皆さんご存知でしょうか。
日本には三大石碑と呼ばれるものがありますが、国宝は栃木県那須で発見されたこの石碑だけ。
古代に立てられた石碑が何百年の時を超え、なんと江戸時代に偶然にも発見されなんとあの水戸黄門まで研究しにきたという石碑。
石碑からいろんなものが見えてくるかも?!
2 :
日本@名無史さん:02/06/03 01:39
しらん
3 :
日本@名無史さん:02/06/03 01:41
国造がたてたわけ?
4 :
日本@名無史さん:02/06/03 01:43
その頃下野国まで大和朝廷の支配下きてたんだ?
5 :
日本@名無史さん:02/06/03 01:43
700年にどうたらこうたら……
6 :
日本@名無史さん:02/06/03 01:45
群馬の多胡の何とかとどっかの何とかという石碑と一緒に「三古碑」と称されている。
立てたのは国造の子供で、親のことを書いたものらしいです。
渡来系の人々がその作成(漢字)にかかわってるらしい。
発見された森というのは、当時(江戸時代まで)その村の人々には「近づいたら呪われる」と信じられており、
それで900年近く発見されなかったという話です。
福島の旅の僧が偶然その村に立ち寄り、その呪いの噂を聞き、森の中に入っていったところ
倒れた不思議な形の石を発見。何だろうと思って起こしてみたらどうみても人工的な形。
よく見ると文字が彫ってあるのでよくよく書いてある年代などを調べるととんでもない古い石らしいと判明。
それで水戸で隠居してた光圀が助さんと一緒に研究しにきたという。
10 :
日本@名無史さん:02/06/03 01:58
知らなかったなあそんな石碑は。国宝かよ!
11 :
日本@名無史さん:02/06/03 02:02
資料少なくない?検索してもひっかからないぞ。
12 :
日本@名無史さん:02/06/03 02:04
那須国造碑は周(則天武后が立てた国)の年号を使ってるのが最大の謎。
13 :
日本@名無史さん:02/06/03 02:07
渡来系が那須国にいたのは確かなのでは?
簡単に言うと、那須国造が何かの理由で死にその偉業をたたえて息子が立てたということなんですが、
なんで森の中にひっそり隠すように設置したのか、しかも呪われるなどという噂をたててまで
その石碑を守ったのか・・・・
もしかして大和朝廷に反旗を翻して(そうと企てて殺された(あるいは自殺?)した国造の霊を慰めるための
お墓かなんかなんでしょうか・・・
15 :
日本@名無史さん:02/06/03 02:13
で、何て書いてあるの?
>>13 簡単に言うと>14の一行目のことが書いてあるようです。
なんでこんな重要そうな石碑を研究してる奴がおらんのよ??
しかもいろんな角度から研究できそうじゃんかよ
20 :
日本@名無史さん:02/06/03 02:21
那須国造碑とか三古碑で検索に掛かると思います。
那須国造は今でも国宝なの?観光地にありがちだけど国宝指定を
外された後も国宝をうたってる物件。
三大なんたらは選び方によって色々だからさ、決定するのは言った者
勝ちなんだよね。
那須国造碑は国指定特別史跡には指定されてるけど、国宝は・・誰か
調べてよ。
古い指定の国宝物件は後の検証や新発見で実質の価値が疑問視され
る物も多々有るからね。
今でも確実に国宝ですね。それは確かですよ。
22 :
日本@名無史さん:02/06/03 02:26
国造→くにのみやつこ、でいいわけですね?
大和朝廷と地方豪族の研究してる人自体少ないのかも。重要なのにね。
23 :
日本@名無史さん:02/06/03 02:30
これはいわゆる男性器・男根に似せてつくったのかな?
朝鮮半島に有名な石碑がありましたよね?
25 :
日本@名無史さん:02/06/03 02:48
もしかして、ずっと一人でレスしてる・・・?
>>26 自作自演信者は寝ていいよ、おやすみなさい。
自作自演してませんです。。マジっす。
>>27 違いますよ
題材がマイナーすぎたかな・・・
30 :
日本@名無史さん:02/06/03 02:55
確か筑波大学で研究してるグループがありますよ。
31 :
日本@名無史さん:02/06/03 03:01
ageとこっ!
32 :
日本@名無史さん:02/06/03 03:07
すみません、国造ってなんですか?
33 :
日本@名無史さん:02/06/03 03:11
壺の碑よりすごいの?
壺の碑とか多賀城碑とか石碑はイパイあるけど研究者がいない。
科学的な検証はしてないでしょ。
日本の歴史研究家は文書の解析が専門だから、実践派には
反論できないのよ、石器をみつけた人には皆???でも反論
できないの。
36 :
日本@名無史さん:02/06/03 03:31
那須の石碑は疑わしいと(一部で)言われてるんですか?
37 :
日本@名無史さん:02/06/03 04:02
国造について語っていいよね?いろんな角度からっつーことで。
そのほうが話が広がるよ。
38 :
日本@名無史さん:02/06/03 10:12
国造っていうのは大和朝廷から任命されたわけじゃないからさ。
39 :
日本@名無史さん:02/06/03 10:13
派遣という意味です。
40 :
日本@名無史さん:02/06/03 16:50
646 宇治橋断碑(土中から断片が出土)・・・京都府
681 山之上碑(建碑以来現存)・・・群馬県
700 那須国造碑(建碑以来現存、1952国宝)・・・栃木県
711 多胡碑(建碑以来現存)・・・群馬県
726 金井沢碑(建碑以来現存)・・・群馬県
762 多賀城碑(建碑以来現存)・・・宮城県
804 日本中央碑(土中から出土、別名坪の石文)・・・青森県
古い石碑ってほとんど関東東北なんだよ。
宇治橋断碑はホントに切れッ端だし。
国造は在地の権力者。
中央から派遣されたのは国司。
41 :
日本@名無史さん:02/06/03 21:28
国造は大和朝廷から、その地域の支配者と公認された地方豪族と考えればいいだろう。中国の冊倣体制みたいに大和朝廷に
臣下の礼を取り、朝廷は古墳、土師器の製作技術や鉄器を与えた。
42 :
日本@名無史さん:02/06/03 22:10
10年くらい前に見たことがあります。
別名、笠石碑でしたっけ?
私の父の実家の近くなので、葬式のついでに周辺をいろいろと見てきました。
吉川弘文館から研究書が出てたはず。
43 :
日本@名無史さん:02/06/04 00:07
那須は東北への大和朝廷前線基地とも考えられてたんだろう。
しかし、なぜ那須国造石碑は900年間も隠され続けたんだろうね。謎だなあ。
44 :
日本@名無史さん:02/06/04 00:12
>>41 なるほど、確かに渡来人がいた形跡が石碑に書かれてますしね。
すみません。出来心でつい・・・。
46 :
日本@名無史さん:02/06/04 00:13
>>44 あくまでもたとえとして逝っただけで、渡来人が那須に来た可能性は高くないと思う。
49 :
日本@名無史さん:02/06/04 00:23
50 :
日本@名無史さん:02/06/04 00:30
日本書紀に朝廷が新羅人を那須に居住させたと書いてあるらしい
古い石碑は、そのほとんどが地中から偶然発見された物です。
噂や伝説の方が後の捏造というか伝説が多いです。
発見された時代も200年前とか300年前とかだし。
那須国造碑が再発見の碑かどうかは知らないけどね。
52 :
日本@名無史さん:02/06/04 00:38
地中ではないみたいですね。
文字側が偶然土側に倒れた(故意?)ので文字が雨風で晒されず文字が残ったんだろうな。
下野薬師寺別当に流されたのは道鏡だったなそういや。
54 :
日本@名無史さん:02/06/04 02:25
那須は松尾芭蕉が立ち寄ったっけ?黒羽だったか。
板碑(石碑)は関東地区には多いですね、江戸時代に田から
出土したのを寺に収めたものとか、ボクが見たのは多摩川べり
からの発掘の板碑で、戦死者の供養というか記念みたいなヤツ
だったよ。時代は鎌倉末頃のモノらしい。
56 :
日本@名無史さん:02/06/04 03:13
芭蕉は遊行柳に立ち寄ったんだろ。
今我々が普通に那須としてイメージしてる那須野が原は
明治になって疎水が引かれるまでは原野だった。
昔は那須と言えば黒羽や那須国造碑のあるあたりを言ったわけだ。
美しき原野、美しき日本・・今は彼方に・・・。
58 :
日本@名無史さん:02/06/04 03:21
白河の関とは近いのですか?
60 :
日本@名無史さん:02/06/04 04:38
古代下野は
足利と那須地方
>>60 地図上の足利と那須の距離を、経験として踏査する事をお薦めします。
62 :
日本@名無史さん:02/06/04 05:11
足利は古墳時代以前から栄えてる土地です
>>62 どこに反応したレスなのか分からないが、足利には石碑なんかある?
斎藤忠・大和久震平著『那須国造碑・侍塚古墳の研究』吉川弘文館 1986
あたらしい古代史の会編『東国石文の古代史』吉川弘文館 1999
これくらい読んでおけ
67 :
日本@名無史さん:02/06/04 20:42
山川の教科書に載ってないよね?
68 :
日本@名無史さん:02/06/04 21:38
上野と下野は古墳時代は毛国という一つの国でした。関東でも大型の古墳が集中しています。
大和朝廷は毛国が一つの地域としてまとまるのを畏れ、分割したのです。
69 :
日本@名無史さん:02/06/05 05:21
>>68 今で言う足利と桐生、太田あたりですね、
今も栃木と群馬の県境ですね
70 :
日本@名無史さん:02/06/05 07:46
>68
しかし、何百年後かにその土地から天皇家を恐れおののかす源氏の頭領が出るわけですな。
71 :
日本@名無史さん:02/06/06 00:31
那須国衙は中世には没落したのかなあ・・・
72 :
日本@名無史さん:02/06/06 00:44
那須郡はかつて那須国だったから、無関係ではないと思いますが、毛野とは別に考えてみませんか?
73 :
日本@名無史さん:02/06/06 01:21
栃木県西部は群馬県同じ方言だけど
那須地域は茨城県・福島県と共通するズーズー弁だよ。
ズーズー弁の分布は鹿島神宮の信仰圏と一致してる。
>>73 ズーズー弁とはどのような言葉ですか、「なんとかズーこれこれズー」
って言うの?
76 :
日本@名無史さん:02/06/06 07:34
那須国は東北への抑えだったんでしょうかね
77 :
日本@名無史さん:02/06/06 10:39
「十円」を「ズーエン」と発音する
78 :
日本@名無史さん:02/06/06 14:21
石碑はおそらく朝廷には内緒で立てたのだろう
79 :
日本@名無史さん:02/06/08 08:53
結局将門が反乱を起こしたような感じだったのかもね
80 :
日本@名無史さん:02/06/16 10:59
68>斎藤はビッグネームだが、「あたらしい古代史の会」ってなんかあぶなそうな
ネーミングだな。そんな本、信用できるのか?
81 :
日本@名無史さん:02/06/23 14:35
里見浩太郎が次期水戸黄門に決定したんですが、どう思いますか?
漏れは賛成です。
漏れも賛成かな。
83 :
日本@名無史さん:02/07/06 23:10
まんせー
84 :
日本@名無史さん:02/07/06 23:19
これって墓誌だったよね。
あまり陰謀史観的物じゃないと思うが。
>>40で挙げてる群馬の山之上碑も墓誌で古墳と一体の
全国でも珍しい墓誌付古墳として有名だね。
85 :
日本@名無史さん:
age