誰か倭の五王を確定してよぅ!!

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1日本@名無史さん
 宋書倭国伝に 讃 珍 済 興 武 の五王が書かれてますが
いったい誰なのですか?教えてください。
 武 が雄略天皇と言われてますが、幼武の武?
でも、稲荷山鉄剣では獲加多支歯(るの字が出ない〈泣き〉)なのに?
2日本@名無史さん:02/04/16 22:31
2ゲットしちゃってもいいのかな。げーっと
3日本@名無史さん:02/04/17 21:23
3げっとずさー
4日本@名無史さん:02/04/17 22:24
ラ王
ヤング・オー・王
貞治王
エヌジー王
花王
5日本@名無史さん:02/04/18 02:23
朝鮮半島にあった倭国の王です。
日本人じゃないです。
6日本@名無史さん:02/04/18 03:02
なるほど、それは興味深い意見だ。
しかもホントくさい。
7日本@名無史さん:02/04/18 12:03
倭の五王を呉王夫差の子孫とする松野連系図にある倭王哲(6人目の倭王、武の子)って傍証あるの?
81:02/04/18 17:14
朝鮮半島の倭国?詳しく情報希望するです。
9日本@名無史さん:02/04/18 18:15
明石散人が同じような説(ありゃ日本の事じゃない)を書いていたけど。
>>5
明石センセは確信犯的なトンデモ説も多いけど、これは結構説得力
ある気がします。
これ以外の日本の記述は、王の名前を当て字にしろきちんと発音通り
に書いているのに、五王が全て一文字で表現されているとか云々。
確か講談社文庫で出てたと思う。何だっけ?アカシックファイル?
何ちゃら日本史?(忘れた)
この説自体は短いので、立ち読みで済ますというテもアリとか。
10悩める30歳:02/04/18 19:45
関係ない話だが、NHKの「にんげん日本史」という小学校向けの歴史番組で
ナレーションが「漢委奴国王」を「かんのなのわのこくおう」と読んでたぞ。
ネーチャンちゃうがな。
11キャ急遽:02/04/18 23:13
>>4
ヤング・オー王ってのが意味不明だけど
後はワラタ
12日本@名無史さん:02/04/18 23:17
>10
俺も厨学まで「なのわ」と呼んでますた。
13日本@名無史さん:02/04/18 23:22
ヤングおーおーのことなら厨房にはわからんだろ。
14日本@名無史さん:02/04/18 23:27
>>4 >>13 昭和30年代生まれ以前の人たち。
15日本@名無史さん:02/04/18 23:30
>>14
おまえモナー
16日本@名無史さん:02/04/18 23:33
>>14
あと、別冊平凡パンチ 王!っつーのもあったような…
1714:02/04/18 23:33
>>15
マリ・クリスティーヌ萌え〜♪
18日本@名無史さん:02/04/19 00:02
冒険王ってのは・・・
19日本@名無史さん:02/04/19 00:38
猟奇王
20日本@名無史さん:02/04/20 22:51
讃 履中天皇
珍 反正天皇
済 允恭天皇
興 安康天皇
武 雄略天皇
  ?????????
21日本@名無史さん:02/04/20 23:12
讃 応神・仁徳・履中の3説、仁徳が有力
珍 仁徳・履中・反正の3説、履中が有力
済 反正・允恭の2説
興 允恭・安康の2説
武 雄略
22日本@名無史さん:02/04/20 23:34
倭の五王、やっぱ九州王朝の王でしょう。
23日本@名無史さん:02/04/21 00:27
まず確実なところからいくと、
武は雄略。で、雄略の名前はオオハッセワカタケル
このうちオオハッセは美称プラス宮都所在地。
つまりワカタケルが個人名で、そのうちワカは美称だから
個性を最も示しているのはタケル。それが武と表されたのだろう。
同じことは反正でも言える。
タジヒミズハワケのタジヒは宮都所在地。
ワケは称号的なものだから、固有部分はミズハ。
このミズの部分が珍で表されたのだろう。

安康はアナホ、つまり宮都所在地のみで個人名が伝わっていない。
興は武の兄だから、恐らく安康なのだろう。
今は伝わらない安康の実名には、オコス的な意味を持った部分があったのかも知れない。
允恭もオアサザヅマワクゴ、つまり美称(雄・稚子)と地名(朝妻)しか伝わっていない。
しかし反正の次であるから允恭で間違いなく、彼もまた
今は伝わらない実名にスクウ的な意味があったのだろう。

問題は讃。
履中のオオエイザホワケは反正と同じ構造で、固有部分はイザホだが
イザホって何? 讃という字の意味には関係なさそうだが。
仁徳のオオサザキは、鳥名伝説に従えばこれも関係ない。
但しもしそれが付会伝説に過ぎず、巨大な陵を作ったことによる
追号であるならば彼もまた実名は不明ということになり
その今は伝わらない実名部分に讃という意味が含まれていたか。
応神のホムダ(ワケ)は地名とすれば、彼もまた実名不明ということになる。
ただし、誉田の「誉」と「讃」が類義であることが引っかかる。

名前だけからでは以上が限界である。
讃は10年以上在位していたようだから、履中は候補から外れるか。
とすれば応神、仁徳どちらかということになる。
讃が称号を授かったのが421年。珍は438年。讃は420〜430ごろの在位となる。
好太王碑の倭の半島出兵が391〜404年。これを神功伝説のもととみて
応神朝のこととするなら、讃は仁徳か。
24日本@名無史さん:02/04/21 02:50
興は木梨軽皇子等と言ってみる
25日本@名無史さん:02/04/21 03:07
>>1
タケルの「ル」の字でるよ。鹵獲(ろかく)の「鹵」。
26日本@名無史さん:02/04/21 07:53
和の五王を天皇に当てはめるのには無理がありすぎのような・・・
なんで「オオハツセノワカタケ」「タジヒノミズハワケ」「オオサザキ」と名乗らなかったの?
名前の一文字を切り取って名乗ったという根拠は?
なんで武烈の時代に生きていた「倭王・武」が雄略になるの? どなたか説明してください。
27日本@名無史さん:02/04/21 08:15
「倭」ってのは現在の日本を含む朝鮮半島の一部ってのが定説らしいので
(これについてはまともな歴史研究者なら異論はないだろう)
朝鮮半島側の「倭」の王って言う方が当時の力関係からすれば「五王」を
排出する可能性は高いんじゃないの?

むろん、朝鮮半島側の「倭」の王・・・以下は勝手な解釈だけど。

以前、ここで任那日本府に関する議論があったときに、当時の「倭」が
「現在の日本を含む朝鮮半島の一部」であったのは歴史的に定説と取る
向きが多かったようなので、そういう解釈を付けてみた。

ソースはそれらの回答に貼ってあったので興味のある方は探してください。

28日本@名無史さん:02/04/21 11:51
>>26
>なんで「オオハツセノワカタケ」「タジヒノミズハワケ」「オオサザキ」と名乗らなかったの?

倭讃とか倭武とか、先方の流儀にしたがって姓名を名乗らないと
相手にしてもらえなかったんじゃないの。高句麗や百済もそうしてたし。
そのままの名前だと長ったらしいうえに、いかにも夷狄の酋長っぽくなっちゃうと思って、
姓名をそれぞれ一字づつとしたのでは。
29日本@名無史さん:02/04/21 18:57
古墳とかと結び付けてはいけないのですか?
420年頃から480年頃のことなのでその頃のでっかい古墳は
製造年(予想)順に 上石津ミサンザイ(履中天皇) 誉田御廊山(応神天皇)
大仙陵(仁徳天皇) 土師ニサンザイ(???) ウワナベ(???) 
もしくは、岡ミサンザイ(仲哀天皇)あたり…?
うわー天皇年代がバラバラだぁーっ!
30日本@名無史さん:02/04/21 21:15
>>28
そんなわけないだろ。
五王以前には伊声耆、都市牛利、戴斯嗚越、etc.
五王以後なら阿毎多利志比古、蘇因高、etc.
これらが実在の人物の名前だろう。

五王は抽象的に造作されたような印象のする名前だね。
少なくとも本人たちが日常使っていた名前ではなく、遣使にために一時的に作った名前なんだろう。
3130:02/04/21 21:19
五王の名前と天皇の名前の結びつきに規則性がまったくない。
こじつけみたいな理屈が多い。

しかし倭王の正体としては、ヤマトの天皇家以外は
考えにくい(トンデモ説は別にして)から
天皇のうち誰かではあるんだろうが、
通説の讃は誰々、珍は誰々、というのはまったく信ずるに値しないように思われる。
いちいちの根拠が薄弱すぎ。
32日本@名無史さん:02/04/22 00:24
実際に国書を書いたのは文章に長けた渡来人の書記官みたいな
連中だろうから、適当に和語に漢字当てはめたんだろうね。
33日本@名無史さん:02/04/22 02:13
>文章に長けた渡来人の書記官みたいな連中だろうから、適当に和語に漢字当てはめた

それなら、もう少し大和言葉の本名との間にごく自然に規則性があらわれると思う。
天皇の名前とは無関係に、それぞれの情況に応じて特定の意味を込めた文字を選んだのではないか。
(たとえば「武」は、上表文の内容に即応したもの)
34日本@名無史さん:02/04/22 02:16
天皇の名前の意訳とか音写とかで、五王の名前を説明するのは説得力がない。
「倭隋」とかはどうなるんだ?
35日本@名無史さん:02/04/22 07:26
讃 仁徳
珍 免道稚郎子
済 反正
興 安康
武 雄略
36日本@名無史さん:02/04/22 08:30
>>35
ありきたりだね
37日本@名無史さん:02/04/24 03:00
倭王武の上表文を読む限り、やっぱ倭王の所在地は九州が妥当のような・・・
朝鮮を「海北」と表現しているあたり
38日本@名無史さん:02/04/25 03:45
5世紀後半段階で倭王が九州にいたとすると
ヤマトに移った(征服した?滅ぼされた?)のはいつ?
江田船山古墳太刀銘の大王も九州?
39日本@名無史さん:02/04/26 01:03
昔の天皇はよく九州行ってるからなぁ。宮もあるし。
別に九州にこだわらなくてもいいんじゃない?
40日本@名無史さん:02/04/26 10:49
.

41日本@名無史さん:02/04/26 20:57
九州なわけないでしょ。
42日本@名無史さん:02/04/27 03:01
>>31氏のように、やはり大和の天皇だと思う。
問題は、武は雄略だとしても、どうして先の四王がばらけるか?
書紀の年代を合わせれば解りそうなものなのに?
 武が雄略というのも辛亥年があっちこっちで同じ年に比定されてるだけ。
書紀に問題はないのだろうか?
43日本@名無史さん:02/04/27 12:28
書紀の問題は紀年。
44日本@名無史さん:02/04/27 16:19
>>7
松野連系図は九州王朝説にそってはいるけどね
45日本@名無史さん:02/04/29 03:04
倭王讃を仁徳天皇に比定すると、仁徳治世が40年ほどずれて
しまう。古墳でいうなら(仁徳陵は寿陵ということなので?)上石津ミサンザイ?
ということは、大仙陵は允恭天皇あたり?(場所が合わない)
どうなってるの?
46日本@名無史さん:02/04/29 04:06
大山古墳は大山皇子ってことでは?
47日本@名無史さん:02/04/29 15:30
48日本@名無史さん:02/04/29 17:20
49日本@名無史さん:02/04/29 20:04
木梨軽皇子は実は天皇だったのかも。
50日本@名無史さん:02/04/30 04:30
倭王武が雄略なわけないだろヴォケ!と言ってみるテスト
51日本@名無史さん:02/04/30 06:41
讃 反正(安康は430年)
珍 雄略
済 継体
興 安閑か宜化
武 欽明
52日本@名無史さん:02/04/30 07:22
↑ 471年のワカタケルてだれ?
53日本@名無史さん:02/04/30 08:31
結局記紀の記述ははウソだらけ、
竹内文書程度の信憑性って理解でいいですね。
54日本@名無史さん:02/04/30 08:51
>>53
遣隋使の記述を見ても、自国に不利なことは削除している。
朝貢となるような記事は、単に削除しているだけである。

特に日本書紀は対中国にも使われるように書かれたことを思い出すべし。
55日本@名無史さん:02/04/30 09:09
讃 (さん)=三
珍 (ちん)=四
済 (せい)=四?
興 (こう) =五
武 (む) =六

って説を見た記憶があるのですが
「武」だけが、やまとことばで、他は音読みとか何とか・・・
56日本@名無史さん:02/04/30 09:26
>>54
都合により削除されてる記述が明らかにあるという事は
都合により創作されてる記述もあれば都合により改竄されてる記述も当然あるだろ
という疑念につながります。
要はそんなに信用できるもんじゃないだろと言うことなんですが。
57日本@名無史さん:02/04/30 10:12
>>55
意味不明
58日本@名無史さん:02/05/01 06:42
>>53氏の
結局記紀の記述ははウソだらけ、
竹内文書程度の信憑性って理解でいいですね。

うそも多いかな?記紀が編纂されたときの天皇に近い豪族の
はなしが良く書かれていると思ってます。

この豪族の近親者でない先代天皇はえーかげんに書かれている
可能性 ”大 ”

ひょっとしたら、日本武尊も天皇だったかも?
59日本@名無史さん:02/05/01 06:47
↑なぜヤマトタケル?
60日本@名無史さん:02/05/01 06:48
>>51さん 
  めちゃくちゃ気になります。 
(安康は430年) 教えて、お願い。
61日本@名無史さん:02/05/01 06:56
>>59さん
 日本武尊は仲哀天皇の親父ぞ。

新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる

と、紀調で スマソ…
62日本@名無史さん:02/05/01 18:21
雄略帝は5世紀日本の画期を作り上げた人だが、後継者には恵まれなかったらしい.
この人が武であることは、一応の定説であることはご存知のとおり.

讃が突然上表をはじめるということは、多分新王朝の始祖. で応神なのか仁徳なのか
応神の神話的な部分にこだわるなら、讃は仁徳だし、気にしないなら応神だよね.
63日本@名無史さん:02/05/01 19:17
朝鮮の史書「海東諸国記」に
「倭国は武王、年を立てる」とある。
「二中歴」の「年代歴」によれば
日本最古の年号は「継体」。
武王が継体天皇である可能性もある。
64日本@名無史さん:02/05/02 02:50
>>63氏 なるほど
65日本@名無史さん:02/05/02 03:03
>63
しかしその後、「継体」の後に続く年号はいったい? 善記とか倭京とか。
66日本@名無史さん:02/05/02 04:25
>>65氏 三島野政権から大和地域の政権に戻ったのでしょうか?
67日本@名無史さん:02/05/02 08:53
「海東諸国記」だの「二中歴」だのは史料的価値がなあ・・・・

>讃が突然上表をはじめるということは、多分新王朝の始祖.

むしろ宋側の都合だろ。 
68日本@名無史さん:02/05/02 23:15
 413年ころ倭王讃 晋に遣使…
69日本@名無史さん:02/05/02 23:30
讃が倭王だとは宋書にはかいてないだろ。
70日本@名無史さん:02/05/02 23:34
継体天皇はかなりの高齢で死んでるから、もし即位したのが若い頃だとすると、
武烈やその前の仁賢の在位期間も押し上げられて、
興=顕宗、武=仁賢、という可能性もでてくる。
71日本@名無史さん :02/05/02 23:39
>>69
書いてなくても讃は倭王じゃないの?
72日本@名無史さん:02/05/03 04:12
倭王かも知れないし倭王じゃないかも知れない。
論理的には、それはどっちの可能性もある。
でも普通に考えたら倭王って書いてないんだから倭王じゃないだろ。
73日本@名無史さん:02/05/03 06:40
>>70
兄弟が逆なのに?
74日本@名無史さん:02/05/03 14:11
>>72
梁書に「晋安帝時有倭王賛」とあるけどなんで?
75日本@名無史さん:02/05/04 10:54
倭の五王にかんしては、
梁書は、宋書の記述を適当に改作しただけだから、
史料として宋書より数段おちる。
宋書だけにもとづくべし
76宋書倭国伝:02/05/04 13:14
倭国は高麗(高句麗)の東南大海の中にあり、世々、貢職(みつぎ)を修めている。
高祖(南朝劉宋第一代武帝、420−22在位)の永初二年(421)、詔していうには
「倭讃(賛、第十五代応神天皇・第十六代仁徳天皇・第十七代履中天皇の三説、
仁徳天皇が有力)が万里はるばる貢を修めた。遠方からの忠誠のこころざしは、
よろしくあらわすべく、除位(官位をさずける・官につけ職をさずける、除任・除拝)
を賜うであろう」と。

天子が位を授けるんだから陪臣ではありえない。倭讃と言えば倭王讃の略。
77日本@名無史さん:02/05/04 20:26
>天子が位を授けるんだから陪臣ではありえない。倭讃と言えば倭王讃の略。

そんな理屈はないと思うが?
倭隋は平西将軍に叙されたが、こいつを倭王隋とは誰もいわない。
78日本@名無史さん:02/05/06 02:28
 倭王 讃は425年まで、弟珍立つ(弥) おとうと?
79日本@名無史さん:02/05/06 03:32
倭讃・倭隋等の「倭」は、国号の倭を姓に置き換えた可能性がある。
高句麗王が時として姓を「高氏」と称した例など。

倭隋の場合、「平西将軍を称することを許」した、という解釈にとどめるべきと思うが?
倭王でないことは間違いないだろうが。
80日本@名無史さん:02/05/06 14:24
倭讃が倭王じゃないっていうのはどういう意味なのか分からないな。

とりあえず、倭国を代表して宋に朝貢するほどの実力者ってのは認めているんだよね。
ところが『宋書』ではなぜか「倭王讃」「倭国王讃」などとは記されていない。
したがって、宋は倭讃を倭王とは認めていない。よって、倭讃は倭王ではない
・・・てことなのか?
81日本@名無史さん:02/05/06 20:48
>>79
高句麗王の高氏の「高」は高句麗の高の字をとったわけじゃなく
後燕の高雲と婚姻関係を結んだことから生じた姓。

>>80
倭王では絶対ありえない、といってるのではない。
倭王かどうかわからない、倭王である可能性も高いし、そうでないかも知れない、と言ってるの。
82日本@名無史さん:02/05/07 00:21
 >>80 倭王でない菟道稚郎子(宇治天皇)?
83日本@名無史さん:02/05/07 01:17
倭讃が仁徳だとすると、倭隋は誰だろう。
同姓ってことは同族? で、当時珍につぐbQ。
うーん、思いうかばん。押磐王?
それとも必ずしも同族でないのか。
だとしたら臣下bPの襲津彦。あ、もう死んでるかな。
だったら大臣平群木菟か、大連物部伊筥弗か?
84日本@名無史さん:02/05/07 03:34
日本書紀 読みづらいYO
 でも、少ない言葉の中出てくる人たちは、推古天皇以降
有力者なんでしょうか?あの少ない文の中で出てくるとしたら
いやなやつでも書き残された大臣なの…?
とくに武烈天皇?
85日本@名無史さん:02/05/07 03:45
菟道稚郎子(宇治天皇)は話では、応神天皇のあと
仁徳天皇と天皇の座を譲り合った…皇太子は菟道稚郎子(宇治天皇)
だし…時期も、応神紀からすると405年は越えてる…
86日本@名無史さん:02/05/07 05:07
 >>35氏は珍 菟道稚郎子 >>24氏 興は木梨軽皇子
いいなと思います。日本を当時代表した王はそのくらい行動力が
なくちゃ。BUT、ほんとに倭王 武は雄略天皇 なの?
権力的な考古学者、史学者にうそつかれてないの…この間も
学校の銅剣はちがうって! 考古学、史学の人も
どこぞのへんな学者の本 大学で教科書にしてて学んだんじゃないの?
大学のバカより独学のおえらさんはいくらでもいる!!
みんな、へたしたら科学者のほうが知ってるかも!
しろうとだからって変にびびることない。
 史学者、考古学者でも知らんやつは知らんはず。
堂々と意見いっちゃえ!
87日本@名無史さん:02/05/10 07:56
>学校の銅剣はちがうって!

???

>堂々と意見いっちゃえ!

とんでも系や電波系はデタラメばかり堂々と言い過ぎ。
88日本@名無史さん:02/05/20 19:59
age
89日本@名無史さん:02/05/20 20:35
いっそのこと「倭の五王」という名のただ一人の天皇ということに・・・


スマソ。逝ってきます
90日本@名無史さん:02/05/20 22:09
天皇は万世一系だ!
91日本@名無史さん:02/06/01 00:07
age
92日本@名無史さん:02/06/02 09:26
「倭の五王」は九州王朝の大王なので、そういう意味では
誰でもない。
93日本@名無史さん:02/06/06 00:29
>>68
413年の朝貢は怪しいなあ……
何で、貢物が朝鮮人参なのよ……。
94日本@名無史さん:02/06/06 06:37
あやしくないyo
95日本@名無史さん:02/06/06 07:26
亀井
野中
青木
江藤
福田
96日本@名無史さん:02/06/08 03:30
讃 雨
珍 雨
済  権藤
興  雨
武  権藤
97日本@名無史さん:02/06/18 22:44
age
98日本@名無史さん:02/06/19 03:03
讃 アカレンジャー
珍 アオレンジャー
済  ミドレンジャー
興  キレンジャー
武  モモレンジャー

99日本@名無史さん:02/06/23 20:11
>>93
413年の朝貢は高句麗と一緒
高句麗は当時、倭と対立してたはずだから
おそらく、高句麗が倭人の捕虜を使者に仕立て上げたと思われ。
100hyaku:02/06/23 20:12
100get
101日本@名無史さん:02/07/06 07:28
>>99
そんなことして高句麗になんかメリットあんの?
102日本@名無史さん:02/07/06 08:25
フとした遊びごころ
103日本@名無史さん:02/07/07 12:39
> 92 に一票!
104日本@名無史さん:02/07/22 03:15
105日本@名無史さん:02/07/23 00:25
高句麗語で判明している数詞はすべて日本語と一緒。
兎を「うさぎ」と呼ぶのも高句麗と日本だけ。

言語を共有する両国はライバルであるとともに協力関係もあったのでは?
106日本@名無史さん:02/08/04 02:31
協力関係というよりも、言語族としては、先祖共有していたのかも・・
107日本@名無史さん:02/08/04 07:05
>105、106
近親憎悪ってヤシですか?
108waoooo:02/08/04 09:12
倭王武は倭武でヤマトタケル?
109日本@名無史さん:02/08/18 02:16
なワケないだろ。
110日本@名無史さん:02/08/18 06:36
>>108
讃  崇神天皇
珍  垂仁天皇  
済  景行天皇   
興  成務天皇
武  日本武尊
が定説
111日本@名無史さん:02/08/18 07:15
>>105
根拠となる資料の提示を求む。
>>110
定説の根拠を求む。
112日本@名無史さん:02/08/18 10:14
>>110
そういう説を唱えるのは勝手だが、定説にはなってないね。明らかに。
113waoooo:02/08/25 21:43
>112
定説ってそんなに立派な根拠あるんですか?
114:02/08/25 22:01
倭の五王が今だに特定できないのは学会=学者が馬鹿だからである。
日本書記の言う天皇とは違うだろう。その最大の理由は日本書記にその事が
記載されていないからである=別系統の王だったから記載できなかった。
そうとしか記載されない理由は無いのである。それを天皇家の系譜に照らし合わせて
みても合致する事は有り得ないのである。倭国王=日本王では無い。
115コピペでスマソ:02/08/26 04:09
>>111
255 名前: 由比小説 投稿日: 01/12/29 12:06

>253 『日本語の世界1』中央公論社に幾つかでてました。
高句麗語で再構されたのが80語、その内30語が日本語と似ているとして、挙げてある例は、兎、ハゲ(山の斜面の崩れた所)、3,5,7,10、水、深、谷、鉛、土壌(土)、口、鵠。
80のうち30もある!、というのは高率ですね。高句麗語が失われたのが惜しい

265 名前: 名無し象は鼻がウナギだ! 投稿日: 01/12/29 22:22
>255
例キボン
7は「難」から再構できたと言われていますが、「難隠(ナヌィン)」という記述も見つけました。
ここら辺どうなっているんでしょう。

日本語といっても、「はげ」「しが」「いや」「とじ(妻のこと)」のように、今は失われたものが非常に多いと思う。

266 名前: 由比小説 投稿日: 01/12/29 22:49
>265 高句麗語の再構築の方法の概略は:
三国史記の地志で旧高句麗領地の地名を新羅の景徳王が変更した、という記事が多数出てくる。
これで、高句麗語地名の漢字表記と新羅地名に変換後の漢字表記を対比することが可能となる。
例えば「兎山郡、本、高句麗、烏斯含達県」というのがあり、「達」が「山」に対応するので、「烏斯含」が「兎」対応するものと考えられる。そうすると「烏斯含」の音はosieGemなので、日本語 wosagi に対応する、と、まぁ、こういう話だ。

「7」に関しては「七重県、一云、難隠別」とあるによる。
267 名前: 名無し象は鼻がウナギだ! 投稿日: 01/12/30 13:11

>>266
なるほど! 何か関係のあることは間違いないだろう。

268 名前: 名無し象は鼻がウナギだ! 投稿日: 01/12/30 15:37

色々なページから情報を集めました。ローマ字はやや中国語風ですが。

新羅意訳 高句麗語
三餐郡 密波兮 「み(つ)はけ」(中国語フォントでは餐が山+見になる)
五谷郡 于次-呑忽 「いつたに/たむ」
七重県 難隠-別 「ななへ」
十谷県 徳頓忽 「とたに/たむ」
兎山郡 烏斯含達県「うさぎだけ?」
海曲/海西県 波旦県 「わた」

三 mit (jap.み(つ))
頂上が平らな山 pua-kei (jap.はけ、はげは山梨・神奈川でまだ使われているようです)
五 (h)u-tsi (いつ)
谷 ta/on-mut (呑忽 = 頓忽) (たに、たむ?)
七 nan-in (Tungusic nadan)
重 in-pet,pet
十 to/ek (と(を))
兎 o/u-si/e-g/ke/am (をさぎ)
山 d/ta
海 pua-dan(波旦)? (Korean pada / Jap.わた)

http://www.sun-inet.or.jp/~ryr58037/kr_orig.htm#chuki06

水 買 mai (Jap.*mi-)
深 伏斯 b/puk-si/e(ふかし?)
谷 呑,旦 (たに)
鉛 乃勿 nai-mut (Korean nab) (なまり?)
口 忽次 kut-tsi (くち)

http://mentai.2ch.net/gengo/kako/994/994042684.html
116日本@名無史さん:02/08/26 05:15
>>114

卑弥呼の事績だって神宮皇后として取り入れられてるのだから
倭の五王だって取り入れてるハズさ。

完全一致を求めリゃ分からんのも無理ないがね。

もっと頭を柔軟にね。
117日本@名無史さん:02/08/26 06:57
いるんだねえ。
5世紀段階で、まだ○○(地域)王国なんて
のが、あったと思ってるやつ。
118日本@名無しさん:02/08/26 08:12
倭王武は雄略天皇でいいんでないの。
上表文とか鉄剣とか国見歌。
119waoooo:02/08/26 22:27
>118
上表文とか鉄剣とかで雄略天皇とは特定できないのでしょう。
だから、こんなに色んな意見が出るのでしょう。
120日本@名無史さん:02/08/26 22:47
>>119
普通はワカタケル以外の四王が誰か?というのがいろいろ言われているだけだと思うが?
121waoooo:02/08/28 21:42
>>120
武は雄略天皇なんですか?
無理なゴロ合わせなんかせずに、これは“日本”の王ではないと
言っとけばいいんじゃないですか。
122日本@名無史さん:02/09/02 20:37
日本列島にあった倭という国の王だろ
123日本@名無史さん:02/09/02 20:38
>>121
倭王か倭国王だとはされてるけど、
日本の王だといってるやつなんかいないのでは。
124日本@名無史さん:02/09/02 20:46
仮面の恐怖王
地底の魔術王
電人M
鉄人Q
魔人ゴング
125日本@名無史さん:02/09/13 22:14
応神って、どうして、おなかのなかに、14かげつもいたのですか?
126日本@名無史さん:02/09/14 03:52
14ヶ月? 14ヶ月じゃないでしょ
127日本@名無史さん:02/09/15 01:56
仲哀崩御 200年2月6日
応神誕生 200年12月14日

最低でも、10ヶ月。不可能ではない。
128日本@名無史さん:02/09/17 02:23
10か月なら普通じゃんかYO
129日本@名無史さん:02/09/17 12:09
讃=中国をことさらにほめたたえる人
珍=中国に朝貢するなんて珍しい人
済=次ぎの倭王までの一時しのぎ・中継ぎの人
興=新しい家系を興した人
武=軍事行動について上表文をだした人
130日本@名無史さん:02/10/05 02:52
とすると、仲哀はちゃんとパパなのね。
131日本@名無史さん:02/10/07 15:57
仁徳=応神(誉田別)=讃(420ころ在位) 前王朝から女系を通し相続
安康=興
雄略=武(477ころ在位)
間の珍と済は3兄弟のうちだれか、で、
単純にいいじゃねえか。
132日本@名無史さん:02/10/08 08:49
珍は興と武の父なんだから
允恭でいいんじゃないの
133日本@名無史さん:02/10/20 22:25
それぞれの刀自は誰になるのでしょうか?
134日本@名無しさん:02/10/20 23:20
>「オオハツセノワカタケ」「タジヒノミズハワケ」「オオサザキ」云々


どう読めば五人の名前とつながるわけ?中国語って、当て字はあるけど、その
まま音を表現するから資料としても価値があるわけでしょ?
こんな訳のワカラン電波がかった説明を、いっぱしの学者がもっともらしく言
うから混乱するんだよな。こんな煙幕で、庶民を馬鹿にしてきた歴史学者って
・・・。
大体、中国側からちゃんと将軍位とか軍事の権限(形だけとしても)もらって
るのに、なんで日本書紀に書かないわけ?もし大昔から中国の交渉相手が唯一
ヤマトだけだったら、そんな大事なことアボーンするわけないし。
135日本@名無史さん:02/10/20 23:47
>何で書かない
>大事なことアボーンするわけないし

万邦に君臨する明神御宇日本根子天皇が
実は王と自称して異朝の君に臣従していました

なんて当時の史官が書けるわけない。
136日本@名無史さん:02/10/20 23:50
しかし、日本紀を実際に見た唐人とかいたんだろうか?
読んだら大笑いだったろうな。
明神御宇日本天皇なんて噴飯ものだったろうし。

おまけに文章は漢籍からの借用だらけ。
137日本@名無史さん:02/10/20 23:56
134は電波
138日本@名無史さん:02/10/20 23:58
記紀の編纂者は、本当に歴史見る眼がなかったと思うよ.

直筆させりゃ良かったんだよ.
過去に遡って用語も律令時代のものにして
天皇号の採用が何年何月かもわからない。
当時はおそらくちゃんと称号変更の詔書とか出されて
儀式も行われただろうに。
139日本@名無史さん:02/10/21 00:02
『大日本史』なんか
五王の記述を認めたくなくて辺境の土豪が
王を僭称して朝貢していたんだろうとか
涙ぐましい書き方しているよ。
140日本@名無史さん:02/10/21 00:06
雄略天皇は高句麗に大勝利くらい書いてあれば
結びつけは出来るがなあ。
日本書紀に書いてないことまで
作る必要はないと思うがねえ。
分からないならそれでいいじゃん。
141日本@名無史さん:02/10/21 00:11
倭王「武」=雄略天皇

これは確定。
142日本@名無しさん:02/10/21 00:13
>139

江戸時代の、脳内鎖国連中との混同はヤメヤメ。

7、8世紀当時は超大国・大唐帝国のご機嫌を伺わないと、下手すりゃ百済みたく
アボーンされるわけで。

143日本@名無史さん:02/10/21 00:16
>>139
邪馬台国九州説もなー。
144日本@名無史さん:02/10/21 00:16
>>142
唐は日本と戦ったって認識はこれっぽっちも
無かったようだけどな。
別に心配する必要なかったんじゃない。
しかも向こうじゃ嘘つき呼ばわりされてるし。
145日本@名無史さん:02/10/21 00:38
あの頃の倭人はちょうど今の韓国人みたいに夜郎自大で驕慢で
唐なんぞ屁とも思ってなかったから、
白村江での敗北も脳内では認めず、まだまだ意気盛んだった。
現実に壊滅したのは西日本中心の水軍で、東日本の兵力は無傷で残っていたから
太平洋戦争の陸軍みたいなもので無理もない。
唐の強大さを本当に思い知っていたのはごく少数の為政者だけ。
だから唐の侵攻に備えた。
唐にしてみれば倭国と戦ったつもりもそして勝ったつもりももちろんあったのだが
どたんばで新羅が手のひらをかえして反抗してきて、それがまた予想外に手強かったので、
隋と高句麗との例を思い出し、飼い犬に手を咬まれたように驚いた。
そこで新羅の背後に位置する倭国とは白村江のことは棚上げして
穏やかな関係に徹して懐柔し、新羅を牽制しようとした。
実際にその頃に唐が倭に侵攻したとすると新羅の反抗がなかったとしてもかなり困難な戦いを強いられたはず。
悠々と内乱(壬申の乱)なんかやってられたということは倭には外敵の恐怖などなかったということ。
(物理的にはともかく心理的にはということ)
壬申の乱は日本史上、関ヶ原とならぶ大規模な戦乱で、かなりの軍事力が温存されていたことがわかる。
それも、白村江で無傷だった東国に基盤を置いた大海人皇子が勝利したことに注目。
146日本@名無しさん:02/10/21 01:38
>145

っていうか、どこの誰兵衛がドンな死に方とかも、日本書紀にないんすけど。
天皇家に被害などあったのか?

だからといって、外的に対する恐怖がないとは、これまたトンデモな(略
147日本@名無史さん:02/10/21 01:45
唐が侵略してくるかもって時に、のんきに内輪もめはできないだろ普通
148日本@名無史さん:02/10/21 01:57
日本書紀よめてないのに読んだ気になってるアホが約1名(w
149日本@名無史さん:02/10/23 03:26
外敵が侵略してくるかもしれないという時だからこそ、ライバルを蹴落とす。
それも権力者の発想では?
150日本@名無史さん:02/10/23 06:35
ぜんぜん説得力ない
敵がいる時は身内は団結するだろ
151日本@名無史さん:02/10/23 06:49
>>146
こいつ日本書紀よんだことないな。
152日本@名無史さん:02/10/23 07:24
その前に日本書紀ってなんだか知らない可能性すらある
153日本@名無史さん:02/10/23 07:29
>145
てか、壬申の乱の時は唐の侵攻に備えて九州に配備されていた軍団が
内乱鎮圧のため東上せよとの大王の命令を無視して九州警備を続け、
結果として大王を見殺しにしてるんだけどな。
154日本@名無史さん:02/10/23 18:14
それは天武側への寝返り。
155日本@名無史さん:02/10/27 19:43
ゴルァ、おもいきりズレてるぞ
スレタイ読めYO!
156:02/10/30 22:13
宋書倭国伝に書かれている讃・珍・済・興・武の五王は、疑いなく、
倭国の5人の王です。その名は、讃・珍・済・興・武。
武が宋からもらった官位はスゴイぞ。使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王だぞ。
奈良のオオキミと何か関係あるのかな。
157日本@名無史さん:02/10/30 22:30
倭王は大王だろう。
158日本@名無しさん:02/10/30 23:25
>156

一応中国の正式な官制に基づくものであり、これ以上の権威はない。実際に使いが
くれば、それはきらびやかな出で立ちと朝貢貿易のお返しの品物でみんな「すっげ
ー!」状態。
遣唐使や唐からの使いでも状況は同じと思われるので、当時の畿内の田舎者でも、
それらの官位の後ろに大中国があるといえば、目が点になる罠。

・・・それを書かないのは、やはり普通に考えれば「書けない」のが実相でしょう。
いかに五王の交渉相手が統一中国でなくても、正式な官制を過去にもらっていたかど
うかは外交上非常に大きな問題なので、隆盛期にある大唐帝国に対して、あからさま
な嘘は書けないという。いかに交渉上手であっても、これは中学側から譲れないこと
なので、「もと倭の別種」が倭を併せても、過去の官位の僭称までは許されなかった。

こういう事ではないでしょうか。
159日本@名無しさん:02/10/30 23:27
>中学側

中国側でした。
160:02/10/30 23:40
>>158
その通り。奈良には讃・珍・済・興・武はいない。

日本書紀も、新羅とか百済とかはそのまま書くけど唐とは書かずに大唐と書く。
ちょっと寂しい気もするけど、そういう世界情勢だった訳だよね。
161日本@名無史さん:02/10/30 23:54
河内にいました。
162日本@名無史さん:02/10/31 23:56
>>160
それなのに
唐の人は日本から来た連中が本当のこと言わないって
思ってるのはなぜ?
唐が怖いンなら嘘はつかない方が良かったんじゃないの。
163:02/11/01 00:04
>>162
ゴメン。いつウソ言った?
164日本@名無史さん:02/11/01 01:11
倭が日本に改名しただけだろ
白村江で唐と戦った国じゃないという詭弁。
でも中国人にしてみたら王朝交代かなと思うわけで
中国人が不審に思って根ほり葉ほり聞くから
壬申の乱の話とかもちだして曖昧な返事しただけ。

165日本@名無史さん:02/11/01 01:26
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166日本@名無しさん:02/11/01 06:59
>162

だから、記録に「倭の別種」の日本が来てほらふいたり、倭国の使者とけんかしたり、
長安中の書物をたくさん買いあさったりとあるわけ。

最終的な倭国滅亡の後に史実を改ざんして大和の歴史に組み込んだから、色々つじつま
があわなくて中国側に詰問されたということ。そしていくらなんでも官位の僭称までは
こわくてできないので、正史の書記にはそこまではかかなかったというわけ。
167日本@名無史さん:02/11/01 07:17
なにをいってるのかわからんな?

まず、倭の五王の官位は僭称じゃないだろ(宋書が確かに叙任したというんだから)
そこで、もし日本が倭国と別の国なら五王の官位の話が出てこないのは当たり前だし
日本と倭国が同じ国なら五王の話がでてこないのは不審だ、という理屈ならわかる
168日本@名無史さん:02/11/01 10:47
白村江の戦いで破れた倭は、自ら、「天子」を名乗って中国と対抗できる大国だと思っていたのに、
自信喪失してしまった。このため、日本と国号を改め、妄想に近い皇国史観を作り上げ、唐に答え
たのだ。「虚を持って実に答えず」
169日本@名無史さん:02/11/01 22:17
なにをいってるのかわからんな?
じゃあ倭の頃はまだ現実に近い皇国史観だったとでも?

倭の段階ですでに「天子」を称してしまったのだから
もう取り返しはつかない。さらにその上はないだろ。
170:02/11/01 22:21
倭国が末期に日本国を名のった可能性は大きいが、日本書紀を書いた日本国は
倭国とは別の国で倭国を呑み込んだと考えるとツジツマがあうぞ。
倭国は唐・新羅連合軍に負けたことから滅亡したのだが、代わりに日本国が伸びて
日本列島を治めたんだろうね。
日本列島が大陸から微妙に離れていたことと、倭国が滅びても日本国があったことは
日本が独自の発展が出来たことの根本だね。良かった良かった。
171日本@名無史さん:02/11/01 22:23
倭の段階で天子を称したが、中国への文書では、
小野妹子の一件以外は使ってないと思うが。

ちなみに、天皇号・日本号は、天武朝からが、近年の定説。
172:02/11/01 22:33
「定説」には怪しいのも多いから、誰が何を根拠にして言っているのか説明して
ほしいよ。自分で判断しないとね。
173日本@名無しさん:02/11/02 06:58
>170

まあ、敗戦、被征服民族の気持ちが理解できなかったことが太平洋戦争の遠因
ともいわれるので、元寇にせよ、一度は征服された方が色々な意味でよかった
という説もあるがな。

いずれにせよ、百済=倭連合軍がボロボロにされ、筑紫野君・薩夜摩まで虜囚
の憂き目にあったにもかかわらず、大和にその影響が全然見られないのが、そ
もそももっとも不審な点。その後の政治的な動きも、敗戦処理とはとても思え
ないし。そういう対外記録もないし。中国側から当然いろいろ詰問されている
はずなのに。

やはり、白村江の敗戦によって、すでに磐井王の敗戦により東方領土を失った
倭国が、半島の利権とともに自らの国力も失い、壊滅したと考えることが最も
合理的でわかりやすい。

五王の朝貢や官位を記紀で記録していないことといい、やはり倭≠大和と考えた方が
わかりやすい。
174日本@名無しさん :02/11/02 07:25
>>170
うーん
ちょっとわからないなぁ・・・
白村江の戦いが663年、大化の改新が645年
中大兄皇子も白村江の戦いに参加してますし(九州で指揮、半島には渡って無い)
どうも白村江以前、以後で体制、国家が変わったと思えません。

倭は中国から見て東側の野蛮人、蔑称ですよね?
自国を倭などといつまでも呼びたくないと思っていたのではないでしょうか。

中国(唐)と戦うにあたり倭と言う蔑称を捨てたと言うのはどうですか?
あと防人、水城、大津へ遷都等でかなり唐・新羅からの侵攻を恐れていたと言う事実もありますし・・・

まぁ中国側から見れば日本のどんな国の使者が来ても倭と言いそうなので倭=大和と決定は出来ないとは思います。
175日本@名無しさん:02/11/02 07:53
だから、ダメージを受けなかった大和の方は、変わる必要がないっていっとろうが。
中大兄が九州で指揮?じゃあどんな指示を出したのよ。大体、古代の通信状況で、それで指揮
できる分けなかろうが。天皇はいるんだから、自分が何故戦場に出ていかないわけ?あんな簡
単に水上戦で片が付いてしまうなんて、誰も思ってなかったわけだし。そもそも、大和勢力の
水軍って確認されてないし。
水城?それは最近の測定で時代が違うし、記紀の記述にないわけ。あれだけの大工事なのにね。
せいぜい高安山にちょっと作っただけ。大津遷都?それで防衛できるのかな?関係なかろ。
176174:02/11/02 08:16
確かに大津戦と、水城は決定打にはなりえませんね・・・
でも防人はどうでしょう?

あと秀吉朝鮮出兵の時も名護屋城まで行ってなにもしない大名たくさん居たじゃないですか
総大将は居るだけで良し。戦場行って死んだら総崩れ。

ってか斉明天皇も福岡まで行ってませんでした?
確かそこで急死してゴタゴタしたような・・・
斉明天皇生きてたら戦場に向かったのかな・・・
177174:02/11/02 08:17
戦と > 遷都
間違えました(涙
178日本@名無史さん:02/11/02 14:50
あらら。電波が幅きかしとるのぉ
179日本@名無史さん :02/11/03 00:05
鉄剣の弖已加利獲居(テヨカリワケ)=豊韓別(トヨカラワケ)
180九州王朝大好き:02/11/03 02:08
ここは、九州王朝(倭王朝)が主流派になっている。

近畿王朝(大和王朝)説は電波説。
181日本@名無史さん:02/11/03 06:22
漢の歴代皇帝はみんなアカの他人だったと電波説を唱える九州王朝大好き君が登場しました。
みなさん拍手でお迎えください。
182日本@名無しさん:02/11/03 08:02
近畿説でも九州説でもいいが、仮死腹一家の暴言だけはうっとおしい。
仮死腹一家とそれ以外って分類してくれ。
183日本@名無史さん:02/11/03 08:05
>>182 よっぽど痛いとこ突かれたんだね?
184日本@名無史さん:02/11/03 10:18
仮死腹一家ってどんなアホな主張してるわけ?
185日本@名無史さん:02/11/03 10:22
周の文王は武王の実の父親だと普通のことを。
186日本@名無しさん:02/11/03 10:35
183も橿原一派
187日本@名無史さん:02/11/03 10:40
橿原一派って正論の人ですか?
188日本@名無史さん:02/11/03 10:45
電波じゃない人の総称です。
189:02/11/04 16:47
>>175 >>176
日本書紀(現代語訳)を見ると、白村江の敗戦の後のところで、
「この年、対馬・壱岐・筑紫国などに防人と烽をおいた。また筑紫に大堤を築いて
水を貯えた。これを水城と名づけた。」とあるよン。
190日本@名無しさん:02/11/04 17:56
橿原=権力におもねって、他派を平気で基地害扱いするものの総称。
今や古代史学の癌。相当の権威があるにもかかわらず、「天皇陵開けろ!」とかは
言わない。

水城 → 築城年代が問題になっており。見つかっているだけでもものすごい大工事
であり、そんな短期間には出来ない罠。
そんなところだけ書記を引用する。で、都合悪いところは「え〜、それは○○による
改ざんで・・・」

ぷぷぷ
191:02/11/04 18:18
>水城?それは最近の測定で時代が違うし、記紀の記述にないわけ。あれだけの大工事なのにね。
というから、日本書紀に記事があるといっている訳なんだがね。別に都合が良くも悪くもないがね。
192日本@名無史さん:02/11/04 18:21
>築城年代が問題になっており

問題にしてる人ってどこの電波?
193日本@名無史さん:02/11/15 02:16
傍系のくせに中大兄が奪い取ったもんだから隠蔽したってことでは?
194日本@名無史さん:02/11/19 15:22
中大兄って傍系なの?
195日本@名無史さん:02/11/21 15:19
傍系じゃないでしょう
196日本@名無史さん:02/12/01 04:20
傍系でなければ天皇になれたのでは?
197日本@名無史さん:02/12/01 07:16
>>196
> 傍系でなければ天皇になれたのでは?

天智天皇を知らないのか?
198日本@名無史さん:02/12/12 02:37
197はアホやなあ。
中大兄が天皇になれたのは何歳の時か知ってる?
199日本@名無史さん:02/12/12 07:11
讃 俺の先祖
珍 俺の先祖
済 俺の先祖
興 俺の先祖
武 俺の先祖
200日本@名無史さん:02/12/23 15:54
>>1
讃は王であるとは書かれていない。
五王でなくて四王と呼ぶべき。
201日本@名無史さん:02/12/26 01:01
トンデモ本に七王と書いてあったらしい……
もちろん、造作にキマッテル
202日本@名無史さん:02/12/28 16:34
まがりなりにも大兄とついてるんだから有力な後継者だったことにはかわりないだろう
天智が傍系だといってる奴は皇室系図もみたことないのか?
203日本@名無史さん:03/01/04 06:43
ほんとうに大兄だったのかどうかあやしい。
204日本@名無史さん:03/01/04 17:37
これだから電波厨は・・・
ソースもないくせに、何があやしいんだか。
205日本@名無史さん:03/01/04 17:44
定説はあやしいあやしいを連発して怪しげな説をならべる怪しい奴=電波
206204:03/01/10 11:54
>>205
204でいったのは五王の比定についてでなく
「天智が大兄だったというのはあやしい」というアホに対していったもの。

五王の比定について通説は漏れもあやしいと思うよ。
学者だってそれほど自信をもってるようにもみえないし。
現在の通説は一応の案であって「定説」というほど確固としたものでもないのでは。

207日本@名無史さん:03/01/10 12:39
>>199
松野さんですか?
208日本@名無史さん:03/01/10 16:37
ホントは頓珍漢って書いてあったのを写し間違えただけ。
209山崎渉:03/01/11 16:42
(^^)
210日本@名無史さん:03/01/12 22:36
>>208
ギャグにしてもおそろしく寒い。山崎渉は笑ってるがコイツはアホ。
211日本@名無史さん:03/01/12 22:58
大兄があやしいというのは、即位までの期間が長すぎると言うことから来ている。
別に電波でも何でもないし、古代にさかのぼるほどいろいろな可能性を幅広く
検討する必要がある。近くは、上杉謙信が女だったとか、信長殺しが秀吉だとか
いう説でさえ、100%の否定も仕切れないわけだから。
確かに、「中大兄」という名前自体、怪しい。中+大兄だから、固有の名前は「中」
なのか?「大海」という年上の弟の存在って、何か?実に多くの謎があり、まだまだ
それも試論の段階に過ぎない。それを明確に否定せず、教科書に平気で載せてしまっ
ているという意味では、古代史学者のほとんどはDQNと言い切っていいだろう。
そんなこと言い出したら、そもそも唐に対する戦後処理は一体どのような形でなされた
のか、という国際政治学上極めて重要な問題も手つかずと言っていい。

  
   厨 房 よ、「電 波」 と い う 言 葉 を 乱 発 す る な !!
212日本@名無史さん:03/01/12 23:14
>>211
自分のいってることが電波だという自覚がまったくないから
電波よばわりされてるのに。哀れよのう。
そのうち暇な人がきみの言い分をいちいち反論してくれると思うよ。
漏れは今夜は忙しいんで(w
213日本@名無史さん:03/01/12 23:49
>>211

デムパが何か言ってるな。

> 確かに、「中大兄」という名前自体、怪しい。中+大兄だから、固有の名前は「中」
> なのか?「大海」という年上の弟の存在って、何か?実に多くの謎があり、まだまだ
> それも試論の段階に過ぎない。

中大兄は通称だ、ボケ。本名は葛城皇子(かづらきのみこ)。何も謎はない。
舒明紀二年正月十二日条を見れば中大兄が長男で大海人が次男だとすぐわかる。
天武天皇即位前紀にも大海人が中大兄の同母弟(いろど)と書いてある。
どこに大海人が年上だと書いて有るんだ?弟としか書いてないだろうが。

> 別に電波でも何でもないし、古代にさかのぼるほどいろいろな可能性を幅広く
> 検討する必要がある。

大海人が中大兄の「年上の弟」だと決めつけているところを見ると、
日本書紀は検討の対象外らしいな。真性のデムパとしての資格を持っている。

実際、デムパは検討などしない。突飛な説を事実で有るかのように語るだけだ。
主張の根拠を引用、紹介、明示したりなどせず、怪しい、怪しいと繰り返すのみだ。
可能性の大小にも興味を示さず、

> 近くは、上杉謙信が女だったとか、信長殺しが秀吉だとかいう説

を取り上げてもらえずに文句を言う。トホホホホ。

> そんなこと言い出したら、そもそも唐に対する戦後処理は一体どのような形でなされた
> のか、という国際政治学上極めて重要な問題も手つかずと言っていい。

わからないことはわからないと言っているだけで、手つかずなわけではない。
わからないのにわかったようなフリをするデムパと違うのだよ、まっとうな人間は。
214日本@名無史さん:03/01/15 11:21
>>1
『倭の五王』は、日本の天皇じゃないでしょう。
古代の半島にあった日本の属国=倭人国家(クダラ・カラ・シラギ)のいずれか
の王だろう。
俺は『カラ王』じゃないかと思うが。
215日本@名無史さん:03/01/15 14:22
213はくず。逝け。
216日本@名無史さん:03/01/15 15:37
大海人史観で歴史を作るなら、大海人の方が年長なのに中大兄に皇
位を奪われたとした方が良いからな。また後の、大海人が壬申の乱
の勢力の大きさから言って、皇族なのは確実です。
217日本@名無史さん:03/01/15 15:40
しかし、たぶん>>215が言いたいのは、中大兄の娘が大海人に嫁いで
いるからと言いたいのだと理解する。
218日本@名無史さん:03/01/15 16:43
>>215
デムパは根拠も論理も提示しない。ま、デムパはそうでなくちゃね。

>>217
>しかし、たぶん>>215が言いたいのは、中大兄の娘が大海人に嫁いで
>いるからと言いたいのだと理解する。

何処をどう読むとそのように理解できるんだ?
219日本@名無史さん:03/01/15 19:50
218はクズ
220日本@名無史さん:03/01/15 21:10
>>219

大丈夫か?目が真っ赤だぞ。
221 :03/01/16 00:07
まあすくなくとも、中大兄っていいかげんやめにして
葛城皇子と呼ぼうや
222山崎渉:03/01/16 08:42
(^^)
223日本@名無史さん:03/01/16 13:37
>>221
大兄を名乗る資格はあったんだっけ?
224日本@名無史さん:03/01/18 22:12
あにき〜。
225日本@名無史さん:03/01/19 02:55
資格? 資格とかじゃなくて、天皇から分かれた世代数の同じ者同士の中で
年長者が「大兄」でしょ。
「中大兄」は「大兄に次ぐ者」または「2番手の大兄」の意味。
226日本@名無史さん:03/01/19 06:53
>>225
> 資格? 資格とかじゃなくて、天皇から分かれた世代数の同じ者同士の中で
> 年長者が「大兄」でしょ。
> 「中大兄」は「大兄に次ぐ者」または「2番手の大兄」の意味。

ちゃんと調べてから書いてる?
中大兄が2番目なら、古人大兄は1番目か?
中には「中心」の意味もあることも考慮してないし。
227日本@名無史さん:03/01/19 08:56
>>226

>中には「中心」の意味もあることも考慮してないし。

どういう定説ですか?称号としての「中」についてのそんな説は初耳でつが?
228日本@名無史さん:03/01/19 13:11
226はリアル厨か?それともわざと素人のフリしてんのか?
229226:03/01/20 00:58
書き方が悪かった。スマソ。
>>225が、あまりにも単純に2番手と断言してたもんだから。
中の他の意味や、他の大兄の名前とか調べて考えてからから
言うんだったらいいんだけどね。
俺は中大兄の中に意味を求めるのに意味を感じない。
230日本@名無史さん:03/01/20 15:26
じゃ「中」っていう名前なのか?(固有名詞なのか?)
231230:03/01/20 15:28
それとも「葛城大兄」ならいいのか?
232日本@名無史さん:03/01/20 15:57
古人をぶっ殺してから中大兄と名乗るようになった
中は中継ぎ
233日本@名無史さん:03/01/20 19:50
中継ぎも何も、古人はもういないのだから普通に大兄でいいと思うが?
やはり大兄である古人に次ぐ存在だったから中大兄だったんじゃないの?
234日本@名無史さん:03/01/20 19:59
>>232

tree?
235  :03/01/20 21:01
とにかく、古代の日本の勢力関係は、
1000年後の戦国時代の関係に似てると、インド人が言ってるぞ。
天智天皇は近江閥で、天武天皇は尾張閥だろう?
石田三成は近江閥、加藤清正、福島正則は尾張閥。
236日本@名無史さん:03/01/20 21:27
インド人に言われてモナー
237日本@名無史さん:03/01/21 01:07
似ててもいいけど偶然だろ
日本は東西に長いんだから抗争が東西対立になるのも不自然じゃないし
そうなれば東西で生産力の高い地域が本拠地になるってだけのことじゃないの?
238日本@名無史さん:03/01/24 18:26
http://ex.2ch.net/test/read.cgi/korea/1042271971/l50
英語が出来る有志よ。
在加韓国人が、妄想発信中です。
239日本@名無史さん:03/02/07 02:51
なんで日本書紀に倭の五王のことが書かれてないの
どうして古事記に倭の五王のことが書かれてないの
かなり重要なことだと思うけど
書くとまずいことがあったの?
もうこのころの時代のことなら編纂する時に文献残ってたんじゃないの
どうなの?
240日本@名無史さん:03/02/07 03:04
中国から役職貰って喜んでたなんて書くわけ無いだろ。
日本書紀のころは、日本は中国から吟大と知られてるのだよ。
241日本@名無史さん:03/02/07 06:48
 土師ニサンザイ古墳のことが気になる。倭の五王時代の280mを超える古墳。
誰の古墳なのだろう?このスケールはどうみても王墓だと思う。5世紀代の和泉、河内
の政権中…いったい誰の古墳なのだろう?
242日本@名無しさん:03/02/07 22:28
よくわからないが。唐に使いをして、柵封体制に入って喜んで、お祭り騒ぎで中国の使いを
迎えたぼって、どこの国?
ってか、漢文の日本書紀を作ったこと自体、対中国戦略だし、その内容も中国からすれば、
至極穏当な物で、中国に弓引くわけでもない。

頼むから、超大国・中国の時代に現代のナショナリズムを持ちこまんでくれ。コヴァ厨房。
243日本@名無しさん:03/02/07 22:31
>>248

そうだね。まあ、明治に勝手に比定した天皇陵群、実際掘ってみなければわからないのだが、
どれ一つ手をつけられないなんて、世界の恥だな。天皇ってただの象徴なのに、未だに庶民が
苦しんでるなかで立派な葬式に墓。
やれやれだね。
244日本@名無史さん:03/02/08 00:01
土師ニサンザイはもと、反正のものとも。書記には重複する話があるのかも。。。
履中の墓は上石津   応仁.仁徳はその後の誉田.大仙。。。市の山は230m
前後。(允恭陵…?)イチノベノオシハノミコの影響???(なんか允恭陵にしては
大仙陵の半分にもならない。。。木梨の皇子の墓も解らない。。。ワカタケルの墓も
(丹比高鷲。。。ない!)仁賢天皇が話しどうりでなく雄略陵を壊していたら、あとで直して
河内大塚山古墳でいい。。。(大きさも。。。)岡ミサンザイと土師ニサンザイの間くらいに
あったのだろうか? と、考えてみる。
245日本@名無史さん:03/02/08 01:16
>>242
中国側の認識。ナショナリズムを持ち込むなよ厨房。
使者がどういう態度だったかわかんだろ。


『北史』東夷傳 倭國
 唐 李 延壽 撰
新羅、百濟、皆以倭爲大國、多珍物、並仰之、恒通使往來。  
 大業三年、其王多利思比孤、遣朝貢。使者曰「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜。兼沙門數十人來學佛法。」國書曰「日出處天子致書日沒處天子、無恙」云云。帝覧不悦、謂鴻臚卿曰「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」


『舊唐書』東夷傳
後晋 劉 xu[日句] 他 撰
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東酉南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國。

246日本@名無しさん:03/02/08 03:09
ヴァカ。それでも朝貢貿易というのは成り立つんだよ。そんなDQN相手でも、しっかり
十倍返しの返礼をするのが大中国。
247日本@名無史さん:03/02/08 04:05
朝貢と貿易が密接に関係したのは海禁策がでてきた明清時代の話。
もともと朝貢と貿易はなんの関係もない。
248日本@名無しさん:03/02/08 09:28
↑ まじでいってんの?(ぷ
249明智小五郎:03/02/08 10:20
<<211
自説
皇極天皇は、最初用明天皇の孫に嫁いで、漢王を生んでいる。
そのあと死別し、舒明天皇に嫁いでいる。
実は中大兄は女帝の連れ子の漢王なんですよ。
だから簡単には皇位に就けなかったんですよ。
正当な後継者である大海人が、天智天皇の死後、壬申の乱を起こし、
大勢が味方についたのは、そう言うことだったんですよ。
中大兄が蘇我氏を征伐したのは、一族の敵討ちだったんじゃないかな。
天武系は女系で中大兄に繋がっているから、漢王の一族〔多分祖父〕
である聖徳太子を聖人化して祀ったってことじゃないかな。
山背大兄の弟の長谷王が早死にし遺児に葛城王ってのがいる。
この葛城王がのちの中大兄〔葛城皇子〕かも知れない。
これで、すっきりしませんか?
天武の年齢が不明なのはカムフラージュかも知れません。
250日本@名無史さん:03/02/13 01:22
>>248は素人
251日本@名無史さん:03/02/14 06:24
天智と天武は双子。
皇極天皇は、高向王と別れてすぐ舒明天皇に嫁いだので
どっちの種か自分でもわからなくなった。
だから双子がよちよち歩きするようになった頃、子供に父を選ばせた。
一人は舒明天皇の方に向かった。これが天智。
もう一人は高向王めざして歩いた。これが天武。
しょうがないんで二人の父が双子を分け取りしたというのが真相。
252(。・_・。):03/02/14 06:26
バレンタイン企画!
http://homepage3.nifty.com/digikei/ten.html
253日本史素人:03/02/24 23:23
>>249,251
証拠を示してください。
254251:03/02/27 18:03
>>253
べつに証拠はないけど、神皇正統記は双子説でそ。
それと大和岩雄の天武=漢王説をごっちゃにしてみただけ。
「こうだったら面白いな」と思って。
255日本@名無史さん:03/03/09 02:58
>「こうだったら面白いな」
最近、小説と歴史の区別がつかないヤシ多し。

256254:03/03/10 06:23
>>255
もし小説でもいいなら、というつもりだったんだが。
でも可能性としてはあり得るだろ。
257日本@名無史さん:03/03/15 17:18
でもまじに、兄の娘4人も、嫁に迎えた弟って、小説よりすごいよな。
258日本@名無史さん:03/03/22 20:51
ワカタケルの時代よりも数世代前の時点で埼玉まで支配権だったとすると、
当時の九州方面の支配権はどうだったんだ?
259日本@名無史さん:03/03/22 21:09
>>258
倭王武の配下の倭隋が平西将軍に叙されているのは
近畿からみて西、つまり九州の支配をまかされていたと考えられているね。
倭隋は後世の太宰帥のような役割についていたということ。
260日本@名無史さん:03/04/01 07:28
倭隋の本名教えてちょ
261日本@名無史さん:03/04/01 08:56
>>254
神皇正統記に「双子説」なんて書いてある?
「同母ノ弟ナリ」という記述はあるけれど・・・.
262日本@名無史さん:03/04/05 13:17
>>260
讃・珍の本名が諸説あって定まらないのに隋を特定はできない。
一説には讃・珍の弟で済の父、という推測もあるようだが真相不明。

>>261
神皇正統記の年齢から計算すると天智と天武は同じ年に生まれたことになる。
双子だと明記はしてないのは、双子説がストレートな伝承ではなく
北畠親房が自分で推定した私説だったからと思われ。
263日本@名無史さん:03/04/08 20:18
倭王武の血を引く東久邇征彦さんは、慶応大法学部出身だ。
最近のサラリーマンにはゴルフが必須という父信彦さんの
勧めで大学ではゴルフ同好会に所属。

一人っ子なので、両親はたくましく育てることに意を注いだ。
一年の時からホテルの宴会場でボーイのアルバイトをしているし、
高校時代は東京・三田の自宅に近いすし屋で店員もやった。

自分のものは自分で洗濯し、アイロンかけもやる。たまに料理にも手を出し、
母親の留守に父親の朝食まで作ることがある。いかにも今時の大学生だが、
生活力という点では平均的な大学生の数段上と言って良い。

元皇族で、将来の希望は会社員というギャップが面白い。
彼が将来天皇になる可能性があるのだ。
264日本@名無史さん:03/04/08 21:22

イギリスもアン女王でスチュアート王朝が絶えた後、
ハノーヴァーから英語を話せないゲオルグ侯を迎えてジョージ1世にしたよ。
今度の女帝の後で崇光天皇の20世孫を迎えてもいいと思われ。
265日本@名無史さん:03/04/08 21:34
葛城家だか直系に近い子孫ているらしいじゃない。
本来はその系統に譲るべきじゃないの?
266日本@名無史さん:03/04/08 23:29
 なんかへんなこと思いついた 

 讃 称えられた
 珍 珍しかった
 済 終わった
 興 新しく興した
 武 猛々しい

 済と興は軽矢、穴穂矢の軽皇子と安康天皇にあたりはしないだろか?青銅の軽矢の
軽皇子を穴穂矢(鉄の鏃)で打倒した安康天皇...
 
267日本@名無史さん:03/04/10 09:38
>266
連想ゲームじゃねえんだぞボケ
…でも日本史学会も五十歩百歩
268日本@名無史さん:03/04/11 15:56
五王は石障系装飾古墳に葬られただろう。
http://homepage2.nifty.com/mononoke-kofun-room/HP/soushyoku.htm

269日本@名無史さん:03/04/11 20:45
 日本書記をみると、どうも魏書とか、いろんな書物(日本のも)を題材にしてるように
みえる。一人の天皇の名前も別名があったなら、それだけ、天皇が増える。瑞歯別天皇
なんかえらく話が少なくてなんか仁徳天皇の形代のようにも思える。瑞歯=仁徳
なら、大仙陵も正解かも、ならば、応仁天皇も稚郎子、履中天皇なのかも...
允恭記には木梨の皇子の話(允恭の衣通郎女=古事記の軽大郎女=亦の名は衣通郎女)が
多くあって、允恭=(大和の王)木梨の軽の皇子なのか、と、勘ぐってみたい...
270日本@名無史さん:03/04/14 06:04
常陸国風土記に記されているヤマトタケルは倭武天皇である。

日本書紀が皇太子と記している人物を、天皇であるとする理由はなにもなく、
常陸国風土記の記述には嘘はなかろう。
271日本@名無史さん:03/04/14 06:07
江田船山古墳太刀銘文のワカタケルも倭武天皇(=のちの諡で雄略天皇)なんだろね
272日本@名無史さん:03/04/14 08:08
saitamaの稲荷山古墳の鉄剣にも獲加多支鹵があります。住人
273山崎渉:03/04/17 13:45
(^^)
274日本@名無史さん:03/04/18 23:28
さいたまのどのへんにあるのですか?
その当時よりだいぶ前から関東平野は蝦夷地でなかったということですね?
275日本@名無史さん:03/04/19 03:02
>274
稲荷山古墳知らんのか。住民じゃなければそんなものかな…
行田市。熊谷市の東だよ。
276山崎渉:03/04/20 01:53
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
277日本@名無史さん:03/04/24 02:31
>>266,>>267
266はいい線いってると思うよ。発想だけは。

278日本@名無史さん:03/04/24 10:57
>277
謚号は漢字に意味があるけど、倭の五王は違うんじゃないの?
279日本@名無史さん:03/04/26 19:50
>266
好きか嫌いかで言うと好きな発想。
強引にこじつけるよりは
分かりやすいし、あり得そう。
280日本@名無史さん:03/04/28 18:50
このスレを1から興味深く読ませていただきました。
今まであまり興味のなかった古代史に少しはまりそうです。
初心者に最適な古代史入門の本ってあります?
黒岩重吾の小説なんか入りやすかったりしますか?
281日本@名無史さん:03/04/28 19:01
まずは「まんが日本の歴史」からだな
最近復刊された『週刊朝日百科日本の歴史』も絵が多いので、
専門的な内容が多い割には読みやすいと思うが、
あの薄さで一冊500円(だったよね?)という高価格がネック。
後、古代史編はもう復刻されてたっけ?

黒岩重吾の小説は、とりあえず古代史のイロハを勉強してから。
結構むずいと思うぞ。
282280:03/04/28 19:09
>>281
早速のレスどうも。
まんが日本の歴史は持ってます。
高いのはちょっと・・・
専門的でも構わないので1から抑えてあるような、
これ一冊読んどけぐらいの本ないでつか?
最新の研究結果踏まえてあるような。
283日本@名無史さん:03/04/28 19:38
>>282
岩波ジュニア新書の「日本の歴史」シリーズはどう?
古代では『日本社会の誕生』(吉村武彦著)、
『飛鳥・奈良時代』(吉田孝著)の2冊が出てる。
284日本@名無史さん:03/05/01 06:21
>>282
高いかも知れないが、281にもある『週刊朝日百科日本の歴史』が
やっぱりお勧め。古代分だけなら全部買っても○千円で収まるし。
個人的には買って損はないと思う。てゆうか今せっせと買ってる。
初版のとき買い逃したので。
285日本@名無史さん:03/05/01 21:07
履中〜雄略と考えていいだろ。
286280:03/05/04 22:56
「週刊朝日百科日本の歴史」そんなにおすすめなんですか、今度本屋行った時みてみます。
講談社学術文庫に古代史の本が何冊か出てたんでそっちを買おうかと思ったんですが
287日本@名無史さん:03/05/08 01:29
>>286 :280
岩波の書記、古事記等。。。
あと、別スレにも出てたが、文春新書の古墳とヤマト政権(白石太一郎)はおすすめ
中公新書の天皇誕生(遠山美都男)これもあやしい。
288日本@名無史さん:03/05/14 00:58
>>275
武蔵国の何郡?
289日本@名無史さん:03/05/14 01:34
漏れも住人。
稲荷山古墳鉄剣銘【いなりやまこふんてっけんめい】
埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣(国宝,さきたま資料館蔵)の剣身
表裏に金象嵌された銘文。ほぼ全文が判読された115文字は,5世紀代の最も
基準的な金石文史料。冒頭の〈辛亥年〉は471年,また大王名〈獲加多支鹵〉
(ワカタケル)は,倭王の武,記紀のオオハツセワカタケ(雄略天皇)にあたる。
乎獲居(オワケ)が〈奉事〉の〈根原〉を記すとする内容は,〈上祖〉意富比(オオヒコ)
からの8代の系譜と,その一族が〈杖刀人首じょうとうにんのおびと〉として代々仕えた
ことである。ワカタケル大王の寺が〈斯鬼宮しきのみや〉に在る時,その〈治天下〉
を〈左たす〉けたことを強調する乎獲居を関東の豪族とみるか,中央の廷臣と
みるかは,説が分れる。 [株式会社岩波書店 岩波日本史辞典]
290山崎渉:03/05/22 03:24
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
291日本@名無史さん:03/05/23 21:48
292九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/05/24 17:11
倭の五王は確定されております。

倭の五王は、九州王朝菊地朝の「倭讃」「倭珍」「倭済」「倭興」「倭武」です。
和名は、近畿王朝に消されて、不明です。 
293九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/05/24 18:05
倭讃は、景行記にでてくる九州統一をした前君と推定する見方もあります。
294日本@名無史さん:03/05/24 18:16
>>292-293
その話に、興味あり!
詳しいWebサイト(又は本のタイトルとか)あったら、教えてちょーせん
295九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/05/25 00:00
>>294
僕が必ずしも支持している説ではありませんが、下記を検索のきっかけとされたら?

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/4322/
http://cgi.search.biglobe.ne.jp/cgi-bin/search-ie2web?q=%B6%E5%BD%A3%B2%A6%C4%AB
296日本@名無史さん:03/05/25 00:01
バイト見つけた。1000円くれるってさ。
http://f15.aaacafe.ne.jp/~storm/
297日本@名無史さん:03/05/25 03:05
>>289
>冒頭の〈辛亥年〉は471年
411年の可能性は?
298_:03/05/25 03:07
299山崎渉:03/05/28 11:00
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
300日本@名無史さん:03/05/28 17:27
倭王武の血を引く東久邇征彦さんは、慶応大法学部出身
301日本@名無史さん:03/06/06 00:24
講談社メチエから『日本書紀の真実〜紀年論を解く』という本が出てる。

おれは途中で飽きて投げ出してしまったから、誰か最後まで読んでレポしてくれ。

なんでも、日本書紀の紀年は4系列だか5系列だかが併存していて、

賛=仁徳、彌=菟道稚郎子皇子、讃=去来穂別皇子、珍=反正、済=允恭、興=雄略、武=清寧

で、

允恭は菟道稚郎子の子供、履中天皇といわれる去来穂別は即位しておらず皇子であった

ということらしい。

302日本@名無史さん:03/06/06 14:34
>>301
漏れ今読んでる。
日本書紀をいじって年紀を復元しようというアホな本は
これまでも何冊も出ているけど、これはその中でもとくにひどい駄本だな。
なんでこんな白痴女がメチエで本出してんだ?
303日本@名無史さん:03/06/06 23:37
あらら。そんなにひどいですか。
物知らずなんで、序章は結構ためになったんですけどね。

彌が実在するとか、賛と讃が別人だとかいうあたりでついていけなくなったけど。

ただなぁ、いわゆる倭の五王の中には菟道稚郎子はいるような気はするんだよなぁ・・・・
延喜諸陵式じゃぁ、菟道稚郎子の宇治墓が兆域12町×12町で、
仁徳陵を抜き最大ってのは何かあるとしか思えない。
304日本@名無史さん:03/06/08 01:05
>297
411年の可能性が0%とは言わないが、
古墳の築年からすると古過ぎる。
さきたま古墳群の古墳、特に初期の古墳は
10年以内の誤差で築年が推定されている。
というのも、このころ数年おきに浅間山や榛名山が噴火しており、
その火山灰が古墳の下にあるか、
上に積もっているかで古墳の築年が推定できる。
火山の噴火年は火山灰に埋もれていた木の年輪で確定されている。
もちろん初期の古墳の主埋葬者もほぼ確定されている。
日本書紀の記載にほぼ合致する。
305304:03/06/08 01:14
訂正
日本書紀×
先代古事本記○
306日本@名無史さん:03/06/15 16:04
>>305
訂正の訂正
先代古事本記×
先代旧事本紀○
307日本@名無史さん:03/06/18 21:28
願いましては
308日本@名無史さん:03/06/21 05:25
 讃 安康
 珍 雄略
 済 継体
 興 安閑
 武 宣化
309日本@名無史さん:03/06/21 08:54
讃 雄略
 珍 清寧
 済 清貞
 興 顕宗
 武 仁賢
310日本@名無史さん:03/06/22 01:51
五王は畿内の人じゃないと思う。
九州の人間じゃないだろうか。
311日本@名無史さん:03/06/25 22:37
倭の五王は畿内地方の人間じゃないから、××天皇なんてことはない。
312日本@名無史さん:03/07/03 01:19
世界初!2001年4月同時御入学!!

高円宮承子女王殿下  学習院女子高等科 御入学
高円宮典子女王殿下  学習院女子中等科 御入学
秋篠宮佳子内親王殿下 学習院初等科   御入学
313日本@名無史さん:03/07/11 08:38
314日本@名無史さん:03/07/11 09:42
倭の五王は対馬の人
315日本@名無史さん:03/07/11 10:56
5人が同時に別々の場所にいてた、四国と近江と河内と紀とどこか
316日本@名無史さん:03/07/13 00:17
でも、その宋は周辺異民族へと朝貢するほど弱かった
317日本@名無史さん:03/07/13 11:34
↑劉宋と趙宋を混同してない?
318日本@名無史さん:03/07/13 11:45
西衆夷六十六国、東毛人五十五国って具体的にどこ?
倭の五王はその間にいたわけでしょ?
319日本@名無史さん:03/07/15 01:51
↑分かれて百余国ですね。
だいたい当時列島に存在した国造と考えればいいです。
国造本紀にのってるのがだいたいそのくらいです。
320山崎 渉:03/07/15 11:41

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
321日本@名無史さん:03/07/17 04:17
賛=仁徳、彌=菟道稚郎子皇子、讃=去来穂別皇子、珍=反正、済=允恭、興=雄略、武=清寧
322日本@名無史さん:03/07/21 04:25
>>319
じゃ、やっぱり倭王を畿内政権と考えていいんだな。
九州王朝だったら、そのさらに西に六十六国はむりぽ。
323日本@名無史さん:03/07/21 04:36
倭の五王は現近畿でいいんじゃないかな
少なくとも中国地方〜現近畿だと思われ
324日本@名無史さん:03/07/26 17:53
325日本@名無史さん:03/07/31 01:10
326山崎 渉:03/08/02 01:17
(^^)
327日本@名無史さん:03/08/03 21:22
        ,,,--─===─ヽ/へ
      /iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
     iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
    iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
   iiiiiiiiiiiiiiiiii/             \iiiiiiiゞ
   iiiiiiiiiiii/                \iiヽ
  iiiiiiiiiiiiiii《    ━━━'/  ヽ━━━ ヽミヽ
 ...iiiiiiiiii彡/      __,.::  :: __  ヽiiiii|
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 iiiiiiiiiiiiiiii|,                     |iii|
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iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ     》 / ̄ ̄\ 《     |iiiiiiii|
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329日本@名無史さん:03/08/06 21:24
王権断絶後の 継体天皇がなんか肝心なとこ この天皇の前が倭王武。手白香系の前の
天皇なら清寧天皇(飯豊青女王)から 仁賢天皇の前 倭王武は雄略天皇だろう。
雄略天皇の前は市辺押刃の皇子 木梨の皇子あたりか。降って沸いたような允恭天皇
が倭王済 ここでも断絶...(履中天皇 反正天皇の話に絡まない) 倭王彌は仁徳天皇(履中天皇 反正天皇) 讃は宇治天皇(応仁天皇)
330日本@名無史さん:03/08/11 21:22
331衣笠宮:03/08/12 21:42
普通につなげればこうなんだけどな
みんな無理に仁徳天皇を入れようとしてませんか?

讃 履中
珍 反正
済 允恭
興 安康
武 雄略
332日本@名無史さん:03/08/13 00:08
普通につなげば菟道稚郎子がはいるだろ。
なぜ真実から目をそむけるのだ。
333日本@名無史さん:03/08/13 00:43
(●´ー`)、(〜^◇^)、( ^▽^)、(0^〜^)、ゝVvV丿
334日本@名無史さん:03/08/13 00:44
太陽王
335山崎 渉:03/08/15 12:51
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
336日本@名無史さん:03/08/15 21:55
337日本@名無史さん:03/08/20 01:05
338日本@名無史さん:03/08/27 17:18
339日本@名無史さん:03/08/30 16:04
ワオー!!
340日本@名無史さん:03/09/05 21:55
うっ
341九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/09/11 22:00
倭の五王は九州の王です。

倭の五王は確定されております。

倭の五王は、九州王朝菊地朝の「倭讃」「倭珍」「倭済」「倭興」「倭武」です。
和名は、近畿王朝に消されて、不明です。 

倭讃は、景行記にでてくる九州統一をした前君と推定する見方もあります。


342日本@名無史さん:03/09/18 01:13
マジ?
343日本@名無史さん:03/09/18 11:30
国内外に天子デビューを果たしてる、
天武朝が設定した、記紀のポイントは
天武朝の系譜  応神:::継体
「私の系譜は南朝臣の五王とは違う」というストーリーの為だろ、
応神は絶対に違う言うことは確実
344九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/09/19 20:29
自由で楽しいパズルの様な想像妄想をかき乱して申し訳ありませんが、
倭の五王は既に確定されております。

倭の五王は、九州王朝菊地朝の「倭讃」「倭珍」「倭済」「倭興」「倭武」です。
和名は、近畿九州王朝天武朝にかき消されて、不明です。 

五王の愛称はひとつだけ判りかけています。
景行記にでてくる九州統一をした前君は、倭讃と推定する見方です。
345日本@名無史さん:03/10/01 20:22
346日本@名無史さん:03/10/09 01:56
347日本@名無史さん:03/10/10 02:31
>和名は、近畿王朝に消されて、不明です。

消されてません。
「倭讃」 会古乃別
「倭珍」 邇辺古乃君
「倭済」 坂津根命
「倭興」 諸手小立彦
「倭武」 真咋布敷公です。 
348日本@名無史さん:03/10/10 04:09
アフリカの至宝ボカサ様>>>>>(越えがたい壁)>>>>>チョン天一家
349日本@名無史さん:03/10/31 01:32
350日本@名無史さん:03/10/31 02:28
>>23
記紀の固有名詞を片仮名表記するなら、最低限歴史的仮名遣いで書かないと意味ないよ。
できれば、万葉仮名の甲類・乙類の別も明記すべき。
>>347
>「倭讃」 会古乃別
>「倭珍」 邇辺古乃君
>「倭済」 坂津根命
>「倭興」 諸手小立彦
>「倭武」 真咋布敷公

上記、347さんの推定された基礎となる出展をご教授ください。
352日本@名無史さん:03/11/01 02:24
玖口岩井公本系帳
353日本@名無史さん:03/11/02 00:03
またいつもの病気が始まったか・・・・
354日本@名無史さん:03/11/17 19:49
「倭武」は「ヤマトタケル」と読むんでしょう。
355日本@名無史さん:03/12/07 08:18
>>354
あたりまえじゃん。ほかにどうよむ。
356日本@名無史さん:03/12/07 12:54
また自演が始まったか・・・・
357日本@名無史さん:03/12/15 12:25
ヤマトダケと訓んでる「ホツマツタエ」
358日本@名無史さん:03/12/28 09:16
賛=仁徳、彌=菟道稚郎子皇子、讃=去来穂別皇子、珍=反正、済=允恭、興=雄略、武=清寧
359日本@名無史さん:03/12/28 13:36
ホツマツタエの訓み方は、日本書紀の中世の誤った訓読をそのまま使ってるだけ
360日本@名無史さん:04/01/15 11:02
361日本@名無史さん:04/01/26 23:12
世界初!2004年3月同時御卒業!!

高円宮承子女王殿下  学習院女子高等科 御卒業
高円宮典子女王殿下  学習院女子中等科 御卒業
秋篠宮佳子内親王殿下 学習院初等科   御卒業
362日本@名無史さん:04/01/27 01:27
倭の三女王だねw
363日本@名無史さん:04/01/28 21:32
稲荷山鉄剣の辛亥年を471年とする通説から見直そう。
斉藤忠などは同古墳の年代を副葬品の組み合わせから6世紀前半とし、
辛亥年を531年としている。

そうすると獲加多支鹵、倭王武は欽明(531〜571)となる。
364日本@名無史さん:04/01/29 02:14
そんなの発見当時から言われてたけど相手にされてないじゃん
365日本@名無史さん:04/01/29 15:31
だから今から相手にしてよ。

江田船山鉄剣の年代も、獲XXX鹵大王がワカタケル大王と
読めることが判って5世紀末ということになっているが、
以前は瑞歯大王と読んで反正天皇だとしていた。
いままでの古墳の年代測定はその程度。根拠が薄弱。

実際には、同古墳の年代は
出土している須恵器が6世紀前半〜中期であることを物語っている。
366日本@名無史さん:04/01/30 16:26
倭王武の上表文は478年だからワカタケルと武は別人だわ。
エラソーなこと言って素で間違えてました。スマソ

でもワカタケルが欽明であることは証明できたよ。
武については5世紀後半の大王を比定すれば判明できるでしょう。

稲荷山古墳で発掘されたTK47式須恵器の年代を改めて6世紀中頃とすると、
5世紀末から6世紀初頭にできた大王級古墳はTK73式とTK216式が出土している
誉田山古墳である。被葬者は応神。
367日本@名無史さん:04/01/30 23:20
んなわきゃないだろw
368日本@名無史さん:04/02/06 05:38
>>359
たしかに「ヤマトダケ」は中世の訓みだが、実は上代でも「ヤマトタケ」が正しいらしい。
同様に雄略も「オホハツセワカタケ」が正しい。
369日本@名無史さん:04/02/06 05:49
ちなみに稲荷山鉄剣銘の「獲加多支■大王」の■は「鹵」じゃないんだって。詳しくは省略するけど、「廼」の省文で「ノ」と読む。
370日本@名無史さん:04/02/06 11:21
百済は日本の支配化にないので,使持節都督,倭,新羅,任那,加羅
秦韓,慕韓,六国諸軍事,安藤大将軍、倭国王と名乗りなさいと
いわれた。
371370:04/02/06 11:31
五王はこのこと?
これらは,天つ神系で同属のこれより前の出雲系国つ神系
は???
372370:04/02/06 11:40
ずっと前に卑弥呼はかがみもらってるし
何で尊敬されるのかわからん中国に
いまでもばかにされてるのに
373370:04/02/06 11:50
百済は国がなくなって、よりによって
何で日本に来るねん、ちゅうはなしや。
374370:04/02/06 12:04
出雲系天皇より、大友、蘇我、物のべ
がすでに力が有るっておかしい。
375日本@名無史さん:04/02/06 16:44
>>368
ヤマトダケは中世の誤った読み方。ヤマトタケルが正しい。
獲加多支鹵=ワカタケルで問題なし。
鹵が「廼」の省文で「ノ」と読むとかいってるのは珍説の類い。

>>370
だから倭王はブチ切れて朝貢やめちゃったんだよ。
南朝なんて弱体な王朝に認めてもらわなくても
実際に百済を属国にしてたんだからもういいや、ってこと。
376日本@名無史さん:04/02/06 16:57
>>375

倭王がぶちきれて・・・
それって、誰でも知ってるが、何の根拠もない説でしょ。

単純に王朝が、継体帝から変わったと見る方が自然。
>>1
>誰か倭の五王を確定してよぅ!!

倭の五王は確定しています。
五王は、「倭讃」「倭珍」「倭済」「倭興」「倭武」です。
彼らは、後期(4世紀末〜6世紀初頭)倭国を支配した熊本菊池族の出身です。 
378375:04/02/07 01:51
>>376
宋が北魏に山東半島を奪われて航路が消失したからだよ。
379日本@名無史さん:04/02/07 03:16
>>375
珍説じゃないよ。古事記学会の代表もされた先生の説
380日本@名無史さん:04/02/07 04:12
歴史学界じゃなくて国文学界じゃないの?
もしくは晩年、引退後に道楽でやってた学会で半分ボケてたんかも。
381日本@名無史さん:04/02/07 04:29
歴史の人は書体とかあんまり気にしないの?
382日本@名無史さん:04/02/07 13:06
書体?鹵は「る」だろ
383日本@名無史さん:04/02/15 00:50
獲加多支歯だと、わかたけし?
384日本@名無史さん:04/02/15 01:10
>>382
鉄剣銘の字形からすれば、「鹵」(ロ)という字よりはむしろ、「廼」の省文として用いられる「西」の字の異体(パソコンでは出せない。「鹵」の真ん中の部分が「夂」みたいな字形)と見るのが穏当。これは「乃」と同じ使われ方をするよ。
「西」そのものとして「シ」と読んだ人もいたが、漏れは「ノ」説を支持してる。
>>1
>>342
九州王朝が存在したとの見方から、マジで書いています。
**************************************

倭の五王は九州の王です。

倭の五王は確定されております。

倭の五王は、九州王朝菊地朝の「倭讃」「倭珍」「倭済」「倭興」「倭武」です。
和名は、近畿王朝に消されて、不明です。 

倭讃は、景行記にでてくる九州統一をした前君と推定する見方もあります。
386日本@名無史さん:04/02/16 00:09
>>385
九州王朝スレでやってください
387日本@名無史さん:04/03/07 09:34
天武朝が設定した、記紀のポイントは
天武朝の系譜  応神:::継体
「私の系譜は南朝臣の五王とは違う」というストーリーの為だろ、
応神は絶対に違う言うことは確実
388日本@名無史さん:04/03/07 22:44
>>387
スレ違いです
389(倭王権873〜878の妄想人):04/03/08 23:18
倭の五王についても、妄想しますのでお許し下さい。

<倭の五王は実は、倭の三王である>

一般に、倭王「武」は雄略天皇といわれている。しかし、記紀の年数のままだと、
允恭天皇の治世のことになってしまう。
ここでは歴代大王の年齢や在位年数を縮めるにあたり、「超大王」仁徳天皇以前に
のみ、短縮するという立場で考えてみる。
390(倭王権873〜878の妄想人):04/03/08 23:23
允恭天皇といえば、名前を取り替えた伝承があるが、それ以前、応神天皇
も名前を取り替えたと、記紀は伝えている。
祭祀を重視していた当時の社会において、大王が名前を交換することは、
国家行事ともいえる重大な事件であったと推察される。
簡単に「ほい、やるぞ」などというものではない。
391(倭王権873〜878の妄想人):04/03/08 23:31
王国にとって相当深刻な事情があり、厄を取り払う意味で、大王の名前を
刷新したのだと考えてみてはどうか。
応神天皇の場合は神託により、旧名を神に奉げ、神の名を名乗った。
(原因・・・飢饉?疫病?)
允恭天皇の場合は神託により、かつての敵対者と名を交換した。
(原因・・・政情不安?戦乱?)
392(倭王権873〜878の妄想人):04/03/08 23:35
王国の正式な行事として名を改めたのだから、当然、大陸の南朝に
その旨の書を送っていると見るのが自然である。

しかるに南朝の役人はこれを同一人物とは考えず、弟王が即位した
と考えたならば、どうなるか。
393(倭王権873〜878の妄想人):04/03/08 23:51
逆にいえば、宋書にある

「讃」と「珍」は同一人物
「興」と「武」は同一人物

梁書にある

「賛」と「彌」は同一人物
「興」と「武」は同一人物

となる。

394(倭王権873〜878の妄想人):04/03/08 23:55
すなわち

応神天皇が、倭王「讃」・「珍」または「賛」・「彌」であり、
仁徳天皇が、倭王「済」
允恭天皇が、倭王「興」・「武」

と考える。


395(倭王権873〜878の妄想人):04/03/09 00:07
そして、安康天皇は在位が短く、事実上の允恭天皇路線の後継者
である雄略天皇は父王の誉名を元に「おおはつせわかたけ」と名乗っ
た。
推察するに、亡くなる直前の允恭天皇の本名は「ナントカおおたけ」
であろう。
396(倭王権873〜878の妄想人):04/03/09 00:15
ちなみに、履中天皇は使いを送るまでもなく崩御したので無記録。
(在位5年ほど)
反正天皇は外交消極期の大王だったので無記録。
(この人が即位したことで大和政権の方針が変わり、高句麗から兵を撤退)
倭の五王は実は3人の王だったのである。

以上、妄想終わり。
397日本@名無史さん:04/03/09 11:28
あーつまらなかったー
398日本@名無史さん:04/03/10 01:44
でも、本当に武は雄略でいいのか?上の方には清寧という説もあるし。
395もあながち間違いとは・・・親父がタケルで息子がワカタケル?
399日本@名無史さん:04/03/10 04:25
>>396
允恭天皇から欽明までの天皇の在位期間かなり短くならない?
非実在説なの?
400日本@名無史さん :04/03/10 19:43
396じゃないけど、どうなんでしょうね
雄略と武烈を同一視する説は確かにありますよね
そうなると間の4人は
401日本@名無史さん:04/03/11 01:45
>>400
4人?3人じゃないの?
402(倭王権873〜878の妄想人) :04/03/12 21:49
>>399
非実在というより、穏便な権力継承が行われておらず、何度か二重または三重に
重なる時期があるのではないかと考えます。

洋の東西を問わず、権力者グループが危機的状況に陥るプロセスには一定の特徴が
ありますね。そのひとつが「系譜の幹の枝分かれ現象」ですね。
安定期は幹(本流)が太く、枝(庶流)は細いですが、崩れてくるといくつもの枝が
部分的に幹になっては枝に戻ったり、消えたりしていますね。
403(倭王権873〜878の妄想人):04/03/12 22:01
このハンドル、やめます。
「日本@名無史さん」にします。
404日本@名無史さん:04/03/13 12:49
セイネイ・ケンソン・ニンケンの3人がライバルだった可能性はあるのか否か。
405日本@名無史さん:04/03/13 12:50
話がずれて来ているので、この辺で五王に関する考察をどなたか1個きぼーん。
406日本@名無史さん:04/03/18 01:29
agepan
407日本@名無史さん:04/03/22 04:34
讃 安康天皇 
珍 雄略天皇
済 仁賢天皇 
興 武烈天皇
武 継体天皇
408日本@名無史さん:04/03/22 19:35
五王は九州倭国の王だから、畿内の天皇家には一人もいない。
409日本@名無史さん:04/03/23 11:50
↑まだそんなこと逝ってる奴がいるのか

西の衆夷六十六国ってどこのことだ?
410日本@名無史さん:04/03/23 15:47
↑おつむ弱いね
倭国が九州最西端にあったと誰が主張しているんだ?
411日本@名無史さん:04/03/23 21:24
↑ジサクジエン
412日本@名無史さん:04/03/23 23:41
「後漢書」には、倭の極南界は倭奴国である。と書かれている。
倭奴国は北九州であるから、当時の倭国は朝鮮海峡に挟まれた地域にあったことを理解しなければならない。
413訂正:04/03/24 00:19
朝鮮海峡を挟んだ両地域
414日本@名無史さん:04/03/24 00:59
後漢書は時代がちがうだろ
415日本@名無史さん:04/03/24 04:16
>>412
倭奴国は倭の極南界南九州にあったんだよ
天孫降臨が南九州なのは偶然ではない
416日本@名無史さん :04/03/24 09:50
>>407
高校の時に覚えさせられたけど無駄だったね。
日本史における二重スタンダード感じさせる典型例だったよ。
それを確認できたのが、「邪馬台国はなかった」だよ。
417日本@名無史さん:04/03/26 17:51
第2の九州王朝スレと化してるなw
418日本@名無史さん:04/04/15 23:02
419日本@名無史さん:04/04/19 20:24
>407 :日本@名無史さんの、ひとつ良い案だろ。みんな倭王武はあれこれ470年頃
と、思ってる。ほんとか?反正天皇のこともある。この前まで反正天皇はみんなが
おったっておもてたんやろ。(鉄刀でるまで。ひとつの発見でそれは雄略天皇か?とおもたんやろ。
漏れは、書紀読んで、安康天皇はおらんな、市辺忍刃皇子(読み方はいろいろ)が
おったのやないかと思う。あと、飯豊青皇女、青白赤、継体天皇に繋がれた...
420日本@名無史さん:04/04/29 14:14
所詮信憑性のない糞チャンコロの本なんだよ
いくら、探求したところで無駄だ
421日本@名無史さん:04/04/30 01:46
朝鮮海峡?
対馬海峡だろ。
ひょっとして日本海じゃなくて東海と言ってる国の人?
422日本@名無史さん:04/04/30 01:56
>>416
ていうか、>>407はおかしくねーか?
423日本@名無史さん:04/05/01 02:55
おいおい。頼むぞ。
424日本@名無史さん:04/05/01 03:57
昔は
対馬海峡(東水道)を対馬海峡
対馬海峡(西水道)を朝鮮海峡
と言ってたんだよ
朝鮮は差別語に当たる恐れがあるので改名した
425転載くん:04/05/03 22:44
834 :日本@名無史さん :04/04/18 01:33
>>828
「対馬海峡=朝鮮海峡」なのではなくて、
対馬海峡には西水道と東水道があり、その西水道が「朝鮮海峡」。
ただし80年代頃から徐々に「日韓海峡」とよぶようになってると思う。
426日本@名無史さん:04/05/23 02:22
>424
>> 朝鮮は差別語に当たる恐れがあるので改名した
427日本@名無史さん:04/05/23 10:28
428日本@名無史さん:04/05/23 20:31
少なくとも「ワカタキル」は「武」でない事は確実。
従って「ワカタキル」が雄略天皇なら「武」ではない。
429日本@名無史さん:04/06/18 22:17
430日本@名無史さん:04/06/19 02:51
ワカタケルだろ。
ワカタキルとか逝ってる馬鹿は25年前で知識がストップしてる
431日本@名無史さん:04/06/27 01:45
432日本@名無史さん:04/06/27 01:47
この頃のやまとの王は応神〜欽明、か?
日本の書ではええかげん、もしくは有力豪族の先祖話、先祖話も
捨てられない。 仁徳天皇陵、(大仙陵)はうそか?
いいや、3〜400mの大古墳がある。これは誰のお墓か?倭の五王の一人の
墓か?簡単に1/5か?五王の一人の墓、ならば、応神陵も。2/5か?
それともまったく違うのか?倭王興は、魏に王とせよと言われた。国内では
王とは呼ばれなかったのかも。武も市辺忍刃を王とも言わず......
興は大和系だったのかも...と言ってみ
433日本@名無史さん:04/07/15 00:36
保守
434日本@名無史さん:04/07/15 00:46
もともといない
支那の偽誌を信じるな
日本書紀こそ正統
435日本@名無史さん:04/07/20 10:20
卑弥呼と壱与に推古をダブらせ、強引に古いほうに引き伸ばし、
年代を改ざんした日本書紀って、ずいぶん正当ですな!
436日本@名無史さん:04/07/20 19:54
魏志倭人伝を知ってたなら、
倭の五王も知ってたね
437日本@名無史さん:04/08/11 00:35
朝貢したのは天皇家ではなく九州地方の一勢力
438日本@名無史さん:04/09/01 00:37
南朝へは九州南部の隼人が朝貢したってこと?
439倭王賛の実像:04/09/01 00:50
倭(奈良百済)国 始祖 応神王仁

高句麗による侵攻のために百済から日本列島に逃げた応神天皇は、そこで
奈良百済=倭国を建国し、そこから大百済帝国 http://www.damool.net/html/jushin/daejusin04.jpg
を支配していた

http://www.damool.net/html/emperor/198.gif




440日本@名無史さん:04/09/01 15:58
フーン
441日本@名無史さん:04/09/19 00:00:45
442日本@名無史さん:04/10/03 18:54:45
443日本@名無史さん:04/10/13 00:44:33
444日本@名無史さん:04/10/13 01:26:39
旨=祟神天皇(大王)。武=応神天皇。だと思うんだけど…。
445日本@名無史さん:04/10/16 11:22:56
劉宋のお家騒動=雄略のそれ。だと思うんだけど…。
446日本@名無史さん:04/10/16 15:06:18
>>445

全く正しい見識だね。
証拠はなくとも、倭が150年にわたり 漢帝の臣だったとすれば、
雄略の伝承が劉宋の伝承であったとしてもなんら不思議はない。
むしろ、漢文書記者の先祖の殆どが漢人であるのだから
漢文の伝承物は、地域記述があえてない場合、それが大陸でおきたこと
であっても不思議はない。

そもそも、8世紀の日本人が、越と書かれた古文地名を見て
日本列島内の越を想起するのは当然だが、
5世紀の漢文記述者にとってはむしろ、漢帝ゆかりの地名としての認識が当然である。
447日本@名無史さん:04/10/16 15:36:08
まぁ、越の話は飛躍しすぎだと思うけど
説話に欠いた五世紀の記録を潤色する材料として
記紀に記録するとき劉宋のネタに使うことを許した。
と解釈してもいいのかな?
448日本@名無史さん:04/10/17 03:10:22
飛躍してるかなー

日本の地名は、大陸の地名の写しが多い。
後の世では、大陸にそんな名前があることを知らないんだから
古文を見て勘違いする事は自然。

日本中に銀座があるように、中央を真似るのは日本人の習性なんだろう
449日本@名無史さん:04/10/17 16:12:03
(●´ー`)、(〜^◇^)、( ^▽^)、(0^〜^)、ゝVvV丿
450日本@名無史さん:04/10/17 20:00:07
日本の越はエツじゃなくて高志(コシ)の当て字
中国の越とは関係ない
451日本@名無史さん:04/10/22 14:56:34
誰も、関係あると言ってない。
後代に混同がおきるのは必然 と言う話。




452日本@名無史さん:04/10/24 12:08:45
445,447は早とちりだわ、すまん。
劉宋孝武帝に影響を受けた武が行動に移した。
と考えた方が時間的に無理なく
世子興の失踪?も納得行くかな?
453日本@名無史さん:04/11/10 23:26:38
高志(コシ)の当て字っていうけど、
その高志ってなんなのよー?
454日本@名無史さん:04/11/11 07:27:32
今の北陸地方だよ
455日本@名無史さん:04/11/11 10:07:01
新潟中越地震の中越って何? 越中とは別だよね。
中越ってどの辺のこと刺すの? 昔からある言い方なのかな。
456日本@名無史さん:04/11/12 18:42:26
>>455
つまらない質問ですが、一応教えましょう。
越の国は、分かれて、越前、加賀、能登、越中、越後 となりました。
これらに若狭国を加えて、北陸道といいます。
新潟県は越後国にあたります。
ところが、現在は、若狭・越前=福井県、加賀・能登=石川県、越中=富山県、
をまとめて北陸地方という場合が多くなり、「越」の文字は「越後」を意味する
傾向が強くなっています。それで、新潟県をさらに3つに分けて、
京都に近い方から、上越、中越、下越という場合があります。
要するに、中越とは、新潟県の中央部のことで、長岡市周辺のことです。

ああ、つまらない。
457日本@名無史さん:04/11/12 18:49:34
応神天皇と仁徳天皇は同一人物という説がある。
古事記に「ホムタの日の御子オオササギ」という歌謡が伝えられているが、
「ホムタの日の御子」をホムタワケ大王の王子という意味ではなく、
オオササギにかかる美称と解釈すると応神と仁徳は同じ人間ということになる。
歌の文脈からいってもそう解釈した方が自然だ。
オオササギという名も「巨大な墓」という美称であり、実名らしくない。

よって讃はホムタワケ大王=オオササギというのが正しいのではないか。
458日本@名無史さん:04/11/12 19:11:40
讃・珍=ホムタワケ?、イザサワケ?、ミズハワケ

済・興・武=オアサヅマワクゴノスクネ、アナホ、ワカタケル

名前から判断するに、この二つは明らかに別の家系で他人だな。
459日本@名無史さん:04/11/12 19:14:06
清寧、顕宗、仁賢、武列の4天皇

中国史料に記述がなく、日本側の伝承も説話的で作為的なので架空だな。
460日本@名無史さん:04/11/12 20:52:03
讃系(讃・珍)→済系(済・興・武)→継体王朝
461日本@名無史さん:04/11/12 20:53:11
讃系の前には百済の侯王たる倭王旨の政権もある。
462:04/11/12 20:55:09
倭の五王を、よ〜く応神天皇からの天皇にあてている人多いけれど
五王は天皇とは別人だよ。
463日本@名無史さん:04/11/12 21:46:22
そうそう、五王は大伴氏なんだよね
464日本@名無史さん:04/12/01 01:28:54
マジ?
465日本@名無史さん:04/12/05 00:15:26
5人の王は九州の王で、
名前は、そのまんま、讃 珍 済 興 武。
466日本@名無史さん:04/12/07 22:22:08
そもそも、なんで越の国が日本にあるか考えてみろ。

越っていうのは、日本が漢の影響を受け始めた時に存在した実在の国だよ
漢の越が、日本の領土を持っていたというのが素直だろうな。
卑弥呼の時に、 倭人は古くから自らを太夫(周王朝の縁のもの)と言うとあるだろ、
それはそのまま越の事となぜ考えないのかねー
周の太夫が越の国を作ったのは中国史の常識。
一致しすぎるだろ。
467日本@名無史さん:04/12/08 20:10:08
コシであってエツではないだろw
468日本@名無史さん:04/12/09 14:16:56
正確には張讃、李珍、劉済、楊興、趙武
469日本@名無史さん:04/12/27 01:17:19
470日本@名無史さん:04/12/27 01:42:48
コシって、大和言葉?
エツって外来の音読みなの?
471日本@名無史さん:04/12/27 03:05:12
エツと読むのは越中だけだな。他はエチ。
エチゼンガニ
エツチウフンドシ
エチゴヤ
472日本@名無史さん:04/12/27 04:32:05
>>470
当たり前だろ。
473日本@名無史さん:04/12/27 22:08:05
越は当て字。古志とか高志とも書く。
474日本@名無史さん:04/12/27 22:27:35
倭の五王なんて言うな
ヤマトのおおきみといえ
475日本@名無史さん:05/01/09 20:52:41
コシって、漢字にとらわれずに、大和言葉ではどういう意味?
476日本@名無史さん:05/01/09 21:08:42
>>475
漢字で書こうが、とらわれまいが、意味は変わらないと考えるが?
「コシ」・・・「都から山の向こうにずっとずっと越したところ」
477日本@名無史さん:05/01/09 21:24:09
海を越して新羅からやってきた人たちの住んだところ
478日本@名無史さん:05/01/10 00:10:52
海は渡るもので越すものではないよ。
越すのは山か歳だな。
479日本@名無史さん:05/01/25 22:50:35
とすると、北アルプスを超えた人々か?
480日本@名無史さん:05/01/26 21:36:28
(●´ー`)、(〜^◇^)、( ^▽^)、(0^〜^)、ゝVvV丿
481九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/09 20:37:40

倭の五王の名前は、
倭讃・倭珍・倭済・倭興・倭武
です。
和名は不明。
倭讃もしくは倭讃の父親は「前君」と呼ばれていました。
彼らは九州王朝の弟王です。
弟王として良く知られる他の人物は、
磐井(倭ワイ)・アメノタリシホコ・薩摩夜 等です。

なお、兄王に当たる人物で良く知られる人物は、女性ですが、
卑弥呼・壱与(倭与)です。
482日本@名無史さん:05/02/10 00:54:49
>>481
その通りと思います。
ただ、
「倭」は「イ」と「ヰ」のどちらでしょうかね。
483九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/10 01:33:09
>>482
「倭」は「委」なので「ヰ」ですね。
484日本@名無史さん:05/02/10 01:39:53
>>481
五王が九州政権だったってことですか?
素人ですまぬ
485日本@名無史さん:05/02/10 04:17:36
九州王朝スレにカエレ。
486九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/10 17:05:25
>>484
中国史書に書かれている日本に関する7世紀までの記事は全部九州について書かれています。
487日本@名無史さん:05/02/11 00:08:20
>>483
磐井はイワヰで最初の音が「イ」となり「ヰ」ではないのが気になりますね。
488日本@名無史さん:05/02/11 01:59:30
音韻的にぜんぜんダメじゃん。気になりますね、なんて呑気な話か?
489日本@名無史さん:05/02/11 02:08:01
古代の音韻なんて解明されて無いけどね
490日本@名無史さん:05/02/11 02:19:13
音韻論って今でも通用するの?
史学的には、たとえば上代特殊仮名遣とかはあまり考えなくてもいい
ってのが最近の流れだとも聞きましたが
491九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/11 12:55:12
>>487
「磐井」は「イワヰ」であって「ヰワイ」でないのがこの説の弱点ですね。
しかし、8世紀の日本書紀執筆者が万葉の音韻をそのまま使っていたかどうか疑問ですが。
しかも、「ヰワイ」の音を表す表記であれば、九州王朝の影が色濃く出るのでその表記は避けるでしょう。
492九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/11 13:41:06
>>487
続き
又、磐井の記事自体が継体の記録ですから、
その当時の畿内人である記録者が九州の万葉音韻を使うこともありえません。
彼らは単純に“wiwai”音が“iwai”音に聞えたので「磐井」と表記したのでしょう。

奈良大阪人なら明治以降の現代でもwi音wo音がない言語を使っています。
493サガミハラハラ:05/02/11 14:47:13
倭の五王は讃=仁徳天皇、珍=反正天皇、済=允恭天皇、興=安康天皇、武=雄略天皇です。
履中天皇は入っていません。
各天皇の年代については、「東アジアの古代文化を考える会」のHPの討論室に「古事記天皇没年干支
は二倍暦が成り立つのか」として論じております。一読していただけたらさいわいです。
494サガミハラハラ:05/02/11 15:09:34
「東アジアの古代文化を考える会」はhttp://homepage2.nifty.com/e-asia/です
貼り付けの方法がわからなくてすみません。ご面倒でもよろしくお願い致します.
495:05/02/11 17:25:09
倭の五王について
武王は雄略天皇に非ず、「幼武」の御名から結論としたのであろうが、これは
たまたま一致しただけであり、別人である。
武の字の一致で決まるならば、讃、珍などの文字もことごとく各代の天皇の御名
になければ意味が薄い。
倭の五王は大和朝廷の各天皇には非ず。これが正解である。
すなわち、日本のどこかに倭の五王朝が朝廷とは別個に存在していたのだ。
496日本@名無史さん:05/02/11 23:31:48
>>491
まあ、そういう可能性もありますね。
他に同じような例があると説得力が増しますね。
497サガミハラハラ:05/02/12 09:27:57
仁徳、雄略といった天皇漢風シ号は、八世紀の淡海三船が作成したものだといわれており、漢風シ号をもとに讃とか武の中国名を
きめたわけではない。しかし、逆に相互が類似性を持つものがあることから、中国名を参考にして漢風シ号を作成したと考えられます。
とすると、8世紀ごろには、倭の5王が大和の天皇の誰にあたるかはある程度知られていたのではないであろうか。
讃=仁徳、武=雄略、済=允恭、興=安康となりますが、珍が履中、反正のどちらであるかは、わからなくなっていたと考えられます。
498日本@名無史さん:05/02/12 10:17:39
邪馬壱国=邪馬倭国=やま・ゐ国
ということですね。
邪は卑字という感じですが、
馬と壱は良い字みたいですね。
讃・珍・済・興・武も全て悪い字ではなさそうです。
九州王朝は中国王朝から結構好かれていたみたいですね。
499サガミハラハラ:05/02/12 12:38:22
邪馬壱国=邪馬倭国=やま・ゐ国 賛成です。
倭の五王九州王朝説はなりたたないとかんがえます。
邪馬台国以来の九州王朝ははやくて3世紀末期、遅くとも4世紀中頃には消滅していたようです。
500日本@名無史さん:05/02/12 12:47:41
九州王朝が滅んだのは、壬申の乱あたりでしょ
501九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/12 14:07:22
九州王朝が亡んだのは、694〜698年の畿内朝廷の侵略からです。
最後は薩摩の九州王朝にたいする裏切りによる鎮圧でしょう。
以後九州王朝側の抵抗戦も続いたようですので、699年が滅亡の年とするのが妥当ではないでしょうか。
翌700年には唐から畿内朝廷を日本の代表政権と認められていますから。
しかし九州王朝の勢力の組織的抵抗が完全に鎮圧されたのは612年頃です。
この完全鎮圧によって、日本書紀の編纂が始まったものと見ています。
しかし、九州の北西部沿岸部は九州王朝残党の支配するところであった為、
それにより遣唐使は薩摩の西海岸から出発し、そこに帰着しなければならないので、
遣唐使派遣が繰り返し失敗したのはよく知られるところです。
502九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/12 14:23:00
>>501の備考
畿内朝廷は内陸政権で航海技術も低く、
又遣唐使の船が対馬海流により九州北部西海岸に流されると、
九州王朝残存海上勢力に捕らえら、遣唐使の人々は惨殺された時代だと推定されます。
九州王朝残存勢力は畿内朝廷から盗賊扱いをされていましたので。
503九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/12 15:13:34
>>499
>邪馬壱国=邪馬倭国=やま・ゐ国 賛成です。

僕も、邪馬壱国=邪馬倭国=やま・ゐ国 賛成です。
だから、倭の五王九州王朝説がなりたつとかんがえます。
504日本@名無史さん:05/02/12 19:29:41
>>501
そうですね。
九州王朝から中国王朝へ派遣された使者はそれほど苦労した記録がないのに、
畿内王朝が派遣するようになった遣唐使から、突然苦労や失敗が多くなった
のは、そういう理由ですね。
505九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/12 19:43:08

>>501-502に関する文献

続日本紀を参照下さい。
506:05/02/12 20:42:27
>>500
おおむね正解に近いです。
507:05/02/12 21:46:58
讃王は應神でも仁徳でもない。もし雄略の「幼武」から武王だというのならば、
應神は「誉」とか「品」のごとくに、他の天皇も御名の一字がことごとく付いて
なければおかしいことになる。
倭の五王は各天皇に非ず。日本に存在した別の王朝の王である。
508九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/12 22:42:53
>>506
九州王朝が滅んだのは、壬申の乱の頃とみる理由は何でしょうか?
その見方に興味があります。
天武の立場に対する見方の違いが根底にあるように思えるのですが。
ご教授お願い致します。
509:05/02/13 07:06:39
>508
秘中の秘
天武以降,文武の世あたり。
510サガミハラハラ:05/02/13 10:43:42
>>503
邪馬壱国が存在したのは3世紀前半までと考えています。
魏から金印を貰ってから、偉大な国であるとして、邪馬の大いなる倭の国であるとして
邪馬大倭国と称し、中国人はそれを邪馬台国と記述したのである。
邪馬台国が九州での覇権をうしなったのは、大和朝廷の勢力が延びてきた3世紀末頃であったと考えます。
511九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/13 13:36:14
>>509
文武期に九州王朝が亡んだとするなら、
九州王朝滅亡は697年〜707年となるので僕と同じ見方となりますね。
512日本@名無史さん:05/02/13 13:38:04
倭の五王は畿内天皇というのが通説。
513九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/13 14:37:47
>>512
「倭の五王は畿内天皇というのが大方の見方」ですね。
514日本@名無史さん:05/02/13 16:38:04
九州王朝なんてない。五王はヤマト政権の大王。
515日本@名無史さん:05/02/13 22:29:08
九州以外にも、列島には、出雲、吉備、畿内、越、尾張、毛、とか色々な勢力
があったでしょ。王朝というかどうか言葉の問題はあるかもしれないが、とに
かく列島は統一されていなかった。その中で、当時、中国と通交していたのは、
九州だったということ。非常に自然なことでしょ。
516日本@名無史さん:05/02/13 22:29:19
倭の五王は、任那の王だろ。朝鮮半島の前方後円墳と時代も一致する。
名前からして中国朝鮮系。日本人の名前じゃない。
517日本@名無史さん:05/02/13 23:16:17
>>507
讃=賛=ほめたたえる=誉田別命
518日本@名無史さん:05/02/14 00:24:33
珍=めずらしい=ミズハワケ命
「瑞歯別命」とは「珍ハ若のミコト」
済=以下の理由で、第19代天皇とされる大王と考える。
「オアサヅマワクゴノスクネノオオキミ」とは、語り部の転訛が原因で
まるで臣下が乗っ取りをした名前のように伝わってしまった。
本当に乗っ取ったのなら、かえってそんな疑問を生じさせるような伝承
を認めるはずがない。
本当の名前は「小狭端若子すくうの大王」
519日本@名無史さん:05/02/14 00:43:11
讃=オホサザキのサ→仁徳
興=アナホのホ→安康

>>518
>小狭端若子すくうの大王
意味分からん。そのように解釈する必要は無い。
ヲ(雄か小か)+アサヅマ(葛城地方の一地名)+
ワクゴ(若者。地名に付加)+スクネ(少兄。大兄に対応)
520日本@名無史さん:05/02/14 01:27:48
興については、第20代天皇とされる大王に比定するのが学説の大半らしいが、
在位3年ほどなので、それよりはオオハツセワカタケル大王の方がよいのではないか。
ちなみに彼は、先行するオオサザキ体制やオアサヅマ体制ならば政権の担い手
になったであろう人物を次々と粛清している。
そして自分の体制を作り出した。よって「興」なのである。
武=シラガ大王以降の諸大王
シラガの大王は朝貢用のネーミングを決定する折、父君の「ワカタケル」を漢
風にした「武」を採用した。
これ以降のヤマトの王権は紆余曲折が激しく、あらたに朝貢用の名前を考える
余裕はなかった。
よって、ワカサザキ大王の治世まで、それを踏襲使用した。
その後も大王家や朝廷は存続したが、体制が変わったり(以下略)
521日本@名無史さん:05/02/14 01:32:42
>>519
そうですか・・・。
522日本@名無史さん:05/02/14 05:59:44
>>515
いやそんなことはない。大和一元支配だよ。
523:05/02/14 13:58:02
>>511
貴下のいうとおり、その辺が正解。>>500氏の主張と若干年月がずれるが、そのあたりだ。
そのころ九州王朝は滅びたのだ。ただし、元明世までのΔxの誤差がありうる。
524サガミハラハラ:05/02/14 22:40:50
倭の五王の時代は完全に大和朝廷の時代です。
525日本@名無史さん:05/02/15 01:32:59
>>524
その時代に、畿内に「朝廷」はありませんでした。
526日本@名無史さん:05/02/15 07:45:08
九州の勢力を王朝と捉える人がいるなかに、とてつもなく後の時代まであったと
確信している人がいるね。法隆寺論争は長くなるので避けるが、それでは渋川
寺や巨勢寺の遺構については、どう説明するの?
伝板ぶき宮遺跡とか難波宮遺跡とか、これもどういう位置づけなのですか?
大体、平城京自体についてどういう解釈となっているのか。
527サガミハラハラ:05/02/15 07:58:50
>>525
朝廷「君主が政務を取る所」と辞書にありましたので、五王は畿内で政務をとっていたので畿内に朝廷があったでよろしいのです。
奈良以外の地でも政務をとった王(天皇)がいますが大和朝廷という場合は、大和という所だけを意味するわけではないので、大和朝廷としていいと思います。
528:05/02/15 09:25:43
倭の五王は應神天皇〜雄略天皇ではない。『讃』は『誉』ではないぞ。
平成天皇は平城天皇にあらず。大和でない全然別個の地域に五王王朝は存在したのだ。
東京都と平城京とは同一には非ず。
529日本@名無史さん:05/02/15 22:55:34
九州の勢力は世襲ではないから王朝とはいえないな。
大統領(兄王)と首相(弟王)が治める連邦国家の方が近いな。
530日本@名無史さん:05/02/15 23:07:09
残念だが、九州は女帝の伝統がある。卑弥呼とか。

倭の五王は男王なので九州の王ではない。
畿内でもなければ、任那の王という結論になる。

531日本@名無史さん:05/02/15 23:21:35
卑弥呼の前は男王だったでしょ
532日本@名無史さん:05/02/15 23:42:45
特に問題がなければ世襲だったみたいですね。
ただ、うまく行かないようだと皆で新しいトップを選ぶという感じですね。
元来、倭人は民主的ですな。
533九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/15 23:56:27
>>523
同意

九州王朝の完全滅亡は元明世(707年〜715年)について異存ありません。
九州王朝は700年以降713年迄は畿内朝廷に対立する九州の一豪族の立場まで低下した状況で存続していたのではないかと思われます。
この713年に九州王朝がなくなっていたこと示すと見られる出来事が713〜4年に3つありました。
一つ目は、反乱者は出頭すれば罪に問わない、しかし出頭しなければ以後罪人として取り扱う。
二つ目は、風土記の編纂開始。
三つ目は、日本書紀の編纂開始。
九州王朝一派の目を気にせずに、舒明以降の近代史現代史と地方史の編纂及び法の執行が出来るようになったことを示しています。
534日本@名無史さん:05/02/18 05:42:37
倭の五王は畿内の朝廷でまったく問題ない。
535日本@名無史さん:05/02/18 12:13:40
播磨さえ領有できなかった畿内が、何で半島攻略が出来ようか?
536:05/02/18 15:17:33
>>534
甘い。
537日本@名無史さん:05/02/18 16:27:10
領有の意味にもよるが、播磨は勢力圏で問題ない。
538日本@名無史さん:05/02/18 21:03:25
畿内は九州の勢力圏内だから問題ない
539日本@名無史さん:05/02/18 21:11:04
倭の五王が畿内の大王であったとすれば、記紀にそのことが嬉しそうに書い
ているだろうに。畿内の大王でなかったとしても、宋書のこの部分を知って
いれば、何とか誤魔化して畿内の大王になぞらえるような思わせぶりの書き
方がしてあるだろうに。実際には何も書かれていない。
即ち、倭の五王は畿内の大王でないばかりか、畿内王朝は宋書の存在さえ
知らなかったということが分かる。
540日本@名無史さん:05/02/18 21:38:38
遣使の目的は果たされなかったのだから、嬉しそうに書くはずが無い。

確かに、朝廷は宋書を見ていないかもね。 だから何・・・ ?
541日本@名無史さん:05/02/18 21:41:36
倭の五王は、朝鮮半島の倭人の国の王だったってことです。
542日本@名無史さん:05/02/18 21:44:11
倭の五王は九州の王だったということです。
543:05/02/18 22:02:12
>>539
ほぼ同意。
544日本@名無史さん:05/02/18 22:06:51
畿内の豪族は九州の傘下
545日本@名無史さん:05/02/18 22:10:37
>>539
国内の語り部の伝承に中国の歴史書の記述がでてくること自体おかしい。
神功紀の魏志だってあれは注釈であって本文ではない。
546日本@名無史さん:05/02/18 22:12:11
半島説や九州説の場合、
毛人五十五国・衆夷六十六国・海北九十五国は
具体的にどこをさすと考えるのだ?
547日本@名無史さん:05/02/18 22:13:27
まず金印と阿蘇山が九州に存在しない証明をしてくれ。
話はそれからだ。
548日本@名無史さん:05/02/18 22:14:37
>>545
その注釈が、魏志の場合の『何とか誤魔化して畿内の大王になぞらえるような思わせぶりの書き
方がしてある』ところな訳だが、倭の五王の場合はそれさえないな。
549日本@名無史さん:05/02/18 22:17:38
記紀は漢籍を充分意識して書いてるね。
いまさらこれを否定する人がいるとは驚きだ。
550日本@名無史さん:05/02/18 22:19:43
宋書についてはどのように意識しているのかな?
意識していないと思うよ。
551日本@名無史さん:05/02/18 22:21:52
>>547
五王と関係ないからどうでもいい。
552日本@名無史さん:05/02/18 22:23:23
半島説や九州説の場合、 毛人五十五国・衆夷六十六国・海北九十五国は
具体的にどこをさすと考えるのだ?

これが説明できなければ半島説や九州説には
もっともらしさが感じられないと思うが?答えてくれ。
553日本@名無史さん:05/02/18 22:27:29
海北九十五国のところは、九州から見て半島を指すようで、もっともらしさが
感じられる。畿内ではもっともらしさが感じられない。
554日本@名無史さん:05/02/18 22:38:40
>>553
なるほど。それはわかった。で、毛人五十五国・衆夷六十六国は?
555日本@名無史さん:05/02/18 22:41:15
九州は広い。半島に海北九十五国があるくらいなら、毛人五十五国・衆夷六十六国
などは充分九州にあっても不思議ではない。「国」というものが、現在の感覚では
集落程度のものだろうよ。
556日本@名無史さん:05/02/18 23:18:51
海北九十五国は半島。三国志に三韓あわせて七十八国とあるのが近似値とすれば参考になる。
衆夷六十六国は九州。そこからみて北海。しかし日本書紀みてもわかるように
奈良時代あたりには朝鮮を北海という習慣はあったからあまり決め手にはならない。

宋書の文は東の毛人→西の衆夷→北海と視点が移動していく文体。
倭王武の上表の力点は半島の支配圏にあり、毛人五十五国・衆夷六十六国は
海北九十五国を導く序詞にすぎない。

海北九十五国と、三国志の三韓七十八国から一国あたりのだいたいの規模を想定できる。
そうすると九州内部に毛人五十五国・衆夷六十六国は無理だろう。
五十五と六十六をたすと百二十一だが、
三国志には分かれて百余国、隋書に軍尼百二十、国造本紀に国造百三十三
とあり、これらの数値はみな近似値であって、当時の大和朝廷の版図とみるのが自然。
557日本@名無史さん:05/02/18 23:49:36
「毛人五十五国・衆夷六十六国は海北九十五国を導く序詞にすぎない」
まあそういうことでしょう。だから、具体的な数字にさほどこだわる必要は
ない。55とか66という数字自体、語呂の良い並びに過ぎない感じがするね。
だから、これでもって「大和朝廷の版図とみるのが自然」とはいえないね。
九州と考えてもさほどの不自然さはないな。
いずれにしても、この点では決め手にはならないな。
558日本@名無史さん:05/02/19 04:22:43
序詞にすぎないといってもまったくのデタラメは国書にかけないだろ。
海北の諸国と比べて衆夷や毛人の諸国が異常に小さいんじゃ具合が悪い。
559日本@名無史さん:05/02/19 09:24:17
応神は金官加羅から来た傭兵隊長、これ定説。
560サガミハラハラ:05/02/19 12:40:03
倭の五王は畿内王朝で間違いありません。応神天皇は九州で生まれており仲哀天皇という畿内の人のこどもです
。紀に宋書の事が載っていないのは、2倍暦を普通暦にそのまましてしまったので、年代があわなくなったので、
宋書は見なかったことにしたのです。
倭の五王は肥後九州王朝で間違いありません。
応神天皇は九州王朝からみたら、無数の豪族のうちの一人にすぎません。
仲哀天皇も同様です。

天武天皇が唐に支配されようとしていた九州王朝からやって来て、
畿内地方政権を乗っ取り、日本の初代天皇になりましたが
天智天皇までの地方王統伝承を調べてみると、都合の良いことに
九州出身に始祖神武説話があったので、これを公認国史にしました。

そのさい、王統の断絶が数回あったので、暦の変遷が干支だけでは錯綜し
2倍暦が混入してしまいました。
562日本@名無史さん:05/02/19 13:38:45
>560 >561
滅茶苦茶!
563日本@名無史さん:05/02/19 14:18:44
アマチュア(というかヲタ、マニア)の妄想による捏造か・・・

だから、史学科の連中から笑われるんだよな、素人のマニアは。
564九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/19 14:30:47
>>560-563
滅茶苦茶!
565日本@名無史さん:05/02/19 14:48:41
また、九州マニアか・・・笑われない程度にしとけよ。
566日本@名無史さん:05/02/19 16:51:56
九州・東北はもうだめぽ
567九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/19 21:03:55
科学技術音痴の畿内狂を弔ってあげます。
568九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/19 21:06:57
九州と東北は何の関係もない。
ただ古田繋がりがあるのみ。
569日本@名無史さん:05/02/19 22:54:07
ところで、
畿内説がもっともらしいと感じられるところって何かありますか?
なにもないと思いますが。
570太国:05/02/19 22:57:27
>>569
とにかく、畿内説とは卑弥呼居ます女王国を畿内の前人未到の秘境に隔離するPu論だ。w
571日本@名無史さん:05/02/19 23:53:02
>畿内説がもっともらしいと感じられるところ

日本国を除いて、漢籍にまったく出てこない畿内だから
どんな妄想でもOKなところ
572日本@名無史さん:05/02/20 00:20:14
九州王朝説の自慰スレだなここは。
倭の五王まで九州王朝とはこりゃ御苦労なこった。
ちなみに聞くが、考古学的根拠はなんかあるんだろうな?
573日本@名無史さん:05/02/20 00:37:43
無根拠は畿内説の特許だな
574日本@名無史さん:05/02/20 00:40:54
畿内説の念仏・・・・

「この時期には畿内が九州支配していたことは間違いない」

こういうのは、信仰です。
575日本@名無史さん:05/02/20 02:31:22
江田船山のワカタケル鉄刀は如何?
576日本@名無史さん:05/02/20 02:39:25
>>573-574
考古学的根拠が全く無く、文献の素直すぎる解釈wに嵌って真実から遠ざかっているののが九州王朝説。
「九州王朝が7世紀までありました」というのはカルトです。
577日本@名無史さん:05/02/20 02:44:35
鉄のない畿内が、半島で大暴れできるのが
妄想畿内説の特徴です。
578日本@名無史さん:05/02/20 02:50:45
>>577
アホ!
半島で倭軍が行動してるのは4世紀後半以降だろ。
弥生時代までは確かに少ないが、古墳時代(3世紀後半以降)は潤沢にあるが。
例えば甲冑の数は九州とは桁違いに多いが。残念ながら。
なぜこうも九州王朝説は無知なのか?トホホ、、、
579日本@名無史さん:05/02/20 03:01:21
>>561
毛人五十五国・衆夷六十六国がぜんぶ九州の中とは無理でしょう。

>>556-558
580日本@名無史さん:05/02/20 03:02:33
>>559
それは珍説。2chでも昔からあちこち貼って回ってるオマエしかいない。
しかもオマエは結論を1行カキコするだけで
途中の考察や論証を書いたことが一度もないから
2ch歴が長い割りには一度も誰からも取り上げられたこともないし
まったく広まってないね。
581日本@名無史さん:05/02/20 14:50:47
>>578
はあ?後漢末には、倭が鉄を取りにバンバン半島に行ってるだろ。
582日本@名無史さん:05/02/20 22:45:16
魏志の時代に『倭人は旧百余国』とありますから、九州に百数十カ国あること
は不思議なことではないでしょう。当時「国」と呼ばれていたものは、現代の
感覚で言えば「集落」程度のものでしょうね。
583日本@名無史さん:05/02/20 23:02:02
>>582
その「国」がどれくらいの規模だったのかはきちんと論証する必要がある。

オマエの印象論でただ「集落くらい」といっただけでは
九州に入り切るかどうか何の説明にもなってない。

三韓七十五国や倭の対馬国から于弥国まではほぼ比定地が出てるのだから
それから「国」の規模を割り出せば、大雑把に推定しても
百余国が九州に入り切るなんてことは到底ありえないだろ。
584日本@名無史さん:05/02/20 23:11:45
列島全体で、国の大きさが均等である根拠は?
585日本@名無史さん:05/02/20 23:17:25
どちらにしても印象論ですから、もっともらしいかどうかという程度のことですね。
現在の福岡県だけでも96市町村ありますね。比定地といっても、現在の市町村と
同じか、ひょっとすればそれより狭い地域ですよね。まあ、九州に100位はあった
としても特に不思議なことはないでしょう。
586:05/02/20 23:18:46
百舌の耳原
587日本@名無史さん:05/02/21 00:11:19
>>581
後漢代までは北部九州に王権があったのは畿内派デも認めている。
まあ、後漢末頃移ったとしてるわけだが。
鉄を交易で取ることが暴れるっていうのはちょっとどうかな。
4世紀後半以降の軍事行動のことと思ったが。
あんたの書き方が悪い。
588日本@名無史さん:05/02/21 05:13:17
>比定地といっても、現在の市町村と同じか、ひょっとすればそれより狭い地域ですよね。

それが無根拠な印象論ですよね。
589日本@名無史さん:05/02/21 12:27:41
国という単位を推察するのに、今の現実にある行政単位から考えるのも
意味がないことはないだろう。それとも日本列島には多くの国が
存在しなかった証拠があるのか?>588
590日本@名無史さん:05/02/22 02:33:49
>>589
現代の行政単位で考えても普通は意味ないと思うが。
それに多くの国々がなかったなんて今までのレスの中ではまったくいった覚えはないが?
591日本@名無史さん:05/02/22 03:26:00
>>590
多くの国が有ったの、無かったの?
592日本@名無史さん:05/02/22 17:15:44
>>591
あったに決まってるじゃないか、少なくとも
「毛人五十五国・衆夷六十六国・海北九十五国」
があったからこそ征服もされたわけで。
593日本@名無史さん:05/02/22 19:02:31
>>592
その国々が、九州は面積が狭いという理由で
九州に納まりきるはずがないと断定した根拠はあるの?
594日本@名無史さん:05/02/22 21:16:01
比定地と言われているところは、まあ大体現在の市町村かそれより狭い地域ですね。
したがって、現在の市町村の数から考えて、55+66=121 程度の国が九州
にあったというのは充分もっともらしいですね。
もちろん、これだけでは決定的ではありませんが、少なくとも、否定する理由が
特にない限り、否定はされないということですね。
595日本@名無史さん:05/02/22 21:20:23
それより、倭の五王が畿内の王であったという主張について、もっともらしい
ことは何かありますかね。何もないように思いますが。
596:05/02/22 21:25:30
あるわけがない。 名の、こちらの字とあちらの字が1字一致した→天皇=倭の五王
という糊付け大好き論が跋扈しているのさ。
597日本@名無史さん:05/02/22 21:29:04
>>595
もっともらしい点といえば、それを主張する学者等の
その世界での地位・名誉を笠に着ていることぐらいか。
598日本@名無史さん:05/02/23 00:36:33
九州王朝の考古学的証拠は?
599日本@名無史さん:05/02/23 00:46:14
王朝かどうかは考古学の対象じゃないよね。
元号・王統などは文字以外では出てこない。
600日本@名無史さん:05/02/23 06:49:55
>>594
>比定地と言われているところは、まあ大体現在の市町村かそれより狭い地域ですね。

なにを根拠にそんなこといってんの?

>したがって、現在の市町村の数から考えて、55+66=121 程度の国が九州
>にあったというのは充分もっともらしいですね。

したがえないからもっともらしくない。

>もちろん、これだけでは決定的ではありませんが、少なくとも、否定する理由が
>特にない限り、否定はされないということですね。

じゃ同じ理由で九州に入りきらないという説も否定されないね。
601日本@名無史さん:05/02/23 11:43:34
>>600
じゃあ地球に入りきらないという説も、アンタは真剣に否定しないね?
602日本@名無史さん:05/02/23 16:18:44
>>601
九州に入りきる説も地球に入りきらない説も、
一国あたりの適切な大きさを検討してないという点では同じだし、
一国あたりの大きさが任意で不定だとすれば「地球に入りきらない」説も
論理上は整合するな。
603日本@名無史さん:05/02/23 16:36:54
学問の否定者は出て行ったほうがいいと思うよ。
604日本@名無史さん:05/02/23 17:42:23
屁理屈をいう奴にレベルを合わせてみたんだが。
やっと自分のいってることが学問じゃないって気づいたか。
605日本@名無史さん:05/02/23 21:18:22
>>600

>>583さんが
>三韓七十五国や倭の対馬国から于弥国まではほぼ比定地が出てるのだから
>それから「国」の規模を割り出せば、大雑把に推定しても
>百余国が九州に入り切るなんてことは到底ありえないだろ。

と書いていることから、ここで出てくる比定地について考えている訳です。
これらの比定地と言われているところは、まあ大体現在の市町村かそれより狭い地域ですね。
そうすると、福岡県だけでも96市町村ある訳で、

>百余国が九州に入り切るなんてことは到底ありえないだろ。
ということがもっともらしいとはいえない、ということです。
むしろ充分ありうるという方がもっともらしい、ということです。
606日本@名無史さん:05/02/23 23:52:08
>>605
当時の「國」というのは都市国家なわけで、発掘で物証が得られるのは中心部だけ。
その周囲に広範な後背地をもっている。

だから(考古学的にいっても文献上でも)現在の市町村ごとに
ひとつづつ国があったわけではない。

実際の国々の分布は「どれぐらいの広さに何カ国くらいだったか」
ということだよ。
倭国の「分かれて百余国」なり「使訳通ずる三十国」なりは
九州説と畿内説ではかなりイメージがちがってしまうから
三韓七十五国を参考にすると分布はほぼ今の韓国の全域。
607日本@名無史さん:05/02/24 00:23:14
>>606
三韓はホボ現在の韓国の領域ですね。
その中でも密度に違いがあって、馬韓(後の百済)には54国あったようですね。
百済の範囲に54国もあったのですから、九州の中に100余国あったとしても、
何ら不思議ではありませんね。

>その周囲に広範な後背地をもっている。
というのは本当でしょうか?
対馬国から于弥国までの比定地は結構密集していますが、
本当にそんなに広い後背地を持っていたでしょうか?
対馬国や一大国にも後背地があったのでしょうか?

>だから(考古学的にいっても文献上でも)現在の市町村ごとに
>ひとつづつ国があったわけではない。
勿論、現在の市町村ごとにひとつづつ国があったといっているわけではありません。
ただ、九州に100余国あったことが到底ありえないとはいえない、ということを
大雑把につかむための話ですね。
608日本@名無史さん:05/02/24 00:31:20
>>607
北九州は経済や文化のセンターだから密集しててもいいだろう。

>百済の範囲に54国もあったのですから、九州の中に100余国あったとしても、
>何ら不思議ではありませんね。

百済の範囲?
当時の馬韓の範囲は今の京畿道・忠清道・全羅道のすべてに及ぶ広大なものですよ。
609日本@名無史さん:05/02/24 20:13:48
>>608
ありがとうございます。

百済と馬韓の範囲は確かに違いますが、まあまあ倍も違うものではないし、
九州に100余国あったということが、もっともらしいと感じられるための
参考にはなる、ということで。
610日本@名無史さん:05/02/24 20:20:08
>>599
元号って「九州年号」のこと?
残念ですが、これは15世紀後半以降の文献にしか出現しないきわめて怪しいものです。しかも、九州の年号であるという根拠がありません。
江戸時代に鶴峰という国学者が、それらの年号を整理して、「九州年号」として「襲国偽僭考」の根拠として捏造したに過ぎません。

九州王朝の王統譜なんてそもそもどこにも無いですよね?
あったら出して見なさい。特に3〜7世紀。
611:05/02/24 20:22:27
それは古神道の秘密。滅多やたらには出すわけにはいかん。
612日本@名無史さん:05/02/24 20:56:27
>>610
王の名前なら、前に>>481で「九州王朝大好き」さんが書いていますよ。

>倭の五王の名前は、
>倭讃・倭珍・倭済・倭興・倭武
>です。
>和名は不明。
>倭讃もしくは倭讃の父親は「前君」と呼ばれていました。
>彼らは九州王朝の弟王です。
>弟王として良く知られる他の人物は、
>磐井(倭ワイ)・アメノタリシホコ・薩摩夜 等です。
>
>なお、兄王に当たる人物で良く知られる人物は、女性ですが、
>卑弥呼・壱与(倭与)です。
613日本@名無史さん:05/02/24 21:40:58
中国文献がほとんどだな。
これは畿内説もあるから(倭の五王ほか)、いきなり九州王朝の王の王名とするのは証拠と結論が転倒している。(磐井や薩夜麻は別)
その間の王統はどうなんだ?
独自の九州王朝王統譜はないと、どうしようもない。
614日本@名無史さん:05/02/24 22:17:20
王統譜は現代まで伝わっていませんね。断片的な情報しか伝わっていませんね。
残念なことですが、仕方ないですね。
それでも、断片的にでも情報が残されていたために、九州王朝の存在が分かった
ことは幸いなことです。
615日本@名無史さん:05/02/24 22:37:44
一方、畿内の王朝は王統譜は残っていても、初めの方は真実かどうか疑う人
が多いようですから、王統譜があれば良いというものでもなさそうですね。
616日本@名無史さん:05/02/24 23:03:33
>>614
だからその中国文献では九州王朝とは断定できない。
対比する「九州文献」でもない限り、九州王朝説は空中楼閣
617日本@名無史さん:05/02/24 23:14:43
対比する九州文献がなくても充分もっともらしいと思いますよ。

一方、畿内王朝の方は、畿内文献はありますが、初めの方については、
真実かどうか疑う人が多く、対比する中国文献もないことから、
空中楼閣ということになるのでしょうかね。

古代のことですから、どちらにしても断定するのは所詮難しいですね。
もっともらしいことを並べて、納得するしかないでしょう。
618日本@名無史さん:05/02/24 23:33:40
>>617
でも肝腎の古田は、意外と記紀を初めの方からかなり信じてるんだよな。
対比する中国文献がない、って九州王朝かどうかそもそも決められないのに、それこそひどい断定だな。
619日本@名無史さん:05/02/25 01:07:55
九州は中国と敵対するようになって(中華思想の傘下から離れて)、
王朝の姿をとり始めるようになったのだから、漢籍に「九州王朝」の
リアルな姿は出てこないだろう。中国は自国以外の元号や天子など
絶対認めたくないところだ。
620日本@名無史さん:05/02/25 01:47:02
そんな変なナショナリズムなんて無いんじゃない。
どこかの蛮族が天子を名乗ったりしたら、
苦笑してハイハイ、と済ませそうな希ガス。
621日本@名無史さん:05/02/25 02:13:11
>九州王朝王統譜

末裔はいるの?
622日本@名無史さん:05/02/25 02:14:24
外交じゃなくて、史書の話してるんだが。
だいいち、百済は元号作ってしまって、中国から叱られてるし。
623日本@名無史さん:05/02/25 06:49:15
>>609
おいおい、何言ってるのよ?

馬韓五十二国の比定地はほぼ通説が昔から変化ないけど
これは京畿道・忠清道・全羅道の全域に及ぶ広大なもの。
これで五十二国だよ?
九州だけで六十六+五十五が全部入るというのが
どうして「もっともらしい」とり理由になるのよ???
624日本@名無史さん:05/02/25 21:31:00
半島は寒いからね。
625日本@名無史さん:05/02/26 19:32:17
馬韓は、そんなに広大というほどでもないし、寒冷地だから人口支持力は九州より
低いんじゃないでしょうかね。
626日本@名無史さん:05/02/27 01:28:28
ソウルでも緯度でいうと福島あたりでそ。
つまり、日本でいえば国造の東限(北限)。
そしてソウル付近は馬韓諸国の北限。

つまり倭の諸国と三韓の諸国は緯度でいうとほぼ同じ。
ちなみに九州の諸国造が福島県ふくむ関東の諸国造と比べて
密度が高いかといえばむしろ低い。

従って「寒冷地だから人口支持力が低い→国数多い」とはならない。
627日本@名無史さん:05/02/27 10:56:24
>つまり倭の諸国と三韓の諸国は緯度でいうとほぼ同じ。

そうでしょうか?
それは本州の諸国のことですね。九州は明らかに半島より南です。
国造の密度も参考にはなるかもしれませんが、100余国といわれた
時代にどんな感じだったのでしょうかね。なんせ、統一される前の
はなしですからね。
628日本@名無史さん:05/02/27 16:57:10
ギリシャでも本土と植民市じゃ人口も領域面積も全然違う品。
629九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/03/02 02:46:40

海北九十五国:半島
衆夷六十六国:九州
毛人五十五国:山陰+長州+伊予+?安芸(広島)

ではないでしょうか?
630日本@名無史さん:05/03/02 22:35:40
本州の一部が含まれる可能性はありますね。毛人五十五国の全部がそうかどうかは、
分かりませんが。
631日本@名無史さん:05/03/05 14:56:43
仁徳天皇から始まる倭の五王は、マッカーサーのような新羅の占領軍だったんだな。
日本国内に、もとから基盤がなかったから自然消滅してしまった。

で、継体天皇に戻ると。
632九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/03/05 19:32:16
<< 再掲 >>

倭の五王の名前は、
倭讃・倭珍・倭済・倭興・倭武
です。
和名は不明。
倭讃もしくは倭讃の先代は「前君」と呼ばれていました。
以上の彼らは九州王朝の弟王です。

弟王として良く知られる他の人物は、
磐井(倭ワイ)・タリシホコ(上宮法皇)・薩摩夜
等です。

なお、兄王に当たる人物で良く知られる人物は、女性ですが、
卑弥呼・壱与(倭与)です。
633日本@名無史さん:05/03/05 19:34:58
↑ プ
634日本@名無史さん:05/03/05 20:00:37
天皇陛下
皇太子殿下
秋篠宮殿下
常陸宮殿下
三笠宮崇仁親王殿下
三笠宮寛仁親王殿下
桂宮殿下
635日本@名無史さん:05/03/06 21:30:14
>>632
そんな感じですね。繰り返しですが、磐井(いわゐ)の最初は「い」で、
倭は「ゐ」というところだけが難点ということですね。
636日本@名無史さん:05/03/06 22:18:25
自・演奴
637日本@名無史さん:05/03/07 00:51:24
イワイはwei
倭の訓
もう少し勉強汁
638日本@名無史さん:05/03/07 01:57:04
2ch弾圧! 人権擁護法案のガイドライン
http://that3.2ch.net/test/read.cgi/gline/1110125487/
639:05/03/07 02:12:34
マルチ
640日本@名無史さん:05/03/07 02:24:03
>>638 マヂ?
641九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/03/07 16:38:11
>>637
???

磐井=イワヰはiwa-wi
倭の訓は??
何をもう少し勉強汁?

僕は>>635ではないが、>>635説は尤もと思うが。
642日本@名無史さん:05/03/10 04:26:28
讃 仁徳天皇 
珍 履中天皇
済 允恭天皇 
興 雄略天皇
武 武烈天皇
643:05/03/10 04:30:36
畿内の人間じゃないでしょ
644日本@名無史さん:05/03/12 03:42:00
讃 顕宗天皇 
珍 仁賢天皇
済 継体天皇 
興 安閑天皇
武 宣化天皇
645日本@名無史さん:05/03/12 08:34:31
>>644
なるほど、年代はともかく、その説だと記紀との系譜上の合致はしますねえ。
646日本@名無史さん:05/03/12 19:41:51
五王は畿内王じゃないでしょう。九州倭国王。
647日本@名無史さん:05/03/13 11:43:29
↑電波
648日本@名無史さん:05/03/13 11:45:08
>>646
そのとおりですね。
五王の記録は、九州王朝が存在したことの根拠の一つですね。
649日本@名無史さん:05/03/14 00:42:35
讃 雄略天皇 
珍 清寧天皇
済 飯豊皇女 
興 顕宗天皇
武 仁賢天皇
650日本@名無史さん:05/03/14 01:43:03
>>481で決まりだろう。
651日本@名無史さん:05/03/14 02:04:47
讃 仲哀天皇 
珍 神功
済 応神皇女 
興 仁徳天皇
武 履中天皇
652日本@名無史さん:05/03/14 02:24:03
畿内の人間じゃないってば!
653日本@名無史さん:05/03/16 19:27:00
讃 張簡杯
珍 李伯撰
済 姜心複 
興 劉明近
武 鄭功幡
654日本@名無史さん:05/03/16 19:29:49
>>653
本当のところは、そんなもんだろうな。
655日本@名無史さん:05/03/17 12:25:30
ヤマタイ国九州説とか五王が九州の豪族の僭称だったという説はともかく、
4世紀以降も九州がメインの王朝だったという説は、無理だろう。
学会の主流は武を雄略にしているが、
年代的には興の方が合うように思う。
仁徳陵は雄略の陵かもしれんね。
656日本@名無史さん:05/03/17 13:38:31
>宮内庁の担当者が造出しで採集した須恵器はON46〜TK208で、
>一般に5世紀中葉とされるもの。 武(雄略)の墓と見るのは難しい。
657日本@名無史さん:05/03/17 17:24:01
清寧(=武)の事績は前天皇紀に吸収されてるんだね。
658九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/03/23(水) 20:06:38
659日本@名無史さん:2005/03/23(水) 22:06:20
学会には、何人の人たちの集団なんでしょうか?
その人たちは、充分な批判の上にたって議論をしているのでしょうか?

我が国では、固定的で少数の集団になると、とかく、相互批判を避けようと
する傾向がありますし、集団以外からの批判を受け付けず、自分達だけで
納得して平和を保とうとする傾向がありますから、古代史の学会がどんな
状態なのか、知らないだけに気になります。
660日本@名無史さん:2005/03/24(木) 17:28:36
奴国など北九州が覇権を握っていたはずなのに、いつのまにか畿内が。
わかった、地震で滅亡ないし衰退したんだ。
661サガミハラハラ:2005/03/25(金) 22:56:27
倭の五王のナは中国用で、必要なときだけつくられたものです。中国名と国内名が一致しなくともなんのさしさわりもありません。
ですから、天皇26代全部につける必要はありません。
662:2005/03/26(土) 12:52:24
五代だけに必要な理由は如何なるものなのか?
特段の理由がなければ、讃の前代と貴殿は観よう仲哀、または逆に雄略の次代あたり
の清寧にも中国名をつけてもよさそうなものだが?
五代だけついているということは大和朝廷の他に、日本のどこかに五王朝があった
のだ。なぜ五人の数字に制限されているのか?別王朝があったからさ。
663日本@名無史さん:2005/03/26(土) 17:43:31
任那の王だと何度言えばわかる?
664日本@名無史さん:2005/03/26(土) 19:12:34
七支刀には倭王旨って書いてるじゃん


665サガミハラハラ:2005/03/26(土) 19:34:31
だから、外国と通交する時に必要に応じてつけたのです。
日本のどこかにあったらしい五王朝は5人だけでほろんだんですか?
666日本@名無史さん:2005/03/26(土) 19:48:20
七支刀は、倭の五王あてとは書いて無いだろ。
667:2005/03/26(土) 19:54:22
>>665
(後段)そのとおり、短期王権だったということだ。
668橿原一派:2005/03/26(土) 20:29:30
>>663
渡りて海北を平らげたのだから、九州(もしくは畿内)の王でしょう。
後に半島に止まった可能性は捨て切れませんが。
669日本@名無史さん:2005/03/26(土) 20:31:43
百済相手にも、宋相手にも

外交上は一字の名を持ってたんだろ
670日本@名無史さん:2005/03/27(日) 01:06:36
391年 倭軍、新羅・百済を破る。(好太王碑文)
400年 高句麗の攻撃により倭軍、新羅より撤退。(好太王碑文)
404年 倭軍、帯方郡に出兵、高句麗と戦い敗北。(好太王碑文)
413年〜倭王による朝貢が相次ぐ。(晋書・宋書)


「私の父祖は自ら武装して休む間もなく戦い、東は毛人を征服すること55ヶ国、
西は衆夷を征服すること66ヶ国、海を渡って北を平らげること95ヶ国です。

私の先祖は怠りなく天子に貢物をささげてきました。
ありがたくも王位につき、治めたところを率いて天子に仕え
百済を通り、船を送ってきました。
ところが高句麗は無道にも(百済を)併合しようと謀り、領土を侵し、
人を殺し、天子へ送った私の使者を(高句麗)に止め、天子に貢物を届ける
良風が失われました。
私の亡き父・「シ斉」は怒り、大挙して出兵しようとしましたが、にわかに父と兄を
失い、未だ成功していません。
私は喪に服していてまだ勝利していません。私の兵は勇気があり天子の徳により
この強敵(高句麗)を討つことができたならば以前のように、
天子の忠誠を受け継ぐことができるでしょう。etc。」(宋書・倭國イ專)

好太王碑文の高句麗の主張だと倭軍が百済、新羅への侵略者。
晋書の倭王の主張だと高句麗が百済への侵略者だね。
共通していることは倭軍はなんの戦果も挙げれていないというところかな。
悪いのは倭人?それとも高句麗人?
671日本@名無史さん:2005/03/27(日) 01:16:45
高句麗の侵略に対して倭が防衛したってことだろ。

広開土王碑文は王の生前の功績を讃えるためのものだから
高句麗が負けたことは書いてない。
「戦争して勝った」と書いてある部分と
「戦争した」とだけあって勝敗を書いてない部分とがある。
後者は敗北戦。
とくに広開土王最晩年の404年の戦いは倭軍が意表をついて
帯方界にいきなり出現したが、この年、高句麗軍の主力は
西方戦線に出て燕と遼東半島の取り合いをしているので
南方戦線は手薄だったと思われ。
これを最後に、戦争は休止し息子の長寿王になってからは
和親路線に転換した。
672日本@名無史さん:2005/03/27(日) 01:40:42
高句麗語と日本語の数詞が似てるのは何故?

物部氏の「一ニ三…」という「ふるの言」は、高句麗語ということなんだよね?
673日本@名無史さん:2005/03/27(日) 02:06:23
>>671

確かに一時、新羅の首都を奪還された戦いぐらいしか落ち度はかかれていません。
広開土王碑文建立の正確を考えると、隠蔽された事実もあると勘ぐりたくもなりますが
晋書の倭王自身の言にも戦果を挙げていないと述べているので、
信憑性はあると思います。
674日本@名無史さん:2005/03/27(日) 02:25:08
>>673
晋書? 宋書じゃなくて? 宋書の倭王武は広開土王より70年後か80年後で情況ちがうでそ。
675日本@名無史さん:2005/03/27(日) 08:14:20
『日本書紀』によれば半島遠征は、仁徳の前の代。
好太王碑文と倭の五王はほぼ接続するから、
五王の最初はやはり仁徳か。もちろん応神の可能性もあるが。
履中の可能性は薄いか。系譜的にはぴったりだが。
676日本@名無史さん:2005/03/27(日) 11:53:37
>>662
日本側の事情じゃなくて中国側の事情じゃないのですかね?
677日本@名無史さん:2005/03/27(日) 12:02:12
>>662
時の中国の日本に対する認識がその程度だったということでしょう。
倭王讃以前には眼中になかった。楽浪・帯方の漢人には、異国として
認識されていてもだ。
倭王武以降は中国側で勢力図が変わっており、あっちが相手にして
いない。
この政治的混乱が、東アジアの各王朝がエリート漢人を取り込んでゆく
契機になっている。
ということだと考える方法がありますが。
678日本@名無史さん:2005/03/27(日) 12:15:14
倭五王と中国の外交が始まったのは
五胡十六国の混乱が一段落して
東晋が東方航路である山東半島を奪取したから。
宋が山東半島を北魏に奪われてから倭五王との外交は終わった。

つまりすべて中国側の都合。
679:2005/03/27(日) 21:09:28
>>677
すると、眼中にある時は単一名をつけるわけかい?
眼中にないときは長名のままか?おかしいなぁ。
卑弥呼は眼中にあるのに、何故3文字名なんだ?変だ変だ。つまり
眼中にあってもなくっても、名の数量には関係が無いとしか云えない。
680日本@名無史さん:2005/03/27(日) 22:40:20
言語に近く漢字を長々と並べるのは、
1)無駄に誇り高い
2)単に漢化が進んでない
3)その民族は中国に興味が薄く、中国側の取材で記事ができてる
(ので現地語が反映している)

中国風にわざわざ一字名にするのは
1)漢化がすすんでいる。
2)中国文化への憧れがある。
3)その民族の側から必要度が高くて中国へ遣いを出している
(ので中国式に合わせている)

・・・・などが考えられるな。
681日本@名無史さん:2005/03/27(日) 22:41:51
三文字なのは関西人の特徴

ひみこ
ひめこ
おめこ
682日本@名無史さん:2005/03/27(日) 22:47:21
んじゃ陰部を突いて死んだ倭迹迹日百襲姫命がヒミコと云う事で
683日本@名無史さん:2005/03/28(月) 14:40:50
倭の5王は日本人ではない。当時の日本人は九州にしろ畿内にしろ
あんな名前ではない。
684日本@名無史さん:2005/03/28(月) 16:25:11
大和朝廷の中央豪族(たぶん葛城氏とか平群氏あたり)が
勝手に倭王を騙って任那日本府の役人にヤラセたんだろ。
だから平群氏が滅ぼされてからは倭五王外交はなくなった。
685日本@名無史さん:2005/03/29(火) 00:33:58
>平群が勝手に・・・
雄略の軍事的な専制王権下ではあり得ないだろう。
686日本@名無史さん:2005/03/29(火) 03:05:45
>>685
いや、雄略末期以後ならあるだろ。讃=雄略(中略)武=仁賢として。

通説どおり讃=仁徳(中略)武=雄略とする場合には
平群氏じゃなくて葛城氏を考慮できる。
687日本@名無史さん:2005/03/29(火) 15:58:09
>讃=雄略(中略)武=仁賢

???
688日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 06:50:36
>>649だよ
689日本@名無史さん:2005/04/03(日) 08:17:13
讃 奈勿
珍 実聖
済 訥祗
興 慈悲
武 [火召]知
690日本@名無史さん:2005/04/09(土) 01:27:41
それって、九州王朝?
691日本@名無史さん:2005/04/09(土) 02:28:33
新羅王だろ?
692日本@名無史さん:2005/04/30(土) 23:44:08
693日本@名無史さん:2005/05/01(日) 16:42:50
天武朝の都合 を考えてみろ

漢の臣だった先祖と記紀に絶対書かかない。 これが基本
漢の臣だった五王は、天武の直系からはずす事にする。
これが記紀の基本

応神帝ーーーーーーーー継体帝ーーーー天武帝
     ーー倭の五王ーー

天武朝以降、 八幡神・渡来人の祖・継体帝 皆が皆、応神帝ゆかりなのはその為。
漢の臣だった先祖は、直系から外したのね それが記紀
694:2005/05/01(日) 19:36:57
>>693
図表のみに関しては極めて正解に近い。
もっと、正としたければ、図表2段目の倭の五王の横線を1マス(向かって)
左側へ移動させるとこれが真となる。よくここまで良図を示したものだ。98点。
695:2005/05/01(日) 19:39:43
(修正)2マス左のほうが、なおよいかも知れない。
696日本@名無史さん:2005/05/03(火) 04:35:50
和の五王は八女にいた。現地の伝承では広川の古賀に群庁舎があったという。
中国文化受容の点で新羅のライバルといえる先進国で、中国の陵墓のまねをして
石人そそりたつ石人山古墳を作った。おそらく珍か興の墓だろう。武の甥か子に
当るイワイは岩戸山古墳の石人石馬で墓をかざり、律令記念物まで作った。
北九州には近畿に無い文化がアル。高松塚のライバルの王塚古墳をはじめ、
呪術的な幻想的な古墳壁画が多い。高松塚や高句麗古墳の中国画と違い、独自だ。
697日本@名無史さん:2005/05/03(火) 04:42:00
新羅と強引に結びつけるのは馬鹿だ。近畿説も日本書紀古事記にでてこない。
し、文化レベルが近畿は低すぎる。五王ではありえない。
698日本@名無史さん:2005/05/09(月) 05:32:35
三世紀に九州に中心をもつ勢力を想定するならともかく
畿内巨大古墳の全盛期である五世紀にそれはないだろ?
古田武彦だって九州に独自の勢力の存在を認めただけで
それが畿内王権よりも強大だったとはいってないと思うが?
699日本@名無史さん:2005/05/10(火) 11:22:26
>>698
経済力や軍事戦闘力においては畿内王権が九州に勝っていたと思います。
仲哀や継体のように九州へ遠征する政権もありましたが、たてまえは九州王朝の下にいました。
彼らの後次期政権は応神や欽明のように親九州政権に戻っています。
700九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/05/10(火) 11:25:49
↑は僕が書きました。
701日本@名無史さん:2005/05/11(水) 11:59:22
>>699
巨大古墳の全盛期に畿内が九州の下にいたと?あまり説得力は感じられないなぁ
702日本@名無史さん:2005/05/11(水) 14:02:06
岡山県の方が巨大だった時代もあるし、
薄葬の風もあるから、墓の大きさだけで判断してはいけない。
703日本@名無史さん:2005/05/11(水) 20:21:12
大きさといい数といい、畿内は無視できる限度をはるかに超えてるよ。
704日本@名無史さん:2005/05/11(水) 20:33:09
中国の春秋戦国時代、周の国は弱小国。
しかし宗主的な国として存在し続けた。
周辺国(斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙)は無視できるどころの騒ぎではない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:1099130026473.jpg
705日本@名無史さん:2005/05/11(水) 22:10:21
>>702
そんな時代はない。
706九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/05/14(土) 02:52:21
>>701

経済力は、畿内全体>九州全体。
戦闘能力は、陸上戦:畿内>九州
          水上戦:畿内<九州。
畿内が九州を上まわるかの如く見える。

しかし、権力の集中状況が異なる。
九州は筑紫又は肥の勢力に権力が集中していた。(武力による権力集中)
戦争貧乏状況でもある。

畿内は大和勢力が盟主にしかすぎない。(天皇は連合体の盟主)
武力で統一を図ったのは、山城の勢力に対してのみ。摂津勢力に対しては政治工作によるもの。
経済破壊がなされず豊か。
707日本@名無史さん:2005/05/17(火) 03:16:51
山城と戦ったって、いつのこと?
708九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/05/17(火) 18:02:19

>>707
崇神が奈良盆地から盆地外の北方(京都府相楽郡精華町祝園、大阪府枚方市樟葉)へ進出した時です。
709九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/05/17(火) 18:23:27

>>707
次代垂仁は山城から淀川下流方面の摂津に進出。
これは人質をとっての騙し討ち。
710日本@名無史さん:2005/05/17(火) 18:24:10
武埴安彦クンか?
711九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/05/17(火) 18:27:21

>>710
いいえ、神武朝の地出身の「九州王朝大好き」です。
712日本@名無史さん:2005/05/17(火) 18:38:00
いや、>>708って「武埴安彦の反乱伝承」のことだろ?
713九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/05/17(火) 18:56:30

>>712
武埴安彦です。
反乱ではないと思います。
彼は山城の地場勢力で銅鐸文化の担い手と思います。
714日本@名無史さん:2005/05/17(火) 21:26:08
反乱だろ。反乱って書いてあるじゃん
715九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/05/17(火) 22:17:03

>>714
崇神畿内朝廷の立場からは反乱。
武埴安彦の立場からは異教徒の侵攻。

継体の立場からは磐井の乱。
磐井九州王朝の立場からは継体の反逆。
716日本@名無史さん:2005/05/18(水) 03:30:54
異教徒の侵攻だとか継体の反逆だとか好き放題に歪曲してる割には
武埴安彦の乱も磐井の乱も記紀にしか載ってないじゃん。

ご都合主義も極まれりだな。
717九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/05/18(水) 10:50:21
>>716

崇神が敵の祭礼地とみられる地名の地名変更及びそこでの残虐な行為をなしたことは、
崇神と武埴安彦の宗教が全く異なることを示しています。

磐井はイワイ律令でも示される様に九州王朝の王です。
ですから継体は九州王朝に対する反逆であり侵攻です。
仲哀の九州侵攻失敗後、応神近畿朝廷が九州王朝の傘下になっています。
拡張主義の崇神朝は仲哀で滅亡したのです。
だから応神朝を引き継いだ継体は九州に対する反逆となるのです。
718日本@名無史さん:2005/05/18(水) 17:03:04
応神朝は九州に対して反逆を起こさなかったの?
719九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/05/18(水) 20:14:30

応神朝は九州王朝の傀儡政権です。
継体は九州王朝に対して自分が正統な継承者であることを示す為に、
自分が応神五世の孫と称したと考えられます。
この信用より、当時半島戦争に軍主力を割いていた九州王朝の懐に入り込めたのです。
敵王を殺して戦利品が頓倉1つとは、半島から帰還した主力軍と対峙して、和平に持ち込んだのでしょう。
なお、継体の死後畿内朝廷は親九州の欽明になっています。
720日本@名無史さん:2005/05/22(日) 10:18:06
九州王朝大好きさんが大好きです。
著書は出されていますか?
是非、拝読したいです。
721鴨禰宜:2005/05/22(日) 12:24:11
子供にでも「九州王朝」なんてものがないことがわかるように説明してあるのが↓
藤井寺市教育委員会
「古市古墳群で最初に造られた津堂城山古墳と佐紀古墳群の佐紀陵山古墳には、
どうも密接な関係がありそうなのです。そして、前々回に触れた佐紀古墳群で最初
に造られた五社神古墳が、柳本古墳群の渋谷向山古墳の形態を踏襲していること
を考え合わせると、面白いことが見えてきそうです。
 これらの巨大な前方後円墳は、古墳を造る場所を、まず、大和の東南部に求め、
次いで大和の北部に移り、さらに山を越えて河内南部に移動しています。しかし、
古墳の形態は、時間の推移にしたがってスムーズに変化していると理解できるの
です。したがって、少なくとも古墳の設計者は同一系統に所属する技術者であった
ことは確かでしょう。さらにいえば、政治的記念碑である最高権力者のお墓の形態が、
大きな変化なく造られ続けるということは、この間に大きな政治的な変動がなかった
ことを意味するように思います。」
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kodai/kodai.html
漏れは九州・三韓を版図に入れた大和朝廷が纒向邪馬台国以前の九州の伝承と
出雲、人代の記録を統合したのだと思う。
722曲学の徒:2005/05/22(日) 14:43:39
こんなところでどうでしょう。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/2-9kennsyou.htm
723曲学の徒:2005/05/22(日) 14:51:43
こんなところでどうでしょう。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/2-9kennsyou.htm
724:2005/05/22(日) 22:04:58
倭の五王は畿内の天皇じゃないし、
神武も紀元後ですから、どの天皇も時代がずっとあとです。
崇神が紀元前など笑止千万。
725日本@名無史さん:2005/05/22(日) 22:22:43
旧事紀の記述を比較してるだけだろw
726九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/05/23(月) 13:51:29
>>718
応神朝は九州のバックアップで大和盆地を避け河内に成立した最初の畿内王朝だったので九州とは大きな対立はなかったようです。
末期には河内派と奈良盆地派との内紛で亡ぶ結果となりましたね。

>>720
僕は市井のアマチュアの徒の一人です。
又、日本古代に興味を持ったのは40も過ぎたころで、
本業の合間の趣味として程度なので、著書などは思ったこともありません。
建築家で本を著して論を展開されている方もおられますけれども。

727日本@名無史さん:2005/05/23(月) 23:04:40
九州には巨大古墳ないじゃん
728:2005/05/24(火) 00:52:38
倭人伝に巨大古墳は出てこないじゃん
729日本@名無史さん:2005/05/24(火) 12:31:48
径百歩は十分巨大だと思うが?
730:2005/05/25(水) 22:00:30
倭人伝は短里だから小古墳だね。
731日本@名無史さん:2005/05/27(金) 06:29:12
短里説は却下
732九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/05/27(金) 12:57:53

径百歩は十分巨大だと思うが。


1里=60歩なら、径125m。
1里=300歩なら、径25m。
どちらの説も推測。
現在里と歩の関係が不明。

1歩が2stepsだから、1歩≒1.3mが合理的な数字で、1里=60歩となる。
733九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/05/27(金) 13:13:11

1歩=5尺
734サガミハラハラ:2005/05/27(金) 19:28:26
この場合の1歩は魏の尺度です.1歩=1.45m
里は周制ですのでこの1歩をそのまま換算できません。
735九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/06/02(木) 02:17:29
>>734

魏志倭人伝に出てくる長さの単位

里(土地間の距離を計る単位):周制
歩(土地の長さを計る単位):魏制
尺(身の周りのものの長さを計る単位):?制

単位制度がバラバラの記述になっているのはおかしいのでは?
736サガミハラハラ:2005/06/02(木) 06:58:32
どうやら魏志倭人伝の行程記事は、前漢の時の報告をそのままのせたようなのです。
前漢が朝鮮を支配下に置いた時、朝鮮では周代の制度がおこなわれていたのです。
737日本@名無史さん:2005/06/02(木) 11:44:16
誰だって命を張って野蛮な国に出向きたくないしね。
適当に嘘を言ってもまずばれないわけだし。
738サガミハラハラ:2005/06/02(木) 12:36:55
736のそのままの前にほぼという言葉をいれてください。
魏の時代までに変化した部分は修正したようです。どこをどうかは現在研究中です。
739日本@名無史さん:2005/06/05(日) 00:30:24
周王家の分かれ呉の太伯の子孫が倭人(「晋書倭人伝」)
倭国王の讃、珍、済、興、武(「宋書夷蛮伝」)
倭国は古くは倭奴国といい王の姓は阿毎氏(「旧唐書倭国日本伝」)
天之御中主から世々23代まで筑紫の日向に都した(「宋史日本伝」)
 >倭の五王は姫讃、姫珍、姫済、姫興、姫武という名で、代々筑紫の日向(伊都国の日向/ひなた、または旧国の日向国)に都を置いていた。今は阿毎氏といってるよ。
 これ以上でもこれ以下でもないよね。
 一字だけ取って倭王武を無理やり大泊瀬幼武(大長谷若健命)としたところで、他の王の名前はどの天皇とも符合していないんでしょ。

>>670
 父と兄を失うというのは、欽明天皇が近いんじゃないですか?
 釈迦に説法、よく知りもしないで口を挟むのは憚られますが、継体天皇の頃の記述に「天皇と皇太子が半島での戦争で戦死した」と、あるとかないとか。

私(武)の先祖は海北九十五国、衆夷六十六国、毛人五十五国、を平定しました(「宋書夷蛮伝?」)
200を超える国を従えるのって何年ぐらいかかるんでしょ。
740九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/06/05(日) 20:16:07

>>739
>継体天皇の頃の記述に「天皇と皇太子が半島での戦争で戦死した」と、あるとかないとか。

日本書紀継体記のどの部分を指しているのでしょうか?
741日本@名無史さん:2005/06/07(火) 00:39:16
>>740
すいません、随分前にどこかのHPでたまたま読んだだけなんです。
検索して探してみたんですが記憶違いでした。「継体紀25年条割註に見える『百済本記』の記事」らしいんですが、戦死じゃないですね。
742日本@名無史さん:2005/06/09(木) 10:54:00
「継体紀25年条割註に見える『百済本記』の記事」は
あくまで不確かな伝聞記事。「〜という噂が流れた」ということ。
743日本@名無史さん:2005/06/09(木) 23:50:41
噂にまんまと乗せられた日本書紀
744日本@名無史さん:2005/06/10(金) 05:31:38
それはしょうがない。
確かな報道能力があったわけじゃないから。
つか、噂は当時のマスコミですよ。
745日本@名無史さん:2005/06/11(土) 00:13:15
信憑性のある情報なら百済本記も噂扱いじゃなくて普通の記事として書いたろ。
746日本@名無史さん:2005/06/11(土) 08:04:24
age
747日本@名無史さん:2005/06/23(木) 23:27:46
そうかなあ
748日本@名無史さん:2005/06/26(日) 06:32:18
>200を超える国を従えるのって何年ぐらいかかるんでしょ。

国ったって後の郡規模だからそんなかかんないっす
749日本@名無史さん:2005/06/26(日) 07:32:24
天照大御神の実から誕生した神子って五柱だったよね。
天照大御神の子の五神の子孫って天皇家と出雲家と後は何?
750日本@名無史さん:2005/06/26(日) 07:57:03
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊。
天穂日命〈是出雲臣・土師連等祖也〉
天津彦根命〈是凡川内直・山代直等祖也〉
活津彦根命。
熊野橡樟日命。
751九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/07/10(日) 22:53:05
「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊」
「活津彦根命」
「熊野橡樟日命」
上の三柱を特定するのは近畿朝廷にとっては都合が悪かったんだろうね。

「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊」九州王朝の兄王の祖と見なせるが、
「活津彦根命」は古志で、「熊野橡樟日命」は尾張かな?
752日本@名無史さん:2005/07/11(月) 12:44:23
活津彦根命はナガスネヒコのこと
753日本@名無史さん:2005/08/02(火) 18:44:37
珍=反正天皇とすると倭隋は刺領巾(曾婆加理)の事かな。珍(安東將軍、倭國王)で
で倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍等というのは政敵の近習だった者には
過大かな。
754日本@名無史さん:2005/08/05(金) 04:23:05
ソバカリ(サシヒレ)君は用が無くなって、さっさと殺されたでしょ?
755:2005/08/10(水) 19:41:58
>>753  珍≠反正天皇
756日本@名無史さん:2005/08/12(金) 20:16:18
んなこたない
757:2005/08/18(木) 16:24:00
再度言う。
珍≠タジヒ
758日本@名無史さん:2005/08/21(日) 02:44:36
>>742
編者の立場からは採用することは出来ないが実はこっちが本当
とか読むのが正しいのでは?
759日本@名無史さん:2005/08/21(日) 03:34:51
珍=反正天皇
760日本@名無史さん:2005/09/04(日) 23:29:34
761:2005/09/05(月) 12:43:25
珍王は反正天皇にあらず。
762サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/05(月) 13:11:01
珍は反正天皇です。
436年春即位 437年秋崩御 在位は438年春までです。
763:2005/09/05(月) 13:14:27
倭の五王は皇統とは別物です。
764サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/05(月) 13:31:19
中国史書の五王の年代と、仁徳以下雄略までの年代がピタリとあいました。
倭の五王は大和朝廷の諸天皇に間違いありません。
765:2005/09/05(月) 13:48:51
そうでない。当時朝廷の皇統と邪馬壹国系の王朝ともう一つの倭の五王朝の三つが
この日本に当時あったのが正解なのだ。
一番短期だったのが五王朝である。次いで短いのが女王国系の王朝。皇統は途切れずだ。
 外出するので後論は次回に・・・。
766日本@名無史さん:2005/09/05(月) 14:03:22
日本書紀の天武元年以前の紀年は断片的な史料を元にした創作です。
767日本@名無史さん:2005/09/05(月) 14:09:49
讃=孝元
珍=開花
済=景行
興=五百木入彦
武=倭建

これが正解
768日本@名無史さん:2005/09/14(水) 19:22:43
国名も津の国のように1文字でしたが、ある天皇の時代に全部2文字で表すように沙汰が
ありましたので、天皇名も1文字から2文字に変更しました、
769サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/14(水) 19:27:55
讃は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇です。
770太国:2005/09/14(水) 19:31:21
倭の五王は各天皇に非ず。
771日本@名無史さん:2005/09/14(水) 21:01:56
今でも人名に、賛と珍と、武が使われており、これはいかにも
772太国:2005/09/14(水) 21:15:01
何と云う人名か?
773日本@名無史さん:2005/09/14(水) 22:13:07
賛と珍と、武のままで使用中
774太国:2005/09/14(水) 22:18:44
現代人は「興」だって人名に使うんじゃあないの?
775日本@名無史さん:2005/09/15(木) 09:40:20
上の方ですよ
776太国:2005/09/15(木) 10:26:06
選挙に出た人で興起さんという方がおられましたよねぇ?
777太国:2005/09/15(木) 10:37:02
幼武の雄略天皇のごとく、他の4天皇も直接各一字(五王の残りの)四王にそれぞれ
付いているというならば、なるほどとなるが、四王にはそれがない。
ということは、幼武を雄略とした場合「武」字が合うのは偶然だということが
正解であり、五王と各天皇は別人であるというのが真になる。
 >>764 の年号の一致論はどこかで間違いがあるということだよ。
778サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/15(木) 12:28:00
雄略などと言う号は、8世紀に考案されたものです。4王についてなくとも不思議ではありません.
年号の一致論はどこかで間違いがあるということだよ。−−−具体的に御指摘を。
779サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/15(木) 12:32:27
当方の各天皇の在位年代は「空白の四世紀」の340にのせてありますのでご覧ください。
780太国:2005/09/15(木) 15:31:07
>>779
そのスレを探すのが多くて手間がかかる。まあ、そのうち見つかろう?
見つかったら見てみます。
その号のことを言っているんではないんですよ。説明が不足だったか〜?以下の名。
だから、オオサザキ、タジヒノミズハワケ、オアサヅマワクゴノスクネ
アナホ、ワカタケル  以上御5方
このうち最後の雄略(ワカタケル)は「武」が漢字ではいるからよいとして、
何故他の4名の天皇は讃、珍、済、興らしき字がないようだけど、おかしいと
思わないかい?またそれに、履中天皇(オーエ ノ イザホワケ ノ ミコト)
を何故抜かしたのかい?そう考察すると、貴殿のやり方にどこか?誤りがあると
感じるな?
いいかい、そのころの各天皇と五王とは別人なのだ。だから五王を各天皇と
名とか年とかを合わせようとすると、帯に短し襷に長しとなり、今後も合う事は
永久に無いだろう?ということは各両者はすべてが別人だということなのだ。
781サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/15(木) 15:44:04
讃、珍、済、興、武の漢式王名は、中国に朝貢する時になづけられたものである。
其の時に、和名から一字とらなければならないという法則はなかったはずです。
4名の天皇はおかしいといいますが、逆に武だけ合うのはおかしいとみたほうが正論ではないでしょうか。
当方は5王と仁徳以下の天皇の名をあわせようとはおもいません。
いや、逆になぜあわないといけないのでしょうか。
782太国:2005/09/15(木) 15:49:47
あは〜、ばらばらでOKとしたいのか?何故中国側は履中天皇を抜かしたんだい?
それともランダム抽出か忘れでもしたというのかい? 変と考えるべきだ。
合理的抜かした理由があちらにあれば、変ではないがね。
783サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/15(木) 15:54:22
宋書の記録は朝貢したら記載するのです。
履中は朝貢しなかったのです。変だとはおもうけどね。
784太国:2005/09/15(木) 15:57:34
それなら、疑問は少しは軽くはなったが、なぜ履中は朝貢を渋ったのかね?
何かまだ別に疑問が出て来る。
785サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/15(木) 16:03:14
どうにもわかりません。だれかうまく解いてください。
786太国:2005/09/15(木) 16:10:12
「空白の四世紀」アゲてもらい有難うございます。一応読ませてもらいました。
貴殿も履中のそのしない理由を疑問に思っていたのですか?
やはり、別人としないとおかしいと感じますが?
年号の数字は、多岐というか、種々の理由で説明が難しくスレに出さずに失礼
片手落ちですが、間違いだと私は思います。
787日本@名無史さん:2005/09/15(木) 23:51:05
和国以外に、大和の国があって、倭の5王とは別人説を提案します
788日本@名無史さん:2005/09/16(金) 00:34:22
讃=履中
789サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/16(金) 09:18:35
讃が履中天皇であることはありえません。
讃は413年(賛とある)から430年までは確実です。対して履中天皇は在位が
6年(2倍年暦だとすると3年)であり短いです。
賛と讃は違う430年は記名がないとみても、その後の王と反正天皇以下とはあいません。
これはやはり讃は仁徳天皇で間違いないはずです。
790太国玉尊:2005/09/16(金) 21:21:41
あの頃の世は三つの王制があったわけですよ。

0は 倭の五王朝
1は 邪馬壹国 関係の九州王朝
2は 大和朝廷
791太国:2005/09/16(金) 23:31:13
>>789
>・・・あいません
これを深く考察すれば、他にどうあてがってもどう操作しても・・・あいません
ということに行き着く。
眼をさませば、双方がおのおの別人だということが解って来る。
792サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/17(土) 07:21:41
深く考察した結果が、倭の五王は仁徳以下の大和朝廷の諸天皇であるこということです。
なお年代を考察する際は、安康天皇以前は2倍年暦であることを考慮してください。
793太国:2005/09/17(土) 07:44:05
上下段とも間違いと考えます。ただ、2倍暦が正ならばですな、下段はいい線かも
せ知れませんので、修正すれば真にたどり着けるやも・・・?
上段の件、どう比較、どう取替えても今後も >あいません の状態が永久に続くで
しょう。それはそうでしょう。w 各々両者は別人ですから合いっこないんですよ。
それに、何時それに貴殿が気がつくかですね?時間がかかるなあ・・・?
794日本@名無史さん:2005/09/17(土) 08:54:24
古事記基準で仁徳(讃)反正(珍)允恭(済)
430年の名無しは履中
795日本@名無史さん:2005/09/17(土) 09:49:46
日本でも中国風に地名を二字にしたのは(和銅五年=712年の地名二字好字令)なので、
それまでは、1文字の王名でした。
796太国:2005/09/17(土) 09:56:40
地名≠王名
797日本@名無史さん:2005/09/17(土) 09:59:47
讃=仁
珍=義
済=礼
興=智
武=信
798日本@名無史さん:2005/09/17(土) 11:39:18
讃=応神=履中
799日本@名無史さん:2005/09/19(月) 09:23:16
神武天皇二年二月乙巳条「珍彦を以て倭國造とす」

珍はこの珍彦
800サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/19(月) 10:21:39
>>793
讃=仁徳ですが、仁徳紀には44年(2倍年暦)の虚構年がはいっています。
ここに虚構年を挿入したわけは、卑弥呼と神功皇后の年代をあわせるためです。
801日本@名無史さん:2005/09/19(月) 10:29:18
五王の一字名は朝貢の際の上表文に書くために
便宜的につけただけだろ。別に本名でもなんでもない。

讃・・・中国を誉め讃えに(=朝貢)きました
珍・・・朝貢にきた珍しい奴です
済・・・海を渡ってきた奴です(珍の家系と興の家系の「中継ぎ」という意味もあり)
興・・・友好関係を興しましょう(新しい家系を興したという意味もあり)
武・・・高句麗をやっつけましょう(有名な上表文の内容にあわせてつけた名)
802日本@名無史さん:2005/09/19(月) 11:29:34
>>801
けっこう説得力があったりして・・・・
メールの内容を一文字で表す表題といったところか。

分かった!名前を書く欄に使者が誤って表題をカキコしちゃったんだ!
名前欄に「sage」って書いてるニワカみたいに。
803太国:2005/09/19(月) 15:53:04
>>800
何故、卑弥呼と神功皇后の年代をあわせたのですか? それに
勝手に虚構年挿入をやれば、五王と天皇もそれはそれはあっちゃうでしょうが・・・?w
804日本@名無史さん:2005/09/19(月) 20:38:48
天皇は名字がなくて、下の名だけでずっときてるので、2字はありえないのでは
805太国:2005/09/19(月) 21:24:57
貴下は知らぬかもしれぬが、核心を突いて来てるよ。
806サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/20(火) 20:15:55
勝手に虚構年挿入をやれば、−−単純にみればそうですね。
807太国:2005/09/20(火) 20:22:10
サガミハラハラ氏は年数計算はいい線を行っていると思いますよ。
ただ、五王は各天皇には非ずです。
先のとおり、帯に短し襷に長しで永久にピッタリと合うことはありません。
だって、別人ですから理の当然ですな。
ただし、挿入はまずいでしょう。
808サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/21(水) 08:37:36
挿入は仁徳帝の個所です。
仁徳帝の末は履中帝の即位年によって確定しています。
応神帝の末年は、三国史紀や好太王碑文との対比照合によってやはり確定しています。
よって仁徳帝の在位はその間となります。
その期間が、43年(2倍年暦)となり、多い分は必然的に虚構年となります。
809日本@名無史さん:2005/09/21(水) 08:54:46
>仁徳帝の末は履中帝の即位年によって確定しています。
>応神帝の末年は、三国史紀や好太王碑文との対比照合によってやはり確定しています。
> よって仁徳帝の在位はその間となります。

そんなことはあり得ない。

そもそも日本書紀の年代に改変が加えられている可能性があって信用できないからこそ
「仁徳帝の本当の在位年は云々」という話が可能なのにもかかわらず
なぜ履中帝の即位年を根拠にできるのだ?
第二に三国史紀や好太王碑文には仁徳帝の名はでてこない。そこにある倭王が
仁徳帝かどうかの論証ぬきにいきなり三国史紀や好太王碑文を根拠にはできんだろ。
810太国:2005/09/21(水) 08:57:54
だからどこかに何か間違いがあるはずですよ。
虚構年ができたからといってこれを肯定するんではなく、元に戻ってやり直しするのが
論のよいチェックの方法でえす。
虚構年が滲みでれば、論が不成立とすべきです。
811サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/21(水) 11:42:01
応神天皇以下の諸天皇は、記紀の記述による仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略であるとして
論じております。履中の前は仁徳であるならば当然その在位は履中天皇の即位年の年までとなります。
その間に未知の天皇がいたとか、皇子が天皇だったとかは論外です。
好太王の碑文に登場する倭の天皇は応神天皇に間違いありません。
もっとも好太皇碑文に合わせて応神紀を書いたというなら別ですが、まずその可能性はありません。
好太王碑文との整合から応神紀の記述が信頼できるのであるから、当然応神帝の没年も信用でき、
よって仁徳帝の即位年はそれで決定するといってよいのではないでしょうか。
そこで虚構年が滲みでてくるのですが、私はここでなぜ虚構年をくわえなければならなかったのかと考えました。
そこで皇紀から虚構年44年(二倍暦)をくりさげてみます。そうすると神功皇后元年は245年となります。
これは、卑弥呼が魏と通交していた年代となります。
ここで紀の編者は、卑弥呼とは神功皇后ではないかと考えました。
ところが倭人伝には卑弥呼はすでに長成であるとしるされているのをみて、245年あたりを摂政元年とするのは不味いと
考え、もっと前の201年としたのです。
201年とした根拠は当HPの「二倍年暦はーー」のスレにかきました。
812日本@名無史さん:2005/09/21(水) 11:59:22
壬申紀以前の天皇の在位期間は道教の聖数8*60で構成されている
813サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/21(水) 19:38:04
そう言えば、安本先生は、古代天皇の在位は60年がなんとかといってましったけ。
814:2005/09/22(木) 14:45:10
>>811
>ここでなぜ虚構年をくわえなければならなかったのか・・・・・(以下)
が、どうも貴下の小説に思えてしまう。
そこは、なぜ虚構年などというものが出てきたか?それはどこかに間違いが
あったから、こりゃぁ最初から吟味し直し。・・・・・が最良。
815日本@名無史さん:2005/09/22(木) 17:14:17
2005.07.24
日本書紀の年代の検証
2005.07.27
日本書紀の年代の検証2

http://mi-si.blogzine.jp/blog/2005/07/

ここの説で問題ないだろ?
816:2005/09/22(木) 19:59:47
>>815
内容を読んでみると、各天皇と五王とを、
調節するとか帳尻をあわすとか言及しているが、結局は矛盾が出てきて合わない訳で
ある。何の事はない、カンターン、当たり前。各々の両者がすべて別人だからだよ。w
817日本@名無史さん:2005/09/22(木) 20:41:16
日本書紀年表の構成との対比表
http://nippon-shinwa.com/nihon.html

古代史換算表
http://nippon-shinwa.com/change.html

こんなのアルYO
818日本@名無史さん:2005/09/22(木) 20:47:02
>>817
西暦400年庚子の履中天皇元年庚子が、日本書紀と私見とが一致する紀年。

そこより遡り、仁徳天皇紀で60年、並存していた神功皇后摂政期を、
応神天皇朝の前に置くことにより60年、1年未満であった成務天皇朝を
60年とすることにより合計180年を増やした。

この手法を遡って続けていき、結局、神武天皇即位元年辛酉をBC660年辛酉に置き、
全体として、660年の水増しに日本書紀編蟇者は成功した。
819日本@名無史さん:2005/09/22(木) 21:02:53
応神天皇がニコイチだったのはデフォ

それを考慮に入れないと
820日本@名無史さん:2005/09/22(木) 21:03:11
推古、時代に古い事を推定したので、合わせたが合わないのでがんばって合わせた。
821:2005/09/22(木) 22:22:36
>>818
水すましの理由は?単に隣接の天皇とか隣国の年号とあわせるのみのためか?
他に何の利害で水すましをやることに移行したと云うのか?
822藤原不比等:2005/09/22(木) 22:33:57
すいません出来心で・・・
823:2005/09/22(木) 22:39:14
出来心は当然、それは行われたと仮定したのならあるのは確か。
そんなことではなく、もっと突っ込んで、なぜ水すましをとことんやったのか?
強力にやったその真の理由とは何なのか?
それが論じられなければ >>818氏 の お考え小説になっちゃう。
824舎人親王:2005/09/22(木) 22:47:49
知ってる癖に
825日本@名無史さん:2005/09/22(木) 22:56:32
21雄略天皇代は日本書紀と百済本記は同期だよ>>815
826:2005/09/22(木) 23:51:23
>>824
知ってれば、こんな質問しないですな。
827日本@名無史さん:2005/09/23(金) 08:58:16
知ってることを、核とまずいのでしょうか、秘密で教えてください
暗号方式で、あがいのマイナス1で、いがあのプラス1とか書いて
828太国:2005/09/23(金) 09:01:14
???
829サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/23(金) 19:36:20
まず、なぜ二倍年暦を普通暦にしたてたのかという理由は不明である。
卑弥呼と神功皇后に時代が近づいたのは偶然であったとおもう。
仁徳帝の年代を44年水まししたのは、卑弥呼と神功皇后が同一人物であるように
みせるためである。
BC660年まで紀元を遡らせたのは、天皇家の先祖は呉の太白であるとしたかったからではないだろうか。
魏略に「太白の後という」とある。
830太国:2005/09/23(金) 20:22:29
むしろ呉人の先祖でないようにとするようにしますよ。w
何故、同一人物とせねばならない大利害とは何ですか?大利害がなければ
そんな水すましなどしませんよ。
水すまししているのは、怒らんでくださいよ。貴殿だということになっちゃうよ。
831日本@名無史さん:2005/09/23(金) 22:36:33
反正しる!

謝座井天皇も即位しる!
832サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/24(土) 07:27:04
一つは、世界に通用する歴史書として編纂したということがあげられます。よって、徳に中国の史書と整合しなければならないのです。
そうした時、卑弥呼と皇后の年代が重なったので卑弥呼=皇后とみてしまった(とすることにした)のです。
そこに水ましの必要がでてきたのです。その背景には倭国の年代の記録が絶対に間違いないという
自信がなかったことがあげられます。
よって、大利害とは書紀を世界に通用する歴史書として発行することです。
833日本@名無史さん:2005/09/24(土) 09:21:37
インチキ二倍暦論は飽きた
834日本@名無史さん:2005/09/24(土) 09:23:01
無料で歴史の教育を受けることができるのでうれしいです。
835日本@名無史さん:2005/09/24(土) 18:30:47
>>832
> 卑弥呼と皇后の年代が重なったので卑弥呼=皇后とみてしまった

逆。他に卑弥呼に相当するような人物がいなかったので大帯日売をその年代に当てたんだよ。
836日本@名無史さん:2005/09/24(土) 18:55:19
天皇家は、いわゆる遣唐使の時代まで朝貢なんてしてない。
837日本@名無史さん:2005/09/24(土) 19:06:38
光仁天皇は唐の使者に土下座したらしいな。
838太国:2005/09/24(土) 19:40:47
>>832
水すましをすれば出鱈目となり、世界に通用しなくなる歴史書となるのが真です。
失礼ながら、水すまし、整合してるのは貴殿となってしまうんではないんですか?
水すましをせず、独立的に日本書紀を編纂したほうがもっと信用があがるし、
そのほうが世界への通用性がアップしますよ。だから編者は水すまし等することは
ないですな。ということは、貴下の暦年計算にどっか間違い等がひそんでいますよ。
839日本@名無史さん:2005/09/24(土) 21:02:54
魏志もおかしいのでは、5王の年別登場が多すぎたり小さすぎたり、してる
親子にしては、在位年数が安定していない
840日本@名無史さん:2005/09/24(土) 22:04:50
>魏志

これは冬山の一角だな
841日本@名無史さん:2005/09/25(日) 08:57:00
冬山の一角って何?
842サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/25(日) 09:31:45
そうです。書紀は主に中国の書とあわせて信用をつけようとしていじくりすぎたあげく、
かえって信頼性を疑われる書となってしまったのです。
84316歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 09:41:00
書記は天武天皇のオナニーですw
844日本@名無史さん:2005/09/25(日) 09:59:53
>839
五王は宋書だろ。

同時代に中国の辺境にあった高句麗という国には
長寿王という100歳前後まで生きて在位した例もある。

>840-841
りびんぐげーむ
845日本@名無史さん:2005/09/25(日) 10:07:19
中国の書だけでなく国内の有力氏族の相矛盾する祖先伝承を詰め込んだ結果
846日本@名無史さん:2005/09/25(日) 11:46:46
>>841
知らないの?もぐりだな。
847日本@名無史さん:2005/09/26(月) 08:54:36
>>811
それじゃ「こうに違いない」って連呼してるだけで全然論証になってないじゃんよw
848太国:2005/09/26(月) 14:35:46
>>842
中国の書とあわせっこをやってるのは、他ならぬ貴下ではないでしょうか?
貴下がいじくりすぎて八幡のやぶ知らずになり、虚構年とかいう幽霊?が
出来てしまったのだとしか考えられませんが・・・・・?
849日本@名無史さん:2005/09/26(月) 14:45:45
倭王武から上表文を奉られた
宋の順帝は歴史漫画では髭親父に描かれているが
実際は十代の少年だった。

「神人」と呼ばれるほどの美少年だったらしい。
宋斉革命の時の「願わくば後世二度と天王の家に生まれたくない」
との叫びは有名。王に格下げされた後斉によって殺された。
850日本@名無史さん:2005/10/01(土) 21:58:33
葛城氏って加羅の国の王と近畿の豪族兼ねてたみたいだけど
一体何者?
851日本@名無史さん:2005/10/02(日) 09:22:51
(元始五年 紀元後5年)東夷の王、大海を渡り国珍を奉ず
852サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/10/02(日) 09:58:38
虚構年についてですが、書紀は、一部は虚構年によって年代を水増ししていると私は考えます。
虚構年を否定するということは、書紀の年代は実数であるとおっしゃるのでしょうか。
853日本@名無史さん:2005/10/02(日) 10:09:21
>>851問題はこの大海が、黄海なのか東シナ海なのかでしょう。
854太国:2005/10/02(日) 10:26:56
実数とは決めていませんよ。故意犯の水すましとはこれまた別ではないですか?
855日本@名無史さん:2005/10/02(日) 21:57:24
およげ たいやきくん
856日本@名無史さん:2005/10/24(月) 23:40:38
まいにちまいにち
857日本@名無史さん:2005/11/09(水) 01:12:33
>>481に賛成!
858日本@名無史さん:2005/11/12(土) 15:40:51
599 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/09/29 20:38
>>598
経験の無い子だね!初序ですか?男は逝く時に思わず声が出るもの。出ない時もあるが。

706 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/11/30 01:38
>>695>シックスナインってなんですか?
誰も答えていないので、答えます。69の形で準備作業をすることです。○が頭です。これで解からなければ、他板に逝ってヨシ。

716 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/12/06 18:26
>>715
30以上の年齢の女性のあえぎ声っていいですなぁ。

718 :50代せんのおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/12/06 21:41
>>717
他の女性は知らないですが、ぼくの知っている女性は、喘ぎ声がとまります。その時に叫ぶ女性っているのですか?

727 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/12/20 22:10
>>725
声が止まる以外に、もだえが止まります。涙があふれます。汗をドッとかきます。よく締まります。
859日本@名無史さん:2005/11/19(土) 02:04:46
>>481に賛成!
860日本@名無史さん:2005/11/19(土) 18:14:13
はいはい電波電波
861日本@名無史さん:2005/11/20(日) 02:20:27
当たってるな>481
862日本@名無史さん:2005/11/28(月) 23:00:09
213 :60代のおじさん ◆I.THkUKc4Y :2005/11/28(月) 22:45:06 0
>>212
女性と同じ。
ピンクも黒もいる。

黒のヤリチソは黒、ピンクのヤリチソは紫。

★20代30代女性と50代60代男性★25
http://love3.2ch.net/test/read.cgi/furin/1132787512/213
863日本@名無史さん:2005/11/29(火) 00:52:40
これが正解だな>481






























864日本@名無史さん:2005/11/30(水) 19:42:05















これが正解だな>481















865日本@名無史さん:2005/12/11(日) 15:55:07
↓が正解だね。












倭の五王の名前は、
倭讃・倭珍・倭済・倭興・倭武
です。
和名は不明。
倭讃もしくは倭讃の父親は「前君」と呼ばれていました。
彼らは九州王朝の弟王です。
弟王として良く知られる他の人物は、
磐井(倭ワイ)・アメノタリシホコ・薩摩夜 等です。

なお、兄王に当たる人物で良く知られる人物は、女性ですが、
卑弥呼・壱与(倭与)です。
866日本@名無史さん:2005/12/17(土) 04:05:01
↑電波はウンザリ
867:2005/12/19(月) 14:46:29
もしもし讃よ興さんよ〜 歴史のうちで五王ほど 名前の合わぬ者は無いw
どうしてそんなに合わんのか〜? ww
868サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/19(月) 18:57:44
つまり、天皇の和名と関係なく倭王の名を決めたからですよ。
和名の一部(意味も含めて)にこだわるのは、武の名が雄略のワカタケルに一致すると
考えているからです。
869:2005/12/19(月) 22:19:12
ならば全部あうような名をえらびますよ。
一つだけで外は合わないのは、一つは偶然の一致であるということですわ。
870サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/19(月) 22:30:01
全部あうような名を選ばなければならない理由はなんでしょうか。何もないはずですよ。
それに武を選ぶ時タケルを考慮したかは疑問ですよ。
871:2005/12/19(月) 22:39:20
そんなんじゃあ、めちゃくちゃでいいということになちゃうよん。
872サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/19(月) 23:01:07
別に漢字一字なら、中国側でつかっちゃいけないという字以外ならなんでもよいと思います。
873日本@名無史さん:2005/12/19(月) 23:04:28
倭の五王≠大和の大王
6世紀になっても播磨国が外国だった大和に
極東の将軍号がもらえるわけないだろ。
ケンタッキー州知事が、米国大統領の称号を求めるようなもの。
http://members.at.infoseek.co.jp/Accord/BIGLOBE/BUKKYOU/nip04955.htm
874:2005/12/19(月) 23:10:27
ならば、神武〜仲哀もその一字ずつの名を付けておくはずだ。
五王間だけ名の違う単名を与える意味合いは少ない。
日本名でよべばいいはずだ。そんな別名を無理に与えるならば、その理由と
別名の相手の天皇がだれだだれだと具体的説明をつけて中国の古文書に
書かれるだろう。w 
875サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/19(月) 23:15:02
これだけでは根拠が薄弱とおもわれます。
ニ王子の亡命先にえらばれたからといって大和の圏外とはいえません。
また言語についてもどうようです。
876日本@名無史さん:2005/12/19(月) 23:16:38
阿倍仲麻呂だって、中国名は「仲満」。
母国名とは無関係に名乗ったら、怪しまれる。
所詮は、倭の五王≠大和の大王。
877日本@名無史さん:2005/12/19(月) 23:18:21
大和の大王が倭の五王だったというほうが、よっぽど無根拠。
878:2005/12/19(月) 23:18:59
だいたい天皇に中国から名をもらえば、記紀にそのもらった史実が書かれる筈だが
それがない。もらってうれしかったのか、怒り心頭に達して名を破棄したのか
その件の事が記紀のどこかに書かれるべきだ。
無いということは、五王は畿内の天皇ではな〜いということなんだよ。w
深夜となった。明日以降に・・・。
879日本@名無史さん:2005/12/19(月) 23:29:46
小野妹子も隋の国書を
  
  [ 紛失 ]

したことになっている。

   はあ?

遣隋使が隋の国書を紛失するかよ?
九州王朝が遣隋使を出したんだよ。
大和の大王は遣隋使なんか出してないんだよ。
紛失したんじゃなくて、国書を受け取ってないだけ。
880日本@名無史さん:2005/12/20(火) 02:55:01
電波大発生でつね
881:2005/12/20(火) 21:39:35
中国名であったということは、比較的に中国に近い日本のどこかに五王朝が
あったということだ。だから畿内というより九州のほうが理にかなっている。
少なくても中国地方ww以西であるとみるのが合理性が強い。ww
五王が畿内に存在して各天皇だというのならば、すでに記紀に、たとえば
「應神天皇」と記述されるよりは『讃天皇』として記述されることになる筈だ。
882日本@名無史さん:2005/12/21(水) 22:51:38
なるほど。蘇因高とかもそうなのねw
883太国:2005/12/24(土) 16:56:32
「欠史八代は捏造だ」という奴がいるが、「倭の五代」(五王)が捏造だとか言う
奴が表見的にいるんだろうか?w
884日本@名無史さん:2006/01/13(金) 01:56:59
「武」が雄略なら、「タケル」という名の訓を漢字一文字で表していたということか。
 この当時に、名前の訓に因んだ適字をとって王の中国名とする習慣があったとすれば、
「讃」は「ホム」タの日の御子オホサザキの仁徳。
 従来言われているように、サザキの「サ」音も関連するか。
「珍」は瑞歯別の「瑞」で反正。本来は、倭王瑞だったかもしれない。
 字体の相似からして、「珍」=「弥」だろう。
「済」は浅津間の「浅」・「津」を持つ允恭。
 好太王碑文に、百済が百残と記された裏には、済・浅二字の間に何か曰くあり?
 また、済・津の二字は「渡」という点で同義。
「興」はアナホの「穴」を飾字したものとみて安康。
 百済の腆支王が、中国史書に「映」(腆の字に因むと思われる)と記されている、
 いわばその逆パターン。或いは、既出のように「アナホノ○○ノミコ」の○○部分が、
 興の字に関わっていた可能性もある。
履中は遣使をしなかったために、記録に残らなかったのだろう。
 百済でも、久爾辛王や三斤王は飛ばされている。
ついでに、陵の比定を試しにやってみると、仁徳は「ホムタの日の御子」で誉田御廟山、
 履中は大仙、反正は土師ニサンザイ、允恭は市野山、安康は平城京域に埋もれたか
 あえて古市に求めれば軽里大塚、雄略が岡ミサンザイ。
 応神が百舌鳥陵山、応神の先代が仲津山、先々代が津堂城山。
こんなところで如何でしょう。
885太国:2006/01/13(金) 07:41:51
いや〜、五王と各天皇とを名で合わせようとしてるが無理が見え見えだね。
間違っているよ。『武』一文字しか正確に一致していないということは、
やまたま雄略のみで偶然だということなのであり、五王と各天皇とは
別人というのが正解なのだ。
古墳のほうは余の研究対象ではないが、まあ合っていないだろうな?
886俺等05772:2006/01/13(金) 08:40:38
>>884
常識的な五王の紹介ですね。でも、ここの住民は多分納得しないでしょう。
何せ、「思い込んだら命がけ」の人が多いから。もっと、インパクトの
強い話を付け加える必要があります。雄略=武についてはこんな↓のどう?

雄略天皇
日本書紀によると、寵愛したのは史部の身狭村主「青」と檜隈民使「博徳」らだけとなって
いる。史部を「丈部」の誤りとすると、当に稲荷山古墳出土の金象嵌鉄剣の文字、杖刀人首
と一致する。(丈=杖の意味もある。)

檜隈村は「肥国の奥」出身者の村という意味で、肥国の豪族が集団で雄略天皇に仕えるため
に住んでいた場所でしょう。博徳は文芸に秀出ていて、雄略天皇に重用されていた。
身狭村は「武蔵」出身者の村という意味で、武蔵の豪族が集団で雄略天皇に仕えるため
に住んでいた場所でしょう。「青」は武芸に秀出ていて、雄略天皇に重用されていた。

肥後の江田船山古墳からは銀で象嵌された大刀が出土しています。武蔵の稲荷山古墳からは金
で象嵌された鉄剣が出土しています。そしてどちらにも獲加多支鹵大王の名が刻まれている。
この2つの刀の象嵌が日本で可能だったのか? 何故、獲加多支鹵の名が刻まれているのか?

私はこれらは「博徳」と「青」が雄略天皇の使いで呉(宋)に渡った時、記念として彼の国で
自分達の刀に象嵌したと考えます。又、有名な上奏文は「博徳」が書いたと考えています。
問題は、年の干支が少しずれていることですが、昔の干支は、現在の干支と連続していない
と考えれば、説明がつきます。
887日本@名無史さん:2006/01/13(金) 12:20:45
> 問題は、年の干支が少しずれていることですが、昔の干支は、現在の干支と連続していない
> と考えれば、説明がつきます。
詳しくお願いします
888俺等05772:2006/01/14(土) 10:06:32
>>887
すっかり失念してしまいましたので、今はお応え出来ません。

昔、15年よりも更に以前だったと思いますが「干支のずれ」について「季刊邪馬台国」に
投稿したのですが、安本美典にボツにされてしまいました。それだけなら良いのですが、
不採用とも採用とも全く連絡が来ず、全くナシのつぶて。原稿も返されず、そのままにな
ってしまいました。

あいにく原稿のコピーを紛失したので、現在、書いたものは手元にありません。一応、探
して見ようと思います。また、それを機会に、趣味の古代史は止めましたが、去年あたり
からボツボツ再開しました。もし原稿が見つかったら、その時、述べたいと思います。

基本的には、江戸時代、京都と江戸で曜日にずれがあり、京都の日曜が江戸の水曜になっ
ていたが、貞享暦の時から正しい京都の曜日に統一されたことを例に挙げて、中国の北部
と南部で年の干支がずれていて、魏から宋(西晋)へ朝貢先が変わった時点で、朝貢国の干
支に不連続が生じた。切り替えの期間は混乱が生じたため、記紀では干支の使われない
「干支の空白期間」がある。といった話から始り、「干支のずれ」を計算し、各天皇の在
位期間に当てはめ、五王のそれと比較したように思います。
889日本@名無史さん:2006/01/15(日) 10:23:05
なるほど、「干支のズレ」興味深いです。
890俺等05772:2006/01/16(月) 22:21:15
>>889
「干支のズレ」は6〜7年程度で、30代敏達以降は新しい干支、允恭天皇以前
は古い干支を使用していると思われます。安康から欽明までは干支を使わない
天皇が多く、この間が「干支の空白期間」となります。

古い干支に対しては、年を6〜7年繰り下げればよい。6年なのか7年なのか
もう少し検討する必要があります。丸山モデル(大化五年<六九〇>庚寅)は
干支が連続しているとして、九州独自の年号があり、41年ずれていると主張す
る説ですが、私はその説には賛成できません。
891サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 16:40:03
俺等さん、私も季刊邪馬台国に二つも投稿してナシノツブテ、そのままになっています。
連絡のないのはボツになっているわけではありません。企画に合う号にのせるために、ストックしているからです。
そのうち掲載されるかもしれません。お互い希望をもって待ちつづけましょう。
892日本@名無史さん:2006/01/17(火) 20:46:12
★古代カラ半島国家の歴史★

【志良岐】
国号の読みはシラギ。正しくはシラキ。4世紀以前の東アジア半島(現在の朝鮮半島)の
南東部にあった国である。神武天皇の兄・稲飯命によって建国される。
シラキとは「治らす木」の意味である。治らす(シラス)は日本語古語で治めるの意味であり、
木とは神木、すなわち天孫たる日本皇族のことである。したがって、治ら木(シラキ)とは、
「国を治める皇孫」の意味であり、稲飯命の別名なのである。
この事実から考えるならば、シラキの国号をその意味と音に合わせて漢字表記する場合、
『治良木』と書くのが適切である。しかし、わが国では昔から志良岐と表記したり、
また、新羅と表記するのが一般的ある。
神武天皇の兄=稲飯命によって建国され、その子孫が代々の王(キミ・国の主)となった
志良岐は、古代東アジア半島の南部諸国の中で、日本国(ヤマト)ともっとも友好関係に
あった国である。
その政治制度は、王(キミ)の下に国吉士(クニキシ。コニキシとも呼ばれる)という長官
が置かれ、王の統治を補佐するという独特のシステムであった。しかし、この制度が原因で、
志良岐王(シラキのキミ)は、臣下である第十七代・国吉士(クニキシ)=金奈勿に王権を
奪われることになった。
奈勿は、高句麗と手を組んで謀反を起こし、稲飯命の血を引く志良岐王族を皆殺しにした。
そして、志良岐の国号を『新羅』に改め、自分が新しい王となったのである。
金奈勿は金氏新羅の初代王であるが、志良岐人(倭人)ではなく、朝鮮人である。
金氏は謎の一族である。彼らが、いつ、どこから来たのか、どのような方法で志良岐に
移住したのか、それを記した資料はなく、すべてが謎に包まれている。
韓国に伝わる新羅の建国神話によれば、稲飯命が森の中で拾ってきたという逸話があるが、
もちろん作り話である。新羅建国(奪国)者=金氏に関する歴史的資料は皆無なのだ。
893日本@名無史さん:2006/01/18(水) 20:39:30
★古代カラ半島国家の歴史 2★

【任那】
地名の読みは、ミマナである。
日本国の第十代大王(オオキミ)である崇神天皇=孫木入彦命(ミマキイリヒコ)の御名を
記念して命名された。地名の意味は「皇孫の名」である。
志良岐の西側にあった日本国領土である。
任那は、正確に言えば「国」ではない。ヤマト朝廷が直接統治する天皇家の「領地」であった。
神武天皇が日本国を建国する以前から、任那には多くの倭人が住んでいた。隣接する志良岐や
久多良とともに、任那は日本文明圏を構成する地域の一つだったのである。
崇神天皇の時代に日本国の正式領土となった任那には、ヤマト朝廷が管理する鉱山と製鉄所が
置かれ、日本列島および志良岐、久多良へ鉄材が輸出されていた。
これらの鉄は、鍋などの生活用品を製造するための原材料として使われると同時に、剣や槍など
の武器の製造にも利用された。
そのため、日本にとっての任那は、経済面だけでなく、軍事面でも重要な意味を持つ地域で
あった。任那にはヤマトから派遣された軍が常駐していた。任那の軍は、任那の独立を守る
ための組織であると同時に、志良岐および久多良に対する軍事支援を行う任務も持っていた。
また、カラ半島北部の騎馬民族勢力に対する監視活動・情報収集活動等も行っていた。
朝鮮人国家の金氏新羅に征服されるまでは、多くの倭人が居住し、日本文化が花開く美しい
土地であった。

これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!
894俺等05772:2006/01/18(水) 23:15:02
五王の系譜
宋書の系譜と記・紀の系譜とは一致しない。しかし「讃死して弟の珍立つ」の元の形が「先王
死して弟の珍立つ」だったとすれば、宋書の系譜はB:のように修正でき、記・紀の系譜とは
矛盾しないような結果が得られる。

A:宋書の系譜      B:宋書系譜の修正    C:記・紀の系譜

 ┏讃               ┏□            ┏履中
 ┃                 ┃              ┃
 ┗珍             讃 ┗珍         仁徳╋反正
    ┏興               ┏興         ┃   ┏安康
   済┫               済┫           ┗允恭┫
    ┗武               ┗武              ┗雄略
895太国:2006/01/18(水) 23:36:43
俺等さんは 五王=各天皇 を肯定してるんですか?
残念ながら、両辺は不等号が正解。w
896日本@名無史さん:2006/01/18(水) 23:52:29
異国だから、倭の五王と畿内の大王は、まったく関係なし。
くだらぬ比定。
897日本@名無史さん:2006/01/19(木) 00:26:35
九州は電波だろ
898俺等05772:2006/01/19(木) 19:50:08
>>895
太君はまだ邪馬台国九州論者みたいだけど、倭の五王の時代に邪馬台国はどう
なっていたの? こっちは統一国家は邪馬台国時代にほぼなっていて、その後
狗奴国による東征が始まったと考えているので、統一国から分裂国への歴史の
逆行は無いと思っている。 だから、五王=各天皇。
899日本@名無史さん:2006/01/19(木) 19:55:00
五王=天皇ではないといってるヤツにまともに取り合ってたら、
そこでストップして議論が進行しないからスルーでいいよ。
900日本@名無史さん:2006/01/19(木) 20:03:05
★古代カラ半島国家の歴史 3★

【久多良】
国号の読みはクダラ。正しくはクタラ。
6世紀以前の東アジア半島(現在の朝鮮半島)南部にあった国である。日本国・志良岐・任那と
同じく、日本語を公用語とする倭人(日本民族)の国である。
久多良(クタラ)の語源は、降つ(クタツ)である。降つは、降る(クタル)ともいう。
クタツ=クタルは日本語古語であり、「日が傾く」「日が沈む」という意味の大和言葉である。
古代日本領であった志良岐や任那から見て、西側に位置していたことから、「日が沈む方角にある国」
「西の国」という意味でクタラと呼ばれていた。それがそのまま国号となったのである。
久多良(クタラ)の地には、紀元前から倭人が居住していた。もちろん、日本列島の倭人とは日常的
に交流があり、経済面だけでなく、政治面、軍事面でもヤマトと一体であった。
久多良は、古代日本の一部であり、久多良文化は日本文化である。久多良人(クタラビト)も
大和人(ヤマトビト)も、同じ古代日本語を話し、日本文化を共有していたため、両者は強い同族意識
で結ばれていた。大和と久多良が、対高句麗戦争で常に一体となって戦っていたのは同族だったから
である。
久多良の統治は、大和の天皇(スメラミコト=清めら御子人)が任命する国吉士(クニキシ)が
担った。クニキシはコニキシとも呼ばれ、カラ半島南部の国を統治する役人の最高位である。
3世紀の半ばに、志良岐が、朝鮮人の国吉士・金奈勿に乗っ取られ、『金氏新羅』という朝鮮人国家
に変質した。この金氏新羅が、6世紀に久多良を侵略して滅ぼしたが、久多良が滅びた時、多くの
久多良人(倭人)が大和(日本国)に亡命し移住した。
なぜ、大和朝廷は、久多良人(クタラビト)の日本への移住を許可したのか。それは、久多良人が
我々と同じ日本民族だったからである。
現在、久多良という国はない。しかし、久多良人の血は、今も日本民族に受け継がれ、
我々の体の中で生き続けているのだ。

これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!
901俺等05772:2006/01/19(木) 20:03:22
>>891 サガミハラさん
残念ながら、原稿はボツですよ。あとで判ったんだが、安本氏は最初は
投稿者にせっせと不採用の理由を説明していたようです。でも、結局
すれば喧嘩になり、挙句に嫌がらせをして来るので、黙殺だそうです。
902俺等05772:2006/01/20(金) 12:11:47
古事記の崩年干支は、崇神天皇の代が初見で、成務天皇の代から連続して記述されるように
なるが、安康〜欽明の間は記述されないことが多く、この期間は「干支空白期間」と言える。

「干支空白期間」以前の倭王の崩御年で年を計算すると、中国の史書の年との間にはズレが
あり、6年、年を繰り下げる必要がありそうである。

つまり、中国の北(魏・西晋)と南(東晋・宋)とで、年の干支が6年異なっていたと思われる。
敏達天皇以降の干支は、現在の干支に連続しているので、南の干支で統一されたことになる。

(次に表が続きます。改行エラーが出るので、分割しました。)
903俺等05772:2006/01/20(金) 12:12:52
代 天皇 干支 西暦→ 修正 (干支:古事記の天皇没年干支、−−は不記載)
10 崇神 戊寅  318→ 324
11 垂仁 −− −−
12 景行 −− −−
13 成務 乙卯  355→ 361
14 仲哀 壬戌  362→ 368    −−−−−
15 応神 甲午  394→ 400    −−−−−
16 仁徳 丁卯  427→ 433    421 倭讃、万里貢を修む 425 讃、司馬曹達を遣わし方物を献ず
                     430 正月 倭国王、使を遣わし方物を献ず
17 履中 壬申  432→ 438    −−−−− 
18 反正 丁丑  437→ 443    (讃死して)弟珍立つ
19 允恭 甲午  454→ 460    443 倭国王済、使を遣わし、奉献す
─────────────  460 十二月 倭国、使を遣わし方物を献ず
20 安康 −− − → (462) ↑  462 三月 興を以って、安東将軍となす ・(興死して弟武立つ)
21 雄略 己巳  489→ 489 |  【 辛亥年(471→477) 七月中記す(稲荷山鉄剣) 】
                  干  477 十一月 倭国、使を遣わし方物を献ず
                  支  478 五月 (倭国王)武を以って、安東大将軍となす
22 清寧 −− −−
23 顕宗 −− −−     空
24 仁賢 −− −−     白
25 武烈 −− −−   
26 継体 丁未  527     期
27 安閑 乙卯  535     間
28 宣化 −− −−     |
29 欽明 −− −−     ↓
───────────────
30 敏達 甲辰  584→ 584
31 用明 丁未  587→ 587
32 崇峻 壬子  592→ 592
33 推古 戊子  628→ 628
904日本@名無史さん:2006/01/20(金) 12:34:16
>>903
〔其國本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年〕
この最後の男王に当たるのが、仲哀帝だ
だから貴方の説は×
905俺等05772:2006/01/20(金) 12:55:26
>>904
今頃、書紀の年をそのまま信じているの? 呆
906日本@名無史さん:2006/01/20(金) 13:02:25
↑馬鹿発見しました
通報します
907:2006/01/20(金) 14:44:27
>>898
それはそうだ。歴史は逆行できるレトログレードの遊星やタイムマシンではない
のでそのとおりだな。だからと言ってそれくらいでイコールにはならんのさ。w
倭の五王の時代には卑弥呼の邪馬壹国はすでにな〜い。
天皇だったら、中国のそこの文献に讃とかでなく、はっきり應神として記述され
るはずだ。應神に讃とか名を変えて記述すれば、後世読む人が誤解を受け困る位
編者らは分かるはずだ。だから、名を5人変えて各天皇とすることはしない。
年号だってそうだろう?平成の名を決めるのに頭英字が同一にならぬように
考えて、政府筋は決めたとしている。
明治はM、大正はT、昭和はSだから、判別しにくくなる既使用のこの三英字は
外して、Hという別の英字で略称できる平成の名を選ぶ手段としている。
倭の五王は各天皇ではないんだよ。ww
それとも君は、平城=平成 と名の似通っている者をイコールだと云うのか?w
908日本@名無史さん:2006/01/20(金) 17:30:39
>>907
> 天皇だったら、中国のそこの文献に讃とかでなく、はっきり應神として記述されるはずだ。

應神とかの諡号はずっと後に付けられたわけだから、それこそ記述されてるわけはないでしょ。
まあ言わんとする主旨はわかるけれども。
909俺等05772:2006/01/20(金) 18:24:14
>>907
安本美典氏の古代天皇 10年説を応用すると、各国の王の在位年代が、凡そ推定出来ます。
日本書紀の垂仁三年には、「天日矛」が王位を弟に譲って、日本に亡命して来たことが記さ
れていますが、これは回帰曲線から AD 350年頃の事件と計算できます。

一方、新羅本紀には五代目の時、兄弟で王位争いがあったことが書かれていて、弟が王位を
得たことが記されています。これは回帰曲線から AD 350年頃の事件と計算できます。
両者の時間的一致から、この2つは同一の事件であり、新羅で兄弟の王位争いの結果、弟が
勝利したことと、「天日矛」の渡来が共に事実であったことが立証されるのです。

もちろん、新羅本紀には脚色があり、後で弟が兄に王位を譲ったことになっています。こう
した脚色は、三国史記と日本書紀を比べて、初めて可能になりますが、とに角王位争いのあ
ったことははっきり出来るのです。倭の五王以前、垂仁天皇の時代の記事が既に事実である
ことは、時代を下った五王の時代の日本書紀の記事は更に確実であることを意味します。
910日本@名無史さん:2006/01/20(金) 18:33:13
>>909
基本的に同意します。
しかしあなたの言う狗奴国の東征とはなんですか?
あと、四道将軍の時代はいつ頃なのでしょうか?
911日本@名無史さん:2006/01/20(金) 18:53:23
垂仁三年がAD 350年頃?
ありえません!!
912俺等05772:2006/01/20(金) 19:47:37
>>910       狗奴国=建日向日豊久士比泥別
邪馬台國の全体像
仮定1 邪馬台国時代、箱根越えは未だ不可能で、東国へ行くには伊豆半島を船で廻る必要があった。
仮定2 当時の魏の中国人には、日本は朝鮮半島から南に広がった島国という先入観があった。
 仮定2から、@〜Bのように方向を修正できる。
  @ 郡使が体験して記したことについては、方向をそのまま採用した。
  A 倭人から聞いた編者の熟知している地域に対しては、方向を90°時計回りに変えた。
  B 倭人から聞いた編者の不案内な地域に対しては、不案内が故に、方向をそのまま記した。

上の仮定を使うと、以下のような概略図を描くことが可能である。

   _            邪馬台國の全体像を、簡略図で示す(文字サイズを小に願います)。
─-┘ \倭と韓の国境    (末盧・伊都・奴・不彌は都市名(点)、後出の奴国は国名(面))
狗邪韓國\           (末盧=唐津、伊都=吉野ヶ里、奴=須玖、不彌=三雲の各遺跡)
 \
  ↓(南南東)
 対馬
  \ (東南)                                   女王圏の東境
    \      (東、水行二十日)                        |
    一支 ┌→−−−−−−−−−−→投馬國                |千余里
    |  ↑→−−−−−−−−−−−−−−−−→邪馬台國−−−→|−−−→倭種国(南関東)
    ↓  ↑   (東、水行十日、陸行一月)                   |       ↓
   末盧 不彌                                              ↓三千里
    \  ↑  奴                                             ↓
 (東南)\↑/  奴 国                                         ↓
      伊都                                             侏儒國(八丈島)
    −−−−−−−奴國と狗奴国の境

     狗 奴 國
913日本@名無史さん:2006/01/20(金) 19:51:22
>>1
>>903
>>907
>>910
>>911
これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!
_____________________

/    ||    :ヽ
   ┌|(⌒ヽ :|| ..:⌒: |┐   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   |::|::ヽ.__:):||(___ノ ::|::|  │
    |:|: ..   :||    .. |:|  │
    :|: ..   ||    ..|| <   古代のカラ半島南部は
                     日本領だったのだ!
     :\ [_ ̄] /::|   │
::     |\|_|_|_|_/:::|    \________
   __| |   / / :|___

古代カラ半島の歴史1・2・3をコピーせよ。
近所にバラまきたまえ!
地球を守るために、ウルトラマンに協力せよ!!
914日本@名無史さん:2006/01/20(金) 19:54:34
>>912
あなた弥生人は江南で大チョンボやらかした前歴あるんですよ。
しっかり説明しなさい。
記紀をしっかり読み直し、土蜘蛛、熊襲征伐が史実であったこと
確認しなさい。当事者の末裔が今でも生きてるんだぞ!
915日本@名無史さん:2006/01/20(金) 19:56:45
>>914
これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!
_____________________

/    ||    :ヽ
   ┌|(⌒ヽ :|| ..:⌒: |┐   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   |::|::ヽ.__:):||(___ノ ::|::|  │
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                     日本領だったのだ!
     :\ [_ ̄] /::|   │
::     |\|_|_|_|_/:::|    \________
   __| |   / / :|___

古代カラ半島の歴史1・2・3をコピーせよ。
近所にバラまきたまえ!
地球を守るために、ウルトラマンに協力せよ!!
916俺等05772:2006/01/20(金) 20:17:31
>>910
狗奴国=建日向日豊久士比泥別で、阿蘇山の麓にある日向・肥・豊の一部
の連合国家で、壱与が中国に最後の使いを送った後、狗奴国王はほどなく
日向から東征を開始し、畿内の邪馬台国を征服したと考えています。


>四道将軍の時代はいつ頃なのでしょうか?

調べていませんのではっきり判りませんが、崇神天皇の代でよろしのでは?
古事記による崇神天皇の崩御年は 戊寅(318→324) ですから、AD310年
前後でしょう。

回帰曲線で求めると、崇神天皇の在位期間は 338〜347年頃となりますが、
これは一応の目安です。私は古事記の没年干支の方を優先させます。
917日本@名無史さん:2006/01/20(金) 20:22:19
>>916
弥生人江南説の時と同じで一つの仮説に拘り
強引過ぎる。
会期曲線だろうと宰相二乗法だろうと、そもそも
他の記述やら遺跡と全く整合性もってないじゃないですか!

じじいの悪い癖ですよ!
918日本@名無史さん:2006/01/20(金) 20:23:31
>>916
いっておきますが、理路整然と話して欺くのやめてください。
根底そのものが大間違いなのですよ。
919俺等05772:2006/01/20(金) 20:43:19
>>917
>他の記述やら遺跡と全く整合性もってないじゃないですか!

具体例をもって示して下さい。抽象的な言い方では言っている事が判りません。
920日本@名無史さん:2006/01/20(金) 20:47:13
理路整然と間違ってる!
921日本@名無史さん:2006/01/20(金) 20:55:54
>>919
先レスみましたところ、貴方は古代史研究は10年以上
なさってるようですね。
それでこれですか???
四道将軍もしっかりよどみなく説明してください。
調べていないですみませんよ!
922:2006/01/20(金) 21:08:24
>>908
言っていることは分かった。じゃぁ「誉田別」とするか?
>>909 下段
じゃぁ、なおさらだろ?w 「誉田別」とか記述してあり、「讃」とかではない。
923俺等05772:2006/01/20(金) 21:40:55
>>921
いえいえ、古代史研究始めたのは昨年からです。宜しく。
924俺等05772:2006/01/20(金) 22:18:26
>>922
太君、百済王や高句麗王も同じ1字の名前ですよ。

百済の王族の姓を中国で称する時は「余」ですが、本当の姓は「扶余」です。
余句=近肖古王、余暉=近仇首王、余映=腆支王、余毘=毘有王、余慶=蓋鹵王、
牟大=東城王、
925日本@名無史さん:2006/01/20(金) 22:27:10
牟大=東城王←これは何?
大牟田と関係ありそ
926:2006/01/20(金) 23:38:26
>>924
とにかく、神武以降〜仲哀まで14代いますのに5王だけ傑出しているのはおかしい
ではないか。なんなら 5+14=19 とかで、倭の19王、乃至は倭の20王とか
記述すべきではないか?w それなのにた〜だ5王のみの限定版では別人と考え
るのが適正なのではないか?w 以下が正解だ。
5王のみということは、天皇以外の短期王朝が日本に別にあったのだ。
927日本@名無史さん:2006/01/21(土) 08:41:23
神功紀にあるように倭は一時韓半島南部を制圧したってことでしょう。
馬韓、辰韓を百済、新羅にしたのは倭人だよ。
そしてそれ以前に丹波から新羅に脱解が移住して新良貴氏になってるよね。
神武の末裔みたいだ。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/kin_sei.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/01.htm
脱解は近畿の王朝の命により神武の子として
丹波から派遣されたわけ、そして新良貴氏の祖、
新羅の王になる。
そして高天原の位置も判った。
近江八幡の野洲川ここである!
ここから稲飯命の子、脱解(新良貴氏)が新羅に、そして立石氏の祖先が筑紫に
出雲に佐々木氏が天下った。
邪馬台国と高天原の位置を比定したよ!!
完璧だ!
欠史8代と言われてる
大王の子孫の行動を辿れば簡単に解けるW
928:2006/01/21(土) 08:43:58
邪馬台国は?
929日本@名無史さん:2006/01/21(土) 09:04:16
稲飯命→脱解(新良貴氏)は紀元後57年頃新羅王即位らしい。
930日本@名無史さん:2006/01/21(土) 09:29:48
九州王朝の5代の王名であって、名前を改竄比定する必要もない。
931日本@名無史さん:2006/01/21(土) 09:38:10
五十鈴媛命、鈴は銅鐸のことだよ。
鈴なんて東日本に沢山いる鈴木に決まってるだろ
五十猛、五十鈴の子孫なんだよ東日本人は
五十猛、スサノオも
神武の前の神だろ
そもそもこんな朝鮮臭い名前は出雲に決まってるだろがw
神武は初代から近江近辺にいるんだよ
932俺等05772:2006/01/21(土) 10:22:44
>>929
新羅本紀の即位年をそのまま信じるアホ。 朝鮮の歴史ならそのまま信じるのか?
もっと批判精神を持って古代史やってくれよ。脱解王は推定 340年頃の王だよ。

新羅王在位表
代 王 名 即位年 在位期間 即位年(回帰式)
1 赫居西  -57   61    303.61789
2 慈充    4    20    314.72199
3 南解    24   33    325.88940
4 脱解    57   23    337.12135
 天日槍   80    0     348.41909
5 婆娑    80   32    359.78388
6 祇摩   112   22    371.21702
7 逸聖   134   20    382.71982
8 阿達羅  154   30    394.29364
9 伐休   184   12    405.93985
10 奈解   196   34    417.65983
933俺等05772:2006/01/21(土) 10:46:51
>>931
近江近辺は銅鐸の宝庫だよ。で、「五十鈴媛の鈴は銅鐸のこと」と、
どう関連するの?
934日本@名無史さん:2006/01/21(土) 11:04:46
>>832
辰韓の王ということはないんでしょうか?
935日本@名無史さん:2006/01/21(土) 11:07:52
>>932
在位期間短すぎる、辰韓王と考える方が自然。
936日本@名無史さん:2006/01/21(土) 11:31:32
結局あれかい、
チョン州人江上の騎馬もアンポン人の甘木説も
愚民を欺く為に国家規模でやってるんかい!
937俺等05772:2006/01/21(土) 13:01:45
>>935
訂正: >932 の3代目南解は誤りでした。3代目は儒理(尼師今) 失礼。

>932 は初代から在位期間が 11年を越えていて、長すぎです。安本氏の言うよう
に、在位期間が10年前後になるよう、回帰式の形を変える必要がありそうです。
でも、回帰曲線の場合、必ずしも一意的でないから、最適な曲線を選ぶのは大変。

在位期間短すぎる、という根拠を示して下さい。
938日本@名無史さん:2006/01/21(土) 13:04:32
キモイよチョセン人アンポン
939日本@名無史さん:2006/01/21(土) 14:42:14
ミナデワタシノコトチョセンジンチョセンジントパカニスルコトナイアルヨ
ワタシニホンジンアルヨ
940日本@名無史さん:2006/01/21(土) 17:11:21
まず、天日槍=骨正、弟知古=伊買、但馬諸助=助賁[諸貴]と仮定して

法興王以前に関しては王号を追尊した祖先を即位扱いにしている場合がある。
明確な例は「至都盧葛文王(迎日冷水碑釈文)」=「智證麻立干(三国史記)」
奈解と未鄒も即位はしていない元・葛文王だったと推定できる。
于老は倭に殺害されていたことを理由に即位はしていたが王扱いになっていない。
于老の在位期間は沾解に置き換えられていると考えられる。
訖解は奈勿と同一人物(在位期間が同じで類似の事件もあり)
別人扱いにされたのは訖解の父が于老だからとしか考えられない。

このように考えると伐休・助賁・于老・儒礼・基臨の5代は約60年に収まる
天日槍渡来時期は300年前後と推定できます。
941俺等05772:2006/01/21(土) 21:13:09
>>940
>天日槍=骨正、弟知古=伊買、但馬諸助=助賁[諸貴]と仮定して
[諸]に着眼して、但馬諸助=助賁、助賁の父=骨正=天日槍、弟知古=伊買、
この繋がりはよく理解できます。
一方、新羅王を
伐休・奈解・助賁・沾解・味鄒・儒礼・基臨 → 伐休・助賁・于老・儒礼・基臨
とした理由が書かれている。また、5代は約60年もまあ良いでしょう。

しかし「天日槍渡来時期は300年前後と推定できます。」の根拠が全く判らない。
基準となる実年代に何を選び、どう推定したのかが書かれていません。

縦軸に西暦、横軸に新羅王の代、を採り、即位年をプロットすれば、即位年が
信用出来るのは 27代の善徳女王(632)以降であることが、一目瞭然です。
>940さんは何を信用出来る実年とし「天日槍」の年をどう推測したのでしょう?
942日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:45:24
> 一目瞭然です。
よくわかりません、詳しくお願いします。

基準年は奈勿即位年(356)のつもりだけどダメかい?
奈勿〜炤知の各在位期間には疑問もありますが
とりあえず定説で。
943日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:47:10
失礼。智證の在位期間分紀年下げてもいいかも
944俺等05772:2006/01/22(日) 09:17:20
>>942
エクセルかロータス使って、新羅王の即位年のグラフを作ってみて下さい。
           データは↓
代 王 名 即位年      代 王 名 即位年
1 赫居西   -57      21 召知   479
2 南解     4       22 智證   500
3 儒理     24      23 法興   514
4 脱解     57      24 真興   540
天日槍     80      25 真智   576
5 婆娑     80      26 真平   579
6 祇摩    112      *27 善徳   632
7 逸聖    134      *28 真徳   647
8 阿達羅  154      *29 武烈   654
9 伐休    184      *30 文武   661
10 奈解   196      *31 神文   681
11 助賁   230      *32 孝昭   692
12 沾解   247      *33 聖徳   702
13 味鄒   262      *34 孝成   737
14 儒礼   284      *35 景徳   742
15 基臨   298      *36 恵恭   765
16 訖解   310      *37 宣徳   780
17 奈勿   356      *38 元聖   785
18 実聖   402      *39 昭聖   799
19 納祇   417      *40 哀荘   800
20 慈悲   458      *41 憲徳   809
945日本@名無史さん:2006/01/22(日) 09:45:55
なんだそりゃ?
946日本@名無史さん:2006/01/22(日) 11:31:51
縦軸に年代、横軸に代数とって折線グラフ?
天皇でならやってみたことあるけど。
947俺等05772:2006/01/22(日) 12:13:50
>>946
>944 のデータを使って、新羅王に適用して見て下さい。* の付いた王の
即位年だけが、実年代を示していることが判ります。
948日本@名無史さん:2006/01/22(日) 12:32:48
ビートたけし、さんま、タモリ、紳助、ヒクソングレーシー
949俺等05772:2006/01/22(日) 12:52:11
>>945
やっと、良いソース見つけたよ。

このソースの一番下のグラフは天皇の即位年のものですが、安康天皇以降は滑らかな
曲線状にあり、それより古い時代の即位年は急速にずれていることが判ります。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/zaii02.htm

新羅王についても、同じような曲線を描き、即位年が信頼できるのは善徳女王以降
であることが判ります。
950日本@名無史さん:2006/01/22(日) 20:06:47
ねぇ、古田武彦って電波?
安本美典はどうですか?
951日本@名無史さん:2006/01/22(日) 20:28:30
電波であるかないか以前の問題で
安本の方法は認められない
952日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:50:49
古田は電波
953日本@名無史さん:2006/01/23(月) 00:17:36
認められない方法であれこれ言う人を電波って言うんじゃないの?
954日本@名無史さん:2006/01/23(月) 01:08:11
電波っつーか疑似科学
955日本@名無史さん:2006/01/23(月) 09:58:50
>>950-954
自作自演くさい。 ここID無いから幾らでも自作自演が可能。W
956日本@名無史さん:2006/01/23(月) 10:04:42
安本は確定
あれってわざとしてるんだよ。
真実を知ってないとああいう嘘はつけないと思う。
957日本@名無史さん:2006/01/23(月) 10:18:00
>955
今度は上手くやるW
958日本@名無史さん:2006/01/23(月) 10:53:22
>956
今更畿内説に転向できんからな。九州説で押通すしかない。
959日本@名無史さん:2006/01/23(月) 11:11:18
曲学阿世の徒
960俺等05772:2006/01/24(火) 19:46:35
>>958-959
九州説で邪馬台国東遷説なのと、畿内説で狗奴国東征説なのは、見かけ
と違って、差は大きくないと思う。安本の統計的手法は評価されるべき。
961日本@名無史さん:2006/01/24(火) 20:04:07
狗奴国の一部は東征してるかもな。
南東北の菊池さんと南朝勢力の東征
962日本@名無史さん:2006/01/24(火) 20:13:08
曲学ではあるけれど、阿世ではないと思うな。
963日本@名無史さん:2006/01/24(火) 20:25:26
阿世ってなんだっけ?
964日本@名無史さん:2006/01/24(火) 21:23:56
世におもねる、ポピュリストという意味かな
965俺等05772:2006/02/03(金) 22:19:47
>>940
>于老は即位はしたが王扱いになっていない。

最初は何バカ言ってんだ、と思っていたが、調べれば調べる程、
于老は新羅王だったと思うようになった。2ちゃんは怖いね。
神功皇后の巻に出てくる殺された新羅王が于老の可能性が強い。
彼の妻も凄い女だね。書紀を読んでてゾッとするよ。
966日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:54:36
小林亜星
967日本@名無史さん:2006/02/22(水) 07:10:55
968日本@名無史さん:2006/02/22(水) 09:46:33
その女(命元夫人?)が神功のモデルだとしたら面白いな
969?N?a?@?<THORN>:2006/03/01(水) 15:16:30
横から失礼します。ビッグニュースです。
1800年前の倭国の都、宮殿跡?が遂に発見されました。
福岡県前原市から一辺57mの方形区画溝が発見されました。
近くに倭の六王の一人、 帥升の王墓をふくむ32基の弥生王墓群があります。

参考HP 中段お知らせのトップ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~jqi5/yamato/yamatai.html


970日本@名無史さん:2006/03/13(月) 10:37:34
ラ王
971日本@名無史さん:2006/03/30(木) 18:08:12
日清ですね
972日本@名無史さん:2006/03/30(木) 18:15:23
北朝鮮の拉致問題に取り組む特定失踪(しっそう)者問題調査会は24日、
1994年に沖縄県石垣市で行方不明になった同市の主婦富川久子さん=当時(35)=について
「拉致の可能性を否定できない」として、氏名や失跡の状況を公表した。
 
調査会によると、富川さんは94年2月14日、知人に子供を預け、
車で買い物に出かけたまま行方が分からなくなった。車は翌日、
自宅から約15キロ離れた石垣島北西部の灯台付近で発見された。
運転免許証がなくなっていたという。
 
調査会が公表した失跡者は計254人になった。
うち34人は「拉致された疑いが濃厚」としている。

(共同通信) - 3月24日16時40分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060324-00000167-kyodo-soci
973九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/31(金) 23:14:42

このスレも終りに近い、
もうそろそろ倭の五王は確定したかな?

倭五王は、倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武で確定ですね。
974太国:2006/03/32(土) 07:24:59
九州王朝大好きさん、貴方もそんな考えを持っていたんですか?
倭の五王は当時の各天皇にあらず。
975太国:2006/03/32(土) 07:26:10
失礼、読み間違えです。ご免。
976日本@名無史さん:2006/03/32(土) 11:23:01
正解は>481>495>507>528>632>770
>777>780 あたり。

まあ、お話にならない誤りは
>35>51>110>308>309>331>347
>407>493>642>644>649>651>653
>689>767>769 あたり。
977KHP059143207025.ppp-bb.dion.ne.jp:2006/03/32(土) 11:51:12
倭の五王はみんなうちの先祖だよ。
978日本@名無史さん:2006/04/03(月) 01:29:51
「お話にならない誤り」に>>976追加で
979日本@名無史さん:2006/04/03(月) 02:27:18
>978のアンカーは>>977-978の誤り
980日本@名無史さん:2006/04/05(水) 22:58:13
>>979は誤爆
981日本@名無史さん:2006/04/11(火) 15:24:02
当時の天皇だろ。
まぁ朝廷の有力者が勝手に任那日本府の役人にやらせたんだろうが。
982太国:2006/04/12(水) 07:14:05
その推定は間違い。
983日本@名無史さん:2006/04/12(水) 11:05:13
>当時の天皇

当時、天皇は存在しなかったわけだが
史上初めての天皇は天武天皇だ。
984太国:2006/04/12(水) 14:56:25
最初の天皇は神武天皇である。大間違い。
985日本@名無史さん:2006/04/12(水) 16:07:15
>>983
天皇に該当する者はいたろ。
おまえの論法では縄文人も弥生人も存在しなかったことになるな。
986日本@名無史さん
>>983のような決め付け厨は遠からぬ未来に恥を書くだろうね