1 :
日本@名無史さん:
単なる個人的な恨み,それとも反信長勢力にそそのかされた?信長を倒すことは簡単でも,後のことをどこまで考えていたんだろうか?
2 :
日本@名無史さん:02/07/05 00:54
正親天皇から「密詔」が下された。
賢所からの御下知なら、親でも殺さざるを得んよ。
それが室町文化人武将の神髄。
3 :
日本@名無史さん:02/07/05 00:55
55年間暖め続けた夢だったから
4 :
日本@名無史さん:02/07/05 01:13
自分が「天皇」になろうとした信長を、尊皇主義者の光秀は許せなかったのさ。
5 :
日本@名無史さん:02/07/05 01:15
もーほーの信長にやられちゃったから。
秀吉の陰謀
って事でいいよ終了。
7 :
日本@名無史さん:02/07/05 03:04
のび太光秀。ジャイアン信長に復讐をなす。
8 :
日本@名無史さん:02/07/05 03:06
いぢめられてキレたんだよ。
>>2 変の後に朝廷から綸旨が出てるのは確かだね。
10 :
日本@名無史さん:02/07/05 17:02
>>2 昔聞いた話だが、明智一族は、元は北面の武士だったとか・・
自分は名門の出、方や織田家は斯波氏の一家老に過ぎないのに
なぜ仕えなければいけなのかと言う感情は常にあったと思うな。
12 :
日本@名無史さん:02/07/05 18:16
信長にお膳ひっくり返してたなあそういえば・・
13 :
日本@名無史さん:02/07/05 18:24
信長「欄丸よ今夜も頼むぞ!」
蘭丸「おまかせください。殿。」
14 :
日本@名無史さん:02/07/05 18:24
宇宙人陰謀説
15 :
日本@名無史さん:02/07/05 18:29
フリーメーソンの陰謀。
16 :
日本@名無史さん:02/07/05 18:31
実は、信長を殺したのは海外の特殊部隊
17 :
日本@名無史さん:02/07/05 18:35
光秀には大切にしていた本があった。
南蛮渡来の艶絵の本だった。
ある日、光秀につらくあたっていた信長は、光秀に木箱を送った。
光秀がそれを開けると中から大量の「うじ」がでてきて艶絵の本をぼろぼろにしてしまった。
光秀は叫んだ。
「敵は本の「うじ」にあり!」
光秀は、常にモサドに監視されていた!
19 :
日本@名無史さん:02/07/05 18:39
蘭丸と信長がプレイ中に誤って火の台を倒して本能寺炎上。二人は一酸化炭素中毒で
死んで、京都近くを進軍中だった光秀が救助に向かったが時遅し。
邪魔な信長が死んだ事をいいことに光秀は二条城を攻める・・・・・
まぁこんな感じか?
20 :
日本@名無史さん:02/07/05 18:40
蘭の菊座が痙攣したため、ノビーは逃げ遅れて灰と化したか・・・
諸行無常・・・
斎藤利三が勝手に本能寺に突入したから
1朝廷陰謀説
2怨恨説
3家康共謀説
4秀吉共謀説
5光秀野心説
6足利義昭陰謀説
おおまかに見てこんな所か・・・。
>>22 本能寺の変で、とりあえず目先の難を逃れたのは毛利。
光秀の居城も近いし。
不満のたまっていた光秀に毛利が調略をかけた…。
毛利調略説もあるでよ。
24 :
日本@名無史さん:02/07/05 19:01
>>23 まあね。
義昭もいるし、当時は風前の灯であるし。
しかし不思議と毛利氏は、当時もまた現代もほとんど関与説を論じられない。
謎だね。
25 :
日本@名無史さん:02/07/05 19:27
>>24 毛利家による調略説はありえても、
毛利輝元による調略説はありえないからかも。
26 :
日本@名無史さん:02/07/05 20:21
>>24 領国入口の対峙で、どーして風前の灯火だ?。
よくわからんね。毛利はまだまだ戦えるヨ。
27 :
日本@名無史さん:02/07/05 21:05
ユダヤ教関与説
一神教・選民思想であるユダヤ教信者に、神格化した信長は殺されますた
28 :
日本@名無史さん:02/07/05 21:09
バカ。
29 :
日本@名無史さん:02/07/05 21:15
>>28 いやいや、否定できる史料がまったくないだけに否定できない…
…などと客観化ドツボにはまってみるテスト。
30 :
日本@名無史さん:02/07/05 21:20
やっぱ毛利かな。輝元が企んだとは思えないけど、隆景や恵ケイなんかは考えそうやし。もちろん朝廷の思惑も充分あったんやろうけど…。
31 :
日本@名無史さん:02/07/05 21:24
理由は一つじゃなくてもいいわな。日頃の不満が溜まっているところに
朝廷や毛利にそそのかされ、さらに家康も・・・なんてネ。
32 :
日本@名無史さん:02/07/05 21:37
明智光秀は追い詰められすぎて精神に異常をきたし信長を殺害したのでは?
33 :
日本@名無史さん:02/07/05 21:42
>>32 心身症説?
それは二木氏の説だな。
状況証拠からは成り立つが、それ以上は突っ込んで議論できないし。
34 :
日本@名無史さん:02/07/05 21:50
この場合、理由をひとつに絞ろうとすることがそもそも間違いなんじゃないかな
いくつもの理由の糸が、分裂しつつ絡み合いつつ、
かつ別個に明智光秀という人物の中で輻輳した結果、その結晶が本能寺と見るのが正しいような
「理由の糸」にはそれぞれどんなものがあったのか、ありえたのか、
それを論じたほうがいいんじゃないか
35 :
日本@名無史さん:02/07/05 22:16
今後への不安と野望、かつて仕えた将軍家や朝廷との関係、
そして過ぎ去る年齢。
そんな複雑な思いが、彼を謀叛に向かわせる・・・
それはそうと、当代記だったかの光秀65歳ってマジかい?
いくらなんでも年が行き過ぎだろ。
36 :
日本@名無史さん:02/07/05 22:27
65でもし織田家を乗っ取れても5,六年で死ぬと思うのだが光秀に息子って
いたっけ?
37 :
日本@名無史さん:02/07/05 22:54
>>36 いるよ。
明智系図には、僧の玄琳をはじめ数人。
玄琳(妙心寺)
安古丸(山崎で死亡)
不立(天龍寺蟄居・後に横死)
十内(坂本城自害)
自然(同上)
内治麻呂(不明)
その他フロイスは、坂本城内に十五郎ほか2名と記している。
実際、65歳で天下を取っても、どうにもならんだろう。
65歳?
そんな年齢どっから導きだしたんだ?????
たしか明智は信長よりも6歳ほど年上だったはずだが?
まあ、ストレスやろね。
40 :
日本@名無史さん:02/07/05 23:27
41 :
日本@名無史さん:02/07/05 23:38
シャブのうちすぎで中毒症状が出た。
42 :
日本@名無史さん:02/07/05 23:38
謀反をそそのかした勢力がいた可能性はあるが、主因は光秀のストレスや老人性ボケから来る乱心ということかな
信長は光秀を軽く見過ぎていたということになるね
それにしても、光秀の部下は、本能寺を攻めよ!という命令によく従ったものだな
反乱を起こしたりしなかったんだろうか?
側近には、かなり以前から謀反の計画を打ち明けていたのだろうか?
「当代記」は松平忠明編だっけ、信憑性はどうだかなあ・・。
同時代史料じゃないんでどうにもね。あと63歳説、67歳説もあるね。
本能寺の変は西暦でいうと1582年。65歳だとすると1582-65=1517。
すると、信長が上洛した永禄11年(1568年)には50歳あたりってになるか。
50を越えてから丹波の山岳戦はつらいぞ(笑)。
江戸時代に書かれた「明智軍記」では享禄元(1528)生まれとされて
いるので55、56歳説。このあたりが一般に知られている光秀の生年没年。
多少の誤差はあれど55歳ぐらいが妥当かと。
辞世の句とされるあれとの整合性も考えないかんし。
光秀の前半生は謎が多いんだが、盗んだバイクで走り出してたんだよきっと。
44 :
日本@名無史さん:02/07/05 23:58
でも人生50年だった当時を考えると、50代というのは、もう後がない年齢だよね
もう信長を倒すことしか人生の目標がなくなっていたのだろうか?
あぁでもしなきゃ、日本史の教科書に名前が載らないんだよ。
46 :
日本@名無史さん:02/07/06 00:18
光秀の部下たちの心境の方が気になるな
謀反を止めたりする側近はいなかったんだろうか?
それとも用意周到に準備された反乱だったんだろうか?
47 :
日本@名無史さん:02/07/06 02:22
>>46 難しいかもね。
明智秀満などの一族衆は、光秀に諫言しても最後には従うだろう。
溝尾庄兵衛とかの譜代も同様かな。
斎藤利三みたいな美濃出身だと、信長に悪い感情があるかもしれない。
近江や山城や旧幕臣だと将軍派なので、信長には悪い感情を持っていると思う。
丹波衆もこれに準じると思う。
結局は賛成多数かな。
ちょっと個人的な妄想はいってるかも。
しかし、こんな危ない連中を光秀に預けていたとは。
信長は信用してたのか、してなかったのか・・・
48 :
日本@名無史さん:02/07/06 02:28
みんな、深く考えすぎ。
キレただけだ。
49 :
日本@名無史さん:02/07/06 02:29
>>47 危ない連中が光秀のもとに結集していたんだったら、かなり以前から信長打倒の機会をうかがっていた可能性もあるね
50 :
日本@名無史さん:02/07/06 02:32
>>48 光秀本人がキレても、側近に正常な判断力があれば、本能寺を襲ったりはしないと思うぞ
51 :
日本@名無史さん:02/07/06 02:38
しかも明智軍には、尾張衆がいないしな。
おそらく尾張衆がいない軍団は、明智軍のみと思われ。
52 :
日本@名無史さん:02/07/06 02:40
斎藤利三の単独説はどうなった?
53 :
日本@名無史さん:02/07/06 03:15
>>47 信長は光秀を信用していたというより、なめ切っていたのかもね
こんな気の弱い奴なら、幾らいたぶっても刃向かったりしないと
でも、そんな意気地のない武将を幹部にとりたてて、大軍を預けるというのも奇妙だ
54 :
日本@名無史さん:02/07/06 04:51
毛利は関係ないと思うなあ
むしろ長宗我部のほうがあやしいぞ
55 :
日本@名無史さん:02/07/06 04:53
四国の田舎大名にそんな発想はなさそう
漠然と武力で中央に覇をとなえるとかなら分かるが
56 :
日本@名無史さん:02/07/06 05:41
信長は、光秀軍にやばい奴らを集めれば、最前線で消耗して
一石二鳥と思ったんじゃないのかな?
手柄がたまって増長すれば、難癖つけてあぼ〜んすれば良いし。
57 :
日本@名無史さん:02/07/06 05:46
>>55 そうなんだけど、斎藤の妹が元親の妻だし、
四国遠征軍が出発寸前だったことを考えると可能性は0とも言えまい
ところで、柴田と明智が通じてたって話をどこかで聞いた気がするのだが、
そのへんはどうなのかねえ?
58 :
日本@名無史さん:02/07/06 05:59
59 :
日本@名無史さん:02/07/06 06:29
どうして信長討つのに光秀がボケたり切れたりしなきゃならんのかな・・
三好三人衆が義輝討ったのは呆けたからか?
陶が大内を討ったのは心神喪失の結果か?
江戸時代的な武士道徳や忠義を前提に戦国時代とかを解釈するのは間違いじゃないの?
60 :
日本@名無史さん:02/07/06 06:50
信長の尾張ことばに嫌気がさしたとか。光秀って信長を主君ってみてなかったんじゃない?むしろ田舎者の信長に天下とられるのが許せなかったんかも。
61 :
軍事奉行 ◆qXAQxUxI :02/07/06 07:22
>>47 直近の示威軍事パレード『馬揃え』で、光秀が主監(統制官)に立った。
また京都周辺の、丹波・丹後・畿内・大和・南近江の諸将を寄騎にしている。
これは【信長の近衛兵団】の長であると言え、
ある意味、織田軍団中随一の信頼を得ていたと言っても過言ではない。
信長は居城安土周辺の最重要拠点…
『北方・長浜に秀吉』『対岸・阪本に光秀』『背後・岐阜に信忠』と
最も、信頼が置け、有能な重臣を配置したものと考えられる。
まあ、その信頼があったからこそ“裸で京都滞在した”のだろう。
従って、42・53・56は、激しく見当違い(笑)
自分としては、
>>2説に激しく同意する。それしか妥当な答えは見あたらない。
ま、頭脳明哲すぎて“急性心身症・乱心”との可能性も完全0ではないが…
62 :
軍事奉行 ◆qXAQxUxI :02/07/06 07:40
>>42 >>46 NHKの某番組では、
本能寺に突入した将兵は「信長を討っている自覚が無く、徳川討伐と思っていた」
とか言っていたな(武将の日記が根拠らしい)。
確かに、充分に考えられる逸話だなとは思った…無論、史料確認はしていないw
63 :
日本@名無史さん:02/07/06 08:35
ひとつの因子としては、美濃は尾張に進駐された側だったってのはあるかもね
世界史的に見ても膨張する国が一番初めに征服した土地は、搾取されたり、
ひどい仕打ちをうけることが多い
そのへんの事実はないのかな?
64 :
日本@名無史さん:02/07/06 09:45
長宗我部はないでしょ。
とくに謀略・調略は。
武田信玄:甲斐の虎
上杉謙信:越後の龍
龍造寺隆信:肥前の熊
長宗我部元親:鳥無き島の烏(カラス)
65 :
日本@名無史さん:02/07/06 10:09
単独説
私怨
旧美濃勢の怨み
野心
乱心
共謀説
この場合、その後の山崎の戦いで、誰も光秀の味方にはならなかったことから、
共謀した味方にも裏切られて死んだか、実は死んでいない(天海?)ことになる。
内部
秀吉
勝家
信忠(光秀に利用されて殺された?)
家康(同盟国なので内部扱い)
などなど…
外部
朝廷
将軍家
毛利家
信長に滅ぼされた残党(浅井、朝倉、波多野…)
一向宗
などなど…
66 :
日本@名無史さん:02/07/06 10:15
結局、信長が内外ともに原因となりうる多くの恨みをかってたってこと。
それを自覚せず、油断して少人数で本能寺に泊まるから、討てるチャンスがある者は魔がさすことも。
状況的な理由でいえば、信長が油断した瞬間にたまたま近くにいたのが光秀だった。
ごめん。実は漏れが黒幕だったんです。
つまんね
69 :
日本@名無史さん:02/07/06 13:35
>>64 それは渾名を羅列しただけでなんの理由にもなってないと思うのだが…
美濃勢のうらみというのはないだろう。それならとっくに誰かがやってる。
まして信長は形の上では明智の仇である斎藤義龍(の子の龍興)をほろぼしてるし。
一番あやしいのは朝廷だろうが、たとえ関係無くても都に信長倒した明智がいればあっさり鞍替えしそうな気がするな
70 :
日本@名無史さん:02/07/06 13:36
謀反起して当然だろ。
71 :
日本@名無史さん:02/07/06 14:25
ときは今
天の下しる→天皇の下知した
72 :
日本@名無史さん:02/07/06 15:21
先日、光秀さんと飲んだんだけど、酔った勢いで信長を討ったらしいよ。
漏れだってな〜、天下取りたかったんだよ〜、何か文句あっか。
74 :
日本@名無史さん:02/07/06 16:14
75 :
日本@名無史さん:02/07/06 16:20
「信長がソリマチで、俺がショーケン?ざけんなよっ!!」
とキレたから。
76 :
日本@名無史さん:02/07/06 16:27
光秀は、ユダヤ教信者だった!!!
77 :
日本@名無史さん:02/07/06 16:57
>>64 >>74 それが正しいんだ。カラスも鳥じゃんっておもった漏れ。
どっちにしろ長宗我部は四国程度で(リャク
78 :
日本@名無史さん:02/07/06 17:14
>>64
元親が謀略、調略をしなかったって事か?
79 :
日本@名無史さん:02/07/06 19:19
80 :
日本@名無史さん:02/07/06 19:22
たまタン…(;´Д`)…ハァハァ
81 :
日本@名無史さん:02/07/06 21:20
82 :
日本@名無史さん:02/07/06 21:32
>>81 いずれも引いてくる程の内容に進展してませんな。
83 :
日本@名無史さん:02/07/06 21:49
わずか2,3年で論が進んでるもんだ。
84 :
日本@名無史さん:02/07/06 21:58
江戸時代で書かれた「光秀の怨念」は伝承であって定かな記録ではない。
あれだけの軍勢でやったということは、明智光秀の私怨ではなくて、
信長の専制政治を根底から打倒しようとする、政治的動乱だったろう。
シーザーの「ブルータスよ、お前もか」ってのに似てるかも。
85 :
日本@名無史さん:02/07/06 22:00
>2
>正親天皇から「密詔」が下された。
案外これかも。
ご褒美は将軍様の地位。
で実際将軍様になっていたのかも知れない。
でも、あんまり早く秀吉に負けちゃったから
明智将軍様の世も「三日天下」に終わってしまったのかもしれない。
86 :
日本@名無史さん:02/07/06 22:02
>1
坊やだからさ。
87 :
日本@名無史さん:02/07/07 01:22
>>61 これは【信長の近衛兵団】の長であると言え、ある意味、織田軍団中随一の信頼を得ていたと言っても過言ではない。
信長は居城安土周辺の最重要拠点…『北方・長浜に秀吉』『対岸・阪本に光秀』『背後・岐阜に信忠』と最も、信頼が置け、有能な重臣を配置したものと考えられる。まあ、その信頼があったからこそ“裸で京都滞在した”のだろう。
自分としては、
>>2説に激しく同意する。それしか妥当な答えは見あたらない。
>>2 正親天皇から「密詔」が下された。賢所からの御下知なら、親でも殺さざるを得んよ。それが室町文化人武将の神髄。
天皇の「密詔」はそれほど重みのあるものなのか?自分や部下の行く末を考えれば、おいそれと謀反など起こせるものでもないと思うんだが
それと天皇に対するお咎めの可能性はなかったんだろうか?「密詔」があったとすれば、光秀以外の誰も知らなかったとも思えないが
88 :
日本@名無史さん:02/07/07 01:32
本能寺前に密勅下されたのは不明だが、本能寺後に光秀は朝廷から「四海制圧」の勅を願い出てもらってる
後で取り消されたみたいだが
89 :
日本@名無史さん:02/07/07 01:36
いきなり殺すのではなく、信長を人質にとって、その後の情勢を有利に運ぼうとかする発想はなかったんだろうか?
信長殺害が第一目的というのなら、単に暗殺者を送り込むだけでも良かったと思うが
90 :
日本@名無史さん:02/07/07 01:38
光秀は教養高い人物だったらしいね
91 :
日本@名無史さん:02/07/07 01:41
>>90 教養のある人物の反乱としては節操がないと思う
三日天下に終わるような事態は見通せたはずだ
92 :
日本@名無史さん:02/07/07 01:45
丸腰で本能寺に滞在する信長を討つのに、全軍を動かす必要はあるまい
一部の連中を焚き付けて、あとで内々に処分すれば、自分が泥を被る必要もなかったようにも思えるが
93 :
日本@名無史さん:02/07/07 01:47
引責はトップがとるのが常識
94 :
日本@名無史さん:02/07/07 01:51
一部の部下の暴走を止められなかった可能性もあるのか?
95 :
日本@名無史さん:02/07/07 02:16
>>90 教養ばかり取り上げられるが、教養ばかりでなく砲術の名人で水軍の運用も出来たらしい。
>>94 それは可能性が有るそうだ。
96 :
日本@名無史さん:02/07/07 02:38
>>90 それはイメージ先行。家康が城攻め苦手というのと一緒だよ。
97 :
日本@名無史さん:02/07/07 02:49
>>59 禿同。
ってゆうか、現代の感覚で物事考えてんだろ。
ってゆうか、2ちゃんの感覚で物事考えてんだろ。
とくにノブオタどもは。
98 :
日本@名無史さん:02/07/07 02:58
主君への反逆、それも信長のようにあとが怖い暴君に反逆するのは、よほどの決意や確信があったか、正常な判断力を失っていた(つまりキレていた)かのどちらかだと思うな
99 :
◆qXAQxUxI :02/07/07 03:13
>>87 >天皇の「密詔」はそれほど重みのあるものなのか?
>自分や部下の行く末を考えれば、おいそれと謀反など起こせるものでもない
★あれほど先を見通せた「楠正成」も、一族郎党を賭けましたが…
>天皇に対するお咎めの可能性はなかったんだろうか
★秀吉は、全て解った上で聚楽第を献上したのではないかな、
おかげで
新姓“豊臣”を賜り、関白の上位『太閤』を例外的に僭称できた。
出自の明かでない者に、これは破格の待遇でわ・・・
100 :
日本@名無史さん:02/07/07 03:36
「細川や筒井が光秀に従わなかったのは、光秀が下克上の時代の
終焉に気付かなかったからだ」ってのがあるけども、豊臣や徳川は
無視かい!と言いたい。
単に、「勝ち目が無さそうだった」とか「協力を受けたが、ヤバく
なって事実を隠匿した」あたりが正解だろう。
101 :
日本@名無史さん:02/07/07 03:52
>>100 その事実は、光秀が根回ししていなかった証拠。
よほど少数で秘密裡に運んだか、突発的に決定せざるを得なかったかだ、
ほんと根回しの一つくらいやっとけよなー。
毛利・長曽我部・上杉・北条にちょっと言っとけば
もーイケイケのコレモンだったのによー。
103 :
日本@名無史さん:02/07/07 05:26
根回しがうまくいけば秀吉を毛利軍とで挟み撃ちに出来たかもしれないのにね
毛利だって信長の死を知っていれば、秀吉が易々と引き返すこともなかったろう
104 :
日本@名無史さん:02/07/07 05:31
下手な根回しは外部に洩れるという罠
105 :
日本@名無史さん:02/07/07 05:35
>>99 それは秀吉が、天皇の信長打倒の「密詔」を見逃すことの見返りだった可能性があったということか?
106 :
日本@名無史さん:02/07/07 05:42
近衛・二条の関白相論を無視してる。
107 :
日本@名無史さん:02/07/07 05:46
日本史オタクってどんなルックスか想像してみたんだけど
なんか臭そうな感じしか思い浮かばなかったよ。ごめん。
108 :
日本@名無史さん:02/07/07 06:22
むしろ細川は根回しされて了承したが裏切って秀吉に通じたと
109 :
日本@名無史さん:02/07/07 12:13
光秀って相当追い込まれていたから
110 :
日本@名無史さん:02/07/07 12:27
やはり将軍追放、比叡山焼き討ち、長島攻めとかは明智にしたら不同意でせう。
あとやはり気持ちを害する出来事が個人的にあったり、むちゃな任務、同僚のリストラなんかがストレスだった。
まあ、魔が差したって事な。
111 :
日本@名無史さん:02/07/07 13:17
光秀はキリシタンだったから裏で宣教師があやつってた可能性もあり!
112 :
日本@名無史さん:02/07/07 13:22
光秀は側室を置かず、って聞いたけど、それキリシタンやったからか?
光秀がキリシタンとは、信じがたい。
比叡山焼き討ちの後
宗教都市「坂本」をうまく治めてるし、仏教徒であったのでは・・・
後で娘がキリシタンになったとしても、親もそうとは言えないやろ?
114 :
日本@名無史さん:02/07/07 13:34
のちに、おもいっきり仏教徒の天海になってるしな。
115 :
日本@名無史さん:02/07/07 13:40
でも当時の坊サンってアホばっか。
朝山日乗とか
116 :
日本@名無史さん:02/07/07 14:07
バテレンが抽象的な事ばっか言ってるからだよ。
*(デウスに型はありません。
デウスは人々の心の中に存在します。
我々はデウスに包まれています。
万物はデウスが創造しました。
デウスは最高にして唯一の存在です。
デウスを信じない貴方は間違っています。)
*くり返し
117 :
日本@名無史さん:02/07/07 14:26
主犯光秀 共犯家康 ピエロ秀吉
118 :
日本@名無史さん :02/07/07 15:30
>>113 光秀には複数の側室がいた模様。
>>117 光秀&家康共犯説が浮上してますなあ。
家康は光秀を裏切り、本能寺の変直前に堺を脱出し、
人知れず伊賀を越えて岡崎城へ。
光秀はその後、僧形となって比叡山に入り、天海僧正
になったとか。(明智秀満という説も…)
でなけりゃあ、あんなに劇的に出世しないでしょ。
119 :
日本@名無史さん:02/07/07 16:42
信長は小姓だけ連れて毛利征伐に出かけるつもりだったのか?
120 :
日本@名無史さん:02/07/07 16:56
>>119 筒井と合流して行く予定だったかな?
だから当日は、筒井は多少遅めに出立したとか。
正確には忘れたが。
もっとも、光秀と同行予定だったとしても不思議ではない。
ぴったり朝駆けできたけどね。
121 :
日本@名無史さん:02/07/07 16:58
信長は毛利をそれほど強い敵だと考えてなかった。実際毛利は瀕死やったし。むしろ天下統一後の朝廷の扱いの方を重要視してたと思う
亀岡の法貴峠に明智戻り岩があるけど、この岩で光秀が本能寺へ決意
したから戻り岩って言うの?
123 :
日本@名無史さん:02/07/07 17:06
>>122 そう言われてるけどね。
でも本当に1万3千の兵がいたとしたら、方向転換は大変な事になるな。
124 :
日本@名無史さん:02/07/07 17:08
足利義昭のせいだろうな。義昭は毛利に亡命してたんだけど
なんか織田軍増援でヤバイ雰囲気。で明智光秀になんかしろ
と働きかけた可能性大。もと義昭の家臣なんだよね。
たぶん毛利は義昭の動きを掴んでて秀吉に情報を流していた
はず。異常に秀吉の動きが早いし。
>>123 全ての兵が一斉に出発したのかね?
あ、でもそうしないと急な方針転換は、軍団がバラバラになって難しいか。
126 :
日本@名無史さん:02/07/07 17:17
>>124 まあ、あの足利義昭が何の策も弄せず、ボーっとしてるわけ無いわな。
自らトンズラしたんだし。
127 :
日本@名無史さん:02/07/07 18:06
あの時点で信長が消えても得をする者ばかりだった
結局、損をしたのは実行犯の光秀だけだったという構図かな
128 :
日本@名無史さん:02/07/07 18:19
やっぱし光秀&家康だね!光秀は実際生きてて天海になって家康に仕えたらしいし
。2代将軍秀忠 3代将軍家光 この名前は光秀からとった名前!
129 :
日本@名無史さん:02/07/07 18:27
130 :
丼シ尺元彦:02/07/07 18:31
久能山東照宮は
家康=東照大権現
秀吉=山王権現
信長=摩多羅神
として祀られています。
秀吉は分かりますけど、なぜ信長も祀られてるんでしょうかねえ?
131 :
日本@名無史さん:02/07/07 18:37
>>130 信長はわかるが、秀吉も祀られているの?
秀吉の死後にさんざん豊臣家をいたぶったのにね
132 :
日本@名無史さん:02/07/07 18:37
家康=東照大権現
秀吉=山王権現
信長=摩多羅神
下へ行くごとに、なんとなく神格が下がってきてるような。
133 :
日本@名無史さん:02/07/07 18:42
秀吉も光秀の動きを知っていて放置したという可能性はないのか?
134 :
日本@名無史さん:02/07/07 18:43
>133
それは今晩の「そのときとまつ」で明かされるだろう・・・
135 :
日本@名無史さん:02/07/07 18:44
日光東照宮は
家康=東照大権現
秀吉=山王権現
源頼朝=摩多羅神
136 :
日本@名無史さん:02/07/07 18:49
>>132 祀るというのは、怨霊を防ぐ意味もあります。
>>133 ずいぶんスンナリと清水宗治を切腹させてるしね。
おそらく毛利も、信長が出陣することは掴んでいただろう。
その援軍が来るかもしれないのに、わざわざ急いで開城させる意味も
ないしね。
日光東照宮には明智家の家紋があるそうな・・・。
何気に共犯説の状況証拠アリ。
138 :
日本@名無史さん:02/07/07 20:58
神の意志
139 :
日本@名無史さん:02/07/07 21:00
光秀の気まぐれ
140 :
日本@名無史さん:02/07/07 21:06
信長がいなくなって困る者っていたのか?
誰が手を下すのかというだけの問題だったような気もする
141 :
日本@名無史さん:02/07/07 21:08
結果からいえば困る奴は存在しなかった。
しいて言えば織田一族か。
ま、信長にカマを掘られた奴にゃあできねえな。
143 :
日本@名無史さん:02/07/07 21:33
どんな魔が差したかについて。
当時純軍事的に畿内がすいていたので、好機は二度とはあるまい、とでも考えたかも。義昭への間接的忠義にもなると。また明智の軍制はシャープで直下の“織田近衛”軍団は織田家屈指。毛利が盛り返すまで我慢すれば結構持つんじゃないか、と。
144 :
日本@名無史さん:02/07/07 21:42
信長が消えて一番得をしたのは誰だ?
そりゃ、家康でしょ。
>>144 ガイシュツ。頼むからログ読んでから書き込んで。
147 :
日本@名無史さん:02/07/07 21:49
信長の死によって得をする者、喝采を叫ぶ者数知れずということか?
自業自得ということで宜しいのか?
下手人の光秀の末路は哀れだが
66 :日本@名無史さん :02/07/06 10:15
結局、信長が内外ともに原因となりうる多くの恨みをかってたってこと。
それを自覚せず、油断して少人数で本能寺に泊まるから、討てるチャンスがある者は魔がさすこと
も。
状況的な理由でいえば、信長が油断した瞬間にたまたま近くにいたのが光秀だった。
148 :
自称歴史家:02/07/07 21:50
あらゆる説が全てそろって初めて正しくなる。
下克上の時代や 魔がさすって
150 :
日本@名無史さん:02/07/07 21:54
光秀は、打倒信長を大半の武将が支持してくれる、だから戦後処理もうまくいく、と勝手に思い込んでいたのかも知れないな
151 :
日本@名無史さん:02/07/07 21:58
あのさあ、忘れないでほしいんだけど俺、土岐よ、土岐。土岐源氏だよ。
美濃では名流で通ってんだから。
それがさあ、何?
人に教えられるまで上総守名乗ってたようなこっ恥ずかしい糞ガキになんでヘーコラせにゃならんの。
聞けばたかが神主の子孫、しかも傍流って言うじゃねぇか(藁
誰でもいい、母親でもなんでもいいからさ、上総には守はいないんだって誰かさ、
そのプア・ボーイに教えてあげて。だれか。
で、そのザ・地下人・シット・ボーイが何?
俺に指図はするわ、折檻はするわ、将軍追っ払っちまうわ、ことに及んで右大臣家?
バカ言ってんじゃないよ、茶番にもほどがあるよ、何様のつもり?
俺はね、あんなささくれた地下人の指図受けるために尾張に来たんじゃないの。
むしろそれが嫌だから、将軍家からの推薦て形式わざわざ作って行ったの。
バッカじゃねーの。そんなオトナのイロハも知らないで軍事力をカサに着て威張っちゃってさ。
世間知らずもほどがあるよ。あー田舎モンはやだやだ。
中年にもなって森のセガレとイチャイチャやっちゃってさ、きたならしい。
森のセガレのケツは俺が狙ってたんだっつーの。
あとさ、コレはあんまり関係ないことなんだけどさ、
安土城のデザイン、俺はなかなかかっこいいと思うよ、悪趣味で(藁
光秀としては信長あぼーんは家臣団の大多数の意見で、自分が実行犯として孤立するとは考えてなかったんじゃないかな。
信長に味方する少数の大名を倒た後は、自分主導で清洲会議を開くと。
153 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:06
てかスキあらば主君をも倒す時代だったんでしょ?光秀が悪いんじゃない。スキをみせたのぶながが悪い
154 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:06
信長の家臣団の間に、誰か信長を何とかしてくれないか?
といった空気が流れていたんだろうか?
>>151 長文のわりには、今ひとつ面白くないな。
もっと楽しいのを頼む。
156 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:09
手勢30名でお寺に泊まっていると聞いて、魔がさしたのか?
信長の過信が取り返しのつかない結果に...
でもなぁ、二条城?には息子の軍勢もいたんだろ?
光秀なら征夷大将軍になれたのか・・・
159 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:17
時は今 雨のしたたる 五月かな
こんな句を詠んで出陣するなんて、周囲の理解が得られると思っていたようにも見える
160 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:19
信長家臣団が100人の村だったら。
もはや信長がいなくなってもやっていけると考えている家臣は70人ほどです。
21人は信長に何らかの恨みを持っているか、嫌っています。
この中の2人は信長にとってかわろうと考えています。
穏やかに隠居するか、早く寿命が尽きてほしいと大部分の家臣が口には出さなくても思っています。
何があろうと信長に忠誠を尽くすと考えている家臣は10人もいません。
光秀は信長を失脚させたかった。というよりただ復讐したかった。
家康は手は汚さずに権力を手に入れたかった。
秀吉はお山の大将になってみたかった。
計画を練ったのは光秀&家康でサルは踊らされただけ。
つまり光秀は復讐を果たし秀吉はつかの間の栄華に酔い
最後に家康が並み居る重臣を出し抜き天下を取った。
とまあこうゆうこと?もしそうならこれは二人の完全犯罪だよ。
162 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:22
>>160 空気の読めない信長がいけなかったということになるかな?
163 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:27
家康は、その頃、どこで何やっていたんだっけ?
戦後処理は、秀吉の主導で進んだよね
164 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:29
秀吉、怪しいね。
おねの堺からの物資買い込みといい、光秀の「時は今 雨のしたたる 五月かな」
の句を受けて(利家方面にはないのに)、家康の動向を調べたりといい。
165 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:30
家康ってその当時、権力にそこまで執着してたんかな?むしろ自分をこき使いまくって息子の命をないがしろにした信長を怨んでの犯行なら納得もいくが?
166 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:30
>>163 堺見物じゃなかったっけ?
伊賀者の助けを借りて三河に脱出できたんだよね。
それで徳川家が伊賀者を召し抱える契機になったんじゃなかったっけ。
167 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:31
穴山梅雪
169 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:32
宍戸梅軒
170 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:35
>>161 家康そんなすごくないって。
大体あとちょっとで信玄に、さもなければ高天神城落とした勝頼にやられてた。信玄の寿命(もしくはつまらん油断)やら信長の必死な援軍に助けられただけ。長篠では陣代諏訪勝頼を嫌った武田の身内や若い勝頼自身の煽られ下手もあって自滅したが。
天下人に結果的になったからといって家康の色んな事を誇張しては、却って実態が分からなくなる。
81 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/08/18(土) 16:53
荒木村重や松永久秀など、信長に叛いた重信達を見ると
光秀の動機も自衛のためと思うのはおかしいのだろうか?
これに禿しく同意です。
動機は単純だった。
そして光秀だけが信長を殺れた。
172 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:38
>>152 >自分が実行犯として孤立するとは考えてなかったんじゃないかな。
そこまで、おめでたくはないでしょう。
ただし、組下大名・与力衆からまで協力を拒否されるとは思わなかった。
>171
オモシロイ
174 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:40
>>171 動機は単純だったとしてもあまりに発作的な反乱だったな。
ぜんぜん下準備してないし。一番頼みにしていた細川家の
協力が得られなかったのも無理はないって。
細川幽斎が味方しないのはかなりの誤算だった
176 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:44
信長さんは、仕事を定時で終えると、車でまっすぐ行きつけの居酒屋へ赴きました
ここでは、ビールを中ジョッキ3つと、日本酒を2合召し上がりました
お次は、行きつけのスナックです
お気に入りのあけみちゃんの肩に手をまわし、カラオケを大熱唱
ここではウイスキーの水割りを5杯
仕上げは、屋台のおでん屋です
行きつけのスナックのすぐ近くでいつも店舗を開いているから、もはやお決まりのコースなのです
ここでは、焼酎の水割りを2杯
泥酔の挙句、車にのりました
いいえ、無茶ではないのです、信長さんの生活はいつもこんなものなのです
それでも信長さんが大きな事故も起こさずに(車をこすったりするのはしょっちゅうでしたが)、
今まできているのは、帰る時間がいつも朝方で、車の通りも人の通りもほとんど無かったためです
さて、ここで問題
その日たまたま信長さんは、急ピッチで酒をあおりました
いつものコースをいつもと同じ酒量で、いつもより3時間早く飲み終え、
いつものように帰宅しようとしました
時間は、午前零時。
目抜き通りには、まだまだ人と車の通りは絶えません
さ、この日の信長さんの運命は?
とまあ、本能寺の変を譬えるならこんなものだと思うのだが、どうか。
177 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:45
「自分が信長を殺したのは与一郎(細川忠興)のためを思ってのことだ」
とか必死になって藤孝(幽斎)に手紙を書くんだけどな。
長年の友も、さすがに拒むよな。
某家伝によると、光秀は細川に「加勢に及ばず」との密使を出したとか・・
179 :
日本@名無史さん:02/07/07 22:50
でも細川が味方してても何も変わらんと思う。もちろん勝家や秀吉だって天下を狙ってたんだし。光ちゃんやっぱり前途多難!
でも普通は味方欲しいじゃん 柴田あたりの大攻勢がありって思ってたみたいやし
義理人情で加勢及ばずって言ったら戦国武将としては無能やで
>178
181 :
日本@名無史さん:02/07/07 23:13
主君が目障りだ、怖い、と思っても、実際に手を下して、逆賊呼ばわりされるのはご免だよね
信長は、荒木村重や松永久秀など謀反を起こされた前科があるにもかかわらず、部下が自分に反逆する事態をどうしても理解できなかったという指摘もあるね
本能寺の時のように、ごくわずかな手勢を引き連れて過ごす、というのはよくあったのだろうか?
182 :
日本@名無史さん:02/07/07 23:21
信長に面会を乞う、とかいって信長を拘束、人質にとる手もあったよね
なんで、いきなり襲って殺そうとしたんだろうか?
やはり、相当に個人的恨みもあったんだろうね
信長が気短くて好き嫌い激しかったから
光秀にしてみたらなんで俺ばっか!って恨みつらみがねえ
184 :
日本@名無史さん:02/07/07 23:36
信長の反抗する者への残虐さは、日本史上に残るものだったみたいだから、光秀の謀反も確実に成功させる必要があった
だからこそ、事前の準備も拙速した反乱になってしまったんだろうな
185 :
日本@名無史さん:02/07/07 23:39
まあ細川家は世渡り上手ということで。
足利→織田→豊臣→徳川
平成では総理大臣も輩出したし、最後に笑うのは細川ということでOK?
186 :
日本@名無史さん:02/07/07 23:41
すごい日和見だな、細川。
前田よりすごい。
187 :
日本@名無史さん:02/07/07 23:43
10年くらい前に金沢(ここがポイント)のカラオケボックスで、
「明智光秀」ってのがあったのを発見したので、
リクエストしてみた。確か記憶によると、
「流れる血潮は源氏の血〜」という歌詞で始まったと思う。
歌詞を要約すると、源氏の私(光秀)が無法者の
平家の血筋の信長を討つって内容でした。
きっと前田家に伝わっていた真相が金沢のカラオケボックスだけで
伝わってたのです。
幽細はもともと12代足利将軍の子供で細川家に養子にいった人だ
元・総理は細川ガラシャ夫人の血筋ひいてたっけ?
「殿!明智どのが蘭をいじめるのですっ(泣)」
「なに。あやつがそなたに何をした」
「暗い部屋に連れていかれて・・・」
「光秀を呼べーーーーーッ!!(怒)」
...というのが某サイトにあったな。。。
190 :
日本@名無史さん:02/07/07 23:46
>>180 >義理人情で加勢及ばずって言ったら戦国武将としては無能やで
いやいや、もともとクーデターした後、家を潰すのは予定の行動。
天皇家が、織田軍団から怨みをかわないようにしたんだって…。
だから、その後に天海・春日の局・・の明智一族が厚遇されたと言ってた。
191 :
日本@名無史さん:02/07/07 23:47
ガラシャ系は、廃嫡されたり病死したりしてる。
以前は、墓も忠興と別にあった。
192 :
日本@名無史さん:02/07/07 23:48
天海か・・・江戸に幕府か開かれた当時から噂が有ったからね〜
193 :
日本@名無史さん:02/07/07 23:48
>>188 直系だから、もちろんガラシャの血も引いているよ<細川元首相
ってことは明智光秀の血も引いているということか。
↑すげえデンパ!
195 :
日本@名無史さん:02/07/07 23:50
>>191 いや、細川家8代重賢は養子だけど、一族なのでガラシャの血は引いているよ。
すまん、194は
>>190のことねm(_ _)m
スレが早すぎて
197 :
日本@名無史さん:02/07/07 23:51
いや、側室の一族じゃなかったっけ?
198 :
日本@名無史さん:02/07/07 23:53
ってことは光秀の血が最終的には天下をとったということか。
織田や徳川の子孫って、いまどうしてるの?
199 :
日本@名無史さん:02/07/07 23:53
信長があのまま生き長らえていれば、徳川幕府もなかったかも知れないことを考えると、光秀の謀反の意味は大きいな
200 :
日本@名無史さん:02/07/07 23:57
癒え安キライ!
202 :
日本@名無史さん:02/07/08 00:09
つまり光秀の子孫が内閣総理大臣になったということですか・・・
203 :
日本@名無史さん:02/07/08 00:16
204 :
日本@名無史さん:02/07/08 00:18
>>198 有楽町に江戸屋敷を置いていた織田氏は、奈良県北葛城郡あたりが領地、
あの辺に生存しているはず。
徳川氏の直系子孫は、宮内庁で、前の侍従長してたはず。
205 :
日本@名無史さん:02/07/08 00:28
206 :
日本@名無史さん:02/07/08 00:28
そういや、織田有楽斎屋敷があったから有楽町って地名になったんだよな。
現マリオン近辺。
207 :
日本@名無史さん:02/07/08 00:29
光秀の血液型はA型
奥方の血液型はB型
なのに子供はO型だった。
これにキレタ光秀が同じO型の信長をストークし、その結果たどり着いたのが本能寺
信長の寝所をのぞく光秀
そこにはなんと!信長とヤッてるわが妻が〜
気が狂った光秀はすぐに1マン3千の兵をつれ、見事信長を討ちとったのであった!(光秀の妻はなんとか脱出
ちなみに羽柴の猿もO型であった(ウッキー
208 :
日本@名無史さん:02/07/08 00:31
AとBの子がOはありえるだろ。
210 :
織田の貴公子:02/07/08 00:40
織田有楽斎は信忠の長男(ひとり息子?)
例の秀吉の膝に座らせられた『三法子殿』信長の直孫。
光秀が失敗していればどんな人生になったことやら・・
祖父同様、茶人・風流人の才はあったらしいが、
一生『猫をかぶった』男。ただ者ではない。
211 :
今川の貴公子:02/07/08 00:42
マロほどではないでおじゃる。
>>208 をいをい、モノホン厨房に恥かかせたらアカンがな。
213 :
日本@名無史さん:02/07/08 00:48
>>210 なにが言いたいのか意味がわからん
有楽斎は信長の末弟(長益)だし、三法師(秀信)は一人っ子じゃないぞ
秀則という弟がいる
214 :
日本@名無史さん:02/07/08 00:50
だよねぇ・・・
何が言いたかったんだろ?
>>210は。
216 :
日本@名無史さん:02/07/08 00:52
210、ひと言釈明しておけよ
217 :
日本@名無史さん:02/07/08 00:54
218 :
日本@名無史さん:02/07/08 00:59
219 :
日本@名無史さん:02/07/08 01:00
いったいどうしたんだ?210は
220 :
日本@名無史さん:02/07/08 01:08
自称「織田の子孫」を名のってる人物かな?
諸君!待て待て、何か超絶の“落とし”が準備されていると観た。
しばし待て。
血液型・有楽斎…次が、米朝秘伝の“三段落ち!”
すみません、教えて下さい。
光秀公が謀反を起こすまでにその身に起きた不幸な出来事は良く知られていますが、
@国替えは正式な発令若しくは信用に足る記録があるのでしょうか。
A波田野家へ送った尼は本当の母だったのでしょうか?
B家康歓迎時の魚が臭い等の理由で恥をかかせられたそうですが、料理人などは光秀
の雇用では無かったと思うのですが、料理人も臭いはどうでも良いと思ったのでし
ょうか?
大河ドラマでも使われる【返り忠】の理由は上記の通りだと思うのですが、皆様、
ご教授願います。
223 :
日本@名無史さん:02/07/08 01:47
まず、
>>187 金沢のカラオケボックスでの「明智光秀」の情報求む!
まあ、光秀は織田軍団の軍団長として、信長の酷使に耐えながら手柄を残し、
かつ、その軍役の合間に着々と領国経営に実を挙げ、担当地域の丹波国をも
平定した。
たしか信長が、信盛追放のときだったけ、特別に誉めていたような・・・
でも、光秀にしたら『朝廷・公家との調停』を評価して欲しかったのでわ?
>>222 教えを請う以前に、機種依存文字を使用するのはよせ。
225 :
日本@名無史さん:02/07/08 01:56
>@国替えは正式な発令若しくは信用に足る記録があるのでしょうか。
「明智軍記」に記されている程度です。
信用に足りません。
>A波田野家へ送った尼は本当の母だったのでしょうか?
「総見記」に記されています。
信用に足りません。
>B家康歓迎時の魚が臭い等の理由で恥をかかせられたそうですが、料理人などは光秀
>の雇用では無かったと思うのですが、料理人も臭いはどうでも良いと思ったのでし
>ょうか?
「川角太閤記」に記されています。
信用に足りません。
226 :
日本@名無史さん:02/07/08 01:58
>>222 >料理人も臭いはどうでも良いと思ったのでしょうか?
べつにいいんだけど、妙に細かいね(W
さすがに料理人の心理まで記した史料は無さそうだが・・・
いずれにしても上記の一連の明智イジメの逸話は江戸期に
成立した『明智軍記』という読み物が出典じゃなかったっけ?
歴史史料として扱える性質のものではない。
詳しい人、フォローお願いします。
>>224 すみません。化けているのは丸1・丸2・丸3です。(多分)
他は普通にATOKなので大丈夫だと思うのですが・・・
皆様、ありがとうございます。
質問の中で○3の魚の臭いが気になっているのは、子供が読むであろう日本の歴史などにも
描かれており、大河ドラマか何かでも使われていたと記憶しているからです。
ですが、信長の味覚について、三好家の料理人の塩付けに「薄い!」と言ったエピソードが
あったことです。そのことを考えると、信長は自信の好みに大変五月蠅かったのではないか
と思い、それなりに知られていると言うことは、一次資料があるものかと、確認したかった
次第です。
皆様、これからも宜しくお願いします。(主勤務地:ハングル版〔最近〕/渤海人)
229 :
日本@名無史さん:02/07/08 02:07
誰か信長の料理人の研究書を紹介してやれよ、大至急。
230 :
日本@名無史さん:02/07/08 02:10
>>222 渤海人殿
自分には「文字化け」は無かったよ。
>国替えは信用に足る記録があるのか
敵国への国替え…常識的に考えると「ありえない」本当にあれば謀反が起こる
のは当然。だからこそ考えられないw。
>波田野家へ送った尼は母だったのか?
あり得る話だ。戦国期、信長以外にも同様の例がある。
>料理人などは光秀の雇用では無かったと思うのですが、
基本的には、光秀が呼んできた料理人だろうから、光秀の雇用人で
ありえる。
>料理人も臭いはどうでも良いと思った
もし近江名物の発酵食品(鮒寿司・押寿司?)ならば、臭さかっただろう。
でも、それだけで歴戦の忠臣を罵倒しないだろう。
安土周辺にも同様な料理があり、信長も知っていたはず。
>>231 いやいや、貴方がどう思うかではなくて、逸話の典拠や
一次史料は何なのか、それを知りたいんだよ。
233 :
日本@名無史さん:02/07/08 02:28
ちょっとまて、総見記が信用に足らんとでも?
234 :
日本@名無史さん:02/07/08 02:30
>料理人の話
「常山紀談」に出てるそうだ。
ごめん、勘違いした
総見記は厳しいな
236 :
日本@名無史さん:02/07/08 02:34
>>234 だから「川角太閤記」が元ネタなんだろ?
237 :
日本@名無史さん:02/07/08 02:37
>>233 その部分は信用できませんし、あまり良質な史料では無いでしょう。
2日に安土で死んだり、4日に丹波で死んだりと、両日に波多野兄弟が
死んだことになってます。
>2432
で・あるか。
ただ料理人の気持ちは記録されてないだろう。
239 :
日本@名無史さん:02/07/08 02:41
信長の料理人に関して一級の研究をしている学者を紹介しる!
240 :
日本@名無史さん:02/07/08 02:45
241 :
日本@名無史さん:02/07/08 02:48
信長の料理人の心理まで研究している学者を紹介しる!
242 :
日本@名無史さん:02/07/08 02:49
宍戸梅軒
243 :
日本@名無史さん:02/07/08 02:52
: ::.゜ ゜ ゜゜。・。゜.゜..
ミ /彡 :::.゜。 ゜・。゜゜. . . .
..ミ、|ミ //彡 これ以上、信長の料理人の心理まで研究している学者を要求されませんように・・・
ミ.|.ミ/ ./.| :::.゜。 ゜・。゜゜. . . .
.|//|. [] ∧v∧ : ::.゜ ゜ ゜゜。・。゜
/. [] (〃゚ー゚) :::.゜。 ゜・。゜゜. . . .
┬┬┬┬┬ O∞O ┬┬┬
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼
>>243 残念だが、七夕は数時間前に終了した。
願いは却下だ。
245 :
日本@名無史さん:02/07/08 02:58
___ _
/ ____ヽ /  ̄  ̄ \
| | /, −、, -、l /、 ヽ
| _| -| ・|< || |・ |―-、 |
, ―-、 (6 _ー っ-´、} q -´ 二 ヽ |
| -⊂) \ ヽ_  ̄ ̄ノノ ノ_ ー | |
| ̄ ̄|/ (_ ∧ ̄ / 、 \ \. ̄` | /
ヽ ` ,.|  ̄ | | O===== |
`− ´ | | _| / |
| (t ) / / |
「きっとドラえもんが、信長の料理人の心理まで研究している学者を出してくれるさ!」
「いねーよ」
>>232 そうか。理解した。
で、ついでと言っては何だが、
当時の人々にしても、家臣団屈指の出世頭「光秀」の謀反は驚愕事だろ、
いろいろと原因を詮索したに違いない。
しかし本能寺に触れた、公家・大名・茶人・商人等の日記で決定的な
ものがある、とは聞かない(言継卿・関白前嗣・吉田宮司…?)
このことは、
a)当時の人々にも理解不能の事件だったのか
b)私的にも書くのをはばかる重大な理由があったのか
c)今に残っている怨恨説が、完全な事実だったのか
諸賢はどう思われますか…
247 :
日本@名無史さん:02/07/08 03:06
『本能寺の変における織田家料理役の実証的研究』
という学術書を吉川弘文館から刊行しる!
248 :
日本@名無史さん:02/07/08 03:06
うーん、誰かを彷彿させるような文体だな。
249 :
日本@名無史さん:02/07/08 03:12
>>246 本能寺の変は当時の公家の日記にも色々書かれているよ、当然。
『兼見卿記』や『言経卿記』は同時代史料としては有名だろう。
でも光秀本人の心の内は光秀しか知るまいなぁ。
やっぱり発作的な反乱だったんじゃないか。
250 :
日本@名無史さん:02/07/08 03:15
>>246 >家・大名・茶人・商人等の日記で決定的なものがある、とは聞かない
決定的という意味が分からんが
bに関して言えば、中世の日記は個人の感想めいた事は殆ど一言で済ませるのが普通
内容見ればわかるが、何が起きたのかだけを書き残してる
怨恨説は江戸中期以降の著作物、当時に少しでもそれを匂わせるような事象が書かれてるなら兎も角
全く見当たらないので創作と思われる
251 :
日本@名無史さん:02/07/08 03:17
252 :
日本@名無史さん:02/07/08 03:22
公家・寺社の記録・日記なら
「晴豊公記」(日々記)「兼見卿記」「言経卿記」「天王寺屋会記」「多聞院日記」
「宇野主水日記」(ただし、本能寺の記録は「鷲森日記」に書かれてる)「家忠日記」
「蓮成院記録」
他に見るなら
「信長公記」「当代記」「豊鑑」「秀吉事記」
>>249 しかし不惑の名将が、発作的な反乱を敢行したとは信じがたい。
それに、茶道具を餌に信長親子をおびき出した手腕といい、
どうしても、綿密な計画性の臭いがする。
254 :
日本@名無史さん:02/07/08 03:31
綿密じゃないって。重臣たちにも愛宕山下山後にうち明けているんだから。
一番頼みにしていた親戚の細川家にも、変後に協力を要請しているしね。
ノイローゼで的確な判断力を欠いていたとしか思えん。
255 :
日本@名無史さん:02/07/08 03:32
茶道具を餌に?ナンデスカソレ?
256 :
日本@名無史さん:02/07/08 03:34
257 :
日本@名無史さん:02/07/08 03:38
茶道具?
258 :
日本@名無史さん:02/07/08 03:44
多分、「言経卿記」にある「数刻御雑談、茶子茶有之、大慶々々」と言うのを
公家が茶道具を持ち込んで信長父子を京に呼び込んだと思ってるのかな?
茶道具を持ち込んだのは信長で、作暦問題などで京に立ち寄るのは信長自身が決めた事なんだが
259 :
日本@名無史さん:02/07/08 03:45
>>263 ん? 俺は知らないが、茶道具で信長をおびき寄せたとする記録が何かあるの?
260 :
日本@名無史さん:02/07/08 03:46
261 :
日本@名無史さん:02/07/08 04:17
263 :
日本@名無史さん:02/07/08 04:22
ふっふっふ・・・ぬっへほーほー
>>263より先に解説しよう。
かねてより信長の所望していた「楢柴」と言う茶器があった。
これは博多の豪商である島井宗室が所有していたのだが、信長の面会を
長く断っていた。
ところが、その時に限って宗室が上京していたそうな。
慌てて信長は、宗室に面会するため京に向かった。
という話だ。
とりあえず、信長は38の名物を持って上京し、本能寺で茶会を催している。
これは自分の任官の謝礼とも、信忠の任官祝いともいわれているが、41人の
公家や五山の僧侶に堺の商人などが集まり、盛大な茶会だったそうだ。
264 :
日本@名無史さん:02/07/08 04:23
265 :
日本@名無史さん:02/07/08 04:27
まあ、いずれにせよ
>>263が回答してくれたということで
万事オッケー(W
266 :
日本@名無史さん:02/07/08 04:29
改暦問題で決定的な日食が6月1日であり、
それに合わせて上京したんだよ。
267 :
日本@名無史さん:02/07/08 04:29
うー・・・書き込んでるうちに3分経ったとは・・・
少々膿の回転が悪くなったか・・・
鬱だし脳・・・
268 :
日本@名無史さん:02/07/08 04:30
269 :
日本@名無史さん:02/07/08 04:31
>>266 改暦問題というと、天皇家独占の暦を変えようとした件かや?
270 :
日本@名無史さん:02/07/08 04:31
>>263 でもさ、それは島井宗室の茶器であって、光秀とは無関係じゃん。
>>253は光秀が信長をおびき寄せるために綿密に計画したと
述べているのだが・・・
こりゃ、やっぱり253自身に解説してもらわねばなるまいて。
271 :
日本@名無史さん:02/07/08 04:34
>>268 「宗及自会記」とか「島井文書」に出てくるらしい。
こんな史料は、実際には見た事ないが。
272 :
日本@名無史さん:02/07/08 04:36
改暦問題とは、信長が朝廷が採用している京暦(宣明暦)を三島暦にせよと命じた問題
作暦は朝廷管轄なので、それに信長が口を出したと言う事です
確か閏年を変えろと言う話だった
273 :
日本@名無史さん:02/07/08 04:39
>>270 明日になるだろうな。
先に少々解説しておくと、信長統治下では増税やら矢銭や請求されて
負担が大きく、また公家衆も検地されて自分の収入が暴露されたため、
不満を持った連中が策を巡らしたとの話。
むろん、こんな話にはソースなど無い。
274 :
日本@名無史さん:02/07/08 04:40
なんか漏ればっか書いてるな・・・憑かれた・・・
275 :
日本@名無史さん:02/07/08 04:41
>>271 「宗及自会記」と言うのは、「天王寺屋会記」の事です
宗達・宗及・宗凡の三代で書かれてて、「他会記」と「自会記」に分かれてるんですよ
276 :
日本@名無史さん:02/07/08 04:54
博多商人と堺商人は仲が悪かったのでは?と聞いてみたり
どして無関係な博多商人が協力したりするんだろ…と思ったり
277 :
日本@名無史さん:02/07/08 05:00
三島暦かどうかは分からん。
東国暦のようだ。
278 :
日本@名無史さん:02/07/08 05:03
>>275 そうでしたか、ありがとうインプットしました。
279 :
日本@名無史さん:02/07/08 05:06
東国暦とは三島暦の通称
東日本全般で使われてたから、そう呼ばれた
280 :
日本@名無史さん:02/07/08 05:25
「濃尾之暦」らしいがな。
281 :
日本@名無史さん:02/07/08 05:41
尾張には尾張暦というのがあったが、三島暦と殆ど変わらんよ
「晴豊公記」の欠損部分とわかった「日々記」の六月一日に
閏月を来年(天正十一年)正月ではなく、今年(天正十年)にしろ命じたと書いてある
ちなみに美濃では三島暦が使われてた
282 :
日本@名無史さん:02/07/08 05:44
結局、あれなんだろ、
博多の方に利権を移されそうになった
天皇+公家+堺商人+猿+狸+蜜
とかが、グルってやったんだろ。
283 :
日本@名無史さん:02/07/08 11:57
突発的というのは考えづらくないか?
主君に絶対服従という時代でもないのに、そんなずさんな話に宿老達があっさり賛成して謀反に走っちゃうのは変な気がする。
なんらかの納得する材料(実は朝廷からの依頼だ、秀吉も合流する、など)があったと思うのだが。
あと、信長死亡前から勝手に毛利と和睦交渉してた猿はやはり怪しいと思う。
>>283 今年の大河じゃ、秀吉はほぼ信長を見殺しだもんな(w
>137 :日本@名無史さん :02/07/07 19:50
>
>138 :日本@名無史さん :02/07/07 20:58
大河ドラマの時間に書き込みが無いのに少しワラタ
みんなネタ探しで見てた??
>>283 >あと、信長死亡前から勝手に毛利と和睦交渉してた猿はやはり怪しいと思う。
賛成やっぱりサルはあやしいさらに死ぬ時家康に頼みごとするのもあやしい。
そんなに家康をしんじてたの?家康とは何らかの秘密を共有していたと思われ。
ここは学問板。
厨は三戦板にでも逝って厨同士で戯れとけ。
289 :
日本@名無史さん:02/07/08 18:18
>>288 学問板だよ。厨は出ていきな。
それはさておき、
>>287よ君の稚拙な意見も聞いておこうか?
本能寺の原因は?
290 :
日本@名無史さん:02/07/08 19:05
つうか、当時の発想としては、秀吉が高松城に釘付けにされて、中国撤退前に
毛利に信長死亡の連絡が行くのが当然ということになるのではないか。
その場合、明智としては、秀吉の勢力は当面は無視できる。秀吉は、毛利を目
の前にして、身動きがとれなくなるから。
「信長を討ち取った。」と宣伝して兵を集め、柴田勝家ら重臣が反明智で
固まる前に個別撃破することを考えるのは、それほどおかしいだろうか?
目標がほとんど無防備というのは千載一遇のチャンス。その上、最大の
ライバルは不在、自分はかなりの兵力を動かしている状況なんて、今後
まず巡り会うことはない機会だと思われ。
291 :
日本@名無史さん:02/07/08 21:22
光秀は信長を殺した後切腹しようとして家臣に止められたという説が
ありますが 本当でしょうか?
292 :
日本@名無史さん:02/07/08 21:23
293 :
日本@名無史さん:02/07/08 21:36
隆景と秀吉が密約交わしてたとかはアリ?
294 :
日本@名無史さん:02/07/08 21:57
毛利家の外交僧だった安国寺恵けい(漢字変換できない)は、本能寺の変の9年前に、信長を評して、今は勢いに乗っているが、いずれ転げ落ちるだろう、と否定的な見方をしていた
一方、秀吉については、高い評価をしており、いずれ天下を取るだろう、とまでいっている
自信家の信長は、こうした評判はまったく気にも留めていなかっただろうが、秀吉が、こうした世評を知らなかったとか、気にしなかった、というのは考えにくい
備中高松城攻めをしていた秀吉は、ただちに交渉をまとめて、本能寺の変のわずか11日後に、山崎の合戦で光秀を撃破するわけだが、この中国の大返しも、常日頃、信長に一大事あれば、という心構えがあったればこそ、という見方もできる
光秀との間に密約はないにしても、秀吉が光秀の不穏な動きを知っていながら、黙認、放置していた可能性はかなりあるんじゃないか?
295 :
日本@名無史さん:02/07/08 22:14
でも当時、世間で秀吉を評価してたんは恵ケイ(変換できん )ぐらいやったと思う。信長の気性も考えれば、秀吉は天下とりの考えをもつ機会さえなかったんじゃないかな。毛利と秀吉の関係は否定できんけど
296 :
日本@名無史さん:02/07/08 22:28
>>295 秀吉に日頃から天下取りの野心がなければ、本能寺の変の後に、あれほど迅速な動きが出来たものだろうか?偶然にしては、出来過ぎではないのか?
297 :
日本@名無史さん:02/07/08 22:38
やはり当時の朝廷を中心とした旧権力体制に謀殺されたと見るのが妥当か。
信長も官職を固辞して現人神を自称し始めた時点で、朝廷、武家、世間の
信長に対する見方も、危機感を伴ったものに変質してしまったのではないか。
本能寺以降、時の権力者が表立った形で、日本国の王位を簒奪しようとする
動きは途絶えてしまった。爾後、国内の権力闘争の場から朝廷勢力を隔離し、
その正統性を強め、その権力を温存することになったと思う次第。
298 :
日本@名無史さん:02/07/08 22:46
一気に講和して大返し、とは言っても、いきなり講和条件が
まとまるはずもなく、事前にある程度協議がまとまっていたはず。
つまり秀吉は時期を見越して毛利との交渉を始め、
都では光秀が反乱。
秀吉は当初の計画通り毛利と結んで光秀を攻めて天下人へ。
毛利は中国地方の雄としての地位を磐石のものとする。
黒幕は毛利と秀吉ですな。
299 :
日本@名無史さん:02/07/08 23:18
>>298 元々毛利は和睦したかった。講和条件も毛利側から出されていた。
だが、秀吉側では信長の到着を待って毛利を潰したかったので
難癖を付けて聞き入れなかった。
だから、秀吉側から譲歩すれば簡単に和睦できた。
300 :
日本@名無史さん :02/07/08 23:28
現在残っている資料は「勝者の歴史」。明智側有利な証拠というか
謀反の正当性の証拠は秀吉もしくは家康に隠匿されてる可能性が
非常に高い。
301 :
日本@名無史さん :02/07/08 23:32
302 :
日本@名無史さん:02/07/09 00:14
>>301 これ以外に有名なのは
今谷明氏の「正親町天皇説」や立花京子氏の「誠仁親王と一部の公卿説」
藤田達生氏の「足利義昭説」か?
303 :
日本@名無史さん:02/07/09 00:32
>>283 漏れもそう思う。
が、光秀が謀反の試みを一度口に出した以上、どこからか漏れる可能性がある。
そして、そうなったら信長は必ず報復する。
結局、光秀の重臣としては、光秀に謀反の相談を受けた時点で、
光秀を討って信長に忠誠を誓うか、光秀とともに信長を討つかの
2択しか残されていなかったのではないか。
光秀を討つのがその場での多数派でなければ自分が返り討ちに逢うだけだし、
長年の主君を討つのも心理的に抵抗があるだろう。
そもそも、主君の主君のために忠誠を誓うという発想は無かっただろうから、
信長の為に光秀を討っても、自分の命惜しさの裏切りでしかない。
>>295 信長・光秀勢の加勢準備のため、
山陽道には数万の軍勢を満たす食料、飼葉が蓄積されていたはず。
秀吉は大返しの際にそれらを利用することができた。
「主君の敵を討つ」なんてことは、野望があろうと無かろうと、
信長への忠誠心が有ろうと無かろうと、口に出さざるを得ないし、
当然、今後の方針の第1案として検討対象になる。
304 :
日本@名無史さん:02/07/09 00:33
305 :
日本@名無史さん:02/07/09 00:37
信長が中国に行くと言う話は信長公記だが、実際は信孝の四国遠征に行くはずだった
5月7日付けで、信孝宛てに「淡路出馬」の朱印状が出てる
だから中国には四国遠征後と思われる
306 :
日本@名無史さん:02/07/09 00:37
>信長・光秀勢の加勢準備のため、
>山陽道には数万の軍勢を満たす食料、飼葉が蓄積されていたはず。
>秀吉は大返しの際にそれらを利用することができた。
光秀って最初、山陰道に向かわなかったか?
307 :
日本@名無史さん:02/07/09 00:46
>>301 大別すると五つ。1.怨恨説、2.野望説、3.乱心説、4.無罪説、5.使嗾説。
桑田説は1。
大和田説、徳富説、林屋説は1と2の折衷。
高柳説、フロイス説は2。
藤本説は1と3の中間。
二木説は3。
古屋説は4。
武光説は5。
拙者は
>>297 の5でござる。
しかしながら4の可能性も少しは残っているかなと思う次第。
>>305 前提条件の多数が消える。
ぜひとも出典を教えてくれ!!!!
309 :
日本@名無史さん:02/07/09 00:55
どの説にもそれなりの説得力があるけど、決定打に欠けるような・・
でも、真実はひとつ。
ん〜・・
311 :
日本@名無史さん:02/07/09 01:09
>>306 そりゃ亀山からならどこ行くにも山陰道通るだろ。
312 :
日本@名無史さん:02/07/09 01:10
おいらは誠仁親王説をおすね、
朝廷説の中でも真実味を帯びている。
仮に正親町天皇が黒幕なら勅を使うからね。
313 :
日本@名無史さん:02/07/09 01:21
光秀は、信長に領地を召し上げられて、毛利を攻めて自分で領地を見つけろ、と言われて、家臣から、これではもう我慢できない、今こそ信長を討つべし!と突き上げられて謀反を決断した、という話も伝わっているね
314 :
日本@名無史さん:02/07/09 01:50
秀吉が死ぬ一月半ほど前の慶長3年(1598年)7月、夢枕に信長が現れ、「藤吉郎、もうよい時分だろう、迎えに来てやったぞ」、「お前はわしの子らに平気で不憫な仕打ちをしてきた、もうこの世においておけぬわ」
と、秀吉の手をとり強く引き寄せた、という話が伝わっている
当時、悪い夢は他人に話せば正夢にならない、という言い伝えがあり、秀吉は、前田利家にこの夢の話をしたという
秀吉は、信長に対して、やましいところがあったんだろうな
315 :
日本@名無史さん:02/07/09 01:57
>>314 そりゃ三男「神戸信考」のことじゃないの?
「信孝」ですた失敬
318 :
日本@名無史さん:02/07/09 02:19
>>314 その話、大祖母達から何度か聞いたことある。
ほとんどオカルト話だが…
でも、大恩ある主家の織田一族を排斥していったんだから、
良心の呵責があってもおかしくないだろ。
319 :
日本@名無史さん:02/07/09 02:22
>>318 この話、学研の歴史群像シリーズでも紹介されているね
ソースは何なんだろうか?
320 :
日本@名無史さん:02/07/09 03:08
たしか前田家の文書だったと思うけどな……
そっか、ソースあったのか、
なんか先祖からの言い伝えって思てた。
鴨居に投げつけられたってホント?
>>2 と
>>4 >>297が正解だと思う
1;信長は、天皇を排して、自分が日本国皇帝になるつもりだった。
(安土城デザインは、信長が天皇制や既存宗教より自分が上位に
存在することを示した傍証。
キリスト教への相対的寛容は、既存の天皇以外の王位の正当性を
信長が求めた傍証)
2;明智光秀は、教養人であるから、天皇が正統性の根源であるという
中世的発想から出ることができなかった。
3;天皇は、信長打倒の「密詔」を、明智光秀に送る。
4;「時(土岐源氏=光秀)は今 雨(天皇)が下しる(親政する)五月かな」
天皇という正統性の根源に命令されたのだから、教養人である光秀は
挙兵することが正統であると考えた。
宮中の誰が光秀に討たせる工作をしたかまでは判らないけど。
323 :
日本@名無史さん:02/07/09 06:00
本能寺の変の直前は、誰もが信長を恐れ、
その死を願っていたから、多くの人間が
暗躍し、そして疑われた。
近衛前久や勧修寺尹豊(晴豊の祖父)は、変後に
酒宴を開いているし、当時、一報を聴いた某家では、
勝家の共謀を疑っているくらいだからな。
そうした雰囲気を察して信長の身近にいた光秀が決起した。
ただ、それだけのこと。
大儀は世論。
324 :
日本@名無史さん:02/07/09 06:03
黒幕は、時代だな。
325 :
日本@名無史さん:02/07/09 06:32
権謀術中に長けた前久は、光秀の動きを知って、
土壇場で信長を裏切り、光秀に情報を提供したんだろうな。
酒宴は、安土にいる光秀への使者の派遣が決定された
その夜に行われており、自分が信長を討ったせたと、
自慢したんだろうな。
光秀が秀吉に敗れると、サッサと逃亡し、晴豊から
「卑怯者」呼ばわりされているしな。
328 :
日本@名無史さん:02/07/09 07:34
なんかさあ、信長の末期って、田中角栄が倒れる時に似てないか?
つまり、家臣の誰もが信長にウンザリしてたのでは??
朝廷も秀吉も利家も柴田も明智も家康も。
329 :
日本@名無史さん:02/07/09 10:08
>>328 むしろ佐藤栄作政権の末期だろ状況的には・・
330 :
日本@名無史さん:02/07/09 12:22
そうすると信長は、時代の流れに巻き込まれて消えたということか
仮に光秀の謀反が失敗したとしても、いずれ誰かに消された可能性も大だったということになるな
331 :
日本@名無史さん:02/07/09 12:33
信長って死ぬべくして死んだ人
だと思います。
だから結局は誰が犯人でも可
332 :
日本@名無史さん:02/07/09 12:42
でも直接手を下した者は逆賊ということで成敗されてしまう
秀吉が一番得をしたことになるな
信長は自殺です。
加虐趣味がこうじて、自分自身をも殺してしまったのです。
明智犯行説は、後の創作です。
334 :
日本@名無史さん:02/07/09 12:43
ふ━━( ´_ゝ`)━( ´_ゝ`)━( ´_ゝ`)━━ん
>>334 セルフSMってあるでしょ?
自分で自分を縛って虐めるやつ。
今でいう、あれです。
蝋を誤って垂らして、畳に引火、寺も焼失したんです。
牛一もそれらしいことを書いています。
336 :
韓国は諸悪の根源の如き国家:02/07/09 12:47
337 :
日本@名無史さん:02/07/09 12:53
正直、漏れも謀反起こしたい
338 :
日本@名無史さん:02/07/09 12:55
自信家の信長のことだから、やれるものならやってみろと、敢えて丸腰の状態で本能寺に宿泊していたようにも思える
この情報は、当時の家臣はみんな知っていたのだろうか?
戦国の在日、信長を純正日本人光秀が誅した。
その仇を同じく在日秀吉が取った。
その後、秀吉は母国を裏切ったから、今でもあんだけ恨まれてるんだろう。
>>338 知ってました、もちろん。
牛一もそれらしいことを書いています。
337ですが、
上司に媚びうる同僚
声がでかいだけの奴を有能と判断し、その他社員をないがしろにするワンマン社長
突如リストラされたおっさん社員
もう我慢ならん!もう我慢ならんぞ!
342 :
日本@名無史さん:02/07/09 13:03
>>341 会社を乗っ取れるものなら、決起しなさい
>>341 マゾになることをおすすめします。
被虐が快感になれば、この世は極楽です。
344 :
日本@名無史さん:02/07/09 13:05
急進的な政策や傲慢な性格が守旧派、抵抗勢力に警戒されて一命を落としたという点では、シーザーの最期と重なるね
急進的な政策って、謀反当時の信長の政策のどこが急進的だったんですか?
346 :
日本@名無史さん:02/07/09 13:11
>>345 将軍や朝廷の権威を無視して、できれば廃棄しようとしたことじゃないか?
347 :
日本@名無史さん:02/07/09 13:17
>>345 あと既存の宗教的な権威を徹底的に嫌って猛烈な弾圧を加えた
とにかく坊主が大嫌いだった
でもキリスト教には寛容だったね
恐らく仏教勢力に対抗させる意味あいがあったんだろうが
348 :
日本@名無史さん:02/07/09 13:21
信長は、経済政策でも、楽市、楽座など、既得権益を無視して合理性を追求する傾向が強かった
守旧派が警戒するのも無理ないだろうね
349 :
日本@名無史さん:02/07/09 13:37
楽市、楽座は、信長のオリジナルではない。
信長以前からあった。
350 :
日本@名無史さん:02/07/09 14:32
楽市楽座や関所の廃止、昔からあるさ。
しかしそれは、領地の住人が利益を損なわない程度であろう。
そもそも領地が、せいぜい一国程度だ。
しかし信長はどうだろう?
スゴイ事になるよね。
信長が宗教弾圧したなんて初耳だな
むしろ熱心に布教していた宗教は宗派問わず保護育成しているはずだ
宗教を傘に現体制批判してる輩や既得権益を手放さないなんちゃって宗教は焼き払った
けど
352 :
日本@名無史さん:02/07/09 16:46
>>351 少々解釈がおかしいぞ。
政治や統治に影響を与えない宗教は、人心掌握のため放っておいただけだ。
もっとも、何を「なんちゃって宗教」とするか難しいが、売僧行為は嫌っていた
ようで死罪だったな。
ちなみに、浄土真宗も熱心に布教してたよ。
353 :
日本@名無史さん:02/07/09 17:37
信長は反乱しなければ、結構浄土宗系でも保護してるよね。前田家が
揉めたときとか寺院側に有利に裁定してるし。(利家を前田家の
当主にするためか!?)
でも薩摩は浄土系というだけで弾圧。キリシタンも弾圧。
信長が宗教を許したのは、貿易のため
一部宗教だけ保護していては、他の宗教勢力の反発を喰らうし
キリスト教にいたっては、宣教師などが鉄砲等を売る代わりに
キリスト教を広める事を許しただけだし..。
当時、欧州では宗教改革真只中で、プロテスタントに圧され始めた
カトリック教諸国が新天地を求めて、物資+カトリックといったぐらい
セット販売する形で世界進出していったから
355 :
日本@名無史さん:02/07/09 17:52
>>347 信長は宗教的な権威というより、坊主が政治に口出しするのをひどく嫌っていたというべきだな
一向一揆に対する非情な政策なんか、その最たるものだった
356 :
日本@名無史さん:02/07/09 17:58
信長の政策は、何かお手本にするような書物とかあったのかな?
天下統一後の日本について明確なビジョンとか持っていたのだろうか?
350は何が言いたいの?
信長はすごいぜって事?
358 :
日本@名無史さん:02/07/09 18:37
ちったあ想像しろや。
359 :
日本@名無史さん:02/07/09 18:56
想像できないのは、物事を正確に把握していない証拠だ。
360 :
日本@名無史さん:02/07/09 20:05
\∧_ヘ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
,,、,、,,, / \〇ノゝ∩ < 敵は本能寺にあり、いくぞゴルァ!! ,,、,、,,,
/三√ ゚Д゚) / \____________ ,,、,、,,,
/三/| ゚U゚|\ ,,、,、,,, ,,、,、,,,
,,、,、,,, U (:::::::::::) ,,、,、,,, \オーーーーーーーッ!!/
//三/|三|\ ∧_∧∧_∧ ∧_∧∧_∧∧_∧∧_∧
∪ ∪ ( ) ( ) ( ) )
,,、,、,,, ,,、,、,,, ∧_∧∧_∧∧_∧ ∧_∧∧_∧∧_∧∧_∧
,,、,、,,, ( ) ( ) ( ) ( )
350の書き方が馬鹿過ぎる気がするんだけど。
秀吉や家康のほうが凄いと言う事ですか?
362 :
Cipher:02/07/09 20:24
>>314 夢の中で眼前に信長が現れ
「藤吉郎、もうよい自分ゆえ、迎えにきたぞ。まいれ。」
と仰せられる。秀吉が
「私は信長殿の御敵をも討ちとり、ご奉公申し上げましたゆえ
もう少しお許しください。」
と夢心に仰せられると
「いやいや、われらの子供のあつかいをみると、ふびんな仕打ちであった。
急いでまいれ。」
と引きずり出した。
そこで目をさますと寝所から1間ほども引き出されていた。
北政所様も上臈衆も、これにはびっくりした。
秀吉は、この時からあきらめ、いろいろ処置を仰せおかれた。
ソースは「利家夜話」です。
当時の人はビックリしたろうな
いまならブッシュ大統領が側近に暗殺されて
アメリカが内戦に突入ぐらいな勢いだろう
朝起きてそんなニュースやってたらどうよ?
364 :
ネコ型小姓:02/07/09 20:49
>>42 うさんくさい本城ソウえもんタンは知らずに攻めたって自己保身してる
365 :
マーダーライセンス貞:02/07/09 20:58
母の怨恨説はソースも糞もない
光秀シンパ吉田兼見の「兼見卿記」光秀関係
1579年
6/1、八上落城、波多野兄弟捕虜、佐竹親子負傷
6/5、佐竹定実が上洛したので見舞う
6/6、波多野兄弟、京都市中引き回し
6/8、波多野兄弟、安土で処刑
6/22、明智光秀を見舞うため、坂本城へ
この期間中、一番記載が多いのは村井貞勝の関係
光秀の母について記載をせずに、村井と碁三昧
>>22新説を唱えてみよう
変の黒幕は吉田兼見を主軸とした村井、誠仁親王、明智、細川、義昭他大勢
村井貞勝は本能寺で信長を殺したあと、二条城で信忠も殺した(w
このネタはレス数稼げるなぁ。
367 :
日本@名無史さん:02/07/09 22:54
>>365 なんで村井貞勝がそんな事をと言ってみる。test
まあ、逃走のチャンスが有りながらも、二条城に押し込んで自害させてるしな。
もっとも村井貞勝も死んでるが。
368 :
日本@名無史さん:02/07/09 23:08
>>363 当時の日本は天下統一の真っ最中、内戦状態だったぞ
369 :
日本@名無史さん:02/07/09 23:23
370 :
日本@名無史さん:02/07/09 23:32
>>366 それはね、若い人は知らないだろうが、自分の中学生の時分は一般的に
【信長光秀・不和怨恨説or秀吉・陰謀説】が主流だったのよ!
司馬遼太郎以後の『歴史ブーム』で、いろいろな説・研究が注目されて、
その黄金期に育った研究者が色々な新史料を発掘している。
今が、旬の話題だから。
余談だが、次は「忠臣蔵の見直し」が美味しそうだねw。
372 :
日本@名無史さん:02/07/10 05:23
秀吉がなぜあれほど早く備中の戦場から引き返して光秀討伐にいち早く成功したのか?ここに謎を解く鍵がありそうだな
36計逃げるに如かず
命あってのモノダネ
何と言われようが自分が一番可愛い。
374 :
日本@名無史さん:02/07/10 06:03
信長に仕えていた侍女たちは助かっているんでしょ
信長も女装していたら助かっていたかも
375 :
日本@名無史さん:02/07/10 06:12
ソデスネー
376 :
あたりまえでしょう。:02/07/10 06:46
>>372 何の謎もない。
気働きの得意な秀吉は、信長様が遠征されるとなると、
その沿道の、道路整備・橋修理・宿泊準備・飼葉の用意・食糧の備蓄・
かかり火・替え馬・・・・
準備にはおさおさ怠りなく、ちゃんとしているよ。
【それを逆に使えば、大返しに何の不思議もない】
どのみち、毛利との交渉も安国寺とで、ほぼ決定していただろうし、
信長を呼んだのは、最後の詰めと仕上げを信長に馳走してヨイショする
ため。ちょい前の武田征伐と同じ事をするつもりだったから。
【ほぼ講和交渉は妥結していた】
377 :
日本@名無史さん:02/07/10 07:08
378 :
日本@名無史さん:02/07/10 07:27
>どのみち、毛利との交渉も安国寺とで、ほぼ決定していただろうし、
「ほぼ決定」してたら秀吉が黒幕だねえ。
信長は敵に譲歩しないからねえ。
毛利側の和睦要請を秀吉がひたすら蹴ってたというのならわかるが。
379 :
日本@名無史さん:02/07/10 08:18
信長は毛利も、武田みたいに殲滅したかったみたいしね。
380 :
日本@名無史 :02/07/10 09:48
>>379 だからその後の秀吉と毛利家の外交は磐石だったんだよね。
どうなんでしょうか!?
それぞれの”子孫”筋なんか、”事の真相”はもれ伝わっていると思われ
ますが・・・
382 :
日本@名無史さん:02/07/10 15:46
中国大返しはそんなに速くないよな。備中・姫路間は確かに速いけど
姫路・富田間は驚くほどまったり進行してる。
でも、中国大返しを決断するのが速すぎじゃないか?
普通、遠征先で大将が死んだと報告を受けたら敵の策略じゃないかと疑わないか?
なにしろ謀略大名毛利と戦をしてるんだぜ。
それなのに、何のためらいもなく信長が死んだことを確信して(史料にはないが時間的に
ためらった気配なし)数時間で和睦というのは変すぎ。
それと深夜に和睦交渉なんてするか?
毛利側が眠いから明日にしようと言ったらどうする気だったんだろう
長文スマソ
383 :
日本@名無史さん:02/07/10 16:29
たーけか、おみゃー。
あんのはーげ鼠が、天下様をだまくらかして夜討ちなんかやるわけないよお!
「やっとかめだでね、エートコ上さまに見せたりゃー!」
に決まっておろ。
禿鼠は上様がとーんでもなく好きであったんだわ。
怒られても、禿鼠と言われても、浮気あっさりばらされても、
「上さまア、どえらい事考えなさるワァ、
のお?小六さん?」
…こりゃあ死ぬまで変わらんで。
384 :
日本@名無史さん:02/07/10 16:55
中国大返しには謎はない、ってのが最近の戦国史研究の風潮だよねえ。
一般向け歴史雑誌の特集にもなるほどだしね(『歴史読本』とか)。
385 :
日本@名無史さん:02/07/10 17:03
毛利は情報を秀吉に売ったんじゃないかな。
足利義昭とかも毛利にいたんだろ。
こいつが光秀そそのかした張本人なんだよ。きっと。
失敗しても成功しても毛利は秀吉に恩を売って
磐石。もっと言えば光秀があんなに簡単に破れる
とは限らないわけだし、長期戦なら秀吉は毛利に
譲歩して後背を確保しなきゃならなかったと考えれば
・・・。毛利に損はまったくないよ。
386 :
日本@名無史さん:02/07/10 17:10
>>384 それは漏れも読んだ。色々ロマンをくだかれました(W
まあ実際はそんなものなんだろうな。
>>382 >備中・姫路間は確かに速いけど、姫路・富田間は驚くほどまったり進行してる。
姫路までは自己勢力範囲、道路整備も準備も出来ていたし、毛利から早く離れる
必要もあった。
姫路から先は、上方の情報を集めながら、地域の諸将・大名の後背を判断していく
ため、ゆっくり構える必要があった、と思う。たぶん、京都と交渉してたと…
388 :
日本@名無史さん:02/07/10 22:14
ときは今 天の下知る 五月かな
389 :
日本@名無史さん:02/07/10 22:35
ときは今 サルのとびつく 天下かな
>>358 「へへへ、毛利さんよ。次は、豊臣内閣の時代になるが、アンタここで俺と
手を組まないか?それなら豊臣内閣の財務大臣をアンタに渡してもエエでへへへへ。」
391 :
日本@名無史さん:02/07/10 22:50
ときは今 サルとタヌキの 馬鹿しあい
>>385 毛利が黒幕なら、信長死亡で動揺している秀吉軍を逃がしたのは何故だ?
領土割譲の屈辱的な和約もそのままで?
毛利に味方して領地を失った同盟諸侯にどう詫びるのだ?
豊臣政権下での大老の地位まで考えてというならわからんでもないが、
そんな超人的な洞察力は無いだろ。
そこまで秀吉に一蓮托生なら、光秀討伐軍に毛利からも援軍を出すべきだ。
秀吉が光秀に勝てるとは限らないし(まあ7-8分は勝ちとしても)
戦後に秀吉が主導権を握れるとも限らない。
毛利と義昭が仕組んだにしては、毛利の事後の行動が鈍すぎる。
彼らが光秀をそそのかしていたとしても、光秀はそんな空手形では動かんよ。
393 :
日本@名無史さん:02/07/11 00:47
光秀が京都に進軍したのは、もともと信長が光秀の軍勢に合流する予定だったので、怪しまれなかったという説もあるね
光秀の背後に朝廷など有力な黒幕がいたという明確な証拠はない
本能寺の変の後の光秀の動き(書状など)を見ると、事前の根回しがまったくなく、また後ろ楯を鮮明にすることもしていない
やはり、自ら天下を取るという野心から出た謀反と見るのが妥当か?
394 :
日本@名無史さん:02/07/11 01:19
信忠(信長の長男)は本能寺が攻められたことを知ると、宿所にしていた妙覚寺から、二条御所に移動、そこで光秀に攻められて討ち取られている
本能寺に光秀軍が押し寄せたのが6月2日の早朝5時ごろ、二条御所にいる信忠を取り囲んだのが7時ごろだったという
信忠が京都に留まるのではなく、安土城に向かって脱出していれば、恐らく助かったはず
信忠は、洛中の出入り口が光秀軍に封鎖されていると考えたらしいが、完全な判断ミスだった
信忠が生き延びていれば、その後の歴史はどう変わったのだろうか?
395 :
日本@名無史さん:02/07/11 01:20
>>393 >光秀の背後に朝廷など有力な黒幕がいたという明確な証拠はない
あったとしても残す訳ないし
例えば、「兼見卿記」は天正10年の日記が2冊ある
一方は本能寺以降に、吉田兼見が朝廷と光秀の折衝役となって色々やってる事が書かれてる
7日に安土の光秀を訪ねた兼見は「この度謀反の存分を雑談」したと書かれており
9日に光秀が上洛すると、兼見邸を尋ねたりした事が書かれてる
が、この日記は6月12日で終ってる
で、別の天正10年の日記には光秀との件が削除されて書かれている
要は書き直した訳ね
こういう事があるので、未だに黒幕に朝廷説やその他の説が消えないという訳だね
396 :
日本@名無史さん:02/07/11 01:26
事前に根回しなんかしたら、謀反の前に計画が漏れて粛清されるよ。
突発的、機会主義的な行動だったからこそ信長抹殺に成功したのだと思う。
でも、突発的だったからこそ、細川や筒井の説得に失敗したんだな。
裏切り自体は成功しても、その後が続かないってのは、
「戦国大名」などのマルチプレイヤーゲームでも良くあるパターンだ。
(最初の裏切りをみんなで待ちつづけるってのはもっとよくある)
突発的な行動と考えると、信長を葬った後の行動の手際よさは、
光秀の優秀さを示しているようにも思う。
山崎合戦になんとかして勝てなかったかのう。
398 :
日本@名無史さん:02/07/11 01:31
光秀は確かに優秀な武将だったが、秀吉の大返しで、すべての計算が狂ってしまったということかな
光秀は、いずれ秀吉や勝家と雌雄を決するにしても、1月ぐらいの猶予はあると思っていたんじゃないか?
399 :
日本@名無史さん:02/07/11 01:35
>>397 山崎の合戦で、秀吉の連合軍は4万近く、光秀軍は1万6千程度だったという
光秀は、本能寺の変(1万3千の軍を率いていた)からほとんど味方勢力を増やせなかった
これほど兵力に差があると、いかに指揮官が優秀でも、正攻法では勝ち目がない
400 :
日本@名無史さん:02/07/11 01:37
>>398 家康も15日頃には尾張に進出してる
いくらなんでも、それは無いだろう
401 :
日本@名無史さん:02/07/11 01:48
光秀は、本能寺の変の前日(6月1日)まで、家臣にも謀反のことは打ち明けていなかったようだ
そして、本能寺を取り囲む直前、桂川を渡る段になって全軍に打倒信長を告げている
これほど突発的な行動にもかかわらず、よく脱落者を出すことなく行動できたものだ
光秀の指導力は大したものだったんだろうね
民草にも、結構慕われていました。
403 :
日本@名無史さん:02/07/11 01:56
>>393 >信長が光秀の軍勢に合流する予定だったので
信長本人の“馬周り部隊”が同行していないので、いったんは安土へ帰る
予定だったと思われ。
>背後に朝廷など有力な黒幕がいたという明確な証拠はない
あたりまえ、明確な証拠があれば、こんな推理は必要ない。
>変後の光秀の動きを見ると、事前の根回しがまったくなく、また後ろ楯を
>鮮明にすることもしていない
事前の根回しがはっきりしないことは、かなり急激な作戦だったということ、
後楯を鮮明にしなかったのは、居なかったのか、鮮明にできないほどの事情ある
相手だったってこと。
>自ら天下を取るという野心から出た謀反
純粋に野心からの謀反なら、事後にあれほど朝廷交渉に拘らないと思われ。
404 :
日本@名無史さん:02/07/11 02:16
>>403 >信長本人の“馬周り部隊”が同行していないので
馬廻衆は同行してるのでは?本能寺の変で半分ぐらい死んでますが
「信長の親衛隊」に詳しく書いてあった
残り半分は、軍監やなんやらで地方に行っていなかったようだし
405 :
日本@名無史さん:02/07/11 02:20
細川家にまで見限られては、光秀に荷担する者はいなかっただろうなぁ。
信長に不満を持つ者は決して少なくなかっただろうが、ああいう形で
殺害しては誰も協力はできないだろうな。
406 :
日本@名無史さん:02/07/11 02:21
そういやー、毛利新介が本能寺の時まで馬周りにいたってのは、
信長の験かつぎかな?
でもやっぱりわからないのが、普段はとても用心深かったという信長が
たった数十名の手勢だけで本能寺に泊まるようなことを何故したのか。
油断していたんだろうけれど、それだけだろうか。
あまりにも無用心だ。何か絶対大丈夫という確信があったのかなあ。
408 :
日本@名無史さん:02/07/11 02:33
>>407 信長が用心深かかったかどうかは疑問がある
松永久秀や荒木村重が謀反を起こした時も、何故なのか理解できなかったらしい
信長は、自分の部下が刃向かう可能性について楽観的すぎたきらいがあある
409 :
日本@名無史さん:02/07/11 02:40
>>407 光秀の軍隊を自分の護衛だとでも思っていたんじゃないの?
光秀も京都に進軍する際は、上様にお目通りする、と言っていたらしいし
信長は光秀の忠誠を過信していたんだろう
410 :
日本@名無史さん:02/07/11 02:43
ホントに数十名の手勢だけだったのだろうか?
晴豊公記にもかなりの数の死体が転がってるとか書かれてるし
411 :
日本@名無史さん:02/07/11 02:45
資料によっては百数十名ともなっている
光秀側の資料によると、討ち取った数は50名程度だった
いずれにしても、1万3千の光秀軍に対抗する術はなかった
>>407 なんと!
>松永久秀や荒木村重が謀反を起こした時も、何故なのか理解できなかったらしい
それは初耳でした。一旦はむかった相手には徹底的に潰したみたいだし
豪胆といわれていたけれど実はとても綿密で神経質なところがあったと
書いてあるのを見て、とても用心深い人だったのだろうと思っていました。
敵に対してはとても用心深かったけれど身内(歯向かわないであろう身内)にはある意味甘い面が
あったのかなあ。
明智光秀という人は絶対に謀反を起こしたりできるタイプではないと
なめ切っていたのかな...。
413 :
日本@名無史さん:02/07/11 02:50
>>411 信長は家臣の前では絶対的な権力者であり、信長が手を振るだけで、家臣が怖れおののくようにひれ伏す様子が、フロイスによって報告されている
自分の前で平身低頭する家臣の謀反を想像する頭は持ち合わせていなかったんだろうね
>>409 >光秀の軍隊を自分の護衛だとでも思っていたんじゃないの
そうですねえ。そうだとしか思えない...。
光秀って、信長にとって三国志での劉備玄徳にとっての諸葛光明みたいな
存在かなあと思うのですが、きっと信長は彼がいなかったら本能寺のずっと
前に(力不足で)死ぬことになっていたような気がしたりもします...。
すごく信頼していて彼のおかげでここまでの自分があると思っていたから
子供が親をうっとおしく思うような感じで冷たくあしらっていて、
でも絶対に相手からは見捨てられることはないと思いこんでいたのかな。
でも光秀は信長の親ではないし、そんな扱いには耐えられなかったと。
>>381 自分は淀藩の裔だが、知らずにうちに『日向様は名君』と覚えている、
ただ、まあ家康の人気は今一で…(笑。
416 :
日本@名無史さん:02/07/11 03:19
光秀が自分に加勢しようとしない細川忠興・忠利父子を説得しようと自ら書いた書状(6月9日付)には、
今度のことは、細川家らのためであって私心はない、50〜100日のうちには地盤も確立する
そうしたら、息子や忠興に譲って、自分は隠居するつもりである
ということが書かれている
だが、結局、細川父子は光秀に加担しなかった
417 :
日本@名無史さん:02/07/11 03:27
>>408 信長自身は部下の謀反を想像できなかっただろうが、安国寺和尚のように信長の横死を予測していた人もいたぐらいだから、信長の家臣にもそうしたことがイメージできる者はいただろうね
418 :
日本@名無史さん:02/07/11 03:29
安国寺恵ケイの話は信用できるのか?
419 :
日本@名無史さん:02/07/11 03:31
>>418 信長と秀吉について書かれた書状が2通残っているから事実だろう
>>404 >>信長本人の“馬周り部隊”が同行していないので
>馬廻衆は同行してるのでは?本能寺の変で半分ぐらい死んでますが
たしかに、お供していたのは小姓衆であるが、“馬周り部隊”と言うほどの
規模でも体制でもなかったと思える…。信忠ですら千名を超える近習を帯同
していたわけで、信長は個人としての小姓達を僅かに連れていただけ。
421 :
日本@名無史さん:02/07/11 03:45
>>420 信忠も二条御所に立て篭った際の手勢は200名ほどだったらしい
422 :
日本@名無史さん:02/07/11 11:31
明智 光秀 の姓名判断
明智 光秀
●● ●○
812 6 7
総運33○ 自己顕示欲強く、大成功を掴むか非運の人生両極端。社会運強く晩婚傾向。
人運18○ 抜群の積極性で成功をつかむ。面倒見が良く協調性もあり、自立心に富む。
外運15◎ 家庭も人間関係も円満で楽しい人生に。幸運に恵まれます。積極的に。
伏運31◎ 強運の持ち主。
地運13◎ 才知、学芸、弁舌、成功運。
天運20△ 大望を持ちそのために苦労する家柄。
陰陽 □ 悪くはない配列です。
>>417 ということは、信長は家臣(特に信長の身が危険であることを予測できるような
頭のよい家臣からは)から見捨てられていたということなんですね。
人の心をつかむのがうまかったはずの人が晩年ここまで見捨てられるように
なってしまったのは何故なのだろう...。
事前に重臣どもが申し合わせていた。
明智・柴田・羽柴・丹羽・滝川・徳川らの間で秘密会議があった。
光秀「信長ウザいから討っちゃうよ」
秀吉「よし、のった!」
勝家「ではおやかた様亡き後生き残った者が天下人じゃ」
一益「おのおの手加減はいたさぬからな」
家康「わしゃ逃げる」
426 :
日本@名無史さん:02/07/11 15:42
大河ドラマでは
「丹羽が煽ったから」
俺が厨房の頃に聞いた話では、当時光秀が溺愛してた側室がいて、
そいつが子供産んだらしい。
で、顔見てみたら、クロマティみたいな黒人だったんだって。
ほんで、信長の家臣の黒人殺すために謀反したんだってさ。これが、
当時の人々の間の公然の秘密。だから、みんな本能寺の変の真実につ
いては口をつぐんでるんだよ。
428 :
日本@名無史さん:02/07/11 18:31
>>423 人の心をつかむのがうまかったはずの人が晩年ここまで見捨てられるようになってしまったのは何故なのだろう...。
信長による全国の平定の先が見えて、秀吉や家康、光秀など、信長の家臣が成長して、我こそは天下を、と心密かに思うようになったのが大きいかったのだろう.
中でも光秀は、もっとも年長者(正確な年齢は不明だが、秀吉より少なくとも10歳は年上であった)だったので、焦りもあったに違いない.
>>151 つーかさーホントに土岐源氏か?
明智城落城時に光安は自分の子だけ逃がさないで
光秀他の郎党を逃げさせたのか?嘘クセー。
親王任国の守を名乗ったヤツには
大河でショーケンが引き合いに出した新羅三郎義光がいたはず
同時代人には北条常陸守氏繁もいる
佐竹義重が常陸介に叙任していたから、あえて守なんでしょう
今川さんは?上総介を称していたようです。
ぼくも朝廷など守旧派の密謀説が正解じゃないなって思うんだけど、
光秀は信長を殺した後、朝廷に大金贈ったりして謀反が正当なものであることを
認めてもらおうとした、つまり大義名分をでっち上げるための工作を最優先した、
と何かの本で読みました。
はじめっから公卿とつるんでいたのなら、あらためて大義名分を世の中に示す
必要もないと思うんだけど。光秀もまたはめられていたということか。
どうなんだろ。
>>427 信長に黒人の家来がいたなんて知りませんでした。
弥助っていう名前だったそうですねー。びっくり。
信長ってやっぱすごい...。
432 :
日本@名無史さん:02/07/11 22:05
430
だから言ったろ。
信長は、みんなに恨まれてたんだよ。
433 :
日本@名無史さん:02/07/11 22:08
たまたま、光秀が近くにいた。それだけの事。
434 :
日本@名無史さん:02/07/11 22:20
秀吉や家康は、光秀が信長に手をかけるのを待っていたんだと思うね
光秀なら、謀反の後にでも簡単に倒せると踏んでいたのだろう
435 :
日本@名無史さん :02/07/11 22:25
史実通り
436 :
日本@名無史さん:02/07/11 23:02
>>412 >一旦はむかった相手には徹底的に潰したみたいだし
信長はそこまで厳しくないよ。
荒木村重にしても松永久秀にしても、一度目の裏切りは許してる。
柴田勝家にしても、最初は弟の信行についていたのだし。
>>436 そういえば弟の信行のことも最初の裏切りは、母親の助命嘆願により
許していましたね...。
後世に伝わっている残酷で容赦ない権力者としての信長像って
誰かが意図的に作ったものなのだろうか...。
438 :
日本@名無史さん:02/07/11 23:27
一向一揆への容赦ない弾圧とか見ると、残酷で情け容赦ない独裁者だったのは確かだろう
だけど、自分の有能な部下は無条件に信頼していた(もちろん実績の挙げられない者は容赦なく切り捨てたが)
>>438 >自分の有能な部下は無条件に信頼していた
その最たるものが光秀なのでしょうね...。
440 :
日本@名無史さん:02/07/11 23:44
信長が徹底的に潰したのは、浅井、朝倉、武田、一向一揆といった
信長に対して徹底抗戦した勢力だけのように思うけど。
恭順の意を示した相手は、割とあっさり許しているように見えるが。
その跡で裏切ると、今度こそ徹底的にやられるが。
441 :
日本@名無史さん:02/07/11 23:46
>>441 そうだとすると信長が天下をとったら恐ろしいことになったかも...。
でも信長って、差別意識(人種とか身分とかにこだわらない)の
あまりない人だったように思うので、ユダヤ人迫害のようなことは
しなかっただろうし、被差別部落みたいなものも作らなかったんじゃないかなあ
などと思ってみたり。
443 :
日本@名無史さん:02/07/12 00:57
>>440 う〜ん、どうだろう?
若いときの最大の敵・信行陣営の要、柴田勝家・林通勝らを許してるよね。
重大な軍規違反(=北陸陣払い)の秀吉も許してる。
一旦降伏した村重・久秀を許し、
何度反抗した仇敵の「義昭・長島・叡山」も一時的には許している。
でも、叡山・一向衆の殲滅、浅井・朝倉・武田・・村重一族・・
部下の佐久間・林へのしうち、城の女官の仕置き・・・
何か年齢と共に、だんだんと峻烈になっていったような気がする。
444 :
日本@名無史さん:02/07/12 01:07
信長も自分が元気なうちに天下統一をしたくて、次第に余裕がなくなっていったんだろうな
>>444 そうですね。息子たちがあまりできがよくなかった(信長ほどの力があるものがいなかった)
から、自分のいなくなった後のことが心配だったんだろうな。
優秀な抜け目のない部下がたくさんいたし。
446 :
日本@名無史さん:02/07/12 01:17
光秀に攻め殺された長男の信忠の評判は、どの程度のものだったの?
>>446 信長の息子たちの中では一番まともだったと言われているみたいで
彼が生きていれば織田家のその後は違うものになっていたとも言われている
ようです。
でも信長ほどの力はなかったのではないかなあ。
2代目としては一応合格という記述を見たことがあります。
448 :
日本@名無史さん:02/07/12 01:24
>>436,437,440
松永久秀は、部下というより、家康のような同盟相手だし、
信長は久秀の悪徳を面白がっていた節もある。
「人の成しがたき事を...」というのは誉め言葉だと思う。
林は無能な家臣だから、裏切りは決して許されない。
荒木は有能な家臣だから裏切っても使える間は許す。
久秀は有能だし、そもそも裏切りを織込み済みで配下に加えているから
あまり腹も立たなかったのでは?
>>448 有能であるか否か、がとても重要視されていたということですね。
忠実であるか否かよりも。
450 :
日本@名無史さん:02/07/12 01:32
>>448 信長は「カブキ者」を重宝していたんだよね
451 :
日本@名無史さん:02/07/12 01:34
>>449 そこが信長の非凡なところだと思う
凡庸な大将は、無能だが忠実な部下を重んじて実績を挙げられない
結局、明智光秀のような有能な部下に滅ぼされたのは
そういう人選をしてきた信長にとって当然の終わり方だったような気がしてきた。
信長って残酷だとかひどいことしただとか言われているのに
信長のことが好きな人が多い(もちろん嫌いな人もいるけど)のって
何だか不思議。ただの暴君としてではなくて偉大な英雄として
受け止められているのってやっぱり老醜をさらすことなく非業の死を
遂げたからなんだろうなあ。
454 :
日本@名無史さん:02/07/12 01:44
今 の 価 値 観 に 当 て は め る な ヴ ォ ケ
455 :
日本@名無史さん:02/07/12 01:47
信長がいなくても、結局は誰かが天下を統一したかも知れないが、少なくとも秀吉のような人材は埋もれたままだったろうね
>>455 そうですね。既存の価値観や身分などにこだわらずに有能か否かで
家臣を選んだ信長だから秀吉があったわけですよね。
457 :
日本@名無史さん:02/07/12 02:02
>>451 信長は部下に意見を求めることは殆どなかったらしい
つまり、彼にとっての部下の有能さとは、自分が命じたノルマをきちんとこなせるかどうかということ
信長は自分の判断力、洞察力には絶対の自信があったようだ
>>457 >信長は自分の判断力、洞察力には絶対の自信があったようだ
信長の思想を一番理解していたのが光秀→だから誅殺。
信長の思想を次に理解していたのが秀吉→だから模倣・完成。
信長の思想を全然理解していないのが家康→だから生き残った。
>>458 >信長の思想を全然理解していないのが家康→だから生き残った。
↑なんか変。
460 :
日本@名無史さん:02/07/12 07:46
確かに!なんか違う・・・
461 :
名無しの歩き方@お腹いっぱい。:02/07/12 09:18
信長の思想を理解して、反面教師にしたのでは?
家康は武田信玄を模倣しようとしていたし・・・。
井伊の赤備え・軍法なんかそうだしね。
462 :
日本@名無史さん:02/07/12 13:16
>>461 思想として考えるよりも政治的に考えた方が良いと思う。
信長死後の甲信支配のために武田を継承したのだろう。
463 :
日本@名無史さん:02/07/12 13:40
>>458 信長の思想って何?
天下布武と言っているけど、結果として成った江戸幕府と何が違うのだろう。
江戸幕府以上の独裁武家政権を望んだのかな?
>>463 簡単に言うと、信長は中世秩序を完全に破壊し、合理的で
強力な中央集権の重商国家を主宰しようとした。
基本的に、信長は宗教権威・身分秩序を認めなかった。
光秀は中世秩序の中心にある「門閥権威」の破壊を恐れた、
軍事力・経済力の集中化による絶対権力に驚愕した。
秀吉は信長の失敗に学び、朝廷の権威と妥協共存しつつ、
軍事力・経済力の集中による絶対権力を建設しようとした。
家康は、その近世思想を全く理解せず、単純な身分秩序と
軍事独裁による天下人を目指した。理解力は中世秩序から
一歩も出て居らず、頼朝幕府のお色直しに過ぎない。
ある意味「田舎政権の肥大化」であったので延命した。
信長の政治思想は地方分権を認めない中央集権国家
江戸幕府は地方分権国家
信長が生きてたら毛利、上杉、北条も武田と同じように殲滅されたと
思われる
466 :
日本@名無史さん:02/07/12 15:27
あーもう、適当なことばっかり、
小説家みたいなこと言ってるね。
>>464なんて、何も知らない人が見たら
信じちゃうかもしれないほど断定的。
信長という人を変なイメージだけで語らないでくれ。
>>466 464はおかしいのでしょうか?
納得してしまったのですが...。
466さんのお考えは?
468 :
【^−^】ミズー:02/07/12 16:13
結果論ですから必ずしもそうとは言えません。
でも一面では正しいのかもしれませんよ。
徳川家康は、新しいモノ好きで海外貿易とかも
結構やってますし、軍事独裁ってほど集中も
させてません。基本的に安土桃山文化なので
派手派手で我慢な人ってのは、かなり後世の創作
入ってます。もっとも三代目の家光時代までに
寺社、朝廷、諸侯への法整備したことや鎖国政策
に入ったことで秩序維持のイメージが強いのでしょうね。
あと明智光秀が「門閥権威」の破壊を恐れたってのは
違うと思いますよ。比叡山焼き討ちとかでもかなり積極的
ですし(近江領への利権絡みとか実利も)義昭とかもあっさり
見限ってるので。実際には、ほぼ信長と同等な価値観でしょう。
創作物では、信長と対比させる真面目キャラにしがちですが・・・。
469 :
日本@名無史さん:02/07/12 16:16
俺は信長と家康は強力な武家政権を目指していた共通点が革新的に見える一方
豊臣は成り上がり物懐古趣味政権で時代が後退したように思えるな。
470 :
日本@名無史さん:02/07/12 16:22
>>464 江戸幕府が武家政権だからってだけで鎌倉幕府のお色直しとするなら
豊臣は大和朝廷のお色直しかね?(p
>>467 自分も偉そうなことはいえないけどさ・・
>>464の発言を見たら、この人が
如何に信長中心主義者かってのがわかると思うんだよね。
>簡単に言うと、信長は中世秩序を完全に破壊し、合理的で
>強力な中央集権の重商国家を主宰しようとした。
>基本的に、信長は宗教権威・身分秩序を認めなかった。
中世秩序を完全に破壊ってのは、何をもって言ってるのかわからないし、
多分信長以前を良く知らないのではなかろうか。
合理的という言葉も多くの人が使用するが、どこか曖昧。
宗教権威・身分秩序を認めないというのは、
一向一揆やら秀吉抜擢やらから考えたのだろうが、
それをもって「宗教権威・身分秩序を認めない」という結論には達しない。
光秀の件はイメージだけだし、秀吉のところはふつうだが、
家康に関するあたりは普通の人でも変だなあって思わない?
まあ、僕自身偉そうなことをいえる年齢と実績を積んでいないわけで、
信長中心主義みたいなのはやめようと言いたいことをわかっていただければ。
批判するだけなら簡単だな
悪い事だけ言えばいいもんな
司馬の小説なんて全部それだね。
間に受ける奴が馬鹿。
だから、じゃあオマエはどう考えてるんだってことがいいたい。
>>472-475 なになに、一度にまとめて発言してよ。
しかもsageて犬の遠吠えのごとく。
言いたかったことはそれこそ批判だけだから、
確かに自分の発言見てもわかるが、
簡単なことばかりかな。その程度の脳しかないので許してね。
どう考えてるんだっていわれても、
なにかな、信長について?それはスレ違いかもしれないが。
信長についてはっきりとまとめて語るほどの能力を持たないが、
ただ中世と近世の(これも定義づけが簡単ではないが)橋渡し的存在、
戦国期の分裂した日本をまとめる中央政権が成立する基盤を築いた存在、
とこれのみで十分なのではないかと。
それ以外に政策的には特に注目すべきものは見当たらない。
どれも戦国大名が始めて豊臣徳川で完成された政策の中間的なものに思える。
朝廷に関して言えば、信長はもちろん協調路線であることは明確。
本願寺や一向一揆など、ただ信長の天下布武に抵抗したから争ったわけだ。
抵抗していなければ普通に布教など許されているし。
宗教的に何たらとかは特に重視することなし。
身分秩序に関するならば、これもただ有能な人材を抜擢しただけで、
身分に関しては特に他と変わることは行っていないと思える。
それより
>>472-475はどう考えているのだろうか。
478 :
日本@名無史さん:02/07/12 22:02
47、51で言われていたことだが、光秀の家臣はわば外様の集合体であり、尾張衆(いわば信長の近衛兵)もいなかった
これは、光秀と同等の1万余の軍団を率いる信長の家臣(柴田勝家、羽柴秀吉、神戸信孝、滝川一益)の中でも異例の構成であった
さらに勝家や秀吉には目付役(つまり監視係り)の人間が付いていた.また謀反の前科のある松永久秀からは人質をとっていた.
ところが、光秀に対しては、人質を取ったり、あるいは目付け役の人間が付けられた形跡がない.どうやら信長は、光秀に対してだけは、無条件かつ全幅の信頼をおいていたらしいのである.
したがって、信長の家臣の中では、光秀にのみ謀反成功の機会があったことになり、光秀はこれをまんまと活用したにすぎないことになる.
信長の光秀に対する、これほどの信頼は、一体何に基づいていたのだろうか?
479 :
日本@名無史さん:02/07/12 22:35
>>478 おそらく、信長にとって光秀こそが自分の考えを最も良く理解した、もしくは
光秀の解く戦略が自分の指標となったからじゃないかな?
また、信長は近畿周辺を管理するのに、光秀が一番適していると思ってたのかもね。
それに、光秀は何か真面目でつまらない人間のように思われているが、本人自筆の
書状を見ると、けっこう面白くて明るい人物のように思われる。
いろいろな教養や文化にも明るい事からも、細川とならんで信長好みの人物と言えるだろう。
ちなみに、信長の目指した政治体制と家康の行ったそれでは、思想的に相当違うよ。
こんな話をココでするのはどうかと思うくらい。
>>476 君の言う「信長中心主義者」とはどういう者なのだろう、よくわからん(w
ただ君の
>中世と近世の橋渡し的存在、中央政権が成立する基盤を築いた存在と
>これのみで…それ以外に政策的には特に注目すべきものは見当たらない。
この考えには驚いた。
信長の政策は「どれも戦国大名が始めて(いた)」と言うのは短絡的すぎ、
特例境内での楽市や領内関所の集約化等、いくらかの先例があったとしても、
経済基盤全体の合理化を意図した『信長政策の革新性』は失われない。
むしろ大名達にとっても都合の良かった“自治都市”堺の特権を剥奪し、
閉鎖ギルド(座)の巣窟・下京区を焼き払い…幾多の既得権益集団と戦い、
商業都市の新設・街道の整備・水路の開放等と…その諸政策の斬新さは、
中世秩序破壊に最大の効果を果たした【特に注目すべきもの】だと思う。
信長の行った適材適所の人事といい、宗教権威に怯まぬ衝突といい、
彼は中世の枠を大きく逸脱した存在と言える。
後世の徳川政権が『大井川に橋を架けなかった』ことと考え合わせると、
信長の先見性は(>中世と近世の橋渡し的存在 )どころではない。
(ひょっとして、君は釣り師か?)
481 :
日本@名無史さん:02/07/12 23:48
>>478 信長は秀吉や勝家でさえ、心の底では信用していなかったことになる
無条件で信頼できる光秀の軍勢がそばにいたからこそ、信長も信忠もわずかな手勢だけを引き連れて京都の寺に宿泊していたのだろう
その光秀に討たれるとは、信長もさぞかし驚いたことだろう
482 :
日本@名無史さん:02/07/13 00:54
483 :
日本@名無史さん:02/07/13 01:32
>>481 そこまで無条件に光秀を信じていたんだ...。
なんか哀しい...。
484 :
日本@名無史さん:02/07/13 01:42
信長が光秀を家臣の中で一番信頼していたに俺も一票。
どうも、太閤記のイメージからは2人はあまり仲が良くないという印象が強いが、実際はそんなことは無かったと思われ。
ほかの武将が日本中あちらこちらで戦に刈り出されているのに、光秀は畿内の戦が中心で、基本的には手元に置かれている。
光秀を苛めたという話もある意味一番気を使わないという現われかも知れない。
そういう意味では信長と光秀はジュリアスシーザーとブルータスの関係に近いかも。
485 :
日本@名無史さん:02/07/13 01:51
>>484 信長が光秀を苛めたとか、辱めたとかして、光秀が遺恨から謀反したというのは、後世の作り話か、脚色だと思う
むしろ光秀には、信長に遺恨など全くなかったんじゃないか?
純粋に天下人になりたかったんだと思う
そうした野心を信長に悟られずに、絶対の信頼を勝ち得た光秀は、なかなかの人物だったと思う
>>485 でも純粋に天下人になりたかったにしては、
あまりにもつめが甘い行動だったように思う...。
すぐ討ち取られてしまっているし。
頭の良い光秀がそんなに軽率な行動をするとは思えないなあ。
光秀も誰かにだまされていたんじゃないかなあ。
それが誰かはよくわからないけれど...。
487 :
日本@名無史さん:02/07/13 02:02
>>478 一番有能で信頼を置いている部下こそ、最も危険だということだね
単純に鬱積してただけだと思うがな
489 :
日向守様家来:02/07/13 02:06
当家の口伝によると、
日向守は天子様の命により、信長様親子を誅討した。
しかし日向守の言ふやう
大恩ある右府様を討取つたる当家がこの後栄へれば、
再び下克上の世が顕れ乱世にならないとも限らない。
また大恩ある右府様に朝敵の名をお被せすることは
耐へ難く、天子様のお為にもならず。
ただ、ただ当家が納まれば済む事。 郎党ら皆結定す。
御謀反を果たした後、積年の朋輩衆に人を遣り、口説にて
与力無用と伝へたと言ふ。
490 :
日本@名無史さん:02/07/13 02:08
>>486 最大の誤算は娘が嫁いでいた子分とも言える細川父子の協力が得られなかったことだろうね
さすがの光秀もそこまでは読めなかったんだろう
また光秀は、畿内の大名が、自分に加勢すると楽観的に考えていたのではないか?
光秀は、自分の政治力や人脈に自信を持ち過ぎていたのではないだろうか?
>>490 光秀も過信していたということか...。
信長も光秀もすごく用心深そうな印象があるのに
過信ってこわいな。
492 :
日本@名無史さん:02/07/13 02:29
光秀は「軍人」とか「官僚」としては一流であっても、政治家としては無能だったのかも知れない。
政治家であれべ、根回しとか陰謀なども必要だが、どうも彼の性格からはそういう面はうかがえない。
おそらくそういう面は足利義昭擁立や丹波攻略などでも細川藤孝がカバーもしくは担当していたのだろう。
その細川が信長襲撃を知っていながら土壇場で裏切ったのか、そもそも光秀が過信して細川抜きで行動したのかは、
もはや真相は不明ではあるが、結局細川の協力を得られない時点で彼の運命は決まったのだろう。
493 :
日本@名無史さん:02/07/13 02:41
>>492 細川藤孝には、使者を送るだけでなく、直筆の手紙まで書いて協力を求めているね
どうしても助太刀して欲しかったんだろうな
>>おみくじが「凶」だったから。
495 :
日本@名無史さん:02/07/13 02:55
>>492 信長が光秀を無条件に信頼、もしくは無警戒だったのは、光秀の政治能力のなさ故だったのかも知れない
光秀なら単独で根回ししたり、陰謀を巡らせたりできない、したがって謀反は絶対にあり得ないと
496 :
日本@名無史さん:02/07/13 03:04
>>492 >その細川が信長襲撃を知っていながら土壇場で裏切ったのか、
>そもそも光秀が過信して細川抜きで行動したのかは、 もはや真相は不明ではあるが、
光秀が過信していなかったとしたら、
事前に細川藤孝に相談して、協力が取りつけられれば謀反するが、
細川藤孝に反対されれば謀反を中止する、ということになる。
光秀は冷静に、自己を過信せずに、そうすべきだったのだろうか?
交渉で時間を取られてチャンスを逃すと元も子も無いから、
いっそ普段から細川藤孝と信長抹殺について交渉しておくべきだったのだろうか?
その場合、細川藤孝が謀反を信長に密告しないのは何故だろうか?
光秀がそこまで細川藤孝を信用する理由はなんだるうか?
そもそも、細川藤孝は、天下を望むわけではなく、信義に厚い訳でもない。
(半分後知恵だが、義昭を二人して見限ってるわけだし)
自分と家名が残れば良い日和見の利己主義者なのだから、
信長抹殺という賭けをともに謀る相手ではない。
497 :
日本@名無史さん:02/07/13 03:05
>>492 本能寺の変後に光秀が細川父子にあてた直筆の手紙が細川家に残っているが、その文面を見る限りでは、事前に相談があったようには思えないね
>その場合、細川藤孝が謀反を信長に密告しないのは何故だろうか?
信長たんの性格上、藤孝も与党とみなされて一緒にあぼーんされかねないから
499 :
日本@名無史さん:02/07/13 03:24
細川藤孝は光秀と行動を共にしたかったのかも知れないが、息子の忠興は信長に心酔していたと言われる
藤孝が光秀に協力しなかったのは忠興の意向が強く働いていたのではないか?
500 :
日本@名無史さん:02/07/13 03:36
光秀の謀反が天下人を望んだからだとすると、後世になぜ信長との遺恨説が流布されたのか?
もちろん、光秀本人が動機を明確にしていないことが大きいが、野心から出た謀反となってしまうと、秀吉や家康が天下を取ったのは何故なのかという問題に発展しかねない
結局、個人的な些細な動機ということで、光秀をことさら小心で無能な悪党に仕立てあげる意図があったのだろう
一番得をしたやつが一番あやしいだろ。つまり猿。
502 :
日本@名無史さん:02/07/13 03:50
あと光秀が過信していたとしたら、軍人としての力量であろう
確かに、光秀の軍勢は、突発的な謀反にもかかわらず、整然と行動していたし、一人の離反者や寝返る者もいなかったと言われる
数の上で圧倒的に劣勢な山崎の合戦でも、序盤はよく持ちこたえていた
数で同等の軍勢さえあれば、秀吉を撃ち破るなどたやすいことと考えていたのだろう
八切史観支持。
504 :
日本@名無史さん:02/07/13 04:31
謀反の真の動機は、桂川を渡った直後に全軍に出されたという
「今日からわが殿が天下様にお成りになるので、下々草履取りに至まで勇むように」が雄弁に物語っていると思われる
505 :
日本@名無史さん:02/07/13 04:32
>>504 「今日からわが殿が天下様にお成りになるので、下々草履取りに至るまで勇むように」
私は単純に、
1.最初は信長を偉いと思った。
2.そのうちになんと残酷なとんでもないやつと思うようになった。
3.許せない。。。
と思います。人間なんてそんなものです。会社組織、政治家の世界
誤解と嫉妬の連続です。
507 :
日本@名無史さん:02/07/13 08:52
皆が信長に疲れていた。
508 :
日本@名無史さん:02/07/13 11:18
光秀は信長に個人的な恨みは恐らくなかったと思われる
でも、信長父子に代わって自分が天下を取った方がまだマシと思ったのは間違いない
信長を見限るようになったきっかけは何だんだろうか?
509 :
名無しの歩き方@お腹いっぱい。:02/07/13 11:34
>>508 1延暦寺焼き討ち
2朝廷への干渉
3林・佐久間追放
4武田征伐時の処分
5足利将軍家への処遇
どれかな?まだあるとは思うけど。
>>508 信長のあとを継ぐであろう息子たちがあほそうだったから
いずれにしても織田家は信長の代でつぶれるだろう、そうであれば
私が天下を!と思ったとか?
信長が自然と死ぬまで待つには光秀は年だったから
ちょうどいい時期と思って本能寺で信長を殺したとか?
511 :
日本@名無史さん:02/07/13 12:40
皆深く考え過ぎじゃないか?
しかし、それが歴史を語る楽しみだけどね
512 :
日本@名無史さん :02/07/13 12:59
光秀たんに聞かないとわかんないね
514 :
日本@名無史さん:02/07/13 14:56
>>463 まったく素人ですが自分なりの信長観でもあります。
寄せ集めでない優秀なタレントによる日本の政治統一と長期的には一元化。イエスマンにのみよらない文化革命的官僚組織。(たぶん)通商に役立つ商業開放と基盤構築(江戸幕府のような封建的な道路統制はあまりしない一方、村落共同体には徐々に干渉する)
こういった指向はあったように思います。
>>509 信長の長曽我部政策が転換し羽柴秀吉との代理戦争に負け政治的地位が衰えた
仏教・キリスト教の代理戦争
>細川が信長襲撃を知っていながら土壇場で裏切ったのか
と書いたのはもちろん「本能寺の変」自体を相談したとはもちろん考えにくい。
ただ、当時は織田家では林、佐久間、荒木などが次々に粛清されていたので、半分雑談で光秀と細川は
「もしわれらのどちらかもしくは両方が信長の機嫌を損ねたらどうするか」くらいは話をしていたんじゃないか、と思うんだよね。
で、その時「われらは一身同体。その時はともに討ち死にしよう」なんて話をしたかも知れない。
が、人のいい光秀はそれを真面目に受け取り、一方したたかな細川は…
光秀の細川への「泣き言書状」はそんないきさつがあるのかと。
518 :
日本@名無史さん:02/07/13 19:41
>>474 あなたより司馬遼太郎の情報収集力、判断力を買いますが 何か?
>517
>「もしわれらのどちらかもしくは両方が信長の機嫌を損ねたらどうするか」くらいは話をしていたんじゃないか、と
>思うんだよね。で、その時「われらは一身同体。その時はともに討ち死にしよう」なんて話をしたかも知れない。
小説家的な想像だけど、一方そのぐらいの雑談、あっても当たり前だよな・・
面白い!
520 :
日本@名無史さん:02/07/13 20:59
521 :
日本@名無史さん:02/07/13 21:46
光秀の謀反
ポルトガルとかとの密約でもあったとか・・・
522 :
日本@名無史さん:02/07/13 21:52
柴田勝家が黒幕。
昔一緒に信長に喧嘩売ったメンツが追放されてびびったから。
って事はないわな。
523 :
日本@名無史さん:02/07/13 22:50
509 :名無しの歩き方@お腹いっぱい。 :02/07/13 11:34
>>508 1延暦寺焼き討ち
2朝廷への干渉
3林・佐久間追放
4武田征伐時の処分
5足利将軍家への処遇
これは、どれも光秀が深く関与した政策だと思われる
延暦寺の焼き討ちでは光秀は実行部隊の中心人物だったし、義昭が信長に反旗をうるがえした時は、信長側について攻撃して、追放に一役かっている
光秀が信長に不満や不信を抱いたとしたら、信長が光秀などごく一部の信頼できる側近に披瀝したであろう、天下統一後のビジョンではなかったのか?
524 :
日本@名無史さん:02/07/13 23:04
信長が光秀らごく一部の側近に「披瀝したであろう」「天下統一後のビジョンが気に食わなかった」
ってIFにIFを重ねたのでは根拠としては乏しすぎる。
525 :
日本@名無史さん:02/07/13 23:05
526 :
日本@名無史さん:02/07/13 23:06
>>523 多分、イエズス会をバックとした大陸進出を、皆が危惧
したんたろうな。
秀吉は、禁教のうえでそれを行ったから失敗したんだ。
527 :
日本@名無史さん:02/07/13 23:07
やっぱり誠仁親王説が説得力あるね。
528 :
日本@名無史さん:02/07/13 23:08
>>523 3林・佐久間追放は違うぞ。
綱紀の引き締めだ。
むしろ、家臣に動揺を与えている。
529 :
日本@名無史さん:02/07/13 23:11
>>526 秀吉の朝鮮出兵は、信長の遺志を継いだものだったのか?
530 :
日本@名無史さん:02/07/13 23:13
信長が天下統一した後何をするつもりだったのかは
具体的にはわかってないからなんとも言えないね。
531 :
日本@名無史さん:02/07/13 23:22
信長の野望
この世の権威全ての支配、
朝廷を裏で動かし、
信長に逆らう者を朝敵とし、
天下統一。
後は海外遠征
世界統一
532 :
日本@名無史さん:02/07/13 23:26
>>531 信長の果てしない野望に、真面目な文化人でもある光秀が怖れを成したという可能性はあるな
533 :
日本@名無史さん:02/07/13 23:30
佐久間が改易されたのは彼の領土が尾張、美濃、伊勢、近江、摂津とばらばらで、
織田の軍制的に素早い編成ができなくて邪魔だから、と言う話を聞いたことがあるが…
そのへんの大名植え替え政策みたいのもからんでるんじゃないの?
石見の話とか
534 :
日本@名無史さん:02/07/13 23:31
ちょっと違う話題になるのですが、「敵は本能寺にあり」というのは本当に言ったことなのですか?どこかに原本があるのでしょうか?
535 :
日本@名無史さん:02/07/13 23:33
>>534 「敵は本能寺にあり」の出典はよく分からないですね
後世の脚色なのではないでしょうか?
536 :
日本@名無史さん:02/07/13 23:36
そういえば信長は近衛師団みたいなものを作らなかったんだろうか。
光秀がそんな感じもするが、それほそ信頼していたのだろうか?
537 :
日本@名無史さん:02/07/13 23:40
>>536 信長の近衛師団というと尾張衆だね
秀吉や勝家など家臣の軍団にはことごとく尾張衆が入っており、監視の目付役も送り込まれていたので、謀反のチャンスすらなかったと言える
だが、光秀の軍団には、尾張衆も目付役もいなかった
信長は、それだけ、光秀を信頼し、かつ警戒していなかったことになる
538 :
日本@名無史さん:02/07/13 23:43
539 :
日本@名無史さん:02/07/14 00:11
>>537 信長が美濃に主城を移して、岐阜と呼ばせるようになってから、
本格的に『天下布武』を企画しだした。
信長の近衛師団は、信長を理解しようとする『子飼いの武将』であって
尾張に執着する譜代武将ではないよ。
織田家の(土着)宿老連中にはむしろ敵意を持っていたと思われ。
540 :
日本@名無史さん:02/07/14 00:22
>>540 信長が、光秀を最も信頼できる、あるいは警戒する必要のない家臣と見ていたのは確かだと思うのだが、どうでしょう?
結構、色々な本読んで その中に 面白い事が書いてあったよ
それは 本能寺の変 自体 信長の狂言だったと
近畿周辺の武将達が 本気で思ってた 節があると言う事。
皆 ビビッテたと思う 信長の猜疑心を
542 :
日本@名無史さん:02/07/14 00:42
以外と信長は人を簡単に信じるタイプだったのでは?
だがそういう人間って、裏切られた時は凄い。
信じていたのにーよくもって感じによくなる。
だから浅井を簡単に信じ、そして裏切られた時は酷い仕打ちをしたと。
543 :
日本@名無史さん:02/07/14 00:44
素人ですが私は
光秀No2説を主張したい
信長亡き後の軍団長の行動を見るに、彼らは信長には従っていたが
織田家にはなんの忠誠心もなかったと思われる
彼らは特別な序列の関係であったのではないだろうか?
(それは当時普通の人々には理解できなかったし
また秀吉も光秀と同じ気持ちであったのを隠す為
後世に謀反の理由がいろいろ創作されたのでは?)
たとえば事故で信長が死ねばNo2の光秀がNo1になるという意識があったのだろう
ただ謀反となると微妙であるが現代風に言えば
「本社でクーデターが起きても幹部が現場へ出払ってればなにも出来ない
戻ってくるまでに足元を固めてしまえば彼らは後で追認するしかない」
そんな気持ちではないだろうか
544 :
日本@名無史さん:02/07/14 00:51
そうかなぁ。
信長のいない織田家に忠誠心が無いなら、
三法師を担いだ秀吉に従う必要も無くなるじゃないか。
ってか、秀吉が三法師を担ぐ理由も無くなる。
545 :
日本@名無史さん:02/07/14 01:01
俺はミッちゃん切れた説はどうも可能性として低いと思うな。
仕えてすぐなら分かるけど、長年連れ添った主君なら、
仕方ないなと諦めがつく、人間慣れだし、ストレスがたまり続けるのも分かるが、
何らかの発散方法を見つけてなんとかするもんだ。
それに万単位の軍団長っていったらそれだけでかなり責任重大だ。
そのストレスに耐え出世を目指した人物が、簡単に切れるとは考えられない。
私は野望説辺りが可能性として高いと思うんだが。
546 :
日本@名無史さん:02/07/14 01:02
光秀が近衛師団だとか言ってるけど、
実際信長と光秀が一緒に行動しているのはどれだけあるかな。
近江衆(蒲生とか)が強いてあげればこれに値すると思うな。
馬廻り衆(堀・菅屋・長谷川とか)は親衛隊とでも表現すべきなのかな?
あまり近現代用語のほうがわからなかったりする・・・。
もちろん信長は光秀を信頼していたとは思うよ(一番かどうかは知らん)。
彼の軍団の特質は室町幕府とのつながりで考えるべきでは。
幕府関係者が配下に多く存在する(細川も含めて)。
547 :
日本@名無史さん:02/07/14 01:05
光秀は、信長の自分に対する信頼が厚く、警戒していないことをよくわきまえていたと思う
行動そのものは突発的だが、クーデター計画そのものは、かなり以前から考えていたに違いない
彼なりに十分に成算のある冷静な行動だったのだろう
結果的に計算が色々と狂って、三日天下に終わるとは夢想だにしていなかったと思われる
548 :
日本@名無史さん:02/07/14 01:08
昭和の軍部のように配下が暴走して、光秀が事後承認したって説はないかな。
549 :
日本@名無史さん:02/07/14 01:09
朝廷陰謀説はどうよ?
馬廻り衆=主君直属の護衛部隊だからいわゆる親衛隊やろね 各武将が兵をもって主君に仕えるってのが普通やから
近代の近衛部隊って考えはあまりないんじゃない?
陰謀好きのお公家さんはたくさんいたけどさすがに
それはないと思うよ>549
552 :
日本@名無史さん:02/07/14 01:13
>>546 彼の軍団の特質は室町幕府とのつながりで考えるべきでは。 幕府関係者が配下に多く存在する(細川も含めて)。
光秀のクーデターは、畿内の幕府関係者が天下を治めるべき、というエリート意識が強く働いていたのかも知れない
553 :
日本@名無史さん:02/07/14 01:17
>>548 配下が暴走して、全軍(1万3000人)が整然と京都へ進軍できるか?
554 :
日本@名無史さん:02/07/14 01:22
光秀は幕臣というほど足利幕府とは関係が深くないんじゃない?
絶対的忠誠は誓ってなくて心情的に同情してたってとこかな
>554
556 :
日本@名無史さん:02/07/14 01:29
>>554 細川藤孝を始め、室町幕府関係者とのつながりは強かったと思うよ
細川と光秀は、足利義昭を見限って、信長に付く時も行動を共にしているし、畿内の主要な戦闘でも常に一緒に行動していた
信長も光秀や藤孝なくしては、畿内を治めることは難しかっただろう
557 :
日本@名無史さん:02/07/14 01:36
558 :
日本@名無史さん:02/07/14 03:11
信長には子供が24人もいたというね
もちろん正室以外に多数の側室がいた(多くは氏名すら不明だが)
案外女性関係のもつれなんてことはないのかな?
559 :
日本@名無史さん:02/07/14 03:12
狡兎死して走狗煮らる 飛鳥尽きて良弓蔵わる
創業の功臣は結構つらい。
本能寺がなくても、どうせ一悶着あっただろうね
織田家中は。結構ほっとしたんじゃない、勝家や秀吉は。
皇室は武士政権に唯々諾々の飾り物って通説は間違ってると思う
でも当時の関係者で光秀方を操る又はそそのかせるほどの人物はいなかったかと
もちろん継続は力なりの論法でいろいろ泳ぎまくる関係者はいたと思う
ただ信長を排除するメリットはなかったどろうし(建て前は皇室崇拝者だったので)
だから朝廷陰謀説は薄いと思う
>557
561 :
日本@名無史さん:02/07/14 05:04
>>529 秀吉は、既に天正十三年の時点で大陸進出を
語っているんだぜ。
天下統一後の余剰兵力の解消説は、結果論であって、
幻想だ。
562 :
日本@名無史さん:02/07/14 07:42
563 :
誠仁親王黒幕説支持者:02/07/14 09:36
>>560 吉田兼和(兼見)は光秀と長い交流があるよ。
あと光秀は勤王派、
信長に関しては、朝廷関係資料
(日記等)を見ると、朝廷を裏で操ろうと
暗躍する信長の一面を見る事が出来る。
564 :
日本@名無史さん:02/07/14 10:25
反町の信長 カコイイ
565 :
日本@名無史さん:02/07/14 12:47
光秀と足利幕府の関係は深い。
初期の頃は、幕府と織田家の双方から知行を得ていた。
そのうち織田オンリーになるけどね。
566 :
日本@名無史さん:02/07/14 13:13
>>563 朝廷を信長が操ろうと(この表現でいいのか?)したからといって、
それに対して朝廷が必ずしも嫌悪感を抱くとは言い切れない。
当時の権力者に追従するのが朝廷の姿であるし、
信長の影響力が強まればむしろ喜んでいたかもしれない。
567 :
誠仁親王黒幕説支持者:02/07/14 13:27
>>566 たしかに正親町天皇はその路線だった事が証明されている
(お湯殿の上の日記には譲位に従う意向が)
しかし誠仁親王は反対している。
三職推任に関しては信長に警戒され直筆で消息を書かされている。
568 :
日本@名無史さん:02/07/14 13:36
>>567 またまた、誰の受け売り?
自分で確認したの?
569 :
日本@名無史さん:02/07/14 13:52
譲位がなって誠仁が即位することが信長の意向。
となるとなぜ誠仁がこれに反対するわけ?
むしろ喜ばなければならないはずでは。
「このままでは信長の操り人形になってしまうから」
というのはまったく話になってない。
当時の天皇がどのような存在であったかを考えれば、
その意味はすぐわかるはず。
570 :
日本@名無史さん:02/07/14 14:13
>>569 たしかに誠仁即位は信長の意向だが、続きがある。
もう既に誠仁親王の後継者も信長の意向で決まっている五宮道勝である。
五宮とは誠仁親王の五男であるが信長の猶子でもある。
三職推任時には文字どおり誠仁親王を“どうにでも”出来たのである。
571 :
日本@名無史さん:02/07/14 14:27
>>570 その五宮が立太子して、将来即位したら、
信長が上皇に准ぜられるかもしれないね。
となると誠仁は別の皇子を皇太子にしようとしていた動きがあるはず。
するとその皇子とは誰なのか?当時この動きは記録されていたのか?
信長死後に五宮はどうなったのか、実際に即位したのは誰だったか。
このあたりを検証してみれば、また新たな本能寺の変が見えてくるに違いない。
>後世に伝わっている残酷で容赦ない権力者としての信長像って
誰かが意図的に作ったものなのだろうか...。
記憶に御座いません
573 :
日本@名無史さん:02/07/14 15:25
>後世に伝わっている残酷で容赦ない権力者としての信長像って
誰かが意図的に作ったものなのだろうか...。
記憶に御座いません
575 :
日本@名無史さん:02/07/14 16:52
>>564 信長は色白の好男子だったらしいね
反町は肌の色が黒すぎるな
576 :
日本@名無史さん:02/07/14 18:23
>>573 太政天皇と上皇は同じじゃないの?
いやいやそもそも太政じゃなくて太上だったはず・・・。
太上天皇=上皇だよ。
577 :
日本@名無史さん:02/07/14 23:52
准太上天皇なら、光源氏
画策して失敗は、足利義満
似たようなのは、北条時政
外戚の祖父が高位高官をうるのは、いかにも中世的。
この時代まで下ると、ちょっと想像つかないなー。
578 :
日本@名無史さん:02/07/15 01:41
>>61さんの見て思いついた自分の勝手な想像ですが
信長がその当時、光秀、秀吉を信頼してたとして、信長は日本に飽きて他国に
見たり移りたいとします。自分を殺したことにして下野したっかったとか・・
光秀には(天海説を採用して)家康にその後のことを頼んでおいて
秀吉にはその後のこと色々指示したり(清洲会議、葬儀等)
そして自分は晴れて自由の身好き勝手にいろんな国にいける
でもこうなると光秀は真の忠臣!?イメージが・・
自分の勝ってな想像ですいません
579 :
日本@名無史さん:02/07/15 01:59
光秀の謀反の動機が謎めいているのは、彼の前半生がベールに包まれていることも大きいと思う
やはり謀反後に光秀関係の記録文書で闇に葬りさられたものって多いんだろうか?
580 :
日本@名無史さん:02/07/15 02:09
一応、本能寺関係の記録文書は残ってるものもある。
例えば、本能寺の変の朝廷、幕府黒幕説とかあるけど、その根拠になっているのは
越後上杉家にある文書。その中に、本能寺の変の前後に光秀からの使者が来たという記述がある。
そして、その日付が本能寺の変か起こってから光秀が出したにしては早く着きすぎているというので
突発説を否定する論拠になっている。
しかし、逆に日付が間違っているという指摘もあり(俺も良く分からんがその時いなかった
はずの人が出てきているとか)決着がつきにくい。
また、根来衆にあてた文書も残っている。
光秀の前半生については、記録が消されたということよりも、江戸時代に
武士階級がありもしない家系図を捏造させたことが問題を分かりにくくしていると思う。
例えば、坂本竜馬って明智光秀の従兄弟の左馬之助の末裔ということになっている
らしい。
まぁ、長曾我部とは関係が深かったからあながち否定できないけどね。
581 :
日本@名無史さん:02/07/15 03:09
>>578 新たに架空小説ができそうですね。
小説にするとしたら、信忠の存在をどうするかとか
本当は家康を次ぎの後継者にするはずが、
秀吉はそんなこと知らずに、がんばってしまい。
あわてて秀吉を叩くが、それにもめげず勝っていく
しかし最後にどうにか家康の天下。
こんなストーリーはどうでしょう?
582 :
日本@名無史さん:02/07/15 04:29
>>582 丁寧なレスどうも有り難うございます
光秀は生年すらも確かなことは不明なんですよね
これほど知名度の高い、家柄もそこそこの戦国武将にしては珍しいことのように思います
583 :
日本@名無史さん:02/07/15 05:14
>582
580ですが、私へのレスだったのだと仮定してレスします。
出生は家系図(信頼できるもの)でも二通りあります。
さらに出生地は、まぁ、東濃(ローカルですか?出身地なので。一応、岐阜と
長野の県境付近のことです)であることはほぼ間違いないようなのですが、
それでも、明智町の辺りという説や妻木の方ではないのかとか、色々説があるようです。
光秀は個人的に好きなので、「歴史群像シリーズ」とかで出るのをまっていたら
それとは違うシリーズのものを最近発見しました。ちょっと手元に無いので分かりませんが
なかなか面白い内容であったと思います。
584 :
日本@名無史さん:02/07/15 19:14
連歌を詠んだりするなど、信長の家臣では異色の文化的素養も持ち合わせた武将であった
そこを信長に高く評価されていたようだね
585 :
日本@名無史さん:02/07/15 20:32
『当代記』によれば光秀の実年齢は山崎合戦に敗れた時で67歳だというから、
信長に仕えた時はすでに50過ぎのジジイ。
佐久間・林など譜代の重臣が年を取ったあとで追放されていくのを見て、
ジジイ魂に火がついたんだろう。
「おのれ若造、ジジイをなめるんじゃねい」
これが謀反の真相ね。
586 :
日本@名無史さん:02/07/15 20:40
逃げ足が速いと言われてた信長が、本能寺を抜け出すことなく
素直に自害したなんてて考えにくいなあ。
でも逃げようとして本能寺の外で殺されたとすれば遺体が残っただろうし
何か隠された事実があるような気がする...。
信長を本当に消した人物は光秀じゃないんじゃないかな...。
587 :
日本@名無史さん:02/07/15 22:57
遺体も確認されていないのに、なぜ信長の死を家臣や世間はあっさりと認めてしまったんだろう?
588 :
日本@名無史さん:02/07/15 23:14
>>587 確かに、おかしいよね。遺体が見つからなかった、ってもしかして
作り話かも...。信長の権威を落とさないための、あるいは
それ以外の理由の。
589 :
日本@名無史さん:02/07/15 23:39
一応
1.消失説
信長の遺体は骨も残らなかったと云う説
2.信長の首級を隠した
配下が発見されない場所に隠した説(信長の遺言で)
3.光秀本人が隠した
信長を見つけるが信長本人のなんらかの言葉により、
自分の愚かさを思い知り、自ら隠した説
4.信長、鹿児島に逃れる説
船で鹿児島まで逃れるが火傷が元で数カ月後死亡した説
これくらいかな?
590 :
日本@名無史さん:02/07/15 23:43
伊賀衆が持ち帰って八つ裂きにしますた
591 :
日本@名無史さん:02/07/15 23:59
>>589 いろんな説があるんですね。
信長の最期っていつも潔く逃げようともせずに自害してように
描かれているけれど、きっと本当はじたばた最後まで逃げようと
画策したんじゃないかなあと思う。
592 :
日本@名無史さん:02/07/16 00:01
不思議でならんのは安徳天皇も真田信繁も鹿児島へ逃れたって話があるよね
どーしていつも鹿児島な訳だ?
593 :
日本@名無史さん:02/07/16 00:05
鹿児島というと西郷隆盛が西南戦争の後、ロシアに亡命したって噂があるんだけど
当時はかなり信じられていたらしく。
後にロシア皇太子が来日の際、日本国民がその船に西郷が乗っているって
デマがとんだらしい。
その来日の時に大津事件が起るのだが
594 :
日本@名無史さん:02/07/16 00:27
鹿児島って武士が多い県だったみたいだし、一種独特の場所だったんだろうなー。
南端にあってあたたかいし、何だか生き延びることができそうな場所に
思えたのかも。だから色んな言い伝えが残っているのかな。
595 :
日本@名無史さん:02/07/16 00:30
何故鹿児島遁走説が多いのか?
戦国末期〜江戸時代にかけて
薩摩には様々な隠された記録等が多いと云うのがある。
事実、江戸時代にも琉球との貿易の事実を隠していたり、
胡散臭い事が多いなか、疑わしい文章が発見されたりした中に、
ある人を匿ったと思わせる文章があったりした事が由来。
596 :
日本@名無史さん:02/07/16 00:34
>>591 本能寺は光秀軍に攻められた時刻が卯の刻(午前5時から7時の間)とされる
明け方といってもすでに日は昇っていて、かなり明るかったはず
1万余の光秀軍に取り囲まれては、アリの這い出る隙間もなかったであろう
信長は「即時に」(恐らく30分程度)討ち死にしたと公家の日記などにも記されているので、逃げる間もなく観念して自害したのだろう
光秀は、必死に信長や二条御所で討ち取った信忠の遺骸を捜索させたが、結局どちらも発見できなかった
本能寺も二条御所も火が出て全焼してしまったことが、身元確認を難しくした
当時は歯形による鑑定も出来なかったから、焼死体の身元を割り出すのは、ほとんど不可能だったんだろうな
597 :
日本@名無史さん:02/07/16 00:35
>>595 鹿児島弁が非常に他地域と違って非常に癖がある(純粋な鹿児島弁って他の地域の人が聞くと
外国語のように聞こえるらしい)のもそういった事情が関係しているのかも。
598 :
日本@名無史さん:02/07/16 00:37
鹿児島ってのは遠くにというのを、掛けているのかも。
599 :
日本@名無史さん:02/07/16 00:40
600 :
日本@名無史さん:02/07/16 00:43
畿内の大名が光秀に協力的でなかった一つの理由に、信長の遺体が確認されていない、つまり信長が逃げ延びて生きているかも知れない、という不安が大きかったというのもあったらしい
光秀にとって、謀反は成功したものの、信長(や信忠)の遺体を確認して、世間に示せなかったことは大きな誤算だったようだ
601 :
日本@名無史さん:02/07/16 00:49
>>587 遺体も確認されていないのに、信長の死が意外にあっさりと受け入れられたのは、信長に生きていて欲しいという願望が、家臣や世間に余りなかったことの表れのような気もする
602 :
日本@名無史さん:02/07/16 00:51
>>600 >畿内の大名が光秀に協力的でなかった一つの理由に、
>信長の遺体が確認されていない、つまり信長が逃げ延びて生きているかも
>知れない、という不安が大きかったというのもあったらしい
そうだとすると、信長はともかく信忠の遺体も見つからなかったのって
とても意図的なものを感じてしまう...。光秀に天下をとらせるつもりが
なかった誰かの意図...。誰だろう??
>>595 琉球は薩摩の属領扱い。何があってもおかしくない。
薩摩がやっていたのは密貿易ではなく、長崎会所、琉球経由の貿易。
ただ、内容はかなり胡散臭いものだったらしい
・規制があったがざるだった
・薩摩が独自に交易物(海産物)を北国から仕入れることもあった
604 :
日本@名無史さん:02/07/16 00:53
光秀が大軍で襲ったのなら、万に一つの間違いもなかろうて
605 :
誠仁親王黒幕説:02/07/16 01:09
本能寺以後の誠仁親王、光秀
吉田兼和を通じて誠仁親王と関係を深める光秀だが、
実質、今上天皇と呼ばれながらも未だに親王の地位に甘んじていた誠仁親王は勅を使う事もできず、
光秀を朝廷守護にするに留まる。
そして大儀を掴む間も無く秀吉が山崎に到着、
606 :
日本@名無史さん:02/07/16 01:21
>>596 >本能寺は光秀軍に攻められた時刻が卯の刻(午前5時から7時の間)とされる
6月の京都のその時間ならもうすっかり日も昇っていますね。
本能寺の変って夜中のまだ暗いうちに起こったのかと思っていました。
光秀は明るくなるまでずっと謀反を起こすかどうか悩んでいたのだろうか...。
それとも明るくなってから襲った方が確実に信長を倒せると思って
朝になるのを待って襲ったのだろうか...。
信長が早起きな人だったらよかったのになと思ってみたり。
607 :
日本@名無史さん:02/07/16 01:47
信長公は早起きな人でしたが、何か?
で、あるか。
609 :
日本@名無史さん:02/07/16 02:13
早起きなら5時ごろには起きていると思う。
610 :
日本@名無史さん:02/07/16 02:33
犬、さらばじゃ
光秀
わしは、まだ起きんぞ。
612 :
日本@名無史さん:02/07/16 06:58
なぜ前日?に謀反宣言(時は今 雨のしたたる 五月かな)したのですか?
することによるメリットってありますか?チクられたら終りですよね
教えて
613 :
日本@名無史さん:02/07/16 09:27
>>612 多分光秀だけじゃなくてその場にいた誰もが既に信長のことを邪魔だと思い始めていて
だから謀反宣言しても誰もチクったりしなかったんだろう。
宣言することで自ら鼓舞して実行する力にしたんじゃないかな。
それだけ光秀にとって勇気のいる行動だったのだと思う。
614 :
日本@名無史さん :02/07/16 10:34
天才とは概念を創造する者である
by 哲学者デ・アルカ
615 :
日本@名無史さん:02/07/16 10:38
今日もさわやかな
デ、アルカ。が出ますた
616 :
日本@名無史さん:02/07/16 14:12
>>609 ルイス・フロイスの日本史では、
信長は起きて、顔を洗い終えたところだった、という
記述がある。
まぁ明るい方が攻めやすいわな
618 :
コギャル&中高生:02/07/16 14:54
619 :
日本@名無史さん:02/07/16 14:58
>>616 うわわん。起きぬけを襲われたのか...。不憫だ...。
620 :
日本@名無史さん:02/07/16 18:51
622 :
日本@名無史さん:02/07/16 19:08
623 :
日本@名無史さん:02/07/16 19:11
624 :
日本@名無史さん:02/07/16 23:25
なぜじゃ?皆の者、意見を述べてみよ
蘭丸との最中に襲われたのじゃ
626 :
日本@名無史さん:02/07/17 00:04
本能寺の変、ではなくて、本能寺の蘭
で、あるか?
627 :
日本@名無史さん:02/07/17 00:34
蘭丸の首はみつかったんだっけ?
628 :
日本@名無史さん:02/07/17 00:36
入浴中に襲われたのは、太田道灌。 合掌。
でも、厠でしかも人違いで殺された某大名さんの最期の方が、涙を誘う。
629 :
日本@名無史さん:02/07/17 01:01
>2
>正親天皇から「密詔」が下された。
これはありえないだろ。変後、光秀が出した文書にそういった記述がみられない。
普通、密勅受けたら決起文にそのこと書くだろ。
朝廷が信長討たせる理由もみつからんし。
630 :
日本@名無史さん:02/07/17 01:08
光秀の居城であった亀山城から本能寺まで約15キロある
光秀軍は1日の夜に亀山城を出発、途中で休憩してから京都に進軍した
休憩も入れて、少なくとも6、7時間は要したと思われる
本能寺襲撃が卯の刻(5時頃)とされるので、亀山城出発は夜10時頃だったか?
それにしても、1万3千の大軍の進撃が、よく気付かれなかったものだ
光秀はけしからんな
ワシの悪業を成敗する、とかいう理由だったらしいが、延暦寺の焼き討ちでも一番先頭に立って女子供まで殺しまくったのは光秀軍ではなかったのか?
632 :
日本@名無史さん:02/07/17 03:18
>>629 >光秀が出した文書にそういった記述がみられない
>普通、密勅受けたら決起文にそのこと書くだろ
当時の史料が、全てそのまま完全な形で残っていると思っているの?
普通の話しで済むなら、歴史のナゾは残らないだろう。
何も推理せず、年表だけ見てればよろしい。
>朝廷が信長討たせる理由もみつからんし。
あの時代の信長と朝廷が「蜜月時代」だとでも?冗談かい
633 :
日本@名無史さん:02/07/17 03:27
推理するにもある程度の状況証拠がないと推理とは言わなで憶測と言うんですがね
634 :
日本@名無史さん:02/07/17 04:57
朝廷とポルトガルが光秀をそそのかしたって話もあるよね。
で、秀吉と家康じゃその噂を知っていたとも。
でも、信長公ほどの天才だったら、それも自分のシナリオかも。(首も見つかってないし)
>>633 ある程度の状況証拠はあるだろうがぁ!
オノレの言うように
「光秀が出した文書にそういった記述があって、
決起文に密詔のことが書いていたら」……
それは、“ある程度の状況証拠”じゃなくて“歴史事実”って言うの
オノレのいう
推理するためのある程度の状況証拠とは何じゃい!!
636 :
日本@名無史さん:02/07/17 06:21
「変」の後、光秀のやったことは落武者狩り。
御所に被災民が殺到してもお構いなし。
これ如何に。
637 :
日本@名無史さん:02/07/17 06:24
光秀は主君信長を闇討ちし、同僚であった秀吉によって征伐された。
638 :
日本@名無史さん:02/07/17 11:28
>>632 >当時の史料が、全てそのまま完全な形で残っていると思っているの?
思ってるわけ無いでしょ。六月二日付けの西尾光教宛の光秀書状には「父子悪逆天下之妨討果候」としかかいてないのよ?
仮に密勅を受けていたとしたら、寄騎を促す書状(「其表之儀御馳走候テ、大垣城可被相済候、」)にそこのとを書かない道理は無いでしょう。
>あの時代の信長と朝廷が「蜜月時代」だとでも?
蜜月とはいわんが、屠る必要はないんじゃないかね。密勅下さねばならない根拠を述べてほしいね。
>>635 629と633さんとは別人よ。混同しないでね。
639 :
日本@名無史さん:02/07/17 12:25
640 :
日本@名無史さん:02/07/17 12:25
薩摩はとりあえず落ち武者とか匿って利用する
ッテのが基本らしいよ。
関ヶ原で死んだはずの宇喜多を家康との
取引に使ったのは有名。
秀頼も本人かは、ともかく薩摩にそれらしい
人間がいたのは間違いないとか。
なんか幕府が混乱とかしてたら擁立して
なんかしてたかも。
642 :
戦国ロマンス:02/07/17 13:06
光秀は幼なじみの帰蝶に恋をしていたからです。
643 :
日本@名無史さん:02/07/17 14:01
なんか美濃出身ってのもウソ臭いんだが・・・越前に亡命してて
たまたま来てた足利義昭一行に加わってそのまま織田家臣って
経歴もうさんくさい。
644 :
日本@名無史さん:02/07/17 15:54
>>643 亡命と言うより食客
光秀は俗に言う武家言葉が使えたので
重宝されたらしい。
645 :
日本@名無史さん:02/07/17 16:45
てゆうか光秀って実在の人物なの?
646 :
日本@名無史さん:02/07/17 17:09
>>645 光秀が実在したことは疑いないけど、生年も不明、信長に仕えるようになった1569年以前の行動は謎に包まれている
信長(本能寺の変の際に49歳)より年長であったことは確からしい
647 :
日本@名無史さん:02/07/17 17:21
信長の演技が酷過ぎて・・・
649 :
日本@名無史さん:02/07/17 19:18
なるほどね〜。
しかし「兼見卿記」によると、変の後に朝廷より光秀へ何らかの勅書(巻物)が、
出されたのは確かなようだ。
まあ奉書では無いようだね。
そんなもの何の前触れもなく出すはずも無いけど、どんな内容だったんだろう?
650 :
日本@名無史さん:02/07/17 19:26
>>640 「変」の直後、光秀は御所の警備を行っておらず、
そのために難民が乱入し、溢れかえっていた。
勅命なり密勅があれば、その様なことはなかったハズ、
というのが「反・朝廷黒幕説」の学者や研究者の言い分だ。
「朝廷黒幕説」を説くやつは、受け売りではなく、
自分の考えで説明してみろ。
ちなみに、俺は説明できるがな。
651 :
日本@名無史さん:02/07/17 19:54
ちと質問、
誠仁親王黒幕説は
世間で言う朝廷黒幕説に含まれるのてせふか?
652 :
日本@名無史さん:02/07/17 19:55
653 :
日本@名無史さん:02/07/17 21:58
次回の「その時歴史が動いた」は祭りになりそうだな
654 :
日本@名無史さん:02/07/17 22:09
>>653 次回の「その時歴史が動いた」は本能寺の変なの??
655 :
日本@名無史さん:02/07/17 22:12
>>653 藤田達生の問題点は、桐野作人に指摘されている。
657 :
日本@名無史さん:02/07/17 22:22
映像があか抜けてる・・
658 :
日本@名無史さん:02/07/17 22:29
何か新事実、新解釈は期待できるのかな?
>>658 >>656のURLに書かれている通り&
>>655の言う藤田説だから、
googleと学研M文庫で十分予習可能だよ。
だが、ちらりと出てたなんかもったいぶって出てきた古文書の映像が気になる。
661 :
日本@名無史さん:02/07/17 22:33
左翼の陰謀だろ。
662 :
日本@名無史さん:02/07/17 22:34
黒幕はニクソン
663 :
日本@名無史さん:02/07/17 22:35
664 :
日本@名無史さん:02/07/17 22:41
再現ドラマの役者の方が、大河より上手かったりして
>>656 どうもありがとうー!
それは祭りになりそうー!!見よっと!
666 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:03
藤田氏の本を読んだが、彼の説を担う史料の読解、特に
毛利家文書の讀み方や、桐野作人も批判している光秀書状の
読み替えなど疎漏がいくつがあるが大丈夫なのか?。
ホントにNHKも最近勇み足だこと(藁。
それこそ陰謀・野望説の見直しが始まったというのに、
そうした点からしたら「その時」のHPの解説はまことにイタイ。
667 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:04
見直し=再評価 ね。
668 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:07
藤田氏はどんな解釈なんですか?
朝廷陰謀説?
669 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:11
本能寺から、村井又兵衛や前田慶次郎も脱出できたようだから
信長もどこかに落ちのびた可能性はあると思う。
670 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:12
平たく言えば足利義昭黒幕説。
秀吉も事前にクーデターを知ってたんだって。
671 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:13
672 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:16
>>670 そうなると毛利も知っていたことになるんじゃないの?
中国大返しはやらせか?
673 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:16
674 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:18
675 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:20
毛利は義昭とつーかーでなくって、しかも変後になって
義昭は毛利氏に上京を命じたけど秀吉と講和して言うことを
聞かなかったんだって。
なんか言い繕いの多い説なんだよな。
676 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:20
マタベイや慶次郎は、別の所に宿泊していたんじゃないか?
677 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:23
>>674 氏の近著「本能寺の変」では「秀吉がクーデターの背後に潜む
人脈や政権構想の詳細まで知っていた可能性についても論及した」
とあるが。氏の論旨は「知っていた」で違うか?。
678 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:25
679 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:26
義昭を見限って信長に寝返った光秀が、かつての主君のために謀反するものだろうか?
いやすまん、別の箇所に、クーデターを「予想していた」
とあるな。ごめんごめん:。
681 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:27
いやいや、オメデタい方ですね。
もっと勉強しましょうね。
682 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:29
683 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:29
684 :
日本@名無史さん :02/07/17 23:30
藤田さんが証拠として掲げている毛利氏側の史料は、いずれも
「信長が討ち果てたから上洛しろ」という受動的なもので、
決して「信長を討ち果たしたから上洛しろ」ではない
と思われ。これらの文書は年欠文書ばかりで、年代比定も
いささか怪しいものがある。
685 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:34
最終的に黒幕はアンパンマンらしい
686 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:40
やっぱり桐野作人の説が有力
687 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:44
688 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:45
漏れもそう思う。他のは穿ちすぎ。
ただ「川角太閤記」使うのはヤメレ。
読んだけどあれは使えない。
689 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:47
>>687 平たく言えば、光秀野望説。
通説として史学が打破しようとしてきた説といえばいいかな。
690 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:52
691 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:55
>>685 当時のアンパンマンの石高並びに官位を切望
692 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:56
朝廷・毛利・上杉・北条・長曽我部などの勢力に事前に工作しておけば(野望)、
とは思いはするものの、その前に6/2の大チャンスが来てしまった(現実)。
693 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:58
>>690 現状では状況証拠だけで朝廷や足利義昭、イエズス会など
しきりに誰かのプッシュで謀反、にしたがってる訳です。
694 :
日本@名無史さん:02/07/17 23:59
695 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:02
アンパンマンって家康のことですか?
696 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:03
野望だって朝廷を抱き込むのは必須の条件であり、
当初そうした行為が見られないのは、桐野氏の「朝廷黒幕説
に対する批判」以上に、「野望説」の矛盾でもある。
697 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:06
698 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:08
光秀が誰を後ろ楯にしようとしていたのか?
それとも後ろ楯を決める間もないほど急な行動だったのか?
それが謎ですね
699 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:08
>>692 それに加えて、島津、大友に人脈のある人物がいるよな。
そいつが、光秀をそそのかしたのさ。
朝廷も「信長殺し」を認めてくれると。
700 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:09
アンパンマンが当時、官位が低いが七十万石というそこそこの大大名にも
かかわらず、今現在の文献等に登場しない(私が無知だけかもしれないが)
理由として、次の権力者の豊臣秀吉に記録を抹殺されて疑いがありますね。
憶測ですが、アンパンマン軍は日本最初の空軍を備えたかなりの実力ある
軍団を備えていたと想像できます
701 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:10
>>692 信長の本能寺宿泊は急に決まった予定だったんですか?
702 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:11
703 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:15
光秀は信長討伐で英雄になれると勘違いしていたのだろうか?
704 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:18
秀吉はパーマン2号
705 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:19
706 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:21
もしかして何か真相がわかるような重要な文書もあったかもしれないけれど
秀吉や家康にとって都合が悪くて消されているっていう可能性もあるよね。
707 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:21
>>703 誰もが「信長の死」を望んでいたが、
皆が知らぬフリを決め込んだ。
光秀は貧乏クジを引いてしまったのさ。
708 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:22
やはり秀吉は怪しいな、疑われても仕方あるまい
709 :
信澄タン可哀想:02/07/18 00:23
NHKのその時〜、また本能寺の変やんのか・・
NHKのこの手の番組はいつも本能寺の変についてやっているな
少し前は(堂々日本史)、朝廷黒幕説
その前は(歴史発見?)、家康荷担説
さて、今回はどう推測するだろうかね。
710 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:27
711 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:35
明智光秀の悲劇は
秀吉の足止めができなかった事(毛利への密書を秀吉に読まれた事)と
誠仁親王が天皇に即位していなかった事
712 :
信澄タン可哀想:02/07/18 00:35
最近は正親町天皇黒幕説or親王+一部の公家との共謀説
が盛んだねえ
それと上にプラスして家康の謀反起こすのは知っていたけど黙認説
足利義昭は誰宛てか忘れたけど信長が光秀に討たれたことに
「ヒャッヒャッヒャ、氏んだ氏んだザマーミロ、嬉しくてたまらん」
と現代風にアレンジするとこんな感じの手紙だしているね
713 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:42
>>711 毛利への密書って誰が送ったのだろう?光秀?
714 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:43
>>712 光秀はかつての家臣だけど、自分を裏切って信長に寝返った
素直に喜んだのかな
715 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:45
正親町天皇黒幕説と
誠仁親王黒幕説を
同一に語る事無かれ。
716 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:50
光秀は本当に殺されちゃったの?
717 :
日本@名無史さん:02/07/18 00:53
718 :
日本@名無史さん:02/07/18 01:03
あやしいな
719 :
日本@名無史さん:02/07/18 01:06
信長って「平将門」みたいに怨念伝説があっても
よさそうだけど、ないね。
みんながこぞって隠蔽したのかな。怨念の噂。
それとも、死んでくれてよかったってみんなの
利害が一致してたのかな?
なんか、ちょっとかわいそう?
720 :
日本@名無史さん:02/07/18 01:10
光秀生存説は結構ある話で、天海になったとかあるけど
光秀が信長の首を上げれなかったのが、致命傷の1つになっただけに
ウソでも光秀の首を公然と取ったと言わなければ、示しがつけれなかったのは
事実なはず。
後の織田家の権力争いの事もあるし
721 :
日本@名無史さん:02/07/18 01:22
>>720 ウソでも光秀の首を取ったことで秀吉は後継者争いでぐっと優位に立った
光秀がしたたかだったら、信長に似たやつの首を用意していただろうな
722 :
日本@名無史さん:02/07/18 01:24
>>721 光秀は、いい意味でも悪い意味でも、すごく正直な、ウソの付けない人だったような気がする
723 :
日本@名無史さん:02/07/18 01:30
信長に影武者はいなかったのか?
724 :
日本@名無史さん:02/07/18 01:40
信長の本能寺宿泊の件は、愛宕山神社に登った27日以前に光秀が知っていたことになるね
725 :
日本@名無史さん:02/07/18 01:43
本当に信長の首は見つからなかったの?
726 :
日本@名無史さん:02/07/18 01:45
丹羽が煽ったから。
727 :
日本@名無史さん:02/07/18 01:45
>>721 言えてますね。どんな首でも焼け爛れていれば区別がつかないから
信長の首と言い張れたはず...。
光秀ってそんなに悪い奴じゃないかも...。少なくとも悪賢くはないな...。
お猿さんみたいには。
728 :
日本@名無史さん:02/07/18 01:46
>>725 首どころか遺体も確認出来なかったらしい
信長が討ち死にしたとされる本殿が全焼してしまったのが原因
当時は焼死体の身元を割り出す術もなかったから当然だろうが
そっかー。死体を判別なんて出来ないよね。当時は。すみません。
俺は工学部なのにこんな書き込みをして。歴史には興味があります。
歴史小説は書く人によって少しですが真実は何と思う時があります。
そうかんがえたら、昔の人も書物を残すのに事実とは異なることを
書いていると考えてしまいます。
と言うことは真実とは何なのかわかりません。
歴史学とはどのような事を検証しているのですか?
本当の真実とはなんなのかを知りたくなりました。
730 :
日本@名無史さん:02/07/18 01:55
信長がキリスト教と縁を切りたくなっていたとか?
今まで協力したのに何さ!って復讐されたとか・・・
731 :
日本@名無史さん:02/07/18 02:00
>>728 本能寺の本殿が全焼したのは、光秀に首を渡したくなかった信長の指図だったのかな?
落城の際に炎上というのはよく聞く話だが
732 :
日本@名無史さん:02/07/18 02:05
油とかまいたの?
733 :
日本@名無史さん:02/07/18 02:08
>>732 なぜ火の手が上がったのかはよく分からないようだ
本能寺で焼失したのは信長のいた本殿だけだったらしい
734 :
日本@名無史さん:02/07/18 02:08
因みに二条城で篭城した信忠、勝長の首はみつかったの?
735 :
日本@名無史さん:02/07/18 02:09
首は本当に見つからなかったのかなぁ。何が真実なのかなぁ。
736 :
日本@名無史さん:02/07/18 02:11
>>734 信忠の遺体も確認できなかった
信忠が火をかけるよう命じたと伝えられる
737 :
日本@名無史さん:02/07/18 02:15
>736
なるほどー。信長はやはりカリスマであり続けたと考えるようにしよう。
信長は自分にとって全てが美学に見える。
でも、それがその当時の本を書いた人にもみえたのかもね。
俺は工学部だから話している内容は浅いよね。ごめんなさい。
738 :
日本@名無史さん:02/07/18 02:21
>>733 信長の首が欲しい光秀軍が火をかける道理はない
信長が火を付けさせたとみていいだろうね
>>736 信忠の介錯した鎌田新介は脱出してるんだよな。
隠したのかもしれんが、火がまわって灰になるまでそんなに時間がかかるかな?
明智勢は燃え落ちるまで眺めてたんだろうか
740 :
日本@名無史さん:02/07/18 02:28
>>739 本当は光秀は信長、信忠の首を手に入れていたけれど、その事実ごと秀吉によって
葬られたってことはないんだろうか?
741 :
日本@名無史さん:02/07/18 02:29
>739
信忠は鎌田新介に死体を縁の下に隠してから火を放つように命じたという
木造家屋だと火の回りは早かったんじゃないか?もちろん油も撒いただろうし
742 :
日本@名無史さん:02/07/18 02:30
>>740 光秀が信長や信忠の首を天下に示していれば、畿内の大名の態度も変わっていただろうと言われている
光秀はウソでもいいから、首を見せるべきだった
743 :
日本@名無史さん :02/07/18 02:38
結果として三日天下に終わったんで衝動的行動とか評される
けど光秀には勝算が十分あったんじゃないかな?
744 :
日本@名無史さん:02/07/18 02:42
>742
なんで光秀はうその首を見てなかったのかなぁ。
745 :
日本@名無史さん:02/07/18 02:43
>>743 勝算がなければやらなかっただろうね
ことがことだけに謀反に失敗は許されないが、秀吉など信長の家臣軍団を各個撃破する自信は当然あったはず
細川藤孝や筒井など畿内の有力大名が加勢していれば、山崎で惨敗することもなかっただろう
746 :
日本@名無史さん:02/07/18 02:49
>>742 信長は鈴木孫一と下間頼廉だったかを実際には討ち取っていないにも
かかわらず討ち取ったと宣伝したことがあるが、
偽の首をさらしたのは孫一の方だけだった。
京にも知り合いの多い下間頼廉の首は間違っても晒せなかった
わけだね。
信長の首のニセモノなんて間違っても晒せないよ。
747 :
日本@名無史さん:02/07/18 02:51
>>746 でも焼け爛れていたらわからないんじゃないだろうか。誰の首か。
748 :
日本@名無史さん:02/07/18 02:51
749 :
日本@名無史さん:02/07/18 03:29
信長といい、信忠といい、謀反人に首だけは渡さない手順がはっきりしていたような気がする
戦国武将たるもの謀反に対する心構えはできていたということかな?
750 :
日本@名無史さん:02/07/18 03:59
>>747 それはそれで意味がないような・・・
>>749 浅井長政や朝倉義景はどうして首を取られたのかということに
751 :
日本@名無史さん:02/07/18 05:12
752 :
日本@名無史さん:02/07/18 05:34
天正8年の佐久間信盛親子への折檻状。
実は、勝家への【叱責状】でもあるのだ。
次ぎは、お前の番だと。
本能寺の地下には火薬や硝石の貯蔵庫があった。
本能寺は火災で大爆発を起し、信長はおろか
従卒にいたるまで死体は四散して残らなかった。
754 :
日本@名無史さん:02/07/18 10:41
>>596 >>606 昔の時刻は,日の出から日の入りまでを六等分.
日の入りから日の出までを六等分する.
だから,季節によって一刻の長さも変動する.6月なら昼の一刻は夜の一刻よりも長い.
「卯の刻」とはちょうど日の出にあたるが,日の出の前後の二時間分をも指す.
つまり,日の出前だった可能性もある.
755 :
名無しの歩き方@お腹いっぱい。:02/07/18 12:51
>>753 松永久秀は火薬を抱いて爆死してるよね。もしかしたら
信長も自分のまわりに火薬を撒いて自害したのかもね。
756 :
日本@名無史さん:02/07/18 13:01
本能寺って火薬取り扱いしてたところらしいよ。
このころは寺社がそれぞれ物品あつかってたから。
ここを攻めちゃうと軍需物資調達に支障をきたす
から普通は攻めない。謀反は普通じゃないけどね。
本能寺で火災発生
↓
たまたま近くにいた明智軍が急行
↓
(;´Д`)テガツケラレネー
↓
(゚д゚)ハッ、オレテンカビトニナレルカモ
↓
信忠殺せー
↓
(゚д゚)ウマー
758 :
日本@名無史さん:02/07/18 13:27
759 :
日本@名無史さん:02/07/18 14:01
760 :
日本@名無史さん:02/07/18 14:05
これで結論が出たね。
761 :
日本@名無史さん:02/07/18 14:10
あうあう
762 :
日本@名無史さん:02/07/18 15:24
雲国斎
763 :
日本@名無史さん:02/07/18 15:40
>>757 その方が、全体的に辻褄が合うな。
怖いことに。
764 :
日本@名無史さん:02/07/18 15:41
>>757 ビクッ. ∧ ∧ ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
Σ(゚Д゚;≡;゚д゚) < うおっ!ひょっとして俺にも天下取れんじゃねえの?
./ つ つ \______________________
〜(_⌒ヽ ドキドキ
)ノ `Jззз
765 :
日本@名無史さん:02/07/18 16:18
がんばってね
私は貴方が好き
766 :
日本@名無史さん:02/07/18 16:32
まとめ
本能寺炎上は事故による火薬の爆発。
信長は爆死。明智光秀はそれに乗じて信忠を攻め落とす。
でも学者でこんな説唱えている人いるのかな?
767 :
日本@名無史さん:02/07/18 17:00
で、アンパンマンが本能寺を放火したんですよね
768 :
日本@名無史さん:02/07/18 19:16
>>757の説は火事便乗説としてそのうち桐野作人にも引用される事だろう
769 :
日本@名無史さん:02/07/18 19:20
雲国斎スレになったね
770 :
日本@名無史さん:02/07/18 20:12
771 :
通りすがり:02/07/18 20:35
それでは何故、明智軍は今日付近にいたのでしょうかな?
出陣の報告をする為にとでも?
772 :
通りすがり:02/07/18 20:36
今日ではなく京です
773 :
日本@名無史さん:02/07/18 20:39
774 :
日本@名無史さん:02/07/18 21:02
光秀のママンについて詳細きぼん
775 :
日本@名無史さん:02/07/18 21:42
776 :
日本@名無史さん:02/07/18 21:43
777 :
飛び勝とう:02/07/18 22:44
>>771 >明智軍は京付近にいたのでしょうかな?
光秀は老いの坂(象徴的な名前…)で、全軍に『大殿に招請された』と
言い、軍を京都に入れている。これが事実だったのだ!
(それで士卒は本能寺攻撃の時「三河殿を襲撃してる」と思っていたと…)
771は光秀発狂説より納得できる(^-^)
778 :
日本@名無史さん:02/07/18 22:44
俺、光秀。
俺って、信長をびびって、従順というより、
自分の考えを極力持たず、上の考えをスマートにこなすタイプ。
野暮ったくてアクの強い重臣のなかでは、
結構、信長のお気に入りだったんではないかな。
で、信長の晩年は、信長の信任厚いの織田家の事実上NO.2。
ホント信長についていってヨカッタなと思ったよ。
しかし、この後がダメだったな。
これくらいの地位になると、まわりもアテにするから、
いろんなのが、陳情にくるわな。
しかも、俺って、織田家の重臣の中ではインテリな方だから、
当然、朝廷、公家、宗教勢力、商人なんかの接触が多くなるわけよ。
激烈社長より、愚痴のいえる副社長。
最後のほうは、雑談の範囲だけど、
「信長がいなかったらな・・・」とか、相手も言ってたな。
その頃の同僚たちの謀反や放逐なんかみてると、
俺も、今までなかった信長への疑問がフツフツと・・・。
自分の家臣にも結構、愚痴ってたな。
779 :
日本@名無史さん:02/07/18 22:44
そんなある日、
信長の予定を聞いてみると、
信長は、自分を信用して京都で丸腰。
もしかして、信長をやれるじゃないか、と。
周りは信長に不満だらけだし、
NO.2の俺がやったら、俺の天下じゃないか、と。
で、すごく迷ったけど、最終的に本能寺に行っちゃった。
信長は、うまくやったけど、
その後、もう最悪。
信長が死んだのみんな半信半疑で、全然、味方してくれないいだもの。
たかだか、首がないだけなんだぜ。あの中で生き残れるかってえの。
「一緒に信長やろうぜ」なんて細川や筒井も味方してくれないし、
俺をそそのかしてたお公家さんなんかも、のらりくらり。
なんで?と思ったら、サルのやつ、
「信長が逃げてきて、一緒に京都に行く」とか、デマ流してやがんの。
そら、俺に誰も味方しないわな。
で、俺、その後、ボコボコ。
ホント、大失敗したよ。
X771→O757
781 :
日本@名無史さん:02/07/18 22:55
信長の政策って、幕府や朝廷、宗教勢力、商人など利用できるところはがっちり利用しているし、革命児というよりは、すごい合理主義、現実主義だったように思える
光秀がNo.2で乗っ取りを企んだのだとすると、信長の路線を継承するつもりだったんだろうか?光秀は教養のある武人だったといわれるが、政治家としても広い視野をもっていたんだろうか?
782 :
日本@名無史さん:02/07/19 00:08
光秀は陰謀や風説に乗せられてしまったのかも知れない
あるいは老い先短いので血迷ってしまったか?
783 :
日本@名無史さん:02/07/19 00:16
>>779 >サルのやつ、
>「信長が逃げてきて、一緒に京都に行く」とか、デマ流してやがんの
これって史実なの??
784 :
日本@名無史さん:02/07/19 00:25
>>781 当面は、信長路線の継承だろうが、
それ以降の明確な政治ビジョンはなかったと思う。
強いていえば、室町幕府的な緩やかな中央政府の樹立みたいな感じか?
これが、この時代の政府に対する常識的な考え方だろう。
信長が、この時代の中で革新的でありすぎる存在であり、
この時代の有力者で、彼くらい明確なビジョンを持った人は、
いなかったと思う。
785 :
日本@名無史さん:02/07/19 00:30
>>781 >信長の政策って、幕府や朝廷、宗教勢力、商人など利用できるところはがっちり利用しているし
利用されたほうが、よろこんでいるとは限りません。
利用しても、利用価値がなくなると、斬っちゃいます。
786 :
日本@名無史さん:02/07/19 00:40
>>783 それ、聞いたことある。
当然、そんなこと秀吉自身は言わない。あくまで、ウワサを流す。
それだけで秀吉にとっては、効果あり。
近郊の大名は、信長が生きてたことを考えて、
とてもじゃないが、光秀に味方できない。
787 :
日本@名無史さん:02/07/19 01:10
>>786 秀吉ってほんと要領いいというかなんというか...。
深い意味も計画もないただの謀反って可能性は?
789 :
日本@名無史さん:02/07/19 02:07
>>788 信長につき従って仕事するのが怖くなってしまったのかも知れない
延暦寺の焼き討ちで信長の命令を馬鹿正直に守って女子供まで皆殺しにしたのは光秀の軍勢だったというし(秀吉は見て見ぬ振りして逃がしていたという)
>>783>>786 中川清秀にあてた手紙で、「信長は逃げて近江の膳所にいる」って秀吉が書いたやつね。
自分より現場に近いやつにそんなデマ流しても効果低そうだが…
791 :
日本@名無史さん:02/07/19 02:27
>>790 実際傷を負った信長は逃げて近江にいたけれど、そこに来た秀吉によって
内密に殺された...とかいうことはないかなあ。
792 :
日本@名無史さん:02/07/19 05:25
>>778-779 分かってるじゃん。多分それが真実であり、
最後に後押ししたのは、近衛前久だろうな。
土壇場で光秀に協力し、「変」の後で
酒宴を開いているくせに、光秀が敗死するや
逃走し、あれやこれや言い訳しているしな。
793 :
日本@名無史さん:02/07/19 23:48
大河ドラマで明智光秀やってほしいな。
光秀=天海説で。
794 :
日本@名無史さん:02/07/19 23:51
>>793 面白いかもね。信長がとことん嫌な奴に描かれそうなのはいやだけど...。
795 :
日本@名無史さん:02/07/20 00:58
>>793 そもそも光秀を主人公にした、いい原作小説がないのでは?
最近の研究性かを利用した、骨太な光秀小説が出現することを、
まず希望…
美しき中世文化を、信長の命令の元、自分の手で潰していく中世教養人の
苦悩を描くと、それなりに逝けるはず…
796 :
ザクレロ改:02/07/20 01:20
明智光秀の謀反の理由でよく、近江坂本と丹波から出雲、石見の国替えが
があがるが、これに自分は疑問を感じる、なぜなら、単純に石高は、確実
に上がってだろうし、石見は銀山として有名であるからその収入というのは
莫大のものとなるだろう、また、出雲は、鉄の産地としても有名だし、出雲
大社の管理も任されることなど、以上のことを考えれば大幅な知行の増大
と考えられる、また、当時、出雲、石見、は毛利領であったが、秀吉に
より、高松城は落城寸前だったし、出雲、石見の旧領主である尼子氏の
残党も織田軍に協力的であったことを考えれば、出雲、石見の切取り後の
人心掌握と切取りもそれ自体も比較的、容易であったのではないか、また、
織田信長自身の出馬があったことを考えれば、対毛利戦も先が見えていた
いたのではないかおもう。以上のことにより、出雲、石見が明智光秀の
謀反の理由とは考えにくいと考えまた。他に意見のある人いませんか?
797 :
日本@名無史さん:02/07/20 02:24
>>795 最近の研究成果は載ってないが(97年に作者が亡くなってしまった)
文庫本だけど小説として読み応えがあるいいのがあるよ「夢狂いに候」羽山信樹
798 :
日本@名無史さん:02/07/20 02:29
>>796 その観点に立てば、なぜ惟任性を与えられたかという点を
もっと考えるべきだったな光秀は。
799 :
日本@名無史さん:02/07/20 02:30
>796
それなら、とってからでもいいのでは?わざわざ不安に
させることないし。
ソースは小説だったけど、国替えの前に、丹波に四国行きの兵
を出せという召集があったって書いてあったけどほんとかな?
800 :
名無しの歩き方@お腹いっぱい。:02/07/20 02:42
>>793 何故光秀=天海なのかと、小一時間問い詰め(以下略
801 :
日本@名無史さん:02/07/20 05:23
802 :
日本@名無史さん:02/07/20 05:51
仮に毛利を攻め滅ぼして、石見と出雲を与えられたとしても
九州攻めが終わったら九州に飛ばされそうだな。
え?なんでかって?そりゃお前「惟任日向守」だからさ。
>>796 石見が領国になったって銀山は直轄になるに決まってるだろ。
804 :
日本@名無史さん:02/07/20 08:09
>>802 当時、島津や大友は近衛先久を通じて、
信長に恭順の意を示しており、九州攻めは
なかったはずだ。
「惟任日向守」や「(羽柴)筑前」は、
過去の過去の時点の構想だよ。
その点が、通説の盲点さ。
毛利攻めの後は、よいよ「唐入り」さ。
805 :
日本@名無史さん:02/07/20 13:07
806 :
日本@名無史さん:02/07/20 13:20
>>646 なのに出自土岐氏を確定しちゃってるのが不思議
>>699 当時も近衛〜島津のラインはあった
そこに細川〜足利も絡んでたりする
光秀は、自分の部下たちには”徳川家康を討つ為に京都に向かう”
なんて事を言ってたって本当?
809 :
日本@名無史さん:02/07/20 15:36
そんな記録はない
810 :
日本@名無史さん:02/07/20 15:40
結構、突発的だったと思うんやけど。なんかチャンスちゃうかなって
感じで。細川や筒井にすら根回し済んでなかったくらいやし。
家康とかも逃がしてるしー。信君は捕まえてるけど。
811 :
日本@名無史さん:02/07/20 15:52
>>808 「本間惣左衛門記」
「イエズス会報告誌」
812 :
日本@名無史さん:02/07/20 16:10
>>808 それは明智兵がてっきりそう思ったという記録。
光秀は信長の閲兵を受けると言ってる。
813 :
日本@名無史さん:02/07/21 00:49
惟任・惟住・・明智と丹羽が九州探題か?
太田牛一はこの時どこいたの?
変の後に本能寺から逃げ出した(というか光秀が見逃した)侍女たちから
事情聴取して信長公記にその時の信長の様子を記したそうだが。
それと本能寺で女が一人亡くなっているという記録があるそうだが
誰よ?お濃はこの時信長には付き添っていなかったそうだから側室かな?
815 :
日本@名無史さん:02/07/21 01:25
>>813 信長なら意味もなく九州の名家の名字を与えたりはしないだろうね
明智→近畿か西海道
丹羽→西海道
羽柴→中国道
信忠→美濃・尾張および織田家後継の座
信雄→伊勢・伊賀
信孝→南海道
柴田→北陸道
滝川→関東
と統治させるつもりだったかもしれん。しらねーけど。
中国道は西国道と書くべきだったかもスマソ
817 :
日本@名無史さん:02/07/21 01:32
>>815 親類以外は遅かれ早かれ全員あぼーんされると思う。
818 :
日本@名無史さん:02/07/21 01:57
>>815 多分深い意味はないと思うよ。
九州の姓を与えられたのは光秀・丹羽以外にも何人かいたし。
同時に西国の官職も配下家臣の何人かが補任されている。
信長の目は西国を向いていたというわけだ。
819 :
日本@名無史さん:02/07/21 05:44
八切の【信長殺し光秀ではない】に、
本能寺は炎上ではなくチリ―硝石で、
一瞬にして爆砕。髪の毛一本のこらなかった。
とあり、スペインまで資料を実見しに行った
話がありますが、そのような、史料は実際あるのだろうか。
漏れは光秀勤皇派かな。
新皇将門が討たれたようなものか。
821 :
日本@名無史さん:02/07/21 18:37
本能寺の変で、主要な役割を果たした斎藤内蔵介利三が
明智光秀の家老などではなく、織田家から光秀に派遣さ
れた軍監だったという説は研究する余地があると思う。
軍監は、源義経に付けられた梶原景時みたいな存在で、
古来から武将の監視や指導のために主家から派遣され
る煙たい存在で、裏切りや謀反に対する抑止力たるこ
とも期待されていた。織田家中にだけは軍監が存在し
なかったなどとは考えられない。
独裁恐怖政権たる織田軍団では、軍監の権威・権力は
他家よりも強かった可能性もある。昭和の陸軍のよう
に権威をもった参謀が暴走して、ウソの口頭命令まで
発して作戦を私物化した事実を想起すれば、主君光秀
の知らないところで、実行命令が下されてしまった可
能性は大いに有り得るだろう。
陸軍1個師団にも匹敵する1万3千人の軍勢を山道で
移動させるとなると、先頭の部隊が出発してから3時
間経ったがまだ後尾の部隊は集結地を一歩も出ずに待
っているというような状況もあったはずで、光秀自身
は後軍に居たということはなかっただろうか。また、
明智軍は、近江と丹波の両地域から集結したはずで、
完全に一所に集結はせず、それぞれ分進したというこ
とはなかっただろうか。いずれにしても、1万3千人
が同時に本能寺に殺到するのは無理だったろうと思う。
斎藤利三が妹を四国の長曽我部家に嫁がせていたのは
有名だが、本能寺の変が6月2日、長曽我部を攻撃す
るための船団の出発予定日当日に発生したのは象徴的
ではないだろうか。
822 :
日本@名無史さん:02/07/21 21:24
信長家臣の領地について
織田家では、家臣に領地を与えても、実質的な領地経営は織田家の専門官僚が行っていた、
と言う話は本当でしょうか?
つまり、家臣を前線の戦に専念させる為に、バックアップしていたと。
司馬遼太郎によると、織田軍団は全て給与性(主だった家臣も)で、
兵糧・武具も織田家が調達して支給したと。
823 :
日本@名無史さん:02/07/21 23:18
>>821 一考の価値はある考えですね
やはりどう考えても1万3千人の軍隊が一糸乱れず本能寺に攻め込んだ
ってのは考えにくいですよね
しかもはるか遠方の秀吉でさえ不穏な動きを察知していたわけで
信長の情報網がまったく異変を察知していないってのも異様ですよね
824 :
日本@名無史さん:02/07/22 00:06
本能寺の真犯人は
信孝じゃあないんですか?
825 :
日本@名無史さん:02/07/22 00:23
つーかさ、1万3千という数字自体が全然信用出来ないんですが
明智軍記が根拠ですよ?
826 :
日本@名無史さん:02/07/22 00:41
信長の主だった家臣は、いずれも1万以上の軍勢を率いているから、光秀の配下1万3千という数字は妥当でしょう
827 :
日本@名無史さん:02/07/22 00:49
1万以上率いてたから、本能寺の際にも1万以上率いてたというのは違うだろ
1万以上率いていたなら信長と信忠を同時に攻撃出来るがやってないし
第一、明智の1万以上と言う数字は与力を含めての数字
もう少し本能寺の際にどれくらい率いていたのか考証する必要あると思われ
828 :
日本@名無史さん:02/07/22 01:37
>>827 そもそも光秀は信忠の軍勢の数まで把握していたのだろうか?
主君の父子を同日に別々だが、すぐ近くの場所で一気に討ち取るなんて都合が良すぎたような気がする
で、光秀は本当に生残ったんでしょうか?
日光にある明智の家紋とかもそうだけど、いかに権力者とはいえ、どこの馬の骨ともわからぬ男を関白にすえたというのも天皇家が秀吉になにか弱みを握られていたからではないかとも思われ。
830 :
日本@名無史さん:02/07/22 01:45
>>829 >>どこの馬の骨ともわからぬ男を関白にすえた
これは確かに言えてることですね。いくら当時の秀吉の権力が絶大で
天皇家が衰退期だったとは言え
それ以前の素性確かな武家最高権力者がなし得なかった関白を
自他共に認める百姓出身の武士がなれるものでもないですよね
831 :
日本@名無史さん:02/07/22 01:48
>>828 軍勢の数を正確に把握していたかどうかはわからないね
だけど、寡兵というのは知っていたから事を起したと思う
832 :
日本@名無史さん:02/07/22 01:50
最高権力者で、強力なパトロンで、一部の公卿から熱狂的な支持があったからだろ。
833 :
日本@名無史さん:02/07/22 01:52
現在の価値観・基準で考えたら駄目
834 :
日本@名無史さん:02/07/22 03:05
水曜日の午後9時15分より「NHKその時歴史が動いた 本能寺の変」
835 :
日本@名無史さん:02/07/22 05:06
日光に明知紋があるのとかは、家光の乳母こと春日の局(明智配下の
侍大将斉藤利三の娘)へのおべっかだろう。比類なき権勢を誇った
というぞ。天海はそれにべったりな坊主。
836 :
日本@名無史さん:02/07/22 22:40
当時の京都の人口って30万程度でしょ(現在は200万前後?)
そこに1万以上の軍勢が押し寄せたら市内は大変なパニックになったんだろうな?
837 :
日本@名無史さん:02/07/23 03:12
> しかもはるか遠方の秀吉でさえ不穏な動きを察知していたわけで
> 信長の情報網がまったく異変を察知していないってのも異様ですよね
確かに異様だな
このへんの話に詳しい方はいらっしゃいますかね?
838 :
日本@名無史さん:02/07/23 04:42
>>837 >> しかもはるか遠方の秀吉でさえ不穏な動きを察知していたわけで
> 確かに異様だな
『 はるか遠方の秀吉でさえ不穏な動きを察知していたわけ』
秀吉が、不穏な動きを察知していたとは、全く思えんがな…。
君の、断定・思い込みの方が異様だ・・・
839 :
日本@名無史さん:02/07/23 06:11
何が起こってもいいように、万全の準備をしていたようだ。
秀吉も、かなり危ない事をやってたしな。
だからって、光秀をそそのかしたりはしてないだろうがな。
「利家とまつ」の弊害スレ認定
841 :
日本@名無史さん:02/07/23 09:07
信長の情報網が、異変をまったく察知することができなかったのではなく、
あえて知っていたにもかかわらず、信長が大胆にも京へ向かったということ
は考えられないかな?信長って、たまに自ら危険の淵に飛び込むことが
あったような・・・例えば、石山合戦とかでも少数の兵で、敵の大軍の
ど真ん中に飛び込んだりしたし。
842 :
日本@名無史さん:02/07/23 18:23
既出かもだけど、明日の「その時歴史が動いた」は
本能寺の変みたいっす。真犯人の謎、みたいなこと
やるみたいだから、まさにこのスレのねたになりそうな予感…
843 :
日本@名無史さん:02/07/23 18:38
「その時〜」はいつも一昔前の話題を持ってくる。
845 :
日本@名無史さん:02/07/23 19:21
> 「その時〜」はいつも一昔前の話題を持ってくる。
まあ分かるが、2ちゃんの日本史板を基準に考えたら酷だよ。
毎週「その時」を楽しみにしている普通のTV好きの人にとっては
単純に興味深い新説として受け取られる事だろう。そこからさらに興味が
湧いたらさらに調べればいい。
846 :
日本@名無史さん:02/07/23 19:28
>>845 > そこからさらに興味が 湧いたらさらに調べればいい。
そういった奴が稀なのは、このスレで分かるだろう。
ほとんどが鵜呑みの知ったか野郎化するだろうな。
847 :
日本@名無史さん:02/07/23 19:38
>>846 だって利家とまつを見て真実と思っている人もたくさんいるくらいだものね。
848 :
日本@名無史さん:02/07/23 19:39
>844
勉強になりました。それにしても、すごい濃い内容でびっくりした。
>>838 > 秀吉が、不穏な動きを察知していたとは、全く思えんがな…。
君の断定・思い込みも異様なんだが・・・・
ま、秀吉があらゆる事に対して準備をしていたということも確かだろうけど
光秀謀反にどのように関わったのかはまだはっきりとは解明されてないわけで・・・
最も得をした者が最も怪しいという常識にオレはこだわりたいと思うわけです
あ、家康はこの時点では最も得したとはいないと思ってます
いないと思ってます→いえないと思ってます、ね
851 :
日本@名無史さん:02/07/24 01:46
>ま、秀吉があらゆる事に対して準備をしていたということも確かだろうけど
素朴に疑問に思ったんだが、何を根拠に確かと言ってるんですか?
852 :
日本@名無史さん:02/07/24 04:40
>>851 たぶんもっと詳しい方がいらしゃると思いますけど
たとえば
・信長の機嫌を取るために毛利征伐仕上げのための信長出馬を請いていたと言われてること
・光秀の密使が秀吉軍に捉えられ毛利には本能寺の一件が伝わらなかったと言われていること
・速攻で毛利と和睦を結び即時大返しを敢行した手際の良さ
・大返しの街道沿いに食料や必要品を大量に準備していて
大軍がからだひとつで一気に引き返せたこと
・秀吉達が移動に使う船がすでに用意されていたこと
まあひとつひとつの事例に反論は沢山ありますが、事実で無いとも言い切れないですよね?
853 :
日本@名無史さん:02/07/24 05:37
>>852 だから、それらを証明してる根拠は?
「言われてること」なんて言われても、はぁ?としか言いようがないんですが
事実で無いとは言い切れない=事実、じゃないよ
否定の否定は、肯定では無いのですけどね
確かと言うから、具体的な確たる根拠があると思ったんですが、はぁ
854 :
日本@名無史さん:02/07/24 06:14
>信長の機嫌を取るために毛利征伐仕上げのための信長出馬を
請いていたと言われてること。
フロイス『日本史』に書いてあります。
処が、秀吉は毛利との和陸も進めていました。
もし万が一、毛利が勢力を盛り返したら、
そのことを理由に、信長からやつ当たりされたかもしれません。
・信長の機嫌を取るために毛利征伐仕上げのための信長出馬を請いていたと言われてること
毛利征伐への出馬は信長自身が決めた事、「細川家文書」に信長の朱印状で明記
毛利との和睦は当時の史料から見受けられないが
・光秀の密使が秀吉軍に捉えられ毛利には本能寺の一件が伝わらなかったと言われていること
これは「浅野家文書」で書かれてるが、「金井家文書」では4日に秀吉は知ったと書かれてる
・速攻で毛利と和睦を結び即時大返しを敢行した手際の良さ
6日に情報を掴んだ毛利だが、情報が混乱してて、織田信澄・光秀・柴田勝家の共謀で
1日に信長が死んで、信孝も大坂で自害したと認識してたし、秀吉の姫路帰還は6日と7日の2通りある
「毛利家文書」のによれば講和は秀吉の「懇望」によるもの
・大返しの街道沿いに食料や必要品を大量に準備していて大軍がからだひとつで一気に引き返せたこと
準備していたかの詳細は全く不明、大軍が一気に引き返した形跡はなし
・秀吉達が移動に使う船がすでに用意されていたこと
信憑性なし
毛利との和睦と言うのは秀吉の事前からの和睦って意味ね
857 :
朝廷+南蛮:02/07/24 19:10
>>839 >だからって、光秀をそそのかしたりはしてないだろうがな。
どうだろう。俺は「光秀突発本能寺」説ではあまりに腑に落ちない点が多いと思う。
一番奇妙なのは「大返し」の速度。確かに事前準備をしていた証拠は少ないのかも
しれなうが、毛利と交戦中だった集団があの時代で機械化していない集団をあの速
度で移動する事をなんの前準備無しでやる事は不可能に近い。少なくとも、幕僚の
間では「大返し」の為の青写真は描いていたとしか思えない。
>> >819私も八切史観に賛成です。
それがしも読んで見たく候。
858 :
日本@名無史さん:02/07/24 19:15
せんせぇ質問!!!
大返しってどれくらいの規模の兵力が反転したんですか?
山崎の合戦で中国遠征に参加していた諸将の名前が出て来ないですよ。
859 :
日本@名無史さん:02/07/24 21:16
別に小説でも学研でもPHPでもいいけどさ、怒らないから出典はちゃんと書け。
出典書けないのを「言われてる」なんて勝手に伝聞形に変換するな。
860 :
日本@名無史さん:02/07/24 21:16
さてNHKでも見るか
朝廷黒幕説&四国(長曾我部氏)問題が中心だったな>NHK
それにちょっと義昭も絡んでいる
862 :
日本@名無史さん:02/07/24 22:20
■忠臣・明智光秀に正一位を追贈すべし■
863 :
日本@名無史さん:02/07/24 23:19
今日の番組によると、信長は安土城の中に天皇の御所まで作っていたんだね
ここまでするとなると、旧勢力の動揺は大きかっただろうな
864 :
日本@名無史さん:02/07/24 23:22
でた、拡大解釈
>>863 これがNHKの罪だな・・・
>>864 そうとも100%は言えないだろ
偉そうに批判して片付けるな
866 :
日本@名無史さん:02/07/24 23:36
天皇を自家薬篭中のものにして、
いらなくなった公家階級を追放、とかやっちまえば良かったんだよ。
極端な話天皇に手を出さないで公家連中だけ追い出せば不敬にはあたらないだろうし。
追い出される公家の方はギャーギャー言うだろうけど。
ダメかな?
867 :
日本@名無史さん:02/07/24 23:36
>>865 NHKでも
>信長は安土城の中に天皇の御所まで作っていたんだね
清涼殿は作ったとは言ってるが御所とは言ってないぞ
868 :
日本@名無史さん:02/07/24 23:39
単純に野望だと思うな。勝家や秀吉は遠方で敵と対峙していて
畿内にいるのは光秀だけ。信長はもちろん家康だって討ち取れる
情勢だったし。光秀の計算じゃ秀吉や勝家も滝川みたいな目に合うと
ふんでいたんだろう。勝算十分の謀反だったと思う。
869 :
今日の番組:02/07/24 23:39
信長が消えて困った人はいなかったんだよね
これは再確認できたように思う
大名の領地替えは、信長のアイデアだったというのは面白かった
光秀も、丹波・丹後の領地召し上げが、謀反の直接のきっかけとなったという描き方だったな
870 :
日本@名無史さん:02/07/24 23:45
信長、光秀、秀吉、家康の死に様を考えると
歴史ってやつは用済みになった人間を上手に消すなーっとつくづく思う。
871 :
日本@名無史さん:02/07/24 23:46
お前は角川映画か
872 :
日本@名無史さん:02/07/24 23:56
>>870 歴史とは、際限のないリストラの繰り返しである、ということかな
どんなに優秀な人間でも役割を終える時期は来るからね
しかし、それが部下による謀反となると、劇的ではある
873 :
日本@名無史さん:02/07/25 00:08
>>870 結果からみればなー。そこにあるドラマは認めるが、そこで止まると
たんなるロマンチシズームを抱えたまま墓にはいることになる。
874 :
日本@名無史さん:02/07/25 00:24
秀吉が、不穏な動きを察知していたことはありえないと思う。
当時の秀吉の幕僚で関ヶ原後に生きているのは全員家康の家臣。
不穏な動きを察知して準備をしていたなら、当然家康の知るところとなり
大阪の陣までにプロパガンダで利用してるし、その手の文献があって
しかるべきと思うのだが。
875 :
日本@名無史さん:02/07/25 00:29
徳川に不利な文献書状は、徳川時代に処分された可能性は大。
もってるだけで藩(家)はお取りつぶしの憂き目だ
876 :
日本@名無史さん:02/07/25 01:01
領地召し上げネタを懲りずにまた使いやがった
日記と軍記を同列に使うな、一気に冷めた
877 :
日本@名無史さん:02/07/25 01:04
素朴な疑問
朝廷や将軍の支持を得ていたのなら
光秀はなんで、それをもっとアピールしなかったのかなあ
特に、細川藤孝とかに…
878 :
日本@名無史さん:02/07/25 01:04
>>870 その意見はよく聞くけど、死んだらそれ以上何もできないのだから、
歴史的役割がそこで「打ち止めにされる」のであって、「歴史的役割が
終わったから消した」というのは、単なるロマン主義的解釈だと思われ。
879 :
日本@名無史さん:02/07/25 01:06
つまり、死んだらおしめえよってことだな
880 :
日本@名無史さん:02/07/25 01:21
>>877 細川藤孝宛の光秀の書状が残っているけど、かなり必死なんだよね。
いろいろ言い含めて協力を求めるのだが・・・・
やっぱ、謀殺という形が容認できなかったんだろうなぁ。
まぁよく
「狡兎死して走狗烹られ、飛鳥尽きて良弓蔵われ、敵国破れて謀臣亡ぶ。」
というが信長が天下をとれば、秀吉や家康も良くて林通勝扱い(追放)、悪くすると韓信や信康扱い(死罪)となるのは目に見えていたので、どうも光秀単独説は薄い気はするなぁ。
882 :
日本@名無史さん:02/07/25 01:36
単に信長を消すだけだったら、暗殺者を送り込めば済んだとも思うのだが、なぜ配下の軍隊まで使って討ち取ったのかな?
自分が信長を倒したということを誇示する必要があったのかな?
883 :
日本@名無史さん:02/07/25 01:43
>>882 ・・・もしかして忍者を想像してるのか・・?
884 :
日本@名無史さん:02/07/25 01:46
>>883 忍者でもいいけど、正体のばれない刺客を使うという手もあったはず
考えられる点としては
・暗殺では影武者をたてられる恐れがあった。その影武者が全く似ていない偽者でも近習以外近よらせず、その間に政権交代すれば問題がなくなる。(暗殺が成功しても)
当然報復も考えられるので(暗殺が失敗すればもっと悲惨だが)危険すぎる。
・単に信長がいなくなっただけでは、家臣団の勢力としても、織田家への貢献度でも勝家の方が上であり、秀吉が天下をうかがえる機会はなくなる。
弔い合戦をして勝ってこそ、世継ぎ問題にも口をはさめるというもの。
・また少人数の暗殺者を防ぐ乱破ぐらいは常に警護にいたのではないかと。
886 :
日本@名無史さん:02/07/25 01:57
信玄だって撃ち殺したんだし。
887 :
日本@名無史さん:02/07/25 01:59
あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ
888 :
日本@名無史さん:02/07/25 02:00
マジレスだとしたら痛いが
ネタだとしても面白くない
ネタがないのはもっと痛い
890 :
日本@名無史さん:02/07/25 02:12
嫌がる光秀のケツを信長が掘ったから、その仕返し。
891 :
日本@名無史さん:02/07/25 02:12
慶次も撃たれたぜ。
892 :
日本@名無史さん:02/07/25 02:14
893 :
日本@名無史さん:02/07/25 02:22
やはり秀吉の大返しが光秀の計算を狂わせているな
秀吉は謀反の可能性を事前にどこまで察知していたんだろうか?
894 :
日本@名無史さん:02/07/25 05:40
>>864 伝・三の丸には南殿=紫宸殿もあったし、
行幸に託けて、そのまま遷都を強行するつもりで
あったのかも知れない。
895 :
日本@名無史さん:02/07/25 05:44
>>862 明治期になってから京都は洛北に建勲神社という信長のための神社が建立されたよ。
色んな思惑で完成したのだろうが、よう調べてみなはれ。
896 :
日本@名無史さん:02/07/25 05:45
897 :
日本@名無史さん:02/07/25 05:53
>>877 素朴な疑問
〉朝廷や将軍の支持を得ていたのなら
光秀はなんで、それをもっとアピールしなかったのかなあ
特に、細川藤孝とかに…
義昭は無関係だろうな。
朝廷も、一部の人間が関与し、「変」の後に天皇or親王から
承認を得ることを約束していたが、光秀は信長の遺体を
確認できず、直ぐにはそれが出来なかったのでは?
「細川への手紙」は偽造の疑いが持たれており、
藤孝が唆した可能性もあるのでは?
898 :
日本@名無史さん:02/07/25 06:10
>>877 下御所(二条御新造)で親王も殺し、信忠に罪を着せる事も
出来たのでは?
それをやらなかったのは、光秀にも少なからず「勤皇心」が
在ったからでは?
だから、反って朝廷の関与を公にできなかったのではなかろうか。
「知ってるつもり」とかじゃ確か死後3日(もっとかも)たってから塩漬けもせずにもってきたものを首実検をしてしかもそれはかなり腐敗がすすんでいてどこの誰だかわからないのに、秀吉はそれろくにみもしないでを光秀だと言い放ちその首をさげさせたという。
また義昭に1万石を与えて大名待遇にしたというのも不自然すぎる。
普通に考えれば不倶戴天の敵であり、自分の主人の敵なのだから、もし秀吉に忠義心のかけらでもあれば、これは当然討たれてしかるべきで、また義昭の方も秀吉の配下になる事に抵抗がありそうなものだが、秀吉に対して反旗を翻そうとした気配はない。
これは征夷大将軍よりも上の権威、天皇からの命令があったからとも邪推できるが(無論天下の趨勢は決まっていたが、もし義昭に野心があれば、いくらでも裏工作する余地はあったはず)
暦問題はどうですか?
天皇の権限であり、神聖にして犯すべからず。
>>867 あのなぁ、そういう細かいとこ突っ込んでたらキリねーんだよ。
何にしても安土城の解明は未完だからな・・もう少し時間が要る。
902 :
日本@名無史さん:02/07/25 19:34
>秀吉はそれろくにみもしないでを光秀だと言い放ちその首をさげさせたという。
これって、資料あるの?
まだこの段階では、秀吉は有能な部下の一人なだけで、織田家ってのは存在する訳だから、
秀吉が光秀と信長殺害を目論んでなら、光秀を殺しておくのが一番有効でしょ。
義昭もまさか秀吉の配下になるとは思ってないだろうし。
903 :
日本@名無史さん:02/07/25 20:41
>光秀は信長の遺体を確認できず
これって良く言われるけど、なんで確認できなかったのかね?
炎の中で敦盛舞って燃えちゃいましたってわけじゃないんでしょ?
安田国継に槍でブスっと刺されたりしてるのになんで首をとれなかったのかな?
ちょっと、聞いてくれよ。
信長様は、自分が天下をとって、
よその国のように皇帝となり、
世の中のすべての価値感をきめて行くって人。
俺には、よくわからんが、公家は、相当、危機感を持ってたな。
まあ、信長様が天下取れば、お公家さんは、メシも喰えんようになってただろうしね。
ただ、そういう保守的な層だけじゃなく、俺達、家来を含む広い層で
「信長、ちょっと煙たいな・・・」ってのは、あったんだよ。
だって、林さんの例なんかで、将来、メチャメチャ不安になったしね。
光秀の謀反は、以前から朝廷や義昭の工作があるって知ってたよ。
けど、直接タッチしなかったから、起こったときには、ちょっとビックリ。
でも、うまい具合に光秀をやっつけちゃった。
で、光秀をやった後、俺は、こう考えた。ここから「天下をとるには?」
実際、工作に関与した保守層と敵対すれば、
組織としての朝廷と対立しなくても、信長のともらい合戦を口実として、有力公家や義昭を個々に排除。
逆に自分を支持すれば、信長の暗殺は不問にするし、朝廷を保護するって感じ。
そしたら、どうよ。みんな味方してくれたよ。
信長みたいに、鞭だけだとダメ。飴も与えないと。
将軍になるのは、失敗したけど、関白になっちゃった。
義昭もへんな意地張りやがって、ちょっと怒ったけど、まあ、ココは心の広いところを見せないとね。
ここで義昭ヤっても、信長と同じだしね。それに関白だから、あいつより偉くなっちゃったしね。
あ、俺、信長って言ってた?「様」付けるの忘れてた。
ま、いっか。最期のほう、煙たかったし。
ともらい合戦しないかって?
俺、結構、物事をポジティブに考えるから、死んだ人なんかに義理立てしないって。
それに、そんなことしなくていいの。
だって、俺、天下人だしね。
906 :
日本@名無史さん:02/07/25 21:01
信長の遺体は阿弥陀寺の僧が回収したというのが定説です。
そんな深く考えるなよ。
ただの恨み。以上。
908 :
日本@名無史さん:02/07/25 21:49
r‐、
| ○ | r‐‐、
_,;ト - イ、 ∧l☆│∧ 良い子の諸君!
(⌒` ⌒ヽ /,、,,ト.-イ/,、 l コピペで何とか成ると
|ヽ ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒) 思ったら、大間違いだ!
│ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /|
│ 〉 |│ |`ー^ー― r' |
│ /───| | |/ | l ト、 |
| irー-、 ー ,} | / i
| / `X´ ヽ / 入 |
909 :
日本@名無史さん:02/07/25 23:57
910 :
日本@名無史さん:02/07/26 00:30
毛利に信長討ち死にを知らせる光秀側の使者が、間違えて秀吉の陣営に入ってしまって捕らえられ、秀吉がいち早く謀反を知ることになったというが、これはどうも出来すぎだな
秀吉が謀反を早期に知った(あるいは予期していた)のは、別の事情があったが、伏せられてきたんじゃないか?
そもそも各宿場に馬等を準備していたのはできすぎ。
単なる不測の事態に備える為というのだけでは経費の負担の面からいっても合理的とはいえない。
単に撤退の為ならこのような準備はいらないし、、、、。
黒田官兵衛あたりが事の真相を知ってそうな気はする。
何かの書物に記してないだろうか?
912 :
日本@名無史さん:02/07/26 01:08
夏だね、ホンマに。
913 :
日本@名無史さん:02/07/26 01:30
>そもそも各宿場に馬等を準備していたのはできすぎ。
ソースは?
大元は忘れたけど常識で考えても1日40キロの行軍なんて歩兵だけでは無理でしょう。
まして、4万ともいわれる大軍がそれだけの距離を移動して、そのすぐ後に決戦に望んだ事を考えると既に兵の一部は姫路城あたりにでも待機させていた可能性もある。
まして、当時は豪雨であったというから、包囲していた兵は実質どれだけいたのやら。
915 :
日本@名無史さん:02/07/26 02:43
普通に歩くのなら、30km位は歩いた事がある。
普段鍛えられてる連中なら、40km位なら大丈夫じゃないか?
もちろん荷物込みで。
916 :
日本@名無史さん:02/07/26 02:52
>>914 ソースないの?
>4万ともいわれる大軍
これも謎なんだが
豪雨と言うのも川角太閤記だね、ショボショボ
917 :
日本@名無史さん:02/07/26 19:05
>>907 で、その恨みとはなんぞや?
創作系は一切無しね。
918 :
日本@名無史さん:02/07/26 19:23
>>917 「火のない所に煙はたたず」
昔の人が良く言ったもんだぜ
919 :
日本@名無史さん:02/07/26 19:55
>>918 別に反対意見ではないが、
それだから反対派に良い様に
突っ込まれるのだよ。
反対派は、それしか突っ込みようが
無いのだから。
920 :
日本@名無史さん:02/07/26 19:57
大返しじゃ!!大返し!!!!
921 :
日本@名無史さん:02/07/26 20:02
賎ヶ岳の時も岐阜から、すごいスピードで走ったけど
どっちも方が早かったの?
天正10年6月6日 中国大返し
天正11年4月20日 賎ヶ岳の合戦
およそ、10ヶ月中国大返しの方が早い。
923 :
日本@名無史さん:02/07/26 22:08
>>922 あほやなぁ・・・・デモ、笑らけた。座布団一枚!
今の道路事情と400年前の道路事情を一緒にするな。
まして、ひとりならともかく大軍で移動するのは想像以上に時間がかかる。
当時の常識では20kmが限度とされた。
ましてそのあと肉弾戦をやる訳だから、兵が疲れていては勝負にならない。
925 :
日本@名無史さん:02/07/26 23:39
>>914 >大元は忘れたけど常識で考えても1日40キロの行軍なんて歩兵だけでは無理でしょう。
ナポレオンのフランス軍など、高度に訓練された士気の高い軍隊は、
1日50キロ以上行軍できるものだ。
秀吉軍の場合、食料などの補給が播磨まで集積されていたので
敵地の行軍よりはるかに容易。
行軍って歩兵で?
どっちにしてもナポレオンの時代は銃の戦闘がメインでサーベルを抜いてきりあう事はまずない。
しかも、ヨーロッパのような平地の多い道路の整備されたところと比べる自体ナンセンスのような気がする。
確かに近代戦においては戦車とともに行動する歩兵は1日100km行軍したというが、前提条件自体が違いすぎるのでおはなしにならない。
当時の日本は雨がふれば沼地を歩くぐらいの体力を消耗する道が多かったと聞く。
そのような強行軍を5日も続けた後に剣で斬りあうほどの体力が残っているとは思えない。
食料を備蓄しておくのはわかるが同時に数万の兵の食料をまかなえるだけのものを、途中に備蓄しておいたとなると当然大返しを予定していたと考えざる得ない。
927 :
日本@名無史さん:02/07/27 00:21
大返しで全軍一斉に帰ってきたと思ってる人は何でそう思ったの?
どんな本にも、そんな事書いてないけどさ。
928 :
日本@名無史さん:02/07/27 00:25
6日夕方高松出発→7日夜姫路着→9日朝姫路発→11日昼尼崎着→12日夜富田着
高松攻めの際の秀吉の軍勢は3万説と1万数千説があるけど
1万数千説だったら軍勢が少なすぎるので2万〜3万が妥当かと
姫路を出るときの軍勢は1万5千で、尼崎で中川や丹羽・池田と合流して3万5千
光秀の軍勢が1万5千前後と言われてるから、秀吉の本隊は後衛にいたかも知れないね
3日に本能寺の変を知って、すぐに講和を結ぶ準備してるから、同時に山陽道を帰る準備をしてたかも知れないね
山陽道は、当時から東海道や北陸道と並ぶ主要幹線だからそんあに酷い道じゃないのでは?
>>927 誰も言ってないと思うが
かなりの落伍者だしてるようだしね
931 :
日本@名無史さん:02/07/27 01:08
>>929 宇喜多勢を備前に残してきたと考えると
3万=>1万5千=>3万5千は全然不思議ではないが。
932 :
日本@名無史さん:02/07/27 01:21
やはり大返しには秀吉の陰謀の謎があるように思えてならん
資料がない、ソースは?とすぐ突っ込まれるが
事実あれだけの早さと手際の良さで光秀を討ち取った状況証拠をどう見るか?
秀吉無関係派に聞きたいが、本能寺の変の第一報がもし寝耳に水だったとすると
あれだけ俊敏に行動できた理由を説明していただきたく思う、YO
>>931 >3万=>1万5千=>3万5千
ごめん、ちょと意味がわかんない
半数に減ったのを、宇喜多を残したと言う意味で言ってるなら
当時の宇喜多が1万5千も動員出来たとは考えにくいと思われるが
準備万端でやった大垣大返しの時は、5時間で50`も移動して佐久間盛政隊と戦闘してるよ
その時には大返しする前に使者を先行させて、沿道の領民に
米は十倍で買い取るから松明と食料を用意するようにって触れ回ってる
中国大返しも似たような手法を使ったと考えてもおかしくないのでは?
935 :
日本@名無史さん:02/07/27 01:41
936 :
日本@名無史さん:02/07/27 01:44
秀吉の大返しより
司馬仲達の方が凄いと思うが?
937 :
日本@名無史さん:02/07/27 02:09
>>934 > 中国大返しも似たような手法を使ったと考えてもおかしくないのでは?
距離的にも時間的にも難しいと思うんですが
おかしくないとすると秀吉はなんの準備も予測もなく
とりあえずやってみたら運良く成功したってこと?
そっちのほうが無理な解釈のような気がするんですけど・・・
938 :
日本@名無史さん:02/07/27 02:12
>>935 だから怪しいとは思わないという理由を教えて欲しいんですよ
自分が突っ込むときはソースソースとうざいのに
問われると決まってこうなんですよね、いつも
939 :
日本@名無史さん:02/07/27 02:15
秀吉にしてみたら、それまでの信長とのエピソードで、光秀が謀反を
起こすだろうというのはうすうす感づいていたんじゃないかな。
天才軍師の黒田官兵衛もいたし、相当前から光秀が切れて反乱するだろう、みたい
なことは内輪で話していたろうと思うよ。
とすると、本能寺の変を知って大泣きする秀吉に黒田が「天下を取るチャンス
ですぞ」と言ったエピソードも真実味を帯びてくる。
だから、秀吉の陰謀というより、秀吉は準備周到だっただけだと
思うよ。
あ、でもわざわざ信長に中国方面への出馬を要請したのは、、、、、
もしかして、陰謀? んなこたあない、と思いたい。
光秀が本能寺の変を起こす前には、朝廷への工作や足利義昭や上杉
など反信長勢力への打診なども当然していただろうから、
そこから情報が漏れたとも考えられるね。
古来から使われていて一番整備されていた街道沿いに居て、
しかも信長に出馬してもらうところだった。
これだけとっても予感陰謀抜きに大返しできる条件は非常に整っていた。
しかもだ、光秀に荷駄送ってもらっただろ、実際届いたかしんねーけどさ(藁。
なんかスレタイと違ってきたのでsageとくよスマンネ。
>>937 距離的な問題は
>>934で述べてる
付け加えれば、3日に本能寺の変を知って4日に講和してる事から
4日から軍の一部ずつ先行して姫路へ返していったのかも知れないし
使者を先行させて、沿道の領民へ道の整備、食料や馬の準備をさせたかも知れない
秀吉が高松の陣を引き払ったのが6日で、講和した4日から丸1日以上の時間があった
その間なにもしてないと考える方が難しいと思うが
その後の大垣の件ではこの手法を異常に手際よくやってる事から
それまでに似たような手法を行なった経験があるとも考えられると思う
それに「とりあえずやってみた」「運良く成功した」とは言ってないけど
俺なんかには、いきなりやって成功するかどうかなんてわからないけど
秀吉にはある程度の成算があったのかも知れない
これは本人しかわからないから言いようがないよ
944 :
日本@名無史さん:02/07/27 02:34
945 :
朝廷+南蛮:02/07/27 03:57
一日40Km可能と言っても、それは1泊2日が限度。
↑
自衛隊の平地での強行歩行行軍の例です。
スポーツとかやっていた方なら判ると思うけど、3日目からの疲労のダメージ
は相当でかい。3日目以降は多分20Kmがいいとこ。←小規模な部隊の場合。
しかも当時の軍装は、今の自衛隊の物より全然重いですよ。
(みんなメダリスト並のスパーマンじゃないと無理ポ)
946 :
日本@名無史さん:02/07/27 04:03
>>945の言い分だと中国大返し自体なかったって事になるな。
つまりifに対するイマジネーションの違いですかね?
信長なきあとのビジョンを明確に描けなかった光秀と
もし信長が消えた時には、というifに対して非常に明晰なビジョンを
たとえ戦地にあっても常に描いていた秀吉の違い
う〜ん、でもいつの世も政治の裏側はドス黒いもんだからなあ
秀吉が潔白だとはどうも信じがたいですね
あの時代は同じ織田軍とはいえ常に互いにスパイを放っておくと
いうようなことはほとんどなかったのですかね
スレ違いスマソsage
948 :
日本@名無史さん:02/07/27 04:20
>>947 光秀の末端の兵士は、本能寺の変の際、徳川家康を攻めると思って
たくらいだから、謀反の計画を知っていたのは明智軍の上層部のみ
と思われ。
やはり左遷された明智がそのうちきれるだろう、と予見していた秀吉の読み勝ち
では?
949 :
日本@名無史さん:02/07/27 04:22
こいつらアフォだろ
疑問なのは、信長の京都滞在時がなぜ無防備だったのか、ということ。
朝廷側の手引きか? あるある。
951 :
日本@名無史さん:02/07/27 04:24
>>946 んなこたあないでしょ
つまり大返しにはなんらかの秘密があるってことじゃないの?
通常であればとても不可能な行軍を可能にさせた何かがあると
それはもしかすると大返しは大軍ではなく(資料ないしね)
秀吉本隊に限った話が膨らんだとも考えられるし(しかも徒歩行軍ではなく)
光秀を囲んだ部隊はあらかじめ・・・(妄想だと言われるか)
長男と一緒に二条城に入っていれば死ぬことはなかったと思われ。
953 :
日本@名無史さん:02/07/27 04:28
頭痛くなってきた
>>953 ハハハ、いいタイミング、ワラタYO!!
普通の人→Aという事実に対して、BやCの史料を見てDという結論をだす。
の人→Aという事実をDという結論にしたい為に、BやCの史料もDを導き出すように解釈する。
956 :
日本@名無史さん:02/07/27 04:47
夏だしなー
まともなスレにはならんよなー
957 :
日本@名無史さん:02/07/27 04:53
お前ら、異論はみんな許さんか?
このスレは自由な考えを楽しむかい。いやなら去れ。
958 :
日本@名無史さん:02/07/27 04:55
論にもなってないしなー
異論だったら歓迎だけどなー
959 :
日本@名無史さん:02/07/27 04:56
>>945 >一日40Km可能と言っても、それは1泊2日が限度。
俺、3泊4日くらいならやった事あるよ。
慣れるとそんなに疲労も貯まらない。
もちろん、ヨロイ兜は持ってないが、そこそこの荷物は持ってた。
960 :
朝廷+南蛮:02/07/27 04:57
>>946 うん。正確に言うと、「大返し」の開始日時が本能寺の前だったのでは?
って疑問をもっています。(デンパだの厨房だの言われても以前から持っている疑問
だからしょうがないでしょ?w)
961 :
朝廷+南蛮:02/07/27 05:00
>>959 あり?本当? だったら俺の疑問もかなり解消w
厨はすぐ逆ギレおこすわ、スレを仕切りたがるわ、救われん。
夏だとかの話じゃないっつーの。
963 :
日本@名無史さん:02/07/27 05:02
>>960 毛利家文書や浅野家文書の存在はどうしますか?
964 :
日本@名無史さん:02/07/27 05:05
賤ヶ岳合戦の反転を説明しる!
965 :
日本@名無史さん:02/07/27 05:08
>>960 「大返し」の開始日時が本能寺の前だったのでは?
オレもこれはありと思ってたんだが
966 :
日本@名無史さん:02/07/27 05:16
嵐の中の行軍とか、夜中の行軍とか、その真偽が知りたい。
山の中走り回ってるのもどうかと。
山陽道なら道も良いはず。
バカにつける薬なし。
秀吉の大返しについて
1.装備について
鎧等は全て外しての行軍(当然だわな)無論、退却にみせる為でもある。
2.強行軍について
あくまで強行は領内に入るまで、
3.姫路での秀吉
兵に対してかなり過度の恩賞
4.姫路〜
普通の行軍スピード
969 :
うちは藤原式家:02/07/27 07:05
井上力著「もう一つの戦国時代 上・下」を読んでからカキコしましょう>駄スレ
970 :
日本@名無史さん:02/07/27 08:20
>>969 井上力は、八切のパクリだって言ってるだろ。
信長が無防備だったのは、秀吉への援軍は表向きで、実際は家康の暗殺を命令していたという説もある。
それを光秀が家康に知らせ、逆に信長を討ちにいったのであの結果が生じたらしい。
実際、討とうと思えば討てる堺にいたのに討たなかった事や光秀の元家臣達(おふくを含む)に対する破格の待遇を考えるとこれはかなり真実に近い気がする。
光秀と家康はつるんでいたんじゃないのか?
信長の面前で失礼な接待を演じてわざと信長に仲違いをみせた。
やられる前に、切り捨てられて立場を失う前に
そう思ったんじゃないでしょうか?
謀略の刺客にあまんじるような人じゃなかったと思うんです。
974 :
>>968:02/07/27 13:43
確か、誰かの本(多分、堺屋かな?)では、大返しに際して
姫路城には、ほとんど金・米が蓄えられていなかった
という記述があったような気がしたのですが・・・・
うろ覚えですけど、そこらへんどうでしょう?
975 :
帷子が三度の飯より好きな夫妻:02/07/27 14:37
>>328 前田家の捏造か知らんが信長の武田征伐に帷子贈って礼をされてる
976 :
日本@名無史さん:02/07/27 15:26
>>972 しかし、そりゃ危険極まりない博打でしょう。
帰路はどうする?
農民にそんな理説いても、許してもらえるとは思わないが。
狩られる確率高いでしょう。
仮にそうだとするなら、もう少し身の回りに人数がいるはず。
977 :
日本@名無史さん:02/07/27 15:31
本能寺には秀吉が居ると聞かされ
光秀は討ち入りいったんだよ。
誰かさんに・・・
978 :
日本@名無史さん:02/07/28 00:54
秀吉や家康は信長健在の頃から天下取りの野心があったのは間違いない
光秀だけにあったとは思えない
日頃から野心のない者に千載一遇のチャンスが生かせないのは常識でしょ
980 :
日本@名無史さん:02/07/28 01:06
アフォ観察スレと某所で笑いネタにされてるはここですか?
>>980 お、夏厨が煽りにきたね!お前の言う某所ってどこだよ?(藁
982 :
日本@名無史さん:02/07/28 02:43
983 :
日本@名無史さん:02/07/28 02:51
初心者は夏厨という言葉を使いたがります。
気をつけましょう。
984 :
日本@名無史さん:02/07/28 02:53
サマ厨使おうね
985 :
日本@名無史さん:02/07/28 02:57
>>983んなの関係なしに、今はマトモな人材が少ないです
これからもマトモな人は減ってく
俺はいたって健全。
語るに足るレスしか相手にしなければ良し。
後は放置。これ最強。
987 :
⊂(ΦДΦ⊂⌒`つ ◆Nm83jaIU :02/07/28 04:13
>>987 「本城惣衛門覚書」だね、これって謎が多いんだよね
関ヶ原の前の、鳥居元忠が玉砕した伏見城攻めの事も書いてるけど、伏見城攻めに参加して
西の丸や本丸に一番乗りしたら誰も居なかったって書いてあるんだよね
現在でも歴史研究家の間で信憑性の是非が問われてる面白い史料だと思うよ
989 :
日本@名無史さん:
>>972 小説ネタを持ち出すなよ。
自分で考えな。