信は血縁の子供がいないから比較にならないよ。
それに、秀家を跡取にしたら宇喜田家の家臣団が力を持つわけだから、
豊臣官僚が許すはず無いでしょう。
16日本@名無史さん:02/07/21 22:47
もしも黒田如水が暫定関白あんど秀頼後見人あんど淀殿の愛人あんど
三成暗殺していたら
17>15:02/07/21 23:01
秀吉だっていなかったからこんな話をしてんだろうが。
18日本@名無史さん:02/07/21 23:08
秀家が暫定関白だったとしても、徳川と戦っていたでしょう
その場合、徳川は秀頼を旗頭として豊臣分裂策をとったんじゃかなかろうか?
石田三成は徳川方につくと予想
19日本@名無史さん:02/07/22 01:32
秀次の弟が一人生き残っていたんじゃなかったっけ?
秀長の養子になってたような...。
20日本@名無史さん:02/07/22 01:47
関が原のときに石田三成が宇喜多秀家の案を聞き入れなかったように
若くて実績のない秀家に皆がついていくとは思えない。
勢力的にもそれほどでもないし。
まだ16ででてる黒田如水を後見人に指定のほうが
他の武将がついていきそう。
21日本@名無史さん:02/07/22 01:49
秀家は秀吉の傍らで贅沢を覚えたね!
22日本@名無史さん:02/07/22 01:59
>>20
黒田如水は秀吉にあまりの知謀を恐れ、天下平定後遠ざけているですよ
それを察し、いち早く引退し如水の命名
朝鮮征伐の時にもかり出されるが、あまり重要な役を与えられず
そういう立場で後見を与えられる事は無理でしょう

しかし実力的に、家康に対抗できる知謀を持っていた事は確かでしょう
たかが18万石で。息子長政がほとんどの兵力を関ヶ原に持って行き
残りの兵で九州のかなりを短時間で平定してるし
23日本@名無史さん:02/07/22 02:01
西軍に参加した大名を討伐するという名目があって、如水に協力した大名がいたことを忘れずに
24家康:02/07/22 03:08
秀家なんか楽勝
秀秋はヴァクァだから問題外
まあ、漏れが天下トレータのは、時代の要請だな。
漏れしかいなかったわけよ。わかる?
25日本@名無史さん:02/07/22 07:32
>19
秀保は1995年に事故で死亡しております。

・・・というか、要するに若手の豊臣一族が何人残っていようと家康がいる限り
何やってもだめということですくあ?
26日本@名無史さん:02/07/22 07:50
誰かが暫定関白になってるってのは家康にとって、
かえって豊臣分裂工作がやりやすくなるだけでは。
>>18がすでに書いてるが。
27日本@名無史さん:02/07/22 08:12
秀長が長生きしていて
秀頼の後見でもしてない
限り、目は無い
28日本@名無史さん:02/07/22 08:30
>>25
泉重千代の記録を抜いた?
29ぴか:02/07/22 10:32
>>25
秀保、俺と大して歳変わんないのか
30日本@名無史さん:02/07/22 16:26


秀次=馬鹿

この考えは捨てるべきですけど。


少なくとも存命なら
「幼児秀頼」よりも「成人(おっさん)秀次」のほうが家康的に
やっかいなことになっていたでしょうね。
31 :02/07/22 18:17
何をどうしようと、家康は自分で天下を取ったろう。
ただし豊臣家の存続は可能だったかもしれないが。 それだけだよ。
32日本@名無史さん:02/07/22 18:33
豊臣が天下に対する望みを捨てて
5〜10万石で満足すれば
幕末まで存続しえたであらう
33日本@名無史さん:02/07/22 18:56
>32
織田家を想像すればいいのかな。
34日本@名無史さん:02/07/22 19:35
家康が豊臣を滅ぼした理由は
国石は70ぐらいだが、
大阪という当時の最大の経済都市を領地に持ち
大阪城という当時の最大の要塞を持ち、
秀吉時代の金銀を徳川以上に所有していたからで
すれらを返上していたら、貴族的立場だったら存続していたでしょう
35【^▽^】胃病ジョーカー土佐守:02/07/22 20:02
ところで宇喜田家は藤原氏だったっけ?
そうでなくとも五摂家に養子入りすれば
問題無いだろうけど。
36日本@名無史さん:02/07/22 20:05
37【^▽^】胃病ジョーカー土佐守:02/07/22 20:07
返上と言ってもねぇ。
例えば王政復古の時の慶喜が領地と官位を
「返上」していれば、戊辰戦争は起きなかったと
言うのと似たようなもので、いくら家康(幕末なら薩摩・岩倉)の
勢力が強いからって、そうやすやすと「返上」など
出来ないでしょう。
38日本@名無史さん:02/07/22 20:11
>>30
全くそのとおり。
ただし「筆頭大老家康」よりも「老練関白秀次」のほうが秀頼的に
やっかいなことになっていたと思う。
39日本@名無史さん:02/07/22 20:29
そもそも秀吉は秀頼の将来に危うい存在を殺していたのだから、
宇喜多が関白はありえない。
もし関白にしたら、間違いなく豊臣は存続したでしょうが、江戸幕府より早く
滅び、日本史もかなり変わったでしょう。
豊臣は滅ぶべきして滅んだのです。
40日本@名無史さん:02/07/22 20:32
>>38
たしかに。「関白」秀次の政治的手腕は侮れないな。
慶長の役によって経済危機に陥った伊達政宗、最上義光、細川忠興らに
借金を肩代わりして次々と味方につけているし・・・
41日本@名無史さん:02/07/22 20:49
朝鮮征伐で大名に巨額の負担を与え、人質の武将の嫁や娘を犯し
秀吉が死ぬ前には、ほとんどの大名が豊臣を見限っていたんじゃないですか

秀吉に犯された嫁や娘って誰なんですかね?
細川ガラシャは逃げたらしいけど
42日本@名無史さん:02/07/22 21:29
家康のやり方を見てたら豊臣の血筋を生かしておくとは思えんな。
自分の死後、秀吉没後と同じことがおこったら?
それを見越しておかない家康じゃない。
あの当時は武士道やお家大事の思想は普及してなかったのだから。
43日本@名無史さん:02/07/26 01:05
>>40
んなもん政治的手腕でもなんでもないじゃん。
味方につけてなんの役に立った?
それに慶長の役によって経済危機に陥ったって・・・本気で言ってるのか?
44日本@名無史さん:02/07/26 05:12
>>43
豊臣家への忠義という看板だけ当てにして多数派工作を怠った秀頼母子よりは秀次が自派閥の形成を狙うだけでも
よっぽど政治的配慮はあるほうだがね。
45日本@名無史さん:02/07/26 06:56
>>35
宇喜多は朝鮮からの帰化人という説があるよ。
それに守護赤松氏の守護代の浦上氏の家臣でしかないから、たいした家柄ではない。

>>42
豊臣の血筋とはどういう意味?
秀吉の直系は滅びたが、
皮肉にも木下家は親類が継いで存続させてるし、
加藤清正は秀吉の従兄弟、福島正則はまた従兄弟だが子孫は改易にあったものの一応、存続している。
46日本@名無史さん:02/07/26 07:07
あまり知られてない事だが、実はおねは元々、秀吉の親類だったりする。
つまり、小早川秀秋と秀吉にも血の繋がりはあるわけで秀家よりは彼の方が目があったと思われる。

それと秀康を結城家に養子に出したのは家康はの意向ではなく、
秀吉が秀頼の誕生から養子に出した、
つまり秀吉が秀康を家康に利用されるのを恐れて豊臣家から出したわけだ。
47日本@名無史さん:02/07/26 09:19
全国の諸大名の多くは,大阪の陣で豊臣氏が滅ぶまで
領知朱印状を(征夷大将軍の秀忠ではなく)豊臣秀頼から
受領していた.秀忠が,全国の大名に朱印状を交付するのは
大阪の陣の後である.

つまり関ヶ原後の体制でも,封建的主従関係のトップにいるのは将軍ではなく
豊臣氏だった.名実ともに全国の支配者になるためには,徳川氏は豊臣氏を
滅亡させる必要があったのである.
48日本@名無史さん:02/07/27 08:23
>48
え!まじっすか。じゃあこれって、社長を副社長以下がみんなしてボコって、
追い出したって話じゃん!ソースは何?
49日本@名無史さん:02/07/27 10:11
宇喜田家って、家臣団の仲とても悪かったような。
50日本@名無史さん:02/07/27 10:22
>>49
というか、宇喜多譜代の家臣と秀吉から送られた家臣が仲が悪かった。
秀家は長船・中村といった秀吉から送られた家臣ばかり重用し豊臣家一辺倒の政策をとったわけだ。
秀家も自分を宇喜多家というより豊臣家の一員だと思いこんでて、その書状も全て羽柴秀家か豊臣秀家で署名したという。
そういうところが譜代の家臣の気に触ったんだろうね。
51日本@名無史さん:02/07/27 12:44
まあ、秀家にしてみれば、自分が豊臣の一員だと思うのも無理ないだろ。
あれだけ秀吉から優遇されてれば。
52日本@名無史さん:02/07/27 14:28
でも、譜代の家臣から見れば
あきらかに
豊臣<<<<<<<<<<<<宇喜多
なわけだ
53日本@名無史さん:02/07/27 14:34
そもそも豊臣家の血は現在の天皇家に流れていますが。
54日本@名無史さん:02/07/27 17:01
宇喜田秀家が豊臣一門なら妹婿の徳川家康も豊臣一門といえる
55日本@名無史さん:02/07/27 18:01
宇喜多秀家は秀吉が「男なら関白にしてやるのに」と言うほど
可愛がられた養女、お豪(前田利家から貰った)を正室として与えられた養子なんだけどな。
56日本@名無史さん:02/07/27 18:08
あの〜このスレとまったく同じスレが三戦板にも立っているんですが・・・
(スレタイトルも同じ)
57日本@名無史さん:02/07/27 18:14
秀家は秀吉に養子同然に育てられたのは確かだし、本人もほとんどそういう感覚だったみたいだけど、本当の意味での養子でないみたいだな。
養子のように育てられたという事に加えてお豪を正室としたことで名目共に一門扱いになったんじゃないのかな?

>>54
そうではなく、秀家は固い秀吉や豊臣と固い結び付きがあったということだろう。
58日本@名無史さん:02/07/27 18:16
>>56
よくある事だし、気にしなくて良いんじゃないか?

でもIFネタは三戦板というのが大概だし、どちかというと三戦板の話題だな。
59日本@名無史さん:02/07/27 19:42
>57
秀家は猶子。「猶子の如し」という漢語から来ているらしい。相続権のない緩やかな
養子、といったニュアンス。

ちなみに領内に出す文書は豊臣秀家。公式には羽柴秀家、と署名していたらしい。
ソースは歴史読本。
60日本@名無史さん:02/07/27 21:13
宇喜多秀家に関して、ちと新説(?)
秀家の八丈島流罪に関して大概の解説本などは
「家康は殺すこともあるまいと、刑一等を減じ流罪にした」などとサラリと書いてあるが、
実際は家康はかなり秀家を殺したかったのだと思われる。
しかし、島津家と前田家という二大外様に助命嘆願されて、
この時点で二家に悪感情を与えるわけにはいかず仕方なく流罪にとどめたのではないだろうか?
家康は石田三成の女婿を助命の約束を破り殺したり、
大阪の陣では浪人やその縁者にかなり厳しい措置を取っているし、
秀家に関しても殺さなかったことは政治的配慮からのかなりの譲歩だったと思われる。

思うに晩年の秀吉は苛烈で応用が効かず、
例えば秀次処刑の時、最上義光の娘も構わず殺したほど(そのため最上は親家康派に)なのに対し家康はやや柔軟だったようだ。
無理をしないし、逆にやれる時は思いっきりやってる。
61日本@名無史さん:02/07/27 21:40
家康は露骨に名家だけ残している。
宇喜多は名家じゃないから流罪。
62日本@名無史さん:02/07/27 21:55
秀家だったら、小早川秀秋を暫定関白にしたほうがマシだったのではないでせうか?
血筋や立場としては申し分無い立場にあるし、関ヶ原とかでの行動とかはともかくとして、
岡山での治績とかを考えれば決して暗君というワケでは無かったようだし、どうでしょ?
63日本@名無史さん:02/07/27 22:00
みんな家康評価しすぎ。
当時の大名の評判は、利家>輝元>家康だったとある。

人脈を考えれば当然そうなる。
秀家が関白ならば当然手はだせなかっただろう。
64日本@名無史さん:02/07/27 22:12
>>62
いや、秀秋はおねに愛想をつかれるほどの暗君。
岡山の治績? 非常に評判悪いけど。
一説には領民を理不尽に殺そうとして金玉蹴られて死んだとも言われる。
65日本@名無史さん:02/07/27 22:15
今更歴史は変えられないのだよ。
66日本@名無史さん:02/07/27 22:16
秀吉の養子で選ぶと、

秀康>・・・・・>秀家>秀次>・・・秀秋

でしょうな。
後八条宮がいますが親王ではちょっとむりだな。
家康を警戒するなら秀康でもよかったような気がしますね。
自分の子供には手をださないでしょうからね。


67日本@名無史さん:02/07/27 22:17
英明が重度のノイロゼで狂い死にしたのは確実
辻元と一緒で為政者としての資質なし
68日本@名無史さん:02/07/27 22:18
確かに岡山では秀秋の評判は最悪だよ。
69日本@名無史さん:02/07/27 22:23
もし秀吉死後あのまま豊臣政権が続いていたとしても
2〜30年後淀君が死んだ時乱が起きて崩壊していたと思う。
伊達政宗に天下を収めるチャンスが逢ったかも知れないね。
70親切な人:02/07/27 22:28

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71日本@名無史さん:02/07/27 22:28
じゃあ秀康だったらどうなのでしょうか。
血縁では家康の子とはいえ、秀忠との扱いの格差など、カナーリ微妙な関係だったようだし、
素直に家康の言う事を聞くとは思えず、あるいは…とは素人目には思いますが…

嫡男の信康ですら処断してしまうくらいなのだから、
庶子で認知をためらい、しかも他家に出したような秀康に対して躊躇するものは無いと思われ。
72日本@名無史さん:02/07/27 22:30
大体長子のくせに養子に出されるって時点でどうなの
詳細は知らないが
73日本@名無史さん:02/07/27 22:42
秀吉利家死後の家康の横暴に武力制裁出来る奴がいないのだから
無理です。
特に秀吉の義理の弟浅野長政なんて家康べったりだしあきれてしまう。
誰が関白になろうと豊臣恩顧の大名が尾張系と近江系で対立していたの
だからこれの対立を納めない限り政権維持は望めなかったと思う。
74日本@名無史さん:02/07/27 22:58
>>73
三成
75日本@名無史さん:02/07/27 23:01
>>74
虎之助
76日本@名無史さん:02/07/27 23:08
>>7475
家康を武力制裁できたの?
77日本@名無史さん:02/07/27 23:12
>>76
利家ならできたのか? 
78日本@名無史さん:02/07/27 23:13
その前に基本からやり直しなさい
79日本@名無史さん:02/07/27 23:13
利家だったら少なくとも豊臣恩顧の大名をまとめられたのではないの?
80日本@名無史さん:02/07/27 23:16
仮に利家に出来たとしても秀吉の翌年に死んでいるし、利長じゃ無理だろうから
意味がない
81日本@名無史さん:02/07/27 23:17
利長じゃ無理だろうからではない
無理もいいとこだった
82日本@名無史さん:02/07/27 23:18
結論
秀家無理無理
終了
83日本@名無史さん:02/07/27 23:19
>>77 
三成はやろうとしたが武運がなっかた と解釈せよ
84日本@名無史さん:02/07/27 23:21
武運ではない
所詮それだけの器だっただけ
85日本@名無史さん:02/07/27 23:26
>>1
それより、結城秀康の方がいいと思う。
家康も自分の息子が政権とったなら敵対するわけにもいかないし、豊臣恩顧
の大名も秀吉から才能を認められた彼にならついていくだろう。
秀頼も秀康を慕っていたようだし、秀康も義理の弟に悪くはすまい。
後は三成を消せば両勢力の多少の融和が可能だったかもしれない。
86日本@名無史さん:02/07/27 23:30
三成=孔明 しかし愛がなかった
87日本@名無史さん:02/07/27 23:38
三成=歳三 しかし漢でなかった
88日本@名無史さん:02/07/27 23:42
秀康は家康に言いように操られて政権とられます。
89日本@名無史さん:02/07/27 23:44
当たり前田のクラッカーだろ
で、ナニがいいたいの?それだけかい
90日本@名無史さん:02/07/28 07:54
>73
あたりまえですが豊臣家は当時最大の大名なわけですね。しかし幼児と寡婦だけで
意思表示の権能がなかった。そこを家康につけこまれたわけだ。
秀家が関白になることによって、形式上でも家康の上に意思表示できるまともな豊臣一族が上に来る。
七手組も動員できる権限を与えれば、宇喜多の小身も補えるだろう。

堺屋太一も、「巨いなる企て」の中で秀次が秀吉死後も健在であればてこずったであろうと述べてる
くらい。

ちなみに佐竹が大老になれば、家康は北方から上杉、佐竹という2つの大老家から圧迫を受ける事と
なる。
91日本@名無史さん:02/07/28 10:02
>>1ならび>>90の意見に賛成できる部分はある。

秀頼が産まれて秀吉は秀頼を自分の跡継ぎにしたいと思った。
そのため、秀吉は秀次の存在が邪魔になり、なおかつ警戒し死に追いやった。
秀次を殺すのではなく
「お前は秀頼が成人するまで政権を取れ、秀頼が成人したら、政権を渡し、お前は一族衆としてやっていけ悪いようにはせん」
と説得したら良いという意見もあるのだが、
それは秀吉は秀頼と豊臣家の将来に禍根を残すことになるし秀次も実際怪しい行動をしてたので無理。
同様の理由で小早川秀秋もダメ、二人とも無能な割に野心家っぽくて信用ならないんだよね。

そういうわけで白羽の矢が立つのが宇喜多秀家だろうね。
彼の鷹揚で裏表の無い無欲な性格と豊臣家家の一員としての自分を疑ってない点、
例えば関ヶ原でも何の邪念もなく当たり前のように西軍に参加したような部分を考えると、
彼にしばらく政権を担当させてから、秀頼に政権を渡すという案は良いと思う。
彼なら自分の野心のために将来、秀頼に害をなす事もなく豊臣家のために働いてくれると思うし、
そもそも秀秋・秀次のように実際に豊臣家を乗っ取れる立場でもないからな。
適任の男だと思う。

ただ、秀家はあまりにも人を疑う事を知らなすぎるようなとこはあるのが不安。
関ヶ原の時でも小早川秀秋が裏切ると石田、大谷、小西などが皆、疑っていたのを秀家は一笑にふしたという。
その根拠は「自分は秀吉の養子だから裏切る気など起こらない、あいつも養子だから裏切るわけがない」
というもので、その話しを聞いた大谷は「秀家殿はおめでたい方だ」とか言ったという。
92日本@名無史さん:02/07/28 10:34
こいつらはIFばかり読んでないで
少しは勉強しろと小一時間問い詰めたい
93日本@名無史さん:02/07/28 11:40
暗愚無能な秀次秀秋という人物像というのは、徳川が自らの正当性を強調するために江戸期に作ったものであり、
秀秋の岡山での乱行についても、後釜の池田氏が恣意的に流布させたものだという話もあるようですが…

岡山市教育委員会文化財専門監の出宮徳尚さんは、
「秀秋は岡山執政僅か一年十ヶ月という短期間のうちに、
 領内の総検地の施行、寺社領の再整備と古刹の再建、領国内の城割の敢行、
 更に宇喜多時代不完全だった岡山城の近代化改装と
 岡山市街地の近世都市としての整備等々、少なからざる治績を岡山に遺した。
 これらの事業を二年足らずで完成させたことは、
 後世の史書の記述する如くの乱君では遂行できない偉業といえよう。」
とし、その死についても
「秀秋横死ののち、その位牌と遺像は豊臣一門として高台寺に祀られている。
 その不可解な死は、豊臣一族の処分と外様大名への見せしめ等々のため徳川に殺害されたのでは。」
という見方をしておられます。


と、言っても、無能では無かったにしても秀秋は若過ぎるうえに
家康には何かといろいろ世話になっているので、掣肘することなどとてもとても無理だったかと。
ましてや秀家なんぞ、従兄弟の詮家や重臣の戸川花房など
家康の調略があったにせよ一門や家中の統制がまるで出来ないような香具師に関白なんぞとても務まらないっしょ。
そうなると、ヤパーリ秀次か或いは於次秀勝あたりが健在だったら…と。
豊臣氏の関白権力のもと、有力大名の連邦国家みたいになり、
今虚しく声高に叫ばれる地方分権社会が実現していたかも。
もっとも、西欧列強の侵略を受けやすくなる危険性を孕んで。
94日本@名無史さん:02/07/28 12:21
>>91
宇喜多秀家だと同格の養子の連中が不満を持つ。
また秀家自身は豊家の人間のようなものだが宇喜多家は子飼いの家ではないので政権担当上きわめて不安定。
95日本@名無史さん:02/07/28 12:23
自分の家すら治められない男に天下を治めろと言ったってムリだろ
96日本@名無史さん:02/07/28 12:31
>>95
禿死苦同意…
97日本@名無史さん:02/07/28 13:02
逆に、織田秀信(三法師)に政権を一旦返上したらどうだろう
98織田信雄:02/07/28 14:08
俺に返上すれば全て解決。
99日本@名無史さん:02/07/28 14:15
>>97
織田秀信の妻って豊臣秀勝の娘だよね。
なかなかいいかもしれない。
100日本@名無史さん:02/07/28 14:17
手っ取り早いのは家康に幕府を開くことを勧めて豊臣家を譜代大名として
尾張にでも残してくれることを頼んだ方が現実的かも。
それとも豊臣家を公家として京都においても良かったかな。

101日本@名無史さん:02/07/28 15:26
幼君が立ったとき権勢を握るのは史上多くの場合外戚であるから、
秀頼の生母淀の実家=外戚は浅井氏なので、
浅井がまがりなりにも存続してたら権勢を握っただろうと思う。
そこで外戚に準じるものとして淀の母の実家の織田が再浮上する可能性なきにしもあらず。
実際には織田には人材がいなかったわけだけど。
102日本@名無史さん:02/07/28 16:35
足利尊氏・直冬の例もあるし、確かに秀康のほうが
面白いね
103日本@名無史さん:02/07/28 16:44
>>101
淀殿に一番近い親族は言うまでもなく妹二人。
となると最有力の外戚は京極高次か徳川秀忠になってしまう。
104日本@名無史さん:02/07/28 20:28
なるほど。親、叔父等の縁をたどれば、織田信雄、有楽などがいる。普通外戚というと
尊属を言うのでは?
105日本@名無史さん:02/07/28 21:40
>1
とりあえず暫定的に豊臣家を継ぐ必要があるな。
自分より石高が高い大名がわんさかいたらとてもじゃないが
リーダーシップは取れん
島原の乱鎮圧に1万石弱の板倉某を向かわせたことを知った柳生宗矩が
そんな石高のものに九州の大大名が従う訳がない、と松平伊豆を派遣させたように
106日本@名無史さん:02/07/28 22:16
宇喜多秀家が関白になったら家内の宗教戦争は避けられたかな?
107日本@名無史さん:02/07/28 22:34
秀家が淀殿の首に鈴つけれらると思えないので
駄目でしょう
108日本@名無史さん:02/07/29 00:19
秀家が関白になろうものなら、秀吉が作った支配体制が崩れてしまう罠。
109日本@名無史さん:02/07/29 09:35
20万石で200万石の家康に喧嘩を売った三成は漢
110日本@名無史さん:02/07/29 14:49
ただのバカでしょう
111日本@名無史さん:02/07/29 14:52
蜜鳴りはあたまわりぃ。
112日本@名無史さん:02/07/29 17:40
>>109
正確に言うと家康は当時、250万石以上。
漢です
113日本@名無史さん:02/07/29 22:06
なおさら馬鹿ジャン
114日本@名無史さん:02/07/29 22:15
>>109
勝手に毛利一族も味方につくと計算していたから三成の脳内では互角の
つもりだったんだろう。
115日本@名無史さん:02/07/29 22:43
毛利は実際に味方についてたろ
毛利秀元はやる気満々だったらしい
吉川さえ居なければ秀元隊が主戦場に突入して
西軍の勝ちもあったかもしれない
116日本@名無史さん:02/07/29 23:23
そう言えば、関ヶ原の主謀者は三成じゃなくて毛利だったと言う説があったね
117日本@名無史さん:02/07/29 23:49
保守派の毛利にそこまでやろうと動くヤツいる?
しかも当主は輝元だし
118日本@名無史さん:02/07/29 23:55
>>117
毛利主謀者説の根拠は、三成の行動開始時期が輝元が軍勢率いて大坂入城するより遅かったのと
安国寺恵けいの行動時期の早さだったと思う
それと朝鮮やイエスズ会記などの記述にも毛利が主謀者で三成は利用されてたみたいに書いてあるんだって
ま、そういう説があるとだけ覚えといてくださいな
119日本@名無史さん:02/07/30 07:04
秀家首謀者説もあるね。
120日本@名無史さん:02/07/30 07:37
大友のバカ息子を動かしたのは輝元かも
121日本@名無史さん:02/07/30 07:47
>>118
確かに朝鮮人の書いた看羊録なんかでは「関東より京都にかけて、家康は米で陸路をつくるが、毛利は銀銭で橋をかけるだろう」という言葉があるし、案外当時の毛利は力あったんかな?
122日本@名無史さん:02/07/30 18:02
でももし秀家が関白になったら、豪姫と淀の方の突っ張りあいというのも関心
あるなあ
123日本@名無史さん:02/07/30 19:11
むしろ西軍が勝ってたら秀秋が関白になりそう
ほんで秀秋方と秀頼方とにわかれてもう一合戦ありそう
124日本@名無史さん:02/07/30 19:51
実際関ヶ原で西軍が勝っていたとしても、家康が生き残っていた場合
秀忠率いる徳川本隊3万以上の軍と逃げ場のない反三成豊民恩顧の武
将達そして、野心たっぷりの九州の如水、東北の政宗ら、他の五大老
らが入り乱れて大変だったろうな。
そうなったら秀頼がどこに付くかである程度決まるんだろうけど。
家康が死んだ場合は大老達の政権闘争が続く室町幕府的な貧弱な豊臣
政権となっていたと思う。
125日本@名無史さん:02/07/30 21:31
>121
あるある!非常に力があるよ。
石高でも
毛利輝元     120万石
小早川隆景(秀秋) 52万石
毛利秀包      13万石
安国寺恵慧      6万石
合計       191万石

この他にも中国地方という当時の先進地方を押さえており
商工業収入も多かった。毛利家の当主が家康のような統率力をもっていたら
天下を2分する巨頭足り得ただろう。
126日本@名無史さん:02/07/31 19:08
毛利すごかったんだね。
徳川>毛利>>>上杉>>前田>>宇喜多か?
127日本@名無史さん:02/07/31 22:54
島津と伊達が・・・
128日本@名無史さん:02/08/01 12:12
徳川>>毛利>>上杉>>前田
以下、島津・宇喜田・佐竹・伊達・小早川あたり
次点・鍋島
129日本@名無史さん:02/08/01 18:53
徳川家康:255万石
毛利輝元:120万石
上杉景勝:120万石
前田利家:84万石
伊達政宗:58万石
宇喜多秀家:57万石
島津義弘:55万石
佐竹義宣:54万石
小早川秀秋:52万石
鍋島直茂:36万石

こんな感じ。宇喜多は僅差で第6位。ちなみに上記の10人で871万石。
全国約1,900万石のうち871万石。如何に大諸侯が過重なお荷物であったか
わかろうというものだ。
130日本@名無史さん:02/08/02 18:29
毛利は石高だけじゃなく石見銀山や 博多 下関などの都市を要してる
しかも、兵力は朝鮮出兵の歴戦の兵 小早川隆景が生きてたら歴史はどうなったか
あと、豊臣政権存続には秀吉の跡継ぎというよりも秀長の存在が不可欠だろう
あと、利休が生きてたらというのも面白い
131日本@名無史さん:02/08/02 19:25
>>130
石見銀山の採掘権はすでに取り上げられてなかったっけ。
132日本@名無史さん:02/08/02 21:57
よく毛利と小早川を分けて考える人がいるがどうなのかな?確かに血のつながりは
なくなったが家臣には隆景に仕えていたのが多いし毛利両川として有名だったんだから
1セットとして考えられているのでは?
あと、石高だけで論じる人が多いが金銀の収入を入れると国力はどうなんだろうか
133日本@名無史さん:02/08/02 22:57
小早川は、隆景が名島の本領を秀秋に譲り分領の三原を隠居所として引き上げると、
家臣団のほとんどは三原の隆景のもとか毛利家に去ってしまったそうな。
困った秀吉は、甥の為に新規に家臣を付けてやるのだが、自分の伝手だけでは心許無いと
家康にも家臣の紹介を頼んだそうな。
加えて秀次事件で連座になりそうになった時の取り成しや、
朝鮮の件での取り成しなど、秀秋は家康にいろいろと世話になっていたという経緯がある。

と…話を戻すと、そういう訳で秀秋と毛利との関係は
秀秋正室が元就の外孫宍戸氏である以外、ほとんど希薄なものになっていたものと思われ。

134日本@名無史さん:02/08/02 23:00
どうでもこうでも毛利にそんなに力があったら大坂城から撤退は
しないだろう。
135日本@名無史さん:02/08/02 23:07
ごもっとも
136日本@名無史さん:02/08/02 23:52
結局、秀長の死と秀次誅殺とで豊家は終ったものと
137日本@名無史さん:02/08/03 01:19
>>130
家康は銀座も新宿も渋谷も
歌舞伎町も鶯谷もようしているぞ
138日本@名無史さん:02/08/03 01:24
>>136
だろうな。
どう考えても、秀長に先立たれたのが痛い。
あとは秀勝(実子の方)が生きていたらまた違ったんだろうが……。
139日本@名無史さん:02/08/03 07:01
秀長、秀次か、せめて蒲生氏郷、小早川隆景、前田利家の誰か一人でも生き残っていれば。
皆死んでしまったのは、運命としか思えん。
140日本@名無史さん:02/08/03 08:25
朝鮮出兵を防げた人物がいればもう少し持ったのにね。
141日本@名無史さん:02/08/03 09:09
あと、利休が生きてたらどんな影響があったかな
茶の湯の師弟関係による人脈はかなりのものがあったし
かつて秀長に「内内のことは利休に公のことはこの秀長に」といわせたほどの人物(ごめん記憶が不確か)
142日本@名無史さん:02/08/03 09:17
利休が生きていたら、って、無茶なIFだと思う。
戦死とか病死じゃないんだからさ……。
秀吉による粛正な訳だし、何も変わらない(結局粛正される)と思うんだが。
143日本@名無史さん:02/08/03 10:07
正直豊臣の天下に何の魅力も感じない。
144日本@名無史さん:02/08/03 10:57
チョソですか?
145日本@名無史さん:02/08/03 11:17
利休が少し生き永らえたとしても、結局は織部のような末路を辿っていたものと思われ。

この師弟の逝き様氏に様を見ると、
一介の商人茶人や一万石程度の大名茶人が、権力者たちの芸術サロンをもって裏から日本を操ろうと?して
それが時の最高権力者を大いに懼れさせ遂にはその暗闘に敗れ死を賜ったことは、
哀れとはいえ何か痛快なものも感じるやうな…と話が逸れてシマタ
146日本@名無史さん:02/08/03 11:28
利休の権力っても秀吉あってのものだしな。
血縁でつながっている秀長や自己の封建領主的な実力で地位を保っている家康以下諸大名に比べれば
はるかに基盤が弱い。
だから秀吉に嫌われたり、秀吉が死んだ時点で終わり。
147日本@名無史さん:02/08/03 11:46
要は秀吉があと十年長生きしてりゃ良かったんだYO
毛利島津伊達ら有力大名は朝鮮半島でアボーソ
逃げたら大友みたいに取り潰して領地は豊家譜代に分配して(゚д゚)ウマー
家康も浅野堀福島真田蒲生佐竹上杉ら家康包囲衆に処分させて萬事萬々歳
というふうになっていたと思ふのDEATHが…???
148日本@名無史さん:02/08/03 18:30
とりあえず 秀長 秀次 小早川隆景 前田利家 蒲生氏郷の誰か一人でも
生きてたら歴史は変わっただろう
確かに時代の流れが家康の天下にしたんだろう
149日本@名無史さん:02/08/03 18:48
豊臣譜代の近江派と尾張派の対立が続いていたら
豊臣の政権も長くなかったと思うけど、秀吉以外
まとめられる人物は誰だったんでしょう。
150日本@名無史さん:02/08/03 20:17
>>148
>>149
やっぱり、キーは秀長じゃないか?
秀長なら、なんていっても身内だし、豊臣政権の宰相だったんでしょ。
この人、結構、政治的バランス感覚の優れてて、性格もいい人だったらしい。
この人なら、対立もある程度コントロールできたのでは?
ケチだったらしいけど、逆にいえば、質実剛健ともいえるしね。
秀次だと、ちょっと弱いかな。
隆景、利家、氏郷だと政権の後継問題で結局、家康と同じになるのでは?
実際、当時の秀長の評判は、どんな感じだったんだろう?

151日本@名無史さん:02/08/04 00:49
秀長って徳川幕府でいう譜代や一門のまとめ役でしょう
秀吉、秀長 ついでに秀次が死んでまとまりがなくなった
152日本@名無史さん:02/08/04 00:53
>>150
秀長を悪く言ってるのは見たこと無いな。
政治的なバランスもそうだが、この出自できっちり戦もこなしていたし、俺的には天才だと思う。
ただもう、激務だったみたいだからね。
それだけ深く信頼されていた、という話だろうけど、どっちみち長生きはできない男だったんじゃないか?

利家もそう。生まれた年が年なんだから、そうそう長生きできはしなかったはず。
政権での後継問題で絡む事は無かっただろうが、武断派と文治派のバランスを取っても数年でしょう。

隆景の主眼は毛利の安泰だから、勝てる方につくだけ。

氏郷は……俺、この男は解らない。本物の切れ者だったみたいだし。
家康の天下は無かったかもしれないけど、豊臣の力になったかは疑問。

スレの主眼である秀家も、お家騒動で評価落としてるし、影響力は弱まってる。
秀長が逝った時点で終わった。そしてそれは当然の帰結、という感じがするな。
153日本@名無史さん:02/08/04 00:58
ちなみに秀勝が生きてても何の影響もないかな?
154日本@名無史さん:02/08/04 00:59
関ヶ原で西軍が勝った場合、秀家と三成が台頭するだろうけど
この2人で勢力争いしそうだね。
あと徳川家取りつぶされてその残党がなんかやりそうな気がする。
155日本@名無史さん:02/08/04 01:13
>>153
どの秀勝よ?
156日本@名無史さん:02/08/04 02:05
西軍勝っても徳川家を取り潰すとか以前に政権争いになって戦国に逆戻り
157日本@名無史さん:02/08/04 02:20
朝鮮出兵した時点で全国の大名から不平を買った
豊臣家に将来はなかったんだけどね。
158日本@名無史さん:02/08/04 03:16
例の法則な〜
159日本@名無史さん:02/08/04 16:23
>>154
秀家と三成は、争いにならんと思う。
宇喜田家の内紛見てると、実権にぎってウンヌンってのは難しいそう。
三成の担いだミコシに乗って、秀頼までのつなぎって感じじゃないか?
しかし、西軍が勝ったとしても、東軍に参加した大名の処理は無理そう。
西軍内部でも、豊臣政権として、長期的に毛利をどうするかってのは難しい。
こう考えたら、豊臣政権の将来性ってダメダメだな。
160日本@名無史さん:02/08/05 01:34
>>159
戦国時代を武力で終焉させた政権なのに秀吉死後、外様大名の合議制という矛盾きわまりない政治体制になった時点で崩壊決定。
161日本@名無史さん:02/08/05 01:39
合議制と言っても五大老の権限は知行宛行権しかない訳で。
実務的権限は五奉行の方があった。
162日本@名無史さん:02/08/05 01:46
>>161
その知行あてがい権のほうが重要なのよ。

統一政権でなくなったときの五奉行の権限など豊臣家の家政的な役割しか果たせないんだから。
実際徳川家康に実権を握られた時点で実質五奉行の機能は破綻しているし。
関が原においても奉行の弾劾上など政権維持に働かなかったし。
163日本@名無史さん:02/08/05 01:50
>>162
その知行宛行権も秀頼の奉書という形で、五大老の名前で知行を与えたものはないよ。
それと家康が実権を握ったのは関ヶ原以降、混同しないように。
164日本@名無史さん:02/08/05 01:57
>>163
家康が自身の名で知行あてがいしているのが関ヶ原前にありますが。

それに家康は石田三成が佐和山城に蟄居し他の大老が自領に帰国して大阪城西ノ丸に入った時点で
それをとめる勢力がないのだから実権を握っています。
165日本@名無史さん:02/08/05 02:05
>>164
それは森忠政に6万7500石と細川忠興への6万石の件でしょ?
それは他の奉行・大老からの詰問状によって破棄されてますが。
理由は蔵入地の管理は奉行の権限で、大老の連署が必要な宛行を家康が単独で行使したのが問題視されたから。

西の丸に入って実権を握ろうとした訳で、まだ実権を握っていた訳じゃないよ。
166日本@名無史さん:02/08/05 02:49
>>165
実権を握る握らないという話になってるが、
家康の行為は、豊臣政権の枠組みの破壊が目的。
要は豊臣政権にケンカを売ってるということ。
そのまま、自分の意見が通れば、自分の権力の拡大とそれに比例して
豊臣家の発言力の低下に繋がり、引いては、豊臣政権の弱体化に繋がる。
意見が覆されても、知行の宛行を無効にされた大名は、
家康の行為に異を唱えた勢力をよく思うはずはなく、逆に親家康派となり、
家康自身の勢力拡大となり、以下、上記と同じ。
非常にイヤラシイが、うまいやり方。

これは、家康が関が原で死んでいても、
豊臣直系の人間に実権を握れる実力者が存在せず、
外様大大名がいる限り、第二、第三の家康になる可能性がある。

よって、豊臣家の天下は非常に心許ない。
167日本@名無史さん:02/08/05 03:34
>>166
家康は豊臣政権に喧嘩を売ってる訳ではない。
豊臣政権内部での権力争いだよ。
豊臣政権の仕組みを無視し始めたのは関ヶ原以降。

第一、五大老が合議制で全て決めてたなんて今時ナンセンスですよ。
168日本@名無史さん:02/08/05 03:41
>>167
そうではなくて166の言いたいのは合議制がどうとかいう以前の問題として
別組織の人間に政権委託した時点で豊臣政権は終わっていると言いたいんでしょうよ。
あとは乗っ取られるか、内部からぼろぼろにされるかどっちかしかないんだから。
169日本@名無史さん:02/08/05 03:48
>>168
>別組織の人間に政権委託した時点で豊臣政権は終わっている
別組織の人間とは?五大老は豊臣政権での権限が少ない事は書いてますが。
政権を運営していたのは奉行ですよ。
170日本@名無史さん:02/08/05 03:53
>>169
外様大名などに統一政権での発言力を封じていないことですな。
奉行が政権維持する力がなかったから家康に無力化されたんだろう。
それとも関ヶ原までは家康が豊臣政権維持の意志があってそれに勝利したから豹変したという理屈かな。
171日本@名無史さん:02/08/05 04:11
>>170
>外様大名などに統一政権での発言力を封じていないことですな。
>>168を読んで、どう解釈したら上記になるのか理解出来ないし、意味が分からない。

奉行の浅野長政や石田三成が失脚したから、奉行の政権運営能力が弱まった。
この失脚は豊臣の子飼い同士の争いが元で、それを家康に漬け込まれた訳。

>関ヶ原までは家康が豊臣政権維持の意志があってそれに勝利したから豹変
そんな家康の意思なんて一言も言ってないけど。事実を述べてるだけですが。
172日本@名無史さん:02/08/05 04:25
俺は171(便宜上)の言い分が感情的で問題有ると思うぞ。
ちょっと落ち着けよ。

170(便宜上)との意見の相違があったっていいじゃないか。
なんでそんなヒステリックなんだ。醜い。
173日本@名無史さん:02/08/05 04:33
>>167
>>169
異論はあるかもしれないが、今でいったら、議員と官僚。
制度上では、行政を行うのは官僚だが、
ムネオみたいな議員の行政運営に対する意見を無視できんだろ。
第一、家康はその奉行の運営する政権組織自体を壊したいんだから。
家康が豊臣政権の仕組みを無視し始めたのは関ヶ原以降というのは、間違い。
秀吉が死んで、いきなり大名間の婚姻問題を起こしてる。
家康自身は、豊臣家を思う老人のうっかりミスみたいに
言い訳したみたいだが、
そんなこと、当時でも信じられてない。
それが証拠に奉行側は病床の利家まで狩り出してるし、
一触即発までいってる。
家康が口でなんと言っても、行動を見れば、
秀吉後の天下を狙っていたのは明らか。
大体、秀吉だってそうやって天下取ったんでしょう?

174日本@名無史さん:02/08/05 04:51
>>171
外様大名ウンヌンは、別組織の人間とは?への答え。
豹変ウンヌンは、168の皮肉っす。

行政組織好きな貴方は、ずばり公務員?
172さんの言ってるように、力抜いていきましょう。
175日本@名無史さん:02/08/05 05:15
>>172みたいな感情的で無意味レスは放置しますので。

>>173
議員と官僚を例えにするのは異論どころか見当違いと思うが
>第一、家康はその奉行の運営する政権組織自体を壊したいんだから
これは、その通りだと思う。
婚姻問題も知行宛行問題も、奉行や豊臣政権を運営する側にあった権限を
侵食して、政権の組織体制を崩壊させようとしてるのは確かだと思う。

豊臣政権の仕組みを無視し始めたのは関ヶ原以降か以前かは、解釈の違いと思うが
自分は家康が関ヶ原前までは、家康の名前ではなく、豊臣政権での肩書きを使ってるから。

利家を駆り出したのは、奉行の権力があくまで強力な豊臣家の力があって
始めて行使出来ると、奉行側が改めて実感したのではと思う。
176日本@名無史さん:02/08/05 08:35
>家康の名前ではなく、豊臣政権での肩書きを使ってるから。
肩書きがあるかないか、で判断するのか?
ただ単に、それを使った方が説得力を得られる、建前として良であると家康が判断しただけでねぇの?

それから、両者、数字コテでもいいからつけたらどうか? こんだけ続けるんならさ。
177日本@名無史さん:02/08/05 12:48
家康を残してしまった秀吉の負け。
倒しときゃよかったんだよ。
178日本@名無史さん:02/08/05 13:18
>>175
前田利家は豊臣家の力じゃないぞ。
比較的、親豊臣政権の外様に過ぎない。
事実、利家死後の前田家は豊臣家御大事という路線から自領防衛に傾いている。
それこそ、大河ドラマのように「秀吉と利家が友達」とか「利家が豊臣家をどうしても守りたかった」
っていう個人的な親愛の情が必要だったことになる。
それこそ「家康が野心を持たなければ」というのを期待するのと同じだな。

まあ私は前田利家も友情とは関係なく家康の対抗馬である関係上、利家が豊臣家の擁護者であることを主張することで政治的効果を発揮するのを利用しただけだと思っているが。

前田利家を担ぎ出したいう事実が秀吉死後、豊臣政権が外様大名同士を牽制させないと自政権が維持できないことを意味する。

179日本@名無史さん:02/08/05 14:27
秀家は秀吉が臨終でいったように人間としては素晴らしいですが、
家中はバラバラであったように家康に対抗できる程の政治力は
もっていないでしょう。
  成りあがりの秀吉は国内より国外に野心をみせたため、
天下取りのスピードを重んじ、毛利、島津、長曾我部、徳川、上杉、伊達と妥協してしまった。
馬鹿でなかったら北条も残ってた。
 全部殺せばよかったのに、成りあがりの増長マンは家が滅びるなんて
想像できなかったんだろうか。
 全部つぶしてかつての名門(尼子、武田など)を10万石ほどで復活させれば
よかったのに。馬鹿の譜代や親戚などは3万石くらいでいっぱいばら撒けば
従うしかないでしょうに。
 
180日本@名無史さん:02/08/05 16:17
はいはい
181日本@名無史さん:02/08/05 16:57
蒲生氏郷が長命であれば、会津100万石で、しかも上杉が越後に相当の勢力で
残るわけでしょ。しかも相聟ということで、前田利長ともよい関係かも。
元々家康嫌いなわけだし、近江出身だから光成ともうまくやれえたかも。
十分に期待持てるね。
ということは江戸幕府開設に大いに貢献したのは、氏郷を毒殺した(噂)
伊達政宗ということになるね。まあ彼は秀吉に殺されかけたんだから、恨みも
多かったのだろう。
182日本@名無史さん:02/08/05 17:57
しかし、正宗って相当なモンだな。
伊達正宗VS徳川家康なんてドロドロしてて、結構、面白そう。
家康にしても正宗とやり合うのが、一番、イヤなのでは?
関ヶ原が長引いたら、こんな状況もアリだったかな?
183日本@名無史さん:02/08/05 18:40
>>182
政宗な。
持ち上げるなら名前位はちゃんといこうや。
184日本@名無史さん:02/08/05 18:48
>>182
政宗は上杉景勝が領している自分の旧領を取り戻したかったので関が原が長引いても反徳川に回ることなどありえない。
景勝が家康と和睦して反三成になるんなら別だが。
ただ景勝と家康が和睦すれば徳川軍を西に向けることが可能になるので西軍は窮地に陥るが。
185日本@名無史さん:02/08/05 22:00
蒲生も政宗も利口者。250万石以上の家康に正面切っ挑むとしてもには数多の条件が
必要と考えるから、実現はしないよ。
 お前等なあ、政宗をなめすぎだよ。
186日本@名無史さん:02/08/05 22:05
政宗は景勝と和睦したんだよな。食えない奴よこいつは。
最上上杉と内々の不戦条約でもむすんで上杉に関東に出撃させれば
佐竹も動くだろうが。
 まあ、所詮他人だのみの作戦なんぞ成功しためしはないか。
せいぜい南部領にお手手のばすぐらいの小ざかしいねらいなんぞ。。。

187日本@名無史さん:02/08/05 23:26
本能寺の変以来秀吉とつるんでいた家康が秀吉が死んでから
約束を履行してもらっただけなんじゃない?
188矢部明雄:02/08/06 00:03
>>187
本能寺の変の後、秀吉と家康は戦ったことがあるでやんす。
189日本@名無史さん:02/08/06 21:31
天王山の戦いですね。
190日本@名無史さん:02/08/06 21:34
シズガタケじゃなかったっけ?
191日本@名無史さん:02/08/06 21:35
>189
小牧。長久手だろうが。
192日本@名無史さん:02/08/06 21:42
>>191
あんたのりわるいね。
193日本@名無史さん:02/08/08 01:51
のりは、やっぱり山本山。
194日本@名無史さん:02/08/08 07:32
山本山・・・江戸時代の力士だね。
195日本@名無史さん:02/08/08 07:48
大阪の陣後、
豊臣の姓は木下家の当主が名乗ってたそうだから、
豊臣は滅亡なんかしてないよ。
196日本@名無史さん:02/08/09 14:05
豪姫の天下になったかもね。
でも現実の豪姫はけっこう体が弱かったらしいが。
197日本@名無史さん:02/08/10 01:52
>>195
その後、豊臣(木下)は、どうなったの?

>>196
秀家が関白になってたら、豪姫つながりで、
利家後の前田家も、豊臣政権を見捨てたか、微妙?
でも、そうなると秀家のあと、秀頼になったかどうか・・・
秀家って子供いたんですか?
198日本@名無史さん:02/08/10 11:08
木下家の殿様は城下ガレイが大好物。
数年前の情報では子孫の方の一人は会社重役。
前田家は自家存続で精一杯、気合負けってやつですかね。
八丈島関白として捲土重来!城都(みやこ)ではクサヤが流行る?
199日本@名無史さん:02/08/10 16:51
>>197
>秀家って子供いたんですか?
いたけどさ。


”宇喜田”秀家が関白就任で豊臣家が保ったとする。

でもこれは「血縁なくても別姓でも、養子になれば関白になれる」という
前例を残すことになるでしょう。
そのまま宇喜田豊臣が相続とか。
混乱の種ですなぁ。


北政所に実務政権委譲すればよかったのにね。
言うこと聞かん豊臣旗下はおらんでしょ。
200日本@名無史さん:02/08/10 18:47
>>199
宇喜多な。多。

だが北政所に、って件はどうかね。
派閥が出来るだけの話だ。
それに彼女の年を考えてみ。何年もつやら。

彼女に広い視野を求めると間違いを犯すのは証明されている。
家康に喰われるのがオチじゃないか。
201日本@名無史さん:02/08/10 21:37
大老の中には覇道を進むことができる大名が家康以外いない
202日本@名無史さん:02/08/12 20:13
>>199
ちょっと質問。
前関白と血縁関係にないと関白になれないのですか?
それと、よく歴史板で「姓と氏は違う」ってみたことあるんですが、
姓と氏の区別がもう一つ理解してないのですが、
秀家の場合、姓は「宇喜多」、氏は「豊臣」ってことで合ってます?
「豊臣」なら、前関白と同じなので、ちょっと強引に考えれば、
関白になれそうな気がするんですが・・・

ショックを受けやすい正確なので、
間違ってたら、
やさしく教えて下さい。
203日本@名無史さん:02/08/12 20:21
>>202
というか、199の言うことが仮に正しかったとした場合、秀吉が関白になれないという罠。
秀吉も養子に入って関白になった。

姓は宇喜多。
氏は……。どれだろ。源平藤橘の事ですな。

あと、向いてないと思ったら2chに来ない方がいいかもしれんぜ。
煽られる事は良くあるし。まぁ慣れるような気もするけどな。
何か言われても、そうそう気にすんな。
204日本@名無史さん:02/08/13 00:46
>>203
宇喜多は苗字
205日本@名無史さん:02/08/13 01:37
>>203
姓というのは、真人とか朝臣、宿禰といったもの。宇喜多は家名(苗字)。
秀吉は近衛家の養子になって藤原に改氏うえで(その前の氏は平)関白になった。
その後豊臣の氏を賜った。
宇喜多の氏が何かは知らないけど、豊臣に改氏すればいいんだよ。
朝廷から宣旨を貰ってね。
206203:02/08/13 02:02
>>204-205
勉強になりました。
色々ありがとうございました。
207日本@名無史さん:02/08/13 02:07
>秀吉は近衛家の養子になって藤原に改氏
ここが大事なんだよ。
せめて秀家が形式上、正式に養子になって、
正式に「豊臣秀家」にならないと関白なれないと思う。
その意味で>>199はスレタイトル的に重要な話題を提供した。
208日本@名無史さん:02/08/13 07:13
>>197
木下家は取り潰されることなく幕末まで続き、今でも子孫がいますね。

http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kyushu/hiji.html
209日本@名無史さん:02/08/13 07:22
>>202
このスレに限らずあまり気にせず書き込みしたらいいよ。
どうせ匿名なんだし。
日常の君を知ってるやつなんていないんだから自由に振舞えばいい。
初めて煽られたら傷つくかもしれないけどすぐ慣れるよ。
なんでも慣れだね。
210日本@名無史さん:02/08/13 07:25
あっ、知らなかった。
木下家(おねの兄、木下家定の家系)は複数あるんですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/chugoku/asimori.html

豊臣の氏を大阪の陣以降も名乗ってたというのは両家ともそうなんでしょうか?
良く幕府に睨まれなかったなと思います。
211日本@名無史さん:02/08/13 09:54

逆に

松平名乗りを許さない
→いつまでも仲間はずれ
いつでも豊臣か木下
→日本中から領民に至るまでに「あいつ元々百姓だぜ」と思われてる、といういじめ

とは考えられないだろうか・・・。
212日本@名無史さん:02/08/13 14:56
>>211
木下家の者たち自身はそれに誇りを持って生きたかもね。
213日本@名無史さん:02/08/16 00:56
もしで話をするなら、おねが不妊症ではなく
嫡男を産む事ができていたなら、秀吉が死ぬ頃には
立派に成人しており、秀吉も跡継ぎのことを早くから考えて
基盤をそれなりに作っていたんじゃないかと思う。
それにおねならば、ある程度、豊臣恩顧の大名もついてきた
のではないかと思ったりもした。
214日本@名無史さん:02/08/16 02:57
>>213
それを語るスレじゃあるまいに……。
215日本@名無史さん:02/08/16 08:55
>>213
おねが不妊症なんて話し大河ドラマ秀吉でしか聞いたことないな。
おねと不仲だったのかもしれないし、
秀吉が不能だったのかもしれない(一部の実子は浮気)
216日本@名無史さん:02/08/16 11:31
>>215
最近では秀勝という長男がいた説強し(夭折)。
秀勝という名には凄まじいこだわりを見せて、養子二人にも強制しとるしなー。
217日本@名無史さん:02/08/16 21:47
ちょっと言葉足らずだった。
長男秀勝はおねの子ではない。表で作った子で、つまり秀吉が不能であった訳ではない。
とするとおねが不妊症だったと見る事ができる。

淀の子が浮気から、っていうほうが大河ドラマじみてる。大野の子ってやつだろ?
218日本@名無史さん:02/08/25 14:03
219日本@名無史さん:02/09/10 01:11
大野治長と淀君の関係ってNHKのガセネタか?
それにしてもどっから仕入れたネタなんだろう?
有力な学説でもあったのか?
220日本@名無史さん:02/09/17 05:25
宇喜多宇喜田浮田どれでも間違いではないです。
221日本@名無史さん:02/09/17 12:09
宇喜田家15代目当主、宇喜田秀臣氏(62)は現在、千葉県船橋市に在住です。(職業などの詳細は分かりません)
5年前の岡山城築城400年祭にゲストで来られました。
222日本@名無史さん:02/09/17 12:20
以前、秀家の足跡を追って関ケ原から秀家が落ち延びたという岐阜県春日村などを
訪ねたことがあります。そこは渓流沿いの人里離れた小集落。ここで地元郷士に助け
出された秀家は、四十日余りかくまわれたのだといいます。子孫の屋敷には、家宝とし
て秀家ゆかりの刀ややり、朱印状などが伝承されていました。だが地元でさえ、同家
が秀家とかかわりのあることを知る人は案外少ない、とその時の当主の言葉は、妙に
耳に残っています。その秀家は薩摩に下って、八丈島送りになりました。島の生活は
困難を極めたでしょう。「ここもといよいよ堪え難き體(てい)たらく、御推量あるべく候」。
旧臣の花房正成が1614(慶長十九)年、米三俵を送った際の秀家の礼状ですが、
リストラや会社倒産などが相次ぎ、とかく人間関係が希薄になりがちな現代において、
宇喜多家恩顧の旧臣のこころは、新鮮な驚きをもって迫ってきます。
223日本@名無史さん:02/09/17 13:36
宇喜多氏といい、斉藤氏といい、世に梟雄と呼ばれた家の最期は、はかない
ものですね。
ところで、大阪の陣で戦った明石全登はなんで宇喜多秀家の下を去ったんだ。
誰か教えてけろ。
224日本@名無史さん:02/09/17 14:18
>>207 しかし仮に秀家が、公卿の養子となり宇喜田豊臣家を起し、関白になっ
て、当時の大名世論がそれを支持したかどうかとなると、疑問があります。
東国諸侯を始めとして「不支持」の%が増えて天下を二分する事になるのでは
ないでしょうか?勿論西国では島津あたりは急先鋒になりえそうだし。

>>121 毛利輝元は政治家として二流だったが為に、政権抗争に関われなかった
これが元就の代であったなら政権奪取も可能であった。
225日本@名無史さん:02/09/17 16:59
>223
それは明石がキリシタンだったからだYO
226日本@名無史さん:02/09/17 17:05
>>223
直家の事か?
斉藤?斎藤でしょ?
227日本@名無史さん:02/09/17 17:06
>>233
関が原で浪人になったからでしょう。そりゃ。
228223:02/09/17 17:31
>>226
ごめんごめん斎藤。
そうそう直家。能家のころは浦上氏の有力家臣だったが興家の代で一度没落。
直家になって、だまし討ちに次ぐだまし討ちで、備前守護赤松氏の守護代浦上氏
の家臣が備前・備中を有する戦国大名。
>>225
了解

229日本@名無史さん:02/09/17 17:37
>>223
ちょっと待てちがうぞ。
明石がキリシタンだったからじゃなくて、宇喜多秀家は関ヶ原で敗れたあと命カラガラ数人の部下と逃亡して、
かろうじて島津家のもとに逃亡できたのであって、
明石には秀家が生きているかどうかすら知らなかったろう。
彼も勝手に逃げ回ってただけ、
関ヶ原の宇喜多は敗走して将兵ちりぢりという状態だったわけだ。
230日本@名無史さん:02/09/17 17:41
>>224
いや、輝元は政治家として二流というか三流だろ。
231日本@名無史さん:02/09/17 21:06
津本陽著 『宇喜多秀家 備前物語』 ってどうよ?
232日本@名無史さん:02/09/17 21:24
司馬遼太郎『豊臣家の人々』の宇喜多秀家はなかなかです
233日本@名無史さん:02/09/17 21:43
>231
その本は秀家よりむしろ直家について詳しいです。
234日本@名無史さん:02/09/17 21:51
宇喜多秀家ってヘタレ武将じゃないですよね?
漏れは関が原では大谷吉継と宇喜多軍だけが勇猛果敢に戦ったと認識しているのですが?
235223:02/09/17 21:57
宇喜多直家は島村豊後守に乙子城を奪われた、父興家と共に逃れ豪商
「備前屋」の世話になり、その後成長した直家は浦上宗景に仕えた。
初陣で武功をあげ、足軽30人を付けられ300貫分の領地を与えられ、そこに
乙子城を築いた。この時まだ16才であった。これが直家出世街道のスタート
である。やがて秀家の代に至り備前、美作、備中の一部を領する大大名となる。
236日本@名無史さん:02/09/17 22:21
>>234
宇喜多秀家は武将としてはなかなかの者と言えよう。
朝鮮征伐では散々苦労しているし、関が原では実際
戦闘した西軍三万七千のうちの一万七千と主力を
担い奮戦した。幼少より秀吉に可愛がられボンボン
育ちだった為家臣の求心力を失い親代の重臣を失う。
(内容は良く知らないので省略)
もし直家が長生きしていたら宇喜多家はどうなっただろう。
個人的には戦を殆どせず、備前、美作、播磨の一部を含む
約五十万石の大名になった直家の家臣の方が良いかなと
思う今日この頃です。
237日本@名無史さん:02/09/17 22:55
>234
何をもってヘタレとするかが問題だ。
ヘタレでなかったら、関ヶ原で負けて敗走などせず、自害しろや、ゴルァ!などという
意見もあり得る。
しかし、漏れは少なくとも一戦も交えず形成観望ののち敗走した島津よりはヘタレではないと思っている。
238223:02/09/17 23:03
訂正
島村豊後に追われたのは砥石城でした。すいません。
ちなみに登城した事あります。本丸を中心に五連郭になっており、本丸は一部
石垣が現存してます。本丸まで徒歩10分。
239日本@名無史さん:02/09/17 23:33
>236
> 個人的には戦を殆どせず、備前、美作、播磨の一部を含む
> 約五十万石の大名になった直家の家臣の方が良いかなと
> 思う今日この頃です。
って誰のこと?
240日本@名無史さん:02/09/17 23:34
宇喜多秀家では、従わない者も多いと思う。
何より、淀君が猛反対で自滅すると思うけど・・・。
やはり豊臣宗家の豊臣秀頼を関白にするのが吉。
てか、大老五人って多すぎ。

関白:豊臣秀頼 (後見役:宇喜多秀家)
三大老:上杉景勝、徳川家康、毛利輝元
五奉行:前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家 
監察役:前田利家
人柄の秀家で秀頼を補佐。監察として、諸大名の動きを利家が監視。
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242日本@名無史さん:02/09/17 23:45
>223
>229が正解。
秀家の敗北で九州へ脱出。同じキリシタン大名黒田の領内筑前国秋月に身を隠した。
大坂の陣での敗走後、世を忍んで3年の後赦免された。その死は病没と伝えるがあきらか
ではない。
243日本@名無史さん:02/09/18 02:22
>234
小西行長を忘れてはいないか?
244日本@名無史さん:02/09/18 08:14
>>234
西軍で最も奮戦したのは実は石田隊なんだけどね。
黒田、細川、加藤ら数倍以上の大軍に、一歩も引かない闘いをし、
石田隊は戦闘に参加した部隊の中では最も最後まで戦場に残り、死傷率も一番高く最後まで崩れることは無かったとか。
まあ、それは野戦築城の要素とか石田が金で集めた豪傑・勇将が奮戦の要素が強いんだけどね。
小西隊もまあ奮戦したといえよう。
大谷隊が凄いのはむしろ裏切った小早川の軍勢を二度も押し返した点だな。
宇喜多もまあまあ奮戦したが疑問点もある。
それは一応は福島隊に対して優位に戦闘はしたものの
一万数千の軍勢を持ちながら、福島隊一隊に抑えられてしまった点だ。
そのため福島正則は東軍の中で功一等とされ大封を得たんだが。
245日本@名無史さん:02/09/18 09:12
>243
小西は商人の割にはよくがんばった!
246日本@名無史さん:02/09/18 10:02
>244

関が原での石田隊の奮戦ぶりを見ると、三成って巷間いわれる軍事にうとい、冷酷官僚という見方は正しくないんだろうな。
おそらく島左近を代表とする軍人達は、自分をもっとも有意義に使ってくれる大将として心底慕ってたんだろう。
軍人の大将は勇猛果敢とかではなく、いかに有能な部下を使いこなすかが問題であって、そういう意味では三成は軍人としても
一流とも言える。
247日本@名無史さん:02/09/18 10:43
>246
>軍人の大将は勇猛果敢とかではなく、いかに有能な部下を使いこなすかが問題で
>あって、そういう意味では三成は軍人としても 一流とも言える。
前半部分はそうだと思うけど、「三成が軍事として一流と言える」っていう部分について
はどうかな?って言うのも、もし、宇喜多や島左近の進言を受け入れて夜襲をかけてい
れば、西軍に勝機があったんじゃないかと思えてならないから。そういう意味では左近
や蒲生などの優秀なブレーンをうまく使いこなせなかった。三成は官僚としては一流だ
が、武将としては??だな。
248日本@名無史さん:02/09/18 11:03
>247
三成、政治家としても??だね。
249日本@名無史さん:02/09/18 11:16
三成?
ちょっと知恵のまわる腰巾着。

宋襄公を更に小物にした日本版って所、、、実力もないのに・・・

250日本@名無史さん:02/09/18 11:50

みんなさぁ、宇喜多家内部で豊臣派と旧勢力との対立があった、
って認識なのかなぁ。

むしろ
加賀派vs旧勢力
なんだけど。

251日本@名無史さん:02/09/18 12:01
ちょいおそレス

>>237
>関ヶ原で負けて敗走などせず、自害しろや、ゴルァ!などという
>意見もあり得る。

ファッション武士道に陥るなかれ。
一回ぐらい負けようが、本懐を遂げることこそ武士道。
その辺の木っ端武者とは違い宇喜多家当主なわけだから、数万人
に及ぶ家中の命運を一身に背負っているわけで。
そのためには局地的敗戦でおいそれと死ぬわけにはいかない。
当時の状況では毛利の大軍がまだ大阪城にいる。
大津からこっちへ向かっている軍もいる。
三成だって、佐和山まで逃げれれば(撤退できれば)まだ数日は粘
れたかもね。
そしたら大津軍が来る。みんな大好き立花宗茂だよ。
終わってはいない。
終わってないなら死ぬのは無駄死に。
(大谷は病身では逃げ遂せることが出来ない、
       と思ったからこそ切腹したのでしょう。)


・例えば上手く戦場落ち→大阪にて毛利に合流→リベンジ
・例えば上手く本国まで逃亡→篭城→開城講和→安堵
・例えば上手く本国まで逃亡→篭城→開城講和→自身切腹&家臣咎無し

選択肢やIFはいろいろあるさ。
そうならなかっただけで。
252日本@名無史さん:02/09/18 12:12
良スレの予感
253日本@名無史さん:02/09/18 18:04
>250
つーか、豊臣・前田派VS旧勢力じゃないかな。
254日本@名無史さん:02/09/18 18:32
>>234
「葵徳川三代」の中で、夏八木勲演じる島左近が石田三成に「当てになるのは、宇喜多、大谷、小西だけ」みたいなことを言ってたな。
255日本@名無史さん:02/09/18 19:29
やる気のあった立花宗繁を連れて来なかったのは惜しまれる。
256日本@名無史さん:02/09/19 00:33
細川の宮津城ごときに15000人も兵を差し向けるなんてバカ。
257日本@名無史さん:02/09/19 01:07
確か田辺(舞鶴)城だったような。結局、古今伝授の件で勅使により落城できず。
258日本@名無史さん:02/09/19 03:42
>>256
攻城戦だよ?
囲んで放置、にしても少ないよ。
お前なら何人で落とせる?
259日本@名無史さん:02/09/19 07:57
宇喜多勢は関ヶ原で福島を圧倒してただけだから
戦力、まだあったはずなのに
なぜ、壊滅してしまったんだか?
260日本@名無史さん:02/09/19 08:56
>>259
となりの小西隊が崩れて潰走を始めて宇喜多隊に紛れ込み、その為に
群集心理も手伝って崩れ始めた模様。
一箇所が崩れただけで優勢であった軍が総崩れってのは多いよ。
261日本@名無史さん:02/09/19 09:30
>>258
田辺城には兵が八百〜千二百いたから理屈で言えば、五千くらいで
充分。

田辺城の周辺から援軍が有る可能性が高ければ、それに備える兵力
も必要だが、当時の丹後においてはその恐れも少ない。
そんな状況で囲んで放置ならば尚の事、万を越す兵は要らない。
262日本@名無史さん:02/09/19 09:54
>>261
落とすなら基本は三倍則だよ。5千じゃ無理。
放置なら城をぐるりと取り囲む&昼夜を問わず交代要員つきで。
とても5千じゃ無理。

ついでに田辺に行った将兵は失礼ながら一流でもないし。

263日本@名無史さん:02/09/19 10:44
>259
既出だが、お家騒動で家臣団の統制がとれてなかったからだろう。
筆頭家老が外様の明石全登じゃダメでしょ。
264日本@名無史さん:02/09/19 11:39
>>247さん
確かに戦国武将としては?? 性格上正々堂々戦いたかったんでしょう。
244・246さんの言うように采配や統率は◎だと思います。
>>248さん
政治家としては◎ 策略家としては??だと思います。
265日本@名無史さん:02/09/19 14:32
>>264
自前の兵で戦うのであれば正々堂々もいいけどねェ、毛利を盟主に据え
宇喜多を軍事の総帥にしといて仕切っちゃまずかろ?

三成は人の機微の判らん「小役人」が適任。
傲慢不遜の三成では到底、家康には歯がたたん。


266日本@名無史さん:02/09/19 15:32
>>265
西軍を集結させた三成が「小役人」なら
増田・長束等の立場はどーなのよ?
豊臣政権の行政の中枢を担ってた訳だが。
267日本@名無史さん:02/09/19 16:09
>>266
そのお二方は官僚としては能吏。

西軍を集結させたと言っても、「よーし判った!任せとけ!!!」と
参集したのは、宇喜多と小西と安国寺・・・・後は成り行きで西軍に
立ったヤシが殆ど、、、。
そう言うと、当然、会津征伐の軍も同じようなもんだが、三成は成り
行き参集状態を放置したまま戦う、方やヒヒ爺は「徳川軍」に変えて
戦う・・・。
六韜三略を愛読してた(三成)割にはダァホすぎる。

「逆賊家康を討つ!!太閤殿下の恩を知る者は集まれ〜」と声を挙げ
豊臣の旗を揚げればある程度は集まるでしょ。

268日本@名無史さん:02/09/19 16:11
三成=小役人なら、秀吉の死とともに政治生命が完全に終わってたはず。
その後も一応は家康に対抗する勢力の頭目とみなされ、
最終的には日本の半分の大名を動員できたわけだから、政治力もあったとおもう。
軍事能力についてはさておき。
269日本@名無史さん:02/09/19 16:27
三成は無能ではないが、戦国武将には不向きって感じじゃない?
270日本@名無史さん:02/09/19 16:30
>>260
でも、石田隊は最後まで崩れなかったよ。
蒲生たちは十倍以上の敵の攻撃を受けても三成を逃がすために最後まで戦った。
石田隊の将兵は三成に心酔しきってたという。
大谷もわずかの軍勢で一万数千の小早川隊を二度も押し返したのは凄かった、
脇坂らが裏切ったら流石に崩れたけど。

それに比べると小西、宇喜多はイマイチ(もちろん、比較の問題で奮戦した方ではあったろうけど)
271日本@名無史さん:02/09/19 16:34
豊太閤が死んで加賀大納言が死んで、後継者が幼く纏まりを欠く
豊臣の天下を奪う絶好の機会、でも臣下の礼を取った以上は家康
の方から戦端を開く訳にもいかん、そんな事すれば豊臣大事の
有力大名がこぞって敵に回る恐れがある。
しかし、よく見れば武断派の将領は三成とは犬猿の仲、、、以降
は家康の思い通り。

関が原直前まで、西方が優勢と思われていたのでいわゆる「勝ち馬」
に乗ろうとしたヤシも多かった。

さんざんガイシュツすまぬ。
272日本@名無史さん:02/09/19 16:38
>>270
確かに。
島や蒲生はすばらしい。
273日本@名無史さん:02/09/19 16:49
>>270
禿同
274日本@名無史さん:02/09/19 17:45
三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近に佐和山の城
275246:02/09/19 17:48
三成=一流の武将説を唱えたもんです。
俺がそう考えるのは、あの年齢であれだけの戦が出来たことを評価している。
実際、あの年齢では家康は三方が原でぼろ負けしているし、信長も結構苦しんでいる。
負けた=無能とは考えるべきじゃないと思うんだよね。
実際、我々は歴史として関が原を見るから、あたかも当然の負けみたいに見えるけど、おそらく
当時は必ずしも家康も勝てるかどうか自信は無かったと思うし。
あれは結果として小早川の裏切りで勝ったと言ってもいいくらい。
むしろ偶然の勝ちみたいなみたいなもんでは?
小早川家を2年後に潰したのも、それだけに家康の憎悪が表れていると思うんだよね。
感謝していたら、領地を半分でもいいから存続させることも出来たはず。


276日本@名無史さん:02/09/19 18:18
島や蒲生は所詮三成に金で雇われた傭兵にすぎん。
277日本@名無史さん:02/09/19 19:14
>>276
それを言ったら、この時代のほとんどの武士が傭兵。
当時の価値観では、より大きい評価(恩賞)と
自分の能力をフルに発揮できる場を与えてくれる主に
仕えるというのが、本筋。
278日本@名無史さん:02/09/19 19:50
>>277
同意、
まず、戦闘に特化された武士団が実質上、検地により在地勢力から
遊離し大名の家臣団に編成されたが、内心は、秀吉ごときが、とか秀吉に
ごまをすって出世したくせに、といった無言の批判を大名たちは感じて
いただろうことは想像に難くない。
身内の同姓の一族でさえこういった感情はもっていただろうし、
そのため家臣団統率は洗練されたように見えて、無言の野党を抱えながら
領地経営を朝鮮戦役後の苦しい台所事情で続けた大名たちに
家康に歯向かう元気などあるはずもない。
279日本@名無史さん:02/09/19 21:56
>276
極論だがある意味あっていると思う。
逸話によると、三成は左近に自領4万石の半分の2万石を与えたそうじゃないか。
三成には人望とか人徳とかがないから結局、金でヘッドハンティングせざるを得なかった
のか。左近は左近で、関が原等において三成の暴挙を諌めることができなかったYES
マンということもできないでない。
280日本@名無史さん:02/09/19 22:05
>275
兵站とかの後方支援だけについていえば一流の武将だと思います。
281日本@名無史さん:02/09/19 22:42
それがかえって福島正則、加藤清正、黒田長政らの反感を買ったりして。
282日本@名無史さん:02/09/20 00:47
司馬遼太郎が宇喜多秀家を書いた短編小説(題名は忘れた)を読んだことがある。
いかにも司馬氏らしい小説ではあるが、結構いい作品だと思った。

宇喜多直家が臨終の床で秀吉に小さい秀家を「よろしく頼みます」と何度もお願いする。
そしてその数十年後、今度は秀吉が臨終の床で秀家に「秀頼を頼む」と何度も頼む。
まさに歴史は繰り返す。
秀家は他の連中がどうあろうと、自分だけは秀吉の恩を返すために、家康と対決するという内容。
俺、こういう浪花節みたいな話好きなんだよね。
283日本@名無史さん:02/09/20 00:55
>>275
いっとくが小早川家が改易になったのは当主死亡で後継者がいなかったからだよ。
慶安年間まで末期養子は禁止だったから
むしろ他の外様よりもっともな改易理由。
284日本@名無史さん:02/09/20 01:01
>>275
三成は無能というより
支持した勢力が悪かったよな。
戦国の威風が残る時代にハッキリとしたカリスマを発揮できない状態の豊臣家御大事のために
戦歴及び実力充分の徳川家康に喧嘩を売らなきゃいけなかったのがな。

285275:02/09/20 01:10
>283
というか、当時はまだ体制も固まっていないし、なんとでもなるだろ。
実際小早川は一回改易されかけたのを家康が復帰させてんだからさ。
領国半分とかでもさ。

>284
俺的には結構いいセン言ってたとおもうけどな。
上杉、毛利、宇喜多と5大老のうち過半数を抑えたし、真田親子は相当の戦果を残している。
ただ、毛利輝元があまりにもアホすぎたってことかな。
彼が関が原に自ら2万だったかの大軍を率いて出陣していれば、相当おもろかったと思ふ。
実際、応仁の乱のときは中国の大軍を率いた大内が京都に入るや、今まで劣勢だった山名西軍が一気に逆転したし。
286隆友:02/09/20 01:17
秀家は気持ちの良い人らしく好きです
信長も「涼しげである」と言ったそうです
287日本@名無史さん:02/09/20 10:28
>>267
>>279
>>284

・毛利本隊が大坂を出てちゃんと関が原まで出陣
・大津軍、関が原に間に合う

・毛利関が原軍(吉川)、背後から東軍に
・小早川、機を見て早々に徳川本隊へ突入

いつでも勝ち目はあった。

勝てば官軍とはよく言ったもので。
そこで毛利がちゃんと動いていればこのスレッドは
「勝機を知った毛利軍団はさすが!」という議論であふれているはず(笑)

「ついたほうが間違いだった」だの「ダメ連合」だのいう論は後世の
わしらが結果を知った上で言えるんだよ。

288日本@名無史さん:02/09/20 10:33
>>276
島左近は石高の多少でなく、自分の石高の半分を割いて自分を召抱えようとした気概に
感銘を受け石田家に入り、その後の加増を断ってますが、何か?
289日本@名無史さん:02/09/20 10:34
結局、最高の戦犯は吉川広家だろ。
もしくは毛利家全体。

大坂から動かなかったのは後詰も必要だから当然といえば当然
なんだけど二万も、本体(当主)をも残す必要はなかったろうに。
むしろ秀元を置いて自分が出なきゃ。
もし関が原で西が勝ってたら、毛利の立場悪くなったろうね。
「ところでお前なにやってたんだよー?」って。
毛利秀元のほうが権力持ったりして。
290日本@名無史さん:02/09/20 10:37
>>288
通説。

ついでにそれを傭兵ていうんだよ。
つか主がギャラを出す。ギャラに見合った働きをする。
それが武士の本来の姿。
下っ端武士から江戸期大名まで、みんなそう。

ファッション武士道に陥るなかれ。
291日本@名無史さん:02/09/20 10:42
>>287
徳川方の切り崩し工作を防げなかったことが毛利の消極的な動きと小早川の裏切りになったんだけどな。
そういう意味で勢力的に弱い。
それと歴史とは結果を見て判断するんだから結果を知った上でとは暴論だな
292日本@名無史さん:02/09/20 11:04
>>290
鬼左近は三成よりも好条件(高いギャラ)で引く手あまたでしたが何か?
そんで確実にギャラ以上の働きをしてますが何か?
つか石田家家臣は、他家の家臣と違い、滅私奉公と言える働きをしましたが何か?
293日本@名無史さん:02/09/20 11:09
>>287
と言うより、「あの時秀忠が…」「あの時前田が…」っていう
議論が多いのでは?
294日本@名無史さん:02/09/20 11:30
>>290
>270さんのレス読みましたか。ギャラ傭兵なら支払いが絶望的になったところで
手を引くでしょう。もちろん利に動く輩も多いけど、武士=傭兵は違いますよ。
295日本@名無史さん:02/09/20 11:39
>291
確かに毛利の切り崩しは見事なんだが、それでも毛利輝元は「一応」西軍の総大将なんだし。
総大将が自ら戦地に向かっていれば、もう少しいい勝負が出来たのでは?
大阪の陣の秀頼もそうだが。
そういう意味では家康は常に戦地に向かっており、さすがというべきかな。
現場軽視の現在の木っ端役人にも見習って欲しいものだ。

>それと歴史とは結果を見て判断するんだから結果を知った上でとは暴論だな
「歴史学」はその通りだと思うが、そうではなくて当時の人たちの心境とかを推し量る場合の話。
当時の家康の心境やその他の武将の心境からすれば、結果から見るのとではかなり違ったものなのでは?
296日本@名無史さん:02/09/20 11:41
>あの時秀忠が…」「あの時前田が…」っていう議論が多いのでは?
もちろんそうなのだけども、287さんの言いたいのは、世間一般では
徳川余裕勝ちっぽくいわれてるが、実はそうでないってことでしょ。

まず、松尾山の15000は、もともと東軍でもいいと三成は考えて
いたはず。(大谷と朽木らが備えていた)しかし、一応関白職ぶらさ
げておく。これは家康は知らなかったと思われる。実際に効いた。

南宮山27000は味方と考えていた。実際は吉川に家康が手を廻して
(9月14日)動かなかったわけだが。秀元には及んでいなかったので、
家康の本陣に突っ込んでいたかもしれない。秀元に家康本隊の前進が伝
わっていれば、かなりの確率だったはず。実際は先に小早川が動いてしま
ったわけだが・・・・。

陣形、戦況は西軍有利であった。

決戦当日だけでも紙一重。むしろばくち打って買ったのは家康のほう。
297日本@名無史さん:02/09/20 11:44
西軍では毛利輝元が一番のヘタレ武将ということでよろしいですか?
298日本@名無史さん:02/09/20 12:08
確かに、明治期にさる外国の軍人(ドイツだったかな)が陣形を見て、これは西軍の勝利だな、と指摘した。
しかし、日本人が東軍が勝ったと説明すると、たいそう驚いたそうな。
家康は事前工作に相当自信があったのであろうか。
299日本@名無史さん:02/09/20 12:33
毛利輝元を一体小早川隆景はどういう教育をしたんだろう。
彼の偉大なる祖父毛利元就は確かに陰謀も多かったが、それでも大きな戦は自ら出陣している。
出陣しない大将なんてどうしようも無い。
300日本@名無史さん:02/09/20 12:35
>>296
秀元の陣の前に広家の陣が有り、広家が動かんと秀元も動けん。
一万余の小早川勢が東軍でいいなんて思っていたと?

ばくちでは有ったが、入念に下準備した上でのばくち。
301日本@名無史さん:02/09/20 13:40
 三成が秀吉の世渡り上手なトコを見習ってれば良かったと
思ったりする。
 福島などの武断派にも「ごめんなー、絶対悪いようにはしないから、
今回だけ我慢して。お願い。」的な事ができてたら・・・。
302司馬三成ヲタ:02/09/20 13:47
>>301
そんなの三成じゃないやーい! ウェーン!
303296:02/09/20 17:10
>300
>秀元の陣の前に広家の陣が有り、広家が動かんと秀元も動けん
それって通説なんで正しいんだろうけど、普通にというか勝手に
考えるのが好きなもんで。
秀元と安国寺で16800、広家は3000、前を塞ぐっていっ
ても難しそう。安国寺なんか首謀者の一人なんだから、それくら
いで動かなかったのはちと不自然。秀元もその後大阪篭城したか
った位だったしね。
>一万余の小早川勢が東軍でいいなんて思っていたと?
そりゃ誤解っす。まあ最初から東軍認識だったということをかきた
かったのですが。
小早川は伏見に入ろうとしていた。その前は姫路にも。家老の平岡
と稲葉は東軍参加を約し人質を出している。
三成が大垣城から移動したのは家康が佐和山に行くのを迎撃するた
めとかいうのがあるけどそれはへん。だったら追撃したほうが確実
に勝てる。三成は松尾山に上方の輝元の軍を入れるつもりだったの
に、小早川にとられたためあせって移動したと考える方が自然かなと。
(つまり小早川を敵と思っていた。小早川の着陣は9月14日。)





304日本@名無史さん:02/09/20 17:34
>>295
東軍方は毛利輝元が関が原に来ないように工作してたんだから
そういう原因を無視して可能性があったといっても当時の現場の考えとしてもいみない。

東軍方も西軍方も相手の切り崩しと自軍の結束を図ったが
東軍には家康というコアがあって西軍には現実上なかった
それが明暗を分けたということ。


305日本@名無史さん:02/09/21 06:46
なんか石田厨が鼻から熱い息で暴れてるんですけど。
>>292
落ち着け。お前が島左近マンセーなのはわかった。
でもおちけつ。


>>304
確かに

豊臣家
石田三成
毛利輝元

どれが本部なんだか。
やっぱ毛利が仕切れないのが弱いな。
もし秀元ではなく輝元が山の上にいたら吉川はどうしたろうか。
最大戦犯には違いないけどこいつの関が原前後の行動と立場は
面白いな。
どんどん堕ちていく感じが・・・。
306暴君:02/09/21 11:01
>>296
うむ、良い事逝った。1万石加増いたす。コレからも、ガンバレ(ΦдΦ)
307日本@名無史さん:02/09/24 21:46
確かに三成は松尾山を要塞化し堅固にしていたが
小早川勢に無理矢理布陣されたらしい。普通はそれを知っている
から布陣するにあたり断りを入れるはず。元々関が原の主力が
怪しく当てにならないから三成らは深夜強行軍で関が原に移動した。
戦が始まれば怪しい連中も戦わなければならなくなると読んでいた。
もし関が原の連中が信用できるなら大垣軍と挟み撃ちできる。
朝鮮で散々苦労した宇喜多や歴戦の勇の島津はそんな事はすぐ分る。
と言うのを昔歴史への招待の本で読んだ事がある。誤算の最大は
やはり毛利がカスだったと言ううことでしょうな。
308日本@名無史さん:02/09/24 22:14
結果的に毛利宗家は家康に幕末までコケにされるハメになったが、
万が一西軍が勝ったところで、輝元に豊臣家をしきるだけの力量が
あったか?
やっぱし吉川のオジさんのおかげで幕末まで存続できたが正解かも。
309 :02/09/24 22:15
信長級の革命家が16年後に政権を掌握すると堺屋が予言
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7553/
310日本@名無史さん:02/09/25 06:12
いずれにせよ家康は関ヶ原で負けたとしても首は渡さなかったと思うよ。
家康はそんなに甘くない。毛利に突撃されたら、いち早く逃げて関東割拠。
そのうち西軍が内部分裂するから、機を見て再出陣。

関ヶ原は家康にとって逃げがうてるバクチだったような気がする。
いくら吉川に手を打ってあるとはいえ、長曽我部か安国寺が独断で動き出したら
毛利もつられて動く可能性があることくらい読んでたと思う。その時の方針は
ただ一つ。逃げる。
311日本@名無史さん:02/09/25 06:50
>>308

仕切れないからいいんじゃないか。
当スレタイトルの宇喜多や三成が好きにできる。


>>310
そもそも、すぐに秀忠が来ますからね・・・。

一旦膠着から政治戦だろうけど。
その時初めて秀家関白とか、豊臣家勅令(?)とか、
そういう錦の御旗が効いてくるんじゃないかなぁ?
三成くんに寛大な心があれば、向こうから離反者を出すことも
可能なわけで。
関東には佐竹もいるし。

ただ九州がなぁ・・・どうにもなぁ・・・。
312日本@名無史さん:02/09/25 14:35
>>311
九州は黒田と加藤以外、全て西軍。
加藤も関ヶ原が終わるまでは動かず、
終わってから小西領を占領しただけ。
どうにでもなるだろ。
313日本@名無史さん:02/09/25 19:09
>>311
三成が寛大じゃないから西軍は工作で切りくずされたんだよ。
西軍は所詮外様のあつまり。関ヶ原で勝っても、主導権争い
(というか、武将間の意地の張り合い)で内部分裂は必至。
典型的な例は合戦前に島津が献策を却下されて臍を曲げたあたり。
この種のことが合戦後にも頻発して、三成では押さえきれなくなり、
崩壊。

黒田官兵衛もそこまで読んだから、九州でやりたい放題やったのよ。
314日本@名無史さん:02/09/25 19:32
というか、吉川も主家の毛利輝元なんてどっかに
放っぽっといて自分が防長二国をもらえば良かったのに。
もともと元就が乗っ取った家だろ。吉川も小早川も…
しかも主家乗っ取りも毛利元就はやってるし。
315日本@名無史さん:02/09/25 19:45
>314
出来るわけないだろ
吉川は元就の孫。
元の吉川と血縁じゃないし。
316日本@名無史さん:02/09/25 19:57
>>313
島津がヘソ曲げたうんぬんは怪しいのだが、
島津二番備え説は有力になりつつある。
317日本@名無史さん:02/09/26 12:01
>>313
>三成が寛大じゃないから

>島津が献策を却下されて臍を曲げた

>黒田官兵衛もそこまで読んだから、九州でやりたい放題やったのよ


どれも>>316が言うようにあやしい。

「三成が小物」説は後世の流伝の影響が大きいと思う。
もちろん、決して鷹揚な人物ではないだろうけど、そのような人物でなく
ても英雄的な事跡を残した人物は多いでしょう?
当時から「家康がのし上るだろうけど、対立するのは石田」と思われて
いたのは、その立場や方向性の問題だけじゃなく、やっぱりある程度の
実力評価があったからだと思う。
(当然、「家康>石田」という評価ではあるだろうけど。)
それでも三成の一定評価(高い実力評価)には違いないと思う。
それはやはりそれだけの評判を取れる男であったからだと。

島津二番備え説も、江戸期の島津としては絶対に言えないだろうし。
むしろ勝てるチャンスを提供したのに要れられなかった、という
武勇伝(?)のほうを残すだろうし。
人数的にも備えが定石、配置的にも備えの配置だし。
318日本@名無史さん:02/09/26 12:01

黒田如水も「好き勝手」にやった、というのは語り物のお話。
結構どっちつかずで立ち回っているのは、様子を見ながら伺いながら、
という感じでしょう。
もし西軍勝利、な場合、あなたが如水ならどうする?
>三成では押さえきれなくなり、 崩壊。
こう思って好き放題できるかな?
>>312引用)「九州は黒田と加藤以外、全て西軍。」の中で。


スレッドタイトルからずれてすいません。
じゃ当の宇喜多秀家個人の当時の評価ってどんなもんなんでしょう?
まだ若いからあんまし評判もない?
319コギャルとH:02/09/26 12:04
http://tigers-fan.com/~pppnn

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  コギャルとヌキヌキ
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320日本@名無史さん:02/09/26 14:55
宇喜多秀家は評価はあまり高くないと思われ。
政治についてはやる気なさそうだし、内政もだめ。
じゃあ、軍事的にはどうかといえば、福島隊をやっつけることも出来なかった。

江戸時代、石田三成は評価できなかっただろうが、その周りの有能と思われる人たちは
尊敬されている。島左近、大谷吉次、直江兼続…

いい人っぽいけど、それだけの人のような気がする。
某政党の党首の鳩ぽっぽみたいなものか。
321日本@名無史さん:02/09/26 19:51
>>320
まあ、若すぎたって気もするけどね。
経験つむ前に大舞台に出ちゃったから。
あの時代、年齢を言い訳にはできないだろうが、さすがに秀吉から薫陶を受ける時間が少なかったような気がする。
322日本史@msn:02/09/26 20:00
秀吉って朝鮮出兵中に死んでしまったのよね。
そんな事誰でも知っているか・・・。
323日本@名無史さん:02/09/26 20:40
豊臣恩顧の大名のほんんどが
秀吉死んだとたん裏切っているっておもしろいよね。
324世界:02/09/27 03:01
その時の吉川家の当主は毛利家一族筆頭みたいな感じで主家の輝元の後見人って
思ってたみたいだから
>314
325日本:02/09/27 03:03
みんな自分が槍一本・刀一本の戦功で領地を稼いだと思ってたんじゃない?
>323
326日本@名無史さん:02/09/27 07:39
>>323
ていうか、そんな事ないですよ。
関ヶ原の三年前に騒ぎが起こった時、
前田利家の屋敷には五奉行、五大老のうち家康を除く四人、立花宗繁、鍋島、佐竹義宣、長曽我部森親、小早川秀包に加え
加藤清正、加藤よし明、細川忠興、浅野幸長が集まり。
徳川家康の屋敷には伊達政宗、黒田親子、蜂須賀家政、福島政則、池田輝政、藤堂高虎、金森素玄らが集まったにすぎなかったんだけどね。
前田利家が死ぬまでは反家康側が有利だったんですよ。
関ヶ原においてすら、日和見や造反者が多かったとはいえ西軍にはかなりの武将が集まったわけですしね。
327日本@名無史さん:02/09/27 07:45
関ヶ原って、ややこしいですね。
一応、豊臣家の要職の立場の大名は立場上は豊臣側の西軍に属していなければならなかったものの、
実質は徳川側の東群に属さざるやおえないし、東軍についてる武将も(家康も含めて)表面的には「秀頼様のため」を装わらざるおえなかったですし。
328日本@名無史さん:02/09/27 09:20
純粋に豊臣秀頼VS徳川家康ならば西が勝つでしょう。


329日本@名無史さん:02/09/27 10:48
>>326

福島ぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!
330日本@名無史さん:02/09/27 11:12
福島正則って本当に豊臣家に対し忠誠心があったんかね?
秀吉に対しては忠誠を誓ってたけど、秀頼はどうでも良かったとか。
331日本@名無史さん:02/09/27 12:07
>>328
関ヶ原に金瓢の馬印があがってれば西軍の勝ちだったろうね。
332日本@名無史さん:02/09/27 12:19
>>330
大阪の陣の後も豊臣への挨拶はかかさず、秀頼が熱病の時は一番に駆けつけた他、
大阪に常に三万石ほどの米を備蓄しておいてイザという時にはこの米を使うように豊臣の者に言っていた。
関ヶ原で東軍についたのも賊臣三成を除くためで基本的には秀頼公の御為だ。
証拠に何度も「秀頼公に異心無き事」本多弥八郎に問いただしてる。
あと「伊奈事件」なんてのもある。我が身可愛さのために東軍についたのなら家康の部下を切腹させたりしないだろ。
333日本@名無史さん:02/09/27 12:59
>>332
んじゃ、忠誠心はあったが、大局観が無かったという事か・・・。
334日本@名無史さん:02/09/27 13:10
>333
だな。
関が原でもそうだが、それ以降もそう。
徳川は福島をはじめ豊臣系大名を潰そうとしていることは明白。
藤堂のように徳川に徹底してごまをするわけでもなく、前田のようにバカなふりをするわけでもない。
もし豊臣家がそんなに好きなら蜂須賀のように隠居して好きなようにやっていればよかった。

335日本@名無史さん:02/09/27 22:34
福島はだめだよ。あいつは頭空っぽの猪武者。
加藤清正の10分の1以下のCPUしかなかったんじゃないのか?
336日本@名無史さん:02/09/28 01:14
蒲生氏郷が生きてさえいれば。前田はどうでもよい。
337日本@名無史さん:02/09/28 09:44
いやすまん、揚げ足取りだけど

>>332
>大阪の陣の後も豊臣への挨拶はかかさず

いや無理(笑)


福島正則の墓へ行ったよ。
とてもさびしいところでしたよ。

338コギャルとH:02/09/28 09:52
http://www.tigers-fan.com/~jko

http://www.tigers-fan.com/~tyk

女子中高生とHな出会い
  ロリロリ児童とHな?
  2チャンネルで超有名
339日本@名無史さん:02/09/28 11:38
>>337
豊臣が滅びたからか?
340日本@名無史さん:02/09/28 12:04
加藤清正にも面白い話しが伝わってるね。
彼自身は二条城の会見の件での命を張った行動や
江戸に赴く前に必ず大阪城の秀頼の元を訪れて忠誠を誓っていたのだが、

その反面、常に子孫に対して
「もしも、徳川と豊臣の間に争いがあったら、必ず徳川の側につけ」と言い聞かせ、
いつも「早く死にたいものだ、自分が死ねば子孫らは豊臣に何の気遣いもなく徳川への忠誠に励めるのに」と
愚痴ってたという。

加藤は自身は何が何でも豊臣に尽くすつもりだが、子孫は巻き込みたくないという考えだったようだ。
341日本@名無史さん:02/09/28 12:37
福島もどうせ潰されるなら大阪の陣で大阪城に入城して華々しく散ればかっこ良かったのにな
342日本@名無史さん:02/09/28 13:36
秀吉が生きてるときから戦をしかけて勝ってる家康のことだ
秀吉以外の奴が暫定関白なんて言い出しても意味ないだろ
まず、暫定関白の人選で主導権を握るだろうし
343日本@名無史さん:02/09/28 20:55
>340
清正は梅毒での死亡というのが「通説」だけど、結構自害とかだったのかも知れないね。
ただ、自害だとしてもそれを表にすると、徳川への反抗になりかねないので、梅毒ってことにしたのかも。
344日本@名無史さん:02/09/29 00:30
>342
だから豊臣家の豊富な財力と七手組みの将を動かせる成人男子の豊臣一族を
秀吉が暫定的に関白につければ良かったと言うこと
345日本@名無史さん:02/09/29 00:39
小一郎秀長が生きていれば、すべて○く収まったのにね。
346日本@名無史さん:02/09/29 02:32
>>345
それに尽きるな
347日本@名無史さん:02/09/29 09:48
>>341
福島はつぶされてないよ。
広島城無断改築事件のあと、川中島10万石へ転封
348日本@名無史さん:02/09/29 10:36
>>341
入場しようとしてるし、家臣は勝手に(と言われてるけど)入場してる。

広島城も「大坂落城→広島落ち→篭城」を想定していたらしいし。

そういえな熊本城にも「開かずの間」があったね。
349日本@名無史さん :02/09/29 10:54
ガイシュツかもしれんが
秀次粛清は家康が唆したというのは?

親会社の有能な後継者を
「将来の禍根」と嘯いて除かせる

乗っ取りを考えてりゃ〜そうする罠
350日本@名無史さん:02/09/29 10:54
>>347
正確には川中島四万五千石、しかも正則には二万石、嫡男の正之に二万五千石と分割された。
さらに正則が死ぬ前に正之が死ぬと正之の二万五千石は取り上げられ(返上という形だが)、
さらに正則が死んだ時、幕府の検死役が来る前に火葬にしたのが咎められ(実際、自殺の憶測もあるのだが)、
正則の孫には二千石の相続しか許されなかった。
大名が一万石以下にされると除封と言われます。
351日本@名無史さん:02/09/29 15:04
>>350
何でも当初の予定は津軽四万五千石で、おまけに里見家と改易同様、
実質石高はかなり低い土地に転封する予定だったんだよ。

それを天海などが「それではあんまりだ」と赦免の運動をして、川中島への転封で済んだわけ。
352日本@名無史さん:02/09/30 10:21
猿が化粧して天下盗っても、所詮は一代よ。
だって譜代の家臣がいないんだもーん。

どうあがいたって無理!
353日本@名無史さん:02/09/30 11:12
>>352
結果論でしか語れない浅慮なやつ・・・。
3542チャンネルで超有名:02/09/30 11:30
http://www.tigers-fan.com/~jko

http://www.tigers-fan.com/~tyk

女子中高生とHな出会い
  ロリロリ児童とHな?
  2チャンネルで超有名
355日本@名無史さん:02/09/30 12:04
秀長はたいへん評価か高く、関が原のおり、
「あの君がおはせばこのいくさはなかった」といわれたそうですが、
実際どうだったのでしょう?
武田信玄の弟とか真田幸村とか、たんに歴史家は弟びいきなんでしょうか?
356日本@名無史さん:02/09/30 12:10
>>349
むしろ、文禄の役の失敗で、秀次への期待感が一気に強まったのが原因かと。
朝鮮出兵で動員された諸大名が財政難で苦しんでいるのを、
秀次が「関白」として金を貸して助けてやったりしているし。

それで秀次から金を借りた伊達政宗や細川忠興らは、
秀吉から「秀次の関係者か?」と嫌疑をかけられて、改易されるところを
家康に泣きついて、とりなしてもらったわけだしねえ。
357日本@名無史さん:02/10/02 10:16
>>355
秀長は大和・紀伊等で百万石でしたっけ?
358日本@名無史さん:02/10/02 11:03
>>355
いや先ず自分で調べてらっしゃい。

レポートをこのスレでどうかよろしく。
359日本@名無史さん:02/10/02 11:37
>>352
そのとうりだね。譜代の家臣が一人もいないのは致命傷だね。
家康なんか数代も仕える家臣がわんさかだもんね。
どうあがいたって一代限りだよね。

360日本@名無史さん:02/10/02 11:40
>>352
>>359
ジサクジエン ミエミエ カコワルイ
361日本@名無史さん:02/10/05 15:25
保守あげ
362日本@名無史さん:02/10/05 17:09
秀家は武芸にも文芸にも秀で風采もよかったらしいが、実際の国政に関しては?であるらしい。
363日本@名無史さん:02/10/05 19:26
秀吉は誰にやられたんだ?
364日本@名無史さん:02/10/06 14:28
>>362
関ヶ原前年に重臣たちに反旗を翻されて、出奔されているからな。
365日本@名無史さん:02/10/06 15:04
金吾はどうした!
金吾に鉄砲を撃て!
   by 家康
366日本@名無史さん:02/10/07 00:10
秀家関白になったら自分の子供にあと次がせるに決まってるじゃん。
みんなお人好しだね。
367日本@名無史さん:02/10/07 00:25
>366
ほんと、そうだよね(笑
あの猿関白さんも同じような事してんだから。
因果応報はついて回るよ。
368日本@名無史さん:02/10/07 15:25
>>366
>1の五大老五奉行が黙ってないんじゃないの?
あ、前田は豪姫が嫁いでるから秀家につくか?
で、徳川が煽って・・・。
369日本@名無史さん:02/10/09 23:00
ただのおぼっちゃまの浮田秀家は大名連には魅力ないよ。
370日本@名無史さん:02/10/11 23:08
意思表示できる豊臣一族の関白がいるという事は大きいよ。

秀次が関白で生きてたときは秀次>家康だったじゃん。
371日本@名無史さん:02/10/12 00:14
>>370
どうだろうね、秀家が関白になると一門内での秀頼に対する脅威となるから
結局、秀次のときみたいに排除されるしかないと思うけど。

それに秀家が秀頼の代行することで豊臣政権が安定するという認識があるなら
秀次を殺さずそのまま関白にしておいたはずでしょう秀吉としては。
秀次には門閥の家臣がいないことや、秀吉と血縁的に確実につながっている点からしても。

372日本@名無史さん:02/10/12 00:21
これスレいつも堂々巡り。
373日本@名無史さん:02/10/12 07:20
>371
どうでしょうね。秀家も何万年かさかのぼれば秀吉と血がつながっているのでは
ないでしょうか?
374日本@名無史さん:02/10/12 07:30
>>373
人類は全てアフリカのルーシーと言われる一個体から発生したらしいから確実なんじゃないの?
375日本@名無史さん:02/10/12 09:01
>374
それが旧約聖書で言うアダムの事かもしれません。
376日本@名無史さん:02/10/12 11:38
>>374
その説こないだ否定された。
377日本@名無史さん:02/10/12 13:02
>>376
ソースは?
378日本@名無史さん:02/10/12 19:15
>>377
ウチはイカリです
379日本@名無史さん:02/10/12 19:40
>>377
自分で調べろ。
漏れ、ニュー速+で見かけたぞ。
380日本@名無史さん:02/10/13 06:29
373のレスで流れが一気に変わったな。堂々巡りから抜け出したようだ。
381日本@名無史さん:02/10/24 17:56
というか脱線しただけという気も。
382日本@名無史さん:02/10/30 00:58
hosyu-age
383日本@名無史さん:02/10/31 19:30
従兄弟、又従兄弟と言う言い方はあるが、
又又又(×100)従兄弟くらいだろうね
384日本@名無史さん:02/10/31 19:41
まあ要するに赤の他人なワケだが
385日本@名無史さん:02/10/31 22:44
徳川家康 武蔵・江戸 2,557,000 東軍
毛利輝元 安芸・広島 1,205,000 西軍
上杉景勝 陸奥・会津若松 1,200,000 西軍
前田利長 加賀・金沢 835,000 東軍
島津義弘 薩摩・鹿児島 609,000 西軍
伊達政宗 陸奥・岩出山 580,000 東軍
宇喜多秀家 備前・岡山 574,000 西軍
佐竹義宣 常陸・水戸 546,000 西軍
鍋島直茂 肥前・佐賀 357,000 西軍
小早川秀秋 筑前・名島 336,000 西軍
堀秀治 越後・春日山 300,000 東軍
加藤清正 肥後・熊本 250,000 東軍
福島正則 尾張・清洲 240,000 東軍
最上義光 出羽・山形 240,000 東軍
浅野長政 甲斐・甲府 225,000 東軍
長宗我部盛親 土佐・浦戸 222,000 西軍
前田利政 能登・七尾 215,000 西軍
石田三成 近江・佐和山 210,000 西軍
小西行長 肥後・宇土 200,000 西軍
筒井定次 伊賀・上野 200,000 東軍
増田長盛 大和・郡山 200,000 西軍
386日本@名無史さん:02/10/31 22:45
秋田実季 出羽・窪田 190,000 西軍
黒田長政 豊前・中津 182,000 東軍
蒲生秀行 下野・宇都宮 180,000 東軍
蜂須賀家政 阿波・徳島 177,000 中立
中村一氏 駿河・駿府 175,000 東軍
生駒親正 讃岐・高松 173,000 東軍
池田輝政 三河・吉田 152,000 東軍
吉川広家 出雲・富田 142,000 西軍
森忠政 信濃・川中島 137,000 東軍
織田秀信 美濃・岐阜 133,000 西軍
立花宗茂 筑後・柳川 132,000 西軍
宮部長熙 因幡・鳥取 131,000 西軍
毛利秀包 筑後・久留米 130,000 西軍
丹羽長重 加賀・小松 125,000 西軍
岩城貞隆 陸奥・磐城平 120,000 西軍
堀尾忠氏 遠江・浜松 120,000 東軍
結城秀康 下総・結城 101,000 東軍
加藤嘉明 伊予・松山 100,000 東軍
京極高知 信濃・飯田 100,000 東軍
田中吉政 三河・岡崎 100,000 東軍
南部利直 陸奥・盛岡 100,000 東軍
387日本@名無史さん:02/11/02 13:44
千利休と今井宗久って兄弟なの?
388日本@名無史さん:02/11/02 14:51
389日本@名無史さん:02/11/02 17:39
PHP文庫の「宇喜多直家」めっちゃオモロイ

流れで秀家の小説も読みたいんだが、津本の文体は苦手なんだよね・・・
390日本@名無史さん:02/11/02 17:44
>>387
利休の公式サイトによるとそうらしい
391387 :02/11/02 18:13
>>390

ありがとう。
今日の大河の再放送で、
林隆三?同じ役者が、
千利休と今井宗久を演じていたので・・
なぜかなと思った。
392日本@名無史さん:02/11/02 21:24
古谷一行だろ。
393日本@名無史さん:02/11/02 21:27
つかマジで兄弟なの?
394日本@名無史さん:02/11/02 22:37
>>393
マジ
異母兄弟
395日本@名無史さん:02/11/02 23:33
またスレの流れが変な方向に・・・
396宇喜多の宿老:02/11/03 00:11
>>395
殿!
死ね!
397日本@名無史さん:02/11/03 23:12
兄弟あげ
398日本@名無史さん:02/11/04 01:02
兄弟なわけないだろ。
399日本@名無史さん:02/11/04 07:41
利家とまつにでてきた秀家はなんていう人?
400 :02/11/04 13:56
>>399
東大卒の俳優。
何とか女優の息子。
香川照之。

401日本@名無史さん:02/11/04 14:18
千利休は堺の納屋衆、田中与兵衛の子。
今井宗久は大和の国今井生まれ。
堺に出て大成し、納屋衆、納屋宗次を継いだ。

ここらから誤解が始まっているような気がする。
402日本@名無史さん:02/11/04 14:18
>>400
香川照之は秀吉役。
市川猿之助と浜木綿子の息子。
403日本@名無史さん:02/11/04 16:26
>>1
どっちかというと
 暫定関白 前田利家/利長(淀と再婚)
 五大老  徳川家康、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元、佐竹or島津or小早川
 五奉行  前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家
だろ?宇喜多が関白はありえないっしょ 
4041 ◆n6LQPM.CMA :02/11/04 21:23
>403
前田でも良いんだけれども、現実には家康に対抗できたのが利家だけだったでしょ?
大納言、次席大老で家康に比肩する地位の利家はそのままに、その上に秀家を位置付け
ようということ。

秀次のような凡才でも関白の地位、100万石の領地があればその存在は無視できない
ものであった。秀次の死で家康、利家の地位が相対的にアップしたわけだしな。
秀次の死で有力大名が政権に参画することとなった。
秀次の変わりを秀家にさせようということ。

405日本@名無史さん:02/11/05 00:28
>秀次のような凡才でも

もうそういう評価止そうよ・・・

ちっと勉強してきー。
406日本@名無史さん:02/11/05 00:40
>>403

前田利家・・・秀吉と縁続きのごく親しい別家
宇喜多秀家・・・秀吉養子(猶子)(豊臣秀家という名乗りを秀吉は黙認)

可能性があるのは宇喜多秀家、小早川秀秋、八条宮、
せいぜい結城秀康ぐらいまで。

それでいて豊臣恩顧の大名や世間、当時の大坂城内勢力が
納得するような人事は難しい。

間違っても前田家はないっしょ。
秀吉が生前に「(利家が後見で)利長に10年預ける」とでも言わない限り。
で、結局「(利家が後見で)秀頼をよろしく」と言ってるわけだし、、、


前田家に「(利家・利長が後見で)秀家(か秀秋)で10年よろしく」
「そのあとは利家・利長・秀家・秀秋後見で秀頼でよろしく」とでも、、、
んで「この件は豊臣家中の問題であるので五大老も口出し無用」とでも
言わなきゃ、、、
あ、でもそうすっと「天下采配」と「豊臣家」は別問題、と捉えられる可能性
も、、、

難しい。
407日本@名無史さん:02/11/05 04:24
>>406
関白にするってことじゃないけど、家康に対抗するため利長に淀を与えて秀頼の
後見人にするって話は当時あった。でも秀家に期待する声はなし。
秀吉が選ぶならともかく、秀吉の死後に他の者が選ぶのなら、宇喜多秀家よりは
前田家のほうが暫定関白になれる可能性はあったんじゃないかな?

秀吉自身は朝鮮、明を占領したら、日本、明、朝鮮各国の関白として宇喜多秀家・
小早川秀秋・豊臣秀勝・豊臣秀次らの中から選ぶつもりだったらしいけど。
408日本@名無史さん:02/11/07 16:12
>>404
根本的に秀次の存在が秀吉・秀頼政権に忌避されて抹殺されたのにその代わりをそれより秀吉や周りからのつながりが薄い秀家にさせるのは無理だよ。
ちなみに秀次が凡才というのは俗説で研究家の間では自派閥の形成や政治手腕に非凡たるがゆえに反秀頼の旗頭にされるのを恐れて抹殺されたというのが一般的
409日本@名無史さん:02/11/07 16:24
410日本@名無史さん:02/11/07 16:26
>>409
香川はとしまつの秀家じゃないって

葵の秀家でとしまつの秀吉だ

としまつの秀家は芦田昌太郎
故松山英太郎の息子だよ
411久秀爆死:02/11/07 18:04
昨日のいいともに秀家の嫡流の子孫が出てたよ。
412日本@名無史さん:02/11/07 22:22
宇喜多秀家
関が原ののち、八丈島に流され、八丈島で82歳の天寿をまっとうした。
家綱の時代までいきたんじゃなかったけ?
413日本@名無史さん:02/11/07 22:24
>>412
84歳。
41457:02/11/08 00:13
秀家って、何で腹切らなかったの?
41557:02/11/08 00:14
>>412
そういえば、明治になってから、
華族になったんだよね。
やっぱ、反徳川の意味合いで??
416日本@名無史さん:02/11/08 00:49
>415
じゃぁ、いいともに出ていた人も元華族なの?
貧粗な岸辺しろーかと思ったよ。
41757:02/11/08 01:04
>>416
本人は家族じゃないだろうけど・・・その親は、そうじゃない?
418日本@名無史さん:02/11/08 07:40
士族じゃなかったけ?
419日本@名無史さん:02/11/08 09:31
>>410
芦田昌太郎、華無さすぎ。ショボーン
420日本@名無史さん:02/11/12 21:38
秀家を関白にするよりも、秀頼を将軍にしなかったのが不思議。
将軍→秀頼
家宰→宇喜多秀家
関東管領→徳川家康
鎮西探題→毛利輝元
鎮守府将軍→伊達政宗

ってどうよ?
鎮守府将軍が浮くのは仕方ない。
東北に家康から独立した勢力を作って東国を分離したいから。
421のりりん ◆tr.t4dJfuU :02/11/12 22:28
何故秀頼を将軍にするの?
というか将軍にすれば安泰だと思うわけ?
422日本@名無史さん:02/11/12 22:38
>>420
何か無理やり伊達を入れた感じ。
上杉でいいじゃないか。
423日本@名無史さん:02/11/12 22:39
>>420
1.秀頼が将軍になれるぐらいなら秀吉がなっている
2.鎌倉・室町ならともかく、今更家宰って役職はないだろw
3.前田家はどーすんだ
4.なんで伊達政宗が将軍になれるんだよ?さては政宗厨かw
  伊達政宗は豊臣時代においては、単に危険人物として認識されているだけで、
  それ以上は評価されてねーっつーの
  家光時代に副将軍扱いされたのは、大物がみんないなくなったから
  ようやく小物の政宗が表に出れただけじゃん
424日本@名無史さん:02/11/13 03:39
寡頭政治にするから家康に牛耳られた
権力を分散し、塵も積もれば・・・で、家康に対抗すればよい

関白  前田利家(暫定、一代のみ)
大老  前田利長、徳川家康、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家
中老  生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏、蜂須賀家政、浅野長政
年寄  石田三成、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、毛利吉成
奉行  長束正家、増田長盛、小西行長、前田玄以、田中吉政

兼務職
 徳川家康 関東管領
 上杉景勝 奥州探題
 前田利長 豊臣家家宰、北陸探題
 毛利輝元 西国探題
 石田三成 大目付、六波羅探題
425日本@名無史さん:02/11/13 04:17
↑なんですか、このお馬鹿さんは
426日本@名無史さん:02/11/13 05:10
六波羅探題ってあんたw
427日本@名無史さん:02/11/13 07:16
天正20年(1592)5月18日、太閤秀吉が関白秀次に送った覚書(前田家文庫『古蹟文徴』)の内容

秀次を明国の関白に任命するつもりであるから準備をしておくこと
後陽成天皇には明国皇帝として北京に遷都していただく
秀次が明国の関白になった時は、羽柴秀保か宇喜多秀家のどちらかを日本国の関白にする
天皇が明国皇帝になった時は、皇太子か皇弟のどちらかに日本国天皇として即位していただく
朝鮮の総督には羽柴秀勝か宇喜多秀家を任命する

つまり、宇喜多秀家には関白になる資格があることを秀吉が認めていたということですね
428427:02/11/13 07:27
秀吉の死の直前、生き残っていた関白資格者は秀家だけなので
>>1が言うように関白になれるか・・・と言えばそれはないでしょう。
上記の手紙は秀頼誕生以前であり、後に秀次を殺したように
秀吉は身内への猜疑心のかたまりになっていたし、中央集権派の
石田三成らも強力な関白の誕生は望まなかったでしょうから。
(関が原で秀秋に暫定関白職を提示したのは、秀秋ならお飾りで済ませられるから)
429日本@名無史さん:02/11/13 07:34
>>421
将軍にするのが目的というより、大大名を封ずるのが目的です。
大大名の権限を自分の領域内に閉じ込めるわけです。
律令系の官位では名目的すぎて、封ずるという目的を達しえません。

>>422
無理矢理入れました。
徳川を関東管領にした場合、関東以東の諸国の支配権を徳川に奪われかねません。
東北を関東から独立させ、徳川の影響力を関東周辺に極限するのが目的です。

>>423
1.元関白太政大臣が将軍に任官されるのはかっこ悪いでしょう。
2.室町幕府が崩壊してからそれほど経ってません。
  室町幕府を再建するイメージです。(関東管領も鎮西探題も古いです)
3.前田は扱いが難しいので放置です。(w
4.鎮守府将軍は大した権威じゃないです。
  危険人物だから良いんですよ。東北VS関東という状況を作ることで
  徳川を牽制するのが目的ですから。

イメージは大大名を地方政権化することで、中央の政治に関わらせないこと。
とりあえず豊臣政権を延命するのが目的です。
430のりりん ◆tr.t4dJfuU :02/11/13 07:46
>428
というか、豊臣政権末期の最重要課題は、徳川対策でしょ?
家康に対抗できる人物育成のために、利家の官位を進め、
秀頼の守役の地位につけ・・・。
三成も徳川に対抗できる人物の育成に心を砕いていたんじゃないの?

その中で、利家の他にもう1枚、家康に対抗できるカードとして
「秀家を関白に」つけるというのもありえたと思うな。

あ、もう学校いかなくちゃ。
431日本@名無史さん:02/11/13 22:28
>>430
豊臣政権末期の重要課題が徳川対策か?
と言えば、秀吉はみすみす家康が自分の死後の第一人者になるようにしてきたことからも
分かるように、必ずしもそうは考えていなかったわけで、むしろ秀頼誕生後は
三好秀次切腹、小早川秀秋減封、北政所からの政治力奪取などからわかるように
身内に強力なライバルを誕生することを恐れ、他人の家康や利家を信用しました。
ましてや秀吉の死後、権を握ろうとした三成ら官僚派が、秀依頼を呼びお子する秀家を関白に推挙する
はずもないと思われます。
432日本@名無史さん:02/11/14 00:53
つーか秀長以外に家康に対抗できるものなんて豊家には居らん
秀家はなんだかよく分らんが、関ヶ原後も長く生きて、コメを恵んでもらう話だったか、
子供のために食事を持って帰りますだなんだかは忘れたが、なんだか善良なイメージがあるのかも知れんが
実際は豊臣家にどれだけ忠誠心があったかどうか分らんし
何せ直家の息子だし
まあ、いろいろ恩は受けてるとは思うが…

ところで秀家と三成らの関係はどうだったのかね。
秀家は先のお家騒動のときに家康の力を借りてこれを治めた
そういう話しがあったと思うが
秀家は状況によっては徳川方についてもおかしくなかったのではないか?
433日本@名無史さん:02/11/14 06:57
単に世間知らずのわがままボンボンでしょ。
自分の家を治められなかったことからもわかるとおり、政治的手腕はなし。
三成、家康とのつきあいに関しては、家康が秀吉の言いつけを次々に破り
同じ大老の同僚を無視していることに腹を立てて、三成側についただけ。
もともとは、三成、家康どちらについても、好き嫌いや思い入れが
あったわけではない。
434のりりん ◆tr.t4dJfuU :02/11/14 18:48
>432
うーん、豊臣家への忠誠はあったと思うな。
@秀吉も臨終の際に
「八郎は幼少の頃から育てた息子であり、どんな事があっても逃げ走りしないだろう。」
と言ってるしね。
人間観察の天才秀吉の言だしね。

A関が原の戦の前に豊国廟へ2回も参詣している、旨の記述が高台院側の資料にあったらしいわね。

B関が原の直前に三成が増田長盛にあてた手紙で、見方の内応を気にしながらも
「備前中納言の覚悟は見事である。」と書いているし

この人は逆に政治的な臭みがなくて、豊臣家一辺倒の人だったんだろうね!
435日本@名無史さん:02/11/14 19:20
>>434
ただ、関ヶ原までは豊臣家御大事という考えや建前はあまり東軍と西軍の色分けには影響を与えなかったと思う。
東軍側は豊臣家に反旗を翻すのではないということは強調していて、
「三成こそ豊臣家のためにならない」という感情があって、それが家康に利用された一面もある。
「豊臣家のあるべき姿は?」というのが対立の論点になってしまっている時点で豊臣家への忠誠度はあまり影響を与えないのではないだろうか。

秀家の場合も豊臣家をめぐる大義名分が違えば情勢は変わった可能性はあると見る。
436のりりん ◆tr.t4dJfuU :02/11/14 19:42
>435
加藤清正、福島正則、加藤嘉明等のような小姓上がりはそうだったかもね。

でも、伊達政宗、最上義光、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興、池田輝政等はどうかなー。
長い者に巻かれろ+徳川政権への先物買いをしたんじゃないのかなー。

大体、
@秀吉の死の直後から諸侯往訪を始め多数派工作する。
A秀吉の遺言を無視して、大名と婚姻を結ぶ。
B利家の妻を人質として、(大阪でなく)江戸に抑留させる。
C豊臣家の直轄地を大名に与え、腹を痛めず恩を売る。
D家康のいた大阪城の二の丸に天守閣をたてる!!!

等した人が豊臣を主人と思うわけないじゃん。大名でもそこのところを
わかっている人はわかってたんじゃない?
そこら辺がわかってない馬鹿な人を引きつける大義名分として、東軍も秀頼擁護を
打ち出したわけ。

秀家などもそこをわかっていたんで、西軍についたんじゃないの?



437日本@名無史さん:02/11/14 23:17
>>436
東軍諸将は、信長の死後、織田家から秀吉に政権が移ったように、
家康に政権が移ることに問題なしって理屈だろうな。
小姓上がりの武将は、秀吉が織田家を残したように、
家康も豊臣家を残すと思ってたでは?
ましてや、関白までいった豊臣家なら、公家として生き残り、
家康に臣従する必要はないって選択も可能。
家康も秀頼が大坂を出て行って、大人しくしてれば、
殺す気はなかったかも。

しかし、朝廷ふざけてるよな。
「豊臣」って「成金の臣」ってことだろう?
詳しい方、解説してくらはい。



438日本@名無史さん:02/11/16 05:46
>>437
「豊臣」をさずけたのは朝廷だけど、それは秀吉側が「『豊臣』でヨロシク」と
頼んだからであって、別に調停が悪いわけじゃない
439日本@名無史さん:02/11/26 15:24
>>436
小姓上がりも上杉征伐に参加した時点でどうだろう?
豊家にとって上杉と徳川どちらが危険な存在か
少々頭が弱くてもわかりそうなもんだと思うんですが。
440日本@名無史さん:02/11/26 19:58
>437
当時は東軍についた大半の大名は分からなかったんだなあ、これが。
正則はまだしも、吉川、毛利、増田等こけにされた面々の多いこと。
家康は余程、演じるのが巧かったんだろうね。
441440:02/11/26 20:00
>439 の誤り。スマソ。
442日本@名無史さん:02/11/26 23:49
443日本@名無史さん:02/11/27 00:40
秀家の先手衆は黒田家に借陣したそうだけど戦場で黒田が福島の
ポジションだったら悲惨。影響したのかな。
444日本@名無史さん:02/11/27 00:52
443 そりゃ影響するだろうが全体の流れはかわらなかったんじゃないかな?
    
 三成さんがあの戦いに参加したのはまずかったように思う。
 彼はあくまで黒子に徹するべきだったと思う。
 堺屋太一が『巨いなる企て』にそう書いてた。

 話がそれた、スンマソン。
445日本@名無史さん:02/11/27 04:24
>>439
最大事実勢力である家康が名目上の主君、秀頼の命で上杉討伐を決定しているのに
その軍役に参加しないほうがよっぽど頭が弱いと見るべきでは。
446日本史名無し:02/11/27 04:51
≫445
全くだ。そのあたりの政治的経過は笠谷氏の二重公儀説を理解していないと
歴史的見通しを誤ってしまうだろう。これまでの通説的解説がいいかげん
だったのではないか。
447日本@名無史さん:02/11/27 09:48
>>445
戦国の慣わしで、次に豊臣家の天下を舌なめずりをして狙っている
実力者が、上杉よりも家康であることすら分からなかったんでしょーか?
秀頼に意思決定能力が無いことは分かってるだろーに。
448日本@名無史さん:02/11/27 10:28
>>447
上杉も徳川も外様だからねぇ。
別にどっちが安全でどっちが危険かなんてわからんだろ。
その段階で形式上の主君の命令が出て、当面の実力者がそれを率いるとなれば従わなければ自分が真っ先に討伐されるからねぇ
それがわからないほど馬鹿でもないでしょ。

449日本@名無史さん:02/11/27 16:36
無理矢理一門増やせねーかな。
450日本@名無史さん:02/12/02 09:39
秀吉も秀家に気前良く尾張〜東海辺りに
100万石もくれてやってれば面白かったかも。
451日本@名無史さん:02/12/02 10:07
やはり、秀頼を秀次の養子にして、秀次の疑心暗鬼をとく
秀次には、関白、太閤の地位は保障するが、後継者は秀頼と認めさせる
秀次にも子供がいたようですが、これで大それたことはしなかったでしょう
452日本@名無史さん:02/12/02 10:55
>>450
尾張あたりを気前よく、親族である福島君にあげといたんですが・・・

やれやれ<福島
453備前中納言殿:02/12/03 23:46
結論……福島逝ってよし
454のりりん ◆tr.t4dJfuU :02/12/06 21:37
宇喜多家兵力 17,000人
豊臣家旗本  10,000人

前田家並の兵力だな
455  :02/12/06 21:43
秀吉にすれば家康を家老筆頭にしたのが間違い。
生存中になんとしてでも家康排斥の手を打っておくべきだったな。
456日本@名無史さん:02/12/06 21:48
家老筆頭ってなんですか?
457日本@名無史さん:02/12/06 22:12
五大老って要するに豊臣家の家老でしょ?
458日本@名無史さん:02/12/06 22:15
五大老って呼び名自体、当時のものなの?
当時は奉行とか年寄とかよばれてたんじゃなかったの?
誰か詳しい人、教えて下さい。
459日本@名無史さん:02/12/06 22:25
過去ログ探せ
460のりりん ◆tr.t4dJfuU :02/12/06 22:32
>458
奉行が「大老」
年寄が「奉行」という説もあった。逆に東西手切れで西軍が家康を奉行、家康が
三成らを奉行と呼ぶ例もある。よくわからん。
461日本@名無史さん:02/12/14 19:50
よくわからんね。
462日本@名無史さん:02/12/16 15:57
秀家がもし関白になていたら、前田・宇喜多連合か・・・
一枚足りないな。天下取りには
463日本@名無史さん:02/12/16 16:16
>>462
ホントはそこに蒲生が噛んでるはずでした。血縁的に。
464日本@名無史さん:02/12/16 17:04
暴論を言うと。
誰かが淀君を斬っていれば少なくても滅亡は無かったのでは?

家康が鐘事件後突きつけた要求呑んで大阪から出ていれば曲がりなりにも
小家としては存続出来ていたのでは無いだろうか?
それにそこで秀頼を斬れば流石に波が立つので躊躇するだろうし、
斬ると言っても、それこそ秀家の嘆願をした島津家みたいに秀頼の助命を申し出る
大名家が現われたのでは無いだろうか?
多分、豊臣恩顧とか秀頼の人柄で無く、最後の野心を持った大名家が戦術カードとしての
助命嘆願になったのだろうとは思うけど。
465日本@名無史さん:02/12/16 19:08
前田、蒲生、宇喜多連合萌えー
466日本@名無史さん:02/12/16 19:23
>>465
そこに浅野、上杉が組めば家康に勝てたろうけど、ビッグネームをまとめ上げられる
才覚のある軍師がいなかったのが残念ですな。
家康には伝説的な軍師が何人も付いてたのが天下のゆくえを決めたって感じ。
467日本@名無史さん:02/12/16 19:30
>>464
自分から大和あたりに移ってれば、小家として存続どころか楽勝で大名として存続できたろう。
468日本@名無史さん:02/12/24 21:40
徳川に臣従するのが早ければ早いほど待遇は良かっただろうな。
469日本@名無史さん:02/12/25 18:48
確か南海道の国に移れとかなんとか家康あたりに言われてた様な気がするが。
470日本@名無史さん:02/12/26 01:34
>469
逆じゃないか?
「安房に移れ!」と言われて、南海道を希望した。
471日本@名無史さん:03/01/04 21:45
ギリギリまで豊臣家を残す努力はしたって事か?
徳川家はどう考えていたんだろ。
472日本@名無史さん:03/01/04 22:05
宇喜多秀家は力がないから関白になっても駄目だよ
473日本@名無史さん:03/01/06 19:34
豊臣秀次も関白でなければそれほどの力はもてなかったでしょう。
だけど関白になった事で、逆に殺さざるをえない程の力を持った。
関白の地位にはそれだけの力があるのでは?


それに秀家は文禄の役の総帥。出兵した大名は、毛利輝元ですら、
秀家の指揮下で戦ったわけ。力はあったんじゃない?
474日本@名無史さん:03/01/06 19:40
勅裁で清華に認められてるんだ、豊臣政権では立場的には頭抜けてる
でも関白には絶対になれないけどね
475日本@名無史さん:03/01/06 21:26
清華は太政大臣までなれるんだっけ?
476日本@名無史さん:03/01/06 22:22
宇喜多秀家釣りバカ日誌
http://www.wise-jp.com/b9909/hatijyou.pdf
477日本@名無史さん:03/01/10 20:43
大納言までじゃなかった?
478日本@名無史さん:03/01/10 20:51
>>477
それは羽林家
479日本@名無史さん:03/01/10 20:55
摂関家……摂政・関白になれる
清華家……太政大臣までなれて大将を兼ねられる。
大臣家……大臣までなれて(太政大臣は?)大将は兼ねられない。


だったと思う。
480日本@名無史さん:03/01/10 22:36
豊臣政権下で参議以上の公卿にあたる大名は

豊臣秀長、豊臣秀次、豊臣秀保、豊臣秀勝、豊臣拾
徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元、小早川隆景(秀秋)
織田秀信、結城秀康、京極高次だと思ったけれど、このうち清華以上って誰?
全員?


481日本@名無史さん:03/01/10 23:24
>479
大臣家はどうにかこうにか内大臣になれるかどうか(大臣輩出率約30%)、
やっとなれてもすぐに辞職。
清華家だと大臣輩出率70%弱。時代が下ると太政大臣にはなかなか
なれなくなったが。
482日本@名無史さん:03/01/10 23:34
摂関家は早死にしない限り最低大臣にはなれる。

羽林家以下でも大臣になれないわけでは無い。
483山崎渉:03/01/11 16:38
(^^)
484山崎渉:03/01/16 08:53
(^^)
485日本@名無史さん:03/01/16 23:26
小早川秀秋の方がいいのでは?
486日本@名無史さん:03/01/24 23:15
秀秋ねえ・・・。いいんだけど、流石に18歳ではなあ。
少し角度を変えて佐竹義宣が大老ってのは豊臣政権的にどうだ?
487日本@名無史さん:03/01/24 23:35
>>486
大老の人数増やしとく、ってのはありだったかも知れない。
船頭多くして・・・を逆手に、誰が議長とも言えないままの
混沌が続くわけで。

488日本@名無史さん:03/01/24 23:42
>487
それだあ!30万石以上の大名を全部大老にするんだよ!
489日本@名無史さん:03/01/24 23:54
>>488
結局2〜3の派閥に分かれそうな悪寒・・・
490日本@名無史さん:03/01/24 23:57
巷では烏合の衆といふもの也
491日本@名無史さん:03/01/27 22:11
秀家より実父の直家を語る方がおもしろいよ
492日本@名無史さん:03/01/27 22:27
宇喜多秀家ね。補佐役の明石が台頭してくるのかな。
ま、秀吉の後継で暫定にせよ関白を設置することは
石田・増田らの粛清の対象になることは免れんだろうな。
小早川あたりが妥当な線だとおもうが。
493日本@名無史さん:03/02/14 07:39
宇喜多を粛清するなら石田は本当に馬鹿だよな。
494日本@名無史さん:03/02/14 08:36
>>493
秀次事件と同じようにヤルさ、奴らならね。
495日本@名無史さん:03/02/14 16:30
>>494
それは全部あなたの思い込みです。
496三好清海入道:03/02/26 00:12
石田、宇喜多って仲いいんじゃねえの?

秀吉死亡直前で手駒のない豊臣家、外部に巨大な外様勢力の徳川が
ある状況であれば、秀家を五大老でなく、関白にしても良かったんじゃない?
家康が大名に婚姻、加増を行おうとしても、関白が反対であれば、難しいんじゃない?
497日本@名無史さん:03/02/26 00:15
そうでちゅね
498日本@名無史さん
利家関白の方が良いと思うが・・・