1 :
日本@名無史さん:
東大寺、興福寺、薬師寺、大安寺、元興寺、最大時、法隆寺
を語ろう。
2 :
日本@名無史さん:02/05/10 05:48
足利義昭が門跡だった寺はどこでしたっけ?
3 :
日本@名無史さん:02/05/18 21:16
たーだ、「七大寺」とはいっても、興福寺と東大寺がずば抜けて強かったからね。
興福寺の研究は最近ずいぶん進んで来てますね。
興福寺と奈良「市」の関係はどうなんでしょね?
お寺が衰えたから奈良が衰えたのか、奈良が衰えたからお寺も衰えたのか。
ただ、奈良が鎌倉以上に繁栄してた都市だったことは特記しておきたいなあ。
奈良が軽視され過ぎてるんも事実だから。
南都の教学が顧みられる時代は来るのだろうか?
比叡山、五山に並ぶ、日本仏教思想の金字塔のはずだが。
5 :
日本@名無史さん:02/05/18 21:25
元興寺はどうして衰退したんですか?
いわゆる奈良町は、あそこの旧境内みたいだけど。
6 :
日本@名無史さん:02/05/18 21:35
>>4 >>南都の教学が顧みられる時代は来るのだろうか?
>>比叡山、五山に並ぶ、日本仏教思想の金字塔のはずだが。
もう来てますね。
南都の教学の中心は言うまでもなく、法相、つまり唯識です。
唯識は仏教教学の精華として、日本より西洋で見直されています。
精神分析、現代の深層心理学と、心の見解の相似には驚くばかりですから。
彼らの興味の中心は、禅仏教から唯識に移り変わっています。
7 :
日本@名無史さん:02/05/20 22:20
元興寺って案外町中なんだよね。
8 :
日本@名無史さん:02/05/20 22:32
唐招提寺は?
やっほーとうだいもとにしこう
以上、南都七大寺の覚え方
10 :
日本@名無史さん:02/05/24 23:52
>7
逆。
元興寺の旧境内が発展して奈良の市街地が形成されたのです。
11 :
日本@名無史さん:02/05/25 00:03
どう考えても法隆寺は「南都」の外にあると思うが。
12 :
日本@名無史さん:02/05/25 00:16
>4
6に同感。
てゆうか、今は猫も杓子も南都教学ばっかし。
ま、それが悪いこととは思わんが。
お陰で漏れも因明論とかに詳しくなった。
顕密体制論の時代は続くってことだ。
元興寺は、平安時代から荒れていたが、室町時代の土一揆で伽藍の中央部を
消失したのが致命的だった。
残った奈良時代の東塔が惜しくも江戸時代消失し(興福寺の塔より
も大きかったという)、今のような小寺になった。
ただし、今の極楽坊は、奈良時代の僧坊の残りだ。
14 :
日本@名無史さん:02/05/25 02:20
薬師寺は今でも凄いな
15 :
日本@名無史さん:02/05/25 02:25
東大寺七重塔
大安寺七重塔
元興寺五重塔
西大寺五重塔
本当に巨大な塔がすべて失われてしまったわけだな。
16 :
日本@名無史さん:02/05/25 02:34
東大寺七重塔ぐらい立てて欲しいな
何とかならんかね小泉さん
17 :
日本@名無史さん:02/05/25 02:41
運慶などの慶派の仏師たちは奈良の仏師だったよな。
18 :
日本@名無史さん:02/05/25 05:51
この間、初めて元興寺に行ったけど、あんなところだったんだね。
奈良町って、観光化されているようで案外素朴な雰囲気も残ってるし、
不思議な感じがした。
奈良女子大が奈良奉行所だったみたいだね。
19 :
日本@名無史さん:02/05/25 11:57
誰か東大寺7重塔を再建してくんかな。
薬師寺がやっているみたいに寄付金集めてできないかね
20 :
日本@名無史さん:02/05/25 12:44
東大寺にその気力があるか、また文化遺産に指定された地域内で
新しい塔の建造が可能か。
21 :
日本@名無史さん:02/05/25 13:55
東大寺七重塔の再建となると、様式はどうする?
南大門も金堂も大仏様だが、塔だけは和様にするのかい?
でも中門は和様か・・・。
22 :
日本@名無史さん:02/05/25 18:10
薬師寺も文化遺産です
様式は、元興寺小塔や3月堂、薬師寺東塔を真似すりゃいい。
金は、50億〜70億くらいだな。
「平成勧進帳」を募って国民運動を起こせばできるんじゃないでしょうか?
ぜひお願いしたいですな。
24 :
日本@名無史さん:02/05/25 20:42
これはやっては行けないことだが、
出来れば、金堂も大仏本体も鎌倉時代のそれに戻してあげたい。
今の短縮型金堂は中庭の広さとアンバランス。
現在の金堂を講堂跡に移築して、再建できないものだろうか・・・。
無理です。
木材がありません
>>21 古川パビリオンの九輪が東大寺の境内に建っています。
27 :
日本@名無史さん:02/05/25 20:53
>>23 かなり可能と思えたり!
東西どっちか1基でも再建できれば、あとはブームになるはず。
あの場所に、古代の96メートルに達する極彩色の華麗な巨塔が姿を現せば、
それだけで世界的ニュースになるだろう。
いっそのこと、国民運動なんてナショナルなこといわず、世界の人々に宗教
宗派を越えて参加してもらおう。
>>27 >>いっそのこと、国民運動なんてナショナルなこといわず、世界の人々に宗教
>>宗派を越えて参加してもらおう。
宗派を超えて参加などと、ボケたことを考えるのは日本人だけということを
お忘れ無く。
>>28 送信した後に、軽率だったと反省しています。
ゴメン。取り下げということで、無視してくれ!!
30 :
日本@名無史さん:02/05/26 02:11
仏教諸国なら協力できるぞ
31 :
日本@名無史さん:02/05/26 20:10
r
32 :
日本@名無史さん:02/05/26 21:04
>>30 出家が妻帯しているのは日本だけ。
まともな仏教国から見れば、日本は仏教国ですらありません。
33 :
日本@名無史さん:02/05/30 13:30
>26
初めは千里から塔をまるごと運ぶつもりだったのが、
カネが無くて相輪だけの移設になったんだよ。
自前のカネで塔を再建するつもりは、東大寺側には無いよ。
東大寺は、なんと言っても大仏があるからね。
そこが薬師寺と違うところ。薬師寺は、話題性のあるシンボルが欲しかったわけだ。
34 :
日本@名無史さん:02/06/01 16:03
2ちゃんねるから東大寺七重塔再興国民運動をおこそう
35 :
日本@名無史さん:02/06/01 16:33
七大寺を語るスレから、東大寺七重塔再建スレになってきているね。
36 :
日本@名無史さん:02/06/01 16:44
薬師寺講堂ももうすぐできますね。
かなり巨大なお堂のようですね
37 :
日本@名無史さん:02/06/01 18:22
薬師寺は絵になるよな。
38 :
日本@名無史さん:02/06/01 18:36
ところでお前ら、奈良博の東大寺展は見に行きましたか?
39 :
日本@名無史さん:02/06/01 23:34
東大寺展すごすぎ
証明の具合が感動的だった
40 :
日本@名無史さん:02/06/02 00:08
やっぱり日光・月光菩薩に感動・・・
四天王に会うためにもう一度行きたいですな。
41 :
日本@名無史さん:02/06/02 00:10
2010までに興福寺中金堂も復活するぞ。
これもデカイ。
楽しみだ。
しかし、東大寺7重塔復活は何としても実行して欲しい。
>東大寺の坊主
見とるか?
42 :
日本@名無史さん:02/06/09 01:38
ええ
43 :
日本@名無史さん:02/06/09 01:42
東大寺はデカイ!おどろくよ!
44 :
日本@名無史さん:02/06/09 03:11
美術新潮で東大寺特集
45 :
日本@名無史さん:02/06/15 12:48
f
46 :
日本@名無史さん:02/06/15 13:19
いいかげん コピ−はやめろ
47 :
日本@名無史さん:02/06/15 13:21
朝日朝刊に江戸時代再建時の東大寺金堂立面図があったよ。
48 :
日本@名無史さん:02/06/16 12:15
re
49 :
日本@名無史さん:02/06/16 18:40
出来ることなら興福寺の再建は考え直して欲しいなあ
何でも反対屋発見
51 :
日本@名無史さん:02/06/29 12:18
大勧進復活、とか。
52 :
日本@名無史さん:02/06/29 12:32
現代の俊乗坊は現れぬのか?
坊→房ね。スマソ
54 :
日本@名無史さん:02/06/29 23:08
rew
55 :
日本@名無史さん:02/06/30 12:02
435
56 :
日本@名無史さん:02/07/04 01:59
他の復元計画はないのか
唐招提寺5重の塔とか
wrq
東大寺に関する疑問といえば、
「大仏を男性と見立てた場合、その金玉はどの程度の大きさになるのか」
この一点に尽きる。
59 :
日本@名無史さん:02/07/28 11:47
平城宮大極殿復活!
60 :
日本@名無史さん:02/08/14 00:07
>>33 知ったかぶりの出鱈目は止めましょうね。。。
いろんな意見はあったのですが、最終的に行政当局が
景観保護の観点から塔全体の移設を認めなかったので、
妥協の結果として相輪だけの移設になったのでしょう?
(東大寺としては費用分担を含めて移設是認の様でし
たけどね。。。)
61 :
日本@名無史さん:02/08/16 23:17
>>33 あの、重箱の隅をつつくようですみません。
万博で再現されたのは、鉄筋コンクリートですよね。だから、移築もへったくれもないと
思うのですが、どうでしょうか。
それにしても、七重塔。生きている間に是非見てみたい。現東大寺の基壇みたいに平らではなく、
パビリオンみたいに盛り土の上に基壇がありその上にたっていたのでしょうか。
最後に、東塔・西塔はどういう順番で、どういう経緯で消失したのか、宜しければお教え下さい。
62 :
日本@名無史さん:02/08/16 23:27
東大寺の塔は平安中期に一方が落雷で焼け、残った方は重衡の焼き討ちで
焼失した。
重源の再建の際、塔も再建されたはずだが、これも落雷に遭い、戦国の
大仏殿焼失までは残らなかったはず。
ていうか、「六勝寺」の塔も見てみたかった。
あれも大半が落雷にやられているからな。
63 :
日本@名無史さん:02/08/16 23:29
しかし檜の良材が無いのは痛いね。
全国の檜集めて南大門建てられるかどうからしいから。
今の日本の森林資源は。
64 :
日本@名無史さん:02/08/16 23:55
薬師寺の檜は台湾製だしな・・w
だからといって鉄筋の搭だけは勘弁、
65 :
日本@名無史さん:02/08/17 00:27
細かい様だけど塔の再建は重源没後だったよね??? ところで。。。
南都七大寺って普通は東大寺、興福寺、薬師寺、大安寺、元興寺、西大寺、
法隆寺のことみたいだけど、唐招提寺や法華時も南都七大寺って称してる
ね。。。大安寺、元興寺が没落した頃から選手交替したのかな???
66 :
日本@名無史さん:02/08/17 14:02
>>64 2×4じゃないけれど、現代の科学を持ってすれば、耐久性のある合材で作れないかなあ。
それがだめなら、鉄筋コンクリートでもいいや。
67 :
日本@名無史さん:02/08/17 15:28
>>66 確かに。質感は絶対木造がいいが、資材がないんじゃお話にならないもんね。
合材や鉄筋とのハイブリッドを模索するのも方法かも。
ただしこの場合だと、外観だけの復元ということになっちゃうね。
でも塔だったら、それでも十分なのかな・・・。
68 :
日本@名無史さん:02/08/17 16:34
10万円位する模型の東大寺七重塔、発売されないかな。 法隆寺の五重塔があるくらいだから。
69 :
日本@名無史さん:02/08/17 23:21
ある研究者が言ってたけど、東大寺を発掘調査していて一番不思議なのは
二度の焼失で生じた膨大な焼瓦が一体何処へ廃棄されたのか。。。ってこ
となんだって。
普通の瓦より遥かに大型なので始末に困る筈だけど、周辺からはほとんど
出てこないし、かと言って遠くへ搬出する理由も形跡もないらしい。。。
70 :
日本@名無史さん:02/08/17 23:31
ナント大きな平城京
710年:平城京遷都
71 :
日本@名無史さん:02/08/17 23:37
100億は、いくな
東大寺の塔は
できんことはないが
72 :
日本@名無史さん:02/08/18 00:02
>>69 瓦の行方、知りたい。もしかして、瓦ではなくて、ヒハダブキだったりして。
73 :
日本@名無史さん:02/08/18 09:43
>>72 東大寺(大仏殿)が檜皮葺きでないことは明らかなんですけどネ。。。
だから何処かに大量の瓦破片が埋められている筈なんです。
もちろん瓦破片だけじゃあなく、いろんな遺物片も混ざってるんでし
ょうね。。。お暇な時に探して見て下さい、
74 :
日本@名無史さん:02/08/18 14:56
しかし七重塔造営の際、どうやって上の方まで資材持ち上げたのかね。
非常に気になる。
75 :
日本@名無史さん:02/08/18 15:38
>>74 同意。更に、何人の人が落ち、何人の人が水銀使用で狂ったかも興味津々。
このスレの寺じゃなくて申し訳ないけれど、奈良から出土した百済寺?の礎石から、
東大寺の七重塔に勝るとも劣らない高さの塔があったのではという話を少し前に聞きましたが
どなたが、ご存じの方はいらっしゃいませんか?
76 :
日本@名無史さん:02/08/18 20:46
77 :
日本@名無史さん:02/08/18 21:04
大官大寺と法勝寺と相国寺も塔が大きかった
78 :
日本@名無史さん:02/08/18 21:32
吉備池廃寺は百済大寺だった可能性が指摘されてる。。。
百済大寺→高市大寺→大官大寺→大安寺 だから
南都七大寺と満更縁が無いとは言えないのよね!
>>76さん、教えていただきありがとうございました。
大木巨木の森がそこかしこにあった大和の国。当時は、木材調達が比較的容易だった
からこそ、このような巨大な塔が建築可能だったのですね。
推定の範囲で、塔の高さで競うと、吉備池廃寺は日本史上ベスト3に入るのでしょうね。
80 :
日本@名無史さん:02/08/19 22:11
東大寺の建造物には、日本の自然破壊、森林資源の枯渇の歴史が良く現れている。
奈良時代の創建当時、大仏殿、南大門、東西の塔、これらに使用する膨大な
木材は全て奈良盆地周辺で調達できた。
しかし鎌倉の再建時には畿内では良材は枯渇し、はるばる長門の国で檜材を
求めている。
江戸時代、綱吉公の再建時はもはや檜の大材は入手不可能、仕方なく
大仏殿の間口を今までの三分の二にし、建材は杉の材木を何本か金輪で
締め上げて一本の太柱にし、使用している。
しかし虹梁といわれる二本の梁だけはどうしても一本無垢の材木を使用する
必要があり、この為にはるばる日向の国まで向かい、赤松の巨木を入手
した。この梁材運搬の際は「穢れぬように」と牛馬を使わず、全て人力で
はるばる奈良まで運んだという。
81 :
日本@名無史さん:02/08/19 23:54
現代に於いても、1000年、2000年後のことを考えて、檜とかを植えておく必要があるのでしょうかねえ。
仮にそれが大仏殿のためでなくても。
82 :
日本@名無史さん:02/08/20 00:17
スレ違いだけど信州諏訪の御柱祭り、柱用の樅の木のストックは大丈夫なのか?
七年に一度だからいつか樅材が枯渇する気がしてならない。
83 :
日本@名無史さん:02/08/20 00:24
江戸初期に大仏殿を再建した公慶上人の記録によれば、彼が全国を巡っ
て日向国白鳥山で見出した十三間、一六〇〇貫の大虹梁用の巨木を、伐
採して海岸まで引き出すのに、多数の人足を使って約五ヶ月、瀬戸内を
経て、大阪から淀まで六日、さらに木津まで四六二五人が動員されて
十三日、木津からの奈良坂越えに連日二、三千人を使って十八日。
七月二十一日大阪を発って、奈良搬入が実に九月五日のことであり、こ
の間動員された総人数は、一万七三六二人と伝えられている。
また大仏殿諸掛として次の記録が残されている。。。
惣木数 三万二千三百三十二本
柱数 六十本
足代松丸太 五千八百五本
同竹 四万千七百六十一本
大工・木挽杣 二十七万千三百七十六人
鳶・用人 二十九万四千二百二十五人
瓦数 十三万三千六百六十枚
惣入用金 十二万千二百六両
84 :
日本@名無史さん:02/08/20 00:40
この大仏殿再建による多大の出費で幕府財政は大赤字、
勘定奉行の荻原重秀は貨幣の悪鋳を行い、大インフレとなったのである。
85 :
日本@名無史さん:02/08/20 08:44
その赤松の梁は、大仏殿の中から見上げると当然見えるのでしょうか?
長さ13間とありますが、直径はどのくらいあったのでしょうか?3m?
86 :
日本@名無史さん:02/08/20 10:58
虹梁は天井裏にあがらないと見えないかな。。。直径は三尺五寸から5尺だっ
たと思う。
この大木は日向国白鳥山(白鳥神社付近)で伐採して、鹿児島湾に引きおろし
たってことだけど、白鳥山(神社)ってどの辺にあるのかな???
87 :
日本@名無史さん:02/08/20 11:43
削って仕立てた後でも1m50cmをほぼまっすぐキープする赤松、当時のたたずまいを見てみたいですね。
黒松の巨木は今でも存在しますが、赤松の巨木は信じられないです。
88 :
日本@名無史さん:02/08/20 12:54
89 :
日本@名無史さん:02/08/20 12:56
唐招提寺もよろしくおながいします。
90 :
日本@名無史さん:02/08/20 16:03
元来、唐招提寺には五重塔といった類はあったのでしょうか?
91 :
日本@名無史さん:02/08/20 23:44
92 :
日本@名無史さん:02/08/21 00:42
>>89 “おながい“ するのは良いけど、唐招提寺は何時から七大寺になったので
しょうね???
鎌倉時代の大仏開眼供養に参加した僧を見たら。。。
東大寺300、興福寺500、元興寺15、大安寺30、薬師寺100、
西大寺5、法隆寺40
ってなってるけど、おおよそこの数が当時の寺の規模を表してるんじゃない
かな??? じゃあ唐招提寺は???ってことになる?
おヒサ〜。
>65さんへ
南都七大寺がどのお寺さんを指すかはマチマチなようです。
唐招提寺と法隆寺なんか、その典型なんでしょう。
すっごく乱暴な言い方しちゃうと、「南都」って語自体に問題あるし。
普通は中世の奈良町のことなんでしょうけど、平城京を指して使われた可能性もあるから。
中世人が「いかるが」「あすか」なんて地名を知ってたか疑わしいし。
元興寺は、興福寺の大乗院の支配下に入っていったようです。
とにかく興福寺の力が強大だたってことなんでしょう。
奈良のお坊さんは江戸時代にも活躍しましたが(綱吉の隆光など)、
南都教学が輝きを失ってしまった観が否めないのは、
やっぱ奈良市そのものが衰退してしまったからなのかな?
宗教の盛衰って、意外と経済力がモノ言うんでしょうね。
比叡山は中世京都の土倉の7〜80%を経営してたそうですから。
でも、中世の奈良市が鎌倉より明らかに規模の大きい都市だったことはもっと知られるべき。
これ知らないと、奈良が歴史に貢献したことの大きさが忘れられてしまう。
奈良の職人が全国に伝播してった経緯がわかると素晴らしいでしょうね。
鎌倉の文化には奈良の職人が大きく貢献してるようです。
西大寺の叡尊・忍性が鎌倉極楽寺に関わってるのも、
視点を変えると奈良の技術の高さが象徴されてるんでしょうね。
94 :
日本@名無史さん:02/08/22 20:16
アゲ
95 :
日本@名無史さん:02/08/22 20:34
>>65 加えて。。。
続日本紀の天平勝宝八年に聖武太上天皇の初七日に「七大寺」で誦経させ
たって記事がある。これが「七大寺」の初見みたいだけど、この時には西
大寺はまだ建ってないから別の寺が入ってたようですね?
時代は下って平安遷都後の延喜式では十五大寺として。。。
東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺、
新薬師寺、本元興寺、唐招提寺、西寺、四天王寺、崇福寺、弘福寺、東寺
が挙げられているみたいだけど、このうちとても南都(平城・南京とも)
とは言い得ないのが。。。西寺、四天王寺、崇福寺、東寺ってことになる。
十二世紀頃の大江親通「七大寺巡礼私記」でも東大寺、興福寺、元興寺、
大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺と(唐招提寺が付記)されているから、
これがいわゆる南都七大寺だということになるネ。
中世以降には唐招提寺や法華寺が入れられている例もあるみたいだけど、
法隆寺については一貫して南都七大寺の一つとされているんじゃないかな?
むしろ「南都」という言葉が色んな意味で使われているので、
@もともとは平安京(北京)に対する平城京の意味。。。
A平城京が衰亡してからは今の奈良市街(外京)の意味。。。
Bかって古都があった奈良盆地の意味。。。
C北嶺(比叡山延暦寺)に対する興福寺の意味。。。
等ですね。南都七大寺の場合の「南都」はBでしょうか?
96 :
日本@名無史さん:02/08/22 20:40
97 :
日本@名無史さん:02/08/22 21:58
西大寺の五重塔の基壇を依然見ました。興福寺のそれと同じくらいの高さがあったのではないかと
思われるくらいの立派なものでした。すると、その塔に見合った金堂があったはずで、
それは今のものよりもっと大きかったのでしょうかね。
また、何かの資料で読んだのですが、あの基壇は東塔のもので、西塔はもちろん西側の住宅街の中に
あったと聞いています。これは本当でしょうか。
最後に、これらの基壇とは別に寺の敷地内に資材が以前から積み重ねられており、
新たに中国式五重塔が建立されると聞きました。これについてご存じの方、
ご教授いただければ幸いです。
南都七大寺の「七」に関しては、あまり数字を気にしない方がよいかと思われます。
関東に「武蔵七党」って称された武士団(小武士団が集団を作ったもの)がいましたが、
これは実に好い加減で、実際には9もしくは10の党が並立していたようです。
弁慶の七つ道具なんて詞がありますが、
昔の人は語呂や数字特有の神秘性でかなり好い加減な数字を使って平気でしたから。
まあ、南都って普通奈良の町(今の奈良市の原型)を意味するんでしょうが、
平城京を指すとなると、また好い加減になってしまう。
平城京は馬鹿でかい都市で、大和郡山市まで含んでしまうような規模でしたから。
平城京の外れのほうなんて実際には農地だったんでしょうけど。
99 :
日本@名無史さん:02/08/23 01:19
>>98 失礼ながら七つ道具と言う様な俗諺と、続日本紀、延喜式、太政官符、東大寺
要録と言った公式資料の記述を混同しては困ります。南都七大寺は後世におい
て歪められたものの厳密に七つの大寺であり、十五大寺は明確に十五の大寺な
のです。
「南都」は基本的には平城京を意味します。対称として平安京を北京と言う
が如きものですから何も好い加減なものではありませんネ。
ただ後世において平城京の大部分が農地と化し、外京(概ね現在の奈良市街
地)のみが残ったので、南都の概念が変わった(移動した)に過ぎません。
また最も狭義には南都北嶺と言う慣用句において延暦寺と興福寺を示すこと
があると言うことなんですネ。
平城京は確かに大規模な都市ですが、極めて明確に条理整地されていました
ので、建都の頃は都市部分と農地部分はハッキリと分かれていますヨ。
100 :
日本@名無史さん:02/08/23 07:27
親の七光り、七不思議、七色の湖、大和撫子七変化、・・・・・
101 :
日本@名無史さん:02/08/23 09:09
七堂伽藍、七味唐辛子、七生報国、七宝焼、七福神、七面鳥、七道・・・
七転八倒
102 :
日本@名無史さん:02/08/23 09:27
京都五山。。。構成がどうあっても「五つ」の禅寺だろ。
103 :
日本@名無史さん:02/08/23 09:32
七色の虹、七音の音律、七人の侍・・・
一週間って7日だし。
7って数字なんか意味あるのでは?
104 :
日本@名無史さん:02/08/23 09:50
>>97 西大寺には15丈(約45m)の東西塔があったとされています。
この塔は唐風の八角七重塔だったようですが、現在見られる塔基壇は
おっしゃるとおり東塔跡のものです。創建当時は東大寺に匹敵すると
言われたぐらいの規模で、現在の伽藍配置や規模からは想像し難いよ
うですね。
105 :
日本@名無史さん:02/08/23 09:55
>建都の頃は都市部分と農地部分はハッキリと分かれていますヨ
条理整地って、必ずそこに都市施設があることを意味するの?
それって、近代的都市思想の発想なんじゃない。
「条理」は当時の首都を示す古代的な表象に過ぎず、数キロ四方の大規模な条理があるからと
言って、耕地と区別できるような実体としての都市(たとえば住宅地や商業地など)
が実際あったとは必ずしも言えないんじゃないのか。
条理の内側だけにしか見られない都市型住宅があるとか、耕地は条理の内側では
極端に減少するとか調査情報があったらレス希望。
あと素人ながら疑問に感じるのが、よく十数万の人口があったとか聞くがどうなのだろうか?
当時の平城京に経済都市としての能力があったとも思えないので、それほどの人口を
抱える必要もないはず。貴族と役人と僧侶、それに彼らの下僕らでそれだけの人口に
なるのだろうか?それとも経済都市としても十分評価できる都市だったのだろうか?
この辺のことについても、ついでに頼む。
106 :
日本@名無史さん:02/08/23 09:55
>>102 京都の五山は6つの寺じゃなかったっけ?
107 :
日本@名無史さん:02/08/23 10:05
>>106 五山の上に南禅寺があることをおっしゃているのでは?
108 :
日本@名無史さん:02/08/23 10:14
なんぜんじ 【南禅寺】:
京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の大本山。山号、瑞竜山。
亀山天皇の離宮(禅林寺殿)を、1291年に無関普門(むかんふもん)(1212-1291)を開山として禅寺に改めたのにはじまる。
正安年間(1299-1302)に寺号を瑞竜山太平興国南禅禅寺とした。
五山の第一位に列し、足利義満のとき、別格上位の「五山之上(しじよう)」となり、禅宗寺院最高の寺格を誇った。
室町中期以後衰えたが、江戸初期、以心崇伝(いしんすうでん)らの努力で再興。桃山期建立の方丈は国宝で、
襖絵は狩野派によって描かれている。
大辞林第二版から
109 :
日本@名無史さん:02/08/23 11:11
【京都五山】
京都にある臨済宗の五大寺。
数度の改変を経て、1386年、足利義満によって、
別格南禅寺、第一天竜寺、第二相国寺、第三建仁寺、第四東福寺、第五万寿寺の序列が決定された。
京五山。
110 :
日本@名無史さん:02/08/23 11:14
>>109さん
結論として、五山は5寺なんですか、6寺なんですか?ご意見を。
112 :
日本@名無史さん:02/08/23 11:18
京都五山といえば、普通は、南禅寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の
六寺だろうな。南禅寺を抜いて言うことはないと思う。
113 :
日本@名無史さん:02/08/23 11:45
「天下五山之上」=京、鎌倉両五山の上位の別格の寺とした。
南禅寺
|
------------------
| |
京五山 鎌倉五山
という_寺格_ですから、あくまでも五山の上。では。
114 :
日本@名無史さん:02/08/23 11:47
115 :
日本@名無史さん:02/08/23 11:58
まあ、花の御所殿が自分のゆかりの相国寺を五山につっこみた
っくって、こうなった(
>>113)だけのことらしいですから、どっちでも
いいといったらどっちでもいいですけど。(w
116 :
日本@名無史さん:02/08/23 12:14
>>104 西大寺西側の住宅地内の空き地に土壇みたいなものがあるけど、
ひょっとしてあれが西塔の跡なのかな?
なるほど、以前見に行ったときあったような気がしないでもないです。
118 :
日本@名無史さん:02/08/23 12:39
>>113 南禅寺は鎌倉五山とは関係ないだろ?
禅宗寺の最高格だから、全国の禅寺の上にあるのは確かだが、
鎌倉五山の別格ではない。
119 :
日本@名無史さん:02/08/23 13:16
後醍醐帝が定めた「京五山」においては南禅寺は五山の筆頭だった。。。
ところが
>>115の経緯によって相国寺を五山に捻じ込ませるために南禅寺を
五山からはずして「五山之上・・・別格」としたんですネ。
だから南禅寺はあくまで「五山之上」であり「別格」と言う言葉自体が示し
ているように「五山」の枠外であり「五山の中の最上位」ではありません。
なお「別格南禅寺及び五山」は禅宗寺の上位にあるのではなく、あくまで臨
済宗禅寺の上位にあるものですから。。。念の為!
120 :
日本@名無史さん:02/08/23 13:20
>>119 「別格」って枠外って意味じゃねーだろう。
特別な格って意味だろ。
別格官幣社も官幣社の中で特別上位の格という意味で、
官幣社の枠外ではない。
べっかく 【別格】
きまった格式によらないこと。特別であること。例外的な扱いを受けること。「あの人は―だ」「―の扱い」
決して枠外の意味ではない。
121 :
日本@名無史さん:02/08/23 13:23
>>119 >あくまで臨済宗禅寺の上位にあるものですから。。。念の為!
鹿苑院殿からは、禅宗寺院の最上位と格付けらえたはず。
122 :
日本@名無史さん:02/08/23 13:31
やはり、慣例上でも南禅寺は五山だよね。
123 :
日本@名無史さん:02/08/23 14:32
>>105 >それって、近代的都市思想の発想なんじゃない。
う〜ん。スマないけれど逆じゃないのかな?古代律令国家に於ける都城
ってのは全く人工的に建設されたモノだから、条坊(条理とは言わない)
は直線にのびた大道で区切られており、そこを外国使節などが通行する
んだから、耕作地にする事なんかできっこないんだヨ。
その意味で都心にまで私的耕作地が存在する「東京」等とは基本的に都
市思想が違っている。おそらく平城京のような人工的都市は近代日本で
はかろうじて札幌、世界的に見てもブラジリア(?)位のもんじゃない
のかな?
平城京の場合には東西6.3kmが四坊(外京は別)、南北4.7kmが九条に
区画されており、羅城門に近い八条の二坊と三坊がそれぞれ東市・西市
になっている。それではこういった都城の端の部分は如何なる施設が建
っていたのか。。。発掘調査された部分から想像するに、全国から運上
された租税の倉庫や租税運搬人の宿坊あるいは工房があったようだネ。
要するに隆盛時の律令国家都城というのは、分権化された中世都市等と
は比較にならない規模だった見たいだよ!
124 :
日本@名無史さん:02/08/23 14:45
113=115です。(119さんは別の方です)
119さんご苦労様です。
五山の制・五山文化が成立・変化していく過程をみると
>>118 >南禅寺は鎌倉五山とは関係ないだろ?
という発言は出ないと思うのですが。
まあ、6寺中現存5寺ということで、南禅寺を含んで
京五山としても支障もないですし、慣習的呼び方として
それが通例だというのであれば、そうですかとしか言い
ようがないです。
ただ、鎌倉からみても、南禅寺は上位の寺であり、僧侶
の交流も多くあったようです。
また、先程引用した「天下五山」も「日本の五山=
京・鎌倉の五山」の上に立つ、と解釈している人が多いよ
うです。
>>119さん
後醍醐帝のときの五山は「京」五山でなく、京、鎌倉を合わ
せて、南禅寺・東福寺・建仁寺・建長寺・円覚寺の五寺(京
3寺・鎌倉2寺)であったのではないでしょうか。
スレ違いの内容ですので、そろそろ終了にしましょう。(w
125 :
日本@名無史さん:02/08/23 15:14
>>120 >特別な格って意味だろ。
>別格官幣社も官幣社の中で特別上位の格という意味で、
非道い誤解だけど。。。ヒョットしたらジョークなのかしら?
言うまでもないけれど。。。
「本来の官幣社ではないけれど、特別に官幣社並みに扱うのが別格官幣
社よネ?」
南禅寺の場合は。。。
「本来の五山ではなくなったので,五山より格上の特別な禅寺として扱
うのよネ?」
126 :
日本@名無史さん:02/08/23 15:18
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128 :
日本@名無史さん:02/08/23 15:43
延喜式以来の大・中・小の区別のいずれにも分類できない
あるいは分類しないという意味だろう。
>>126、
>>128 ほぼ128で正解。。。もともと延喜式(神名帳)には官幣社と国弊社の区別が
あったけど、官幣社は中央の神祇官が、国幣社は地方国司が幣を奉ったもので、
官幣社が格上だった(その中でも名神社306社が格上)。
明治新政府はこの制度を基に明治四年の太政官布告で官幣社(大中小)、国
幣社(大中小)、諸社(府・県・郷・村等)を定めたが、明治六年に国家の
忠臣を祭る談山神社や湊川神社、東照宮等にも特に官社格を与えることとし、
これを別格官幣社としたのです。
つまり最上位どころか所謂「式内官幣社」より随分と格下なのです。
スレ違いなので、この話題はここまで。。。
ただこれらの神社格付けに一つだけ例外がある。。。伊勢神宮(内宮・外宮)
がそれで、延喜式でも明治太政官布告でも官幣大社とはされていないのネ。
つまり官幣・国幣を超越した別格の神宮なの。「別格」にはこういう使い方
もあるのよ!
131 :
日本@名無史さん:02/08/23 21:59
>>123 素速いレス感謝!
>大道で区切られており、そこを外国使節などが通行するんだから、・・・
まさにそうだと思う。「通行する」というレスは鋭い言葉の選択ですな。
「延喜式」や「造興福寺記」に見られる様に、当時の儀礼や祭礼は整列したり
パレード?したりすることが中心だから、恐らく当時の都自体もそのような施設
として最大級のものだったんだと思う。そういう意味でも中世的でも近代的でも
ない。しかし逆を言えば、それは巨大な権力の舞台装置に過ぎぬとも表現できる
訳で、パレードに使わないような部分は当然空白であって不思議ではない。
羅城門から内裏そして大極殿へ続く南北軸線こそが表舞台の訳だから、舞台裏
である東西両端はどうなっていたのか関心は尽きない。
>全国から運上された租税の倉庫や租税運搬人の宿坊あるいは工房があったようだネ。
その答えとして、これは面白いと思う。
律令制の下、帝国の財政を支えるだけの富を集中させる訳だから、それ相当の
倉庫群があったはずで、またそれを管理する相当規模のシステムもあったはず。
この点も不思議で、内裏にある役所の施設で本当に事務作業が出来たのか疑問。
やはりこういう所に、実務のための事務施設が密集していたのだろうか?
引き続き、レスを期待!
>また、何かの資料で読んだのですが、あの基壇は東塔のもので、西塔はもちろん西側の住宅街の中に
>あったと聞いています。これは本当でしょうか。
本当です。ただし、8角7重塔は、計画のみで実際に立ったのは、4角5重塔です。
>最後に、これらの基壇とは別に寺の敷地内に資材が以前から積み重ねられており、
>新たに中国式五重塔が建立されると聞きました。これについてご存じの方、
>ご教授いただければ幸いです。
元々、西大寺は、緑釉瓦・垂木先を使用し、装飾の多い変わった様式の
「中国風」建築だったと言われています。
たぶん単に東塔を再建しようとしているのではないでしょうか?
どのように聞いたのか詳しく教えて下さい。
*他にも平城遷都1300年を記念して平城級大極殿、興福寺金堂の再建が予定されており
その一環では?
133 :
日本@名無史さん:02/08/24 23:06
南都七大寺とは全く関連無いが、足利義満が建てさせた京都相国寺の
七重の塔は高さ107メートル、東大寺七重の塔より高かったらしい。
しかしその高さ故に完成後数年で落雷焼失、その数年後にすぐに再建
され、以後七十数年間都のシンボルとして君臨した。
しかしやはり落雷で炎上、以後は再建されなかった。
134 :
日本@名無史さん:02/08/24 23:07
元興寺(極楽坊)地蔵盆が昨日今日と行われている。
ズラリと並べられた石仏の周囲に無数の燈明が揺らめき映えているのは何と
も結構な風情。。。
もともと元興寺は三論宗だったと思うけど、現在この中院町の元興寺は真言
律宗、芝新屋町の元興寺は華厳宗だから西大寺と東大寺に分かれているって
ことになる...?
135 :
日本@名無史さん:02/08/24 23:23
>>133 1393年 五重塔立柱
1394年 炎上、再建開始
1399年 大塔(約100m)完成供養
1403年 落雷により炎上、以後再建されず。
じゃあ〜なかったかしら???
136 :
日本@名無史さん:02/08/25 00:01
>>134 元興寺の東塔跡の基壇も結構な大きさです罠。
足利義満は夢窓疎石を深く慕い、その弟子春屋妙芭を開山として。。。
さらに春屋・義堂らとはかって、花の御所の東方に一大禅寺の建立を志
し1392年から十年をかけて相国寺を完成した。春屋は亡師夢窓を開
山とし、自らは二世となった。
また義満は五山の座位を改め、南禅寺を天下第一として五山の上におき
、天竜・相国・建仁・東福・万寿の五寺を五山とした。
幕末まで持ったらしい。
惜しくも雷火で消失
故老の話だと興福寺の塔よりデカイらしい
すげえ小さな寺になったので再建は無理だろうな。
139 :
日本@名無史さん:02/08/25 10:19
暦応三年(1340)「院家雑々跡文」によれば、、、
東大寺七重塔。。。。。。。。三十二丈
法勝寺八角九重塔。。。。。二十七丈
春日東御塔五重。。。。。。十七丈
東寺五重塔。。。。。。。。。十六丈
宇津宮十三塔。。。。。。。十六丈
興福寺五重塔。。。。。。。。十五丈
チャイナの仏塔は、ほとんどがレンガ造りだけど「洛陽伽藍記」では
北魏洛陽城の「永寧寺」は木造九重塔で200mもあったらしい。
140 :
日本@名無史さん:02/08/25 10:26
方広寺大仏殿の焼失も惜しいよな。日本史上最大の建築だったが、
大仏修理の鋳造の火が引火して江戸初期に炎上した。
それは中国人特有の誇張だな。
142 :
日本@名無史さん:02/08/25 10:49
そして秀頼に再建された方広寺大仏殿。しかし豊臣家は鐘の銘が原因で
滅亡、再建大仏殿は江戸の寛政年間に落雷で炎上してしまった。
巨大建築には落雷の不運がつきまとう。む
法勝寺の八角九重塔には八十四丈(約250m)という記録があるヨ。。。
>>143 27丈: 84mくらい からの誤記ではないの?
>>132 私が平成5年頃西大寺とお坊さんに聞いた話では、更に、基壇とは違う、異なる場所、
と記憶しております。
そうそう、中国の宮大工さんが来日して、中国風とも言っておりました。l
西大寺のどこかにその模型が当時、展示されていたと記憶します。
147 :
日本@名無史さん:02/08/25 11:47
>140 東大寺の大仏殿よりも大きかったのですか?できれば、サイズをお教えください。
148 :
日本@名無史さん:02/08/25 11:48
そりゃ、8角7重塔のミニチュアじゃないかな。
今の基壇に昔どおり立てればいいのにね。
資金的に無理なのかな
>>148 いえ、確かに「これを造る」を言っておりましたので、本来の五重塔とは別物だと
私個人は解釈しております。
数値的には面白い発想だけど、八十四丈と記述されたのはメートル法が
無い時代だからチョット無理かな???
まあどっちにしても誇張、誤記、誤写の可能性が極めて高いのは事実だ
ろうけどネ。。。
151 :
日本@名無史さん:02/08/25 18:17
延喜式の十五大寺以前に延暦十七年の太政官符で十大寺ってのがある。
これを整理すると。。。
南都七大寺。。。
東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺
延暦官符十大寺。。。
南都七大寺+弘福寺・四天王寺・崇福寺
延喜式十五大寺。。。
延暦十大寺+新薬師寺・本元興寺・唐招提寺・西寺・東寺
こう見てみると現在全く消滅してしまったのが。。。
崇福寺・西寺
何とか跡を留めているのが。。。
元興寺・大安寺・弘福寺・新薬師寺・本元興寺(飛鳥安居院)
現在もなお大寺の格式を保っているのが。。。
東大寺、興福寺、薬師寺、西大寺、法隆寺、四天王寺、唐招提寺・東寺
こうしてみると南都七大寺が、かなり健闘しているように思われる。。。
>>155 そうですか。
参考までにソースとなる文献を教えていただけると
うれしいです。よろしく。
153 :
日本@名無史さん:02/08/25 19:38
すでに平安時代から
「7大寺で昔の盛時を保つのは東大寺、興福寺であり、残りは衰退している。
ただし、法隆寺、薬師寺は、経営がうまいので生き残っている。」
と記録されていますね。
でもこれって今でもそのまま当てはまりますね。
どんな模型なんですか?
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/08/25 20:10
失礼、見られませんね。
東大寺の現在の大仏殿が東西57m 南北50m、高さ47m。
方や方広寺は東西55m、南北90m、高さ50mです。
しかし創建当時の東大寺大仏殿より大きかったかどうかは不明。
ヒョットしたら
>>155 ではなく
>>150なのかな?
“東大寺七重塔より高い塔としては、法勝寺(京都・白河)八角九重塔の八十
四丈、相国寺(京都・洛北)の三十六丈があったという。八十四丈といえば二
百五十米に近い高さ。実際には二十七丈ていどだったというのが定説。
相国寺のはたしかめる資料が不十分。大官大寺(奈良・明日香)の九重塔も
東大寺と同じくらいの高さだったと推測される。“
「大和の塔=注書」より
なおこの注書きの出典も確認しょうとしたのですけど、居所の近くの図書館に
は心覚えの史料が置いてなかったので。。。これでカンベンしといてネ!?
>>158 わざわざどうもすいません。
「大和の塔」というのは瀬戸内寂聴さんの著作でし
ょうか。何が出典なのでしょうね。
いずれにせよ。ありがとうございます。
160 :
日本@名無史さん:02/08/25 22:32
大仏殿
奈良創建。。高十五丈(十五丈六尺とも)、東西二十九丈、南北十七丈。
鎌倉再建。。高十五丈六尺、東西二十九丈六尺、南北十八丈六尺。
江戸再建。。高十五丈六尺、東西十八丈六尺、南北十六丈六尺。
ってされているみたいだから、高・南北は余り変わらず、東西が87m
で今の大仏殿より30mぐらい大きいのかな???
だから方広寺大仏殿は江戸再建以前の東大寺大仏殿とほぼ同じ???
ただ大仏様は六丈三尺だから、東大寺のより約一丈ほど大きい。
>>154 そうですね、1m50cm位の雛形だったように記憶します。おぼろげでありますが。
本堂(金堂?)手前の右側の白い土倉のような一般展示所にあったような...
何せ10年くらい前のことなので。勿論、中国風五重塔(手すりの下にラーメンマークが沢山あったような)。
万福寺に似た感じでしたでしょうか。
162 :
日本@名無史さん:02/08/25 23:55
太閤の大仏殿は、失火というが怪しい。
実際は、幕府が放火したんだろ
163 :
日本@名無史さん:02/08/26 00:13
>>151 >こう見てみると現在全く消滅してしまったのが。。。 崇福寺・西寺
崇福寺つーのは、あまり聞かないけど、そんなにデカイ寺だった?
10年経った今でも立っていないね。
165 :
日本@名無史さん:02/08/26 10:17
>>163 天智の創建で由緒正しいし、聖武も参詣してるくらいの大寺だったけど如何
せん立地が悪く名僧が出なかった。平安中期には山門・寺門の抗争に巻き込
まれて立ち腐れてしまった。
166 :
日本@名無史さん:02/08/26 12:13
最澄・西寺は、東寺の空海に潰されてようなものですよね。
167 :
日本@名無史さん:02/08/26 12:39
168 :
日本@名無史さん:02/08/26 14:02
東寺は空海に、西寺は最澄に任されたのではなかってでしたっけ?
>>168 最澄は空海が東寺を給預された前年に入滅しています。
事実かどうかは不明確らしいのですが、
その頃、西寺を任されたと伝えられているのは守敏ですね。
いわゆる、雨乞い対決の相手です。
170 :
日本@名無史さん:02/08/26 16:19
最澄は、東寺・西寺のいずれにも関係していないのですか?
171 :
日本@名無史さん:02/08/26 16:52
>>97 >>132 ミーの知る限りですが、西大寺仏塔を再建する計画はありません。
しかーーーし、今朝の日経によれば法隆寺五重塔が戦時中解体されて疎開
していたんですってネ。。。この時に年輪年代測定法が開発されていたら、
法隆寺建立の謎は大きく展開していたんだろうナァ〜。
172 :
日本@名無史さん:02/08/26 17:29
仮に法隆寺が爆撃で全焼したとして、後に境内の別の場所に焼失した金堂や
講堂の再建がなされ、同時に解体されていた五重塔の再構築がなされたとす
る。。。すると「法隆寺爆撃にて全焼」と言う記録にもかかわらず、五重塔
の木材は飛鳥時代のものだと言う矛盾が生じる。。。もちろん現代なら解体
中だったという記録も残っているから疑問は生じようがないけど。。。
これが670年のことならどうだろう???
173 :
日本@名無史さん:02/08/26 23:39
>>170 そうでしたか、私の記憶間違いかもしれませんね。どうもすみませんでした。
ところで、元興寺の道から少し入ったところにある礎石の上に立っていた塔について
詳しくお知りの方はいませんか?
>>134 >現在この中院町の元興寺は真言律宗、芝新屋町の元興寺は華厳宗だから
>西大寺と東大寺に分かれているってことになる...?
なんですが、どちらの元興寺の道でしょうか?
芝新屋町の元興寺にある塔基壇は、今まで何回か話題になってる安政六年焼失
の元興寺五重塔跡ですけど?
175 :
日本@名無史さん:02/08/27 13:34
>>174 レスありがとうございます。
それかもしれません。住宅街からぽつんと入った感じでした。
ところで、中院町の元興寺にも五重塔があったのですか? 院内に展示されている
ひな形の実物大。だとすると、境内に基壇は残っていないのでしょうか?
176 :
日本@名無史さん:02/08/27 18:33
チョット言い方が悪かったみたい。。。中院町の元興寺(極楽坊)は元々は元興寺
の僧坊の一つで、早くから元興寺本院に対して独立性を持っていた様ですが、単な
る僧坊ですから塔などは有りません。
ここで言われてる展示物は「五重小塔」のことでしょうね。。。これは元々は芝新
屋町の200mくらい西の元興寺小塔院にあったもので、奈良時代の仏塔の模型とも言
われてますが、元興寺極楽坊と直接の関係はない(?)ものです。。。
ヤヤコシイですね???
177 :
日本@名無史さん:02/08/27 23:49
>>165 大津近辺と言うことでは似たような場所にあった石山寺が、今に至るまで頑張
ってることからしても、崇福寺立ち腐れの不甲斐なさは否定できぬな。
しかし天智創建の大寺にしては、平安期の朝廷も些か冷たいように感じるのは
漏れだけであろうか? 何かワケありか?
178 :
日本@名無史さん:02/08/28 00:36
176さん、色々ありがとうございます。
実は私、「塔」が好きなものでして。勿論、木造のやつ。
基壇を見ては遙か昔に思いを馳せるとともに、何とか復元ならぬものかと思う輩です。
179 :
日本@名無史さん:02/08/28 13:29
石山寺は東大寺を上手く利用したり、観音信仰を利用したり、貴族の遊山趣味
をあおったり、ナカナカ世渡りが上手いからね(現在奈良博で特別展中)
。。。それに比して天智の崇福寺や桓武の梵釈寺は、独法的な経営の才が窺え
ないようだから、いつの間にか立ち腐れてしまったんだろなぁ〜
東大寺・・・華厳宗大本山
興福寺・・・法相宗大本山
薬師寺・・・法相宗大本山
法隆寺・・・聖徳宗総本山
西大寺・・・真言律宗総本山
元興寺(極楽坊)・・・真言律宗
元興寺・・・華厳宗
大安寺・・・高野山真言宗別格本山
唐招提寺・・・律宗総本山
法華時・・・真言律宗
白毫寺・・・真言律宗
新薬師寺・・・華厳宗
秋篠寺・・・単立
中宮寺・・・聖徳宗
当麻寺・・・高野山真言宗・浄土宗
室生寺・・・真言宗室生寺派大本山
長谷寺・・・真言宗豊山寺派総本山
先生質問!
1) 大本山と総本山は何が違いますか?
2) 法相宗の大本山は2つあるんですか?
3) 入るとモテモテなのはどれですか?
182 :
日本@名無史さん:02/08/28 22:55
先生じゃあねーけんど!
1)それぞれ宗派の自称だから答えようがにゃい・・・
2)しょうゆーこと・・・・
3)お釈迦様でもご存知にゃい・・・
183 :
日本@名無史さん:02/08/29 10:15
>>181 1)総長と学長と塾長と。。。何が違いますか? ってことだね!
2)浄土真宗なんか幾つあるのか数えられん!
話は違うが。。。流石に真言宗はあっても天台宗はないね!
184 :
日本@名無史さん:02/08/29 12:17
>>183 有名どころでは橘寺ぐらいか?>天台宗
修験系を入れたら増えるのだろうが・・・
185 :
日本@名無史さん:02/08/29 14:12
独断偏見で選んだその他の有名どころだけど。。。真言宗が圧勝してるね。
真言宗
十輪院、円成寺(御室派)、長弖寺、霊山寺、聖林寺、壺阪寺、
大蔵寺、岡寺、久米寺、安居院、栄山寺、小島寺、矢田寺(古義)、
松尾寺(古義)、朝護孫子寺、大野寺、仏隆寺
真言律宗
般若寺、浄瑠璃寺、不退寺、額安寺、海龍山寺
華厳宗
安倍文殊院、帯解寺
聖徳宗
法起寺、法輪寺
浄土宗
吉田寺、興福院、九品寺
186 :
日本@名無史さん:02/08/29 19:43
>1) 大本山と総本山は何が違いますか?
たとえば「中核派」に当てはめれば、
総本山は京大、関東大本山が法政と横国。
「革マル」なら大本山は早稲田で別院は國學院や学習院っていったところ。
以前、先輩からそう教わった・・・。
関係なくてゴメン。
187 :
日本@名無史さん:02/08/30 00:19
そう言えば一昔前までクレムリンは世界革命の総本山で、北京はプロ革命の
大本山、そして代々木は右顧左眄の別格本山だった?
これまた関係なくてゴメン。
188 :
日本@名無史さん:02/08/30 19:34
十輪院(真言宗醍醐派)も、元々は元興寺の一院だった。。。
その近くの金躰寺(浄土宗)も同じだから、元興寺は真言律宗、華厳宗、
真言宗、浄土宗と分かれてることになるんだネ!
もう少し正確に言うと、元興寺は、奈良町一帯をカバーする
ものずごく大きな寺であった。
しかし衰退し、真ん中あたりは、民家となった。
だが、
元興寺(元の塔院あたり)
十輪院(元の小塔院あたり)
極楽坊(元の僧坊)
の3つが元興寺の断片としてバラバラに残ったというわけだ。
>>189 >>174で言ったけど。。。
元の小塔院は西新屋町だから元興寺塔跡の200mくらい西にあり、十輪院は
十輪院町だから逆に150mくらい東にある。
また極楽坊は中院町でやはり200mくらい北にあり、金躰寺は南東100mく
らい。。。芝新屋町の元興寺に元興寺の旧跡を示した古地図があったと思
うヨ。
191 :
日本@名無史さん:02/08/31 08:40
>>188〜190
元興寺の大きさ、興福寺並かそれ以上という感じがよくわかりました。
それにしても、民家が入ってきたのは、いつ頃のことなのでしょうか。
土一揆の後
w
194 :
日本@名無史さん:02/09/01 10:50
wee
195 :
日本@名無史さん:02/09/01 21:35
たしか義政殿の御代。。。宝徳四年の大和土一揆でございましょうか?
翌年には徳政令もでたようでございますが、元興寺は金堂その他の伽藍が
焼失し、寺勢が衰えるとともに寺域も縮小したようでございますな。
その後は興福寺の風下に立たされながらも、かろうじて五重塔や観音堂を
保っておりましたが、まことに残念ながら安政六年にはそれも焼失。。。
加えてご一新の後には大和にも廃仏毀釈の嵐が吹き荒び、寺域はさらに縮
小し今の哀れな姿になったとか。。。色即是空受想行識亦不如是
196 :
日本@名無史さん:02/09/01 23:41
幕末に塔が焼けた奈良の寺は多い。
元興寺、法華寺、唐招提寺
197 :
日本@名無史さん:02/09/02 00:00
唐招提寺の東塔のこと?
それじゃあ〜焼失は幕末じゃないでしょ???
198 :
日本@名無史さん:02/09/02 00:03
@今でも大盛況
東大寺、法隆寺
A復活
薬師寺
B復活しつつある
興福寺
Cそこそこ
西大寺、法華寺
D哀れを極める
大安寺、元興寺
199 :
日本@名無史さん:02/09/02 00:05
われわれにとって浩官幕府は、いかなる時でも友人であり、そして盟邦でいてくれるであろう。
「独逸帝國総統談話」(1945年2月18日口述)より
/  ̄ ̄ ̄ ̄ \ / \
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ヽ | | ヽ  ̄'/ 【  ̄ , |_// \ / /\ \
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ヽ、 |||||:|||||||||ll ( / / /
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_ ,――| \ / / \ \ /
/ |\ ー――一 / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ` '
/ | \ _/ / / \
| / 入 /
201 :
日本@名無史さん:02/09/02 20:05
法華寺、唐招提寺に塔があったとは驚きです。
202 :
日本@名無史さん:02/09/02 22:33
秋篠寺にも塔がありました。
唐招提寺は江戸末期に塔以外にもかなり燃えているね。
204 :
日本@名無史さん:02/09/02 22:56
単塔(普通は東塔)か両塔かの違いはあっても、もともと塔(インドで
はストゥーバ)のない寺なんて有り得ないのです。。。これが崩れてく
るのは中世以降ですネ。
唐招提寺も、法華寺も、秋篠寺も、三重塔だったのでしょうか?
また、今現在では、境内に基壇とか礎石があるのでしょうか?
206 :
日本@名無史さん:02/09/02 23:51
唐招提寺は天平宝字三年(759)鑑真が新田部親王の旧宅地であった右京
五条二坊の地に律宗の道場を創建したのに始まる。。。鑑真は天平宝字
七年(763)に入寂、金堂の完成はそれから後のことであった。。。
鎌倉時代以降はたびたび地震などの被害を受け、特に慶長元年(1596)の
大地震で多くの堂宇が倒壊したという。。。
江戸時代には徳川綱吉や母桂昌院の援助により復興が進められたが、創建
時にあった東塔は再建されないまま現在に到っている。。。
つまり。。。江戸時代にも東塔は再建されていないのです。。。再建され
ても居ない塔が江戸末期に燃える訳はないのネ!!
207 :
bloom:02/09/02 23:54
208 :
日本@名無史さん:02/09/03 00:14
どうして三重塔だと思われるのでしょうか???
唐招提寺の東塔跡は鎮守社の近くにあったと思いますが、秋篠寺・法華寺
のは記憶にありません。。。
塔があるお寺いいよねー。
西明寺の三重塔が好きー。
って、南都じゃないかー。
いや、幕末まであった
絵図にも残っている。
調べてみな。
>205
唐招提寺は、5重
後は分からないな
江戸期の唐招提寺罹災史
1707 地震のため中門倒壊
1802 落雷により五重塔、鎮守社焼失
1833 開山堂、西室焼失
1848 戒壇堂焼失
212 :
日本@名無史さん:02/09/03 17:07
213 :
塔大好き ◆j66u333Y :02/09/03 21:55
>>208 なんとなくです。強いて言えば寺の敷地が小さそうなのでそう思いました。
>>212 素晴らしいHPをご紹介いただきありがとうございます。
昔は、こんなに大和のここかしこにあったなんて、信じられません。
そのくらい、大和の地が、巨木の森だったのでしょうね。
214 :
日本@名無史さん:02/09/03 22:55
大安寺東西塔ってのは往時の南大門からも随分離れて建てられていたみたい
で南大門と塔との間に可成りの規模の八幡社があります。今は東塔基壇跡に
は石標がたってますが何とも侘びしい風情がありますので、機会がありまし
たら是非お立ち寄り下さい。。。ついでに大安寺にお布施もお願いします。
215 :
日本@名無史さん:02/09/04 19:01
>>206 >江戸時代には徳川綱吉や母桂昌院の援助により復興が進められたが、創建
>時にあった東塔は再建されないまま現在に到っている。
これ何かの引用かい? 何処まで原文に忠実なのか知らんが、これじゃ誤解
するのも無理ないわ。
唐招提寺五重塔は
>>211の言うとおり宝永年間(1704―11)の地震で九輪や
水煙が落下したので修復してるし、享和二年(1802)に落雷で焼失し近くの
鎮守社にも延焼してるから、元禄年間の桂昌院再建時代には健在だったんだ。
ただし絵図での判断は要注意だな。江戸時代の「大安寺伽藍図」という絵図
には東塔どころか平安期に消えたはずの西塔も堂々と五重塔として書かれて
いるよ。
217 :
日本@名無史さん:02/09/04 23:56
唐招提寺東塔跡は、立ち入りもできん。
江戸時代までは、奈良伽藍のほどんど残存し、政治力もあったのに今は薬師寺
におされてるな。
つーか、薬師寺みたいに一生懸命再建したり、坊さんが表に出て講義するところ
と観光客呼ぶ以外なんもしとらん寺の違いってどっから来るのだろうか?
そういうバイタリティがあるから生き残ったのか?
218 :
日本@名無史さん:02/09/05 09:22
もともと唐招提寺は十大寺にも入れられていない(後に南都七大寺と称される
こともあったけど。。。)から、暦とした七大寺の薬師寺とは格が違っている。
江戸時代にはまったく興福寺の末寺みたいになってるしね。。。
さらに唐招提寺は戒律道場みたいな性格があるから、諸事地味なとこがあるね。
ただ薬師寺だって橋本師時代は地味だったし、境内も清潔ではあったけど荒廃
していたな。。。高田師時代になってから超積極的寺院経営に乗り出した傾向
があるみたいだよ。
京都の某寺なんかも、かっては拝観さえままならなかったのが、今じゃ年中ラ
イトアップで客寄せだものヤッパ経営者次第ってことかな???
219 :
日本@名無史さん:02/09/05 10:27
元興寺極楽坊には飛鳥時代の瓦がまだ使われてるんだが
博物館に置かなくていいのかな・・・
あんな雨風に晒しちゃっててどうなの?
220 :
日本@名無史さん:02/09/05 10:31
そもそも蘇我氏系飛鳥寺の流れをくむ元興寺を藤原マンセーの平城京によくもってこれたよね?
しかも猿沢の池の上下で興福寺と元興寺が並んじゃってるし。
221 :
日本@名無史さん:02/09/05 11:41
元興寺は平城京移転に難色を示して、飛鳥にも本元興寺として残っているくら
いの力があった(川原寺=弘福寺はそのまま飛鳥に残留したけど。。。)し、
当初の興福寺より元興寺や大安寺のほうが規模も大きいんじゃないの?
平城遷都時の元明天皇の母も蘇我系だし。。。大体この時代を藤原マンせー
だとする風潮がおかしいんじゃないの???
222 :
日本@名無史さん:02/09/05 13:00
興福寺が藤原鎌足・不比等から来てる寺だから
蘇我蝦夷・入鹿の元興寺には腹立ったろうね
平城遷都10年後に元興寺はあの地に移ってきた。
なぜ10年後だったのかな。やはり遠慮?
223 :
日本@名無史さん:02/09/05 13:07
場所的には猿沢池を見下ろすちょっと高台の興福寺のほうがいいな。
下には蘇我の元興寺が見えるし。ただ、元興寺のほうが大きかったらしい。
224 :
日本@名無史さん:02/09/05 13:16
とにかく藤原の金と権力にものを言わせて今の国宝クラスのものを
かき集めたのが興福寺。
225 :
日本@名無史さん:02/09/05 13:21
山田寺仏塔まで…
226 :
日本@名無史さん :02/09/05 14:03
日本仏法最初・四天王寺
227 :
日本@名無史さん:02/09/05 14:10
蘇我馬子だろ
228 :
日本@名無史さん:02/09/05 15:49
遠慮って一体誰に遠慮するの?国家の命令で新都に移転するんだよ。。。ま
あ元興寺にしてみれば渋々ってポーズを取って、色んな条件を良くしょうっ
てとこじゃない???
藤原氏は興福寺より元興寺のほうが規模が大きいからって、政府に文句を付
けた形跡もないんだから、ましてや移転に文句を付ける力なんてあるはずが
ないよ(そんな馬鹿なことをする意味もないけど。。。)。
山田寺仏頭を掠取したのは、おそらく山田寺が廃絶しかかった頃か僧兵の仕
業だから遙か後世のことだろうな???
229 :
日本@名無史さん:02/09/05 23:14
元興寺の前身である法興寺(飛鳥寺)は崇峻元年に蘇我馬子が創建。。。
元明天皇の平城京遷都(710)にともない、養老二年(718)頃に移転し元興寺
と改称した。
天平勝宝元年に聖武譲位に際しての喜捨が行われたけど、その時の各寺の
格付けでは。。。
大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・東大寺の五寺が最上格で法隆寺がこれに
準じる。
弘福(川原)寺・四天王寺が次格となり、崇福寺・香山(新)薬師寺・建興(豊
浦)寺・法華寺の四寺がこれに続く。。。併せて十二寺が当時の大寺だった。
因みに蘇我系の寺は、馬子創建の元興寺と稲目創建の建興(豊浦)寺の二寺
が該当している。
230 :
日本@名無史さん:02/09/05 23:44
山田寺仏頭、首から下はどんなだったのでしょうか?
また、創建時と鎌倉復興の大仏の顔は、どんなだったのでしょうか?
231 :
日本@名無史さん:02/09/06 01:06
興福寺の国宝感みたいな色気も何もないとこに押し込まれちゃって
山田寺仏塔も可哀想。あれは生で見ると感動するけどな。
飛鳥大仏が面長だったのでそんな顔してたんじゃ?
>>230
232 :
日本@名無史さん:02/09/06 01:07
国宝館です
233 :
日本@名無史さん:02/09/06 01:10
山田寺仏塔の顔は決して面長でないね
234 :
日本@名無史さん:02/09/06 01:13
藤原にとって目の下のたんこぶだったそうだね元興寺は。
>>234
話がループしてませんか。
ドラえもんに頼んで奈良の都は見せてもらいたいね
237 :
日本@名無史さん:02/09/06 09:25
>>231 >>233 飛鳥仏は概ね北魏様式だけど、白鳳仏あたりから唐様式になり、奈良仏では和
様を濃くすることになるね。
山田寺仏頭(仏塔と書かないで!!)は概ね白鳳後期くらいで、お顔も飛鳥仏
に比べて丸みを感じさせる。。。奈良大仏は僅かに残された創建当時の連弁に
線刻された諸仏から推測すると、白鳳仏の延長線でお顔はかなり丸みをおびる
ものだったと想像される。。。ただ山田寺仏頭なんかもそうだけど、見上げる
角度を計算して造仏されているから要注意!
238 :
日本@名無史さん:02/09/06 10:18
最盛期の元興寺は。。。猿沢の池のすぐ南の今御門町に北大門があり、
その南の下御門町から東西寺林町をへて鶴福院町にかけて西北大門・蔵
院・中院・東北大門が東西に並んでいる。
さらに南の高御門町から勝南院町・中院町にかけて中大門・食堂があり、
その南の中新屋町一帯に東西の八僧坊や鐘堂が並んでいる(極楽坊はこ
の辺り)。
その南の西新屋町から北突抜町・芝新屋町・毘沙門町にかけて西南大門
・東大門がありその間に中心伽藍の講堂・金堂(七間重閣)・中門が南北
に並び、回廊が連なっている。そして回廊の外で中門のほぼ東西に東大塔
と西小塔が而立している。
この中門からやや南に南大門があり、これが南限になるものの南の花園町
から元興寺町・納院町辺りにはそれぞれ門前院があった。
南北はほぼ1km近くになるのかな?
なお元興寺の東南には紀氏の紀寺があったが、これもかなりの大寺で元興
寺の四分の一近くはあったと言われている。。。
239 :
日本@名無史さん:02/09/06 11:15
勿体ないことです。
もう面影は全くないですね。
好きですけどね今の極楽坊も。
240 :
日本@名無史さん:02/09/06 11:24
十輪院のお地蔵さん素晴らしいよ
241 :
日本@名無史さん:02/09/06 17:27
養老四年(720)八月に藤原不比等が没しているが、同年十月に彼に正一位
太政大臣を追贈するとともに造興福寺仏殿司が設けられている。。。つまり
この時に興福寺は単なる藤原氏の氏寺から破格の昇格により、元興寺と同格
の官寺に列せられたのね。
それから。。。十輪院は元興寺の一院だったけど、延暦時代に朝野魚養が創
建したと伝えられる。彼は遣唐使の子として唐で産まれ、大魚の背中に乗って
渡来したという数奇な伝承をもつ人物だね。
242 :
日本@名無史さん:02/09/06 18:26
十輪院は吉備真備のその子供、朝野魚養創建と言われてますけど
実際はそんなに古いものではないようですね。鎌倉の頃らしいです。
当時貴族に信じられていた地蔵信仰を中心に南都の民間信仰が混ざって
現在に至っているようです。
今は河島英五さんのお墓があることもあって、英五ファンには
よく知られているようです。私も7月に行ってきました。
243 :
日本@名無史さん:02/09/06 19:13
うう〜ん。。。こういった創建伝承は判断が難しいんだけれど、石仏龕や主要
建物が鎌倉期であるのは間違いないとして。。。本堂横のお不動さんは平安
期までさかのぼるし。。。創建当時の建物が残っているほうが珍しいんだか
ら、そもそもの十輪院が鎌倉創建とも決定しがたいかも知れないヨ???
(伝)朝野魚養の塚を眺めながら、遣唐使の苦難を偲ぶほうが楽しいしネ。
244 :
日本@名無史さん:02/09/06 23:08
ここんとこ元興寺の話が多いけどチョット西大寺について。。。
ご存知のとおり称徳女帝の創建で当初の寺域は東西十一町(約1.2km)、南北
七町(約0.8km)と言われているからかなりなものです。
本来中心部にあった西塔は今では域外(愛染堂の西裏)になってるけど、西塔
の西側には十一面院等の堂塔が並び、少し北には西大門があったみたい。
だけど道鏡との縁が嫌悪されたのか、平安末期には衰退の極に達していたとこ
ろを、鎌倉期に興正菩薩叡尊が真言律宗の根本寺として面目を一新した。
奥院と称される体性院に彼の墓といわれる五輪塔があるので、機会があれば是
非一度お訪ねを。。。
245 :
日本@名無史さん:02/09/07 09:46
東大寺のライバルとして、敷地のみならず、巨大な堂塔があったのでしょうか?
建築はそう巨大あったわけではない。
金堂や講堂、塔の大きさは、興福寺程度だね
しかし装飾類は過剰に派手であったそうだ。
247 :
日本@名無史さん:02/09/07 18:25
興福寺並みですか、イメージが湧きました。
それにしても、「東大寺」、「東寺」、「左遷(西)」、「日出ずる処の・・・」と、
昔の人にとって、「東」は重きをなしたのでしょうね。
248 :
日本@名無史さん:02/09/07 18:49
西大寺金堂は、シビの上に鳳凰がおり、屋根の真ん中に火炎の中に茄子型があり、
軒には火炎があtった。
屋根は緑融瓦であtった・
249 :
日本@名無史さん:02/09/07 19:04
スミマセンガ。。。東大寺のワリコミです
来月に次のとおり東大寺で大仏開眼1250年慶讚大法要及び諸行事が行われ
ます。興味のある方はご参集下さい。(整理券を要する場合もあります)
15日 華厳宗東大寺厳修、伎楽法要、慶讚能
16日 真言宗醍醐寺派総本山醍醐寺厳修、柴燈大護摩供、錦織コンサート
17日 南都諸大寺(興福寺・西大寺・唐招提寺・法隆寺・薬師寺)厳修、
華厳宗東大寺厳修、舞楽法要、東儀コンサート
18日 法華寺・中宮寺厳修、高野山真言宗総本山金剛峯寺厳修、
舞楽法要、林英哲コンサート
19日 華厳宗東大寺厳修、舞楽法要、千僧法要、西大寺大茶盛、
渡辺貞夫コンサート
その他慶讚。。。池坊・表千家・吉村流・醍醐未生流・伊勢志賀山流・
中国古箏・未生流・遠州流・草月流・裏千家・法華寺小池御流・
中宮寺斑鳩御流・円照寺山村御流・武者小路千家・二条流・小原流等
そんな客よせばっかやっとらんと、悲願である7重塔再建を実現せいや。
薬師寺を見習え。
251 :
日本@名無史さん:02/09/07 19:39
興福寺なみでもデカイと思うが・・・
ところで興福寺は金堂しか再建せんのだろうか?
詳しい人おるか?
そんなの聞いたことねえぞ。
証拠ある?
254 :
日本@名無史さん:02/09/07 20:26
なるほど現代の南都六大寺は、東大寺・興福寺・西大寺・唐招提寺・法隆寺
・薬師寺ってことになるかな??? でもこの順番は何なのかしら???
そして法相宗・律宗はもちろん真言宗・真言律宗は加わってるけど、やっぱ
り天台宗の姿は見えないんだね。
>悲願である7重塔再建を実現せいや。
誰の悲願なんですか? 東大寺としては別に塔の再建を悲願とは思ってませ
ん(と思うよ。。。)
トウトウの案内板に書いているよ
「いつか再びこの塔が・・」ってね
256 :
無料動画像:02/09/07 21:14
257 :
日本@名無史さん:02/09/07 23:08
たしか東大寺で行われる慶讚諸行事は無料だったね???
某寺だったらコンサートなんか結構いい料金を取るかも知れないけど、それを
一切しないところが如何にも東大寺らしい。
整肢園なんかの社会活動に励むところなんか某寺にも見習って欲しい!
258 :
日本@名無史さん :02/09/07 23:32
法隆寺東照宮再建きぼーん
259 :
日本@名無史さん:02/09/07 23:33
話は飛躍するけど高徳院の阿弥陀さんは雨ざらしになって長いね?
関東の善男善女さん。。。これからもズーットほったらかしにすんのか?
いらない
そりゃすごいな。
中門回廊いがいは再建なんですね。
講堂跡には、すでに薬師寺の元金堂がたってますしね。
薬師寺の元金堂も昔はいろいろ言われたがよく見ると
立派なもんですね。
262 :
日本@名無史さん:02/09/08 00:53
興福寺には3重塔、南円堂、大湯屋などもあるなあ。
263 :
日本@名無史さん:02/09/08 01:00
南大門が再建されたら薪能はどこでやるんだ?
264 :
日本@名無史さん:02/09/08 10:05
>>251 興福寺金堂の再建計画本当なのでしょうか?だとしたら、東金堂のすぐ西側なのですか?
265 :
日本@名無史さん:02/09/08 11:31
本当です。
場所は、昔の赤堂の跡
267 :
日本@名無史さん:02/09/08 23:41
あえい
268 :
日本@名無史さん:02/09/09 00:18
>>259 鎌倉市民の悲願だったが、バブル崩壊と共に時期は遙か彼方に遠のいてしまった。
南無阿弥陀仏!!!
アレ露天だからいいんじゃないの?
お堂立てたら観光客減るよ。
270 :
日本@名無史さん:02/09/09 00:40
大安寺は相変わらずボロイな。
前住職は、がんばっていたようだが、あそこまで落ちぶれたら
しょうがないね。敷地も民家の下だし
とは言っても木彫りの仏像は見事なもんです。
2010年に完成予定なのだ。
奈良の寺の金堂では東大寺以外では一番デカイな。
272 :
日本@名無史さん:02/09/09 02:55
fa
273 :
日本@名無史さん:02/09/09 09:58
>>271 資材調達は大丈夫なのでしょうか?もしかして、杉材?
あるいはもしかして、鉄筋コンクリート? だとしたら、嫌だなあ。
>お堂立てたら観光客減るよ。
そんなものかね〜可哀想に酸性雨に曝し続けて腐らせるつもりかい?
275 :
日本@名無史さん:02/09/09 23:42
銅と酸性雨や風化の関係、実際の所は銅なのでしょうか?
数百年あのままだから問題なし
277 :
とおりがかりの修行僧:02/09/10 00:59
>>276 過去数百年それほど腐食が進まなかったものが、
ここ50年ほどで急速に腐食が進んだんですよね。
数百年の部分は「大丈夫」の根拠にならないと
思いますよ。と参考意見。
じゃあ、化学処理したら。
あんなもん資金的に木造で再建できんよ。
盛り上がりもないしね。
薬師寺はあらゆる意味で有名な寺だし、
興福寺も同じだね。
ネームバリューのない高徳院では無理
279 :
日本@名無史さん:02/09/10 01:37
元興寺極楽坊の一部瓦が飛鳥時代のものというのが現実味なさすぎる。
雨風晒された瓦がそんなもつわきゃないだろが(w。
>>278 すいません。あくまでも通り掛かりですので、
その辺は274さんにおっしゃってください。
僕自身は「鎌倉大仏殿再建」という意見は全く
持ち合わせておりませんので。
ただ古都奈良を愛する方が
>数百年あのままだから問題なし
といった発言をなさるのが
どうも違和感を感じたので、
口を挟ませていただいた次第です。
どうぞ、お気になさらぬように。
281 :
日本@名無史さん:02/09/10 09:33
>>277 それは気がかり。だとしたら、鉄筋コンクリートで大仏殿を作るしかないかもね。
>279
その瓦が飛鳥時代の物かどうかは知らんが、セラミックってのはメチャ丈夫だ
から僅か1500年位もたないわきゃないだろが(w。
チャイナにはその時代の煉瓦造りの塔がゴロゴロ(?)残ってらあね!
ほいで鎌倉大仏は東大寺大仏よりずーーーっと古いんだ! 鎌倉時代の国宝金銅大仏を酸性雨から防ぐのは、2CH市民の崇高な義務ってえもんだぜ!
283 :
日本@名無史さん:02/09/10 15:58
AGE
284 :
日本@名無史さん:02/09/10 17:37
ところで、東大寺の大仏はなんであんなに黒いの?酸化銅のせい?
鎌倉の大仏は、緑青が吹き出ているので納得するんだけれど。
285 :
日本@名無史さん:02/09/10 17:59
>>284 鋳造したときの音頭と不純物が関係していると思われ
286 :
日本@名無史さん:02/09/10 18:10
287 :
日本@名無史さん:02/09/10 19:40
100%銅で作るのではないのですか?
基本的にはブロンズ(青銅)ですから純銅ではないでしょう?
さらにその上に水銀蒸着法で金メッキがなされていましたからね。。。
飛鳥大仏・蟹満寺大仏・薬師寺三尊仏等をはじめとする古代金銅仏も漆黒に
近い色合いのものが多いようですヨ。
この点では鎌倉大仏も同じだったと思いますが、雨曝しになっているため青
銅に含まれる銅成分の酸化が目立っているのでしょう。(屋外の青銅灯籠等
には部分的に緑青が目立ちますからネ。。。)
289 :
日本@名無史さん:02/09/11 00:25
鎌倉大仏はスズ、鉛の含有量が多いようですね。
当時流通していた宋銭を大量に鋳潰して使っていたので
その成分比の影響が大きいという説があるそうです。
材料成分 鎌倉大仏 東大寺大仏
銅 68.76% 91.09%
錫 9.26% 2.08%
鉛 19.58% 2.04%
鉄 0.04% 0.14%
アルミニウム 0.08% 2.0%
その他 1.51% 1.51%
成分データありがとうございました。鎌倉大仏は鉛の含有率が20%近いんです
ね。そうするとおそらく表面硬度が低く傷付きやすいから、近年の酸性雨の
中で野ざらしでは、早晩だめになるのではないでしょうか?
最近著しく進んでいる屋外ロダンブロンズ等の腐食を見ていると、そら恐ろ
しくなります。高徳院はともかく浄土宗はお金持ちでしょうから、仏殿で覆
うなり何なりの保護措置を検討して欲しい〜〜
>>289 レスありがとうございます。
イオン化傾向を考えると、錫・鉛の多い鎌倉大仏は正直ヤバイですね。
奈良の大仏と、(露座の立場を)交換したいくらいです(苦笑)。
292 :
日本@名無史さん:02/09/11 18:50
多くの由緒有る仏像が、ご不憫にも保存のために造られたコンクリート収蔵庫
に鎮座ましましているんだ。。。高徳院大仏にもそう言った建物に収まって頂
こうじゃないの!
鎌倉市民(神奈川県民?)、浄土宗上層部、2ch-er・・・収蔵庫造りに向け
ての奮起を期待しますぜ。。。
293 :
日本@名無史さん:02/09/11 19:43
>>292 宗教心のある人間の発言とは思えないな。
いずれの仏様にせよ、敬意を払うということを知らないのだろうか。
非常に残念に思います。
294 :
日本@名無史さん:02/09/12 00:50
>>293 宗教心を示される人間に聞きたいな。
鎌倉民衆の宗教心から造像された崇敬すべき宗教的存在。
中世日本の技術水準と美的感覚を伝える貴重な文化遺産。
いずれもの意味を持つ鎌倉大仏にどの様に敬意を示せば良いのだろうか。
@東大寺大仏と同様に伝統的宗教建築(大仏殿)にお収めする。
A中宮寺弥勒と同様にコンクリート宗教建築(実は収蔵庫)にお収めする。
B雨曝しながら、表面を特殊樹脂でコーティングし腐食を防止する。
C現在の状態のまま酸性雨の腐食にまかせる。
非常に難しいと思いますが、ご教示下さい。
295 :
日本@名無史さん:02/09/12 08:59
鎌倉大仏を納めるために、東大寺同様の木造大仏殿を建てるってのは、浄土宗
の財力・政治力(東大寺より遙かに上だろう)からすれば不可能ではないだろ
うけど、チョット現実的ではないかも知れない。
だけどこのまま放置して酸性雨に朽ちさせるのは、宗教的にも文化的にも問題
だと思うね。だから一番現実的な解決策は宗教的現代建築(収蔵庫と呼ばれて
もしょうがない)に納めることだと思う。
現在そう言った状態の仏像が極めて多いことは皆さんご承知の通りで、博物館
や美術館にも極めて多くの仏像があるし、寺院にあっても宝物館と言う名の倉
庫に納められている。だから鎌倉大仏にとって決して尊厳を損なうもんじゃな
いよ。
東大寺の大塔再建なんてものよりも、遙かに切実だし現実的だと思うよね。観
光収入が減少するから放置するなんてのは如何なものだろう???
296 :
日本@名無史さん:02/09/12 10:34
>>279 だな。
つーか、今も屋根の上に晒されてるわけだろ?
なんで博物館に移動しないのだろうな。
台風来て割れたらどうすんだ。
>>294 すいません。発言の内容でなく、文体・背後にあるこころの問題です。
292を読まれて「敬意」を感じますか。
ですから、どの選択肢をという問題ではないのですが、一応以下に自分の
考えを述べさせていただきます。
鎌倉の山を背にして、海に向かい座し、自然や町と一体となってお護りくださる
お姿をそのままに残して行くには(3)が一番ふさわしいように個人的には思い
ます。(2)などの可能性も否定しません。(1)は一番鎌倉大仏に似つかわ
しくないように思います(あくまでも個人的意見)。
しかし、衆生を救おうという仏の御心に一番沿うのは、
(5)腐蝕の原因でもあり、人類の生存にとっても脅威でもある、酸性雨その他の
環境破壊の問題を解決するため不断の努力をする
なのではないでしょうか。
(5)によって(1)から(4)が不要になることが理想だと思います。
理想が難しいのが現状ですが。
298 :
日本@名無史さん:02/09/12 14:58
現在の天理市にあった、大石寺 は、あれ、南都7大寺にその昔数えられてたとか?
石上神宮の隣にあった寺です。 確かに伽藍はでかかったみたいですよ・・・案内板レベル
の話で恐縮ですが・・・
299 :
日本@名無史さん:02/09/12 16:46
>>299 おっしゃる通り、内山永久寺のことです。
勘違いしてました。すんません。
301 :
日本@名無史さん:02/09/14 00:01
後醍醐天皇の仮御所だった?
errw
南都六宗を当てはめて、南都七大寺を説明してくれ
東大寺の華厳、興福寺・薬師寺の法相、唐招提寺の律、
なんてのは後のこと。本来はも諸(八)宗兼学。
ちなみに現在法隆寺は聖徳宗、西大寺は真言宗。
305 :
日本@名無史さん:02/09/14 07:28
306 :
日本@名無史さん:02/09/14 07:43
そうムキになるなよ
「りっしゅう」で変換できなくて
「宗」だけ変換して打ち直すの忘れたんだよ。
そうそう、またつっこまれないうちに言っとくけど
修多羅衆に触れなかったのは定説がないから。
知らないわけではない。
307 :
日本@名無史さん:02/09/14 13:34
無知であろうが、手違いであろうが、訂正忘れであろうが、どっちにしても
間違いを指摘されて偉そうにすることはない。素直に感謝して置けよ。
しかし、些細なタイポで、305のように鬼の首を取ったような大騒ぎをされたら、
素直に感謝できんと思うがな。ちなみに漏れは306じゃないよ。勘違いしないでね。
309 :
日本@名無史さん:02/09/14 15:37
ところで、コンクリート造りに偏見があるようだけど、薬師寺金堂だって
基本部分はコンクリート製じゃなかったか。
どうでも良いけど、ガイシュツの宗派をワザワザ間違うこともなかろう。
ただこの問題は下らんから終了。
310 :
日本@名無史さん:02/09/14 15:39
>>309 なんで、あの金堂は、台湾檜とコンクリートのハイブリッドなのだろう?
それが。。。伝統・荘厳・神聖・安全・経費等々。。。。から当時の薬師寺に
とって一番妥当性があったんだろうね。
そしてそれは現在でも本質的に変わっていない。。。だから高徳院の大仏殿を
建築する場合でも、殆どコンクリートになって何の問題もないはずだ。
312 :
日本@名無史さん:02/09/15 05:37
>>309 終了させたきゃ、蒸し返すなよ。おまえは何様だよ。バ(以下略
>>307 306だけどね。俺は感謝しないよ。もし感謝するとしたら、
俺の書き込み見て、西大寺は真言宗なんだ、って思った人だろうけど。
でもそんなトンデモここにはいないだろ、たぶん。
それから俺は偉そうにしてないよ。ミス突っ込まれてあたふたしてるよ。
どのへんが偉そうなんだ。今後のために教えてくれ。
>>308 代弁深謝。全くその通りです。
例えば「西大寺は真言宗じゃないぞ」「西大寺は真言律宗だぞ」って言ってくれれば
「スマソ、ご教示深謝」で終わる話なんですけどね。
>>309 初めてこのスレ来たんで過去レス見てなかったんでな。
ガイシュツならわざわざ答えることもなかったよ。
たまたま目に留まった303にレスした俺がヴァカだったよ。
こんなにツベコベ言われるとはな。俺はここの住人じゃないからもう迷惑かけねえよ。
>>312 世の中いろんな人いますからね。しょうがないっすよ。
305・307・309みたいな連中もいれば、308・312みたいな方もいるし。
いずれにせよレスには感謝。と言っておきながら蒸し返してスマソ。
314 :
日本@名無史さん:02/09/15 14:38
関東に住んでるんですが、関東にも法相宗、華厳宗、律宗、真言律宗、聖徳宗
のお寺ってあるのですか?
それから奈良時代の南都六宗とか平安時代の真言・天台宗や浄土宗、鎌倉時代
の浄土真宗・日蓮宗や臨済・曹洞宗は知ってますけど、真言律宗ってのは聞き
始めです。これは真言宗の一派ですかそれとも律宗なのですか。
315 :
>314さん:02/09/15 18:35
>>244 で興正菩薩叡尊が紹介されているけど、叡尊の弟子の忍性が鎌倉で開いた
のが極楽(律)寺です。
真言律宗では弘法大師を高祖、叡尊を宗祖としてるけれど系統的には律宗
のように思います。(異論はあると思うけど)
金沢の称名寺も真言立宗だったと思うけど?(間違ってたら訂正キボーン)
318 :
日本@名無史さん:02/09/15 21:40
奈良仏教系宗派の寺院数は概ねつぎのとおり。
法相宗・・・・・・37
聖徳宗・・・・・・24
北法相宗・・・・・・8
華厳宗・・・・・134
律宗・・・・・・・89
真言律宗・・・・・91
319 :
日本@名無史さん:02/09/15 23:55
東大寺や興福寺なんてデカイ寺があるにせよ全部足しても400弱
なんだね。
よく真宗の寺は21,000あると言うけど、それに比べれば五十
分の一以下ってこと? まったく微々たるものなんだね。
320 :
日本@名無史さん:02/09/16 20:08
薬師寺金堂は、文部省のアホ役人の強制で一部コンクリになっただけ。
寺側が望んだわけではない。、
321 :
日本@名無史さん:02/09/16 20:35
国宝の仏像が萌えてはいかん、っていうことですかね
322 :
日本@名無史さん:02/09/16 22:47
そーゆことでしょうね。宗教的存在(施設)つーことと、文化遺産の収容施設
つーことを並立させる必要があるし、そのための経費的限界もありますからね。
その意味では薬師寺金堂は経費も凄いけど、希にみる成功例だと思います。
(中宮寺・聖林寺・広隆寺等に比べて素晴らしい出来映えだと思いませんか?)
>>320 「文部省のアホ役人」と悪態をつくのは勝手だけど、両者を並立させる
良いアイディアでもあるんですか?
323 :
日本@名無史さん:02/09/16 23:22
興福寺(中)金堂の再建案では、どの仏像を納めることになってんの?
そして国宝級の仏像を納めるのなら、ヤッパ文部省がコンクリート造
りを強制してんの?
>>322 再建する建物を文化財と見るか見ないかの違いでしょう。
国宝仏像の多くは現在も木造のお堂の中にあります。
>>323 今の文化庁じゃ逆に主体部のコンクリート造りは許さんのでは
325 :
日本@名無史さん:02/09/17 01:18
>323
おそらく今の仮金堂(薬師寺の元金堂)にある仏像であろう。
>324
そのとおり
現在の文部省の方針では復元は木造しか許されない
よって戦後よくあったコンクリ天守は今では×
奈良時代の薬師三尊をおさめる薬師寺講堂も木造で復元中。
ゆとり教育なんてアフォなことする役所だからこういう
わけのわからんことをやるんだろう。
326 :
日本@名無史さん:02/09/17 01:51
東大寺大塔復興運動を2ちゃんねるから起こそう
327 :
日本@名無史さん:02/09/17 01:58
2010年が楽しみだ
平城宮大極殿、興福寺金堂、薬師寺伽藍完成
ハアハアしてしまう。
328 :
日本@名無史さん:02/09/17 07:30
酸性雨に曝されて日々腐食していく鎌倉大仏を守ろう!
鎌倉大仏殿復元運動を2ちゃんねるから起こそう!
浄土宗7千寺、6百万宗徒よ・・・奮起せよ!
329 :
日本@名無史さん:02/09/18 22:26
鎌倉の大仏殿と言うのは、もともとどんな様式で、いつ頃どんな原因で崩壊
しちゃったんだろ?
何かで津波で流されたって読んだような気がするんだけど、本当なのかな?
330 :
日本@名無史さん:02/09/18 23:32
大地震の後の津波だと思います。
因みに、鎌倉大仏と奈良大仏の比較を、NHK歴史誕生の本に掲載してありました。
大仏や大仏殿の大きさの比較など、興味深かったですよ。
331 :
日本@名無史さん:02/09/19 01:32
> 酸性雨に曝されて日々腐食していく鎌倉大仏を守ろう!
鎌倉の大仏は御自ら無常を体現しているのかもしれない・・・
332 :
日本@名無史さん:02/09/19 09:36
人類よ、奢るなかれ。我自ら具現せん。という感じでしょうか。
333 :
日本@名無史さん:02/09/19 09:39
鎌倉大仏の腐食は、文化遺産保護についての行政の怠慢と国民の
無関心、そして管理者(浄土宗)の信仰心の欠如を物語ってるだ
けじゃないの?
酸性雨に腐食されている屋外ブロンズは、仏像のみならず世界中
に存在してんだから(だけど感慨としては賛同するよ!)
334 :
日本@名無史さん:02/09/21 02:46
yu
335 :
日本@名無史さん:02/09/21 10:23
東都七大寺つーのは無いみたいだけど、もし決めるとしたら何処何処になる?
まず筆頭は浅草寺で良いのかな?
336 :
日本@名無史さん:02/09/21 11:04
上野寛永寺、池上本門寺、西新井大師、麻布善福寺。
337 :
日本@名無史さん:02/09/21 15:31
芝・善福寺。
338 :
日本@名無史さん:02/09/21 19:09
芝・増上寺
339 :
日本@名無史さん:02/09/21 23:13
築地本願寺とか護国寺とかは。。。駄目か?
鎌倉7大寺は、
建長寺、円覚寺、・・・・?
鎌倉といえばヤッパリ五山でござんしょう。
建長寺・円覚寺・寿福寺(建長寺派)・浄智寺(円覚寺派)・浄妙寺(建長寺派)
342 :
日本@名無史さん:02/09/22 04:36
>>336 麻布善福寺の銀杏は凄いよ。あまりの太さに絶句。帰りは、麻布十番温泉でもいってちょ。
343 :
日本@名無史さん:02/09/22 11:44
l
l.
345 :
日本@名無史さん:02/09/23 20:02
;:@
346 :
日本@名無史さん:02/09/24 00:40
五山といってもその実は建長寺・円覚寺の二山でざんしょ?
347 :
日本@名無史さん:02/09/25 00:46
そろそろ、南都七大寺に戻りませう。
348 :
日本@名無史さん:02/09/25 18:46
奈博で西大寺文書展をやってるんだけど、叡尊が復権するまで大元帥密儀の権
威を持つ秋篠寺に押されっぱなしで、所領争いが繰り返されたようだ。
349 :
日本@名無史さん:02/09/25 19:43
西隆寺っていつごろ滅びたの?
350 :
日本@名無史さん:02/09/26 00:52
poojopjo
351 :
日本@名無史さん:02/09/27 18:48
西隆寺が廃絶した時期ははっきりしないけど、建長年間(1250年頃)に作成さ
れた西大寺文書によれば、該当地に寺院はなくなって田畠地とされてる。
だからおそらく平安末期には廃絶していたんじゃないの?
尼寺だからね
353 :
日本@名無史さん:02/09/28 12:00
r
354 :
日本@名無史さん:02/09/28 16:36
だね。。。ただし総国分尼寺の法華寺や中宮寺は結構頑張ってるよ。
ただ法華寺は、廃絶寸前のところを叡尊によって復旧したから、その縁で西大
寺傘下の真言律宗寺になったりしてるね。
叡尊のことだから西隆寺が僅かでも命脈を保ってたら復興してるだろうから、
このころには影も形もなかったんだろう。
355 :
日本@名無史さん:02/09/29 01:07
孝謙女帝の評判の悪さのせいだね
廃絶は
356 :
日本@名無史さん:02/09/29 18:21
それはどうだか? 西隆寺は平安初期には堂々たる官寺として栄えていたんだからね。
逆に後世まで崇敬された天智創建の崇福寺や桓武創建の梵釈寺でも、平安末期まで
には廃絶してるしね。。。
尼寺運営の難しさ等が主因で、創建者の所為じゃないと思うよ。
357 :
日本@名無史さん:02/09/29 21:21
西隆寺は西大寺の僧の洗濯をするために作られたという噂まであったそうだ
358 :
日本@名無史さん:02/09/29 21:52
ふふふ。。。右京一条二坊の一等地に二町四方の寺域で南大門・金堂・講堂
・東塔に複回廊を巡らした洗濯場とは豪儀ですな!
359 :
日本@名無史さん:02/09/29 23:49
廃絶した寺の特徴や傾向を語ってください
360 :
日本@名無史さん:02/09/30 00:31
>>151で奈良・平安初期の大寺が現在どうなっているかが分類してありますね。
それから
>>298では江戸時代の大寺だった内山永久寺の廃絶にも触れられてい
ます。
これらを見ても、結局は立地・人材・災厄(主に火災)・宗派・権力者援助等
の様々な要素によるとしか言いようが無い。
現在暦とした大寺の興福寺だって、維新には廃絶の危機に見舞われたんだから
。。。
361 :
日本@名無史さん:02/10/03 00:23
興福寺五重塔が鉄具を取るために焼かれるところだった
ってのは本当なのですか?
362 :
日本@名無史さん:02/10/04 00:28
おそらく本当ではないでしょう。五重塔を焼いたところでどれだけの鉄具が
とれるでしょうか?
仮に取れたとしても高熱に溶かされた劣悪な鉄で何の価値もないでしょう?
それよりも解体して古木材や水煙等を再活用(骨董価値もある)したほうが
遥かに価値がありますからね。少なくとも焼き払うことは有り得ないと思い
ます。
本当
周辺住民が火事を恐れ反対した
364 :
日本@名無史さん:02/10/05 22:23
合理的に考えれば362さんの言うことがもっともなのだけど、
当時、「戦争協力の姿勢を示す」ことが第一義であり、その行為
自体が役に立つのかそうでないのかは「二の次」だったのではない
だろうかと、推測してみる。
とにかく、鉄を取るためには焼くのが「一番手っ取り早い」だろう
というノリだろ、多分。
アホか、お前は
この話は明治維新直後の話。
昭和の話ではない。
知ったかぶりすんじゃねえ
366 :
日本@名無史さん:02/10/06 00:19
大安寺は着実に復興しているな
昔のどおりとはいかんが
367 :
日本@名無史さん:02/10/06 00:21
あー、そうですか。あくまでも推測ですから。
すると、廃仏毀釈運動時とかですか。
詳細確認もせず、はずしました。すんません。
まあ、「合理的思考で人間行動しないことは多い」という
ことを言いたかっただけです。早速消えます。
しかし、推測と断ってるのに「知ったかぶりすんじゃねえ」
は失礼すぎませんか。それだけ気になりましたね。礼儀は大切に。
368 :
日本@名無史さん:02/10/06 00:26
廃仏毀釈で壊滅に瀕した興福寺も
2010年には完全に復活する。
薬師寺とともに天平伽藍が完全に
復活するのだ。
369 :
日本@名無史さん:02/10/06 00:30
370 :
362>363:02/10/06 00:40
うん。そういう逸話(伝説)があるようだけど、少しおかしいと思わない?
あの位置にある高層木造建築物を燃やせば、付近の民家のみならず下手をす
れば東大寺・春日神社はおろか正倉院(皇室御物)にも被害が及ぶ可能性が
あるけど、その対価が劣悪な金具を取るためなんて。。。どう考えても無理
がありすぎるんじゃないかな?
おそらく反対が起こるのを承知の上で。。。燃やしてしまうとか何とか言っ
て利鞘を取って買い戻させたんじゃないの(その他の理由があるかも)??
小子房やナントカ堂を最近作った
南大門の基壇も整備するそうだ
372 :
日本@名無史さん:02/10/06 10:17
興福寺は鎌倉時代の「食堂ものこっていたが明治に壊されてしまった
373 :
日本@名無史さん:02/10/06 14:18
通りすがりの和城ヲタで申し訳ありません。
現在、名古屋城や仙台城などで消失したかつての本丸御殿を復元しようという
計画が立てられ、規模の大小はありますが、この手の計画が全国で見られる様
になりました。こういう流れと関係するのか、薬師寺や興福寺などでも
伽藍復興運動が盛んなようで、両者の間に何か共通する背景があるように
私には思われるのですが、どんなものでしょうか?
というのも明治の仏教に廃仏毀釈があったように、和城も明治に打ち壊しが
行われ、姫路城や名古屋城ですら破壊もしくは売却の対象にされた訳です。
結局、仏教も城も旧政権の遺物として排除の対象になったということなので
しょうが、どうしてそれが近年になって復興させるようになったのかちょっと
不思議です。ある意味、明治以来の体制(天皇制・国家神道)が敗戦で否定
された50年前なら復古運動として理解しやすいのですが、実際にはそのよう
なことは起こっていない訳ですから・・・。
やはり単なる観光資源の確保という経済的理由に還元される問題なのでしょうかね?
廃仏毀釈
374 :
日本@名無史さん:02/10/06 19:52
>373
街に特徴がなくなってきたのも一因かな?
ほかの街と違った特徴を持たせたい、という動機。
コンサートホールや美術館などは、お金さえあればどこでも
作れるけど、お城を再建できるのは、かつての城下町のみ
(でもないかな?)
城は観光とか町のシンボルが欲しいというだけ
伽藍は復興を目指すのが当たり前
376 :
日本@名無史さん:02/10/06 23:26
元興寺だけが復活の動きがないな
あの敷地の広さだと、もういろいろ建てられない?
何の関係もない
だいたい薬師寺等の復興には国も自治体も金を出していない
それから靖国神社を含め戦後破壊された神社もないので復興しようがない
379 :
日本@名無史さん:02/10/07 01:21
誰か奈良町と興福寺の関係を語れ
380 :
>371,>376:02/10/07 18:54
幾らなんでも「復興」とは大仰に過ぎませんか?
ハッキリ言って、そこいらの何処の寺でもやっている程度の普請です(笑い)。
そもそも現状では、元興寺(極楽坊のほう)と大安寺では全く比較になりま
せんしね。
381 :
日本@名無史さん:02/10/08 23:53
東大寺大仏殿については、明治大修理や昭和修理の費用はほとんど国庫負担
で行われてるよね? これが再建だったら無理だったんだろうな〜〜
382 :
日本@名無史さん:02/10/09 15:03
二条城二の丸御殿などを見ると、玄関から黒書院(居間)まで400mくらいだろうか。
一人で突入したとして、天下人まで切っ先が届くだろうかねぇ?
どこまで行けるだろう。
383 :
日本@名無史さん:02/10/11 12:38
明治政府の仏教政策は極めて奇妙なところがあり、明治五年の太政官布達で
法相・華厳・律寺院はすべて真・浄土・天台・真言等の各宗に属すべきこと
とされた。この時に東大寺が浄土宗、唐招提寺・薬師寺・西大寺・法隆寺が
真言宗に属することとなっている。(興福寺は廃絶状態)
その後明治十五年になって法隆寺・興福寺(清水寺が管理していたが復興)
は法相宗として独立が認められ、明治十九年には薬師寺も法相宗本山となっ
た。さらに戦後になって法隆寺は聖徳宗として独立している。
384 :
日本@名無史さん:02/10/11 12:44
385 :
日本@名無史さん:02/10/11 21:52
何でも新しく建った日蓮正宗の本堂は、東大寺大仏殿がスッポリ納まるくら
いデカイんだって?
386 :
日本@名無史さん:02/10/12 14:33
>>385 近刊の週間朝日か文春あたりにグラビアで載っていたね。
総工費250億円だったっけ?そんなに大きな物を造ってどうするつもりなのだろうか?
元興寺も小さいぞ
極楽坊も塔の跡にある寺も小さい。
大安寺と変わらない
仏像は大安寺の方が残っているしな
388 :
日本@名無史さん:02/10/12 20:21
t435
389 :
日本@名無史さん:02/10/12 20:48
西大寺は場所がよくないな。
風情がないね
390 :
日本@名無史さん:02/10/12 23:38
もっと高度な話をしろ
391 :
日本@名無史さん:02/10/13 00:36
392 :
日本@名無史さん:02/10/13 05:49
大安寺の釈迦如来(乾漆造)は南都第一の霊像だった。
「七大寺巡禮私記」の大江親通の保証付き。
元興寺には(財)元興寺文化財研究所があって地道に立派な活動をしている。
これを忘れてはなるまい。
薬師寺薬師三尊は2番目だったそうだ
394 :
日本@名無史さん:02/10/13 22:19
元興寺なんて誰もしらねえよ
ガン封じの大安寺の方がよっぽど有名
どっちもどっち
どっちも今では哀れな小寺にすぎん。
つまらん見栄の張り合いは止めろ。
悔しかったら薬師寺を見習え
397 :
日本@名無史さん:02/10/14 11:45
西大寺も大茶会で有名だな
398 :
日本@名無史さん:02/10/14 19:58
rrr
399 :
日本@名無史さん:02/10/14 21:51
4月と10月に行われる西大寺の大茶盛会も叡尊によるものですね。
大安寺の「ガン封じ」は何時頃から始まったのか知りませんが、吉田寺の
「ポックリ祈願」同様に実に良いところに目をつけたものです。
ところで。。。このスレには国宝の本堂・禅室・五重小塔をはじめ多くの重
文仏像や曼荼羅図を保ち、鎌倉・室町以降も庶民浄土信仰の中心であり続け
た元興寺(極楽坊)なんて誰も知らないと思ってる人がいるんですね(笑)
こういう人にとって東大寺ってのは本郷にある哀れな小寺にすぎんのかな(笑
400 :
日本@名無史さん:02/10/14 22:11
南都は仏になれる人となれない人がいると主張し、
万人に仏性ありの最澄との法論に敗れている。
インドカースト制が南都に影響していたと思われ。
それは中世の話
今では西大寺の方がはるかに有名
もともと寺院について、どちらが有名かを論ずることに意味があるとは思え
ないけど、何だか有名比べがお好きなようだからお付き合い(笑
西大寺と元興寺(極楽坊)の比較ならば。。。鎌倉期に興正菩薩叡尊が真言
律宗の根本寺とし、鎌倉極楽寺・称名寺にまで教線を延ばした末寺100の総本
山である西大寺とその末寺である極楽坊では有名度(?)も寺格も比較にな
らないでしょ?
403 :
日本@名無史さん:02/10/15 22:51
元興寺と大安寺を比べよう!
判定: 奈良町ブームで元興寺の勝ち
岡山県には岡山大安寺高校という進学校があるが、大安寺と関係があるらしい。
奈良町のブームであって元興寺のブームではない
そもそも奈良町は、興福寺の門前町だろが
岡山県には西大寺という寺があるが、西大寺と関係はないらしい。。。
407 :
日本@名無史さん:02/10/17 01:15
元興寺ヲタの粘着哀れ
法相宗徳一との「三乗一乗権実論争」なんかが有名だけど、これなんかを言
ってるのかな?????
409 :
日本@名無史さん:02/10/19 11:52
1
410 :
日本@名無史さん:02/10/19 12:24
>>408 よくわからんが、
南都は仏性に人間差ありとの信念が強いが、論拠が弱い。
最澄は、仏性に人間差無しと論破。
しかし、最澄は、正直すぎる人間性のゆえに、人生の後半を、
ほとんど、南都との法論で終わらせてしまった。
空海は、うまく南都を丸め込むような物言いで、そこそこに済ませた。
確かに南都教学のうちでも法相は五姓各別を説いている。しかし無性有情と
いえど末那識の染汚意を覚って不定種姓に転ずる可能性があるのだから、そ
の可能性を言い換えれば「仏性」とすることが出来る。。。つまりは「山川
草木悉皆成仏」はを否定されているものの「一切衆生悉有仏性」は否定され
ていないとも言える。
一方の天台教学においても「一切衆生悉有仏性」とは言え教観二門による四
種三昧に縁無き衆生に即身成仏などは望むべくもないから、「山川草木悉皆
成仏」と言うのは論理上の可能性でしかない。つまり最澄は生涯をかけて論
争を続けたが法相教学を論破などしていない。
一方で華厳教学は「一即多、多即一」「一即一切、一切即一」を説くから、
正に空海が真言教学で説いた「三身平等即身成仏」に通じるものがあると言
える。
この故に実忠が空海を東大寺別当に推挙したともいえるのでは無いでしょう
か?
412 :
日本@名無史さん:02/10/19 20:26
>>411 難しいね。
ただ、いえるのは南都が人間によって格差をつけていたこと。
これは、インドカーストの影響かもしれない。
天台と南都との論争では、天台が優位であったと記憶しています。
南都は故事の例などを持ち出したが、天台は論理的に進めたから。
論理上は平等仏性論だからね。
最澄は、生真面目だから敵も多かった。
空海は人をたらすのがうまいから(空海ファンだったらスマソ)、
南都にも好意を持たれた。
と考えています。
413 :
日本@名無史さん:02/10/19 20:34
天台優位説は、単に天台側の文献が多いから。
カーストの影響を言い出すと、仏教の教義自体がカーストの産物ともいえそう。
414 :
日本@名無史さん:02/10/19 21:06
そうかなぁ?
今聞いても、感覚的にも理屈的にも天台を上に感じるがなぁ。
天台・真言は中国教と言えるんでないかな?
415 :
日本@名無史さん:02/10/19 21:09
天台は法相より新しいので、対抗しないといけないから、
理論構築はしっかりしてるのよね。
しかし上下を言うのは間違い。
天台は中国教でも、真言は中国教ではありません。
416 :
日本@名無史さん:02/10/19 22:26
南都仏教は現在でも通用するが、天台は無理だな
417 :
日本@名無史さん:02/10/19 22:39
法相の方が、インド直系なため、有る意味普遍性が高いが、
天台となるとローカライズされている分、不利な部分もある。
天台が上に感じるのは、ローカル度が高いため。
418 :
日本@名無史さん:02/10/19 22:46
法相はレベルが高い。
ヨーロッパ人がやっと19世紀に到達したレベルをこの時代に
だいたい俯瞰してるね。
419 :
日本@名無史さん:02/10/19 22:55
天台教学は密教発生以前に生まれたものだから、明確に顕教だけど、天台大師
によるところが強いからある意味では中国的と言えるかも知れないね。。。
最澄は空海に密教について教えを乞うているが、最後まで顕教である天台教学
と密教の調和融合に苦しみ続けたみたいだ。。。なお天台教学の基礎となって
いる法華経は聖徳太子の三経義疏にも示されているとおり、南都教学にとって
も重要経典だから、天台教学が最澄によって初めてもたらされたとは言い難い。
また台密・東密ともに密教は仏教が土俗ヒンドゥー教と融合(妥協)して生ま
れたところがある。つまりはタントラ・ヴァジリヤーナが基礎にあって中国的
に修正されたものだね。。。その意味では顕教(南都教学)よりもインド的と
言うべきだろうな。(仏教はインドで生まれたけれどアンティ・インド教学的
なところがあり、それが後にインド教学色を濃くしたのがタントラリズムであ
り中国で密教となった)
つまり本来の天台教学と(天台)密教を分けて考えないと、わけが分からなく
なるよ。。。法相教学についても心理学的側面と宗教思想的側面を別個に考察
すべきじゃないのかな???
420 :
日本@名無史さん:02/10/19 23:04
よくわからんが、仏性に人間差ありとの考えより、人間差無しの
天台の方が現代人にはよくなじむんでないのかな。
だから最澄の「それ、国宝なり」の言葉が親しまれるんだと思うよ。
空海は理論を完成しすぎて、後継者が、空海を学ぶだけで終わってしまう。
ここが空海の密教の難点といえば難点かな。
あの書は、ちょっと苦手なんだが。
421 :
日本@名無史さん:02/10/20 03:21
密教なんて仏教じゃないような気がするな。
釈迦が見たら否定するだろうね
敢えて反論はしないけど、それを言えば浄土真宗だって日蓮宗だって釈迦が見
たら否定するだろうね。。。逆に言えばこれらの宗派と同様の意味で密教も仏
教だと言えるんじゃないのかな???
そうだろうね
ああいうのは単なる形而上学だな
キリスト教やイスラム教とかわらんよ
424 :
日本@名無史さん:02/10/20 20:49
中国でも天台対法相の論争ってあったのかな?
天台(湛然)対華厳(澄観)というのは聞いたことがあるが・・・
425 :
日本@名無史さん:02/10/20 20:53
だいぶ、長年やってたようですが。
426 :
日本@名無史さん:02/10/20 20:55
浄土系は一種のプロテスタント系仏教といえるのでは。
神=仏と個人が、一対一で向き合うわけだからね。
427 :
日本@名無史さん:02/10/20 21:40
428 :
日本@名無史さん:02/10/20 22:48
dssaffa
429 :
日本@名無史さん:02/10/21 23:21
浄土系は、ともすると他力成仏のように理解されるけど、アミターバの本願
によって死後に極楽浄土に再生(往生)するだけで、なお成仏(ニルバーナ
=サンサーラからの解脱)は果たされていないんでしょ?
つまり極楽浄土において、修行に励んで成仏することが最終目標(?)と言
うことになるんだろうけど、この段階についてはあまり説かれないように思
うんだナ???
本来の浄土系にはそういった趣もあるけど、浄土真宗ともなればキャソリック
顔負けの階層権力構造と貴族趣味を持ち、しかも世襲制だって。。。親鸞が見
たらコリャ一体なんじゃって泣くんじゃないノ???
431 :
日本@名無史さん:02/10/23 13:15
親鸞も一遍も一人も弟子もたずっていってたからね。
蓮如あたりから変質が見られ、江戸幕府にとりこまれていった。
432 :
日本@名無史さん:02/10/24 10:28
元興寺五重塔の建材で造られた阿弥陀如来小像が発見され極楽坊収蔵庫で展示
される。安政6年(1859)焼失の11年前に制作されたもので、部分修理に際し
て生じた古材を活用したものらしい。
433 :
日本@名無史さん:02/10/25 15:34
鎌倉新仏教が隆盛になった室町期には、南都はどうだったんかな。
もう、ほとんど勢力はなかったのかな。
434 :
日本@名無史さん:02/10/25 17:46
>>433 何を言っている。アホか??
信長も興福寺にはなかなか手が出せなかったのだよ。
435 :
日本@名無史さん:02/10/25 17:48
>>431 信長と一番戦ったのが本願寺だったのを知らないのか?
敗北したのだよ。結局。
436 :
日本@名無史さん:02/10/25 18:41
>>434 僧兵だね。了解。
>>431 いや、そういう意味でなくてね、
蓮如あたりから、教団化・階層化してきたってこと。
石山本願寺は知ってるよw。
437 :
日本@名無史さん:02/10/26 00:07
信長の頃の大和(南都)では、筒井と松永が覇権を競っていた。。。松永が信
長に叛いて信貴山で爆死してからは、筒井順慶が大和一国を安堵されたけど、
筒井は元々興福寺(一乗院)の僧兵集団(衆徒)の頭領的地位を占めていたん
だよね。
438 :
日本@名無史さん:02/10/26 17:53
筒井順慶と言えば。。。「もとの木阿弥」とか「洞ヶ峠」とか逸話が多いけ
ど、もう少し長生きさせたかったナ。
439 :
日本@名無史さん:02/10/26 22:46
法隆寺が朝鮮美術の傑作だって知っていました?
とり仏師も朝鮮人だし
ふーん。ちょーせんに檜があったわけね。
441 :
日本@名無史さん:02/10/26 23:01
薬師寺も古代百済帝国の定林寺の模倣にすぎません
3重の塔を並立するというアイデアは古代朝鮮独自の優れたアイデアです
442 :
日本@名無史さん:02/10/26 23:35
定林寺って扶余邑東南里の廃寺でしょうか?それならば高麗時代の寺で、日本
でいえば道長が法成寺を建てた頃の太平八年(1028年)建立ですね。五重石塔
が残っていますが、ご承知のとおり日本の塔とは似ても似つかないものです。
この寺の前身寺院はおそらく百済時代に創建されたと推定されていますが、伽
藍配置は軍守里廃寺と同じく南大門・塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ様式で、
どちらかと言えば四天王寺様式に近いものですよネ???
うそつくな
証拠を出せ
444 :
日本@名無史さん:02/10/27 00:41
因みに大安寺は唐の長安にあった西明寺の伽藍配置を参考にしたと言う伝承が
あり、発掘調査によってほぼそれが実証されていますが、平城京の右京・左京
の六条付近に薬師寺と対称的に配置されていますネ。
ところがこの二つの寺は薬師寺が回廊内部、大安寺が回廊外部と相違はありま
すが、ご承知のとおり東西に塔が配置された伽藍形式を取っています。
つまり羅城門から太極殿にむかって北に進んでゆくと、左右に薬師寺・大安寺
の双塔が見えると言う都市景観になるのです。極めて巧みな都市計画に基づい
たものだと言えるでしょうネ。
>>443 定林寺に関してのご質問ですか? それとも他の部分でしょうか???
この程度のことは、どんな解説書にも出ていると思いますが、どの部分が
間違っているのでしょうか???
445 :
日本@名無史さん:02/10/27 01:04
>>444 ひょっとしたら藤原京の都市計画でもそのようなプランが採用されていたのかも。
もしそうだったら、発掘調査で塔が1つしかなかったことが明らかになっている大官大寺にも、
東西両塔が置かれる予定があったのかもしれませんね。
446 :
日本@名無史さん:02/10/27 10:01
藤原京についてはマダマダ不明な部分が多いですから、そういった想像の解明
を含めて今後の広域調査が待たれますネ。。。
>>443 なお百済時代の多塔寺院としては、益山郡金馬面の弥勒寺跡が著名で六層の西
塔や東塔の基壇跡、中央木塔などが見られますネ。
また三層塔としては求礼郡馬山面の華厳寺四獅子三層石塔が知られていますが
、その石塔部分については滋賀県蒲生郡の石塔寺三重石塔との類似性が指摘さ
れています。(何か間違いがありますか??? あればご教示下さい)
日本書紀によれば蒲生郡は百済の遺民の居住地とされているので、彼らが母国
を偲んで建立した可能性が濃いと思われます。
447 :
日本@名無史さん:02/10/27 10:34
蒲生郡と言えば百済王族の鬼室集斯の居住地ですね。彼は本国では達率と
いう高官でしたが、665年に日本亡命後も小錦下学職頭という破格の厚遇
を受け、700名の百済遺民とともに蒲生郡での居住を認められています。
448 :
日本@名無史さん:02/10/27 15:43
いずれにせよ法隆寺が止利仏師という朝鮮人によって作成された
朝鮮芸術の粋であることには変わりはない
反論してみろコヴァ
449 :
日本@名無史さん:02/10/27 16:04
450 :
日本@名無史さん:02/10/27 18:59
鞍作止利ね。。。祖父は鞍作村主 司馬達等、父は同じく司馬多須利。
司馬達等の渡来時期や出自については明確ではないが、扶桑略記によれば
「大唐漢人案部村主司馬達止」とされ継体期に入朝したとされるので、止
利は渡来三世になる。いずれにせよ彼が数代前から日本に在住していたの
は間違いないと思われる。
元享釈書などでは南梁の出身で百済を経て渡来したとするが、こららは扶
桑略記などの影響と思われるので信憑性は不充分だろう。しかしながら司
馬という姓からして、純粋の百済人ではない可能性(中国から百済への移
住者の子孫)も否定できないだろうネ。
451 :
日本@名無史さん:02/10/27 19:03
ただ司馬達等が何人であったにせよ、帰化後三代を経た止利は日本人
と言うべきだろう。また文化の伝播については色々な見解があるが、
朝鮮美術(文化)のすべての根源がチャイナ美術(文化)にある
(チャイニーズは朝鮮美術の全ては中華にあるなんて言うけどね)と
いうのは正しくないと思うんだよネ。
チャイナ文化にコリア的個性が加えられているのは認めるべきじゃな
いかな?
これはローマとギリシャ、ローマとラテン、ラテンとゲルマンにも言
えることで、東アジアにおけるチャイナと周辺各国も同じだろうネ。
452 :
日本@名無史さん:02/10/27 19:13
司馬達等はペルシア人という説もなかったっけ?
453 :
日本@名無史さん:02/10/28 23:19
知らないけど。。。ひょっとしたらセイチョウ先生の説?
百済に仏教が正式に伝わったのは、高句麗より遅れること12年にして枕流王
元年(384)に西域僧マラナンダが来た時と言われているけど、彼が単独で来
たわけじゃあないだろうから西域の仏教技術者が随伴していたこともあるだ
ろう。。。とすれば満更荒唐無稽ともいえないね(笑
454 :
日本@名無史さん:02/10/29 23:58
新羅には高句麗を通じて徐々に伝わっていたけど、激しい崇仏論争を経て
公認されたのは法興王時代(526)だとされている。
日本における仏教公伝は538年か552年とされているから、時期的に
はさほど変わらないんだね。
日本で始めての本格的寺院建築は飛鳥寺だとされているけど、この伽藍配
置は高句麗の清岩里廃寺に類似してると言われている。(もちろん原型は
北魏あたりだろうけど)
455 :
日本@名無史さん:02/10/30 00:15
元興寺文化財研究所で特別展やってるけど、難しい!誰か教えて!
456 :
日本@名無史さん:02/10/30 20:21
443
>>442で
>うそつくな証拠を出せ
と噛み付いてたけれど、結局定林寺のどの部分が嘘だと言ってるの?
457 :
日本@名無史さん:02/10/31 11:56
今の元興寺はどうなっているの?
458 :
日本@名無史さん:02/10/31 18:18
今の元興寺って・・・一体何が知りたいの?
459 :
日本@名無史さん:02/11/01 22:33
朝日新聞の連載「世界文化遺産を歩く(拡大編)」で西大寺・西隆寺が取り
上げられている。。。
1971年の西隆寺東門発掘調査で発見された木簡によれば、銭25文から50文
(米3キロ程度の価値)程度の寄進が多く集められたようで、これは官人達
から半強制的に納められたものらしいネ。
460 :
日本@名無史さん:02/11/02 19:00
日本仏教公伝は552年(書紀)、そして500年後の1052年に末世に入る。
そのほぼ中間の公伝200年後つまり752年に東大寺大仏開眼がなされた。
461 :
日本@名無史さん:02/11/02 19:02
ギョフ
462 :
日本@名無史さん:02/11/02 20:50
誤解の無いように言っとくけど、1052年等というのは西暦(キリスト紀元)
表現だから、日本の古代人はこんな紀年表現なんか知るはずがない。
紀年表現は一般的に干支(60年周期)法、王(天皇)年期法、年号法等が
使用されたんだけど、ごく例外的に釈迦紀元法ってのも使用された(扶桑
略記)。
これによれば西暦1052年は釈迦没後2001年に当たる。つまり釈迦没年を
西暦紀元前950年と想定しているんだね。
ところが実際には西暦紀元前486年(383年説もある)頃と考えられるから、
凡そ500年近くズレテイルことになる。このズレが神武紀元(西暦紀元前
660年)の想定と関係してるかどうか。。。讖緯説とともに考察する価値が
ある(?)
「前950年釈迦入滅、以後正法の世、西暦52年〜像法の世、1052年〜末法の世」
という年代設定(計算)は最初にどこで言われた説なの?
日本で発生した説? 中国から伝来した説? インドですでにあった説?
464 :
日本@名無史さん:02/11/02 21:09
「前950年釈迦入滅、以後正法の世、西暦52年〜像法の世、1052年〜末法の世」
という年代設定(計算)は最初にどこで言われた説なの?
日本で発生した説? 中国から伝来した説? インドですでにあった説?
465 :
日本@名無史さん:02/11/02 23:50
正像末の三時説はインド(或いは西域?)起源と思われるけど、特に北斉
(550-577)のころから浄土系の善導祖師などにより盛んに唱えられたもの。
ただ正法の期間については五百年とする説と、一千年とする説があったと
いわれる。
釈迦没年については中国仏教の伝承では周の穆王の五十二年(西暦B.C949
だろ?)とされていたので、五百年説では北斉のころに末法に入ったこと
になり、浄土系祖師達にとってこの思想が都合良かったと見られる。
しかしこれではわが国に仏教が伝わった時には末法に入っていたことにな
り、些か都合が悪いので像法中期とする千年説を取って、1052年末法説が
主流となった。
752年の大仏造営は釈迦佛を基準とする末法到来を300年後に控えて、ビル
シャナ佛による正法興隆を目指した...或いは末法到来に備えて像法であっ
てもその威儀を末法期以降にまで伝えようとしたものとも言えるだろう。
>>465 さんクスコん。なるほど勉強になりますた
ところで二重投稿すまそ
2回クリックしたつもりはなかったが?・・・同時刻だし・・・
しかもなんで一方はアゲで片方はサゲになってんだろ???
467 :
日本@名無史さん:02/11/03 00:23
だけど。。。日本書紀で仏教公伝とされる西暦換算552年が、中国で主流
とされる千五百年説で、末法に入る年に当たるってのは偶然なのかな?
そして百済の聖(明)王は、このことを知っていたのだろうかな?
仏教界で公伝の時期を552年ではなく、538年としてるのは末法入りし
てからの伝来と言うのを嫌ってのことなんてのはどうかな?
偶然じゃなさそうだけど、末法に入る年に設定したのは
反仏教派(神道派か儒教派)が書いた記録を日本書紀が参考にしたんだろうか。
469 :
日本@名無史さん:02/11/03 23:11
大安寺新貫主の就任を披露する晋山式が行われた。新貫主は「先代が寺を
復興しようとした思いを継ぎ、寺の護持と仏道の修行に懸命に取り組みたい」
と決意を述べた。。。
470 :
日本@名無史さん:02/11/04 17:53
pppppppppp
471 :
日本@名無史さん:02/11/05 00:07
中国で釈迦入滅がB.C.949年と信じられていたとしたら、、正法千年説であっ
てもA.D.52年には像法の時代に入ることになる。そして仏教が中国にもたら
されたのは後漢の永平10年(A.D.67年)だから、ギリギリではあるけど既に
像法時代に入っていることになる。(因みに越前永平寺はこの年号に由来す
る)
つまりは中国には正法は伝わらなかったことになってしまうんだけれども、
そのような伝来時期が問題になった形跡は見られない。
そうしてみると、この三時説というのは六世紀中頃以降に盛んになった浄土
系のプロパガンダで、それまでは中国仏教本流ではあまり相手にされていな
かったように思う。
472 :
日本@名無史さん:02/11/05 00:11
だから新羅や日本に仏教が公伝された六世紀中頃は、像法も末法も知ら
れて(あるいは然程意識されて)なかったんだろう。ところが聖徳太子
が隋と国交を開いたことにより、最新の仏教思想である浄土思想と共に
三時説も入ってきて、五百年説では公伝の時期が末法入りの時期だと判
明して、大問題になったんじゃないのかな?
そして仏教界では敢えて時期を十数年繰り上げることにしたんじゃない
だろうか(?)
しかしその後中国の三時説でも千年説が有力だと判明し、それならば552
年は単に像法後期入りになるので問題は静まった(しかし仏教界の一部
では繰り上げられたままとなった)ってことでどうだろう?
しかし552年公伝が余りにも三時説と符合しすぎているのも確かだから、
もう少し考えて見るけどね(???)
473 :
日本@名無史さん:02/11/06 20:45
新羅は高句麗や百済と陸続きだし、しょっちゅう戦争や外交を繰り返し
てるのに、どうして仏教伝来が日本と殆ど同じ時期になったんだろう。
474 :
日本@名無史さん:02/11/07 23:00
552年説は符合しすぎて不可解。
かといって538年説に説得力あるかというとそうでもない。
学界では他にもいろんな年代が提案されてたね。
475 :
日本@名無史さん:02/11/08 00:10
552年は日本書紀、538年は元興寺縁起などでしたよね?
その他の学説って、何を根拠にして何年が提案されているんですか?
476 :
日本@名無史さん:02/11/08 01:53
>>475 半島情勢からの推測とか、仏教史の方からとか、朝鮮の暦制のズレから逆算とか。
ちなみに538年壬申説はたんなるめでたい干支にあてただけとして疑う説がある。
ありがとうございます。。。538年壬申説ってあるんですか。
普通の暦法では552年が壬申(釈迦入寂のB.C.949も壬申)で、538年は戊午で
すよね?
出来ればどんな半島情勢から何年説が、仏教史のどの観点から何年説が。。。
あるのか具体的に教えていただければ、もっと有難いのですが。
478 :
日本@名無史さん:02/11/08 23:57
522年に司馬達等が渡来後に始めて仏像を礼拝し、蘇我氏と協力した。
と、年表にありますが、これは伝来には入らないのかな?
ちなみに、彼の孫は鞍作鳥。仏像技能工のね。
479 :
日本@名無史さん:02/11/09 01:09
522年。。。書紀では継体16年壬寅。扶桑略記によれば、延暦寺僧禅岑記の
引用としてそのように記述されてますね。こういった私的な仏教信仰は渡来
人を中心に当然に日本各地にあったでしょう。
ただここで問題になってるのは、百済聖明王からの「公伝」の時期が何時
かと言うことでしょうね。新羅でも公認(公伝)が526年で、私的には高句
麗・百済とあまり変わらない時期に入っていたでしょうから。
鞍作鳥は、朝鮮人と主張する在日がいるのですが、本当でしょうか?
だいたい司馬なんて名前の百済人がいるとはおもえないのですが
>>477 ごめん、かきまちがい。538年は戊午ですた。正しく言い直すと538戊午年も552壬申年も
“ともに”「たんなるめでたい干支にあてただけとして疑う説がある」。
>>478,
>>479 そのとおり。538年説は蘇我氏が本格的に仏教信仰はじめた記念的な年であって、
「公伝」の年ではない、という説がありますね。個人的には漏れもそう思ってまつ
>>480 中国風の姓は中国人以外でも名乗り得るので中国人というキメテにはなりませんが
ペルシア人という説もありまする
百済人で中国風の姓は少ないと思うのですが?
それに記録では確か中国人だったというのを見たのですが、
百済人だという記録も別途あるのでしょうか?
483 :
日本@名無史さん:02/11/09 22:07
司馬氏については
>>450 のとおり南梁人説があるものの、確かなことは
分からない(もちろん百済人であると言う記録などない)。
もともとは漢人だけれど、既に数代にわたって百済に定住していたのか
も知れないし、百済人でありながら漢人を装うために漢風の氏姓を名乗
ったのかも知れない。どちらにしても意味のある議論にはなり難いね。
484 :
477>481:02/11/09 22:34
讖緯説では。。。甲子=革令、戊辰=革運、辛酉=革命と言われているけど、
壬申や戊午が「めでたい干支」だなんて言われるのですか。
特に「壬申」は釈迦入寂の年とされているのですから、仏教徒にとっては
チョット「めでたい」年とは合わないように思うのですが?
485 :
日本@名無史さん:02/11/09 22:48
いやいや、壬申の釈迦入滅は、久遠の仏陀の本質にかえり涅槃に入ったわけで
仏教的には「めでたい」はずだよ。
死去を「めでたくない」として忌避したり悲しんだりする気持ちは
現世への“執着”であって解脱を妨げるもの、という罠(w
>戊辰=革運
それはあなたの何かの思い違いでしょう。革運=“戊午”でつヨ
あれは「三革説」。讖緯説の一部だけどそのものではない。
486 :
日本@名無史さん:02/11/09 22:48
秦氏も漢氏も祖は中国皇帝の子孫の〜と名乗ってますが、
ハクをつけるためなようで、
一緒に来た技能人とか見ると半島系のようです。
司馬も、同じようなパターンかと思われます・
秦氏も漢氏ももとは中国人だろ
半島経由できたんだから半島系の技能もっててもおかしくないが
半島の技能ってのは要するに古い中国系の技能であって
大陸直輸入の技能が新しい中国系の技能。もとは同じ。
まあ中国の技能といってもインドや中央アジアから入ってるものもあるわけで
あらゆる文化がなんでもかんでも純粋中国系だと思うのは
ウリナラ電波と同じ短絡なわけだが。
>>487 君の説に否定はしないけど。
秦氏や漢氏と一緒に来た技能人がね、みんな半島人の名前の集団だったそうだよ。
489 :
日本@名無史さん:02/11/10 05:13
それでいいんじゃない?
ありがとうございます。
それでは、司馬氏を百済人だとする記録はないのですね。
朝鮮半島では漢人植民者の墓や遺跡が多数発見されていますので、
そのような人々であっても何ら不思議ではないですね。
どうして記録もないのに朝鮮人は仏師を朝鮮人と主張しているのか
不思議ですね。
491 :
日本@名無史さん:02/11/10 14:43
\ │ /
/ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
─( ゚ ∀ ゚ )< 長作で〜〜す!
\_/ \_________
/ │ \
∩ ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧ \( ゚∀゚)< 三波春夫でございます。
じゅんで〜〜す! >( ゚∀゚ )/ | / \__________
________/ | 〈 | |
/ /\_」 / /\」
 ̄ / /
492 :
朝鮮人の哀れな告白を見よ:02/11/10 19:20
>>387 :>386 :02/11/04 18:26
>>ぐだぐだ言ってないで、早く「古代朝鮮語」の文献を示せよ。
>ケンカうってんのか?質問してんのか?
>この世にほぼ存在してないんだよ!シラネエノカ?
古代朝鮮語の文献ってこの世に存在しないんだってよ(笑)。
493 :
日本@名無史さん:02/11/10 20:32
誤爆だろうけど。。。確かにハングルが作られたのは鎌倉時代だから、
それまでは朝鮮語を表現する文字はない(吏読は万葉仮名と違って言語
表現は先ず無理。。。)。
従って古代朝鮮語の文献なんて存在するわけがない。(「古代朝鮮の文
献」はあるよ!)
だから高句麗語と百済語と新羅語がどのような言語関係にあったのかも
全く分からない。古代朝鮮三国の言語を知る最大のテクストは日本書紀
の三国関係記事だと言われているくらいだものね。
だからと言ってそれが可笑しいんだろうか? 東アジアの殆どの民族は
長らく自己の言語を表現する文字表記法を持っていなかった。日本がそ
の言語を表現しうる万葉仮名、仮名文字を開発したのが例外的なんだ。
他国を笑いものにするのは止めようよ!
おい、かってに文字なし民族にすな
チュノム、モンゴル文字、満州文字、チベット文字、ウイグル文字
契丹文字、女真文字、西夏文字
いくらでもあるだろが。
495 :
日本@名無史さん:02/11/10 21:08
>>485 >それはあなたの何かの思い違いでしょう。革運=”戊午”で津ヨ
悪いけど讖緯説の一部をなす三革説では「革運=戊辰」ですよ!
そして「壬申」を「めでたい年」とするような説は、おそらくないと
思いますよ!
>東アジアの殆どの民族は
>長らく自己の言語を表現する文字表記法を持っていなかった。
逆です。
ほとんどの民族は独自の文字をもっていました。
ハングル採用のときにもそういう話が出て、「蛮人?は漢字を使わない」
という論議になってますね
497 :
日本@名無史さん:02/11/10 21:23
そう幾らでもある。。。だから「長らくない」と言ってるので
「文字なし」なんてことは言ってないでしょう?
これらの文字の多く(全部じゃないけど)は諺文(オンモン=
ハングルのこと)と同様に仮名文字(表記法)よりかなり遅れ
て作られたものじゃないの?
諺文は最も遅い部類だけれど、それだけに文字(言語表記法)
としては非常に優れたものだといえると思う。
498 :
日本@名無史さん:02/11/10 21:48
ウイグル人がイラン系のソグド文字を使い出したのは、おそらく8世紀ごろだ
から、日本で万葉仮名を使用しだしたのと余り時代差は無いと思うよ。
これにたいして、ハングル制定は15世紀のことだから、色んな事情があった
にせよ朝鮮における自国言語表記文字の発明は異常に遅れていたし、制定後
も使用範囲は極めて限られていたのは事実ですね。(本格的使用を進めたの
は日帝時代のこと)
499 :
日本@名無史さん:02/11/10 23:03
「訓民正音(ハングル文字)」を頒布したのは1446年で足利義政
のころだから、確かに“異常に遅い”かもしれない。
けどそれだけに漢文表記(漢字使用)については日本よりも遥か
にレベルが高かった。いうならば事大主義の結果なんだけど、そ
ういう涙ぐましい努力をして漢文明を畏敬しつつ、一方でしっか
り同化されるのを免れてきたんだから、民族の知恵としては立派
なものだと思うよ。
だけどこの話題は、誤爆ではじまったスレ違いみたいだね。
500 :
日本@名無史さん:02/11/11 11:31
もしも韓国系の方が見ておられたら。。。
貴方達はハングルが表音文字として優れているって、外人に対して盛んに
自慢されるんですけど、いい加減にしておいた方がいいと思いますね。
貴方達の自慢話を聞いた外人達は、15世紀まで自国語を表す文字も持てな
かった民族が、王の命令で学者を総動員して多少規則的な文字を作ったか
らといって、一体何を自慢してるんだろうなんて陰で冷笑してますよ。
501 :
日本@名無史さん:02/11/11 12:49
752年の大仏開眼に際しては、新羅王子を初めとして700名もの新羅使節団が
来朝してこれを参拝したってことだね。
(実際には参拝・貢物に名を借りた交易が目的だったとも言われる)
その他にも奈良時代に新羅使節は度々日本に来てるから、日本で万葉仮名を
使って自国言語を表現していることを学んだはずだけど、どうしてこれを新
羅で本格的に取り入れなかったんだろう?
502 :
485=481=476:02/11/11 14:52
>>495 【三革説について】
悪いけど讖緯説の一部をなす三革説では
「革運=戊辰」でなく「戊午革運」ですよ!
【壬申AD552年について】
「壬申」を「めでたい年」とするような説は、
たしかに讖緯説など中国系の説では漏れも知らない。
>>476や
>>481で言ったのは「そういう説もある」と紹介しただけで
具体的な内容・論拠などは漏れも知らない。
ただ陰陽五行説は入り組んでいてそれなりに奥が深い(?)ので
漏れが知らないだけでもしかしたらそういう説もあるのかな、と。
>>485で言ったのはまた別の視点でいってるのであって讖緯説とは関係ない。
AD552年は釈迦入滅1500年で(めでたいかどうかはさておき)
仏教徒にとっては何か重大事件をこじつける程度には
意義深い年だったんじゃないのかな、ってこと。
503 :
日本@名無史さん:02/11/11 19:02
余計なことかもしれないけど、「讖緯説=三革説」について意見が分
かれているようだから、マイペディアから関係部分をコピーしたげる。
「・・・日本には古くから伝わり、(甲子革令、戊辰(ぼしん)革運、
辛酉(しんゆう)革命)の説が<<日本書紀>>の紀年にも影響したとい
われる。」
「七世紀初頭、三革説(甲子(こうし)革令、戊辰(ぼしん)革運、
辛酉(しんゆう)革命)として日本に伝えられ・・・」
504 :
日本@名無史さん:02/11/11 22:43
>>501 韓国学者の意見では、自国語を漢字の音で表現する方法は、とっくに承知し
ており日本に教えてやったくらいだけど、新羅語(古代朝鮮語)は日本語よ
り音韻が複雑であるため、利用できなかったと言うことらしい。
だけどチョット考えれば、これって理屈に合わないのは明らかだよね。
505 :
日本@名無史さん:02/11/11 23:06
>>503 それはマイペディアが間違ってる。抗議でもしとけば?
以下コピペ
日本文化の獨立
... それで神武天皇即位紀元の辛酉から齊明天皇の六年庚申までを一蔀完終と
して居る。辛酉から三年經つと甲子の年が來る、甲子は革令と言ひ又革政
ともいふ、或は戊午の年を革運といひ、それから辛酉に革命があり、甲子
に ...
www.aozora.gr.jp/cards/naitohkonan/ htmlfiles/nihonbunkadokuritsu.html - 37k - キャッシュ - 関連ページ
設立の主旨
... 5 なお最後に、また私の事例を紹介させていただくが、日本古代史の専
門家でこの学会の会員にもなった小林敏男氏が前之園亮一氏の「倭の五
王の通宋の開始と終焉について──辛酉革命説・戊午革運説から見た場
合 ...
www9.plala.or.jp/azimin/sub11.htm - 18k - キャッシュ - 関連ページ
名数
... 馬具】 面懸、胸懸、鞦 ◆三戒壇さんかいだん 東大寺(奈良)、薬師寺(
下野)、観世音寺(筑前) ◆三革さんかく 1:甲、冑、盾 2:犀の革、[
ジ]の革、牛の革 3:甲子(革令)、戊午(革運)、辛酉(革命) ◆三 ...
ww5.enjoy.ne.jp/~elfe/C4_2.htm - 101k - キャッシュ - 関連ページ
506 :
505の続き:02/11/11 23:07
505のコピペの続き
私立PDD図書館
... 3)[暦]讖緯(シンイ)思想で変事が起こるとされる、甲子(カッシ, 通常はコ
ウシ)・戊午(ボゴ)・辛酉(シンユウ)の三つの年。 甲子は革令(カクレ
イ)・革正(カクセイ)・革政(カクセイ)、戊午は革運(カ クウン)、辛酉は革
命 ...
www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/japanese/sare.htm - 44k - キャッシュ - 関連ページ
私立PDD図書館
... 仏]⇒かぎゅは(カギュ派) かきわり 【欠き割り】 【欠割】 ○[食]⇒みが
きにしん(身欠鰊,身欠鯡) がーきん 【ガーキン】 ◇[英]gherkin ○[食]ピク
ルス用の小さいキュウリ(胡瓜)。 かくうん 【革運】 ○[暦]戊午(ボコ
゙ ...
www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/japanese/kaka.htm - 36k - キャッシュ - 関連ページ
[ 他、www.cnet-ta.ne.jp内のページ ]
[PDF]夢の代
ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
... ゆへにここに挙ぐ。 三 しんゆう 辛酉甲 子 16 改元のことは、 三善の清
行 17 菅公 18 へ奉りし勘文 19 より起るか、 辛酉は延喜に始まり、 應和・
治安・永保・ 16甲子(革 令) 、戊午(革 運) 、辛酉(革 命) の年 ...
www.infolab.ne.jp/j00/software/yume/yume.pdf - 関連ページ
507 :
日本@名無史さん:02/11/13 09:05
>>504 古代朝鮮語は分からないけど、現代朝鮮語の発音はメチャメチャ複雑で
日本語とは大違いのようだから、いちおう理屈としては通ってるんだろ?
勝手におくらせんなよ。
失礼だろ。
アジア各国の声
「チョソと一緒にすんじゃねえ」
確かに15世紀まで自国語を表す文字はなかったし、そのために自国語の多く
が漢語に置き換えられて失われてしまったよ。
ダケンドそれは7世紀に名前から風俗まで遮二無二漢風に改めた時から覚悟
の上だったんだよ。その分漢語(漢文)での記録・伝達・表現能力が発達し
たし、曲りなりにも独立を保ってきたんだから、他国がゴジゃゴジャ言うこ
とはねーよ。
510 :
日本@名無史さん:02/11/14 10:38
>>501 >>507 ハングルを制定した時の最大の問題は、中国から叱責を受けて罰金を
取られるんじゃ無いかと言うことだったらしい。何しろ毎年中国に奉
る外交文書に少しでも欠礼があれば徹底的に叱責された上に、多額の
罰金を取られたってことだからな〜
統一新羅で万葉仮名(またはウイグル文字)のような自国語表記法を
開発しなかったのも、結局は唐を畏れ憚ったことと自国文化軽視によ
るもので、発音の複雑さなどは関係ないよ。
511 :
日本@名無史さん:02/11/15 00:07
ここんとこチョット本題から離れ気味だけど。。。韓国に現存する仏像の
最高峰は、何といっても慶州の石窟庵釈迦(阿弥陀説もある)仏だろう。
ところで、この石仏の完成も東大寺大仏と同じ752年だとされている。つま
りは1052年末法入りの300年前に当たり干支は同じ「壬辰」だ。
この石仏が、死後龍と化して日本から新羅を守ると言った文武王(681年没)
ゆかりの感恩寺(大王岩稜)に向かって建てられているのも良く知られた
ところだネ。
512 :
日本@名無史さん:02/11/15 09:42
>>510 自国文化軽視というよりは、中華思想に自ら入って行ったんだと思われ。
513 :
日本@名無史さん:02/11/15 17:28
>>512 ようわからん意見だけど。。。言いたいのは、新羅は華夷思想の夷に
自らを位置づけた(事大思想)ってことなのでしょう?
その結果として自国文化は夷文化になるだから、華文化に比して何の
価値も無い劣等なものとなる。つまりは自国文化軽視(蔑視かな?)
ってことになるんじゃないの??
>>513 ちょっとニュアンスの問題だけど。
夷から中華文化圏に入って行ったって感じ。
自国文化軽視というより、文化向上の意識だったと思う。
日本の白鳳や天平文化は唐風だけど、自国文化軽視でなく、
文化向上の雰囲気で意欲的だったよね。
それと似たニュアンスだったんじゃないのかな。
515 :
日本@名無史さん:02/11/15 22:16
>>514 ますますわからん。。。日本では唐文化を吸収し文化向上を図りつつも
、万葉仮名から仮名文字へと自国語表記法を開発発展させて、万葉集か
ら源氏物語にいたる膨大な自国語文学作品を生み出したヨネ。
新羅・高麗・李氏朝鮮は15世紀に至るまで自国表記法を全く開発し得ず、
当然のこととして自国文学作品を生み出すことが出来なかったンダ。
この両国の根本的相違が何処から生じたのかと言うことでしょう?
つまりは事大主義にたって自らを夷とした新羅と、自らも華として対等国
家観を有した日本との自国文化に対する価値観の相違じゃないのかな?
516 :
日本@名無史さん:02/11/16 00:34
>>515 別に意見を否定するわけでは無いけれど、世宗王が訓民正音を頒布したにも
かかわらず、ついに仮名文学に比肩し得るような諺文文学が生まれなかった
のが残念だね。僅かに春香伝とかがあるのかな?
517 :
日本@名無史さん:02/11/16 11:40
中国はもちろん日本でも約20万点にのぼる木簡が発見され、古代史解明
に大きな役割を果たしているが、三国時代から統一新羅時代と思われる
木簡は約200点しか発見されていない。
自国語文字を問題にする以前に、本当にこの時代の半島で文字(漢字)
が使いこなされていたのかどうかが問われるべきかも知れないネ???
518 :
日本@名無史さん:02/11/16 12:02
韓半島では三国・新羅時代から紙が普及してたから、あまり木簡は使わ
れなかったって言われている。もっともそう言ってる韓国学者達も信じ
てない説らしいけれど。
>>515 半島の肩を持つとか、そういうつもりじゃ全然なくてね。
朝鮮では、漢文化に同一化することが、文化向上だった。
だから、夷ではなく、自らを中華の周辺(一部)と位置づけた。
漢字使用もしかり、科挙制度導入もしかり。
ただ、実際にはそれなりに独自文化が花開いてるよ。
統一新羅の仏像や、高麗の仏教文化、朝鮮(李朝)の廃仏毀釈による儒教文化、
朝鮮時代は文化の爛熟面もあるような。儒学から実学(合理的実用主義学)
も生まれているし。
520 :
日本@名無史さん:02/11/16 19:49
ホウ。 .|
両班ネコ車ね… |
_ ____/
|/
ニダ?
/''⌒ヽ
ニダ? <`∀´ヽゝ ニダ?
∧_∧ ('''-o 》》o ∧_∧
<`∀´ヽ> [===L||:|」 <`∀´ヽ>
(つエニニニニニニニニOエ )エ
| | | || | | |
〈_フ__フ ◎ 〈_フ__フ
521 :
日本@名無史さん:02/11/16 19:51
なんか意見交換を深めるほど半島は遅れていたって議論にしかならないねー
522 :
日本@名無史さん:02/11/16 20:24
/~⌒~⌒⌒~ヽ、
/ )
( /~⌒⌒⌒ヽ )
( ξ 、 , |ノ |将軍様のお通〜〜りニダ。
(6ξ--―●-● | | ____________
ヽ ) ‥ ) V
\ ー=_ノ
∧_∧ ('''-o 》》o ∧_∧
<ヽ`∀´> [===L||:|」 <ヽ`∀´>
〜 (つエニニニニニニニニOエ )エ
, ヽ Y || , ヽ Y
し'(_)εε= ◎ し'(_)
コロコロ〜
523 :
日本@名無史さん:02/11/16 21:31
>朝鮮では、漢文化に同一化することが、文化向上だった。
そうなんです。だから自国の文化を蔑視し、その価値を殆ど認めようとしな
かったのですネ。
自己の文化(を尊重しつつ)に漢文化をとり入れて、文化向上をはかる。。。
自己の文化(を蔑視しつつ)を漢文化に同一化して、文化向上をはかる。。。
要するにここが違っているのですヨ。
524 :
日本@名無史さん:02/11/16 21:32
>だから、夷ではなく、自らを中華の周辺(一部)と位置づけた。
これはチョット違っていますね。少なくとも新羅・高麗時代において
自らを中華の一部と考えたことなどは絶対にありません。あくまでも
中華には及ばない周辺国家すなわち夷と位置づけていました。
そして、こういう考え方を華夷思想(事大主義)と言います。つまり
中華周辺にある夷国は政治・文化において華に隷属し追随すべきもの
だと言うことなのです。事大主義というのは「大なるものにかしずき
つかえる」と言う意味ですが、まさに夷は華にかしずきつかえねばな
らないのですね。
525 :
日本@名無史さん:02/11/16 21:33
かと言って夷にまったく独自文化がなかったとは言えません。逆に言え
ばまったく独自文化(言語も)を喪失してしまえば、その時点で中華の
一部になってしまうのですからね。
中華の掣肘を恐れ服しながらも、何とか民族の独立を保つ。。。これが
超大国の脅威の下で生きていかねばならない小国の叡智であり、彼らは
立派にそれに成功したのです。
526 :
日本@名無史さん:02/11/16 21:57
ただし彼らにすれば、蒙古族や女真族(そしてもちろん倭奴族も)は、
彼らよりもさらに中華の辺境に位置し、中華文化に同一化していない
夷蛮族なのですね。
しかし皮肉なことに元や清として華の位置に居座り、より中華文化に
同一化している高麗・朝鮮を夷として支配した。。。倭奴に至っては
直接支配を敢えて行った。。。この屈辱が抜きがたい恨となるのです
ね。元や清が滅亡した現在において、この恨は日帝三十六年に結集す
ることになります。
一部の学者(?)が我々からみれば、理解できない奇説珍説を得々と
繰り返すのも、このようなトラウマから発生しているのでしょうが、
心ある学者は学問的良心にたって歴史を見ようとしつつありますから、
遠からず奇説・珍説は消え去ってゆくでしょう。
527 :
日本@名無史さん:02/11/17 00:25
なんか言い古された韓国論を得々と語ってるけど、
スレ違いもイイとこじゃないのか。
528 :
将軍ネコ車:02/11/17 15:27
/~⌒~⌒⌒~ヽ、
/ )
( /~⌒⌒⌒ヽ )
( ξ 、 , |ノ |将軍様のお通〜〜りニダ。
(6ξ--―●-● | | ____________
ヽ ) ‥ ) V
\ ー=_ノ
∧_∧ ('''-o 》》o ∧_∧
<ヽ`∀´> [===L||:|」 <ヽ`∀´>
〜 (つエニニニニニニニニOエ )エ
, ヽ Y || , ヽ Y
し'(_)εε= ◎ し'(_)
古代史スレッドはすぐチョソ電波がよってくんだよ。
「高句麗起源」とか「牙民俗説」とか
530 :
日本@名無史さん:02/11/17 15:59
ドドドドドドドドドドドド!! |風|
|林| _ .|風| |林|
「と、殿!大変です、武田騎馬軍団が |火| |風| .|林| |火|
>>530getしました!」 |山| |林| |火| |山|
_∧ ∧(oノヘ| ̄ .|火| |山|(oノヘ| ̄
(_・ |/(゚∀゚ )|\. |山| ._∧ ∧(oノヘ|/(∀゚ )|\
_∧ .∧(oノヘ |\Ю__∧ ∧(oノヘ| ̄ (_・ |/(゚∀゚ )|\ ⊂)_|√ヽ
(_・ |/(゚∀゚ )\ ( (_・ |/(゚∀゚ )|\ |\Ю ⊂)_|√ヽ~∪ )^)ノ (´⌒(´⌒;;
|\Ю ⊂)_ √ヽ| || |\ Ю ⊂) |√ヽ (  ̄ ~∪ )^)ノ( | ( |(´⌒(´⌒;;
(  ̄ ~∪ )^)ノ '~ ~ (  ̄ ~∪ )^)ノ .|| || ~( | (´⌒(´⌒'~ (´´
【疾如風】武田騎馬軍団is戦国最強!【徐如林】武田騎馬軍団is戦国最強!
【侵掠如火】武田騎馬軍団is戦国最強!【不動如山】武田騎馬軍団is戦国最強!
徳川
>>1え康 クソ漏らしてんじゃねーよ(クセー!
長宗我部く
>>2親 土佐にヒキコモってんのか?(藁
齋藤道
>>3 息子に殺されて、キミってリアル厨房??(禿藁
今川
>>4し元 織田のうつけに討ち取られてんじゃねーよ
尼
>>5経久 陰険な手つかってんじゃねーよ友達できねーぞ(プ
>>6角承偵 戦国時代に反骨サヨクか?笑わせるね(ププ
山
>>7豊国 おまえ弱すぎ。月山富田城が泣くぜ(藁々
畠
>>8ま義慶 おまえいたの?
朝
>>9ら義景 プライドのワリに実力が伴ってねーな(藁
531 :
日本@名無史さん:02/11/18 18:39
>>328 日経 「大人のための鑑賞術」によれば「1498年に地震による高潮で崩壊し
て後大仏殿が再建された記録はなく、以来大仏は露座のままだ。」ってこと
だから、500年以上露座なんだね。
また「中国・宋様式の流れをくんで頭が前に傾いている大仏は、首に重みが
かかる。1960年には強化プラスチックで首の回りを胎内から補強した。。。」
ってことだ。
そこまでやったのなら、はやく全身プラスチックでコーティングして酸性雨
から護ってほしい。
532 :
日本@名無史さん:02/11/18 19:01
京都の大仏は復元しないのか?
533 :
沙弥 ◆zroWOhjJpc :02/11/18 21:29
心と宗教板から来た仏教徒の私にしてみれば、どこが起原であろうと、
仏教というのを伝えてくれたのはありがたい。
私は元暁さんに心酔して法相宗秘事絵詞を描かせた明恵上人の気持ちも
わからなくは無いのですが。。。(これは宗教板でするべきでしたね)
さて、いろんなところの再建の話が出ていてうれしいのですが、
唐招提寺の戒壇堂再建の話はありましたか?(斜読みスマソ)
私は日本の仏教を往時の仏教美術etc.を生み出せた精神的水準に
立ち直らせるには、やはり戒律が大事だと思うのですが。。。
唐招提寺では今でもあの石造りの戒壇の周りに幕を張って
授戒会を行っているそうです。
なんでも泥棒が逃げ際に放火したらしいですが、
もったいないことをしてくれた。。。
僧侶として戒律を誓う(出家する)と言うことは、即ち女色を絶ち財を捨て、
乞食により生きることを誓うことでありましょう。
親鸞によって破られ、維新の代に捨てられた、この僧侶としての最低条件を
復活しなければ、戒壇復興の意味はありません。
現在の僧侶は基本的に僧侶ではなく単なる在家居士ですから、俗戒を誓うに
相応しい受戒の場で充分ではありませぬか?
535 :
沙弥 ◆zroWOhjJpc :02/11/19 00:09
私もそれは十分知っています。事実、私の師僧も妻帯で、
住職をしていますので乞食によって生きているわけではありません。
しかし、大勢の僧を名乗る人々が「在寺」であっても、
ごく少数、本当に何人かの僧侶はできるかぎり財を離れ、修行寺の雲水などとして
独身で修行しているのです。
事実、比丘戒を受けるためにスリランカなどの南方仏教国に留学する人もいますし、
近年は南方仏教の比丘方も多く指導のために来日しています。
日本には、大半は失われて久しいにせよ、具足戒の伝統があったのですから、
南都の戒壇がもっと注目されてもいいのではないかと思ったのです。
西大寺などの真言律宗は現在どうなっているのでしょうか?
修行しに行っちゃいましょうか、一生擲って(w
ちなみに、資料によれば、同じ戒壇の上で、在家の人に対しての「菩薩戒」
の授戒もしているようです。
536 :
日本@名無史さん:02/11/20 00:08
本来の「戒壇」と言えば、東大寺・大宰府観音寺・下野薬師寺だったっけ?
観音寺・薬師寺には今でも戒壇(或いはその遺構)が残ってるのかしら?
537 :
日本@名無史さん:02/11/20 23:13
筑紫はともかくとして、当時の片田舎だった下野に国立戒壇をつくったって
のは凄い見識だな〜
後に道鏡が流されたくらいだから相当な大寺だったんだろうね。。。薬師寺
って言われるくらいだから双塔式だったのだろうか??
538 :
日本@名無史さん:02/11/20 23:22
>>531 瑣末なようだけど「地震による高潮」は可笑しいだろう。
高潮は風津波とも言うように台風(低気圧)により生じるもので、
地震によるなら津波と言うべきじゃない?
539 :
日本@名無史さん:02/11/22 00:55
その後に延暦寺・園城寺にも戒壇が認められたけど、浄土系の戒壇てのは
どうなってるんですか?
540 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:16
真宗の場合には、戒律を守れない哀れな人間が前提になってるから、
そもそも僧侶なんてものは存在しないんだろう。
親鸞が愚禿と自称してるのは真実の声だな。
541 :
日本@名無史さん:02/11/24 13:48
浄土真宗なんてのは仏教ではない
せいぜい8宗と禅宗までだな。
542 :
日本@名無史さん:02/11/24 15:43
そうかな?浄土系の仏教が日本の宗教改革と呼ばれるのには、
民衆の中に飛び込んでいったからではないかな。
浄土系の仏教は、当時の民衆が求めていた救済に答えたのだと思うが。
543 :
日本@名無史さん:02/11/24 18:06
>>542 浄土系宗派(浄土宗・時宗・融通念仏宗等)と浄土真宗では、そもそも戒律
(女犯)のあり方が違っているし、貴族趣味に堕落した世襲制の教主なんて
悪趣味な制度でも根本的に違っているから一緒にしないでね。。。
ただ浄土真宗を含めた浄土系宗派が、戦乱に喘ぐ民衆の救済となったのは事
実だろう。。。ダトシテモそれが本来の”仏教”かどうかについては議論が
分かれるところだろうネ!
544 :
日本@名無史さん:02/11/25 23:42
確かに教主が世襲貴族制だなんて宗教は、イスラム(カリフ)の一部と
浄土真宗くらいのものかな(笑
545 :
日本@名無史さん:02/11/25 23:45
>544
国家神道をお忘れなく
546 :
日本@名無史さん:02/11/27 00:09
>>545 なるほど良い突っ込みだけど、あれは(現人)神なんだから教主じゃあ
ないってことになる(笑
547 :
日本@名無史さん:02/11/27 00:36
神なのに世俗的親子関係でつながっている必要があるんでしょうか??
548 :
日本@名無史さん:02/11/27 18:04
つながっている必要???
宗教において必要があるかどうかを論じる意味は無いよ。
この宗教(?)においては(現人)神と信じられているってことだよ。
ギリシャ神の多くも親子関係でつながってるけど、その必然性は無い。
549 :
日本@名無史さん:02/11/29 22:54
>>481 チョーカメだけど、井本とか言うペルシャ学の先生の説だね。
550 :
日本@名無史さん:02/12/01 10:04
テレビで見たんだけど、小学生くらいの女の子が金襴の衣を着けて得度式を
やってた。何とか宗の名刹の門主の長女で、将来門主の跡を継ぐために得度
(?)したらしい。
一体この宗派の何処が「仏教」で誰が「僧」だと言うのか? 釈尊に恥ずか
しく無いのかネ。。。
551 :
山野野衾 ◆W7NDQJtGoM :02/12/01 10:23
>550
真宗興証派。
552 :
>551 :02/12/01 20:52
細かいことを言うようだけど。。。もしかして真宗興正派じゃあないの?
それならば本山は西本願寺の南にある興正寺(興隆正法寺)だけど、十一世
顕如の弟の顕尊が入寺して以来、西本願寺からの分派抗争が絶えず、明治九
年に分離独立してるネ。
553 :
山野野衾 ◆W7NDQJtGoM :02/12/01 21:10
打ってから気付きましたが、まあいいかと。
真宗についてお詳しいようなのでチョットお聞きしますが、どうしてこの宗派
はこれほど親鸞の血統に拘るのでしょうか?
まあ宗教界の家元制度と言うべきなのでしょうが、それにしても仏教思想から
はオオヨソ考えられない奇態だと思うのですが?
555 :
日本@名無史さん:02/12/02 13:41
>浄土真宗
横レススマソ。
蓮如のお触書で信徒集団拡大化成功。
しかし、信者は不安になる。
本当にこんな簡単な他力で極楽へ行けるのか?
そこで、目に見える教主様を神格化して、信仰不安を無くそうとした。
などと聞いた事があります。
556 :
山野野衾 ◆W7NDQJtGoM :02/12/02 16:44
>554
本来親鸞上人御自身はその神聖視は勿論の事、その墓や教団すら否定なさっ
ておられました。しかしその「本人の意思」に反した行動がとられた時、は
じめて真宗は大規模なものとなったのです。
民情からすれば法脈などよりもかづく事の出来るはっきりとした血脈の方が
大切。また気に入らなければ血脈にある別の人間を担ぎ上げてもいいという
点も都合が良かった。「大坂一乱」というクーデター未遂事件は好例。
557 :
日本@名無史さん:02/12/02 21:27
なるほどね。。。ある意味では世界にほとんど例が無いわが国独特の「天壌
無窮・万世一系の神聖&世俗権威(?)」ってやつを上手く採り入れたって
わけですな。
お釈迦さんも阿弥陀さんもビックリってことだけど、加えて世俗権威もビッ
クリの内輪争いぶりですね(笑。 確か真宗十派ってんでしたか?
558 :
山野野衾 ◆W7NDQJtGoM :02/12/02 21:40
>557
さん候。
559 :
日本@名無史さん:02/12/02 22:02
日本オリジナルかなあ。何しろ隣国では
二世一系の将軍様が。
アアあの奴隷王朝ね。。。ありゃあ万世一系どころかマズ二世一系で終わり
だろう。何しろ神聖血統だなんて思ってるのはジョンイル・チャングン・ニ
ムだけで、マンセーを叫ばされてる人民は誰ぁれもそうは思っていない。
どうしてあの国では「将軍」って肩書きをそんなに尊重するんだろうか。
100万も兵隊がおるなら、将軍や提督なんて掃いて捨てるほどいると思う
んだけどな。ひょっとしたら昔々中国から「XX将軍XX王」なんて称号
を貰ってたので、よほど「将軍」が偉いと思っているんだろうか(笑
562 :
日本@名無史さん:02/12/04 21:20
新羅仏教の元祖とも言うべき元暁って僧侶は、美姫に乞われて胤をさずけたん
だってね。。。親鸞も彼に見習ったのかな?
563 :
日本@名無史さん:02/12/05 21:57
親鸞は己の醜悪さ脆弱さを自覚した果ての破戒だけど、元暁
は己の胤を与えるのを功徳だと弁解しつつの破戒だ。
同じ破戒でもその潔さにおいて遥かな隔たりがあると思う。
564 :
山野野衾 ◆W7NDQJtGoM :02/12/05 22:14
>563
「宝物集」に仏典から例をひいて
死刑判決を取り消させる為に酒を薦めたこと、抱いてくれなければ死ぬとい
う女を抱くこと、命を救うために嘘をつくことは戒を犯したことにはならな
いと書いてあったので良いのでは。
新羅の話も元ネタが仏典であったという可能性が。日本にも「自他の区別は
無い」と言って娘と結婚した高僧が居た。(名前忘却)
>抱いてくれなければ死ぬという女を抱くこと、
世間は誤魔化せても、自分自身を誤魔化し通すことは出来ないネ。
元暁よ汝が娘を孕ませるまで、抱いたのは一度や二度ではなかろうが、
その度に娘は抱いてくれねば死ぬといったのか?
親鸞は生きて愛欲の地獄に堕ち、死して浄土に往生を願ったが、
元暁は生きて己の愛欲を偽り、死して地獄の責め苦に会うであろう!
566 :
日本@名無史さん:02/12/06 22:03
>563
それでも坊さんは後世の仏教に与える影響と言うものを
考える必要があるのでは?
親鸞さんのように割り切って破戒すると、
ご本人はさんざん悩んだ末だからまあ考えるとしても、
後世の僧侶は高僧の先蹤を踏むとばかりに
ほとんどためらいもなく破戒し、更には破戒を正当化してしまう。
それでは仏教が後世に伝わってゆかない。
話の中の元暁さんだって(実話かどうかは別として)
愚悪懈怠の塊である自己に対しての自覚とか反省がないわけがない。
ただ、来世重視の親鸞さんとは違って
この一生の修行ということを考えれば、
そのような大きくまがった解釈をしてでも
戒律を尊重し、仏教を尊重しないといけない。
そこが難しいところで、周囲の仏教徒に与える影響を考えずに
潔さだけを拡大するのは個人的に賛成できない気がする。
だから親鸞さんは宗派の存続とか弟子とかを認めずに
亡骸は畜類に施せといったのではないかと。
全く宗教は難しい。自分に正直に、外相を飾らず、周囲に気を配るなんて。
で、最近それてるけど七大寺の話題。
正倉院にはげんじょう三蔵法師が翻訳したのと同年の奥書のある
経典が伝わってるらしいが、見たことあるひといる?
いつかの日曜美術館でやってた。
567 :
日本@名無史さん:02/12/07 22:27
おっしゃるとおり難しいところだけど、親鸞は破戒を真正面から破戒と意識
しているから、後世の僧侶もそれを真似るなら、あくまでも破戒であること
を意識しなければならない。(その意味ではもとから妻帯を是とする真宗坊
主は仏僧ではない。。。)
だけど元暁のように戒律を歪めてしまうと、後世の僧侶も様々な屁理屈を捏
ねて破戒を正当化してしまうことになる。
果たして釈迦は何れを仏敵と断ずるのであろうか???
568 :
日本@名無史さん:02/12/09 22:15
どっちにしても知らぬが仏だろう、、、
569 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:40
信楽遺跡の発掘による新たな歴史解明の期待が高まっているね。
東大寺の前身寺院についても、新たな発見の予感がする。。。。
570 :
日本@名無史さん:02/12/21 23:25
南都七大寺は、朝鮮民族の資産です
今更言うまでも無いこと。紫禁城もベルサイユ宮殿も、ピラミッドも
マチュピチュ空中都市も、すべて朝鮮民族の資産ですが。文句アッカ!
572 :
日本@名無史さん:02/12/22 00:59
南都は朝鮮文化の成果だが、他の遺跡は無関係だ。いや、ほんと。
573 :
日本@名無史さん:03/01/03 10:38
たしかに百済や高句麗の影響を受けているかも知れないが、
それらは新羅語→朝鮮語とは別の言語の別の人々の国であり、
今の韓国などとは無関係ではないだろうか。
百済は滅亡後に王族や貴族から技術人まで多くが日本へ移住した。
もし百済文化を誇るとすれば韓国人でなく軽傷者である我々日本人。
(^^)
575 :
日本@名無史さん:03/01/12 08:28
西大寺って、地元じゃない人にとってはやたらと知名度低いんですけど‥
576 :
日本@名無史さん:03/01/12 19:54
577 :
日本@名無史さん:03/01/13 00:18
>575 >576
失礼ですが、、、貴方達のおっしゃる「知名度」ってのは何辺に基準を置い
ておられるのでしょうか?
少なくとも日本国において、日本人としての基礎教養を身につけた人間で、
南都七大寺であり叡尊によって真言律宗の総本山として再興された「西大寺」
を知らない人間がイルとは思えませんが???
(^^)
579 :
日本@名無史さん:03/01/17 05:32
西大寺駅といえば日本の結節点
寺自体は知らなくても駅は有名だろう
西大寺なんてヘボすぎ。
もともと評判の悪い西大寺は、平安時代から
荒れていた。
今でも、東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺との格差は、歴然としている。
大安寺並みのヘボさだ
581 :
日本@名無史さん:03/01/18 01:29
興福寺伽藍復興の模型見てきたが、凄いぞ。
南大門、金堂、北沿道回廊の復興に、回廊、中門等などは位置を図示
するようだ。へたれの西大寺にはこれだけの気宇はないだろう。
>>581 旧伽藍の大半が住宅地化してるから復興は不可能かと・・・
五重塔跡は、真ん中にあるぞ。
584 :
日本@名無史さん:03/01/18 03:24
>577
ごめん、俺も知らんかった。
わるいが、日本人の大半は知らんと思うが。
東大寺や興福寺でさえ、知らんやつがいるのに、西大寺まで知ってる
となると・・・
>>583 あれは東塔跡。
西塔跡もかろうじて現代の寺域内だけど、
昔の金堂院の跡はすっかり開発されてる罠。
まだ大安寺の方が伽藍復興はしやすいかも。
586 :
日本@名無史さん:03/01/18 17:44
四天王院もそのままあるzp
587 :
日本@名無史さん:03/01/18 20:04
薬師寺は残りの回廊をいつ作るんだ?
588 :
日本@名無史さん:03/01/19 14:57
a
589 :
日本@名無史さん:03/01/20 13:23
最近、大安寺の東塔・西塔の二つの塔跡が同時平行で
発掘されていますが、まさか、薬師寺のように大安寺も
塔を再建するのではないかと不安になります。このところ
大安寺が、境内に新しいお堂を次々と建立しているもので。
法隆寺のお会式見物したいなぁ
591 :
日本@名無史さん:03/01/31 02:09
東寺より西寺だろう
もちろん東大寺より西大寺
西大寺は真言律宗。。。。ってことは江戸時代あたりから伽藍が栄えたのかな?
593 :
日本@名無史さん:03/02/09 10:54
『がらんどう』の起源って、伽藍堂ですか?
594 :
日本@名無史さん:03/02/11 00:14
>>589 七重塔の雄姿を見てみたい気もするが・・・
595 :
日本@名無史さん:03/02/21 13:18
大安寺西塔は60メートル以上
奈良市東九条町の大安寺西塔跡で、21メートル四方の基壇が見つかり、奈良市教育委員会が20日、発表した。
現存する最も高い東寺(京都市)の五重塔(高さ55メートル)や興福寺五重塔(高さ50.8メートル)よりも大きく、平安時代に燃えた東大寺七重塔(推定100メートル)に次ぐ規模という。
奈良市の史跡大安寺旧境内保存整備事業として約270平方メートルを調査。21メートル四方の基壇と基壇に上る階段、礎石の抜き取り穴などが見つかった。
階段の近くから、塔の軒先に付ける風鐸(ふうたく、高さ30.3センチ)が完全な形で出土したほか、水煙の一部と見られる銅製品が出土。風鐸には、塗金がわずかに残っていた。奈良時代の南都七大寺の風鐸が見つかるのは初めてという。
出土した瓦などから、西塔の創建時期を奈良時代末から平安時代初めと推察。焼けた土や瓦なども二層から出土し、文献に記されているとおり、2度にわたって火災で燃えたことがわかるという。
同寺には東と西の2つの塔があったが、西塔は平安時代に燃えたことが文献に記されているが、規模や建立時期は不明だった。
平安時代末の文献に、七重の東塔の存在が示されており、奈良時代末には東大寺に次ぐ60メートルを超える七重塔が東西に並び建っていたことが裏づけられた。
ttp://www.nara-shimbun.com/n_arc/arc0329.html
596 :
日本@名無史さん:03/03/02 07:08
秋篠寺はもっと古いのですか?
597 :
日本@名無史さん:03/03/11 22:40
秋篠宮って奈良?
598 :
日本@名無史さん:03/03/11 23:01
>>596 奈良市にある寺。もと法相宗であったが,真言宗,浄土宗(西山派)を
経て,現在は単立寺院。
創建年次については776年(宝亀7)と780年の2説がある。
599 :
日本@名無史さん:03/03/15 17:27
秋篠寺って奈良時代からあるんですね。日本は古い寺が多いですね。
600 :
日本@名無史さん:03/03/23 07:23
長岡京に遷都したのが784年だから、遷都直前に首都にたてられたわけね。
601 :
日本@名無史さん:03/04/01 23:04
遷都1300年記念のイベント行事が目白押しですな
602 :
日本@名無史さん:03/04/05 20:00
藤原京遷都1300年のときはどうだったの?
どういうイベント?
604 :
日本@名無史さん:03/04/15 00:10
平城京跡の整備が進んでます。会場も中心地はそこ。
605 :
日本@名無史さん:03/04/17 20:28
そういえば、藤原京遷都1300年祭も、ちょい前だけど、あったね。
ただし、平安京遷都1200祭とぶつかってしまって知名度のせいもあって…
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
607 :
日本@名無史さん:03/04/21 19:55
西大寺で、抹茶の中で溺れますた・・
何整備すんの?
609 :
日本@名無史さん:03/05/05 20:42
平城遷都1300年記念祭のため
610 :
日本@名無史さん:03/05/05 21:04
>611
アイデンティティが崩壊した民族は必死だな(藁
613 :
日本@名無史さん:03/05/17 19:01
ダム建設に伴う移転のため、九つに切断された中国・甘粛省の炳霊寺石窟の涅槃像が、
奈良文化財研究所の技術協力で、顴年ぶりに元の姿によみがえった。
石材を芯にした粘土製の涅槃像は、5世紀後半〜6世紀初めの北魏時代の作品という。
614 :
日本@名無史さん:03/05/19 21:34
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
616 :
日本@名無史さん:03/05/22 22:56
山崎駅は確かに奈良のお寺と関係が薄そうに思えるが、実は、
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
618 :
日本@名無史さん:03/05/29 02:42
山崎駅の近くには首都だった場所が2個所もあるよ
619 :
日本@名無史さん:03/06/08 02:16
継体天皇が首都としたんだっけ
620 :
日本@名無史さん:03/06/08 02:35
弟国宮か?
621 :
日本@名無史さん:03/06/08 02:42
カナーリ久しぶりに関西に行ってJR乗ったら
神足という駅がなくなっていてショックだった。
京都駅もバケ物みたいになってたし。
622 :
日本@名無史さん:03/06/08 02:46
神足は、百済王の血を引く天皇が長岡京と駅名を変えちゃった。
623 :
日本@名無史さん:03/06/08 03:02
しR京都駅の中にあるごまるごってうどん屋さん美味しいよ
624 :
日本@名無史さん:03/06/08 03:26
南都七大寺から禿しく話題がずれてしまってるなw
山崎のせいだな。
626 :
日本@名無史さん:03/06/08 21:39
平城京は、ソウルを模倣して作られたというのは本当ですか
627 :
日本@名無史さん:03/06/16 17:26
>>626 平城京建設当時、ソウルの都市規模ってどんなんだったんだ?
628 :
日本@名無史さん:03/06/28 21:25
ソウルはまだ名もない寒村
629 :
日本@名無史さん:03/07/08 23:01
中国からの占領軍の拠点が近所にあった
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
臨山会って、まとまってるの?
632 :
日本@名無史さん:03/07/13 23:25
このスレのずっと前の方で、仏教公伝の年が
日本書紀の552年か法皇帝説の538年かという議論があったが、
最近の説では、両説の14年のずれは三国遺事の百済王暦の異伝にもとづくとして
正しくは549年とする笠井倭人氏の説がある。この説は、日本や半島諸国の情勢からみて
545年前後が妥当という園田香融氏の説によって間接的に補強・支持されている。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
634 :
日本@名無史さん:03/07/16 20:36
635 :
日本@名無史さん:03/07/22 04:46
「青丹よし奈良の都」とうたわれた平城京は、大寺院が甍を競い合い仏教文化が花開いた都でもありました。中でも南都七大寺と呼ばれ
た寺々は栄華を誇り、都が平安京に移った後も一部の寺院は栄華を保ちました。現代に残る寺院や遺跡からも往事の栄華を偲ぶことがで
きます。
636 :
日本@名無史さん:03/07/25 04:32
奈良市教委は、絵画と天然記念物各1件を、新たに市指定文化財に指定した。
絵画は雑司町の東大寺(橋本聖圓管長)所蔵の「絹本著色釈迦三尊十六羅漢
像(けんぽんちゃくしょくしゃかさんぞんじゅうろくらかんぞう)」。霊鷲山
(りょうじゅせん)で説法する釈迦如来と脇侍(きょうじ)の普賢菩薩(ぼさ
つ)・文殊菩薩を囲む十六羅漢を描いた掛け軸で、釈迦信仰が盛んだった鎌倉時
代の作。縦147・1センチ、横107センチの大型で、ふっくらとして柔和な
釈迦の顔立ちや、白みがかった青などの明るい色使いの特徴から、南都の絵師が
描いたと見られる。
鎌倉時代以前の釈迦三尊十六羅漢像は、重文に指定されている兵庫県太子町
の斑鳩寺の所蔵品など数点しか知られておらず、貴重だという。
637 :
日本@名無史さん:03/08/01 22:38
法隆寺の再建られておらず
(^^)
639 :
日本@名無史さん:03/08/09 06:44
「青丹よし奈良の都」の青丹よしって、実は…
640 :
日本@名無史さん:03/08/13 19:26
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
642 :
日本@名無史さん:03/08/16 02:17
643 :
日本@名無史さん:03/08/16 02:54
法隆寺の壁画の焼失は返す返すも残念
644 :
日本@名無史さん:03/08/16 03:11
遅レスだけど三一論争での南都の主張って「駄目な奴は駄目」ってことで
現実を見れば至極当然の主張だと思うけどな。
どう考えたって悟りなんぞ開けるわけがない奴が世の中にはいる。
それを先天的な性質に区別を設けることで説明したんでしょ?
最澄や源信の主張ってただの綺麗事って感じが・・・
ところで元暁と親鸞の比較の話だけど、
「遊心安楽道」という著作は偽書説もあるそうだが、
よく親鸞の思想と比較されるそうね。
内容詳しく知ってる人いる?
逸話だけでなく思想的な面ではどんなもんなんでしょ?
645 :
日本@名無史さん:03/08/21 16:56
646 :
日本@名無史さん:03/08/24 23:31
保守age
647 :
日本@名無史さん:03/08/31 02:53
648 :
日本@名無史さん:03/09/06 21:29
649 :
日本@名無史さん:03/09/14 11:50
650 :
日本@名無史さん:03/09/25 22:48
651 :
日本@名無史さん:03/09/29 17:23
このスレのずっと前の方で、仏教公伝の年が
日本書紀の552年か法皇帝説の538年かという議論があったが、
最近の説では、両説の14年のずれは三国遺事の百済王暦の異伝にもとづくとして
正しくは549年とする笠井倭人氏の説がある。この説は、日本や半島諸国の情勢からみて
545年前後が妥当という園田香融氏の説によって間接的に補強・支持されている。
652 :
日本@名無史さん:03/10/09 21:52
653 :
日本@名無史さん:03/10/16 21:51
654 :
日本@名無史さん:03/11/05 23:22
655 :
日本@名無史さん:03/11/15 22:39
jgjv
656 :
日本@名無史さん:03/11/20 22:04
修学旅行が奈良と京都な
のはおかしいと思う。
生徒の自由に選択させろ・。
>>656 ひ○きみ教職員の工作員キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!
今の時代修学旅行自体がない学校も多い
京都・奈良以外に修学旅行逝く学校も多い
てゆーか板違い
国内旅行板に専用スレがあったからそこに逝け
658 :
日本@名無史さん:03/12/18 13:01
東大寺age
659 :
日本@名無史さん:03/12/30 23:20
hage
あぼーん
661 :
日本@名無史さん:04/01/18 21:58
青丹よし奈良の都
あおたんてなに?
662 :
日本@名無史さん:04/01/29 00:26
663 :
日本@名無史さん:04/02/08 15:25
664 :
日本@名無史さん:04/03/03 00:54
665 :
日本@名無史さん:04/03/16 23:52
あ
666 :
日本@名無史さん:04/03/16 23:55
>661
「あおによし」だ!
青は瓦の瑠璃色、丹は酸化鉄で作られた塗料で塗られた柱の赤色
つまり柱と瓦が美しい奈良の都、という意味!
667 :
日本@名無史さん:04/04/03 21:40
668 :
日本@名無史さん:04/04/21 22:58
669 :
日本@名無史さん:04/04/22 06:57
このスレのずっと前の方で、仏教公伝の年が
日本書紀の552年か法皇帝説の538年かという議論があったが、
最近の説では、両説の14年のずれは三国遺事の百済王暦の異伝にもとづくとして
正しくは549年とする笠井倭人氏の説がある。この説は、日本や半島諸国の情勢からみて
545年前後が妥当という園田香融氏の説によって間接的に補強・支持されている。
670 :
日本@名無史さん:04/05/03 03:33
671 :
日本@名無史さん:04/05/03 08:03
覚え方
「やっぱり東大が最高峰」
やっぱり 薬師寺
とう 東大寺
だい 大安寺
が 元興時
さい 西大寺
こう 広隆寺
ほう 法隆寺
672 :
日本@名無史さん:04/05/03 12:24
673 :
日本@名無史さん:04/05/26 22:32
674 :
日本@名無史さん :04/06/10 07:36
保守
675 :
日本@名無史さん: