怪奇・残酷・幻想日本史

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1 ◆Je1frxWg
そーいうのを集めろオメーラ
例・虐殺、呪い
2日本@名無史さん:02/03/09 15:55
そういうのは、一番ヒマな君がやるべきだろう。
3くわばらくわばら:02/03/09 16:17
菅原道真が氏んだ後の、皇族、藤原時平一族のおびただしい病死は、偶然とは
思えない。とどめに清涼院への落雷、感電死。
4 ◆Je1frxWg :02/03/09 16:42
岩の坂もらい子殺し
いつの時代か忘れたが、子供を引き取って処分するお姉さんがいたそうだ。
百人以上の赤子が死んだらしいよ。貧しい農村でね
5人喰い魔人「綏靖天皇」(第2代):02/03/09 16:45
 これはいずれの帝の御時であったかというと人皇第二代の綏靖(すいぜい)天皇
の御時である。綏靖天皇と申す帝は、朝に夕に人を7人食らいなさったので臣下
の嘆きはこれにつきた。「誰と誰が生き残れるだろう」悲しいことに、それは誰
にもわからない。この帝は長生きをしたので、多くの人民がその間に滅びてしま
いはせぬか、と心配してある臣下がこの暴君を滅ぼそうと提議した。「この帝を
戴いていたら、国土は乱れ、人民の嘆きは絶えない。祖父の鵜羽葺不合尊(ウガ
ヤフキアワセズノミコト。あるいは、ウガヤフキアエズノミコト)は836412年
を治めなさった。人皇の代となってから、世も末になったのは悲しいことです
が、それでも神武天皇は120年を治められました。この帝も100年、200年、300年
と御在世なさると思うが、その間、多くの人の命が失われるだろう。
 『何月何日に火の雨が降る』と偽りの発表をして、諸国に使いを廻らしなさい。
いま命の惜しいものは、岩屋を作ってその中に籠り、難を避けよ」と告げられた。
 人々はみな心を迷わして、各々に岩屋を作り構えた。諸国に塚が多くあるのは
このときの岩屋である。都では、その日を定め、内裏の岩屋を作った。「国王も
その日が過ぎるまで、お入りになってください」と、公卿3人、殿上人2人、女
房2人を付け参らせて、摩利の柱(未詳)を立て、下から人が上がろうのも上が
れないようにしてその中に収めた。その後はどうなったともわからない。悪王と
善王とを引き換えてしまったのである。 「熊野権現の事」『神道集』より
6身内殺し・DQN・わがまま魔人「雄略天皇」(第21代):02/03/09 16:46
 古事記には国内のすさまじい闘争の歴史が克明に記されています。 これほど
恐ろしい闘争をよくも書き記したものだと驚くほど、残忍な悲劇が波のように押し
寄せてくるのです。 例えば、雄略天皇の記を見ると、彼は天皇に即位するまでに、
兄弟を二人殺してます。 従兄弟も全部殺してしまっている。 皆殺しにして、最終的に
自分1人残った時に天皇になったと記されています。
 また『古事記』の伝承によると、雄略天皇のとき、「伊勢の国の三重の采女」が、
宴会で天皇に捧げる盃に木 の葉が入っているのに気付かず、酒を注いでしまい、
天皇の怒りに触れて殺されそうになりました。そこで、采女は必死で天皇を讃え、
繁栄を祈った歌を即興で詠み、その歌が大層素晴らしい出来であったので天皇が
感心し 、命拾いをしたという記事があります。
 大泊瀬皇子(雄略天皇)は、反正天皇の皇女たちをわがものにしようとされた。
この時皇女たちが皆おっしゃるに、『あの方は日頃から乱暴で恐いお方です。に
わかにご機嫌が悪くなると、朝にお目にかかった者でも、夕方にはもう殺され、
夕にお目にかかった者でも翌朝には殺されます。いま私たちは容色が美しくなく
また気もきかぬ者です。もし振舞いや言葉が、毛の末ほどでも皇子の心に適わな
かったならば、どうして可愛がって頂けましょうか。こんなわけですから、仰せ
ごとを承ることはできないのです』といわれ、ついに身を隠してきき入れられな
かった 『日本書紀』「安康紀」からの抜粋
 『日本書紀』巻14雄略天皇7年是歳 雄略天皇は、吉備上道臣田狭の妻が美貌
であると聞いて彼女を欲し、夫田狭を任那の国司として送り出した後に、召し寄せた。
別本に、夫を殺して自ら召した、という。
7古代最凶の悪魔・日本のネロ・カリギュラ「武烈天皇」(第25代):02/03/09 16:46
2年秋、妊婦の腹を割いてその胎児をご覧になった。
3年冬10月、人の生爪を抜いて、山芋を掘らせた。
4年夏4月に、人の頭髪を抜いて梢に登らせ、樹の根本を切らせて、登っていた者が
 落ちて死ぬのを眺めるのを楽しみとされた。
5年夏6月に、人を池の堤の樋(ひ)に伏せて入らせ、外に流れ出てくるのを三つ又
 の矛で刺し殺してはそれを楽しまれた。
7年春2月に、人を樹に登らせ、弓で射落としてお笑いになった。
8年春3月に、女を裸にして平板に座らせ、馬を全面に引き出して交接させた。
 女の陰部を見て、潤っているものは殺し、潤っていないものは召し上げて官婢とされた。
そしてそれを楽しまれた。(日本書紀より)
8地獄に落ちた「醍醐天皇」(第60代):02/03/09 16:46
 醍醐天皇は死後、地獄へ堕ちたという伝承がある。『北野縁起』中に、
「我(醍醐)は父法皇(宇多)の御心に違へ、無実によりて菅丞相(道真)を流し
侍りし。かの罪によりて此の苦を受く。汝(日蔵)、娑婆世界に帰りて、我が皇子に
此の苦を助け給へと申すべし、とぞ仰せられける。
 我、生前に五つの罪あり。皆是れ大政威徳天の御事より出でたり。

一には、父法皇を嶮路に歩ませ奉りて、心神困苦せしめ申したりし事。
二には、我高殿に安座して法皇を地に据ゑ奉りし事。
三には、賢臣を罪なきに罪を与へし事。
四には、久しく国位を貪りてあまたの仏法を滅ぼしし事。
五には、我が身の怨敵の故に他の衆生を損害せし事。
是等の罪によりて先苦を受くる事かくの如し」 『北野縁起』より
9日本@名無史さん:02/03/09 16:48
天皇家、それは怪奇・残酷・幻想のデパート
10日本@名無史さん:02/03/09 16:53
戦国も多いぞー
11日本@名無史さん:02/03/09 18:50
カスパール・ハウザー
ヨーロッパの孤児

1800年初期の、聖霊降臨の祝日明けの月曜日の朝、
ニュールンベルクの町で、一人の男の子が行き倒れていた。
それがヨーロッパの孤児と呼ばれた、カスバール・ハウザーです。
身なりはひどく、背は大きく曲がっており、15歳程度に見える外見。
発見当初のカスバールは、なにを聞かれてもひどいドイツ語で、
「騎兵になりたい」と繰り返すばかりでした。
カスバールは軍隊宛ての一通の手紙を持っていました。
この手紙を書いたのは、今までカスバールを育てたと思われる人物で、
「この少年を軍隊に入れてほしい。いらなければ殺すなり何なりしてほしい」
とだけ書いてありました。自分の名前「カスパ・ハウザー」という字はかけたが、
あとは「シラナイ」と「騎兵になりたい」としか言えなかった。
医師の鑑定の結果、カスバールの精神年齢は3〜4歳で止まっており、
また年相応に体は成長はしてるが、足は新生児のように柔らかく、
ようやく立ち上がれる程度で、これまでに直立歩行をしたことがない様子。
食物はパンと水しか受け付けず、他のものを食べると体をこわしてしまう。
不思議なこの孤児の話は当時の大衆の興味を呼んだ。
カスバールは教育を受けると、徐々に記憶を取り戻しその過去が少しだけわかった。
カスバールはニュールンベルクの町で発見されるまでの間、
会ったことのある人間は、彼を育てた「黒い男」一人きりで、腰掛けるか、
横になるかの姿勢しかできない、光の入らないちいさな部屋で暮らしており、
時々苦みのある水を飲まされて眠らされ、目が覚めると爪が切られ、
着替えをさせられていたという。「黒い男」はある日、
「騎兵になりたい」という言葉をカスバールに教え、例の手紙を持たせ、
カスバールを抱えて運び出し、町に置いて去ったとのことだった。
もちろん「黒い男」の消息は分からない。
いろんな人物が彼の出生について推測したが、その謎は分からない。
しかし1833年12月14日、生まれについて教えるという伝言に呼び出され、
その呼び出し場所で謎の男に刺殺された。犯人は分かっていません。
彼の出生は謎に満ちたもので、高貴の出らしいと噂されていたが、
彼の正体については、こうして一切が闇に葬られました。
カスパール・ハウザーが刺殺された場所には
「ここに正体不明の人物、正体不明の人物の手により倒れる」
という碑が建っているらしいです。
12日本@名無史さん:02/04/28 02:46
このスレ読んでたらなんか嫌な気分になってきた
13日本@名無史さん:02/04/28 06:53
初代天皇がタマゴから生まれた時点でキモいです。
14日本@名無史さん:02/04/28 07:07
頼朝です

なんかここでいろいろ言われてるけど、頼朝は自分でも
義経のことを考えてあげる気持ちが足りなかったなって反省してる
頼朝が誤解されるような義経追討の宣旨を下したばっかりに、
頼朝を応援してくれている守護や地頭、その他たくさんの御家人達に
迷惑をかけてしまったこと、深くお詫びします。

あのときあの義経追討の宣旨には、クライマックスだから追っ手が一体となって
弁慶に矢を射ちこみたい、義経の一生ももうすぐ終わっちゃうんだよ?
壇ノ浦での活躍を認めていいの?これまでの活躍を認めてる暇なんてないよ、
頼朝が安定した政権を手に入れられるまであと少しなんだからがんばろうよ、
って思いがほんとうは込められてたの。自害に追い込まれた義経に
それが伝わるはずない、それがわかんなかった頼朝はホントばかだよね。

頼朝は義経を傷つける気は全然なかった。
しかも義経が大陸に渡ってチンギス・ハーンになるなんて頼朝自身もすごくショックで、
言葉が出ない。義経に本当に心からあやまりたいです、ごめんなさい。

そしてこんな征夷大将軍だけど、これからも呼んだらすぐ鎌倉に来てね。
みんなほんとにごめん。
15日本@名無史さん:02/04/28 09:53
以上書かれたような妄想を本業にする奴がいるから
「歴史」が胡散臭いものに思われるんだよな。
ま、2ちゃんの中でわあわあ騒いでるだけなら
勝手にやってくれと言うことで。
16日本@名無史さん:02/04/28 10:29
>>14
デムパ
17山野野衾:02/04/28 10:58
本能寺の変の数年後。三人の浪人が財宝目当てに夜安土山に登った。
やっとの思いで山頂に辿り着き探し始めた時の事。何やら蜂の羽音の様な音
が聞こえ、次第に大きくなりやがてときの声らしきものも聞こえて来た。
見ると何処からか数十人の武装した侍達が現れ、迫って来ていた。必死に逃
れようと刀を振るいつつ逃れたが、相手の攻撃に傷つく事はあっても相手を
傷つける事が出来ない。
一人がほうほうの態で逃げ切り、事の次第を告げると息を引き取った。侍達
の中でも白い着物で槍を振るっていた者が目立っていたという。
この事はやがて秀吉の耳に入り、供養が行われて以後怪異は絶えた。
現役の国文学者の本で読んだ話なのですが、今本が手元にありません。
>15
宗教史・民俗学があるじゃありませんか。怪異も入るでしょう。
18山野野衾:02/04/28 11:17
北条氏康は和歌の力で妖狐を八つ裂きにした。(北条五代記)
宍戸シセンなる変わり者が修行の末天狗となった。(陰徳太平記)
毛利元就は領内の狐と懇意にしており、尼子の大軍に攻められた時に攪乱し
てもらった。(芸藩通史編纂の為に提出された高田側の文書)
佐竹義宣は秋田で妖狐と知り合い、隠密として使っていたが幕府に毒殺された。
城内に稲荷として祭られているのがそれであるという。(地元の伝説)
徳川家康がいた頃駿府城内に「肉人」という妖怪が出た。(出典忘却)
豊臣秀吉が堺の蘇鉄を大坂城に移したところ、夜泣くので戻した。(同上)
ローカル武将ならもっと多いですね。
19日本@名無史さん:02/04/28 11:57
>>16, >>17
そういうのなら、民俗・神話スレへどうぞ。
20日本@名無史さん:02/05/09 20:51
age
21日本@名無史さん:02/05/09 21:06
上杉謙信は便所でウンコ垂れているときに脳溢血で倒れた。家臣たちは糞まみれの謙信を便所から担ぎ出した・・・。
壮絶!
22日本@名無史さん:02/05/09 21:24
>>17
面白い話をありがとう。
秀吉の晩年、夢枕に信長が立った・・と言うような話もあったよね。
これなんかは当時の民意が?とか、徳川の宣伝か?とか、勘ぐれる話だね。
23日本@名無史さん:02/05/17 21:44
猟奇age
24日本@名無史さん:02/05/29 22:19
age
25日本@名無史さん:02/06/18 15:30
佐々のあんこう斬りage
26日本@名無史さん:02/07/02 23:09
日本史の暗部ってことで、スレ違いとも言い切れないんじゃ。
というわけで、age
27日本@名無しさん:02/07/02 23:38
梅毒についての考察:
性交渉により梅毒スピロヘータ菌に感染する⇒潜伏期間⇒発病。
疾患症状:排尿のとき性器に鋭い痛みを伴い、微熱や身体のだるさが2周間ほど続く。
が、やがて緩和してくるので、自然治癒したと思いこむ場合が多い。

疾患から20〜30年後。下記の順番で身体の障害が表立ってくる。
1>手足が次第に弱る。
2>行動や言動が奇抜になり、奇行が目立つ。
3>誇大妄想。
4>全身の痺れ感や麻痺。
5>意識の混濁。・・・そしてその後死亡。
死亡後の脳解剖の結果、患者の脳は通常の大きさの半分ほどに縮んでいる。

太閤秀吉の晩年の奇行とこの病状がピタリと適合する。
脳に異常をきたした人間が一瞬でも天下を取っていたという事実…怪奇です。




28日本@名無しさん
age