現在の天皇ははるか昔、もともといた太古の天皇を滅ぼして君臨した
天皇であると聞いたことがあります。
日向族、出雲族、ニギハヤヒ、須佐之嗚、などいろいろ聞きますが、
太古の正統な天皇の系譜は誰で、現在の系譜の天皇がいつどのようにそれらを
滅ぼして天皇になるに至ったのか、教えて下さい。
2 :
日本@名無史さん:02/06/15 10:04
海部氏の系図ね。
卑弥呼も倭の五王も系図に書いてあるという。
3 :
日本@名無史さん:02/06/15 10:14
記紀によれば、
武烈−継体の間には明らかな断絶があるようですが。
継体は越前・飛騨にいたわけだから、
大和の大王家とは全く別の血統では?
北朝鮮(高句麗)系の出身とか考えられるのでは?
武烈−継体に断絶などありません。
継体は臣籍降下などして越前にいただけです。要は旧皇族だったのでしょう。
武烈に皇位を継ぐものがいなくなり、継体を呼んできただけ。
一応、天皇家はイザナギ・イザナミ、天照以降、万世一系です。
5 :
日本@名無史さん:02/06/15 10:36
一応、ね。
このスレはそこの欺瞞を暴こうって言う趣旨じゃないの?
そもそも、どこまでが皇族なのさ。
五世孫なんかつれてきたら、西洋だったら別王朝扱いにならないか?
6 :
日本@名無史さん:02/06/15 10:36
>1
ここにも古代史のデムパの犠牲者がひとり
実に懲りないものだ
7 :
日本@名無史さん:02/06/15 10:39
その通り。
そもそも天皇の権威を高めるために、万世一系をでっち上げたとすれば、わざわざ9代も前の仁徳天皇(系図的には5代前)の弟の4代目の継体天皇を越前より呼んできたなんて書かないだろ。
でっちあげるなら適当に武烈天皇に近い歴代天皇の弟の子孫とかにするはず。
よって4が事実。
古代=誇大妄想
私は神武天皇の話なんかしてませんよ。
弥生時代の話しをしているのです。
弥生時代に天皇がいたのかピョン?
>>5 臣籍降下してなければ継体天皇は立派に皇族です。
継体天皇は応神天皇5世孫でしょ。
有栖川宮威仁親王は同宮家10代目で親王。皇位を継承できる立場にあったってことでしょ。
まぁ当時に臣籍降下はなかっただろうし、親王宣旨等もなかっただろうから、どこまでが皇族かとはいえないが、有栖川宮家などの四親王家のことを考えると、継体天皇が継いでも別皇朝にはならんのではないか?
西洋は知らんが。っていうか西洋での例はないのか?
>>11 弥生時代に当たり前、天皇はいたのだピョン。
弥生時代は紀元前3世紀末から紀元後3世紀ころのことをいうんだろ。
神武即位が紀元前660年。紀元前7世紀だろ。
14 :
日本@名無史さん:02/06/15 11:03
大室寅之祐の弟、庄吉(1853〜1926)の孫、大室近祐(1905〜1995)は祖父庄吉から聞いた話として、
「わしが12,3歳のころ、伊藤俊輔は毎日のように家に来て兄(寅之祐)を連れだし、石城山に登っていた」
という。
石城山の練兵場では常時四〇〇人近い兵が銃陣訓練を重ねており、時には近くの皇座山で鹿狩りなども行われていたから、寅之祐の士気を鼓舞して乗馬や剣術を教えたり、同年輩の隊員と角力をとって鍛えるにも最適の道場であった。
このときの寅之祐との深い関係が、維新後の伊藤博文の権力を作ったのである。
孝明天皇暗殺の真犯人が、初代総理大臣になった伊藤博文であったのは真実である。
そして、この暗殺は南朝革命のために睦仁親王暗殺、将軍家茂暗殺とリンクしていた。
彼が、人斬り名人と認められたのは17才頃であるが、大物を斬殺する度に名前を変え、幼名は利助であったが、利介、利輔、俊輔などと名前を変えてきている。
大室寅之祐(明治天皇)は、長州奇兵隊の伊藤博文の力士隊の隊士であったから、伊藤の子分同様であった。
大室寅之祐と、殺害された睦仁親王(孝明天皇の実子)は性格も能力も全く異なり、東京遷都のとき京都で仕えていた女官を全員解雇したのも、口封じの意味があったのだろう。
さて、「できもしない佐幕攘夷」を主張し続けて政局を混乱させていた北朝系(足利義満の後裔)の孝明天皇が、「倒幕南朝革命」を指向した薩長同盟と岩倉具視らの演出によって暗殺されたのは、慶応2年(1866年)12月25日洛中下京区岩滝町の堀河紀子邸であった。
同月中旬、英国軍艦に便乗してひそかに上京し、薩摩屋敷をアジトにしていた長州力士隊の忍者集団は、品川弥二郎らの手引きで堀河邸の警備につき、痘瘡の治った孝明帝が愛妾紀子のもとへ行幸してくるチャンスを待った。
やがて25日の明け方、便所の床下に隠れていた隊長の伊藤俊輔(博文)が、自ら愛用の忍者刀を天皇に突き刺し殺害した後、隊士と共に悠々と堀河邸を立ち去り、待機させておいた英国艦に乗って引き揚げた。
(便所は中二階式になっており、落下してくる排泄物を大きな箱で非人が受け止め洗浄する仕組みになっていた。当時、非人の代わりに伊藤博文が潜んでいたわけだ。)
こうして孝明帝が無くなると、翌3年正月9日、孝明帝の子の睦仁親王が新天皇として踐祚した(16才)。
ところが親王は、以前記したように以下のような資質の持ち主で、
>大室寅之祐(明治天皇)と睦仁親王は正反対の性格と体格で誰でも一目でその違いがわかった。
>寅之祐は勇壮で体が大きく、乗馬、相撲が得意だった(もと、力士隊にいたから当然か)。
>睦仁親王は女のように華奢で病気がちで、乗馬ができなかった。
>寅之祐は達筆だったが、睦仁親王は字が下手だった。
>睦仁親王は幼時、種痘をしたはずなのに、寅之祐の口の周りには5,6個の痘痕があった。
性格だけは父の孝明帝に似て強情で「幕府擁護」を主張したから、岩倉らはついに邪魔者として片づけることに決めて、7月10日猿に引っ掻き傷をつくらせた後毒殺した。
遺体は母方の中山家に運び出して秘かに葬ったという。
官僚と政治家の情報独占がこのような事件を可能にしたと言えよう。
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当時、公用で出張する伊藤博文のために英国艦隊のキング提督が軍艦乗り込みの許可証を与えていた、といわれている。
藩政府も「林宇一(伊藤の変名)を英国艦隊乗組仰付らる」という辞令を発して支度金として300両を与えていた。
実際、英国艦一隻が常時馬関港(下関)に停泊しており、伊藤たちを運んでいたという。
神武紀元ですか
おそれいっただピョン
16 :
日本@名無史さん:02/06/15 11:06
継体天皇は正当な天皇ではありません。
日本書紀に、継体天皇存命中に「日本の天皇、太子、皇子が死んだ」
とでています。これは、継体天皇が正統な天皇でないことを示しています。
>継体天皇は正当な天皇ではありません。
なにをもって正当とする?
あなたが決めるの?
正当(あるいは正統?)って、どこからどこまでだ?
もし「道徳」論議なら史学じゃないから、よそでやってくれ
>よそでやってくれ
ハゲシク同意
でも「道徳」じゃなくて「正閏(王朝の正統性)」な
史学では扱わんな、政治談義なんだから
20 :
日本@名無史さん:02/06/15 12:18
でも、袁本杼命(継体)はまさにその正統性が疑われているんですけどね。
応神五世孫も疑わしいですし。
要するに、天皇家の正統性に疑いを持たせて、万世一系神話を
壊したいというだけでしょ・・・意図みえみえ。低劣
しかし結局は明治天皇の功業の故の近代天皇制という罠