二二六事件

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1
のような事がまた起きないかなぁ?
今度は中途半端に終わらずに。
2日本@名無史さん:02/05/19 02:17
起きないでしょ。
3日本@名無史さん:02/05/19 02:19
君がおこしたら?
4:02/05/19 02:25
>>2
だよね。いや、解ってるんだけどさー。
とりあえず今の日本を見てるとやるせないでげす。
>>3
俺には無理でしょ。
まず人が集まらん。
52:02/05/19 02:36
2.26は事件そのものとしては結果を出せなかったけど、
その後の歴史に多大な影響を与えてるんだよね。

三島由紀夫がやったのが2.26の再現だったけど失敗したし。
6日本@名無史さん:02/05/19 02:49
突入先は外務省キボンヌ
7日本@名無史さん:02/05/19 03:22
外務省本庁舎は殺風景なビルなんで、ビジュアルが弱いよ。
三島の市谷のように大舞台がなきゃだめでしょ。
8日本@名無史さん:02/05/19 03:45
いまはレンタル官舎だしな。
防衛庁とか首相官邸ならあたらしくなったばっかだけど。
9日本@名無史さん:02/05/19 04:51
起こったところで何も変わらんし。
10日本@名無史さん:02/05/20 08:16
>1 
何たる偶然か。私もこの頃二二六事件のことを考えていたよ。
『こんなことをたびたびなさりますと、日本国民は陛下を御うらみ申す様になりますぞ。
……天皇陛下 何と言ふ御失政でありますか、何と言ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ。』
(磯部浅一中尉)
11日本@名無史さん:02/05/20 09:08
磯部浅一は元一等主計(大尉相当)
12日本@名無史さん:02/05/23 16:10
決起計画を考えようぜ!
って目標がハッキリせんな
まず君側のかんは誰だ?
13ハインリヒ・ヒムラー:02/05/23 16:20
先ごろ亡くなりました、三遊亭小さん師匠も、反乱軍兵士として、籠城してましたな。
14日本@名無史さん:02/05/24 02:26
いかにも、その後の歴史に多大な影響を与えた。これはご存知かな。
ttp://www.shinonome.com/curry/column.asp
* 日本の国民食となったカレーにまつわる大事件 *

 歴史上の事件と料理の関係は数多く語られていますが、日本を揺るがした昭和の大
事件もカレー普及に一役買っているのです。
 その大事件とは、昭和十一年の二・二六事件なのです。二・二六事件とは、ご存知
の通り、青年将校21人が下士官・兵士約1400人を率いて蜂起、陸軍省,参謀本部,
警視庁などを占拠した事件です。
 事件当日戒厳令下の東京は雪の降り積もった、底冷えの厳しい冬の最中。街には平
静を取り戻すために多くの兵隊さんたちが警備を続けており、帝国ホテルの近くを拠
点としておりました。この鎮圧部隊のために帝国ホテルに炊き出しの依頼があり、カ
レーライスを提供することになったのです。
 今でこそ、カレーライスは家庭料理の一つですが、当時は、高級洋食レストランの

メニューの一つでありました。庶民には、高嶺の花の食べ物だったのです。そのカレ
ーライスが炊き出しとして、手早く、大量に用意でき、栄養豊かであるため、警備に
当たった兵隊さんたちの食事となったのです。
 こうして、多くは地方出身者であった兵隊さんたちが都会でしか味わえなかったカ
レーの味に触れ,それがいかに美味しいものであるかを故郷の人たちに伝え、日本中
にカレーを浸透させていった一つの出来事だったのです。
15日本@名無史さん:02/05/24 02:34
俺はライスカレーを食する時、いつも帝国ホテル裏手に集まった鎮圧軍
の兵が雪の上でカレーを食う場面を想像するのだよ。
♪べきらのふちになみさわぎー、ふざんのくもはみだれとぶー。
16日本@名無史さん:02/05/24 04:06
陸軍はどうだったのか知らんが、我海軍は東郷元帥が
糧食メニューにいれたカレーライスを週一で食していた。

いまでも海自の定番メニューだよ。飯とオカズが同時に
食えるので、忙しい時はカレー。
カツもコロッケもあるよサラダもでる。
17ハインリヒ・ヒムラー:02/05/24 16:28
>>16
カレーの日って、金曜日だっけ?
あれ、旨いんだよなぁ。
18日本@名無史さん:02/05/31 09:22
手元の百科事典の記述。
「1936年2月26日、陸軍青年将校の1団は東京で反乱をおこし、政治家たちや、
反対派の軍人をおそった。このような事件におされて、軍人が政治を動かす力
を手にいれることを、国民はだまってゆるしてしまった。マルクス主義者はも
ちろん、自由主義者も口のきけない時代にはいっていった。」

「反対派の軍人をおそった」というのは、皇道派が統制派をおそったことを
言ってるのだろう。で、統制派が勝って、軍部独裁への道が開かれたわけだ。
「このような事件におされて」というのが曖昧でよくわからん。
皇道派が勝っていたら戦争は起きなかったのかね?
19日本@名無史さん:02/05/31 09:43
青年将校が利用していた料亭の女将が、将校連に握り飯などの注文受けて
大量につくって持っていったはいいが、彼らが捕まってしまい、請求書の
送り先がわからなくなり、陸軍省に持って行ったところ、「なにを勘違いして
るのか!」と、こっぴどく怒鳴られたそうだ
20日本@名無史さん:02/05/31 09:47
>18
その後の国内政治において、良識あるいは国際感覚のある支配層が軍部を恐れて
沈黙してしまい、軍の言いなりになってしまった、ことを指しているのでは
21日本@名無しさん:02/05/31 10:18
兵に告ぐ
勅令が発せられたのである
既に天皇陛下のご命令が発せられたのである
お前たちは上官の命令が正しいものと信じて絶対服従をして、
誠心誠意活動してきたのであろうが

既に天皇陛下の御命令によって
お前たちは皆、原隊に復帰せよと仰せられたのである
此上 お前たちが飽くまでも抵抗したならばそれは
勅命に反抗することになり逆賊とならなければならない。
正しいことをしていると信じていたのに
それが間違って居ったと知ったならば、
徒らに今までの行きがかりや、
義理上からいつまでも反抗的態度をとって
天皇陛下にそむき奉り 逆賊としての汚名を
永久に受ける様なことがあってはならない。
今からでもけっして遅くはないから
直ちに抵抗はやめて軍旗の下に復帰する様にせよ。
そうしたら、今までの罪も許されるのである。

お前たちの父兄は勿論のこと
国民全体もそれを心から祈ってゐるのである。
速やかに現在の位置を棄てて帰って来い。
               戒厳司令官 香椎中将
陸軍省新聞班員 大久保弘一少佐
22日本@名無史さん:02/05/31 12:04
世の中には数多くの百科事典が存在するがあまり客観的には書かれてないね。
議論の余地が大いにある事項でも執筆者の思想に沿うように断定口調で書かれてるものも目にする。
どちらかというと左翼だな。
みんな気をつけろ。
23日本@名無史さん:02/05/31 22:52
奉勅命令は下達されなかった。これは陸軍の大失敗。
24日本@名無史さん:02/06/01 00:41
二・二六事件を左翼はどう見てるのかな。
25日本@名無史さん:02/06/01 12:38
左翼に2.26事件などという難しい話はわからない。
彼らは漠然と戦前日本を嫌ってるだけで、深い洞察などない。
26無頼酒:02/06/01 12:59
小さん師匠が騒動のさなか
部隊のために落語を演じさせられた
というエピソードがあったな。
あの状況では誰も笑ってくれなかったそうで。。。

御冥福をおいのりします。
27日本@名無史さん:02/06/01 17:47
あの日、ラヂオのニュースも通常と違って1分ほどしゃべって終わりだったそうだ。
学校も生徒を早く帰宅させたと聞きました。
28日本@名無史さん:02/06/01 18:10
事件を知った真崎は、海軍の長老、伏見宮軍令部総長を訪ねた。官邸には加藤寛治大将が
待ち受けており、両名が宮に状況を進言した。なお、宮は大の真崎びいき。
進言を受けた伏見宮は直ちに参内して、首相には平沼騏一郎が適任など上奏したが
昭和天皇の反応は冷やかで、宮は空しく引き下がったという。東郷もなにやら動いたそうで
皇道派と海軍艦隊派が繋がっていたことは間違いない
29総督:02/06/01 20:26
それにしても鈴木貫太郎は不死身だね
3発食らってたのにさあ
30 :02/06/03 15:13
統制派も皇道派も海軍も政府も
もうすぐ陸軍の一部が大規模な行動を起こすと事前に予測できなかったのか?
31日本@名無史さん:02/06/24 10:34
age
32日本@名無史さん:02/06/24 10:47
>>31
自分の意見なく、スレを上げる姦賊に天誅を下す。
33日本@名無史さん:02/06/24 11:16
2.26事件の時、麹町の交番のお巡さんに突然、天皇から電話がかかってきて
「今どうなっておるか」と聞いたそうだ。「朕じゃ」と言うので巡査は意味が分からず
「難ですか、ええ」 なんて答えたいたが、そのうち気がついてコトコチになったという
これは天皇が状況が分からず不安になって交番に電話をかけたものらしい。
以上は戦後の週刊誌に証言として出た話として猪瀬直樹が紹介していた
34日本@名無史さん:02/06/24 11:37
秩父宮が皇道派に近かったことが昭和天皇には気にかかっていたらしい
宮が安藤大尉や陸士同期の西田税らとの交流で革新思想にも理解を示し遂には
北一輝宅を密かに訪問、会見するほど深入りしていることが伝わっていたという
当時の雰囲気を増田甲子七(防衛庁長官など)は、s10年、皇道派の柳川平助1師団長が
“皇位にいらっしゃる方が、不適当なら、血統を継がれている誰かと替えてもいいのです”
という言葉を聞いたという。こうした事情から皇位を奪われるのではという不安が・・・
35日本@名無史さん:02/06/24 19:30
原隊帰還通達の3項目がわらえる
「故郷の父も母も悲しんでおるぞ」
安っぽい刑事ドラマみたいじゃないか

皇道派と統制派、どちらが賊なのか、はじめ当局は迷ったらしいね
朕サンがお冠であると知って急に求心力を得た感が
あのときゃもうカンカンだったらしいよ、朕サン
36日本@名無史さん:02/06/24 20:45
戒厳司令部の作戦主任になった石原(莞爾)さんは事件の前日、決起部隊側に近い
満井佐吉、橋本欣五郎らと帝国ホテルであっている。これをみても石原さんは、
決起部隊に好意を持っていたことは確かだ。それが途中から強硬な鎮圧を主張したのは
途中で決心を変更した(杉田一次:当時参本部員、軍法会議判士が常盤稔:決起軍側
などとの座談での発言を要約)やはり昭和天皇の意思を知ってからの変節か?
37日本@名無史さん:02/06/24 21:05
>>36
変節もなにもない、天皇の御意志に反対出来る訳が無い。
石原個人の考えはどうあれ天皇の御意志は絶対。
それは決起将校達にとっても同様です。そういう時代だったのです。
38日本@名無史さん:02/06/24 21:10
>>37
だからこそ、朕サンの意志なるものをやすやすと濫発しちゃいけないんだね。
朕サン自身の帝王学にはそういう項目はあったはずなんだけれどもね。伝統的にね。
39日本@名無史さん:02/06/24 21:18
昭和天皇は多数の倫理に従う人だからだろ、どんな形であろうとも
日本を一つに纏めておく。国体の護持いうの?
鎌倉時代以降から南北朝で二つになった以外は天皇家の役目は
国体の護持。

40日本@名無史さん:02/06/24 21:29
>1
どうでもいいけど「・」忘れてるよ。
普通ニ・ニ六事件と記述すると思うが…
41日本@名無史さん:02/06/24 21:40
この時の天皇の決断は素晴らしい!
42日本@名無史さん:02/06/24 21:46
私は1ではないですが、1989年の映画 五社英雄監督『226』、以降
ではないかな、2・26を226と言う風潮は。
43日本@名無史さん:02/06/24 21:48
>>41
昭和天皇がご自身の意思で決断を下したのは、終戦のただ一度だけです。
44日本@名無史さん:02/06/24 21:52
いずれにしてもニーニーロク事件と発音するのが○。ニーテンニーロク事件は×
45日本@名無史さん:02/06/24 21:55
>>43
じゃあ、近衛兵を出してまで鎮圧しようと決断したのは誰なの?
46日本@名無史さん:02/06/24 21:58
>43
そんなことはない。
天皇自身が田中義一の罷免と二・ニ六事件の鎮圧について
自分で決断したことを認めてるだろう。
47日本@名無史さん:02/06/24 22:15
>>44
ニーテンニーロクと発音する奴は
プロレス好きだよな絶対
48日本@名無史さん:02/06/24 22:41
226の主犯はこれを許さない、という意志を明確にしたのは朕サンだよ。
それが示唆であるか命令であるかは知らんけどね。
49日本@名無史さん:02/06/24 22:56
>48
木戸の入れ知恵。
50日本@名無史さん:02/06/24 22:58
柳井って中尉or少尉が事件に参加していたかどうか知ってる人いる?
漏れの遠い親戚らしいんだけど、もう亡くなってるし
遠戚だからよくわかんないんだよね。
古き良き時代?の親戚の捏造想い出話かもしれないけど、
もし知ってる人いたら、是非情報をくだされ。
51日本@名無史さん:02/06/24 23:11
>>50
「柳井」じゃなくて「柳下」なら当時の中尉でいるよ。
何年か前に亡くなってる。
52日本@名無史さん:02/06/24 23:59
>>51
ありがd。
やっぱ、親戚の与太話だったか…
53日本@名無史さん:02/06/25 00:14
木戸が内大臣になったのは1940(s15)年。事件当時の内大臣斎藤実は殺害され
侍従長鈴木貫太郎は重傷(君側の奸だと)近くにいたのは本庄繁侍従武官長だけど皇道派
女婿の山口大尉も皇道派。頼れるには侍従の甘露寺受長だけ、一説では天皇は動転して
虚脱状態になっていたが甘露寺が「陛下、ご試練でございますぞ」と叱咤したという
もちろん、甘露寺はこのへんのことは著書にはメーキングして書いている
54日本@名無史さん:02/06/25 01:21
49は恥ずかしいカキコしてんな。
55日本@名無史さん:02/07/06 06:11
陸軍内部で統制派と皇道派の派閥的争いが起こってしまったことは、
国家として負の部分が多かったはずだ。これは、極端に言い換えれば、
中堅将校と青年将校の対立でもあり、軍部政権を確立しようとしていた
統制派としては、直接行動で国家改造をしようとする皇道派の青年将校
はいずれ排除すべき存在だったはずだ。もし二・二六事件が起こらな
かったとしても、早い時期に同じような事件は起こっただろうし、同じ
ような結果に落ち着いただろう。
皇道派が主流派にでもなっていたら、戦争時期はおそらくもっと早まって
いただろうし、戦争が長びいていた可能性が大きい。間違っても、戦争
が回避されるなんてことはなかっただろう。二・二六事件はその後の日本
に最良でないにしても、そう悪くない結果をもたらしたのだ。
56日本@名無史さん:02/07/06 09:04
>>47
ははははは!そのとーり!!
57日本@名無史さん:02/07/06 12:47
とりあえず、『昭和期日本の構造』読もうや。
2.26関連では、これが一番いいと思う。
58日本@名無史さん:02/07/06 14:00
統制派も社会主義
皇道派も社会主義
自由主義者はいなかったねえ。
59日本@名無史さん:02/07/06 16:18
今の日本、未だにその社会主義の残滓を引きずっている
60日本@名無史さん:02/07/06 20:47
2.26で死刑になったはずの連中、実は刑を執行されずに、
大陸のほうの特務機関で諜報活動に従事していましたとさ。
(元特務機関員だったという人から聞いた話)
61作業員:02/07/24 22:48
十二年前です。渋谷税務署の新築工事をしていたときのことです。
NHK側には2.26事件の慰霊碑がありましたが、26日(2月だったかは忘れた)の朝、清掃されているご老人がおられました。
もしやと思い
「関係者の方ですか?」
と尋ねたところ、反乱軍の下士官であったとのこと、だれだれの所に踏み込んだ、指揮官は誰だったと言われました。
残念なことに私はメモもとらず、従って詳しいことは今は判りません。戦争中は軍の刑務所にいたとも話していただけました。
今思えば恥ずかしいのですが、
「日本青年の歌、ていいですね」と言ったところ、
「ああ、あの歌か・・」とあまり感慨のない様子でした。
そのときは仕事中だったので、「お体大切に」とお別れしましたが、サボってでも喫茶店にでも行きもっと詳しく教えて貰うんだったと後悔してます。
いまでも元気に清掃に来られていることを祈っております。
62日本@名無史さん:02/07/24 23:11
2.26事件についての昭和天皇の話はあてにならないな
63日本@名無史さん:02/07/24 23:45
>62
それを主張している本・論文をあげてくれ。
2・26研究も結構層が厚いから、あるかも知らんが
オレは読んだ事も、存在を聞いた事ないぞ。
昭和天皇が2・26関連で嘘証言したってのを。
>>47
ワラッタ
64日本@名無史さん:02/07/25 00:38
この間大学のサークルのOB会でよぼよぼのじいさんが出席した。
で、挨拶の時に
「私が卒業の時に、2・26事件がありまして…」
って始めたもんだから、シーン。
妙に2.26事件が間近に感じられた。
65日本@名無史さん:02/07/25 00:46
┏━━┓
┃南  ┃
┃無  ┃
┃刀  ┃
┃八  ┃
┃毘  ┃
┃沙  ┃
┃門  ┃
┃天  ┃ 
┣━━┛


66日本@名無史さん
>>63
大江志乃夫
『御前会議』中公新書

この著作での大江の態度は一貫して「天皇独白録」を信憑性がないとしている。
確かに「独白録」が編纂された時期の状況を考えると、
信憑性があるとは言えないなぁと思う。
大江については左翼だ、戦略・憲法についての知識・理解が足りないなどの
批判があるようだが俺はそうは思わない。

俺は2・26事件そのものについてあまり詳しくないので良く分からない。
高橋正衛の「2・26事件」「昭和の軍閥」(両方中公新書)ぐらいしか読んでない。
中公新書で軍関係のものをいくつか読んだ。
「日本の参謀本部」「張作霖爆殺」大江
「満州事変への道」馬場伸也
「軍国日本の興亡」猪木正道
中公新書以外では何を読んだか良く覚えていない。
図書館で借りたものが多いのでタイトルとか著者とかわからない。