友人曰く「信長の鉄砲隊は世界最強の軍隊だった」

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1日本@名無史さん
「ウソだろ?どうやって比較するんだよ!最弱の間違いじゃないの?」
と返しました。
でもちょっと気になる。そのへんどうなのよ?アポー
2日本@名無史さん:02/05/01 06:18
はい、質・量ともに嘘です。
というか、根拠不明なんで論駁しようがない。
3日本@名無史さん:02/05/01 07:22
そんなことなかっぺー。おらのじいさまがいきてたときはよーそんなこといってなかったっぺー。
4日本@名無史さん:02/05/01 08:16
その当時ヨーロッパ最大の鉄砲保有国フランス 3000丁
信長 長篠の戦い 3000丁
鉄砲の保有数から見れば当時世界最強レベル
5日本@名無史さん:02/05/01 08:18
日本軍は統率が取れまくりでぐちゃぐちゃの集団戦になったら
わりと行けただろうが、当時すでに砲兵火力ではずいぶん差が出ている
から、アウトレンジでボコボコにされたのでわ?

でも日本国内だったら、山がちの地形で砲はなかなか役に立たないから
そうそう侵略はされなかったよーな気もする。
どこでどのように戦争をするか、を決めないとはっきりと言えないね。
6日本@名無史さん:02/05/01 09:08
鉄船、人類最初に構築した>信長タン
当時ヨーロッパよりも相当遅れていた日本(日本人)で
日本一ではなく世界一だからすごいね


7日本@名無史さん:02/05/01 09:16
チェリニョーラの戦いでコルドバが動員した鉄砲が2000だと
いうのに、フランスが「全軍で3000挺」というのは集計
おかしくない?

ちなみに長篠の時の信長は「1000挺」でしょう。
それに「鉄船」も実在が怪しいし。
8日本@名無史さん:02/05/01 09:30
>怪しい
「怪しい」って言葉が通じたら歴史もへったくれもねーよヴォケ
9日本@名無史さん:02/05/01 09:32
>>8
根拠のあやふやなもんが通用したら歴史もへったくれもねーよボケ
10日本@名無史さん:02/05/01 09:52
>当時ヨーロッパよりも相当遅れていた日本(日本人)で

>>6さん、この根拠はどこから出てきたのですか?何と比較して遅れていたのかを、
比較対象と根拠を是非とも知りたい。
11日本@名無史さん:02/05/01 09:53
>>7
>ちなみに長篠の時の信長は「1000挺」でしょう。
まじ?ソースきぼんぬ。
12日本@名無史さん:02/05/01 09:55
ヴォケぐれーヴォケって書けヴォケ
13日本@名無史さん:02/05/01 09:57
>>11
『信長公記』

>>12
くだらんツッコミすんなやボケ
14日本@名無史さん:02/05/01 10:09
>>10
まっ色々あるだろうが例えば文明の物差しである技術面で1つ例を
上げるとすれば、1769年にフランスのキュノーが
砲車を引くための蒸気機関を用いた牽引車
を作ったのが自動車の起こりといわれている。など・・・。
当時の日本には蒸気機関という技術さえもなかった
15日本@名無史さん:02/05/01 10:10
>>14
鎖国中の事例はあんまり説得力無い・・・・
16日本@名無史さん:02/05/01 10:11
>>13
sonngurai長瀬やヴォケ
17日本@名無史さん:02/05/01 10:14
つうか佐竹対北条の戦いの話なのに差
18日本@名無史さん:02/05/01 10:14
>>15
じゃぁチミの思った通りにすればいいんじゃねーの?
19日本@名無史さん:02/05/01 10:17
>>14
江戸時代の科学技術論?
20日本@名無史さん:02/05/01 10:31
鉄砲伝来までネジを知らなかったとか・・・
21日本@名無史さん:02/05/01 10:49
>>20
でもそれは日本が遅れている理由にはならないわな。
「知らなかった=遅れている」ということではないだろうから。
22山野野衾:02/05/01 10:54
陶磁器や和紙・衛生面ではあちらより優れていましたし、和算や神田上水は
西欧に向けても恥ずかしく無かったでしょう。生活面であちらに遅れていた
とは思えません。
23日本@名無史さん:02/05/01 11:03
           1POP 
   Λ_Λ∩    
  ( ´髭`)ノ  1POP
  ⊂    )     
   ノ   γヽ   1POP
  (__丿\__ノ     ____
        ヽ(´Θ`;)ノ|
        (___)|
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        |   
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24日本@名無史さん:02/05/01 11:05
日本は鍛冶技術も優れていたということはよく聞きますね。
25山野野衾:02/05/01 11:19
たたら製鉄は良質の鉄を生産出来ましたし、日本刀(但し上級並み)のもの
を西欧でつくれるようになったのは19世紀になってからだそうです。
26日本@名無史さん:02/05/01 11:24
おいおい、種子島って南蛮人がインドやらベトナム辺りで造った、
鳥撃ち用の銃だぞ。
早い話が粗悪品。
ヨーロッパだと、すでにホイールロック式の銃が開発されている。
27日本@名無史さん:02/05/01 11:27
>>22
何故突然に江戸時代の文化へ?
28山野野衾:02/05/01 11:34
>27
14の意見があったものですから。
29日本@名無史さん:02/05/01 11:54
>>7
鉄甲船は船として使うのではなく、海上を封鎖し要塞として使用する
との意見も有る。
つまり船としては鈍重すぎて、役に立たないらしい。

資料としては、オルガンチーノのイエズス会報告だったかに、
有ったような気がする。
30日本@名無史さん:02/05/01 12:26
ごめん、調べたら記述が無かった。
>イエズス会報告の鉄甲船
31日本@名無史さん:02/05/01 12:52
>>29
もう勝手なこといっちゃ駄目じゃん
32日本@名無史さん:02/05/01 13:37
>31
ごめんちゃい!
オルガンチーノは無かったけど、要塞と言う説はどっかで
読んだんだ。
どこだったかな?
33日本@名無史さん:02/05/01 14:44
>>1
「鉄砲と日本人」において、信長鉄砲3段撃ちは後世のフィクションと扱ってます。
なぜなら、その後の石山本願寺勢との戦いで、雑賀鉄砲衆に煮え湯飲まされていたからだそうな。

なぜ石山本願寺戦でも鉄砲隊を使わなかったんだろう?
34日本@名無史さん:02/05/01 15:00
>33
この時代の鉄砲は前装単発式だから、
攻撃側より、防御側で効果を発揮する。
弓のように攻めながら撃てるものではないから。
35日本@名無史さん:02/05/01 15:18
硝石はほぼ国産しない筈

鉄砲の柄を持って殴りあえば、世界最強かも(ワラ
36日本@名無史さん:02/05/01 15:21
またまた・・(中略)・・信長だよ

信長狂徒にだけ感染し、致死率100%の細菌開発キボーン
37日本@名無史さん:02/05/01 15:28
鉄砲隊だけじゃ話しにならんな。
槍や刀での人海戦術も含めて考えにゃあかん。
地形、陣形もそうだしだいだい極東まで万単位の兵隊を
送り込むことなどできなかったはず。
当時の日本は戦国時代。戦争に長けていた。
数百人の兵隊を送り込まれ降伏した
南米やアジアの弱小国とは明らかに違った。
38日本@名無史さん:02/05/01 15:38
のぶちゃんは世界一でいちばんつおかったてうちのじいちゃんが
いってたよ。
39日本@名無史さん:02/05/01 16:39
>>24-25
鍛造技術が発展したのは鋳造技術が遅れていたためという面もある。
一概には言えないだろうね。

>>29-32
『イエズス会士日本年報』に信長の大船に関するオルガンティーノの報告が載ってるよ。
ただし装甲があったとは一言も言っていない。
デカくて大砲を積んでいたと書いてある。

>>34
石山合戦は城攻めが多かったと思うが、攻撃側も竹束などを押し立てて
鉄砲を撃ちかけつつ徐々に間合いを詰めるのが城攻めの常道だと思うが。
鉄砲の絶対量と射撃密度が上ならば勝てるのでは?
雑賀衆は鉄砲の装備率がずば抜けていたからこの射撃密度が当時最高だった
のだと考えられる・・・
遮二無二突撃なんてのはよほど相手が少ない時でないと通用しない。

>>37
日本勢も国内では強いだろうが海外に出るとなると……
相手がこちらに攻め寄せても勝ち目は薄いだろうが
こちらも攻めることはできないだろう。
40日本@名無史さん:02/05/01 16:57
「ホイールロック式」の銃ってなん?
41日本@名無史さん:02/05/01 17:42
>40
歯輪銃。
要するに、ライターの火のつける容量で銃の火薬に発火させるもの。
日本には秀吉にスペインから贈られたのが初めて、
しかし、火縄銃と比べて大いに性能が上がったというものでなく、
コストの割に火縄銃と対して変わらぬ性能のため、
制式に採用されることはなかった。
42日本@名無史さん:02/05/01 19:50
>>32
常識的にそうなるでしょう。当時の船は櫓船だから、外洋航海は難しい。
あと当時、炸裂弾を使用した海戦だったから、ある程度の装甲、というより
耐火構造はあったと思う。江戸城天守に金属板を張っていたような感覚で・・・。
ただし19世紀のフランス海軍が初めて建造したグロワール号の様な装甲木造船ではなかっただろう。
当然といえばそうなのだが、16世紀には鉄製の大砲自体がまれで、最初に艦船に搭載
したのは17世紀のスウェーデン海軍。ほかは銅製の大砲。強く撃てば炸裂してしまっただろう。
だからガレオン船をはじめ18世紀ころまでは装甲などなくとも、近距離砲撃戦に耐えられたのかもしれない。

43日本@名無史さん:02/05/01 20:02
秀吉の朝鮮出兵では鉄砲は大いに威力を発揮したらしい。
が、最後は食料不足や情報不足など準備不足などが原因で後退をはじめた。
明の介入もあった。秀吉もくたばりそうだった。

しかし仮に信長が朝鮮出兵したらどうだったろうか?
周到な準備をし鉄砲隊の大活躍で半島を占領できただろうか?
さらに明国に進出し鉄砲隊は活躍できたか?
鉄製の鎧の明軍に刀は通用しなかっただろうからやっぱり
鍵は鉄砲隊だろう。

44日本@名無史さん:02/05/01 20:09
>43
当時の戦場で、刀なんかで戦うなんてほとんどありません。
現代で言えば拳銃で戦うようなもの。
また当時の明軍兵士の鎧は皮製です。
それに比べ当時の日本の方が鉄の部分が多いです。
45日本@名無史さん:02/05/01 20:25
やっぱり槍だ。
槍の延長が弓であり鉄砲だ。
4643:02/05/01 20:50
まじっすか?じゃやっぱり槍?
鉄が多いといっても部将クラスだけでは?
足軽なんて超軽装鎧だったのでは?
明軍兵の装備に関してもっと知りたいであります。
自分でも調べてみるでござる。
47日本@名無史さん:02/05/01 20:59
>46
とりあえず>>33であがっている本を読めば、
槍でさえ使われることは稀だったことが書いてあるよ。

あと、足軽の装備つってもこのころになると鉄板で作られるようになるよ。
明軍は将軍クラスでさえ革の兜だった。
48日本@名無史さん:02/05/01 22:01
>>7 >>11 >>13
実は最近では長篠の戦いで織田の鉄砲が千丁だとかいう説は逆に否定されてるんだよね。
さまざまなスレでも検証されてた。
何故か? スバリそんな少ないはずがないの。
というのは武田・上杉といった東国武将の軍役を調べても
鉄砲装備率は10%程度あったと確認されてるわけ。
ちなみに長篠でも武田は千五百丁の鉄砲があったと言われる。
長篠の織田勢は三万五千人説と一万五千人説があるんだけど、
千丁の鉄砲で一万五千人だとすると鉄砲装備率6.6%、三万五千人だと3%にも満たない鉄砲装備率なわけ、
そんなバカな事はありえない。
これはどういう事かというと信長は長篠の戦いの前に細川とか筒井などの長篠不参加の武将に確認されただけでも、
九百丁の鉄砲を借用している事がわかっている。
つまり、信長の軍勢に普通に配備されている鉄砲隊の他に臨時編成でかき集められた鉄砲が千丁という事らしい。
長篠の織田の軍勢の通常配置の鉄砲10%(控えめな数字だが)で計算すると
三万五千説なら3500+1000、一万五千説なら1500+1000の鉄砲を所持してたんだよ。
49目が怖い:02/05/01 22:04
確認だけど、「三段撃ち」なんてものは無かったんだよね?
50日本@名無史さん:02/05/01 22:09
なお、鉄砲装備率は戦国中期の武田、上杉、毛利などが10%だというのは
まだ、少ない数値で、時代がくだるごとに装備率は上昇し、
朝鮮の役の加藤勢は20%だった(ちなみに朝鮮の役で参加諸将は「槍などいらぬ鉄砲だけ送ってくれ」と要請している)
大阪の陣の伊達勢に至っては装備率40%だったというし、
つまり、鉄砲三千丁なんて、全然、たいした事ないんだよ。

他に長宗我部元親も「我が軍は鉄砲装備率が高いため、大概の戦いは接近戦になる前に勝負が決する」と発言してる。
51日本@名無史さん:02/05/01 22:11
比較が、年代ごっちゃになってる。
52日本@名無史さん:02/05/01 22:18
>>49
ないとも断言できない。
金ヶ崎退陣で佐々成正の鉄砲隊が二人一組での連弾攻撃をして追手わ撃退したという話しを武功夜話が記している。
三人一組でのユニットは考えられる。
ただし、少なくとも後世で伝わっているような、鉄砲千丁を三段に並べて交互に発射したというのはウソ。
53日本@名無史さん:02/05/01 22:20
ウソであると断言できる要素が発言中に見当たらないので書いてみてください
54日本@名無史さん:02/05/01 22:22
>>51
悪い、最後の長宗我部の例えが前後した。
しかし、長篠の織田勢の鉄砲が千丁ということは考えにくいんだ。
ましてや、織田勢が三万五千人だった場合は絶対にありえないだろう。
55日本@名無史さん:02/05/01 22:31
>>54
なるほど。
パーセンテージから追って、千丁とは考えにくいと。納得いくね。

素朴な疑問だけども、そのパーセンテージはどうやって出したんだろうか?
史料のまんま、ではやや薄弱な気もしないでもない。
せめて傍証として、当時の鉄砲の値とか石高から得られる収益とかを色々算出した結果、
ほぼそのパーセンテージは信用できる、ともなれば堅牢なのだけれども。
56山野野衾:02/05/01 22:32
>52
「武功夜話」はどうでしょうか。小規模な工夫はあったと思いますが。
57日本@名無史さん:02/05/01 22:32
>>53
鉄砲隊を千丁ずつ前後三段に並べて、
号令とともに一斉射撃を行うってのは
当時の指揮系統からいってありえないそうだ。

私もうまく説明できないけど、当時の指揮系統は武将が全兵士に手足のように命令できるわけではなく、
専門武士とその配下の足軽といった感じの数人〜数十人のグループが勝手に動いていた感じだった。
その者たちを全部、集めて命令するのは無理。
58日本@名無史さん:02/05/01 22:34
>>57
そこら辺に工夫をしなかったとは言いきれないような
簡単な工夫で解決できるし
59目が怖い:02/05/01 22:35
実際には長篠の合戦は、どんな感じだったのかねえ?
60日本@名無史さん:02/05/01 22:40
>>48
それでは世界的に見たらどうなのでしょう。鉄砲装備率。
20-40%の鉄砲装備率の日本軍はヨーロッパの軍隊とまともに戦えたと
思いますか。
61ど素人:02/05/01 22:46
三段打ちを延々続ける必要はなかっただろう。
要は鉄砲を打った後の空白を狙って突撃して
くる敵に鉄砲を撃つ新手がいれば良いのだから。
つまり、三段撃ちである必要はない。
62日本@名無史さん:02/05/01 22:47
銃火器は質の要素も小さくないぞ
63日本@名無史さん:02/05/01 22:50
>>55
悪いな、パーセンテージは軍役帳の
武士に割り当てられた鉄砲の数から算出したそうだ。
私も武田の武士に割り当てられた鉄砲の数を見ると、たしかに人員の一割程度を鉄砲にさいているのが確認できた。

それと、鉄砲についてだが、織田家や後世の伊達家などはわからないのだが、
別に大名家で購入して武士に配るわけではない、各武士(寄親クラスだろうが)が弾丸と共に購入し用意するものだ。
しかし、東日本の武士が金を払いさえすれば鉄砲やしょう石(DCなので字がでない)をいくらでも購入できたか疑問な点もあるが、
鉄砲の種子島伝来説はウソで鉄砲はもっと前から日本にあって、ありふれたものだという説がり、
しょう石も日本で産出されていたことがわかっている。
確か、西洋人が戦国中期に日本に来て、鉄砲を売ろうとしたが、「そんな物はどこにでもある」と笑われた逸話があり、
戦国時代は我々が思うより鉄砲がありふれてたらしい。
64日本@名無史さん:02/05/01 23:02
>>58 >>59
というか、一列一斉射撃方式より、単なる三人一組方式の方が、
弾丸がバラバラと発射されて、効率が良い気もするが。
戦場での話しだから、武田勢とて一列にならんで攻撃してくるわけでもないだろう。
三人一組で対応する方が戦いに臨機応変に対応できるはず。

>>60
戦えたと思う。しかし、それは戦術面に限定しての話し、
朝鮮の役を見ればわかる通り、日本軍の長征能力や補給能力、海上輸送能力、戦略、政略などには問題があった。
たかだか、ピョンヤンにいた小西隊にすら満足に補給できないのだしね。
65日本@名無史さん:02/05/01 23:07
>>57
小単位制、すなわち子会社請負制って話はよく聞くね。
まあ、おそらく実際そうだったのだろう。
ただ>>58の論駁の通り、そこにちょっと工夫して実施した可能性は十分ある。
ただしそれも残念ながら、>>61も含めて、想像の域を出ない。
この辺りは新たな文献またはデータがアガるのを待つしかないかな。

66日本@名無史さん:02/05/01 23:12
>>60
一斉掃射はね、怖いんだよ。音がね。
馬はもっと怖がる。

戦術的にどっちが効果的かは、我々のような時代すら隔てた素人には結果論でしかいえない部分があるね。
もっとも、肝心のどっちの戦術を採ったのかで意見が割れているわけだが。
67世界@名無史さん:02/05/01 23:13
>>60
たとえば16世紀中頃のスペインのテルシオを例に取ると、槍兵と銃兵の比率は3:1でしたが
次第に銃兵が増えて17世紀初頭には1:1になりました。
同じく1584年から改革に着手したオランダ軍も槍兵と銃兵の比率は1:1でした。
6866:02/05/01 23:15
上記>>60>>64の誤りでした。ごめんなちゃい
69日本@名無史さん:02/05/01 23:28
長篠は、陣城を築き前面に馬防柵を造り三方に部隊を配して、
部隊ごとに一度に数百の鉄砲を一斉射撃じゃないの?
70世界@名無史さん:02/05/01 23:31
>>60
負けると思いますよ。
まずヨーロッパには騎兵が居ます。
日本にも居たと言われてるけど、馬の種類、去勢、蹄鉄等の問題で弱かったと推測されています。(最近では騎兵自体居なかったと言う説さえあります)
それにより2つ問題が発生すると思います。
1、本格的な騎兵の突撃にどのように対処するのか?
2、軍の最右翼部、最左翼部をどのように守るのか?
71日本@名無史さん:02/05/01 23:32
だれか世界史板に聞いてきてくれ
72日本@名無史さん:02/05/01 23:38
日本が戦場なら日本が有利
大陸が戦場なら欧州が有利

日本の地勢では騎兵の利点をどれだけ発揮できるかは疑問
大陸に行けば、兵站の無知をどれだけ克服できるかが疑問
73日本@名無史さん:02/05/01 23:48
あと人口の問題があるんじゃない?
むかしも今もヨーロッパ諸国より東アジア諸国のほうが
ずっと人口が多いはずだが。
74日本@名無史さん:02/05/02 00:21
>>70
馬防柵とか野戦陣地で対応すればいい、
あるいは騎馬に不利な陣地に引き込むようにする。
対騎馬戦に関しては朝鮮の役で明の精鋭騎馬隊に勝ったんだが。
75日本@名無史さん:02/05/02 00:58
>>42
毛利の水軍が炸裂弾を使用したというのはあまり根拠が無いのではないか?
太田牛一は「ほうろく火矢」と書き残したが、毛利側の史料ではただの「火矢」。
また油を染ませた布の代わりに火薬を布で包んで巻いた火矢を「ほうろく火矢」と
呼んだらしいから、要は少々発火力の強いだけの火矢ではないかと思われる。
(そのような炸裂弾が毛利水軍にあったとする割には、他の一次史料で見掛けない気がする)
九鬼家の家譜ではかの海戦の勝因を「蛮国の火術」であるとしているから、
おそらく南蛮船などから買い上げた仏郎機を大船に据え付けたのだろう。
村上水軍ではまだ大砲や大筒の装備が無かったであろうことは、1582年以降の来島水軍攻めで
大筒の調達を毛利家に要請していることからも伺える。
この火力の差が九鬼水軍の勝因となったのであろう。

>>48
それは知っているが、従来の説では全軍に一割程度の鉄炮が配備されていても、
分散配備になってしまうため効果を上げにくかったとされていたのではないか?
細川から100、筒井から50といった具合で集めた鉄炮1000挺は
最前線に配備できただろうが、それ以外の鉄炮に関しては分散配備であって、
従来の説通り、効果を上げにくかったと考えて良いのではなかろうか。
総装備数が全軍3万で4000挺ほどだったとしても、信長が馬廻の指揮下に置いて
最前線で使用した鉄炮は1000、弾正山などに陣取っていた各部隊に3000ほどが
通常通りに分散配備されていたと解釈するのが妥当ではなかろうか。
76日本@名無史さん:02/05/02 02:30
で?最強なのかどうかだろ?
答え 信長はモーホーだった。よって最強。
77日本@名無史さん:02/05/02 03:05
>>76
当時の日本には衆道をたしなむ武将がたくさんいたわけですが・・・・
78日本@名無史さん:02/05/02 07:49
鉄甲船には明らかに後世の誤解があるんだよな。
鉄甲船は近代の軍艦のような装甲艦だという誤解があるけど、
実際は3ミリ程度の鉄をコーティングしたただけのもので、
装甲艦としては頼りない装甲なんだ。弓や銃器で貫かれてしまう。
現代の火縄銃や弓でも、実験である程度の銅丸を貫通してしまうのがわかってる。
では、鉄甲船に張られた鉄の目的は何だというと、
単なる火災防止のためのものでしかない。
毛利家の火矢攻撃で大敗したので、九鬼水軍がその対策として鉄を張ったというだけの話しが真相。
それを後世の人が勝手に革新的な信長は
世界に先駆けて鉄製軍艦をこの時代に作ったとかいう大げさな話しにしてしまった。
毛利の兵器が炸裂弾ではなく火矢だという意見も事実だろう。
炸裂弾なら3ミリ程度の装甲では破壊されるはず。
79日本@名無史さん:02/05/02 09:05
>>78
装甲の存在自体にも意義を唱える人はいるよね。
多門院英俊の『多門院日記』に「鉄ノ船也」とあることだけが
その「装甲」の根拠なわけて、「鉄ノ船」という語だけでは
まさか完全鉄製の軍艦だったはずはないし、だからといって「鉄張ノ船」
とも断定できない。さらに言えば英俊はその当時堺で大船を実見したわけ
ではなくて、どうも噂話を書き留めた程度。
太田牛一の『安土日記』『信長公記』などでは大船のサイズから
大砲に必要な火薬のことまで述べられているが鉄板を貼り付けたなんて話は
全く出てこないし、実際の海戦に当たっても大鉄炮のことは書かれているが
火矢が通用したかどうかは書かれていない。
九鬼家の家譜でも装甲の事には触れていない。
オルガンティーノも装甲があったとは書き残していない。
いかに薄い鉄板一枚でも当時一般的で無かった事であれば、誰か書き残す
ものではなかろうか。あるいは装甲はありふれたものだったのか。
翻って見れば、『多門院日記』の記述は「鉄ノ船也、テツハウトヲラヌ用意、
事ゝ敷儀也、…」とある。火矢対策ではなく、鉄炮対策であると
書いているのだ。だが当時の安宅船というものは厚さ三寸の椋板で矢倉を
組むもので、そもそも鉄炮など通るものではない。
「鉄炮が通用しない“鉄の船”」というのも、「堅固な船」ぐらいの
意味で書いたものではなかろうか。
80日本@名無史さん:02/05/02 21:58
炸裂弾といっても、まさか手榴弾のようなものではありますまい。精々、火炎瓶?程度の火力。
それでも木造船では致命的だろう。搭載砲門数100門を誇るかのスペイン第1級戦列艦といえども、
放火には呆気ないのだ。それを考えれば3ミリの耐火壁があるだけでも革新的だといえる。
もっとも、本当にあれば・・・、の話しだが。
ちなみにヨーロッパの海戦も結局は、上陸戦闘部隊を敵地に速やかに送り込まねば、
負けたのも同然の海戦。戦闘せずとも敵地に着けなければ、それだけで物資は底をついてしまう。
中型ガレオンでも帆走だけで450人は必要。第1級戦列艦ともなれば海兵隊など戦闘員も相当数乗り込む。
当然騎馬もあろう。最大でも1200トン足らずの船を考えると、船上は生き地獄の様相だっただろう。
彼らへ十分な水食料を供給すること自体が当時の船の能力では不可能に近いからだ。
極端な話し、1日でも上陸を阻めば、それだけで敵船の戦力は弱まっていくのが
当時の現実だったのだろう。

81日本@名無史さん:02/05/02 22:09
>80
面白いなぁ・・一日でも、というのは誇張という気もするけど。
(それじゃ、ほとんど外洋に出られないジャン?)
元軍が二回目とかなんだか非情に脆かったのも同じ理由でしょうか?
長く海上を彷徨ってたしね。
しかし、考えてみれば、程度の差こそあれ、陸路の行軍ですら過去の戦争
では大消耗だったわけで・・。遠征すると、到着までに数割脱落なんて
よくあったとどっかで読んだし。だから、逸にて労を打つ、みたいな事が
すごく有効だったのかな。
8280:02/05/02 22:39
>80
ちょっと誇張しすぎたかな。確かに。
というより当時のヨーロッパの艦船は我々が想像するより相当に小さいということを
言いたかっただけです。外洋に出られない、というのはある意味そうだとは思います。
船足よりも大砲を多く積むことに特化した第1級戦列艦が兵員を満載してインド洋に現れる
なんてことは、まず不可能じゃないですか?
植民地をしっかり作って、ロジスティクスを整備してからではないと、用を為さないでしょう。
アジアに来ているのは、殆ど小型から中型のガレオンだったはずですよ。
3層鑑なんて来ていたのだろうか、疑問です。
83日本@名無史さん:02/05/02 23:01
中国でアフリカまで行った探検隊があったよね
メチャでかい船だったような
84日本@名無史さん:02/05/02 23:05
鉄砲伝来は1400年後半に琉球からの使節団が持ってきたものが最初らしい
朝廷でその鉄砲をぶっ放して朝廷の人々が驚いたらしい

けど、当時は実用性が感じられなかったため、普及しなかったそうだ
851:02/05/02 23:12
思わぬ良スレに変化しましたね。面白い。
86日本@名無史さん:02/05/02 23:16
当時、スペイン宣教師が2万程度の軍隊の派遣を国王に進言したらしいが、
2万の軍隊の派遣は不可能だろう。
>>80
が書いているように技術的な問題が多すぎる。
スペインから日本に来るまでには1年もの航海が必要。
まず、軍馬は持ってこれない。
兵員も半数以上は死亡ないし病気にかかることだろう。
それらを度外視して考えたとしても、その程度の数では沿岸を確固撃破する海賊行為が精一杯。
大砲を備えた軍艦で沿岸の制海権を掌握し、陸戦隊を上げることになるが、
野戦では大砲は決定力にはならず、鉄砲も装備量では日本が上。
騎兵のないスペイン(西洋)の陸兵が日本武士の歩兵集団を打ち抜くのは野戦、
攻城戦いずれも不可能。

もっとも、逆の立場になると日本にはそこまでの航海力もないのだから、話にならない。
いずれにしても当時の世界で、現在の米軍のように全世界に展開できる大規模な海兵軍隊は
存在しなかった。
秀吉の朝鮮出兵はある意味で瞠目すべき事業だった。
87日本@名無史さん:02/05/02 23:17
>>84
1400年代後半と言えば、すでに応仁の乱が終わって乱世となった
時代じゃないですか?実用性が感じられないとは?性能的にってこと?
88日本@名無史さん:02/05/02 23:20
西洋との戦争となると、みんなどちらかの本国ばかり想定してますが、
例えばフィリピン争奪なら?とかのシチュエーションではどうでしょう。
89日本@名無史さん:02/05/02 23:25
>>83
明代の鄭和の南海遠征ですか。
そう、メチャでかい船で6000トンあったそうです。
当時ちょっと後のイギリスの旗艦ロイヤル=プリンスが1200トンだったことを
考えると5倍あることになりますな。
でもどういう記録が残っていて、そう言われているのかは分かりません。
90日本@名無史さん:02/05/02 23:26
>秀吉の朝鮮出兵はある意味で瞠目すべき事業だった。

・・日本海越える程度なら元だってやってるけど?
てゆか、話半分だとしても白村江だって大軍だけど・・
91日本@名無史さん:02/05/02 23:27
>>84>>87
「火矢(ヒヤー)」のことですな。
1466年に琉球使節が室町幕府を訪れたときのこと。将軍謁見後に総門の外で
火砲を2発撃ち鳴らしたそうです。
鉄砲かどうかはよくわからないですけど、1450年代にはすでに琉球で火器が
使用されていたことが判っています。城跡などからは実際に弾丸も発見されて
いるので、火器が使われていたのかもしれません。
92日本@名無史さん:02/05/02 23:30
私は1543年以後よ盛んに鉄砲戦が行われるようになったのかと思ってました。
9391:02/05/02 23:30
×使用されていたことが判っています。

○存在していたことが判っています。

訂正です。
94日本@名無史さん:02/05/02 23:41
なんか、チャット状態・・・。

>>90
そうそう、朝鮮出兵関連で一つ。
朝鮮側の亀甲船でしたっけ?、あれって本当に戦闘能力あったんですかね。
日本兵の乗船を防ぐ以上に利点があるとはとても思えないんですけど、
誰か感想を!
95日本@名無史さん:02/05/02 23:44
ただ、李君は生涯無敗だよね。やっぱそれなりの名将だったんでないの?
96日本@名無史さん:02/05/02 23:45
>>94
ハン板で質問スレを立ててみて下さい。
9794:02/05/02 23:49
>>96
えっ、やるんすか?!
単に技術的なことに関心があるだけなんだが・・・。(汗
98日本@名無史さん:02/05/03 00:19
明の方の記録では「火縄銃」(鳥銃)は1548年に倭寇が伝えたと
なっているから、15世紀後半に伝わったというのは中国を中心に
普及していた銅銃とか鉄銃とかのハンドガンタイプのものでしょう。
火縄銃などと比べれば遥かに劣る兵器で、長弓の普及していた日本では
敢えて採用する理由もなかったんでしょう。
99日本@名無史さん:02/05/03 00:34
>>90
元は「残るはただ3人」と言われる程の壊滅状態で終わりましたよね。
白村江は、半島内に日本の拠点(百済)があったのだから論外。

あの時代まで20万の軍勢で海を渡り敵前上陸侵攻した軍隊があったら紹介して
見てくれませんか?

唯一の例は鄭和は100年前「大軍」を東南アジア、インド洋に発した例がありますが、
あれはイスラム商人たちとの取引が目的でしたからね。

海を渡るにはとてつもない資材が必要なのです。
一例が馬で、一日たりとも水を欠かせない。玄海灘とて渡るのに終日
はかかるのです。
100日本@名無史さん:02/05/03 00:39
まあ九州から壱岐・対馬経由の半島まででは
西洋諸国がアジアまで攻め込むのとは距離が違いすぎて
なんとも言えんが。
ピストン輸送で数万ずつ送ってたらまた規模の考え方が難しくなるし。
やはり距離が微妙だな(w
101日本@名無史さん:02/05/03 00:41
>>99
白村江は百済滅亡後
102日本@名無史さん:02/05/03 00:45
>>101
白村江は百済滅亡後なのは事実ですが、
百済復興のために鬼がたちあがって百済を再びまとめたのです。

百済の血は日本に受け継がれて関東人にも入っています。
もちろんアズマにもね。
103日本@名無史さん:02/05/03 01:02
>>102
鬼ってのが何のたとえなのかは分かりませんが、百済の血なんて
大仰に言うほど混じってるんですかね。帰化人がいる以上ゼロでは
ないでしょうけど。
104日本@名無史さん:02/05/03 01:05
>>103
あなた日本史板にいるのに、鬼室を知らないの??

そりゃアズマも日本史に興味がないくせに自分の思想宣伝のためだけにいるけどね。
105日本@名無史さん:02/05/03 01:07
>99

20万っつのをどー取るかにも拠るね。ちょと考えてみれば分かると思うが、
別に20万人がいっぺんに船出したわけじゃない筈。手順としてはまず
精強部隊に上陸させ、橋頭堡を作らせ、それから本隊、後方勤務人員、
物資などが運ばれるという過程になるんでないか?そうだとすると、先の
白村江の「半島内に日本の拠点があった」というのにいくらか近づくことに
なる。結局初期作戦が成功したから、後続部隊が運ばれていって結局総数
20万になった、ということなら、外地に出た征軍20万、程度なら
史上他にもあるっしょ。

一例を上げると、ペルシャ戦争の時、ヘロドトスによるとペルシャ側は
戦闘員だけで264万人といって、話半分・また陸海二路に分かれて
いたとしても大大艦隊だった筈。

また、十字軍もそうだよね。ベネチアの商人に船を借りて行くわけだが、
あれも敵地に殴り込んでいるわけだ。ま、結局こういった戦役はどれも
失敗するのが多いから、外征は難しい、ということはその通りだけど。
106日本@名無史さん:02/05/03 01:09
他のスレ見ればいいんだろうけど、
どうして「百済」を「くだら」と読むんじゃい?
「済」に<ダラ>の音ってあるの?
あと、「新羅」の<ギ>は、どこからくるんじゃい。
「しら」としか素直に読めないのだけど。
107日本@名無史さん:02/05/03 02:33
いやー勉強になります。おもしろいなあ。
で、アズマってなに?
108日本@名無史さん:02/05/03 02:53
>>106
『和名抄』にでも万葉仮名で読み方がついてるんじゃない?
109日本@名無史さん:02/05/03 03:10
>>106
以前TBS(ふしぎ発見か?)でやってた。
百済はクンナラの訛りで、原意は「大きな国」だそうな。漢字は当て字。
百済人が自分の国を誇ってそう読んでいた。

新羅はそのまま読めばシラだけど、百済人は軽蔑の意味を込めてギをつけて呼んだ。
敵国だから。

うろ覚えスマソ。どなたか訂正願います。
110日本@名無史さん:02/05/03 04:08
当時のヨーロッパの騎兵なんてものは、惰弱なもんだったんだよ。
日本の足軽の槍で全滅でしょう。
111日本@名無史さん:02/05/03 06:03
>>109
それはいずれも定説ってわけではなく、そうではないかととも考えられる
って仮説のはず。
たとえば「ギ」が古代朝鮮語でどういう意味なのかを示す資料は無い。
そこで「ひょっとしてこうかもよ」ってわけ。
クンナラもそうじゃなかったっけ。
112日本@名無史さん:02/05/03 06:11
津本陽の本に東大教授がもし信長の軍がヨーロッパに存在したら
極めて短期間に欧州全土を征服したでしょうと語ったとある
参考までに紹介しました
113日本@名無史さん:02/05/03 06:55
>>112
そういう小説ありました、
うーんと、外人部隊の本とかも書いてる人。
誰だっけ?
114日本@名無史さん:02/05/03 07:04
信長の軍隊というより、あの時期の日本の総兵力が世界屈指のものだったのは事実。
装備も比較的高い次元にあったし、欧州の各国とは量が違う。
当時の欧州では大国の最大動員数が10万程度だったのでは?

おそらく当時の日本と比肩しうるのはオスマン・トルコのみと思う。
115105:02/05/03 08:01
>114
>当時の日本と比肩しうるのはオスマン・トルコのみと思う。

日本は実は生産性・経済力からいっても、割と昔から常に世界の
トップレベルにいたみたいね。こないだ経済の本で読んだ。

日本があのころ屈指の軍事大国だったことは全く同意だけど、
比肩しうるのがオスマン・トルコだけ、ってのはどうなのかな・・
明だって数だけはワラワラいたし(明軍だって籠城戦なんかは上手なんよ)、
満州族だってそのあとすぐに中国全土を席巻するぐらいの実力を蓄えつつ
あったわけでしょ。
清の騎兵は、日本軍のコピー銃装備の朝鮮軍と対峙して、
一発しか撃たせずに突撃で軽く一蹴してるよね。日本軍も清には
勝てたか分からないという気がする。
欧州の軍との比較で言えば前も書いたけど、やっぱ砲兵火力の差が
ドンドン開いていっているのがイタイ。まだ阿片戦争の時のような
一方的戦争にはならないだろうけど・・
116日本@名無史さん:02/05/03 14:11
大砲を量産体制に移せる工業力はあったでしょう。
砲兵編成も時間の問題。
117日本@名無史さん:02/05/03 14:40
>>116
単一兵科の編成は戦国時代のままの封建制を基盤にした軍制では無理。
どうしても混成軍になる。
最低でも傭兵制の定着が必要だし、あるいは西洋ではグスタフ・アドルフの
頃には準徴兵制ともいうべき制度が育ちつつあったから、これに追いつく
ことが必要では?
118日本@名無史さん:02/05/03 15:29
西欧を過大評価しすぎ。
当時の日本軍の攻撃力と勇猛さを侮るな。
119日本@名無史さん:02/05/03 15:31
>>117
しかし戦国末期には、リストラされた兵達が大量に海外に渡らされ、
インドシナに展開するオランダ・ポルトガル軍の傭兵にもなっていたから、
無理な話でもないような気がする。
家康も積極的に傭兵派遣ビジネスをしていたらしいし、各国とも日本兵の戦闘能力
には期待していたようで、アユッタヤ王朝なんて日本人傭兵でビルマ軍をかわしている始末。
スウェーデンの傭兵文化は、人口が極めて少なく兵力にさけない北国のお家事情から生まれている。
逆に江戸初期日本は余ってしまった戦国兵力をどうにか再利用したい立場。
立場は逆でも、両者は需要と供給の関係では一致している。
だからグスタフ的な思考は、逆の立場から日本でも理解される可能性は大だったと思う。

120日本@名無史さん:02/05/03 15:31
>>118
勇猛さはともかく攻撃力は兵器の優劣に左右されるぞ。
121日本@名無史さん:02/05/03 15:33
>>119
浪人はあふれていたが、結局有効に使ったのは大坂方ぐらいでねーの?
122日本@名無史さん:02/05/03 15:36
>スウェーデンの傭兵文化は、人口が極めて少なく兵力にさけない北国のお家事情から生まれている。

というよりも、君主権力が農業依存型から商業依存型に移ってる
ということの方が、重要ではないか?
123日本@名無史さん:02/05/03 15:50
市場経済化している背景はあるだろうが、
スウェーデンの重商主義体制ってどんなもんだったの。
コルベール政策下のフランスより経済力ってあったのかしら?
というより無いから、コルベールはやっていたのかな。

どうであれ、スウェーデンの傭兵って、30年戦争時代の大陸での軍事介入のためで
あって、自国の兵力を危険にさらすのを避け、金で解決したという話しじゃないの?
大体あの国、はるかに貧乏の遅れた農業国だったロシアに制海権とられちゃったよね。
124日本@名無史さん:02/05/03 15:52
>>120
日本の兵装も世界レベルだすよ。
西欧でも実際の配備は槍と弓中心。
125日本@名無史さん:02/05/03 15:58
>>121
後は公共事業、公共事業。
山崩して、海埋め立てて、堀穿って、巨石運んで、
やたら巨大な城郭つくって・・・。
豊織系城郭なんて、所詮、雇用創出のためとしか思えない。

126125:02/05/03 16:01
<しょくほうけい>
漢字逆だった、ごめん。
変換出ないもので・・・。
127日本@名無史さん:02/05/03 21:48
>>124
軍制・運用が古いと思うけど。
128日本@名無史さん:02/05/03 23:26
日本の軍事力が世界基準だったっつったって、
税率50パーでデッチ上げた軍事力だからね。
いつまでもそんな戦時形態のまま続くはずが・・・
と思ったら江戸幕府は40パーで260年続いたとされている罠
129日本@名無史さん:02/05/03 23:50
江戸時代の農民はいうほど貧しい暮らしはしていなかったと思う
農民が苦しむほど年貢とってたら、米が余りすぎるという それはおかしいというのをなんかの本で読んだ
130日本@名無史さん:02/05/03 23:52
戦国期の日本の人口は2000万ぐらいだと思うんだが、
ヨーロッパはどのぐらいだと考えられているんだ?
131789:02/05/03 23:53
貧しい農民ももちろん無数にいた。
だが、農民だから貧しかったろう、というのは
明らかに間違い。
132日本@名無史さん:02/05/03 23:58
>>130
14世紀のフランスで2000万ぐらいという研究があった。
15世紀のイタリアで900万ぐらいとか。
133日本@名無史さん:02/05/04 00:04
16世紀に入ると欧州の戦いは小康状態になり、あまった銃器
が海外に流れていった。
一番の取引先は極東の小国日本であった。
金払いも良く欧州との戦いに影響を与えない地に武器を売る
ことにはなんの不安も感じなかった。
134日本@名無史さん:02/05/04 00:17
>>129
板倉聖宣の「歴史の見方・考え方」だろう。
良著だ
135日本@名無史さん:02/05/04 01:36
>>133
西洋から日本にそんなに武器は流入してないよ。
何の本を読んだのか知らないが。

>>132
秀吉〜家康の時代、ヨーロッパではフランスで1600万〜2000万近く
と推定されている。次いでドイツが1700万程度(ドイツの領域
をどこまで考えているのかは不明)、イタリアは1000万はあったようだ。
イギリス、スペインは5〜600万か他国との比較からもう少し多かったかも。
これらはいずれも多めに計算しているような気がする。
日本は1000万〜1800万と推定幅が広いが、控えめな数字として1200万〜1300万
が秀吉時代の通説となっているようだ。
しかし江戸時代の正確な人口と比較すると、人口膨張期にあったことを考えても
変遷上不自然さがあり、もう少し多かったような気もする。
上記西洋と比較する場合の17世紀冒頭の人口は1700万程度はあった様子。

ちなみに明は7000万くらいはいたようだ。朝鮮は500〜600万、李朝晩期の人口を
考えると多くても800万程度だろう。

以上は、速水博士や関連本、ネット情報を概観してのまとめ。
136日本@名無史さん:02/05/04 01:45
日本の人口の世界史的な位置付けとしては、現在よりも過去のほうが
比率的には大きかったというのが定説。ロシアがまだ東方に拡大しておらず、
アメリカもない時代、日本は「人口大国」であった。
よって軍事的動員能力は相対的に大きい。
137日本@名無史さん:02/05/04 01:52
>>133
日本に流入したのは18世紀だね。
>>135
と言うこと?
138日本@名無史さん:02/05/04 02:07
6 :日本@名無史さん :02/05/01 09:08
鉄船、人類最初に構築した>信長タン
当時ヨーロッパよりも相当遅れていた日本(日本人)で
日本一ではなく世界一だからすごいね


10 :日本@名無史さん :02/05/01 09:52
>当時ヨーロッパよりも相当遅れていた日本(日本人)で

>>6さん、この根拠はどこから出てきたのですか?何と比較して遅れていたのかを、
比較対象と根拠を是非とも知りたい。

14 :日本@名無史さん :02/05/01 10:09
>>10
まっ色々あるだろうが例えば文明の物差しである技術面で1つ例を
上げるとすれば、1769年にフランスのキュノーが
砲車を引くための蒸気機関を用いた牽引車
を作ったのが自動車の起こりといわれている。など・・・。
当時の日本には蒸気機関という技術さえもなかった
139日本@名無史さん:02/05/04 02:22
なぜ他地域に比して九州諸大名の石高は大きいのか一つには周知の通り薩摩押さえ
のため。もう一つは当時世界を二分する勢いを示したスペインポルトガル対策のた
めである。もちろん家康は当時の欧州諸国の軍事力の限界をよく知っていた。もし
例えばスペインがフィリピンから日本侵略を企てたとしても船舶数の関係から兵は
多くて一万。長崎に襲来したとしても長崎の隣は肥前佐賀藩。肥前佐賀藩は戦国時
代に九州の三分の一を領した竜造寺の流れをくんでいるため兵の動員能力はおよそ
三万。これに筑前黒田藩や肥後熊本藩の兵を合わせれば西欧如き恐れるに足りなか
ったのである。薩摩に襲来されても同じことであり薩摩藩77万石がひかえている。

 

140日本@名無史さん:02/05/04 03:00
このそのへんどうなのよ?系スレッドを上げる人は社会不適合者のアズマと同じです。
反論があるならばsageでするように。

アズマが一連の罵倒系スレッド、そのへんどうなのよ?系スレッド を増殖させてるので、
まともな日本史板住民はageないようにしましょう。
141日本@名無史さん:02/05/04 03:30
>>128

四公六民だから、税率40%と考える君の頭の悪さに乾杯
村高と実高は場所によっては、3倍以上の違いがあったし
農民の収入は米だけではない。
江戸時代の税制はめちゃくちゃ不公平なので
一概に、みんなが楽だったとは言えないが
すくなくとも、街道に面さない天領であれば
貢租負担などは取るに足らないものであった。
142日本@名無史さん:02/05/04 04:17
>>136
明などを差し置いてフランスなどもいるのに「大国」とは
ちょいと言い過ぎだよ……

インドの人口を計算した人は・・・いないかな(笑)
143日本@名無史さん:02/05/04 04:23
>>142

人口密度の点から言えば、世界トップクラスだよ。
今も昔もね
144789:02/05/04 05:08
>140
何にレスしようが俺等の勝手だろ。ご指図ご無用。
俺的には、アズマ系罵倒スレもアズマ罵倒系スレも
同じ穴の狢。というか、現在は明らかに後者の方が多いジャン。
自分だけ正義の味方面するなっつの。
145日本@名無史さん:02/05/04 05:12
>>1
オスマン・トルコのが強いだろ。
146日本@名無史さん:02/05/04 06:43
>>138
江戸中期と安土桃山時代の世界史的な違いさえ分からないとは。
日本と西洋との学術的、技術的格差が開いたのは17世紀から。
18世紀の話じゃないだろ、ここでは。
147日本@名無史さん:02/05/04 08:00
俺はキチガイアズマに消えてもらえるなら何でもしたいね。
ただ、このスレッドがアズマ系スレッドかどうかは疑問があるよ
148日本@名無史さん:02/05/04 09:00
>>141
そういう徒に人を惑わす「人文的表現」にアレルギーを感じるのは俺だけだろうか
だからこんなスレが立ったりする。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1014012174/l50
149日本@名無史さん:02/05/04 10:53
日本の税制の歴史って興味あるなー。
各時代ごとの主な財源となる税とか、それが民衆にかぶさってきた場合の重さとか、
そこから発展して庶人の暮らしぶりとか、
「税制で見る日本史の変遷」
なんて感じの書き込みが読みたいなー。
新スレ上がらないかな
150日本@名無史さん:02/05/04 11:13
スレ違い。
自分で図書館に行って調べなされ。
151日本@名無史さん:02/05/04 11:57
>ただ、このスレッドがアズマ系スレッドかどうかは疑問があるよ

ハァ?? アズマのアの字もないように思うのだが?

152日本@名無史さん:02/05/04 14:36
どっちかっつーと、愛知・岐阜・滋賀系スレッド。
153日本@名無史さん:02/05/04 21:28
>>148
141の言うのは常識だと思うが。
基本的には天領の税率は田の稲作に対して計算されたため、畑や西日本での田の裏作には課税されてないはず。
農民の収入は稲の6割だけではない。
154日本@名無史さん:02/05/04 21:52
>>153
そうですか。わかりました。失礼しました。

では、まったく話を変えます。(ゆえにsageで)
仮に、これは仮にですよ、
ある農民が持つ年間総所得をA、
その農民が負担する税の総相当額をB、
その割合をC、
それの平均値をC’などとするとき、
日本全国、各藩地域別、あるいは年次別、等の、
ABCC'のような感じのデータが分かる良書があれば紹介してください。
現代でいう「日本国勢図会」の江戸版、安土版、のようなものを作る、
そういう研究もなされてるはずですよね?
正直なところまだまだ未熟なもので、純粋に知らんのです。
155日本@名無史さん:02/05/05 04:35
もうおしまいかい?
156日本@名無史さん:02/05/05 06:24
幕末においては税率はだいたい実収入の20%以下だったそうだ
明治初期の生産高と幕末の村高のデータを比較した結果らしい
157日本@名無史さん:02/05/05 07:55
>>154
>現代でいう「日本国勢図会」の江戸版、安土版、のようなものを作る、
>そういう研究もなされてるはずですよね?

それをやれるだけの資料は残ってるが、実際全国規模での調査などは
及びもつかないのが史学界の現状だろ。
地方に行けばいくらでも、山積みになったまま
資料整理されてない人別帳がある。
158日本@名無史さん:02/05/05 10:39
>>157
そうなのですか。。。
もしそのとおりだとすると、史学界というのもなんだかアレですな。
たとえばヒトゲノムのように、たとえぼう大な作業になろうとも、
やれば意義があることは分かっているのだから、やればいいのに。
せめて、やろうとすればいいのに。
基礎研究としてすごく重要だと思いますけどね。
159日本@名無史さん:02/05/05 11:11
>>158
誰かが人材と資金を投入してくれないと無理です。
アメリカでヒトゲノムの研究が実績を上げているのは大量生産張りの人海戦術で研究員を投入しているからです。

研究者の精神論に頼ったってしょうがないです。
160日本@名無史さん:02/05/05 11:14
>>153 >>156
まず、税は年貢だけで無いという事を忘れてはならない。
また、農作物についても稲以外に税がかかる。
それと、米の年貢についても実質20%程度というのは天領の場合の話し。
161日本@名無史さん:02/05/05 11:32
金がそれほど儲かるワケじゃないしね。
企業も国も予算くれないから無理無理
162日本@名無史さん:02/05/05 11:44
>>159
精神論じゃないよ。
人海戦術でやれば楽なのは明らかだとしても、
「スポンサーが居ないから、俺もやらない」というのはまた別次元でしょ。
それはサボタージュ。
スポンサーが居なくたって大学から分捕った研究費でコツコツやることだってできるんだからね。
163史学科卒:02/05/05 12:16
>>154-162
私は史学科の日本史専攻だったので、
理数系の話題は苦手なんだな。やめてくれよ。

しかし、>>154の書き込みなんかを読んでると
史学の人間も数学がある程度できないといけないのかな?
私はずっと数学が苦手で赤点を取る事もしばしばだったんだが。
164日本@名無史さん:02/05/05 12:30
>>162
だから、その研究者の個人的モラルに期待することを精神論というんだが。
つまり、研究者はもっと働けということでしょ。

まず人間一人が一定の時間に出来ることには限りがある。
だから、たくさんの人を動員しないと目に見える形で成果が上がらない。

そして、人を動員するには資金が要る。
物質的な費用だけではなくてかかわる人間が生活するための費用だ。
そして、日本の大学はそのような地味な作業を継続させるほど金をくれない。
研究者といっても収入を得なければならない一介の社会人であることを無視してはいけない。

あなたが史学界がサボっていると思うなら
現在、提出されている歴史的資料の発掘、整理、理論付けにどれほどの手間がかかるか調べてみな。

165日本@名無史さん:02/05/05 12:43
>>164

話ずれちゃった。
俺はあくまで、「研究の目のつけどころ、方向性」について言いたいんだけどね。
まあその点、観念的と言われても仕方がないわけだが。

研究の目の付け所としては、どう思うの?
たとえばね、イフになるけど、江戸時代の日本国勢図会というものがあったら、
あなたは自分の研究のために使う?
その資料から自分なりにグラフ描いて、統計学等を使って数式導出して、そういう研究すると思う?
あなた以外の史学者は、どう?

金が無い人が居ない以前に、そういう研究をする胎盤がそもそも史学界にあるのか、ひどく疑問。
どうなんでしょ?

166日本@名無史さん:02/05/05 12:53
>165
目の付け所といっても基礎研究ってのはもともとすぐに役に立つかどうかの観点は薄いんだが。
どの資料が必要かはその研究をする分野や研究者の思考によって違う。
古代史研究している人間にとっては多くの江戸時代の文献があってもあまり役に立たない。
そして全体としての基礎レベルの充実を図るには人員が多いことが不可欠。

遺伝子の開発でアメリカが強いのは大規模にやることにより、機械的に多くの研究をこなし
役に立つ立たないに関係なくデーターを積み上げているからだ。

道が百本あったらどの道に進ませるか一生懸命考えるより、100人の人を連れてきてそれぞれの道を歩かせた方が効率がいいんです。
167日本@名無史さん:02/05/05 13:07
>>166
すまん、数学嫌いであることの言い訳にしか聞こえん。
168日本@名無史さん:02/05/05 14:39
なぜ江戸時代の税制の話になってるんだ?
169日本@名無史さん:02/05/05 15:38
>>33
武田=騎馬中心、雑賀衆=ゲリラ。
170日本@名無史さん:02/05/05 15:45
>>169
ネタ?
釣り師?
171日本@名無史さん:02/05/05 15:49
>169
そうだったんだ。
武田って騎馬中心で、雑賀はゲリラだったのか。
漏れは、武田は足軽中心で、雑賀は集団だと思ってた。
172日本@名無史さん:02/05/05 15:54
>>171
ネタ?
173日本@名無史さん:02/05/05 18:03
慶長頃の日本の火縄銃は西洋のものに匹敵、あるいはそれ以上に標準器等が精巧に発展し、射撃術も発達しているので、伝来以降実戦の中で絶えず製作・運用の技術革新が行われていたと思われ。
それに、鎖国前までは他国(恐らくゴアとかの植民地拠点)に渡航して砲術を直接学んだと言う伝説を持つ猛者も居たらしい。 
が、なんだかんだいっても天正中期の実銃が完全な状態で残ってないのが痛い。
174日本@名無史さん:02/05/05 18:50
↑慶長頃の〜のくだりは、勿論同時期に並行するの西ヨーロッパのものと比較しての話です
175日本@名無史さん:02/05/05 19:10
>>161
予算は貰うものじゃなくて
奪う物なんですがね
176日本@名無史さん:02/05/05 20:03
全く誰も触れていないが、鉄砲の代価の目安(慶長〜元和 国友製の場合)
三・五匁筒=1石5斗 六匁筒=7〜9石 三十匁筒=48石 
177日本@名無史さん:02/05/05 20:31
長篠の戦いで、なんで武田軍はえんえん8時間も突撃を繰り返したの?
178日本@名無史さん:02/05/05 20:44
遠戦君どもがまたぞろ復活か?
去年白兵・遠戦スレで完膚無きまでに論破されたのに
懲りない面々ですな。(藁

179日本@名無史さん:02/05/05 22:11
鉄砲=遠戦(そもそも何がなにやら判らん用語だが)と決め付けるのは短絡的過ぎると思われ。古い砲術の中には、入り身技を伝えるものすらある。
180日本@名無史さん:02/05/05 23:18
>>178
馬鹿ハケーン
181日本@名無史さん:02/05/05 23:28
西洋の例を見れば、鉄砲の普及に伴って次第に槍兵が姿を消した。
日本でも大坂の陣の頃には既に槍兵より鉄砲兵の方が多かった。
遠戦にしろ白兵戦にしろ、槍より鉄砲が強いというだけのことだろう。
例え前装単発の火縄銃であってさえ、である。
182日本@名無史さん:02/05/05 23:32
バイオネットの発明まで槍兵に代わる戦力は出てきませんが何か?
183日本@名無史さん:02/05/05 23:35
>>182
で?
184日本@名無史さん:02/05/05 23:37
>>183
火縄銃が戦力のすべてにとってかわったかのような>>181の説はうそっぱち。
185日本@名無史さん:02/05/05 23:40
戦国中期以降に勢力割拠から中央統一へのうごきが出た一因は銃ダヨ。
もちろん経済の成熟の要因もあるけど根
186日本@名無史さん:02/05/05 23:41
>>184
だから?
187日本@名無史さん:02/05/05 23:43
デ・ダカラの消防ハケーン
188日本@名無史さん:02/05/05 23:43
さすがに現代戦では接近戦でも銃器を使うが、江戸末期位なら
砲撃で打撃を与えた後に白兵戦だから、ほとんどイコールなのでは?
言わば投石の延長か。
189日本@名無史さん:02/05/05 23:44
>>188
例えば大坂の陣では鉄砲は槍の三倍動員されている。
どちらがメインだったか、すぐわかりそうだけど?
190日本@名無史さん:02/05/05 23:47
火縄銃は余剰戦力としていて損はないから動員されただけ。
白兵戦の主力はあくまで槍。
鉄砲隊が名実共に白兵戦の中心になるのは銃剣が開発されて以降。
よって>>186は電波決定。
191日本@名無史さん:02/05/05 23:48
そうか鉄砲兵は専門だったのか。
192178:02/05/05 23:48
>181
遠戦派は武士の勇敢さを否定しようとするブサヨクの巣窟だろ
しょせん戦闘集団の「強さ」を物理的にしか理解できないんだよね (藁

なんで我がバンザイ突撃が米兵を恐怖のどん底の落としたのか説明してみなっての。
193日本@名無史さん:02/05/05 23:49
マウリッツやグスタフ・アドルフ始め横隊戦術はどれも
射撃中心の戦術だと思うんだけどさ。
194日本@名無史さん:02/05/05 23:50
>192
敵にしてみると、一向衆と同じだね。
195日本@名無史さん:02/05/05 23:51
一向宗はサヨクだろ。となるとおかしなことになるが・・
196日本@名無史さん:02/05/05 23:52
>なんで我がバンザイ突撃が米兵を恐怖のどん底の落としたのか説明してみなっての。

それが米兵の概念に無かった攻撃だからですな。
相手も慣れてきたら機関銃で皆殺しってなもんですわ。
まあいずれにしろ損害度外視の攻撃が戦国時代に出来たはずもない。
敢闘精神だけではどうにもならんのだよ、馬鹿ウヨク君(w
竹槍で飛行機でも落としていたまえ(ww
197日本@名無史さん:02/05/05 23:53
>>194
一向宗が損害度外視の白兵突撃で強かったなんてのは
後世の妄想だよ。
198日本@名無史さん:02/05/05 23:55
>>190
>火縄銃は余剰戦力としていて損はないから動員されただけ。
>白兵戦の主力はあくまで槍。

白兵戦の主力は槍でしょうが、白兵戦の頻度重要度はさほどでも
なかったのでは?
でなければ鉄砲を大量に揃えようとする意味が無い。
ただの余剰戦力でしかないのならね。
199日本@名無史さん:02/05/05 23:58
>損害度外視の白兵突撃で強かった
だから日本軍は強かったのか?
てっきり漏れは、相手がビビッただけだと思ってた。
200日本@名無史さん:02/05/06 00:00
>>199
>だから日本軍は強かったのか?
>てっきり漏れは、相手がビビッただけだと思ってた。

日本軍の時は、相手がビビッてたうちだけ、強かったね。
201日本@名無史さん:02/05/06 00:00
だから射撃部隊は突撃までいくらでも攻撃できるから数がいたって困らないのだよ。
いればいるほど有利なのだよ。
まあそれは突撃部隊も同じだが、掃討戦に近いのだから、大阪方の戦力を考えれば
鉄砲の3分の1でも事足りたということであろう。
なぜ銃剣というものが発明されたか考えよう。
完成された銃剣は完全に槍兵の存在意義を失わさせた。
そして現在でも銃剣は使われてる。
202日本@名無史さん:02/05/06 00:08
>>201
で、槍による白兵戦闘なり銃剣なりは状況によって必要でしょうし、
陸戦には陣取り合戦の要素があるので最終的に敵を追い出すには
自分がその位置を占める=突撃によって敵を追い払う必要が
あるわけですが、それ以前に鉄砲による射撃を加えれば加えるほど
有利であり、自軍の損害を軽減できるので諸大名はこぞって鉄砲を
集めたと解釈できると思うのですが。
また突撃にしても銃撃を行いながら突撃すれば銃剣・槍の需要は
さらに低下すると思うわけですが。
安価で数が揃え易い、状況によっては必要となる、銃剣なんて今じゃ
そのぐらいの存在理由だと思うのですが、今でも銃剣で刺突き合うのが
戦闘の主流なんですか?
203日本@名無史さん:02/05/06 00:09
ちなみに「一向衆」だ。
一向衆も相手の武将がビビッたからだ。
しかも皆が仲間内だから、逃げたりすると正に地獄だ。
204日本@名無史さん:02/05/06 00:11
>>202
い ま は ミ サ イ ル の 時 代 で す !!!!
205日本@名無史さん:02/05/06 00:11
>>203
そんな事例がそんなにあるんですか?
信長vs本願寺の時はほとんど無いようなんですが。
206日本@名無史さん:02/05/06 00:12
>銃撃を行いながら突撃
おいおい、当時は先込め単発だぞ。
連発は遥か後世の19世紀だ。
207日本@名無史さん:02/05/06 00:15
>>206
一発撃って脇から下がるのでは?
鉄砲の総数が多ければそれなりの射撃ができる。
208USK総統:02/05/06 00:15
信長軍は遠距離戦、馬防柵を用い、しかも物量戦でしか
強いとは言えません。接近戦となれば戦国で最も
最弱な軍になるでしょう。
209日本@名無史さん:02/05/06 00:15
流れからズレた発言でスマソ
>185 確かに経済、貿易の成熟無ければ大規模な銃隊は維持できないでしょうね。
織豊期に於いては硝石、鉛は輸入に頼らざるをえなかったし。それら資源の入手ルートに加えて、国友といった鉄砲の製作拠点を掌握し、之をを奨励することは信長以降、天下取り(笑)に必須の命題であったと思います。
210日本@名無史さん:02/05/06 00:15
>>208
桶狭間で今川軍を破ったようだけど。
211日本@名無史さん:02/05/06 00:21
異邦は知らず、我が皇国においては、
日本刀、これ最強。
ま、お前らアズマは先込め銃でも担いでろってことだ。(藁
212日本@名無史さん:02/05/06 00:22
>>211
ネタ?
213日本@名無史さん:02/05/06 00:33
>208 遠距離戦、物量戦で強ければ十分なような…… むしろ近距離のほうが当時の鉄砲の威力は脅威、まるで大口径のタムタム弾みたいなものだから。それに長柄鑓隊の援護があれば玉込の急場は凌げるだろうし。いざヤヴァイとなると銃手も腰にさした日本刀を抜く(藁
214初級反革命講座:02/05/06 00:44
君知らずや我が皇祖神武天皇におかれては、過ぐる寛永八年、太平洋上にて
憎っくき鬼畜米国第七艦隊は旗艦、原子力くうぼエンタープライズを
父祖伝来の業物、草薙の剣をもち真っ二つに切り裂いたのである。

その後は蜘蛛の子を散らすように逃げる敵護衛空母やら駆逐艦やらを
八艘越えに追い回し、ちぎっては投げ、投げてはちぎり、ついに第七艦隊は
一隻あますところなく全滅、敵将あーのるどぱーまも哀れ海の藻屑と消えたの
でわなかったか。

焦る米大統領ブッシュの必死のICBM攻撃も神武天皇手練の秘剣「矢斬り」
の前に一つ、また一つと斬り落とされ空しく海中に沈むのみ。万策尽きて
ブッシュ白旗を揚げたことではあった。
嗚呼豪なるかな、無敵なるかな我が皇国の刀剣。その威、西蛮を斥け、
その徳、四海を鎮む。皇国の護りは只日本刀のみにて足る、とぞ
皆語り伝えたるとや、と云々。
215日本@名無史さん:02/05/06 00:45
ここまでの意見を読んでくると、馬防柵を設けるってことが、一つの
鍵になっているよーな。遠距離というよりは、懐に入ってこれない状
況での鉄砲隊の活躍というか。馬防柵とセットで考えれば、他の合戦
でパッとしなかったワケが見えてきそう。
216日本@名無史さん:02/05/06 00:46
馬防柵っつっても空堀掘って柵作って要塞化してたんでしょ?
馬防柵っていうの?
217日本@名無史さん:02/05/06 00:52
>>215
例えば1576年5月3日の織田軍対石山勢の戦いでは、
遭遇戦であったらしいにもかかわらず、一揆勢が
「数千挺の鉄砲」を撃ちまくって織田軍を敗走させたらしい。
長篠はむしろ鉄砲の絶対量に自信が無くて陣地を堅固にしたんじゃないか。
218日本@名無史さん:02/05/06 00:59
柵と言えば、岩倉城攻めにも二重三重の垣を張り巡らしているね。
これは城から逃げられない様にする為で、周りから弓・鉄砲を
打ち込んでいる。
219日本@名無史さん:02/05/06 01:22
まあ敵と相対するのに陣地を固めん方がおかしい気がするが。
長篠で勝頼が布陣した才ノ神の方にも陣地構築の跡が残ってるとか。
220日本@名無史さん:02/05/06 01:29
>>217 鉄砲の増加が、野戦で土木的・大規模なな遮蔽物を必要とし始めたといういうのは面白い考え方ですね。
九州の島津等も進撃に合せて非常に多く小規模の「城誘」(築城)をしていると言う指摘があるけど、それも鉄砲の導入が転機になっているかもしれん。 
  ・・・・こうゆうタイプの戦闘の終着点が小牧・長久手になるのだろうか
221日本@名無史さん:02/05/06 01:50
面白くなってきた♪
良スレ化の予感!
222日本@名無史さん:02/05/06 03:34
二百三高地っていったけかな?日露戦争あつかったの映画みたことあるけど
ただひたすら突撃してロシアの機関銃でやられまくってた。あんな突撃する
なら火縄銃でもいいから竹束もって隠れて撃ってたほうがいいんじゃないかとフッと
思ったです。
223日本@名無史さん:02/05/06 04:02
↑当時の日本兵は結構ナイスな小銃をそうびしていたよ。
それに、竹束に関して誤解している人が多いようだが、アレは土嚢を竹で包んで立体的に保持する道具だから相当重い。全部竹だと火縄銃でも貫通してしまうよ
224日本@名無史さん:02/05/06 05:23
たかが単発、火縄銃と侮る無かれ。
実際、矢や礫なら従来の板盾で十分防ぐことが出来ていたのに信長の時代に入ると、上の竹束の他に石を詰めた箱や塀、土俵、本当に米が入った米俵まで導入するいう一見地味だが“防弾”を意識した遮蔽物の変化が全国的に広まった。
之は鉄砲の威力を裏づけする何物でもないと思う。
225日本@名無史さん:02/05/06 05:27
なるほどねぇ! 面白いなぁ!
226日本@名無史さん:02/05/06 05:34
火縄銃って弾の初速どのくらいなのかな
あと音
227日本@名無史さん:02/05/06 05:52
ん〜なんかの実験では竹だけの竹束で銃弾止まってたけどな〜

冬の寒い時期の真竹が身が固くて良いらしい。
228日本@名無史さん:02/05/06 05:55
日本の火縄銃を用いた科学的データは取られてないみたいだが、同じ滑腔で球形鉛玉使用を使用するオーストリアの近世初頭期(16C〜18C)
)製作のマスケット銃とピストル13丁を用いたテスト平均は、秒速454m。最高は533mだったそうです。意外と早い
音は… どうだろう? 玉打つ分、現在でもよくある空砲射撃よりはくぐもった音がすると思うが・・ 火薬量が多いからなぁ??
229日本@名無史さん:02/05/06 05:55
222以降を白襷隊に編入、突撃を命ず!
230228:02/05/06 06:02
タイプミスが多い 鬱だ
231日本@名無史さん:02/05/06 06:02
>>222
とりあえず重機関砲の弾は竹束で止めるのは無理です〜
232日本@名無史さん:02/05/06 06:10
一匁半のごくごく小口径な火縄銃の計測結果で初速480m/sだったね。

弾丸が大きくなると、どうだろう?
戦場で使われたのは二匁から三匁の小口径のものが多く、
有名な六匁や十匁はむしろ少なかったようだね。

まあ西洋で結局マスケットがアルケーブスに取って代わられた事を
見てもわかる通り、小口径でも人を殺傷するだけなら充分なので、
軽いほうが良いということなんでしょうな。
233日本@名無史さん:02/05/06 07:03
日本にもアルケーブスとマスケットと言う異なる2タイプの銃が流入していた可能性は十分ありそうですね。有馬と竜造寺の軍勢が装備していた銃が違うと書いている宣教師も居たような…
前者は所謂「鳥銃」と呼ばれて主流になり、長大な後者の性格は「大鉄砲」のような遠距離狙撃用に特化して生き残ったのかも。
234USK総統:02/05/06 09:07
>>210
桶狭間で今川軍を破ったのは、それが奇襲攻撃であったためでしょう。
今川軍本体は5000で目前の大勝利に酔いしれていた。そこに、
決死の覚悟の織田軍2000〜3000が突撃してきた。
しかも、今川軍のいた田楽狭間は突然の雨のため、
泥で数の多い今川軍にとっては動きずらかった。
それに、その戦いは信長自ら軍を指揮していた。など、織田軍にとって
とても好条件がそろったらから勝利を収めたのでしょう。
235USK総統:02/05/06 09:18
>>213
たしかに織田軍は物量戦というもっとも合理的な戦法をとっていた。
しかも、戦国でいち早く兵農分離をした正規の軍隊。鉄砲の性能も
戦国大名の中では群を抜いた性能と数。
ですが、鉄砲を構えているところに、騎馬隊が怒涛の勢いで
疾走してきたら、鉄砲隊では相手にならない。鉄砲は次の発射まで
時間がかかる。弾ごめしている間に壊滅させられると思います。
長柄隊が出てきても、応援できるできるでしょうが、長柄隊が
前線に出るため、十八番の鉄砲が使えなくなってしまう。
だから、相手がよっぽど弱く、それでいて、数が圧倒的に少ない
とき以外は長柄隊では応戦しきれないと思います。
例えば、姉川の戦いでは数の少ない浅井・朝倉に緒戦は
かなり押されていましたから。信長本陣も危うくってトコまで。
236日本@名無史さん:02/05/06 09:27
>235
少し前まではその答えで及第だったのだろうが、
最近そのどれもこれも否定されたりしてるし。
237日本@名無史さん:02/05/06 09:31
>>236
じゃあ、正しい答案を示してよ。あなたが。
訳知り顔で他人の見解を否定するだけではヨタカキコと見なすよ。
238236:02/05/06 09:38
(1)信長が他大名と質的に違うほどの兵農分離をしていたのか疑問
(2)信長軍が鉄砲の装備率が高かったわけでは全然無い。
(3)日本には明治まで「騎馬隊」なんてものは無かった
(4)姉川で信長が浅井に押された、という証拠が甚だ少ない

これらについてはそれぞれに関するスレを当たること。
てゆうか、235氏は、この板に来て日が浅いんじゃないかな。
どれもさんざん語られていることなので・・
239USK総統:02/05/06 09:44
>>236
正直日は浅いすぎるほどです。
スレは質問があったので自分なりにそれに答えてみました。
(1)信長が他大名と質的に違うほどの兵農分離をしていたのか疑問
(2)信長軍が鉄砲の装備率が高かったわけでは全然無い。
(3)日本には明治まで「騎馬隊」なんてものは無かった
(4)姉川で信長が浅井に押された、という証拠が甚だ少
   ↑のことに対しての詳しい説明をもらえたら嬉しいです。
    私はまだ厨房なのでまだまだ見解が浅いのかもしれないです。

240236:02/05/06 10:05
(4)ですが、浅井に押されて、十段(だっけ)の構えを次々に
破られた云々、ってのは、時代の下った、資料的価値が低い文書にしか
出てこないとか。というか、あれは、「弱い織田の危機を強い三河軍団が
救ったのだ」みたいな事が言いたいがための政治的意図のある
フィクションであると。

実際、最近それまで一般的に信じられていた「定説」の覆されるのが
多くて、自分のような普通の歴史ファンとしてはとまどってしまうことが
多いです・・
241顔も名前も出さずに毎月100万円:02/05/06 10:06
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242USK総統:02/05/06 10:09
>>240
そういうフィクションはよくありますね。
今でもいろいろな国がやってますし…
ていねいにご説明頂きありがとうございます。
243日本@名無史さん:02/05/06 10:15
実際の姉川、実際の長篠はどんな具合の戦闘だったの?
これは当然訊いていい質問だよね?
244日本@名無史さん:02/05/06 10:29
割と楽勝だったそう。
でも、浅井朝倉も、その後他の軍事行動に出る余力があったみたい
だから、壊滅的打撃を受けたわけでないらしい・・
245ハッタリ:02/05/06 10:31
長篠では一部馬防柵を破られてるけど。
246日本@名無史さん:02/05/06 11:09
姉川の合戦は、実はたいした意義がない合戦だった。
のだが、徳川勢が活躍したという面があったので、後の徳川時代に注目されるようになった。
姉川の合戦に注目するということ自体が、すでにバイアスがかかっているのだ。
247日本@名無史さん:02/05/06 11:15
やはり史学の連中は数字音痴。
動員人数でも石高でも、足せば相当な数字、
それが衝突したのに無視していいっつう話もねえんじゃねえか?
248日本@名無史さん:02/05/06 11:22
>247
誰も無視はしてないよ。ただ、有名になってる割にあまり意義がなかった、
と言ってるだけ。

名にのみ高くて馬鹿馬鹿しい戦争は他にもたくさんあるよ。例えば、
宋の襄公が負けた戦は、あれは後世の儒者が襄公の態度を持ち上げたと
いう理由だけで今にも名高いわけで。
249日本@名無史さん:02/05/06 11:51
日本戦国における「合戦」が当時の社会的に何を判定するものであったか、
その判定に基づく被官層の行動原理はなんであったか、
それに姉川の合戦に動員された戦闘人数(=人)、物量(=モノ)、
その勢力基盤や経済力(=石高、カネ)を見れば、

>馬鹿馬鹿しい戦争

にはならないと思うのだが、如何。
250日本@名無史さん:02/05/06 12:20
>>201
銃剣が現在でも使われてるってのは
本当ですか?信じがたいのですが、
基本的に銃剣の存在意義は第二次大戦の段階で
失われたはずる
251日本@名無史さん:02/05/06 12:26
質問なんだけど、
長篠の戦いで
小数説 織徳軍一万五千〜二万 武田軍八千

多数説 織徳軍三万〜四万 武田軍一万五千

どちらが正解なんですか?
252日本@名無史さん:02/05/06 14:38
>251
「信長公記」では三万としていて、それを途切れ途切れに兵を配したと
している。
またこの戦いは鉄砲による死亡者も多いが、その後の追撃戦による死亡者
の方がさらに多い。
有名な武将のほとんどは、この追撃戦で死亡している。

また鉄砲が一般的に戦に使用されるまでは、戦と言っても死者は少なく
大抵が逃亡したり敵側に寝返ったりが多かったようだ。
253ともチャン:02/05/06 14:46
ていうか、姉川の合戦はいくさの規模としては大きいけど、
では、勝った織田が、浅井朝倉に対して大きく地歩を
とるようになったかといえば、そうではなく、
また負けた浅井朝倉の傘下の多くが織田に鞍替えしたかといえば、そうでもない。
しかも、織田はむしろ姉川の合戦のあとのほうがやばくなってるし、
比叡山に篭られたりして、めちゃ危なかった。

という意味で、意義はなかった、といっているのじゃないか。
もちろん姉川の合戦で織田が負ければ、
よりやばかっただろうけど。
254日本@名無史さん:02/05/06 15:21
つまりその「規模の大きいいくさ」が「政局や経済に与えた影響はあまりない」
とおっしゃるわけですね。
では、浅井・朝倉がその後退嬰して最終的に崩壊するのは何ゆえだと思われますか。
255日本@名無史さん:02/05/06 15:40
姉川の合戦における浅井・朝倉の死者は、7千とも8千とも
伝えられている。
が、江戸時代に記された資料がほとんどであり、徳川軍も奮戦
により窮地を脱した織田軍との意図もあり、あまり信用すべき
ものでは無い。
その後、浅井・朝倉は三年間存在しており、それを決定付けた
のは政治的解決による所が大きく寝返る武将も多かったし、朝倉
などは内乱が有ったのは有名な話。
つまり戦で全てが決まるわけではなく、その前後の政治的戦略の
占める部分が大きい。
256日本@名無史さん:02/05/06 16:33
ばかだな、その政治的解決の一手段が戦なんじゃないか。
戦争は政治の一手段だよ。
あれだけの物量と人とカネ動かした「政治手段」が
「徳川のデッチ上げだからあまり信用すべきじゃない」
という理由だけでまるまるすべて「意義がない」としたら、そりゃ史学はアホだとも笑われるよ。
「あの戦争は馬鹿馬鹿しい戦争。これは意義がある戦争」
なんて言い方をしたら
「この国の歴史は正常な発展、この国は歴史の畸形児」
なんて言う○楠と同レベルじゃないか。
257日本@名無史さん:02/05/06 17:01
>256
歴史的意義の大小、ってのは明らかにあると思うのが常識ってもん
じゃないの?長篠の合戦が日本の後世に与えた影響と、
規模が同程度であったとしても川中島の合戦のそれとはやはり違うだろ。
まさに、戦争とは政治的目標の達成の一手段であるからこそ、もともと
大目標とズレた、あるいはぼやけた目標しかなくて始まった戦争は、
歴史的意義が少ない、と結論されるわけ。

あと、>256の後半は論理的には牽強付会、論理的には言いがかりに過ぎないね。
自分のカキコを読み返してよく吟味してみた方がいいぞ。
258日本@名無史さん:02/05/06 17:13
>>256は、しっかりとスレを読んで無いのかな?
それとも、自分の論に流れを持って行きたいだけか。

経済学で歴史を理解しようとする、前に書き込んでた方と
同一と考えられるが、過去と現代では同一の価値観で語る事
は出来ないよ。
259日本@名無史さん:02/05/06 17:25
煽りに反応するあなたも厨房
260日本@名無史さん:02/05/06 17:29
>それとも、自分の論に流れを持って行きたいだけか。

明らかにこっちだろ。なんかその小狡さが看過できなかった。
厨房スマソ。
261織田信長:02/05/06 17:38
>>260
許してつかわす(w
262日本@名無史さん:02/05/06 19:43
>>250
んなあこたない。
今でも東西の歩兵の主力になってるAKやM-16には銃剣が装着できる
ようになってる。
まあ、第二次大戦のころから歩兵部隊同士が小銃もって対峙するような
ことはほとんどないがね。
それをやっちゃったのがベトナム戦争。
263伊達遠江守家中:02/05/06 20:06
日本史板なのでちょっとネタ違いになるけど、第一次世界大戦の海上戦で
説明してみると、
戦闘の規模は大きいけど、その後の歴史に与えた影響が少ない戦い
ジュットランド海戦(大艦巨砲主義の悼尾に過ぎなかった)
戦闘の規模は小さいけど、その後の歴史に与えた影響が大きい戦い
対Uボート戦(戦訓を生かしたイギリス→戦勝、生かさなかった日本→壊滅)
なんていうのがある。
大戦後、日本海軍の大勢は前者ばかり研究してた。
264日本@名無史さん:02/05/06 21:46
規模は大きくても単なる撃ち合いか、規模が小さくても敵を封じ込めるか
と言った所でしょうか?
確かに、全ての戦いに勝てればそれに越した事は無いけど、常勝無配って
まず有りえないしね。
265日本@名無史さん:02/05/06 21:55
で、何のスレよ?(w
266日本@名無史さん:02/05/06 22:01
信長タンの鉄砲隊は、終いには世界最狂レベルまで至ったっぽいけど、砲兵隊はいまいちじゃないかな? といったスレ
267日本@名無史さん:02/05/06 22:08
>>266
「鉄砲隊」限定なら「三段撃ち」すら疑問視ちゅうかほとんど
否定され、雑賀衆にも勝てなかった信長より
ゴンサロ・デ・コルドバとかマウリッツとかグスタフ・アドルフ
とかの方が有名かつ戦史に影響があったんでないかい?
砲兵は言うに及ばず。
268日本@名無史さん:02/05/06 22:20
日本の合戦は、意外と早い段階でパヴィアの戦いクラスの小火器戦闘レベルに達したのではないかといってみる。
269日本@名無史さん:02/05/06 22:29
>>268
意外とと言われてもパヴィアが長篠の50年前だよ・・・
あと既に独立兵科が存在し、横隊戦術の登場していた軍隊同士の
戦いと比較するには相違点が多くて比較が難しい・・・
270日本@名無史さん:02/05/06 22:34
>>228>>232
現代のライフル銃の初速3000m/sだよ
271日本@名無史さん:02/05/06 22:39
>>270
小口径高速弾のM16A1でも初速990m/sなんですが。

どんなライフルですか?
272日本@名無史さん:02/05/06 22:42
269> 逆説的に考えると、五十年もタイムラグがある天正中期の日本に於いて、それに似た戦術が行われたとしても不思議でないような 気もする
それに、日本の合戦を考える上で、西洋の槍兵と銃兵の関係は大いに参考になると思う。 少なくとも日本でも長柄隊や鉄砲放し中間といった独立兵科っぽいもの萌芽が見られるし
   …確かに単純な比較は出来ないけど(亡)
273日本@名無史さん:02/05/06 22:44
>>272
でも独立兵科はその後300年たっても独自にはできなかったり
したわけでさ。
日本の場合一人の指揮官の下に鉄砲・槍・騎馬が従うから
その行動パターンも自ずから西洋と異なるわけでさ。
274日本@名無史さん:02/05/06 23:04
>>271
え?そうなの?
柳田理科男に騙された!
275日本@名無史さん:02/05/06 23:38
>>274
柳田理科男の本にもライフル弾や弾丸の速度は約時速900mとしか書いて
なかったハズ。
276日本@名無史さん:02/05/06 23:44
>>275
>約時速900m

おいおい(w
277日本@名無史さん:02/05/06 23:46
>一人の指揮官の下に鉄砲・槍・騎馬という
 
必ずしも戦国期を通じて、このようなユニット制を固守した根拠は無いと思う。
最盛期の織田のような支配力を強めつつある家中では、鉄砲筒頭といった役名で各兵科専門の指揮官を任じ初めてるし…  
平の銃手でも選抜試験みたいなものが行われていたと考えるのが自然。 
戦術については、時代が下ってしまうけど朝鮮出兵の時、小規模な遭遇戦で徒歩の日本隊の鳥銃兵が、横列に散開して射撃する戦法をとるのが非常に厄介だとの朝鮮側の記録もある。 
…この場合は日本刀を持った白兵隊が発砲後、掃討するのが常道だったらしいけど、これは相手が小銃を持っていないからなぁ・・?
家康の大阪冬の陣に至っては、西洋でいうブリーチローディング砲や大形マスケットのような大形火器で昼夜を問わず、それなりの砲撃を展開できるほど専門的な火砲運用部隊が組まれている。
色々な家中の寄せ集めといえば当にそうなのだが(痛)  夫丸、兵站を含めた銃・砲撃部隊の一元管理が出来ないと不可能な業だと思う
278日本@名無史さん:02/05/06 23:55
>鉄砲筒頭といった役名で各兵科専門の指揮官を任じ初めてるし…

問題はその兵科ごとの指揮官が独自の作戦行動を取るか?
ということね。足軽組頭や小頭はあくまでも各武将の指揮系統円滑化の
ためにあるもの。
そうなると独立行動した例ってのはせいぜい長篠の
「1000挺ばかり」しか出て来ない。
もちろん、鉄砲が前列、槍が次、武士最後という「備」は
構成されていて、それを横に連ねるとキッチリした
ファランクスが出来上がるわけだけど。
ただ○○率いる重騎兵が○○の槍隊と交戦し・・・とは
ならないだろう、と言ってるだけなわけで、どちらが強いかとかは
言わないけどさ。
279275:02/05/07 00:11
>>276
やあ間違えた!秒速約900mだった(w
「時速」では当たっても死なんな。
280日本@名無史さん:02/05/07 00:13
>>279
走って追い越せるよね(w
281日本@名無史さん:02/05/07 00:41
兵科分けしてたかどうかは否定する資料も肯定する資料もないからねー

俺の意見としてははっきり分けてはないが
ある程度の兵科分けはしてたとは思うけど
282日本@名無史さん:02/05/07 00:58
当時の日本の鉄砲の数はヨーロッパ全土のそれを上回っていたと。
その日本で最も装備されていたのは信長の軍隊だったろう。
ゆえに信長の鉄砲隊は世界一だった。
簡単で分かりやすい。
283日本@名無史さん:02/05/07 01:03
>282
確かに「分かりやすい」や。
幸せな思考回路ですね。
284日本@名無史さん:02/05/07 01:41
結局、ヨーロッパの軍隊とは戦うことがなかったんだから、
ここであれこれ論じてもしょうがないこと。
よしんば、信長の軍隊がヨーロッパ軍とやりあうのに不都合な編成だと
しても、いざ戦うとなれば必要にせまられて変えたかもしれんし・・・
世の中には万能の編成や装備なんてものは無いんだからさあ。
IFを想像するならば、そういう余地があったかなかったくらいしか語れな
いのでは。
たとえば、アフリカの土人なんて、いくらヨーロッパの砲兵対策しろって
言われても難しいよね。あと朝鮮兵とかも・・・
285  :02/05/07 01:44
ノブナガ最強!
286日本@名無史さん:02/05/07 01:50
>>284
ん?
俺が土人にM16A1を渡せばイスパニアの白んぼどもを蹴散らせますが何か?
287日本@名無史さん:02/05/07 02:13
ドジン最強!
288日本@名無史さん:02/05/07 02:14
やっぱり最強云々は不毛な論議に陥りやすいので避けたほうが良いですね。
織豊期の火砲自体については、とても面白いネタであると思うけど(悲
289日本@名無史さん:02/05/07 03:08

それをいっちゃおしめーよ。
290日本@名無史さん:02/05/07 18:29
会戦時に、(射撃間隔に余裕をみて)5分に一発づつ射撃を行った場合、
1時間に12発の発砲が行われる。戦いが5時間の場合は60発。
3000挺の銃があるなら単純に180000発分準備しなければならない。
さらに当然のことながら戦いは数日にわたると想定しているはずなので
この数倍の余剰弾薬を準備しなくてはならないだろう。
果たしてこれだけの弾薬を各部隊長が自弁できるのか?
また大名が準備するとしてもこれだけの量を常に備蓄し続けておけるのか?
291日本@名無史さん:02/05/07 18:38
>>282
それがどうも分からんのだが、「ヨーロッパ全土」で、
「ある時期」に「誰が何挺」持ってたかなんてどうやって調べんの?

日本だと織田軍と言えども関ヶ原や大坂の陣のころの連中と比べりゃ
雀の涙みたいな装備率だと思うしさ。
292日本@名無史さん:02/05/07 18:46
>291
厨房の荒しだから反応しちゃダメ!
誰もあんな事信じちゃいないから。

>290
1人が18万発の弾丸は無理だけど、180人が千発なら可能かも。
それに常に撃ち続けたとも思えないし、タイミングを見ながらだと
思うから、もっと少なくても可。
もっとも、あまりにも戦が長引くと結果は違っていたかもね。
293日本@名無史さん:02/05/07 18:49
落合信彦も言ってたよ。
当時の信長は世界最強の軍隊の総帥でもあったって。
本能寺がなかったら、ローマまで征服したってさ。
294日本@名無史さん:02/05/07 18:51
>>292
信長が長篠のために調達した弾丸は「二万発」だとどっかで聞いた。
引き抜いた鉄砲隊が1000人だから一人20発・・・

>>293
んな電波誰が信じるんだよ(w
オスマントルコどころか明すら征服できねーって。
295日本@名無史さん:02/05/07 19:07
>294
二万発なら十分に可能だね。
実際、鉄砲も無限に撃てるわけじゃないから、予備として使わない
鉄砲も有ったと思う。

>293
それは歴史じゃないから、日本史板じゃなく三戦板か電波板のネタ
だと思ふ。
しかも落合信彦か・・・
296日本@名無史さん:02/05/07 19:28
鉄砲を打ち続けると銃身が熱くなるため、玉を込めようと火薬を入れたときに、暴発してしまうことがよくあったらしい
鉄砲をよく知らない者が使うとこの暴発事故がよく起こったそうだ

長篠の合戦でも鉄砲3000丁全部を使って撃ち続ける事無理なんじゃないかな
297日本@名無史さん:02/05/07 20:07
そろそろ軍事板へ行ったら

夜郎自大のアホばっか
298日本@名無史さん:02/05/07 20:49
>>296
暴発なんて、近代兵器にもあるさ。
299日本@名無史さん:02/05/07 20:49
296> 前装銃程度の射撃速度で、暴発を引き起こす程の熱が溜まるものなのか甚だ疑問だと思います。
長篠よりずっと後、尉山城に於いて、武将クラスの加藤安行が280発を発射したと云う記録を残していますが、実戦でそれほどの射撃を実現するには、従卒四人がかりで2丁の鉄砲を取替々々装填して漸く実現したものみたいです。
また、火縄銃の主な暴発事故は、引き金が軽いことと、構造上の宿命として火蓋の接合部・火道部と底の螺子が高圧ガスで弱ってしまい弾けるというものらしいですし。
一見銃身の熱の所為に見える暴発事故は、何分黒色火薬を使用しており、且つ玉を紙で包んで止める例もあったのですから、射撃直後に銃身内に存在した残り火が事が原因であると考えるほうが自然です。
古流砲術でも、発射後銃口から息を吹き込んで火を追い出す動作をしていますよ。
300229:02/05/07 20:52
訂正 追加↑一日280発
301日本@名無史さん:02/05/07 21:29
遠戦派ってゴキブリみたいに叩かれても叩かれても出てくるのな・・(藁
302激しく板違いスマソ:02/05/07 23:42
301>  飛び道具(含む鉄砲)=遠戦(2ちゃん用語) 〔類語:卑怯者 サヨ〕と果たして言い切り、嘲ることができるのでしょうか?
攻撃精神が旺盛な方は、射戦・火器戦術を 〜「僕等は敵から離れられる だから嬉しい、安心だ マンセー!!」…ではなく
「敵が遠くにおっても俺達は攻撃仕掛けるぞ ゴラァ!!!(゚Д゚)」と、攻撃性と攻撃手段の一層なる拡大をもたらすものであると捉えることも可能なのです。
当然ですが鉄砲、弓そして投石に至っても敵に接近すればするほど攻撃力は大きくなっていきます。
また、実際の様々な合戦で鉄砲が接戦でも用いられた可能性を遠まわしに肯定することは出来ても、断じて否定する史料はありません。
303日本@名無史さん:02/05/07 23:43
まあ暴発の一番の原因は火薬の不完全燃焼物だね。
これが銃身内にこびりついていくんだが、まあ何かの拍子で爆発に
至ることがある。
仏郎機だとこの燃えカスってのがあなどれなくて、暴発で
80人が死ぬ大事故もあったね。
304日本@名無史さん:02/05/07 23:53
その上、フランキの場合は母砲と子砲の接合部がかなりの不安材料でありまするな。
305日本@名無史さん:02/05/07 23:59
全世界の中古銃が日本に集中したのは、ヨーロッパの戦いが
終息した、日本の戦国時代と明治維新です。
306日本@名無史さん:02/05/08 00:11
>>305
硝石なんかは輸入に頼ってたわけだけど、
火縄銃自体の輸入はどれくらいあったんでしょ?

どうもあんまりなかったような気がするんだけど。
307日本@名無史さん:02/05/08 00:29
間違えなく織豊期から鎖国になるまで、少量の贈答品や、一種の研究資料としての輸入なら有るだろうけどねぇ。やっぱり実戦で使用するために大々的と…なると無かったっぽいような。
小銃送る余裕があったら、硝石、鉛をもっと売ってくれよ(藁
308日本@名無史さん:02/05/08 01:31
>>305
どうせ、つまらぬサヨ学者の妄説だろう。
309日本@名無史さん:02/05/08 01:35
>>305
別にサヨ学者である必要はないんじゃ・・・

ただヨーロッパの戦いに「終息」ってあるのか?
310日本@名無史さん:02/05/08 03:25
>>305
一応聞いておく。根拠やソースは何ですか?
311日本@名無史さん:02/05/08 03:32
明治維新当時の中古武器に関してはヨーロッパよりもアメリカの
南北戦争終結の方が大きいような。
312日本@名無史さん:02/05/08 08:34
>302
遠戦派=厭戦派=戦後マンセー=サヨ

313日本@名無史さん:02/05/08 14:58
>>312
つまらん煽りすなよ。

「遠戦志向があった」と言われれば、なるほどそんな気がする。
大艦巨砲主義も航空主兵も、いかに遠くから敵を殲滅するかという思想だし。

だが「大和の46サンチ主砲は敵の射程圏外から一方的に射撃を浴びせて
勝つことができるのだ〜!!」とか
「我が国の艦爆・艦攻の航続距離の長さを活かしたアウトレンジ戦法by小沢治三郎」
とか
戦争マンセー君でも>>312理論ではサヨになってしまうのだよね(w
314日本@名無史さん:02/05/08 15:09
人間使い捨ての帝国陸軍にはわからんだろう(w
315日本@名無史さん:02/05/08 15:24
人間使い捨てなのは今も大して変わらんが、その後の補償という
点では帝国陸軍の方が楽だったかもしれない。
316日本@名無史さん:02/05/08 15:42
酸素魚雷もサヨ兵器か・・・
317日本@名無史さん:02/05/08 15:43
このスレ見てると、サヨ=ウヨなのか?
318日本@名無史さん:02/05/08 15:45
>>315
大陸に進出していまだに賠償求められるのは陸軍のせいです(w
319日本@名無史さん:02/05/08 15:45
ウヨとサヨは表裏一体!
ウヨ乱れるとき、サヨ現る!
ウヨとサヨは争ってはいかんのじゃ〜・・・!
320日本@名無史さん:02/05/08 15:49
>>319
北斗・南斗、そして元斗・・・!

ファルコ萌え〜〜
321日本@名無史さん:02/05/08 15:49
>>318
でも補償を求められてるの、現代日本だし。
もっとも、補償と言う名目のものは行っていないか。
322日本@名無史さん:02/05/08 15:50
>>321
まあ遺族に年金出してるのも現代日本だが。

補償? ちゃんと国家賠償を終えてるよ?
323日本@名無史さん:02/05/08 15:56
あっ、国家賠償はやってたか。
324日本@名無史さん:02/05/08 16:13
信長の時代の戦闘でどのような兵器、戦術が用いられたか?という事についてや、当時の技術的、経済的な背景を考察するということ行為自体は、
ウヨサヨ論争と全く関係ない次元に存在していると思えるが(w

保証といえば日本の戦国時代を通じて、どこの国の大名でも、自軍の死傷した将兵や、その家族に便宜や恩賞を与えているね… 
325日本@名無史さん:02/05/08 16:29
>>271>>275
読み返したら、時速3000kmだったよ
326日本@名無史さん:02/05/08 16:46
>>324
「飛び道具中心」とか言うと途端にサヨにされてしまいます(笑)
327日本@名無史さん:02/05/08 16:53
>>324

>保証といえば日本の戦国時代を通じて、どこの国の大名でも、
>自軍の死傷した将兵や、その家族に便宜や恩賞を与えているね… 

そうなのか?ソースは。
328日本@名無史さん:02/05/08 23:25
>>327
それはひょっとして...ネタで言っているのか(ォ 
大名自身に余裕があるのなら、何らかの庇護や恩賞を与えることは当然だと思えるけど 
そもそも討死・戦傷は栄誉とされていた時代ですし。
329日本@名無史さん:02/05/09 00:26
>313

こいつジブンでサヨと認めてやんの・・(ププ
しかも知障まるだし
330日本@名無史さん:02/05/09 00:39
>自軍の死傷した将兵や、その家族に便宜や恩賞を与えているね… 
これはどーみてもおかしいと思うが
手柄があったとかなら恩賞もでるだろうけど
戦争参加自体は納税免除で義務化してた訳だし
付け加えれば、将兵ってのもかなり語弊があると思う
331日本@名無史さん:02/05/09 00:57
「甲州法度」では確かに戦に動員されて死んだ場合、税制に
一定の手加減があったが・・・

史料の無い家も多いからな。

>>330
>戦争参加自体は納税免除で義務化してた訳だし

全部免除してくれるほど甘く無いことも多いようだけど。
332日本@名無史さん:02/05/10 02:32
信長にホモられた武将の名をあげよ。
333日本@名無史さん:02/05/10 02:58
前田蘭丸
334日本@名無史さん:02/05/10 03:02
柴田勝家。「武功夜話」にも書いてあるよ。
335日本@名無史さん:02/05/11 00:53
>>334
勝家?
立場と年齢からして有り得ない。
336日本@名無史さん:02/05/11 02:18
しかも「武功夜話」かい!
ネタレスか。
337日本@名無史さん:02/05/21 21:24
ウヨサヨ論争がスレをダメにしてしまうという見本の様なスレだな。
338日本@名無史さん:02/06/18 13:12
島津が最強だよ。
339日本@名無史さん:02/06/18 20:39


雨降ったらおしまい。
ただの鈍器
340日本@名無史さん:02/06/18 22:21
遠戦派=厭戦派=戦後マンセー=サヨ
遠戦派=厭戦派=戦後マンセー=サヨ
遠戦派=厭戦派=戦後マンセー=サヨ
遠戦派=厭戦派=戦後マンセー=サヨ
遠戦派=厭戦派=戦後マンセー=サヨ
遠戦派=厭戦派=戦後マンセー=サヨ
遠戦派=厭戦派=戦後マンセー=サヨ
遠戦派=厭戦派=戦後マンセー=サヨ
341日本@名無史さん:02/06/18 22:30
>遠戦派=厭戦派=戦後マンセー=サヨ
ってことは、
近戦派=戦前マンセー=ウヨ
で日本は負けて当然ってことか?
しかし近戦派って・・・
342日本@名無史さん:02/07/04 22:46
age
343日本@名無史さん:02/07/04 22:49
>>339
もちっと勉強しろや
344日本@名無史さん:02/07/04 22:56
織田鉄砲隊の陣構えは明智光秀が導入したわけだが、
その明智は高野山の僧から薩摩・島津の鉄砲団の陣構えを参考にした。
345日本@名無史さん:02/07/04 22:59
雑賀衆は?
346日本@名無史さん:02/07/04 23:06
>>344
島津って参考になる程の規模の鉄砲隊なんて持ってたっけ?
347日本@名無史さん:02/07/11 21:49
人口の少ないヨーロッパと比べるのは酷だ。
アジアで、いくらでもあるだろ。
348ぺーさん:02/07/11 21:56
 たしか長篠の戦が世界で初めての銃撃戦のはずだから、あの時点で世界の
何処にも大規模な鉄砲隊はなかっただろうと考えるのが妥当。よって、当時
信長の鉄砲隊は世界最強だった・・・と思う。
349日本@名無史さん:02/07/11 21:58
348からまたループが始まる。
350日本@名無史さん:02/07/11 22:02
>348は悪質な燃料を供給しますた。
351日本@名無史さん:02/07/11 22:11
なんだー、このスレまだ生きてたのか?
352日本@名無史さん:02/07/11 22:13
>>348のレスは歴史は繰り返すという良い例ですな。
353日本@名無史さん:02/07/11 23:35
>>348
でもさぁ、日本で鉄砲の生産台数がうなぎ上りに伸びたのは騎兵の存在が無かったからでは、とか思ってみる。
354日本@名無史さん:02/07/11 23:37
>>353
騎馬軍はあるよ。
355日本@名無史さん:02/07/17 02:54
長篠・設楽原の戦いは、銃撃戦ではありません。

まず、三段構えというのは、鉄砲の三段撃ちではなく、川・空掘・馬防柵のこと。
何でこんな要塞を急造したのかというと、織田軍が弱かったからです。

 鉄砲の目的は人間よりも、馬だったと思われます。
武田の騎馬隊は有名ですが、ほとんどが農耕馬を流用していました。
その馬を殺してしまえば、一気に武田領内の生産効率が低下するのです。
真正面から騎馬に突っ込まれたら、人間の体の半分は、馬の首と頭で隠れてしまいます。
 馬を狙ったもうひとつの理由は、馬防柵が壊されるのを警戒したと言われています。
馬防柵の杭は一本づつ前後させ、交互に組んで倒されにくくしていましたが、
それでも相手が馬ともなると、紐をかけて引っ張れば、倒される可能性がありました。

馬ってのは泳げなくはありませんが、水泳は苦手なんですね。
だから川で人間の数倍もある移動速度を低下させたのです。
次いで空掘は、馬は本能的に避けてしまいます。
要するに、堤を移動するので、一箇所に集中するのですね。
そこに集まった足軽や歩侍たちを、長い槍で突き殺していったのです。

実際、織田軍は弱かったみたいです。兵農分離に成功していますから、
織田軍は自分の土地を守るといった使命感もありませんし、
やばくなったら逃げてしまうんですよ。
そんな弱い連中を工夫させたんでしょう。
実際、白兵戦や追撃のメインは家康軍でした。
356日本@名無史さん:02/07/17 03:05
>>355
始めから終わりまでツッコミどころ満載の駄レスを
こんな撃沈スレにつけるなアホ
357日本@名無史さん:02/07/17 07:21
>>346

確かに島津は「繰り詰め」という実際には、無かった長篠の三段撃ちと同じような運用もしていたけど
島津と織田の鉄砲の運用は、全く異なるから無関係だと思う。
織田は、足軽を中心に鉄砲を運用したのに対し島津は、士分の者が一人で数丁を用意し士分の者自身が
運用していた。
358日本@名無史さん:02/07/29 19:45
>>355
ピンポンです。

強いか弱いかは問題ではありません。
要は自軍の危険性をより0%に近づけ、敵軍の危険性を100%に近づけられるか、
それだけです。
堀も土類も柵も、すべてはそのための手段です。

あれだけの構えに向かって、騎兵を無謀にも突進させた訳ですから、
おそらく鉄砲を使わなくても、信長はあの戦いに勝利したことでしょう。
ただ鉄砲を使用することによって、勝利への時間が劇的に早まったものと
思われます。
鉄砲の使用が敵軍の殺戮をより効率的なものにさせ、戦闘時間を短縮することにより
自軍の安全性を最大限に確保することができたといっていいのではないでしょうか。

359世界@名無史さん:02/07/29 19:55
確かNHKだかが騎馬の速度と鉄砲の玉込めと、どちらが早いのか
競ってたなあ。まあ、参考程度にしかならんだろ。

長篠の戦では、鉄砲隊の裏側に何万もの精鋭部隊がいたしね。
もしもの時の為に。信長も、まさか鉄砲だけで勝てるとは思って
なかったのでしょう。
360日本@名無史さん:02/07/30 00:46
>>358-359
「武田の騎馬突撃」のような、ありもしなかったものを勝手に
作らないように。
361日本@名無史さん:02/07/30 01:02
世界最強?鉄砲隊は一戦だけでしょ
362世界@名無史さん:02/07/31 00:11
世界史板から来ました。日本の事について良く知らないので教えて下さい。
長い文を書きますので面倒臭かったら読み飛ばして頂いても結構です。
では質問です。

1。兵力の増大はいつ頃から始まったのですか?応仁の乱ぐらいから?
 ここで僕が聞きたいのは、いつ、騎士階級の戦争が終わって歩兵の集団
 戦が始まったのか、という事です。
 歩兵の集団戦が主流になれば自然と兵力は増大すると思われます。

2。一般的な戦国大名はどのようにして自軍の兵士に報酬を与えてい
 たのでしょうか?土地ですか?それとも金ですか?
 日本の戦いをざっと見ると、地方の大名が万単位で兵力を動員してい
 たりするのですが、これは当時の世界の常識から見てどう見ても多過ぎ
 ます。
 ヨーロッパでは財政基盤の限界から兵士の報酬が滞る事が良く起こりま
 したが、
 日本の場合そういった事は起こらなかったのですか?ヨーロッパ人はそ
 の問題を解決するために海外に植民地を作り、外国から借金をしました
 が、日本には植民地も外国からの債務もありません。
 一体どのような報酬形態で支払われていたのですか?日本の官僚シス
 テムはそんなに優秀なのですか?日本の余剰生産力はそんなに膨大
 だったのですか?

3。織豊政権はどのようにして自軍の兵士に報酬を与えていたのでしょ
 うか?
 これは2に付随するような質問です。農業をせず常時維持される常備
 軍とあっては維持管理に金が掛かる事だろうと思います。

4。鉄砲足軽の訓練はどのように行われていたのでしょう?
 槍ならいざ知らず鉄砲の扱いは誰にでも出来る訳でもなく専門性を要
 する事柄です。ヨーロッパでは火器を高度に操るために常備軍が創設
 されたと言っても過言ではありません。織豊政権ならまだしも一般的な
 大名の鉄砲足軽はどのように腕を磨いたのでしょう?散開して撃ち掛
 けるだけだから特殊な訓練は要らないのかな?
363362:02/07/31 00:16
鉄砲に関係の無い質問ばかりしてすいません。
364日本史初心者:02/07/31 02:32
>>362
当時の日本は世界有数の産銀国であったし、戦国時代当時は農業生産力が
飛躍的に伸びていたと聞いている。日本の生産能力は、確実に、室町時代よりも
上がっていると思われる。
365日本@名無史さん:02/07/31 03:33
>自軍の兵士に報酬を与えていたのでしょうか?
自軍の将ならともかく、兵士に軍役は義務です。
366日本@名無史さん:02/07/31 09:54
>365
対抗給付はもちあったよ。略奪を許すとか。
367362:02/08/01 00:43
>>365-366
じゃあ無報酬で兵士を働かせていたのですか?
368日本@名無史さん:02/08/01 03:42
>>362
応仁の乱頃から兵力の増大が始まった、であってるんじゃないか。
農業生産力が全国的に伸び上がったのがこの前後だろう。
それに伴い家を継いで農業に従事できない、二男・三男その他などでも
なんとか余剰で食っていけるようになったのではないか・・・
と、何かで読んだ。足軽なんてのがワラワラと戦争に使われるように
なったのもこの頃からだろう。
369ともチャン:02/08/01 05:26
>>362
1.室町時代あたりから農民の生産力が大きく上がった。
おそらくは鉄製品が普遍的に手に入るようになったために
開墾や治水などが容易になったのだろう。
生産力が上がれば食わせていける人間の量も増え、余剰の人員が
戦闘に参加するようになった。>足軽
また鉄ものが出回るということは、それらが戦争にも使われたことを意味する。

応仁の乱あたりから、戦闘に従事する人間「足軽」が現れてこいつらが
戦闘の大半を担うようになる。
そのうち地方の領主もこういったあぶれ者を戦闘に使うようになって
戦争遂行能力が上がり、日本各地で戦国時代となる。
370ともチャン:02/08/01 05:40
>>362
2.基本的に土地。
戦争して敵の土地を押領し、また割譲させて部下に与える。

だいたいのスタンスは「部下の土地を敵の侵略から守ってやる」という感じ。
そのためには部下にも働いてもらう。>御恩と奉公という。
だから部下を守ることのできない大名は、すぐに裏切られた。
武田氏の滅亡なんかはいい見本。

土地以外には官途、感状、大名の名前の一部などの
名誉を与えることもあった。
もちろん、金銀、銭、その他の宝物はいうまでもない。
なかには茶器なんてのを欲しがるものもいた。
371ともチャン:02/08/01 05:57
>>362
3.よくわかんない。
まあ、2とあまりかわらないだろう。
近世江戸時代は、ほとんどの士族には大名が銭米を与えていたので、
それと2の中間ぐらいな感じじゃないか。
はっきりいって織豊政権が本当に(世界史的な意味の)常備軍と
いえるようなものをもっていたのかは、しらない。

4.全然わからん。
だいたいの大名は根来などからやってきた鉄砲に詳しい奴をとっ捕まえて、
そいつに教えさせたりしていたらしい。
この根来というのは日本で一番最初(か二番目くらい)に
鉄砲の生産をやったところで、日ごろ何もすることのない僧兵なんかが
自分の鉄砲の腕を買ってもらおうと全国を行脚していた。
だいたいどこの大名もこういうのを雇っていた。
詐欺師も多くて、会津の金上遠州某というのとかは
こういう語り野郎にだまされたりしてる。
372ともチャン:02/08/01 06:23
>ヨーロッパでは財政基盤の限界から兵士の報酬が滞る事が良く起こりま
>したが、日本の場合そういった事は起こらなかったのですか?
>ヨーロッパ人はその問題を解決するために海外に植民地を作り、外国から
>借金をしましたが、日本には植民地も外国からの債務もありません。

日本の周りには金を貸してくれるような国はなかった( ´,_ゝ`)
この頃は日本のほうが裕福だったんじゃないか?中国朝鮮より。
外国への略奪旅行は普遍的にあった。倭寇というんだが、
せいぜいそのくらいかな。あとは秀吉の唐攻めくらいか。
唐攻めが成功していたら日本も海外へ乗り出していたかもしれないが、
いきなりやられてしまったため、もうやめようということになった。
その後徳川家康という保守的な奴が天下を取ったことも大きい。
近世に入ると士族への給金が滞ることはしょっちゅうで、
おおくの大名は借金してた。ただ日本の商人にだけだけど。
戦国時代はどうだろうね。
給金という概念自体なかったんじゃないの。武士は普段は自分の土地で
田んぼの草むしりしててさ、殿様が「戦争するよ」というと
「おしゃー」つて土間に掛けてある槍もって小作人何人か連れて
馬乗って出て行ったて感じ。
373日本@名無史さん:02/08/01 07:20
ちょっと時代は後になるけど、島原の乱の時には各藩とも大体10〜50人ぐらいで鉄砲足軽をまとめて一つの単位にしてる。
それでも、玉薬の補給がうまくいってたとはいえないみたい。
だから、個別指揮官である物頭の統率力が鉄砲の効果を左右したくさい。

374日本@名無史さん:02/08/01 07:32
雑賀集じゃないの?最強って?
375日本@名無史さん
>地方の大名が万単位で兵力を動員していたりするのですが
九州の話でしょ?数町の領主が万単位で動員
話半分どころか9割引でもいいんじゃない
>>367
だって義務だもん
島津軍じゃ敵前逃亡したら本人どころか家族まであぼーんされる
他の地域でも似たようなものなんでは