勝元が山名側の各領地から上京してくる兵たちを少なくするために各地に隠密(みたいな?)を放って地元で争いを起こさせた、って説もあるみたいだね。
隠密はともかくとして、
各地の西軍大名に対しては、
一族の有力者(支流)のうちで、不満を持ってそうなヤツをけしかけて
東軍に味方したら守護に任命したると甘言を弄したり、
ツテがある場合は、領内の有力そうな在地領主を誘ったりして、
頻繁に叛乱誘致を推し進めたのは確実だな。
基本的には手紙を送る形だったと思うんだが。
954 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 02:58:28
ありがとう。へぇー。参考になった。
勝元って策士だと言われるが、あまり具体例が知られてないし、私も知らなかったんだけど、そういうところが策士たるゆえんなのかな。
一方の宗全もかなりやり手だよね。養女をあちこちの家(細川・六角・斯波とか)に送り込んだり。
日野富子、勝元の娘、後の今川義元の母とかの例を考えれば、女性も発言力が強かった時代だろうし、さらに後の、夫に殉じたお市の方などとは全く違う感じがする。
この時代の政略結婚は人質とか、娘を利用して摂政になる、みたいな摂関政治というより、婚家操縦(あ、お市は人質というよりこの感じか?)、に近いものがあったのかな?なんて考えてみたりもする。
かなり的外れかな?
勝元による叛乱誘致政策が早期に結果を出したのは越前。
朝倉が、西軍方だった守護の斯波義廉を圧倒して、最終的には自分自身が守護となり、
「下克上第一号」とされるまでに至った。
応仁の乱が終わらない段階で下克上を成立させたのは、朝倉だけだったはずだ。
が、西軍方の守護は最終的に、下克上で消え去っていき、
戦国時代の中盤までには歴史の舞台から消え去っていった。
守護大名から戦国大名に転じた大名のうちで、戦国時代後半まで残ったのは東軍関係者だけだったはず。
あ、違った、六角氏とか、いたか。
総じて、下克上で消えた守護大名には西軍が多く、他の大名に負けて消えたのは東軍が多い気がするが、
東軍の細川や赤松が下克上で消えてるのとか、
西軍の武田や六角などが近隣大名に敗れて消えてるのとか、
例外ってレベルじゃなく多いから、単なる「傾向」って程度だな。
956 :
706:2008/06/30(月) 23:55:46
買ってきた。吉川弘文館のやつ。
パラパラとめくった限りでじっくりは読んでないが以下の記述があった。(262P)
勝元は以前に山名宗全の子豊久を養子にとり嫡子にしていたが文正の政変によって豊久を廃嫡して
出家させた後、細川家庶流伊予宇摩郡分郡守護家である「野州家」細川教春の息子勝之を嫡子に
迎えていた。ところが文正元年十二月二十日に勝元の妻である山名宗全の養女に聡明九郎(政元)
が誕生した。このため勝之に代えて政元を嫡子にすることが和睦条件となった云々
一応、この段落の参照に大乗院寺社雑事記と寛政重修諸家譜が挙げられてる。
大乗院の方は見てないが、寛政諸家譜の方は前に見たんだがそんなこと書いてあったかなぁ…
今週末にでも改めて図書館で調べてきますわ
957 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 08:44:40
寛政重修〜には書いてない、でFA。もう一つの方は分からない。
ついでに『応仁記』だと、勝之は応仁の乱の最中に戦死するんだよね。
仮に、これが本当だとすると、政元以外に後継ぎはいなくなったわけだから政元が家を継がざるをえない状況だったわけで。
まあ、『応仁記』はあくまで物語であって、『平家物語』みたいなものなのかな。
958 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 09:00:36
あと、気になるのが、もう少し後の時代だと、お市の方、黄梅院(武田信玄娘)、千姫とか、実家と婚家の関係が破綻すると少なくとも自分は実家に帰ってる。
例外ってけっこうあるの?あ、武田勝頼正室は帰ってないか。それ位しか分からん。
婚家に残る例がさほど多くなければ、宗全養女が政元の母だったから、という(あくまで)推測が成り立ちそうな気もするが…。
ま、黄梅院は子供は婚家に残したけど…。
959 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 09:21:14
もう一つついでに。
もう1つついでに。
前に、勝元の結婚は1447年と書いたんだけど、どうやら義政の将軍就任と同じ年、という意味で、という感じみたい。
実質的に将軍になったのは1444年、正式に就任したのが1447年だから、1444年説もあるみたいだね。
>>956 楽しみにしてるからね。 健闘を祈る。
960 :
706:2008/07/02(水) 07:53:13
しかしまあそもそも政元の生年月日をここまではっきり書いてあるのも初めて見た。
このあたりの大日本史料(あったっけか?)とか日記類を漁ってみる手もありそうな…
いずれにしろ平日は何もできませんorz
>>948 斯波持種だね。
義教の時代に大覚寺義昭の大和騒乱鎮定に一軍として出兵してますね。
甲斐常治が筆頭家老格じゃなかった?
>961
そうそう、
筆頭の甲斐と、激しい派閥争いを繰り広げてたみたいだね。
だからこそ、義敏が甲斐常治と戦うことになったわけで。
持種にしてみれば、自分の子供を次期当主の座に据えれば
仇敵である甲斐をどうにかできるんじゃないかと、起死回生を狙ったんだろうけど。
963 :
706:2008/07/03(木) 09:57:40
例の本を読んでる最中ですが、勝元と山名養女の婚儀もはっきり
年月日が書いてありました。文安四年(1447)二月二十五日。
参照は建内記、看聞日記。
そういえば昔は看聞御記って言うてた気がするが、最近は日記
と呼ぶのが流行りなんだろうか。後崇光院は天皇じゃないから?
どうでもいいが、この本、振り仮名がひどすぎるな。
編集が糞なんだろうか…こんなんなら振らなきゃいいのに。
後花園天皇の父親である後崇光院の日記だから、
皇族(準・上皇)への敬意を表して、看聞御記と言ってたんだろう。
現在は、個人に対する尊敬語は原則として使用しないって理由でもあるのか、
たとえ天皇や上皇の著作物であっても、「御」を付けないのが原則になってるから、
その流れから、看聞日記と呼ぶようになったんだろう。と思うよ。
965 :
706:2008/07/05(土) 18:19:50
んーまあしかし続群書類従とかには「看聞御記」で収録されてるわけで
本読んで興味持った人が自分で原本調べようと(そんな酔狂な人はそんなにいないかもしれないが)
図書館とかで検索しても「看聞日記」では引っかからなかったりするから
最近の人が勝手に名前を変えちまうのもどうかと思いまして…
966 :
706:2008/07/07(月) 01:15:29
土日2日間潰して図書館でいろいろ調べてきますた。
で結論から言うと…結局よく分からん。
分からん…が、個人的にはやはり政元の母は山名の養女ではないように思う。
一応当たってみた史料・資料は
尊卑分脈、寛政重修諸家譜、後鑑、大日本史料
多聞院日記、蜷川親元日記、斎藤親基日記、御湯殿の上の日記、大乗院寺社雑事記、
言国卿記、十輪院内府記、蔭涼軒日録、後法興院記、碧山日録、親長卿記、
応仁記、応仁別記、応仁略記、細川勝元記
室町幕府守護職家事典、細川勝元と山名宗全、戦争の日本史 応仁文明の乱
あたり。
親元日記とか活字本じゃなくて影印本でびびったw
まあ脱漏記事が多くて結局あんま役に立たなかったんだが。
他にも「ちょうど知りたい時期が抜けてる」って史料が多いね
967 :
706:2008/07/07(月) 01:16:32
では一つ一ついきましょう。
まず勝元と山名養女の結婚は
>>959>>963の通り
文安四年(1447)二月二十五日。『建内記』同日条に
「細川右京大夫勝元<當管/領也>有嫁娶事、是以山名右衛門督入道持豐朝臣<法名宗峯>
猶子<山名故中務大輔熈貴女>、可爲彼妻室之由、山名年來望之、今日終有此儀云々」
とあるので間違いないでしょう。<>内は割注。以下同じ。
次。
>>933に勝元正室の死が1497(明応6)とありますが、実際には正室かどうかは分からない
ものの、政元の母は確かにこの年に亡くなってます。
『親長卿記』明応六年六月廿一日条 「細川政元母卒去」。
『忠冨王記』明応六年六月三十日条 「細川右京兆母死去」。
『大乗院寺社雑事記』明応六年七月二日条 「細川母今日葬礼云々、去月十九日入滅」。
『後法興院記』明応六年六月廿日条 「晩頭京兆母堂死去云々」。
と、すべて「細川政元の母」という表現になっています。
968 :
706:2008/07/07(月) 01:17:53
さて、
>>713の赤松家に嫁いだ政元の姉妹(洞松院)ですが、ほぼ姉で間違いなさそう。
『大乗院寺社雑事記』明応二年三月十五日条
「去十一日細川姉東松院<三十一>毘丘尼也、赤松之女房ニ成之云々、可遣之支度云々…」。
『後法興院記』明応二年三月十六日条
「世上之儀、種々有雜説、細河京兆姉<別腹>比丘尼(左傍:トウセウ院)<年三十三/云々>
近日赤松兵部少輔妻ニ相定云々、京兆依為所縁弥有物云」
1493年の時点で政元は28なので、31にしろ33にしろ姉ということに。
しかも「別腹」とあるのが注目。政元とはどうやら母が違うらしい。
んで、
>>956にはっきり書いてあった政元の誕生日(文正元年(1466)十二月二十日)ですが
上掲史料の当該日条を見ても全く載ってません。
『大乗院〜』には山門と京極入道が合戦に及んだとか書いてあるし。
しかもこの日は『斎藤親基日記』『後法興院記』によれば細川邸から出火して鹿苑院の塔婆
までが焼ける火事が起きているので本当にこの日に政元が生まれたのかどうか…
(産所が細川邸ではなかった可能性も高いけど)。
969 :
706:2008/07/07(月) 01:19:35
ここまでのをいったん整理すると
1447 勝元が山名養女を正室とする
1461?勝元の側室が洞松院を産む
1466 政元誕生、山名豊久出家
となり、もし政元が正室の所産だとすると結婚20年目まで子がないのに
ようやく生まれたということになり不自然ではある。
ここでキーとなるのが、勝元の養子について。
>>956にあるように山名豊久と細川勝之が勝元の養子だったのは間違いなさそうだが
文正の政変の影響やら、和睦の条件に絡むなどは史料からは全く確認できなかった。
まず豊久。
『寛政重修諸家譜』山名
「豊久 或豊氏 七郎
細川右京大夫勝元が養子となる。後勝元男子を儲くるにより豊久をして僧となす。
持豊これを憤り還俗せしむ。」
となっており、文正の政変とは関係なく、政元の誕生によって出家させた模様。
一方の勝之。これが問題でして…
970 :
706:2008/07/07(月) 01:21:17
『尊卑分脈』細川氏
「勝之<六郎/教春ノ長子>
勝元朝臣猶子、文明五六出家、廿六歳、法名宗林、為大徳寺長老、着紫衣」
応仁の乱の和睦条件とやらの話は確認できないが、文明5年6月に出家で26歳とあるから1447年生。
和睦は翌6年の4月3日なのであり得ない話ではないが、むしろ勝元死去(文明5年5月11日)
直後、聡明丸(政元)相続に伴って不要になったからじゃないかとも思える。
ただ
>>695にある和睦の後ではなく、出家は和睦より前の模様(和睦には細川方の代表として
政元と母は出席しているが、勝之は出ていないので)。
いつから養子になったのかも不明。これ以前で養子になってたと思われる記述は
>>957の『応仁記』にある応仁元年十月三日のいわゆる相国寺合戦で「六郎」が登場する。
が、957でも言ってるように軍記物でイマイチ信用できん上に死んだことになってるのでこれは無理。
しかしその4年後の文明四年(1471)には養子(正確には猶子=相続を前提としない養子)に
なっているのは間違いなさげです。
『大乗院寺社雑事記』三月十六日条
「細川養子<野州/息>遁世入道云々、不知子細、就中細川勝元隠居云々、出家歟、
天下無為計略ニ有子細處、且如何、但諸事、近日事ハ風説也」
この頃、山名・細川両雄は密かに和睦を進めようとしていたものの主戦派の反対
でままならぬ事態だったようで変なこともいろいろ起きています。
やはり『大乗院〜』の同五月十四日条によれば、細川父子がともに本鳥(髻)を切るわ、
山名入道が切腹を図るわ「比興管領」「天満所行以ての外也」と書きたい放題ですが。
ここに出てくる細川の「子」ってのは、本鳥を切ってるくらいなので
元服前の政元ではなく、勝之の方でしょう。
『尊卑』で出家したという文明五年の『大乗院〜』七月十五日条では
「細川猶子六郎遁世必定、赤松并畠山兩人可被追御陣由、雜説、中々無是非云々」
とあります。
971 :
706:2008/07/07(月) 01:38:56
連続投稿に引っかかった……話はまだ終わらなかったりします。
文明十二年(1479)十二月三日、細川家守護国の丹波の被官、一宮宮内大輔が
守護代の内藤元貞と対立し、当時14歳の政元を無理矢理拉致して丹波に連れ去る事件が
発生。
以後政元は約100日間も監禁されてしまいました。
その間、京都の細川家では万一のことも考えてすでに出家していた六郎を還俗させて当
主に
しようと画策した模様。以下『大乗院〜』
文明十一年十二月十日条
「四日細川九郎、一宮宮内大夫取之下向丹波了。是去年一宮党二人其外人済々、
為内藤之沙汰切腹了。其訴訟云々。随而細川六郎可取立之由及其沙汰、一家引分了」
文明十一年十二月十七日条
「細川九郎ハ六里奥へ引入、一宮以下与力衆済々在之、京都ニハ安富内藤以下六郎を
引立、成細川了。上意又成下候歟。一家二ニ成条必定々々」
文明十二年二月四日条
「細川事一宮責之、一門各同心。九郎定而可生涯条不能左右、野州息六郎可還俗分一決
旨、
河内辺之沙汰也云々。則丹州辺煙見之云々」
ちなみにここに出てくる「六郎」を『大乗院寺社雑事記索引』も『大日本史料』も
澄元と注していますが、澄元は1489年生であり、あり得ません。
ではこの「野州息六郎」は勝之のことなのか…? 文明5年出家時26歳ならこの時33歳
だが…?
972 :
706:2008/07/07(月) 01:40:15
さて『大乗院寺社雑事記』には「野州息」がまだ出てきます。
約10年後の延徳二年(1490)正月、政元は病気で一時危篤の噂まで出るほどに。
で、二月十二日条「細川可在國云々、隠居用、家徳下野守息之由申之云々如此雑説多之」
雑説と断りながらも下野守息に家督を譲るという噂が。
しかしこれはどうも勝之ではないようで同二月十九日条には
「細川九郎來廿四日可下國云々、野州民部少輔七歳息、可爲家徳之由一定、内者共悉以礼申之」
とあり、この時7歳。六郎澄元の方は前年生まれで2歳だからこれも違う。
ちなみに同二月廿一日条
「細川在國事ハ母儀色々申、仍延引、家得事ハ違例半ニ申付之、其後事ハ不及沙汰云々」
とあり、この件は沙汰やみになった模様。
下野守・民部少輔というのは勝之の父の教春以外には見あたらないのだがこの時7歳の息子はいない模様……所詮雑説は雑説なんだろうか。
973 :
706:2008/07/07(月) 01:41:14
『大乗院寺社雑事記』には他にも面白い雑説が載っている。
9代将軍義煕(義尚)は大酒がたたって長享3年(1489)に鈎の陣でおっ死ぬのだが
後継者の噂がいろいろ書いてあって、先代義政の子として義材・清晃という後の10・11
代将軍になる養子がいるにはいるのだが、その中の一説として
「一説者、細川之母儀ニ東山殿御息在之、則細川之弟也、同腹之若君在之云々」
(長享三年三月晦日条)
なんと義政の隠し子?として細川政元の同母弟がいると。
同じく四月八日条にも
「或細川之母儀ニ蜜通、東山殿御息在之、則細川之舎弟也」とある。
眉唾ではあるもののとにかくそういう噂があったと。
974 :
706:2008/07/07(月) 01:42:32
以上を整理すると
1447 勝元が山名養女を正室とする
1461?勝元の側室が洞松院を産む
1466 政元誕生、山名豊久出家
1467?この頃、勝之はすでに養子
1471 勝元・勝之、髻を切る
1472 勝元死去、政元継ぐ。勝之は出家。
1479 政元丹波に拉致、勝之?還俗計画
1489 政元に同母弟の噂
1497 政元の母、死去
「政元の母」は1466年に政元を産んだ。
そしてそれは1461(1463?)年頃に姉の洞松院を産んだ女性ではない。
そしてその「政元の母」は1489年の時点でかつて政元の弟を産んだという噂が出た。
政元が1466年生だから弟は当然67年以降の生まれということになるが
夫の在世中に密通するのも不自然なので勝元が死んだ1472年以降の
生まれだろう。もし本当ならばだが。ただそういう噂が出る位の
年齢ではあったと思われる。
1447年に勝元と結婚した山名養女が何歳だったかは分からないものの
勝元が1430年生で同じかそれよりやや下と考えると、1472時点では40前後。
まあ出産はまだ可能ではあるが…
こんなところです。今度こそ後は他の人に頼むよ(・∀・)ウヒョ
>>966-974 このクオリティの高さ!本当にお疲れさま。
あなたに惚れそうだ。もしかして国立国会図書館の近くにお住まいですか?だとしたら羨ましい…。
綿密かつ面白い。ぜひ、あなたの研究を出版してほしい。
あとは頼むよ(・∀・)ウヒョ、の前に。
@春林寺殿・桂昌禅尼というのは勝元正室のことなのか?それとも政元母のことか?もしくはそれ以外か(勝元正室と政元母が別人だった場合)?もしくは春林寺殿と桂昌禅尼って別人?同一人物だと思っていたが。
A竜安寺の勝元墓の隣にあるのは、誰の墓?春林寺殿?桂昌禅尼?正室(山名娘)?政元母?それ以外?
B政元母の死亡記事があるのは調べてくれたので分かったけど、勝元正室、春林寺殿、桂昌禅尼他、政元姉の母(←これ重要)の死亡記事はあった?
C「政元の母」はわりと史料に出てくるみたいだけど、他はどう?勝元死後に正室が出家した、とかの記事ってあった?
D当時の結婚形態って、基本嫁入り婚だと思うけど、実際はどうだったんだろう?源頼朝は亀御前(だったっけ?)とは一緒に住んではいなかったよね。織田信長も側室とは同居していないイメージがある。
で、これまた私のお得意のネット情報(ごめんね)だと、足利義政に勝元正室がなにやら楽器を(読めなかった&覚えてない。竹かんむりに竜だったか?それだと、かご、だし違うな)よく聴かせていた、というのを読んだことがある。
出典は書いてなかった。
それも正室が政元母でなかった場合、前提からして崩れるんだけど。〔正室=政元母〕説を採っているサイトだったから。
ただ密通があった場合、夫の死後とは限らないな、と。
そして義政は今参局という年上女性を寵愛したこともあったし。確か応仁の乱の間は義政も勝元邸にいたこともあったんだよね。
なんだか混沌とした文章になってしまった。そんな感じ。
976 :
706:2008/07/08(火) 00:12:14
うん…実は土日の調べで手が回らなかったのが、竜安寺関連方面からのアプローチだったんだよね…
勝元創建で政元が復興、のみならず姉の洞松院が赤松家嫁入り前まで尼として過ごしてた寺だけに
いろいろ情報があると思われ……どなたか京都在住の方いらっしゃいませんかね。
寺の縁起とか墓碑とかにいろいろ情報がありそうな気も。
ちなみに私は都内在住ですが、国会図書館は行ったことありませぬ。地元の区立図書館で間に合わせますた
「春林寺殿」「桂昌禅尼」は勝元正室すなわち山名養女の名ではないかなー。
政元の母はだいたい「京兆母堂」とか「細川母儀」とかで出てきて、そういう名では呼ばれて
ないっぽいのだが(もちろん両者が同一人物である可能性は残しつつ)。
政元の母は死のちょっと前に南都に詣でた時の記事が『大乗院寺社雑事記』に結構出てくるんだが
勝元死後に落飾してるかどうかは分かりません。
確かに応仁の乱の際に義政が細川邸に御成も多かったから当時から密通してた可能性も
なくはないかも。御今の件もあるから年増好みというのも考えないではなかったけど…
ただ「細川之舎弟」とあるから67年以降ってのは動かんと思うけどね(もちろん雑説で
はあるが)。
婚姻形態は公家・皇室はともかく、武家はこの時期は嫁入り婚でしょう。頼朝の頃はまだ通い婚の
風習があったと思うけど。ただ、出産の時には(汚れの忌避のためか?)家臣の邸に出向くことが
例になっていたのかも。御台(富子)が義尚を産んだのも讃州細川家の邸だったし…
977 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 20:01:46
978 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 23:36:51
お任せする
>>977 戦国板との違いは政元生母は誰か、という話がメインになっている、というところだけだし、それも結論に近づいてるから話は続かなくなりそうな…。
でもその政元生母の話が素晴らしすぎるから継続しないのはモッタイナイ気がする。
新スレは日本史板のままのがいい
>>970 文明は1469年からでしょ?(文明五年に26歳なら1448年生)
つまりこうなるのかな
1472年3月16日 勝之が出家するとの風聞あり(『雑事記』)
1472年5月14日 勝元・勝之が髻を切り落とす(『雑事記』)
1473年5月11日 勝元死去
1473年6月 日 勝之出家(『分脈』)
1473年7月15日 勝之が出家せざるをえない状況になる(『雑事記』)
宗全養女の実父煕貴は1441年6月に嘉吉の乱で討たれているので、その誕生は1442年3月以前になるか
しかし、1430年にまで下ると、もそっと早く嫁がされる気もする
宗全が以前より勝元に嫁がせることを望んでいたとなると、1447年にようやく嫁に出せる年頃になったってことでは
あと野州民部少輔七歳息は高国
980 :
706:2008/07/12(土) 07:38:37
そっか、高国のことをころっと忘れてた。年齢も合うから間違いなさそうだね。
年号はすっかり勘違いしてた。スマソ。なぜか文明12年が1479って
いう変な思いこみがありました。
次スレは私もここでいいような気が。戦国時代とはまた別の観点もあるだろうし
981 :
706:2008/07/12(土) 09:41:07
>>980 よく考えたらそれでもまだ計算が合わんな。まあどうでもいいか。
私の勘違いで残り少ないスレを消費するのも何なので無理やり話をつなぐと
この時期って文正だの応仁だのやたら短い年号が多いが
飢饉だ兵革だ不吉だってんで縁起担ぎで改元してるようだけど
本ちゃんの大戦が始まった後の文明はこの時期にしちゃやたら
長く(20年近く)続くのはなぜなんだろう。
もはや改元で験直しするのはあきらめたのか、それとも改元
をせっつく側の武家がそれどころじゃなくなったのか…
982 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 00:25:19
応仁の乱自体無かったかも、っていう研究まであるらしく、無かったんだとしたら割とみんな平和に暮らしてた時代だったからなのかも。
983 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 23:05:00
私も買ってきた。吉川弘文館のやつ。 石田晴男著『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』。
政元母に関しては肝心なところの参考文献が載ってない。
P.262に文明4年の和睦交渉について「しかし、この時の交渉は成立しなかった。それは山名宗全と細川勝元との間で和睦条件となった勝元の嫡子問題が解決できなかったからである。」
って言い切ってるけど、上で書いてくれた『大乗院〜』、『寛政重修〜』に載ってないって事は、もう一つあった 「山名氏」『室町幕府守護職家辞典』下 にあるのか?なさそうか。
984 :
706:2008/07/14(月) 00:32:55
>>983 守護家事典も見たけど載ってなかったよ。山名氏のとこにも細川氏のとこにも。
985 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 18:35:37
やっぱりそうか…。吉川弘文館の本を買ったとき、巨大な、歴史人名辞典、みたいなやつを立ち読みしたんだけど、政元は母山名氏、になってた。ただ、出典は書いてなかった(この話題既出だったかな)。
石田氏にしろ、辞典の編纂者にしろ、言い切っちゃうってのは、確固たる何かがあるのかな。
楳
988 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:05:34
乱ですから乱れなんですよね。戦とは違う.
989 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 03:38:36
義政の政治力がもっと高ければこんな大混乱には陥らなかったってよくいわれるが、
そうすると戦国乱世の元凶も義政ということになりかねないが・・・
そんな偶然だろうか?中世の終盤に起きるべくして起きたことのように思えるが。
6代義教が将軍権力を高めた結果、
軍事力・経済力の裏付けを持たない将軍側近が権力を持ちうるようになった。
ところが、それを確実に支えられるだけの人事システムがなかったから、
阻害されていた大名連中が総掛かりで不満を爆発させたことで、
側近連中が追放され、極めて不安定な力関係になった。
大名間の紛争を解決しうる、現実的な力の保障が欠落してしまったわけ。
義政が、義満や義教なみに優秀な政治家として鍛え上げられていたら話は違ったんだろうが、
凡庸だったから、どうしようもなかった。
そのうちついに、横からの口入に耐えきれなくなって暴発し、
口入を無視しうる唯一の解決策=「勝手に戦争しろ」を発令してしまって終了
とは言えるかもな。
元々室町幕府なんて将軍と有力守護大名の連合政権だったのを
義満なり義教なりの権威で押さえつけてただけだからなぁ…将軍個人の資質で
有力大名との関係も変わってくるわけで
ただ義政のせいばかりじゃないと思うのは、結局トラブルのほとんどの理由が
家督相続争いにあるということで、中世のイエ制度の持つ根本的な欠陥でもあるし
守護の京都滞在という建前も原因の一つだとは思う。
当主が定めた後継者を認めない有力守護代とか被官が別の後継者を立てて争う
パターン自体はどこも同じようなもんだし…
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日本@名無史さん:2008/07/17(木) 10:10:05
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日本@名無史さん:2008/07/17(木) 10:11:09
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日本@名無史さん:2008/07/17(木) 10:16:09
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日本@名無史さん:2008/07/17(木) 10:32:11
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