1 :
日本@名無史さん:
鎌倉幕府の復活萌え。
2 :
日本@名無史さん:02/06/14 23:01
時行って何年生まれだったんだろう?
3 :
日本@名無史さん:02/06/14 23:07
邦時がかわいそうだ・・・・。
1316年生まれ
5 :
日本@名無史さん:02/06/17 19:23
一旦鎌倉は陥落しちゃうんだっけ?
逃げてきた直義と京から来た尊氏と合流後に奪回すると思ったけど、
難攻不落のはずの鎌倉もこのあたりになるとコロコロ落ちるね。
>>5 「切通し」だっけ?鎌倉は大軍が一度に攻めて来れない様に
鎌倉に通じる道は全部細くしてるというやつ。
鎌倉一回逝った事あるけど、海からなら簡単に攻めれそうな感じが・・・・・。
>>6 海側から攻め落とされたじゃん・・・。船じゃないけど・・・。
もしかして何も知らないのか?
>>7 信濃あたりに逃げた北条氏が鎌倉を取り返しに来た・・・・・ぐらいしか知らん。
帰った方がいい?
10 :
日本@名無史さん:02/06/17 22:06
成功してれば南北朝の動乱とかはなかったかもしれんな。
時行(もしくは邦時)の生年、1316年はあまりにおかしくない?
だって、北条高時の生年が1303年だったと思ったが。
余談だが、北条時行が龍ノ口(今の藤沢市片瀬のあたり)で処刑されたのは
鶴ヶ岡の記録によると、5月20日。
鎌倉滅亡を2日後に控えてのことだった……。
合掌……
12 :
日本@名無史さん:02/06/17 23:31
>>6 いや実際新田義貞は大苦戦して、海側の潮がひいたところを
渡って攻めたのよ。
切通し自体は残っていたはずなので要塞都市としての鎌倉は
まだ残っていたはずなのだが、みんな海から攻めるように
なったのか?
北条時行って不死身? 俺は超カッコイイと思う。
ちょっと待ったコール!(ネタ古〜)
新田義貞が稲村ヶ崎(稲村ジェーンの舞台でもある)から
鎌倉に侵入したのでないことは証明されたぞ?
あの近くにある「霊山」という所から侵入して鎌倉を落とした。
実際に稲村ヶ崎から侵入したのは義貞の親戚・大館宗氏。
もちろん、殊勲者になれず戦死。
と言うより、
鎌倉が山に囲まれているから要害って説は「神話」に過ぎないと思う。
15 :
日本@名無史さん:02/06/19 00:57
で、
結 局 北 条 時 行 は 何 が し た か っ た の ?
17 :
日本@名無史さん:02/06/19 01:13
そりゃあんた、幕府復興じゃろが
18 :
日本@名無史さん:02/06/19 01:56
北条時行も数奇な運命だな。
滅ぼされた鎌倉幕府執権の遺児。
それがいつしか南朝方に。
19 :
日本@名無史さん:02/06/19 04:09
足利直義が護良親王を殺害したのは「時行と組まれると厄介だから」なんだよな。
20 :
日本@名無史さん:02/06/19 07:00
時行萌え〜!は確かだが、中先代の乱を詳しく記述した本(または資料)
っていいのある?
大抵の歴史書じゃ、南北朝の動乱の記述中の数行のエピソードみたいな
扱いで触れられているだけ。漏れのご先祖の一人がこの乱で戦死
してるって家系図に出てるんで興味あるんだけど・・・。
21 :
日本@名無史さん:02/06/19 10:04
この頃さぁ、東北とか北陸でも残党が蠢動してるじゃない?
京都でも。
詳しくご教授してくださる方希望。
22 :
日本@名無史さん:02/06/19 14:10
当世でも自民・社会の連立政権なんてものがあったしな
政治の世界では敵同士がくっつくのは珍しくない
23 :
日本@名無史さん:02/06/19 18:25
信濃のどの辺で挙兵したのかが気になる
24 :
日本@名無史さん:02/06/19 21:21
時逝の子孫はどうなったの?
25 :
日本@名無史さん:02/06/19 21:24
>24
北条しんご。
戦国魔神ゴーショーグウン!!
26 :
日本@名無史さん:02/06/20 02:18
>>24 横井氏や平野氏などが時行の子孫らしいけど本当かな?
27 :
日本@名無史さん:02/06/20 02:24
て有価、北条氏の自称ではなくハッキリした子孫ての残ってるんか?
28 :
日本@名無史さん:02/06/20 03:05
後北条氏の子孫なら狭山1万石→子爵だけどね。
29 :
日本@名無史さん:02/06/20 10:48
名越とかが越中で同時挙兵してなかったっけ?
30 :
日本@名無史さん:02/06/20 11:22
31 :
日本@名無史さん:02/06/20 13:37
32 :
日本@名無史さん:02/06/20 15:29
飛騨の江馬氏も北条の子孫らしいですね。
まぁ時行の子孫ではないですが。
33 :
日本@名無史さん:02/06/20 22:43
デラーズフリートみたいでカコイイ。
と、ガンオタぶって叩かれてみるテスト。
34 :
日本@名無史さん:02/06/20 22:56
漏れは北条泰家の子孫だが、何か?
35 :
日本@名無史さん:02/06/21 00:19
まあハッキリした子孫も残さず壊滅した著名氏族の中でも
北条氏と高氏は5本の指に入ると思われ。でも北条氏などは
あれだけ支族を分派しながら歴とした子孫が伝わっていないと
いうのが本当に不思議。尊氏の奥さんだって北条氏出身
なのに・・・。その辺りの絡みで1つや2つの家柄が幕府内に
残っていてもおかしくないだろうにと思うが。
>32
最近の研究じゃ否定的見たいっすよ。
36 :
日本@名無史さん:02/06/21 00:29
成功してたら楽しかったろうな。
南北朝と東西幕府の四つ巴の戦い。
萌え過ぎて損はない。
37 :
日本@名無史さん:02/06/21 01:44
38 :
日本@名無史さん:02/06/21 06:54
>37
毛利家臣国司氏。
39 :
日本@名無史さん:02/07/02 02:30
40 :
日本@名無史さん:02/07/19 23:35
北条氏や高氏の子孫で、近世まで旗本なんかで残っているところって
ある?
41 :
日本@名無史さん:02/07/20 03:13
>>11 >余談だが、北条時行が龍ノ口(今の藤沢市片瀬のあたり)で処刑されたのは
鶴ヶ岡の記録によると、5月20日。
鎌倉滅亡を2日後に控えてのことだった……。
?
鎌倉滅亡は 1333年5月22日
時行処刑は 1353年5月20日
中先代の乱で担がれた時行が処刑されるのは
先代が滅びた(鎌倉滅亡の)20年後ですね。
中先代が先代より先にやられてしまってはタイムマシン物のSF
になってしまいますね。(W
42 :
日本@名無史さん:02/07/21 07:22
時行萌え〜〜
厨房時代は中先代で死んだものとおもてたよ。長生きしているのを知ったときは
正直ショックですた。
43 :
日本@名無史さん:02/07/21 17:00
時行ほど数奇な運命をたどった人物はいないのでは・・・・
最後には南朝に属し、父を討った新田氏とともに足利と戦う
ことになるとは・・・
44 :
日本@名無史さん:02/07/22 12:17
そう言えば、
>>11 >時行(もしくは邦時)の生年、1316年はあまりにおかしくない?
だって、北条高時の生年が1303年だったと思ったが。
この1316年というのは、高時の養子阿曾弾正治時の生年に近いの
では?赤坂城攻めの大将。こちらは1333年7月9日京の東山阿弥陀峯
にて処刑。
新田義貞の鎌倉攻略=北条一門滅亡のとき(1333)、落ちのびた亀寿丸
(後の高行)はまだ幼少。生年は1320年代末では。
45 :
日本@名無史さん:02/07/22 13:34
でも北条氏の関係者ってなんかいいよね。
名君も暴君も暗君もいてさ、末期にはさんざん
汚職してめちゃくちゃやって滅んでいくんだからね。
まあ昔の人はやりたいことやった分、最期はびしっと
責任取るからいいよね。今の政治家どもはやりたいこと
やるだけやっといて、あと知らぬ存ぜぬ記憶にござらぬだからね。
46 :
日本@名無史さん:02/07/26 17:35
あげ
47 :
日本@名無史さん :02/07/26 17:40
北条時行と北条泰家の人生は波乱に満ちているよ。面白い。
48 :
日本@名無史さん:02/07/26 18:21
北条は後にゴーショーグンのパイロットになった。
49 :
日本@名無史さん:02/08/11 01:01
だな
50 :
日本@名無史さん:02/08/23 20:06
age
51 :
日本@名無史さん:02/08/23 23:25
あげ
52 :
日本@名無史さん:02/08/28 18:16
( ´D`)<もっと語ってくらしゃい てへてへ
53 :
日本@名無史さん:02/08/28 18:54
>>44 単純に計算すると、北条時行は北条高時が13歳の時にもうけた子供になる。
まあ!なんておませな執権様!
と思ったけど、武田信玄の最初の正室も難産で亡くなっていたのを思い出して
なぜか納得。
54 :
日本@名無史さん:02/08/28 18:57
だから、それは間違いだって。
55 :
日本@名無史さん:02/08/28 22:31
高時って知恵遅れなんだぜ
56 :
日本@名無史さん:02/08/28 22:36
心配になってきたから、このスレ読む家具誌の
レベルチェックしてみるテスト
問い: 鎌倉幕府の最後の執権はだれですか?
57 :
日本@名無史さん:02/08/29 00:12
最後の執権
58 :
日本@名無史さん:02/08/29 00:14
赤橋守時
59 :
日本@名無史さん:02/08/29 00:54
北条時行は南朝に加わったが、結局これが南朝の命取りになった。
というのは北畠顕家と北条時行が青野原(関が原)で足利軍に対象し、もしここで福井の新田義貞と合流していれば、
歴史は変わったかも知れない。
なにしろ天武天皇も徳川家康も関が原で勝って天下を取っているんだから。
しかし、北条時行は新田と合流することを頑強に拒否(まさに親の敵だからな)。
で、北畠軍は伊勢に向かい、新田と合流できず、足利軍に個別に撃破されてしまった。
うーん、歴史ってホントに面白いですねえ。
60 :
日本@名無史さん:02/08/29 08:50
北畠顕家の転進を時行が原因というのはあまり支持する人は多くないのでは。
時行はそれほど重要な決定に影響できるほどの勢力ではなかったというのが根拠。
顕家自身が義貞との対抗意識から合流しなかったという方が説得力があるような。
>このスレ読む家具誌の
家具誌って、そこまで変換せんでもイイような。
始めて見るパターンだな。
62 :
日本@名無史さん:02/08/29 10:31
>>61 ヤシでなくインテリアデザインって読むんだろ。(わ
63 :
日本@名無史さん:02/08/30 14:44
なかなか世の中に出ていない情報が多くためになります。
64 :
日本@名無史さん:02/09/01 03:16
自分も、新田がいやだからと時行が反対して伊勢に向かったというのは
どーも納得しきれないものがある。
いくら南朝にくだったとはいえ元朝敵だし、そんな発言力なさそうな気がする。
しかし、ほんとにもったいないことをしたとは思う>顕家の転進
65 :
日本@名無史さん:02/09/01 21:32
青野原で、足利方の援軍と激突した時点で、顕家軍は甚大な損害を受け、
新田軍と合流しても足利方に対抗すべくもなかったと、その時の事情を
分析している人もいるね。
66 :
日本@名無史さん:02/09/13 13:44
中先代の乱萌え
67 :
日本@名無史さん:02/09/16 05:59
中先代には諏訪氏だけが味方したの?
68 :
日本@名無史さん:02/09/17 08:11
あ
69 :
日本@名無史さん:02/09/25 23:45
>>67 名越とか北関東の小山氏とかいろいろ参戦してるよね。
70 :
日本@名無史さん:02/09/30 02:25
>>69 小山って、後醍醐が兵を上げたとき呼応してなかったっけ。
藤氏一揆とかけっこう複雑な動きをしてる気が。
71 :
日本@名無史さん:02/10/03 04:53
中先代あげ
73 :
日本@名無史さん:02/11/11 12:16
北条時行age
中先代の乱age
75 :
日本@名無史さん:02/12/02 03:17
そのまえの足利高氏と新田が挙兵したのはどうして同じときなの?
76 :
日本@名無史さん:02/12/02 10:31
同じときというより、六波羅での高氏の勝利を知って、高氏が西にいる間に
自分のチャンスあり、と鎌倉に突進したんじゃないの。
77 :
日本@名無史さん:02/12/02 12:27
>六波羅での高氏の勝利を知って
知ってはいないと思う。
当時の情報伝達の手段からして、日付的にかなり無理ないですか?
しかし、六波羅陥落のほうが先だったため、やっぱそういう風に
思っちゃうんだろうね、ただでさえ
新田<足利
という実力・世間評価だったのが、益々差が付く結果に・・・
せめて一日でも早く、鎌倉が先に落ちていれば、世間・親政政府は・・・
新田=足利
ぐらいの評価はしてくれたかもしれない・・・
78 :
日本@名無史さん:02/12/02 12:52
鎌倉が先に落ちても、千寿王の手柄となるだけで、新田の天下には
ならないという罠。(w
79 :
日本@名無史さん:02/12/02 13:03
>知ってはいないと思う。
>当時の情報伝達の手段からして、日付的にかなり無理ないですか?
そのつっこみは来るかなとおもったんだけど。確かに正論。
翌日だからね。ただ、高氏が軍事行動に入って既に一週間すぎている
ので、西の縁者からの情報通報などの段取りを既につけてれば、のろし
によるネットワークとか、1日での急報は可能なんじゃないかな。
まあ、貧乏武家の新田にそこまでのネットワークがあったかどうかは
あやしいけど。
80 :
日本@名無史さん:02/12/02 20:02
>千寿王の手柄となるだけで
ま、そうだろうね。
でもやっぱし実働した新田の評価もそれなりに。
だから
新田>足利
にはならないけど、せめて
新田=足利
ぐらいの力関係にはなれた”かも”と思う。
>>79 あんまりにも日付が近いし、千寿王が最初から加わってる点からして
「○月○日ごろ、せーのーで、でやるよ!?」
という予定のようなものはあったのかも、と妄想。
81 :
日本@名無史さん:02/12/02 21:44
なかせんだいっていう響きがかっこいい
82 :
日本@名無史さん:02/12/02 21:49
アンモナイトとかいそうな時代名だな・・・・。
83 :
日本@名無史さん:02/12/02 22:13
でも、源氏って経基から子孫の足利に至るまでつくづく外道が多い
と思いません?
それに比べ平家は北条も含め、情に厚いイメージがあるのですが。
84 :
日本@名無史さん:02/12/02 22:17
>>80 確かに、示し合わせて「よーいドン」というのもロマンを感じるけど、
千寿の参戦は偶然の部分が大きいと考えるのもまたロマンを感じるよ。
以下想像。
登子ママ「あの人何にも言わないで京へとすっとんで行っちゃたけど
どうも、ミョーに嫌な予感がするわ。むむ。」
千寿王母子、登子ママの機転で鎌倉脱出、高氏挙兵にあやうく命拾い。
足利庄を目指す。
北へ向かう途上、新田の惣領が鎌倉を目指し進軍してくるのにばったり。
そこで「勝馬には乗らないと」と登子ママ。>>千寿王新田軍に参戦。
登子ママ「新田の旗色が悪くなったらさっさと逃げるのよ、千寿。
わかったわね。」
ところが意外にもあっさりと鎌倉陥落。
登子ママ「あらまあ、うちの一門はなんでこんなに弱いのよ。
まあいいわ。これで鎌倉は千寿のものね。」
と、こんな感じだったのでは。
85 :
日本@名無史さん:02/12/02 22:19
>>83 北条は平家でなく「平氏」でしょ。瑣末レスすまそ。
子孫といわれてる横井氏について
横井という地名は尾張の荘園の一角であり庄内川に面する土地
で横江ともいう。鎌倉と関係の深い寺社があったらしい
横井氏はその後、本拠地を海部郡の赤目に移し、祖父江、佐屋に分家をおく
戦国時代には長島城攻めに功績をあげるなど地味ながら活躍している
江戸時代には1万5千石の禄をうけている
本家(赤目)では、今もなお名前に「時」を残している
87 :
日本@名無史さん:02/12/04 20:02
その子孫の庄一はグアム島に30年間潜伏した
88 :
日本@名無史さん:02/12/05 11:12
>>86 ただし実際のところ、本当に子孫かは不明。
あげ
90 :
日本@名無史さん:02/12/10 22:04
91 :
日本@名無史さん:02/12/21 15:19
足利高氏と新田のシンクロニシティについての資料ないですか?
92 :
日本@名無史さん:03/01/04 06:36
示し合わせていた可能性ってないの?
93 :
日本@名無史さん:03/01/04 21:26
中先代の乱=未練がましい、時代の流れを読めない
と連想してしまう罠。
新田と組んで、お頭を据えていたなら鎌倉幕府再興も夢じゃなかったと思うが。
94 :
日本@名無史さん:03/01/04 21:36
お頭って具体的には誰?
95 :
日本@名無史さん:03/01/06 19:24
96 :
日本@名無史さん:03/01/06 20:40
>>65 第一陣を文字通り蹴散らして、第二陣とは触れてもいないという東北勢が、そんなに損害受けてる?
97 :
日本@名無史さん:03/01/06 21:55
>第一陣を文字通り蹴散らして、第二陣とは触れてもいないという東北勢
ソースは?
(^^)
99 :
日本@名無史さん:03/01/14 19:59
光厳天皇の即位取り消しを取り消そう!
100 :
日本@名無史さん:03/01/14 20:36
100げっと。
>>99 最近『地獄を二度も見た天皇 光厳院』っていう本がでたよね。
101 :
日本@名無史さん:03/01/15 02:46
>>87 その方は、横井の家に後家で入った女性の連れ子だから正式には横井の直系でもなんでもないよ。
102 :
日本@名無史さん:03/01/15 11:34
>>86 >江戸時代には1万5千石の禄をうけている
遅レスだけど
嘘はいかんよ
(^^)
104 :
日本@名無史さん:03/01/17 01:09
age
105 :
日本@名無史さん:03/01/27 10:33
光厳天皇の即位事実が認められない原因は、現在においてもどこにあるの?
執権位争奪戦
107 :
日本@名無史さん:03/02/11 07:35
光厳天皇を京都から追い出したのは足利
108 :
日本@名無史さん:03/02/19 23:21
反足利としては光厳天皇が皇位についた事実を尊重したい!
109 :
日本@名無史さん:03/02/19 23:26
>>105 特にないです、ただ昔後醍醐天皇が「俺は退位していない、行幸してただけだ!」って
言い張ったからです。
110 :
日本@名無史さん:03/03/02 02:13
しかし後醍醐天皇は三種の神器を渡したではないか‥
111 :
日本@名無史さん:03/03/03 02:55
そうだよね。
後醍醐天皇のやってることは挙動不審すぎ。
南北朝問題とは無関係に、光厳天皇は認めるべき。
96後醍醐 97光厳 98後醍醐重祚 99光明 100崇光
101後村上 102後光厳 103後円融 104後小松
で決まり。
113 :
日本@名無史さん:03/03/15 17:26
>>112 後醍醐は元徳と諡されるはずだったはず。それを使えば良い。
(結局は、異例の、本人の希望の方が無理矢理採用。)
114 :
日本@名無史さん:03/03/22 03:14
96後醍醐〜97光厳〜98元徳〜99光明〜100崇光〜101後村上〜102後光厳〜103後円融〜104後小松
115 :
日本@名無史さん:03/03/22 03:16
>>113 >後醍醐は元徳と諡されるはずだったはず。
それってどこに書いてあるの?
ソースの明示きぼんぬ。
116 :
日本@名無史さん:03/03/22 03:25
元徳3年に、後醍醐天皇が光厳天皇へ譲位したわけだな。
117 :
日本@名無史さん:03/03/30 07:27
>>116 そう。なので正しくは、
>>114 96元徳〜97光厳〜98後醍醐〜99光明〜100崇光〜101後村上〜102後光厳〜103後円融〜104後小松
118 :
日本@名無史さん:03/04/05 20:23
元徳天皇と光厳天皇を正統とするにはどういう手続きが必要なの??
120 :
日本@名無史さん:03/04/08 21:07
光厳天皇は南北朝うんぬん前で、そもそも現在の皇祖。
ひたすら長子優先、実系優先の原則をつらぬけば、旧皇族では筑波常治がトップ。
おじいさんの晃親王は伏見宮邦家親王の長子だからね。
東久邇さんは、原則を貫いた結果ではなく女系も考慮に入れている。
121 :
日本@名無史さん:03/04/08 21:16
んで、筑波常治の子孫はどうなったの?
後醍醐の子孫はもう残っていないはずなので。
122 :
日本@名無史さん:03/04/15 00:55
筑波常治の子孫は、皇籍離脱が早かったので、皇位継承権を紛失…
(^^)
124 :
日本@名無史さん:03/04/18 02:47
筑波家にも皇位継承順位を付与していいと思うが
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
126 :
日本@名無史さん:03/04/26 01:22
筑波家の皇籍離脱を取り消すだけでいいはず。
しかもそれは皇室会議で決定すればいいはず。
127 :
日本@名無史さん:03/04/26 22:39
南北朝のスレにまで皇位妄想オタがまぎれこんできたな。
128 :
日本@名無史さん:03/05/02 20:11
あれ、筑波って北朝ではなかったか?
129 :
日本@名無史さん:03/05/02 20:19
伏見宮→山階宮アキラ→キクマロ→筑波侯爵だから北朝
本題に戻そう。
北陸で呼応し挙兵した名越時章についてはどうだろうか?
131 :
日本@名無史さん:03/05/11 03:21
北陸も、坊さんになってた息子を親王にもどしたからこそ。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
133 :
日本@名無史さん:03/05/25 05:56
還俗して親王いっぱい乱立ってのが痛い
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
135 :
日本@名無史さん:03/05/28 17:21
光厳天皇の即位取り消しを取り消そう!!!
136 :
日本@名無史さん:03/06/05 11:58
反足利&北条再興勢力は
葦名盛員・葦名高盛・北条時行・諏訪頼重・三浦時継・名越時兼・西園寺公宗・北条泰家・
諏訪時継・曾我道性・名越時如・安東師季・安達高景など(おもに東北・甲信越地方)
137 :
日本@名無史さん:03/06/15 00:27
光厳天皇だけは北朝天皇とすべきではないですな。
138 :
日本@名無史さん:03/06/25 00:37
北朝天皇は足利によって擁立されたものだとすれば、
光厳天皇はむしろ、足利によって京都を追い出されている。
1年と10日か。凄いね、こりゃ
140 :
日本@名無史さん:03/06/28 20:38
大河では大仏家だっけ、
北条の降将が新田の軍門につらなってたけど
そういう裏切った分家はその後どうなったの?
141 :
日本@名無史さん:03/06/28 20:42
つか、後村上・長慶・後亀山の3人こそ歴代からはずすべきだろう。
光厳院以下のいわゆる北朝天皇こそ、あらゆる意味で正統の天皇。
142 :
ぷらっと ◆NrzNAFPLAQ :03/06/30 01:22
確かに無理矢理である点は否めない。
143 :
日本@名無史さん:03/06/30 02:24
学問的には後醍醐、光厳、後醍醐重祚、光明、崇光、
後村上、後光厳、後円融、後小松‥‥が常識
深夜にせっかく上がってるんでネタ入れ
天皇中心の記述で余り重視されていないが結構支持か多かった気がする
が時計を逆戻りさせるというか北条氏が全国の守護など独占状態
幕府も実権は得宗家の私物化とやはり無理だったのでは。
太平記では殆どの血縁者が仏門に入れられて年配の助言者がいなかった
とか書かれていた。
ネタ入れもいいが
まずは日本語勉強してくれ
だから年少者向けの太平記では、はっきりと後醍醐天皇の政治は
期待外れだったので、これなら北条氏の政治がマシだった
という世論を背景に北条残党の反乱が相次いだと記述される。
太平記の元版は南朝の視点から書かれているから、そのような
見解が書かれるはずがないが、太平記の上でも北条時行の軍勢が
五万騎と書かれているのは、天皇の敵側の軍隊が何時も
過大に記述されている事を差し引いてもかなりの支持があったという事だろう。
天皇の順番はまたややこしくなるから今の順番でいいのでは
あとは後醍醐天皇に南北朝の動乱を招いた責任があり北朝の天皇の方が
人格者が多かったでいいのでは。
147 :
日本@名無史さん:03/06/30 08:44
反乱は相次いだけど、ほとんど実を結んでないよね
これだけTOP→消え失せた一族も珍しい
>>146 滅茶苦茶読みにくい。文章の区切りを大切に。
だから年少者向けの太平記では、
はっきりと後醍醐天皇の政治は期待外れに終わり、これなら北条氏の政治がマシだった
という世論を背景として、北条残党の反乱が相次いだと記述されるのだろう。
太平記の元版は南朝の視点から書かれているから、そのような見解が描かれるはずがないが、
太平記の上でさえ北条時行の軍勢が五万騎と書かれている。
周知の通り、天皇の敵側の軍隊が何時も過大に記述されている事が多く、そういった誇張
を差し引いても五万騎と号するに値する大きな支持があったという事だろう。
天皇の順番はまたややこしくなるから今の順番でいいのでは。
また、後醍醐天皇に南北朝の動乱を招いた責任があっただろうし、
北朝の天皇の方に人格者が多かった、でいいのでは。
特に二段落目が酷い。長い内容を一文で書かないでくださいね。文意がぼやけますので。
校正どうも
>見解が描かれる
絵ではないから記入されるぐらいがいいんですが。
まあ本題としてなぜ中先代の乱、鎌倉・北条幕府復権が失敗したかと言うと
支持勢力が御家人層(大土地所有の東国武士、得宗被官)
倒幕勢力が悪党勢力(商工業基盤の西国武士)
で悪党などの新興勢力を組入れた新しい幕府
室町・足利幕府が天皇親政に代り選択されたからでは?
後醍醐天皇に人徳が無いと言うか、そもそも自分の子孫を
皇位につけたいというのが倒幕の発端と言うのが一番痛いが
左翼的なのも嫌なので余り個人を批判しても仕方ない。
湯口聖子女史のマンガで「夢語り」の商業誌のラストが
北条時行が討ち取られて終わりだったと思う。
歴史的な見解は恐らく永井路子先生や井沢元彦先生の本などを
読んで覚えているのでオリジナルではない。
参考文献は今手元にあるのが「歴史と旅・臨時増刊号49太平記の100人」
秋田書店、平成3年7月10日発行
北条泰家は 西園寺と計って後醍醐天皇の暗殺を計画して失敗したときいていますが
そのあと西園寺や泰家はどうなってんでしょうか?
>>150 西園寺公宗は出雲に流罪のはずだったが
護送役の名和長年が切ってしまう。
が奥様が妊娠中で死後生まれた実俊がのち右大臣。
北条泰家は行方不明。
>151
ありがとうございました。
153 :
日本@名無史さん:03/07/06 09:39
行方不明の泰家は今もマニラあたりに潜伏していそうだ。
154 :
日本@名無史さん:03/07/06 10:13
後村上、長慶、後亀山の3代は歴代からはずすべきです。
北朝こそが真の正統の天皇です。
96代 後醍醐院
97代 光厳院
98代 後醍醐院(重祚)
99代 光明院
100代 崇光院
101代 後光厳院
102代 後円融院
103代 後小松院
104代 称光院
155 :
日本@名無史さん:03/07/06 13:03
この乱を背景にした歴史小説ってないの?
156 :
日本@名無史さん:03/07/06 13:28
>154
98代も余分
157 :
日本@名無史さん:03/07/06 13:31
ヒジョーニキビシーッ!
158 :
日本@名無史さん:03/07/10 21:21
泰家ってマジどの資料見ても終わり方書いてないよね。
業火の中で劇的に死んだ兄とはあまりにも対照的。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
160 :
日本@名無史さん:03/07/13 01:20
元徳院を諡とする
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
162 :
日本@名無史さん:03/07/17 04:45
元徳3年に後醍醐天皇が光厳天皇へ譲位
163 :
日本@名無史さん:03/07/21 12:13
age
164 :
日本@名無史さん:03/07/26 22:50
光厳天皇はたしかに3種の神器をうけとっているので、
皇位継承としての手続きは問題ないと言えますな。
(^^)
166 :
日本@名無史さん:03/08/02 10:04
96元徳〜97光厳〜98後醍醐〜99光明〜100崇光〜101後村上〜102後光厳〜103後円融〜104後小松
167 :
日本@名無史さん:03/08/02 10:11
そもそも実在してたのか>泰家
168 :
日本@名無史さん:03/08/02 15:23
足利よりも北条の方が、統治者として優れているな。
北条は、なんだかんが言っても、善政をしいていたんじゃないか?
元寇も乗り切ってるし。
それに比べて足利の世は、内輪もめが絶えず、しまいには日本中を戦乱に巻き込みやがった。
一休さんのパパってだれ。
170 :
日本@名無史さん:03/08/02 16:57
北朝の後小松
171 :
日本@名無史さん:03/08/02 16:59
実は和尚さん
172 :
日本@名無史さん:03/08/02 18:14
なんで信州の諏訪氏が時行に加担したの?
173 :
日本@名無史さん:03/08/03 18:36
諏訪氏は得宗身内人の家柄
175 :
日本@名無史さん:03/08/03 21:59
北条氏は、傍流でも生き残った一族はいないの?
名越とか大仏とか赤橋とか、その他なんでもいいので、誰か戦国・江戸・明治まで
残っている一族はいないの?
176 :
日本@名無史さん:03/08/03 22:08
>175
信憑性は?だけど
飛騨の江馬氏は北条の子孫と称している。
>>176 レスありがとうございます。
飛騨の江馬氏ですか。
初めて知りました。
次の休みに調べてみます。
その他にも、末裔を知っているかたがいらっしゃいましたら、情報をお寄せ下さい。
178 :
日本@名無史さん:03/08/03 22:42
幕臣にもなった横田氏とか
後北条家臣の田中氏は板部岡江雪斎の子孫岡部氏もそうでは?
そうそう後北条氏も系図には子孫としている。
>>178 またまたありがとうございます。
横田氏なだ、結構有力な家がのこってるんですね。
これは調べがいが出てきました。
あれだけ強大な一族が、全く跡形も無く消えてしまうとは、どうしても思えませんでした。
たださすがにこれらの分家の末裔では、北条を再び名乗るほどの力は無かったんでしょうね。
ただ、伊勢氏はちょっと(w)、明らかに末裔では無いでしょうね。
多米家も
時行落胤が先祖と称している
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
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182 :
日本@名無史さん:03/08/09 01:47
ボルジョアってやつは基地外か?
そこら中できもいAA張ってやる。
死ねよ。
北条時行って、北畠顕家と組んでいたとき、新田義貞と合流するのを渋ったらしい。
皮肉なことに、10年以上のち、新田なんとか(名前忘れた、義貞の息子?)に従って鎌倉に攻め入るも
足利尊氏に破れ、竜の口で処刑された。
おしいな、もう数年我慢してれば尊氏も寿命で逝ってたのに。義栓も病気ですぐに逝ってるからなあ。
義栓が病気で伏せてる時か、子供の義満が将軍になった時に、時行が反乱を起こしていれば、結果はわからなかったのに。
183 :
日本@名無史さん:03/08/14 23:57
光厳天皇はたしかに3種の神器をうけとっている
皇位継承としての手続きは問題ないと言えます
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
185 :
日本@名無史さん:03/08/15 16:15
96元徳〜97光厳〜98後醍醐〜99光明〜100崇光〜101後村上〜102後光厳〜103後円融〜104後小松
江馬氏は、北条家一門だったが、三浦泰村の乱で三浦方に加担した疑いを持たれて、
遠江に流されたそうです。その後復活して、飛騨に移ったのでしょうか?
187 :
日本@名無史さん:03/08/18 11:42
江馬は平経盛の系統じゃねえの。
>>175 元おニャン子の名越美香、演歌の金沢明子
>>187 詳しくは知らないのですが、江馬氏は北条一門だそうです。
>>188 名越と金沢!まだ残ってたんですね。感動です。
しかも金沢明子さんは、実時公ゆかりの称名寺がある横浜市金沢区の出身らしいですね。
これは間違いなく、金沢北条氏の末裔でしょう。
191 :
日本@名無史さん:03/08/20 02:45
>>189 ネタですか?
ちなみに金沢貞顕の系統は幕府滅亡時に滅んでいます。
192 :
日本@名無史さん:03/08/22 19:37
ネオ鎌倉幕府についてかたろうぜ!
193 :
日本@名無史さん:03/08/31 04:41
北条氏の政治がマシだった
>>186 金沢貞将,忠時は鎌倉と運命を共にしたけど伊勢にいた敦時や、
九州にいた実政流金沢氏の高政、貞義兄弟は翌年九州で反乱を起こしてるし
関東でも北上させた金沢軍の別働部隊が鎌倉から隔絶され、
偶然生き残ってしまったため、かなりの数の金沢氏所属の文官が室町幕府に
使えていますが。この中に金沢の傍系がいた可能性は否定できないと思うのだが
195 :
日本@名無史さん:03/08/31 22:47
196 :
日本@名無史さん:03/09/07 23:17
もっと語ろうぜ
age
197 :
日本@名無史さん:03/09/07 23:34
>>191 家紋にミツウロコ(三鱗)つかってるけかどうかで確認できればいいんだけど。
ところで後北条の伊勢新九郎が、北条継いだとき、北条氏の子孫の女(老婆)
と結婚したけど、あれはどの系統の子孫?(後北条は血統ではつながってない
けど。)
早雲は北条名乗っていないはずですが
名乗ったのは氏綱から、その話のソースは?
ごめん、氏綱も伊勢新九郎名乗ってたんだね
逝ってきます
200 :
日本@名無史さん:03/09/08 01:57
>>197 しかもそれは俗説。
そんな事実は無い。
氏綱が北条子孫の女と結婚したなんて俗説すらない。
江馬氏は名越一門だそうです。
宝治合戦で、三浦泰村側に加担したのも納得いきました。
>>200 伊勢氏は、北条家とは何の繋がりもありません。
というよりも、早雲が本当に伊勢氏一門なのかというのすら、怪しいそうです。
203 :
日本@名無史さん:03/09/12 02:42
>>202 >早雲が本当に伊勢氏一門なのかというのすら、怪しいそうです。
そんなことない。
北条早雲こと伊勢新九郎は政所所司代伊勢氏の一族で、
備中伊勢氏出身の伊勢新九郎盛時という説が最有力。
204 :
日本@名無史さん:03/09/13 15:17
岩手県水沢市付近には北条氏が存在している。
伝来の大太刀(刃長110cm南北朝時代)ももっている由。
205 :
日本@名無史さん:03/09/13 15:26
スレ違いかもしれんが、新田次郎の「新田義貞」ってどうよ
206 :
日本@名無史さん:03/09/19 20:53
北条時行(ほうじょうときゆき)
?〜文和2(1353)年。
北条高時の子。元弘3(1333)年の鎌倉幕府滅亡の際は、信濃の
諏訪頼重の家に潜んでいた。建武2(1335)年の中先代の乱で、
京都の西園寺公宗と通じ信濃において挙兵、再起をはかる。
足利直義の軍を打ち破り鎌倉を攻め落とすが、一月後に足利尊氏に追われ大敗。
文和元(1352)年、新田義興に従い再度鎌倉に入るが、翌年尊氏によって
相模国竜ノ口で討たれる。
207 :
日本@名無史さん:03/09/23 01:11
執権と総理大臣は、どちらが権限が強いだろうか?
小沢一郎氏は、現在の中先代であろうか?
>>207 突っ込むところかと思ったけど
このスレいまいち盛り上がらないので乗ってみる
中先代を名乗るからには先代と当代を定義してください
得宗>>>>(越えられない壁)>>>>執権=官房長官
総理大臣はどこへ位置づけるか
>>207 定義してみますた。
現在=鎌倉時代
天皇=国民
将軍=天皇
得宗=自民党総裁
執権=総理大臣
連署=官房長官
身内人=自民党実力者
あ、小沢氏は、元筆頭身内人だった。
中先代ではないね。
すまそ。
209=207で、206ではないです。
上のレスは、208殿へのレスです。
そっかなあ、俺の中で鎌倉末期の執権でイメージが強いのは
守時だからなぁ。
太平記の勝野洋かっこよかった、また見たいけど
総集編じゃ一瞬しか登場しないんだよなぁ
太平記は名作だったね。
建武の新生後よりも、鎌倉幕府末期のほうが強烈だった。
213 :
日本@名無史さん:03/09/25 20:01
赤橋守時涙がでまつた。
登子を、足利御台所を宜しく。さて、もうひと合戦。
214 :
日本@名無史さん:03/09/26 22:03
そーいや、足利家には、代々北条家から奥さんがと付いてたんだよね。
ところで、太平記で中先代の乱ってあったの?
215 :
日本@名無史さん:03/09/29 20:28
本人(時政)→息子(義時)・娘(政子)→孫(泰時)→曾孫(時氏)→玄孫(時頼)
→来孫(時宗)→昆孫(貞時)→仍孫(高時)→雲孫(時行)
216 :
日本@名無史さん:03/10/10 01:21
時行さま、萌えまする〜
218 :
日本@名無史さん:03/10/15 21:56
中先代の乱で敗れて、鎌倉から脱出した後は、どうしてたんだ?
>218
南朝方と組んでまたまた鎌倉を落としたりしてる
>>219 じゃあ、なぜそのことが歴史の教科書にでてないの?
図書館にある歴史書で調べても、時行って、中先代の乱の記述しかでてないし。
221 :
日本@名無史さん:03/10/24 23:05
燃料になりますかなwww
>>220 観応の擾乱>南北朝の流れを歴史の教科書に詳しく書いたら
南北どちら寄りで書いても叩かれる
客観的な記述にしようとしてもこの時代の信頼度の高い史料ってないわけだ
日記とか書状とかいろいろ残ってはいるけど結局のところ
「太平記は歴史史料としての信頼度は低いがこれがなければ
南北朝時代を論じることは出来ないだろう」っていうのが現状
>じゃあ、なぜそのことが歴史の教科書にでてないの?
時行で調べずに新田義興でしらべれば正平の鎌倉陥落はでてくるかも
223 :
日本@名無史さん:03/10/28 21:48
時行最期の活躍期、叔父の泰家は何してたんですかね。
224 :
日本@名無史さん:03/10/28 22:47
北条泰家
生没年未詳
兄高時の執権退位後、その後を継ぐのを長崎高資らに阻まれ出家
幕府滅亡の際に時行を諏訪に逃し自らも自害を装い奥州へ
建武二年時行、名越時兼と同時に挙兵を謀り
自らは京都で西園寺公宗を頼って兵を挙げるが実行前に露見逃亡
その後は翌年二月に信濃で南朝方として挙兵したことが知られるのみである
「北条氏系譜人名辞典」
226 :
日本@名無史さん:03/11/08 02:29
本人(時政)→息子(義時)・娘(政子)→孫(泰時)→曾孫(時氏)→玄孫(時頼)
→来孫(時宗)→昆孫(貞時)→仍孫(高時)→雲孫(時行)
江戸時代に旗本としてフカーツしたっけ?
したとしたらどういう流れ?
三浦家ですら、名族である、てんでしてるんだよな。
228 :
日本@名無史さん:03/11/13 22:02
>>227 それは、偽北条氏である伊勢氏の生き残りの方々です。
229 :
日本@名無史さん:03/11/13 23:55
>>226 まるで泰時が義時と政子の間の子みたいじゃねえか?
>>229 義時と政子が、時政の子ということで。本人の時政から見て、義時が息子、政子が娘
ということです。曾孫の時氏が若くして亡くなったため、経時・時頼が若くして執権に
就任した。ここから、得宗の執権就任が、一世代早まってしまったんだよね。
いくら優秀とはいえ、10〜20代で就任するには、執権は重過ぎる役だったのだろう。
代々の執権が、命を削って仕事してたと思うと、涙がでます。
>230
いや・・そんなに真面目にやってないヤシも居たと思う・・
232 :
日本@名無史さん:03/11/24 18:28
>>84 登子と千寿王の鎌倉脱出を手引きしたのは、登子の兄の赤橋(北条)守時じゃないの?
233 :
日本@名無史さん:03/11/24 18:32
234 :
日本@名無史さん:03/11/24 18:40
>>144-149 太平記って後醍醐天皇に結構批判的だよ。
あと、一般的に南朝の正統性を示すために書いたと言われる北畠親房の『神皇正統記』なんかも後醍醐天皇が理想とした天皇独裁には否定的。
235 :
日本@名無史さん:03/11/24 19:04
>>230 本人(時政)→息子(義時)→孫(泰時)→曾孫(時氏)→玄孫(時頼)
→来孫(時宗)→昆孫(貞時)→仍孫(高時)→雲孫(時行)
本人(時政)→娘(時子)→孫(義氏)→曾孫(泰氏)→玄孫(頼氏)
→来孫(家時)→昆孫(貞氏)→仍孫(尊氏)→雲孫(義詮)
本人(時政)→息子(義時)→孫(泰時)→曾孫(??)→玄孫(泰氏)
→来孫(頼氏)→昆孫(家時)→仍孫(貞氏)→雲孫(尊氏)
本人(時政)→息子(義時)→孫(泰時)→曾孫(時氏)→玄孫(??)
→来孫(頼氏)→昆孫(家時)→仍孫(貞氏)→雲孫(尊氏)
本人(時政)→息子(義時)→孫(重時)→曾孫(時茂)→玄孫(??)
→来孫(貞氏)→昆孫(高氏)→仍孫(義詮)→雲孫(義満)
本人(時政)→息子(義時)→孫(重時)→曾孫(長時)→玄孫(義宗)
→来孫(久時)→昆孫(登子)→仍孫(義詮)→雲孫(義満)
236 :
日本@名無史さん:03/11/24 20:18
>>11>>44 邦時の生年なら1316年は絶対にあり得なくはないと思うが、時行は次男だから時行の生年が1316年だとすると、邦時は高時が何歳のときの子なのかという話になってしまう。
もちろん、邦時と時行が同腹かどうかでも違ってくるが。
237 :
日本@名無史さん:03/11/24 20:20
238 :
日本@名無史さん:03/11/24 21:04
>>211-213 確かに太平記での勝野洋の守時は良かったと思う。
しかし、一昨年の北条時宗で、守時の曾祖父と祖父をやっていたのが川崎麻世と宮迫だと思うと・・・。
>>235 とすると、時政:義時・泰時・重時のDNAは、足利将軍家に引き継がれたわけか。
三浦・安達と交配した北条家は滅亡したが、足利と交配した北条家は生き残ったわけか。
しかし、時政本人から見た足利の系図は笑える。この系図を歴史書や教科書に使うってもらえんもんかね。
足利氏に対する固定観念がひっくりかえるかも。
240 :
日本@名無史さん:03/11/24 22:25
>>238 マヨの兄弟に羽賀研二・渡辺徹・牧瀬里穂。
父に平幹二朗。どう評価したらいいのかわかんね
┐(´ー`)┌
241 :
日本@名無史さん:03/11/24 22:31
>>239 足利本家だけでなく、一門の斯波・畠山・吉良なんかも北条一族から正妻を迎えていることが多いから、女系を介せば北条の血はかなり後世の有力武家に受け継がれている。
242 :
日本@名無史さん:03/11/24 22:33
>>240 羽賀研二なんか貞氏(緒形拳)の母方の祖父だもんな。
ところで、牧瀬里穂って何の役だっけ?
244 :
日本@名無史さん:03/11/24 23:27
245 :
日本@名無史さん:03/11/25 01:10
時行の男子も後をしっかり継いでいるぞ
246 :
日本@名無史さん:03/11/25 01:51
247 :
日本@名無史さん:03/11/25 10:26
248 :
日本@名無史さん:03/11/25 11:28
誰か書けよ、中先代の乱を題材にした任侠モノ時代小説。
そんで、出版してくれ。
もしくは架空戦記モノで中先代の乱が成功してたら…って設定で。
まぁマニアックすぎて売れんがな。
249 :
日本@名無史さん:03/11/26 03:21
わずか2年前に、鎌倉に籠もった北条一族が全滅していることを考えれば、足利直義が鎌倉をさっさと放棄して退却したのは当然の成り行き。
北条氏は室町時代の間も武将の家来か何かで働いているはず。
251 :
日本@名無史さん:03/11/27 01:22
252 :
日本@名無史さん:03/11/27 23:44
小田原
254 :
日本@名無史さん:03/11/28 00:50
>>230=
>>239 その系図で、時政と新田義貞をつなげてみる。
本人(時政)→娘(時子)→孫(義氏)→曾孫(女子)→玄孫(政氏)
→来孫(基氏)→昆孫(朝氏)→仍孫(義貞)→雲孫(義顕)
255 :
日本@名無史さん:03/11/28 00:58
>>254続き
ついでなので、時政と佐々木道誉もつないでみる。
本人(時政)→息子(義時)→孫(泰時)→曾孫(女子)→玄孫(氏信)
→来孫(満信)→昆孫(宗氏)→仍孫(道誉)→雲孫(高秀)
256 :
日本@名無史さん:03/11/28 20:52
257 :
日本@名無史さん:03/11/28 20:57
258 :
日本@名無史さん:03/11/28 21:25
>>239 足利貞氏の正妻(金沢顕時の娘)の外祖父は安達泰盛。
DNAは尊氏には引き継がれていないが。
259 :
日本@名無史さん:03/11/28 22:16
>>258 安達泰盛―女子―女子―足利高義―源琳 (絶)
玄孫までは確認可だな。
260 :
日本@名無史さん:03/11/29 10:51
261 :
日本@名無史さん:03/11/30 00:51
時行は足利に従えば良かったのにね。
262 :
日本@名無史さん:03/11/30 22:35
263 :
日本@名無史さん:03/11/30 23:16
>>258 源琳の実在性は疑わしいから、
こっちのほうが良いと思う。
安達泰盛―無着(金沢顕時室)―釈迦堂殿(足利貞氏室)―足利高義―上杉朝定室
264 :
日本@名無史さん:03/12/02 20:54
265 :
日本@名無史さん:03/12/02 21:22
266 :
日本@名無史さん:03/12/03 03:30
267 :
日本@名無史さん:03/12/03 23:19
中先代の乱と言うからには、時行の死まで乱が続いていないとまずいんじゃないの?
268 :
日本@名無史さん:03/12/06 17:38
大河の太平記では、どうして金沢貞顕と足利貞氏は仲が良かったの?
269 :
日本@名無史さん:03/12/06 20:26
貞顕と貞氏が義兄弟だったから…って、それはドラマの中で説明されていなかったな。
そういう設定にしたほうが長崎延期がヒドイというのが際立つから、という演出上の都合。
270 :
日本@名無史さん:03/12/06 20:40
貞氏の正室が貞顕の妹であることはドラマの第1回で説明されていなかった?
271 :
日本@名無史さん:03/12/06 20:43
確か、貞顕と貞氏が、
狂ったような顕時娘(貞氏室)を見て
貞顕が「すまん」と言った様なシーンなかったっけ?
272 :
日本@名無史さん:03/12/09 22:58
273 :
日本@名無史さん:03/12/10 18:46
>>272 意にそぐわない結婚をさせたからじゃないの?
史実では狂ってたのは足利貞氏の方らしいけど。
274 :
日本@名無史さん:03/12/14 19:24
足利家には狂った奴が多い。
275 :
日本@名無史さん:03/12/27 00:39
>>274 足利ほど蛇蠍のごとく忌み嫌われる一族もめずらしいな。
277 :
日本@名無史さん:03/12/27 01:42
すまん。家時が狂っていたなどという話は聞いたこともない。
どうして狂っていたと言い切れるの?
鎌倉時代に限定して言えば、
狂っていたという伝承・記録があるのは、
義兼・貞氏の2名だけ。
279 :
日本@名無史さん:03/12/28 02:43
泰氏は勝手に出家しなかった?
藤原純友之乱に加担して肥前に配流に為った俺の先祖、平貞時に付いて教えて下さい。
宜しく御願いしもっす。
あぼーん
282 :
日本@名無史さん:04/01/18 22:00
まずは光厳天皇の即位を公認するところから始めるべき
283 :
日本@名無史さん:04/02/06 01:08
284 :
日本@名無史さん:04/02/06 01:42
285 :
日本@名無史さん:04/02/07 09:13
足利幕府ほど世のため人のために何もしなかった政権は無い。
286 :
日本@名無史さん:04/02/20 18:07
唐揚
287 :
日本@名無史さん:04/03/06 21:37
井の出沢の合戦の他に、町田市には戦場はないの?
288 :
日本@名無史さん:04/03/08 12:56
戦場跡地の心霊スポットって、知らない?
289 :
日本@名無史さん:04/03/08 14:35
分倍河原に何か出るってよ。
290 :
日本@名無史さん:04/04/01 13:01
>井出の沢戦場跡の菅原神社
桜がきれいなころだろうね。
291 :
日本@名無史さん:04/04/16 12:32
あげ
292 :
日本@名無史さん:04/04/24 18:50
赤橋殿、君はいい友人だったが、
君の宗家が悪いのだよ!
293 :
日本@名無史さん:04/04/27 00:28
「登子を、足利御台所をよろしくお頼み申す! さて、もうひと合戦・・・」
294 :
日本@名無史さん:04/04/27 00:46
>>293 そなた、そこここに出現しておるな!
見上げたものじゃ!
おちんちん
が小さいのはだあれ?
296 :
日本@名無史さん:04/05/06 13:16
保守
297 :
日本@名無史さん:04/05/09 00:41
「尊氏! 父のように迷うな。神仏(かみほとけ)の許しがあらば、天下を取れ! そして、それが道と思うたら、弓を取れ!」
298 :
日本@名無史さん:04/05/10 01:53
中先代の乱の直前に、登子の甥・重時(宗時の子)が挙兵して死んでるけど・・・
いったいこの時登子はどう思ってたんだろ??
直後に中先代の乱が起こるわけだけれども・・・
もしかして、裏で糸ひいてたりして、登子
なんか、ナゾだらけだよな、赤橋家。
なんで通盛尼(守時室)は恩賞もらってんの?
なんで登子の姉妹は名門公家の奥様なの?姪は光厳院の妃だし。
なんで守時女は叔父の英時と一緒に九州について行ったんだ??
299 :
日本@名無史さん:04/05/10 02:50
>>298 >なんで通盛尼(守時室)は恩賞もらってんの?
尊氏の功績に免じて、夫の遺領の一部を安堵されたってだけじゃなかったっけ?
300 :
日本@名無史さん:04/05/10 03:08
まあ、赤橋家の遺領の大半は、建武政権期の段階で足利一門に相続されているわけだが。
301 :
日本@名無史さん:04/05/10 06:31
赤橋家ってもともと北条のかなり支流だし、
姻戚関係からいっても足利家についてもよかったような。
そうすれば北条一門が完滅することもなかったのに。
北条一門って平時には内部対立してても、一門全体の危機には結束力強かったよな。
強すぎることが仇となって名門一族が短期間のうちに完滅してしまうのだが。
302 :
日本@名無史さん:04/05/10 10:30
完滅ってなんだよ。
新語勝手につくるなw
303 :
日本@名無史さん:04/05/10 14:35
>>301 >赤橋家ってもともと北条のかなり支流だし、
ハァ?じゃあ支流じゃないのはどこだよ?
304 :
日本@名無史さん:04/05/10 21:39
得宗家以外は皆支流だけど、時房流なら大仏が主流で佐介は傍流。
重時流は時房流より得宗家に近いけど、主流が極楽寺で赤橋は傍流。
>>304 >重時流は時房流より得宗家に近いけど、主流が極楽寺で赤橋は傍流。
えええええええ?
( ´,_ゝ`)プッ
306 :
日本@名無史さん:04/05/10 22:26
重時の嫡子って、長時だと思ってたけど、為時だったんですか?
知らなかったーーー。
為時が嫡子だったなら、赤橋は傍流ってことになっちゃうね・・・
307 :
日本@名無史さん:04/05/10 22:52
最初はサスケが時房流では嫡系だったりする。
時房自信、佐介に住んでなかった?
308 :
日本@名無史さん:04/05/11 00:07
>>304 極楽寺流の嫡流が赤橋流だろ。
つまり、北条一族内での序列では、実質的に得宗家の次のナンバー2が赤橋流だったといっても過言ではない。
(反得宗色が強い名越流を除外して考えれば)
>>307 佐介流が宝治合戦で没落した結果、大仏流のほうが勢力を増したんだよね。
309 :
日本@名無史さん:04/05/11 00:54
極楽寺流の嫡流は赤橋だと思うよ、俺も。
重時の邸を相続したのは嫡男の長時だが・・・
この家が鶴岡八幡宮の赤い橋のそぐ近くにあったんで・・・
赤い橋の所に住んでる人ってんで「赤橋」というんだろ。
重時→長時→義宗→久時→守時と相続されたんだよな、赤い橋の邸は。
重時の家訓も長時に与えたものだ、と聞いたような気もするが、
違ったか?
310 :
日本@名無史さん:04/05/11 00:55
311 :
日本@名無史さん:04/05/11 01:04
>>311 政村の間違いじゃねぇの?
…で、何で?
まさか子孫も北条姓で呼ばれるからか?
だとしたら底抜けの馬鹿なんだが。
313 :
日本@名無史さん:04/05/11 21:48
長時が間違いなく正室の子なら赤橋が嫡流でしょうが、必ずしも正室の子とは
断定出来ない。すると極楽寺が嫡流の可能性もあるかな?
そうだとしても赤橋から執権が出た時点で赤橋の勝。
314 :
日本@名無史さん:04/05/11 22:13
極楽寺って名前自体、重時の別邸なのでは?
315 :
日本@名無史さん:04/05/11 23:31
>>312 政村流のことを常葉流って言わないか?
ただ、さんざんガイシュツだけど、この時期の北条一族の○○流ってのは苗字として確立していたわけではないよ。
316 :
日本@名無史さん:04/05/12 01:28
赤橋種子って、鎌倉幕府滅亡時は何してたの?
ノンキな公家の北ノ方?
そもそも
洞院公守、正親町実明、公蔭、忠季、実文って北朝?
公守が琵琶の名手だったことくらいしか知らん・・・
中先代の乱直前の赤橋重時、登子、種子の関係がどうなってたか気になる。
317 :
日本@名無史さん:04/05/12 02:31
318 :
日本@名無史さん:04/05/12 07:25
ときわ(は)でない?
319 :
日本@名無史さん:04/05/12 09:16
≫312
そういえば当時赤橋殿って呼ばれていたのは金沢さん家のひとですよね。
じゃ赤橋は何て呼ばれていたのかな?
>>317 トキワ荘の住人なので「トキワ流」と呼ばれたんですよ。
321 :
日本@名無史さん:04/05/12 10:51
>>315 政村も常葉に別邸を持っていたので
常葉と号したと言われるけど、
普通常葉流と言えば、
極楽時流の時茂の系統を言わないか?
322 :
日本@名無史さん:04/05/13 02:07
323 :
日本@名無史さん:04/05/13 02:08
>>321 時茂流=常葉流
政村流=常盤流
ではなかったっけ?
まあ、仮名表記はどちらも「ときは」だが。
この乱は面白いんだよな。
分倍河原がまた戦場になっているんだから。
鎌倉幕府滅亡も分倍河原が結構主流の戦場。
中先代もまたここ。
325 :
日本@名無史さん:04/05/17 22:02
時行は若いが、武将としての才覚が非常に高い。
鎌倉幕府滅亡前に執権に就任して倒幕派鎮圧の陣頭指揮を取っていたら、
鎌倉幕府は存続していたかもな。
326 :
日本@名無史さん:04/05/17 23:40
>>324 関戸も幕府滅亡時と中先代と2回とも戦場になった。
327 :
日本@名無史さん:04/05/18 00:24
>>324 更にその後、戦国時代にも戦場になっている(古河公方軍vs上杉軍だったか?)
川を防衛線として考えるのは当時としてはよくある戦術だし、
上野方面から鎌倉街道を南下して鎌倉に迫る時の通り道になるから。
328 :
日本@名無史さん:04/06/07 01:01
横浜北部から多摩にかけての戦史一覧。
1205年 鶴ヶ峰・二俣川の合戦(畠山重忠対幕府軍)
1335年 元弘の変における分倍河原の合戦
1335年 中先代の乱における分倍河原の合戦、井の出沢合戦(本町田)
1351年 観応の擾乱における分倍河原の合戦、多摩区の小沢城攻防戦(足利直義方の籠城する小沢城を足利基氏が攻略)
1438年 永享の乱で、上杉憲実軍、武蔵分倍河原に布陣
1455年 享徳の乱における武蔵国分倍河原(足利成氏が上杉房顕を破った戦い)
1478年 小机城落城(豊島一族と小机弾正を太田道灌が攻めた戦い)
1530年 小沢原合戦(後北条氏と上杉朝興の戦い。再び、小沢城が舞台に)
329 :
日本@名無史さん:04/06/14 16:57
鎌倉を奪還した北條相模二郎時行は無位無官のまま。
相模守従五位下に叙任される機会はあったろうに。
330 :
日本@名無史さん:04/06/14 23:49
331 :
日本@名無史さん:04/06/15 14:48
赤橋め、永の別れにまいったのじゃ。生きて帰らぬつもりぞ
332 :
日本@名無史さん:04/06/15 15:03
高時はそうは思わぬ。
裏切り者なら、わざわざわしに会いには来ぬ。
のう赤橋、よう訪ねてきた。
ともに鎌倉は祖先の地。
御辺もわしもほかに逃げて行く国はない。
その鎌倉を兵や馬で踏みにじる者あらば、戦いたすほかあるまい。
333 :
日本@名無史さん:04/06/15 15:24
赤橋は寝返り者じゃ。妹婿が北条家に弓引くのを見逃した
謀反の片割れじゃ!
334 :
日本@名無史さん:04/06/15 22:28
そのような者に兵を率いさせ戦に出すなど言語道断にござりまする!
335 :
日本@名無史さん:04/06/15 23:33
登子を、足利家御台所をよろしくお頼み申す! さてもうひと合戦・・・
336 :
日本@名無史さん:04/06/16 17:43
どーでもいいけど鎌倉執権北条氏の末裔で韮山城を本拠地としてる北条氏なら実際戦国初期までいましたよ。しかし当主が亡くなり跡継ぎがいなかったので伊勢早雲に養子入りを頼んだそうです。
>>336 見てきたような言い方だけど、ソースは?
早雲が北条姓を名乗っていなかったのは
定説だと思ったけど?
338 :
日本@名無史さん:04/06/17 00:29
>>337 なんか学陽書房の「日本補佐列伝」ってゆう本に書いてありました!でも確かに早雲は「北条」とは名乗ってないようです
339 :
日本@名無史さん:04/06/17 00:30
>>337 なんか学陽書房の「日本補佐列伝」ってゆう本に書いてありました!でも確かに早雲は「北条」とは名乗ってないようです
340 :
日本@名無史さん:04/06/17 02:54
北条早雲が一時期、伊豆の北条の地にいたというのなら、聞いたことがある。
でも確か姓として「北条」を名乗るのは氏綱以降のはず。
341 :
日本@名無史さん:04/06/17 05:16
>340
すると例の三つ鱗の紋章はいつから使っていたの?早雲の頃は当然違う紋だよね?
342 :
日本@名無史さん:04/06/17 11:37
>>347 小説によれば早雲は既に北条鱗は足利茶々丸を攻めた時に使ってるらしいですよ
343 :
日本@名無史さん:04/06/17 17:48
早雲は足利幕府の政所執事の伊勢家の系統でしょ?
まあ平氏には変わらんのだが。
でその早雲(当時は伊勢新九郎)が伊勢貞親のツテで、8代将軍義政の弟の
義視に仕えていたが、立身出世を望み、妹の嫁ぎ先の今川家へ行く。
北条を名乗ったのは、関東を支配するには関東管領の両上杉家を倒さなければならずで、
関東に根付き、影響力のある北条を名乗るのが関八州制覇には必要と感じたからだ。
344 :
日本@名無史さん:04/06/18 01:29
>343
この時代、氏だか姓だかを変更するには朝廷に申請して認可を受けなけりゃならない筈では?
本人が勝手に「今日からオレ、北条だから」なんて名乗ったってあんまり意味無いと思うんだけど。
家康なんかも松平から徳川に改姓するときは朝廷に許可貰ってるし。
345 :
日本@名無史さん:04/06/18 01:37
>>344 氏はともかく苗字を変えるのに朝廷の許可が必要なんて聞いたことないな。
>>342 いや、あの、小説によるとって…。
ここは学問板じゃないのか?
347 :
日本@名無史さん:04/06/18 18:56
344
徳川家康が松平から徳川に改姓とは驚いた。
改苗だろう。
家康が朝廷に改苗申請したのは珍奇としかいいようがない。
それを受け、認める朝廷も問題だが。
348 :
日本@名無史さん:04/06/18 20:48
349 :
日本@名無史さん:04/06/18 23:50
このスレは、「中先代の乱に萌えるスレ 」である。
このタイトルに戻るべし。
350 :
日本@名無史さん:04/06/19 15:32
豊臣家は、「氏」が「豊臣」なのであって、「苗字」は羽柴のまま。
つまり、「豊臣秀頼」を「羽柴秀頼」と言っても問題はない。
>>348 氏(うじ)は、「源」「平」「藤原」「橘」などのような氏族名。
苗字は、平安後期以降、特定の家系が、多くの場合居所の地名を便宜的に代々名乗るようになったもの。
よって、中世においては、公家でも武家でも分家すれば簡単に苗字が変わる。
姓(かばね)は、本来的には「真人」「朝臣」などの「やくさのかばね」を指すものだが、平安中期以降、「朝臣」以外の姓は、ほぼ消滅した。
そのため、中世後半期以降になると、「姓」を「氏」の意味や「苗字」の意味にも普通に用いるようになって、「氏」「姓」「苗字」は混用されたまま、近代に至る。
351 :
日本@名無史さん:04/06/19 21:34
中先代の乱では西園寺公宗が科人として斬られてるけど、
その後彼の名誉は回復されたのでしょうか?教えて君でスマソ。
352 :
日本@名無史さん:04/06/19 22:01
顔の皮を剥ぐって考えるだけで鳥肌が…
353 :
日本@名無史さん:04/06/20 16:23
西園寺家は、鎌倉時代にかなり幕府よりだったからな。
354 :
日本@名無史さん:04/06/20 17:50
355 :
日本@名無史さん:04/06/22 19:32
356 :
日本@名無史さん:04/07/21 12:57
吉川英治の太平記では、ぶっちゃけ、
あまり重視されてない中先代の乱。
他の太平記モノはどうでしょうか?
山岡荘八の新太平記のがおもろい
358 :
日本@名無史さん:04/08/20 21:51
359 :
日本@名無史さん:04/09/10 17:54:51
ぃよし!鎖国ゲト!
ぶっちゃけ、足利尊氏のいいように利用されちまったからな>中先代
361 :
日本@名無史さん:04/09/18 20:50:18
北条時行の子孫が、板部岡江雪だというのは本当か?
362 :
日本@名無史さん:04/09/25 01:18:51
北条時行の子孫が、種子島高暁だというのは本当か?
実際のところ、中先代の頃の北条時行って何才位だったんだろう。
新田軍の追及から逃げられたのは子供だったからでしょ。
だとするとせいぜい12,3才ってところかな?
364 :
日本@名無史さん:04/10/07 20:34:35
種子島は平基盛の子孫
365 :
日本@名無史さん:04/10/31 02:00:22
嘘に決まってるだろ
366 :
日本@名無史さん:04/11/10 06:32:44
北条高時の嫡男は時行ではなく邦時であった
367 :
日本@名無史さん:04/11/21 08:40:21
全くすれ違いで申し訳ないんだけど
幕末や近代史における萌え萌えな乱ってないかな?
秩父事件や天狗党みたいな奴で
368 :
日本@名無史さん:04/12/03 00:58:50
尾張藩士に高時の子孫がいるみたいだね
369 :
日本@名無史さん:04/12/12 06:44:38
>368
何て家?
370 :
日本@名無史さん:04/12/12 08:08:11
横井
371 :
日本@名無史さん:04/12/15 00:29:33
ホテルニュージャパン火災のあの横井も
その子孫とか・・・・。
初手から傍流だけど、初代連署の時房(政子、義時の同母弟)の流れの
大仏氏はまだ続いていると聞いたことがある。
北条高時−(数代略)−ZEEBRA
ってことか。
374 :
日本@名無史さん:05/01/02 17:10:35
375 :
あげ:05/01/25 09:01:47
保守
376 :
日本@名無史さん:05/01/25 14:33:36
横井姓のなかに、北条一族はいますね。一応。
ただ、日本中の横井さんがそうかというとそれはどうかなぁ。
特に金沢は無理。
滅びた一族を通名に使うということは、凄まじくありがちで(略
377 :
日本@名無史さん:05/01/25 17:50:24
>373
闘犬や田楽に狂ったDNAが今世紀にラップとして開花しますた
378 :
日本@名無史さん:05/01/25 19:27:38
>>377 横井の孫曰く
「♪やめらんね〜♪」だそうです。
379 :
日本@名無史さん:05/01/26 01:28:24
北条時行の子孫が、横井小楠だというのは本当か?
380 :
日本@名無史さん:05/02/01 06:58:52
中先代の乱の黒幕は西園寺公宗?それとも足利尊氏?
阿野廉子黒幕説に500クローナ。
382 :
日本@名無史さん:05/02/15 11:39:16
黄巾の乱みたいな扱いだな。
南北無双がつくられるとすれば。
383 :
日本@名無史さん:05/02/26 18:55:41
>>367 2・26事件だろ。今日は2月26日なんだし。
384 :
日本@名無史さん:2005/03/24(木) 13:57:28
保守
385 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 00:12:38
点検
386 :
日本@名無史さん:2005/05/04(水) 23:46:39
革新
387 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 01:50:24
革命
改革
389 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 00:10:29
西園寺家が潰れてたら、歴史が変ってたのにね。
残念!
test
井出の沢の合戦で大敗した高嶋弟は兄尊氏に伝令を出した。
「兄さん、事件です!」
392 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 13:07:31
井出の沢の合戦を知らん
393 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 22:59:00
種子島って北条の血引いてないの
394 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 21:25:58
町田市の菅原神社が戦場跡です!
395 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 21:03:18
は?
396 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 20:20:58
397 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 01:13:59
うそやろ
398 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 22:41:11
うそ
399 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 13:01:37
ほんまや
400 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 13:05:50
祝! 400get
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∵☆☆☆°°°°|°°°°☆☆☆∵ うんこーーー!!!
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中先代で大河つくってくれたら受信料払うよ
402 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 22:22:11
つくらねえよ。
じゃあはらわねえよ
404 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 16:33:49
勝手にしろ。
405 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 21:44:48
てかまじで種子島って何者?北条最後の生き残り?
407 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 07:10:31
北条の生き残りとしては
得宗系
殆ど死亡。時行系が少し生き残る。
極楽寺系
赤橋、普恩寺、塩田系は全滅。常葉、苅田系は一部残るか?
政村系
時益など、そこそこ死亡。マイナーな人物は不明?
名越系
時章系に死亡者多し。しかし時如等の生き残りも存在。これもマイナー系は不明。
金沢系
沢山死亡。傍系がわずかに残っているか?
時房系
大仏系に死亡多し。これもマイナーは不明?
伊具系
そこそこ死亡。やはりマイナーは不明。
でおk?
時如も1334年降伏した時に斬られたんじゃない?
武力反乱を起こさなければ尊氏はそれなりに寛大に遇したらしい
室町幕府の官僚に金沢の流れの一団がいたとか
高政、貞義兄弟は九州で反乱起こして殺されてるけど
>>408 >時如も1334年降伏した時に斬られたんじゃない?
時如も安達高景もその後の消息は不明だからな
顕家は二階堂みたいな鎌倉系の武士も重用してるのに・・・
じゃあ安達高景も斬られているのかな?
霜月騒動、元弘の変と安達は踏んだり蹴ったりだな
>武力反乱を起こさなければ尊氏はそれなりに寛大に遇したらしい
>室町幕府の官僚に金沢の流れの一団がいたとか
そうなんだ。知らんかった。
後醍醐に降伏した大仏高直や阿曽治時の末路とは大違いだな。
410 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 23:55:42
411 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 18:54:09
age
何で二階堂道蘊(貞藤)は処刑されたの?
別に北条一門というわけでは無いんでしょ
それと、室町時代の二階堂家は道蘊の子孫ではないよな?
413 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 19:21:01
age
平清盛一門より派手に死んでいるような
415 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 00:28:43
飛騨の江馬が極楽寺の生き残りじゃ。種子島は佐介流とか聞いた気が
>>415 武家家伝によると両方とも関係無いらしい
種子島は時政の養子という説もあるけど、疑わしい
江馬も出自ははっきりしない
とのこと
417 :
日本@名無史さん:
age