源氏というと頼朝に到る河内源氏が嫡流のように語られるが、
これは鎌倉時代に作られた話。
嫡流とは、親が嫡子を決めることにより生まれる。
満仲は嫡子を頼光とし、頼光は嫡子を頼国とした。
つまり、源満仲の嫡流は摂津源氏になる。
河内源氏の祖の頼信は、満仲の摂津多田の源家本拠地から
河内に分家した庶流。
つまり、頼朝の嫡流性とは、河内源氏の嫡流であり、
源頼信を祖とする庶流の源氏の一派の嫡流ということになる。
真の源家嫡流である摂津源氏について語ろう。
2 :
能勢電鉄多田駅住人:02/05/09 00:50
駄スレになるか良スレになるか微妙だな。
3 :
日本@名無史さん:02/05/09 00:52
摂津源氏の中で
源家嫡流意識が強く、源姓を名乗り続けた傾倒と、多田の名字を名乗った系統の関係はどうなっているの?
4 :
日本@名無史さん:02/05/09 09:12
摂津源氏は人気ないね。
というかみんな知らないんだろうな。
5 :
日本@名無史さん:02/05/09 14:03
>1
またか。
同様のスレは過去にたくさん立ってる。
もういいよ。
摂津源氏の嫡流は土岐氏でいいの?
7 :
清和源氏嫡流略譜:02/05/09 16:16
多田満仲---源頼光---頼国---頼綱---馬場仲政---源頼政---仲綱---広綱---土岐光信
おながいですからこんな駄スレは糸冬了しろやゴルァ。
9 :
日本@名無史さん:02/05/09 17:23
************************* 終了 ************************
10 :
日本@名無史さん:02/05/09 21:17
源頼綱の次は、多田明国と源仲政だけど、
源氏嫡流は、仲政になるんだね。
駄スレだな(藁
13 :
日本@名無史さん:02/05/10 00:24
大阪府東大阪市に源氏が丘という地名があるのだけど、何か源氏と関係あるの?
14 :
日本@名無史さん:02/05/10 01:11
>>13 関係ない。
大阪で源氏と関係があるのは、源頼朝の先祖の八幡太郎義家の河内源氏の
本拠地だった大阪府羽曳野市壷井。
河内源氏の祖の源頼信、頼義、義家の三代の墓や、河内源氏の氏神の壷井八幡宮(宮司の高木氏は河内源氏の末裔)や
菩提寺だった通宝寺跡などがある。ここが、後の武家棟梁となった源氏=河内源氏の本拠地。
源氏でも嵯峨源氏関係では、源頼光の四天王筆頭だった源綱こと渡辺綱が育ち、嵯峨源氏渡辺党の
本拠地だったのが大阪市中央区の渡辺橋付近。北区のお初天神の宮司や座摩神社の宮司は、
渡辺綱の子孫。
多田満仲----源頼光:摂津源氏(源家嫡流)兵庫県川西市多田
--源頼親:大和源氏 奈良県宇野
--源頼信:河内源氏(武家棟梁)大阪府羽曳野市壷井
16 :
日本@名無史さん:02/05/10 01:54
どのあたりに本拠があったのだろう。
やっぱり今の多田神社のある辺りかな。
支配領域は多田院〜矢問あたりなのかな。
17 :
日本@名無史さん:02/05/10 03:44
>>7 多田満仲―源頼光―頼国―国房―光国―土岐光信
18 :
日本@名無史さん:02/05/10 09:51
土岐は摂津源氏の庶流だが、源頼政の源家嫡流の家督を相続したため、
摂津源氏嫡流になる。
摂津多田に残った多田源氏は庶流になり、土岐の美濃源氏が摂津源氏後継の
清和源氏嫡流になる。
19 :
日本@名無史さん:02/05/10 12:10
コピペだらけのスレだね。
20 :
日本@名無史さん:02/05/10 18:36
>>19 そうでもないよ。
話題そのものは以前にも他スレで出ていたが、書き込みは新しい。
ただ摂津源氏については一般書が少ないから知らない者が多いだけのこと。
21 :
日本@名無史さん:02/05/10 20:07
摂津源氏は頼家や頼実、もちろん源三位頼政など歌人が多いイメージがあるな。
やっぱり武家としてはどこか中途半端なところがあったのかもな。
22 :
日本@名無史さん:02/05/10 20:09
公家ですね。
23 :
日本@名無史さん:02/05/11 08:34
摂津については、さんざん他スレで読んできたが(土岐が嫡流だとか云々)、
大和源氏について語れる人はいないのかな?
頼親から保元の乱の宇野親冶までの間、いったい何をしていたんでしょう。
朧谷寿『清和源氏』は、
大和源氏の源頼親にも一章使って、詳しく書いている。
大和源氏は、興福寺などの強力な僧兵勢力に苦労したらしい。
25 :
日本@名無史さん:02/05/12 08:50
嫡流にこだわる粘着君は、何度教育、指摘しても、その内容は全く無視。
脳の構造がバレバレ。
君のようなタイプがストーカーになったりするんだなぁ。
26 :
日本@名無史さん:02/05/12 09:08
>>1の論理だと藤原北家も嫡流じゃないってことか?
27 :
日本@名無史さん:02/05/12 12:19
朧谷寿は「清和源氏」の中で、摂津源氏には武門への志向は弱く、貴族志向型と書いている。
そして
「武門をもって自任する源氏にあっては、嫡流であるはずの頼光流が、いつしか
頼信流(河内源氏)にその立場を奪われることになってもいたしかたないことであった」
と書いている。
つまり、武門の家としての源氏の中軸は、河内源氏に移り、河内源氏こそが武門の源氏の
嫡流になったといえる。しかし、清和源氏にはそもそも二つの顔があった。
武門の顔と、受領貴族の顔であり、その意味では、摂津源氏もまた嫡流といえる。
28 :
日本@名無史さん:02/05/12 12:21
つまり
摂津源氏:清和源氏本来の嫡流
河内源氏:武門としての清和源氏嫡流
ということでいいのかな。
29 :
日本@名無史さん:02/05/12 14:21
だからさぁ、清和源氏って摂津とか河内だけじゃないんだよ。
何が嫡流なんて決めるの無意味。
それぞれがそれぞれの嫡流でしょう。
清和源氏の「嫡流」に大きな意味を持たせたのは、
わしだよ、わし。
板東武士には伝説的な八幡太郎義家公への崇拝があったからね。
わしは当初は流人に過ぎなかったが、義家公の正当な流れで、
後継者であると主張させて貰ったよ。
31 :
日本@名無史さん:02/05/12 22:07
多田満仲の弟たちの系統は何源氏と呼ぶのでしょうか?
32 :
日本@名無史さん:02/05/13 02:32
33 :
日本@名無史さん:02/05/13 03:11
34 :
日本@名無史さん:02/05/13 20:19
頼政とともに平治の乱で寝返り、信西の首を取ったことで有名な源光保(源国房流)。
乱の後、すぐに謀反の疑いをかけられて、息子とともに討たれたのは悲劇だった。
35 :
日本@名無史さん:02/05/13 21:50
去年政界を騒がせた「加藤の乱」を減酸味頼政の乱になぞらえた新聞記事があった。
36 :
日本@名無史さん:02/05/13 22:09
37 :
日本@名無史さん:02/05/13 22:23
国房の子孫はやたら繁栄したが、彼自身はそれほどの人物ではなかった、
と、昔どこかで読んだような記憶がある。
38 :
日本@名無史さん:02/05/15 07:42
平治の乱で頼政に裏切られた側の当事者の新宮十郎行家が、
頼政の密命を受けて諸国行脚に繰り出したというのも皮肉というか…。
まあそれだけアンチ平家というのは強力なテーゼだったのか。
39 :
日本@名無史さん:02/05/24 11:43
源頼政は別に裏切っていないだろう。
彼は、河内源氏の源義朝に対して摂津源氏の独自行動をしただけ。
平治の乱は、
●河内源氏:源義朝
●伊勢平氏:平清盛
●摂津源氏:源頼政
の巴戦だったんだよ。
頼光と頼信は異母兄弟。兄弟の歳はかなり離れている。
長男としての嫡流と宮廷警護の家業は頼光が譲り受けた
ようだが、弟の頼信も満仲の晩年の子としてかわいがら
れたようである。嫡庶がすでに決まってる中で、頼信は
武術に長けるか、受領として地方に勢力をのばすしか、
自己の勢力を伸張させる方法がない。これが二つの源氏
の特徴を分けた起源である。と講義で学んだ覚えアリ。
41 :
日本@名無史さん:02/05/24 19:28
頼信が晩年の子だとしたら、系図に載ってるあの夥しい数の弟たちは何だろう。
本当は頼信より年長さんなのか?
42 :
日本@名無史さん:02/05/24 19:28
w
晩年は言いすぎだったかも。
しかし歳がかなり離れているのは事実。
弟の数は、一夫多妻ならば考えられる事。
尊卑分脈にて年齢差は確認されたし。
>>38 熊野社の別当?か神主の娘と源 為義の間の子。
熊野信仰の修験ル−トが怪しまれないから白羽
の矢が立ったのでは?
我が家の家系図によれば、源氏は清和帝の流れでも、皇族の庶子でもない。
紀元5世紀ころより関東にいた、もっぱら牧畜を生業とする部族だった。
関東には大河多く、よって「水もと」(ミナモト)と称した。
奈良朝・平安初期、関東以北を制せんとする朝廷が、この馬賊勢力を取り込まんが為、
都より王子(名は不明)を遣わした。それも、清和の御代のみならず、前後して最低2人の王子が下向している。奈良朝時代にも、少なくとも一人はいた模様。
その王子の落胤と言えば、その血が混じった可能性はある。
だが、のちに源氏と称される勢力は、すでに関東にあったという事だ。
7世紀には、国造が増えていさかいが増えたが、彼らは水田耕作の民。
我らは、牧畜の徒であった為、直接の交流は無かった。
朝廷も、米作収入を期待できないこの部族には、興味が少なかった様である。
関東の源氏と北摂能勢源氏はこれと血流を同じくするが、それ以外の源氏に関しては、
別系統かもしれない。その当時、神社祠の合祀のように、辺辺の氏族がまとめられた。
朝廷が姓を与える事で、中央の天皇を頂とする構造に取り込んだのである。
ここからは私の推測になるのだが・・・。
この部族は、どうも新潟あたりから入り、関東の地に根を下ろした様だ。
それ以前となると、海の向こう・・・と言うことになると思う。
私は、北方騎馬民族系とは思っていない。どちらかと言えば、トルコ系遊牧民族。
その出自はアーリア人で、出発地をイラン高原とし、南方経由で陸水流浪したあげく、
日本の地に上陸したのではないかと思っている。
47 :
日本@名無史さん:02/05/25 00:14
>46
嘘ではない、家系図がある。
48 :
日本@名無史さん:02/05/25 00:32
49 :
日本@名無史さん:02/05/25 01:25
50 :
日本@名無史さん:02/05/25 02:22
源電波終子
源氏の血筋は彼女だけとなった
51 :
日本@名無史さん:02/05/25 15:05
保持
52 :
日本@名無史さん:02/05/25 18:10
幕末最強は会津です!
スレたてようかな。。。
53 :
日本@名無史さん:02/05/25 18:16
>45
中世においては、こんな意味不明で公の歴史にそぐわない物も、それなりに許容されていた。
明治の宗教政策以降ですよ、上も下も教科書どおりの正史を信じきっているのは。
中世においては、公は公の歴史観、民には民の歴史観が許されたものです。
判然としない魑魅魍魎をまつる神社が、実際にはどれだけ多い事か、
全部の神社が天照の神の系図に繋がる筈がないでしょ。
54 :
日本@名無史さん:02/05/25 18:56
秀吉につながる神社もあるな。魑魅魍魎ですか?
55 :
日本@名無史さん:02/05/26 00:09
>54
各地に分布する神社というものは、古いものは、その土地のかっての支配者・族長級を祭ったものだ。
そして、本来の存在意義が忘れられ、都の縁もゆかりもない神を祭らされている。
(平安期の合祀政策、明治期の統一神道政策)
だから、元々祭っていた神(氏族霊)は、中世期には神社側も理解できなくなっていた。
その何か解らぬ、されど神社に明らかに伝わっている神を、そのまま祭り伝えた。
多くは、都の神々と合祀される形で。
私が魑魅魍魎を祭る神社と言ったのは、そんな忘れられた神を祭り伝えている御社の事だ。
中国系の中臣・藤原氏でさえ、その先祖を天小屋根命という、天照の神の系図につらなる出自とされている。
56 :
日本@名無史さん:02/05/26 02:35
>>古いものは、その土地のかっての支配者・族長級を祭ったものだ。
近世の神社もほとんど同じだと思うけどな。戦国武将や大名があちこちで祀られている。
古代の神道と近世の神道、それに近代の神道はほとんど同じ物であって、
先祖崇拝がその正体だ。
57 :
日本@名無史さん:02/05/26 02:42
近代の神道は天皇崇拝だろ
58 :
日本@名無史さん:02/05/26 04:17
摂津源氏の中には、源姓の系統と、多田の苗字の系統があります。
源頼政と多田行綱が代表例ですが、この二つの系統の関係は、
摂津源氏の中では、どうなっていたのでしょうか。
59 :
日本@名無史さん:02/05/26 09:43
氏長者となった頼朝が、多田行綱を勘当したとかなんとか…
なんの本だったかな
60 :
日本@名無史さん:02/05/26 18:08
>>59 それは頼朝が、義経と多田行綱が手を結ぶことを嫌ったから。
多田党は、源平合戦では行綱以下、義経の傘下にあったから。
58が訊いているのは、源三位頼政と多田行綱の摂津源氏内部での関係。
摂津源氏は最高だよ
63 :
日本@名無史さん:02/05/27 19:20
摂津源氏の中でも、多田の苗字の方は、満仲以来の源氏の本拠地の多田に土着する傾向を持ち、
多田の近隣に多田源氏の武士団を形成したのに対して、京にあって大内守護の任にあった源姓の
系統は、摂津渡辺党を傘下にしていた。
つまり、多田行綱は、多田土着の武士を郎党としていたのに対して、源頼政は、渡辺綱以来の渡辺党
の武士を郎党化していた。
>>23
学士&研究生論文が大和源氏だったから少しは
語れるが、スレ違いなので・・・。
とにかく配流が多い。頼親の母方なんてヤバ過ぎ。
坂田金時(金太郎)と合戦して勝利なんて地方伝説
には笑った。
65 :
日本@名無史さん:02/05/28 07:13
平安末期には土着した武士は地名を名乗り、
中央で比較的高い官位に付いたものは本姓(源、平、藤原など)を名乗った。
鎌倉期になると、北条、足利のように、朝廷の権威が相対的に低下し、
本姓を名乗らず、地名(苗字??)を名乗るようになった、
と理解してよろしいか?
66 :
日本@名無史さん:02/05/28 08:51
>65
「地名」を名乗り始めた藤原氏はどうなるねん?
67 :
日本@名無史さん:02/05/28 09:24
てst
68 :
日本@名無史さん:02/05/28 15:45
摂津源氏で一番出世した人物って誰?
頼光兄弟や二代・三代目あたりは中央での官職を得たり
国司に任官しても受領の数をこなして財を残し在京したが
国司の任期中に国内に所領を得たり、在地領主と姻戚関係・
主従関係を持って、子や孫が土着し武士団を形成し、後には
国司の任期(秩)を満了(秩満)しても帰京せず、任国に
居住土着して武士団を形成しました。
そして所領地名を苗字とし、庶流は更に所領地が細分化され
字名を苗字としました。(大和源氏・石川氏流が好例)
摂津源氏は最高だよ
71 :
日本@名無史さん:02/06/06 21:27
dfghjkl;:@[]
72 :
日本@名無史さん:02/06/08 03:19
>>64 スレ違いでもいいので、語っていただけると嬉しいです。
実際、清和源氏で何か書かれた本は、ほとんどが頼義、義家の血統について述べたものですし。
>>72
取り合えず大和源氏祖「源頼親」に関しては下記の論文が
ありますが今となっては入手は困難かも。
1 朧谷寿 「大和守源頼親伝」(「古代学」17−2)
源頼親に関する研究です。
2 永島福太郎 「古代末期における武士の一考察 頼親流源氏
大和宇野氏の場合」(「人文論究」11−2)
大和源氏宇野氏の研究です。
3 窪田敏文 「大和源氏宇野氏」(個人出版)
大和源氏宇野氏の研究です。
4 高木正順 「源頼親とその外戚の影響」(「家系研究」3)
源頼親・頼信兄弟の外祖父「藤原致忠」と伯父である
「斉明」「保昌」「保輔(袴垂保輔)」兄弟に関する
論文です。
「奈良県史全18巻」(名著出版)の中で10巻「荘園」と11巻
「大和武士」は入手出来ると思いますが読むのが面倒な方の為に
管見の限りではありますが少しづつ書き込みます。また御不明な点が
あれば逐次説明いたします。
頼光の母は嵯峨源氏近江守源俊の娘であるが、頼光と20歳ほど
離れてる頼親・頼信の母は藤原南家出身の左衛門権佐藤原致忠の
娘で、兄弟に斉明(ときあきら)・保輔と云う「今昔物語」や
「宇治拾遺物語」に書かれている盗賊や伯父・甥でありながら
頼親のライバルであった保昌がおります。
致忠の父である大納言正三位民部卿の元方は娘の祐姫を村上天皇
の更衣に入内させ広平親王の外祖父となりましたが、右大臣師輔
の娘の安子が産んだ憲平親王が東宮となり元方は失意の元に死に
怨霊となった事は、映画「陰陽師」にも描かれてますね。
以後この家の公卿としての道は絶たれ、通貴(四位五位の中級
貴族)としての道を歩みます。
>少将さま
興味深い話、ありがとうございます。
また時間のある時に、折を見て書き込んでください。
頼親・頼信兄弟は共に武勇に優れた軍事貴族ではあるが、弟の頼信が
武士団の歴史の表舞台なら兄の頼親は、まさに裏舞台の主役であった。
その辺りを外戚である藤原致忠一家を知る事で、頼親が兄の頼光や弟の
頼信とは違う事の理解に繋がると思います。
外祖父 藤原致忠 左衛門権佐・右馬権頭・備後守に任官。
長保元年(999)8月に散位致忠は美濃国に下向する際に
前相模守橘輔政の子息の橘惟頼と彼の郎党2名を私怨から
射殺して、長保2年に佐渡に配流され、重罪の為に配所に
おいても拘禁されたまま一生を終えた。
77 :
日本@名無史さん:02/06/10 00:40
一連のレスによって、麿は少将殿を御上として奉じたくおじゃる
頼親・頼信兄弟のDQNな叔父たる左兵衛尉斉明と右京亮保輔は、
共に従五位下の歴とした官人でありながら「追討の宣旨を受ける事
十五度」と尊卑分脈に記載されるほどの大盗賊。
斉明・保輔兄弟の事件の詳細は下記の書籍に書いてあります。
「日本の歴史 第五巻 王朝の貴族」(中央公論社)土田直鎮
「日本の歴史 第五巻 平安貴族」(研秀出版)
寛和元年(985)正月6日に弾正少弼大江匡衡を襲った斉明は
同年4月22日に近江国高島郡にて前播磨掾惟文王に射殺された。
「続古事談」によれば保輔は兄の逮捕後に部下の足羽忠信に密告
されて、同年6月16日に逮捕の際に切腹し自ら腸を引き出した
が死ねず獄中にて翌日死亡。まさにガクガクブルブルである。
斉明・保輔兄弟の年齢は30代前後で、甥の頼親・頼信兄弟は
20前後で幼い時より接していた叔父たちの最後にはショックを
受けたであろう。
「日本の歴史」(研秀出版)の「第五巻」は「第四巻」の
間違いでした。
80 :
日本@名無史さん:02/06/11 23:15
>少将さま
質問です。藤原致忠は相当なDQN(息子よりはマシ?)だったようですが、
多田満仲が彼の女婿となったのは、一体どういう経緯だったのでしょうか?
無頼派のようでいて、さりげなく闇の有力者だったんですかねぇ>致忠
>80
満仲が致忠の娘と結婚した時は既に50歳前後だと思われ
長男の頼光は20歳前後。嫁の実家を後ろ盾にする年では
なく、満仲が致忠に娘さんをくださいと云うよりも致忠が
娘を嫁にしてくださいと云ったのではないでしょうか?
その当時(950〜60年代)朝廷内では、右大臣藤原
師輔が醍醐源氏源高明の博学多識に惚れ込み娘を嫁がせ
後ろ盾となり引き立ててました。
それに批判的だったのが師輔の弟の師尹と師輔の三人の
息子である伊尹・兼通・兼家です。
満仲は兼家の部下であり、致忠にとって右大臣師輔は
父である大納言元方の仇です。また致忠は生まれ育った
邸宅を兼通の子である閑院大将朝光に譲っており、兼通
と関係があったと思われ、致忠から話を持っていったと
思われます。この時点では藤原三兄弟のうち誰が権力を
握るか分からないので満仲としては兼通とも致忠を通じ
関係を結ぶ為に致忠の娘と結婚したと思われます。
娘も家柄も大納言家で良いし、美人だったろうし。
藤原致忠次男の保昌は兄弟二人が天下の大盗賊なのに「小右記」
「今昔物語」によれば盗賊追討で名を馳せ、左大臣道長の家司で
正四位下。妻は和泉式部。
源頼親とは叔父甥と云うよりライバルって感じ。
1 共に左大臣藤原道長の部下。
2 保昌は左馬頭、頼親は右馬頭。
3 共に大和守に三回以上任官し大和国内の私領や郎等の件で争う。
保昌は源頼光の大江山の酒呑童子退治にも加勢したと御伽草子にも
書かれており、実際も頼光とは盗賊の追討追捕で協力しあったであろう。
「御伽草子」に書かれてる頼光の大江山の酒呑童子退治の話は、
頼光の盗賊追討の実話を元に作られた創作話であろうが、その
創作話である酒呑童子退治には何と後日談があります。
「古記肯搆泉達録」によれば、酒呑童子を退治して頼光は勿論
の事、頼光の部下たる四天王の渡辺綱・坂田金時・碓井定光・
卜部季武もその武勇から都で評判になりました。
それを心良く思わない頼親は彼等四天王の悪口を云いふらす。
いくら主人である頼光公の弟であろうと許せないと坂田金時と
卜部季武は近江国にいる兵を集め、越前国霧ヶ峰に陣を張った。
一方、頼親は霧ヶ峰から栃ヶ峠に長い橋を渡して石や弓矢を
用意して待ち伏せ。そこへ坂田金時が攻め込み、卜部季武は
頼親の背後を突くが百戦錬磨の頼親には勝てず、越中立山の麓
に逃げ込んだとあります。
伝説の伝説にまでも頼親が嫉妬深く書かれてるが、坂田・卜部を
戦術的に破った頼親の武将ぶりも書かれており、頼親>金太郎>熊。
破った
84 :
日本@名無史さん:02/06/17 01:09
百戦錬磨の頼親…(・∀・)イイ!!
85 :
日本@名無史さん:02/06/17 02:28
頼親>金太郎>熊
ワラタ
86 :
日本@名無史さん:02/06/17 22:06
子供の頃読んだ歴史物語では、やっぱり頼親は悪役だった。
彼の長命について「悪人ほど長生きする」なんて結ばれてたっけ。
確かに憎まれ役のイメージ強いけど、実像はどうだったのかな?
おっしゃる通り現在の基準では、かなりの悪人でしょう。
当時の受領としても尾張守藤原元命や「受領は倒るる所の
土をつかめ」の藤原陳忠より悪いと云われれば悪い。
がしかし悪行がばれた時の立ち回りが非常に上手い。
大和守には三回任官して三回とも途中で辞めさせられてるが
普通なら一回辞めさせられたら二回目の任官なんて無理。
また頼親の命令で郎等が白昼に都の町中で清原致信の家を襲って
致信を殺した事件でも頼親は右馬頭と淡路守を辞めただけで済ませ
道長も御堂関白記に頼親殺人上手なりと書いている。
これは都の警備の薄い後一条天皇の石清水八幡宮行幸の日を襲撃の
日に選んだ計画性と首謀者が誰かはすぐに判明するので犯行後に
軽い処分で済ませるようにする能力をもって、道長は頼親を
「殺人上手」と日記に書いたのだろう。
ちなみに頼親に殺された清原致信は、頼親と対立してた叔父の
藤原保昌の郎等で、何と!清少納言の兄弟です。
どうです皆さん凄いでしょ。金太郎はやっつけるわ、清少納言の
兄弟は殺すわとやりたい放題の頼親です。
88 :
日本@名無史さん:02/06/18 09:30
これからは頼親先生と呼びたい
頼親の息子と云えば次男の頼房(宇野氏)か三男の頼遠(石川氏)
が清和源氏マニアの間では知られているだろうが、嫡男の頼成には
頼親の父親としての意外な一面を知るエピソードがあります。
「御堂関白記」「小右記」「左経記」によれば、頼成は大学寮に
入学し、寮試にも合格して擬文章生となり、寛仁2年(1018)
に文章生になる為に式部省の省試(漢詩)を受験しました。
判定会議にて文章博士藤原廣業は、頼成の漢詩を撰上(合格)
しましたが、頼成の漢詩には詩題の「翠松無改色」の「無」の字が
書き落としてる事が判明。
しかし廣業は「無」の字が落ちてても詩自体は大変優れているので
撰上したと云ったが、会議の結果は頼成は撰上から外され、代わり
に紀重利が撰上された。
この判定に対して頼成は「私は無の一字を書き落とし落第したが
紀重利は無と改の二字を書き落とし及第してます。」と訴えた。
そして父親の頼親も道長に直接訴え、道長が左大臣藤原顕光に
紀重利の詩を見せるように命じると顕光は「紀重利の撰上は既に
決まった事」と拒んだ。これに激怒した道長は顕光を叱りつけ
重利の詩を持って来させ見た所、確かに無と改の字が書き落とし
てあり、紀重利も落第となった。
そして後日、頼親は落第した頼成をどうにかしてくれと道長に
頼んだと云う。文章生はダメだったらしいが以後、左衛門尉・
六位蔵人・五位蔵人・肥後守と出世しました。
この話の登場人物から考えて随分とスケールの大きな頼親の
親ばか振りです。
「摂津源氏」と云えば頼光、「大和源氏」と云えば頼親ですが、
それは後の一族の本領や所領の分布を以て分類したと思われ、
大和源氏の祖たる頼親は摂津国豊島(現在の伊丹空港近辺)に
邸宅を構え、摂津国内に多大な所領を持っていました。
「小右記」長和3年(1014)2月16日の日記によれば、
藤原佐光が摂津守を辞任した為に欠員が出来、代替国司として
道長が右馬頭頼親を三条天皇に推挙し奏上しました。
しかし日頃から道長を心良く思わない三条天皇は即答を避けて
同じ反道長派の権中納言右衛門督藤原懐平に命じ、懐平の弟の
小野宮大納言実資に三条天皇の考えを伝えた。
「道長が頼親を欠員の摂津守の代替国司に推挙して来たが、
頼親は摂津国に住み所領も多く在地土豪のようである。
一条天皇の時に平維衡(伊勢平氏祖)が伊勢守に任官した際に
伊勢国住人の訴えで停任されたが、その時に道長は任地国に
多大の所領を持つ者をその国の国司に任じた為だと避難した。
そこで道長が摂津国に多大な所領を持つ頼親を摂津守に推挙
してるので、伊勢守平維衡の先例を云おうと思うがどうだろう。
私は大将(実資)意見を聞いた上で道長に云うつもりである。」
反道長派の実資は三条天皇の考えに同意して、三条天皇は道長に
そう答えて、頼親の摂津守任官はならなかった。
任官してれば頼親が「摂津源氏」の祖だったかもしれない。
92 :
多田神社近所住民:02/06/20 11:53
多田神社はマターリしていていいよ。
多田神社には2回ほど行きましたが、本殿に祭られてるのは
「満仲」「頼光」「頼信」「頼義」「義家」で「頼親」は
祭られて無いんですね。
川西市観光協会主催の「源氏祭」の行列には「金太郎」や
「酒呑童子」はいるのに、ここでも頼親の姿は無し。
関係無いけど、壺井八幡宮もヒソーリマターリとしててよい。
道長の推挙を受けながら三条天皇の反対で摂津守に任官
出来無かった右馬頭頼親は、右馬頭の役目である賀茂祭
の祭使を病気を理由に辞退し、三条天皇の行幸に伴って
催す事となった競馬もこれまた病気を理由に欠席。
これって絶対に三条天皇への当て付けの仮病です。
競馬の欠席から一ヶ月後に越後・備後の二ヶ国に国司の
欠員が出来るやいなや頼親は申文を提出してますからね。
残念ながら今回も越後・備後の国司になれず。
しかし翌年の長和四年には右馬頭と兼任で淡路守に任官。
淡路国は下国(四等国)で淡路守は従六位下に相当し、
利益目的の遙任国司がみえみえです。
96 :
日本@名無史さん:02/06/21 00:03
有給の半分以上を仮病で休んだ漏れですが、頼親先生を師と呼びたい。
大和源氏を祖とする諸氏。意外な人が大和源氏だった。
参考史料資料文献
尊卑分脈・寛政重修諸家譜・姓氏家系大辞典・日本紋章学・
大和源氏宇野氏系図・奈良県史・宇智郡誌・北宇智村誌・
五条市史・福島県史・越知家譜伝・遠智家譜伝・江川家系譜
抜書・石川家譜略・大寺系図・清和源氏隈部家代々物語・
高木家譜・源流無尽・小県郡誌・芸藩家士録・系図綱要
嫡男 頼成流
三宮・麻生・粟田口・八条・戸坂・久留野。
次男 頼房流
荒加賀・法華経・加賀・竹田・峯田・嶺田・峰田・宇野・広瀬・
花村・江川・入野屋・入屋・福田・長谷川・橘田・名川・沢井・
川尻・宮永・小倉・片山・隈部・富田・仲光・中富・阿佐古・
長野・諸富・宮本・土方・大森・辛川・宇川・村垣・豊島・高木・
槇野・真木野・真木野・依田・鞠子・三箇・佐賀・寺内・佐々木・
杉岡・奥村・奥・幸田・阿多賀・近内・朝日・大島・大鳥・曲淵・
若狭・陸奥・愛子・一所・岩井・石井・岩竹・大野・楊淵・若梅・
太田・越知・遠智・鹿野園・堤・方場・下・忌部・奥田・吉岡・
楢原・防城・若肌・大県・壬生屋・真弓・八蔵・玉出・三田村・
井口・米田・田中・伊木・板鼻・平原。
次男 頼房流 追加 入野谷・
訂正 真木野はダブりで牧野。
削除 楊淵・若梅
三男 頼遠流
石川・石河・福原・柳津・川尻・大寺・坂路・蒲田・矢吹・
沢臣・沢田・竹貫・小高・奈目津・赤坂・赤羽・沢井・成田・
市橋・戸田・板橋・小平・面川・白石・吉田・依田・上館・
泉・又高。
四男 頼基流
田村・白川・二河・入江田・麻生。
出自不明
井関・大和・盛田・岸本・美濃。
追加資料文献 角田市史別巻1石川氏一千年史
以上興味のある一族がおられたら説明します。
何かと生年没年があやふやな清和源氏であるが、頼親の生年も
はっきりとせず、六つの説があります。
1 天暦八年(954)正月22日説
「大日本人名辞書」 宇野氏の系図を基にしている。
2 応和三年(963)9月13日説
「大寺系図」に記されている頼親の生年。
3 康保三年(966)9月13日説
「石川氏一千年史」の頼親の父、多田満仲の条に記されて
頼親の生年。
4 安和元年(968)説
「石川系図」に記されて頼親の没年より逆算した生年。
5 安和三年(970)9月13日説
「大寺系図」に記された応和三年を後世、安和三年に訂正。
6 天禄二年(971)説
「石川氏一千年史」の頼親の没年から逆算した生年。
さあて頼親の生年どれが正しいかだが、取り合えず弟の頼信の
生年から頼親の生年の下限を調べようとしたら頼信の生年も
四説ありました。
1 長保元年(999)〜康平二年(1059)享年60歳
2 長保二年(1000)〜康平三年(1060)享年60歳
3 永延二年(988)〜永承三年(1048)享年60歳
4 康保四年(967)〜永承三年(1048)享年81歳
さあて1〜4、どれが正しいかだが1〜3は享年が等しく60歳だし
生年の誤差も12歳だから取り合えず1〜3に正解がありそう。
4は享年81歳って長生き過ぎるし。と思いきや正解は4番。
「小右記」に頼信が永延元年(987)春に叙位されたと云う
記事があり長保・永延生年説は消えたのです。
と云う事で頼信の同母兄である頼親は康保四年(967)以前
の生まれとなり、応和三年(963)9月13日が生年とみます。
まぁ年子の可能性もあるから康保三年(966)説も採用しとこう。
摂津源氏の皆様、本スレの摂津源氏について語って下さい。
私は多田神社発刊の「現代語訳 多田五代記」を持ってますが
摂津源氏ファンの皆様は読んだ事はありますか?
また多田神社を中心とした「清和源氏同族会」があるそうですが
会員の方はいらっしゃいますか?
源頼親の生涯
1 康保元年(964)〜3年(966)に頼親誕生。
2 正暦年間(990〜995)周防介任官と思われる。
3 正暦5年(994)3月6日、叔父源満正、弟頼信と共に
盗賊捜索に参加。
4 長徳2年(996)4月、藤原伊周・隆家兄弟追捕の為に
兄頼光と共に参内。
5 寛弘3年(1006)春の除目で大和守任官。
6 寛弘3年6月20日、大和守頼親が興福寺の乱暴を訴える。
7 寛弘3年7月13日、興福寺大衆が大内裏・八省・道長邸に強訴。
8 寛弘4年(1007)2月10日、興福寺近辺にて春日詣での帰りに
頼親が何者かに襲撃される。
9 寛弘4年2月30日、藤原行成より馬を給わる。
10 寛弘4年5月30日、道長に料理を献上する。
11 寛弘4年8月13日、道長の大和・金峰山参詣の帰途に
食事や船の用意をする。
12 寛弘4年11月10日、春日祭に参加。
13 寛弘5年(1008)11月1日、道長外孫の敦成親王の
五十日儀に肴や菓子を奉仕。
14 寛弘6年(1009)3月、大和守を辞任。
15 長和2年(1013)8月27日、道長に銀で飾った櫃物
十合を奉仕する。
16 長和3年(1014)、右馬頭に任官。
17 長和3年2月16日、摂津守欠員により道長の推挙を受けるが
三条天皇の反対にて任官出来ず。
18 長和3年4月18日、賀茂祭の祭使を病気を理由に辞退。
19 長和3年5月16日、病気を理由に競馬に不参加。
20 長和3年6月17日、欠員の越後・備後守を希望するも
任官出来ず。
かなり抜けてるよ、例えば
長和元年閏十月廿七日 大嘗会御禊前駆
あるいは、長和二年八月廿七日は、
禎子内親王五十日儀に折櫃奉仕
21 長和4年(1015)淡路守に任官、右馬頭を兼任。
22 寛仁元年(1017)3月15日、郎等秦氏元に命じて
清原致信を殺害させた罪により右馬頭・淡路守を解官。
23 寛仁元年12月26日、淡路守の時の賀茂神社斎院の
禊祭料の勘文について小野宮実資に小一時間ほど問われる。
24 寛仁3年(1019)正月23日、春の除目にて淡路守に再任。
25 長元元年(1028)9月27日、秋の除目にて再び摂津守を
希望するが任官出来ず。
26 長元2年(1029)春の除目にて大和守に再任される。
27 長元4年(1031)正月26日、頼親郎等の散位宣孝が
大和国の僧道覚を殴打した為に道覚が訴える。
28 長元4年3月19日、実資に志として絲十絢を贈る。
29 長元4年7月6日、実資に志として絲十絢と紅花二十斤を贈る。
30 長元4年8月29日、頼親郎等の典薬充致親が事件を起こし
頼親が致親を匿い出頭させなかった為に大和守を解官される。
>>104
御教授、誠にありがとうございます。
それにしても下がりぱなしで不安だったが読んでる方が
おり安心しました。
以後も何か訂正すべき事があれば、教えてくださいませ。
なんか安心したので今夜は寝ます。ありがとうございました。
107 :
日本@名無史さん:02/07/15 03:15
>>101 私は地元民ですが
先祖は多田御家人だったそうです。
108 :
日本@名無史さん:02/07/15 06:19
摂津源氏の流れを汲む土岐太郎光信の後裔です。
109 :
日本@名無史さん:02/07/21 23:35
>17 長和3年2月16日、摂津守欠員により道長の推挙を受けるが
> 三条天皇の反対にて任官出来ず。
道長―三条の関係上、単に道長の推した人物を三条が受けなかった、
というだけのハナシなのか、それとも頼親の人格が致命傷だったのか、
興味のある所ではある。
摂津源氏は、
清和源氏の嫡流
源家の正系だね。
>109
この場合、頼親の人格と云うより三条天皇としては、向かう所敵無しの
道長の推挙を受けた道長の股肱の忠臣たる頼親の摂津守任官を先例を
もって反対して、道長の面子を潰すのが目的と私は思います。
上手くすれば道長べったりの頼親が「ケッ!道長の親分もたいした事
ねぇーな。」と思ったら、多少の効果はあったと思われる。
げんに頼親は以後、道長と対抗していた小野宮実資に相談に行ったり
贈り物をして近づいている。
勿論それは道長への離反ではなく、対抗勢力にも近づいておこうと
学習したのでしょう。
112 :
日本@名無史さん:02/07/31 12:39
これは良いスレだ。
摂津源氏の歴史について教えて下さい。
大和源氏の子孫に井上氏がいる。
宇野七郎さん、大和源氏井上氏とは初耳です。
詳しくお教え下さい。お願いします。
美濃土岐氏は摂津源氏なの?
117 :
日本@名無史さん:02/08/06 03:46
満仲の弟満政の子孫を美濃源氏というそうなんですが、
土岐氏は美濃源氏って言わないんですか?
118 :
日本@名無史さん :02/08/06 03:52
土岐氏は美濃源氏だけれど、摂津源氏の出。
源頼政の一族が宇治で滅びた後、摂津源氏の嫡流は
土岐光信が継ぎ、美濃へ移り美濃源氏になる。
つまり、土岐氏流の美濃源氏は、摂津源氏の一派。
119 :
日本@名無史さん :02/08/06 22:15
摂津源氏は兵庫県
河内源氏は大阪府
奈良県の大和源氏の話をしよう。
120 :
日本@名無史さん:02/08/07 03:34
源氏は、もとはみんな関西なんですね。
121 :
日本@名無史さん:02/08/07 19:54
そうだよ、
源氏は関西
平氏は関東
関西の源氏で、大阪の河内源氏が関東に進出し、関東の平氏の棟梁になる。
関東の平氏の一派が関西に移り、三重の伊勢平氏になる。
土岐源氏は怪しいって解説してたサイトあり
123 :
日本@名無史さん:02/08/07 22:05
さたけたけだひらがあしかがにった・・・
いっぱいいるじゃん。
124 :
日本@名無史さん:02/08/08 11:04
>>122 何が怪しいのさ?
そんな漠然としたこと書いても話、通じないよ。
125 :
日本@名無史さん:02/08/08 11:07
126 :
日本@名無史さん:02/08/08 16:22
大阪河内地方には北条政子とゆかりが深い所が多い。
やっぱし源氏との関連?でも北条は平家じゃなかったっけ・・・。
127 :
日本@名無史さん:02/08/09 16:13
摂津源氏って多田行仲とかでしょう。
なんか根性なしというか陰湿な感じだよな
裏切り者
頼朝に勘当されたんだよね
129 :
日本@名無史さん:02/08/10 07:44
130 :
日本@名無史さん:02/08/10 22:49
坂田金時が足柄山からどうゆういきさつで頼光に仕えることになった
のか物語ってホスイ。育ててくれたおばあさんかお母さんの言いつけ
で都に行くという童話を読んだかすかな記憶が・・・
131 :
日本@名無史さん:02/08/11 04:59
すいません漏れ保昌の子孫です。
>>130
金太郎伝説は全国に20ヶ所前後あり、出生地もいくつかありますが
基本的に源頼光が関東・奥州の帰り道に山の中で頼光と出会い、腕を
認められて上京と云うパターンです。
岡山県勝田郡勝央町の伝説によれば、坂田公時は21才の時に頼光に
見出され上京し、酒呑童子退治に参加後に九州の暴徒鎮圧の為に播州
より作州路に向かうが美作国にて寒さと雪に阻まれて勝田荘にて滞在。
この時に公時は重い熱病に罹り、頼光らの看病の甲斐無く寛弘七年
(1010)12月15日、55才にて死去。と云う随分と具体的な
伝説が残されてます。他にも多説いろいろ。
もっと詳しく知りたいならば、「金太郎・山姥伝承地調査研究会」が
全国21ヶ所の金太郎伝説をまとめた本を発刊したのでお読みになる
のが宜しいと思います。
問い合わせは、神奈川県南足柄市教育委員会生涯学習課市史編纂事務所
0465(73)8002の笠間吉高氏まで。
B5・P288・500部発行・一冊千円です。
この金太郎伝説、頼光が関わってるので卒論に面白そうだ。
四天王の出身地や所領など絡ませマジでやればいけるな。
133 :
日本@名無史さん:02/08/19 01:38
>>126 北条は平家でなく平氏だよ。違いはわかるよな。
>132
500部発行と言うところに、ある意味敷居の高さを感じるのですが…
>>134
昼間は涼しい図書館で閲覧し、メモるかコピー。
夜は箱根で一泊し温泉に入浴。
身分を証明し研究内容を話せば、教育委員会の人って結構
親切に対応してくれますので直接話を聞くも良し。
昔、福島県石川町に頼親流石川氏の系図を郷土資料館に閲覧しに
行ったら、教育委員会の人が膨大な史料を短時間で閲覧するのも
大変だろうと云い、系図を二巻(百枚ぐらい)無料でコピーして
くれました。この場合、系図だったので版権に問題なしだが
書籍となると何回かに分けてコピーする。
それにしても、こうして書いているうちに私もこの本が読みたくなった。
>>126
大阪河内に北条政子のどんな史跡があるか私は分かりませんが
北条氏の子孫を名乗る小田原の後北条氏五代の子孫たる河内国
狭山藩一万一千石の北条家によるものではないでしょうか。
なお河内国内のもう一つの小藩である丹南藩一万国の高木家は
源頼親七世の八条院蔵人判官代高木信光の子孫です。
age
源家嫡流は摂津源氏なの?
139 :
日本@名無史さん:02/09/05 22:59
塩川君
140 :
日本@名無史さん:02/09/05 23:01
141 :
日本@名無史さん:02/09/05 23:09
142 :
日本@名無史さん:02/09/05 23:11
143 :
日本@名無史さん:02/09/06 11:55
多田君の自作自演に釣られないように。
145 :
日本@名無史さん:02/09/06 14:59
源尊氏だろうね
146 :
日本@名無史さん:02/09/06 21:51
能勢君は本当に多田源氏の流れなの?
多田周辺の在地領主はほとんど自称しとるわな
149 :
日本@名無史さん:02/09/07 22:46
江戸時代まで残った大名・旗本で摂津源氏の嫡流に限りなく近いのはどの家ですかね?
詐称じゃなくて。
150 :
日本@名無史さん:02/09/07 23:13
>>149 平岡、下間、大河内あたりかな。詐称かどうかは難しいけど
151 :
日本@名無史さん:02/09/07 23:43
平岡は詐称っぽいような・・・
小早川の家老の子孫だよね?
152 :
日本@名無史さん:02/09/08 00:21
旗本に多田っているけどこれは?
153 :
日本@名無史さん:02/09/08 02:41
下間は詐称かしら?下間頼廉だよね
154 :
日本@名無史さん:02/09/13 01:03
池田氏も自称摂津源氏だね。
155 :
ちょっといいですか:02/09/13 01:09
私は、非キリスト教徒であります。
心と宗教版で、キリシタンたちが、江戸時代、京都庶民は天皇を
知らなかったとか、とんでもないバカなことを言って困っております。
誰か、論破してくれませんか?
なぜ教会に反日がはびこったのかその3
ここです。みなさんでバカなキリスト狂徒を笑ってください。
156 :
日本@名無史さん:02/09/13 05:08
摂津の池田氏って江戸時代は幕臣として続いたの?
岡山や鳥取の系統じゃなくて池田領主の方の。
157 :
日本@名無史さん:
池田重成が行方不明になってからは消息も不明。